元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「アレキサンダー」

2015-05-31 06:55:08 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Alexander )2004年作品。オリヴァー・ストーン監督はベトナム戦争以外のネタを扱うと低調な出来に終わることが多いが、本作もそうである。しかも、中途半端にベトナム戦争のテイストが挿入されているので、余計にチグハグな印象を受けてしまう。

 紀元前331年、世界最強と言われたペルシア帝国を壊滅させたマケドニアの若き王アレキサンダーは、アジア侵攻の途中でバクトリアの王女ロクサネを第一夫人に迎える。ところが軍の幹部達はアジア人との結婚を面白く思わない。暗殺されると思い込んだアレキサンダーは疑わしい者を次々と処刑していくが、次第に孤立化してしまう。やがて彼は大群を率いてインドまで侵攻するものの、部下が疲労を理由にこれ以上の進軍を拒否したため、やむなく退却した。そしてバビロンに戻り新規巻き直しを図った時点で、不可解な最期を遂げる。

 巷でも言われているとおり、作品の中でのアレキサンダーはアメリカという国の象徴であろう。手前勝手な自由主義を振りかざし、辺境の地に軍隊を送り込む。現地人の迷惑など顧みない。特に終盤のインドでの戦いはベトナム戦争そのまんまであり、この強引さはオリヴァー・ストーンの面目躍如といったところ。

 しかし、歴史上の偉人の所行を自己の“ベトナム戦でのトラウマの発露”にしてしまって良いのかという疑問が残る。アレキサンダーは一映画作家の内面的問題を投影しメタファー化できるほど“小さな”人物ではないはずだ。それを安易にやってしまったこと自体、作者の歴史に対する傲慢さが感じられる。

 アレキサンダーというのは、その時代の古さや業績の大きさを考え合わせても、いわば人知を超えたスーパーマンである。神話の世界の住人に近い。だから映画はそれを“そのまま”描けば良かったのだ。ヘンに“苦悩する青年像”といった一般ピープルの次元に引き下ろそうとしても、観客は作者の小賢しい意図を見抜いてしまう(気の弱そうなコリン・ファレルの起用も図式的)。

 作劇面も話にならない。序盤にスペクタクル場面(ガウガメラの戦い)を用意したまではいいが、その後はそれを上回る映像がないのでドラマは盛り下がる一方。同性愛の相手や母親を巡るエピソードは工夫もなく退屈の極み。これで3時間は辛い。

 そして何より史劇としての品格がない。薄っぺらな映像とケンカの弱そうな登場人物たち。時代劇らしい面構えをした奴は一人もいない。アンジェリーナ・ジョリーやアンソニー・ホプキンス、ヴァル・キルマーといった脇の面子も精彩を欠く。本国での不評ぶりも十分頷ける失敗作だ。救いはヴァンゲリスの流麗な音楽のみである。
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「Mommy マミー」

2015-05-30 06:16:03 | 映画の感想(英数)
 (原題:Mommy )登場人物に対して“同情”は出来るが“共感”とは程遠い。だから結果として、作品を評価はしない。聞けば2014年のカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、監督はまだ20代(89年生まれ)の期待の俊英ということだが、残念ながら今のところ当方にとって何の感銘もインパクトも得られない展開だ。

 舞台は“ここではない、どこかの世界のカナダ”で、そこは発達障害の子供を持つ親が経済的・精神的に困窮して養育が不可能になった場合、問答無用で子供を施設に放り込んでも良いという法案が可決・成立している。シングルマザーのダイアンは、ADHD(多動性障害)の15歳の息子スティーヴに手を焼いていた。



 スティーヴは一時たりともジッとしておらず、問題行動ばかりを繰り返し、母親に対しても攻撃的な態度を見せる。右往左往するばかりのダイアンだったが、隣家に住む主婦カイラとの出会いによって状況が少し変わってくる。カイラはもともと教師だが、精神的ストレスから吃音に苦しんで休職中だ。そんな彼女がスティーヴの家庭教師を買って出る。するとスティーヴは落ち着きを見せ、カイラの吃音も快方に向かう。やっと一息つくことが出来たダイアンだが、息子の過去の所業が裁判沙汰になるに及び、再びヘヴィな状況に追いやられていく。

 ダイアンは身持ちが悪く、見た目はまるで水商売だ。たまに翻訳やコラム執筆等もこなすインテリのような面もあるが、普段は掃除婦として糊口を凌いでいる。すでに夫は亡く、なりふり構わずに生きていかなければならないのだが、そのシビアな有り様に映画的興趣が感じられないのだ。カメラは彼女に寄っているようで、肝心なところは映しておらず、彼女の窮状が単なるパフォーマンスのように見えてしまう。



 ADHDの何たるかを私はよく知らないが、スティーヴの振る舞いはとても“メンタル障害だから”で済まされるものではないと思う。少なくとも、障害を理由に万引きや放火をやらかして良いという道理はない。単なる性悪のガキにしか見えないのだ。そんな“分かっちゃいるけどやめられない”という態度で自分の首を絞めているような親子を見ても、何の感慨も覚えない。ただ“ああ大変だね”と思うだけ。こんな2人に付き合わされたカイラこそ、いい面の皮だ。

 監督のグザヴィエ・ドランはこの若さにしてこれが5作目だという。しかしながら、大向こうを唸らせるような才気は感じない。撮り方が一本調子でメリハリが無い。かと思うと、スクリーンのサイズを不必要に“調整”するという小細工を見せ、こちらは赤面するばかり。

 ダイアン役のアンヌ・ドルバル、スティーヴに扮するアントワン=オリビエ・ピロン、カイラを演じるスザンヌ・クレマン、いずれも熱演だが、演出がこの調子なので空回りするばかり。正直、観なくても良い映画だと思った。
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「泣き虫チャチャ」

2015-05-29 06:19:25 | 映画の感想(な行)
 昭和62年松竹作品。原案担当の山田洋次が当時の若者風俗を題材として取り上げたという珍しいシャシンだが、予想通りサマになっていない。しかし、ここでは逆にそれが“古い世代から見た若者”というモチーフを補完することになり、玄妙な効果をもたらす。90分足らずの小品ながら山田洋次のカラーもしっかり出ているという、味のある一編に仕上がっている。

 チャチャこと小野田千秋はレコーディング・ミキサーの助手として冴えない下積みの生活を送っている若い男だが、ディスコに行けば達者なダンスを披露して皆の喝采を浴びる。また映画館に勤める恋人のはるみや、オカマ・バーのスタッフである友人の勝らとつるんで過ごす日々は、決して辛いものではなかった。



 ある日、田舎の母の絹代から祖母の法事に帰って来るように連絡が入る。久々に戻った実家には親戚一同が顔を揃えているが、エリートコースを歩んでいる二人の兄と比べられて千秋は肩身の狭い思いをするしかない。そんな中、とある事情ではるみと勝が千秋の実家にやってくる。千秋は二人を泊まらせたいと両親に頼むが、父親はチャラチャラした連中を家に入れるわけにはいかないと、追い帰してしまう。千秋は怒って家を飛び出すのであった。

 劇中、絹代が“ダメな者のどこが悪いんだ。デキる者ばかりじゃ、世の中は回っていかない!”という意味のことを言うシーンがあるが、正直ここにはグッと来た。そうなのだ。上昇志向を押し付けるだけでは、何も解決しない。どんなに頑張ったところで、人にはそれぞれ資質というものがある。それを逸脱して分不相応なことを強要しても無駄であるばかりか、絹代のセリフ通り“世の中が回っていかなくなる”のだ。

 千秋を取り巻く地元の人々の対応、そして親戚からのプレッシャーは、ダメな者にとっては格差拡大の容認にしかならない。それでも、映画が作られた80年代後半は頑迷な地方共同体の価値観を逃れて都会に出れば、千秋のような者でも受け入れる鷹揚さと世の中全体の経済的余裕があった。しかしながら、優勝劣敗&格差是認の構図が隅々にまで浸透した現在にあっては、ダメな者の居場所はない。

 東京に戻ってからの千秋は身の丈に合った幸せを掴み取るのだが、それに対する作者の視線は温かい。弱者の立場を重視する山田洋次のスタンスが良く表れている。

 主人公に扮するのは当時人気のあった風見慎吾で、けっこうナイーヴな良い演技をしている。得意のブレイクダンスも披露するが、撮る側にこの手のシーンを上手く撮るスキルが無いためか盛り上がらない(笑)。しかし作品の雰囲気と観客層を考えると“若者というのは変わったことをやるもんだ”ということを示す意味であれば、これはこれでOKだ。

 脇を固める鳥居かほりや竹中直人、加藤武、林美智子、笠智衆といった面子も悪くない。監督の花輪金一はこれ以降演出作は無く、山田洋次のサポートに徹しているが、改めて監督を任せても良い腕前は持っていると思った。
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「百日紅 Miss HOKUSAI」

2015-05-25 06:29:18 | 映画の感想(さ行)
 全然面白くない。絶賛している評論家もけっこういるようだが、どこに目を付けているのだろうか。アニメーションでは定評のある原恵一監督作ながら、ここには才気のカケラも見当たらない。いつもの彼の映画とは違い、原作があって脚本も別の者が手掛けていることの影響もあるのだろうが、とにかく惨憺たる出来だ。

 杉浦日向子の同名コミックの映画化。江戸後期、浮世絵師・葛飾北斎の娘のお栄と、彼女を取り巻く人々との触れ合いを描く。一本芯の通ったストーリーがあるわけではなく、展開はスケッチ風で淡々としている。別にそれが悪いということではないが、あまりにも内容がなさ過ぎるのだ。



 ヒロインは妙齢ながら結婚もせず、父親の製作活動のアシスタントとして仕事に精を出しているが、その割には絵に関する主張や思い入れは何も感じられない。困ったことに彼女だけではなく、父の北斎やその弟子の善次郎、絵を扱う業者や顧客に至るまで、一人として浮世絵を特別に愛でている様子は見られない。

 ならばそれ以外のモチーフに何か興趣があるのかというと、そうではない。強いて挙げればお栄の妹であるお猶の恵まれない境遇と、それに対する北斎の接し方であろうか。しかしながら、そのエピソードも殊更盛り上がるようなものでもなく、不必要に薄味に仕上げられている。

 あとはお栄の恋愛沙汰に関する及び腰な態度や、浮世絵をめぐる妖怪騒ぎぐらいだが、それらにしたところで大して話にコクもキレも無く、漫然と流していくのみ。90分という短い尺だが、中盤ぐらいでは退屈すぎて眠くなってきた。そもそも、どうして本作が百日紅(さるすべり)という花が題名になっているのかよく分からない(何の小道具にもなっていないではないか)。



 まずは主人公と父の北斎の、狂気にも似た求道者ぶりを見せつけるべきであった。筆の動き一つで異世界を創出するという、稀代の絵師の力量を表現しないで映画化する意味などあるわけがない。この親子を描いた作品としては他に新藤兼人監督の快作「北斎漫画」(81年)があるが、あれには到底及ばない。

 映像面でも見るべきものはまったく無い。美しくはないし、思い切った構図も無いし、画面の奥行きもまるで感じられない。キャラクターデザインも平凡。ヒロインの声をアテる杏をはじめ、松重豊や濱田岳、高良健吾、筒井道隆、麻生久美子と多彩な面子を用意してはいるが、持ち味を出しているとは言い難い。そして決定的にヒドいのが音楽。私の大嫌いな椎名林檎が楽曲を提供し、しかも映像とは全然合っていないガチャガチャとうるさいロックサウンド。鑑賞後の印象は最悪である。
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「ドラゴン・イン 新龍門客棧」

2015-05-24 06:30:47 | 映画の感想(た行)

 (原題:新龍門客棧)92年香港作品。監督はレイモンド・リー。製作にツイ・ハークとチン・シュウタンの「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」のコンビが加わっており、まっとうなアクション篇で楽しませてくれるのかと思ったら、少し違った。ハッキリ言ってこれは、フランス映画の怪作「デリカテッセン」(91年)の続編である。油断もスキもない香港映画のことだから当然パクリであろう(と思う)。しかし、オリジナルの持つブラックな笑いとアッと驚く映像スペクタクルはそのままに、見事に香港製娯楽アクションに料理してしまうツイ・ハーク一味の力量には感服あるのみだ。

 明の時代、沙漠のまん中にこつ然とあらわれる“ドラゴン・イン”という宿屋があった。若くて腕の立つ女主人(マギー・チャン)と数人の使用人たちが切り盛りするこの宿屋は、お尋ね者を始末してその肉を客への食事に出すという、とんでもない所。そこへ反政府組織のリーダー(レオン・カーフェイ)とその一派が泊まりに来る。彼らを追って悪徳政治家が雇った3人の殺し屋も姿を見せ、さらに3千人の政府軍が宿屋を包囲する。果たして脱出なるか・・・・という話。

 得意のワイヤー・アクションは絶好調。人権を無視した(ホメているのだ)とんでもないアクションの数々はいつもながら唖然としてしまう。女剣士のブリジット・リンの滅茶苦茶な強さ、マギー・チャンの妖艶さ、そしてドニー・イェン扮する悪役が輪をかけて強い。とにかく強い。もう、空は飛ぶわ地底はもぐるわ、人間を超えてジェイソンやフレディのレベルに達している。

 ラストは3人がかりでこいつに立ち向かうのだが、まるで歯が立たない。そこへ登場するのが肉切り包丁をふりかざした「デリカテッセン」的キャラクター。そして映画は空前絶後の大爆笑と大カタルシスのクライマックスになだれ込んでいく。

 1時間半の上映時間に、これでもかこれでもかというサービス精神を思いっきり詰め込み、存分に楽しませてくれるエンタテインメント。ツイ・ハークもこの頃は威勢が良かった。なお、本作はキン・フー監督の「残酷ドラゴン 血斗! 竜門の宿」(67年)のリメイクだが、生前のキン・フーはツイ・ハークの作風を好きではなかったというのは面白い(笑)。
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「皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇」

2015-05-23 06:23:21 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Narco Cultura )メキシコにおける麻薬カルテル(マフィア)の暗躍とそれがもたらす惨禍に関しては聞き及んではいたが、本作は警察側の人間だけではなく現地の風俗(音楽)という目新しいモチーフを採用し、複眼的な見方を提示しているところが興味深い。ロバート・キャパ賞を受賞したイスラエル出身の報道カメラマン、シャウル・シュワルツ監督によるドキュメンタリーだ。

 舞台は年間3千もの殺人事件が発生するが、その99%が放置されるという“世界で最も危険な街”のひとつであると言われるシウダー・フアレス。アメリカとの国境近くに位置するが、そこから目と鼻の先にあるテキサス州エル・パソは全米でも指折りの治安の良い都市だ。まずこの“格差”には愕然とする。

 映画はシウダー・フアレスの警察官リチ・ソトと、カルフォルニアに住む歌手エドガー・キンテロを“主人公”にして展開する。リチ・ソトの任務は過酷で、今まで何人もの同僚がマフィアからの報復によって命を落としている。勤務中は“御礼参り”を恐れて覆面を被るというのだから凄い。

 身の安全のためにアメリカに移住する者も多いが、彼は生まれ育った町を立て直したい一心で地元を離れない。彼は“シウダー・フアレスは決して犯罪ばかりの町ではない。人情味のある優しい住民も多いのだ”と独白するが、状況の厳しさには慄然とするしかない。

 エドガー・キンテロはナルコ・コリードと呼ばれる音楽ジャンルのミュージシャンだ。このナルコ・コリード、パッと聴いた感じは明るく楽しげなメキシコ製ポップスなのだが、歌詞の内容はマフィアのボスを英雄として称え、その悪行を武勇伝として持ち上げるという、トンでもなく反社会的なものだ。そのため現在はメキシコ国内では音源の販売は禁止されているが、根強いファンも多数存在し、アメリカおよび周辺国では普通にCDが売られている。道徳観が逆転した世界が風俗レベルで民衆に浸透していることを見せつけられるに及び、何とも暗澹たる気分になってくる。

 そして劇中に出てくる“本物の”死体の数は尋常ではない。当初は目を背けたくなるが、厄介なことに映画が進むと慣れてくるのだ。大半の観客は鑑賞後に虚無感を覚えると思うが、シュワルツ監督は“それが狙い”だと言う。たとえ解決策が提示出来なくても、この事実を知ってもらい、共に考えることが大切だと主張する。

 これは在り来たりのスタンスのように見えて、実は最も冷静な態度だと思う。ヘタに処方箋めいたものを挿入すれば特定のイデオロギーに絡め取られる危険性が大きい。題材はセンセーションだが、作りは正攻法。観る価値はある。
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サッカー観戦に行ってきた。

2015-05-22 06:28:30 | その他
 去る5月17日(日)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡とファジアーノ岡山である。

 前年(2014年)当スタジアムに足を運んだ際は、アビスパの不甲斐ない戦いぶりに落胆して“もう二度と試合を見に来てやるものか!”と思ったものだが、今シーズンはここまで好調である。ならば去年よりどれだけ技量が上がっているのか、それを確かめるために敢えて球技場に行ってみた次第。



 一見して驚いた。確実に各選手のスキルが上がっている。いや、実際には大幅に上達しているわけではない。上手くなっているように見えるのだ。それは言うまでもなく、監督の指導が功を奏しているからである。

 今年から指揮を取る井原正巳は初の監督就任となるが、シーズン当初こそ勝手が分からずに負けが込んだものの、エンジンがかかってからは負け知らず。さすが元日本代表のディフェンダーだけあって、守備の固め方の指示には卓越したものを感じた。何度も自陣内に攻め込まれたが、粘り強いディフェンスで相手に決定機を作らせない。



 試合は先制した1点を守りきったアビスパの勝利。順位を上げ、J1復帰への道筋も見えてきたような感じだ(もちろん、予断は許さないが ^^;)。今後も頑張って欲しい。

 今年のアビスパは営業面でも努力しているようで、一試合の平均観客動員数を1万人以上に押し上げるべく、いろいろな施策を実行しているようだ。今回も九州中のチームのマスコットキャラクターを一堂に集めたアトラクションが行われていたが、毎試合ゲストを呼んで少しでも入場者数を積み上げようという、その姿勢は評価したい。

 ともあれ、少なくとも今期は前シーズンのような失態を見せることは無いようだ。機会があればまた試合を見に行きたい。
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「東京暮色」

2015-05-18 06:27:12 | 映画の感想(た行)

 昭和32年松竹作品。小津安二郎監督のフィルモグラフィの中では異色作と呼ばれているもので、私は福岡市総合図書館の映像ホールにおける特集上映で今回初めて観ることが出来た。この頃小津作品はキネマ旬報ベストテンの常連であったが、この映画だけは19位と振るわなかった。実際に接してみると、なるほど当時の不評ぶりが分かるような内容である。

 杉山周吉は長らく銀行に勤め、今では定年を過ぎて嘱託として職場に通っている。男手一つで二人の娘を育ててきたが、ある日長女の孝子が幼い娘を連れて実家に戻ってくる。夫との折り合いが悪くなったらしい。次女の明子は専門学校生だが、遊び人の川口らと付き合うようになり、挙げ句の果てに男友達の一人である木村の子を身籠ってしまう。一方、明子が出入りする雀荘の女主人・喜久子は何かと明子の世話を焼こうとする。ひょっとしたら喜久子は昔家を出て行った実の母親ではないかと思った明子はそのことを孝子に問いただすが、孝子は否定するばかりであった。

 とにかく本作の雰囲気は暗い。夜のシーンが多いばかりではなく、登場人物いずれも表情は曇りがちで、明子にいたってはニコリともしない。筋書きの方も“真っ暗闇”で、出てくる者は自己中心的な面が目立ち、全員ロクな目に遭わない。

 もちろん小津の作品において明るい話というのはあまり見当たらないのだが、本作は“暗さのための暗さ”のようなモチーフがてんこ盛りで、観ていて辛くなってくる。しかも、小津と共同脚本担当の野田高梧との仲が良くなかったせいか、作劇面でも不手際が目立つ。

 随分前に男と出奔した母親が偶然同じ町に住んでおり、しかも明子の行きつけの店の主人であったという設定は御都合主義の極み。しかも、明子の叔母が“たまたま”デパートで彼女を見かけて周吉の知るところになるというのだから閉口する。木村は交際相手の妊娠を知って逃げ腰になるのだが、明子が彼を追いかけるくだりも無駄に長くて見せ場らしい見せ場も無い。さらに終盤の暗転も段取りが悪くて、何かの冗談ではないかと思ってしまった。全体的に演出のリズムが悪く、長い上映時間が殊更長く感じられる。

 周吉役の笠智衆と孝子に扮する原節子は、他の小津作品におけるパフォーマンスに比べると生彩が無い。明子を演じる(若い頃の)有馬稲子は凄く可愛いが、愛嬌のある役柄ではないので魅力がスポイルされているように感じる。わずかに印象に残ったのが喜久子役の山田五十鈴で、これが彼女の唯一の小津作品への出演になるが、情感のこもった演技で感心した。
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「アメリカン・ヒストリーX」

2015-05-17 06:43:31 | 映画の感想(あ行)

 (原題:American History X)98年作品。全編に渡って幾分図式的な展開が鼻につくが、この頃のアメリカ映画の中では気合いが入ってる方だと思う。それまでCMの制作に携わっていたトニー・ケイの初監督作品だ。

 カリフォルニアの高校に通うダニーは、ある日校長から呼びつけられる。彼の提出したリポートに問題があるというのだ。その内容はヒトラーの「わが闘争」をテーマにするものだった。実際にダニーはネオナチのグループに属し、校内では黒人の生徒達と仲違いをしていた。校長は改めてダニーに彼の兄デレクについてのリポートを出し直すように命じる。

 デレクは白人至上主義者で、黒人を殺して服役していたが、そんな彼が出所して家に帰ってくる。ところがデレクは、以前とは打って変った穏やかでリベラルな考え方を持つ人間になっており、兄を尊敬していたダニーは愕然とする。

 最初は“バリバリのネオナチが、3年ばかり臭いメシ食っただけで真人間になるわけないだろ”なんて思ったが、よく考えればこれは“極右思想なんて3年で転向できるほど底の浅いものだ”ということなのだろう。そんな“底の浅い思想”に多くの者が絡め取られてしまうほど、アメリカ社会は殺伐としている。

 人間とは悲しいもので、逆境に追いやられると“本当の敵”を見失い、卑近な事柄に拘泥するあまり“目の前にいる敵(らしきもの)”のことしか視界に入らなくなる。すべての元凶はこの“手近な敵”であり、こいつをやっつければ全てうまくいくと決めつける。社会的な差別や偏見はこのようにして生まれるのだが、アメリカの場合は有色人種という“(白人からすれば)見た目から違う者たち”が身近にいることが問題を深刻化させている。

 つまりは失業や貧困に悩む若い白人たちが、そのルサンチマンを吐き出す先を求めている状況にあって、本作で扱われているKKKのような反社会的集団がそれらの受け皿になってしまうのだ。不遇な家庭環境にあるダニーがそれに心酔してしまうのは、無理からぬことだ。映画は兄弟の確執の果てに、救いようのない筋書きをも提示する。

 物語の構図がいささか紋切り型になってしまったのは少し不満だが、これはこれでインパクトが大きい。兄弟に扮するエドワード・ノートンとエドワード・ファーロングは好演。ケイ監督の仕事ぶりはスムーズで、CM畑の出身者にありがちな余計なケレンが無いのも良い。また彼は撮影も兼務しているが、こちらの方も達者だ。
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「あの日の声を探して」

2015-05-16 06:27:05 | 映画の感想(あ行)

 (原題:The Search)第84回アカデミー作品賞受賞作「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウス監督が、今回は題材をガラリと変えて挑む意欲作。前作とはあまりにも趣が異なるシャシンで面食らってしまうが、気勢の上がらないオスカー受賞作よりずっと見応えはある。

 99年、ロシア領内で起きたテロを口実に、ロシア軍はチェチェンに侵攻する。ロシア兵に目の前で両親を殺され一時的に声を失った9歳のハジは、姉も殺されたと思い赤ん坊の弟を抱えて逃げ出す。弟を見知らぬ家の前に置いて世話を託した後、一人で街を彷徨うハジは、偶然フランスから人権調査にやって来たEU職員のキャロルに拾われる。彼女の住処に居候することになったハジだが、相変わらず言葉を発することが出来ない。

 一方、ロシア在住の若者コーリャは、ひょんなことから官憲に因縁を付けられ、検挙されてしまう。刑務所に入るか、あるいは兵役に就くかという二者択一を迫られ、やむなく陸軍に入隊することを選ぶ。だが、そこでの生活は熾烈を極めるものだった。1947年に作られたフレッド・ジンネマン監督の「山河遥かなり」(私は未見)の再映画化であるが、舞台を第二次大戦下のドイツから現在のチェチェンに移している。

 構成がけっこう巧妙だ。ハジとキャロルとの関係性を描く部分がメイン・プロットだが、弟を探してEUの関係機関を訪ね歩くハジの姉のパートと、前述のロシアの若い兵士のエピソードが平行して展開される。これはもちろん多角性を持たせた視点を醸成させるためであり、ジンネマン監督が反戦映画を撮った70年前とは環境がまるで違っていることを強調している。正式な宣戦布告をして交戦状態に移行するという段取りは過去の話になり、今は個々の国や勢力が勝手気ままに自らの利権を求めて武力を行使するカオスな状況にある。

 さらに言えば、紛争を監視したり調停するはずの第三者機関においても各構成員の打算や事なかれ主義が横行し、機能不全に陥っている。キャロルはチェチェンでの惨状をEUの会合で必死に訴えるが、マジメに聞いている奴などほとんどいない。手を拱いている間にも、コーリャのようなナイーヴな若者が戦闘マシンとして仕立て上げられ、惨禍は拡大するばかりだ。

 ハジとキャロルが心を通わせる過程や、ハジの姉が戦争孤児たちの世話をする場面は心打たれるが、コーリャのエピソードが他の二つのパートに合流するラスト、そして結果として映画全体で“出口なし”の円環を成す構図が提示されれば、まさに慄然とするしかない。

 キャロルに扮するベレニス・ベジョは好演で、「アーティスト」の時より遥かに魅力的に撮られている。一筋縄ではいかないEUの現地責任者を演じるアネット・ベニングも貫録のパフォーマンスだ。セットを使わずロケーション主体での撮影も効果満点で、これは観る価値のある映画だと言いたい。
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