元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「パルプ・フィクション」

2008-08-31 07:45:55 | 映画の感想(は行)

 (原題:Pulp Fiction)94年作品。“今や携帯電話を片手に強盗できる時代でどうのこうの”“フランスではチーズ・バーガーのことをチーズ・ロワイヤルっていうんだぜ。ほいでもってビッグ・マックはル・ビッグ・マックだ”“この時計がくぐり抜けてきた壮絶なヒストリーをキミに話そう”“聖書にはなぁ、こーゆーいいことが書いてある。ゆっくり聞いてから死ね”etc.

 ユマ・サーマンが“頭が固いのをスクエアーっていうのよね”と指で四角を作ると、宙に白い星があらわれてパッとはじける。身体中にピアスして登場するロザンナ・アークェット。ブルース・ウィリスの東映ヤクザ映画風日本刀の大立ち回り。ジョン・トラボルタのネチッとした、でも相変わらず上手いツイスト。いかついギャングのボスが得体の知れない店の奥に連れ込まれて味あう“男の苦しみ”。サミュエル・L・ジャクソン扮する殺し屋は足を洗って聖職者にetc.

 映画観てない人には何のことか皆目わからんと思うが、この映画の面白さを書こうとすると、どうしても断片的おちゃらけの羅列になってしまう。トラボルタとジャクソンの殺し屋コンビ、強要された八百長を蹴ったためマフィアに追われるブルース・ウィリスのボクサー。この2つのエピソードを中心に、画面を跳梁跋扈する濃いキャラクター面々をグランドホテル形式で描くクライム・コメディ。

 でも、スゴイのは各エピソードの時系列がバラバラで、それをジグソーパズルみたいにキチッと押し込むのではなく、純粋に見た目が面白ければそれでいいという感じでこれまたバラバラに繋いでいくその無謀さだ。特にラストを思わぬエピソードでシメているあたりは仰天した。大げさに言えば、これは永らく映画の定石とされている“フラッシュ・バック”に対するアンチ・テーゼなのである。

 そして圧倒的なセリフの面白さ! くだらないことをマジに追求していくバカさ加減が、いつしかそのキャラクターの根底に触れるような切迫さを加味していくそのスリル。もう引きつった笑いの連続で腹の皮がよじれそうだった。

 ユマ・サーマンの70年代テイストをうまく取り入れたファッション。ウィリスのGIカット。トラボルタのベトーッとしたちょんまげカット。ジャクソンのアフロ・ヘア。サーマンとトラボルタが踊るクラブ・レストランの50年代風インテリア。60年代サーフィン・サウンドの洪水。とにかくオイシイ仕掛けが満載なのだ。

 さらに映画ファンを喜ばせる過去の有名作品に対するオマージュもてんこ盛りだ。ボスの妻とギャングの関係は「コットン・クラブ」、スペイン系女性タクシー・ドライバーは「ナイト・オン・ザ・プラネット」、サーマンとマリア・ディ・メディロスは「ヘンリー&ジューン」の、ウィリスとトラボルタは「ベイビー・トーク」の共演の再現だが、その登場の仕方もひねっている。

 しかし、欠点もないとは言えない。ハーヴェイ・カイテル扮する“掃除屋”の出現は「ニキータ」のパクリだろうけど底が割れる感じで面白くない。監督クエンティン・タランティーノも出演しているが、あまり映画向きの面構えでもなし。突っ走る展開の合間にところどころ冗長な場面も目につく。好みから言えば前作「レザボアドッグス」の方をプッシュする。
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「純喫茶磯辺」

2008-08-30 07:12:12 | 映画の感想(さ行)

 お手軽なホームコメディのようでいて、なかなか深いところを突いてくる玄妙な映画だ。嫁さんに出て行かれ、高校生の娘と二人暮らしの中年男(宮迫博之)が父親の遺産で喫茶店を開業。それまでゼネコンの下請け業者に甘んじていた彼が心機一転のつもりで敢行した施策だが、感覚としては30年は遅れていると思われるインテリア&エクステリア、名前も“純喫茶磯辺”なる超ダサな店舗である。

 コーヒーが美味いわけではなく、料理は冷凍食品で、そもそも喫茶店を開こうとした動機が“コーヒーに関してのウンチクを垂れて女の子の目を引きたい”という不純極まりないものだ(笑)。当然店は閑古鳥が鳴くばかり。ところが彼が外見に惚れてウェイトレスとした雇った若い女が思わぬ波乱を巻き起こす。麻生久美子扮するこの女の性格設定が出色だ。

 後半、彼女と以前付き合っていた男が押しかけてくるシーンがある。彼は“お前は人の心が分からない!”と罵る。それは事実で、他人の想いをまったく顧みない彼女には、友人はいない。ところが人との交流を断って孤高を決め込んでいるわけでは、決してないのだ。

 たとえば、店主からチラシを駅前で配るように言いつけられるシークエンス。彼女はためらいもなくファーストフード店で油を売り、チラシの束を捨てる。店に戻った彼女は、メイド風の“ユニフォーム”に身を包んで店の前でチラシを配り、結果的にそれは客を呼び込むことなる。彼女は状況を見極めてチラシ配布の絶好のポジションを選び、なおかつ“効果がないと思われる駅前でのチラシ配り”を要請した店長の顔も立てるという、極めて合理的な判断に基づいて行動している。しかし、駅近くの別の場所でチラシを配ろうとして上手くいかなかった店主の娘の心情を慮ることはない。

 このように、物事を功利的・機能的な面からしか見ない彼女が他人から理解されないのは当然のことなのだ。こういうキャラクターを微温的になりがちなホームドラマに放り込むと面白い展開になる。登場人物達にとって何が一番“合理的”なことなのか、余計な遠慮やためらいを抜きにして作劇全体を俯瞰するヒントになるのだ。彼女の存在を契機として、彼らがそれなりの“合理的”な結論を見出していく終盤は、適切なパーツがキチッと収まるような心地よさを見ていて覚えることになる。

 さらに映画全体を店主の娘の目から捉えていて、彼女の成長物語になっていることもポイントが高い。演じる仲里依紗は非常に魅力的で、クルクル変わる表情とフットワークの軽さ、特にふて腐れている時とカワイコぶっている時との大き過ぎるギャップが、見ていて実に楽しい。本当に最近の日本の若手女優は逸材揃いである。

 吉田恵輔の演出は軽いように見えてツボを抑えた達者なもの。やや説明臭いセリフが目立つが、最後まで引っ張る力量は確かだと思う。濱田マリや近藤春菜、ダンカン、斎藤洋介といった脇役も味があり、クレイジーケンバンドによる主題歌も良い。観る価値はたっぷりある佳編だと思う。
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「ユリシーズの瞳」

2008-08-29 06:39:22 | 映画の感想(や行)
 (原題:To Vlemma Tou Odyssea )96年フランス=イタリア合作。バルカン半島で最初に撮ったとされるマナキス兄弟の作品で、しかも未現像で陽の目を見ないフィルムを探すため、現在はアメリカに住み35年ぶりに故郷ギリシアに戻ってきた映画監督(ハーヴェイ・カイテル)の旅を描く。ギリシアの異能テオ・アンゲロプロス作品で、その年のカンヌ映画祭銀賞など多くの賞を獲得した3時間の大作。

 はっきり言ってしまおう。私はさほど面白いとは思わない。理由は簡単で“当事者意識のほんの少しの後退”というものだ。アンゲロプロスのような先鋭的作家は、その“ほんの少し”が大問題なのだ。70年代後半に撮った「旅芸人の記録」と「アレキサンダー大王」がなぜあれほど衝撃的だったか。それは時間と空間を超越した大胆な映像手法はもちろんだが、それよりも歴史に翻弄される市井の人々の赤裸々な姿を容赦なく捉えたからだ。切迫した作者のパッションが登場人物の姿を借りて画面を横溢したからである。映像技巧はあくまでも手段に過ぎない。

 対してこの作品はどうか。主人公はギリシア人とはいっても故郷を長く離れた異邦人であり、しかも彼の目的は失われたフィルムを探すことだ。彼はアルバニアからルーマニア、新ユーゴ、ボスニアなど、ヘヴィな状況の場所を旅する。住民の悲惨な境遇も目の当たりにする。でも・・・・。

 彼は部外者だと思う。この現実を前にして、失われたフィルムを探すことに何か意味があるのだろうか。たぶん、映画黎明期の作家が撮ったフィルム(冒頭に紹介される)の、初めて撮る者と撮られる者の意志の交流による、原初的である意味“幸福”な光景と、現在のバルカン半島のシビアな状況とのコントラストを狙っているのだろう。あるいは“原点”を求める映画監督の内省的スタンスを綴ったのかもしれない。しかし、その程度では何ら私の心は揺さぶられない。単なる旅行者の勝手な思い込み、と片付けられても仕方がない。

 対して、主人公の少年時代を描くエピソードは見事だ。1944年から49年までの一家の苦難がワン・カットで(!)描かれるシーンは、彼自身が歴史の証人となり物語の中心になる瞬間である。ただ、映画の中で良かったのはここだけだ。主人公を取り巻く女たち(マヤ・モルゲンステルン4役)の扱いや、ラストのサラエボでの悲劇は、それなりの思い入れがあって撮ったのだろうが、非常に図式的で感心しない。作者の“傍観者ぶり”が目立つばかりだ。

 困ったことに、昔は革新的に見えた彼の手法(極端な長廻しと時空間のランダムアクセス)が、今回はマンネリとも感じてしまう。加えてその後「ビフォア・ザ・レイン」とか「アンダーグラウンド」とかいった真に現在進行形のスルドイ映画が輩出したせいもあり、この当時のアンゲロプロスの位置は“一歩引いた”ものと思われても仕方がない。
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「きみの友だち」

2008-08-28 06:34:32 | 映画の感想(か行)

 困ったことに、メインのストーリーよりも脇のエピソードの方が面白い。現在フリースクールで絵を教えている20歳のヒロインが、取材に来た若いフリーライターと知り合うくだりの間に彼女の過去が描かれるという構成。足の悪い彼女と難病を抱えたかつての友人との交流が中心になるが、これがまったく面白くない。とにかく“語るに落ちる”ような話でしかないのだ。

 今まで山のように作られてきた難病映画のルーティンを、カメラの長回しと引きのショットを多用して、ちょっとクールに撮ってみましたというレベルである。若くして世を去った友人に対するメタファーとして“もこもこ雲”なる言葉が取って付けたように出てくるあたりも脱力ものだ。

 さらに主演女優がヒドい。石橋杏奈という新人を起用しているが、演技パターンも科白回しも完全に一本調子で、まったく画面が弾まない。クローズアップが少ないのでルックスの良さを売り物にするわけにもいかず(まあ、実際良いのかどうかは不明だが ^^;)、どうしてこんな大根がスクリーンの真ん中にいるのか不思議でならない。

 対して、ヒロインの弟をめぐるサブ・プロットは楽しめる。サッカーが上手い彼に対する、幼なじみの級友の微妙な屈託を描く話。サッカー部の万年補欠だった先輩が、何かと下級生にちょっかいを出す話。どちらも揺れ動く中学生群像をけっこう的確に捉えていて微笑ましい。重松清の原作は未読だが、たぶん作品の雰囲気は上手く再現されているのだろう。ヒロインと同じクラスの女生徒が友人に彼氏が出来たことにショックを受けて視力障害に陥ってしまう話も、少なくともメイン・プロットより数段興味深かった。

 いっそのこと中心になる難病ネタをエピソードの一つにしてしまい、20歳になった彼女も登場させず、各々のエピソードごとに短編映画形式にして、全体をオムニバス映画に仕上げた方が良かったのではないか。廣木隆一の演出に特筆できるようなものはない。まあ、この監督の力量としてはこんなものだ。

 主演の石橋(およびフリーライター役の福士誠治)には用はないが、脇の俳優は粒が揃っている。難病を抱えた生徒を演じる北浦愛の柔らかい雰囲気、弟役の森田直幸は相変わらず達者な演技、先輩に扮する柄本時生のやさぐれた風情も見逃せない。そして同級生女子役の吉高由里子は非常にヤバそうなオーラを周囲に撒き散らしていて出色だ。蜷川幸雄監督の「蛇とピアス」は観る予定はなかったが、彼女が主演しているので急遽“鑑賞予定リスト”に入れてしまった(笑)。なお、使用楽曲は(ラストの一青窈のナンバーを除いて)なかなか良い。サントラ盤はオススメかもしれない。
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櫻田淳「奔流の中の国家」

2008-08-27 06:35:10 | 読書感想文

 9.11テロ以降の世界情勢は、それまで我が国で「保守論壇」という名で十把一絡げに捉えられてきた勢力の中に実は「保守ではない連中」が多数入り込んでいる事実をもあぶり出した。本書は「君」「臣」「民」の三つのキーワードから「立憲君主国家」としての日本の在り方を説いており、中で最も強調されているのが「臣(政治家)」の役割である。

 「政治とは、現実の拘束の下で“より小さな害悪”を選択する営みである」という結論は実に説得力がある。しかるに前述の「保守のようで保守ではない連中」とは「憂国」を気取りながら現実を無視し、(一方的な)反米という手垢にまみれたイデオロギー(観念の遊戯)にしがみついている者達であると喝破。9.11テロ直後に、いわゆる「反米保守」が左派と接近していた現状を見ても著者の指摘は鋭いと思う。「保守論客による保守批判」として本書の存在価値は低くはない。

 なお、作者の櫻田淳は1965年生まれ。東大大学院卒で国会議員の政策担当公設秘書などを歴任し、現在は大学講師であるが、脳性麻痺による重度の身体障害者である。他の著書で「真正の福祉政策を進める場合、人間の善意や温情をあてにするな!」とも説いており、なかなか骨のある論者であるのは確かだ。
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「闇の子供たち」

2008-08-26 07:39:55 | 映画の感想(や行)

 原作よりはまとまった出来だと思う。ただしこれは映画として上出来であるという意味ではない。梁石日による元ネタは児童虐待問題の告発に名を借りたエロ小説に過ぎないと思う。必要以上に分量の多い子供相手の性描写には閉口するしかないし、政情不穏なタイの状況とラスト近くに取って付けたような筆者の出自に対する屈託を織り込み、何とか体裁を整えているような書物である。

 対してこの映画化作品は原作では脇役に近かったタイ在住の新聞記者を主人公に置き、彼と知り合うフリーカメラマン、そしてNGO職員として日本からやってきた若い女といった、日本人を主要登場人物として扱っている。これは日本映画においてどんなに努力しても違和感を完全に拭えない“外国人に対する描写”を回避する上で賢明だったと思う。原作通りにタイ側の人間たちを深く突っ込んでいたら、ドラマが浮いたものになっていた可能性が大だ。そもそも現地の側から描くのならばそれはタイ映画の仕事だろう。

 中盤までの各キャラクターの設定は申し分ない。悲惨な状況を憂慮しつつも新聞屋としての立場を貫く記者、現地の惨状を見てそれまでの浮ついた気持ちを改め仕事に専念するカメラマン、手前勝手な“自分探し”のためにボランティアに参加し夜郎自大な態度を隠さない女、さらに難病に苦しむ息子のために臓器移植の真相を知りつつも闇ルートに大金を払い込む日本のビジネスマンなど、それぞれの役柄を踏み出さない範囲でテーマの深刻さに接してゆくという作劇のスキームは申し分ない。

 しかし、こういう題材を扱わせるとどうも自らのサヨク的体質が疼き出すらしい阪本順治の監督作のためか、終盤近くになると“語るに落ちる”ような図式が鼻についてくる。特に記者の“過去”が暴かれるくだりは、それまで何の暗示も明示もなく、取って付けたような感じだ。ボランティアねーちゃんの扱いもヘンに及び腰で、こういう素材にこそシビアな切り口が用意されるべきだったと思う。終わってみれば“タイの憂うべき状況を生んだのは先進国で、特に日本がイケナイ”といった自虐的スタンスの映画といった印象が強い。タイ映画界が同様のネタを取り上げれば、もっと地に足が付いたものに仕上がっていたと思う。

 記者役の江口洋介は一本気な熱血漢を(終盤を除いて)好演しているし、世間知らずな小娘に扮した宮崎あおいも上手い。映画での彼女はこういう“愚かな女”を演じさせると絶品だ。妻夫木聡や佐藤浩市も申し分ない。ただし、それらを最後まで活かす作劇の詰めが足りないのは確か。惜しい映画だと思う。なお、桑田佳祐によるエンディング・テーマは完全に場違いだ。製作側のセンスを疑いたい。
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「つきせぬ想い」

2008-08-25 06:37:26 | 映画の感想(た行)
 (原題:新不了情)93年作品。余命いくばくもない娘と失意の作曲家との純愛。その年の香港電影金像奨(香港のアカデミー賞)で主要部門を独占した話題作で、香港では興行的にもかなりの成績をおさめている。

 とにかく、当時の新人女優・アニタ・ユンの存在感に圧倒される。豊かな表情、とことん明るい性格、しなやかな肢体、それでいて何ともいえない気品と、セックスの匂いを感じさせない透明なキャラクター。彼女が出てくるだけで画面がパァーッと華やいでくる。私は本作をアジアフォーカス福岡映画祭で観たのだが、彼女自身も舞台挨拶のために来ていた。実物はマジに映画の中よりもさらに可愛く、見とれているうちに“オードリー・ヘップバーンの再来?”なんていうとんでもないことが頭の中をよぎってしまった(^_^;)。残念ながら彼女は現在引退しているが、この時の輝きはただものではなかったと言っておこう。

 さて映画だが、もう絵に描いたような難病物のラブ・ストーリーである。難解なところはどこにもない。物語も予定調和だ。しかし、この通俗的な題材で、いくら香港映画とはいえ(おいおい ^^;)大多数の観客の紅涙をしぼり出すほどに感動的な作品に仕上がったのは、思いきった作者の正攻法のアプローチにつきると思う。

 主人公の作曲家が引っ越した下町の安アパートの下の階に住んでいたのが、大道芸一座の娘であるヒロインで、彼の吹くサックスの音色が二人を結び付けるという設定はよくあるパターンだが、監督イー・タンシンはヒロインや周囲の人々の境遇を実に細かく描ききることによって違和感を払拭させている。特に広東オペラを演じる一座の描写はドキュメンタリー映画のようでもあり、このディテールにこだわる作者の姿勢が物語を絵空事にさせていない。クサイ大芝居もなく、大仰な仕掛も皆無。寒色系を活かした香港の街の情景も、クールなジャズ系の音楽も、主人公二人の関係を盛り上げるためだけに奉仕する。

 これを観ると「ゴースト/ニューヨークの幻」とか「めぐり逢えたら」といったハリウッド製ラブ・ストーリーが、いかに目新しさを狙って脚本に四苦八苦しているかがよくわかる。要は小手先のプロットではなく、物語の力を信じる作者の確信犯ぶりである。“死んでいったヒロインが返還を目前にした香港そのもののメタファーになっている”なんてことがパンフにあったが、ここまで深読みしなくても、これはみずみずしい魅力にあふれたラブ・ストーリーの佳作である。印象的なラストの幕切れも忘れがたい。
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「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」

2008-08-24 07:37:06 | 映画の感想(さ行)

 映画の世界観の作り込みが甘く、とても評価できない。成長が思春期で止まり、永遠に若いままである“キルドレ”と呼ばれる新人類を戦闘機に乗せて戦わせ、ショーとしての戦争を演出することにより一般人は平和を実感しているという、現在と似た“もうひとつの世界”を舞台にしている・・・・といった設定からして噴飯ものだ。

 作者たちは戦争を何だと思っているのか。国があり、それに付随した国益がある限り、外交問題は必ず起こる。その究極の解決手段が戦争である。いくら人々が平和を唱えても、世に戦争の絶えたことはない。放っておいても戦争の悲惨なニュースがいくらでも飛び込んでくる現実があり、その上で年を取らない少年たちに大義名分のない戦争をさせる必要がいったいどこにあるのか。

 百歩譲って、もはや戦争ショーによってしか人々は平和を自覚できないという世の中が実在するとして、作品としてまず描くべきはそっちの構図の方ではないか。どうして戦争がなくなったのか(あるいは、そういう建前を掲げるに至ったのか)、それを納得させられないと“キルドレ”たちの悩みも絵空事になってしまう。

 ひょっとして作者たちはこの“他人に戦争をさせる”という図式を、机上の論理や私欲で戦争を仕掛ける支配層と最前線で辛酸を嘗める兵士や市民といった、現代の戦争のメタファーにしようとしているのかもしれない。しかし、だとしても映画は“実世界では戦争はない(らしい)”という前提で動いているのだから、完全に的外れだ。戦う目的も自らの生い立ちも知らされないまま戦場へと向かう“キルドレ”たちと、現実の生身の人間たちとは完全に違う。

 この映画を観て“戦争で傷つくのはいつも若者。だから戦争は悲惨であってはならないものだ!”とナイーヴに感動してしまえるのは、せいぜい中学生ぐらいまでだろう。大人がマジメに対峙するようなシャシンではない。

 今までは筋書きの妥当性は意見が分かれるにしろ、映像の喚起力に関しては他の追随を許さなかった押井守監督によるアニメーションだが、今回は完全に不発。戦闘場面なんか本当にチャチい。しかも前に「フライボーイズ」なんていう実写版の本格的空戦映画が封切られていることもあり、より一層見劣りがする。

 そこそこ有名な俳優たちを起用した声の出演も違和感が拭えない。ここは本職の声優を使うべきではなかったか。良かったのは川井憲次による音楽のみ。この程度の作品がどうしてヴェネツィア国際映画祭のコンペ部門にノミネートされるのか不思議でならない。
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九州新幹線は必要か?

2008-08-23 06:40:56 | 時事ネタ
 3年後になるのだろうか。九州新幹線が鹿児島中央駅から博多駅まで開通する。そのため博多駅ビルは改築中で、いずれ阪急デパートや東急ハンズ、映画館のT-Joy(東映系)などを伴って賑々しくオープンする予定である。

 私が十代の頃に鹿児島市に住んでいたことは以前述べたが、当時は父親の実家のある福岡市まで特急でおそらくは6時間近くかかっていた。当然、長期の休みの時でないと足を運べない。それが今では鹿児島と八代まで新幹線が部分開通しただけで大幅な時間の短縮が実現できた。これが全線開通すると、熊本市は完全に福岡市への通勤圏になり、鹿児島からも気軽に福岡市へ週末の買い物に出てこられるようになる。・・・・しかし単純に“便利になる、喜ばしい”とは言っていられない現実があるのだ。

 たとえば福岡県の筑後地方の中核都市である久留米市。かつての繁華街は完全なシャッター通りへと変貌している。郊外型のショッピングセンターに客を奪われた結果だ。九州新幹線が完全開通すると、全九州的に同じ事が起きる。仕事も買い物もすべて福岡市へ一極集中。鹿児島市の天文館も、熊本市の下通・上通も、シャッター街になってしまわないと誰が断言できるだろうか。

 新幹線は地方から人と産業を大都市へと吸い上げるストローの役目を果たすのではないか。便利さばかりに気を取られ、気が付けば都市部ばかりが発展して地方が疲弊するシビアな現実だけが横たわる公算は強い。さらに新幹線は在来線を阻害する。着工が取り沙汰されている新幹線長崎ルートだが、これが開通すると佐賀市より西の地区の在来線は不採算路線として冷や飯を食わされる。地域に密着した交通機関が疲弊化すれば、地方の衰退は昂進するだろう。

 同じ事は高速道路にも言える。確かに九州東地区など高速道路が絶対的に必要な地域はある。しかし、高速道路だけ作ればそれでいいとする考え方では、大都市への集中を招くだけで地方の衰退は免れない。

 公共事業は景気対策の柱である。新幹線も高速道路も“財政支出をやらないよりはマシ”という意味では悪いことではない。しかし、ただカネを出せばいいというのは大間違いだ。高速道路よりも地方の国道を整備を、新幹線を引っ張るカネがあれば地方のインフラ整備や災害対策に向けた方が、中長期的には有益ではないのか。地方は地方なりの、利便性は大都市に劣るとしても若者を惹きつけるだけの個性溢れる町作りを推進出来るような、そんな明確なヴィジョンが必要だ。手っ取り早くカネが落ちてくるのを期待するだけの新幹線や高速道路の建設誘導は、将来的に大きな禍根を残すことになる。
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「シークレット・サンシャイン」

2008-08-22 06:32:23 | 映画の感想(さ行)

 (英題:Secret Sunshine )宗教の無力さ、神の不在を痛烈に訴えた韓国映画の秀作だ。こういう題材ならば名匠ベルイマンの諸作を思い浮かべるが、この映画はああいう高踏的なタッチは狙ってはいない。小市民の地べたを這いずるような下世話な生態を追うのみである。しかし、だからこそ、観る者の心に迫ってくるような普遍性を獲得していると言える。

 夫を亡くしたヒロインは、ソウルから幼い息子を連れて夫の故郷の田舎町へやってきた。大好きだった夫に縁のあるこの地でピアノ講師として再起を図ろうというのだ。しかし、新しい環境にようやく慣れたと思った矢先、息子は誘拐事件に巻き込まれて殺されてしまう。絶望のどん底に叩き落とされた彼女を救おうとしたのは、その地で広範囲な布教活動をしていたキリスト教の一派であった。

 悲惨な運命も神の意志だとの教えを受け入れ、ようやく落ち着いた彼女をさらなる不幸が襲う。すべてを悟ったような心境で犯人との面会に臨んだ彼女は、安易に神にすがった自分の行動がいかに偽善に満ちたものであるのかをイヤというほど思い知ることになるのだ。

 作者は言う、神はいないのだと。酷い犯罪が横行しようと、主人公が不道徳な振る舞いに走ろうと、神は沈黙するだけだ。同じように、死んだ者も何も語らない。死者の魂は千の風になって吹き渡ってなんかいない。ただ“不在”という厳格な事実がそこにあるだけだ。残された者は悲しみ、嘆き、その“不在”を受け入れるまでの辛い時間を過ごさねばならない。その原初的な構図を浸食するかのような世俗宗教など、何も役に立たない。

 ラスト近く、ヒロインの世話を焼きたがる中年男が“今でもたまに教会に行ってるよ。気持ちが落ち着くからね”と軽い口調で話す。ここでの宗教は、単なる気分転換のツールという地位にランクダウンさせられている。地獄を味わった後の彼女の決然とした表情の前では、どんな御為ごかしの“神の言葉”も無力なのだ。

 主役のチョン・ドヨンの、切迫した心理状況の表出は目を見張る。特に天に向かって神を誰何する場面の表情は素晴らしい。彼女の演技を見るだけでも本作に接する価値はある。相手役のソン・ガンホの飄々とした存在感も見逃せない。

 イ・チャンドンの演出は登場人物の甘えや逡巡に対してまるで容赦のない切り込み方を見せ、観客を圧倒する。前に観た「オアシス」はあまり感心しなかったが、その前の「ペパーミント・キャンディー」で見せた人間観察の鋭さがここではパワーアップした形で戻ってきている。俗っぽい韓流ドラマの作り手たちとは完全に一線を画す、世界に通用する人材だと改めて思った。
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