90年製作の“角川映画15周年記念作品”である。原作は内田康夫の推理小説だが、はっきり言ってこの映画はミステリー的な興味においてはほとんど期待しない方がよい。
昔の“金田一耕助シリーズ”を観ている人だったら、はじまって20分もたたないうちに犯人の見当がついてしまう。観る者をアッと言わせるような思い切ったトリックもない。第一、事件の決め手となるはずの“五十鈴”と呼ばれる鈴(ポスターや映画のタイトルで強調されていた)があまり大きな謎を秘めておらず、単に事件の背景が奈良県吉野郡天河村であることを示す小道具になっているに過ぎないのが不満だ。ここはやはりあの鈴の中には何か入っていてそれが殺人事件の凶器なんかに使用されていた・・・・・とかいった展開だったら少しはワクワクしたかもしれない(しなかったかもしれないけど)。
で、こういう風に書くと全然つまらない映画だったように思われるが、実は、そうでもないのである。それは久々に市川崑監督の名人芸ともいえる映像が堪能できるからである。
冒頭の新宿副都心の喧噪と、天河神社の静寂さの効果的なコントラストに始まって、能の家元である“水上家”の屋敷の金屏風の存在感、ひなびた天河村の旅館“天河館”のたたずまい、などなど、構図の確かさが光る。そして逆光を生かした得意のソフト・フォーカスの画面。日本家屋の雰囲気をよく出すこの手法が今回は能舞台の楽屋裏のような一見殺風景な場所にも使われており、そこだけ浮き上がらず、全篇にわたって映像の統一性が成されている。
能のゆっくりとした動きと燃え崩れる焚火の薪の対比、重要な謎解きの場面では細かいカットバックを多用して画面にリズムを持たせるなど、さすがはベテラン監督、ダテに映画で長年メシを食ってはいないと思わせる。
それから主人公の浅見光彦に扮する榎木孝明が意外とサマになっている。岸恵子はじめとする他のキャスティングも、いくぶんクサイところもあるが、こういう題材の作品では納得できよう。
ただし当時の角川春樹事務所がシリーズ化を検討しながら結局立ち消えになったのは、原作の評価が決定していた横溝正史の“金田一耕助シリーズ”と比べて、ミステリーとしての出来に問題があったためだと思う。さて、市川監督のリニューアル版「犬神家の一族」はどういう出来になることやら・・・・。
昔の“金田一耕助シリーズ”を観ている人だったら、はじまって20分もたたないうちに犯人の見当がついてしまう。観る者をアッと言わせるような思い切ったトリックもない。第一、事件の決め手となるはずの“五十鈴”と呼ばれる鈴(ポスターや映画のタイトルで強調されていた)があまり大きな謎を秘めておらず、単に事件の背景が奈良県吉野郡天河村であることを示す小道具になっているに過ぎないのが不満だ。ここはやはりあの鈴の中には何か入っていてそれが殺人事件の凶器なんかに使用されていた・・・・・とかいった展開だったら少しはワクワクしたかもしれない(しなかったかもしれないけど)。
で、こういう風に書くと全然つまらない映画だったように思われるが、実は、そうでもないのである。それは久々に市川崑監督の名人芸ともいえる映像が堪能できるからである。
冒頭の新宿副都心の喧噪と、天河神社の静寂さの効果的なコントラストに始まって、能の家元である“水上家”の屋敷の金屏風の存在感、ひなびた天河村の旅館“天河館”のたたずまい、などなど、構図の確かさが光る。そして逆光を生かした得意のソフト・フォーカスの画面。日本家屋の雰囲気をよく出すこの手法が今回は能舞台の楽屋裏のような一見殺風景な場所にも使われており、そこだけ浮き上がらず、全篇にわたって映像の統一性が成されている。
能のゆっくりとした動きと燃え崩れる焚火の薪の対比、重要な謎解きの場面では細かいカットバックを多用して画面にリズムを持たせるなど、さすがはベテラン監督、ダテに映画で長年メシを食ってはいないと思わせる。
それから主人公の浅見光彦に扮する榎木孝明が意外とサマになっている。岸恵子はじめとする他のキャスティングも、いくぶんクサイところもあるが、こういう題材の作品では納得できよう。
ただし当時の角川春樹事務所がシリーズ化を検討しながら結局立ち消えになったのは、原作の評価が決定していた横溝正史の“金田一耕助シリーズ”と比べて、ミステリーとしての出来に問題があったためだと思う。さて、市川監督のリニューアル版「犬神家の一族」はどういう出来になることやら・・・・。