元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「イソップの思うツボ」

2019-09-13 06:33:21 | 映画の感想(あ行)
 凝った筋書きにしようという作者の意図は十分に感じられるのだが、如何せん無理筋のプロットが目立ち、結果として要領を得ない出来に終わっている。脚本の内容に対する精査が不十分であり、監督が3人というのも効果的であるとは思えず、製作側の姿勢が煮詰まらないまま勢いだけで撮り上げた感が強い。

 大学生の亀田美羽は内気で友達もおらず、話し相手は飼っているカメだけだ。ハンサムな代理教員のことが気になるが、彼女に出来るのは遠くから写真を撮るだけ。美羽と同じゼミに所属する兎草早織は、大人気“タレント家族”の娘で、彼女の周囲を今風の垢抜けた連中が取り巻いている。だが、早織の母親は浮気癖があり、父親は妻の不倫相手を復讐代行屋の戌井連太郎と小柚の親子に依頼してヤキを入れることもあった。ある日、連太郎の元ボスでヤクザの近藤が、戌井親子に誘拐犯罪を持ちかける。弱みを握られている連太郎には、断れない。その誘拐のターゲットは、何と兎草一家だった。



 快作「カメラを止めるな!」(2017年)のスタッフが再結集したという触れ込みで、前作と同様この映画も後半はドンデン返しの連続になる。ただ「カメラを止めるな!」とは決定的に違うのは、観客に対する本当の意味でのサービス精神が欠けていることだ。とにかく“意外な展開”にすればそれでヨシとする自己満足的な決め付けだけが先行し、穴が目立つ各モチーフは放置状態。

 件の代理教員はどうやって大学に潜り込んだのか、近藤が誘拐事件は警察沙汰には絶対ならないと踏んだ理由は何なのか、美羽の“思い切った行動”にはどういう背景があるのか、素人がどうして拳銃を上手く扱えるのか、そもそも“(騒動の元になった)事件”の責任の所在が間違っているのではないかetc.とにかく突っ込みどころが満載だ。

 しかもヘンに陰惨な決着の付け方には、観ている側に対する配慮も感じられない。監督は前作に続いての上田慎一郎に加え、中泉裕矢と浅沼直也が共同で担当。脚本も3人の共作だ。このチグハグ感の原因はそのあたりにも起因しているのかもしれない。

 ただし、美羽役の石川瑠華(上智大学理工学部卒)と早織に扮する井桁弘恵(九州屈指の進学校である福岡県立修猷館高校出身)、小柚を演じる紅甘(漫画家の内田春菊の娘)の3人の新鋭は見どころがある。特に石川は比較的地味なルックスとは裏腹に、何を考えているか分からない不気味さを漂わせて実に面白い。反面、斉藤陽一郎や川瀬陽太、渡辺真起子、佐伯日菜子といった脇のキャストは大したパフォーマンスをしていない。

 それにしても、ウサギ(兎草)とカメ(亀田)はイソップの寓話で同じ話に登場するが、イヌ(戌井)が出てくるのは別の話なので、そのあたりの違和感も拭えない。
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「アルキメデスの大戦」

2019-09-07 06:36:12 | 映画の感想(あ行)

 山崎貴監督の作品を全て観てきたわけではないが、本作は最も出来が良いと思う。まず、何より筋書が上質だ。三田紀房による原作コミックはパラパラと目を通した程度だが、現時点では完結していない。それを一本の独立した劇映画に仕上げるため、起承転結のハッキリしたオリジナリティのあるストーリーが提示されている。この思い切りの良さは評価したい。また、テーマが現代に通じる訴求力を持ち合わせている点も好印象である。

 昭和8年。海軍省は老朽化した戦艦・金剛の後継として、秘密裏に超大型戦艦の建造を計画していた。海軍少将の山本五十六は、この案に真っ向から反対する。これからの戦いの主力は航空機であり、それをサポートする航空母艦の新規投入こそが不可欠だと主張した。だが、上層部は山本の意見に耳を貸さない。山本たちは巨大戦艦の建造費の見積に不備があると睨み、その不正を暴くことで計画を頓挫させようと考える。

 そこで軍の息がかかっていない協力者として、数学の超天才と言われる元帝大生の櫂直をリクルートする。軍隊嫌いの櫂は最初は断るが、やがて大型戦艦を建造すれば日本は戦争に向かってまっしぐらになるという山本の説得に応じ、特命少佐として入隊する。とはいえ見積の内実は機密であり、山本陣営は誰も閲覧出来ない。その逆境を跳ね返すべく、櫂はあらゆる手を使って真相に迫る。

 山崎監督は特殊効果の使い手でもあり、全編これ派手なスペクタクル場面の連続かと思われたが、何と冒頭での戦艦大和が沈没するシークエンスのみに留めている。あとは軍内部での各勢力の駆け引きと、理詰めで事態を打開しようとする櫂の奮闘を描く。ここまで割り切れるならば、ドラマ部分によほどの自信があるのだろうと思ったのだが、映画は見事にそのあたりをクリアする。

 櫂は戦艦・長門に乗り込んで密かに“実測”し、それを参考にして大型戦艦の全容をシミュレートする。だが、肝心の費用単価が分からない。ならばどのようにアプローチするか、その点をロジカルに突き詰めていくプロセスはなかなかのものだ。しかも、タイムリミットが設定されており、盛り上がる条件は揃っている。

 クライマックスの省内の最終決定会議でのスリリングなやり取り、そして二転三転する展開。山崎貴はいつからこのような見事な脚本を書くようになったのかと、驚き感心する次第だ。

 それにしても、政治家や官僚が見かけだけで波及効果の小さいハコモノに執着する構図は、今も昔も変わっていないことが改めて示され、暗澹とした気分になる。そんな構図に対する諦念が滲み出るラストの処理は、実にインパクトが大きい。主演の菅田将暉のパフォーマンスは達者で、偏屈な理系人間を上手く表現している。柄本佑に笑福亭鶴瓶、小林克也、小日向文世、國村隼、橋爪功、田中泯、舘ひろしというキャスティングも手堅い。まあ、紅一点の浜辺美波の演技は大したことがないが、キャラクターの設定上、仕方が無いとも言えるだろう(^^;)。
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「江分利満氏の優雅な生活」

2019-09-01 06:30:12 | 映画の感想(あ行)
 昭和38年東宝作品。私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて鑑賞した。とても面白い。軽妙な中にペーソスや皮肉、さらには戦後の日本が抱え込む歴史の重みも投影し、一筋縄ではいかない展開を見せる。また題名にある“優雅な生活”の実相も垣間見せ、手応え十分の作劇だ。

 サントリーの宣伝部に勤める江分利満は、30歳代後半の冴えない男。心の中では“面白くない。何をやっても面白くない”というモノローグが渦を巻き、勤務後は飲み屋でクダを巻く毎日だ。ある日、江分利は酔った勢いで店に居合わせた出版社のスタッフに、雑誌に原稿を書く約束をしてしまった。翌朝素面になった彼は何も覚えていない。だが、先方は遠慮会釈無く執筆の催促をしてくる。



 仕方なく、江分利は自身の経歴や家族のこと、そして日々の生活等をエッセイ風に書き飛ばす。ところがこの連載が評判を呼び、専門家筋も大絶賛。あれよあれよという間に直木賞の候補になり、見事受賞してしまう。山口瞳の同名小説の映画化だ。

 会社の昼休みの風景を小刻みなショットで畳み掛けるように描写した冒頭の場面から、一気に引き込まれる。江分利はしがない会社員ながら、プライドだけは妙に高い。自らの失態を、腹の中では必死に言い訳を並べた挙げ句に開き直ってしまう。自宅の庭が隣家よりほんの少し広いことを発見して有頂天になったりもして、そのあたりは可笑しい。

 しかし、同居している父親の生い立ちや、戦時中の話に差し掛かると、ドラマは厚みを増す。江分利は大正15年生まれで、数え年は昭和の元号と一致している戦中派である。終戦の直前に徴兵されたが、戦地に赴くことはなかった世代だ。自分が生き残ってしまった後ろめたさを抱え、そして実業家だった父親は、戦争によって私腹を肥やしてきた(そして、何度も破産した)。ノホホンと生きているように見えて、戦争に対する大きな屈託も併せ持っていた当時の人々の内面的なトレンドが窺われて実に興味深い。

 ハッキリ言って、江分利は文才こそあるが、それを除けば風采の上がらない男である。無能と言っても良い。しかしそんな人間でも、立派な社宅に住み、妻が働きに出ることも無く、息子には稽古事をさせるだけの甲斐性を持っている。

 別に彼が特殊なケースであったわけではなく、そこそこマジメにやっていれば高度成長期には誰しもそういう境遇にありつけた。間違いなくそれは、国民の間に日本を立て直すのだという強い意志があり、その努力が実を結び始めた時代背景がある。これが“優雅な生活”でなくて何なのか。カタギの社会人でも江分利のような生活水準にも達することが出来ない者が多い現在から見れば、羨ましい話である。

 岡本喜八の演出は多分にハッタリを効かせ、アニメーションや合成も交えて好き勝手やっているが、やはりサマになっている。主演の小林桂樹の怪演はもとより、東野英治郎に英百合子、横山道代、中丸忠雄、ジェリー伊藤と出演者はいずれも好調。デビューして間もない桜井浩子も可愛い。ただ、ヨメさん役に新珠三千代というのは、いくら何でも美人すぎる。江分利には似つかわしくない(笑)。
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「アンダー・ファイア」

2019-08-11 07:05:15 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Under Fire)83年作品。映画とは娯楽には違いないが、一方で世界の実相を伝達するメディアであることも事実だ。たとえばピーター・ウィアー監督の「危険な年」や、ローランド・ジョフィ監督の「キリング・フィールド」(84年)などがその典型で、映画で扱われなければ、彼の国で何が起こっていたのか、我々の大部分は知る由も無かっただろう。

 本作で描かれるのは中米ニカラグアの内戦である。79年。ニカラグアの首都マナグアで、報道写真家のラッセル・プライスはタイム誌の記者アレックスと放送記者のクレアに再会する。折しもこの国ではソモサ大統領が独裁制を敷き、それに対して、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が武装闘争を展開していた。

 そんな中、政府はFSLNのリーダーであるラファエルの暗殺に成功したと発表。早速ラッセルはゲリラの案内でFSLNの本部に取材しに行くが、そこで死亡したラファエルを生きているような格好をさせて、写真を撮ってくれと頼まれる。そんなことはジャーナリストの倫理に反することだが、ラッセルは悩んだ末に撮影を実行する。戦火は拡大し、ラッセルが本部で知り合ったゲリラたちも悉く犠牲になるが、その裏でフランスの武器商人ジャージーが暗躍していた。

 正直言って、私はこの映画を観る前はニカラグアの内戦のことはほとんど知らなかった。サンディニスタという名も、その昔英国パンク・バンドのクラッシュがアルバムタイトルに起用したのを認識している程度だ。その意味では、本作は世界のアクチュアリティを観客に伝える機能が備わっているといえる。

 アメリカ人ジャーナリストを主人公に据えて、一見して米国は中立であるような構図を示しているようで、実は大きく関与していたことは革命後の展開でも明らか。軍産複合体が引き起こす惨禍は、枚挙にいとまがない。ラッセルの行動は無謀すぎるし、彼が撮る写真の数々も大してクォリティは高くない。また、ラッセルとかクレアとの色恋沙汰も取って付けたようだ。しかしながら、ヒューマニズムの押し付けを回避してリアルな状況を映し出そうとする姿勢は好感が持てる。

 ロジャー・スポティスウッドの演出は、派手さは無いが堅実。主演のニック・ノルティをはじめ、ジーン・ハックマン、ジョアンナ・キャシディ、エド・ハリス、ジャン・ルイ・トランティニャンなど、キャストは重量感がある。ジョン・オルコットの撮影と、ジェリー・ゴールドスミスの音楽は職人芸だ。
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「アマンダと僕」

2019-07-29 06:29:37 | 映画の感想(あ行)

 (原題:AMANDA)薄味の展開が目立ちドラマにすんなりと入っていけない点は気になるが、総体的には悪くないシャシンじゃないかと思う。また、現在のフランスおよびヨーロッパが置かれている社会的状況が少し垣間見える。第31回東京国際映画祭でグランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞している。

 パリの下町で便利屋兼“民泊”用アパートの管理人として働く青年ダヴィッドは、時折シングルマザーの姉サンドリーヌとその娘で9歳のアマンダに振り回されながらも、平和な日々を送っていた。また、アパートに滞在することになった若い女レナとも良い仲になる。しかし、ある日突然悲劇が起きる。無差別テロによってサンドリーヌは死亡し、レナも重傷を負う。ダヴィッドは身寄りがなくなったアマンダの世話を引き受けることになるが、若い彼には親代わりとして子供に接することは重荷だった。そんな中、イギリスに住む彼の母親アリソンから誘いを受け、ダヴィッドとアマンダは英国に旅立つ。

 テロの場面は“起こった後”しか映し出されず、しかも描写は淡々としてインパクトは無い。サンドリーヌとレナがどういう状況で災難に遭ったのかも分からない。ハリウッド映画みたいに派手な場面を挿入する必要は無いとは思うが、もう少し説明的な扱い方をして欲しい。

 ダヴィッドのキャラクターはハッキリしない。しかしながら、静かに暮らしていた若者が思いがけない境遇に追いやられると、戸惑って感情が表に出なくなるのかもしれない。アマンダの方も、叔父にどう向き合えば良いのか分からず、立ち竦むばかりだ。

 これが事故や病気で肉親を亡くしていたのなら少しは違うだろうが、テロという理不尽極まりない災厄でこのような状態になったせいで、根底に流れる悲しみはより苦く、やりきれないものなのだ。そんな硬直したシチュエーションが次第に揉みほぐされていくプロセスを、ウィンブルドンでのテニスの試合に重ねて描く終盤の処理は気が利いていると思う。

 ダヴィッドに扮するヴァンサン・ラコストとアマンダ役のイゾール・ミュルトゥリエは好演で、特にミュルトゥリエの存在感は光る。レナを演じるステイシー・マーティンは相変わらず可愛いし、アリソン役として往年の(?)セクシー女優グレタ・スカッキが出ているのも嬉しい。ミカエル・アースの演出にはもうちょっとケレン味が欲しいが、まずは及第点。パリの名所が数多く出てくるあたりも、観光気分を味わえる。
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「居眠り磐音」

2019-06-24 06:32:17 | 映画の感想(あ行)
 観終わって、今後作られる娯楽時代劇は一切チェックする必要は無いと思った。最早この分野におけるスキルも人材も払底してしまったらしい。そんな情けない気持ちになるほど、この映画は低調だ。

 江戸での勤務を終えた坂崎磐音と彼の幼馴染みである小林琴平と河井慎之輔は、3年ぶりに故郷である豊後関前藩に戻る。琴平の妹の舞は慎之輔と結婚し、磐音も舞の妹である奈緒との祝言を控えていた。ところが、帰還して早々に慎之輔は舞が不貞を犯したという噂を吹き込まれる。逆上した慎之輔は舞を斬殺。それに激昂した琴平は慎之輔を殺害。磐音は藩から琴平を討ち取るよう命じられ、やむを得ず琴平を斬る。



 こうなった以上は奈緒とは一緒になれないと判断した磐音は、ただ一人脱藩して江戸で浪人生活を送る。そんな彼に大家の金兵衛は、両替商の今津屋の用心棒の職を紹介する。折しも今津屋は幕府の金融政策をめぐる陰謀に巻き込まれ、存亡の危機にあった。敵対する悪徳両替屋が放つ刺客から今津屋を守るため、磐音は得意の剣法で立ち向かう。佐伯泰英の長編剣戟小説(私は未読)の映画化だ。

 同じ道場で和気藹々と剣術を学んでいた主人公達が、地元に帰るとたちまち刃傷沙汰に及ぶという無理筋の展開に呆れていると、磐音は奈緒とその家族を放置して江戸へと舞い戻り、何事も無かったかのように暮らし始めるに及び、こちらは完全に脱力してしまった。今津屋に関する金融ネタも、煽っているわりには芝居じみた“作戦”で事足りてしまうので拍子抜け。

 だいたい、題名の通り主人公が“穏やかで優しいが剣の腕は立つ”というキャラクター設定ならば、話を磐音が藩を離れて江戸に居を移した時点から始めないと辻褄が合わないし、終盤近くに判明する奈緒の“決意”にしても背景がまるで描き込まれていない。

 だが、そんな脚本の不備よりもっと重大な欠陥が本作にはある。それは、出てくる者達が誰一人として時代劇らしい面構えや存在感を有していないことだ。テレビ画面ならば気にならないのかもしれないが、映画館のスクリーンでは軽量級に過ぎる。

 そして、肝心の殺陣に関しては全然サマになっていない。ちゃんとした立ち回りが出来る者も、それを指導する者も、邦画界にはすでに存在しないのであろう。このような有様では、現時点で娯楽時代劇を観る必然性は感じられない。昔の東映や大映の時代劇をリバイバル上映などで楽しむ方がずっと良い。

 本木克英の演出は相変わらず凡庸。主役の松坂桃李をはじめ柄本佑や佐々木蔵之介、木村文乃、谷原章介らは頑張ってはいるが、成果は上がっていない。奈緒役の芳根京子に至ってはセリフ回しも表情も抑揚が無く、十分な演技指導が成されていなかったことが窺える。極めつけはMISIAによるエンディングテーマ曲で、悲しくなるほど場違いだ。続編が作られるような雰囲気だが、私は観ない。
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「オーケストラ・リハーサル」

2019-06-23 06:37:22 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Prova D'Orchestra )79年作品。正直言って、わけの分からない映画である。だが、フェデリコ・フェリーニ監督にとって“わけの分からないまま観客を埒外に置く”という無責任な態度とは無縁だ。何しろ、実際観た印象はとても面白いのである。前衛的ともいえるネタを娯楽映画の次元にまで押し上げるという、フェリーニ御大の真骨頂を見るようなシャシンだ。

 13世紀に建てられたイタリアの古い教会で、有名管弦楽団のリハーサルが行われることになった。この教会は響きの良さで知られており、しかもテレビ局が取材に来るという。写譜師の老人も演奏家たちも、高揚した気分で当日を迎えた。早速テレビの取材班は楽団員にインタビューを始めるが、ピアニストが“ピアノが楽器の中で一番優れている”と答えたのを切っ掛けに、各人が自分の担当する楽器こそが最高のものだと勝手気ままに主張し始める。収拾がつかなくなる状態で指揮者が到着するが、楽団員達の混乱が落ち着く気配はない。さらにはマネージャーと組合代表との口論も勃発。ブチ切れた指揮者は、ドイツ語で怒鳴り始める。



 この脈絡の無い筋書きに、何らかの意味付けをすることは可能だろう。たとえば、異論を受け付けないエゴイスティックな各キャラクターの態度に“混沌とした欧州情勢を重ね合わせた”とか何とか・・・・。しかしながら、本作は小賢しい勘ぐりを無視するかのように、パワフルに暴走する。

 そして後半の呆気にとられるような展開と、それに続く人を喰ったような終盤のオチの付け方には、大きなカタルシスを観客にもたらす。それは縺れた糸がスッキリと元通りになるような、あるいは肩凝りが一気に軽減するような、多分に生理的なものであろう。

 よく考えてみると、この“モヤモヤモした状況から見晴らしの良い地点に着地する”というのは娯楽映画のルーティンであり、作者はそれを忠実になぞったと言うことも出来る。変化球を駆使しながら、エンタテインメントの王道を忘れないフェリーニの異能ぶりが光っている。ニーノ・ロータによるスコアは万全だし、ボールドウィン・バースやクララ・コロシーモ等のキャストもイイ線行っている。
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「愛がなんだ」

2019-06-17 06:33:25 | 映画の感想(あ行)

 面白い。内容がリアリズムの方向には振られておらず、登場人物は多分にカリカチュアライズされている。しかし、観ていて実に胸に刺さるのだ。誰しも胸の奥に秘めている身も蓋もない願望、そして“分かっちゃいるけど、やめられない”とばかりに自身を追い込んでしまう衝動などが、的確に表現されている。

 20代後半のOLの山田テルコは、パーティで知り合ったマモルに一目惚れし、それ以来仕事も友情もそっちのけでマモルに尽くしている。しかしマモルはそんなテルコを“都合のいい女”としか見ていない。テルコの友人である葉子はナカハラという男と付き合っているが、葉子にとって相手は“都合のいい男”でしかない。そんな中、マモルに年上の交際相手が出来る。男勝りでサバサバしたその女・すみれはテルコや葉子を巻き込んで一泊の小旅行を企画するが、そこで彼らの関係性が微妙に揺らいでくる。角田光代による同名恋愛小説(私は未読)の映画化だ。

 登場人物達の恋愛感情はすべて一方通行であり、そして皆がそのことに薄々気付いてはいる。しかし、その状況を直視しようとはしない。自身の言動がことごとく的外れで、自己満足の産物でしかないことを認識するのが怖いのだ。

 何とか自分への言い訳を積み重ね、とにかく相手と繋がりを持つだけで良いのだと無理矢理納得しようとする。これは実に痛々しい構図なのだが、困ったことにそういう退嬰的な心理状態に陥る者(あるいは、陥ったことのある者)はけっこう多いと思う。なぜなら、そっちの方が楽だから。自分および相手に正面から向き合わず、ナアナアで済ませればそれに越したことはない。だが、少しでも人生を前に進めようと思うならば、それではダメなのだ。

 映画では今までの状況を脱して一歩踏み出そうとする者と、それが出来ない者との対比を残酷なまでに映し出す。そして各キャラクターの戯画化が昂進すればするほど、その苦みは増してゆく。こういう仕掛けを違和感なく創出した監督の今泉力哉の力量は、大いに評価して良いだろう。ラストの扱いなど皮肉が効き過ぎていて、笑いながらも感心してしまった。

 テルコを演じる岸井ゆきのは大健闘で、空回りを続けるヒロイン像を上手く表現していた。マモルに扮する成田凌は、すでに“第二のオダギリジョー”みたいな雰囲気を醸し出していて絶品だし、ナカハラ役の若葉竜也も好演だ。脇に片岡礼子や筒井真理子、江口のりこといったクセ者を配置しているのもポイントが高い。
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「赤い薔薇ソースの伝説」

2019-06-09 06:22:07 | 映画の感想(あ行)

 (原題:COMO AGUA PARA CHOCOLATE)92年メキシコ作品。妙な映画で、決して幅広い層に奨められるシロモノではないのだが、不思議な吸引力はある。少なくとも“グルメ映画”としての価値は誰しも認めるところであろう。93年度の英国アカデミー賞において、外国語作品賞にノミネートされている。

 19世紀末、メキシコ革命の頃。リオ・グランデ川近くにある農家の15歳の娘ティタは、ペドロという若者と相思相愛になり、婚約する。しかしティタの母親エレナは、末娘は親の面倒を最後まで見なければならないという家訓に則り、結婚を許さない。さらにはペドロにはティタの姉ロサウラを嫁に薦めるのだった。どうしてもティタのそばで暮らしたいペドロは、これを承諾してしまう。

 ところが結婚式の当日、おかしなことが起きる。ウェディングケーキを食べた参列者が突然泣き出したのだ。そのケーキは、ティタが今は亡き家政婦のナチャのことを思って嘆き悲しみながら作ったものである。実はティタに、料理を通して自分の気持ちを人に伝えることができる不思議な能力が発動したのだ。こうしてティタは、予測不可能な人生を歩むことになる。

 タマネギにまつわる冒頭のシークエンスから、ラテン・アメリカ文学や映画が得意とする伝奇的リアリズムの雰囲気が充満する。料理が持つ力を描いた作品としてはガブリエル・アクセル監督の傑作「バベットの晩餐会」(87年)を思い出す向きが多いだろうが、本作はあれほどの高踏的な芸術性は無い代わりに、人間が誰しも持ち合わせるプリミディヴな部分にコミットしてくる。まさしく料理とは、言葉や理屈を通さずに相手の感情に直接触れる思いそのものなのだろう。

 革命軍や幽霊といった、まさしく浮き世離れしたモチーフが次々と出てくるにも関わらず、少しも違和感を覚えないのは、優れた料理が非日常を現出させるほどに形而上的な存在であることを押さえているためだと思われる。

 アルフォンソ・アラウの演出は奇態な題材を扱ってはいるわりにはオーソドックスで、映画が空中分解することはない。エマニュエル・ルベツキのカメラによる映像は、オレンジ色を基調にした独特の美しさを実現している。ティタ役のルミ・カヴァソスは好演。彼女は本作で第5回東京国際映画祭において主演女優賞を受賞している。
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「アベンジャーズ エンドゲーム」

2019-06-03 06:24:55 | 映画の感想(あ行)

 (原題:AVENGERS:ENDGAME)見事な出来映えで、3時間もの上映時間がまったく長く感じられなかった。もっとも、細かいところを見れば辻褄の合わない箇所が散見される。しかしそれでも“11年間にも及ぶシリーズを何とか完結させよう。それにはこの手しかない!”という作者の気迫は、少々の瑕疵など吹き飛ばしてしまう。また総花的な展開のように見せて、最後には個人のストーリーに収斂させる手法にも感服だ。本年度のアメリカ映画の収穫である。

 前作「インフィニティ・ウォー」において強敵サノスにより全宇宙の生命の半分が消し去られてしまい、アイアンマンことトニー・スタークは地球への帰還も覚束ない有様だ。残ったメンバーはサノスを急襲して仕留めるが、前回のカタストロフの原因であったインフィニティ・ストーンはすでに存在しておらず、去って行った者達が戻ることはなかった。

 それから5年後、アントマンことスコット・ラングは、量子力学を用いたタイムトラベルを提案する。過去に戻ってサノスがストーンを手に入れる前に回収しようという算段だ。アベンジャーズは3つのグループに分かれて別の時代に飛んでストーンを集めるが、それはまた“生前のサノス”を召喚することにも繋がるのだった。

 タイムパラドックスに関する考察は十分とは言えないが、アンソニー&ジョー・ルッソの演出は淀みがなく、次から次へと見せ場が繰り出され、そんな欠点はどうでもよくなってくる。クライマックスのバトルシーンなど、手に汗握るほどだ。

 しかし、印象的なのは主要キャラクターの人間ドラマが十分に掘り下げられていることだ。ホークアイことクリント・バートンとブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフとの関係性も見応えあるが、それより感心したのはトニー・スタークとキャプテン・アメリカことスティーヴ・ロジャースの扱いだ。2人は、過去において縁の深い人物と“再会”し、それぞれの人生に向き合う。そして終盤には自身の生き方を決める。結局、この長いシリーズはトニーとスティーヴの物語であったことが分かり、まさに感無量である。

 ロバート・ダウニーJr.にクリス・エヴァンス、スカーレット・ヨハンソン、ジェレミー・レナーら御馴染みの面々に加え、ロバート・レッドフォードやナタリー・ポートマン、ティルダ・スウィントンなど、過去のシリーズ作品のキャラクターが顔を見せるのも実に嬉しい。一応、本作をもってマーベル・シネマティック・ユニバースも区切りが付いたが、アメコミの世界は複数のステージが存在するので、また新たな展開を見せるのだろう。楽しみに待ちたい。
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