元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「丘を越えて」

2008-05-30 06:30:01 | 映画の感想(あ行)

 西田敏行の一人舞台のような映画である。大正時代から昭和初期にかけて活躍した小説家の菊池寛に扮しているのだが、一筋縄ではいかない人物だったとはいえ「父帰る」や「恩讐の彼方に」を著した作家センセイらしいところは微塵もない。情にはもろいが軽佻浮薄で厚かましく、印象はまるで「釣りバカ日誌」シリーズのハマちゃんだ。

 どうして彼を主演に据えたのか分からないが、基本的に何をやってもこういう雰囲気の人物しか表現できない俳優なので、キャスティングの段階で良くも悪くも映画の“限界”は見えていたと思う。西田のキャラクターを許せればそこそこ満足は出来るだろうが、映画全体の出来としては彼のオーバーアクトに引きずられて要領を得ない結果に終わっている。

 原作は猪瀬直樹の「こころの王国」で、私は未読ながらおそらくは菊池寛の文化人としての人物像を猪瀬なりに解釈してゆく内容であると想像するが、映画では突っ込んだ描写は見られない。わずかに主人公と猪瀬自身が演じる直木三十五との対談シーンに菊池寛の作家としてのスタンスが窺われるのみだ。もちろん文藝春秋社を立ち上げた経緯や、ギャンブルに入れあげたり映画界でも存在感を示した菊池という男の大きさにも言及することはない。

 映画は菊池の私設秘書である若い女の目を通して展開されるが、そうすることによって別に面白い趣向が用意されているわけでもない。クライマックスになるべき彼女と朝鮮人である文藝春秋社の従業員との恋愛沙汰も、さほど盛り上がらない。朝鮮が日本に併合された事実について、日本に一方的な責任があるわけではなく、容易に外国の干渉を受けるようになってしまったのは、朝鮮の特権階級であった両班(ヤンパン)の無軌道ぶりが原因だとする主張(ほとんど真実)が朝鮮人である彼の口から語られるあたりが目新しいぐらいだ。

 ただし、それでもこの映画が観る価値のあるのは、昭和5~6年の東京の風景や風俗を見事に映像化している点に尽きる。これらのモダンな意匠は戦争によって焼失し、今ではほとんど残っていない。もちろん、本作で描かれたものが時代考証面で正確かと問われれば無条件で肯定は出来ないだろう。しかし、観る者に“おそらくこの頃はこんな具合だったのだろう”と思わせる映像の求心力がある。

 特に感心したのは衣装デザインだ。朝鮮人スタッフ役の西島秀俊の着ているスーツもレトロでカッコ良いが、ヒロイン役の池脇千鶴が身につける洋服のセンスの良さには脱帽した。素晴らしくよく似合っていて、この女優の愛らしさを再確認できる。このハマりぶりは近年では「下妻物語」でロリータファッションに身を包んだ深田恭子と双璧だろう(笑)。

 高橋伴明の演出は無難な展開に終始して面白みがない。なんとラストはミュージカルになっていてなかなか楽しませるのだが、そこに至る伏線も暗示もなく、そもそもタイトル曲の「丘を越えて」自体がドラマの中で活かされるいるとは言い難く、釈然としない結果になってしまった。
コメント
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