元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「至福のとき」

2013-04-28 06:43:15 | 映画の感想(さ行)
 (原題:幸福時光)2002年作品。大連を舞台に、冴えない中年男と目の不自由な少女との交流を描く。ノーベル賞作家・莫言の短編小説の映画化で、メガホンを取ったのは張藝謀。

 正直、あまり印象に残らない映画である。要するに健気な盲目の少女を取り巻く他愛のない人情話でしかなく、張藝謀の作品としては「あの子を探して」はもとより「初恋のきた道」に比べても大きく後退。辻褄の合っていない展開も目立ち、こんな気合の入らないストーリーで感動しろと言われてもそうはいかない。



 でも逆に考えれば、単なるお涙頂戴映画を作らずにはいられないほど現代の中国社会が殺伐としていることの証だろう。目の見えないヒロインを家族は邪険に扱うばかりで、当局側も全く面倒を見てくれないようだ。リストラされた独身中年男とその仲間だけが“個人的な善意によって”彼女の相手をする。その程度の大時代的なメロドラマが現時点で立派に一本の映画として成立してしまうこと自体が悲しい。

 しかし状況がどうあれ、張監督にはこういう後ろ向きのシャシンは撮ってほしくない。もっと問題意識を持った意欲的なネタに挑戦してほしかった。なお、主演女優ドン・ジエの存在感はかなりのもので、彼女のおかげで何とか最後まで観ていられたようなものだ。
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「ブラッド・イン ブラッド・アウト」

2013-04-27 06:22:27 | 映画の感想(は行)
 (原題:Blood in Blood out)93年作品。メキシカン・マフィアの生態を、ロスアンジェルス東部地区で生まれ育った3人の少年たちの成長を通して描く。

 72年のロスアンジェルス。メキシコ系アメリカ人で、血の気が多いパコ(ベンジャミン・ブラット)、絵の才能があるクルズ(ジェス・ボレッゴ)、白人とのハーフであるミクロ(ダミアン・チャパ)。ミクロはクルズたちと敵対する不良グループのボスを殺して投獄される。クルズは麻薬中毒になって自堕落な生活を送るようになり、パコは警官となってカタギの道を歩む。

 ミクロは獄中で早くも悪の才能を発揮。メキシコ系ギャング団を牛耳った彼は、黒人たちと手を組んで刑務所内の白人グループを皆殺し。そのあと黒人グループも潰す。さらには刑務所の外にも勢力を延ばし、一大組織を作る。



 メキシカン・マフィアを描いた映画としては、以前紹介したエドワード・ジェイムズ・オルモス監督の「アメリカン・ミー」が強烈に印象に残っているが、この映画は実によく似ている。主人公3人の友情がらみで描いていることを除いては、ほとんど同じ設定といってよい。

 しかし、同じラテン系のオルモス監督の切迫感に比べ、メガホンを取っているのが「愛と青春の旅立ち」(82年)や「ホワイトナイツ/白夜」(85年)などのテイラー・ハックフォード監督、しかもいくらメキシカンに関心を持っているとしても、しょせんはハリウッドにどっぷり浸かった白人、出来映えはかなりの差がある。

 3時間という上映時間の中には、程度を知らない暴力描写が満載である。しかし、何となく描写が平板なのだ。暴力場面を並べても単なる“見せ物”にしか感じない。娯楽映画の“添え物”以上の効果が上がらない。これではいけないとアセったのか、ミクロと刑務所の外の2人の生き方を対比させ、アメリカ社会の問題点をえぐり出す作戦に切り替えようとするが、ラテン系俳優の動かし方がキマらないこともあって、焦点が定まらないまま映画は終わりに近づいていく。

 そしてこの映画は明確な結末を着けないまま、尻切れトンボのままENDマークを迎える。クルズのバタバタした一人芝居で何とかラストに持って行こうとする様子は、はっきり言ってみっともない。結果として大味で凡庸な作品でしかなく、監督の勝手な思い入れだけが空回りしている。「ラ・バンバ」のように、ハックフォードは製作に専念し、演出を本場の精鋭に任せた方がよかった。
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「ハッシュパピー バスタブ島の少女」

2013-04-26 06:35:19 | 映画の感想(は行)

 (原題:BEASTS OF THE SOUTHERN WILD )つまらない。アカデミー作品賞にノミネートされたとも思えぬ低調な映画である。もちろん、オスカー候補作がすべて良い映画であるとは限らないが、たとえ面白くない作品であっても何か新機軸を打ち出してやろうという作り手の意図ぐらいは感じることが多い。しかし、本作は徹頭徹尾ダメである。観る価値は無い。

 アメリカ南部の湿地帯に浮かぶバスタブ島に住む6歳の少女ハッシュパピーは、父ウィンクや住民たちと楽しい日々を送っていた。ところが大嵐が島を襲い、すべてが壊滅する。さらには父が重病を患っていることが分かり、強制的に入院させられることに。シビアな境遇に直面しながらも、ハッシュパピーは力強く生きていこうとするのだが・・・・。

 とにかく構図が単純すぎる。文明VS自然とか都市生活VS原始生活コミューンとかいうモチーフを平気で持ち出すとは、この作者(監督は若手のベン・ザイトリン)の頭の中は50年は古いと言わざるを得ない。しかも、自然の荒々しさをヒロインが夢想する巨大な野獣に象徴させるあたりは脳天気の極み。イマジネーションの欠片もない。

 ハッキリ言ってバスタブ島の連中は落ちこぼれの集まりでしかなく、周囲の迷惑も顧みず駅や公園に居座る青テントの住民と何ら変わらないのだ。そういう者達が(気の利いたセリフの一つでも吐けるのならまだしも)自己の“権利”とやらに拘泥しているような様子をいくら見せられても、映画的興趣なんか引き出せるわけがない。

 作劇面でも落第で、演出テンポが冗長であるばかりではなく、面白そうなエピソードを挿入させようという気もないらしい。特に終盤の展開なんかグダグダで、上映時間がわずか1時間半であるにもかかわらず、とてつもなく長く感じられた。

 主人公は子供であるが、映像自体は年少者には見せたくないほど汚らしい。全編これ魚の腐臭と工場廃液の鼻にツンとくる空気が充満しているような画面で、その中をボロを纏った登場人物達がノロノロと動き回るという、絵的には最も敬遠したい造型のオンパレードだ。

 ハッシュパピーに扮したクヮヴェンジャネ・ウォレスは史上最年少でアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたが、大した演技もしていない。この程度の子役はアメリカには山のようにいるはずだ。父親役ドワイト・ヘンリーをはじめとする他のキャストにもロクな奴はいない。唯一興味を惹かれたのが作者ザイトリンによる音楽で、メロディ・ラインのきめ細やかさが光る。今後は演出には手を出さず、映画音楽に専念してほしいものだ。
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「アポロ13」

2013-04-25 06:31:06 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Apollo 13 )95年作品。予想通りの出来だった。1970年4月、三度目の月着陸を目指したアポロ13号の奇跡の帰還を描くノンフィクション・ドラマ。ここでも監督ロン・ハワードは水も漏らさぬ演出を見せる。細部に凝りまくったセット、正確な時代考証、堂々としたジェームズ・ホーナーの音楽、実物としか思えないSFXなどを武器に、絶対の危機に陥った飛行士たちと彼らをフォローする地上クルーの活躍をスピード感たっぷりに映し出す。

 3人の飛行士のキャラクターはちゃんと描き分けられ、突然のトラブルで飛行チームから外されるが結局は彼らを助けようとする飛行士の心意気も示され、残された家族の情愛も盛り込まれる。また、飛行士たちを助ける手段が徹底的に理詰めに展開されており、曖昧なところはない。

 “月着陸も3回目になると飽きた”と最初はシカトを決め込むが事故が起きてから騒ぎだすマスコミの無責任さを攻撃し、そして何より輝かしい“成功”より惨めな“失敗”を題材として取り上げ、それを克服するアメリカの強さを観客にアピールしている。実に上手い、お手本のような作劇だ。トム・ハンクスはじめとするキャストも適材適所で言うことなし。

 しかし、やっぱりというか、観ていてあまり面白くないのである。きっちりと整備された定石の決まりごとを巧みに追っても感心はするが夢中にはならない。プラスアルファの観客の琴線に触れるゾクゾクするような企みがなければ観た後すぐに忘れてしまうだろう。この映画の場合、実話をもとにしているからあまりストーリーはいじれないが、方法はある。たとえば宇宙の広大さと恐ろしさだ。

 “宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえない”というのは「エイリアン」のキャッチフレーズだったが、このパターンで、たった3人で虚無の空間に投げ出された極限の恐怖を畳み掛けるように描いてほしかった。暗黒の宇宙の恐ろしさと何ともいえない美しさ、それをトリップしてしまうような映像で攻めてこられたら、これはなかなかの映画になっただろう。

 または飛行士とNASA当局の微妙な確執をギリギリにまで描き出し、一種の密室心理サスペンスに仕上げても面白い。斯様にこのネタを取り上げる際にはいろいろと工夫する点はあったはずだが・・・・。

 やっぱり当時「フォレスト・ガンプ」が大ヒットしていた状況では、“アメリカ万歳、わが家が一番”の保守的スタンスを取る方が作りやすいしヒットも見込めたということだろうか。国威掲揚映画のような雰囲気もあり、愉快になれなかった。
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「奇人たちの晩餐会」

2013-04-24 06:29:33 | 映画の感想(か行)
 (原題:Le Diner de cons)98年作品。吉本新喜劇を思いっきりハイ・ブロウに仕上げるとこういう感じになるんだろうか(笑)。監督も担当したフランシス・ヴェベールによる同名の舞台劇を元ネタにした場面変化の少ない作劇だが、テンポの良い演出とキャストの個人芸、そして会話の面白さにより、なかなか気の利いたフレンチ・コメディに仕上がっている。

 パリに住む編集者のピエールは、毎週友人たちと夕食会を開くのを楽しみにしているが、その集まりの目的は単なるディナーではない。参加メンバーが毎回“こいつ、アホだろ”というような奴をゲストとして連れてきて、そのアホぶりを皆で笑おうという、すこぶる嫌味なものである。



 今回ピエールが選んだゲストは、公務員のフランソワ・ピニョンなる人物。彼はマッチ棒で模型を作るのが趣味で、何かにつけてその“実績”を延々と自慢する変人である。しかし、ピエールはディナーの直前にギックリ腰を患ってしまい、おまけに嫁さんにも逃げられてしまう。仕方なくディナーをキャンセルしようとするが、その前に当のピニョンがピエール宅に現れる。ピニョンはピエールを助けようと奮闘するが、事態は悪化するばかり。

 とにかく、出てくるキャラが濃い。しかし、不思議と胃にもたれないのは傑出したネタの作り込みにある。各キャストに決してオーバーアクトをさせない節度を保ち、見た目の面白さよりも滑稽なシチュエーションの方で笑いを取ろうという、作者の冷静さが印象に残る。上映時間が1時間20分だというのも嬉しい。

 なお、本作は2010年に「奇人たちの晩餐会 USA」という題名でハリウッドリメイクされたが、評判がよろしくないのか、日本では劇場公開はなくビデオスルーであった(私は未見)。まあ、ハリウッドで再映画化された他国のネタが面白かったためしがないので、それも同様だったのだろう。
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「舟を編む」

2013-04-23 06:36:39 | 映画の感想(は行)

 新時代の“サラリーマン映画”であり、評価できる。特に昨今の就職難で、ようやく正社員として採用されたはいいが、居場所が見つからずに悩んでいる若い社会人に奨めたい。

 90年代、大手出版社に勤める若手社員の馬締光也は学生時代に言語学を専攻していたこともあり卓越した言葉のセンスを持っているが、所属している営業部ではそれを活かすチャンスも無く、冷や飯を食わされている。そんな中、辞書編集部のベテラン編集者が退職するのをきっかけに配置換えが行われ、彼は辞書の作成に携わることになる。ある日馬締は、大家の孫娘の香具矢に出会い一目惚れする。新しい仕事に新しい人間関係を得て、それまでの静かだが単調だった彼の人生は、確実に変化を遂げていく。

 冒頭で“新時代の映画”と述べたのは、ひとえに主人公の造型にある。住処こそ昭和テイスト満載の古びた下宿屋だが、馬締は典型的な今風の草食系男子だ。強い欲望には無縁で、淡々と毎日をマイペースに送ることにしか興味は無い。それが少しばかり“外の世界”に触れたおかげで彼の姿勢は能動的になっていくのだが、それが劇的ではないところが興味深い。

 香具矢と仲良くなって所帯を持っても、彼は下宿屋を出て行かない。外部に目を向けようとも、自分の世界はしっかりと持っている。それがまた不自然ではないように描かれているのは映画の手柄だが、実際にも自己の価値観をキープすることと、周囲に溶け込んでいくらかでも外向的に振る舞うこととは、決してトレードオフの関係にはならない。早い話が、自分だけのオタクな部分を保持していても、世界は広げられるのだ。こういう枠組みがあることを知れば、自己の嗜好と周囲の状況とのギャップに戸惑う若い衆も心が軽くなるのではないだろうか。

 辞書作りのプロセスは実に面白い。果たしてこれが実際の辞書編集の業務工程を正確にトレースしているのかどうかは分からないが、言葉の一つ一つを大事にしていく編集者達の矜持には感服した。

 監督の石井裕也は今回初めて(自作ではない)既成の原作と脚本に準拠した仕事をこなしているが、前作と前々作にあった独りよがりの部分がなくなり、スムーズな作劇に専念しているのが良い。若い作家にとって作り方のスタンスを変えてみるのも大事な体験になるし、そのこともまた本作に描かれている“自身のポリシーと状況との折り合い”を象徴していると言える。

 主演の松田龍平は、絵に描いたようなマジメ青年をクサくなる一歩手前で踏みとどまり上手く表現している。ヒロイン役の宮崎あおいも魅力的で、作品全体に柔らかい雰囲気を付与させている。オダギリジョーや池脇千鶴、黒木華といった若手・中堅のキャストや八千草薫、小林薫、加藤剛などの重量級、さらには渡辺美佐子や伊佐山ひろ子といったクセ者まで配してドラマに厚みを持たせることには抜かりは無い。

 そして特筆すべきは藤澤順一のカメラで、落ち着いた色調と奥行きのある画面造型が実現しており、その意味でも見逃せない映画である。
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AVANTGARDE ACOUSTICの新型スピーカーを試聴した。

2013-04-22 06:48:47 | プア・オーディオへの招待
 先日、ドイツのハイエンド・スピーカーメーカーAVANTGARDE ACOUSTIC(アヴァンギャルド・アコースティック)社の新製品uno finoを聴く機会があった。このモデルは同社の製品の中では最廉価だが、それでもペアで200万円はする。当然のことながら私は買えないが(笑)、サイズは比較的小振りで(とは言っても重量は55kgである ^^;)、日本の平均的家屋にも導入できるような売り方を考えているらしい(爆)。



 エントリークラスとはいえ、明るく屈託の無い音色、余裕のある空間表現など、まさしくAVANTGARDE ACOUSTICの音が出てくる。ホーン型のユニットを搭載しているところなどはジャズ向けとの評価を得ることが多いらしいが、実際に聴いた感じでは幅広いジャンルに対応できるようだ。同じくホーン型をフィーチャーした米国JBL社の製品がジャズに特化したような音作りをしているのとは対照的である。

 なお、ドライヴしていたアンプ類はESOTERICのものである。正直言って個人的にこのブランドはあまり評価していないが、他社製品と比べて着色の少ない音であるのは確かなので、今回このスピーカーの持ち味はある程度見極められたと言って良い。



 高額なので一般ピープルには縁の無い商品なのだが、このスピーカーが消費者にアピールできる点があるとすれば、ホーンユニットのカラーを選べる点ではないだろうか。何と10種類の色が用意されているのだ。

 ピュア・オーディオ製品が一般消費者から縁遠い存在になって久しいが、モデル作りにおいてユーザーを振り向かせるような“遊び心”が欠落していることも背景にあるのではないだろうか。AVANTGARDE ACOUSTICの製品は少なくとも万人にアピールできる外観は持ち合わせている。こういうコンセプトが手の届くクラスのモデルにも反映されていれば、状況は少しは変わってくるのかもしれない。
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「天使の分け前」

2013-04-21 06:39:20 | 映画の感想(た行)

 (原題:THE ANGELS' SHARE )ケン・ローチ監督作としては「エリックを探して」に続く甘口のヒューマン・コメディだが、今回はいささか甘すぎた。こういう筋書きにしたいのならば、もっと主人公に同情を寄せられるようなシチュエーションをあらかじめ作っておくべきだ。

 スコットランドのグラスゴーに住む若者ロビーは育ちが悪く、今や暴力沙汰の常習犯だ。チンピラ共とのケンカ騒ぎで何度目かの留置場送りになった彼だが、恋人レオニーが出産間近ということで懲役刑を免れ、代わりに社会奉仕活動を命じられる。彼をはじめとする前科者の若者の面倒を見る社会指導員のハリーは無頼のウイスキー党で、ロビー達にもウイスキーの奥深さを教えるため、醸造所の見学コースなどをセッティングする。ところがロビーが思わぬテイスティングの才能を発揮。その道の世界的コレクターと知り合うまでになる。

 ある時、オークションに時価100万ポンドとも言われる樽詰めウイスキーが出品されることを知ったロビー達は、それを横取りすべく計画を練り始める。

 後半は若造どもの泥棒珍道中みたいな筋書きになり、タッチも明るくなってくるのだが、如何せんロビーにはそんな明朗ストーリーの主役になれるような“資格”がない。彼はこの若さ似合わぬ膨大な犯罪歴を持っているという設定で、相手に重大な後遺症を負わせた前科もある。ハッキリ言って、こういう奴は安易に“社会復帰”してもらいたくない。一生シャバの空気を吸わないで欲しいと、切に思う。

 それがまあ、恋人との間に子供が出来るというだけで塀の外での生活を享受できるなんてのは、何とも安直だ(もちろん、英国の法体系がそうなっているというのならば仕方が無いが、心情的には納得しがたい)。考えてみると、ロビーのやっていることは窃盗罪であり、それまでの傷害罪から犯行の内容が変わっただけだ。全然“真人間”になっていないのである。いくらこれをコメディ仕立てでやってもらっても、ほとんど笑えない。

 結局、この映画の一番の手柄は、ロビー役のポール・ブラニガンを監督が“拾って”やったことだろう。彼の生い立ちはロビーと似たようなものらしく、やはり無職の身に幼い息子を抱えて途方に暮れていたところを採用されたという。演技経験の無い若造が一本だけ映画に出たところで事態が劇的に好転するとは思えないが、ギリギリのところでフォローしてやったという“実績”は残る。こうしたローチ監督の実践主義は評価されるべきだとは思う。
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名護屋城跡に行ってきた。

2013-04-15 08:36:06 | その他
 先日、佐賀県唐津市にある名護屋跡に行ってきた。この城は桃山時代に豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に拠点として建てられたもので、国の特別史跡に指定されている。福岡市から車で行ける距離にあるのだが、私は今まで行く機会がなく、足を運ぶのは今回が初めてである。



 そんなにメジャーな(?)城ではないので小振りの規模を想像していたが、実際目にするとあまりの広さにびっくりする。当時は全国の大名がこの近辺に陣を張っており、城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を数えたという。それも頷けるほどの大きさだ。

 ただし、天守閣その他の建物は一切残っていない。文禄・慶長の役の後は人為的に解体されたという。一部の設備は近くにある唐津城に移設され、また大手門は伊達政宗によって仙台城に移築されたという話もある。



 当然のことながら海沿いのロケーションにあり、玄界灘が一望できる。当日は晴れていたので、壱岐や対馬まで見渡せた。ついでに言えば、西側に目をやると玄海原発も見えた。改めて、ここが事故を起こすとタダでは済まないことが予想出来る。

 名護屋城は黒澤明監督の「乱」のロケ地になったこともある。近くには呼子大橋や“風の見える丘公園”といった観光ポイントがあり、行って損の無い地域だと言うことが出来る。
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「ザ・マスター」

2013-04-14 06:49:53 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Master)人間関係の玄妙さを巧みに描いた佳編である。第二次大戦で太平洋戦線に従軍していたフレディは、戦争のストレスおよび現実逃避のために飲み続けていた酒によりメンタル面で重大な障害を負ってしまう。戦争が終わっても職を転々とし、根無し草のような生活を送る彼が迷い込んだのは、結婚パーティーが行われている客船だった。

 船の持ち主はランカスター・ドッドなる人物で、彼は“ザ・コーズ”という新興宗教を主宰している。ドッドのカリスマ的存在感に惹かれたフレディは、彼と行動を共にするようになる。

 この教団のモデルになっているのはSF作家L・ロン・ハバードが1950年代に設立した“サイエントロジー”だが、本作は新興宗教の教義のウサン臭さとか、その怪しげな体制を糾弾するような類いのシャシンではない。焦点になっているのは主役二人のキャラクターである。

 ドッドには献身的で貞淑に見える若い妻ペギーがいるが、教団の実権を握っているのは彼女の方なのだ。ペギーは人を惹き付ける力を持つドッドを裏から巧みに操作しており、ドッドの方もそれを承知していながら元々確固とした信念に欠けた身であるため、唯々諾々と妻に従うしかない。そんな状態を打破するがごとく現れたのがフレディだ。

 彼は教団のテーゼなんかには興味は無い。ただ、屈折した心情の持ち主であるドッドと、奇矯な言動を遠慮会釈なく振りまくフレディは、いわゆる“ウマが合う”状態になったのだ。互いに欠けたピースを補い合う・・・・と書けば聞こえは良いが、要するに歪な形での“マッチング良好”であるため、そこには互いに向上心を高め合うだの何だのといったポジティヴな側面は存在しない。組織の主宰者が内面が破綻したような男と勝手気ままに徒党を組んでいるため、教団の秩序が揺らいで周囲は困惑するばかり。

 この二人の関係性を、映画は明確に突き詰めたりはしない。最後まで傍観者的に眺めるだけである。しかし、ならば描き方が曖昧な作品なのかというと、そうではない。奇態な関わり合いをレアな状態で差し出すことにより、人間関係の“他からは推しはかれない不思議さ”を描出しているのだ。いわばその“不可思議さ”こそが真の普遍性だと言えるだろう。

 前作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」に引き続き、ポール・トーマス・アンダーソンの演出は冴えている。ヘタな監督がやると要領を得ない失敗作になりそうな題材を、テンポの良いリズムと丹念なシークエンスの積み上げにより、観客を飽きさせない娯楽作に仕上げている。フレディ役のホアキン・フェニックス、ドッドに扮するフィリップ・シーモア・ホフマン、そしてペギーを演じるエイミー・アダムス、いずれも素晴らしいパフォーマンスである。

 時代色を良く出している美術・撮影も見事だ。さらにジョニー・グリーンウッドの音楽は彼のベストスコアに指を折りたいような出来で、サントラ盤もお奨めだ。
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