元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ガス・ステーション」

2017-09-30 06:30:46 | 映画の感想(か行)
 (英題:A Gas Station )アジアフォーカス福岡国際映画祭2017出品作品。2016年製作のタイ映画である。いかにもインディ系らしい風変わりな設定と風変わりな筋書きに開巻当初は面食らうかもしれないが、映画の進行に伴い徐々に普遍的なドラマの骨格が姿をあらわし、最後はしっかりと感動させるという、心憎い構成が印象的な作品だ。

 荒野の真ん中に建つガソリンスタンドを一人で切り盛りしているマンの元には、彼に想いを寄せる2人の女が毎日のように訪れてくる。いつも場違いな赤いドレスを纏っている中年女性マットと、毎回異なる衣装で現れるコスプレ女子高生のフォンだ。2人は何とかマンの気を惹こうと躍起だが、実は彼は結婚していた。しかし妻のノックは数年前に家を出たきりだ。



 ある日、ノックは突然マンの元に戻ってくる。久々の再会に喜ぶ彼だが、しばらくするとまた彼女は姿を消す。彼女はそんなことを繰り返し、何度目かの帰宅時に明らかにマンの子供ではない幼い娘を連れてくる。それでも娘はマンやフォンに懐くが、思わぬ悲劇が起きる。そして、登場人物達のシビアな過去や胸に抱く屈託が明らかになってくる。

 何となくパーシー・アドロン監督の「バグダット・カフェ」(87年)を思わせる御膳立てだが、あの映画のように出てくるキャラクターが浮き世離れしているわけではない。言動が多少変わっていても、ガソリンスタンドに集う者達にはそれぞれ切迫した“事情”がある。しかも、その“事情”は決して独りよがりではなく、運が悪ければ誰にでも降りかかってくる災難だ。

 彼らが悩みに向き合い、一つ一つ折り合いを付けていく中盤以降の展開は、説得力がある。特に前半はコミカルな掛け合いが続くマンとノックが、その裏に深刻なトラウマを抱えていることを表出していくプロセスは見事だ。監督のタンワリン・スカピシットはインディ系とメジャー系とを行き来し、その度に双方のメリットを吸収しつつ製作活動を続けているらしく、そのスタンスはスノッブなタッチになりがちな設定を持つ本作を、万人にアピールする作品に昇華させているあたりに見て取れる。

 キャストは皆好演。フォンに扮したアーパー・パーウィライ(通称マギー)は監督と共に舞台挨拶に出てきたが、間近に見ると本当に可愛い。また、劇中で彼女が見せるアニメのコスプレや、重要なモチーフになる折鶴など、日本のカルチャーの影響を改めて認識出来る。
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「FAN」

2017-09-29 06:19:07 | 映画の感想(英数)
 (原題:FAN )アジアフォーカス福岡国際映画祭2017出品作品。2016年製作のインド=クロアチア=イギリス合作。インド映画にしては138分と上映時間が短く、しかも歌と踊りのシーンが無い。だが、娯楽映画としては上出来で、とても面白く観た。ロバート・デ・ニーロ主演の「ザ・ファン」(96年)にも通じる設定ながら、違う切り口で作劇を練り上げている。

 デリーの下町に住む青年ゴゥラヴは、スーパースターのアーリヤンの熱狂的なファン。容姿も若いころのアーリヤンによく似ており、町内の“そっくりさん大会”ではいつも優勝していた。そんな彼の夢は、アーリヤンの誕生日に駆けつけ、お土産を渡してハグしてもらうことだった。ムンバイまで出向いてアーリヤンに会おうとしたゴゥラヴだが、そんなに上手くいくわけがない。



 警備員につまみ出された彼は、逆恨みしてアーリヤンに対して妨害工作をおこない、警察に捕まってしまう。アーリヤンの計らいで起訴は免れるが、ゴゥラヴの一途な想いはますます彼を常軌を逸した行動に駆り立てる。ついにはヨーロッパ公演中のアーリヤンをつけ回し、テロ同然の暴挙に出る。

 本作の一番の見どころは、アーリヤンとゴゥラヴをシャー・ルク・カーンが一人二役で演じていることだ。これは単に、キャスティングの目新しさを狙ったものではない。成功者とドロップアウトした人間を同一人物が演じることで、環境や本人の資質が生き方を決定付けていることを、残酷なまでに描き出すことに成功している。

 今まではシャー・ルクのスターとしての存在感は承知していたが、演技に感心したことはほぼ無かった。ところが本作では目を見張るパフォーマンスを披露している。演技賞も狙えるほどのヴォルテージの高さだ。マニーシュ・シャルマーの演出はテンポが良く、ドラマの流れが途切れることは無い。

 特に感心したのが活劇場面で、全盛期のジャッキー・チェンの諸作を彷彿とさせる肉体アクションが炸裂する。今回は一人二役なので編集の巧拙がモノを言うのだが、これが実にスムーズだ。ロンドンやクロアチアのドゥブロヴニクといった観光名所も存分にフィーチャーされるが、終盤は舞台がデリーに戻り、ラストの処理はホロ苦さが漂う。

 インドの娯楽映画といえば女優陣が魅力的であることも重要ポイントであるが、今回はいつもの“美人系”よりも、ゴゥラヴのガールフレンドを演じるシュリヤー・ピルガオーンカルや、アーリヤンのマネージャーに扮するサヤーニー・グプターなどの“カワイイ系”を前面に出しているのも見どころだ。日本での一般公開は未定だが、本映画祭の収穫の一つであることは間違いない。
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「ボブという名の猫 幸せのハイタッチ」

2017-09-25 06:27:28 | 映画の感想(は行)

 (原題:A STREET CAT NAMED BOB)一見、とても心温まる話のようだが、あちこちに“実話なんだから、細かいところは大目に見てよ”というエクスキューズが感じられ、諸手を挙げての評価は出来ない。ただし、猫好きにとってはたまらない映画であることは確か。大して猫に興味が無い私でも、ボブとハイタッチをしたいと思ったほどだ(笑)。

 ロンドンの街角で歌うジェームズは、かつてはプロのミュージシャンを目指していたが挫折し、薬物におぼれている。何とか更正プログラムを受けてはいるが、家族にも見放されてしまった。そんな彼のもとに迷い込んできた一匹の猫。元の飼い主を探してみるが見つからず、彼はボブと名付けて一緒に住むようになる。それからはジェームズが外出する時でもボブは彼の肩に乗り、次第に世間の注目を集めるようになると共に、ジェームズ自身も立ち直る切っ掛けを見出していく。ジェームズ・ボーエンによる実録小説の映画化だ。

 映画を観る限りでは、主人公が再生したのはボブが可愛かったからとしか思えない。彼の歌や才能によるものではないのだ。猫を飼うだけでホームレスが救われるのならば、不遇な生活を送っている者はすべてそうすれば良い・・・・というわけでもないだろう。本当は、いろいろな要因があったに違いなく、彼を取り巻く人々も多彩だったのだろうと想像する。しかし、それらは描かれない。

 ジェームズの面倒を見てくれるソーシャルワーカーや、隣室の若い女との交流も映し出されるが、彼女達だけでは主人公の屈託を埋めるには足りない。主人公を“捨てて”別の女と再婚する父親の扱いは、事実なのかもしれないが、随分と芝居がかった演出だ。娯楽映画としてまとめるために、都合良く原作を書き換えたという印象を受けてしまう。

 ただ、薬物乱用のために野垂れ死んでしまうジェームズの友人のエピソードは衝撃を受けるし、治療のため麻薬の代用物を与えるといった描写は興味深い。監督のロジャー・スポティスウッドは活劇作品での仕事が目立つが、こういう小品も手掛けられるというのは意外だった。

 主役のルーク・トレッダウェイは好演。ルタ・ゲドミンタスやジョアンヌ・フロガットといった脇の面子も良い。そして何よりボブの存在感が圧倒的。複数の猫によって演じられているが、ボブ自身も出ているという。いずれも堂々たるパフォーマンスである。ジェームズが歌うナンバーは正直言って大したことはないが、デビッド・ハーシュフェルダーによる音楽(BGM)は悪くないと思う。ピーター・ウンストーフのカメラによる、ロンドンの下町の風景も捨てがたい。
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YAMAHAの大型ブックシェルフを試聴した。

2017-09-24 09:45:35 | プア・オーディオへの招待
 先日、ショップにてYAMAHAの大型ブックシェルフ・スピーカーであるNS-5000を聴くことが出来た。実はこの機種は今年(2017年)春のオーディオフェアでも接しているが、その際はアンプの試聴がメインであったため、スピーカーに関する詳細な説明は聞けなかった。今回はYAMAHAのスタッフが同席しての商品説明がおこなわれ、本機の概要とサウンドの傾向をチェックする事が出来た。

 YAMAHAには70年代に発売されロングセラーになったNS-1000Mという有名なスピーカーがあったが、NS-5000の外観はそれに準じている。もちろん、オールドファンを意識してあえてNS-1000Mに似せたということも無く、この形状に仕上げたのはそれなりの技術的背景が存在するのだが、見た目はどうしてもNS-1000Mを思い出してしまう。ただし、大型スピーカーではトールボーイ型が全盛の昨今において、かなりの個性を発揮していると言って良いだろう。もっとも価格はペア150万円で、NS-1000Mより遙かに高価だ。



 まず目を惹くのは、銀色に仕上げられた各ユニットである。最初私は材質はアルミだろうと思っていたのだが、使われているのはZYLON(ザイロン)と呼ばれる、ベリリウムに匹敵する音質を持つという強度繊維である。素材自体の優位性に関しては分からないが、注目すべきは低域・中音域・高域と3つのユニットすべてにこのZYLONが使われていることだ。スタッフの話では、素材を揃えることで各帯域の音の繋がりがスムーズになったという。他にも、吸音材を使用しない独自の吸音システムや、音を濁らせる定在波の処理を容易にした筐体構造など、凝った意匠が採用されている。

 肝心の音だが、なかなかのものだと思った。とにかくサウンドの出方に余裕がある。国産スピーカーにありがちな音像の硬さや音色の暗さは無く、ストレスフリーで開放感たっぷりに鳴る。聴感上のレンジは広く、特定帯域での妙な強調感も無い。

 感心したのは奥行き方向の音場の再現性で、クラシックを鳴らすとホールの広さや空気感も十分認識できる。昔から同社のスピーカーに付けられている型番の“NS”というのは“ナチュラル・サウンド”の略であるが、本機は文字通り自然な音(正確に言えば“ナチュラルに感じられる音の仕上げ”)に徹していると思う。



 ただし、サウンドマニアが好むような微分的で高精細な展開は見られない。ハイファイ的なテイストを最優先するユーザーには合わないと思われる。また、今回は同じYAMAHAのアンプやプレーヤーでドライヴさせていたが、NS-5000の価格グレードを考えると、もっと上のクラスを持ってきても良い。そして150万円という価格は、多くの海外ブランド品と競合するセグメントだ。その中でどうポジションを得ていくか、興味がある。

 いずれにしろ、YAMAHAがこれだけの製品を出してきたのは、国内メーカーとして頼もしいと言って良いだろう(まあ、値が張るので一般ピープルには縁の無いモデルではあるのだが ^^;)。願わくば、今後は(昔のように)アナログプレーヤーやセパレートアンプも開発して欲しいものだ。
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「三度目の殺人」

2017-09-23 08:25:12 | 映画の感想(さ行)
 面白くない。まず、弁護士役の福山雅治がダメだ。彼は何をやっても“フクヤマそのもの”であり、役になりきっていない。それでも、同じく是枝裕和監督と組んだ「そして父になる」(2013年)では、ぶっきらぼうに突っ立っているだけで何とかなる役柄だったこともあり、あまり欠点が見えてこなかった。しかし今回主演として映画を引っ張る側に回ると、途端に大根ぶりを露呈する。

 何しろ、共演の役所広司にはもちろん、広瀬すずにも負けているのだ。カッコつけていないで、たとえば年相応にショボくれたオッサンの役なんかをやって芸域を広げないと、演技者としての将来は危ういと思う(ミュージシャンとしての将来についてはノーコメント。彼の音楽には興味が無いので ^^;)。



 法廷での勝ち負けにしか関心の無い護士の重盛は、殺人の前科がある男・三隅の弁護を成り行きで担当することになる。容疑は解雇された工場の社長を逆恨みして殺害し、死体に火をつけたというもの。三隅は犯行を自供しており、死刑は確実だ。しかし三隅の動機はいまいち釈然とせず、供述内容もコロコロと変わる。やがて重盛は、本当に彼が殺したのかどうか疑うようになっていく。そんな中、重盛は被害者の娘である咲江が事件の背景を知っていると気付く。加えて死んだ社長の妻も、何やら訳ありだ。やがて、事態は思わぬ方向に転がっていく。

 既存のミステリー小説の映画化ではなく、是枝監督自身のオリジナル脚本である。その意気は良いのだが、やっぱり畑違いの感は拭えない。とにかくプロットが甘すぎる。この裁判におけるモチーフは、ほとんどが殺人犯とされる三隅の供述で占められている。状況証拠はあやふやだし、物的証拠に至っては皆無に近い。こんな有り様で法廷劇にリアリティを持たせようなどとは、無理な注文だ。

 弁護側と検察側とのやり取りは通り一遍であり、事件を捜査したはずの警察の影もない。勿体ぶった挙げ句の判決は気勢が上がらないものだし、ラストの主人公達のセリフも空疎なだけだ。ひょっとしたしら作者は、ミステリー的な興趣よりも“観ている者に考えさせること”を優先しているのかもしれないが、これだけ脚本の詰めが甘ければ“それ以前”の問題だろう。



 ただ、三隅役の役所広司は好演だ。彼のパフォーマンスがなかったら、途中退場していたかもしれない。咲江役の広瀬すず、弁護士仲間の吉田鋼太郎や満島真之介、検事に扮した市川実日子、いずれも良くやっている。また、斉藤由貴が出てきた時は役柄と昨今の彼女自身のスキャンダルがシンクロして思わずニヤリとした。

 瀧本幹也の撮影とルドビコ・エイナウディによる音楽も申し分ない。それだけに、画面の真ん中に居座る福山雅治があの体たらくなのは残念だ。出品されたヴェネツィア国際映画祭では無冠だったが、それも頷けるほどの低調な出来である。
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福岡市の映画館の変遷について。

2017-09-22 06:18:12 | 映画周辺のネタ
 私のように無駄に長年映画を見続けていると、福岡市の映画館事情の移り変わりを目撃することにもなる(まあ、ずっと福岡市に住んでいたわけではないが)。そのへんを少し書いておこう。

 その昔、福岡市早良区西新には映画館が二つあった(もっと昔はそれ以上あったらしいけど、私は知らない)。西新アカデミーと西新東映である。前者は東宝系列の小屋で、ごくたまにミニシアター系作品を上映していたが、99年に惜しまれつつ閉館。後者は文字通り東映系だったが、ハリウッドのクラシック作品も安い料金で上映していた。

 この西新東映が閉館したあと同じロケーションに出来たのが「てあとる西新」という劇場だ。開設時期は80年代初頭だったと思う。ミニシアター系の封切り作品はもちろん、タルコフスキーやゴダールやフェリーニなどの旧作も数多く上映。「カルメンという名の女」も「鏡」も「8 1/2」もここで観た。しかし、二百席以上というミニシアターの範疇を超えた規模であり、ランニングコストがかさんで閉館(確か、86年か87年)。経営母体のパシフィック・シネマ・ジャパンは同じコンセプトの小屋を中央区天神2丁目に開館させ、「移転」との形を取る。それが「西通りキノ」である。

 「西通りキノ」は80年代末にオープンした。80席程度の「キノ1」と50席ぐらいの「キノ2」の2スクリーン構成。作品傾向は「てあとる西新」と同じだったが、「ベルリン・天使の詩」「どついたるねん」などの話題の単館系作品も手がける。さらにグリーナウェイやデレク・ジャーマンなどの初期実験映画の一挙上映みたいなマニアックなネタもやっていた。
 
 ところが、ここの劇場は設備が万全ではなく、「キノ1」はスピーカーが一個しかないし、「キノ2」にいたっては当初は折り畳み椅子のみ。おかげで観客数は減り続け、91年(だったかな)に早々に閉館。それから「シーキューブシアター」と名前を変えて東宝系の二番館として存続しようとしたが、長くは保たなかった。

 80年代前半に「東映ホール」という小さな映画館が中央区天神3丁目の親不孝通りにオープンした。文字通り東映系の二番館だったが、86年か87年ごろ、突然「寺山修司特集」をやり始め、ミニシアター市場(?)にうって出る。館名も「てあとるTENJIN」に変更。たぶん「てあとる西新」と資本的な共通点はあったと思う。「キノ」とは違ってそこそこの設備を持っていたせいか長続きした。やがて経営母体があのビルを所有する「有楽興行」になり(その前から資本参加していたと思うけど)、内部改装を経て90年(だったかな)に「シネテリエ天神」と改名する。なお、「てあとる○○」の展開元だったパシフィック・シネマ・ジャパンはどうなったのか知らない。

 現在、博多区中洲の東急エクセルホテルが建っている場所にも映画館があった。福岡東宝と福岡松竹である。どちらも比較的規模の大きい小屋であったが、時代の流れには勝てなかったらしい。その近くにあった東映グランド劇場も松竹に経営を移管したが、結局は閉館。映画街の代名詞であった中洲も、現在存続しているのは大洋劇場一館のみだ。

 中央区渡辺通りや赤坂、六本松に映画館が存在していたなんて今の若い衆は誰も信じないだろう。かつては博多駅の構内にも名画座があったのだ。現在はシネコンの全盛期になりつつあるが、代わりにミニシアターの数は減った(「シネテリエ天神」も2009年に閉館している)。確かにシネコンはかつての“町の映画館”に比べれば設備は整っているが、もっと多様な観客のセグメントに合わせたマーケティングが望ましい。あと一館でもミニシアターがあったら、もっとバラエティに富んだ番組が楽しめるだろう。
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「パターソン」

2017-09-18 06:43:53 | 映画の感想(は行)

 (原題:PATERSON)ジム・ジャームッシュ監督の映画を観るのは久しぶりだ。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(84年)などの才気走った初期作品は当時の映画界を席巻したが、回を重ねるごとにそのインパクトが薄められ、やがて個人的には鑑賞対象から外れていった。今回二十数年ぶりに彼の映画に接したわけだが、往年の先鋭的なテイストは無いものの、良い具合に“枯れた”タッチが捨てがたい。これはこれでオッケーだと思う。

 ニュージャージー州パターソン市で暮らすパターソンは、バスの運転手。朝は定時に起きて妻ローラの手作りの弁当を持って出勤。帰宅後には愛犬マーヴィンと散歩へ出掛け、行きつけのバーで一杯だけビールを飲むという生活を繰り返している。単調な毎日に見えるが、実は彼は(自称)詩人でもある。ありふれた日常の有り様を詩としてノートに書き連ね、平凡な生活の中に詩作の題材に相応しいドラマはあると信じている。だが、言い換えれば詩のモチーフとして日常を捉えなければ、日々の生活は単純なままなのだ。やがて彼のスタンスを少し揺るがす出来事が起きる。

 詩作と主人公の生活がゆっくりとシンクロする作劇のリズムが心地良い。おそらく運行ルートはシンプルでパターソンの負担は少なく、渋滞に巻き込まれることも無い。劇中で一度エンジントラブルが発生するが、大事に至らず治まってしまう。

 しかし、アラブ系である妻ローラの言動はよく見れば少々危なっかしく、行きつけの飲み屋の常連客の痴話ゲンカもシャレならない。ただしパターソンの目にはそれらが重要な出来事として映らない。あくまで平凡な日々を送り、詩作によってアクセントを付けているのだと思い込んでいる。

 そのギャップが顕在化するのが、ひょんなことで詩を書き綴ったノートが失われてからの終盤の展開だ。平穏に見えて、実はいろいろ出来事が起こるリアルな生活に放り出されてしまった主人公。そこに現れるのが日本人の詩人である。そこでパターソンは幾ばくかのインスピレーションを受けるのだが、ほんの少しの示唆で日常を見直すという、ささやかな変化をさりげなく描くあたりが心憎い。

 主役のアダム・ドライバーは飄々とした妙演。ローラを演じるゴルシフテ・ファラハニは、ヒジャブを被ったイラン映画の出演時とは違い、整った素顔が実に印象的だ。また、「ミステリー・トレイン」(89年)でもジャームッシュ監督と組んだ永瀬正敏は儲け役。パターソンの町並みと、ランドマークになるグレートフォールズの描写は効果的。音楽のセンスの良さも相変わらずだ。あまりにも淡々とした展開なので眠くなる観客もいるだろうが、決して観て損はしない映画だ。
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原田伊織「明治維新という過ち」

2017-09-17 14:19:33 | 読書感想文
 正式タイトルは「明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」。今まで日本人の多くは、幕末期の勝者である薩摩・長州の“官軍教育”によって明治維新をポジティヴな視点で理解してきたが、歴史の実相はそうではなく、明治維新というのは薩長(特に長州)のテロによる暴力的なクーデターに過ぎなかった・・・・という内容の本だ。

 なるほど、着眼点は興味深い。勤王の志士の多くは“ならず者”であり、坂本龍馬は武器商人の片棒を担いでおり、戊辰戦争では薩長軍は狼藉三昧であり、対して佐幕派こそ合理的な考え方を有していたといった、従来の認識とは逆向きのベクトルで書かれている。まあ、いわゆる“勝てば官軍、負ければ賊軍”というのは古今東西共通の認識であるが、それをあえてひっくり返して論じるのも、そんなに珍しいことではないと思う。それを明治維新に関してやってのけた事が本書の目新しい点であろう。



 しかし、大上段に振りかぶった割には論証が成されていなかったり、感情論で書き飛ばしている部分が目立つ。それらの“ツッコミどころ”に関しては書評などのサイトで指摘されているはずだから、ここでは列挙しない。

 ただし個人的に気になったのが、薩長主体の明治政府が第二次大戦の敗北に繋がった点が詳説されていないことだ。“薩長こそが、諸悪の根源だぁ!”と決めつけられるほど、歴史というのは単純ではないだろう。そもそも、世界情勢は薩長のスタンスなんかお構いなしに展開していくものだ。

 また、明治維新が成功していなかったら日本はスイスや独立心の強い北欧諸国みたいになっていたという話は、あまりにもナイーヴに過ぎるのではないか。百歩譲ってそう断言したいのならば、その結論に至るモチーフをロジカルに組み上げて然るべきだが、本書にはそれは無い。単なる空想論に終わっている。

 たぶん特定の層はこれを読んで溜飲を下げるのだろうが、大して評価出来る内容ではない。とはいえ、歴史を多角的な視点から論考するのは(本書が述べるまでもなく)重要なことであるのは確かだ。
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「おしゃれ泥棒」

2017-09-16 06:27:05 | 映画の感想(あ行)

 (原題:How to Steal a Milion )66年作品。“午前十時の映画祭”のプログラムの一つとして今回初めてスクリーン上で観ることが出来た。名匠ウィリアム・ワイラー監督がこんなお手軽ラブコメを作っていたのかと驚いたが、配役や作品のカラーを考えれば文句を言うのも野暮であろう。少なくとも、公開当時はかなりウケが良かったことは想像できる。

 パリに住む美術愛好家で収集家のシャルル・ボネは、その所有作品の多さで知られていた。しかもどれも一流作家の逸品ばかり。彼曰く、これらは父親が買い集めた遺品ということだが、実はすべてボネ自身による贋作である。彼はニセ物を作ることにかけては天才なのだ。一人娘のニコルは、普段から父親に阿漕な商売は止めるように忠告するが、ボネは聞く耳を持たない。

 ある晩、ボネ邸にシモンという怪しい男が忍び込む。絵を盗もうとしていたところをニコルにあっさりと見つかってしまうが、けっこうイイ男なので(笑)彼女はその場は見逃す。一方、父が美術館に貸し出した贋作のビーナス像が専門家の鑑定を受けることになってしまい、そうなると偽物であることがバレてしまう。ニコルは鑑定される前に盗み出そうと考え、シモンと一緒に美術館に乗り込む。

 ハッキリ言って、作劇のテンポは遅い。しかも、プロットは穴だらけだ。開巻前の時点でボネは贋作家として疑われても仕方がないし、一応“プロ”のシモンがボネ邸で呆気なくニコルに見つかるのも噴飯もの。美術館での盗みのテクニックは随分と御都合主義だ。誰にも目撃されずに隠れられるはずがないし、警備システムの裏をかくための“策略”は随分とお粗末だ。そもそも、舞台がパリなのに誰もフランス語をしゃべっていないのは不可解である(爆)。

 しかしながら、オードリー・ヘップバーンとピーター・オトゥールという、稀代のスターが共演してしまうと、多少の欠点には目をつぶろうかという気分になる。ヘップバーンは撮影当時はとうに30歳を超えていたのだが、相変わらずキュートだ。ジバンシィの衣装が実によく似合う。オトゥールは史劇におけるカリスマぶりとは打って変わった軽妙さで、軟派な二枚目を楽しそうに演じている。

 イーライ・ウォーラックやシャルル・ボワイエといった脇の面々も良い。ラストは強引だが、野暮は言うまい。音楽は何とジョン・ウィリアムズで、おそらくこれが映画デビュー作だと思うが、達者なスコアは早くも職人芸を感じさせる。
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「復活の朝」

2017-09-15 06:27:00 | 映画の感想(は行)
 92年作品。いくつかの映画と数多くのテレビドラマのシナリオを手掛けた吉田剛の、現時点では唯一の監督作である。それも、当初は野村芳太郎がメガホンを取る予定だったが、体調を崩して降板したため吉田にお鉢が回ってきたという経緯がある。終末医療を描いた看護婦作家・江川晴の小説「外科病棟」の映画化だ。

 決して明るくはない題材を扱っているため、全体のトーンは暗鬱だ。それでも、病気の父親を介護も出来ない下町娘の新米ナースが、次々と重症患者が運ばれてくる大学病院の外科病棟で、一人前の医療スタッフとして成長していく姿が作劇の中心に置かれているため、絶望的なまでには暗くならない。また“患者の気持ちになって看護する”というのがモットーの婦長や、“組合的立場”を崩そうとしない先輩看護婦など、バラエティに富んだキャラクターが並べられているのもポイントが高い。



 中盤以降は、告知主義者のガン治療の権威である主任教授が、皮肉にも手術不可能な末期的肺ガンになるというドラマティックな話がメインとなる。病気の恐怖で落ち込む教授と、気丈に接する婦長とのやり取りは、人間の尊厳と職業観の相克が示されて見応えがある。

 しかしながら、あまりに多くの題材を取り入れ過ぎたためか、ほとんどのセリフが状況説明にしかなっていない。脚本も担当している吉田監督のミスであろう。特にホスピスの重要性を説くシーンでは(当時の)厚生省のPRにしかなっておらず、観ていて脱力した。もうちょっとテーマを絞って、スマートな展開を心がけて欲しかった。

 ただ、教授と婦長との“道行き”を暗示させるような幕切れは、効果的な映像処理も相まって盛り上がる。こうしたエンタテインメント性をもう少し全編に散りばめていたら、もっと訴求力が高まっただろう。教授を演じる渡瀬恒彦は演技賞ものの好演。婦長役の大竹しのぶも素晴らしい(ラストのセリフは利いた)。新人ナースに扮する和久井映見や、藤真利子、高橋長英、加藤剛といった面々も的確な仕事をしている。観ていて辛くなる箇所も多々あり、無条件には奨めないが、決して悪くはない映画であることは確かだ。
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