南無煩悩大菩薩

今日是好日也

Set Me Free

2022-07-20 | 意匠芸術美術音楽

painting/Janina Magnusson)

無縄自縛という言い回しがある。縄はどこにもないのに、自分勝手に無い縄で自分を自分で縛る。

「むじょうじばく」と読む、これは考える葦として避けがたいことのようでもある。

人間ほど妙な動物はない。頭で何かこしらえて、そのこしらえたもので、自ら悩まされている。無い縄を想像的につくり出してそれに縛られることで悩んだり怒ったり喜んだりしている。

猫はニャンとないたり犬がワンとほえたりするが、犬や猫自身が、なぜニャンなのかワンなのかと自省したり悦に入ったりすることは無いようである。

そもそも初めから縄を編まなければいいのだが、どうも本能とやらが承知しないようで、卑やら誉れやら善やら悪やらとなにかと編み出す。

自分でつくったことなのだから自由にどうにでもなるはずが、なんともならず困ってくるという、いたく滑稽な反応だともいえる。

進行する歴史は、そんな反省でいっぱいだが、有史以来、代々生まれ来る人間は相も変わらず懲りずそんなことを繰り返している。


風流のひとこと。

2022-07-08 | 野暮と粋

(/鉄翁祖門 蘭図)

正直にして、天理に通じ、慈悲を以ってよく人に施す。

無欲にして、足ることを知る。

平日、行事正しくして邪なく、物を愛して執せず。

俗塵凡情、一点も無き、これを古人、風流と云う。

-鉄翁和尚


とっとと不風流

2022-07-06 | 野暮と粋

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時は元禄のころ、芭蕉の門人に大店の店主がおりまして、ある日芭蕉を家に呼んで、いろいろともてなしていたそうです。

そのうち日も暮れて燭台に火をともそうとやってきたそこの小僧さん、しかし誤って種火の芯を切って火を消してしまいました。

主人はそれをたいそう咎めて、大事なお客様のもてなし中に粗相をしたと、持っていた扇で小僧さんを叩きました。

芭蕉翁は、それを見て興ざめし席を立ってとっとと帰ろうとします。主人あわてて、せっかくお越しくださいましたのにもうしばらくお過ごしくださいと、引き止めます。

芭蕉翁答えて、

『いやいや私は俳諧師としてこのような不風流な席には少しも居たくありません。

考えてもみなさい。「燈籠の芯を摘むとて火を消して」という前句があるとして、後句に「持った扇で小僧打たれる」などとつけて俳諧になるものですか。

「折しも月の空に出てたなり」などとつけてこそ、風雅に聞こえるものです。

この風流の心こそ、万事に必要なものです。もしそれを忘れて力業に訴えるような不風流な振る舞いでどうしてこの世の神髄を学べるでしょう。』


大肯定

2022-06-19 | 古今北東西南の切抜

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剣術の奥義にしても、政治をやる上においても、戦をやる上においても、何人も最も大切に心得ておくべきは、自我、個我などと言われているところのものを捨ててかからねばならぬことである。

自我というものがあると、生死ということから離れられない。自我観念のいけないのは、自分の心が二つになるからである。この「我」を超越した何物かを捉えなければならぬ。

ただ「我」を捨てよとか、無くせよなどと言っただけでは何もならぬ。自我を無くするには、自我よりももう一つ大きいものを見つけなければならぬ。

人間は元来消極的には何もできないもので、積極的に何か肯定したものを持っていなくては、働きが出てこないのである。

人間は元来、否定に死んで肯定に生きるのである。

生死を捨てるということだけではいけないので、生死より大きなものの上に生きることを体認しなければならぬ。自分らは何れも大肯定に生きるということでなくてはならぬ。

否定は促進性を持たぬ。どうしても肯定的でなくてはならぬ。絶大なる肯定、この大肯定というものにぶつからねばならぬ。

この大肯定は人によって、いろいろな形をとることでもあろう。また一つの集団内でも、階級によっても相違をみることであろうと思う。しかしながら、本当の大肯定ということになると、これは各自の心を掘り下げ、掘り下げて、もうこれ以上掘り下げることのできないところを、今一つ掘り下げることによって初めて得られるところのものである。

この如き大肯定は、その原理においてどこまでも同じものでなくてはならぬ。

ー切抜/鈴木大拙「一真実の世界」より


いろいろの世界

2022-06-08 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

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相対性理論を簡単にわかりやすく教えてほしいと乞うマダムに、アインシュタイン博士はこんな例え話をしたそうです。

『私がある暑い日に盲目の友達と一緒に歩いていて、「のどが渇いたので冷たい牛乳を一杯飲みたいな」と言いました。

ところがその友達が言うのには、「冷たいということも、一杯飲むということも解るが、牛乳とは何だ」

彼がこう尋ねたので私は、「牛乳というのは白い液体である」と答えました。

そうするとその盲目の友達は、「液体は解るが、その白いというのは何だ」と言います。

そこで「白とは白鳥の色だ」というと、「白鳥とは何だ」という。「白鳥とは長い曲がった首の鳥だ」というと、「首は解るが、曲がった首ということがわからん」というのです。

いくら説明しても解らないので、私はその盲目の友人の手を取って、それを伸ばしてみせて「これがまっすぐだ」と云って聞かせ、今度はその腕を曲げて「これが曲がったんだ」と言ったら、その友達は手を打って喜んでいう「あーわかった、わかった」と。

何がわかったかといえば、先に問題になった白い牛乳の「白い」とは何だということが、「曲がった腕」だというふうにわかったのです。』

金持ちとはなんだ、幸せとはなんだなども、これと似たようなものである。


ジョウトウの心がけ

2022-06-05 | つれづれの風景。

必ズシモ福ヲ求メズ 禍無キヲ以テ福ト為ス

必ズシモ栄ヲ希ハズ 辱無キヲ以テ栄ト為ス 

必ズシモ寿ヲ祈ラズ 夭セザルヲ以テ寿ト為ス

必ズシモ富ヲ求メズ 飢エザルヲ以テ富メリト為ス

ー言志四禄より

幸せかどうかはわからんが、不幸ではないことを喜んでいる。

名誉とは無縁だが、恥ずかしくはないとおもっている。

いつまで生きるかわからんが、若死にはしていない今がオメデタイ。

富は羨むけれど、今も呑めているだけで私はジョウトウ。


人事のアンソロジー

2022-05-29 | 世界の写窓から

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止めたいことと、止めても差し支えないことと、止めたくないことと、止めては困ることとがあるように、

止めてもらいたい人と、止めても差し支えない人と、止めさせたくない人と、止められては困る人、がいたりもする。

かように人の事は難しい。


禁じられた遊び。

2022-05-21 | 世界の写窓から

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人はその使い方を知っているものだけを使うことができる。

持っているだけで守る方法を知らなければやがて失ってしまうか、それがなんだものこんなものでどのような災難が身に降りかかるやも知れたものではない。

「本来の使い方を知らないものを使おうとする人間」の危険性は、そこにある。

求めるべきはそれの所有ではなく、それについての知識そのものだ。知識を伴わない所有は無益であり、われわれの心の乱れの原因は、だいたいそのへんにある。

 

Narciso Yepes  Jeux Interdits (Romance de Amor)


随処作主

2022-05-14 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

常に自身の主体を失わず、それぞれの場所でできることをやりなさい。

なにぶん、「思惑」がいけない。思惑があるとついつい「画策」をしてしまう。そしてついには自身の主体を見失って、手段と目的を取り違えてしまうのである。

が、しかしそこが人生の醍醐味でもある。

随所において自分の素質を主人公に、つまり自分らしく在りつつ生きる事ほど難しいものはない。


青い鳥

2022-05-08 | 古今北東西南の切抜

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昔、ある男が鳥を捕まえた時、その鳥がこう話しかけてきた。

「わたしは価値のない鳥なので、私を捕らえても、あなたには何の利益にもなりませんよ。でも、わたしを自由にしてくれるなら、三つの有益な助言をお教えいたしましょう」

鳥は最初の助言を男の手の中で、二番目の助言を木の枝に移ってから、そして三番目の助言を山の頂上に達してから話すと約束した。男は鳥の提案を受け入れ、最初の助言を話すように求めた。鳥は言った。

「何かを失ったとしても、たとえそれが命と同じくらい大切なものだったとしても、決して後悔してはなりません」男は鳥を放した。

鳥は木の枝に飛び移り、二番目の助言を語った。「根拠もなく、常識に反する話を信じるな」

そう言い終えると、鳥はさらに山の頂上へと飛び去りながら、こう言った。「不運な男よ!わたしは大きな宝石を二個も飲み込んでいたのだ。何も考えずにわたしを殺していれば、それはおまえのものになったのだ」

男は自分の失ったものの大きさを思って苦悶したが、「せめて最後の助言を聞かせてくれ」と頼んだ。

「最初の二つの助言も理解していないのに、さらに助言を求めるとは、おまえは何という馬鹿者なのだ」と鳥は言った。

「失ったものについて決して後悔するなと、わたしは言ったはずだ。非常識な話は信じるな、ともな。おまえはそのどちらの助言も忘れてしまっている。馬鹿げた話を信じ、大切なものを失ったと思い込んで、嘆き悲しんでいる。考えてもみろ。わたしのような小さな鳥の体の中に、大きな宝石が二個も入っているわけがないじゃないか。おまえは愚か者だ。したがって、人間に課せられた通常の制約の中に、とどまらなければならない」。

-スーフィ―の物語「三つの助言」より


ナラティブものがたり

2022-04-07 | 古今北東西南の切抜

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一千年以上も前からの記録、スーフィ―の物語にはこんな話もある。

昔々、自然の働きを観察することに非常な興味を持っていた男が、努力と集中の末に、火をおこす方法を発見した。その男の名はノウルといい、彼は自分の発見した方法を部族から部族へと演じて見せながら旅をすることにした。

ノウルは多くの部族にその秘密を伝えたが、彼の知識を活用するところもあれば、その発見の有用さを理解できず危険な人物として追い払われることもあった。そしてついにある日ある部族で火をおこして見せたとき、彼の事を悪魔だと思い込み、恐慌状態に陥った人々によって、ノウルは殺されてしまった。

その後何世紀かが過ぎ、ノウルの教えは様々な形で受け継がれていった。ある部族では、火に関する知識を聖職者たちが彼らだけの秘密として独占し、他の人々が寒さに震えながら暮らしているのに、彼らだけは富と権力を保持し続けていた。またある部族では、その使い方は忘れられていたにも関わらず、火をおこす道具が礼拝されていた。三番目の部族では、ノウルの像が神として祭られていた。四番目の部族では、火をおこす物語が伝承されていたが、それを信じる者もいれば、信じない者もいた。五番目の部族では、火が実際に利用され、暖かな暮らしや、料理や、有益な品物の製造などが行われていた。

その後さらに時は流れてゆき、これらの部族の住む地域を賢者とその弟子たちの一団が通り過ぎて行った。弟子たちは彼らの目にした多様性に驚き、「これらの信仰はすべて、火を作り出すことに関係があるものばかりで、宗教上は何の意味もありません。我々は彼らを導いてあげるべきです」と口々に師に訴えた。

師は答えた。「それではこれから引き返して、われらの旅をやり直すことにしよう。旅が終わったとき、まだ生き残っている者たちは、真の問題が何であり、それをどのように扱えばよいか、学んでいるだろう」。

最初の部族を訪れたとき、彼らは好意的に迎えられ、祭司から火をおこす儀式に招待された。火がおこされ部族の人々がそれをみて熱狂している最中に、師が弟子たちに言った。「誰か彼らに意見を述べたい者はいるか?」

「真理のために、私は黙っているわけにはいきません」とある弟子が言った。「おまえが自分ひとりの責任でそれを行うのなら、やってみるがよい」

その弟子は、部族の長と祭司の前に歩み出て、「私もこの奇跡を行うことができる」と言った。「あなたがたはこれを神のたぐいまれなる顕現だと思っているらしいが、もし私が同じことを行ってみせたなら、長年にわたって誤りを犯してきたことを認めるか?」

「そいつを捕らえろ!」と祭司たちが叫んだ。弟子は連れ去られてゆき、二度とその姿をみせることはなかった。

賢者の一行は、火をおこす道具を礼拝している次の部族へと向かった。そこでも弟子のひとりが、部族の人々の迷妄を解く試みを志願した。師の許しを得て、その弟子は人々に言った。「分別をわきまえているみなさんに、ぜひ聞いてもらいたいことがあるのです。あなたがたが礼拝しているのは、たんなる道具にすぎません。それを使うことによって生じる有益な現象について、私はお話ししたいのです。この儀式に秘められている本当の意味を、私は知っています」

この部族の人々は、最初の部族よりも理性的だったが、彼らもまた、その弟子にこう言った。「われわれはあなたがたを旅の客人として歓迎していますが、あなたがたのような異国の人に、われわれの習慣を理解することはできません。あなたはわれわれの信仰を奪おうとしているか、あるいは改めさせたがっているのでしょうが、あなたの意見を聞くわけにはいきません」

賢者の一行はさらに旅をつづけた。

三番目の部族では、最初に火を作り出したノウルの像が、すべての家の前に立てられていた。弟子の一人が部族の指導者たちに話しかけた。「あなたたちが神の像として崇めているこの人物は、ある有益な技術の象徴であり、この男を崇拝するよりも、その技術について学ぶことのほうがずっと重要なのです」

ノウルの崇拝者たちはこう答えた。「あなたの言われる通りなのかもしれないが、秘められた真実を見抜くことができるのは、ごくわずかな特別な人間だけです」

「理解しようと欲する者だけが、そのわずかな人間になれるのであり、真実から目を背けていたのでは、永遠にそのような人間になることはできません」

「これは明らかに異端の考えだ」と聖職者たちは囁き合った。「この男はわれわれの言葉を満足に話すことさえできないよそ者だし、われわれの信仰で認めれれた聖職者でもない」この弟子もそれ以上、話を進めることはできなかった。

一行はさらに旅を続けた。四番目の部族でも、弟子の一人が人々の集まりの中に入ってゆき、彼らに話しかけた。「みなさん、火の伝説は、たんなる作り話なんかじゃありません。本当に火をおこすことができるのです。わたしはその方法を知っています」

人々は混乱し、異なった意見を持ついくつかの集団に分かれた。ある集団ではこのように話し合っていた。「この男の話は本当かもしれない。火をおこす方法を教えてもらおう」しかし彼らの意見をよく調べてみると、ほとんどの者がそれぞれの利己的な目的のために火を利用しようとしており、それが人間の進歩に役立つものだということには、まったく気づいていなかった。

別の集団ではこのように話し合っていた。「火の伝説が、本当の話であるはずがない。あの男は私たちをだまして、うまい汁を吸おうとしているのだ」。また、このように話し合っている集団もいた。「火の伝説は、われわれを結び付けている絆なのだから、これまでどおり大切に守ってゆくべきだ。伝説を捨て去ってしまい、後になってからあの男の言い分は間違いだということになったら、それこそ取り返しのつかないことになってしまう」そして、それ以外にも、さまざまな意見を抱く、さまざまな集団が存在した。

賢者と弟子たちはさらに旅を続け、火の使用が当たり前になっている最後の部族を訪れた。しかしそこでも彼らは、火以外の、別の偏見に出会ったのであった。

旅が終わったとき、賢者は弟子たちに言った。

「これでおまえたちにも、分かっただろう。人は教えられることを望んでいない。したがって、おまえたちはまず、教える方法について学ぶ必要がある。そのさいに肝心なのは、いかにして学ぶかを、教えなければならないということだが、そのためには、まだ学ぶべき事柄があるのだということを、前もって彼らに納得させておかなければならない。彼らは、自分には学ぶ用意ができている、と思っている。しかし、彼らが学ぼうとしているのは、学ぶ必要があると彼らが勝手に思い込んでいる事柄であり、実際に彼らが学ばなければならない事柄ではない。この事を理解してはじめて、おまえたちは教える手立てを見出すことができる。教える能力を伴わない知識は、知識でもなければ、能力でもない」

ー切抜/「火の伝説」より

モノガタリには、読者や聴衆の意識に応じた七つの意味がある、と言われている。ほとんどの物語は、それが学ばれる時や場所や方法などの影響を受ける。したがって、多くの人々はそこに、娯楽や謎解きや寓意といった、自分たちの期待したものしか見いだせないとも言われる。「聞く者の理解力に応じて語れ」ということはつまり、「聞く者がすでに知っている事柄を使って、未知なるものを説け」という方法論に帰結するのかもしれません。


火のつかない会話

2022-03-16 | 世界の写窓から

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人が集まると会話が始まりますが、その場の水準を決定するのは、程度の近い人の多い方に落ち着きます。

忌憚なく言った発言が場の予定調和を外れてしまうと、それを口にした者は気が利かないということに自然となってしまうわけです。

たとえばその場に一人でも人情を解さない人がいると、人情を解さないその人に対する人情のようなものが湧いてきて、話題の範囲が日常茶飯のごくありふれた世間話といったものに限られてしまった、というようなことです。

たぶん、そこで当人としての然るべくを味わうようなことがあったりするわけです。


退屈は阻害された労働の一環である。

2022-03-13 | 世界の写窓から

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艱難や苦悩の合間にほっと一息ついた途端に今度は退屈が人間に忍び寄り、その結果として暇つぶしが必要になる。

生きとし生ける者を働かせ、休みなく活動させているものは、生存を目指す奮闘努力である。ところがいざそれを確保してみると、当の生存を持て余すようになるのだ。

したがって人間を動かす第二の要因は、生存の重荷から解放され、それが感じられないような状態を作り出す努力、「暇をつぶす」、ということはつまり退屈から逃れようとする努力である。

ーショーペンハウアー


自分のしっぽを追う犬は、どんなに速く走ろうとまったくうまくいかない。

2022-03-04 | 古今北東西南の切抜

(gif/original unknown)

「なにもしない」というのも一つの行為です。

最初の状態から「なにもしない」という行為を行うと、最初の状態とおなじ状態になる。

「結果としての状態」自体には、それほどの重要性はありません。「行為」や「運動」「操作」といったものに、注目します。重要なのは「行為」という「動きそのもの」であって、その結果としての「状態」ではないというわけです。

「なにもしない」「右を向く」「後ろを向く」「左を向く」を考えてみましょう、「状態」でなく、「行為」を考えることのご利益は、次のことにあります。

-「右を向く」という行為を最初の状態から二回続けて行うと、「後ろを向く」という行為を最初の状態から一回行ったときと、状態は同じになる-

つまり「右を向く」を二回するという行為は、「後ろを向く」という行為と同じなのだということです。例えば最初の状態から、「左を向き」ます。そして、もう一度「左を向き」ましょう。これは、「後ろを向く」ことと同じでした。では、後ろを向いてから、右を向いてみます。これは「左を向く」ことと同じです。その状態から、もう一度右を向いてください。こうすると、最初の状態に戻ります。

つまり、「左を向く」ことと「右を向く」ことを続けると、「なにもしない」という行為と同じだというわけです。当然と言えば当然です。

-切抜/加藤文元「宇宙と宇宙をつなぐ数学」より


バーの帰りに文化を語る。

2022-02-19 | 酔唄抄。

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そんな、夢を見た。今の年老いた脳みそでありし日の若者の身体を持っているような。その時の誰やらも知れない夢の相方との会話を思い切り脚色してみるとこんな感じであったような気もするものの定かではない・・・なにしろ夢でも確かに酔っぱらいであった。

ーある種の人間関係の理想はバーで気付いたりする。なんていうか傍若無人と敬意とが両立する場所とでも言えるようなところや。

なるほど、たとえば人間関係を先験的に友・敵に分けるという意識は、好きなものと怖いものという二通りの反応しか知らない幼児の段階に後退しているようなものやからね。

せや、その結果、他人との関係が貧しくならざるを得んのですわ。他人を他人として認める能力、実り豊かな対立の才能、反対者を包み込むことによって自分自身を超える可能性といった面が退化することになるおもいます。

つまり、黒白いずれかを選び取るのではなく、所定の選択の圏外に出るのが酔いの良さであり、自由な関係の理想とするところもそこらへんあるんやろね。

その観点からすれば、最善の人間でも比較的ましな災厄のようなもの、逆に極悪人でも最大の悪ではないというようなところに落ち着いてしまいますわな。

ん、自然体の人間関係ほど愉快なものはおまへん。なぜなら、人間そのものの方が人間観で作った文化より上等やさかい。ー

おい、おい、じいさん、壊れかかってるんちゃうんかい、と思ったりしとる次第です。

Sinéad O'Connor - Downpressor Man (reggae)