元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「マジック・イン・ムーンライト」

2015-04-29 06:30:50 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Magic in the Moonlight)良く出来たスクリューボール・コメディで、鑑賞後の気分も上々だ。深いテーマや凝ったストーリーなんかを期待すると肩すかしを食らうが(笑)、構えず気楽に接すればそれなりの満足感を与えてくれる。また、こういう気が利いたシャシンをコンスタントに提示出来るのは、ウディ・アレン監督作というブランドの成せる技だろう。

 1920年代、英国人マジシャンのスタンリーはその天才的なテクニックで人気を博していたが、素顔は皮肉屋でインテリぶった鼻持ちならない野郎だ。ある時、幼なじみのハワードから、南仏に住むある大富豪が米国人の女占い師に入れあげていて、ヘタすると財産を乗っ取られてしまうかもしれないという話を聞く。

 オカルト方面の事柄はすべからくインチキだと決め付けていたスタンリーは、ペテンを見抜いてやろうと自信満々で大富豪宅を訪れ、件の占い師ソフィと対峙する。ところが彼女は彼の経歴や性格をズバリと指摘し、果ては降霊会で超現実的な現象を見せつけるに及び、すっかり彼は狼狽える。しかも、若くてキュートなソフィに恋愛感情らしきものを抱いてしまうのだった。

 何かというと講釈ばかり垂れる魔術師スタンリーは、もちろんアレン監督の“分身”だ。舞台でイリュージョンを見せるだけではなく、自分の本性の周りにもタネや仕掛けを配備して“武装”している。そんな奴が自分の価値観を揺さぶる対象に出会った途端、無様にも(?)恋する男の一面を見せ始めるあたりが愉快だ。

 恋心は手品とは違い、小賢しい段取りを飛び越えて遠慮会釈無く誰の心の中にも芽生えるものなのだ。言い換えれば恋愛こそが最上のイリュージョンであり、小理屈抜きで存分に楽しめば良いというメッセージが見て取れる。もちろん、ソフィの言動の裏には“ある事情”が存在するのだが、それが分かった後の展開も飽きさせず、センス満点のラストまでしっかり引っ張ってくれる。

 スタンリーを演じるコリン・ファースは好演で、評価の高かった「英国王のスピーチ」の役柄よりも自然体で無理がない。レトロな衣装に身を包んだソフィ役のエマ・ストーンは凄く可愛く、アレンが彼女に惚れ込んでいることが分かる。アイリーン・アトキンスやマーシャ・ゲイ・ハーデン、サイモン・マクバーニーといった脇の顔ぶれも良い。

 ダリウス・コンジのカメラによる明るい陽光に包まれた南仏の風景、アレンの過去の代表作「マンハッタン」に通じる描写や、ヒッチコックの「泥棒成金」のオマージュも含めて、手練れの映画ファンのツボに入る各モチーフの提示が嬉しい。
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「二人日和」

2015-04-28 06:22:33 | 映画の感想(は行)
 2004年作品。全体的にいくつか不満はあるが、観て損のない良心作と言える。京都を舞台に、ベテランの神官の装束仕立て師と不治の難病に冒された妻との“最後の日々”を描く映画だ。

 京都御所の近くにある神祇装束司は、代々御所関係や神官の装束を作り続けてきた。主人の黒田は店を切り盛りしながら、妻の千恵と静かな生活を送っている。しかしある日、千恵が難病のALS(筋萎縮性側素硬化症)に罹っていることが分かる。早ければ半年ほどで、介護無しでは日常生活を送れないほど悪化するらしい。そんな自らの境遇を嘆く千恵を何とか慰めようと、黒田は神社の帰り道でよく見かけるマジックの上手な若者・俊介を家に招待する。

 俊介の鮮やかな手さばきを見て笑顔を取り戻す千恵だが、病魔には勝てずに倒れてしまう。一方、俊介は周囲からアメリカ留学を勧められていた。行きたい気持ちは山々だが、恋人の恵と何年も離れてしまうのは辛い。やがて、俊介の出演するマジック・ショーの日が近づき、病院で招待状を受け取った千恵は、黒田の押す車椅子で出かけていくことを決心する。



 若い頃に情熱的な恋で結ばれた二人も、年老いた今は互いの存在を当たり前のものとして受け入れていた。しかし妻の難病がもう一度相手の本質に向き合うきっかけとなる。

 声に出さなくても阿吽の呼吸で夫婦の役割を演じていたつもりの主人公だが、妻の日記を盗み読んだことにより、いかにコミュニケーションが欠如していたのかを痛感する。このあたりの展開は厳しいが、映画はそれを声高に指弾したりはない。本編の作劇には“自分を表に出さずに静かに老いてゆくこともひとつの人生の送り方である”と容認する懐の深さがある。二人に扮する藤村志保と栗塚旭の演技も素晴らしい。

 物語を一本調子にさせないために老夫婦の介護話に若いカップルを絡めているが、残念ながらここは成功していない。若者にしては古風に過ぎる行動、演じる賀集利樹も山内明日もレトロな外見で、一瞬いつの映画かと思ってしまった(笑)。

 現在の静かな生活に対比させるかのような若い頃の二人がタンゴを踊るシーンも地味すぎる。もっとパァッとした映像の喚起力が必要だが、監督の野村惠一は非常に“マジメ”であり、たぶんそんな場面は苦手なのだろう。反面、京都で伝統工芸を守り続ける主人公の生活と、それが時代遅れに成りつつある実情を捉えるシーンは心にしみる。

 野村監督は本作を含む5本の映画を残し、2011年に世を去っている。生前には“小器用で口は立つが腕がない監督が多すぎる、声の大きい監督ばかりが目立つのは映画にとって不幸だ”と語っていたらしいが、このセリフは凡作・駄作しか作れないくせにやたらビッグマウスな“あの監督”や“あの製作者”達に投げ掛けてやりたい。
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「ソロモンの偽証 後篇・裁判」

2015-04-27 06:24:11 | 映画の感想(さ行)

 パート1は凡作だったが、この完結編は駄作。総合点としては“合格”には程遠く、今年度ワーストテンの上位に放り込みたくなるような体たらくだ。わざわざ二部に分けて観客から倍の入場料をふんだくり、挙げ句の果てはタメ息しか出ないエンディングしか提示出来ないとは、作者は世の中をナメているとしか思えない。

 城東第三中学校2年A組の男子生徒・柏木の死の真相を突き止めるために、学級委員の涼子らが提唱した学校内裁判がいよいよ開廷した。告発状によって柏木殺害を疑われた問題児の大出を被告に、関係者が弁護側と検察側とに分かれて論述を繰り広げる。しかしながら、結果として明らかになった真相とは、まさに脱力するようなものだった。

 考えてみれば裁判自体が子供の遊びの域を出ない以上、その判決がすべてをひっくり返すようなインパクトを持ち得ないのは当然なのだ。裁判の進行状態に関しては、ひとつひとつ指摘するのが面倒なほどの多数の不手際で埋め尽くされ、しかも結局は裁判に関わった特定個人の身勝手な“願望”による出来レースでしかなかったとは、おふざけもホドホドにして欲しい。

 一番不愉快に思えたのは、この事件の“犯人”に対する考察がまったく成されていないことだ。宮部みゆきによる原作は読んでいないし読む気も無いが、近年の彼女の作品がそうであるように、この小説にも“悪だから悪なのだ”という思考停止的なスキームが横溢していることは想像に難くない。そもそも映画にすること自体が間違いだったという見方も出来よう。

 それにしても、宮部の昔の小説は良かった。読んでいてワクワクしたものだ。しかしその才気も「模倣犯」を最後にあらかた失われ、あとは薄っぺらな“やっつけ仕事”を並べるのみ。本当は昔の小説を映画化して欲しいのだが・・・・本人が許可しないのだろうか。

 (以下、少しネタばれ)なお、この映画は成長して教師になった涼子(尾野真千子)が現在の城東第三中学校を訪れ、昔話をするという設定で始まるが、ラスト近くで校長(余貴美子)が“あの裁判以来、この学校では自殺もイジメも起きていない”とニコヤカに語る場面があり、私はそれを観て“バカヤロー!”と叫びたくなった。

 自殺とイジメとは違うだろ。だいたい、イジメなんてものは団体生活を送っていればどこでも起こりうるものであり、それをいけしゃあしゃあと“起こっていない”と宣うとは、この学校は何らイジメ問題に対して真摯に向き合っていないことを意味している。こんなセリフをノーチェックで垂れ流すとは、本作の送り手は不真面目極まりない。エンド・クレジットではなぜかU2の「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が流れるが、こんな低級な映画に使われるとは、U2のメンバーも良い面の皮だろう。
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「御法度」

2015-04-26 06:27:07 | 映画の感想(か行)
 99年松竹作品。大島渚監督の映画を良いと思ったことは一度もないが、この作品は新選組の内ゲバを同性愛がらみで淡々と描いており、まあ破綻が少なく最後まで観ていられた。ただ、面白いかというと全然そうじゃなく、たとえて言うなら、平日の午後に再放映されている昔の平凡なホームドラマを何気なく眺めているという感じだ。要するに“凡作”ということである。

 幕末の京都を仕切る新撰組に、田代彪蔵と加納惣三郎が新たに入隊する。早速近藤勇は惣三郎に御法度を破った隊士の処刑を命じるが、見事に任務を全うし、総長の信頼を得る。しかし副長の土方歳三は腹に一物あるような惣三郎の態度に、イマイチ信用できないものを感じるのだった。



 そんな中、惣三郎と田代が同性愛関係にあるという噂が流れ、しかも惣三郎は組のメンバーである湯沢藤次郎とも怪しい仲であることが判明し、さらにはその藤次郎が何者かに殺される事件が起きる。近藤は嫉妬に駆られた田代が藤次郎を殺害したと決めつけ、惣三郎に田代を始末するよう命じるが、事の真相は別のところにあった。司馬遼太郎による短編の映画化である。

 仲間内でのドロドロとした愛憎劇が緊張感たっぷりに展開されるのかと思ったら、上っ面だけの描写に終始していて、ドラマ的な深みは皆無に近い。そして、作者の新選組に対する思い入れが感じられるような箇所も見当たらない。ただ、必要以上に引っ張ったり弛緩した場面を延々と見せられるようなことは無く、ストレスフリーで付き合えるのが長所といえば長所だろうか。

 惣三郎役の松田龍平はこれがデビュー作。ルックスと毛並みの良さだけを買われての起用だと思われるが、演技は大根。まあ、最初はこんなものだろう。土方にはビートたけしが扮しているが、幕末を代表するプレイボーイだった土方を彼を演じるのは違和感がある。

 他に武田真治や浅野忠信、寺島進、田口トモロヲ、菅田俊など多彩な面子が揃っているが、あまり印象に残らない。坂本龍一の音楽やワダエミの衣装デザインも冴えない展開だ。せいぜい近藤を演じる崔洋一の落ち着かない目玉が面白かった程度。

 実をいうと、この映画に関しては当時のテレビCMが一番興味深かった。何やら松田龍平をめぐってのボーイズラブを強調するような演出が施され、まさにB級テイストが満載。興業側のヤケクソぶりが垣間見えたが、その甲斐も無く大してヒットもしなかったのには失笑するしかない。
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「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」

2015-04-25 06:16:01 | 映画の感想(は行)

 (原題:BIRDMAN OR(THE UNEXPECTED VIRTUE OF IGNORANCE))本作の勝因は主演にマイケル・キートンを据えたことであり、それ以外はハッキリ言ってどうでもいい。過去に特別な役を振られて見事に応えた俳優だけが持つカリスマ性を、改めて認識することが出来た。

 昔「バードマン」というヒーロー物のシリーズに主演して一世を風靡したリーガン・トムソンは、その後は役に恵まれずに年齢ばかりを重ねてしまった。何とか新境地を開拓するべく、彼はブロードウェイの舞台に挑む。

 出し物はレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」の舞台化で、自ら脚色し、演出も主演も兼ねて一世一代の大勝負に臨もうとした矢先、出演俳優がリハーサル中に大怪我をしてしまう。代役に実力派との呼び声が高いマイク・シャイナーを起用するが、マイクの才能は降板した俳優より上であるばかりか、リーガンをも脅かすほどのものだった。主役が食われることを恐れたリーガンは、次第に精神的に追い詰められていく。

 図式としては、大して珍しくもない。切羽詰まった業界人の内面を現実と幻想を交えてニューロティックに描くというやり方は、ボブ・フォッシー監督の「オール・ザット・ジャズ」をはじめ過去に何回か見たことがあるような気がするし、ストーリーの根幹にある“家族や周囲に対する人間関係の回復”といったテーマも“何を今さら”と言いたくなる。

 エマニュエル・ルベツキのカメラによる全編ワンカット風の長回しや、主人公の内面を代弁するかのように出現するバードマンの造形も、さほどインパクトのある仕掛けだとは思えない。そして金儲け一辺倒のハリウッドに対する皮肉や、好き勝手に苦言と賞賛とを使い分けるジャーナリズム批判なども、あまり目新しいものではないだろう。

 しかし、崖っぷちに追いやられて右往左往する主人公をマイケル・キートンが演ずると、俄然映画的興趣は増してくる。言うまでもなく彼はティム・バートン監督版「バットマン」のタイトル・ロールであり、これが稀代の当たり役でもあった。ところが以後は話題作や高評価の作品には起用されず、当然のことながら賞レースにも縁が無いまま初老の域に達してしまった。そんな彼とリーガンは絶妙にダブってしまう。

 リーガンが舞台で反転攻勢に出ようとするように、キートンも本作で役者魂を掛けて懸命のパフォーマンスを披露する。特に後半でダイナミックな飛行アクションを(心の中で)演じてしまうあたりは、目頭が熱くなってしまった。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの演出は前作「BIUTIFUL ビューティフル」ほどの求心力は無いが、及第点には達している。主役以外のキャストではマイクに扮するエドワード・ノートンの憎々しさや、蓮っ葉なようで実は健気な娘を演じるエマ・ストーン、トシは取ったが相変わらず魅力的なナオミ・ワッツ等が印象に残る。そして、バックに流れるドラムのソロがとても効果的だ。
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「砂と霧の家」

2015-04-24 06:34:31 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The House of Sand and Fog)2003年作品。アメリカ社会を“外から見た”ような冷徹な視線が印象的な映画で、見応えがある。アカデミー賞3部門の候補になるなど、評価も高い人間ドラマだ。

 夫との仲が上手くいかなくなって別れたキャシーは、今は父が遺した海辺の家で一人暮らしをしている。生活は苦しいが、遠方に住んでいる母にも離婚したことを言い出せない。そんな中、わずかな税金未払いにより当局側に家を差し押さえられ、競売に掛けられて他人の手に渡ってしまう。新しい持ち主は、アメリカに亡命したイランの元軍人ベラーニの一家だった。彼は故国では恵まれた立場にあったが、今は肉体労働で糊口をしのぐしかない。それでもこの家に住むことを選んだのは、彼がイランで持っていた別荘に環境が似ているからだった。

 一方、差し押さえ自体が行政側の手違いであったことことを知ったキャシーは、警官のレスターの力を借りてベラーニに家を返してもらうように要求するが、当然ながら応じてもらえない。両者の対立はエスカレートし、やがて事件が起きる。

 公開当時には“誰も悪人がいないのに登場人物全員が不幸になる話”との評もあるようだが、そんなことはない。この映画で一番悪いのはロン・エルダード扮する落ちこぼれ警官である。

 税金未納で家を追われたジェニファー・コネリー演じる若い主婦とねんごろになり、銃を振りかざして現入居者のイラン人家族を脅迫、果ては人質を取っての暴挙に至る。ハッキリ言ってコイツがいなければ事件は丸く収まったはずである。本作品はこの警官に代表されるような“うだつの上がらない白人貧困層の八つ当たり的な人種差別”を描いているのだと思うが、逆にそれがイランから来た元軍人一家の毅然とした態度をも強くイメージ付けることになる。

 夫婦に扮するベン・キングスレーとショーレ・アグダシュルーの演技は素晴らしく、故郷を追われた身の辛さと望郷の念が痛いほど伝わってくる。なお、監督のヴァディム・パールマンもウクライナ出身の“異邦人”で、こういう“貧すれば鈍する”ようなアメリカの(豊かではない)庶民の実相を容赦なく描くあたりも納得出来た。

 それにしても、この頃のJ・コネリーは“ロクでもない男と付き合って苦労する女”の役がすっかり板に付いてきたように思った(笑)。ジェームズ・ホーナーの音楽とロジャー・ディーキンスの撮影も要チェックだ。
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「ジヌよさらば かむろば村へ」

2015-04-20 06:29:57 | 映画の感想(さ行)

 くだらない。観る価値なし。豪華なキャストを集めていながらこのような低劣な映画しか撮れないとは、久々に監督を担当した松尾スズキの腕も鈍ったとしか思えない。とにかく、今年度屈指のワースト作品である。

 東京の銀行に勤めていた高見武晴は、不況で取引先が辛酸を舐めるのを何度も目の当たりにし、お金アレルギーになってしまった。仕事を辞めた彼は、今度はお金を1円も使わない暮らしを求めて東北の寒村に移住する。しかし当然のことながら、どんな田舎でもジヌ(当地の言葉で銭をあらわす)が無ければ生活できない。

 危うく野垂れ死にするところを助けてくれたのが、世話好きな村長とその美人妻。村長が経営する万屋で雇ってもらい何とか糊口を凌ぐことが出来た武晴だが、村は隣町との合併騒動の真っ最中で、彼も否応なくそれに巻き込まれてしまう。いがらしみきおによる漫画「かむろば村へ」(私は未読)の映画化だ。

 まず、主人公のお金アレルギーをネタにしたギャグが数えるほどしかないのは不満。そして村長はヤバい経歴を持った“わけあり”の人物らしいが、それがどうして自治体の首長の座に就いていられるのか、まったく説明されていない。村長の妻をめぐる関係性はハッキリと示されておらず、彼の過去を知る謎の男の扱いもまるで煮え切らない。

 村人から“神様”として崇められている老人が何回も思わせぶりに登場するが、何をしたいのか意味不明。そもそも、武晴を中心にドラマが展開されるのが当然であるにも関わらず、彼は狂言回し以下の存在に過ぎず、さりとて村長をはじめとする他の連中に話を引っ張っていけるだけの存在感は付与されていない。結果として、ストーリーの中心が空洞のまま上映時間だけが無駄に過ぎていき、観る側はアクビを噛み殺すだけということになる。

 松尾監督の演出はまるで足元が覚束ない。繰り出すギャグはすべて不発。コメディタッチだと思っていたら、ヘンにシビアで残忍なところもあり、中途半端な印象しか受けない。一方では登場人物の大仰な新劇調の物言いや立ち回りなども目立ち、どうやら演劇のメソッドを(悪い意味で)引きずったまま映画作りに臨んだようで、観ていて不愉快になる。極めつけはラストの主人公の不用意なセリフで、唖然となるほどヒドい。

 武晴に扮する松田龍平をはじめ、阿部サダヲ、松たか子、二階堂ふみ、片桐はいり、荒川良々、中村優子、西田敏行という多彩な出演陣は松尾の顔の広さを如実に示しているが、終わってみればただの“顔見世興行”だ。映像も音楽も舞台セットも特筆するようなものは無し。何のために作られたのか分からないようなシャシンである。
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「モナリザ」

2015-04-19 06:34:50 | 映画の感想(ま行)

 (原題:MONA LISA )86年イギリス作品。男の純情に胸が熱くなる映画だ。ニール・ジョーダン監督作としても、上出来の部類であろう。主演のボブ・ホスキンスのカンヌ国際映画祭男優賞受賞をはじめ、いくつもの主要アワードを獲得している。

 主人公のジョージは冴えない中年のチンピラ。ボスの身代わりとしてロンドンの刑務所で臭い飯を食わされ、やっとのことでシャバへ出てくる。久々に娘のもとを訪ねるが、別れた妻から邪険に追い払われる。仕方なくボスの事務所に行ってみるものの、ボスは不在。だが、何とか仕事にありつける。それは、黒人の高級娼婦のシモーヌを金持ちの客たちに送り届ける運転手の役目だった。

 身分もルックスも違いすぎる二人は初めのうちはソリが合わなかったが、どこか純粋な面を持ち合わせていることを互いに認め合い、いつしか相手を憎からず思うようになっていく。やがてシモーヌがヘロイン中毒になって失踪している友人キャシーを探していることを知ったジョージは、彼女を手助けするようになる。そしてヘロイン密売の黒幕を突き止めた彼は、徒手空拳で悪の一味に立ち向かってゆくのだった。

 いくら仕事上で付き合う相手が気になる存在になったところで、互いの立ち位置が異れば恋愛は成就しない。しかし、それでも男というのは好きになった女のために身体を張れるのだ。

 設定としては「タクシー・ドライバー」のトラヴィスに通じるものがあるが、ホスキンス扮する主人公はロバート・デ・ニーロのようなしなやかな存在感は持ち合わせてはいない。単なる小太りのオッサンだ。それがここでは素晴らしくカッコ良く見える。たとえそこにはホロ苦い結末が待っていたとしても、モナリザのようなミステリアスな笑みを湛えた女に認められたいために一瞬の輝きを見せる男のダンディズムにシビれてしまった。

 N・ジョーダンの演出は、抑制されていながら躍動感を確保しているという絶妙なタッチをキープしている。シモーヌ役のキャシー・タイソンの美しさや、ボスに扮するマイケル・ケインのふてぶてしさも印象的。ロジャー・プラットのカメラがとらえたロンドンの町は“魔都”の雰囲気を醸し出している。そしてもちろん、バックに流れるのはナット・キング・コールによる御馴染みのナンバー。さらにはジェネシスの演奏による「イントゥ・ザ・ディープ」も効果を上げている。
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「博士と彼女のセオリー」

2015-04-18 06:50:35 | 映画の感想(は行)

 (原題:The Theory of Everything)さっぱり面白くないのは、事実に基づいたこの映画の登場人物の大半が健在であるため、思い切った描き方が出来ないこと、そして特定個人の視点によってしか語られていないことによる。改めて実録映画の作り方の難しさを認識することになったのには、脱力するしかない。

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を抱えながらも研究に励み、大きな成果をあげた車椅子の天才科学者スティーヴン・ホーキングと元妻のジェーンとの関係を描く。60年代初頭、ケンブリッジ大に籍を置く青年スティーヴンは物理学の分野で突出した才能を示し、将来を期待されていた。やがて文学部で学ぶジェーンと出会い、恋に落ちる。ところが、直後に彼はALSを発症。余命2年の宣告を受けてしまう。それでもジェーンはスティーヴンと添い遂げることを選び、二人は結婚。共に力を合わせて難病に立ち向かっていく。

 まず、ジェーンの自伝を基にしていることが敗因だ。ストーリーは彼女を中心に展開し、当然のことながらジェーンにとって都合の悪いことや興味が無いことは描かれない。

 開巻まもなくスティーヴンは“あと2年しか生きられない”と言われるが、それから何十年も経った今でも彼は生きている。どうして余命が伸びたのか全然説明されない。不自由な身体ながら彼は妻との間に子供をもうけるが、どのようにしてそれが“可能”であったのか、まるで語られない。このあたりを“下世話なことだから”と切って捨てるのは得策ではなく、ハンディキャップを乗り越える夫婦愛を浮き彫りにする上で不可欠であるはずだが、どうやらジェーンはそう思わなかったらしい。

 常人とは違うスティーヴンとの生活に疲れた彼女は教会に救いを求め、そこの関係者の男性と良い仲になるのだが、このくだりは中途半端で説得力に欠ける。末っ子の父親は誰なのかというスキャンダルじみた噂に対し、彼女がキャンプ場で相手の男がいるテントに入ろうとするシーンで全てを暗示させようというやり方に至っては、作劇を放り出したかのような印象を受ける。

 さらに、プロの介護者との力量の差を見せつけられることを後の離縁に関係付けようとする筋書きは、あまりにも安易だ。本当はかなりの葛藤があったはずだが、上っ面の描写でお茶を濁している。ちなみにスティーヴンは二度目の妻とも別れているが、その顛末を予想させるものは皆無である。

 ジェームズ・マーシュの演出は及び腰で粘りに欠ける。主演のエディ・レッドメインは熱演だが、こういう役はある程度の力量を持った俳優ならば誰でもやれるのではないだろうか。ジェーン役のフェリシティ・ジョーンズが魅力的なのは若い頃のパートだけであった。映像や音楽は悪くないが目立った求心力は感じないし、何より同じ天才の話ならば「イミテーション・ゲーム」には及ばない。残念な出来である。
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「ホワイトアウト」

2015-04-17 06:36:08 | 映画の感想(は行)
 2000年東宝作品。国産の“スペクタクル的なアクション巨編(?)”としては、まとまった出来だと思う。真保裕一による原作から冗長だと思われる箇所をカットすると共に、新たなモチーフを映画向けに設定する等、工夫をしている点は認めたい。

 新潟県にある奥遠和ダムは、日本有数の貯水量を誇る巨大ダムだ。猛吹雪に見舞われた12月のある日、ダムの運転員である富樫は遭難者救助の為に悪天候の中を出発するが、同僚の吉岡を亡くしてしまう。それから2か月後、吉岡の婚約者であった千晶が奥遠和を訪れた。ところがその時、ダムがテロリストに占拠されてしまう。



 犯人グループは、職員達と千晶を人質に取って大金を政府に要求。言うことを聞かなければ、ダムを爆発して下流域に大洪水を発生させると通告してくる。悪天候で警察も近づけない中、偶然ダムから出られた富樫は外部との連絡を取った後、人質を救うために奥遠和ダムへ戻り、果敢に戦いを挑む。

 武装したテロリストに対する富樫のアドバンテージは、雪山に関する知識と経験のみ。それを最大限に生かした筋書きはけっこう見せる。犯人グループの中に富樫に与する者がいたという設定は御都合主義的に思えるが、極限状況の中にあってはあまり気にならない。中盤以降は多少展開がバタバタする点もあるものの、敵の首魁が車椅子に乗っているという設定(これは原作にはない)は、行動を制約するという点で出色だ。

 監督はこれが劇場用映画デビュー作となった若松節朗だが、これ以降の彼の作品よりもマシな仕上がりだ。寒々とした風景が広がる中においては、主演の織田裕二の暑苦しさ(笑)も幾分中和されて程良い塩梅になっているのはポイントが高い。テロリストのリーダー役の佐藤浩市も、エキセントリックな悪玉を楽しそうに演じている。

 欲を言えばシネスコ画面で撮ってほしかったが、TVディレクター出身の若松監督にとっては荷が重かったのかもしれない。考えてみれば、このような大がかりなクライム・アクションは邦画ではあまり見かけなくなってしまった。テレビの刑事ドラマのスピンアウトでお茶を濁すよりも、映画独自の題材の方が訴求力が高い。もっと思い切った企画を提示してほしいものである。
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