南無煩悩大菩薩

今日是好日也

Symbol of Self-Education

2020-10-10 | 世界の写窓から

(picture/source)

多分世の立志譚のほとんどに後付けの眉唾ものも多いのでありましょうが、以下の文章は、子の親として孫の爺として、もしや大事な自習を促されているような心持になるのであります。

ー以下

わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋わらじを造ったり、大人のように働きながら、健気けなげにも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚りっしたんのように――と云うのはあらゆる通俗小説のように、感激を与え易い物語である。実際又十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。……

けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代りに、

当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。

彼等は尊徳の教育に寸毫すんごうの便宜をも与えなかった。いや、むしろ与えたものは障碍しょうがいばかりだった位である。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と云わなければならぬ。

しかし我々の両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでも或は又博奕ばくち打ちでも好い。問題は唯尊徳である。どう云う艱難辛苦かんなんしんくをしても独学を廃さなかった尊徳である。我我少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。

わたしは彼等の利己主義に驚嘆に近いものを感じている。成程彼等には尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合の好い息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名をあらわしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合せの一つにさえ考えていた。

丁度鎖につながれた奴隷のもっと太い鎖を欲しがるように.。

ー芥川龍之介「侏儒の言葉、二宮尊徳」より