元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「天河伝説殺人事件」

2006-07-31 06:52:15 | 映画の感想(た行)
 90年製作の“角川映画15周年記念作品”である。原作は内田康夫の推理小説だが、はっきり言ってこの映画はミステリー的な興味においてはほとんど期待しない方がよい。

 昔の“金田一耕助シリーズ”を観ている人だったら、はじまって20分もたたないうちに犯人の見当がついてしまう。観る者をアッと言わせるような思い切ったトリックもない。第一、事件の決め手となるはずの“五十鈴”と呼ばれる鈴(ポスターや映画のタイトルで強調されていた)があまり大きな謎を秘めておらず、単に事件の背景が奈良県吉野郡天河村であることを示す小道具になっているに過ぎないのが不満だ。ここはやはりあの鈴の中には何か入っていてそれが殺人事件の凶器なんかに使用されていた・・・・・とかいった展開だったら少しはワクワクしたかもしれない(しなかったかもしれないけど)。

 で、こういう風に書くと全然つまらない映画だったように思われるが、実は、そうでもないのである。それは久々に市川崑監督の名人芸ともいえる映像が堪能できるからである。

 冒頭の新宿副都心の喧噪と、天河神社の静寂さの効果的なコントラストに始まって、能の家元である“水上家”の屋敷の金屏風の存在感、ひなびた天河村の旅館“天河館”のたたずまい、などなど、構図の確かさが光る。そして逆光を生かした得意のソフト・フォーカスの画面。日本家屋の雰囲気をよく出すこの手法が今回は能舞台の楽屋裏のような一見殺風景な場所にも使われており、そこだけ浮き上がらず、全篇にわたって映像の統一性が成されている。

 能のゆっくりとした動きと燃え崩れる焚火の薪の対比、重要な謎解きの場面では細かいカットバックを多用して画面にリズムを持たせるなど、さすがはベテラン監督、ダテに映画で長年メシを食ってはいないと思わせる。

 それから主人公の浅見光彦に扮する榎木孝明が意外とサマになっている。岸恵子はじめとする他のキャスティングも、いくぶんクサイところもあるが、こういう題材の作品では納得できよう。

 ただし当時の角川春樹事務所がシリーズ化を検討しながら結局立ち消えになったのは、原作の評価が決定していた横溝正史の“金田一耕助シリーズ”と比べて、ミステリーとしての出来に問題があったためだと思う。さて、市川監督のリニューアル版「犬神家の一族」はどういう出来になることやら・・・・。
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「家の鍵」

2006-07-30 09:19:51 | 映画の感想(あ行)

 (原題:LE CHIAVI DI CASA)15年前に死んだ恋人との間にできた息子(障害児)を引き取ることになった男のロードムービー。

 厳しい映画だ。逃げるように恋人の元から去った彼は、今になって自分の境遇を直視せざるを得ないハメになる。リハビリのためイタリアからベルリンの病院に同行するだけでも言葉が通じずに主人公はヘトヘトになる。しかも、こんな苦労が今後ともずっと続き、その挙げ句にやっぱり息子は独り立ち出来なかったとしたら・・・・という想いが脳裏をよぎり、耐えられない気持ちになる。

 病院で出会った重度障害を持つ娘を持つ母親は絞り出すように“いっそこの子が死んでくれたら・・・・”という言葉を口にする。主人公の息子はこの娘より障害の程度は軽い。頭の中はマトモだし、頑張れば何とか一人でも歩けるようになろう。だが、それでも健常者とはほど遠いのだ。

 ベテランのジャンニ・アメリオ監督はリアリズムで押しまくるが、決して登場人物達を見捨てたり少しでも皮肉っぽく描いたりはしない。何があろうと、それぞれの“重荷”を背負って淡々と生きてゆくしかない、そんな達観をあくまでポジティヴな視点で綴っているところに好感が持てる。

 主演のキム・ロッシ・スチュアートは端正な顔に苦渋を滲ませて熱演しているが、それより重い障害を持つ娘の母親に扮するシャーロット・ランプリングが圧倒的な貫禄。彼女を見るだけで劇場に足を運ぶ価値がある。
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烏賀陽弘道「Jポップとは何か 巨大化する音楽産業」

2006-07-29 07:47:21 | 読書感想文
 アメリカ帰りのジャーナリスト(元朝日新聞社記者)による、日本のポップスについて社会的背景やテクノロジー面などからあれこれ論じた本。「J-POP」なる言葉が生まれたのは東京のラジオ局「J-WAVE」であったこと、CDをはじめとするデジタルメディアが「J-POP」の台頭に貢献したこと、音楽産業の成長とは裏腹に無味乾燥になってゆくソフトの製作現場など、今まで個人的に断片的知識しか持ち合わせていなかった事物を丁寧に解説しているところが有り難かった。日本と欧米の音楽ソフトの消費動向を紹介するあたりも興味深い。

 しかし、読み終わって何か物足りないのだ。いくら新書版とはいえ、肝心なことが抜けているように思う。

 作者は「リスナーの“日本のポップスが外国のそれと肩を並べた”というファンタジーがJ-POPの隆盛に繋がった」といった意味のことを言う。その前振りとして“渋谷系”の全国展開やら、自己実現を標榜したココロの時代なるものを取り上げている。しかし、そういう筋書きは安直すぎないか。

 いったいどれだけの日本のリスナーが「J-POPは欧米のポップスに匹敵する」などという“幻想”を抱いたのか。そもそも「欧米の音楽に比べてどうだ」と思うほど、彼らは外国産ポップスを聴き込んでいたのか? そうではあるまい。だいたい、欧米のポピュラー音楽をちゃんと聴いていれば、J-POPなんてワンパターンでパクリだらけで録音劣悪なニセモノ音楽だということがすぐに分かる。

 ココロの時代がどうのこうのと書き連ねるより、紹介されている事実の中で見過ごせないものがある。それはJ-POPはCMやドラマとのタイアップにより興隆していったということ。現在はそれがアニメの主題歌やケータイの着メロなどに変わっただけ。すべてが“お仕着せ”なのだ。そして欧米と比較してラジオ局が先進国として極端に少ないこと。特に民放ラジオ局は愚にも付かないトークと同じような曲しか流さず、それに対して聴取者が大きく異を唱えたという話も聞かない。

 私はこう結論付ける。日本人ってのは、実は音楽が好きではないのだ。

 前に“国産のスピーカーなんて購入する価値はない”みたいなことを書いたが、能動的に音楽を聴いているはずのオーディオファンに対しても、低歪率で整ってはいるものの全く面白味のない製品しか提示できないメーカーが堂々と商売していられる国の住民に、音楽好きが多いとは思えない。

 もしもCMやドラマのタイアップがなければ、誰もCDを買わないだろう。“自分で音楽を探す楽しみ”とは縁遠く、ひたすらテレビ等からの一方的な情報に入り浸り。CDを買うのも“自分が好きだから”ではなく“みんな聴いているから”という単なる“横並び感覚”によるところが大きいように思える。

 ここで“オマエは何言ってんだ。○○や××みたいに、ストリートから地道に活動してファンを獲得し結果メジャーになったミュージシャンもいるじゃないか!”という突っ込みが入ることは承知の上。まあ、そんなケースがあるのは認めるが、ヒットチャートを賑わせている多くの楽曲が変わり映えしない消耗品としてのクォリティしか持ち合わせていない事実は揺るぎようがない。

 ひょっとして“ヒット曲の賞味期間が短くなった”とこぼす本書の作者も、実は同じようなことを考えているのかもしれない。だが、元大手新聞社の社員で、そのあたりのプライドも持っている彼には、そこまで極言できないだけの話かも。

 また、J-POPの隆盛は「人々の心に響くうたをつくろう」という理想の芽が育つのを阻害していると、著者は憂えていると思われるが、本来ポピュラー音楽が馴染んでいない我が国にとってJ-POPの方法論に背を向けて「人々の心に響くうたをつくること」は至難の業であるのは確実だ。何しろJ-POP以前のミリオンセラーはほんの僅かしか存在しないのだから(暗然)。
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「ナイロビの蜂」

2006-07-28 06:47:26 | 映画の感想(な行)

 (原題:The Constant Gardener )ラヴ・ストーリーとの触れ込みでPRされていたが、実際観たら「ロード・オブ・ウォー」や「ホテル・ルワンダ」などと同系統の、実に厳しい作品だった。

 「シティ・オブ・ゴッド」のフェルナンド・メイレレス監督がジョン・ル・カレの小説を映画化。アフリカで暮らす庭いじりが唯一の趣味の英国外務省一等書記官が、妻の死によって巨大な陰謀を知るという設定のサスペンス劇は、題材に大手薬品会社の思惑と、それに付きまとう巨大な利権を取り上げたことにより、切迫度は大幅アップした。

 まさにこれは我々が見たくない“ひとつの現実”を提示している。いいように搾取されるアフリカの住民と、それを“諦観するしかない”と頭では分かっていながら唾棄したい感情を抑えられない“どうしようもない図式”とが、観る者に重くのしかかってゆく。

 最初は“体制側にいる主人公と、リベラル趣味の妻”という出来過ぎの設定が、やがて理想と互いの信念のために殉じてゆく夫婦愛へと転化し、それが説得力を持つのもテーマを確実に捉えた作者の姿勢ゆえであろう。

 手持ちカメラが効果的な本物のスラムでのシーンは現地の匂いまで伝えるような臨場感。対して痺れるほどに美しいアフリカの自然の風景とが素晴らしいコントラストを生み出す。撮影監督セザール・シャローンの仕事ぶりは見上げたものだ。

 ソフトな人当たりの中に強い意志を秘めた主人公に扮するレイフ・ファインズも良いが、アカデミー賞助演女優賞を受賞した妻役のレイチェル・ワイズが圧巻。巧みに時制を組み替えた展開も玄妙で、これは本年度の収穫の一本となりそうだ。
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「北京好日」

2006-07-27 08:44:20 | 映画の感想(は行)
 (原題:For Fun 找楽)92年作品。北京オペラ学院の守衛であった韓老人(黄宗洛)は、退職後の寂しさを紛らわせるために、公園でたむろする老人たちを組織し、京劇のサークルを結成する。彼らは時にはいさかいを起こしながらも練習を続けるが、コンクールに落ちたことをきっかけにサークルはバラバラになり、韓老人は孤立に追い込まれていく・・・・。

 陳凱歌や張藝謀ら“中国第五世代”の作家よりさらに若い、女流の寧瀛(ニン・インと読む)監督作品。興味深いのは、彼女より年上の作家たちが持つ文化大革命などに対する欝屈した思い、つまり歴史の流れに巻き込まれた人々を描くことによって(歴史的・社会的背景と個人を対比させるといったような)、登場人物の内面を浮き彫りにするアプローチを取っていないことだ。作者に見えているものは目の前にある事象だけ。そしてやがては消えていく運命にある(老人たちも、北京オペラも)。それを哀惜の念をこめて描くのではなくて、淡々としたリアリズムで、しかも的確な人間描写で普遍的なキャラクターを体現化している。なかなか強固な作りを持つ映画だ。

 寒々とした冬の北京で、聴く人もいないオペラの練習をする老人たち。うら寂しい、という感じは微塵もなく、ヴァイタリティに溢れ、観客に安易な同情を引き起こさせない。この韓老人のキャラクターはよくできている。自分が寂しいのに、他の老人をコケにしたり他人と喧嘩したり、やったこともない京劇のテクニックについて得々と講釈を垂れる。すべては“皆のため”という名目で、実は“自分のため”にしかならないことを自らもごまかしてサークルの運営に奔走する。これってよくあるタイプだ。

 ラスト、去っていく韓老人は孤独感たっぷりだが、またしばらくすると同じようなことを始めて一騒ぎ起こすことは目に見えている。こういう懲りない人間性を、反感ではなく一種の共感さえ覚えるように描いているあたり、作者の人間観察の確かさと、ポジティヴな姿勢がうかがわれて面白い。他の老人たちも個性豊かだし、ストイックで透明感あふれる北京の下町の描写も捨て難い。1993年の東京国際映画祭のヤングシネマ部門で金賞を取っている。
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「デイジー」

2006-07-25 06:59:24 | 映画の感想(た行)

 前にも書いたが、いわゆる“韓流映画”の多くが単なる“お涙頂戴の田舎芝居”であることを見透かされてしまった現在、わざわざカネを払って観る価値のある韓国作品は極少になってしまったわけだが、当作品は「インファナル・アフェア」で気合いの入ったところを見せた香港のアンドリュー・ラウを監督として起用している点が興味を引く。

 なるほど、キレ味抜群の銃撃戦シーンや、大胆なカメラワークなど、普段の“韓流映画”には見られない(良い意味での)ケレンが散りばめられ、外見的にはアクション映画ファンの鑑賞に耐えうる水準には達している。しかし、脚本は相変わらずの泥臭い韓国製昼メロだ。

 オランダ在住のヒロインが“偶然に”二人の韓国人、しかも刑事と暗殺者という正反対のプロフィールを持つ野郎どもと同時期に知り合うという設定からして苦笑させられるが、それぞれが彼女と過去に関わり合いを持っていたというくだりは脱力もの。しかも、ヒロインは一度ならずも二度も“絵に描いたような不幸”に見舞われるに至っては、いい加減にしろと言いたくなる。無駄に長い上映時間も願い下げだ。

 チョン・ジヒョンは相変わらず魅力的だし、チョン・ウソンとイ・ソンジェの男優陣も悪くなく、スター目当てのコアな韓流党ならそれだけで満足するだろうが、娯楽映画としてのレベルは凡庸と言うしかない。韓国映画の輸入は控えた方が良いと思う昨今だ。
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「イヴォンヌの香り」

2006-07-24 12:56:49 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Le Parfum d'Yvonne)94年作品。「仕立て屋の恋」や「髪結いの亭主」などでいつも魅力的な美女を画面の中心に置くパトリス・ルコントの映画だが、その実物語の要素はヒロインを取り巻く男たち、特に中年男であることは周知の事実である。この映画もそう。1958年、レマン湖の避暑地で恋に落ちた男女。男はロシア貴族の血を引き、親の遺産で食いつないでいる無職の青年。女は自称・女優の奔放な若い美女。二人の濃厚なアバンチュールを、目のさめるように美しい風景と、時代感覚あふれる上品な衣装や小道具、ナイーヴな会話で綴る。

 当然、映画の主眼は若い二人ではなく、彼らと行動を共にする初老のゲイの紳士(ジャン=ピエール・マリエル)に置かれる。誰も相手にしてくれないホモの悲哀と老醜。それに耐えられず、若い恋人たちを見守ることによって必死に孤独をごまかしている、その惨めさと純情が泣かせる。ひと夏のラブ・ストーリーはやがて終わり、誰も居ない冬の避暑地で若いヒロインの面影のかけらを求める男二人の寂しい旅が、映画の序盤から時おり挿入され、ラストにはその悲しい後日談も語られる。ルコントの面目躍如だ。

 しかし、なぜか今回観終わって印象に残るのは、おっさん達のメランコリックな身の上話ではなく、ヒロインを演じるサンドラ・マジャーニのしなやかな肢体だけだったりするのだから、観客とは勝手なものだ。

 モデル出身で、グレース・ケリーの若い頃にチョイ似のマジャーニは、顔やパーソナリティは女優としてあまり好きじゃないのだが、とにかく完璧なプロポーションと脱ぎっぷりの良さで画面をさらってしまう。また彼女を捉えるカメラワークが実に下心丸出しで、男のスケベ心を満たしてくれる。ホテルの一室で主人公に背中を愛撫されるシーンも相当エッチだが、船のデッキでスカートはいたままパンティを脱ぎ、スカートが風でめくれて下半身がモロ見えになる場面はこの映画のハイライト。こういうシーンが満載されていながら、ラストでは“男の純情”に涙しろと言われてもそうはいかない。出来のいいソフト・コア・ポルノとしての印象が、肝心の主題を食ってしまった。ま、観ているこちらはそれでもいいんだけど(^_^;)。

 フランスのベストセラー作家パトリック・モディアノの同名小説の映画化。1時間半の上映時間は不必要に長い映画が目立つ昨今、実に貴重だと思った。
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最近購入したCD(その2)。

2006-07-23 08:29:51 | 音楽ネタ
 またまた、最近買ったCDを紹介します。



 まずはアメリカのカリスマ的ロックバンド、パール・ジャム(Pearl Jam)の新譜で、タイトルもそのものズバリの「Pearl Jam」。まあ、話題のアルバムなのでバンドそのものの説明なんかは省くが、正直言って近年パッとしなかった同グループの、久々の快打と言える。

 ハードなナンバーとメロウな曲調がまんべんなく並び、非常にバランスが良い。歌詞も相変わらずキツい。そして何より元気だ。個人的には初期の「Vs. 」や「Vitalogy」の方がインパクト・破壊力とも上だと思うが、これはこれで円熟の境地を味わえる。幅広くアピールできる出来映えだと思う。あと、関係ないけど紙製見開きジャケットってのは、見てくれは良いがディスクの取り出しが面倒である(^^;)。



 次に紹介するのが、大物ミュージシャンのライヴやレコーディングに参加してきたKEiCOと、ギタリストNAOKiからなるユニット、フェイキー(FAKiE)の三枚目のアルバム「トゥー・ザ・リミット」。

 女性ヴォーカルと男性ギタリストの和製デュオといえばフライド・プライドが有名だが、あれほどジャズ色は強くなく、路線としてはポップスだ。フィフス・ディメンションの「アクエリアス」やカーペンターズの「クロース・トゥー・ユー」、ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」といった有名曲を絶妙のアレンジでカバー。何よりNAOKiのギター・テクニックが呆れるほど凄く、押尾コータローあたりとデュエットさせてみたいと思わせる(笑)。対するKEiCOのヴォーカルもかなり上手いのだが、これが“フツーの上手さ”に留まっているところが不満だ。フライド・プライドのヴォーカルのようなアクの強さはなく、そのせいか、カバー曲に比べてオリジナル曲はヴォルテージが低い。このへんをどうするのかが今後の課題だろう。

 で、普段は邦楽のCDなんてめったに買わない私がどうして当ディスクを購入したのかというと、それは録音に尽きる。シャープ(株)のバックアップによる1-bit(ワンビット)技術を全面的に採用したレコーディングで、これがまあ素晴らしいサウンドなのだ。特に音像のリアルな造型には脱帽。オーディオのチェック用として必携である。



 今年はモーツァルトの記念の年だからというわけではないけど、久々に同作曲家のディスクを買ってみた。とはいっても有名な曲(および名演奏)のディスクはだいたい持っているわけだが、気が付いたらこの曲は持っていなかった(爆)。ピアノ四重奏曲第1番(K. 478)と第2番(K. 493)である。演奏はフォーレ四重奏団のメンバーとディルク・モメルツのピアノ。2005年録音の新譜だ。

 同四重奏団は95年の結成だから若いユニットである。演奏も実に溌剌、明るく透明感がある。奇をてらわず正攻法に徹しているため、この曲の魅力を存分に味わえる。録音は「中の上」といったレベルだが、コロコロと鳴るピアノが実にチャーミングに捉えられているのは良い。誰にでも奨められるCDだろう。

 なお、本ディスクは輸入盤で価格は約1,700円だったが、これが国内盤になると3,000円。ポピュラー系のようにボーナストラックがあるわけでもないのに、この価格差は一体何なのかと思ってしまった。
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「ダ・ヴィンチ・コード」

2006-07-22 08:01:57 | 映画の感想(た行)

 (原題:The Da Vinci Code )つまらない。原作は未読だが、まさか小説の方もこんなに低レベルではなかろうな(笑)。

 ダ・ヴィンチの作品に秘められた謎か何か知らないが、観終わってみれば“ユダヤ人(ハリウッド)がローマ・カソリックをバカにした映画”としか思えない。ひょっとしてそれ以外にも原作では興味深いネタが紹介されていたのかもしれないが、長大な原作を2時間半に押し込めようとしたツケが回ったせいか、どうにも要領がつかめないシャシンだ。

 こじつけとしか思えない「最後の晩餐」に対する“特殊な解釈”や、これまたこじつけとしか感じられない“ローズライン”の存在とか、刑事の偏執狂にしか見えない行動が突然出てきたり、敵役の“正体”についても全く釈然とせず、かくも本作は未消化のネタが多い。さらに図像学の権威であるはずの主人公と、暗号解読術のエキスパートという触れ込みのヒロインが、あまり専門知識を披露していない点も噴飯ものだ。

 情緒には欠けるが精密機械のような演出で知られるロン・ハワードの力をもってしても、バタバタとした展開の垢抜けない出来に終わったのは、企画自体に無理があったと言わざるを得ない。大々的にフィーチャーされるパリの風景も観光映画の域を出ず。

 あと気になったのは、トム・ハンクスの似合わないロン毛のオールバックと、それに劣らず似合わないオドレイ・トトゥの濃すぎるアイシャドウ(爆)。スタイリストの奮起が必要だった(^^;)。
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「グリーン・カード」

2006-07-21 06:58:09 | 映画の感想(か行)
 (原題:Green Card)90年作品。アメリカ居住権を取りたい無骨なフランス男と、夫婦でしか住めないグリーン・ハウス付きのマンションに住みたいキャリアウーマンが偽装結婚。しかし、形だけの付き合いだった二人だが、入国管理事務所の追求から逃れるため、一緒に住むハメになる。だが、最初は反発しながらも、次第に魅かれるものを感じ始める二人だった。ニューヨークを舞台にしたラブ・ストーリーで、監督は「刑事ジョン・ブック/目撃者」「いまを生きる」などのピーター・ウィアー。

 配給会社は封切り当時「ゴースト/ニューヨークの幻」「プリティー・ウーマン」に続く恋愛ドラマとして女性観客を総動員させようとしたらしいが、出来からいってそれは無理だと思った。

 まず一番の敗因は見知らぬ男女が愛し合うようになるという恋愛映画にとって最も大切なプロセスがイマイチ描写不足である点。設定は悪くないのだが、劇的な出来事や納得できるようなエピソードもないまま、“最初はイヤだったけど一緒に住んでみたら何となく気に入ってしまった”という安易なノリで押しているように思う。

 主演がまたまたジェラール・ドパルデューだが、どう見ても彼は(当時の)リチャード・ギアやパトリック・スウェイジみたいな二枚目ではなく、しかもアメリカ映画には合わない。

 しかし、作者ピーター・ウィアーはそういうマーケティング的なことを考えるはずもなく、この作品のテーマは異文化とのカルチャー・ギャップとコミュニケーションの大切さであろう。ただ、これも不満だ。たとえば主演の二人のどちらかが白人以外のマイノリティだったとしたらシャレにならない。ラブ・ストーリーどころか深刻な社会派ドラマに早変わりしてしまう。白人同士だからどうにか話がまとまっている点があると思う。

 で、一番関心を持ったのが、ヒロインが属する「グリーン・ゲリラ」という自然保護団体で、彼らの主旨は“貧民街に緑を植えて明日への希望を持たせよう”などというピント外れのもので、主人公から“緑じゃ飢えはしのげない”と反発されるのも当然だ。加えて菜食主義者のイヤらしさなど、自称エコロジストの偽善を皮肉っている点が実に面白かった。

 それと主演女優のアンディ・マクドウェル。しっとりとした雰囲気がなかなか良く、「セックスと嘘とビデオテープ」等も併せて、この頃は好きだったねぇ(^^)。
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