道草、より道、まち歩き。

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坊さんの世間話

2009年08月08日 23時50分25秒 | 日記・エッセイ・コラム
地域の団体で一緒に活動していた方が亡くなり、通夜に出席した。

お坊さんのお経を聞きながら、故人との関わりは2年ほどなので、そう深くはなかったけれど話しをしたことや、色々な活動で活躍されていた姿を思い出したり、故人と自分の父親が同じ名前で、亡くなった日が一日違いであったので父が亡くなった時のことを思い出したり、同じ場所で葬儀をした叔父の事などが頭に浮かんだ。

焼香が終わり、お経を終えた坊さんが参列者に向き直して、手順通り説教を始めた。
多くのお寺はそうだと思うが、故人と坊さんの関わりというのはよっぽど付き合いが深い檀家でない限り、坊さんが亡くなった方の事を話す事は少ない。

今日も同様に時期が時期だけにお盆の話しから始まり、自分から10代遡ると1024人の先祖がおり、誰が欠けても自分は存在しないという話しだったりで、お経を読む時間より長く、多分20分以上の話しの中で故人についての話しは1、2分。
確かに話しの内容はもっともだけれど、なんだか宗教の普及を聞かされているようだった。

説法とは法を説く(解説)という事なので、誰もが理解できないお経とも違う気がする。
説教も教えを説く(説明)ので、お経を読んだ後に聞いていたのはどちらにも当てはまらず、これはただの世間話か? というような話しをする坊さんも少なくない。

僧侶が居なくなったあと、司会者が故人の経歴を紹介した。
このとき初めて聞いた話しも多く、坊さんの話しよりずっと故人を偲ぶ事ができるような気がした。
思えば父の葬儀の時は父の経歴を町内会の方が紹介し、一部言い方に難があり不愉快な思いをしたが、私たち家族が話せれば本当は良いのだろうが、実際は言葉にならなくなってしまいそうで、他人に頼む事になってしまうのが一般的なのかもしれない。

そんな色々な事を考えながら、いつかまた家族の葬儀を行うとしたら、不謹慎ながらも坊さんにはお経だけしてもらえば充分かもしれないと思った。お寺さんと良い付き合いをしている母にこんな事をいうと、いい歳をして何を考えてる!と雷が落ちそうだけれど、所詮他人だし・・・と考えてしまう。

しかし自分の葬儀という事で考えると、お経も戒名も要らないという気持ちで、もし葬儀に知人が来てくれるとすれば、皆で集まって雑談して、飲んで食べて、楽しくお別れして貰えればいいな~なんて考えているが、きっと周りは反対するだろう。
でも家族には少しは泣いて欲しかったりして(^^;

いつから今の形態の葬儀になったか分からないが、昔は一般庶民がこれほど盛大な葬儀をしていたとは考えにくい。あと何年、何十年生きられるか分からないけれど、今後はもっと質素に葬儀の仕方も変わって行く事も考えられるかもしれない。

昨日は生まれた話しだったのに、たまたま本日は死についてになってしまった。

コメント (2)
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