元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「蜘蛛の巣を払う女」

2019-01-28 06:21:18 | 映画の感想(か行)

 (原題:THE GIRL IN THE SPIDER'S WEB)前作「ドラゴン・タトゥーの女」(2011年)よりも面白い。ベストセラーである原作の「ミレニアム」シリーズに接していない観客(←私も含む ^^;)に対しても分かりやすくアピールするためか、明快なスパイ・アクションに徹しているようだが、これが功を奏している。元ネタとの関係性に拘泥して作劇の範囲を狭めるよりも、映画自体でウェルメイドに徹する方が合理的なのは当然だ。

 ストックホルムに住む一匹狼で荒仕事も請け負う天才的ハッカーのリスベットは、人工頭脳の世界的権威であるバルデル教授から、開発してNSAに“納品”した世界中の戦術核を制御するプログラムを取り戻してほしいと頼まれる。難なくプログラムを奪還したリスベットだが、起動させるためにはバルデル教授の息子が知るパスワードが必要なことが判明。しかも、プログラムを横取りしようと謎の組織が暗躍し始める。

 この組織を仕切っているのが、16年前に生き別れになったリスベットの妹カミラであった。父親がボスを務めていた犯罪シンジケートを受け継いだカミラは、リスベットに対決を挑む。

 前作でクローズアップされていたジャーナリストのミカエルの扱いが軽いのは欠点だと思うが、その分リスベットとカミラとの姉妹の確執が効果的に取り上げられており、あまり気にならない。またプログラムを取り返そうとアメリカからやってくるNSAのエージェントのカザレスや、事件を闇に葬ろうとするスウェーデン公安警察、リスベットのハッカー仲間など、バラエティに富んだ面子がストーリーに絡み合う。監督フェデ・アルバレスはこれらのキャラクターを上手くコントロールし、テンポを落とさずに最後まで乗り切っている。

 アクションシーンの見せ方や段取りも申し分ない。何より、冷たく厳しい北欧の冬の描写が印象的だ。主演のクレア・フォイは前作のルーニー・マーラに比べると器量は落ちるが(おいおい ^^;)、身体は良く動くし観ているうちに気にならなくなる。

 カミラ役のシルビア・フークスはまさに“怪演”で、エキセントリックな持ち味を発揮。時に、真っ白な雪原をバックに赤い衣装を身にまとって現れる場面はインパクトが大きい。ペドロ・ルケのカメラによる撮影やロケ・バニョスの音楽も言うこと無しで、この調子ならば(原作を離れても)いくらでも続編を作れそうだ。
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「サスペリア PART2」

2019-01-27 06:51:02 | 映画の感想(さ行)

 (原題:PROFONDO ROSSO)75年イタリア作品。今年(2019年)リメイク版が日本公開された「サスペリア」(77年)とは、ストーリーの関連性はまったく無い。それどころか「サスペリア」よりも前に作られている。「サスペリア」のヒットにより、同じ監督作という理由だけで配給会社が“2作目”という扱いにして二匹目のドジョウを狙ったものだ。今から考えると無茶苦茶だが、当時はそういう“マーケティング”が罷り通っていたと見える。

 ローマで開催されていた欧州超心霊学会の会場で、壇上に立った霊能者であるヘルガが突然“この会場に、過去に人を殺し、また誰かを殺そうとしている者がいる”と告げる。その後、帰宅したヘルガは何者かに襲われて殺される。遺体の発見者は近所に住むイギリス人音楽家のマークだが、彼はヘルガの住居の壁に並べられていた絵画が、一枚消えていたことに気付く。

 友人のカルロが容疑者を目撃していた可能性が高いと踏んだマークは彼の家を訪ねるが、元女優でスターだったという母親と共にマークを迎えたカルロは、なぜかマークに深入りは危険だと忠告するのだった。だが、犯人の凶行はさらに続き、犠牲者は増え続ける。ついにはマークも狙われるようになってしまう。

 冒頭の、クリスマスの夜に子供の歌が流れる中で行われた殺人の場面がインパクトが大きい。惨劇を影だけで表現し、次に地面に落ちた血の付いた包丁に近づく子供の足を捉えたこのショットは、言い知れぬ不安を画面に充満させる。

 正直、この映画の雰囲気は(製作年度を勘案しても)古臭くてチープだ。仕掛けられているトリックや、犯人探しのプロセスも無理筋である。しかし、それが逆に即物的な怪奇描写を盛り上げているのは何とも玄妙だ。ラストの扱いも残虐描写の最たるものながら、カタルシスを覚えてしまう。

 監督ダリオ・アルジェントによる画面構成はけっこう凝っており、これが安っぽいサスペンス劇の中に挿入されると、何やらカルト映画のような独自性を醸し出してくるのだから面白い。主演のデイヴィッド・ヘミングスをはじめダリア・ニコロディ、ガブリエレ・ラヴィア、マーシャ・メリルという面々は皆一癖ありそうで、見ていて気を抜けない(笑)。音楽は「サスペリア」と同じくゴブリンが担当しているが、これが素晴らしい効果を上げている。
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「クリード 炎の宿敵」

2019-01-26 06:18:53 | 映画の感想(か行)

 (原題:CREED II)上映時間が必要以上に長く、中盤が間延びしてしまうのだが、ラストの処理は長年このシリーズを見続けてきた手練れの映画ファン(←私も含む ^^;)にとって、とても感慨深いものになっている。よって、低めに評価することは出来ない。それどころか、本当に観て良かったと思うほどだ。

 前作「クリード チャンプを継ぐ男」(2015年)での激闘の後、ロッキー・バルボアの指導を受けて世界チャンピオンに上り詰めたアドニス・クリードに、ロシアのボクサーであるヴィクター・ドラゴが挑戦状を叩き付ける。ヴィクターは「ロッキー4 炎の友情」(85年)でクリードの父アポロを撲殺したイワンの息子であった。ロッキーの反対を押し切って、この遺恨試合に臨んだアドニスだったが、圧倒的なヴィクターのパワーの前に為す術も無くリングに倒れてしまう。試合はヴィクターの反則行為によってアドニスの勝利となったものの、アドニスはその結果に納得しなかった。

 中盤に挿入されるアドニスと恋人ビアンカとの関係、および2人が結婚して長女を授かるくだりが、かなり長い。そしてロッキーとアドニスの養母メアリーとのやりとりや、アドニスが一時期ロッキーの元を離れるといった部分も、少しは削る余地があったと思う。

 しかしながら、30年以上前のソ連での死闘に敗れたイワンの境遇およびヴィクターの不遇、そしてロッキーとの再会は、(あれから大きく変わった世界情勢を背景に)重く扱われて見応えがある。スティーヴン・ケイプル・Jr.の演出はドラマ運びは冗長な部分もあるが、試合のシーンは畳み掛けるようなタッチで迫力満点だ。

 終盤の展開は、ロッキー役のシルヴェスター・スタローン及びパート4に引き続いてイワンを演じるドルフ・ラングレンの、それぞれ実生活での変遷が重ね合わされて、観ていると何とも言えない気持ちになる。さらには、かつてスタローン夫人であったブリジット・ニールセンが思わせぶりに登場するのだから嬉しくなった(笑)。

 主演のマイケル・B・ジョーダンアやヒロイン役のテッサ・トンプソン、ヴィクターに扮したフローリアン・ムンテアヌなど、キャストは皆好演。音楽はルドウィグ・ゴランソンが担当しているが、それよりもクライマックスに流れるお馴染みの“ロッキーのテーマ”には泣かされた。本作の結末を勘案すると続編の製作は難しいように思えるが、もしも作られたらまた観るつもりだ。
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「おニャン子・ザ・ムービー 危機イッパツ!」

2019-01-25 06:19:26 | 映画の感想(あ行)
 86年東宝作品。何と、私は本作を公開当時に劇場で観ているのだ(笑)。もっとも、目当ては断じてこの映画ではなく、同時上映の森田芳光監督「そろばんずく」の方であった(再笑)。ただ、厳密に言えば本作はタイトル通りの“アイドル映画”ではなく、本筋は当時の人気グループであった“おニャン子クラブ”のコンサート会場での爆弾テロ事件をめぐるサスペンス劇だ。

 しかし、そのストーリー自体は語る価値も無く(というか、現時点ではほとんどが忘却の彼方だが ^^;)、宮川一朗太に江口洋介、伊武雅刀、関根勤、安岡力也、桃井かおりといったキャストも印象に残る演技はしていない。なお、監督は原田眞人で、いくつかの秀作・佳作をモノにした彼もアイドル絡みの仕事とは相性が悪いようだ。

 で、どうして今この映画のことを書くのかというと、最近起こったNGT48の騒動のニュースに接して、図らずも本作を思い出したからである。かつてのおニャン子と現在の(NGTを含む)AKB関連グループは、言うまでもなく同じ仕掛け人の手によって作られた。しかしながら、延べ50人ぐらいは在籍していたと思われるおニャン子のメンバーの中で、現時点で芸能界に残っているのは数人。しかも、大成して今でも一線で活躍している者は(私の知る限り)存在しない。

 まあ、おニャン子自体が“放課後のクラブ活動”のようなノリで出来たグループであり、活動期間も3年足らずと短かったので、そんな顛末も仕方がないかと思わせる。だが、AKB一派は10年以上活動しており、参加メンバーも膨大な数だ。ヒット曲は多くなり、我が国のポップス界で地位を獲得している(ように見える)。

 一方、当のメンバー達の状況はどうかといえば、多くが単にお仕着せの楽曲をこなすだけで各個人の芸能的スキルは大して積み上げられない。各個人を差別化するものは主にファンサービスであり、それが結果として“総選挙”のランキングに反映されるということなのだろう。本来の“芸能”の範疇から逸脱した狭い世界での(無意味な)マウンティング合戦が、今回のNGTの事件の背景にあると思う。

 この状態が果たして各メンバーにとってプラスになるのかどうか、甚だ疑問だ。AKB一派の構成員及びその“卒業生”が映画に出ることは少なくないが、いずれも芳しい結果は得られていない。考えてみれば当たり前で、十代から二十代前半までの大事な時期を極端な多人数のアイドルグループの一員として愛嬌を振りまくことに腐心している間に、本当に芸能の道を歩もうと考えている同世代の者達は、それぞれ研鑽を積んでいるのだ。その差は大きい。

 この映画の出来自体に関してはあまり言及する余地は無いが、今から思い返せば、ライトな雰囲気でわずかな期間ヒットチャートを賑わせただけのおニャン子クラブの時代は、いわば牧歌的であったと感じる。対して現在のAKBの体制は、グループの多くのメンバーにとって本質的なメリットになっているとは思えない。NGTの騒動はその歪みが表面化したものなのだろう。個人的にはこのシステムは“限界”に達していると思っている。抜本的に見直さなければ、似たような事件は今後も頻発すると予想する。
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「暗黒街の顔役」

2019-01-21 06:20:22 | 映画の感想(あ行)

 (原題:SCARFACE)1932年作品。今回私は福岡市総合図書館にある映像ホール“シネラ”での特集上映にて鑑賞した。30年代にはハリウッドでギャング映画が盛んに作られたらしいが、この映画はその代表作とされているものだ。確かに、この時代の映画としてはかなり激しい内容で、見応えがある。監督ハワード・ホークスの手腕には、改めて感服する。

 ギャングの大親分ビッグ・ルイ・コスティロの用心棒だったトニー・カモンテは、競争相手のボスであるロヴォに買収されてコスティロを密かに射殺する。コスティロの利権そっくり手にしたロヴォは、トニーを副親分に引き立てる。だが、トニーはその程度で満足するような男ではなかった。街の南側を支配する親分オハラを急襲して片付け、ロヴォの情婦ポピーとも懇ろになる。

 トニーの無鉄砲さに恐れを成したロヴォは彼を始末しようとするが、あえなく失敗。逆にトニーはロヴォを抹殺する。こうして暗黒街の顔役となったトニーだが、大切にしていた妹のチェスカが男と同棲していることを知り、住処に押し掛けて相手を射殺してしまう。しかし、2人は結婚した後で、チェスカは激しく兄を罵る。そんな中、ギャングの悪業に対して世論は反発し、警察はそれを受けてトニーの組織の摘発に乗り出す。

 ポール・ムニ扮するトニーの造型が圧倒的だ。目的のためなら手段を選ばない冷血漢で、悪事をはたらくことに何のためらいも無い。それでいて妹に対しては近親相姦的な感情を抱き、そのディレンマに苦しむことになる。周りの連中もロクでもない奴らばかりで、こいつらが欲望のままに動き回る様子は、まさにスペクタクルだ。

 冒頭、この映画が社会を改善するための問題提起として作られたことが示される。だが、市民達が悪党どもの跳梁跋扈や銃火器の野放図な氾濫に反対するくだりが映し出されるに及び、この問題は現在でも解決されていないことに思い当たり、暗澹とした気分になる。

 ホークスの演出は強靱で、アクション場面はかなりヴォルテージが高い。アン・ヴォーザークやカレン・モーリー、オスグッド・パーキンスといった脇の面子も申し分ない。なお、83年にブライアン・デ・パルマ監督によってリメイクされているが、あっちは3時間の長尺。対して本作は1時間半だ。やっぱり娯楽映画はコンパクトに仕上げるに限る。
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「カメレオンマン」

2019-01-20 06:18:55 | 映画の感想(か行)

 (原題:ZELIG )84年作品。ウディ・アレンのフィルモグラフィの中では、1,2を争うほど“冗談のキツい”映画である。卓越かつ屈折したキャラクター設定と玄妙な筋書き。そして高いメッセージ性。しかも見事にコメディ映画の枠内に収まっているという、作り手の(良い意味での)意識の高さを見せつけられる。

 1930年代のアメリカ。人々はゼリグという風変わりなユダヤ人を目撃するようになる。彼は周りの環境に順応し、身体的にも精神的にも変貌を遂げるという特異な体質の持ち主で、数々の有名人と“まるでその関係者であるがごとく”一緒にいる様子を多くの者が目にしていた。彼に興味を持った女医のユードラはゼリグを診察するが、彼はたちまち精神分析医に変身してしまう有様だ。

 実はゼリグは子供の頃に疎外され、いつしか身を守るため周囲の環境に合わせて姿かたちを変えるようになったのだ。ユードラはそんな彼に同情するうち、恋心を抱くようになる。だが、ゼリグの姉ルースの恋人マーテはゼリグを見せ物にしようと画策する。

 当時のニュース映像や記録フィルムの中にゼリグを登場させてアンマッチな笑いを誘うだけではなく、随所に識者による回想シーンがもっともらしく挿入されるのがおかしい。ギャグの繰り出し方は、さすがアレンだと感心させられる。ゼリグの立ち位置はユダヤ人全般の暗喩なのだろうが、転じてトレンドに付和雷同する一般ピープルをも皮肉っていると言えよう。

 本当はゼリグが周りの環境に合わせているのではなく、確固としたアイデンティティを持たない大衆が揺れ動いているだけで、ナイーヴなゼリグはその度にやむ無く対応しているだけという図式が内包されている。それが表面化するのが、ゼリグがヒットラーの背後に立っている場面だ。独裁者に対しては盲目的な支持者に“変身”するしかないという、作者のアイロニーが際立っている。

 ゼリグに扮するのはもちろんアレン自身で、屈折した内面を巧みに笑いに転化させている。ユードラ役のミア・ファローをはじめ、ギャレット・M・ブラウンやステファニー・ファローなどの脇の面子も良い味を出している。ゴードン・ウィリスのカメラによる凝った映像も見ものだ。
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「ぼけますから、よろしくお願いします。」

2019-01-19 06:11:12 | 映画の感想(は行)

 いろいろと考えさせられる映画だ。テレビディレクターの信友直子が、年老いた両親の日常を題材に撮り上げたドキュメンタリーで、示唆に富んで納得させられる場面もあれば、疑問点も少なからずある。いずれにしろ、観る価値はある作品だとは思う。

 信友監督は61年に広島県呉市で生まれ、現在は東京で映像作家として活動している。未婚で、ひたすら仕事に打ち込んでいたが、45歳の時に乳がんが見つかる。一時は絶望の淵に追いやられた彼女だが、両親の支えもあって手術も成功し、見事に復帰する。信友監督は両親との思い出を記録しようと、父と母にカメラを向け始める。しかし、2013年に母親は認知症に罹患する。とうに80歳を超えた母を、90歳代の父が介護するという大変な事態になるが、信友はそれでも冷静に2人の様子を撮り続ける。

 かなりシビアな状況なのだが、タッチは明るい。もちろん、陰々滅々とした語り口だと観る者が“引いて”しまうので、マーケティング的(?)にはこのやり方は妥当であるが、それでも一種突き抜けたようなポジティヴな姿勢は印象的だ。

 特に、それまで家事をほとんどやらなかった父親が、妻のために炊事洗濯さらには裁縫までもマスターしてしまうくだりは面白い。また、父親は90歳超という年齢の割には元気で、愛嬌もユーモアもあるところは、暗くなりがちな題材を取り上げた中で一種の“救い”になっている。

 しかしながら、彼らの生活と住居には問題がある。実家は古く、もちろんバリアフリーなんか関係ない。特に、父親が段差の大きい勝手口から出てくる場面にはヒヤヒヤした。また2人は吝嗇家で、洗濯機はあるが電気代と水道代を節約するため、濯ぎを“手作業”で行うあたりは身体に負担が掛かるだろう。

 夫婦は結構な額の年金をもらっていると思われるし、信友監督の収入も安定しているはずだから、建て替えは無理だとしてもリフォームぐらい考えても良いのではないか。そして最も疑問を感じたのが、夫婦の兄弟あるいは親戚、また近所の人たちが一向に現れないことだ(まあ、ヘルパーは登場するが)。もしも2人が地域や血縁から孤立しているのならば問題だが、映画はそのあたりに言及していない。

 斯様に状況説明が不十分なので、諸手を挙げての評価は差し控えたい。なお、場内は満員。この題材に対する関心の高さを再確認した。
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「沈黙の戦艦」

2019-01-18 06:57:23 | 映画の感想(た行)
 (原題:UNDER SIEGE )92年作品。今ではスティーヴン・セガールの主演作をクォリティの面で期待している観客はあまりいないと思うが(苦笑)、この映画はなぜか公開前には“アクション巨編”として賑々しく宣伝され、映画ファンの注目を浴びていたのである。私は封切り日に観ているのだが、客席は満杯だった。そしてロビーでは、業界関係者と思しき人たちが“楽しみにしていた映画がやっと公開ですね”という感じで談笑していたことを覚えている。時代が違えば、興行における扱いも変わってくるものである。

 核を積んだアメリカ海軍の戦艦“ミズーリ”がテロリスト一味に乗っ取られる。それに単身立ち向かうのは、元米軍特殊部隊の強者で、問題を起こして今は“ミズーリ”のコックに格下げになっている(笑)ライバックという人物。圧倒的な武装と人員を誇るテロリストたちに対し、果たして彼に勝ち目はあるのか・・・・という話だ。



 ストーリーは「ダイ・ハード」シリーズと似てるのではないかというとの意見もあるかと思うが、事実、この作品が公開されたおかげで、「ダイ・ハード3」の脚本が書き直されるハメになったという逸話がある。

 セガール御大は相変わらずだ。表情に乏しく、緊張感のかけらもない。それまでも「刑事ニコ/法の死角」(88年)「死の標的」(90年)などの過去の主演作も観ているのだが、印象としては合気道が上手いだけのタフガイにすぎない。戦艦のシージャックという設定は悪くないが、展開が行きあたりばったりで、登場人物の位置関係もハッキリせず、ハデな銃撃戦で場面を繋いでいるだけのようだ。

 政府関係者の対応がステレオタイプで面白くないし、敵の親玉(トミー・リー・ジョーンズ)との決闘も意外性がなくあっけない幕切れ。驚くようなアクションシーンもなく、核ミサイル発射の恐怖も希薄なら、ラストのカタルシスも十分とは言い難い。まあ、監督がアンドリュー・デイヴィスというB級なので、多くは望めないだろう。

 結局、観終わって印象に残ったのは、ヒロインを演じるエリカ・エレニアックの大きいバストだけだった。しかしながら、現時点では作品自体を一種の“ネタ”として楽しむ余地はあるかもしれない。
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「アリー スター誕生」

2019-01-14 06:15:27 | 映画の感想(あ行)

 (原題:A STAR IS BORN)あまり面白いとは思えない。過去何度も映画化されたネタだが、現時点でリメイクする意味が見出せない。アメリカでは主演のレディー・ガガの“復活劇”とシンクロしたヒロイン像が大いにウケたということらしい。だが、彼女にそれほどの思い入れが無い観客にとっては、まるでピンと来ないのでないか。

 売れっ子のロック・シンガーであるジャクソン・メインは、カリフォルニア州でのコンサートの後に立ち寄ったバーで、音楽の才能を持つ若い女と出会う。彼女はバーのウェイトレスのアリーで、歌が上手いだけではなく作曲もするという。アリーに惚れ込んだジャクソンは彼女をツアーに同行させ、さらにステージに上げて歌わせた。彼女のパフォーマンスは観客から喝采を浴び、瞬く間にスターダムにのし上がってゆく。ジャクソンとの結婚も果たし順風満帆に見えたアリーだが、一方でジャクソンは酒とドラッグに溺れ、第一線から退くことになる。

 物語の中心はアリーであるはずだが、演じるガガは映画初出演で、内面的な表現が心許ないのは当然だろう。最初から才能豊かで、大した苦労も無くブレイクし、グラミー賞も取ってしまう。これでは感情移入はしにくい。

 どちらかというと映画の主眼はジャクソンの側に寄っているのだが、出てきた時から冴えないオッサンであり、歌は達者であるものの、いわゆる“華”が無い。どうしてアリーが本気で惚れたのか、よく分からないのだ。ジャクソンと年の離れた兄との関係性はそれを主体的に描けば面白そうだが、画面の真ん中にアリーが鎮座している関係上、あまり効果的に扱われていない。

 そして最も違和感を覚えたのが、ジャクソンがやっている音楽である。古いタイプのカントリー・ロックであり、こういうサウンドが今でも一定の需要があることは承知しているが、あまりにも現在のメインストリームからは離れているのではないか。ここはジャクソンをラッパーかEDMのDJあたりに設定した方が、説得力があったと思われる。また、当初はジャクソンの音楽に準じたナンバーをやっていたアリーが、簡単にダンス・ミュージックに鞍替えしてしまうのも愉快になれない。

 監督でジャクソン役として出演もしているブラッドリー・クーパーは健闘していたとは思うが、ここ一番の訴求力には欠ける。76年のフランク・ピアソン監督版も観ているので結末は分かっていたが、そのことを差し引いてもラストは盛り上がらない。何でも、当初はビヨンセが主演する予定だったという話だ。どちらかというと、そっちの方がサマになっていたような気がする。
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「私生活のない女」

2019-01-13 06:45:05 | 映画の感想(さ行)

 (原題:La Femmes Publique)84年作品。高踏的かつスノッブな作風で、公開当時はあまり良い評価は受けていなかった記憶があるが、私はけっこう好きな作品だ。とにかく、主演の若手女優ヴァレリー・カプリスキーの魅力が圧倒的で、観る者を捻じ伏せてしまう。

 パリに住む若い娘エテルはヌード写真のモデルをしているが、実は女優志望である。たまたま受けた映画のオーディションで、エテルは新人監督のリュカ・ケスリングの目にとまり、ドストエフスキーの「悪霊」の映画化作品への出演が決まる。彼女はケスリング本人とも懇ろな仲になるが、ある日エテルは彼の家で女の声がするのを耳にする。顔は見えなかったが、その女は金色の靴を履いていることが分かる。

 そして部屋にあった彼女のバックの中から、チェコのパスポートを見つける。何日か経った後、テレビのニュースは身元不明の女性の死体が見つかったことを報じ、その女は金色の靴を履いていたという。ケスリングが事件に関与しているのではないかと疑うエテルは、彼がチェコからの亡命者を匿っている事実を突き止める。

 筋立てはサスペンス映画だが、謎解きに比重は置かれていない。それどころか、ラストでは事件が解決したのかどうかも判然としない。たぶんこれは、映画製作の深淵に引き込まれた監督の姿を、80年代末の変革を前にした東欧の切迫した状況を背景に、極端な変化球で表現したものであろう。

 しかしながら、正直そのモチーフにはピンと来ない。そんな映画作家の屈託よりも、エテルを演じたカプリスキーの存在感にただただ驚くばかりだ。奔放すぎるその内面を、街中をハイスピードで闊歩するシーンや、カメラの前で挑発的に動き回るシークエンスで存分に印象付けている。彼女がこの映画の前に出た「聖女アフロディーテ」(83年)でもそのグラマラスな肢体は披露されていたが、本作では完璧な肉体美を存分に見せつけている。

 監督はアンジェイ・ズラウスキーだが、彼の代表作「ポゼッション」(81年)とは違い、ヒロインは狂言回し的な役どころながら、共演のフランシス・ユステールやランベール・ウィルソンらの神経症的な佇まいを軽く凌駕している。カプリスキーのパフォーマンスを見るだけで入場料の元は取れるだろう。サッシャ・ヴィエルニーの撮影とアラン・ウィスニアックの音楽も要チェックだ。
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