元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「東京家族」

2013-01-29 21:27:50 | 映画の感想(た行)

 感銘を受けた。小津安二郎監督の代表作「東京物語」(1953年)を山田洋次が独自に“料理”した作品だが、同じような題材でも、作る者と時代が違えばこうも味わいが異なるものかと、当たり前のことを今さらながら痛感する。もちろん現時点で“リメイク”する以上、今日性の付与が不可欠になるのだが、山田監督はそのあたりは抜かりが無い。まさしく現在観るべき映画である。

 瀬戸内海に浮かぶ島から子供達に会うために久々に上京してきた平山周吉(橋爪功)と妻のとみこ(吉行和子)だが、医師である長男(西村雅彦)の生活も、長女(中嶋朋子)が営む美容院の状況も、両親をゆっくりともてなす余裕には欠けている。

 そんな中、とみこは正業にも就かずフラフラしている次男(妻夫木聡)から婚約者(蒼井優)を紹介される。 頼りないと思っていた彼が、意外にしっかりとした将来へのヴィジョンを持っていることに嬉しくなったとみこだが、そんな彼女を突然の不幸が襲う。

 小津の「東京物語」は随分と残酷な話であった。人間は皆孤独である・・・・というテーマを究極の様式美で何度も映像化していた小津だが、当然のことながら山田監督のスタンスは違う。個々の孤独を乗り越えて人間同士の絆を再構築しなければならない。ましてや大震災という試練を受けた現代だからこそ、その青臭いまでの主題に血が通う。

 本作に出てくる周吉夫婦の子供達は「東京物語」のそれよりもずっと人情味がある。田舎から出てきた両親のことを“やれやれ、大変だなぁ”と思いつつ、親に対しての配慮は怠らない。また実の子供だけではなく、長男の妻(夏川結衣)や長女の夫(林家正蔵)でさえ、パートナーの両親に何とか快適な時間を提供しようと腐心している。「東京物語」での子供達のように邪険な態度を隠さず、わずかに気を遣ってくれたのが死んでしまった次男の未亡人だけだったという、殺伐とした展開には決してならない。

 この映画は本来ならば2011年に製作に着手する予定だったらしい。しかしちょうどあの震災が発生し、山田監督はそれから約1年に渡って被災地に訪れ、新たに脚本を書き直したとのこと。だから劇中には震災にまつわるモチーフが散りばめられているが、ハッキリ言って作劇上でうまく機能しているとは思えない。時として取って付けたような感じになることもある。

 しかし、それは決して不快ではない。それどころか、作者の真摯な気持ちを汲み取ることが出来て、しみじみと心に染みてくるのだ。震災のボランティア活動で知り合ったという次男とその恋人の描き方は、とても爽やかで明るい。一人で日々を送ることになる周吉の今後も、決して暗いものではない。小津の作品における荒涼とした“滅びの美学”とは違う、未来に向けての希望を前面に出した作劇に、観ていて温かい気分になる。キャストは皆好演。久石譲の音楽も素敵だ。
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フォルクスワーゲンのup!を試乗した。

2013-01-28 06:46:40 | その他
 コンパクトカーの購入を検討しており、近頃は週末には各ディーラーに足を運んでいるが、今回特別に外車に乗ってみた。フォルクスワーゲンの新作のup!である。

 up!の排気量は1000CC。フォルクスワーゲンのエントリーモデルである。どうして試乗する気になったのかというと、車両価格が低く抑えられているからだ。一番下のモデルは150万円程度。もちろんオプション等を加えれば実売価格は200万円に達するが、同社の製品にしては安価であることには間違いない。

 ただし、それでも国産車に比べれば値が張ることは事実。実際に乗ってみて、もしもその価格差を跳ね返すほどの魅力をこの車に見出せないのならば、早々にディーラーを後にするつもりだった。ところが、up!のドアを開けてエンジンを掛けた瞬間、そんな及び腰の姿勢は吹っ飛んでしまった(試乗したのはラインナップ上位のHigh up!である)。



 これは同排気量のミラージュはもちろん、デミオやフィット等とは別の次元に属する車だ。まずボティの剛性感が強く印象づけられる。ドア周りはもちろん、全体に渡ってガッシリと作られている。筐体が頑丈ならば安定した走りも期待出来るが、事実、走行時には微塵の乱れも見せずにスクエアに路面をキャッチする。特にステアリングの直進走行感の良さには舌を巻いた。

 もっとも、舗装状態の良くない道では弾みが目立つが、これはこのクラスの車で言えばup!に限った話ではない。それどころか、国産コンパクトカーよりも道路からの突き上げは上手く処理されていると思う。

 ハンドリングはスムーズそのもので、最小回転半径もミラージュほどではないにしろ、十分に小回りの利く車である。狭い道での対向車とのすれ違いも怖くない。3気筒エンジンとしてはそれほどチープなサウンドも出さず、ドライブフィールは上質感がある。

 さらに感心したのが内装だ。ダッシュボード周りはプラスティック主体でそんなに金は掛かっていないはずだが、実にセンスが良い。シートのホールド感は上々で、特に座面の全長が大きいのはポイントが高い。これからば長時間のドライブも疲労度が低いだろう。

 内寸はフィット等よりも確実に小さいはずなのに、あまり圧迫感を覚えることはない。大げさに表現すれば、中型セダンに乗っているような感覚さえある(笑)。パッケージングの巧みさは国産コンパクトカーの追随を許さないレベルにあると言えよう。小さい車なので収納は期待出来ないが、それでもトランクのアレンジは気が利いている。



 このようにクォリティの高い車ではあるが、まったく評価しないユーザーも少なからずいることは想像できる。まず、この自動車にはCVTのようなポピュラーなトランスミッションは採用されていない。代わりにASGと呼ばれるセミATが付けられていて、これを扱うにはアクセル操作にコツが要る。しかも、クリープ機能は無い。

 正直、乗る前は私もそのあたりが気になっていて、扱い辛いシステムならば即刻に購入対象候補から外そうかと思っていた。ところが、実際試乗してみるとそれほど気難しいシロモノではない。マニュアルのトランスミッションの応用形だと思えば、それほど違和感は無く走れる。ただし、オートマ限定で免許を取った者にとっては実に使いにくいだろう。

 そして、この車のリアウインドウは開かない。ヒンジ形式で隙間は空けられるが、はめ殺しに近いと言える。運転席から助手席のパワーウインドウは操作できない。スマートキーは設定されておらず、オートエアコンもない。オプションのカーナビはショボく、しかも装着すると空調の吹き出しを妨害する形になる。さらには方向指示器のスイッチの位置が、国産車とは反対の左側にある。

 ガソリンはハイオク限定。後部座席は2人のみで、3人乗せることは考慮されていない。屋根のアンテナは不必要に長く、ショートアンテナは別売りになる。ミラー自動格納機能やオートライトも付いていない。これらの装備が“欠陥”だと感じるドライバーは頭からこの車を否定するだろう。しかし、国産コンパクトカーとは一線を画する堅牢感とフットワークの軽さは、それらの“欠陥”を補って余りある・・・・と思う消費者もいるはずだ。

 国産コンパクトカーや、売値が200万円にも届くような軽自動車の上級機種の購入を検討していて、なおかつ今まであまり輸入車に接したことの無いユーザーには、是非とも試乗してみることを強くお奨めしたい。たとえ乗ってみた結果が“ダメだった”ということになっても、国産車とは異なるコンセプトの商品を知ることは、決して無駄な経験にはならないはずだ。

 かく言う私も、現時点ではこの車の導入を決定したわけではない。今後財布の中身と相談しつつ、買うのを断念することもあり得る。しかしハッキリと言えることは、今まで車の運転にあまり楽しさを感じたことがない私がもしもup!を入手できれば、生活のパターンがほんの少し変わるかもしれないということだ。“必要なとき以外は車に乗らない”というスタンスが改まり、楽しみのために車を転がすことが多くなるだろう。週末の過ごし方も、映画館に足を運ぶよりもドライブに繰り出すことが増えるのかもしれない(笑)。
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国産のコンパクトカーを試乗した。

2013-01-27 08:06:35 | その他
 最近、自家用車の買い換えを考えている。現在保有している車は購入してから10年を超えており、走行距離も10万kmに近付いたので、ここらで更改しても悪くないと思った次第。遅くとも今年中には結論を出したい。

 しかしながら、私は車に金を注ぎ込むことにあまり価値を見出しておらず、それ以前に懐が寂しいので(大笑)、高額な自動車は最初から想定外だ。また、私の実家も嫁御の実家も前の道が狭く、なおかつ駐車スペースがとても狭い。だから3ナンバー車なんか絶対無理。ならば軽自動車で良いのかというと、高速道路上でのドライバビリティを考えると、それも遠慮したい。

 したがって購入対象は1000CCから1300CCぐらいまでのコンパクトカーとなる。国産車を3機種ほど試乗したので、そのインプレッションを書いてみたい。なお、私は普段そう頻繁に車に乗る方ではないので、ここで述べることはあくまで“素人の意見”であることは念を押しておきたい(爆)。


 最初に乗ったのはマツダのデミオである。まず試したのは、燃費の良さが評判になっているスカイアクティブと呼ばれる新型エンジンをフィーチャーしたモデルである。内装はかなり簡素だ。メーター周りなんか、ハッキリ言って安っぽい。だが、シートの質感はそう悪くはなく、全体として細かいことを気にしない限り我慢できるレベルだ。

 実際に運転してみると、エコドライブを主体的に想定された製品のせいか、加速感が緩いのが気になる。追い越しの場面など、アクセルを深く踏みこないと思うような動きをしてくれない。だが、これは積極的にアクセルを操作しても燃費が悪くならないということかもしれない。あとはドライバーの“慣れ”の問題だろう。

 ついでにスカイアクティブではない通常エンジンのヴァージョンにも乗ってみたが、これは“普通”の加速感で違和感はない。スタッフの話だと、長距離走行をメインとしたユーザーならばスカイアクティブの方が燃費は有利だが、街乗りが多いドライバーにとっては通常モデルでもそんなに変わらないとのことだ。なお、ハンドリングはスクエアーな感じで悪くはない。


 次に試乗したのは三菱のミラージュである。タイで製造されたリッターカーで、エンジンは今のところ1000CCのみ。ならば相当に安っぽい車なのかと思われるが、実際見たらそうでもない。内装は金を掛けられないレベルなりに、そこそこセンス良く仕上がっている。シートのホールド感も“まあ、こんなものだろう”という印象だが、決して粗雑では無い。

 この車のセールスポイントは、重量が900kgを下回っていることだ。軽量級であることは、すなわち燃費の向上に繋がる。もちろん走りも軽快になるだろう。価格も低く抑えられている。

 実際に乗ってみると、1000CCとはいえ走りはスムーズである。坂道もスイスイ行ける。特筆すべきは最小回転半径の小ささで、狭い駐車場では重宝しそうだ。後方席の乗降はデミオより楽で、ウインドウも全開する(デミオは半分程度しか開かない)。

 しかし、夏場にエアコンを使った場合の走りには不安を覚える。大人が4人乗った状態での山道のドライブは辛いかもしれない。全体的には、低価格であることを割り切って使うユーザーには向いているが、車に対して何らかの価値観を見出したいドライバーが選ぶ商品ではないと思う。



 ホンダのフィットにも乗ってみた(1300CCモデル)。ハイブリッドは割高なので購入対象から外し、通常エンジンのモデルを選んでみる。言うまでもなく、フィットはこのクラスでのベストセラーであり、今年(2013年)後半にフルモデルチェンジを予定しているとはいえ、現時点でもコンスタントに売れ続けている。私としても乗る前は大いに期待していた。

 しかし、走り出した瞬間にその期待は失望に変わった。ハンドリングにキビキビ感がない。加速も平凡そのものだ。もちろん“平凡だから悪い”ということでもなく、そもそも前述の通り私は自動車に対して特別の思い入れはない。ただ、この無味乾燥さはいったい何なのだ。自家用車を運転しているのではなく、まるで職場の車に乗って何かを“配達”しているような味気なさだ。

 気になったのは視認性が悪いことだ。太いピラーは邪魔だし、バックミラーでさえ前方の視界を妨害しているように思える。そして前景が“遠く”感じ、車両感覚が掴みにくい。個人的には、これは“運転のしにくい車”である。少なくとも見晴らしの良いデミオに比べれば相当落ちる。

 助手席においては、ドア側の収納スペースが大きすぎて足に当たり、長時間乗るのは辛い(小柄な人だったら気にならないかもしれないが)。そして、室内は相当広いにもかかわらず頭上を微妙に圧迫される印象があり、開放感は希薄だ。要するに、パッケージングが上手くいっていない。

 評判通り、トランクをはじめとする収納の大きさは特筆できる。だが、それを除けばあえて選ぶ理由は無い。この車のオーナー諸氏諸嬢には悪いが、個人的には“荷物をいつもたくさん積むドライバー”あるいは“常時大人4,5人が乗る必要があるユーザー”以外には、奨める気にはならない。

 以上3機種の中で、あえて選ぶとすればデミオであろうか。実売価格が安いのも魅力だ(リセールは全く期待出来ないが ^^;)。あと日産のノートは全長が大きいので除外。トヨタのヴィッツは外観を嫁御が気に入らず(笑)、これも選外とした。スズキのスイフトが気になるが、いずれ乗ってみるつもりである。

 なお、この書き込みのタイトルは“国産コンパクトカー”であるが、実は今回初めて外車も一機種試してみた。それに関しては次回のアーティクルで述べたい。
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「LOOPER ルーパー」

2013-01-24 06:29:51 | 映画の感想(英数)

 (原題:LOOPER)気の利いたSFタイムトラベルものである。こういうネタを扱う際に問題になるのは言うまでもなくタイム・パラドックスであるが、時間旅行そのものが多分に“非・論理的な”素材であり、パラドックスを完全に回避することはほぼ不可能だ。だから、いかにして“パラドックスを克服したような所作”を無理なく見せるかが重要なポイントになるのだが、本作はそのあたりが上手くいっている。

 舞台となる近未来では、どうやらそれから30年後にはタイムマシンが開発されていて、それも犯罪組織が悪用しているらしい。殺したい相手を証拠を残さずに始末するために、30年後の犯罪組織はターゲットをタイムマシンで過去に転送し、そこで控えているルーパーと呼ばれる殺し屋が“仕事”を請け負う仕組みになっている。

 ルーパーとして淡々と“仕事”をこなしていたジョーは、ある日未来から転送されてきた初老の男が、30年後の自分であることを知る。街へと消えた“未来のジョー”を“現在のジョー”とルーパー組織が追うが、このトラブルの背景には未来世界を大きく左右する秘密が存在していた。

 何より“同じ時代において同じ人物同士が直接出会ってはいけない”というタイムトラベル映画の不文律(?)を易々と破っているのが痛快だ。考えてみればそんな不文律の理論的根拠は無いわけで、映画として面白くなるのならば、勝手に無視しても構わない。

 しかも、未来からやってきた自分が今の自分のなれの果てであることは確かで、“現在のジョー”の振る舞いが“未来のジョー”にリアルタイムで影響を与えるという設定は上手い。それに比べれば、この近未来では、テレキネシス(念動能力)を持った者が少数ながら存在するというサブ・プロットの突飛さも許してしまいたくなる(笑)。

 また、“未来のジョー”が30年間歩んだ人生の内容を知った“現在のジョー”が、自己をもう一度見つめ直してどういう運命を選択するのか、そのプロセスもけっこうスリリングであり、なおかつ感慨深い。

 ライアン・ジョンソンの演出はソツがなく、テンポ良く作劇を進めている。ジョセフ・ゴードン=レヴィットとブルース・ウィリスが同一人物を演じるに当たり、雰囲気や身のこなしにどこか共通するようなものを付加しているのもポイントが高い。

 ジョーの行動によって確実に変えられた未来、そしてタイムマシンの開発など、アイデア次第で続編がいくらでも考えられるネタであろう。エミリー・ブラントやポール・ダノ等、脇の面子も申し分ない。
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ハリウッド製の法廷劇と“エクイティ”

2013-01-23 06:33:08 | 映画周辺のネタ
 昔、シドニー・ルメット監督の「評決」やジョエル・シューマカー監督の「評決のとき」を観て、どうしてラストは“ああいう感じ”になってしまうのか疑問に思っていた。何しろ、それまで理詰めで行われていた審議が、最後になってお涙頂戴の温情判決に落ち着いてしまうのである。いつからアメリカの裁判所は人情や泣き落としで判決を下すようになったのかと呆れたものだ。しかし後日、こういう理屈に合わない評決を下すことこそがアメリカの司法界の特色であることを知って驚いた。

 学生時代に法学を専攻した者にとっては常識らしいが(ちなみに私は法学部卒ではない ^^;)、アメリカの法律を含む英米法には判例を重視したいわゆる“コモン・ロー”とは別に、超法規的な法曹界の伝統である“エクイティ”なるものが存在するというのだ。

 エクイティは“衡平法”と訳され、元々はラテン語で“道理があり、適度な権利の行使”を意味する。要するに、判例のないケースではその折々の社会的状況などを考慮して、裁判官が“道徳的な”判断を勝手にして良いという認識である。

 “道徳的”といえば聞こえはよいが、早い話が向こう受けを狙った“大岡裁き”が大手を振ってまかり通ってしまうということだ。まことにアングロサクソンらしいプラグマティズムである。

 だからアメリカでは市民運動家やそのへんのロビイストが司法制度を利用して自分たちに有利になるような判例を作り上げ、既成事実化してしまうことも可能なのである。アメリカ人が大好きな“法の正義”だの“不公正の是正”だのといったスローガンも実際は絵に描いた餅なのだ。

 それどころか、違法か合法かといった本来は純粋に法理面で考えるべき事物も、各当事者が正義か不正義かといった手前勝手な判断で強弁し、結局は押しの強い方が勝つといった無茶苦茶なこともあり得るわけで、前述の映画の結末なんてその最たるものであろう。

 アメリカ人の中では法律的判断と道徳的判断という、時に矛盾する命題が強引に一体化していると言え、つまりは“ダブル・スタンダードをスタンダード化している”という奇妙な考え方が自分たちの立場では違和感なく成立しているらしい。

 アメリカはもともと本国での王室や教会の権威に反発してヨーロッパから脱出した連中が立てた国だ。つまりは権威というものを徹底的に嫌う人々が打ち立てた理想郷である・・・・という建前になっている。だから法律だの政府だのといった“権威”よりも、一般ピープルの平易な価値観の方を優先させようとの姿勢が司法界にも貫かれていると考えて不思議はないだろう(もちろん、アメリカの司法が庶民寄りだというのは幻想に過ぎず、実際はそういうポーズを取っただけの“権威のゴリ押し”が頻出していることは想像に難くないが ^^;)。

 日本は英米法ではなく大陸法を基礎とした法体系を取っている。だから我々にとってアメリカの法律を理解するのは難しく、そのギャップがアメリカ映画の“法廷もの”を理解する上での障害のひとつになっていると思う。

 もっとも、そんな日米の法解釈のズレに気付かずに脳天気にハリウッド製法廷劇の“スカッとした筋書き”に快哉を叫ぶというのも映画の楽しみ方のひとつだろうし、それに他人がケチをつけるのも野暮であるのは間違いない(笑)。
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「愛について、ある土曜日の面会室」

2013-01-22 06:41:43 | 映画の感想(あ行)
 (原題:QU'UN SEUL TIENNE ET LES AUTRES SUIVRONT)。三つのストーリーが平行して描かれているが、残念ながら真に見応えのあるパートは一つだけ。あと一つは一長一短。残る一つは話にならない。結果“一勝一敗一引き分け”(謎 ^^;)でトータルのポイントでは凡作ということになるが、映画というのはそう簡単に割り切れるものではない(笑)。

 アルジェリアからフランスに渡った若者が、ゲイの相手に殺されてしまう。アルジェの空港で遺体を迎えた母親は、濡れた白い布で遺体を拭き清める。身を切られるようなシーンだが、彼女は悲しみに浸る間もなく、やがて真相を確かめるべくマルセイユの刑務所に出向き、犯人と対面する。



 同性愛者という、親に言えない秘密を持ってしまい、負い目を感じながらもやっと出会った“恋人”と暮らしていた息子。だが、その関係は破局を迎え、痴話ゲンカの末に相手の凶刃に倒れてしまう。母親は犯人と会う前に身分を隠して彼の姉と接触する。姉もまた、加害者の家族として耐えられない苦しみを抱えていた。

 事件を中心に交錯する関係者の苦悩が、刑務所の面会室でぶつかり合う。そして、前に観た「最後の人間」と同じく、フランスとアルジェリアとの容易ならざる関係性をも浮き彫りになり、目覚ましい映画的趣向を呼び込む。

 オートバイ便で細々と小銭を稼いでいる男が、たまたま服役中の男と瓜二つだったことから、面会時に“入れ替わり”を要求されるエピソードは、プロット面で弱い。二人がそっくりだというのは御都合主義の最たる物であり、百歩譲ってそれを認めるにしても、勝手に入れ替わったら刑務官にスグに見破られてしまうだろう。



 だが、この男の鬱屈した日常の描写は上手い。甲斐性の無い、典型的なダメ男。そんな彼が、ほとんど打ち棄てられたプライドを拾い上げて無謀なバクチに挑む。その姿は滑稽であると同時に、観る者の琴線に触れるようなピュアな部分を併せ持っている。

 不良少年と付き合っていた少女が妊娠してしまい、しかも相手は塀の中。そんなヤクザな若造と何とか面会しようとする少女を描くパートはつまらない。各キャラクターがまるで練り上げ不足。ラストの処理も釈然としない。

 終わってみれば、アルジェリアに住む被害者の母親を描くエピソードだけでOKだとの印象を受ける。このパートが屹立しているので、あとの二つの低調な出来映えを何とかカバーしていたと、そういう結果だ。監督のレア・フェネールは撮影当時20代の若手。映画自体は食い足りない部分も多いが、人物描写には非凡なものを感じる。今後とも作品をチェックしていきたい人材だ。
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「ロスト・イン・トランスレーション」

2013-01-21 06:40:50 | 映画の感想(ら行)
 (原題:Lost in Translation )2003年作品。CM撮影のために東京にやってきたハリウッド俳優のボブ・ハリス(ビル・マーレイ)と、偶然出会った若い人妻との、共に孤独を抱え込んだ同士の付き合いを描く。2004年の米アカデミー賞で脚本賞を獲得。

 異邦人から見た“不思議の国のニッポン”を心地良い清澄な映像で表面的に綴った映画で、それ以上でも以下でもない。ビル・マーレイは得意の個人芸で笑わせてくれるが、内面に抱えているらしい“中年男の屈託”とやらは全く描かれない。もっとも、監督自身が若いねーちゃん(ソフィア・コッポラ)であるから、それは無理な注文なのかもしれない。



 仲良くなった女の子(スカーレット・ヨハンソン)に、いくら相手が人妻といっても全く手を出さないのはウソ臭いし、電話でつまらないことをまくし立てるカミさんや、人のダンナにちょっかいを出す若手女優なども扱いが図式的。海外滞在経験の多い観客なら共感する部分もあるのかもしれないが、そうでない私にはピンと来ない。

 それにしても、京都の場面は自治体が作る“対外用観光フィルム”みたいで苦笑してしまった。なお、70・80年代のナンバー中心の使用楽曲はセンスが良い。「ヴァージン・スーサイズ」(99年)もそうだったが、これは監督の“趣味”なのだろう。サントラ盤だけはオススメだ。
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「拝啓、愛しています」

2013-01-20 06:37:58 | 映画の感想(は行)

 (英題:LATE BLOSSOM)良いところもあるが、見終わってみれば韓国映画得意の“お涙頂戴ドラマ”でしかなく、印象としては芳しいものではない。一頃は若い男女を主人公にしたメロドラマの輸入・公開が目立っていた韓国作品だが、韓流ブームも去った今はそういう体裁のものは飽きられた感がある。ならばということで、主人公をシニア世代にして渋めのセンを狙ったと、そういう安直な姿勢しか窺えないのだ。

 隠居後の小遣いの足しにするべく牛乳配達のアルバイトをしているマンソクは、ある朝廃品回収をしている老女ソンを転倒させてしまう。幸いケガも無かったが、マンソクは彼女のことを気に入り、毎朝の出会いを楽しみにするようになる。やがて彼はソンが世話になっている駐車場の管理人グンボンとその認知症の妻と知り合い、楽しい時間を過ごすが、過酷な運命は彼らを追い詰めてゆく。

 まず、どうしてマンソクがソンと相思相愛の関係になるのか、そのあたりの描写が不十分だ。彼は根は優しいらしいが物腰はぶっきらぼうで、このトシになっても周囲に友人はいない。いくら彼女が穏やかな性格でも、そう簡単に仲良くなれるはずがない。

 さらにソンの不幸な生い立ちはいかにも大時代的で、現在の話とも思えない。ハッキリ言って“泣かせのためのモチーフ”である。グンボン夫妻の扱いに至っては“不幸のための不幸”でしかなく、観ていて不快だった。最初から登場させない方がマシだったかもしれない。

 チュ・チャンミンの演出は歯切れが悪く、話自体に無理があるのに説明的なシークエンスを挿入しようとして、映画のリズムを崩してしまっている。甘ったるいBGMに感傷的な場面を重ねるあたりも気恥ずかしい。ラストの“映像処理”なんか、もろに赤面ものである。もっと落ち着いたストーリー展開と節度をわきまえた描写が出来ないものか。これだから韓流ドラマは始末に負えない。

 あまりケナすのも何だから少しは良い部分も挙げておくと、気難しいマンソクに友だちが出来たことを実に肯定的に扱っているところだ。まあ、映画としてはその段取りが上手く説明されていないが、年を取っても人間関係を諦めてはいけないという真摯なメッセージは伝わってくる。

 そして主演のイ・スンジェとユン・ソジョンの好演だ。自分では納得出来ない人生を送りつつ、いつの間にか老いてしまった主人公達の諦念に満ちた悲哀をうまく表現していた。下世話なメロドラマ路線を取っていなかったら、もっと良い映画になっていたかもしれない。
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「父」

2013-01-19 09:18:27 | 映画の感想(た行)
 (原題:Pedar )96年作品。監督は「赤い運動靴と金魚」や「太陽は、ぼくの瞳」で知られるイランのマジッド・マジティ。なお、日本では一般公開はされておらず、私はアジアフォーカス福岡国際映画祭の関連上映イベントで観た。

 イラン北部の沙漠地帯にある村。父を交通事故で亡くした14歳の少年は、一家を支えるために南部の海沿いの都会に長いこと働きに行き、稼いだ金を持って久しぶりに家に戻ってくる。しかし、留守中に母親は警官と再婚していた。少年は反発して警官の拳銃を奪い、町に逃げ込む。義父である警官は彼を追うのだが・・・・。



 血のつながらない大人と子供が反発し合いながらも最後には心を通わせるという、今まで数えきれないほど取り上げられた題材も、イラン映画が手掛けると、かくも味わい深い作品になるのかと感心した。戒律の厳しいイスラム社会で、長男のいない間に再婚してしまうという事実は周囲からのプレッシャーが相当キツいはずで、事実、アメリカ映画で同様の素材を扱うと数回の葛藤でカタがつくところをこの映画では徹底的に両者を対立させる(まあ、実際のところアメリカ映画みたいな筋書きでこういう設定が解決するなんてことはないのだが)。

 少年は以前いた家を改築して住み始めるのだが、病気になってしまい、義父のいない間母親が看病し、母親の立場を理解し始める。幼い妹たちとも仲直りし、義父が帰ってきてこれでお互い許し合ってハッピーエンド・・・・とはならない。

 そのあと町に逃げた少年を義父が追いかけ、捕まえてバイクで村まで戻る途中で少年が逃走し、また捕まえて今度は手錠をかけ、次はバイクが故障して沙漠の中を二人でさまようハメになるという、容赦のない展開は一種“犯罪がらみのロードムービー”の様相を呈し、的確な演出もあって画面にグイグイ引きつけられていく。もちろんラストは二人の和解を暗示させるのだが、最後のシーンの映像のキメ具合は(ここでは書けないが)さすがイラン映画だと唸ってしまう。

対立から和解へと向かう登場人物たちにイラン=イラク戦争後のイランの国情を重ね合わせてもいいかもしれない。キャスト、特に子役の使い方は相変わらず神業的で、主演の少年はもちろん、コメディ・リリーフ的な彼の友人の描き方もよろしい。過酷な沙漠や田園地帯などの風景をとらえる映像の美しさも格別だ。
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「最初の人間」

2013-01-18 06:34:53 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Le Premier Homme)あまりにも淡々としたタッチなので前半は眠気を催してしまったが(笑)、終わってみれば丁寧な佳編であるという印象を持った。ジャンニ・アメリオの演出は以前観た「家の鍵」と同じく、実に丁寧だ。

 アルベール・カミュの未完の遺作の映画化。1957年夏、母に会うためフランスから故郷のアルジェリアのアルジェに帰省した著名な小説家コルムリは、少年時代を回想する。彼が子供だった1910年代は、アルジェリアの独立運動が勃発していた時期だ。

 若くして死んだ父。懸命に働いて彼を育て上げた母。厳格だった祖母。頭は多少弱いが彼を人一倍可愛がってくれた叔父。アルジェリア人の幼馴染み。そして勉学を勧めてくれた恩師。しかし追想に浸る間もなく、アルジェリア戦争前夜のこの時期において、両国にルーツを持つ彼の立場は完全なアウトサイダーでいることを許されない。

 言うまでもなくカミュはアルジェリアの出身で、コルムリは彼の分身である。作家としては名を成したが、故郷を席巻しつつある暴力の嵐の前では無力感を禁じ得ない。アルジェリアの大学で講演した彼は、その言い分が多分に理想主義的だとして非難される。

 だが、それ以外に何が出来るのだろうか。一方の側に立ってアジテーションを試みたところで、思慮の無さを指弾されるだけだ。昔は幼友達だったアルジェリア人のクラスメートは、息子がテロ容疑で逮捕され、苦悩のただ中にいる。それに対してコルムリが出来るのは、せいぜい親子の面会をセッティングさせることぐらいだ。事態の解決には何ら関与できない。

 それでも、母親に対する暴力だけは許さないという姿勢を明確に示すあたりに、この地に生まれた人間としてのプライドと覚悟を垣間見せる。だが、彼の祈りも虚しく、アルジェリアは長い混迷の時代へと突入する。このアルジェリア戦争はフランスにとって今でもタブーであるらしく、この映画も本国では公開されていないという。

 折も折、アルジェリアの天然ガス関連施設で多数の外国人がイスラム武装勢力に拘束されたというニュースが飛び込んできた。犯人グループは隣国マリにおけるフランスの軍事介入の中止を訴えているらしいが、いずれにしても北アフリカの激動の近代史は現在においても暗い影を落としていると言えよう。主演のジャック・ガンブランをはじめ、キャストは皆好演。美しい映像も含めて、観る価値はあると思う。
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