南無煩悩大菩薩

今日是好日也

才能

2022-02-13 | 意匠芸術美術音楽

(picture/Kazuo Shiraga -Bakumatsu power-)

才能というのは、ひょっとすると憤怒の首尾よく昇華された姿に他ならないかもしれない。

言い換えるなら、手に負えない対象物を破壊する目的のために無際限に増大していたエネルギーを精神を集中した辛抱強い省察に振り向ける能力、ちょうど幼少のむかし金切り声を出すまで玩具を痛めつけなければ気がすまなかったように、しつこく対象の秘密に食いついて離れぬ能力の別名であるかもしれない。

誰しも、外界の事物を没却して物思いに耽る人の面上に、ふだんなら経験の場で発揮される攻撃性があらわれているのを見た覚えがあるのではあるまいか。

何かの制作に従事する人なども、熱中するほどにけだものじみた凶暴性に取りつかれ、「憤ろしく制作に打ち込んでいる」わが身に心付くことがないであろうか。

もっと言えば、囚われの状態から自由になり、囚われていることへの憤怒から脱却するためにも、こうした憤怒が必要なのではあるまいか。

宥和的な要素にしても、破壊的要素の抵抗を経てはじめて獲ち取られるものではあるまいか?

ー切抜/Th.W.アドルノ「ミニマ・モラリア」より


それは、喰っていいのか。

2022-02-07 | 古今北東西南の切抜

(picture/source)

問:2030年の人工知能(AI)の役割は。兵器に搭載したり、人事の評価を決めたりする可能性もありますね。

「心配なのが、子供たちの思考の過程がアルゴリズム(計算手段)によって支配されつつあることだ。

私が子供のころは「自然」対「育成」、つまり遺伝的に(子供が自然に)しつけられるのか、親が(育成の一環で)しつけられるのかという問題だった。それが今や「自然」対「育成」対「技術」の構図になった。

これから10年たてば、アルゴリズムで思考過程が形作られたヤングアダルトの時代が来る。これは世界をもっと深刻な分断に導く。

アルゴリズムは模範的な市民を作ろうとしないからだ。

あなたは子供にいい人間になってほしいと思うだろうし、幸せにする方法を理解したいだろう。

だがアルゴリズムはそうしたことはお構いなしだ。彼らは人間をお金の面で意味のあることに仕向けていく。AIが市民にもたらす影響を私は非常に心配している。

バイオテクノロジー(生物工学)もAIに関連してくる。文字通り違った種類の人間が作られていく。違った能力や耐病性を持ち、住む国や資金力に運命が左右される。

短期間にそうした技術力を手にしても、我々はどう利用するのかという責任ある答えを見出せない。そんな時代が極めて近くに来ると思っている。

ー切抜/イアン・ブレマー「日経新聞」インタビューより


「経験」その主体と客体について。

2022-02-03 | 古今北東西南の切抜

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例えば機械化の時代に、こんなエッセーがある。

「機械化は身振りを、ひいては人間そのものを、いつしか精密かつ粗暴にする働きをもっている。

それは物腰や態度から、ためらい、慎重、たしなみ、といった要素を一掃してしまう。

機械化によって、人間の挙動は事物の非妥協的で一種没歴史的な要求に従わせられるのである。その結果たとえば、そっと静かに、しかもぴったりドアを閉めるというような習慣が忘れられていく。

自動車や電気冷蔵庫のドアはぱたんと締めなければならないし、その他のドアは、外から入ってくる場合念のためにあとを振り返ったり、自分が入っていく屋内を外部から守る、といった心遣いをしないでもすむように出来ている。

新しいタイプの人間を正当に評価するするためには、彼らが彼らを取り巻く周囲の事物からもっとも隠微な神経の内奥にいたるまで常住不断に蒙っている刺激を十分念頭に入れておく必要があるだろう。

いまでは押し開くように出来ている開き窓というものがなくなり、ぐいと力を入れて引き開けなければならぬガラス窓しかないこと、しずかにきしる取っ手が回転式のつまみに代わったこと、住んでいる家に玄関の間も通りに面した門口もなく、庭に張り巡らせた塀もないこと、そういったことは、そうした環境に住む人間に対してどんな意味を持っているのであろうか?

また自分の運転する車の馬力にそそのかされ、街頭の虫けらのように見える通行人や児童や自転車乗りを思うさまひき殺してみたいという衝動に駆られた経験は、自分で車を運転する人なら誰しも身に覚えがあるのではあるまいか?

機械がそれを操作する人間に要求する動作の中には、打ちつけたり、続けざまに衝撃を加える強暴さにおいて、ファシストたちの行う虐待行為との類似点がほの見えているのだ。

今日経験というものが消滅したことには、いろいろな物が純然たる合目的性の要請の下に作られ、それとの交わりをたんなる操作に限定するような形態をとるに至ったことが少なからず影響している。

操作する者には態度の自由とか物の独立性とかいった余分の要素を認めようとしない性急さがつきものだが、実はそうした余分の要素こそ活動の瞬間に消耗しないであとあとまで残り、経験の核となるものなのである」。

ー切抜/Th.W.アドルノ「ミニマ・モラリア」より

情報化といわれる今。機械化の時代とはまたちがう「消滅した経験」というものが増えていそうでもある。


LGBTQもしくはBLACKあるいはWHITEあるいはYELLOWということについて。

2022-01-23 | 意匠芸術美術音楽

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フランスの詩人ルネ・シャールさんは、

「汝の正当な奇妙さを発達させよ」

と云った。

差別や偏見というものが生じるということは当人の正当な奇妙さをないがしろにしているか、もしくは不当で稚拙で根拠のない惰性の認識のせいかもしれない。

例えば「性」についてフランスの哲学者ミシェル・フーコーさんは次のように言っている。

「セクシャリティは私たちの振る舞いの一部です。私たちの世界の自由の一部なのです。セクシャリティは、私たち自身が創造する何かです。それは私たち自身の創造でもありますし、私たちの欲望の隠れた側面を発見する以上のことを意味します。欲望とともに関係の新しい形態、愛の新しい形態、創造の新しい形態が生まれているということを私たちは理解しなければならないのです。性は必然ではありません。それは創造的生の可能性です。私たちは同性愛であると断言するだけでは十分でありません。同性愛の生も創造しなければならないのです」。

Nothing Else Matters (Metallica) : MOZART HEROES (Official Video)


「酒の目出度さ」という思想

2022-01-10 | 酔唄抄。

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僕は毎日酒を飲む。そして次の朝には必ず後悔する。しかし、後悔しながら酒を飲むからこそ僕は詩人なんだ。

萩原朔太郎さんはそういいつつ酒を飲んだ。また「酒に就いて」彼はこんなことも書き残している。

酒といふものが、人身の健康に有害であるか無害であるか、もとより私には医学上の批判ができない。だが私自身の場合でいえば、たしかに疑いもなく有益であり、如何なる他の医薬にもまさつて、私の健康を助けてくれた。私がもし酒を飮まなかつたら、多分おそらく三十歳以前に死んだであらう。青年時代の私は、非常に神経質の人間であり、絶えず病的な幻想や強迫観念に悩まされていた。そのため生きることが苦しくなり、不断に自殺のことばかり考えていた。その上生理的にも病身であり、一年の半ばは病床にいるほどだつた。それが酒を飮み始めてから、次第に気分が明るくなり、身体の調子も良くなってきた。酒は「憂いを掃う玉箒」というが、私の場合などでは、全くその玉箒のお蔭でばかり、今日まで生き続けて来たようなものである。

酒が意志の制止力を無くさせるという特色は、酒の万能の效能であるけれども、同時にまたそれが道徳的に非難される理由になる。実際酔中にしたすべての行為は、破倫というほどのことでなくとも、自己嫌忌を感じさせるほどに醜劣である。酒はそれに酔っている中が好いのであって、醒めてからの記憶は皆苦痛である。だが苦痛を伴わない快楽というものは一つもない。醒めてからの悔恨を恐れるほどなら、始めから酒を飲まない方が好いのである。酒を飲むということは、他の事業や投機と同じく、人生に於ける一つの冒険的行為である。そしてまた酒への強い誘惑が、実にその冒険の面白さにも存するのだ。平常素面の意識では出来ないことが、所謂酒の力を借りて出来るところに、飲んだくれ共のロマンチックな飛翔がある。一年の生計費を一夜の遊興に費ひ果してしまった男は、泥酔から醒めて翌日に、生涯決して酒を飲まないことを誓うであらう。その悔恨は鞭のように痛々しい。だがしかし、彼がもし酒を飲まなかったら、生涯そんな豪遊をすることも無かったろう。そして律義者の意識に追ひ使はれ、平凡で味気のない一生を終らねばならなかった。酒を飲んで失敗するのは、始めからその冒険の中に意味をもっている。夢とロマンスの人生を知らないものは、酒盃に手を触れない方が好いのである。

酒飲みどもの人生は、二重人格者としての人生である。平常素面で居る時には、謹厳無比な徳望家である先生たちが、酔中では始末におえない好色家になり、卑猥な本能獣に変わったりする。前の人格者はジキル博士で、後の人格者はハイドである。そしてこの二人の人物は憎み合つてる。ジキルはハイドを殺そうとし、ハイドはジキルを殺そうとする。醒めて酔中の自己を考える時ほど、宇宙に醜悪な憎悪を感じさせるものはない。私がもし醒めている時、酔ってる時の自分と道に逢ったら、唾を吐きかけるどころでなく、動物的な嫌厭と憤怒に駆られて、直ちに撲り殺してしまうであろう。

この心理を巧みに映画で描いたものが、チャップリンの近作「街の灯」であつた。
この映画には二人の主役人物が登場する。一人は金持ちの百萬長者で、一人は乞食同樣のルンペンである。百萬長者の紳士は、不貞の妻に家出をされ、黄金の中に埋れながら、人生の無意義を知って怏々として居る。そして自暴自棄になり、毎夜の如く市中の酒場を飲み回り、無茶苦茶にバカの浪費をして、自殺の場所を探している。それは人間の最も深い悲哀を知ってるところの、憑かれた悪霊のような人物だった。そこで或る街の深夜に、ぐでぐでに酔って死場所を探している不幸な紳士が、場末の薄暗い地下室で、チャップリンの扮している乞食ルンペンと邂逅する。ルンペンもまた紳士と同じく、但し紳士とはちがった事情によって、人生にすっかり絶望している種類の人間である。そこで二人はすっかり仲好しになり、互に「兄弟」と呼んで抱擁し、髭面をつけて接吻さえする。酔っぱらった紳士は、ルンペンを自宅へ伴い、深夜に雇人を起して大酒宴をする。タキシードを着た富豪の下僕や雇人等は、乞食の客人を見て吃驚し、主人の制止も聞かないふりで、戸外へ掴み出そうとするのである。しかし紳士は有頂天で、一瓶百フランもする酒をがぶがぶ飮ませ、おまけに自分のベッドへ無理に寢かせ、互に抱擁して眠るのである。 

朝が来て目が醒めた時、紳士はすっかり正気になる。そして自分の側に寝ているルンペンを見て、不潔な憎悪から身震いする。彼は大声で下僕を呼び、すぐに此奴をおもてへ掴み出せと怒鳴るのである。彼は自殺用のピストルをいじりながら、昨夜の馬鹿げた行為を後悔し、毒蛇のやうな自己嫌忌に悩まされる。彼は自分に向って「恥知らず。馬鹿! ケダモノ!」と叫ぶのである。
けれどもまた夜になると、紳士は大酒を飲んでヘベレケになり、場末の暗い街々を徘徊して、再度また昨夜の乞食ルンペンに邂逅する。そこでまたすっかり感激し、「おお兄弟」と呼んで握手をする。それから自動車に乗せて家へ連れ込み、金庫をあけて有りったけの札束をすっかり相手にやってしまう。だがその翌朝、再度平常の紳士意識に帰った時、大金をもっているルンペンを見て、この泥坊野郎などと罵るのである。そしてこの生活が、毎晩同じやうに繰返されて続くのである。

宿命詩人チャップリンの意図したものは、この紳士によって自己の半身(百萬長者としてのチャップリン氏と、その社会的名士としての紳士生活)を表象し、他の乞食ルンペンによって、永遠に不幸な漂泊者であるところの、虚妄な悲しい芸術家としての自己を表象したのである。つまりこの映画に於ける二人の主役人物は、共にチャップリンの半身であり、生活の鏡に映った一人二役の姿であった。しかもその一方の紳士は、自己の半身であるところのルンペンを憎悪し、不潔な動物のように嫌厭している。それでいて彼の魂が詩を思う時、彼は乞食の中に自己の真実の姿を見出し、漂泊のルンペンと抱擁して悲しむのである。

チャップリンの悲劇は深刻である。だが天才でない平凡人でも、こうした二重人格の矛盾と悲劇は常に知っている。特に就中、酒を飲む人たちはよく知ってる。すべての酒を飲む人たちは、映画「街の灯」に現れて来る紳士である。夜になって泥酔し、女に大金をあたえて豪語する紳士は、朝になって悔恨し、自分で金をあたえた女を、まるで泥棒かのように憎むのである。酔って見知らぬ男と友人になったり、兄弟と呼んで接吻した酔漢は、朝になって百度も唾を吐いてうがいをする。そして髮の毛をむしりながら、あらゆる嫌厭と憎悪とを、自分自身に向って痛感する。

すべての酒飲みたちが願うところは、酔中にしたところの自己の行為を、翌朝になって記憶にとどめず、忘れてしまいたいという願望である。即ちハイドがジキルにしたように、自己の一方の人格が、他の一方の人格を抹殺して、記憶から喪失させてしまいたいのだ。しかしこのもっともな願望は、それが実現した場合を考える時、非常に不安で気味わるく危険である。現にかって私自身が、それを経験した時のことを語ろう。或る朝、寢床の中で目醒めた時、私は左の腕が痛く、ひどくづきづきするのを感じた。私はどこかで怪我をしたのだ。そこで昨夜の記憶を注意深く尋ねて見たが、一切がただ茫漠として、少しも思い出す原因がない。後になって友人に聞いたら、酔って自動車に衝突し、舖道に倒れたというのである。もっとひどいのは、或る夜行きつけの珈琲店に行ったら、女給が「昨夜遅くなってお帰りが困ったでしょう」という。昨夜その店へ来た覚えがないので、私が妙に思って反問すると、女給の方が吃驚して「あら! だって昨夜来たくせに」という。不思議に思ってだんだん聞くと、たしかに昨夜来て居たことが、少しづつ記憶を回復して解って来た。それがはっきり解った時、私は不思議な気味わるさから、真っ青になって震えてしまった。

こうした記憶の喪失ほど、不安で気味のわるいものはない。なぜなら或る時間内に於ける自己の行為が、一切不明に失喪して、神かくしになってしまうからである。昨夜の自己がどこで何をしていたか、どこを歩きまわり、何を行動していたかということが、自分で解らない時の気味わるさは、言語にいえない種類のものだ。夢遊病にかかった人は、自己の行為に対して記憶を持たず、病気が治った後で、その過去の生活と、その半身の自己とをすっかり忘れてしまっている。ウイリアム・ゼームスの心理学書には、こうした夢遊病者と人格分裂者の実例がたくさん出ている。或る患者等は、病気中の自己をB氏という他人名で呼び、自分とすっかり別の人物として語っている。しかもそれを批判し、罵倒し、その生活について客観的の見方をしている。すべての酒のみ人種は、一時的の夢遊病者であり、人格分裂者であるのだ。

シャルル・ボードレールは、酒と阿片とハシシとに就いて、その薬物学的比較観察をした後で、酒がいちばん健全であり、毒物的危険性がない上に、意志を強くするといって推奨してゐる。阿片やハシシに比べれば、酒はたしかに生理的であり、神仙と共に太初から有ったところの、自然の天与した飲物である。猿のような動物でさえも、自らかもして酒を飲むのだ。支那人が酒の精を猩々に象徴し、自然と共に悠遊する神仙の目出度さに例えたのは、まことに支那人らしく老莊風の思想である。この「酒の目出度さ」という思想が、キリスト教の西洋人には解らない。そこで彼等のピューリタン等は、酒を悪魔のように憎悪するのだ。酒の宗教的神聖の意味を知ってるのは、世界で支那人と日本人としか無いであらう。

抜粋/萩原朔太郎「酒に就いて」より


拡張子

2022-01-03 | 意匠芸術美術音楽

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 うさぎかめと、どっちが早いかということは、長い間、動物仲間のうちで問題になっていました。あるものは、もちろん兎の方が早いさと言います。兎はあんなに長い耳を持っている。あの耳で風を切って走ったら、ずいぶん早く走れるに違いないと。
しかしまた、あるものは言うのです。いいや、亀の方が早いさ。なぜって、亀の甲羅はおそろしくしっかりしているじゃアないか。あの甲羅のようにしっかりと、どこまでも走って行くことが出来るよと。


そう言って、議論しているばかりで、この問題はいつまでたっても、けりがつきそうもありませんでした。
そして、とうとう動物たちの間には、その議論から一戦争ひとせんそうはじまりそうなさわぎになったので、いよいよふたりは決勝戦をすることになりました。兎と亀とは、競走をって、どっちが早いかを、みんなの動物たちに見せるということになりました。


「そんな馬鹿々々ばかばかしいことはいやですよ。」
と、兎は言いました。が、彼の味方たちは一生懸命兎を説きふせて、ともかくも競走に出ることを承知させました。


「この競走は大丈夫、私のかちですよ。私は兎みたいにしりごみなどはしませんよ。」と、亀は言いました。亀の味方は、どんなにそれを喝采かっさいしたことでしょう。

競走の日は、まもなくやって来ました。敵も味方も、いよいよ勝敗の決する時が近づいたので、口々に大声でどなり立てました。
「私は大丈夫勝ってみせますよ。」と、亀はまた言いました。
が、兎は何にも言いませんでした。彼はうんざりして、ふきげんだったのです。

「しっかり走ってくれ。」
と、亀の味方は言いました。そして「しっかり走れ」という言葉を、きま文句もんくのように、みなは口々にくりかえしました。
「しっかりした甲羅を持って、しっかり生きている――それは国のためにもなることだ。しっかり走れ。」

いよいよ、二人は出発しました。敵も、味方も、一時いちじにしんとなりました。
兎は一息ひといきに、半分ばかり走りぬきました。そして、自分のまわりを見廻みまわしてみると、そこには、亀の姿すがたも形も見えないではありませんか。
なんて馬鹿々々しいことだい。亀と競走をするなんて。」兎はそう言って、そこへすわんで、競走をやめてしまいました。


「しっかり走れ、しっかり走れ。」と、誰やらが叫んでいるのがきこえます。「やめてしまえ。やめてしまえ。」と、ほかの声が言っています。

が、しばらくしますと、亀は兎のそばへ近づいてまいりました。「やって来たな。この亀の野郎。」と、兎は言いました。そして、彼はあがって、せい一杯いっぱいの早さで走り出しました。亀がどんなにせいを出しても追いつけないような早さで。

兎は、もう半分ばかり走りつづけて、もう少しで決勝点というところへつきました。が、その時彼は、うしろの方に姿さえ見えない亀と、一生懸命競走している自分は、何と馬鹿げてみえることだろうと、考えました。そう思うと、もう競走するのが、すっかりいやになって、またそこへ坐りこんでしまいました。

「しっかり走れ。しっかり走れ。」「いや、やめさせてしまえ。」と、大勢おおぜいは叫んでいます。


「どんな用があったって、もういやなことだ。」兎はそう言って、今度はゆっくり腰をすえてしまいました。ある人は、彼は眠ってしまったのだと申します。

それから、一二いちに時間ばかり、亀は死にものぐるいで走りつづけたのです。そしてついに競走は亀が勝ってしまいました。
「しっかり走ること、しっかりした甲羅を持っていること――それが、それが、亀の何よりのたからだよ。」と、味方のものは言いました。
 そして、それから彼等は亀のところに行って、「競走に勝った時の気持きもちをおらし下さい」と言いました。亀は自分ではうまい返答が出来ないので、海亀のところへ聞きに行きました。すると、海亀は、「やっぱり、お前の足が早いから、名誉めいよの勝利を得たのさ。」と言いました。そこで、彼は帰って来て、友だちにその言葉をくりかえしました。動物たちは、「なるほどそうかなア」と思って聞きました。

そこで、今日こんにちまで「足が早いから名誉の勝利を得たのだ」という言葉を、亀や、かたつむり類は、そのままに信用しています。
が、実際はもとより兎の方が亀より早かったのです。ただ、この競走を実際に見た動物たちが、そののちまもなくおこった大きな森の火事で、すっかり死んでしまったため、本当のことが伝わらなかったのです。

森の火事は、大風のある晩に突然起りました。兎だの、亀だの、そのほか五六ごろく匹の動物は、その時ちょうど森のはずれの小高い禿山はげやまの上にいたので、すぐ火事を見つけることが出来ました。彼等は、大いそぎで、この火事を森の中の動物に知らせに行くには誰が一番いいだろうかと、相談しました。その結果、ついにこの間の競走で勝った亀が、その役目をひきうけることになったのです。

もちろん、亀が「しっかり走って」行くうちに、森の中の動物たちは、残らず火事にやかれてしまったのであります。ー参照/ロオド・ダンセイニ「兎と亀」より

"Teardrops" by The Tiger Lillies LIVE at Principal Club


新年を賀して候

2022-01-01 | 日日是好日。

新年の御寿目出度く申し納め候(そうろう) 

御家皆様御揃いにてのどかに御歳越遊ばされ候段御慶びの至りに存じ上げ候

次に私宅一同も恙なく馬齢を加え候間憚りながらご放念下されたく候

旧年は一方ならぬ御厚情に浴し御礼の申し上げようも候わず本年もまた相変わらず御眷顧の程希望に堪えず候

先ずは年始のご祝詞まで斯くの如くに御座候 

謹言

 


Sympathy Enmpathy Symphony

2021-12-31 | 意匠芸術美術音楽

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Beethoven - Symphony No.9 (10000 Japanese) - Freude schöner Götterfunken


平静さを保つ手段

2021-12-29 | 酔唄抄。

photo/Sabine Weiss)

アルコールがわれわれに有益な効果をもたらすということは、私も間接的には認める。

セネカは、ワインを飲み酩酊することが平静さを維持する手段である、と言っている。彼はこう書いた。

「時折、われわれは酒に溺れることなく、それらをたらふく飲み酩酊状態に達するべきでさえある」。

だから、あなたが今度酒をたらふく飲むときには、酒に溺れないで、セネカを思い、平静さを維持するよう試みてほしい。

と、ある哲学者は提案している。


天上天下唯我独尊佛

2021-12-16 | 有屋無屋の遍路。

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手にあはぬ筈じゃ甘茶で育てあげ我より外に遊ぶ友なし

南天棒

船と題して、

世を渡る人はと問えば兎も角もよくの浅瀬を行くと答えむ


"Take Five"

2021-11-28 | 意匠芸術美術音楽

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向こうのお山を猿が行く さきの二匹がもの知らず あとの二匹ももの知らず

なかのお猿が賢くて 山の畑に実を蒔いた 

花が開いて実が生れば 四つのお猿は帰り来て 一つ残さず取り尽くす

種を蒔いてた連れの名は 思いも遣らず寄りもせず

North East Ska*Jazz Orchestra - "Take Five"


A to Z

2021-11-24 | 意匠芸術美術音楽

(picture & copy/source)

A beautiful disaster. Young love can either manifest or destroy. To be or not to be, one of many tough decisions that relationships put you through. The test of love, strength and preservearence.

Leonard Cohen - Dance Me to the End of Love (Official Video)


弥勒窟

2021-11-17 | 有屋無屋の遍路。

(photo/source)

笛吹かず太鼓叩かず獅子舞の あと足になる胸のやすさよ   

ー売茶翁

Every individual matters. Every individual has a role to play. Every individual makes a difference.

-Jane Goodall


有るとみて無いはもとの水

2021-11-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

(picture/Nachi Falls © Muda Tomohiro)

清岩禅師の法語にはこうある。

心というものは元来、有るものか無いものか?

答えて言う、無きものなり。

問うて言う、無いものならどうして寒熱、飢飽、喜怒、煩悩などがおこる。

答えて言う、それはみな当座当座のデキモノであって、元来は無いものである。

問うて言う、それはいつから出来ていつから無くなる?

答えて言う、当座に出来て当座に無しになる。例えば、心に金があるよと思う、風が吹くよと思う、その心は当座に出来て直ちに無くなるものだ。つまり水に映る月、鏡に映る姿のようなものだ。水に映る月は水がなくなれば直ちに無くなるように、鏡の姿も自分が去れば直ちに無くなるように。心は胸に有るとおもって胸を割ってみたとてそんなものは無い。

年ごとに咲くや吉野の山桜 木を割りてみよ花のありかを  一休

とやかくとたくみし桶の底抜けて 水たまらねば月も宿らじ  千代尼


「こそ」の置き所。

2021-11-07 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

(photo/source)

置き所の拙い「こそ」

(夫)貴様みたいなお多福婆を、わしでありゃ「こそ」置いてやる。

(妻)私なりゃ「こそ」辛抱もするが、誰が見るぞぇ痩所帯。

(地主)あれがああして暮らしてゆくも、こちらが田畑を貸せば「こそ」。

(小作)地主の田畑の荒れずにいるも、わたしが小作をすれば「こそ」。

(親)誰のおかげでそうまでなった、俺が学校行かしゃ「こそ」。

(子)学校させてもみんなは出来ぬ、私が勉強したりゃ「こそ」。

置き所の巧い「こそ」

(夫)外で私が働けるのも、内をそなたが守りゃ「こそ」。

(妻)私みたいな不束者を、あなたなりゃ「こそ」親切に。

(地主)田畑作らず暮らしが立つも、小作する人あれば「こそ」。

(小作)我が田なくても暮らしていける、これも地主があれば「こそ」。

(親)あの子なりゃ「こそ」出世もしたよ、苦労したのも甲斐がある。

(子)今日の私の出世もみんな、親の苦労があれば「こそ」。

「こそ」と威張ってこちらにつけりゃ、何を小癪と喧嘩腰。

「こそ」とあがめて向こうにつけりゃ、にっこり笑ってあなた「こそ」。

参照/八波則吉「道和清談」より)