元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「スパイダーマン:ホームカミング」

2017-08-28 06:25:55 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SPIDER-MAN:HOMECOMING )随分と“軽い”仕上がりだ。今回からアベンジャーズ陣営に正式参加するための措置かと思ったのだが、アベンジャーズ関連作品もけっこうハードな題材を扱うこともあるので、理由はそれではないだろう。いわば“二軍扱い”の若造のエピソードに過ぎないということか。そう割り切って観れば、楽しめるかもしれない。

 15歳の高校生ピーター・パーカーは、スパイダーマンとしてのパワーを身につけてからアイアンマンことトニー・スタークの経営する会社に研修生として出入りしている。とはいってもアベンジャーズの面々のように世界的な危機に対峙することは出来ず、担当する仕事は町内のトラブルを解決するぐらいだ。一方、ロキとの戦いの後始末を任されていた産廃処理会社の経営者エイドリアン・トゥームスは、トニーの意向で仕事から外されたことに納得が出来ない。腹いせにチタウリの残骸を再利用したハイテク兵器を開発し、ギャングどもに売り込むという闇稼業を始める。そして自らは怪人バルチャーとしてニューヨークの裏社会に暗躍する。トゥームスの組織の取引を偶然目撃したスパイダーマンは、トニーの忠告も無視してバルチャーとの全面対決に挑む。

 ピーターがスパイダーマンになった経緯や、ベンおじさんが非業の死を遂げたことも省略されている。だからピーターの内面の屈託が全然描かれておらず、最初からチャラい野郎として出てくる。スパイダーマン作品に初めて接する観客には不親切だが、作る側は“そんな設定は誰でも分かっているじゃないか”というノリで押し切っているようだ。

 このような“中身があまり無いヒーロー”が動き回る活劇編としては、そこそこ上手く出来ている。ジョン・ワッツの演出はテンポが良く、アクション場面もソツなくこなす。主役のトム・ホランドが軽量級である分、アイアンマン役のロバート・ダウニー・Jr.や、敵役のマイケル・キートン、メイおばさんに扮するマリサ・トメイといった存在感のあるキャストが適宜フォローしているという感じだ。

 とはいえ、学生としてのピーターを取り巻く面子はどれもいただけない。正体を知ってしまうネッド(ジェイコブ・バタロン)はコメディ・リリーフとしてまあ良いが、 ローラ・ハリアー演じる片想い相手のリズや、ゼンデイヤ扮するMJに至っては、お手軽学園ドラマみたいな雰囲気で愉快になれない。「アメイジング・スパイダーマン」シリーズのエマ・ストーンのレベルは無理としても、もう少し魅力のある役者を引っ張ってくるべきだった。

 さて、晴れてアベンジャーズの“一軍”に取り立ててもらえそうになったピーターだが、斯様なライト感覚では他のメンバーとの“格差”が気になるところ。次回以降でどのようにアプローチしてくるのか、多少の関心はある。
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ドレッシングは“ご当地製”に限る。

2017-08-27 06:28:10 | その他

 先日大分の九重連山に行ってきたことを書いたが、自宅用の土産の一つとして買ってきたのが、地域で製造・販売されている焙煎アマミを使用したドレッシングである。

 我が家ではサラダにかけるドレッシングは必需品で(マヨネーズでは味が濃すぎてダメだ)、今まで数多くの製品を試してみたが、高評価を獲得するのは決まって旅行や出張先で買ってきた“ご当地モデル”である。スーパーで売っているものは軒並み好みに合わず、デパートで扱っている値の張る商品や海外製も“何か違う”といった感じだ。対して地方発の製品は、ほぼハズレが無い。

 今までで特に印象に残っているものは、長崎県対馬市で作られている「ゆずだれ」と、鹿児島県薩摩川内市の「金柑ドレッシング」である。どちらも柑橘系だが、まろやかで深い味わいがあり、サラダを引き立てる。くだんの焙煎アマミを使用したドレッシングは実はまだ開封していないが、どんな味がするのか楽しみである。

 あと、ドレッシングと共に旅行に行った際に必ず買ってくるのが、ご当地産のジャムである。これについては、別途あらためて書きたい。
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「少女ファニーと運命の旅」

2017-08-26 06:56:06 | 映画の感想(さ行)

 (原題:LE VOYAGE DE FANNY)実話の映画化だが、そのことを作劇の不手際のエクスキューズにする様子が無いのは、まずは好感が持てる。もっとも、プロットの組み立てにぎこちない点があるのは事実。ただ、あまり気にならないのは、子供が中心というキャラクターの設定によることが大きい。かつて“子供と動物が出てくれば、大人の役者は用済み”とかいう意味の定説があったらしいが、それは今でもある程度は通用するようだ。

 1943年、ドイツの支配下にあったフランスでは、ユダヤ人の子供を秘密裏に匿う児童施設がいくつか存在していた。13歳のファニーと幼い2人の妹もその一つに入所していたが、密告によって子供たちは別の協力者の施設に移ることを余儀なくされる。しかし、新たな転居先にもナチスの手が忍び寄り、ファニーたちは安全な場所を求めて列車で移動する。だが、ドイツ兵による厳しい取り締まりのせいで引率者とはぐれてしまい、9人の子供たちは見知らぬ土地に取り残されてしまう。成り行きでリーダーとなったファニーは、何とか子供たちの面倒を見ながらスイスの国境を目指すが、ドイツ軍の追跡は続いていた。

 御都合主義的な展開が目立つのは愉快になれない。当局側に捕まって廃校舎に閉じ込められた主人公たちは、窓の外に“味方”を発見した途端、次のシークエンスでは窮地を脱している。森の中で迷ってしまうと、親切なオッサンの家に世話になり、ついでに国境までの案内人まで紹介してくれる。子供たちの中に“偶然にも”大金を持っている者がいるというのも、無理筋のプロットだ。

 引率者の一人がファニーに渡す手紙が重要な小道具として扱われているようだが、実はこれがあまり効果的ではない。ラストの処理にも手紙が使われているが、あまりにも作為的だ。

 しかし、観ていてあまり腹が立たないのは、子供たちの健気な奮闘ぶりが印象的だからである。特にファニーの、逃げ腰になりそうな内心を振り払うように困難に立ち向かっていく様子は、グッとくる。演じるレオニー・スーショーは実に達者な子役だ。他のメンバーもけっこうキャラが立っていて飽きさせない。

 演出担当のローラ・ドワイヨンはジャック・ドワイヨン監督の娘だが、父ジャックの作品は「ポネット」(96年)ぐらいしか観ていないので、彼女がどの程度才能を受け継いでいるのか分からない。ただ、本作を観る限りでは“無難にこなしている”という感じを受ける。なお、原作は戦後書かれたファニーの自伝である。何とか生き抜いた彼女だが、戦時中は無念にも倒れていった子供たちも多かったことを考え合わせると、改めて戦争の無常さを感じずにはいられない。
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九重に行ってきた。

2017-08-25 06:31:36 | その他
 今年の夏はまとまった休みが取れたのだが、個人的に何やかやと用事が多くて長期の旅行には行けるはずもなかった(それ以前に、懐具合があまり芳しくなかったという事情もある ^^;)。それでもずっと家にいるというのは飽きるので、一泊でドライブに出掛けることにした。行き先は大分県の九重連山である。



 久住山の登山口、牧の戸峠を経て長者原まで足を運んだ。有名な九重“夢”大吊橋は2,3年前にも行ったのでパスしたが、飯田高原や瀬の本高原は何度見ても美しい。九重地区には有名な温泉地が9か所あり、“九重九湯”と呼ばれている。その中の一つに宿を取り、心身共にリフレッシュ出来た感じだ。

 昼食は大分名物の“とり天”をいただいた。大分に出張等で行く際にはいつも食べるのだが、本当に美味い。“とり天”というのは文字通り鶏肉の天ぷらであるが、フワッとした食感が何とも言えず(まあ、中にはカラッとしたものもあるが)、鶏の唐揚げとは一線を画した独自性を獲得している。



 帰りには日田市に寄って名物の焼きそばを食べてきた。とはいえ標高が高くて涼しい九重から、九州の中では最高気温を記録する日田市に移動すると、身体のダメージが大きい(笑)。しかも、名の知れた店だと炎天下で並ばなければならない。家にたどり着いたときは疲労困憊だったが、まあこれも“夏の思い出”として悪くないのではないだろうか。
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「夜明けの祈り」

2017-08-21 06:22:22 | 映画の感想(や行)

 (原題:LES INNOCENTES)こういう宗教ネタを前面に出した映画は、個人的には評価を差し控えたいのだが、主演女優の存在感と映像の美しさで何とか最後までスクリーンと対峙することが出来た。また歴史の一断面を知ることが出来るという意味では、観る価値はあると言える。

 1945年12月、ポーランドの寒村。フランスから派遣された若い女医マチルドは、赤十字で医療活動を行っていた。ある日、村の修道院のシスターが切羽詰まった表情で助けを求めてやってくる。マチルドは担当外であることを理由に一度は断るが、寒風の吹く野外で何時間も祈りを捧げている彼女の姿に心を動かされ、現場に出向いてみる。修道院では、7人の修道女がソ連兵の蛮行によって身ごもってしまい、何人かは出産間近だという。マチルドは医者としての使命感により、彼女達を助けようとする。だが、宗教的戒律が彼らの行く手を阻む。第42回仏セザール賞にて主要4部門にノミネートされている。

 確かにソ連兵の暴挙は許せない。しかし、彼女達の行動は理解しがたいものがある。苦しんでいるのに、なぜか外部に助けを求めることを躊躇する。一人の修道女の知らせによってマチルドはこの事件を知るのだが、修道院内には最後までマチルドに対して心を開かない者もいる。しかも、彼女達はこの試練を“神の意志”だとして受け入れようという向きもある。あと、ポーランドの医者に診せてはいけないと主張する修道女もいるのだが、そのあたりの事情がうまく説明されていない。

 ここで描かれる宗教は、人々を救うものではなく逆に障害になるようなものだ。もちろん、それを批判的に扱うことも出来るのだが、本作にはそういう素振りは見られない。何の事前説明も無く、確固とした既成事実として設定されている。これでは納得も共感も出来ない。少なくとも、キリスト教にはあまり縁の無い多くの日本の観客にとっては、ピンと来ないのではないか。

 監督は「ボヴァリー夫人とパン屋」(2014年)のアンヌ・フォンテーヌだが、あの作品に見られた軽妙さが微塵も無く、深刻さばかりが強調されている。作劇面でもメリハリが見られず、盛り上がりが見られないまま終盤を迎えるのみだ。

 ただし、マチルドに扮するルー・ドゥ・ラージュは見所はあると思った。初めて見る女優だが、可愛いだけではなく演技もしっかりしている。特に、何があっても動じないような胆力を感じさせるのが印象的。またカロリーヌ・シャンプティエのカメラによる、冬のポーランドの風景。清澄な修道院内の佇まいの描写は見応えがある。
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「獅子王たちの夏」

2017-08-20 06:29:15 | 映画の感想(さ行)
 90年東映作品。非凡な才能を持ちながら若くして世を去った脚本家兼演技者の金子正次が遺したシナリオは、自身が出演した「竜二」(83)を除いて4本ある。本作はその中の1本を映画化したものだが、何とも冴えない出来に終わってしまった。作り方が根本的に間違っているようなシャシンである。

 昔ながらの極道者になることを望んで坂上連合系列の村井組に入った勝は、打算に満ちたヤクザ社会の実態に幻滅する。ある日彼は、坂上連合と対立する大日本極真会に所属する修と出会う。彼に本物の極道の匂いを感じ取った勝は強く惹かれるが、欲得尽くで動くヤクザの世界はそんな“男気に男が惚れて”といったセンチメンタリズムを許さない。ある“事件”によって一年間獄中生活を送ることになる勝だったが、出所した彼は組の都合で立場が翻弄される。やがて対立していたはずの2つの会派は事実上瓦解し、それぞれのグループが利権を求めて暗躍する中、勝と修の立場も危うくなる。



 クレジットでは脚本担当欄に金子と並んで西岡琢也の名がある。話によると、西岡が勝手に金子のシナリオを改訂したらしい。原作は京都だが、本作では舞台が首都圏になっている。そもそも、主人公達の名前からして元ネタと異なるという。西岡は80年代にはいくつか注目すべき仕事をしたが、この映画が作られる頃はピークを過ぎていた。少なくとも、金子正次とはレベルが違う。そんな状態では、良い作品が出来るはずも無い。

 加えて、キャスティングの弱さは致命的だ。哀川翔と的場浩司が主演では、金子正次自身はもちろん、「ちょうちん」(87年)の陣内孝則にも負ける。ヒロイン役の香坂未幸には魅力が無いし、風見しんごや布川敏和、国生さゆりといった面々がスクリーンを横切る様子は、まるで(当時の)アイドルの顔見世興行である。高橋伴明の演出も、低調な脚本に引っ張られたせいか、まるで気合いが入っていない。

 金子の手による脚本のうち、「盆踊り」だけは現時点でも映画化されていない。その理由は分からないが、もしも今からでも映画にするということならば、十分に吟味して信用のおけるプロデューサーにまかせてもらいたいものだ。
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「牡丹燈籠」

2017-08-19 06:51:38 | 映画の感想(は行)
 68年大映作品。福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映“怪談映画の夜”にて鑑賞。結論から言えば、大して面白くは無かった。全然怖くないし、それどころか笑ってしまうような場面も散見される。ただし、山本薩夫という日本映画史上にその名を残す映像作家もこういう映画を撮っていたのかという、そんな事実に対しては興味を覚える。

 旗本の三男坊新三郎は、急逝した兄に代わって家督を継げという親族からのプレッシャーを嫌い、下町の長屋に住み地元の子供達に読み書きを教えるという生活を送っている。盆の十六日、燈籠流しの夜に彼は吉原の遊女お露とその下女のお米と知り合う。武士の娘でありながら吉原に売られたお露の不幸な身の上に同情した新三郎は、盆の間だけでもお露と祝言の真似事をして一緒に過ごすことを決める。

 ところがこの一件を覗き見ていた同じ長屋に住む伴蔵は、お露の裾が消えているのに仰天する。何とお露とお米はすでに自害しており、新三郎の前に現れたのは幽霊だったのだ。お露との逢瀬を続けるうちに新三郎は衰弱していき、このままでは死を待つばかり。伴蔵から様子を聞いた白翁堂は、寺の住職の協力を仰ぎ、新三郎を魔除けの御札を貼ったお堂に盆の間閉じ込めることにする。三遊亭圓朝による落語の怪談噺の映画化だ。

 幽霊には足が無いというのが“定説”で、本作のお露とお米もそういうエクステリアを伴って現れることもあるのだが、なぜかカランコロンと下駄の音が聞こえてくるのは不可解だ。また、新三郎も身の危険を察知したのならば、まずは遠くに逃げることを考えるべきだと思うのだが、そうしないのはオカシイと思う。

 お露とお米が“正体”を現して空中を飛び回るシーン等は、当時としてはインパクトがあったのだろうが、今観ると稚拙で“時代”を感じるばかり。終盤の展開はポピュラーな怪談である「吉備津の釜」と一緒であり、ストーリー面での興趣は乏しい。

 新三郎役の本郷功次郎、お露に扮する赤座美代子、いずれも呆れるほどのオーバーアクト。小川真由美や西村晃、志村喬といった脇の面々は悪くないのだが、主役2人のパフォーマンスがこの有り様なので割を食っている。

 怪談映画は古くから作られていたが、70年代前半あたりから数を大幅に減らしている。丁度ヤクザ映画が古式ゆかしい任侠物から実録路線に転じた時期でもあり、昔ながらの怪談物も飽きられたのだろう。現時点でオールドファッションの怪談物を“復活”させようとすれば、様式美を追求したアート系ぐらいしか方法が無いと思われる。
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「ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女」

2017-08-18 06:56:48 | 映画の感想(は行)
 (原題:HENRY & JUNE )作家アナイス・ニンの日記を基に、まだ無名だったヘンリー・ミラーとその妻ジューンとの関係を描く。90年アメリカ作品。フィリップ・カウフマン監督といえば、「ライトスタッフ」(83年)そして「存在の耐えられない軽さ」(88年)でキャリアの絶頂を迎えたものの、本作を境に高評価を得ることが出来なくなったことに思い当たる。

 1931年、アナイス・ニンは銀行家の夫ヒューゴーの仕事のため、キューバのハバナからパリに引っ越してくる。ある日、アナイスは別荘に客として招かれた無名の作家ヘンリー・ミラーを一目見て好きになり、彼も彼女の妖しい魅力に惹かれる。ヘンリーの妻ジューンはニューヨークで女優をしているのだが、彼女は夫を養うために金持ちのパトロンに囲われていた。



 やがてジューンもパリへやって来るが、実はバイ・セクシュアルであるアナイスは彼女にも惹きつけられ、愛し合うようになる。だが、ジューンはヘンリーの書いている小説のモデルになっている自分の姿が現実と違うことに怒りを覚え、ニューヨークへ帰ってしまう。仕方なくヘンリーはアナイスと本格的に付き合うことにするが、彼女はその顛末をヒューゴーが隣で寝ているのも構わず、日記に書き留めるのであった。

 前作「存在の耐えられない軽さ」でも多用されたクローズショットが、ここでも大々的に採用されている。登場人物の生理的な次元にまで肉迫するような接写の連続で、息苦しくも圧倒的なインパクトは受けるのであるが、どこか余所余所しい。各キャラクターの“生理”は見えるが、“内面”が伝わってこないのだ。

 聞けばカウフマンはベルイマンをはじめとするヨーロッパのアート・フィルムに心酔していたとのことだが、何やら表面的な部分だけを模倣しているように思える。

 実は「存在の耐えられない軽さ」にもそういうテイストは感じられたのだが、主演の3人の素晴らしい存在感と、“プラハの春”という厳然たる歴史的事実を背景にしたおかげで、見応えのある展開になっていた。ところが本作のキャストはあまりにも弱い。ヘンリー役のフレッド・ウォード、ジューンに扮するユマ・サーマン、そしてアナイスを演じるマリア・デ・メディロスという配役は、前作のダニエル・デイ・ルイス、ジュリエット・ビノシュ、レナ・オリンという超強力キャスティングと比べたら、まるで月とスッポンである。

 ついでに言うと、大道具小道具が凝っているわりには時代色が出ていない。単に小綺麗なだけである。外観はヨーロッパ映画風だが、作っている連中はハリウッド娯楽映画路線の担い手であるというミスマッチが、最後まで足を引っ張っているようなシャシンだ。
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「ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ」

2017-08-14 06:39:37 | 映画の感想(は行)

 (原題:THE FOUNDERS)とても面白かったが、果たしてこういう映画を作って良いのかという疑問が渦巻く。少なくとも日本では絶対に映画会社から製作許可が下りず、企画段階どころか関係者が構想を少し口にしただけで速攻で潰されるようなネタだ。この題材をあえて取り上げるという、ハリウッドの懐の深さというか、いい加減さというか、そんな彼の国の事情に改めて感心してしまう。

 1954年、シェイクミキサーのセールスマンであるレイ・クロックは、50歳過ぎても風采が上がらず、あまり成果の望めない営業活動を地道に続けていた。ある日、彼はあまり売れないはずのこの商品を大量発注したハンバーガーショップがカリフォルニア州に存在することを知る。興味を持った彼がその店を訪ねてみると、画期的なシステムでハンバーガーを効率的に売りさばく、店主のマクドナルド兄弟の斬新な手腕に驚嘆する。

 クロックは彼らにフランチャイズ・ビジネスを持ちかけ、いつの間にか共同経営者として居座ってしまう。クロックの強引な遣り口によってチェーン店は急拡大するが、グローバルな成功よりも美味しいハンバーガーを安く提供することを第一義的に考えるマクドナルド兄弟とクロックとの対立が、次第に表面化してくる。世界的なファストフードのチェーンストアの黎明期を描く実録物で、もちろん登場するキャラクター達は実在の人物だ。

 とにかく、クロックの外道ぶりに圧倒される。しがない営業マンながらドス黒い野心を胸に秘め、チャンスを見つけると目的のためには手段を選ばない暴挙に出る。ハンバーガーが美味いかどうかには興味は無く、各都市の一等地を買い漁って出店し、加盟店から見合ったリース料を徴収してボロ儲けしようという“不動産投資ビジネス”に邁進する。

 マクドナルド兄弟からは商標権を奪い取って“創立者”を名乗り、糟糠の妻を簡単に捨てて部下の嫁さんを寝取る。事業を進める上で手を組むビジネス・パートナーも、最終的には“単なる手駒”としか思っていない。

 では観ていて不快な気分になるのかというと、それは違う。これほどまでに露悪的に“ぶっちゃけて”しまうと、一種の爽快感を覚えてしまうのだ。たぶんクロックは、人を人とも思わないサイコパスなのだろう。しかし、そんな常軌を逸した人物が大成功してしまう、血も涙も無い資本主義の実相をこれほどまでにヴィヴィッドに描き出した作品はそう無いと思う。

 ジョン・リー・ハンコックの演出は快調にノリまくり、主役のマイケル・キートンは鬼気迫る表情で守銭奴を楽しそうに演じる。ニック・オファーマンやジョン・キャロル・リンチ、ローラ・ダーンといった他の面子も良い仕事をしている。

 冒頭にも書いたが、実在の大企業の“黒歴史”をエゲツなく描く本作のスタイルは、日本では実現不可能だ。余計な“忖度”に絡め取られ、描きたいネタも描けない膠着した状況が横たわっている。もっとも、こういう硬派な題材を取り上げようという映像作家自体が、あまり存在しないという事実があるのかもしれない。
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「仕立て屋の恋」

2017-08-13 06:45:10 | 映画の感想(さ行)
 (原題:MONSIEUR HIRE )89年作品。「髪結いの亭主」(90年)「橋の上の娘」(99年)などで知られるパトリス・ルコント監督の、現時点での最高作がこの映画である。美しくも残酷なストーリーと、ストイックでありながら官能的な映像美が観る者を魅了する。この頃のフランス映画の代表作と言えよう。

 仕立て屋の中年男イールはおとなしく几帳面だが、性犯罪の前科があり、折しも近所で発生した殺人事件の参考人として警察からマークされている。彼の目下の楽しみは、向かいの部屋に暮らす若い女アリスの姿を覗き見ることだ。イールは彼女に恋人がいることを知っているが、そんなことはお構いなしにアリスに一方的に恋していた。



 ある日、アリスはイールが自分を覗いていることを知る。だが、あろうことか彼女の方からイールに接近してくる。実はアリスは自分の恋人エミールが殺人事件の犯人であることを、イールが察知しているのではないかと疑い、確かめようとしたのだ。イールはそんな彼女の思惑を見抜いた上で、それでもアリスに対する恋心を捨てない。ジョルジュ・シムノンのミステリー小説の映画化である。

 若い娘の部屋を凝視する主人公は、有り体に言えば立派な“変態”である。ところが作者は、そんな下世話な感想を観客が持つことを許さない。自分の思いは決して報われることはない。しかし、そのペシミスティックな感慨が名状しがたい陶酔を呼び込む。これは立派な“純愛”なのだ。

 やがて相手がただ覗き見るだけの対象ではなくなり、実際に言葉を交わすような存在になっても、悲恋になることは十分承知している。だが、心のどこかでこのまま彼女と上手くやっていけるのではないかという、はかない希望が顕在化し、現実とのギャップに身悶えする。このイールのピュアな心情は、終盤の暗転にもいささかも動じることはない。ルコントが描く“男の純情”には定評があるが、本作はそれが最大限に発揮されている。

 主人公の“禁欲的”とも言える恋情を見事に表現するミシェル・プランと、純粋さとしたかさが同居したアリス役のサンドリーヌ・ボネール、共に素晴らしいパフォーマンスだ。ブラームスの室内楽曲を巧みにアレンジしたマイケル・ナイマンの音楽。パリの街を奥行きのある映像でとらえたドニ・ルノワールのカメラ。鑑賞後の満足度は、極めて高い。
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