元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「サラ・ムーンのミシシッピー・ワン」

2016-10-31 06:22:23 | 映画の感想(さ行)
 (原題:MISSISSIPPI ONE )91年フランス作品。主人公の少女アレクサンドラ(アレクサンドラ・カピュアノ)はCFのモデルをしており、冒頭、すでに大人にとりいる術を心得た彼女のお喋りがアップで映し出される。歌手をしている母は不在がちで、家ではいつもひとりぼっち。いわば“在宅棄子”の彼女なのだが、ある日学校帰りに見知らぬ男(デイヴィッド・ロウ)に誘拐される。実は男はずいぶん前にアレクサンドラの母親と別れた彼女の父親らしいのだが、映画は深く詮索せず、孤独な少女と男の奇妙な逃避行を追って行く。

 国際的な写真家でファッションの世界はもとより広告、CFなどで活躍するサラ・ムーンの監督デビュー作。まず目を奪うのは独特の映像美である。モノクロ映像に近い暗欝に沈んだ色調。繊細極まりない光と影の融和。どのショットをとっても写真集の一ページになり得るほど、神経のゆきとどいた画面処理である。



 さて、この映画を観てまっ先に思い出したのは、同じ写真家の監督デビュー作であり、孤独な男が少女を誘拐して連れ回るという設定もそっくりな浅井慎平監督「キッドナップ・ブルース」(82年)である。結果から言わせてもらうと、これは圧倒的に「キッドナップ・・・」の勝ちだ。

 浅井慎平のファインダーを通じての世界観、映像についての考え方が、誘拐劇というドラマの枠を大きく超えて、観客に迫ってくる衝撃はかなりのものだった。俳優の動かし方も堂に入っていたし、多彩な顔ぶれの脇役陣も楽しかった。これに対し、「ミシシッピー・ワン」は終始男と少女の逃避行から逸脱することはない。

 世間的なものは介在しない(この点で社会の歪みをも告発した「シベールの日曜日」とはかなり遠い位置にあることがわかる)、いわば密室劇の線を狙っている。こういう展開になると映像よりも登場人物の内面描写とか、ドラマの持って行き方など、プロの演出家としての実力が問われるのは当然だ。しかし、自身も“在宅棄子”だったというムーン監督の思い込みが激しいせいか、少女に比べ男の描き方が通りいっぺんになってしまい、どことなく息苦しさを覚える。テンポも必要以上に遅く、途中で退屈したのも事実だ。

 それにしてもカピュアノは子供らしい無垢な表情から、嫉妬深い“女”の顔まで瞬時にして演じられる、この年齢にしてすでに一人前の女優の雰囲気を持っているのには驚かされた。まったく、アチラの子役のうまさには、いつもながら参ってしまう。
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「オーバー・フェンス」

2016-10-30 06:50:01 | 映画の感想(あ行)

 とてもいい映画だと思う。熊切和嘉監督の「海炭市叙景」(2010年)、呉美保監督の「そこのみにて光輝く」(2014年)に続く佐藤泰志の小説の映画化だが、山下敦弘監督作らしく、どこか突き抜けた明るさを伴っているのが心地良い。作劇面でも隅々にまで配慮が行き届いており、観ることが出来て本当に良かったと思える秀作だ。

 主人公の白岩は妻子と別れて仕事も辞め、東京から故郷の函館に戻り、今は一人暮らしで失業手当を元手に職業訓練所に通っている。訓練所では、一緒にキャバクラを切り盛りしようと話を持ちかける若い男・代島を筆頭に、年齢や性格、それまでの経歴も様々な男たちがこれからの人生を仕切り直すべく木工を学んでいる。ただ、白岩は訓練所の仲間や地元の親類とは深い付き合いを避け、狭いアパートでの一人暮らしを続けるばかり。

 ある日、彼は路上で男に対して大声で悪態をつき、奇矯な行動を取る若い女を目撃する。しばらく経って、代島と一緒に入ったキャバクラで、その女と再会。彼女は聡という名のホステスで、どこか常人とズレた言動によって店内では独自のポジションにいた。どうやら聡は代島と付き合っているようなのだが、それでも彼女のことが気に掛かる白岩は、昼間彼女がアルバイトをしている動物園に向かうが、聡はそこでもトラブルを引き起こす。

 本作も過去の佐藤泰志の映画化作品の例に漏れず、出てくるのは不遇と孤独に身もだえする人間ばかりだ。白岩は離婚したことで自身のアイデンティティが全て失われたかのごとく、自ら孤立の道を選ぶ。何の希望もない生活を送ることで自分の失敗した人生を再確認するような、ニヒリスティックな境地に引きこもっているのだ。

 程度の差こそあれ他の登場人物も似たようなもので、たとえば日々作業を続ける訓練所の仲間達には明るい将来が開けているわけでもない。取り敢えずは何かをしなければならないという、後ろ向きの義務感に駆られているだけだ。代島もキャバクラを成功させるアテなんか持ち合わせていない。聡に至ってはメンタル面での問題により、日常生活もマトモに送れない。

 どう考えても、このどん詰まりのシチュエーションから少しでも救いのある着地点へ移行させるとなると、正攻法にやってはギャップが大きすぎる。だが、山下監督のトボけた持ち味は、そんな彼らにもポジティヴなスタンスがわずかでも残っていることを垣間見せることに成功している。訓練所のソフトボール部の珍妙な練習風景や、白岩と元ヤクザである訓練生とのユーモアとペーソスに溢れたやりとりなどで巧みに笑いを取りつつ、ドラマが“真っ暗”になってしまうことを巧妙に回避している。そして全てをクライマックスのソフトボールの対外試合へと持って行ってカタルシスを生み出そうという展開は鮮やかだ。

 主演のオダギリジョーは、彼の数多いフィルモグラフィの中でも上位に属すると思われるパフォーマンスを披露。捨て鉢になった男のやるせなさを力のこもった演技で見せる。さらに聡に扮する蒼井優の仕事ぶりは圧巻と言うしかなく、鳥の形態模写で自身の鬱屈を表現するあたりの迫真性は、観ていて引き込まれるものがある。

 他に松田翔太や北村有起哉、満島真之介、鈴木常吉など、確かな演技力を持ち合わせた者ばかりが登場するのは気持ちが良い。白岩の元妻役で優香が出てきたときは少しヒヤリとしたが(笑)、大きな役ではなかったのでボロが出ていない。近藤龍人のカメラによって切り取られた函館の街の風景は、「海炭市叙景」での荒涼としたものとは違い、どこか暖かみを持っている。田中拓人の音楽も万全だ。
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「エル・マリアッチ」

2016-10-29 06:30:13 | 映画の感想(あ行)
 (原題:EL MARIACH)92年作品。当時24歳だったメキシコ系アメリカ人、ロバート・ロドリゲス監督のデビュー作にして(現時点における)最高作。世界各地の映画祭で好評を博しており、同年に製作されたクエンティン・タランティーノ監督の「レザボアドッグス」に負けるとも劣らぬ快作だ。

 冒頭、沙漠の中の刑務所で、裏切り者の服役者を始末するため送られたマフィアの手下どもがアッという間に返り討ちになるシーンから、ハンパではない緊張感が画面にみなぎる。服役していた殺し屋は、ボスを殺すべく脱獄。黒ずくめの服装に、脇にかかえたギターケースの中身は自動小銃だ。ここにもう一人、流れ者のマリアッチ(日本でいうところの“流し”みたいもの)が稼ぎ口をさがして街へやってくる。彼もまた黒い服装にギターケース。宿屋ではマフィアに買収された主人の密告により、殺し屋に間違われ、マフィアから逃げ回るハメになる。



 この映画の製作費はなんと100万円足らずである。素人同然のキャストはほとんどボランティア。16ミリの手持ちカメラを駆使しているが、技量は高い。まずはこのカメラワークの切れ具合。極端な俯瞰とローアングル、スローモーションと速回しをミックスした、あざといまでのケレンが荒涼とした背景に実にマッチしている。

 そしてアクションのスピード感、圧倒的なカッティングの鋭さ、段取りの見事さは、予算不足を吹き飛ばす迫力だ。この作者独自の演出・編集のリズム感が大きくモノを言う。サスペンス一辺倒ではなく、効果的にギャグを挿入してドラマ作りに余裕を与えている。

 特に感心したのが、マリアッチが酒場の女に殺し屋ではないかと疑われ、ナイフをつきつけられる場面だ。女は“本物のマリアッチなら何か歌ってみろ”と迫るが、緊張してとっさに声が出ない。あわやというとき、主人公が即興で自分の境遇を歌にして観客を爆笑させたあと、女は“これってペーパーナイフなのよね”と種明かしをする。コメディ的な場面だが、次の瞬間カメラは女の飼っている犬の表情を何の脈絡もなく大撮しにする。ハリウッド映画みたいに大仰な前振りをしてギャグをかまさず、物事を即物的に捉えて意外性で笑いをとる作者の特質が出ている。この感覚は全篇にわたっており、観客を飽きさせない。そして主人公の夢の場面のシュールな味付けが絶妙の効果だ。

 個々のキャラクターも“立って”いて、間違われるギターケースの争奪戦も予想通りであるが楽しませてくれる。ラストは少し無理に盛り上げた感があるが、これはこれで余韻たっぷりだ。

 低予算をものともしない良質の娯楽映画。コロンビアが買い取り、メジャーな配給網に乗ったらしいが、その際、サウンドトラックを入れ直し(音楽もなかなかカッコいい)その費用が映画製作費の10倍はかかったとか。ロドリゲス監督は現在に至るまでコンスタントに仕事はあるが、いずれも本作のヴォルテージの高さを達成できていない。ここらで初心に返ってクリーンヒットを飛ばして欲しいものだ。
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「スーサイド・スクワッド」

2016-10-28 06:25:01 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SUICIDE SQUAD )全然楽しめない。キャラクター設定はもちろん、話の展開も支離滅裂で、作っている連中がマジメにやっていないことが明確に見て取れる。クセの強そうな怪人どもを集めれば、あとは何とかなるとでも思っていたのだろう。とにかく、観るのは時間の無駄である。

 次々と襲ってくる世界的危機は治安当局や正義のヒーロー達だけでは対処が出来ないとばかりに、政府はある決断を下した。投獄中の悪党連中を、減刑と引き換えに危険な任務を遂行する集団“スーサイド・スクワッド”へ入隊させようというのだ。凄腕の暗殺者デッドショットをはじめ、集められた悪人どもは最初は及び腰だったのだが、折しも太古よりの眠りから蘇った魔女エンチャントレスが暴走を開始するに及び、成り行き上協力して事に当たる。

 だいたい、スーサイド・スクワッドを結成した経緯がほとんど説明されていない。こいつらが出向かないと解決しないようなお膳立てが全く存在しないのだ。この作品世界にはバットマンやフラッシュもいるはずなのに、彼らを差し置いて悪党軍団がクローズアップされる理由が無い。

 さらに呆れたことに、エンチャントレスは当初はスーサイド・スクワッドのメンバーになる予定だったのだ。スカウトしてみたら勝手に大暴れを初めて、皆がその対処に追われるという馬鹿げた筋書きには脱力である。これは完全な“マッチポンプ”ではないか。各登場人物の配置もいい加減で、そもそも人数が多すぎる。これでは描き方が大雑把になるのも当たり前だ。ジョーカーも賑々しく登場してくるのだが、結局何がしたいのか分からないし、敵対しているはずのバットマンは意味も無く不在ときている(笑)。

 デイヴィッド・エアーの演出はテンポも深みも無く、弛緩した空気が流れるばかり。デッドショットを演じるウィル・スミスは相変わらずの俺様主義で画面の真ん中に居座ることが多いのだが、その他の悪人どもに扮するジェイ・ヘルナンデスだのアダム・ビーチだのジェイ・コートニーだのといった面子は軽量級に過ぎる。ジョーカー役のジャレッド・レトに至っては論外で、歴代ジョーカーの中で一番貫禄が無い。

 ヴィオラ・デイヴィスが演じるウォーラー司令官は目立っていたが、敵役として設定するのならば素性の分からぬ魔女風情ではなく、この狂的なオバサンの方だろう。ただ、ブッ飛んだ女道化師ハーレイ・クインに扮したマーゴット・ロビーだけは魅力的だった。先日観た「ターザン:REBORN」とは違った役柄だが、しばらく出演作を追いかけたくなるような吸引力がある。

 DCコミック陣営は今後マーヴェル・コミックに対抗して“ジャスティス・リーグ”を展開させるつもりなのだろうが、本作の体たらくから察するに、「アベンジャーズ」の劣化コピーに終わる可能性が大である。集団で見せる作戦よりも、一人一人のヒーローを掘り下げていくやり方の方が、マーヴェル・コミックとの差別化を図れるのではないかと思う。
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「ウルガ」

2016-10-27 06:25:27 | 映画の感想(あ行)
 (原題:URGA)91年製作のソ連とフランスの合作映画。同年のヴェネツィア国際映画祭で大賞を獲得した作品だが、どうもピンと来ない出来だ。何より、どう考えてもニキータ・ミハルコフ監督に向いている題材とは思えない。居心地の悪さが最後まで付きまとう。

 中国の内モンゴル自治区に広がる大草原で遊牧を営むゴンボの一家。すでに3人の子供がいるが、彼は4人目を欲しがっている。だが、妻のパグマはつれない態度しか示さない。果ては“避妊具があれば寝てやっても良い”と言われる始末。何しろ中国では一人っ子政策、遊牧民族のモンゴル人は3人までと決まっていた時代だ。ある日ゴンボは、草原で乗っていたトラックが河にハマり込んで立往生しているロシア人セルゲイと出会い、家に泊めてやる。セルゲイと意気投合したゴンボは、避妊具を買いに一緒に町まで出かけるのだが、思わぬ騒動が持ち上がる。



 いつもならば文芸物や歴史ドラマ等を正攻法にまとめ上げるミハルコフの製作スタンスとは相容れないネタで、しかも僅か5ページの脚本といくつかのキーワードだけを携えてロケ地に出向いたという。当然のことながら、彼の目の前に現れたのは雄大な自然の風景。そこで柄にもなくドラマツルギーを曖昧にしたイメージ・フィルムみたいなものに色目を使ってしまったと・・・・たぶんそんな感じだろう。

 ストーリー自体は面白くも何ともない。盛り上がるようなエピソードも無ければ、気が利いたつもりのオチにしても、全然ウケない。遊牧民の生活にも近代的な日用品が入ってきていること通して、文面批評でもやりたかったのかもしれないが、演出が平板すぎて意図が伝わらず。

 ゴンボが買ってきたテレビが平原の中にポツンと置かれているショットや、ジンギスカンの亡霊が突然出てくるシークエンスも、オフビートな作風の監督が手掛ければそれなりにキマるのかもしれないが、ミハルコフがやってもサマにならない。

 なお、題名の“ウルガ”というのは馬を捕捉するための棹のような道具のことだ。ウルガを地面に立てる目的は“情事を邪魔するな”ということらしい。これが本当に遊牧民の風習なのかどうかは分からないが、ちょっと興味深い。言い換えれば、その程度のことしか印象に残らない映画だ。
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