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■ 四万温泉周辺の御朱印

2020/12/05 更新UP

さらに追記します。
境内・山内の様子について、補強UPしました。

※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社があります。参拝および御朱印拝受は、各々のご判断にてお願いします。

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2020/05/16UP

すこし追加&追記します。
このエリアは真田氏、海野氏など、武田信玄公とゆかりのふかい武家の本拠地なので、信玄公にちなむ事跡などを補強してリニューアルします。
(→ 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

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2019/04/12UP

 

先日、ふるさと納税でゲットした地域券があったので、ひさびさに草津&四万に泊まってきました。
御朱印もいただいてきましたので、草津&四万周辺でいただける御朱印をご紹介します。

吾妻エリアは吾妻三十三番観音霊場や三原(谷)三十四所観音札所などの古い霊場はあるものの、その札所の多くは廃寺や山中のお堂で、この霊場でいただける御朱印はほとんどありません。
複数の現役霊場が重複する県央(前橋・高崎)や東毛(伊勢崎・桐生・太田・館林など)エリアとくらべると、授与所はどうしても少なくなります。
それでも、神社も含めるとそれなりの数は揃いますので、草津のアプローチベースとなる長野原町、同じく四万の中之条町も併せてご紹介してみます。

今回は2発目の四万温泉です。少し離れますが、高山村、東吾妻町、そして渋川市の吾妻川沿いの寺社もご紹介します。
※こちらでご紹介する寺社は札所でない寺院やご不在気味の神社を含みます。参拝時、ご不在で御朱印が拝受できない可能性があることを予めお断りしておきます。

〔2019年4月〕
四万に泊まり、さらに御朱印をいただきましたのでリニューアルUPします。

第1回目(草津温泉編)は、→こちら
・四万~草津温泉間の寺社については↑をご覧ください。
第3回目(伊香保温泉編)は、→こちら
・高崎市~渋川市の利根川右岸、および倉渕方面の寺社については↑をご覧ください。

【四万温泉周辺で拝受できる御朱印】
東京方面から四万に入るとき、ふつうは関越道渋川伊香保ICで降り、R17~R353(長野街道)というルートをとりますが、わたしはたいてい前橋ICか駒寄スマートICで降りて榛名東麓を北上し、県道35(通称「日陰道」)を経由してアプローチします。
この「日陰道」沿いに鎮座する神社からご紹介をはじめます。

01.甲波宿禰神社



渋川市川島1287
御祭神:速秋津彦命、速秋津姫命
式内社論社、上野國十二社のうち、四之宮
旧社格:郷社
朱印尊格:甲波宿禰神社
・中央に社名印と「甲波宿禰神社」の揮毫。
右下に「上野国四宮」の揮毫と「延喜式内甲波宿禰神社之印」、左下には宮司之印が捺されています。

お湯のよさで知られる金島の「富貴の湯」にもほど近い、川島地区に鎮座する神社で「かわすくねじんじゃ」と読みます。
上野國十二社では、一之宮貫前神社(富岡市)、二之宮赤城神社(前橋市)、三之宮伊香保神社(渋川市)に次ぐ四之宮に列格し、高い格式をもつ古社です。
御祭神は古事記では「水戸神」とも記され、水や川とのゆかりが深い神格とされます。
また、延喜式神名帳には「上野國群馬郡 甲波宿禰神社」と記され、当社は式内社論社とされます。

甲波宿禰神社はこの周辺にあと二社(東吾妻町箱島と渋川市行幸田)あり、箱島の甲波宿禰神社も式内社論社とされています。
また、渋川市祖母島に鎮座する武内神社も式内社論社とされます。
行幸田の甲波宿禰神社は諸説ある模様で、詳細は不詳です。
祖母島に鎮座し、建内宿禰命を御祭神とする武内神社も「上野國群馬郡 甲波宿禰神社」の論社とされますが、なぜ武内神社が甲波宿禰神社の論社に位置づけられているかは諸説があるようです。(「宿禰」がキーワードという説あり。)

川や水にゆかりのふかい神社は三社構成(例.宗像大社や丹生川上神社)の例があり、甲波宿禰神社もその例に当たるという説もあります。
この説をとる人も、甲波宿禰神社(川島)、甲波宿禰神社(箱島)、武内神社(祖母島)(「島」がキーワードという説あり)の三社を挙げることが多いようです。
いずれにしても、このあたりで川といえば吾妻川ですから、吾妻川との深いつながりが考えられます。

なお「神道集」の第四十一「上野国第三宮伊香保大明神事」によると、延喜式内社の「甲波宿禰神社」の当初の祭神は上野国の目代(国司代理)で有馬に拠った伊香保大夫の女房(宿禰大明神)で、本地は千手観世音菩薩とされています。
(神道集については伊香保温泉周辺の御朱印-2(後編))中、「19.船尾山 等覚院 柳澤寺」をご参照ください。)

神社下の宮司様宅まではのどかな住宅地ですが、参道に入ると俄然空気が変わります。
さすがに上野國四之宮、式内社論社というべきか。

参道石段登り口の左右に石の標柱。少し登って右手に社号標。
その先には石造藁座つきの神明鳥居。
さらに登ると狛犬一対。なかなか均整のとれた狛犬です。

正面に拝殿。入母屋造流れ向拝銅板葺で、千木と堅魚木を置いています。
向かって左手の桜がちょうど満開で、趣を添えていました。

向拝は水引虹梁木鼻に貘、正面向きに獅子の彫刻。中備に龍の彫刻。
海老虹梁、手挟ともに立体感あふれる見事な彫刻が施されています。
正面桟唐戸、扁額は社号「甲波宿禰神社」。
拝殿内の算額は、安政七年(1856年)奉納で、市の重要文化財に指定されています。

神さびた境内には、神明社、諏訪神社などの境内社が鎮座します。

御朱印は宮司様宅に書置のものが用意されていました。

02.密教山 如音院 顕徳寺



東吾妻町原町432
真言宗御室派 御本尊:胎蔵(界)大日如来
札所:吾妻三十三番観音霊場第13番
札所本尊:正観世音菩薩(旧 寶玉山 光原寺)

東吾妻町原町にある密教寺院です。
吾妻エリアに密教寺院は多くなく、しかも東日本では比較的めずらしい御室派(古義真言宗)なので、寺院マニアは外せないお寺さんでは?

天正十年(1582年)、甲州武田氏の滅亡直前、真田昌幸は武田氏当主武田勝頼に甲斐を捨て、自領の岩櫃城へ移り武田氏の再興を図ることを進言し容れられました。
昌幸は、勝頼の居館「古谷御殿」を用意して待ちましたが、勝頼は天目山で自刃し武田氏は滅亡しました。
この「古谷御殿」が巌下寺潜龍院という寺となり、さらに移築されて開基されたのがこの顕徳寺と伝わります。(顕徳寺の護摩堂が移築された「古谷御殿」とされます。)

今回、御朱印を広く授与されていない寺院については、拝受していてもご紹介は控えました。こちらも迷いましたが、このような歴史的な由来をもち、一応観音霊場の札所でもあり、書置き御朱印もご用意されていたのでご紹介します。
(※こちらのお寺様は、現在御朱印を授与されていないというWeb情報があります。)

しっとり落ち着きのある山内。
「古谷御殿」の移築とされる護摩堂(本堂)は、側面から撮った写真がなく詳細不明ですが、妻入りのような感じがします。
妻入りだとすると、入母屋造で唐破風向拝。
屋根の棟飾りに経の巻獅子口。唐破風に鬼板と兎毛通。

水引虹梁の装飾は簡素ですが、中備に寺号「顕徳寺」の扁額を掛け、上部梁の上に大瓶束と見事な彫刻を置く笈形という意匠です。
なんとなく変わったイメージの仏殿で、造詣が深い人が見れば見どころはたくさんあるのかもしれません。

本堂向かって左手にある観音堂は吾妻三十三番観音霊場第13番札所の可能性がありますが掲示類はなく詳細不明。
こちらも入母屋造妻入りで唐破風向拝の様な感じがします。

向拝部の破風が唐破風と千鳥破風を折衷したような特異な形状で、端正な経の巻獅子口が意匠的に効いています。
身舎に対して屋根が大ぶりで、力感を感じる仏堂です。

御朱印は庫裡にて揮毫書置きのものを拝受しました。

【御本尊の御朱印】
中央に御本尊、胎蔵(界)大日如来の荘厳体種子「アーンク」と「胎大日如来」の揮毫と三寶印。右に「古儀真言宗 御室派」の揮毫。
左に山号・院号・寺号の揮毫と寺院印の捺印があります。
御本尊尊格の揮毫は、もはや「『胎蔵』大日如来」でさえなく、「『胎』大日如来」となっています。(下記参照)
種子「アーンク」(阿字五点具足)は通種子「ア」の荘厳体で、胎蔵大日如来が尊格となる御朱印じたいが少ないため、そうそう見ることができません。
密教的に深い意味が込められた御朱印に思われ、筆致の冴えもすばらしいです。

〔胎蔵(界)について/ご参考〕
密教にはその宇宙観をあらわすふたつの代表的な曼荼羅があります。
大日如来の理徳(慈悲)をあらわす胎蔵(界)曼荼羅と大日如来の智徳をあらわす金剛界曼荼羅で、両者を併せて「両界曼荼羅」ないし「両部曼荼羅」といいます。
胎蔵(界)は大日経により説かれ、金剛界は金剛頂経で説かれるものです。(両部の大経)

仏教の入門書などでは、対比的にわかりやすいため、「胎蔵界」「金剛界」とされる例が多いです。
「金剛界」は金剛頂経で「世界」として説かれるので、「金剛界」の表現に疑義はありませんが、「胎蔵(界)」は教典の原語には「世界」に当たる言葉が入っていないため、とくに真言宗系寺院では、「界」を入れずに「胎蔵曼荼羅」ないし、正式名「大悲胎蔵曼荼羅」とされることが多いようです。
また、原語に「大悲胎蔵生」とあることから、「胎蔵生」とされることもあります。

大日如来は、胎蔵(界)大日如来と金剛界大日如来がおられ、おのおの印相、種子、真言などが異なります。
金剛界大日如来は智拳印を、胎蔵界大日如来は法界定印を結びますが、智拳印の方が特徴があるのでわかりやすいです。

03.大宮巌鼓神社



東吾妻町原町811
御祭神:日本武尊、弟橘姫命、素盞鳴尊、保食神 外合祀神社祭神
旧社格:郷社
朱印尊格:大宮巌鼓神社 印判
・中央に社名印、「宮司之印」の捺印と「大宮巌鼓神社」の印判。右上に「上州原町鎮座」の印判が捺されています。

神社御朱印です。
東吾妻町の中心地、原町の市街地に鎮座し「おおみやいわづつみじんじゃ」と読みます。
旧郷社に列格して社格は高く、原町一円の鎮守社のようです。

社歴は千年を超えるとされますが、創祀由緒は詳らかではありません。
日本武尊と上妻姫の御子、大若宮彦(巌鼓尊/巌鼓大明神)も祀るという説もあります。
実際、拝殿扁額には「巌鼓大明神」とありました。
また、古くから信仰の対象とされてきた四万奥の稲包山は、山頂に奥宮、登山口のゆずりは地区に中宮の稲裹神社(いなつつみじんじゃ)、そして大宮巌鼓神社を里宮とするという説もあるようです。

社頭に「郷社 大宮巌鼓神社」の社号標と扁額付きの朱塗りの明神鳥居。
参道石段を登って石造台輪鳥居。正面が拝殿です。
境内はこぢんまりとしていますが、古社特有の厳かな空気に満ちています。
神明社、八幡宮、宇婆神社など数座の境内社が鎮座します。

入母屋造平入りで向拝部唐破風。軒下の朱塗りの意匠が効いて、華やいだ感じのある拝殿です。
水引虹梁の端部木鼻に彫刻(二面)。中備にはおそらく龍の彫刻ですが、前面に「正一位大宮 巌鼓大明神」の扁額がかかっているのでよくわかりません。
身舎の斗栱は、おそらく三手先はあり三重の尾垂木を備える豪壮なものです。

本殿は囲いに囲まれよく見えませんが、正面に懸魚らしきものがあり、屋根の形状からしても流造ではなく、春日造のような感じがします。

御朱印は社務所にて拝受。御朱印帳への書入れ(印判)をいただきました。

04.寶満山 白雲閣 林昌寺
寺院情報(さなだんごの旅)







中之条町伊勢町1002
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:関東九十一薬師霊場第45番、関東百八地蔵尊霊場第30番、吾妻三十三番観音霊場第17番、第24番、第26番、第27番、第29番、第30番(以上6ヶ所?)
札所本尊:宝満薬師如来(関東九十一薬師霊場第45番)、身代地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場第30番)
 
南北朝時代創建、戦国時代に真田幸隆の弟、矢沢薩摩守頼綱によって再建され、以降真田氏のもとで寺勢を伸ばした中之条の名刹。
山号は寶満山。院号ではなく、「白雲閣」というめずらしい閣号です。
境内の目通り3.8メートルのしだれ桜の古木でも名を知られています。

矢沢頼綱は真田頼昌の三男とされ、真田幸隆の弟にあたります。
天文十年(1541年)の「海野平の戦い」で敗れ、諏訪氏の斡旋を受けて武田信虎の麾下に入りました。
以降、武田方として活躍し、永禄六年(1563年)の真田氏の岩櫃城攻略でも功を立て、岩櫃城代を勤めたとされます。
以降、幸隆、信綱、昌幸に従って吾妻郡の守将として重きをなし、沼田城代にも任じられ、北条方の数度にわたる沼田城攻撃を能く凌いで天正十七年(1589年)の豊臣秀吉の命による沼田城明け渡しまで沼田城を守り抜きました。

この沼田城における矢沢頼綱の戦巧者ぶりは、真田昌幸が上田城で徳川勢を退けた「神川合戦」、昌幸が上田に徳川秀忠の大軍を釘付けにした「第二次上田合戦」と並び賞されています。
矢沢家は上田でも真田家の家老職を務め、明治維新を迎えたとされます。

創建時は天台宗と伝わりますが、現在は曹洞宗に属しています。
中之条町は吾妻三十三番観音霊場の中心エリアで複数の札所がありましたが、廃寺が多く、うち6ヶ寺ほどの札所本尊が林昌寺に移られているようです。
ただ、不思議なことに林昌寺じたいはもともとの札所ではなく、この霊場の御朱印も授与されていないようです。

山門は入母屋造三間一戸八脚、上層に高欄を回す堂々たる楼門で三手先の斗栱を備えています。
上層に「白雲閣」の扁額。大棟には六連銭(真田六文銭)の紋。
脇間、木格子の内には阿像・吽像の金剛力士像が安置されています。

さらに石段を登ると正面に本堂。入母屋造平入りで、正面やや左寄りに別建てで唐破風屋根の向拝を置いています。
こちらも大棟には六連銭(真田六文銭)の紋、向拝唐破風の鬼板も六連銭(真田六文銭)の紋入りです。
三間の梁行をもつ大規模な向拝は、さすがに大寺の風格。

現況、関東九十一薬師霊場と関東百八地蔵尊霊場の札所を兼ねています。
このふたつの霊場はともに出版社主導という異色の成り立ちで、兼務の札所もすくなくありませんが、こちらも兼務札所となっています。

関東九十一薬師霊場の札所本尊は、仁王門北向佛殿内に御座す立像の「宝満薬師如来」です。
このお薬師様は、嵩山の麓、飛地境内の薬師堂に御座す有名な「嵩山石薬師」のお前立とも伝わっているようです。

関東百八地蔵尊霊場の札所本尊は、本堂左脇に御座す座像の「身代地蔵菩薩」です。
このお地蔵様は、矢沢頼綱が戦陣で身代わりとなって戦死した家臣の供養のため建立した「身代地蔵尊」にちなむ尊像とされています。

御朱印は庫裡にて2つの霊場と御本尊のものを拝受。
【御本尊の御朱印】
中央に三寶印と「南無釈迦牟尼佛」の印判。
右に釈迦牟尼佛の御影印。左下には山号寺号の印が捺されています。
真田氏所縁の寺院らしく、寺紋は六連銭(真田六文銭)で、こちらの印判も捺されています。

【関東九十一薬師霊場の御朱印】
中央に三寶印(御本尊御朱印とは異なるもの)と「宝満薬師如来」の印判。
左上に薬師如来の御影印。右下に「関東九十一薬師第四十五番霊場」の札所印。左下には山号寺号の印。六連銭(真田六文銭)の印判も捺されています。

【関東百八地蔵尊霊場の御朱印】
中央に三寶印(御本尊御朱印と同じもの)と「身代地蔵菩薩」の印判。
左上に地蔵菩薩の御影印。右下に「関東百八地蔵尊第三十番札所」の札所印。左下には山号寺号の印。六連銭(真田六文銭)の印判も捺されています。

05.長岡山 清見寺

中之条町中之条746
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:新上州三十三観音霊場第26番札所
札所本尊:聖観世音菩薩

【写真 上(左)】 専用納経帳の御朱印
【写真 下(右)】 御朱印帳書入れの御朱印
【新上州三十三観音霊場の御朱印】
・中央に札所本尊、聖観世音菩薩の種子「サ」(蓮華座+火焔宝珠)の印判と「聖観音」の揮毫。
右上に「上州第二十六番」の札所印。左下には寺号の揮毫と印判が捺されています。
専用納経帳(差し替え式)、御朱印帳書入れとも同様の内容です。

長禄二年(1458年)開創。慶長元年(1596年)、京都知恩寺から入られた岌山和尚の再興となる浄土宗の古刹。
寺号は原則音読みですが、こちらも音読みで「せいけんじ」となります。

御本尊が聖観世音菩薩となっている資料もありますが、阿弥陀如来のようです。
札所本尊は平成8年に中興四百年を記念して庫裡前に建立された大聖観世音菩薩とみられます。

駐車場は広く、すぐ上に庭園、そのおくに観音霊場の札所本尊とみられる立像の観音様が御座します。
石垣に囲まれたお城のような石段を登っていきます。
正面に本堂。入母屋造桟瓦葺流れ向拝付き。
向拝・身舎とも、ところどころ朱色に塗られ、華やかなイメージの彩色ですが全体にスクエアできっちり端正なつくり。
瓦屋根の照りが強く、降り棟、隅棟、稚児棟の曲線が見事です。
向拝正面の扁額は寺号「清見寺」。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受。新上州三十三観音霊場は比較的メジャーなので、手慣れた対応です。
なお、御本尊・阿弥陀如来の御朱印は授与されていないようです。

06.龍水山 珠光院 善福寺


 
中之条町山田571
浄土宗 御本尊:善光寺式三尊仏
札所:吾妻三十三番観音霊場第15番、第16番
札所本尊:十一面観世音菩薩
朱印尊格:南無阿弥陀佛(御本尊の御朱印) 直書(筆書)
・中央に三寶印と六字御名号「南無阿弥陀佛」の揮毫。右上に御本尊、阿弥陀如来の種子「キリーク」の印判と「善光寺式三尊佛」の揮毫。
浄土宗寺院の御朱印で種子印判使用のものはめずらしくないですが、三寶印と種子印ダブル捺しのものはめずらしいと思います。
左下には寺号の揮毫と山号・寺号の印判が捺されています。

中之条市街地から沢渡方向に離れた浄土宗寺院。
慶永元年(1342年)の創建で、日本48体の善光寺如来第45番の尊像を安置したと伝えられている古刹です。現在は増上寺末となっています。

全国善光寺会の会員寺院でもあります。
全国善光寺会の会員寺院は御朱印を授与されるところが多く、また、全国善光寺会公式Webにも御朱印授与の有無が掲載されています。
善福寺については、授与の有無欄がブランクとなっていますが、快く授与いただけました。
ただ、メジャーな札所ではないのでご不在はいたしかたなしかと。わたしも2回目の参拝で拝受できました。

御本尊は、鎌倉時代中期の作と伝わる一光三尊形式の善光寺式阿弥陀如来。通常は秘仏で12年に一度午年のご開帳です。
山門横にある観音堂には、吾妻三十三番観音霊場第15番札所の法華山長岡寺(車堂)と16番札所の明星山光圓寺の観世音菩薩が遷座されて御座します。
前者は十一面観世音菩薩のようです。

山内入口に立像の地蔵尊造と六地蔵尊。「善光寺三尊仏」の石標。
山門は切妻造本瓦葺の高麗門で、梁に山号「龍水山」の扁額、柱に「善福寺」の寺号板を掲げます。
正面が本堂。入母屋造壁板張り銅板葺流れ向拝付きで庫裡と繋がっています。

本堂の斜向かいに建つ観音堂は、宝形造鉄板葺で身舎は古色を帯びています。
正面に「十五番 車堂」の堂号とご詠歌を刻した扁額で、みるからに観音霊場札所の佇まい。
向拝柱には第16番の御詠歌も掲げられていました。

御朱印は庫裡で拝受しました。
御本尊の御朱印で、観音霊場のものは現在授与されていないそうです。

07.和利宮吾妻神社



中之条町横尾1354-1
御祭神:大穴牟遲神ほか
旧社格:郷社
朱印尊格:和利宮 吾妻神社
・中央に社名印と「和利宮 吾妻神社」の揮毫。「吾妻神社」は大きく、「和利宮」は小さめに揮毫されています。

神社御朱印です。
吾妻総鎮守ともいわれ旧郷社の高い格式を有する古社ながら、旧記古文書が文化九年に焼失したため創祀ははっきりしていないようです。
由緒書によると、もともとは約300m南西の御洗水山頂上に鎮座され、現社地はその遙拝地だったが参拝が容易な現社地に奉遷されたとの由。
また、嵩山南麓の地(現、親都神社)から御洗水山頂上に遷座ののち、現社地に奉遷との伝承もみられるようです。
嵩山は吾妻地方屈指の霊山で、こちらの里宮にあたるとの説もあります。

一方、『神道集』中の「児持山之事」伝承とのつながりを指摘する説もみられます。
「児持山之事」伝承の発端は伊勢国で、その主人公のひとり加若次郎和理は「児持(吾妻)七社」(児持山大明神・半手木(破敵)大明神・鳥頭大明神・和理大明神・山代大明神・駒形大明神・白専女大明神)のうち和理大明神(和利宮?)になられたという説があります。
御洗水山頂上は現在の伊勢町伊勢宮の裏とされ、伊勢国とのつながりも連想されるところです。
さらに、嵩山を「わりのたけ」とも称し、親都神社は江戸時代「和利宮」と称していたなど、複雑な由緒来歴を有しているようです。

また、由緒書にある「本社ノ社名ハ中古以前ニアリテハ和流宮ト称シ奉レリ、蓋シ和流ハ唐流ニ対スル大和流ノ義ニシテ」という記載も気になるところです。
ふつう「吾妻」(あがつま)の地名の発祥は日本武尊(倭建命)の「吾嬬はや」に依るものとされますが、それだけでは納まらない奥の深さを感じます。

明治維新以前は和利宮ないし割宮とされていましたが、維新を契機に村社6社、無格社18社、境内末社127社、合計151社を合祀して吾妻神社となったようです。
御祭神は大穴牟遲神ほかとされています。

社頭に社号標と朱塗りの明神鳥居で「吾妻神社」の扁額が掛けられています。
参道向かって右手に神楽殿、正面に拝殿。
拝殿は入母屋造銅板葺で、大ぶりな千鳥破風をおこし、鬼板と兎毛通を置いています。

本殿は垣に囲まれよく見えないですが、流造銅板葺で四手先と思われる組物とその間に彫られた彩色彫刻が見事です。
脇障子の彫刻も精緻な仕上がり。海老虹梁や手挟の彫刻もすさまじく立体感を帯びています。
こちらの資料(くまがやねっと)によると、武州玉井村(現熊谷市)に生まれ、花輪村石原吟八に師事し、主に寛政年間(1789-1801年)~文政年間(1818-1831年)に名作を遺した小林源太郎とその父源八の手によるものとのこと。

御朱印は社務所にて拝受。御朱印帳への書入れをいただきました。

08.親都神社



中之条町五反田220
御祭神:素戔嗚尊(須佐之男命)
旧社格:不詳(郷社という情報あり)
朱印尊格:親都神社 揮毫印刷?
・中央に社名印と独特な字体で「親都神社」の揮毫(印刷だと思う)があります。

そば処で有名な「道の駅たけやま」のそばにある古社で「ちかとじんじゃ」と読みます。
かつてこの地は吾妻の主城、岩櫃城の出城である嵩山城が築かれていたところで、一帯は城下町として、「親都千軒」といわれるほどの繁栄をみせたそうです。

城主は上杉方の吾妻斎藤氏でしたが、戦国期の永禄六年(1563年)に、岩櫃城が甲斐・武田方の真田・鎌原勢の攻勢を受けて落城。永禄八年(1565年)には激戦の末、嵩山城も落ち、往年の賑わいは失われたものとみられます。
この落城の戦死者を弔うため、嵩山に百観音が建立されたものと伝わります。

もともと、嵩山は古代から祖先の霊魂を祀る山とされる霊山で、天狗伝承も伝わってパワスポ的な要素には事欠きません。

親都神社の境内に由緒書は見当たらず、公的なWeb情報もほとんどとれませんが、そのわりに民間の情報は多く、しかもその内容は錯綜気味です。
複数の情報をまとめてみると、
・親都神社は霊山、嵩山自体を御神体としている。
・南北朝時代に編纂された「神道集」によると、嵩山の祭神は和理大明神。
・和理大明神は、嵩山山頂の奥社、麓の親都神社、里宮の和利宮で祭られている
・和理大明神は、『神道集』中の「児持山之事」伝承につながる「児持(吾妻)七社」のうちの一柱である。
・和利宮はもともと親都神社の場所に祀られていたが、御手洗山に遷座され、さらに現在の吾妻神社の境内地に遷座された。
・和利宮が遷座されたため、地元五反田の住民達は須佐之男命の分霊を勧請して氏神とした。

ここから推察するに、やはり複雑な由緒来歴を有しているようです。
なお、「道の駅たけやま」のWebには、「嵩山の神和利大明神として子持山の神を妻とし、鳥頭明神を子供として吾妻地方の中心的な神となっていた」と、神々の縁起を集めた『神道集』には記されています。」との表記があり、嵩山と和利(理)大明神のふかいつながりが窺われます。

参道は、駐車場(道の駅)の反対側にあります。
石段の参道で「親都神社」の社号標、明神鳥居、さらに登った正面に拝殿。
嵩山を背後に仰ぐかたちで参道、拝殿、本殿が配置されていることがわかります。
木々に囲まれて神さびた趣きの境内。摂社は少なく、シンプルに嵩山を拝している感じがします。

拝殿は入母屋造銅板葺身舎桁行三間で、ボリューム感にあふれた唐破風向拝を備えます。
水引虹梁端部に二面の木鼻彫刻。上部に斗栱。中備に蟇股。正面は桟唐戸でその上に「正一位親都大明神」の扁額。
向かって右手に切妻造平入りの建物を連結しています。
本殿は覆屋に納められ、よくわかりませんでした。

境内のケヤキの巨木は「親都神社の大ケヤキ」として県の天然記念物に指定され、御神木として信仰されています。

御朱印は書置のものを「道の駅たけやま」で拝受できます。
保管分がなくなった場合、簡単には補充できないような感じもあるので、事前に電話確認がベターかと思います。

09.熊野山 関松院 泉龍寺



高山村大字尻高甲1939
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
朱印尊格:南無釋迦牟尼佛(御本尊の御朱印) 直書(筆書)
・中央に三寶印と「南無釋迦牟尼佛」の揮毫。
右上に「泉龍寺」の印判。右下に宗派、寺号の揮毫と寺院印の捺印があります。
禅寺の本流的な御朱印かと思います。

高山村にある曹洞宗の古刹。
境内掲示の由来記によると、大同年間に弘法大師が開かれた名刹で、慶長三年月夜野の嶽林寺五世関室傳察禅師を開山として迎えて改宗されたとあります。
徳川三代将軍家光公より二十石の御朱印を賜り、五年に一度江戸城の将軍に御年禮(の登城)をする習わしであったとのこと。

名刹らしく、杉並木に囲まれた長い参道。
石段を登って一間一戸の薬医門ないし高麗門で風格があります。
正面に本堂。入母屋造銅板葺の端正な仏堂で、向拝部が向かって左手に寄っているので、梁行の意匠はシンメトリではありません。

また、本堂裏手には源頼朝公が浅間山麓に巻狩りに出向かれた際、泉龍寺で休憩され自ら植えられたという高野槙があり、「泉龍寺の高野槙」として県の天然記念物に指定されています。

御朱印は庫裡にて御朱印帳に書き入れいただけました。
こちらは札所ではないですが、古刹で、御朱印も快く授与いただけたのでご紹介します。
ただし、御朱印の授与をお願いするといささか驚かれた風もあったので、御朱印を乞う参拝者は多くないかと思われます。

10.熊野山 福蔵寺 (北向観世音)

 
高山村尻高乙1260
天台寺門宗 御本尊:正観世音菩薩
朱印尊格:正観世音(御本尊の御朱印) 書置(筆書)
・中央に御本尊、正観世音菩薩の種子「サ」(蓮華座+火焔宝珠)の印判・揮毫と「正観世音」の揮毫。
右に「北向観世音」の印判と山号の揮毫。左に寺号の揮毫と三寶印の捺印があります。

「北向観世音」として親しまれる高山村の天台修験系の寺院です。
永保元年(1081年)、修験者熊野坊による開創とされます。
新田氏支族里見義候により再興、室町時代初期、上野国平井の関東管領山内上杉氏の執事白井長尾氏の一族長尾尻高氏が祈祷寺にしたと伝わります。

長尾尻高氏は、白井長尾景春(伊玄入道重国)の子重儀が尻高左馬頭を称したことに始まるとされます。
応永十年(1403年)、重国は尻高城を築き重儀を城主に据え、重儀は尻高姓を名乗って尻高左馬頭重儀となりました。
爾来、この地は尻高氏の領地となりましたが、戦国時代に入ると山内上杉氏と甲斐から進出した武田氏の勢力がぶつかるところとなり、尻高氏も戦乱に巻き込まれていきました。
上杉方は岩櫃城の斎藤氏、武田方は小県の真田氏、三原の鎌原氏が代表格で、尻高氏は斎藤氏に属して真田・鎌原勢と対峙しました。

永禄六年(1563年)、武田方の真田・鎌原勢の攻撃により岩櫃城は落城、城主斎藤憲広は越後に逃れました。
憲広の子憲宗と弟虎城丸が支城の嵩山城に籠って再挙を図ると、尻高氏もこれに加わりました。

永禄八年(1565年)、嵩山城は真田氏の調略によって落城、尻高氏は武田方に降ったものの再び上杉方に転じたとされ、天正二年(1574年)武田方の真田幸隆は尻高城を攻めました。
尻高勢は奮戦したものの、ついに城は落ち、城主尻高景家は越後に落ちのびたとも伝わります。
一族の尻高義隆は、後年猿ケ京に籠もりましたが、武田・真田方の岩櫃城代の矢沢薩摩守に攻められて、ここに上州の尻高勢は滅亡したとされます。

北斗信仰にもとづき北方に向いて御座す「北向観世音」は、安産・子育て等にご利益ありとして参拝客を集めています。
修験の寺らしく、神変大菩薩(役行者)も御座します。また、5㎞ほど離れた「瀧の下不動尊」の護持もされているようです。
御本尊は、修験寺ではめずらしい正観世音菩薩です。

境内には朱塗りの灯籠や、地蔵尊、不動尊などが御座し、修験寺らしい雰囲気。
本堂前の一対の狛犬は、神仏混淆の歴史を物語るものか。
本堂は入母屋造本瓦葺唐破風向拝付きの豪壮な仏堂で、大棟から一気に引き降ろされる降り棟とくっきりとした掛瓦の対比が見事。
水引虹梁はシンプルですが、唐破風兎毛通の後ろに金色の龍が潜んでいます。
海老虹梁、桟唐戸、正面の扁額は「厄除観世音」です。

御朱印は庫裡にて揮毫書置きのものを拝受しました。

11.揚水山 舞台院 宗本寺



中之条町下沢渡494
浄土宗 御本尊:阿弥陀三尊
朱印尊格:南無阿弥陀佛(御本尊の御朱印) 書置(筆書)
・こちらは札所ではないので、御朱印は御本尊のもの(御名号)になります。
・中央に阿弥陀如来の種子「キリーク」の印判と三寶印の捺印。六字名号「南無阿弥陀佛」の揮毫。左下に寺号印の捺印。
06.善福寺のところで「浄土宗寺院の御朱印で種子印判使用のものはめずらしくないですが、三寶印と種子印ダブル捺しのものはめずらしいと思います。」と書きましたが、こちらもそのパターン。このエリアではこれが標準なのかもしれません。

応永元年(1394年)創建とされる浄土宗の古刹で、四万温泉、日向見薬師堂の護持をされています。
芝増上寺直末の格式を誇り、細い路地がらみのアプローチからは想像のつかない立派な伽藍を構えています。

石段参道の途中に朱い冠木門。さらに進むと寺号標でその先の石段を登り切ると本堂前です。
本堂は入母屋造銅板葺で唐破風の向拝を付設し、この向拝の彫刻が出色です。

水引虹梁の端部に貘と獅子の木鼻彫刻。中備に二頭の相対する龍。兎毛通にも精緻な彫刻が施されています。
本堂の欄間彫刻(町指定重要文化財)は高瀬忠七、萩原平蔵、定運などの名工によるもので、この向拝の彫刻もこれら名工の手によるものかもしれません。
格天井には鳥の画、正面に寺号「宗本寺」の扁額。

本堂向かって左手の開山堂はおそらく入母屋造妻入り、軒下二軒繁垂木の均整のとれたつくりです。

御朱印は庫裡で拝受。ご住職はお出かけでしたが、寺庭さんから書置の御朱印をいただけました。
なお、こちらでは日向見薬師堂の御朱印も授与されています。

12.日向見薬師堂



中之条町四万4371
宗派不詳(現在、浄土宗寺院が護持) 御本尊:薬師如来

四万川に沿って南北に長い四万温泉の最奥の湯場、日向見にある薬師堂です。
古来、数多の湯治客から「湯前薬師」として尊崇を集めた薬師如来が御座します。
『四万の病を癒す霊泉』、四万温泉にふさわしい尊格といえましょう。

四万温泉の開湯伝承に碓氷貞光説があります。
永延三年(989年)頃、源頼光の家臣、碓氷貞光が越後から四万奥の木の根峠を越えて日向見に至った際、心を静め夜通し読経していると一人の童子があらわれ、「あなたの読経の真心に感心し四万の病気を治す温泉を与えよう、われはこの山神である」旨を告げられた。
気がつくと傍らには効能あらたかな温泉が湧き出でていたが、これが「日向見御夢想の湯」で、これを奇瑞として建立されたのが日向見薬師堂とされます。
いまの薬師堂は慶長三年(1598年)、時の領主、真田信幸の武運長久を願って建てられたといわれ、現存する県内最古の寺院建築とされる国の重要文化財です。

お堂前にある標柱に「国宝 日向見薬師堂」とあるのは、戦前、本堂が国宝に指定されていた名残です。
手前にあるのは「お籠堂」(町指定文化財)で、お薬師様の信者が病気平癒を願って参籠したお堂です。
寄棟造茅葺、外壁は真壁造り板張りで、中央を本堂への参道が貫く構造となっています。

その先が現存する県最古(慶長三年(1867年)、桃山時代)の御堂建築とされる本堂です。
桁行・梁間ともに三間、寄棟造茅葺、外壁真壁造り板張り。向拝柱のない四方浜縁です。
軒下は二軒の平行垂木、正面には「薬師堂」の扁額が掲げられています。

境内には、摩耶姫伝説に由縁し、縁結び、子宝に霊験のある「摩耶不動」も御座します。
(→四万温泉公認キャラクター「摩耶姫ちゃん」
日向見薬師堂の宗派は不詳ですが、現在は中之条町下沢渡の浄土宗寺院、揚水山 宗本寺の管理下にあるようです。

御朱印は、書置タイプのものが参道手前の喫茶「あづまや」で拝受できます。
2016年2月拝受時は印判、2017年6月拝受時は揮毫のものでした。最近、ハンコから墨書きのものに変更されたそうです。
拝受者から「墨書き揮毫御朱印」のオファーがあったのでしょうか? たしかに女性客の多い四万温泉では御朱印ニーズが高そうです。

 
【写真 上(左)】 日向見薬師堂の御朱印(旧)
【写真 下(右)】 日向見薬師堂の御朱印(新)

【印判御朱印(以前授与)】
中央に御本尊、薬師如来の種子「バイ」(蓮華座+火焔宝珠)の印判と三寶印。「南無薬師如来」の印判。
右に「重要文化財 日向見薬師堂」の寺号。左下に寺号関係の揮毫印判がなく、寺院御朱印としてはめずらしい様式です。

【印判御朱印(現在授与)】
中央に御本尊、薬師如来の種子「バイ」(蓮華座+火焔宝珠)の印判と三寶印。「薬師如来」の揮毫。
こちらは右下に寺号の印判、左上に「奉拝」の揮毫も入って、寺院御朱印として標準的な様式です。(種子印・三寶印のダブル捺しと寺院印なしは、ややイレギュラーですが・・・)

2019年4月の花祭りに参拝しました。
なんと思いがけず御開帳されていて御尊像を直に拝めました。
せっかくの御開帳なのでお堂の軒におられたお坊様に御朱印を乞うと、「今日は花祭りなので特別な御朱印」との由。
わたしは限定御朱印にはほとんど興味がないのですが、御開帳となると話は別で有り難く拝受しました。書置御朱印です。

【花祭りの限定御朱印】
 

中央に御本尊、薬師如来の種子「バイ」(蓮華座+火焔宝珠)の印判と三寶印。「薬師如来」の揮毫。
通常御朱印とのちがいは左上に「花まつり」のカラー印判があるかないかだけですが、「薬師如来」の揮毫に筆致の冴えが感じられます。

13.青麻山 薬王寺



中之条町四万4372-1
法華宗
御首題 書置(筆書)
・御首題は揮毫書置きタイプで、お題目のほか、所縁の尊格が揮毫されています。
流麗な筆致で見応えがあります。

日向見の高級宿「つるや」の山手にある法華宗の寺院。
新宿・左門町の陽雲寺のご住職が四万・日向見で療養されて完治を得、この日向見の地に薬王寺を建立されたそうです。
「つるや」はこの薬王寺の宿坊として誕生したとのことで、いまでも密接な関係があるようです。(つるやの「鶴」は法華宗の宗紋「鶴」に由来するとの由。)

日向見薬師堂に向かう道の手前右手に石段の参道。参道手前に御題目と寺号が刻まれた石標があります。
石段を登り切ると山門。これを抜けるとさらに数段の石段があってその先に本堂。
撮影した写真の構図が悪くいまいちよくわかりませんが、入母屋妻入りのお堂に唐破風の向拝を付設したような構造では。
海老虹梁に挟まれた身舎拝み部に「薬王大菩薩」「青麻大権現」の扁額を配した奉納額が掛けられています。

御首題(法華宗なので御首題となります)は、つるやの帳場で拝受できます。
境内には霊水「薬王水(御法水)」が湧いています。

なお、日向見のお宿「つるや」では「日向見ご利益巡り」と称して、薬王寺、日向見薬師堂、摩耶不動の3ヶ所を紹介しています。


なお、中之条町四万には吾妻三十三番観音霊場第21番の法平山 萬福寺(札所本尊:正観世音菩薩)があるはずですが、Webではまったく情報がとれませんでした。
今度現地で当たってみたいと思います。

  

宿泊は自家源泉*の「渓声の宿 いずみや」にとりました。
いかにも四万らしい滋味のあるお湯をかけ流しで、食事や接客のレベルもなかなかでした。
これで、現時点で入浴可能な四万の源泉はおそらくすべてクリアしたかと思います。(自家源泉を持ち日帰り不可の「竹葉館」が難物でしたが、お宿へのヒアリングによると現在は「四萬館の湯」を使っているそうで、こちらもクリアかと。)

源泉マニア的にはクリア。それでも、これを書きながらまたぞろ行きたくなっている四万温泉。やはりすばらしい湯場だと思います。
*)使用源泉は、「泉屋の湯」。

2019年4月は「四万グランドホテル」に泊まりました。
じつは、ここのバイキングはレベルが高く、しかも湯巡りパスポ(税込540円)を買うと四万たむらの風呂にも入れるので、もう5回ほども泊まっています。
じつは、ここの7階のメルヘン風呂は展望浴場ながらすこぶるお湯がよく、さりげに気に入っていますが、これについては稿を改めます。
(つうか、四万の共同浴場や旅館はほとんど制覇しているのですが、これをみると、レポComing Soon!多すぎ! おいおい温泉レポを再開し、フォローしたいと思います。(ここ数年、こればっかしじゃが・・・(笑))

 
【写真 上(左)】 四万たむらの「御夢想の湯」
【写真 下(右)】 四万たむらの「森のこだま」

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