年初の、賀詞交歓の会が、表題のごとき様相で。
1月1日、元旦に辞令がでた、ということで、横浜へ転任される方の。
送別の会に早変わり、同じく、豊橋からお見えの方の歓迎の会。
口々におめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします、と同時に。
お世話になりました、というね。
なかなかに、見られない光景が、夕べの、某大手さんの安全祈願祭に続いての。
賀詞交歓会なのでした。
午前中、朝一からの当社の安全祈願祭は、秋葉山。
いつもの院主の、古い仏教というのか、神仏混淆の祝詞が、なかなか、素晴らしく。
いつだったか、初めてお願いした時に、社員さんの一人が、頭の中が空っぽになる。
というほどの、野太い、腹の底からの音が堂内に響き。
瞑目している脳裏には、なにやら、仏像のような、密教系の偶像のようなイメージが沸き起こり。
願主なんのタレべえ、謹んで、この者らの弥栄をお願い申す、だったか、そんな言葉に。
ついこちらの目頭が熱くなりそうな。
そんな時間を過ごしたのでした。
そうだ、我々のために、祈ってくださっているんだ、というね、そんな思いがこみ上げてきた。
この年も始まった、というわけだ。
古来、何千万、何億の方々が、思いを込めて、今年こそは、とか、今年は、とか。
そんな願文を、言葉にするしないに関わらず、ひそかに、宣言してきたんだろうな。
なんて考えると、そりゃ、荘厳な思いにもなるね。
思いの集積、群れ、数かぎりない、悲喜こもごもとともに。
ところで、夕べ、地震があったのかな。
夢か。
前日か、前々日かには、緊急速報が、ちょっと、バグっちゃったようだから、当方の。
感受性も感化されたのかも、だけどね。
それにしても、三が日がすぎ、松の開けるか開けないかの成人の日。
このところ、連休になっちゃっていて、仕事始めの感覚が、微妙にズレるよね。
その感覚も、たぶん、あと何年かしたら、明治は遠くなりにけり的なものになりかわり。
標準、ということになるんだろうな。
薮入り、なんて言葉が、死語になっちゃった経緯と似ているのかも。
働き方改革、とか、生産性の向上、とか、ワークライフバランス、とか。
耳慣れない言葉も、当たり前化していくんだろうね。
わが社労士さんからも、一月に一回か、ふた月に一回か、そんな頻度で、助成金の話がやってきて。
厚生労働省さんも、しゃかりき、ってことで。
人口減少、労働生産人口減少の中、アレヤコレヤと手を替え品を替えの算段でね。
なんて人ごとのように話しちゃいけないけどね、当方も当事者であるんだから。
それこそが、主体者たれ!の合言葉の眼目でもあるからね。
つまり、批判者ポジションというのは、すでに、クラシックになってるよ、というね。
神もどきに支配された暗黒の中世から、知性を糧とした近代、なんていう解釈からすると、ずっと。
長い間、批判者たれ!みたいな言説が流行していたので、すっかり、それに馴染んじゃって。
インテリは批判するんだ、正反合、ま、弁証法だね、そこから新しい何かが生まれるんだ。
みたいな、言ってみれば、勘違いが蔓延し、当事者にならず、主体者にならず、なんて立ち位置が。
どうやら、資本主義とともに終焉を迎えている、とも言えるかも。
さて、今日も主体者として一日を過ごすか、当たり前だけど。
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