元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「雨月物語」

2024-04-27 06:07:35 | 映画の感想(あ行)
 1953年大映作品。日本映画史上にその名を刻む巨匠である溝口健二の代表作と呼ばれているシャシンだが、今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて、初めてスクリーンで観ることが出来た。正直な感想としては、やっぱり“古い”と思う。画質が荒いのは製作年度を考えれば仕方が無いとは思うが、展開自体が悠長というか、じっくり描こうとして時制面で納得出来ない点が出てきている。では観る価値はあまり無いのかというと断じてそうではなく、美術やキャストの存在感には目覚ましいものがある。

 戦国時代、琵琶湖北岸の村に住む陶工の源十郎は、商売のために対岸の都へ義弟の藤兵衛と共に渡る。そこで源十郎は若狭と名乗る美女から陶器の注文を受け、彼女の屋敷を訪れる。思わぬ歓待と追加注文を受けた彼は、やがて若狭にゾッコンになってゆく。一方、侍として立身出世を夢見る藤兵衛は、策を弄して羽柴勢に紛れ込んでいた。



 上田秋成の読本に収録された数編の物語を元に、川口松太郎と依田義賢が脚色したものだが、あまり上手くいっているとは思えない。源十郎と若狭とのエピソードは数日あるいは長くて数週間の物語という印象しかないのに対し、藤兵衛が侍として成り上がり、やがて手柄を立てて小隊長みたいな身分になるまでには数か月は要するのではないか。

 しかもこの間に藤兵衛の妻の阿浜は野武士に乱暴された挙げ句、売春婦に成り果てるが遊郭では売れっ子の一人になるという、短いスパンでは描ききれないドラマも“同時進行”しているのだ。これらを平行して並べるのは無理筋だ。

 しかしながら、宮川一夫のカメラワークは万全で、琵琶湖を渡るシーンや若狭の屋敷の佇まいには感心するしかない。キャストでは何と言っても若狭に扮する京マチ子が最高だ。この妖艶さとヤバさは只事ではなく、観ているこちらも引き込まれた。源十郎を演じる森雅之をはじめ、小沢栄太郎に水戸光子、青山杉作など面子は粒ぞろい。

 そして、源十郎の妻の宮木に扮した田中絹代がもたらす柔らかい空気感が場を盛り上げている。終盤は若狭ではなく宮木を中心としたシークエンスで締めたというのは、溝口健二が狙っていたテーマを如実に示すものであろう。視点が常に高い次元を指向していた黒澤明とは、一線を画していると思う。
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「戦雲(いくさふむ)」

2024-04-22 06:07:50 | 映画の感想(あ行)
 題材だけで判断すると、これは左傾イデオロギーが横溢したプロパガンダ映画なのかという印象を受けるかもしれない。しかし、実際に接してみると右だの左だのという小賢しい“神学論争”とは一線を画した、真に地に足が付いたドキュメンタリー映画の力作であることが分かる。その意味では観る価値は大いにある。

 日米両政府の主導のもと、沖縄は重要な軍事拠点と位置付けられ、自衛隊ミサイル部隊の配備や弾薬庫の大増設などが断行されてきた。2022年には“キーン・ソード23”なる日米共同統合演習までも実施され、南西諸島を主戦場に想定した防衛計画が練られていることが明らかになった。しかし、この動きは沖縄県民のコンセンサスを得たものではないのだ。日本の安全保障という建前ながら、住民たちの利益には必ずしも繋がっていない。



 映画は地元住民らの日常や、豊かな自然を丹念に写し取る。特に、与那国島のハーリー船のレースの盛り上がりや、カジキとの格闘に命を賭ける老漁師の生き方などはインパクトが大きい。だが、なし崩し的に実行される島々の軍事要塞化の波が、住民たちの生活に暗い影を落としている。

 断っておくが、私は“安保ハンターイ!”などという小児的な左巻きシュプレヒコールに与するものではない。アメリカと共同しての安全保障体制の確立は重要かと思う。しかし、問題はその拠点がどうして沖縄なのかだ。右巻きの連中はよく“沖縄は軍事的に重要な地点であるから、基地が集中するのは当然だ”みたいな物言いをするようだが、ならば他の地域は軍事拠点ではないのか。

 たとえば冷戦期に、アメリカは北海道や福岡から基地を撤収しているが、これをどう説明するのだろうか。要するに、基地のロケーション選定なんてのは日米の政治的決着によるものであり、真っ当な軍事的必然性とは距離を置いたものなのだ。もちろん、現地住民のことを顧みる余地は無い。

 監督の三上智恵はこのような現実を冷徹に提示する。しかも、沖縄とは関係の無い所謂“左傾活動家”を登場させることもせず、地元取材の立場から逸脱して“作家性”を強調することもない。極めて賢明なスタンスを取っている。それにしても、台湾有事を持ち出せば異論を許さない風潮が創出され、同時に負担を沖縄に押し付ける事なかれ主義が罷り通ってしまう、安全保障の何たるかを考慮しない空気が蔓延している現実は憂うべきことだ。たとえば辺野古をめぐる状況などを見てみると、そのことを痛感する。
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「ウィスキー」

2024-04-19 06:08:01 | 映画の感想(あ行)

 (原題:WHISKY)2004年ウルグアイ=アルゼンチン=ドイツ=スペイン合作。監督のフアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストールは“南米のアキ・カウリスマキ”と言われているそうで、冴えない中年男女を主人公にしている点や徹底的にストイックな作劇には共通点がある。だが、北欧の巨匠の作品群よりも上映時間は若干長く、それだけに登場人物の追い詰め方は堂に入っている。同年の東京国際映画祭でコンペティション部門のグランプリと主演女優賞を受賞。第57回カンヌ国際映画祭でも“ある視点”部門のオリジナル視点賞を獲得している。

 ウルグアイの下町で零細な靴下工場を経営するユダヤ人の主人公ハコポは、控え目だが忠実な中年女性マルタを工場で雇い入れている。ハコポとマルタが一緒に仕事をするようになってから長い年月が経っているのだが、2人は必要最小限の会話しか交さない。そんな中、ブラジルで成功したハコポの弟エルマンから訪ねてくることになる。

 ハコボは長らく疎遠になっていた弟が滞在する間、マルタに夫婦のフリをして欲しいと頼み込み、了承を得る。早速2人は偽装夫婦の準備を始め、結婚指輪をはめて一緒に写真を撮りに行く。こうしてエルマンを迎えることになるのだが、事態は思わぬ方向に転がり出す。

 結局、人間は見かけはどうあれ中身は千差万別なのだ。ハコポとマルタは単調な日常を送るだけの退屈な人物に見えるが、エルマンの滞在を切っ掛けに、2人は実は正反対の性格だったことが明らかになるという、その玄妙さ。

 陽気で如才ない弟から仕事を手伝いたいとの申し出を受け、それが自分の利益になることを分かっていながら、今までの単調な生活を崩したくないため断ってしまう主人公の被虐的なキャラクターと、チャンスさえあればどんどん外の世界に出て行きたいという欲求を抑えたまま生きてきたヒロインとの対比は、残酷なまでに鮮烈だ。

 これがハリウッド映画ならば、二人は夫婦の真似事をするうちに相思相愛になるという手垢にまみれたハッピーエンドに持って行くところだろうが、本作はストーリーが進むほどにそんな予定調和から遠ざかってゆく。フィルムが断ち切られたようなラストも秀逸だ。ウルグアイとブラジルとの国情の違いや、ユダヤ人の“法事”みたいな風習が紹介されるのも興味深い。

 アンドレス・パソスにミレージャ・パスクアル、ホルヘ・ボラーニといったキャストはもちろん馴染みが無いが、皆良い演技をしている。なおタイトルの意味は、日本では写真を撮影するときに被写体の人の笑顔を撮るため“チーズ”と言わせるが、南米ではそれが“ウィスキー”になるところに由来している。
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「アフター すべての先に」

2024-02-18 06:08:53 | 映画の感想(あ行)
 (原題:AFTER EVERYTHING)2024年2月よりNetflixより配信。各登場人物の関係性がいまひとつ掴めないと思って眺めていたが、実はこれシリーズ物の一作で、本作の前に数本の“前日談”が存在しているということを鑑賞後に知った(笑)。それはともかく、アナ・トッドによる(若者向け)恋愛小説の連作の映画化なので、実にライトな建て付けでそれほどの深みは無い。では全然面白くなかったのかという、そうでもない。含蓄のあるセリフは挿入されているし、何より映像が素晴らしくキレイだ。その意味では観て損したという気はしない。

 英国の若手作家のハーディン・スコットは、デビュー作「アフター」が好評を博したものの2作目が書けず酒に溺れる毎日だ。1年以上のスランプ状態のまま、彼は気分転換を兼ねて過去に付き合いのあったナタリーの住むリスボンに向かう。ハーディンには「アフター」執筆時にテッサ・ヤングという恋人がいて、小説の内容が彼女との関係性を赤裸々に綴っていたものらしく、そのためテッサは彼の元を去って行った。だがハーディンは彼女のことを忘れられず、それがスランプの原因の一つでもあったのだ。リスボンでも新作の構想は浮かばず鬱屈した日々を送るハーディンだが、あるトラブルを切っ掛けに再起を図ることになる。



 どう見てもハーディンは文才のあるような男とは思えないし、彼の仲間たちにしてもチャラチャラした軽量級の奴らばかり。加えて前作までに語られていたらしい人物関係がハッキリしないので、序盤は(個人的には)盛り上がらないままだ。しかし、舞台がリスボンに移ってからはイッキに目が覚める。

 ミュージック・ビデオを数多く手掛けたジョシュア・リースのカメラによるポルトガルの風景は、ため息が出るほど美しい。赤い屋根の住宅が続き、市電が走るリスボンの市街地。そして陽光がきらめく海岸の景観など、観光用フィルムも顔負けの仕上がりだ。この映像だけでも本作に接する価値はある。

 荒んでいたハーディンの内面が、ナタリーをはじめとする周囲の人間によって徐々に改善していく様子は、型通りとはいえ悪くはない。そして、父親が彼に言う“たとえ結果として上手くいかなくても、真心を込めて全力でやれれば、それで「成功」なのだ”というセリフは、けっこう刺さった。カスティル・ランドンの演出は可も無く不可も無し。ハーディン役のヒーロー・ファインズ・ティフィンをはじめ、ジョセフィン・ラングフォード、ミミ・キーン、ベンジャミン・マスコロといった若手キャストは馴染みは無いものの、良くやっていると思う。
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「哀れなるものたち

2024-02-11 06:28:08 | 映画の感想(あ行)
 (原題:POOR THINGS )ヨルゴス・ランティモス監督の前作「女王陛下のお気に入り」(2018年)よりはマシな出来映え。少なくとも最後まで退屈せずに付き合えた。ただ、世評通りに大絶賛するわけにはいかない。とにかく、物足りなさが全編を覆う。その原因はいろいろと考えられるが、一番大きなポイントは、鑑賞する前に私はアラスター・グレイによる原作を読んでいたことだろう。両者があまりにも違うので、面食らってしまったというのが正直な感想だ。

 ヴィクトリア朝時代のスコットランドのグラスゴー。若い人妻ベラは人生を悲観して川に身を投げる。天才外科医ゴッドウィン・バクスターはその遺体を引き取り、妊娠中だったベラのお腹にいた胎児の脳を移植し、彼女を奇跡的に蘇生させる。ベラは驚くべきスピードで“成長”を遂げるが、広い世界を自分の目で見たいという欲求に駆られ、放蕩者の弁護士ダンカン・ウェダバーンに誘われて大陸横断の旅に出る。



 悩み多き人生から解放されるが如く生まれ変わったヒロインが、いろんな経験を積んで徐々に魅力を会得していくという、簡単に言えばそういう話だ。彼女の体験の中で大きなウェイトを占めるのがパリの売春宿で働いたことで、映画の中でも大きな尺を取られている。ところが、原作ではこのパートは大して重要なモチーフではない。

 それどころか、小説版ではベラがゴッドウィンの手によって生き返るという物語の発端自体が怪しいものとされている。それが明らかになるのは、小説が一度エンドマークを迎えた後に展開する“もうひとつの物語”に示されていることで、ハッキリ言ってこの“パート2”の方が、それまで語られていたことよりも数段面白いのだ。

 対してこの映画版は、フランケンシュタインの亜流みたいな設定は別としても、性遍歴によって無垢な女性が一皮剥けるという、まるで「エマニエル夫人」みたいなシンプル過ぎる構図しか見えてこない。終盤になると話はどんどん在り来たりになって、単なるSFファンタジー編にしか思えなくなる。

 ランティモスの演出は前回とは違って弛緩せずに何とか場を保たせているが、仰々しく展開する奇態なセットや美術に頼り切りの感があり。そのセンスも、既視感が強い。私のように無駄に映画鑑賞歴が長いと、テリー・ギリアムやピーター・グリーナウェイ、デレク・ジャーマンあたりの作品群との類似性ばかりが気になってしまう(まあ、ホリー・ワディントンによる衣装デザインだけは良かったけどね)。

 主演のエマ・ストーンはとても頑張っている。しかし。ここまで“身体を張る”必要があったのか疑問だ。加えて、R18指定ならではの性的シーンの釣瓶打ちは、困ったことに少しもエロティックではない。マーク・ラファロにラミー・ユセフ、クリストファー・アボット、スージー・ベンバ、キャサリン・ハンター、マーガレット・クアリー、ハンナ・シグラといった脇のキャストも印象に残らず。評価に値するのはゴドウィンに扮したウィレム・デフォーの怪演ぐらいだろう。
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「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」

2024-02-10 06:07:31 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Altered States)80年作品。2022年に惜しくも世を去った名優ウィリアム・ハートの映画デビュー作になるSFスリラーだ。しかも、監督があのケン・ラッセル。かなりクセの強いカルト的なシャシンかと期待させたが、実際は何とも気勢の上がらない出来である。原作者で当初の脚本担当だったパディ・チャイエフスキーからして、ラッセル監督の妙な演出に辟易して脚本のクレジットから名前を削ることを要請したほど。

 主人公エドワード・ジェサッブは25歳で博士号を取ったほどの天才科学者。彼は人類の生命誕生の根源に迫るためには、原始生命体からの生命の記憶を引き継いでいるはずの細胞を徹底解析するしかないと思い立つ。彼は自らを実験台にすべく、強力な幻覚作用を持つ薬を服用したまま硫酸マグネシウム溶液の水槽に浸るという荒業を敢行。



 実験は当初は順調だったが、やがてエドワードの身体に異変が起こり、ついには人類の発生時に遡って類人猿に変身。研究室を抜け出して狼藉をはたらく。何とか元の姿に戻った彼だが実験を続ける意志は固く、最終的に予測不能のエネルギーが放出され婚約者のエミリーをも巻き込む一大アクシデントが発生する。

 一番の敗因は、特殊効果が上手くないことだ。まあ、80年当時のSFXのレベルを今と比べるのは酷だが、それでも本作に先んじて「スター・ウォーズ」や「未知との遭遇」は製作されていたし、2年後には「ブレードランナー」や「ポルターガイスト」も封切られるのである。だから“この程度で良い”ということにはならない。

 しかも、映像のセンスが良くない。目障りな光の点滅ばかりが目立ち、それを派手な音響で粉飾しているだけのように感じる。鬼才として知られたケン・ラッセルの仕事とは思えぬほどの体たらくだ。さらにはストーリーが“底抜け”で、何やらメロドラマ方面で事を収めようという気配があり、ラストも腰砕けだ。序盤で示された主人公の崇高な研究者精神は、一体どこに行ったのかと思うような幕切れである。

 W・ハートは熱演だが、後年のカリスマ的な存在感はまだ備わっていない。相手役のブレア・ブラウンやボブ・バラバン、チャールズ・ヘイド、ティオ・ペングリスといったキャストもパッとしない。なお、音楽は高名な現在音楽の作り手でもあるジョン・コリリアーノが担当しているが、あまり効果的なスコアとは思えず。後年オスカーを獲得した「レッド・バイオリン」(99年)の方が数段インパクトが大きかった。
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「アクアマン 失われた王国」

2024-01-27 06:08:03 | 映画の感想(あ行)
 (原題:AQUAMAN AND THE LOST KINGDOM)前作(2018年)に比べると地上での活劇場面が少なく、その点は不満なのだが全体的には及第点に達していると思った。何より上映時間が124分とコンパクトなのが良い。何だそんなことかと言われそうだが、アメコミ物に限らず昨今のハリウッド製娯楽映画は無駄に尺が長いものが目に付く。もちろん短ければオッケーでもないのだが(笑)、観る側の忍耐度を勘案すれば、肩の凝らないはずのエンタテインメント作品で2時間を大きく超えることは控えていただきたいものだ。

 アクアマンことアーサー・カリーが統治する海底王国アトランティスの勃興期よりさらに昔、南極の氷河の奥深くに封印された失われた王国が存在していた。そこには、ブラック・トライデントと称する古代の超兵器が眠っており、アクアマンへの復讐を誓うブラックマンタがその世界を滅亡させるほどのパワーを持つブラック・トライデントを手に入れてしまう。アーサーはこれに対抗するため、前作で反目した弟のオームと共闘する。



 パート1より続投するジェームズ・ワン監督の手腕は賑々しく、矢継ぎ早に見せ場を繰り出して突っ込むスキを与えない。考えてみれば、とことんイヤな奴で人望も無いブラックマンタが簡単に大軍を率いているのは解せないし、だいたいコイツが地球をどうかした後に何をやりたいのか皆目分からない。アーサーのキャラも、今回はオームに押され気味だ。

 しかし、そんな瑕疵をものともせず、アクション満載で飽きさせない。ラストは少々くすぐったい扱いだが、ネガティブな印象は無く気持ちよく鑑賞を終えられる。主役のジェイソン・モモアをはじめアンバー・ハードにヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世、ニコール・キッドマン、ドルフ・ラングレン、ランドール・パーク、パトリック・ウィルソンら面子も揃っている。

 さて、興味深いのは本作をもってDCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)が終焉を迎えることだ。2013年の「マン・オブ・スティール」から始まり本作で16作目になるDCEUだが、これにて“打ち止め”とのこと。まあ、次からはジェームズ・ガンとピーター・サフランによる新たなDCユニバースがスタートするらしいが、マルチバースにハマり過ぎて収拾が付かなくなった感のあるマーベル陣営に比べると潔いとも言える。とりあえず、今後の推移を見守りたい。
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「終わらない週末」

2024-01-07 06:03:37 | 映画の感想(あ行)

 (原題:LEAVE THE WORLD BEHIND)2023年12月からNetflixより配信。メッセージ性の強い映画であることは分かる。先の読めない作劇で退屈させないのも評価できよう。しかし、終わってみれば図式的な建て付けが目立ち、あまり愉快になれない。特に、平易なカタルシスを求める多くの鑑賞者にとっては不満の残る内容ではないだろうか。かくいう私も印象は芳しくない。

 サンドフォード家の4人は週末をのんびりと過ごそうと、ニューヨーク州南東部のロングアイランドにある豪華な別荘をレンタルする。ところが、到着早々に正体不明のサイバー攻撃がアメリカ全土を覆い、携帯電話やパソコンが使えなくなる。さらにビーチではコントロールを失ったタンカーが座礁し、旅客機の墜落事故も起こる。

 その夜、一家のもとに別荘のオーナーだというG・Hと名乗る男が、娘のルースを連れてやってくる。世間が騒然としてきたので、取り敢えず家に戻ってきたのだという。疑心暗鬼に駆られるサンドフォード一家だが、その間にも彼らの周囲には異常な現象が次々と発生する。ルマール・アラムによる同名ベストセラー小説の映画化だ。

 不安を煽るようなアクシデントが頻発し、その正体は説明されない。この漠然とした終末感の創出は序盤では上手くいっている。だが、この思わせぶりな姿勢が中盤以降も続くといい加減面倒くさくなってしまうのだ。特に、突然耳をつんざくような雑音が流れてきたと思ったら、次には鹿の大群が現われたり、なぜかフラミンゴの群れがプールに飛来したりといった、明らかに“やり過ぎ”と思われるネタが続くとシラケてしまう。

 サンドフォード家の主婦アマンダはキレ者のキャリアウーマンらしいが人間嫌いを隠そうともせず、黒人であるG・Hを軽く見ている。また近所に住むダニーはアジア人に対する偏見があるようだ。この設定は製作に関与しているバラク・オバマとミシェル・オバマの意向が反映しているのかもしれないが、このリベラル色を前面に打ち出した雰囲気は、いかにも露骨であまり気乗りしない。

 サム・エスメイルの演出はサスペンスの盛り上げ方は悪くないものの、筋書きに深みが無いので空回りしている感がある。アマンダ役のジュリア・ロバーツは“相変わらず”で別にコメントもしたくないが、マハーシャラ・アリにイーサン・ホーク、ケヴィン・ベーコンといった面々はキッチリと仕事をこなしている。ファラ・マッケンジーやチャーリー・エヴァンス、マイハラといった若手も悪くない。
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「市子」

2023-12-23 06:25:22 | 映画の感想(あ行)
 惜しい出来だ。序盤のドラマの“掴み”は万全で、登場するキャラクターたちも濃い。ミステリアスなモチーフが次々と現われ、物語はどう着地していくのかと期待しながらスクリーンと対峙していたのだが、終盤が物足りない。これでは何も解決していないのではないか。ヒロインの行く末も含めて、主要登場人物の身の振り方がハッキリしないままの結びでは納得出来ない。シナリオのもう一歩の練り上げが必要だったと思う。

 和歌山県の地方都市に住む川辺市子は、3年ごしの同棲相手である長谷川義則からプロポーズを受ける。平凡な幸福を望んでいた彼女は喜ぶのだが、その日義則が仕事に出ている間に身元不明の遺体が山中で発見されたというニュースをテレビで見た市子は、次の日忽然と姿を消してしまう。戸惑うばかりの義則の元に、市子を捜しているという刑事の後藤がやってくる。聞けば市子は複雑な生い立ちで各地を転々とし、しかも十代の頃には違う名前を名乗っていたらしい。やがて義則は部屋の中で1枚の写真を発見し、その裏に書かれていた住所を皮切りに、市子に関わった人々を訪ね歩く。



 義則と付き合っていた市子は気の良い若い女子といった雰囲気だが、中学生時代には暗くて気難しく、それから年を重ねるごとに挙動不審な態度が昂じてくる。彼女が使っていた“偽名”は、どうやら同居していた身体不自由な家族のものらしいが、具体的にどう振る舞っていたのか明示されない。このストーリーの持って行き方は巧みだ。

 中盤までは市子の屈託の多い半生が暗示され、このタッチで進めば野村芳太郎監督の代表作「砂の器」(74年)と同程度のヴォルテージの高さを達成するのではと思わせたが、残念ながら最後の詰めが甘い。それによって気が付けば伏線の多くが回収されず、どれも中途半端に終わっている感がある。監督は自ら劇団を率いている戸田彬弘で、原作も彼自身のものだ。ひょっとしたら舞台劇ならばキャストの配置次第で説得力が出てくるのかもしれないが、映画空間では作劇がまとめ切れていない印象を受ける。

 とはいえ、主役の杉咲花のパフォーマンスは見上げたものだ。かなり幅広い年齢層を演じているにも関わらず、どれもほとんど違和感が無い。表情によってヒロインの背負う懊悩を十二分に出す技量には感心するしかなく、間違いなく彼女は日本映画界を代表する若手女優の一人だと思う。相手役の若葉竜也をはじめ、森永悠希に倉悠貴、中田青渚、石川瑠華、渡辺大知、宇野祥平、中村ゆりなど、確かな演技力を持つ者ばかりが集められていて、その点は評価したい。春木康輔のカメラによる清涼な映像も要チェックだ。
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「ヴォルーズ」

2023-12-16 06:06:30 | 映画の感想(あ行)
 (原題:VOLEUSES)2023年11月よりNetflixより配信されたフランス製の活劇編。最初の10数分間はかなり良かった。主人公たちが殺傷能力のあるドローン群から逃れるため、バギーを駆って山道を猛スピードで走り抜けるシークエンスは、まるで「007」シリーズの導入部のような高揚感が横溢している。さらに、終盤にはウイングスーツで山の頂上から滑空して退場。否が応でも本編への期待が高まるが、あいにく本作で面白かったのはこのプロローグ部分だけなのだ。

 凄腕の女泥棒であるキャロルとアレックスはこれまでかなりの“実績”を残してきたが、いい加減逃亡生活に疲れてきた。そこで引退を考えるのだが、元締めの“ゴッドマザー”から最後の仕事として高価な絵画の強奪を命じられる。新たに女流バイクレーサーのサムを仲間に加えて仕事に挑むのだが、予期せぬトラブルが頻発して上手くいかない。ついには彼女らは絶体絶命のピンチに陥る。



 本作はラストに主要キャストとスタッフが表示されるのだが、何と監督がキャロルに扮するメラニー・ロランであったことに驚いた。彼女が演出家としての仕事をしていたことは知らなかったし、調べてみるとこの映画の前にも何本か手掛けていて、決してズブの素人ではないようだ。しかし、本作に限って言えばとても及第点に達するような内容ではない。

 確かに活劇場面は達者。しかしそれ以外が弱体気味である。つまりはストーリーテリングに難があるのだ。しかもロランは脚本にも参画しており、語り口の拙さがより一層強調される結果になってしまった。そもそも、キャロルたちを雇っている“ゴッドマザー”の正体が掴めないし、いくらミッションに運転手が必要だといっても、荒仕事の経験が無いに等しいサムを雇う必然性は小さい。

 主人公2人は泥棒稼業に専念しているのかと思ったら、けっこう情け容赦ない狼藉ぶりを見せて感情移入がしにくい(これでよく今まで警察に捕まらなかったものだ)。挙げ句の果てにラストの処理は説明もなく唐突で、観た後呆気に取られるばかり。

 アデル・エグザルコプロスにマノン・ブレシュ、フェリックス・モアティ、フィリップ・カトリーヌといった顔ぶれもパッとせず、参ったのは“ゴッドマザー”をイザベル・アジャーニが演じていること。仏映画界の大御所であるはずの彼女が、よくこんなどうでも良い役を引き受けたものだ。既成曲中心の音楽もワザとらしくてシラける。ただし、風光明媚なスポット主体にロケされた映像は美しく、観光気分は存分に味わえる。
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