goo

■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 1.概要・目青不動尊

本日28日は初不動でした。
新規に内容を追加してリニューアルUPします。

歴史あるお寺様が多く、徳川家康公のブレーン?であった天海大僧正が「江戸の守護結界のために五色の不動尊を(江戸をとりまくように)安置した。」という説もあります。

早起きすれば一日結願もできると思います。
興味ある方は一度巡ってみてはいかがでしょうか。

-------------------------
2021/08/13 UP

武州江戸六阿弥陀詣の御朱印がけっこうなアクセスをいただいているので、江戸五色不動についてもまとめてみます。



「目黒不動之図 / 源氏絵」  国芳
国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所」より利用規約にもとづき転載。)


「目白不動堂 / 江戸名所図会. 十二」
国立国会図書館D.C.より利用規約にもとづき転載。)


江戸五色不動は、都内に御座す五尊のお不動様を巡拝する不動尊詣でです。

江戸五色不動についてはこれまで詳細に調べたことはなく、武州江戸六阿弥陀詣や江戸六地蔵と同様、江戸時代から広く親しまれていたものと思っていました。

ところが今回調べてみると、どうやら江戸時代には”江戸五色不動”というものはなく、不動尊巡拝にかかわる史料も多くないことがわかりました。
それでも”江戸五色不動”が比較的広く知られているのは、「天海大僧正が江戸の守護結界のために五色の不動尊を(江戸をとりまくように)安置した。」というわかりやすい説があるからだと思います

考えてみると、江戸には弘法大師霊場、阿弥陀詣、観音霊場、地蔵霊場、弁天霊場、閻魔巡りなど、とりどりの霊場が揃っていたのに、不動尊霊場については主だった記録がみあたりません。
お不動様はご縁日に一日一尊でお参りするもの、という意識があったのかも。

この点は、主な尊格がたとえば(二十一、八十八)弘法大師霊場、(六)阿弥陀、(三十三、七)観音、(七)薬師など一定の数で尊格・札所構成されるのに対し、不動尊についてはそういうものがあまりみられないことからも裏付けられるかもしれません。
御府内二十八不動霊場という霊場の情報がありますが、こちらは明治に入ってからの開創のようです。)
なお、近年各地で「三十六不動尊霊場」が開創されていますが、これは不動明王の眷属の三十六童子に由来するものかと思われます。

「江戸五色不動」については比較的多くの資料やWeb資料がみつかりますが、その切り口は大きく2つに分かれます。
1.「江戸五色不動」江戸鎮護結界説
2.「江戸五色不動」は江戸時代にはなかった説(非結界説)

史料から当たっていくと、どうやら2.に落ち着く感じがしますが(結果として結界は張られているのかも)、6箇寺それぞれの由緒をひもといていくと、見えてくるものもあるかもしれません。

なお、下記のWeb記事を参考とさせていただきました。
まぼろしの五色不動
日本文化の入り口マガジン
江戸五色不動と武蔵野


〔 江戸五色不動の所在 〕
江戸五色不動に札番は振られていません。
なので参拝順の縛りはないと思いますが、西から順にリストしてみました。
なお、「目黄不動尊」は通常2尊リストされますので、実質は6ヶ寺の巡拝となります。

■ 竹園山 最勝寺 教学院 / 目青不動尊
世田谷区太子堂4-15-1(港区麻布谷町(現・六本木周辺)の勧行寺または正善寺から青山南町を経て移転)
天台宗 御本尊:阿弥陀如来


■ 泰叡山 護國院 瀧泉寺 / 目黒不動尊
目黒区下目黒3-20-26
天台宗 御本尊:不動明王


■ 神霊山 慈眼寺 金乗院 / 目白不動尊
豊島区高田2-12-39(新長谷寺(現・文京区関口)から移転)
真言宗豊山派


■ 大聖山 東朝院 南谷寺 / 目赤不動尊
文京区本駒込1-20-20
天台宗 御本尊:不動明王


■ 養光山 金碑院 永久寺 / 目黄不動尊
台東区三ノ輪2-14-5
天台宗 御本尊:不動明王


■ 牛宝山 明王院 最勝寺 / 目黄不動尊
江戸川区平井1-25-32(墨田区東駒形から移転)
天台宗 御本尊:釈迦如来・不動明王


寺院は山の手・三軒茶屋(世田谷区)から下町・平井(江戸川区)まで、南北13.61km、東西17.81kmの範囲に分散しています。
電車・バスを使えばおそらく1日で廻れるかと思いますが、見どころの多い大寺もあるので、何日かに分けてじっくり廻るのも手かと思います。


〔 江戸五色不動の回り方 〕
目黄不動尊(最勝寺)が離れているので、こちらをラストとするのがベターかと思います。
1日で回れそうな効率的なルートを考えてみました。
1.目黒不動尊(瀧泉寺/目黒)
2.目青不動尊(教学院/三軒茶屋)
3.目白不動尊(金乗院/目白・雑司が谷)
4.目赤不動尊(南谷寺/本駒込)
5.目黄不動尊(永久寺/三ノ輪)
6.目黄不動尊(最勝寺/平井)

鉄道網のつながりが意外に悪く、ルートをミスると1日では結願できない可能性も。
見どころも多いので、できれば9時すぎには目黒不動尊に到着したいところです。
※なお、この乗り継ぎ案は新型コロナ禍前のものです。現時点では変更となっている可能性があります。

1.目黒不動尊(瀧泉寺/目黒)
スタート:目黒駅(正面(中央)口) → 行人坂・太鼓橋・五百羅漢寺前 → 目黒不動尊(目黒駅から1㎞強、散策含みで30分はみておいた方がいいかと。)

目黒不動尊から鉄道駅まではけっこう距離があるので、目青不動尊まではバスルートをご紹介します。
バス停「元競馬場前」(目黒不動尊から1㎞弱)
東急バス「黒06 三軒茶屋駅~目黒駅前線」 →時刻表(15分に1本程度)
※この路線は住宅地を縫うように走り、運転手さんのスーパーテクが味わえる「東京のバス狭隘区間」のひとつとして知られています。
終点:三軒茶屋駅3番バス停で降ります。(乗車33分)
→ 目青不動尊(バス停から徒歩約300m)

2.目青不動尊(教学院/三軒茶屋)
三軒茶屋(東急田園都市線)→ 渋谷(メトロ副都心線) → 雑司が谷 (乗車約25分、3番出口、徒歩5~10分) → 目白不動尊

3.目白不動尊(金乗院/目白・雑司が谷)
目白不動尊から目赤不動尊までは、いろいろなルートがあります。
都電荒川線「学習院下」→メトロ「本駒込」の乗換案内検索結果
都電荒川線は風情ありますが、のんびり走るので時間がかかります。

※ 目白不動尊 → 甘泉園公園前 (都営バス 飯64系統時刻表、乗車20分) → 飯田橋駅前(メトロ南北線) → 本駒込(2番出口、徒歩2分) → 目赤不動尊
という乗換1回の裏ワザもありますが、甘泉園公園前バス停までけっこう歩きます。

4.目赤不動尊(南谷寺/本駒込)
本駒込から三ノ輪(目黄不動尊(永久寺))までは、
本駒込(メトロ南北線)→後楽園(徒歩)→春日(都営大江戸線)→上野御徒町(徒歩)仲御徒町(メトロ日比谷線)→三ノ輪 
が最短ですが、乗継徒歩(2回)の距離がかなりあるのでおすすめできません。(駒込・上野ルートも同様)

ここは、乗り換えなしのバス便をおすすめします。
目赤不動尊 →(徒歩約300m)→東洋大学前 →(都営バス 草63系統)→ 三ノ輪駅前(所要約30分、15分に1本、時刻表)→(徒歩すぐ)目黄不動尊(永久寺) 

5.目黄不動尊(永久寺/三ノ輪)
三ノ輪(メトロ日比谷線)→ 秋葉原(JR総武線線)→ 平井(乗換1回、所要約25分)
平井(南口、徒歩約16分(1.3㎞))→ 目黄不動尊(最勝寺)

6.目黄不動尊(最勝寺/平井)
「関東三十六不動霊場」の札所の納経受付止時間はおおむね16時~17時で、季節により変動するところもあります。最勝寺の時間確認は03-3681-7857(寺務所)まで。


御朱印についてはすべての寺院で拝受できますが、すべてで「五色不動」の印判をいただけるかは不明です。

※ 目黄不動尊は上記のとおり2尊リストされていますが、下記の2尊についても「目黄不動尊」とする説があります。

■ 古碧山 龍巌寺 / 目黄不動尊
渋谷区神宮前2-3-8(墨田区東駒形から移転)
臨済宗南禅寺派 御本尊:釈迦如来


孫引きとなりますが、猫の足あと様掲載の『渋谷区史』には「本堂の側に大師堂がある。府内八十八ヶ所九番の札所である。明治七年熊野神社の別当浄性院から移した、堂内に安置せる不動尊を目黄不動という。しかし目黄不動は、江戸川区荒川堤下最勝寺(もと本所表町)にあるのが、古来有名である。」とあり、こちらの不動尊が「目黄不動」として数えられたという説があります。

参拝時、大師堂の手前に、「五色不動」を示す石碑(?)があった記憶もありますが、こちらは山内撮影禁止なので定かではありません。
なお、Web情報では「一般公開されていない」との記述が複数みつかりますが(Wikipediaに「非公開」とある)、こちらは御府内霊場の札所(第9番)なので参拝は可能で御朱印も拝受できます。(敷居はやや高いですが・・・。)
御府内霊場の御朱印の主尊格は釈迦牟尼佛ですが、黄金目不動明王の揮毫もあります。

■ 五大山 不動院 / 目黄不動尊
港区六本木3-15-4
高野山真言宗 御本尊:不動明王


万治元年(1658年)に麹町平河町より当地へ移転したといい、「通称、麻布不動坂の一願不動さん、或は六軒町の目黄不動と呼ばれ、親しまれてきた。」という伝承があるようです。(→参考
なお、もともとの目青不動尊と伝わる麻布谷町にあった勧行寺(ないし正善寺)に近いため、こちらとの関連を示唆する説もあるようです。
こちらも御府内霊場の札所(第6番)なので参拝可能で御朱印もいただけます。
御本尊、不動明王の御朱印です。

こちらは非常駐のようで通常は閉扉され、御朱印は兼務されている大安楽寺(中央区日本橋小伝馬町)での授与となりますが、タイミングが合えば御本尊前でお参りでき、御朱印も本堂内で拝受することができます。

なお、昭島市の眞覺寺も「目黄不動尊」を護持されていますが、こちらと「江戸五色不動」との関係は確認できておりません。

■ 築当山 眞覺寺 / 目黄不動尊
昭島市玉川町5-9-27
天台宗 御本尊:阿弥陀如来



上記のように複数の目黄不動尊が存在することは、「江戸五色不動」の複雑な歴史を物語っています。

〔 江戸五色不動の宗派 〕
不動尊霊場としてはめずらしく、天台宗が多くなっています。
目白不動尊(金乗院)のみが真言宗豊山派で、あとはすべて天台宗寺院です。
大僧正天海の発案ということであれば、天台宗一択ですべて天台宗寺院の方が自然です。
とくに結界が絡むとなると、山王一実神道は避けて通れなくなるはずで、その点からも天台宗寺院で固める必要があったのでは。
実際、目黒不動尊は山王一実神道との関係を表明し、最近、参道に山王鳥居を建立しています。

一寺だけ真言宗寺院が入っていることについては、なにか特段の理由があったのかもしれません。

〔 江戸五色不動の歴史 〕
諸説あり錯綜していますが、手持ちの文献やWeb上で確認できた内容を列挙してみます。

・寛永年間(1624-1645年)、三代将軍家光公が大僧正天海の具申により江戸(王城)鎮護祈願のために、江戸の周囲に五色の不動尊を造立して安置。当初は四神相応の四不動を定め、のちに目黄が追加された。
五色とは陰陽五行説に由来するもので青(東/青龍)・白(西/白虎)・赤(南/朱雀)・黒(北/玄武)・黄(中央/皇帝)をあらわす。

・参考Webによると、寛保元年(1741年)著の小野高尚の『夏山雑談』には「江戸城鎮護のために不動明王像を、鎮護の四神にならい江戸城の四方に配置したのが目黒・目白・日赤・目青の四不動」との記載があるらしく、これが事実だとすると五色不動鎮護結界説が成立するが、多くの人はこれに疑義を呈している。(原典確認中)

というのは、この『夏山雑談』以外に「五色不動」にふれた江戸期の史料がほとんど見当たらないからです。
江戸時代には三大不動「目黒不動尊・目白不動尊・薬研掘不動尊」が広く知られていましたが、薬研掘不動尊は「五色不動」に入らず、色も振られていません。
お不動様の信仰篤かった江戸庶民のこととて、この時期に「五色不動」が成立していれば、当然『江戸名所図会』『東都歳時記』や『江戸砂子』に記載があるはずですが、見当たりません。(個別の不動尊寺院はかなりとりあげられている)
また、陰陽五行説の方位色と実際の寺院の方位が合わないことも疑義の論拠とされています。

文化五年(1808年)の「柳樽四十六篇」に、「五色には二色足らぬ不動の目」との川柳が残されています。
おそらく目青と目黄が「足りなかった」とみられますが、逆にみると文化五年の時点で「五色不動」が意識されていたことがみてとれます。

・八代将軍吉宗公が、享保年間(1716-1736年)に民力休養のための花見の場所の整備とともに5ヶ所(の不動尊)を選定されたという説。

・江戸に入る街道口の守護として置かれたという説。(=江戸六地蔵の縁起に通じる)
東海道/目黒不動尊(龍泉寺)、中山道/目赤不動尊(南谷寺)、川越街道/目白不動尊(新長谷寺)、甲州街道/目青不動尊(教学院)、日光街道(奥州街道)/目黄不動尊(永久寺)、水戸街道/目黄不動尊(最勝寺)。

・古来、それぞれの寺院の所在する場所で産した馬の毛色や目色からきているという説。
目黒の「目」が「駿馬」をあらわすという説から付会されたものかもしれません。

↑ のように多彩な説があることは、裏返すと江戸時代には「江戸五色不動」が確定していなかったことを示すものかもしれません。

こちらの記事では、『江戸砂子』『続江戸砂子』に記された不動霊場をまとめられています。現時点では筆者にて原典の該当箇所が確認できていないので、恐縮ですが孫引きさせていただきます。
( )は筆者の追記。札番は関東三十六不動霊場のもの。☆は筆者が御朱印拝受した寺院。
--------------------------------------------
五 不動霊場  来由前集にあり。
 ○目黒不動 慈覚作 めぐろ龍泉寺 (目黒、目黒不動尊、五色不動、第18番☆)
 ○目白不動 弘法作 めじろ長谷寺 (高田金乗院、目白不動尊、五色不動、第14番☆)
 ○目赤不動 作不知 駒込南谷寺 (駒込南谷寺、目赤不動尊、五色不動、第13番☆)
 ○砂尾不動 良弁作 はしば不動院 (砂尾山 不動院 橋場不動尊、第23番☆)
 〔増〕逆流不動 作不知 立像五尺 湯嶋根生院護摩堂 (金剛賓山 根生院/豊島区高田☆)
 〔増〕幸不動 慈覚の作 修験 宝玉院 神田かぢ町二丁目 (不詳)
 ○三日月不動 深川 心行寺 (雙修山 心行寺☆)
 ○波切不動 浅草寺町 大乗院 (五剣山 大乗院/台東区元浅草)
 ○飛不動 下谷 大音寺前正宝院 (龍光山 正寶院/台東区竜泉、第24番☆)
 ○大山不動 駒込 願行寺 (既成山 願行寺/文京区向丘☆)
 ○薬研堀不動 よこ山町 明王院 (薬研堀不動院(川崎大師別院)/中央区東日本橋、第21番☆)
 〔増〕滝不動 日暮里道灌山より三丁ほど北の方、田端六あみだのひがし、二丁ほどに、一茂りの小山あり。御用やしきと云。此所に少しの滝あり、下に石仏の不動まします。 (不詳)

 ○は『江戸砂子』にも載っているもの、〔増〕は『続江戸砂子』での追加分である。
--------------------------------------------

上記によると、五色不動のうち目黒、目白、目赤の三不動は記載されていますが、目青、目黄は記載されていません。
また、江戸の不動尊信仰の要となった深川不動堂(成田山 東京別院)が記載されていないのは不思議な感じがします。
深川永代寺で催された成田山の不動明王の第1回目の「出開帳」は元禄十六年(1703年)、以降江戸江戸時代を通じて計12回行われた出開帳のうち11回は深川永代寺が会場となりました。
ただし、あくまでも「出開帳の会場」であったので、↑の『江戸砂子』には載っていないのかもしれません。(深川永代寺のそばに「深川不動堂」が置かれたのは、明治11年(1878年)です。)

なお、江戸時代には「(江戸)三大不動」が知られており、目黒不動尊、目白不動尊、薬研堀不動尊がこれに当たります。
ただし、三つの不動尊を巡拝するというよりは、ご縁日や願掛けに一寺ずつじっくりと参拝するという傾向が強かったのでは。
歌舞伎役者市川團十郎の影響もあり、江戸の庶民のあいだで成田詣りの人気が高かったこと、また、薬研堀には川崎大師の別院「薬研堀不動尊」、目黒には観光地としても知られた目黒不動尊があったことなどからも、「お不動さまはじっくりと願かけ」という意識が強まった可能性があります。

上記の『江戸砂子』の不動霊場には、昭和62年(1987年)に開創された関東三十六不動尊霊場の札所がいくつかみられます。
また、「深川不動堂(尊)」もこの霊場の札所で、江戸期から信仰を集めた不動尊も多くあるため、上記の☆印の寺院のほかに下記の関東三十六不動尊霊場の札所(都区内)もご紹介します。

■ 石神井不動尊(亀頂山 密乗院 三寶寺) 第11番、練馬区石神井台
■ 志村不動尊(寶勝山 蓮光寺 南蔵院) 第12番、板橋区蓮沼町
■ 中野不動尊(明王山 聖無動院 寶仙寺) 第15番、中野区中央
■ 等々力不動尊(瀧轟山 明王院 満願寺別院) 第17番、世田谷区等々力
■ 浅草寿不動尊(阿遮山 円満寺 不動院) 第22番、台東区寿
■ 皿沼不動尊(皿沼山 永昌院) 第25番、足立区皿沼
■ 西新井大師不動明王(五智山 遍照院 總持寺) 第26番、足立区西新井


まずは江戸五色不動の6つの寺院についてご紹介していきます。


01.竹園山 最勝寺 教学院〔目青不動尊 / 江戸五色不動〕
世田谷区太子堂4-15-1(港区麻布谷町(現・六本木周辺)の勧行寺または正善寺から青山南町を経て移転)
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:江戸五色不動(目青不動尊)、関東三十六不動尊霊場第16番、大東京百観音霊場第54番、世田谷三十三ヶ所観音霊場第15番、東京三十三所観世音霊場第10番

縁起によると、応長元年(1311年)江戸城内紅葉山に創建。
太田道灌の江戸城築城にともない麹町貝塚~赤坂三分坂と移り、慶長九年(1604年)には青山南町(百人町)に移転。開基は法印玄応大和尚。
百人町居住の同心の帰依を受けて閻魔堂(現在の不動堂)を建立し、「三合山」「青山のお閻魔さま」とも呼ばれて双盤念仏がさかんに行われたといいます。

元禄年間頃までは山王成琳寺(赤坂日枝神社別当)の末寺でしたが、貞享四年(1687年)頃に相州小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となって隆盛。東叡山輪王寺の直末となりました。
明治41年(1909年)から3年を要して現在地に移転し、現在に至ります。

明和九年(1772年)刊の『江戸砂子』(国会図書館DC)にはつぎの記載があります。
「江戸名所図會、熊野権現社の次條に、心見観音、同北に隣る天台宗にして竹園山教學院と號す、本尊は聖徳太子の真作」

目青不動尊は、麻布谷町にあったという源三位頼政ゆかりの古刹、三合山 源理院 正善寺(随縁山 教解院 観行寺とも)の御本尊が明治15年(1882年)経学院に遷し奉られたもの。
慈覚大師円仁の御作と伝わり、天上界と地上界の間にたなびく青雲の色ゆかりの不動尊といわれ、「縁結びの不動尊」としてとくに女性の信仰が篤いとのことです。

江戸時代より五色不動(五眼不動)の一つに数えられ、東西南北中央の五方角と色(五色)を合わせたもので、将軍家光公の時代に成立したといわれています。


【写真 上(左)】 南の山門
【写真 下(右)】 東の山門

東急線「三軒茶屋」駅から徒歩数分。東急世田谷線からも見えるところです。
山門は世田谷線に面した南側と東側の二箇所あり、堂宇に近いのは東側です。
駅近ですが、山内は緑が多く名刹らしい落ち着きが感じられます。


【写真 上(左)】 門柱に「目青不動尊」
【写真 下(右)】 参道



【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 不動堂

東側山門から入って右側に不動堂。入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁に木鼻と海老虹梁を備え、正面格子戸で左右に大ぶりな花頭窓を拝しています。


【写真 上(左)】 不動堂(斜めから)
【写真 下(右)】 不動堂向拝-1


【写真 上(左)】 不動堂向拝-2
【写真 下(右)】 不動霊場札所板

右手向拝柱に「関東三十六不動霊場」の札所板。身舎上部には向かって右から、「閻王殿」「不動明王」「元三大師」の扁額が掲げられています。
寺宝として閻魔大王、脱衣婆があり、こちらは不動尊両脇侍仏です。
扁額、脇侍仏ともに「青山のお閻魔さま」の流れを伝えるものとみられます。


【写真 上(左)】 「閻王殿」の扁額
【写真 下(右)】 「不動明王」の扁額


【写真 上(左)】 「元三大師」の扁額
【写真 下(右)】 寺紋

御本尊の不動明王は秘仏でお厨子内に御座。御前立ちの青銅不動明王坐像も寺宝に定められています。
御前立ちのお不動様は、寛永十九年(1642年)の銘があり、丸いお顔で微笑みを湛えられ「縁結びのお不動さま」として、若い女性の信仰を集めてきたといいます。
恋愛成就の仏様はふつう愛染明王で、お不動さまがこの役を受けもたれる例はめずらしいかもしれません。

樹木に囲まれた参道正面に本堂。
入母屋造銅板葺流れ向拝で水引虹梁、向拝柱、正面桟唐戸、左右に花頭窓。
御本尊は恵心僧都作とされる上品上生阿弥陀如来坐像で、こちらも寺宝です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 納経所

聖徳太子の作と伝わる聖観世音菩薩は本堂に安置され、おそらくこちらが3つの観音霊場の札所本尊かと思われます。
江戸砂子温故名蹟誌 6巻5には「城琳寺末 心見観音、聖徳太子の作、名ある糸さくらあり」(国会図書館DC)とあり、目青不動尊を迎える前は心見観音の霊場として知られていたのかもしれません。

墓所には、小田原大久保家歴代の基、南画家、岡本秋暉の基、明治の書家、岡本碧巌の基などがあります。

御朱印は参道左の納経所にて快く授与いただけます。
目青不動明王、聖観世音菩薩の両尊の御朱印をいただけますが、御本尊・阿弥陀如来の御朱印は授与されていないとのことです。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目青不動明王 江戸五色不動尊印判 直書(筆書)

〔関東三十六不動尊霊場第16番の御朱印/専用納経帳〕

・御朱印尊格:目青不動明王 関東三十六不動尊霊場第16番印判 書置(筆書)

〔関東三十六不動尊霊場第16番の御朱印/御朱印帳〕

・御朱印尊格:目青不動明王 関東三十六不動尊霊場第16番印判 直書(筆書)

〔大東京百観音霊場第54番の御朱印〕

・御朱印尊格:聖観世音 大東京百観音霊場第54番印判 書置(筆書)

〔世田谷三十三ヶ所観音霊場第15番の御朱印〕

・御朱印尊格:聖観世音 世田谷区内第15番印判 直書(筆書)

こちらへつづく

■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 1.概要・目青不動尊
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 2.目黒不動尊
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊、4.目赤不動尊、5.目黄不動尊(永久寺)
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 6.目黄不動尊(最勝寺)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 埼玉県深谷市の御朱印-2

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1からのつづきです。


↓の記事は当面残しますが、後日、本記事と統合します。

■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4


3.旧 深谷市エリア-2

■ 蓮沼山 地蔵院 惣持寺
公式Web
深谷市蓮沼463
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第42番、深谷七福神(弁財天/オバナの寺)
・境内の縁起碑に、「當寺墓地の五輪塔(元禄八年(1696年)建立)「當寺廿傳慶基之表」に「夫武蔵國幡羅郡蓮沼山惣持寺者行基菩薩之草創年数978宗澄和尚之中興云々略」と刻記されていることから、草創は奈良時代初期の養老二年(718年)行基菩薩によって創建され、後弘安年間(1278-1288年)顕盛(勅号宗澄)により再興された、深谷市内最古の名刹である。」とあります。
・地蔵堂の御本尊は行基作と伝わりましたが文化四年(1807年)の火災で消失、現在の地蔵尊は”露天の雨乞い地蔵”として村人の信仰を集めているそうです。

・深谷七福神(弁財天)と幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の札所で、尊格揮毫は「弁財天」、主印は金剛界大日如来の種子「バン」の御寶印と弁財天の持物「琵琶」の印、「新四国第四十二番」の札所印があり、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第42番と深谷七福神(弁財天)を兼ねたような内容の御朱印となっています。
・新型コロナ禍中は御朱印不授与とのことです。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第42番/深谷七福神(弁財天) 大日如来/弁財天



■ 瑠璃光山 浄光寺 摩利支天堂
深谷市江原84−1
高野山真言宗
御本尊:摩利支天尊、弘法大師
札所:-
・武蔵七党・猪俣党の流れの荏原氏の館跡とも伝わります。
・摩利支天尊は武神的な性格ももたれるので、荏原氏が信仰していたのかもしれません。
・通常無住。深谷市江原の浄光寺の管理(境外仏堂?)のようですが、浄光寺も無住らしく、御朱印は毎月1月と15日の祈祷日のみにいただけるようです。
・摩利支天の御朱印は授与例が少なく、その点からも稀少な御朱印です。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 摩利支天尊



■ 寛平山 泉光寺
深谷市上敷免473
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀三尊
司別当:諏訪社(旧上鋪免村鎮守)
札所:深谷七福神(恵比寿天/オミナエシの寺)
・石碑によると、平安時代の寛平九年(897年)、良忍上人による開基。『新編武蔵風土記稿』には寛平山 稲荷坊 来迎院と号していたとあります。
・弘法大師とのゆかりがふかく、別尊の薬師如来はお大師さまのご開眼と伝わり、境内には三鈷の松があります。
・市指定文化財の「紙本着色愛宕大権現像」を所蔵されており、以前は愛宕信仰が入っていたのかもしれません。
・立派な鐘楼門、端正な入母屋造流れ向拝の本堂には御本尊の阿弥陀三尊が御座。本堂向かって右手の堂宇には恵比寿天が御座されています。

・深谷七福神の恵比寿天で女郎花(オミナエシ)の寺で、御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 阿弥陀三尊


2.深谷七福神 恵比寿天



■ 普光山 得蔵院 圓能寺
深谷市高畑379
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:-
・開かれたお寺を目指し、定期的にイベントなどが催されている天台宗のお寺さまです。
・御朱印も快く授与いただけました。
・寄棟造の本堂。本瓦葺で大棟には鴟尾を置く格調高いつくりです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来



■ 覚樹山 慶福寺
深谷市矢島744
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:-
・正保二年(1645年)開創の曹洞宗寺院です。
・札所ではないですが、快く御朱印を授与いただけました。
・入母屋造銅板葺流れ向拝、屋根の傾斜が急でどっしりとした意匠の本堂です。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼仏


■ 瑠璃山 正伝院
深谷市高島161
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所:深谷七福神(毘沙門天/クズの寺)
・弘仁年間(810-824年)、坂上田村麻呂の奥州征伐の際、小野岑守とその子小野篁((おののたかむら)が随行。この地にて篁が薬師如来の尊像を彫刻し、本尊として安置して開基と伝わる古刹です。
・寺宝の「釈迦涅槃図」(市指定文化財)は、幕末の文人、伊丹渓斎(いたみけいさい)の筆によるものです。

・深谷七福神の毘沙門天の寺で、御朱印は庫裡にて拝受しました。御本尊の御朱印については不明です。

〔拝受御朱印〕
1.深谷七福神 毘沙門天



■ 長勢山 義光院 吉祥寺
公式Web
深谷市中瀬410
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:-
・鎌倉時代、京・東福寺開山の聖一国師 圓爾辨圓が、上州世良田の長楽寺に滞在されていたときに開いた寺院と伝わります。
・新田氏ゆかりの河田但馬守義光公は、足利氏従属を嫌って当地で帰農し、その子?の 義賢公が堂宇を建立。江戸時代は上州長楽寺の末寺として栄えたそうです。
・山内には数多くの尊格が奉安されています。
・とても親切なご住職で、本堂内を丁寧にご説明いただきました。
・御朱印は数種あり、書置もあって御朱印授与に積極的なようです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀如来


2.聖観世音菩薩の御朱印


3.ふれ愛観音の御朱印



■ 瑠璃光山 遍照院 妙光寺
深谷市下手計988-1
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所:-
・承應二年(1653年)、福島但馬優婆塞 永照比丘尼の開基、高野山から栄忠僧正を招聘して創立。
・入母屋造桟瓦葺、向拝の唐破風が大がかりで迫力があります。
・渋沢栄一翁の従兄弟、尾高惇忠は当寺で学び、また惇忠の菩提寺のようで、御朱印にもその旨の揮毫があります。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 薬師如来



■ 諏訪神社
埼玉県深谷市血洗島117
御祭神:建御名方命
旧社格:村社、旧血洗島村鎮守、神饌幣帛料供進神社
元別当:
授与所:拝殿前
・渋沢栄一翁の郷里の鎮守社です。詳細は、→こちら(血洗島 諏訪神社の御朱印)をご覧ください。

〔拝受御朱印〕

御朱印揮毫:諏訪神社 印刷


■ 能満山 定禅院 能護寺(あじさい寺)
熊谷市Web
熊谷市永井太田1141
高野山真言宗
御本尊:大日如来・虚空蔵菩薩
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第75番、東国花の寺百ヶ寺霊場第25番(埼玉第13番)
・天平十五年(743年)に国家安穏・万民豊楽と五穀豊穣祈願のため行基上人が開山し、後に弘法大師空海が再建され真言密教の道場として整えられたと伝わります。
・「妻沼のあじさい寺」として知られ、毎年6月には多くの参詣者を迎えます。
・現本堂は文化十一年(1814年)の再建で、内陣に大日如来、外陣に阿弥陀如来を安置した堂内の格天井(十六羅漢図)には、金井烏洲・岩崎榮益・樋口春翠などの彩色の花鳥獣が描かれています。
・虚空蔵堂には虚空蔵菩薩が祀られ、男女13歳厄除け祈願(十三参り)の寺として信仰を集めています。
・鐘楼の鐘は、元禄十四年(1701年)、諸八郎兵衛藤原正綱による鋳造で、乳の間に百字真言の梵字が鋳込まれているもの。市の文化財に指定されています。

・メジャー霊場「東国花の寺百ヶ寺霊場」の札所で、御朱印は庫裡にて拝受。
・御朱印尊格は「十三参り」の虚空蔵尊となっています。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 虚空蔵菩薩


2.東国花の寺百ヶ寺霊場第25番(埼玉第13番)(規定) 虚空蔵菩薩



4.旧 岡部町エリア

■ 教王山 佛母院 弘光寺
深谷市針ヶ谷1324
真言宗豊山派
御本尊:不動明王・十一面観世音菩薩
司元別当:八幡大神社(深谷市針ヶ谷)
札所:-
・天平十七年(745年)、空阿の開基と伝わる古刹で、法院祐尊(応安三年(1370年)寂)を中興開山とします。
・法院祐尊が中興の際、鉢形城主北条氏邦に宛てた書状は貴重な中世文書とされ、深谷市の指定文化財となっています。
・は徳川家光公より三十石の朱印地を得て寺勢興隆し、末寺・配下寺院は75を数えたとされます。
・これほどの名刹で霊場札所となっていないのは不思議な感じもしますが、御本尊・不動明王の御朱印を授与されています。庫裡にて直書のものを拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 不動明王



■ 八幡大神社 
深谷市針ヶ谷258-1
御祭神:品陀和気命、比賣神、神功皇后
旧社格:村社、針ヶ谷鎮守
元別当:教王山 佛母院 弘光寺(深谷市針ヶ谷)
授与所:境内社務所
・社伝によると、天平十七年(745年)で山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から分霊を勧請して創建。源頼朝公が伊豆に配流された折、源家再興のため当社を祈願所として定めたと伝わります。
・武蔵風土記等には、「山城国男山八幡宮を移し祀る 文明十一年建営修理」とあります。
・ことに戦時中は武の神として信仰を集めたと伝わります。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:八幡大神社 直書(筆書)


※ 針ヶ谷あたりから少しく足を伸ばすと、近年、人気上昇中の日本神社に参拝できます。
 ■ 日本神社の御朱印


■ 玉鳳山 千手寺 源勝院
深谷市岡部786
曹洞宗
御本尊:千手観世音菩薩
札所:-
・岡部藩主安部家の菩提寺。
・天正十八年(1590年)、徳川家康公の関東人国時に安部信勝に岡部が与えられ、信勝は人見の昌福寺八世賢達利尚を招き源勝院の開基としました。
・安部氏は信濃の海野姓の流れとされ、今川家臣から徳川に転じて家臣となり、三河国半原にも所領がありました。譜代大名で幕末期の石高は2万2250石。
・藩主の菩提寺だけあって、端正な本瓦葺、水引虹梁の木鼻など彫刻類も精緻なものです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 千手観世音菩薩




【 BGM 】
■ 夏影~Airness~ - 茶太ver


■ 春風 - Rihwa(カバー)


■ 夢暦 - 川江美奈子
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPします。

深谷市・熊谷市は、東京からだと徳川氏発祥の地とされる上州・世良田郷(太田市世良田町・徳川町)へのアプローチルートにあたります。
併せてまわってみてはいかがでしょうか。

■ 関連記事
「血洗島 諏訪神社の御朱印」

■ 深谷市の御朱印-2へつづきます。

↓ の記事は当面残しますが、後日、本記事と統合します。

■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4



【エリア概要】(熊谷市・深谷市を併せてまとめています。)
東京方面から血洗島へのアプローチは通常、関越道「花園」IC(深谷市)経由となります。
ここから北上して利根川に沿って熊谷市に入り、熊谷から関越道「東松山」IC、ないしは国道17号(中山道)経由の帰路になると思われますので、このエリア(熊谷市・深谷市の一部)の御朱印をご紹介します。

---------------------------------
深谷・熊谷周辺は、かつて幡羅郡(はら/はたら)、および榛沢郡と呼ばれ、古墳群も多くみられて早くから開けた土地とされています。

武蔵七党をはじめとする多くの武士団が興った地で、わけても源平合戦で平敦盛との一騎討ちで名を馳せた熊谷直実の本拠地として知られています。

平家方として源氏との富士川の戦いや木曽義仲と戦いで活躍した斎藤別当実盛も当地を拠点とし、妻沼聖天山を開いたとされています。
また、室町期には山内上杉家系の深谷上杉家が深谷城に拠りました。

江戸時代には、熊谷・深谷ともに中山道の宿場町として栄えます。
宿場だけでなく、木綿織物や多くの農産物の集散地・取引の場としても隆盛しました。
また、秩父から甲州へ抜ける秩父往還の起点で、荒川・利根川の渡船場や江戸方面への物流の要衝・河岸も擁していたため、秩父絹の集散地としても栄えたようです。

江戸初期には深谷藩が立藩、岡部には岡部藩、近隣の行田には忍藩があり、寺社の成立・変遷にはこれらの藩の支配の影響も考えられます。

熊谷市の資料には、「秩父街道は、秩父34番札所めぐりや三社(秩父神社、三峰神社、宝登山神社)めぐり、また秩父絹の商人の往復でにぎわいました。」とあり、妻沼聖天山歓喜院は、日本三大聖天の一つとされ、古くから人々の信仰を集めていたといいます。

また、熊谷寺の門前町としても発展し、「関東一の祇園」と称される愛宕八坂神社の例大祭「うちわ祭り」が広く知られるなど、宗教都市としての一面ももっていたのではないでしょうか。

このように古くから栄えて城下町の色彩ももち、宿場町や商都としての役割も大きかったため、寺社もおのずから多くなりました。

【深谷・熊谷と札所】
寺院が多く人流が活発だったので、北関東でも有数の霊場エリアとなっています。

観音霊場としては、熊谷を中心に忍秩父三十四観音霊場の札所が複数あり、「忍秩父三十四観音霊場」+「忍領西国三十三観音霊場」+「足立坂東三十三観音霊場」で百観音霊場を構成しているとされます。

日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた百箇所の観音霊場をいい、日本各地で写しの霊場が開創されました。
「忍秩父三十四観音霊場」は三十四所あるので「秩父」の位置づけですが、これまで拝受した御朱印で「忍秩父」の札所印が入ったものはたしかありません。多いのは「忍観音」「忍三十四所(霊場)」「忍坂東」などで、御朱印拝受のときも「忍秩父観音霊場」と申告して首を捻られ、「忍三十四霊場」と言い直すとすぐに納得いただいたことが何度もありました。

三十四所ですが「忍坂東」と呼ばれていた可能性があり、もともとは三十三の札所で構成され、他の三十四所霊場を「秩父」として百観音を構成していた可能性もあるのかもしれません。
(ただし、この記事では「忍秩父三十四観音霊場」で統一します。)

「忍秩父三十四観音霊場」は”忍”とありますが、34の札所のうち熊谷30、深谷2、行田2で、実質的には熊谷の観音霊場といえます。

また、ナゾが多いのですが、熊谷を中心に幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場が開創されています。

深谷には深谷七福神、熊谷には熊谷七福神が開創されています。
深谷七福神の寺院にはそれぞれ”秋の七草”が植えられ、秋には”花の寺巡り”も楽しめます。

その他、関東八十八箇所、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)、武州路十二支霊場、武蔵国十三佛霊場、関東九十一薬師霊場、関東百八地蔵尊霊場、東国花の寺百ヶ寺霊場など広域霊場の札所が複数立地し、さながら御朱印王国の様相を呈しています。

御朱印授与率が高いのは↑の広域霊場と深谷七福神で、忍秩父三十四観音霊場もかなりの札所で授与いただけます。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場はこのところ復興の気運も感じられ、札所印をご用意されている札所もありますが、廃寺・無住寺院も多く、巡拝難易度はかなり高くなっています。
なお、忍秩父三十四観音霊場のいくつかの札所は、最近巡拝者以外は不授与となっているので要注意です。

熊谷七福神は正月限定のスタンプ方式とみられ、御朱印授与についてはまちまちのようです。

有名なのは埼玉厄除開運大師(龍泉寺)で、絵御朱印や限定御朱印マニアでいつも賑わいをみせています。
妻沼聖天 歓喜院や常光院(熊谷厄除け大師)も複数の御朱印を授与されており、御朱印スポットとして知られています。

神社めぐりについては、熊谷の長井神社の宮司様が「村の鎮守十社めぐり」を主催され、条件つきながら御朱印を授与されているので、御朱印拝受できる神社が増えています。

----------------------------------------
それでは、南から北に上がるかたちで、旧市町村エリア別にご紹介していまきす。


1.旧 川本町エリア

■ 吉祥山 應正寺
深谷市田中608-1
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:忍秩父三十四観音霊場第30番
・由緒は不詳ですが、入母屋造の立派な本堂と、二層の優れた意匠の観音堂があり、忍秩父三十四観音霊場第30番の札所はこちらの観音堂となっています。
・御朱印は庫裡にて直書のものを拝受。御本尊の御朱印も授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 不動明王


2.忍秩父三十四観音霊場第30番 十一面千手観世音菩薩



■ 根本山 光明院 正福寺
武州路十二支本尊霊場会のWeb
深谷市瀬山141
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:関東八十八箇所第84番、関東九十一薬師霊場 第35番、武州路十二支霊場 酉(不動明王) ※関東九十一薬師霊場第35番は境外の薬師堂
・永禄年間(1558-1570年)開基、慶長年間(1596-1604年)、重盛法印による開創と伝わる古刹。御本尊の阿弥陀如来は二尺四寸の木彫坐像で、安政二年(1855年)の作と伝わります。
・武州路十二支霊場の札所本尊、不動明王は、板木の記録によると「秀海」という行者が出羽三山へ三十三度尊像を背負って行き来され、霊験あらたかなお不動様として広く信仰され講も組織されたとのこと。
・関東九十一薬師霊場の札所本尊、薬師如来は東側に約600m離れた国道140号パイパス沿いにある境外仏堂の薬師堂(別名:踏鞴堂)に御座。一尺三寸木彫坐像の薬師如来は養老三年(717年)春日仏師一夜作と伝わり、現在の尊像は宝永七年(1710年)造顕とのこと。魔除、厄除、眼病除のお薬師様として広く信仰を集めているそうです。
・御朱印は庫裡にて直書のものを拝受。3つのメジャー霊場の札所だけに手慣れたご対応です。

〔拝受御朱印〕
1.関東八十八箇所第84番 阿弥陀如来


2.武州路十二支霊場(酉) 不動明王


3.関東九十一薬師霊場第35番 薬師如来 〔境外仏堂〕



2.旧 花園町エリア

■ 荒澤山 寿楽院
深谷市荒川983
高野山真言宗
御本尊:不動明王
司元別当:天神社(荒川地内)
・由緒は不詳だが、『風土記稿』には「天神社 寿楽院持」とあります。予想以上に広い境内で、道をはさんで立派な聖天宮が御座します。
・御朱印は庫裡にて直書のものを拝受。ご住職ご不在時は書置対応となる模様。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 不動明王



■ 光福山 医王院 長善寺
公式Web
深谷市小前田1452
高野山真言宗
御本尊:金剛界大日如来
札所:関東八十八箇所第85番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第12番
・鉢形城主北条氏邦の三男「光福丸」の菩提寺として知られる古刹で、2つのメジャー霊場の札所として参拝者を集めます。
・御朱印は庫裡にて直書のものを拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.関東八十八箇所第85番 大日如来


2.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第12番 聖観世音菩薩



■ (武蔵野)八幡神社 
深谷市武蔵野1862
御祭神:誉田別命
旧社格:旧武蔵野村中郷地区鎮守
元別当:常光寺(武蔵野)
授与所:足髙神社(足髙神社社務所に案内あり)
・鎌倉街道(県道小前田・児玉線)沿いに御鎮座の八幡神社。境内社、八坂社の御輿渡御は”暴れ御輿”として知られています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:八幡神社 書置(筆書)



■ 十二社神社 
深谷市武蔵野277-3
御祭神:天神七代地神五代の十二柱
旧社格:旧武蔵野村上郷地区鎮守
元別当:寿宝院
授与所:十二社神社(足髙神社社務所に案内あり)
・日本武尊が東征の折、当地にて兵馬・食糧の無事を祈るために創建と伝わります。
・昭和24年、新たな境内を設け旧本殿を移築して御遷座。新しい境内地ながら山林に囲まれ厳かな境内です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:十二社神社 書置(筆書)



■ 足髙神社 
深谷市武蔵野3283
御祭神:大物主之大神
旧社格:(氏子区域:旧武蔵野村下郷地区(旧猿喰土村))
元別当:地内観音寺→橋本家→高野家
授与所:境内社務所に案内あり
・既に室町末期には鉢形城主北条氏邦により、領内鬼門鎮護として奉祀されていたとされ、祭礼時、氏邦が神饌を奉るために使った膳が足高であったため、現社号になったと伝わります。
・通常は非駐在のようですが、社務所に掲出の連絡先にTELすると書置の御朱印をお持ちいただけます。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:足髙神社 書置(筆書)



3.旧 深谷市エリア-1

■ 大谷山 地蔵院 宝積寺
武州路十二支本尊霊場会のWeb
深谷市大谷114
真言宗豊山派
御本尊:五智如来
札所:関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第13番、武州路十二支霊場 戌(阿弥陀如来)
・応永年間(1394-1428年)、地蔵菩薩を御本尊として盛谷山地蔵院宝錫寺と号し源照法印が開創。天正十年(1582年)、住職重任和尚が伽藍を整備され、五智如来を奉安されて、大谷山宝積寺と改称して中興と伝わる古刹。
・五智如来とは、大日如来が備えられる5つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を象徴する金剛界の五如来(いわゆる金剛界五仏)。
中尊(中央)は法界体性智の大日如来。東方は大円鏡智の阿しゅく如来ないし薬師如来、南方は平等性智の宝生如来、西方は妙観察智の阿弥陀如来、北方は成所作智の不空成就如来でそれぞれ象徴されます。(各尊格は宗派等により異なるようです。)
・関東三十三観音と武州路十二支霊場のふたつの現役霊場の札所を務められ、貴重な五智如来の御朱印も授与いただけます。御朱印は原則書き置きのようです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 五智如来


2.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第13番 光明観世音菩薩


3.武州路十二支霊場(戌) 阿弥陀如来
 


■ 境井山 寶泉寺
深谷市境220-1
曹洞宗
御本尊:
札所:深谷七福神(福禄寿)
・深谷七福神の一寺で福禄寿・キキョウの寺。
・慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで手柄を立てた旗本吉田与右衛門政景氏は当地境および花園町永田に知行を拝領。人見福昌寺第九世実叟大存大和尚を開山に仰いで当山を建立開基と寺伝にあります。
・深谷七福神の福禄寿は、本堂手前左手に御座。
・七福神の御朱印は本堂内にて直書いただけましたが、御本尊の御朱印は授与されていないそうです。

〔拝受御朱印〕
1.深谷七福神(福禄寿)

※御本尊の御朱印は不授与


■ 武蔵國八海山神社 
深谷市折之口73
御祭神:大己貴命、國常立尊、少彦名命
旧社格:
元別当:
授与所:境内社務所
・比較的新しい神社で、御朱印も快く授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:八海山神社 直書(筆書)



■ 泰国山 人見院 一乗寺
深谷市人見1621-2
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:深谷七福神(布袋尊)
・深谷七福神の一寺で布袋尊・ナデシコの寺。
・正応二年(1289年)、人見四郎泰国による開基、一遍上人の開山とされ、鎌倉時代にこの地に勢力を張った武蔵野七党猪俣党の一族、人見氏の菩提寺です。
・御朱印は庫裡にて直書のものを授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 阿弥陀三尊(六字御名号)


2.深谷七福神 布袋尊



■ 人見山 昌福寺
深谷市人見1391-1
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
司元別当: 浅間神社(深谷市人見)
札所:
・延文二年(1357年)、深谷城初代城主として山内上杉家の上杉房憲が深谷に入ったのち、父祖の菩提を弔うため仙元山の麓に開基と伝わる曹洞宗の古刹。
・上杉房憲の墓所としても知られています。
・ご住職はお留守でしたが、寺庭さまから書置の御朱印を授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



■ 浅間神社 
深谷市人見1404
御祭神:木花咲耶姫命
旧社格:郷社
元別当: 人見山 昌福寺(熊谷市人見)
授与所:楡山神社宮司様宅
・標高98mの仙元山の山頂に鎮座する歴史ある浅間神社で、源頼朝が富士の巻狩りの際、その奉賽のために富士本宮から分祀した関八州八社の一社として伝わります。
・また、延文二年(1357年)、深谷城初代城主上杉房憲が昌福寺を開基した折、裏山の仙元山に深谷に入ったのち仙元大菩薩を勧請、後に村内富士講社が富士山本宮より勧請して合祀し、浅間神社と改めたという説もあります。
・深谷城主上杉家、江戸時代の領主・岡田家の篤い尊崇を受けたとされます。
・昭和五年(1930年)、地内の村社・無格社六社を合祀し郷社に列格、戦前には安産の神様として講が組織され、多くの参詣者を集めたと伝わります。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:浅間神社 直書(筆書)



■ 上野台八幡神社 
深谷市上野台3168
御祭神:品陀和気命
旧社格:郷社、氏子区域:上野台
元別当:如日山 蓮華院 光厳寺(深谷市上柴町)
授与所:境内
・天文十九年(1550年)、深谷城主上杉氏の家臣、岡谷加賀守清英が、崇敬篤い山城国石清水八幡宮を萱場村に勧請して創祀と伝わります。
・正徳年間(1711-1716年)、時の領主大久保忠義は、村役の嘆願により当地を寄進し萱場村からの御遷座をなしたとされます。
・上野台は、鼠、大台、小台、上宿、中宿、下宿、桜ヶ丘一、同二、泉台の九地区からなり、氏子区域はこの九地区で、多くの境内社はこの氏子区域内からの御遷座とのことです。
・「青天を衝け」にちなんだ御朱印が授与されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:八幡神社 書置(筆書)




■ (上柴町)諏訪神社 
深谷市上柴町東1-18
御祭神:建御名方命、美穂須須美命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、旧大字柴崎地区鎮守
元別当:月笑院
授与所:楡山神社宮司様宅
・文禄元年(1592年)頃、旧柴崎地区の開発者である柴崎淡路守(深谷城主上杉氏の家臣)の一族が氏神として祀ったことが創祀と伝わる柴崎地区の鎮守社。
・境内に御座す双体道祖神は、県内ではめずらしいものとされています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:諏訪神社 直書(筆書)



■ 大乗山 正法寺
公式Web
深谷市上柴町東2-2-2
日蓮宗
御本尊:
札所:
・このエリアでは数少ない日蓮宗寺院で、房総・勝浦の松部の地に妙潮寺の末寺として創建、その後、日蓮宗管長、久保田日亀大僧正のお力添えにより深谷に移転されました。

〔拝受御朱印〕
1.御首題



■ (西島)瀧宮神社
公式Web 
深谷市西島5-6-1
御祭神:天照大神、豊受大神、彦火火出見命
旧社格:深谷城裏鬼門守護神、旧西島村(内横町仲町)鎮守
元別当:瀧宮山 歓喜院 正覚寺(深谷市深谷町)
授与所:境内社務所
・社伝によると、この地に湧き出る湧水を神として祀り「瀧の宮大明神」と号したのが創祀といいます。
・康正二年(1456年)、上杉氏により深谷城が築かれると、西南に位置する当社を坤門(裏鬼門)の守護神として崇敬し、領国安寧を祈願しました。
・昭和27年(1952年)には深谷宿の守り神・市神様として住民の尊崇篤かった「三社天王」を深谷八坂神社として境内に御遷座。例祭の御輿渡御は「深谷のぎおん」として広く知られています。
・深谷を代表する神社で、御朱印はおおむね社務所にていただけるようです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:瀧宮神社 直書(筆書)


・当社は深谷駅南口のすぐそばに鎮座します。深谷駅の駅舎は、大正時代に竣工の東京駅・丸の内口駅舎が深谷の日本煉瓦製造の煉瓦を使用したことに因み、赤レンガ造をモチーフとしたデザインとなっており、深谷市内のみどころのひとつです。



■ 深谷山 永明寺 高台院
深谷市田谷308
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
・上杉氏の家人、高橋永明が草創。永禄四年(1561年)、深谷城三代目城主上杉憲賢の菩提を弔うため、室の高泰姫によって再興されたと伝わる古刹。
・所蔵の「北亭為直画朱描鎮西八郎為朝像」は市の文化財に指定されています。

・札所ではありませんが、ご住職ご在院時には御朱印を授与いただけるようです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛



■ 永明稲荷神社
楡山神社ホームページ掲載の由緒 
深谷市田谷308
御祭神:倉稲魂命、菅原道真公
旧社格:深谷城の戌亥の守護神、田谷地区鎮守
元別当:深谷山 高台院(高泰院) 永明寺(深谷市田谷)
授与所:楡山神社宮司様宅
・康正二年(1456年)、深谷城主上杉氏五代房憲(ないし家臣高橋永明)が築城時に、城の戌亥の守護として創祀と伝わります。
・上杉氏が深谷城の守護として祀った「一仏三社」のひとつとされ、一仏とは瑠璃光寺の寅薬師、三社とは末広稲荷(稲荷町)・永明稲荷・智方明神(本住町)をさすようです。
・明治45年(1912年)、稲荷町の稲荷神社に合祀されたものの社殿は残り、田谷地区の鎮守として独自に祭を催していることから合祀は書類上のものとされています。
・高台院所蔵の「狐開帳図絵馬(きつねかいちょうずえま)」(市指定文化財)は、もともとは永明稲荷神社に奉納されていたものです。
・高台院の奥ふかく、別当というより高台院の地主神的な位置にご鎮座されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:永明稲荷神社 直書(筆書)



■ 延楽山 福壽院 金胎寺
深谷市本住町9-76
新義真言宗
御本尊:胎蔵界大日如来
司元別当:城内八幡宮・天満宮・管領稲荷社
・慶長九年(1604年)以前に、深谷城主上杉家の祈願寺として法印權大僧都日胤により開基されたという名刹。
・当時の深谷上杉家氏は湯殿山の信仰篤く、御本尊は湯殿山御分身の大日如来であったと伝わります。元禄十一年(1698年)、法印權大僧都快傳による中興開山の折に現在の御本尊大日如来を再鋳安置。
・別尊として奉安される不動明王は、明治22年(1889年)先師秋本一庵法印が下総国成田山より御分身を勧請され、深谷成田山とも称されます。
・札所ではありませんが名刹で、御朱印も快く授与いただけたのでご紹介します。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 大日如来



■ (稲荷町)稲荷神社(末広稲荷神社) 
楡山神社ホームページ掲載の由緒 
深谷市稲荷町3-2-58
御祭神:倉稲魂命
旧社格:村社、深谷城鬼門鎮護、旧末広村鎮守
元別当:東源寺・宝珠院
授与所:楡山神社宮司様宅
・社伝によると、上杉房憲が深谷城の守護として祀った「一仏三社」のひとつとされ、康正年間(1455-1456年)の城の鬼門守護として創祀とされます。
・「一仏三社」については康応年間(1389-1390)、深谷庁鼻和(こばなわ)に館を構えた上杉憲英が館の鎮護のために勧請という説もみられます。深谷城下の発展に伴い、稲荷町の鎮守として住民から厚く尊崇され今に至ります。
・維新後、無格社であった当社は田谷の稲荷神社(永明稲荷)を合祀し村社に列しましたが、この合祀は書類上のものとみられているようです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:稲荷神社 直書(筆書)



■ 伊勢之宮神社 
深谷市西大沼300
御祭神:天照大神、豊受大神
旧社格:- 氏子区域:東大沼、西大沼、栄町、錦町の四か町
元別当:西福院
授与所:(西島)瀧宮神社社務所
・創建は明らかでありませんが、『風土記稿』には「伊勢内宮 村民持、伊勢外宮 西福院持」とあることからかつては二社で、明治初期に一社になったとみられています。
・『埼玉の神社』によると、当地の東部に「田谷」という地があり、これは「旅尾」(御師がお祓大麻を旦那に配るために構えた宿舎)からの転訛とみられ、田谷周辺の村々も伊勢神宮を勧請していることから、当社も伊勢神宮の御師が創建に係わったものとみられています。
・御朱印は(西島)瀧宮神社社務所にて授与されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:伊勢之宮神社 直書(筆書)



■ 深谷山 光明院 瑠璃光寺
公式Web
深谷市稲荷町北9-25
天台宗
御本尊:釈迦如来、元三大師
札所:関東九十一薬師霊場第39番、武蔵国十三佛霊場第12番、深谷七福神(大黒天/ハギの寺)
・寺伝によると、大同二年(807年)ないし承和二年(835年)、慈覚大師による開山・創建とされる名刹で、鎌倉時代にはすでに七堂伽藍を備えていたといいます。
・康正年間(1455-1456年)、当寺薬師堂の寅薬師を上杉房憲が深谷城の守護として祀った「一仏三社」の一仏、鬼門除けのお薬師様として信仰したことでも知られています。
・元和二年(1616年)徳川家康公逝去の後、家康公の遺骨を日光に奉遷する際に天海僧正が当寺で休憩、この縁から慶安二年(1649年)には寺領十石の御朱印状を受領しています。
・複数の現役霊場の札所で、御朱印は庫裡にて印判のものを授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.関東九十一薬師霊場第39番 薬師如来


2.武蔵国十三佛霊場第12番 大日如来


3.深谷七福神 大黒天



■ 楡山神社
公式Web 
深谷市原郷336
御祭神:伊邪那美命
旧社格:県社、延喜式内社
元別当:東学院(本山派修験)・大乗院(本山派修験)・熊野山 能泉寺 正徳院(天台宗)
授与所:楡山神社宮司様宅
・五代孝昭天皇御代の御鎮座と伝わる古社で、延喜式の「武蔵国幡羅郡四座」の一社「楡山神社」に比定されています。
・幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といわれ、幡羅大神とも称されました。
・旧原ノ郷村は平安時代中期の武将・幡羅太郎道宗が拠った地で、当社南西に史跡「幡羅太郎館趾」があります。
・康平年間(1058-1065年)、源義家公奥州征伐の際、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は当社にて戦勝を祈願したといい、後に行田の忍城主となった成田家代々の崇敬篤かったといいます。
・中世には熊野信仰が入り、熊野社、熊野三社大権現などと号したようですが、村民は一貫して楡山神社と称して崇めたといいます。
・社号の由来は一帯に楡の木が多かったことにより、境内の楡の古木は御神木と崇められ、県文化財(天然記念物)に指定されています。

・原郷内の神社を多く境内社としています。また、市内各社の本務社を務められ、複数の御朱印を授与されています。
・御朱印はすこし離れた宮司様宅で拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:楡山神社 直書(筆書)



■ (原之郷)愛宕神社
楡山神社ホームページ掲載の由緒
深谷市原郷2031
御祭神:火産霊神(ほむすびのみこと)
旧社格:旧原ノ郷村木ノ本の鎮守
元別当:寶珠院 大沼坊(深谷村)
授与所:楡山神社宮司様宅
・旧中山道に面して広大な社地を有していたという愛宕神社で、火防の神様として信仰を集めたといいます。
・境内社として三峯社が鎮座します。

・御朱印は、楡山神社宮司様宅にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:武州原之郷 愛宕神社 直書(筆書)



■ 熊野大神社 
深谷市東方1709-2
御祭神:伊邪那美命、速玉男命、事解男命
旧社格:郷社、旧東方村鎮守
元別当:熊野山 弥勒院(深谷市東方)
授与所:境内社務所
・延長五年(927年)、この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て、上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷したのが創建という社伝があり、延喜式神名帳の「白髪神社」(小社)に比定する説もみられます。
・天文年間(1532-1555年)、深谷上杉氏の宿老、皿沼城主岡谷加賀守清英が篤く崇敬し社領を寄進、天正年間(1573-1592年)には深谷上杉氏の家臣秋元景朝・長朝父子が社殿造営とも伝わります。
・江戸期には東方城主として入った松平丹波守康長が崇敬。東方村の鎮守として祀られ、明治42年に地内の五社を合祀、大正13年には郷社に列格しています。
・天正年間 (1573-1592年)の建立と伝えられる本殿は、三間社、入母屋造銅瓦葺の総欅造で、市の文化財(建造物)に指定されています。

・御朱印は、隣接の宮司様宅にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊野大神社 直書(筆書)



■ 東方山 全久院
深谷市東方2902-1
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:深谷七福神(寿老人/フジバカマの寺)、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第50番(旧 風張寺)
・江戸時代、当地の領主であった松平丹後守康長が祖先戸田弾正左衛門宗光追福のため、三河国牛窪の全久院の寺号を写して草創と伝わります。
・名刹にふさわしく、「紙本着色不動明王三尊像」(室町末期作)、「地蔵尊立像」(室町以前作)などは市の文化財に指定されています。

・深谷七福神の寿老人の札所で、御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.深谷七福神 寿老人
※深谷七福神のみの授与



■ 深谷市の御朱印-2へつづきます。



【 BGM 】
■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI 杏里


■ プラネテス - 黒石ひとみ(Hitomi)


■ Mirai 未来 - kalafina

1:58~ 「少し優しい未来を~」のハーフディミニッシュ&転調絡みの展開が凄い!
さすがに梶浦由記さん 
コード
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)

個人的には洋楽のピークだったと思っている1983年。
リンク切れをつなぎなおしてリニューアルUPです。

■ 関連記事
【 洋楽1983年ピーク説 】

-------------------------
2021/01/16 UP

ネタがいっぱいあるので、年毎に20曲リストしてみます。
1983年版です。

1979年版
1980年版
1981年版
1982年版
1983年版

※1980年代前半は英国のエレクトロ・ポップ系グループ(ユニット)、The Human League、Culture Club、Eurythmics、Duran Duran、Soft Cell、Spandau Ballet、O.M.D、A Flock Of Seagullsなどが米国のチャートを席捲し、「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)」と呼ばれた時期でしたが、これらのグループ(ユニット)については別にまとめたいと思いますので ↑ にはリストしていません。(ABCを除く。)

↓ こちらにまとめました。
■ 第2次British Invasion ~ 英国のElectro Pop/New Wave系15曲 ~


-------------------------
2020/11/29 UP
10曲じゃ寂しいので、10曲追加して20曲にしました。
今回の追加分(11~20)は、正真正銘のシングルトップ40入りの曲です。

-------------------------
2020/08/16 UP
断捨離の途中、超久しぶりに手にしてみました。
Billboard誌のチャートデータ集。
たしか日本語版はなく、オリジナルの英語版のみだったと思います。
1987年の初版で1955年からのデータです。(1955 through 1987 by Billboard Publications,Inc.)
SingleとAlbumバージョンがあって、どちらもTOP40です。



つねづね洋楽1983年ピーク説を勝手に唱えているので、このデータをもとに1982年~1983年のチャートイン曲を10曲集めてみました。
セレクト曲は筆者の好みのバイアス(ブラコン系が多い)が少なからずかかっていますが(笑)、この時期にチャートインしたことは間違いないので、時代の雰囲気は伝えているかと・・・。
日付はチャート最高位の獲得日です。

01.Say It Isn't So - Daryl Hall & John Oates
11/19/1983 / ALBUM『Rock 'n Soul Part 1』収録

淡々と流れるが妙にフックのあるブルー・アイド・ソウル(Blue-Eyed Soul)の佳曲。
4週に渡って全米2位をキープするが、Paul Mccartney And Michael Jacksonの「Say Say Say」に阻まれついに1位を獲れなかった。
当時の洋楽の勢いを語る1曲。

02.Spice Of Life - The Manhattan Transfer
11/05/1983 / 40位 2Weeks

ジャンルはジャズ・コーラスグループ。当時は日本でも幅広い人気を獲得していた。

03.Faithfully - Journey
4/30/1983 / ALBUM『Frontiers』収録

Journey全盛期の名バラードでALBUM『Frontiers』からの2ndシングル。
邦題は”時への誓い”。この頃の洋楽は邦題がふつうにつけられていた。
すこぶる綺麗な旋律で、Jonathan Cainのメロディメイカーぶりがいかんなく発揮されている。

04.In A Big Country - Big Country
10/08/1983 / ALBUM『The Crossing』収録

ケルト的なサウンドを持ち味とするスコットランドのロックバンドで、この時代の洋楽のバラエティを物語る1曲だと思う。

05.You're Number One (In My Book) - Gladys Knight & The Pips
6/18/1983 / ALBUM『Visions』収録

アトランタ出身のディーバGladys Knightをフロントに据えたソウルグループで、全盛期は1970年代だが1983にもBCM系の名盤『Visions』を残している。
これは『Visions』収録のミディアム・チューンで、さすがに長いキャリアを感じさせる余裕の歌いぶり。
Gladys Knightは、1982年の「That's What Friends Are For」(愛のハーモニー)でのElton John、Dionne Warwick、Stevie Wonderとの共演でも有名。

06.Billie Jean - Michael Jackson
1/29/1983 / 1位 17Weeks

Michael Jacksonの数ある名曲のなかでも屈指のできだと思う。
なにもかにもがキレっキレで、Michael Jacksonの希代の才能を物語っている。

07.Jeopardy - Greg Kihn Band
3/05/1983 / 2位 14Weeks

当時、やたらに売れていたイメージのあるロックバンド。
リズムパターンが↑の「Billie Jean」と似ていて、一部のディスコではBPM合わせてシンクロして流されたりしていた。
ドラムス&ベースリフだけの長~いイントロは、あきらかにディスコでの繋ぎを意識している。

08.If You're Still In Love With Me - Earl Klugh
6/11/1983 / ALBUM『Low Ride』収録

当時はFUSIONにも勢いがあって、ノンボーカルの曲がふつうにチャートに入ってきたりしていた。

09.All Night Long - Lionel Richie
10/01/1983 / 1位 17Weeks

個人的にはLionel Richieの声質(とくにバラードの)はあまり好きじゃないが、これは1983年の時代の雰囲気を語るには外せない曲なので入れてみました。

10.We've Got Tonight - Kenny Rogers & Sheena Easton
1/29/1983 / 6位 15Weeks

Kenny Rogers & Sheena Eastonのエモーショナルなバラードで、「愛・ひととき」の邦題がつけられ日本でもよくかかっていた。
オリジナルはBob Segerで、プロデュースはDavid Foster。なるほどゴージャスなサウンド構成になるワケだ。

11.We Two - Little River Band
5/28/1983 / 22位 6Weeks

1975年にオーストラリア・メルボルンで結成し米国でも数々のヒットを放ったポップ・ロックバンド。
これはオリジナルのリードボーカルGlenn ShorrockからJohn Farnhamに替わって放ったヒット曲。
邦題は「思い出フリーウェイ」とベタだけど、たしかにフリーウェイを走っているような爽快感はある。

12.Saint - Elton John
6/25/1983 / ALBUM『Too Low For Zero』収録

御大Elton Johnも1983年に名盤『Too Low for Zero』をものしている。
希代のメロディメイカーとして知られる人だが、このALBUMの楽曲群はとくに粒ぞろい。

13.Love For Love - The Whispers
5/07/1983 / ALBUM『Love For Love』収録

米国のソウル・コーラス・グループでもとくにBCM/AOR色の強いグループ。
とくに1983年リリースのALBUM『Love For Love』は、メロディの際立ったナンバーが詰まった名盤。
こういうミディアムで軽めな曲調は、この時代ならではのもの。

14.Too Tough - Angela Bofill
4/02/1983 / ALBUM『Too Tough』収録

ニューヨーク生まれのラテン系のアーティストで、1978年から'90年代前半にかけて質の高いALBUMを数枚残している。
器用な人で、UPもスローもそつなくこなし、これはUP系の代表曲。

15.Late At Night - George Benson
7/02/1983 / ALBUM『In Your Eyes』収録

ALBUM曲にも名曲がごろごろ。これは屈指の名盤『In Your Eyes』収録のVickie Randleとの甘~いデュエット曲。
Barry Mann&Cynthia Weilの共作とあっては悪かろうハズなしか・・・。

16.Straight From The Heart - Bryan Adams
4/16/1983 / 10位 11Weeks

カナダ・オンタリオ州出身のアーティストで、自ら作曲もおこない名曲多数。
これは1983年リリースの『Cuts Like A Knife』からのシングルカット曲で、Bryan Adamsの色気のあるボーカルがメロディアスな曲調に綺麗に乗っている。
おそらく次作の『Reckless』がベストで、これは捨て曲なしの超名盤。

17.Wet My Whistle - Midnight star
1/19/1983 / ALBUM『No Parking On The Dance Floor』収録

1983年リリースのレア・グルーヴ系マスターピース?『No Parking On The Dance Floor』収録のMid~UP曲。
この頃はまだこういうSelf-Contained Groupが健在で、UPからスローまで多くの佳曲を提供していたが、まもなく彼らの多くは瓦解することになる。

18.Time Will Reveal - DeBarge
11/26/1983 / 18位 11Weeks

1980年代前半にいくつかのヒットを放ったBCMの兄弟グループ。ハイトーン・ヴォーカルが好メロのうえでよく映えている。
バックのサウンドは典型的なAORで、当時はBCMとAORがシンクロしていたことがわかる。

19.You Can Count On Me - Shalamar
9/17/1983 / ALBUM『The Look』収録

グループとしてはやや下降局面に入ったとみられる『The Look』だが、こういうミディアムバラードを繰り出してくるとはやはり侮れず。
05.の「You're Number One」と似たリズムパターンで、ゆったりとしているがシャープに引き締まったニュアンスもあって個人的には好み。

20.Tonight I Celebrate My Love - Peabo Bryson & Roberta Flack
9/03/1983 / 16位 15Weeks

Gerry Goffin & Michael Masser作の好バラードで、「愛のセレブレイション」の邦題で日本でもよくかかっていた。
10.の「We've Got Tonight」もそうだが、この頃はこういう甘~いデュエット曲がコンスタントにチャートインしていた。

〔関連記事〕
■ 洋楽1983年ピーク説
■ 1983年洋楽ピーク説(名曲編)
■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ 1980年代中盤の夏ソング
■ 1980年代のサントラ(&CM)
■ 初夏のグルーヴ曲20曲
■ AOR系名曲を100曲!
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印【補強・追加版】

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印ですが、まだまだ書くべき人物が残っているので、継続して追加していきます。
■ 鎌倉殿の御家人

当初の記事の踏み込みが甘いので、補強も含めて追加していきます。

5.甘縄神明宮 〔源氏・安達盛長〕の補強版です。

5.甘縄神明宮 〔安達藤九郎盛長〕
神奈川県鎌倉市長谷1ー12ー1
主祭神:天照大神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:甘縄院(臨済宗)

鎌倉の御家人のなかでも別格だった存在に安達盛長がいます。
常に頼朝公に寄り添い、数ある政争のなかでも安定した存在感を示して、幕府重鎮の地位を保ったまま往生を遂げています。

頼朝公の逝去は正治元年(1199年)、盛長は翌正治二年(1200年)の没と、頼朝公のあとを追うように世を去っています。
頼朝公逝去後、出家して蓮西と号し十三人の合議制に名を連ねましたが、わずか1年で逝去したため出家後の事績はあまり残っていません。

『吾妻鏡』『源平盛衰記』などには”藤九郎盛長”という武士がしばしば登場しますが、この”藤九郎盛長”が安達盛長です。

”藤九郎”は藤原の九郎を示すとされますが、Wikipediaでは小野田三郎兼広(藤原北家魚名流)の子という説が紹介され、父は藤原忠兼あるいは小野田盛兼としている史料もあり、いずれ東国に移住した藤原氏(小野田氏)の流れとみられます。

兄は藤原遠兼(足立遠元の父)ともいわれ、そうなると安達盛長は足立遠元の叔父ということになります。
ただし史料からすると安達盛長よりも足立遠元の方が年長と推測されるので、この関係を疑う見方もあります。

なお、安達姓は文治五年(1189年)の奥州合戦後に新恩の地となった陸奥国安達荘(福島県二本松市)からという説が有力です。(それ以前は藤原姓、ないし小野田姓を名乗っていたのでは?)

盛長の室は、頼朝公の乳母・比企尼の娘の丹後内侍です。
丹後内侍は京で二条天皇に女房として仕え、和歌にも長じていたため京の公家衆と親交が深かったといいます。
盛長が伊豆配流の頼朝公にいちはやく仕えたのは、妻の母・比企尼の意向を受けたためともみられています。

盛長は伊豆の地で頼朝に仕え、挙兵までの雌伏の日々を支えました。
『曽我物語』には、頼朝公と北条政子の仲を取りもったのは盛長との記載もあります。

治承四年(1180年)夏の頼朝挙兵に従い、下総の千葉常胤を説得して味方につけました。
以降も一貫して頼朝公側近の地位を占め、『吾妻鏡』の公式行事の段には必ずといってよいほど”藤九郎盛長”の名が見られます。

*******
東京都三鷹市の井之頭弁財天は、「頼朝挙兵に際しては、その使者・安達盛長の夢枕に立って大願成就を予言したことから、『勝ち運の銭洗い弁天』として知られる。」(武蔵野市観光機構Web資料から)とされます。

孫引きになりますが、「近世都市周辺の宗教施設の由緒と『名所』化の動向(PDF)」(法政大学多摩論集編集委員会 2020-03)に引用されている『神田御上水源井之頭辨財略縁起』には下記のとおりあります。

「源頼朝公承安年中の頃、伊豆の国に配居し玉ふ時、平家追討の事を謀り玉ひて江戸・笠井・比企・河越の武士召さん迚安達藤九郎盛長使者なりし時、此所の小社に至り暫く休息し頻りに計畧をめくらし思慮未決せさる時、忽然として一人の美人立あらわれ盛長に告て曰、我汝か志願尤大なる事を知る、必本意を達すへし苦思することなかれ、斯謂我ハ源家厚く信仰し玉ふ開運天女の使なりと語り終りて忽に失玉ふ、盛長深く是を感し恐々とし奇異の思ひをなす、是より信心肝に銘し其跡を礼し誓願して謂らく我君速に平氏の一類を追罰し玉ハゝ、此所に一宇の宮殿を建立し奉るへしと一念し、程なく使者の趣を達し帰参の後此事を言上す、頼朝公深く是を感し信心祈誓し玉ひて後建久八年に至り終に宿願を遂玉ひて即此所に宮社を建立し神像を安置し奉れは(以下略)」

伊豆の頼朝公の意向を受け江戸・笠井(葛西)・比企・河越などの武蔵の有力氏族を味方に引き入れるため在所に向かう盛長が当地に休息したとき、御本尊の辨財天女が出現されて本意成就を告げられ、これを聞いた頼朝公は辨財天尊を信心祈誓、宿願成就ののちに宮社を建立し神像を安置したとの由。

頼朝公挙兵前から、盛長が武蔵の有力豪族の懐柔に動いていたことをうかがわせる内容です。
*******


【写真 上(左)】 井之頭辨財天
【写真 下(右)】 井之頭辨財天の御朱印


盛長の邸宅は鎌倉の甘縄(現・甘縄神明神社付近)ないし扇ガ谷の無量寺谷付近とみられます。
当時の「甘縄」は無量寺谷までも含んでいたとされるので、無量寺谷説が有力かも。
(無量寺谷(むりょうじがやつ、現・鎌倉歴史文化交流館周辺)には安達氏の菩提寺とみられる無量寿院や安達氏邸があったと考えられ、発掘調査では鎌倉時代後期の遺跡が見つかり研究が進められています。)

しかし盛長の当初の本拠地については定説がみられません。

埼玉県鴻巣市糠田の糠田山 放光寺にはかつて安達盛長の館だったという伝承があり、南北朝時代制作とされる伝・安達盛長座像を所蔵しています。
鴻巣市糠田は足立氏の本拠に近く、盛長は足立遠元の叔父としてこの地に拠っていたということも考えられます。

放光寺の山内説明板には以下のとおりあります。
「放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされ、本堂にはこの盛長の坐像が安置されている。(略)安達藤九郎盛長は、治承四年(1180年)源頼朝の挙兵に応じて相模の地で功を挙げ、同国を安堵された。その後、盛長の所領は相模、下総、武蔵にまで及んだ。さらに建久五年(1194年)には頼朝の信任をうけて鶴岡八幡宮の奉公人となった。正治元年(1199年)1月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに重要訴訟の調査・裁決などに係わるなど幕府の要職にあり、三河の守護に就いた。正治二年(1200年)に66歳で没した。」


【写真 上(左)】 放光寺
【写真 下(右)】 放光寺蔵の伝・安達盛長座像(山内説明板より)

放光寺の御朱印は通常不授与ですが、TVドラマ放送を記念し、2022年5月28日(土)14:00~16:00の2時間限定で開催された「安達藤九郎盛長坐像(埼玉県指定有形文化財)」の御開帳イベントでは御住職直筆の御朱印を複写したポストカードが限定配布された模様です。

御朱印イメージは → こちら
御朱印尊格は大日如来。
主印は金剛界大日如来の種子「バン」(蓮華座+火焔宝珠)のようです。


華々しい逸話は少ないですが、雌伏の頼朝公をはやくから支えて千葉常胤を説得して味方につけ、あまたの合戦でも順調に戦歴を重ねていることから、並みの技倆ではなかったと思われます。
梶原景時の変ではとりまとめ役を果たしたという説があり、頼朝公逝去後、十三人の合議制に名を連ねていることからも相応の実力と人望を有していたのでは。

盛長の嫡男・景盛は宝治元年(1247年)の宝治合戦(北条時頼と三浦氏の抗争)で重要な役割を果たして北条氏の勝利・覇権確立に貢献。
幕閣での地位を高め、景盛は3代将軍実朝公と政子の信頼も厚かったといいます。

景盛の嫡男・義景(秋田城介)、その嫡男・泰盛は、北条氏と姻戚関係を強めたこともあり幕政の中枢を占めましたが、「新御式目」など幕政改革をめぐる御家人の内紛をきっかけに弘安八年(1285年)秋に勃発した「霜月騒動」の旗頭となって敗北し、安達一族はここに失脚しました。

泰盛党として蹶起したのは足利氏、小笠原氏、伊東氏、武藤氏(少弐氏)、宇都宮氏、吉良氏、足立氏などの有力御家人層で、この敗戦によりいずれも幕閣での政治力を失い北条得宗を中心とする専制が強まりました。

安達氏および関連氏族とされる大曾根氏は、江戸時代まで活動の記録がみられますが、最盛期は泰盛の代とされています。


上記のとおり、安達盛長の当初の本拠ははっきりせず、ゆかりの寺社も多くはみられません。
安達盛長の館と伝わる鴻巣・放光寺は御朱印不授与なので、ここでは邸宅跡と伝わる甘縄神明宮をご紹介します。

『新編鎌倉志』の藤九郎盛長屋敷に「甘縄明神の前、東の方を云。【東鏡】に、治承四年(1180年)十二月廿日、武衛御行始めとして、藤九郎盛長が甘縄の家に入御し給ふとあり。其後往々見へたり。」とあります。
頼朝公以来、将軍の来臨もしばしばあったといいます。

この邸址に御鎮座と伝わる甘縄神明宮は和銅三年(710年)行基の草創、染谷太郎太夫時忠の創建と伝わり、鎌倉最古のお社ともいわれます。
染屋時忠は山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立したといいます。

永保元年(1081年)源義家公が社殿を再建、以降も源頼朝公、政子の方、源実朝公などの崇敬が篤かったとされます。
源頼義公が相模守として下向の折に当宮に祈願して八幡太郎義家公が生まれたとも伝えられ、源家とつよいゆかりをもちます。

------------------------

【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 参道-1

江ノ電「長谷」駅から長谷寺、鎌倉大仏へ向かう道は観光客で賑わいますが、長谷寺山門前から鎌倉駅方向へ向かう長谷小路は生活道路で、観光客の姿は少なくなります。

甘縄神明宮はこの長谷小路から参道が伸びていることもあって、人影のすくない落ち着いた神社です。

長谷小路沿いに木柱の社号標があるものの、目立たず見過ごしがちです。
それでも路地正面には石造の神明鳥居が見えています。

ここはちょうど由比ヶ浜の海岸からつづく平地が山手に差しかかるところで、鳥居おくに4つの階段を連ねています。


【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 邸址碑

踊り場に建つ「安達盛長邸址」碑には「盛長ハ藤九郎ト称ス 初メ頼朝ノ蛭ヶ島ニ在ルヤ 克ク力ヲ勠セテ其ノ謀ヲ資ク 石橋山ノ一戦源家ガ卜運ノ骰(さい)子ハ全く黯黮タル前途ヲ示シヌ 盛長頼朝ニ尾シ扁舟濤ヲ凌イデ安房ニ逃レ 此処ニ散兵ヲ萃(あつ)メテ挽回ヲ策ス 白旗鎌倉ニ還リ天下ヲ風靡スルニ及ビ 其ノ舊勲ニ拠ツテ頗ル重用セラル子彌九郎盛景 孫秋田城介義景邸ヲ襲グ 頼朝以来将軍ノ来臨屡々アリ 此ノ地即チ 其ノ邸址ナリ」とありました。

石灯籠二対のおくは急な階段となり、のぼりきると正面が銅板葺神明造(ないしは入母屋造流れ向拝)の拝殿です。
周囲はうっそうとした社叢におおわれ神さびて、長谷小路から少し入っただけなのにあたりの空気はまったく異質なものです。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

拝殿前に立派な二対の狛犬。
拝殿向拝の水引虹梁の装飾はシンプルですが、すこぶる均整がとれて風格があります。
向拝正面は板戸で閉扉。その上に「甘縄神明宮」の扁額。


【写真 上(左)】 五社神社
【写真 下(右)】 秋葉神社

境内社として五社神社と秋葉神社が御鎮座です。

境内掲示の略誌には、
御祭神 天照大神
伊邪那岐尊(白山)
倉稲魂命(稲荷)
武甕槌命(春日)
菅原道真公(天神)
とあるので、伊邪那岐尊以下の神々は五社神社祭祀かもしれません。

境内には北条時宗産湯の井があるようですが、超うかつにも写真を撮りわすれました。
北条時宗は鎌倉幕府第8代執権で、室の堀内殿は安達義景の息女。
北条時宗は安達景盛の息女・松下禅尼の邸で産まれ、それがこのあたりといいます。
松下禅尼の子、経時は第4第執権、時頼は第5第執権なので、この時代、安達氏は北条執権の外戚として絶大な権力を握っていたものと思われます。

なお、『徒然草』184段に松下禅尼が障子の切り貼りを手づからしてみせ、時頼に倹約の心を伝えたという逸話がみえ、国語教科書にも取り上げられていたそう。
鎌倉武士の質実剛健の心構えは、安達氏から北条執権家累代にもしっかり伝わっていたようです。

拝殿前には「当宮では御朱印は行っておりません」の掲示がありますが、大町八雲神社にて拝受できました。


甘縄神明宮の御朱印


41.(飯田)足立神社 〔足立右馬允遠元〕
埼玉県さいたま市西区飯田54
御祭神:天神七代尊、地神五代神、日本武尊、市杵島姫命、多岐都比売命、猿田彦命、大国主神、天手力男神、菊理姫命、倉稲御魂命、応神天皇、菅原道真公
旧社格:村社、延喜式内社論社(足立郡足立神社)
元別当:

武蔵国の御家人を代表する一人に足立右馬允遠元がいます。
足立氏は武蔵国足立郡に拠った豪族で、遠元の父・藤原遠兼が当地に土着し遠元の代から足立姓を名乗ったといいます。

『尊卑分脈』では藤原北家魚名流・藤原山蔭の後裔で、安達盛長は遠兼の弟としています。
そうなると安達盛長は足立遠元の叔父になりますが、史料からすると安達盛長よりも足立遠元の方が年長と推測されるので、この関係を疑う見方もあります。

『足立系図』(東大史料編纂所データベース)では、遠元は藤原北家勧修寺流・藤原朝忠の後裔となっています。
Wikipediaによると、武蔵国造家の流れで承平天慶の乱の時代の足立郡司・武蔵武芝の子孫とする説もあるようで、盛長以前の足立氏の系譜は錯綜しています。

諸説いずれも藤原氏ないし天孫系で、足立氏は自らの出自に矜持をもっていたと思われます。

多くの事績を遺しながら、足立遠元の生没年は伝わっておりません。
ゆかりの地の少なさも、鎌倉幕閣重鎮としては異例なほどです。
そのなかでも、桶川市はWebでよくまとまった資料を公開していますので、この資料やその他史料をベースにまとめてみたいと思います。

遠元は平治元年(1160年)の平治の乱で源義朝公に従って右馬允に任ぜられ、源義平率いる17騎の一人として活躍しました。

治承四年(1180年)夏の頼朝公旗揚げでは、頼朝公が下総から武蔵に入った10月2日に豊島清元・葛西清重父子らとともにいち早く参上し、武蔵国足立郡を本領安堵されています。
これは、頼朝公が東国武士に本領所有権を譲渡した最初の事例とみられています。

建久元年(1190年)、頼朝公上洛の際に右近衛大将拝賀の布衣侍7人(三浦義澄、千葉胤正、工藤祐経、後藤基清、葛西清重、八田知重、足立遠元)のうちに任ぜられ供奉。
鎌倉御家人の頂点のポジションを占めています。

頼朝公逝去後には十三人の合議制に名を連ね、晩年も相当の実力と人望を保っていたことがわかります。

母は秩父氏系の豊島康家の息女で、足立郡司職は豊島氏から承継との見方があります。
娘は畠山重忠、北条時房に嫁いで、有力御家人と縁戚関係を築いていました。
なお、畠山重忠に嫁いだ菊の前は、元久二年(1205年)、重忠が北条時政の謀略により討たれたときに自害と伝わります。

別の娘は後白河法皇の近臣の藤原光能に嫁ぎ、京との繋がりも深めています。
光能は永万元年(1165年)下野守に任ぜられているので、そのときに面識をもったのかもしれません。
この時点で院の近臣と縁戚関係をもった東国武士は少ないとされ、これも遠元のオリジナルな強みとなった可能性があります。

後世、どちらかというと文官的な捉え方をされる人物ですが、その武勇は『平治物語』の一幕からひしひしと感じられるので、長くなりますが抜粋引用してみます。

『平治物語/六波羅合戦事』
「金子ノ十郎家忠は(略)真先懸けて戦ひけり。矢種も皆射尽し、弓も引き折り、太刀をも折りければ、折太刀を提げて、あはれ太刀がな、今一合戦せんと思ひて駈け廻る処に、同国の住人足立右馬允遠元馳せ来れば、是れ御覧候へ、足立殿、太刀折れて候。御帯添(戦場で腰につける予備の太刀)候はば、御恩に蒙り候はんと申しければ、折節帯添なかりしかども、御邊が乞ふが優しきにとて、先を打たせたる郎等の太刀を取りて、金子にぞ与へける。家忠大ニ悦びて、又駈け入りて、敵数多討ちてけり。足立が郎党申しけるは(略)是程に見限られ奉りては、(略)既に腹を切らんと、上帯を押し切りければ、遠元馬より飛んで下り、汝が恨むる所尤も理なり。然れども、金子が所望黙止がたさに、御邊が太刀を取りつるなり。軍をするのも主のため、討死する傍輩に乞はれて、与えぬ者や侍らん。(略)」暫く待てといふ所に、敵三騎来りて、足立を討たんと駈け寄せたり。遠元、真前に進みたる武者を、能つ引いてひやうと射る。其の矢誤たず、内兜に立ちて、馬より真倒に落ちければ、残りの二騎は馬を惜んて駈けざりけり。遠元軈て走り寄りて、帯きたる太刀を引き切っておつ取り、汝が恨むる所尤なり。太刀とらするぞとて、郎党に与へ、打ち連れてこそ又駈けけれ。」

要約すると、武勇の士・金子家忠が激闘で太刀を失ったので、同輩の遠元に予備の太刀を貸してほしいと頼んだところ、予備の太刀のない遠元は郎党の太刀を取りあげてこれを家忠に与えました。
主君に太刀を取られた郎党は面目を失い切腹しようとするも、遠元はこれを押しとどめ、太刀を失った同輩(家忠)を見殺しにするわけにはいかぬ、しばし待てと諭しました。
そこへ討ち懸かった敵騎を遠元はすぐさま強弓一矢で射落とすやその太刀を取り上げ、郎党に「お前が恨みに思うのももっともだ。それ、太刀をとらすぞ」と、敵から取り上げた太刀を郎党に与え、気迫を取り戻した郎党とともに戦陣に駈け戻ったということです。

平治の乱の六波羅合戦といえば、名だたる武将がしのぎをけずった激戦です。
そのなかでこの逸話がとりあげられた足立遠元の戦ぶりは、戦場でも際立っていたのでは。
じっさい、平重盛との「待賢門の戦い」でも源氏17騎の一人として活躍しています。

これほどの武勇をもちながら公文所寄人に抜擢されるなど、文武両面に秀でた遠元は、しばしば京からの来賓の接待役に任ぜられています。

元暦元年(1184年)秋、公文所が設置されると5人の寄人(中原親能、二階堂行政、藤原邦通、大中臣秋家、足立遠元)の一人に選ばれています。

奥州合戦の勲功として頼朝公に御家人10人の推挙が与えられた際は、その一人に入り左衛門尉に任ぜられています。
とくに10人の推挙者は鎌倉御家人を代表する顔ぶれ(千葉常秀(父常胤→)、梶原景茂(父景時→)、八田知重(父知家→)、三浦義村(父義澄→)、葛西清重、和田義盛、佐原義連、小山朝政、比企能員、足立遠元)で、遠元は御家人屈指のポジションを占めていました。

奥州合戦勲功推挙の10人(武人の代表)と公文所寄人(文官の代表)、いずれにも名を連ねたのは足立遠元ただひとりで、ここからも文武両面から貢献する遠元の存在感がみてとれます。

遠元の記録は承元元年(1207年)3月で途絶えており、ほどなく世を去ったとみられています。
弘安八年(1285年)の霜月騒動で遠元の嫡曽孫・足立左衛門尉直元が安達泰盛側につき自害しているので、足立氏は霜月騒動までは安達氏と連携して勢力を保っていたのでは。

なお、この霜月騒動までには、足立氏の足立郡司職は北条氏に移ったとみられています。

霜月騒動で失脚した足立氏ですが、承久三年(1209年)、遠元の孫・遠政は丹波国氷上郡佐治庄の地頭職となり、佐治庄小倉に移っていました。
同地の山垣城(現・兵庫県丹波市青垣町)に拠った遠政は大いに勢力を張り、丹波の名門足立氏の祖となりました。

丹波足立氏は天正七年(1579年)5月に織田信長の丹波攻めを受け、山垣城は羽柴秀長と明智光秀の軍勢に攻められてついに落城。
丹波足立氏は戦国大名としては没落しましたが、いまも丹波の名族として知られています。
なので、足立氏ゆかりの史跡は関東よりも丹波に多く残ります。

遠元の本拠地は明らかになっていませんが、桶川市資料によると、遠元の館跡と伝わる場所は4か所あるそうです。

1.さいたま市西区内
2.桶川市川田谷の三ツ木城跡、
3.桶川市神明1丁目の諏訪雷電神社東側付近
4.末広2丁目の総合福祉センター付近
ただし、いずれの地も決定的な史料は見つかっていないそうです。
4は「一本杉」と呼ばれ、「新編武蔵風土記稿」の桶川宿の項に遠元館と伝わる地として記載されています。

ここでは、境内由緒書に「豪族足立氏が奉斎する氏神」と明記されている、さいたま市西区飯田の足立神社をご紹介します。

新編武蔵風土記稿には下記のとおりあります。
植田谷本村 足立神社
「名主勘太夫カ屋舗ノ内ニアリ(略)相傳ヘテ 延喜式神名帳ニ載スル足立神社ハ 即當社ナリト云 此説モシ然ランニハ 當國風土記ニ 神田六十束 四圍田 大日本根子彦太日天皇御宇二年戊子所祭猿田彦命也 有神戸巫戸等ト記スモノニシテ最古社ナリ(略)或ハ云シカハアラス當所ハ藤九郎盛長ノ領地ニシテ 在住セシヨシナレハ 盛長没後其靈ヲ祀リユヘ 足立ノ社ト號セシヲ 稱呼ノ同シケレハ誤リ傳ヘテ 神名帳ノ足立神社ト定メシモノナラント 是コト牽強ノ説トイウヘシ 盛長カ當郡ニ住セサルコトハ前ニ辨セルカ如シ モシクハ足立右馬允ヲ誤リ傳ヘシニヤ サレトソレモ慥カラル據ナキ時ハウケカヒカタシ」

「前ニ辨セル」とはおそらく植田谷本村の項で、以下のとおりあります。
「領主ハ詳ナラサレント 右大将頼朝ノ頃ハ藤九郎盛長此邊ヲ一圓領セシ由イヒ傳フレトオホツカナシ コレ恐ラクハ足立右馬允遠元ヲ誤リ傳ヘシナラン 此人當郡ヲ領セシコト且盛長ハ安達氏ニシテ足立氏ナラサルコト等ハ(略)」

まとめると、植田谷本村付近は鎌倉初期に藤九郎(安達)盛長の領地という言い伝えがあるが、これは誤りで、足立右馬允遠元の領地であるとしています。
そして、当初の領主は足立氏であり、安達氏ではないと念を入れています。

また、「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)には下記のとおりあります。
「『延喜式』神名帳には、武蔵国足立郡内の神社として、氷川神社・足立神社・調神社・多気比売神社の四社の名が記されている。これらの諸社のうち、足立神社は、古代における殖田郷に鎮座し、この殖田郷を本拠地とした在地の豪族足立氏が奉斎した神社であったものと思われる。」

さらに境内掲示の説明書には以下のとおりあります。
「足立神社は、平安時代にその名が見える古い神社です。植水地区を中心とした殖田郷に本拠をおいた平安時代の豪族足立氏が奉斎する氏神でしたが、崇敬者も増え朝廷の『延喜式神名帳』に登載されるほどになりました。この神名帳にみえる足立神社だとする社が、浦和市・鴻巣市・市内宮原町にもありますが、『新編武蔵風土記稿』では足立氏の子孫と伝える植田谷本村の名主小島勘太夫家屋敷内にあった足立神社をそれと記しています。
この足立神社は明治40年に植田谷地内の12社を合祀して、氷川神社の社号を足立神社と改称したものです。」

------------------------

【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標

(飯田)足立神社は、所沢と大宮を結ぶ県道56号さいたまふじみ野所沢線沿いに御鎮座です。
荒川と鴨川に挟まれた低湿の地ですが、水利はよさそうです。

県道に面して社号の幟旗がはためいていましたが、これは正月だったからかもしれません。
県道に面して玉垣、右手に「総社 足立神社」の社号標とその先に石造の神明鳥居。
鳥居前には「足立遠元公」の幟がはためいています。


【写真 上(左)】 参道と鳥居
【写真 下(右)】 参道

そこからまっすぐ拝殿に向かって参道が伸び、二の鳥居は朱塗りの明神鳥居です。
全体に社叢がすくなく、明るく開けた雰囲気の境内。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 扁額

拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁はシンプル。
向拝上には社号扁額が掲げられています。
本殿はおそらく大がかりな一間社流造銅板葺で、身舎の朱塗りが鮮やか。


【写真 上(左)】 拝殿と本殿
【写真 下(右)】 御嶽神社

境内には立派な御嶽神社も御鎮座です。

参道向かって右手に社務所。
こちらは原則、正月や祭礼時のみの御朱印授与のようですが、正月に参拝したので社務所は開き、御朱印も直書で授与されていました。


【写真 上(左)】 御朱印案内
【写真 下(右)】 御朱印

足立遠元ゆかりで御朱印を授与されている寺社はこちらしか確認できておらず、しかも限定授与なので遅くなりましたが、ようやく記事にまとめることができました。


【 BGM 】
■ I.G.Y. - Donald Fagen


■ Oh Yeah! - Roxy Music


■ Our Love - Michael McDonald


■ Isn't It Time - Boz Scaggs


■ Both Sides Now - Marc Jordan
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 「シティ・ポップ」って?

どのテイクとはいわないけど・・・。
シティ・ポップの名曲のアレンジは練りに練られているし、インスト陣のレベルもハンパないし、
しかもはっきりしたサビメロのないメジャー・セブンス曲がメインだから、よほどの技倆 or オリジナリティがないとすぐさまお経になる・・・。

とくに、シティ・ポップ特有の弾むようなリズム&グルーヴは1980年代のBCMやAORでもそうは聴けないものだから、4つ打ち全盛のいま、再現するのは相当きつい。

安易にカバーすると返り血浴びると思うよ(笑)

なによりオリジナルテイクのイメージが強烈だから、上位互換はまずムリだと思う。
いじるな危険!(笑)

■ 松任谷由実 - Hello,my friend (1994年)

↑ サウンドの質感はもはやシティ・ポップのものじゃないけど、往年のユーミンを彷彿とさせる曲想。
ユーミンのヴォーカルあってこその難曲。

■ -TATSURO YAMASHITA-山下達郎 'SPARKLE' (1982年) Tribute Cover 2022

↑ これはかなりよくできたカバーだと思う。
やっぱり神曲はオリジナルのアレンジから離れられない。
それだけのものが原曲にこもってる。

-----------------------
2023/01/08
紅白で反響が大きかったという・・・・ ↓

【milet×Aimer×幾田りら×Vaundy】「おもかげ」| 第73回NHK紅白歌合戦 音源Ver.


ポイントはカッティングギター、ベースライン、そしてコーラスだと思う。
ポップミュージックが失ってしまった”グルーヴ感”を、人々がふたたび求めはじめてるのかもしれぬ。

↓ 40年前の角松敏生。ヴォーカルとインストのバランスが絶妙。
■ SUMMER EMOTIONS - 角松敏生 (1983年)


↓ 異論はあると思うが、シティ・ポップのマスターピースのひとつだと思う。
■ 【EY TV】矢沢永吉「YES MY LOVE」Music Video (1982年)



↓ 現在、もっとも巧みにグルーヴ感を生み出せるユニット-その1
FictionJunction (FBM
■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」


↓ 現在、もっとも巧みにグルーヴ感を生み出せるユニット-その2
Bank Band
■「to U -PROTECT “to U” version- 」 Bank Band with Salyu


↓ インストとのアンサンブルや、”音の隙間”を大切にする若手アーティストが増えてきている感じもする。
■ 三阪咲 - Rollercoaster (Acoustic Live Performance)



****************
2022/12/29 UP

昨日放送のBSフジ『シティポップカレンダー'81』、録画したやつを視てみました。
民放にしてはかなりよくできた構成だったと思う。(コメンターによっては2、3意味不明の発言もあったけど。)

とくに当時、シティ・ポップを創り上げた当事者のコメントが深すぎた。

以前、シティ・ポップの構成要件として ↓ を挙げたけど、これを裏付けるコメントが多かった。
とくに、松任谷正隆氏の「メジャー・セブンス=シティ・ポップ」発言には正直おどろいた。

それと、大滝詠一『A LONG VACATION』のモチーフがJ.D. Southerにあったとは、これもびっくり。
■ 大滝詠一 - カナリア諸島にて(1981年)


■ J.D. Souther - You're Only Lonely (Official Audio)
10/20/1979 / 7位 13Weeks


レコーディングに関するファクターがひとつあったと思うので8.として追加します。

1.リズムセクションが生楽器で、アップビート(裏拍)、ヨコノリであること。
2.音にすきまがあって、16分のハイハットがシャープに響いていること。
3.グルーヴ感があること。リズムに「キメ」やシンコペーションが絡んでいること。
4.メジャー・セブンス(四和音)系のコード進行で、ドミナントを多用すること。
5.ボーカルとインスト(楽器)のアンサンブルバランスがいいこと。とくにカッティングやリフのサポートがあること。
6.多声部は基本的にコーラス(ハモリ)であること。
7.AORやBCMに通じるこ洒落た質感があること。
8.マルチトラック・レコーダーでバウンス(ピンポン録音)され、腕利きのエンジニアが手掛けていること。

その背景となったのが、↓ のファクターだと思う。
A.聴き手に洋楽を聴く”素養”があったこと。だからセブンスや”抽象な歌詞”も受け入れやすかったこと。
B.エッセンスをベースにし、これに日本人ならではのこだわりの職人芸を加えていること。
C.上質なアンサンブルを展開できる、腕利きのミュージシャンが日本にも数多くいたこと。
D.セッションが頻繁に行われ、そのなかから新しいフレーズやコード進行などが生まれていたこと。
E.プロのライターやアレンジャーがメインストリームで活躍していたこと。
F.媒体が情報量の多いアナログレコードで、しかもLP購買がメインだったのでアルバム曲がふつうに聴かれていたこと。
G.経済がほぼ右肩上がりで「生活の質を高めよう」という意識が高かったこと。なので曲調がブライトで気分を高揚させるものだった。
H.ウォークマンやカーオーディオで音楽を外で聴く機会が多かったので、「心に刺さる歌詞」よりもBGMとしての適性が求められていた。
I.MTVなどビジュアル媒体がほとんどなく、サウンドだけで勝負する必要があったので、”音”に集中できる環境にあった。

だから、シティ・ポップの成立にはおそらくこのような時代背景が必要だし、腕利きのミュージシャンやプロ(本来の意味での)のクリエイターがいないと成立しない。

とくに1981年といえば、洋楽がその洗練度を高めており、→ ■ 1981年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)、しかもその多くがグルーヴ感を備えていた。
洋楽が邦楽に与えていた影響は計り知れず、なおかつ日本独自の解釈が生まれメジャー化するタイミングだったと思う。

だがら当時は洋楽と邦楽(シティ・ポップ)の質感はほぼ同質で、同じカセットに入れて聴いたりしていた。
例→ ■ 1984年のテープリスト

※ 以前の記事ですが、すぐ聴けるように再掲します。↓

****************
おそらく1984年くらいにつくったテープだと思います。
この時代、洋楽と邦楽をシャッフルしてもまったく違和感がなかったことがわかる。
リズムが16ビート、シンコペがらみのアップビートのグルーヴで通底していたからかもしれぬ。

01.C調言葉に御用心 - Southern All Stars  〔from『Tiny Bubbles』/1980〕


02.Just One Kiss - Rick Springfield  〔from『Success Hasn't Spoiled Me Yet』/1982〕


03.Sunset Memory - Kazu Matsui Project Feat. Robben Ford  〔from『Standing On The Outside』/1983〕


04.Plastic Love - 竹内まりや 〔from『VARIETY』/1984〕


05.Let's Celebrate - Skyy  〔from『Skyy Line』/1981〕


06.Seeing You (For The First Time) - Jimmy Messina 〔from『Oasis』/1979〕


07.He's Returning - White Heart 〔from『White Heart』/1982〕


08.Last Summer Whisper - 杏里・Anri 〔from『Heaven Beach』/1982〕


09.Tribeca - Kenny G 〔from『G Force』/1983〕


10.The Goodbye Look - Donald Fagen 〔from『The Nightfly』/1982〕


11.The Last Resort - Eagles 〔from『Hotel California』/1976〕

↑ なぜかラストにこの曲が入っていた。

And they called it paradise, I don't know why.
みんなその場所を楽園と呼ぶけど、僕には何故だか分からない・・・
****************


::::::::::::::::::::::::
アンサンブル、洗練度、グルーヴ感は、いまのほとんどの洋楽が失ってしまったものだから、これをマニアックに追求した1980年代の日本のシティ・ポップが全世界から再評価されているのではないか。


******
個人的に、シティ・ポップの源流のひとつと思っている「サーフ・ロック」。
当時(1970年代中盤~)はいまから考えられないほど日本でも人気があって、ニューミュージックとサーフ・ロックを一緒に聴いていた輩がたくさんいた。

■ Ned Doheny - A Love Of Your Own (1976年)


■ Kalapana - Dilemma (1977年)



-----------------------
2022/11/16 UP

さきほど「マツコの知らない世界」でDJ Night Tempo氏招いて”80's Japanese POPSの世界”を特集してた。
やっぱりマツコさん音楽の造詣ふかいわ。

正鵠射まくりのコメントがいくつかあったので、テープおこし的にいくつか紹介してみます。

【マツコ氏】
「('80年代の曲って)歌詞とかもさ~、何て言ったらいいのかな、なんか壮大なんだよね。夢や希望が詰まっている人が聴くからさ、なんか異国がいっぱい出てくるのよ 不必要な(笑) 明菜ちゃんなんてすぐに中東行っちゃうのよ。砂漠の歌歌うのよ(笑)」
↑ たしかに・・・、聖子ちゃんもすぐに南の島に行っちゃうし(笑)
■ 松田聖子 - セイシェルの夕陽


■ スペクトラム(SPECTRUM) - なんとなくスペクタクル

そうそういたなぁ、スペクトラム。ほんとに何十年ぶりかで聴いた!

スペクトラム聴いて【マツコ氏】
「いまのっていわゆる向こうのChicだったりとかE.W&Fとか、あっちのリスペクト・ヴァージじゃない。(中略)音楽に対してめちゃくちゃ日本人って貪欲だったと思うんだよね、あの頃・・・。もう世界中のありとあらゆる音楽を知りたくて、それをすぐに吸収してああやって学びたくて、なんであんなに貪るように音楽を聴いていたんだろう。」
↑ ほんとに、誰もかれもが音楽マニアだった気がする。
音楽はたいていLP(アルバム)聴きで、シングルカットされないアルバム曲でもさりげに人気があったりした。

■ Chic - Good Times(1979)



【途中で出てきた外国のシティ・ポップファン】のコメント
「僕がすごいと思うのは、この時代の日本の音楽のレベルの高さ。ミュージシャンの演奏も素晴らしいし、曲のアレンジ、ストリングスすべてが贅沢でお金がかかっている。でも日本の80年代の音楽は日本の中だけに閉じ込められていたから、まだまだ知らない素晴らしい曲がたくさんあってまるで宝探し。」
↑ そうなのかな???
当時の音楽好きはたいてい洋楽メインに聴いていたし、日本のトップアーティストだってみんなLAレコーディングとかしてた訳で・・・。
日本のポップス買いかぶり過ぎの感なきにしもあらず。
それをいうなら、70年代後半~80年代初頭の米国のBCM系マイナーレーベルなんて、それこそお宝だらけかと・・・。

【マツコ氏】
「いまの(日本の)音楽をあまり聴かない理由のひとつは、イントロも間奏もないじゃん。(中略)だから変化は頑張ってつけているけど、ギターソロとか入ってないと大して変わらないじゃん。その、一曲通しての物語としては・・・。なんか物足りない。」
↑ いまの曲はボーカルがベタに張り付いて、アンサンブルが弱いといったことかと思う。


【Tempo氏】
「トイレ行ってスッキリしてない気分ですかね・・・。」

【マツコ氏】
(絶句しつつ)「じゃあ、そういうことにしておこう、いいよ(苦笑)」

【マツコ氏】
「あぁ、でもこれ言いすぎるとまた、『オワコンオカマがノスタルジー語ってる』とか言われるからやめよ(笑)」
↑ オワコンサンプリングして悦に入る、しかも世界的に受けてるって、いったいどゆこと?(笑)

【マツコ氏】
「当時の特徴としてね、不倫の曲がめちゃくちゃ多いのよ、日本って。相当不倫願望の強い国だったんんだと思う。なんかああいうのって、余裕がないと出てこないんだろうっていうのは、いまの歌とかみてると・・・、まぁでも世界的にそうなのかな? なんか歌詞とか現実的な歌詞が多くなったよね。前はめちゃくちゃな歌あったじゃない、いっぱい、日本の歌・・・。」
↑ これとか・・・ ↓
■ 恋におちて -Fall in love- 小林明子(カバー)


【マツコ氏】
「(当時の)日本の歌詞ってすごい独特だったと思うのよ、その、感情表現が・・・。”I Love You”だけじゃないじゃない。いま日本の歌って、けっこうめちゃくちゃシンプルな歌詞をみんなつかってるけど・・・。」
「ほんと、むかしの曲って1回聴いただけではちょっと理解できないというか、という歌詞が多かった気がする。」


■ 涙のアベニュー - 桑田佳祐

暗喩絡みの歌詞がおサレすぎる。


菊池桃子氏登場。RA MUの原曲聴いて。
■ ラ・ムー(RA MU)/ 菊池桃子 - 少年は天使を殺す(1988年6月15日)

ラ・ムー(RA MU)は、アイドル(菊池桃子)とブラコンとフュージョンが合体したユニット。

【マツコ氏】
「お洒落だね~。Tempoちゃんのやつもそうだけど(意味深な笑い)、原曲もいま聴き返すと凄いわ。やっぱあの頃って。(菊池桃子は)すごいアイドルだったのに、それに挑戦させる。いまだったらこわいというか、想像すらしないと思うのよ。あれができちゃうって、相当、芸能界も含めて、日本っていろんなチャレンジをする国だったんだなっていうのが・・・。」

【桃子氏】
「なにか、遊びごころが減ってきたのか、リスクをとらなくなってきたのか???・・・。」

【マツコ氏】
「RA MUは遊びすぎですけどね(笑)」

一度でいいから、マツコさんとマキタスポーツ氏の音楽対談きいてみたい。


-----------------------
2022/08/19 UP

さきほど「ひるおび」でDJ Night Tempo氏絡みでシティ・ポップ人気とりあげてた。

恵俊彰さんの「シティ・ポップ自体にAORのエッセンスが入ってるんですね。」
2022年のニュース番組で、↑ こんなコメント聞けるとは、よもや思わなかった(笑)

※ シティ・ホップスのキモはアップビート系グルーヴ(ヨコノリ)なのに、
どうして4つ打ちタテノリにしてしまうのか、個人的には意味不明。
でもまぁ、世界に原曲紹介してくれて、原曲の魅力に気づいてもらえるので、これはこれでいいのかも(笑)

↓ ヨコノリ!
■ Never Too Much - Luther Vandross

だれも飛び跳ねてないでしょ(笑)

-----------------------
2021/08/23 UP

8月21日(土)、BSフジで新番組『CITY POP CRUISING(シティ・ポップ・クルージング)』が始まったそうです。(見逃したけど(笑))
詳細は → こちら

また先日、リリースから30年を経て、山下達郎の「さよなら夏の日」のMVが藍にいなの制作(全編アニメーション)で公開されるなど、国内でのシティ・ポップ注目度も上がりつつある感じも。

■ 山下達郎「さよなら夏の日」(藍にいなVers.MV)


「シティ・ポップ」って明確な定義がないし、70年~80年代当時の若者のライフスタイルやアートワークなんぞと絡めて語られることが多い。
しかも、ヴェイパーウェイヴ / フューチャーファンクや再評価の流れのなかで妙な解釈や蘊蓄が加えらたりするので、余計に捉えにくくなっていると思う。

そこで今回、サウンド面に的を絞って「シティ・ポップ」と「シティ・ポップじゃないと思われる曲」を探し出してくらべてみました。

ここで気づいたのは、
1.特定のアーティストに限定されるわけではない。(むろん「シティ・ポップ」を得意とするアーティストでは ”当たり” の確率は高まるが・・・。ex.達郎とか杏里とか・・・。)
2.むしろアレンジャー(佐藤準、鈴木茂、武部聡志、林哲司など)やサポートミュージシャンの存在が大きい。
3.必ずしも特定の時代に限定されるわけではない。(もちろん、1970年代後半~80年代中盤に名曲が多いが。)
4.同じ曲、同じアーティストでも「シティ・ポップ」のテイクとそうでないテイクがある。

あたりかな?

その理由は ↓ の記事に断片的に書いているので、興味のある方はどーぞ。
4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)
サザンのセブンス曲
ザ・カセットテープ・ミュージック
グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
日本にシティ・ポップはなかった??


関連記事(シティポップの世界的ブームの背景 かれらの日本という国への目線)

***********
それではいきます。

は、シティ・ポップと思われる曲。
は、シティ・ポップじゃないと思われる曲。

※ なお、この基準(シティ・ポップ認定基準)はあくまでも筆者の感覚と独断によるもので、明確な定義はありません。


【Rainych】 Mayonaka no Door / STAY WITH ME - Miki Matsubara | Official Music Video

↑ これ、どう聴いてもシティ・ポップじゃないでしょ。カッティング・ギターは入れてるけど。

真夜中のドア~Stay With Me - 松原みき

↑ 本家バージョン。さすがに「シティ・ポップ」の名曲とされる仕上がり。

----------------
素顔で踊らせて - サザン


海 - サザン


私はピアノ - サザン 


YAYA(あの時代を忘れない) - サザン



----------------
悲しみのJody (She was Crying) - 山下達郎


ターナーの汽罐車 - 山下達郎



----------------
セイシェルの夕陽 - 松田聖子


制服 - 松田聖子



----------------
Crescent Aventure - 角松敏生


After 5 Crash - 角松敏生



----------------
夏をかさねて- 今井美樹


PRIDE - 今井美樹



----------------
ベルベット・イースター - 荒井由実 【YUMING COVER】


ロッヂで待つクリスマス - 松任谷由実 (/歌おうfavorite songs 171)

マイナー・セブンス系だけど、シティ・ポップの流れだと思う。

春よ、来い - 松任谷由実



----------------
グッドタイムズ&バッドタイムズ - 佐野元春


ニュー・エイジ - 佐野元春&THE COYOTE GRAND ROCKSTRA (DaisyMusic Official)



----------------
Alone - 杉山清貴


ガラスのPALM TREE - 杉山清貴&オメガトライブ



----------------
MORNING HARBOUR - とみたゆう子


蒼い風 - とみたゆう子



----------------
Fantasy - 中原めいこ

中原めいこはかなり微妙。この曲も中盤は完璧なシティ・ポップだけどイントロとかは違う。

君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。 - 中原めいこ

ラテンが勝ちすぎるとふつうシティ・ポップにはならない。でも、この曲も微妙にシティ・ポップ入ってたりする。


----------------
MERCURY LAMP 水銀燈 - 杏里 ANRI(オリジナル)


MERCURY LAMP 水銀燈 - 杏里 ANRI

オリジナルにくらべると音にすきまがなくなり、グルーヴ感(というかリズムの「キメ」)がよわい。

----------------
夏雪 ~summer_snow~ - 西沢はぐみ  (2011年)

アニソン、ゲーム系にはめずらしい「シティ・ポップ」系の曲。
コード
サスフォー、ディミニッシュ、ハーフディミニッシュ、オンコードの嵐。
インストパートだけで少なくとも6回の転調。
ボーカルパートに至ってはセカンダリードミナント、オンコード、長三度(M3)推移ばりばりで、どこで転調しているかさえよくわからず。
「シティ・ポップ」には、こういう複雑なコード進行がよくある。


***************************
こうして聴いてみると、「シティ・ポップ」には少なくとも以下7つの必要条件があるよーな気がする。

1.リズムセクションが生楽器で、アップビート(裏拍)、ヨコノリであること。
2.音にすきまがあって、16分のハイハットがシャープに響いていること。
3.グルーヴ感があること。リズムに「キメ」やシンコペーションが絡んでいること。
4.メジャー・セブンス(四和音)系のコード進行で、ドミナントを多用すること。
5.ボーカルとインスト(楽器)のバランスがいいこと。とくにカッティングやリフのサポートがあること。
6.多声部は基本的にコーラス(ハモリ)であること。
7.AORやBCMに通じるこ洒落た質感があること。

※ 7.については、こちら(ミディアムなAOR)を聴いてみてね。

サウンド構成的には、16分のハイハット、チョッパー(スラップ)べース、カッティングギター、フェンダーローズ、テナー・サックス、ストリングスなどいろいろあると思うが、それらについてはこちら→グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)をご覧くださいませ。

■ マイ・ピュア・レディ - 尾崎亜美

↑ フェンダーローズがはげしく貢献している例。
■ フェンダー・ローズとAOR


あと、リゾート(海外とか海とか山とかの非日常の場)にいて、都会や都会にいる人を想うシチュエーションがシティ・ポップのキモかもしれぬ。
この場合、コード進行はたいていメジャー・セブンス系(非日常系)になる。(ヨナ抜き音階にはない、4(ファ)と7(シ)が大活躍。)
都会に帰ってくると、ナインスやハーフディミニッシュ系(日常系)に戻り、マキタスポーツ氏やスージー鈴木氏がいうところの「アーバン系」になってシティ・ポップからは遠ざかる。

だから、「リゾートから都会を想う」というライフスタイル的な余裕がないと、シティ・ポップの空気感は生み出せないのかもしれぬ。

【ナインス(アーバン系)の代表曲】
■ 悲しみにさよなら - 安全地帯


多くの日本人は、根っこにヨナ抜き音階(ペンタトニック)やダウンビートが入っているので、コンスタントに洋楽を意識する局面がないと、どうしてもセブンス(四和音)やアップビートから遠ざかっていく。
それに、最近では洋楽も急速にペンタ化やダウンビート化(というか4つ打ち化)が進みつつあるし、70~80年代に洋楽の影響を受けた多才なアーティストたちも第一線を退きつつある。
ここ数年(とくにこの5年)、日本でペンタ化・4つ打ち化(ほぼフォークソング化)が進んだこと、そして海外からのシティ・ポップの評価が進んだ背景には、こんな要素もあると思う。


■『ロックの子』/桑田佳祐氏著(昭和62年(1987年)初版)

から引用させていただきます。(萩原健太氏との対談形式)

「そういう意識で来てるじゃない、ずっと。学生のころから。渋谷で友だちに会えばどこそこの輸入盤屋より・・・・ディスクなんとかよりもシスコのほうがいいもん売ってるとか、やっぱ向こうの、こう、ジェフ・ベックの海賊盤ほしいとか」
「ね。そういうふうにやってきたわけじゃない、俺たち。どれだけ向こうのディテールにくいこめるか、と」
「ディテールね」
「そういうことでしょ」
「うん」
「そういうバンドだと思うんだ、だから、俺たちも」
「宿命的に」
「そう。宿命的にね。うん」



この時代、宿命的に先を走る良質な洋楽があったから、この環境が「シティ・ポップ」を生み出す大きな契機になったのだと思う。
それに「シティ・ポップ」は、音の ”ディテール” にこだわらないと創り出せないから・・・。

洋楽はかつてもっていたたくさんの ”ディテール” を、1980年代後半から失っていった。
「滅ぼさない国、日本」では、かつてゲットした ”ディテール” を、はやりすたりにかかわらず大切に保ちつづけた。
だから、いま、ポピュラーミュージックの ”ディテール” をいちばんもっているのは、日本ではないか?

↑ で書いた「シティ・ポップ」の7つの必要条件を裏返すとつぎのようになる。

1.リズムセクションがサンプリングで、ダウンビート(表拍)ないし4つ打ちでタテノリ。
2.音にすきまがなく、音圧が高い。
3.グルーヴ感は少なく。「キメ」やシンコペをあまり使わない。動きのすくないビート。
4.トライアド(3和音)、ペンタ(5音・ファ(Ⅳ)・シ(Ⅶ)抜き音階)系の進行。ほぼダイアトニック・スケール。
5.ボーカルが前面に出る。インストサポートはストロークのギターがメイン。
6.多声部は基本的にユニゾン。
7.子供でも歌えて踊れる平易さがあること。

↑ これって、ここ5年くらいの世界のPOPミュージックのメインストリームでは?

■ Dynamite - BTS


■ パプリカ - 米津玄師


だから「シティ・ポップ」を聴くことは、いまのPOPミュージックにないものを聴きにいくことなんだと思う。

”ディテール” を求める世界中の音楽好きが、40年後に見つけた先が「シティ・ポップ」だったのかもしれぬ。

***********
典型的な「シティ・ポップ」の例

■ Sunset Memory - Kazu Matsui Project Feat. Robben Ford  ※ 洋楽ですが・・・
〔 From 『Love's A Heartache』(1983)

1980年代前半の典型的なグルーヴ感。女性スキャットもお洒落。
Vince Colaiuta(ds)& Freddy Washington Jr.(b)が繰り出すリズムは、さすがの安定感。

■ Angel - Change   ※ これも洋楽ですが・・・
〔 From 『This Is Your Time』(1983)

個人的にはもっとも好みのBCMユニットのひとつ。
The B. B. & Q. Bandと同様、Jacques Fred Petrus & Mauro Malavasiのイタリア人プロデュースによるディスコ・ユニット。
洗練感だけみれば、おそらくThe B. B. & Q BandやHigh Fashionを凌駕している。
これは、名盤『This Is Your Time』(1983)からのミディアム曲で、2:39~のsaxソロ、3:40~のピアノのフレーズどりなど、いま聴き返してもはっとさせられる。

■ OUR LOVELY DAYS - 当山ひとみ


■ Airport - 今井優子


■ I CAN'T EVER CHANGE YOUR LOVE FOR ME - 角松敏生&杏里 



***********
■ おもかげ - milet×Aimer×幾田りら (produced by Vaundy) / THE FIRST TAKE

↑ ひょっとして新しいかたちの「シティ・ポップ」なのか?


大きなテーマなので、気づいたことがあったら適宜書き足していきます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ 埼玉県富士見市・ふじみの市・三芳町の御朱印

■ 埼玉県川越市の近接市町の御朱印にまとめていましたが分離し御朱印を追加して別記事としました。

【エリア概要】
東武東上線のみずほ台~上福岡。
南は志木、北は川越、西は所沢、東は荒川を介してさいたま市に接するエリア。
川越の南側にあたるこのエリアは、江戸方面への物資(農産物・燃料など)供給地として農村が広がり、大きな街道もなかったため霊場札所はさほど多くない。
また、日蓮宗寺院もすくないエリア。

荒川・新河岸川沿いは低平地、東武東上線以西は武蔵野台地上にあり、とくに三芳町では典型的な武蔵野の風景が広がる。
観光地としてはあまり知られていないが、農産物直売所の商品のレベルの高さは県内でも屈指でさりげにドライブ向きのエリアでもある。

【富士見市・ふじみの市・三芳町と札所】
上記のとおりこのエリアを中核とする霊場は、弘法大師霊場、観音霊場ともに確認されていない。
関東九十一薬師霊場の瑠璃光寺(富士見市)、武州路十二支霊場の大應寺(富士見市)がみられる程度だが、大應寺は最近東国花の寺百ヶ寺霊場埼玉8番の札所になっており、御朱印帳を頒布するなど札所機能を高めている模様。

神社では水宮神社(富士見市)と榛名神社(富士見市)が複数の兼務社の御朱印を授与されているが、常時授与かどうかは不明。

一部の非札所寺院や鎮守社でも授与されているので一定数の御朱印は拝受できるものの、授与期間が限定されていたりご不在があったりで、御朱印難易度は比較的高い。
御朱印エリア、川越と所沢にはさまれた、どちらかというとマニア向けのエリアとなっている。


【拝受データ】 (おおむね南部から。現時点で授与休廃止の可能性あり、形態(直書・書置など)は状況により変化する可能性大です。)

■ (針ヶ谷ノ)氷川神社
 
富士見市針ケ谷1-39-2
御祭神:素盞嗚尊
旧社格:村社、旧針ケ谷村鎮守
元別当:西光院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:針ヶ谷 氷川神社 直書(筆書)

■ (水子)氷川神社
 
富士見市水子5050
御祭神:素盞嗚尊、奇稲田姫尊
旧社格:旧水子村総鎮守
元別当:福性寺
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:水子 氷川神社 直書(筆書)

■ (水子・正網)八幡神社
 
富士見市水子5084
御祭神:誉田別尊
旧社格:
元別当:薬師寺→大應寺
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:水子 八幡神社 直書(筆書)

■ 智永山 性蓮寺
 
富士見市水子5082
日蓮宗
御首題

■ 水宮神社
 

 
富士見市水子1762
御祭神:天照大神、素戔鳴命、木花開耶姫命、誉田別命、大國主命、罔象女神
元別当:神仏習合/摩訶山般若院
授与所:当社授与所
朱印揮毫:水宮神社(印判書置/直書)
※週末はタイミングにより書入御朱印拝受可の模様

■ 摩訶山 般若院 六蛙堂
 
富士見市水子1762
堂宇尊格:役行者、不動明王ほか
元別当:神仏習合/摩訶山般若院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:摩訶山 般若院 六蛙堂 直書(筆書)

■ 水光山 不動院 大應寺
 
富士見市水子1765
真言宗智山派
御本尊:不動明王
司元別当:(水子・正網)八幡神社

札所:武州路十二支霊場(巳 普賢菩薩)

朱印尊格:本尊 普賢尊(普賢菩薩)
主印:種子/不詳 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)

札所:東国花の寺百ヶ寺霊場埼玉8番

朱印尊格:不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:あり
直書(規定)

〔御本尊〕

朱印尊格:本尊 不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)

〔薬師堂〕

朱印尊格:薬師如来
主印:種子「バン」・金剛界大日如来 (蓮華座+火焔宝珠)
※揮毫は種子「バイ」・薬師如来
札所印:なし
直書(筆書)

〔観音堂〕

朱印尊格:十一面観音
主印:種子「バン」・金剛界大日如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
書置(筆書)

■ (北側・上水子ノ)氷川神社
 
富士見市水子1399
御祭神:素戔嗚尊
旧社格:無格社、旧水子第一区の鎮守
元別当:
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:富士見市北側鎮座 氷川神社 直書(筆書)

■ (山形)氷川神社
 
富士見市下南畑153
御祭神:健速素盞嗚命
旧社格:下南畑の旧山形地区鎮守
元別当:西廓山 万蔵院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:山形 氷川神社 直書(筆書)

■ (下南畑)八幡神社
 
富士見市下南畑1148
御祭神:誉田別之命、神功皇后、姫大神、阿蘇津姫命、菅原道真公、北極星
旧社格:村社、旧下南畑村鎮守、神饌幣帛料供進神社
元別当:金蔵院・西蔵院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:下南畑 八幡神社 直書(筆書)

■ 川龍山 興禅寺
 
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
朱印尊格:聖観世音菩薩
主印:三寶印
札番:なし 直書(筆書)

■ 上南畑神社
 
富士見市上南畑295
御祭神:健速素盞嗚命
旧社格:村社、旧上南畑村鎮守
元別当:金蔵院・西蔵院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:上南畑神社 直書(筆書)

■ 阿蘇神社
 
富士見市東大久保83
御祭神:阿蘇比女之命
旧社格:村社
元別当:神明山観音寺
授与所:勝瀬榛名神社社務所(宮司様宅)
朱印揮毫:東大久保 阿蘇神社 書置(筆書)

■ 寳瀧山 延命院 瑠璃光寺(鶴馬薬師)


 
富士見市諏訪1-8-3
天台宗
御本尊:薬師如来
札所:関東九十一薬師霊場第31番
朱印尊格:薬師如来・瑠璃殿(薬師如来)
主印:種子「バイ」・薬師如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:関東九十一薬師霊場第31番印判

■ 氷川神社

富士見市諏訪1-13-24
御祭神:素戔嗚尊
旧社格:村社、旧鶴間村上組鎮守
元別当:寳瀧山 瑠璃光寺(富士見市諏訪)、来迎寺、三光院?
授与所:宮司様宅
朱印揮毫:氷川神社 諏訪神社 直書(筆書)

■ 諏訪神社
 
富士見市諏訪2-15-34
御祭神:建御名方之命
元別当:寳瀧山 瑠璃光寺(富士見市諏訪)
授与所:宮司様宅
朱印揮毫:氷川神社 諏訪神社 直書(筆書)

■ (下鶴馬)氷川神社
 
富士見市鶴間2-1-72
御祭神:健速素盞嗚命
旧社格:村社、旧鶴間村鎮守
元別当:来迎寺・三光院
授与所:宮司様
朱印揮毫:下鶴間 氷川神社

■ (勝瀬)榛名神社
 
富士見市勝瀬791
御祭神:埴上姫命、豊受姫命
旧社格:村社、勝瀬総鎮守
元別当:萬寶院
授与所:宮司様宅(当社からは離れています)
朱印揮毫:榛名神社 書置(筆書)

■ 見峰山 大願寺
 
富士見市勝瀬字寺山470-2
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
朱印尊格:瑞光観音
主印:聖観世音菩薩御影印
札所印:なし
直書(筆書)

■ 三富山 多福寺
 


三芳町上富1542
臨済宗妙心寺派
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:関東百八地蔵尊霊場第8番
朱印尊格:子育地蔵尊(地蔵菩薩(木ノ宮地蔵尊))
主印:三寶印
札所印:なし
印刷(規定)
※御本尊の御朱印は授与なし、護持堂の「木ノ宮地蔵堂」の御朱印を授与

■ (大井)氷川神社
 
ふじみ野市大井2-4-30
御祭神:素戔嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命
旧社格:村社
元別当:天龍山 徳性寺(ふじみ野市大井)
授与所:(勝瀬)榛名神社宮司様宅
朱印揮毫:大井 氷川神社 書置(筆書)

■ (苗間)神明神社
 
ふじみ野市苗間372-1
御祭神:天照大神
旧社格:村社、旧苗間村鎮守、神饌幣帛料供進神社
元別当:浄禅寺
授与所:(勝瀬)榛名神社宮司様宅
朱印揮毫:苗間 神明神社 書置(筆書)

■ 佉羅陀山 地蔵院 薬王寺


 
ふじみ野市亀久保3-11-11
真言宗智山派
御本尊:延命地蔵菩薩
札所:-
主印:種子「カ」・地蔵菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
書置(筆書)

■ (上福岡)八雲神社
 
ふじみ野市上福岡1-7-7
御祭神:須佐之男命
旧社格:
元別当:
授与所:(勝瀬)榛名神社宮司様宅
朱印揮毫:上福岡 八雲神社 書置(筆書)

■ 朝日天神神社(神道大教 天神大教会)
 
ふじみ野市西原1-1-18
御祭神:天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊弉那岐命、伊弉那美命
旧社格:
元別当:
授与所:境内授与所
朱印揮毫:朝日天神 直書(筆書)

■ 長宮氷川神社
 
ふじみ野市長宮 2-2-4
御祭神:建速須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命
旧社格:郷社、旧福岡村・旧中福岡村・福岡新田鎮守
元別当:
授与所:社務所(正月、祭礼時のみ)
朱印揮毫:長宮氷川神社 直書(筆書)

■ (駒林)八幡神社
 
ふじみ野市駒林890-イ
御祭神:誉田別命
旧社格:村社、旧駒林村鎮守
元別当:安楽寺(旧駒林村)
授与所:(勝瀬)榛名神社宮司様宅
朱印揮毫:駒林 八雲神社 書置(筆書)


【関連ページ】
■ 御朱印帳の使い分け

■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)
■ 埼玉県川越市の近接市町の御朱印(分離前旧ページ)
■ 埼玉県所沢市の御朱印

■ 朝霞五社巡り
■ 志木開運・招福七社参り-1
■ 志木開運・招福七社参り-2

■ 高幡不動尊の御朱印
■ 塩船観音寺の御朱印
■ 深大寺の御朱印
■ 円覚寺の御朱印(25種)

■ 草津温泉周辺の御朱印
■ 四万温泉周辺の御朱印
■ 伊香保温泉周辺の御朱印
■ 熊谷市・深谷市の御朱印-1

■ 箱根の御朱印
■ 熱海温泉&伊東温泉周辺の御朱印
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)


■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】

■ 根岸古寺めぐり
■ 滝野川寺院めぐり-1(第1番~第6番)

■ 武州八十八霊場
■ 甲斐百八霊場の御朱印-1
■ 甲斐百八霊場の御朱印-2

■ 東京都港区の札所と御朱印
■ 東京都渋谷区の札所と御朱印
■ 東京都世田谷区の札所と御朱印
■ 東京都文京区の札所と御朱印
■ 東京都台東区の札所と御朱印
■ 谷中の御朱印・御首題

■ 首都圏の札所と御朱印
■ 希少な札所印Part-1 (東京・千葉編)
■ 希少な札所印Part-2 (埼玉・群馬編)

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 徳川家康公と御朱印



【BGM】
■ 堤防 - 二名敦子
G

■ 雨のウエンズデイ - 大滝詠一


■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

■ アンサンブルの力 ~2022年の紅白を視て~

紅白、後半だけ視てみました。

感じたのはアンサンブルの力。
桑田さんたちが、アコギ4本で聴かせてくれたアンサンブル。
安全地帯が見せつけたヴォーカルとインストのシナジー。
そしてユーミンのバックに入ったキャラメル・ママの面々の余裕のパフォーマンス。

どれもこれもが”音楽の力”を再認識させてくれた。

■ 旅姿六人衆 - サザンオールスターズ


NHKはPOPSにオーケストラ持ち込むと楽曲の魅力(オリジナルのアンサンブル)を崩す傾向あり。
楽団の人には申し訳ないけど・・・。
miletの↓の曲だって、弾むエスニックリズムとインストアンサンブルのスケール感がポイントなのに、オケの音のカベで崩されたらどうしようもないわな。
本人の意思に反したアレンジだったとしたら気の毒すぎる。

■ milet「Fly High」MUSIC VIDEO (NHKウィンタースポーツテーマソング)


Vo(ヴォーカル)、Key(キーボード) 、g(ギター)、b(ベース)、ds(ドラムス)というユニットはPOPミュージックが築いてきた最高の組み合わせ(アンサンブル)だと思う。
(1970~ 80年代はこれにper(パーカッション)、sax(サックス)strings(ストリングス)が加わっていた。)

その組み合わせがベストなかたちで発揮されるのがLIVEだった。

■ Steve Perry/Journey "Still They Ride" Live and Studio versions

↑ 腕利き揃いのJourney。
好調時のLIVEパフォーマンスはスタジオ録音をはるかに凌ぐ。

b(ベース)、ds(ドラムス)を欠いた1990年以降の音楽は、どうも片肺飛行のような気がしてならない。


以前に「 釘付けになった名LIVE」という記事をUPしてますが、やっぱり聴き返すとアンサンブルが抜群。
で、数曲加えて ↓ に再アップしてみました。

*****************
一期一会。
CDでは表現できなかったものが、場の力を得て乗ってくる。
それが名LIVE。
どれも一聴で釘付けになった名唱です。

これからJ-POPに絞って、新旧問わずに定期的に加えていきます。
(スタジオライブを含みます。)

■ [Official] 尾崎 豊「I LOVE YOU」 (LIVE)
『YUTAKA OZAKI TOUR’ 91』

踊りはおろか、振りさえもない。
ただ、マイクの前で歌っているだけ・・・。

でも、聴き手の心を揺さぶらずにはおかない、圧倒的な存在感。
これが音楽の力だと思う。

■ プリンセス・プリンセス - 「世界でいちばん熱い夏」


■ 君って - 西野カナ


■ 井上陽水&安全地帯 夏の終わりのハーモニー


■ また会おね - 矢野顕子 with YMO 1979LIVE


■ Only love - 荒牧陽子 2009/11/20 L@N akasaka


■ Poppin'Party「キズナミュージック♪」


■ P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子


■ Don't wanna cry - 安室奈美恵


■ 最後のニュース - 井上陽水


■ 天気雨 - 松任谷由美 ~The 14th Moon to acacia~

ベースはLeland Sklar。ドラムスはVinnie Colaiuta......じゃないですわね、めちゃくちゃ巧いけど。
正隆氏のキーボードも負けていない。
こういう西海岸的なグルーヴをこなせるのも、ヴォーカリスト・ユーミンの力だと思う。

■ 最高の片想い - Sachi Tainaka Live 2007 Concert


■ Every Little Thing - Over and Over 1999/01/26


■ True Love - 藤井フミヤ


■ DEPARTURES - 華原朋美 w / 小室哲哉 1997LIVE


■ 孤独な生きもの - KOKIA KOKIA CONCERT TOUR 2010


■ milet×Aimer×幾田りら - おもかげ (produced by Vaundy) / THE FIRST TAKE


■ 潮見表 - 遊佐未森  2013/10/27・渋谷公会堂


■ Boogie-Woogie Lonesome High-Heel - 今井美樹


■ Clock Strikes - ONE OK ROCK 35xxxv Japan Tour 2015

これだけのレスポンスを返せる若い世代のオーディエンス力、凄いと思う。

■ YOASOBI「群青」 from 初有観客ライブ『NICE TO MEET YOU』2021.12.04@日本武道館


■ 時代 - 薬師丸ひろ子


■ Everlasting Song - Yuki Kajiura(FictionJunction)
[Yuki Kajiura LIVE vol.#4 (2009.07.12 東京JCBホール)]


■ 佐野元春『ハートビート(ライブ 1983)』


----------------
■ Y (C&K) - 富金原佑菜×三阪咲 2018/09/17 あべのAステージ


■ 明日への手紙 (手嶌葵) - 熊田このは 2016/05/21 HEP前 路上LIVE


■ ILOVE YOU - 草ケ谷遥海


■ HALO(BEYONCE) - 加藤礼愛 cover
2021.9.5 グッ会LIVE at 横浜ミントホール


■ 島津心美「誰より好きなのに (古内東子)」2021/07/22 Kokomi 11th Birthday Live 溝ノ口劇場


■ そばに - 森恵 2008・6・25 吉祥寺路上


↓ こんなすばらしいアーティストたちの歌声が、いまの日本ではもう聴けない。
日本の音楽界の損失は計り知れないと思う。

■ アレルヤ - kalafina Red"&"Blue"発売記念ニコ生LIVE


■ Endless Story - Yuna Ito


■ This Love - Angela Aki

3:38~
約束と言う 私達のコンパスだけでは
この恋は(Faug F#m7 D#m7-5) 方角を見失うの
↑ オーギュメント&ハーフディミニッシュの威力
フックのあるメロディには、理由がある。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )