元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「デッドプール&ウルヴァリン」

2024-08-31 06:26:15 | 映画の感想(た行)
 (原題:DEADPOOL & WOLVERINE)20世紀FOXがディズニーに買収された件を茶化しているあたりは面白かった。ただ、それ以外はまったく楽しめない。要領を得ない話の連続で、観ているこちらはどう対応して良いか分からず、出るのは溜め息だけ。前作(2018年)のヴォルテージが高かっただけに、残念でならない。

 アベンジャーズへの加入を希望したものの失敗したデッドプールことウェイド・ウィルソンは、ヒーロー業を引退して中古車セールスマンとして平穏な生活を送っていた。ウェイドの誕生日、時間変異取締局(TVA)のエージェントたちが自宅に押し入り、彼は連行されてしまう。TVA幹部のミスター・パラドックスによると、ウェイドたちが存在する時間軸において最も主要な存在だったウルヴァリンことジェームズ・“ローガン”・ハウレットが死亡したため、時間軸自体の消滅が迫っているという。



 ウェイドをTVA側に引き入れた後に分岐時間軸の剪定を敢行しようとしているパラドックスに賛同できないウェイドは、パラドックスのタイム・パッドを奪うと、別のマルチバースからローガンを引っ張ってくる。これに対してパラドックスは2人を虚無の世界(ヴォイド)に転送する。

 マルチバースという概念を採用してから、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)のクォリティは低下していると思う。コアなマニアは喜ぶのかもしれないが、一般の観客は置き去りにされる。しかも、配信番組を含めた関連作品をチェックしないと分からないモチーフも遠慮会釈無く挿入され、ますます“一見さん”にとって敷居の高いシャシンになっている。

 ウェイドは相変わらずの口八丁手八丁だが、前回からネタの繰り出し方もアクションのパターンも進歩しておらず、あまり盛り上がらない。終盤の“各界デッドプール全員集合”の場面も、果たして必然性があるのか疑問だ。そもそも、ウルヴァリンの話は「LOGAN/ローガン」(2017年)で区切りよく終わっていたのではなかったか。いくら多元時間軸だからといって、結了したエピソードを強引に掘り起こす筋合いなど無いと思う。

 監督ショーン・レヴィの仕事ぶりは、同じくライアン・レイノルズと組んだ「フリー・ガイ」(2021年)と比べて精彩が無い。やっぱりアメコミ物などの枠組みが確定した企画では、マッチしない演出家もいるのだろう。レイノルズをはじめヒュー・ジャックマンにエマ・コリン、マシュー・マクファディン、モリーナ・バッカリンといったキャストは悪くはないのだが、作品の性格上あまり機能しているように見えない。とにかく、マルチバースというのは御都合主義と隣り合わせである。よっぽど話を練り上げないと訴求力のある映画にはならない。
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「にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻」

2024-08-30 06:23:27 | 映画の感想(な行)
 73年東宝作品。私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”の特集上映にて鑑賞した。72年に公開された「にっぽん三銃士 おさらば東京の巻」の続編という建て付けだが、私はそっちの方は観ていない。そのため、登場人物たちの設定が唐突で付いていけない部分が多い。だが、それはあまり気にすることはなさそうだ。何しろこの映画、大してコメントする余地は無い。良く言えば軽量級、率直な印象は単なる珍作だ。

 東京で何やらヘマをやらかして仕事も家庭も失ってしまった黒田忠吾と八木修、そして風見一郎の3人は、貨物列車に潜り込んで博多駅にまでたどり着く。福岡市内のスラム街で彼らは“カラス”のお新と知り合う。お新は仲間と共に酒場やレストランで客が飲み残したビールをかき集め、それらを勝手に“調合”して“玄海ビール”と称して売っていた。



 3人は早速ビール集めを手伝い始めるが、そこに立ちはだかったのがヤクザ組織“ウルフ興行”の総務部長で剣の達人である北風の健である。健は彼らをお新が雇った用心棒だと勘違いしたのだ。一方、大手ゼネコンがスラム街を買いとってパンスト工場を建築しようと企み、住民たちに立ち退きを要求してきた。

 福岡市総合図書館は福岡を舞台にした映像ソフトを収集しており、本作もその一環として所蔵されたものだと思うが、意外と福岡ローカル色は希薄だ。中洲や天神の風景は出てくるものの、重点的には描かれない。主なロケーションは川沿いの貧民街で、どこの県でもありそうな御膳立てだ。

 主人公3人の設定は戦中派と戦後派、そして戦無派の代表ということらしく、当時としてはそれだけで笑いを取れたのだろうが、今観てもまるでピンと来ない。任侠映画のパロディみたいな健の出で立ちも、全くキマらず弛緩した空気が流れるのみ。筋立ては御都合主義なのだろうが、現時点では“笑って済ませる”わけにもいかず、ギャグもすべて上滑りだ。

 小林桂樹にミッキー安川、岡田裕介の主役3人は確かに演技力はあるが、ここでは役柄上オーバーアクトを強いられているのが何とも言えない。健に扮する田中邦衛も手持ち無沙汰の様子だ。監督の岡本喜八は、ここでは肩の力が抜けすぎ(笑)。なお、冒頭に“東宝創立40周年記念作品”なるタイトルが現われて面食らってしまった。こういうお手軽な映画が“創立記念作品”になってしまったとは、当時いかなる事情があったのか、映画の中身よりそっちの方が気になってしまう。
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「お母さんが一緒」

2024-08-26 06:38:26 | 映画の感想(あ行)
 舞台劇の映画化であり、いかにも“それらしい”御膳立てが散見されるシャシンだ。ならば全然面白くないのかというと、そう断言も出来ない。映画的興趣も、無いことはない。キャストの頑張りも印象的。ただ、これが実績のある橋口亮輔の9年ぶりの監督作に相応しいかと問われると、意見が分かれるところだろう。

 弥生と愛美、清美の三姉妹は、親孝行のつもりで母親を温泉旅行に連れてくる。だがこの母親は峻烈な人物のようで、それが娘たちにも影響を与えて三姉妹は万全な人生を送っているようには見えない。長女の弥生は見栄えが良い妹たちにコンプレックスを持ち、次女の愛美は何かと優等生の姉と比べられてきたルサンチマンを抱えている。三女の清美はそんな姉たちを冷めた目で見ていた。そんな中、清美はこの旅行の場で婚約者を皆に紹介すると言い出す。ペヤンヌマキ主宰の演劇ユニットが上演した同名舞台劇を元にした一編だ。



 娘たち、特に弥生と愛美は話す言葉と振る舞いがまさに新劇調。全編これ絶叫と派手なジェスチャーで、観る側としては疲れてしまう。それはもちろん、母親に対する鬱屈した気持ちの表出なのだが、ならばわざわざ母親を温泉にまで招待する必要も無いとも思える。とはいえ彼女たちには“世間体”という決して無視できない判断基準が備わっており(それも母親の影響)、親孝行の真似事をすることに疑問も持たなかったと思われる。そんな中、清美の思い切った行動は大きな波紋を生じさせる。

 このままドロドロの展開が続くと途中退出したくなったところだろうが、本作には絶妙なモチーフが用意されている。それはこの物語の舞台だ。ロケ地は佐賀県の嬉野温泉である。三姉妹の実家も佐賀であり、飛び交うセリフの大半が佐賀弁だ。このローカル色豊かな御膳立てにより、キツい話がうまい具合に“中和”され、最後まで観客を引っ張ってくれるのだ。ラストは御都合主義的とも言えるが、背景が風情のある温泉町ならば“それで良いじゃないか”という気分にもなってくる。

 主演の江口のりこと内田慈、古川琴音はいずれも好調。特に江口の振り切ったようなパフォーマンスには感心した。清美のフィアンセに扮した“青山フォール勝ち”は初めて見るが、元々はお笑い芸人らしいので、演じることの基礎は出来ている。ただやっぱり気になるのが、この映画が橋口亮輔監督作品として推せるのかどうかだ。これまでの彼の作品はすべて企画からオリジナルであり、本作のような他人の原作を元にしたことが無かっただけに、個人的にはイマイチ承服しがたい。
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キース・へリング展に行ってきた。

2024-08-25 06:48:15 | その他
 先日、福岡市中央区大濠公園にある福岡市立美術館にて開催されていたキース・へリング展に足を運んでみた。ヘリングは所謂ストリートアートの先駆者とも呼べるアメリカの画家だが、正直私はその業績については(恥ずかしながら)あまり知らなかった。もちろん、あの独特の絵柄に関しては誰しも見覚えがあるだろうが、彼自身については私はまるで門外漢だ。だから今回の美術展は有意義だったと言える。



 ヘリングは1958年にペンシルベニア州レディングで生まれているが、30歳代で早世している。しかも、実質的な創作活動期間は10年ほどだ。しかし、その作品数は数百点にものぼるらしい。アートを特定の層にだけではなく大衆に届けたいと考えていた彼らしく、創作するメディアは絵画だけではなくポスターのデザインやストリートや地下鉄の構内、さらには自身のデザインを元にした数々のグッズの販路を展開するという、おそらくはそれまで例を見ないマーケティング(?)を採用している点は革新的だったのだろう。

 ユニクロが彼のデザインを採用していたことも思い出した。また、児童福祉のための慈善活動にも積極的だったとか。それだけに、若くして世を去ってしまったのは惜しい。そういえば、彼を題材にしたドキュメンタリー映画があると聞く。「キース・ヘリング ストリート・アート・ボーイ」というタイトルのイギリス作品で(製作は2020年 監督:ベン・アンソニー)、53分程度の小品らしい。機会があれば鑑賞してみたいものだ。



 会場は夏休み期間中ということもあり、家族連れも含めた多くの入場客で賑わっていた。特にこういうポップな画調は子供に対して大きくアピールするのではないかと思う(まあ、実はかなり際どい題材の作品もあったのだが ^^;)。会場内には各種グッズの物販コーナーがあり、商品数はかなり多かった。しかし私は時間が無くてゆっくり見られず、早々に美術館を後にしたのが、何とも心残り。今後こういうイベントに行く際には、余裕を持ったスケジューリングを心掛けたい。
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「ツイスターズ」

2024-08-24 06:33:51 | 映画の感想(た行)

 (原題:TWISTERS)ヤン・デ・ボン監督による「ツイスター」(96年)の続編という設定ながら、ストーリーは繋がっておらず、独立した一本として観ても一向に構わない。ただ、中身がさほど濃くなくて、アトラクションの趣がある点は前作と共通している。もちろん各キャラクターはそこそこ肉付けされており、ライト方面に振り切ったわけでもないのだが、鑑賞後にまず印象に残っているのは精緻な特殊効果であるのは正直なところだ。

 ニューヨークで気象予測の仕事に就いているケイト・クーパーには、不幸な過去があった。学生時代に故郷オクラホマ州で竜巻の観測をしていた際に、巨大竜巻に巻き込まれて多数の僚友を失っていたのだ。そんな折、彼女はくだんの事故で幸いにも生き残った友人ハビからの強い依頼で、竜巻対策のため帰省することになる。そこで出会ったのが、ストームチェイサー兼映像クリエイターのタイラー・オーウェンズとその仲間たち。ケイトは彼らと反目し合いながら、当地に現出した超弩級の竜巻に立ち向かっていく。

 ケイトが抱える屈託に加え、タイラーたちの一見いい加減ながら実は強い信念を持っている様子など、軽佻浮薄な登場人物の扱いは排除されている。竜巻多発地域が抱える社会的問題(阿漕な不動産業者の暗躍など)も取り上げられ、作品が薄っぺらくならない。そして何といっても、竜巻の圧倒的な描写だ。

 本来は4DXで観るべきシャシンなのだろうが、通常の上映で鑑賞した私でもその凄さは分かる。ケイトたちがこんな化け物に果敢に立ち向かっていく様子を追うだけでも、映画的興趣は十分醸し出されてくるのだ。リー・アイザック・チョンの演出は前回「ミナリ」(2020年)の時よりも進歩しており、多少テンポが緩い場面はあるにせよ、あまり気にならないレベルに抑えている。

 主演のデイジー・エドガー=ジョーンズは「ザリガニの鳴くところ」(2021年)の頃と比べて演技面はもちろん、ルックスに磨きが掛かっていることに驚いた。彼女を眺めているだけで本作を観る価値はある(笑)。タイラー役のグレン・パウエルをはじめ、アンソニー・ラモスにブランドン・ペレア、キーナン・シプカ、デイヴィッド・コレンスウェット、モーラ・ティアニーなど、脇のキャストも良い演技をしている。ベンジャミン・ウォルフィッシュの音楽はさほど目立たないが、的確な仕事ぶりだと思う。
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「クロス・ミッション」

2024-08-23 06:35:01 | 映画の感想(か行)
 (英題:MISSION CROSS )2024年8月よりNetflixから配信された韓国製アクション劇。前半はコメディ・タッチで楽しめるが、中盤を過ぎると、よくある活劇編のレベルに落ち着いてしまう。最後までスタイルに一貫性を持たせた方が良かったと思う。とはいえ、キャストは好調だしテンポも悪くないので、一応ラストまで観ていられる。

 ソウル市警に所属する敏腕女刑事カン・ミソンは、仲間内で“ワニ”と呼ばれるほどの強引で手荒な捜査で、周囲から恐れられていた。夫のパク・ガンムは幼稚園の送迎バスの運転手をしながら、主夫として彼女を支える気弱で穏やかな男だ。しかし、実は彼は韓国政府の諜報機関に属していた元特殊要員で、もちろん妻にはそれを隠して結婚したのだった。ある日、ガンムは昔の仲間と再会するが、それを切っ掛けに彼はまたしても国家的陰謀に巻き込まれていく。一方、ミソンは別のヤマ追っていたが、偶然それはガンムが直面している事態と繋がっていた。



 男勝りのミソンと恐妻家を装うガンムとの掛け合いが展開する序盤は面白く、ギャグも鮮やかに決まる。さらにガンムが以前の同僚である女性エージェントと会う現場をミソンの同僚たちが目撃し、これは不倫だと早合点するあたりは実に愉快だ。こういうライトな路線で全編進めて欲しかったのだが、主人公夫婦が“共闘”を始める後半に入るとドンパチ主体の単なるアクション劇に移行するのは不満である。

 もっとも、活劇の段取りはけっこう良く考えられているとは思うが(特にカーチェイス場面)、それだけではこの映画のストレートな作劇の欠如を補いきれない。あと、敵の首魁の扱いがいたずらにマンガチックで気勢が削がれる。脚本も担当したイ・ミョンフンの演出は、コメディのパートこそ上手くこなしているが、アクションシーンの繰り出し方は意外と平凡だ。結末の付け方も、あまりスマートとは言えない。これでは主人公2人の今後が見通しが掴めないと思う。

 とはいえ、主演のファン・ジョンミンとヨム・ジョンアは絶好調。表情の豊かさも身体のキレも、そしてギャグの繰り出し方も満点だ。チョン・ヘジンやチョン・マンシク、キム・ジュホン、キム・ジュンハンら脇の面子も悪くない。
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「リオ・ブラボー」

2024-08-19 06:40:40 | 映画の感想(ら行)

 (原題:RIO BRAVO )1959年作品。名匠と言われたハワード・ホークス監督が、フレッド・ジンネマン監督の「真昼の決闘」(1952年)に描かれた保安官像に不満を持ち、ジョン・ウェインを主役に据えて撮り上げた、ジンネマン作品へのアンチ・テーゼと言われる西部劇らしい。しかし「真昼の決闘」の革新性は今でも際立っているのに対し、本作は影が薄いように思う。とはいえ公開当時は大評判になったらしく、娯楽作品としては成功したと認めて良いだろう。

 テキサス州南部のメキシコ国境に近い町リオ・ブラボーの酒場で、客同士のトラブルが発生。そこに介入したならず者のジョーが、堅気の者を射殺する。保安官のジョン・T・チャンスはジョーを投獄するが、ジョーの兄ネイサンは多くの殺し屋を雇い入れ、町を封鎖してしまう。孤立したチャンスは連邦保安官が到着するまでの間、数人の仲間と共にネイサンの一味に戦いを挑む。

 設定だけ見ればスリリングなバトルものという印象を受けるが、語り口は緩い。展開は遅く、場面展開は意外なほど少ない。しかも室内のシーンが多いせいか、何やら演芸場の舞台を観ているようだ。結果として2時間20分という、この手のシャシンとしては無駄に長い尺になっている。ならば面白くないのかというと、決してそうではないのが玄妙なところだ。

 ウェイン御大が演じるチャンスをはじめ、以前は凄腕だったが失恋してから酒に溺れてロクに銃も持てない助手のデュード、若くて生意気だが腕の立つコロラド、片足が不自由な御老体ながらオヤジギャグと射撃に長けたスタンピー、そして偶然この地に逗留することになったショーガールのフェザーズら、キャラが異様に“立って”いる面子が勢揃いして持ち味を発揮しているのだから、ほとんど退屈しない。

 しかも、ディミトリ・ティオムキンによる有名なテーマ曲をはじめ、登場人物たちが歌うナンバーが実にチャーミングなのだ。クライマックスはもちろんネイサンの一派との撃ち合いになるのだが、けっこう段取りが考え抜かれていて感心する。まあ、敵方があまり強くないのは難点だが、それでも存分に見せてくれる。

 ディーン・マーティンにリッキー・ネルソン、ウォルター・ブレナン、ジョン・ラッセル、クロード・エイキンスら、役者も揃っている。また、フェザーズを演じる若い頃のアンジー・ディキンソンは本当に素敵だ。なお、石ノ森章太郎の代表作である「秘密戦隊ゴレンジャー」は、この映画をヒントにしているとか。確かに主人公たち5人の設定は、戦隊ものにピッタリかもしれない(笑)。
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「クレオの夏休み」

2024-08-18 06:29:56 | 映画の感想(か行)
 (原題:AMA GLORIA)世評は高いようだが、個人的にはピンと来ないシャシンだった。とにかく、話に愛嬌が足りない。別に、子供を主人公にしたヒューマンドラマだからといって肌触りの良いハートウォーミングなストーリーに仕上げる必要は無いのだが、本作はイヤな面が目立つ割にリアリティが希薄であり、観ている間は違和感しか覚えない。まあ、上映時間が83分と短いのが救いだろうか。

 パリに父親アルノーと暮らす6歳のクレオは母親を早くに亡くし、彼女は何かと面倒を見てくれる乳母のグロリアに懐いていた。ところがある日、グロリアは身内に不幸があったため遠く離れた故郷アフリカへ帰ることになってしまう。突然の別れに戸惑うクレオだったが、グロリアは彼女をアフリカの実家に招待する。そしてクレオはアフリカでの夏休みを過ごすことになる。



 実は、クレオの旅は決して愉快なものではない。グロリアの娘のナンダには産まれたばかりの赤ん坊がいて、当然のことながらグロリアはそっちの世話で忙しく、クレオをあまり構ってやれない。ただでさえ言葉が通じずに、ヨソ者のクレオは現地では上手く振る舞えない。ついには彼女は赤ん坊がいなければグロリアがフランスに帰ってくると考えてしまうような、愉快にならざる展開にもなる。

 もちろん、これはクレオ自身の責任ではなく、子供の気持ちを十分考慮しなかった父親やグロリアら大人たちに落ち度があるのだが、いくら何でも理不尽過ぎないか。クレオが思い切った行動に出てグロリアの親類たちとの距離を縮めそうなエピソードもあるのだが、効果的に描かれているとは思えない。そもそもこのシチュエーションに普遍性が見出せず、観ているこちらには何ら迫ってくるものが無い。

 マリー・アマシュケリの演出は求心力に欠け、露悪的なテイストばかりが先行しているように思う。そもそも、グロリアの故国カーボベルデは火山列島らしい奇観が多いらしいが、それらがほとんどフィーチャーされていないのも失当だろう。クレオ役のルイーズ・モーロワ=パンザニは、役柄のせいもあって可愛さに乏しい子供である。グロリアに扮するイルサ・モレノ・ゼーゴも大した見せ場は無い。

 アルノーを演じるアルノー・ルボチーニは、確かに考えが足りない父親像を上手く演じていたとは思うが、映画的興趣を醸し出しているとは言えない。あと気になったのが、アリー・アマシュケリとピエール=エマニュエル・リエによる、時折挿入されるアニメーション。さほどキレイでも面白くもなく、何のために起用したのか不明だ。
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「彼女はハイスクール・ボーイ」

2024-08-17 06:29:21 | 映画の感想(か行)

 (原題:JUST ONE OF THE GUYS)85年作品。まったく期待しないで観たものの、意外な拾い物であった。日本の学園マンガなどにはよくありそうな設定であるが、不思議なことに日本映画ではこんなシチュエーションのドラマは思い出せない。大林宣彦監督の「転校生」と似たところがあるが、やっぱり違う。オリジナルの題材は数多く考案されてもそれを実際に映画として企画してしまうことは、やはり邦画では難しいのであろう。それをためらいも無くやってしまうのが、アメリカ映画の思い切りの良さとも言える。

 アリゾナ州の高校に通うテリーは、ジャーナリスト志望の女生徒だ。自信満々で地元新聞の記事コンテストに応募したものの、落選を知りショックを受ける。しかもその理由が“女子だから”という理不尽なもの。ならば男子の人生がどのようなものか確かめようと、男装して次の週から隣町の高校に勝手に転校してしまう。

 彼女は初日早々にリックという親友が出来るが、彼は内気で片思いしているデボラに声も掛けられない。そこでテリーは“男らしい(笑)”アドバイスで彼をイメージチェンジさせ、デボラと接近させることに成功。しかしデボラの恋人で悪ガキのグレッグが黙っていない。かくして複雑な三角関係もどきが賑々しく展開するのであった。

 ストーリーはだいたい予想通り。最後は収まるべきところに収まるのだが、下品な描写も無く気持ちよく観ていられる。けっこう前の映画なので、ジェンダーの扱い方は現時点からすれば古風に過ぎるかもしれない。性別でコンテストの入選が左右されるというのも、かなりキツいだろう。

 しかしリサ・ゴットリーブの演出は丁寧で、男女入れ替わりネタに突入する段取りは上手く、ギャグも鮮やかに決まる。テリーに扮するジョイス・ハイザーは芸達者で、難しい役柄を違和感なくこなしているし、見た目も可愛い。ただ、彼女は実質これ一作で消えたようなので残念だ。

 リック役のクレイトン・ローナーは好演だが、この頃はやっぱり若い(笑)。デボラ・グッドリッチにレイ・マクロスキー、シェリリン・フェンといった脇のキャストも堅実だ。音楽を担当しているのが何とフュージョン界の大物トム・スコットで、流麗なメロディを奏でている。
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「化け猫あんずちゃん」

2024-08-16 06:26:05 | 映画の感想(は行)
 普段ならば鑑賞対象にならない分野の映画なのだが、山下敦弘が演出に参加しており、しかも脚本がいまおかしんじという盤石の布陣。世評も悪くないので観てみた。しかし結果は空振りだ。何やら最初から作り方を間違えているような様子で、最後まで面白さを見出せなかった。一応“夏休み番組”のアニメーション映画ということなので、それらしいモチーフを無理矢理にくっ付けたせいかもしれない。

 南伊豆の山あいにある草成寺の住職の息子の哲也が、11歳の娘かりんを連れて20年ぶりに戻ってくる。哲也は妻の柚季を亡くしてから自堕落な生活に終始して借金が嵩み、かりんを寺に預けるとすぐに金策のために出奔する。かりんの面倒を見ることになったのは、寺に居着いている“あんず”と名付けられた化け猫だ。あんずは30歳はとうに過ぎているが、人間の言葉を話して人間のように暮らしている。実は寺の周辺には魑魅魍魎が生息しており、かりんはあんずを通じてそれらと付き合うハメになる。



 かりんのキャラクターはけっこうワガママで、周囲を引っかき回してばかりだ。ところがいましろたかしによる原作コミックには彼女は登場しないらしい。原作は読んだことは無いが、たぶんあんず及び妖怪たちと住職らが織りなすノンビリとした日々を、脱力的なタッチで綴ったものだと想像する(違っていたらゴメン ^^;)。

 ところが映画版は夏休み映画として若年層の観客をも意識しなければならず、観る者にとって“感情移入が容易だ”と送り手が合点した子供の登場人物を主人公として設定したのではないだろうか。事実、かりんが出発点として巻き起こる騒動は無理筋で、特に“あの世”とのコンタクトを描く部分は話が破綻している。

 それでもアニメーション技術に見るべきものがあれば納得するが、これも不発だ。本作はあんずの声を担当する森山未來をはじめとするキャストの“実写映像”をもとに作画するという、いわゆるロトスコーピングが採用されているが、メインの監督である久野遥子はそれを活かしているとは言いがたい。どう見ても普通のアニメだ。青木崇高に市川実和子、宇野祥平といった多彩な声の出演陣をも揃えているのに残念だ。なお、鈴木慶一(住職の声も担当)による音楽と佐藤千亜妃による主題歌は悪くないと思った。
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