元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「三たびの海峡」

2008-05-27 06:41:36 | 映画の感想(ま行)
 95年松竹作品。韓国で実業家として成功した河時根(三國連太郎)は50年ぶりに日本の土を踏む。戦争末期に朝鮮から動員され、筑豊の炭坑で死んだ同胞の墓参りと、当時彼らを虐待した会社社長(隆大介)に会うためだ。河の脳裏に戦時中の辛い体験がよみがえる。帚木蓬生の原作を神山征二郎が映画化。当時、戦後50年を記念して作られた一本である。

 ラストシーンを観て、あっけにとられてしまった。河と当時の社長が“対決”するのであるが、この展開が唐突に過ぎ、それまでの神山らしい演出タッチはいったい何だったのだと頭を抱えてしまった。

 このラストを用意するならば、根本的にドラマを作り直さねばなるまい。たとえば、主人公・河は夜ごとの悪夢に悩まされていて、どうやらそれは自ら封じ込めた戦時中の忌まわしい記憶が歳を取って再び表に出てきたらしい・・・・というような前振りをしておいて、日常生活にまで悪夢の影響が出始めて河はたまらず日本へ渡り、真相の鍵を握る当時の社長に会おうとするが、正体不明の妨害工作に遭う。周囲に思わせぶりな人物(その筋の人間や、ナゾの美女とか)を配置することも忘れない。大仰なカメラワークと凝った編集でサスペンスを煽りたてれば、けっこう面白そうな歴史ミステリーにはなるかもしれない(おい、そりゃブライアン・デ・パルマの世界だ ^^;)。

 それはさしおいて、日本映画ってのはこの時代を描くときどうしてこう及び腰になるのだろうか。“当時はこういうこともありました。こんな苦労をしました”という事実を教科書通りに追っているだけではないか。朝鮮人への差別やら主人公と結婚したために朝鮮人から白い目で見られる日本人女性(南野陽子)の苦労やら会社社長の腹黒さやら、すべてが図式的、事実の羅列でしかない。そんな“事実”はわかっているのだ。もっと突っ込んだ“真実”や、歴史に翻弄されて血の涙を流す人間像や、アッと驚く娯楽性を見せてくれなきゃ、いったい何の映画化だ。

 これは「きけ、わだつみの声」(95年)と同じだ。つまり、どこからもクレームが付かないように問題点をそぎ落としていったら、毒にも薬にもならない教条主義的なシャシンになってしまったと、そういうことだ。だいたい舞台になる筑豊の町を“長陽市”なんて架空の地名付けてることからナサケないぞ。なぜに“直方市”という本当の地名を示さないのか。

 神山征二郎のように良くも悪くも“良心的な”映画作りしか出来ない人より、ここは底意地の悪い確信犯的人材を持ってきた方がよかった。いずれにしても、邦画大手の「戦後」に対する認識ってのはこの程度である。
コメント
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