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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16

Vol.-15からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第47番 平塚山 安楽院 城官寺
(じょうかんじ)
公式Web

北区上中里1-42-8
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:(上中里村)平塚神社
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第47番、豊島八十八ヶ所霊場第47番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番、滝野川寺院巡り第8番

※この記事は■ 滝野川寺院めぐり-2をアレンジして仕上げています。

第47番はエリアを変えて上中里の城官寺です。

第47番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに城官寺となっています。
よって、第47番札所は御府内霊場開創時から一貫して上中里の城官寺であったとみられます。

公式Web北区資料、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

城官寺は平塚神社(平塚明神)の元別当として知られています。(→平塚神社の公式Web

城官寺は筑紫安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊した際に阿弥陀如来像を置き安楽院(安楽寺)と称し浄土宗の寺として創建といいます。
創建年代は不詳ですが、浄土宗開宗は承安五年(1175年)なので、それ以降の創建とみられます。

一方、『平塚明神并別当城官寺縁起絵巻』(北区指定有形文化財)は、平塚神社(平塚明神)の創祀について以下のように伝えています。

平安時代後期、このあたりに秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館を建て本拠としていました。
平塚城は源義家公が後三年の役(1083-1087年)で奥州に遠征した帰路の逗留地となり、豊島近義は心を尽くして饗応したため、義家公はこれに応じて、自らの鎧と守本尊の十一面観世音菩薩像を下賜しました。

近義は義家公の没後、平塚城鎮護のために拝領した鎧を埋め、その上に平たい塚(甲冑塚)を築き、義家公・義綱公・義光公の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したといいます。
創立は元永年中(1118-1120年)と伝わります。
これが平塚神社(平塚明神)の創祀で、”平塚”の地名の起こりともいわれ、当社は源家三兄弟にちなんで「平塚三所大明神」とも呼ばれて広く崇められました。

御祭神は八幡太郎 源義家命、賀茂次郎 源義綱命、新羅三郎 源義光命の源家三兄弟で、三兄弟を一社で祀る例はめずらしいかと思います。

以上より、平塚神社(平塚明神)創祀の後に城官寺が創建され、別当となったとみるのが妥当かと思われます。

豊島氏は秩父平氏の名族で、北区豊島が発祥の地、平塚城(豊島舘)を居城としたといいます。
前九年の役、後三年の役で戦功を挙げ、保元の乱では源義朝公の配下となり、治承四年(1180年)頼朝公の挙兵にも豊島清元(清光)・清重父子が馳せ参じて、豊島氏は有力御家人の地位を固めました。

鎌倉・室町時代の平塚城は領主・豊島氏代々の居城でしたが、文明十年(1478年)、太田道灌に攻められ落城しました。
その後の豊島氏宗家の動向は不明とされていますが、庶流は徳川幕府の旗本として幕末まで続いています。

清和源氏の守護神・八幡神の本地を阿弥陀如来とする説(例→兵庫県小野市Web記事)があり、清和源氏嫡流を祀る平塚明神の別当・城官寺の御本尊が阿弥陀如来であることは違和感なく受け入れられたのではないでしょうか。

また、豊島氏は王子神社紀州神社の勧請創祀にかかわり、熊野信仰と深いつながりをもつとされます。

京都今熊野の新熊野神社の公式Webによると、熊野本宮大社の本地は阿弥陀如来で「この当時(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて)の当時の熊野信仰を一言でいうと、本地垂迹説に基づく神仏習合信仰と浄土信仰が一体化した信仰ということになろう。」とあるので、豊島氏の信仰からみても城官寺の御本尊=阿弥陀如来は、自然な流れだったのかも。

さらに武州江戸六阿弥陀詣の縁起となる「足立姫伝説」の主人公も豊島氏(足立氏とも)とされ、豊島氏と阿弥陀如来のゆかりの深さを物語っています。
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~

中世の城官寺の動静は史料が少なく不詳ですが、江戸時代、山川貞久(城官)という幕府仕えの鍼灸師が真言宗寺院として再興したと伝わります。

山川貞久(城官)は、三代将軍徳川家光公が病に倒れた時、平塚神社(平塚明神)に病の平癒を日夜祈りました。
その功徳もあってか家光公の病は快癒し、貞久(城官)は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永十一年(1634年)には平塚神社の別当として当寺を再興したとされます。

寛永十七年(1640年)、家光公が鷹狩りで当地を訪れた際、平塚神社の社殿の豪華さに驚き、村長に造営者を尋ねたところ、貞久(城官)による家光公平癒祈願と社殿再建のくだりが説明されました。
これを聞いた家光公は貞久(城官)を呼び、平塚神社と当寺の所領として五十石、さらに貞久(城官)に知行地として二百石を与え、寺号を平塚山 城官寺 安楽院とすべく命じたとされます。

この病平癒の件もあってか、家光公は当地をたびたび参詣したといいます。
徳川家は源氏姓、新田氏流を名乗り、新田氏流(上野源氏)の祖は源義家公の三男義国公ですから、家光公が源家三兄弟をご祭神とする平塚神社を尊崇されたのも故あることかもしれません。

 
【写真 上(左)】 平塚神社の境内
【写真 下(右)】 平塚神社の御朱印

その後、真恵(享保三年(1718年)寂)を法流開基として現在に至ります。

御府内霊場の別当系札所寺院は明治初頭の神仏分離で廃絶となった例も多いですが、こちらは存続しています。
関係者のご尽力はもちろんですが、御府内から少し離れた郊外ということもあったのかもしれません。

山内には江戸幕府に奥医師として仕えた多紀・桂山一族の墓と山川貞久一族の墓があります。
奥医師には、典薬頭・奥医師・御番医師・寄合医師・小普請医師などが置かれ、奥医師は内科が多紀氏(丹波康頼の後裔とされる)、外科は桂川氏が世襲しました。
当寺再興の山川貞久(城官)も鍼灸師ですから、当山は医術とふかい所縁をもつことになります。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十七番
上中里村平塚別当
平塚山 安楽院 城官寺
音羽護国寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 本社平塚大明神 弘法大師
本社 八幡太郎義家 加茂次郎義綱 新羅三郎義光

『新編武蔵風土記稿 豊島郡之9』(国立国会図書館)
(平塚明神社別當城官寺)
新義真言宗大塚護国寺末 平塚山安楽院ト号ス 本尊阿彌陀ハ赤栴檀ニテ坐身長一尺許 毘首羯摩ノ作ト云 臺座ハ瑠璃ニテ造ル 是昔筑紫安楽寺ノ本尊ナリシカ 彼寺の僧回國ノ時當寺ニ旅宿シ 故有テ是ヲ附属セシヨリ安楽寺ト称ス 其頃迄ハ浄土宗ナリシカ 寛永十一年(1634年)社領修理アリシ時 金剛佛子ヲ請シテ別當タラシメシヨリ 今ノ宗門ニ改ムト云 同十七年(1640年)九月廿三日大猷院殿(3代将軍徳川家光公)社領ヘ渡ラセ給ヒテ 誰カ斯マテ造營セルヤト御尋アリシ頃 村長等山川城官ナルモノ公ノ御病悩ノ時 当社ハ己カ鎮守ナルヲ以テ御平癒アラン事ヲ祈誓セシニ 立所ニ験アリシユヘカクモノセシト御請マフセシカハ 御感ナヽメナラス 即城官ヲ御前ヘ召 社領五十石ヲ附ラセ賜ヒ 且忠賞トシテ城官ニ知行二百石ヲ賜ヒ 寺号ヲ改メ平塚山城官寺安楽院ト称スヘキノ台命アリシヨシ(略)
什物
 假面一枚 義家手澤ノ物ト云伝フ
寺中光明院
 十一面観音ヲ本尊トス コハ義家ノ守護佛行基の作ニテ 豊嶋近義ニ与フル所ノ像ナリト云 身長二尺

『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
(平塚明神社)
平塚村にあり 当社縁起云往古八幡太郎義家兄弟 奥州前後十二年の戦終凱陣のみぎり此地に逗留あり ●主豊島氏某(或豊嶋太郎義近とも云)に鎧一領幷に守本尊十一面観音(長七寸行基菩薩の作也今城官寺に安置)を賜ふ 其後元永年中(1118-1120年)豊島氏●内清浄の地を択むて彼鎧を塚に築収め(塚の形高からさるを以て平塚と号●地名も亦これに因て称す)城の鎮守とす 且社城営むて三連枝の像●安し平塚三所明神と号す(八幡太郎義家 加茂次郎義綱 新羅三郎義光) 是義家兄弟の武功を欽崇且武運を祈らん為なりと云々 別当を平塚山城官寺といひ安楽院と号す 本地阿弥陀如来を安す 赤檀佛毘首羯摩天の作瑪瑙の玉座なり 昔筑紫安楽寺の僧回國修行の砌 此像をこヽに安置せしとそ  



「城官寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「平塚明神社 鎧塚 別当城官寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[15],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』巣鴨絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りはJR京浜東北線「上中里」駅で徒歩約3分。
「上中里」駅はかなり地味な駅でふつうは降り立つ機会がなかなかありません。
筆者も寺社巡りをはじめて、はじめて降りました。

Wikipediaには「2022年(令和4年)度の1日平均乗車人員は6,547人である。京浜東北線・根岸線の駅では最も乗車人員が少なく、東京23区のJR駅の中では越中島駅に次いで2番目に利用客数が少ない。」とあり、YouTubeなどで「都内の秘境駅」などと題されてしばしば紹介されます。

■【都会の過疎駅】京浜東北線 上中里駅を探検してみた Kami-Nakazato Station JR East Keihin Tohoku Line


メトロ南北線「西ヶ原」駅からも近いですが、こちらも乗降客の少なさで有名です。
乗降客が少ないということは付近に集客施設がないということで、この周辺は閑静な住宅街となっています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

「上中里」駅からの道行きはかなりの登り坂で、城官寺と平塚神社が田端台から飛鳥山にかけて南北に走る尾根上に位置していることがわかります。

人通りもまれな閑静な住宅地に、突如としてあらわれる立派な山門は桟瓦葺の四脚門。
「平塚山」の扁額は、当寺三百年を記念して書かれた当時の内閣総理大臣田中角栄氏の筆によるものとのこと。
山門前には御府内霊場第四十七番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所標
【写真 下(右)】 ???

全体に開放的であかるい雰囲気のお寺です。
正面に本堂。寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設しています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 向拝拝み部

水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に出三ツ斗、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「城官寺」。格天井。扁額上の小壁に大瓶束と彫刻からなる笈形。
向拝屋根には経の巻獅子口と兎毛通を置く、存在感のある仏堂です。

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
御府内霊場の他複数の霊場札所を兼務され、御朱印対応は手慣れておられます。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第6番の御朱印は、現在のところ授与されていないそうです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 阿弥陀如来」「弘法大師」の揮毫。中央の印は山号印かもしれません。
右上に「第四十七番」の札所印。左下に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 滝野川寺院巡りの御朱印


■ 第48番 瑠璃光山 薬王寺 禅定院
(ぜんじょういん)
公式Web

中野区沼袋2-28-2
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第48番

第48番はエリアを郊外に変えて沼袋の禅定院です。

第48番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに市ヶ谷の林松院となっています。
よって、第48番札所は御府内霊場開創時から江戸時代を通じて市ヶ谷の林松院であったとみられます。

公式Webに「明治16年、霊場巡拝の信仰の一つ、『御府内八十八カ所』の第48番霊場(林松院)の弘法大師像が奉安されたことから、第48番霊場となりました。」と明記されているので、第48番霊場は明治16年から禅定院となっています。

まずは、下記史料などから林松院の縁起・沿革を追ってみます。

『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十八番
市ヶ谷袋町(市ヶ谷南寺町)
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義
醍醐報恩いん(院)旅宿
本尊:不動明王 弘法大師

『寺社書上 [37] 市谷寺社書上 二』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.61』
市ヶ谷南寺町
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義真言宗
旧号 宝珠院

林松院は市ヶ谷御門付近(あるいは四谷、市谷、牛込)に開創とみられますが、寛永十三年(1636年)の江戸城外堀普請に先立つ寛永十二年(1635年)、替地の市ヶ谷南寺町(市ヶ谷袋町)に移転しました。
開山は宝賢(正保三年(1646年)六月遷化)と伝わります。

江戸期は大塚護持院末の新義真言宗寺院でしたが、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「醍醐報恩いん旅宿」とあります。
「京都ガイド」に「醍醐寺報恩院はかつて鎌倉時代前期に第35世座主・憲深僧正が上醍醐にあった極楽坊を活動拠点とし、報恩院と名付けたのが始まり」とあるので古義真言宗。

林松院が醍醐寺の江戸旅宿だったとすると、新義真言宗寺院が古義真言宗寺院の旅宿だったことになりますが詳細不明です。

御本尊は不動明王。
地蔵菩薩、弘法大師木像、大随求明王、歓喜天(秘佛)も奉安していたようです。
大随求明王はおそらく大随求菩薩とみられ、胎蔵曼荼羅の蓮華部院に在します。
観世音菩薩の変化身とされ、息災・滅罪、ことに求子の功能が説かれたようですが、作例は多くない模様です。

山内には、稲荷社、銀杏稲荷大明神、朝鮮五葉松などがありました。

つぎに公式Web中野仏教会Web、下記史料などから禅定院の縁起・沿革を追ってみます。

禅定院は貞治元年(1362年)、法印恵尊を開基として新橋村(多摩郡野方領下沼袋村から枝分かれした村)に開創され、のちに現寺地に移転と伝わります。
開創時の御本尊は薬師瑠璃光如来で、山号・寺号は御本尊に由来するとも。

旧上沼袋村の伊藤一族の菩提寺として知られ、「伊藤寺」とも呼ばれていました。
明治16年、御府内霊場第48番札所であった林松院の弘法大師像が当山に奉安されたことから第48番札所となりました。

御本尊は不動明王立像で南北朝期(鎌倉時代後期?)の作といいます。
御内陣脇には薬師如来坐像が安置されています。

『新編武蔵風土記稿』に御本尊は不動明王木立像とあるので、現御本尊はこの系譜をひく尊像と思われます。
同じく『新編武蔵風土記稿』には「薬師堂 木ノ立像長三尺九寸ナルヲ安ス 運慶ノ作ト云」とあります。
この薬師如来像は開創時の御本尊であった薬師如来であったかもしれず、現在の御内陣脇の薬師如来坐像もこの流れをひかれるかもしれません。

旧第48番の松林院、現第48番の禅定院ともに史料が少なく、沿革が辿りにくくなっています。
松林院は明治初頭の神仏分離の波は乗り越えたようですが現存せず、明治16年松林院の弘法大師像が禅定院に遷られたことから禅定院が第48番札所を承継しました。
このあたりの経緯も史料からは辿れず詳細不明です。

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【史料】
【松林院関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十八番
市ヶ谷袋町(市ヶ谷南寺町)
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義
醍醐報恩いん(院)旅宿
本尊:不動明王 弘法大師

『寺社書上 [37] 市谷寺社書上 二』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.61』
市ヶ谷南寺町
恵命山 圓満寺 松林院
大塚護持院末 新義真言宗
旧号 宝珠院

当寺開闢之代は往古市ヶ谷御門移し給ふ●● 寛永十二年(1635年)御門●(略)砌為替地只今之地也
拝領地寛永十二年(1635年)為替地賜
開山 宝賢 正保三年(1646年)六月遷化
本堂
 本尊 不動明王木立像
地蔵尊木立像 弘法大師木像
 大随求明王木坐像 歓喜天 秘佛
稲荷社
銀杏稲荷大明神
朝鮮五葉松 

【禅定院関連】
『新編武蔵風土記稿 多磨郡之35』(国立国会図書館)
(上沼袋村)禅定寺
村ノ東北ノ方小名内匠ニアリ 瑠璃光山薬王寺ト号ス 新義真言宗ニテ是モ寶仙寺末(略)
本尊不動木ノ立像ニテ長一尺五寸 開山詳ナラス
薬師堂 客殿ノ東ノ方ニアリ 木ノ立像長三尺九寸ナルヲ安ス 運慶ノ作ト云



「松林院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは西武新宿線「沼袋」駅。駅前の細い路地を歩くこと3分ほどで到着です。
第41番密蔵院のすぐそばです。

 
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の扁額

路地に面して築地塀。その奥に山門という二重の構え。
山門は切妻屋根本瓦葺でおそらく四脚門。
本瓦葺の屋根は照りがきいて格調高く、見上げに山号扁額を掲げています。
別に通用門?があって、こちらにも扁額が掲げられていました。


【写真 上(左)】 通用門?の扁額
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内

向かって右手に院号標、左手に御府内霊場の札所標を置いています。

駅そばとは思えないゆったりとした山内。
参道右手に六地蔵、左手に東屋、その先右手には樹齢600年以上ともいわれる銀杏の巨木があります。
本堂向かって右手には、修行大師像と聖観世音菩薩が御座します。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 修行大師像


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

正面の本堂は昭和45年の再建。
寄棟造本瓦葺で向拝柱はなく、比較的シンプルな構成です。
扉に掲げられた庵木瓜(いおりにもっこう)紋は、おそらく大旦那の伊藤家の家紋と思われます。


【写真 上(左)】 庵木瓜(いおりにもっこう)紋
【写真 下(右)】 弁天堂

向拝見上げに掲げられた扁額は五つの梵字から成りますが、筆者不勉強につき内容は不明です。

たしか本堂向かって左手の蓮池の向こうに弁天堂があり、弁財天・大黒天・毘沙門天の辨財天三尊を安置しています。

こちらは花の寺としても知られ、とくに牡丹が有名です。

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
豊島八十八ヶ所霊場の札所も兼ね、対応は手慣れておられます。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙を貼付)

中央に「大聖不動」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(火焔宝珠)。
右上に「御府内八十八所第四十八番札所」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印


■ 第49番 寶塔山 龍門寺 多寶院
(たほういん)
台東区谷中6-2-35
真言宗豊山派
御本尊:多宝如来
札所本尊:多宝如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第49番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第9番、弘法大師二十一ヶ寺第2番

第49番は谷中の多寶院です。

第49番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに多寶院なので、御府内霊場開創時から一貫して谷中の多寶院であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

多寶院は、慶長十六年(1611年)幕府から神田北寺町に寺地を賜り建立されました。
開山は大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)、開基は不明です。

慶安元年(1648年)同所が幕府用地として召し上げとなり、現寺地に替地を得て移転しています。
湯島根生院の末寺の新義真言宗寺院で、御本尊は行基菩薩作と伝わる多宝如来です。
多宝如来は法華経に記され、東方・宝浄国の教主の如来です。

多宝如来は単独で奉安されることは少なく、御本尊の例もほとんどありません。
ただし、日蓮宗では法華経信仰に基づき釈迦如来とともに二体一組で信仰され重要なポジションです。
とくに、題目宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式は日蓮宗特有の御本尊として多くみられます。

密教では作例は少なく、札所本尊の例もほとんどないので当山の多宝如来は稀少です。
ちなみに、本四国八十八ヶ所に札所本尊が多宝如来の例はなく、他の弘法大師霊場でもみたことがありません。

当山は吉祥天の奉安でも知られています。
吉祥天はヒンドゥー教の女神・ラクシュミーが仏教にとり入れられたもので、仏教では母は鬼子母神、夫を毘沙門天とされます。

鬼子母神はとくに日蓮宗で信仰される尊格で、この点からも日蓮宗の影響が想起されますが当山は当初から純然たる密寺のようです。
この点は弘法大師霊場である御府内霊場の「御府内八十八ヶ所大意版木」が、多寶院が中心となって開版されたことからもわかります。

また、谷中エリアでの代表的な弘法大師霊場は、
 1.御府内霊場(御府内八十八ヶ所霊場)
 2.弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場
 3.弘法大師二十一ヶ寺
の3つありますが、多寶院は3つの霊場すべての札所となっており、弘法大師巡拝に外せない寺院であったことがわかります。
(「御府内八十八ヶ所大意版木」、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」ともに当山に収蔵。)

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十九番
谷中門外
寶塔山 龍門寺 多宝院
湯嶋根生院末 新義
本尊:多宝如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
湯島根生院末 谷中不唱小名
寶塔山龍門寺多宝院
慶長慶長十六年(1611年)二月十五日神田小寺町ニ寺地所拝領仕 其後慶安元年(1648年)御用地ニ●召上当時之地所拝領仕候
開山大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)
開基不分明
中興開山権大僧都法印澄正
本堂
 本尊 多宝如来 行基菩薩作
聖天堂
 聖天尊像
稲荷社
四国写八十八ヶ所碑三本 第四十九番目
石地蔵尊

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
多寶院(谷中町三二番地)
湯島根生院末、寶塔山龍門寺と号す。本尊多寶如来、開山宥純(寛永五年(1628年)八月五日寂)。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給せられて建立した。慶安元年(1648年)同所が幕府の用地となるに及び現地に替地を給うて移転した。



「多宝院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約8分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。
(→ 谷中マップ
千駄木(団子坂下)から谷中に登る三崎坂(さんざきざか)が谷中霊園に月当たるところにあり、谷中界隈では比較的開けたところです。

門柱に札所札。門柱手前に吉祥天安置標。
門柱脇にも札所標がありますが、写真がうまく撮れていません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 つつじの時期の門柱


【写真 上(左)】 門柱の院号札
【写真 下(右)】 吉祥天安置標

参道左手に六地蔵を含む地蔵尊、その先に慈母観音。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
見上げに山号扁額を掲げています。
雰囲気のあるいい本堂で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に谷中吉祥天のお堂。
堂前には幟がはためき、向拝見上げには「吉祥天」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 谷中吉祥天
【写真 下(右)】 谷中吉祥天の扁額

背後に円光(輪光)、胸部に瓔珞(ようらく)を帯び、右手は与願印、左手には宝珠を持たれる煌びやかな立像です。
吉祥天は仏教のなかでも屈指の美形の尊格として知られますが、こちらのお像も整った面立ちです。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
なお、「谷中吉祥天」の御朱印は不授与とのことです。

〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

【専用集印帳】
中央に「本尊多宝如来」「弘法大師」の揮毫とお種子の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
多宝如来のお種子は「ア」とされますが、このお種子は「ア」ではないと思われます。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ ふたりでスプラッシュ - 今井美樹


■ Saikou no Kataomoi (最高の片想い) - Sachi Tainaka


■ Musunde Hiraku - kalafina
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-15

Vol.-14からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第43番 神勝山 成就院
(じょうじゅいん)
台東区元浅草4-8-12
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第43番、弘法大師二十一ヶ寺第12番、江戸東方三十三観音霊場第24番(諸説あり)

第43番札所は元浅草の成就院です。
御府内霊場には成就院がふたつ(谷中の第43番、東上野の第78番)あり、第43番は百観音成就院、第78番は田中成就院と呼んで区別されます。

第43番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに成就院なので、御府内霊場開創時から一貫して成就院であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

成就院は、観宥法印(寛永五年(1628年)寂)が開山となり、矢の倉(現・浅草橋付近)に創建されたといいます。
「開山乗誉源印 寛永●(1624-1644年)起立 もと矢の倉に阿り万治(1658-1661年)の比当所へ移る」とする資料もあるようです。(『江戸志』)

史料によると御本尊は三尊阿弥陀如来、弘法大師坐像(大師巡拝江戸八十八ヶ所の内44番)興教大師坐像・三宝荒神坐像を奉じ、ほかに観音堂(百体観音・弘法大師)、石地蔵堂を有していたようですが、関東大震災や東京大空襲により諸堂は被災して現存していません。

「大師巡拝江戸八十八ヶ所(御府内霊場?)第44番」となっていますが、これは第43番と錯綜したのかもしれません。(第44番は当初から四ッ谷の顕性寺とみられる。)

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十三番
浅草寺町
神勝山 成就院
大塚護持院末 新義
本尊:観世音菩薩 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
江戸大塚護持院末 浅草新寺町
神勝山成就院
拙寺建立年代相知不申候
開山観宥、寛永五年6月15日遷化
本堂
 本尊 三尊弥陀如来木立像
 弘法大師木座像 大師巡拝江戸八十八ヵ所ノ内四十四番札所
 興教大師木座像
 三宝荒神木立像
 大日如来木座像
観音堂
 百体観音 弘法大師
石地蔵堂

開山乗誉源印寛永●(1624-1644年)起立 もと矢の倉に阿り万治(1658-1661年)の比当所へ移る(江戸志)



「成就院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「田原町」駅徒歩約5分。
御府内霊場札所が集中する元浅草・寿エリアの一画にあります。
都道463号浅草通り「元浅草四丁目」交差点から孫三通りを南に入ってすぐ。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号札


【写真 上(左)】 札所板-1
【写真 下(右)】 札所板-2

孫三通りに面して門柱。
門からだと民家風の事務所が目立ちますが、門柱の院号札と、本堂が一部見えるのでそれとわかります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

本堂は2層の近代建築で、おそらく2階に鐘楼を置いていますが、こういうつくりの名称を筆者は知りません。
向拝柱はありませんが、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 百観音

本堂向かって左手に百観音の尊像があり、背面には百観音の由来が記されています。
「当成就院は、古来通称百観音と云われてまいりました。百観音とは、西国三十三番、坂東三十三番、秩父三十四番観音霊場の総称であります。江戸時代には当境内にその百体の観音菩薩像がまつられていたと伝えられています、佛教信者にとって一生に一度は百観音霊場の巡拝を念願するものとされています。この度、特信者の寄進に依りその旧観を偲んで聖観音の尊像を像立し(略)」とありました。

御朱印は寺務所で拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

【専用集印帳】
中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「江戸御府内八十八ヶ所第四十三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

【汎用御朱印帳】
中央に金剛界大日如来のお種子「バーンク」(五点具足/荘厳体)と弘法大師のお種子「ユ」の揮毫、御寶印(蓮華座+火焔宝珠)はおそらく金剛界大日如来のお種子「バン」。
右上に「江戸御府内八十八ヶ所第四十三番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第44番 金剛山 蓮華院 顕性寺
(けんしょうじ)
新宿区須賀町13-5
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第44番、山の手三十三観音霊場第26番

ようやっと中間の第44番までやってきました。
引きつづき同様の構成で進めます。

第44番札所は四ッ谷須賀町の顕性寺です。

第44番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに顕性寺なので、御府内霊場開創時から一貫して四ッ谷の顕性寺であったとみられます。

下記史料、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

顕性寺は慶長十六年(1611年)牛込御門外に起立。開山は賢秀法印(承應二年(1653年)寂)と伝わります。
江戸城外濠堀削のため寺地が召上げられ、寛永十一年(1634年)現在地に移転しました。
享保十年(1725年)2月青山の出火で焼失し、文政年間(1818年~1831年)に至ってもなお仮堂のままであったと伝わります。

元文三年(1738年)中野寶仙寺末。
中興開山は秀延法印(宝暦二年(1752年)寂)とあるので、秀延法印のときに寶仙寺末となったとみられます。

当寺は寺宝「俎大師(まないただいし)」で知られています。
これは弘法大師空海が土佐國高岡郡に巡錫された折、家に泊めてくれたお礼としてまな板に「南無阿弥陀仏」の文字を彫られたものといいます。
(『ルートガイド』には「長さ1メートルあまりの俎板に彫った、阿弥陀如来像」とあります。)

幕末に至り、弘法大師が泊まられた家の末裔が江戸に移住しました。
江戸(東京)で生活苦に陥り、「俎大師」を抵当として料亭「鳥八十」より借財し、そのまま「鳥八十」の所有となりました。

「鳥八十」のあるじの娘は、後に落語家の五代目古今亭今輔を生みましたが、昭和9年の弘法大師千百年遠忌に際して「俎大師」を当山に寄進、当山の寺宝となったといいます。
(以上「Wikipedia」(出所:『四谷南寺町界隈』(新宿区立図書館))より。)

「俎大師」とのゆかりは昭和に入ってからであり、宝暦の御府内霊場開創時にはすでに御府内霊場札所の資格を備えていたものとみられます。
当山は山の手三十三ヶ所観音霊場第26番札所ですが、この霊場は享保年間末(1736年)までには開創と目されるので、宝暦年間(1751-1764年)開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

山の手三十三ヶ所観音霊場の真言宗の札所の多くは御府内霊場の札所となっています。
(護国寺、新長谷寺、早稲田観音寺、放生寺、千手院→南蔵院、光徳院、顕性寺、真成院)
あるいは、顕性寺もこの流れで御府内霊場札所となったのかもしれません。
札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
四十四番
四ッ谷南寺町
金剛山 蓮華院 顕性寺
中の村宝仙寺末 新義
本尊:大日如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [45] 四谷寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.128』
中野寶仙寺末 四谷南寺町
金剛山蓮華院顕性寺
開闢起立之儀 慶長十六年(1611年)元地●●牛込●門外
中興開山 秀延法印 宝暦二年(1752年)寂
元寶仙寺門徒 元文三年(1738年)同寺末寺と相成候
客殿
 本尊 金剛界大日如来木坐像
 弘法大師 興教大師
観音堂
 観世音木坐像 右山之手二拾六番札所
稲荷社 秋葉 八幡宮 相殿
石地蔵立像

開山 賢秀法印 承應二年(1653年)寂

『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館)
金剛山蓮花院顯性寺は中野村寶仙寺末の新義真言宗で、四谷南寺町にある。慶長十六年(1611年)牛込門外に起立し、外濠掘鑿の用地として公収されて、寛永十一年(1634年)此地に移転した。其後享保十年(1725年)二月の青山の出火に類焼して、文政(1818-1830年)当時は本建築に至らなかつたことが其書上に見える。



「顕性寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ丸ノ内線「四谷三丁目駅」駅で徒歩約8分。
寺院が並ぶ四ッ谷寺町のまっただなかにあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂

山内入口に寺号標。右手に御府内霊場の札所標。
こぢんまりとした山内で、すぐ奥に本堂がみえます。
本堂は近代建築の2層。

向拝は2階で右手奥の階段でアプローチ。
向拝見上げには山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

『ルートガイド』によると本堂には御本尊・大日如来と俎大師が奉安されているそうです。

本堂は1階庫裡にて拝受できますが、筆者参拝時は2回ご不在があったので、事前TELがベターかもしれません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「第四十四番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第45番 廣幡山 隆源寺 観蔵院
(かんぞういん)
台東区元浅草3-18-5
真言宗智山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第83番、弘法大師二十一ヶ寺第13番

第45番札所は元浅草の観蔵院です。

第45番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに蔵前の雄徳山 神光寺 大護院なので、江戸期の御府内霊場第45番は蔵前の大護院であったとみられます。

『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所異動表に第45番は大護院改め観蔵院とあるので、おそらく明治初期の神仏分離の際に札所異動があったとみられます。

まずは観蔵院について、下記史料、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

観蔵院は慶長十六年(1611年)澄(証)圓法印が開山となり中野屋鋪に創建、正保元年(1645年)現在地の元浅草に移転したと伝わります。
江戸大塚護国寺末の新義真言宗寺院です。

※『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに長文の「舊記之写」を載せていますが、いずれも達筆すぎて筆者には解読不能につき、ここまでしかわかりません。

つぎに大護院について、藏前神社公式Web、下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。
大護院の前身とみられる文殊院は蔵前にあって、高野山行人派觸頭の住院だったといいます。

『御府内八十八ケ所道しるべ』『江戸砂子温故名蹟誌』『江戸名所図会』ともに、もとは文殊院と号す高野山行人流の寺院で、行人派騒動の後、元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮を勧請された旨が記されています。

「行人派騒動」は、「元禄高野騒動」をさすと思われます。
「元禄高野騒動」とは寛永十五年(1638年)頃に端を発して50年ほどもつづき、元禄五年(1692年)幕府の裁定により決着した高野山の学侶方と行人方の争いです。

学侶方と行人方については、『元禄高野騒動と『高野春秋編年輯録』』(村上弘子氏・PDF)に、以下のとおり詳しくまとめられています。
「近世の高野山は、学侶方・行人方・聖方の「高野三方」と呼ばれる三つの組織から成り立っていた。学侶方とは法論談義や修法観念に専念する僧侶たちで、衆徒とも呼ばれる。青巌寺が頭寺院(略)行人方は興山寺を頭寺院とし、諸堂の管理や供花・給仕などの雑用に従事しており、堂衆・承仕とも呼ばれる(略)聖方は、弘法大師の入定信仰や高野山浄土信仰などを廻国唱導し(略)勧進活動を行なっていた中世の高野聖と呼ばれる僧たちが前身とされている。聖方頭寺院である大徳院は徳川氏と師檀関係を結んでおり、東照宮と二代将軍秀忠の台徳院御霊屋を祀っていた。」

行人方僧侶が堂上灌頂を受けることについて山内が紛糾し、江戸幕府も巻き込んで50年以上も争いがつづきました。
最終的には元禄五年(1692年)幕府の裁定により学侶方が勝利し、行人方の僧侶は600名以上も九州や隠岐に配流となり、行人方の多くの子院も取りつぶしとなりました。

この裁定について、『徳川実紀』(元禄五年九月四日条)は「こたび高野の事。査検のうへ仰下されし御旨もありしに。猶とかく愁訴やまず。いとひが事なれば。厳科にも處せらるべけれど。釋徒たるをもて助命せしめ山中を追放し。紀伊国の中にさしをき(略)増福院清雅はじめ八十二人は大隅国の島(略)八十人は隠岐国に遠流せしめ」と記しています。

高野山の内部機構の内紛にも係わらず、幕府は「厳科にも處せらるべけれ」とすこぶる強い姿勢でのぞみ、50年来の騒動に決着をつけたことがわかります。

「元禄高野騒動」の決着は元禄五年(1692年)9月、5代将軍綱吉公による山城國石清水八幡宮の勧請が元禄六年(1693年)8月5日(藏前神社公式Web)ですから史料類の時系列と符合します。

『御府内八十八ケ所道しるべ』の「昔ハ文殊院の八幡と称し高野山行人流の僧職ありしか 故あつて其地を改メられ石清水正八幡宮を勧請せり」の「故あつて」とは「元禄高野騒動」を示すものと思われます。

ここで気になったのは、御府内霊場札所と「高野三方」との関係です。

上記のとおり、近世の高野山は学侶方・行人方・聖方の「高野三方」と呼ばれる三つの組織から成り立っていました。
・学侶方 - 頭寺院は青巌寺、江戸の拠点は高輪の学侶方在番所
・行人方 - 頭寺院は興山寺、江戸の拠点は白金の高野山在番所行人方触頭
・聖方 - 頭寺院は(高野山)大徳院、江戸の拠点は高野山金剛峰寺諸国末寺総触頭(両国の大徳院)

これをもとに整理すると、
・学侶方 - 芝二本榎の学侶方在番所 → 高野山東京別院(第1番札所)
・行人方 - 白金の高野山在番所行人方触頭 → 文珠寺(第88番札所)
・聖方 - 高野山金剛峰寺諸国末寺総触頭 → 両国の大徳院(第50番札所)
となり、「高野三方」の江戸の拠点がそれぞれ御府内霊場の重要な札番を担っていたことになります。

御府内霊場折り返しの第45番・大護院(旧文珠寺?)が行人方触頭系寺院の系譜を曳くとなると、「高野三方」の関係からなんらかの意味合いがあったのかもしれません。

話が長くなりました。
ともあれ、文殊院跡地には元禄六年(1693年)8月5日5代将軍綱吉公が山城國男山の石清水八幡宮を勧請し、石清水正八幡宮と号しました。
なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』には「昔ハ文殊院の八幡と称し」とあるので、綱吉公による石清水八幡宮勧請以前に八幡神の御鎮座があったのかもしれません。

ここからは主に藏前神社公式Webを参考に書き進めます。

上記のとおり、蔵前の石清水八幡宮は5代将軍綱吉公が元禄六年(1693年)に山城國男山の石清水八幡宮から勧請、御鎮座されました。
爾来、江戸城鬼門除守護神、徳川将軍家祈願所として篤く尊崇せられました。

藏前神社公式Webには以下のとおり記載があります。
「文政年間(1818-1830年)の『御府内備考続編』ならびに『寺社書上』には次のように記されています。『石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は 元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候(略)」
「高野山興山寺上り屋敷」は旧文珠寺とみられ、文珠寺跡地が石清水八幡宮となったことを示しています。

享保十七年(1732年)類焼し、替地として浅草三嶋町に御遷りのところ、延享元年(1744年)寺社御奉行大岡越前守忠相が「三嶋町は御祈願所に不相応」とし、上意を得て蔵前の元地に還幸されました。

藏前神社公式Webには「江戸の北極星信仰」として、帯広市の真宗大谷派「順進寺」坂谷徹念住職による説が紹介されています。

要旨は以下のとおりです。
・北極星と北斗七星は古来より信仰の対象となり、仏教や神道にもとり入れられた。
・江戸の都市計画にも北極星、北斗七星の力が重用され、単に鬼門に神社仏閣を建立するだけでなく、神社仏閣の配置が北斗七星の形状となるように計画が練られた。
・江戸の都市計画をリードした天海は天台僧であり、神社だけで北斗七星を構成したとするには無理がある。
・北斗七星形成候補として考えられる朱印地30石以上の神社は上野東照宮、日枝神社、根津神社、藏前神社、氷川神社、愛宕神社、神田明神、白山神社の8社。
・うち根津神社は家宣公屋敷地に御遷座、白山神社は綱吉公の屋敷普請のため遷宮、氷川神社の御遷座は吉宗公の代で、江戸の都市計画(鬼門封じ)の色合いは薄く対象外とした。
愛宕神社は防火・防災上極めて重要な神社、上野東照宮、日枝神社、石清水八幡宮(藏前神社)、神田明神はすべて江戸の守護神、祈願所として大切な神社であった。
・一方、朱印地が500石以上の大寺は寛永寺、増上寺、護国寺、浅草寺の4箇寺。
増上寺は徳川家の菩提寺であり、寛永寺、護国寺、浅草寺はいずれも幕府の祈願寺として極めて大事な寺院であった。
・江戸の都市計画上の重要人物に、家光公側室で綱吉公生母の桂昌院がいる。
・延宝八年(1680年)5月実子綱吉公の将軍就任後ほどなく、桂昌院は綱吉公を動かし護国寺、藏前神社を創建して江戸守護のための北極星、北斗七星を完成させた。
・坂谷住職は以上から、増上寺、愛宕神社、日枝神社、神田明神、石清水八幡宮(藏前神社)、浅草寺、寛永寺(上野東照宮)が北斗七星、護国寺が北極星にあたると考えられた。

以上の説によると、元禄六年(1693年)8月5日、5代将軍綱吉公が文殊院跡地にみずから山城國男山の石清水八幡宮を勧請したことが符合し、また、享保十七年(1732年)の類焼で浅草三嶋町に御遷座の石清水八幡宮を、延享元年(1744年)寺社御奉行大岡越前守忠相が、「三嶋町は御祈願所に不相応」とし、上意を得て蔵前の元地に還幸された理由としても納得できます。

藏前神社公式Webにはさらに以下のとおりあります。
「当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていました。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見られます。」
神社の公式Webで元別当が紹介される例は希とみられますが、こちらでは明記され、大護院の存在の大きさが伺えます。

石清水八幡宮は「藏前八幡」「東石清水宮」とも称され、崇敬者はなはだ多く関東の名社のひとつに数えられました。

天保十二年(1841年)には日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=ナリタサンオタビ)が、幕府の方針に基づき当社境内に遷されました。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「成田不動明王御旅所 江の嶋弁天御旅所 伊勢朝熊虚空蔵御旅所 御嶽山あり」とあり、石清水八幡宮(別当大護院)が神仏習合の一大拠点であったことが伺えます。

明治初頭の「神仏分離令」により別当・雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となり、成田不動は明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も同3年練馬の東高野山に移されました。(藏前神社公式Web)

成田不動尊の江戸出開帳のほとんどは深川永代寺(富岡八幡宮)で催され、江戸の成田不動尊信仰の中心だったイメージがあります。
しかし、「成田不動信仰と市川團十郎」抄録(佛教大学大学院紀要)には、「元禄以降、江戸の成田不動信仰の拠点であった『成田山御旅宿』の経営にかかわっていた講中(略)」とあり、ふだんは日本橋の「成田山御旅宿」が江戸の成田不動信仰の拠点であったことを示唆しています。

この日本橋の「成田山御旅宿」が天保十二年(1841年)に蔵前の石清水八幡宮(別当大護院)に遷られ、その「成田不動は明治2年(1869年)深川に遷され」とあるので、1841年から1869年までの28年間は別当大護院が江戸の成田不動尊信仰の中心となった可能性があります。

話が飛んでばかりですみませぬ。
石清水八幡宮は明治6年8月郷社に列格、一時期「石清水神社」と改称するも復号し、昭和26年3月に社号を「藏前神社」と改めています。
なので戦前までの史料には「藏前神社」という神社は記載されていません。

大護院は「御室御所直院家」という真言宗仁和寺系の名刹なので、大護院廃絶後の御府内霊場札所は御室派系寺院が承継しそうですが、実際には智山派の観蔵院(元浅草)が承継しています。

観蔵院は荒川辺八十八ヶ所霊場第83番札所で、あるいは弘法大師霊場札所寺院ということで定められたのかも。
荒川辺八十八ヶ所霊場は天保九年(1838年)以前の開創とされる弘法大師霊場で、根岸・世尊寺から打ち始め、荒川、日暮里、尾久、船堀、豊島、江北、本木、千住、綾瀬、亀有、墨田、向島、亀戸、元浅草と回って根岸・千手院で結願となります。

札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

豊島八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場との札所重複は少なくないですが、御府内霊場との重複は亀戸東覚寺(第73番)、元浅草延命院(第51番)、成増青蓮寺(第19番)と観蔵院の4つしかありません。
しかし、下町の弘法大師霊場のうち蔵前・浅草辺に札所をもつのは荒川辺八十八ヶ所霊場だけなので、蔵前に近い元浅草の札所から選ばれたのかもしれません。

御室派系(大護院)から智山派系(観蔵院)への札所承継は、あるいは大護院が智山派系の成田不動尊の御旅所であったという縁によるものかもしれません。

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【史料】
【観蔵院関連】
『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.58』
江戸大塚護国寺末 浅草新寺町
廣幡山隆源寺観蔵院
起立之年代舊記に無御座候得共 往古慶長十六年(1611年) 中野屋鋪●拝領仕罷●候処 御用地ニ付所替候 仰付正保元年(1645年)中当所に引移候由申伝候
開山 澄圓法印 寛永十年(1633年)入寂
本堂
 本尊 如意輪観音坐像木佛
 ●● 弘法大師 興教大師
護摩堂
 愛染明木像王 弘法大師作
※『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに舊記之写を載せていますが、いずれも達筆すぎて筆者には解読不能です。

【大護院関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十五番
浅草御蔵前八幡 門前町あり
雄徳山 神光寺 大護院
御室御所直院家 新義
本尊:愛染明王 弘法大師
本社:石清水八幡宮
御本丸御祈願所
石清水正八幡宮 大倉前にあり
元禄五年(1692年)台命によって石清水正八幡宮勧請せり
昔ハ文殊院の八幡と称し高野山行人流の僧職ありしか
故あつて其地を改メられ石清水正八幡宮を勧請せり
別当大護院と号雄徳山と云
開山幸沼法印なり
護摩堂本尊ハ五大明王にして運慶作なり
成田不動明王御旅所江の嶋弁天御旅所
伊勢朝熊虚空蔵御旅所御嶽山あり

『江戸砂子温故名蹟誌 6巻 [2]』(国立国会図書館)
八幡宮 御蔵前 社領二百石 別當雄徳山神光寺大護院 眞言
これを文殊院といふハ 以前文殊院といひて高野山行人派の觸かしら住院す 行人派騒動ありて後 元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮をうつさせられたり

『江戸名所図会 7巻 [16]』(国立国会図書館)
八幡宮
御蔵前 社領二百石
雄徳山神光寺大護院 真言
これを文殊院の八幡といふハ以前文殊院といひて高野山行人流の觸かしら住院す
行人派騒動ありて後 元禄五年(1692年)のころ石清水八幡宮をうつさせられたり



「正覚寺 八幡宮」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[16],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
「稲荷町」は都内で育った人でもなかなか使わない駅ですが、御府内霊場札所密集エリアのアプローチになるので、御府内霊場巡拝時には重要な駅です。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入り少し行った路地を左に回り込むとすぐにあります。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 院号札

路地にすぐ面して本堂があり、たたずまいは瀟洒な邸宅のようです。
確かベルを押して御朱印帳をお預けしてからの参拝でした。

本堂前左手に修行大師像、向かって右横には聖観世音菩薩の立像。
向拝上には真言宗智山派の宗紋・桔梗紋が染められた向拝幕を巡らし、見上げには豪快な筆致の山号扁額。
ここに来て俄然札所のイメージが高まります。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 札所幟

ご案内いただいた本堂内。
正面に御本尊の如意輪観世音菩薩坐像。
向かって右に胎蔵曼荼羅、左には金剛界曼荼羅が掲げられています。

御本尊まわりに愛染明王などの諸仏。
こちらの愛染明王は、大護院の御本尊であった愛染明王とのつながりも想起されますが、詳細不明です。

向かって右には弘法大師坐像、左には興教大師坐像が御座され、密寺らしい空間となっています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」「弘法大師」の揮毫と「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第四十五番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第46番 萬徳山 聖寶院 弥勒寺
(みろくじ)
墨田区立川1-4-13
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第50番、御府内二十八不動霊場第20番、御府内十三仏霊場第6番(弥勒菩薩)、江戸十二薬師第6番

第46番は御府内霊場屈指の名刹です。

第46番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』で弥勒寺、江戸八十八ヶ所霊場では両国の大徳院(現御府内霊場・第50番札所)となっています。
よって、江戸時代に第50番札所の弥勒寺と第46番札所の大徳院が入れ替わった可能性があります。
その経緯は不明ですが、弥勒寺は御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。

下記史料、すみだ観光サイト、現地掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

弥勒寺は、慶長十五年(1610年)宥鑁上人が小石川鷹匠町に創建(中興開山とも)、馬喰町上寺町、深川など幾度かの移転を経て元禄二年(1689年)本所に移転したと伝わります。

かつては京都醍醐寺三宝院末でしたが、のちに根来寺末となっています。
寺領百石の朱印状を拝領し、新義真言宗関東四箇寺のひとつとして触頭を勤めた名刹です。
触頭とは宗派内の寺院・僧侶を統括する寺院で、幕府との接触も多く江戸時代には極めて重要な役割を果たしました。

真言宗智山派総本山智積院の公式Webによると、「新義真言宗触頭」=「江戸四箇寺」で、発足当初は知足院・真福寺・円福寺・弥勒寺。
その後貞享四年(1687年)に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、根生院が任じられています。
円福寺は明治2年に廃寺となっていますが、江戸時代には「江戸四箇寺」の寺院すべてが御府内霊場札所となっていました。

『御府内寺社備考』には、「元禄二年(1689年)賜此地 綱吉公命云彌勒根生二院者属小池房真福圓福二寺者属智積院住持亦各其山之僧可令居之云々 同年七月移寺院●本所造庫裡当」とあり、元禄二年(1689年)の本所移転時にはすでに「江戸四箇寺」に数えられていたことがわかります。

『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)には「江戸四ヶ寺の成立年次であるが、従来の研究により元和五年以降同九年以前」とあり、智積院公式Webには「その後貞享四年(1687年)に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、根生院が任じられています。」とあるので、元禄二年(1689年)に根生院が数えられている『御府内寺社備考』の記述と年次が符合します。

当初は弥勒菩薩を御本尊としたことから弥勒寺と号しましたが、後に薬師如来が御本尊となっています。
当山御本尊の薬師如来像は、徳川光圀公(1628-1701年)から寄進された尊像といいます。

この行基菩薩作と伝わるお薬師さまはもともと常陸国の真言宗寺院にあり、故あってこの寺の寺領を水戸光圀公が没収されたときにこの尊像を川(那珂川?)に流しました。
しかし不思議なことにこの尊像は下流に流されることなく、川上に向かって流されたといいます。

これを見た光圀公はこの尊像への尊崇を新たにし、川上に流れたことから「川上薬師」と呼ばれて以降人々の信仰を集めました。
光圀公はこの尊像を縁のあった弥勒寺に奉じ、以降当山の御本尊になったといいます。

弥勒寺の薬師如来は江戸十二薬師(十三薬師)第6番札所として知られていたようですが、その他の札所は概ね詳細不明のようです。

塔頭に法樹院、徳上院、正福院、寳珠院、正覺院、龍光院などがあり、多くの末寺を擁しました。
御府内霊場にも弥勒寺末の札所寺院がいくつかありました。

『御府内寺社備考』には、「権現様(徳川家康公) 台徳院様(2代将軍秀忠公) 大猷院様(3代将軍家光公) 右所三代之間御表御奥に御祈祷し●●献上仕御初穂等拝領仕候」とあり、徳川将軍家の祈祷所の役割を果たしていたことを示しています。

『御府内寺社備考』はまた、当山の大檀那が牧野備前守成貞であったことを記しています。
牧野成貞(1635-1712年)は三河牧野氏の流れで5代将軍綱吉公の側用人から下総関宿藩主。
三河牧野氏は東三河の土豪として松平氏(徳川氏)に仕え、江戸時代には門閥譜代として多くの大名・旗本家を輩出した名門です。

徳川光圀公とのゆかりといい、さすがに「触頭江戸四箇寺」にふさわしい沿革を伝えています。

山内には5代将軍綱吉公に鍼灸師として仕えた杉山和一(杉山検校)の墓所や鍼供養碑があります。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十六番
本所二ッ目林町
萬徳山 聖宝院 弥勒寺
院家長谷山方どくれいせ● 新義
本尊:薬師如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [88] 本所寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.75』
山城國醍醐三宝院末 本所二ッ目
萬徳山聖宝院弥勒寺
新義真言宗触頭
(以下抜粋)
開山宥鑁法印 聖寶院之住持也
初聖宝尊師作之不動尊幷行基作之彌勒菩薩以以為本尊故為院号
古ハ松梅山又松風山とも号
宥鑁後堀請武府拝領寺地於馬喰町建立院宇時蒙
鈞命為四箇寺職特是
慶長十五年(1610年)、御召ニ付江府●●寺地●仕 彌勒尊を本尊と●彌勒寺と号
触頭●
慶長十五年(1610年)鷹匠町に寺地を移し 元禄二年(1689年)●●拝領仕候在寺地東方に御●●

元和二年(1616年)鑁随醍醐山三寶院准三宮法務大僧正義演法流以為本寺
寛永十年(1689年)従水戸社務光明院移住以故水戸黄門君●遇
天和二年(1682年)罹災院宇為灰燼●是後転寺地 拝領深川俄造坊室
元禄二年(1689年)賜此地 綱吉公命云彌勒根生二院者属小池房真福圓福二寺もの属智積院住持亦各其山之僧可令居之云々 同年七月移寺院●本所造庫裡当

本堂
 本尊 薬師如来木像 行基菩薩作
此尊像を●●常州筑波郡之内水戸殿御領内●る真言宗之寺(略)水戸黄門公右之寺を没収
し給ふとき本尊を谷川(那珂川とも)へ流し● 不思議なる●漲る●を川上へ流れし給ふ此奇特を以て黄門公より当寺八世(略)川上薬師●来と称
 前立 薬師如来木像
    日光月光菩薩
寺寶
 常憲院様(5代将軍綱吉公)御画(筆) 鶴松之御画
 不動尊画像 弘法大師五十二歳之時作画
 千体不動尊画像
 六臂辨財天像
 弘法大師御影
鎮守八幡社
大日堂
 本尊 大日如来 観音

権現様(徳川家康公) 台徳院様(2代将軍秀忠公) 大猷院様(3代将軍家光公)
右所三代之間御表御奥に御祈祷し●●献上仕御初穂等拝領仕候

『江戸名所図絵 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
真言新義の触頭江戸四箇寺の一室なり。本尊は薬師如来、世に河上薬師と称せり。中興開山を、宥鑁上人と号す。総門の額に、彌勒寺と書せしは、朝鮮國雪月堂の筆跡なり。当寺舊柳原の地にありしを、天和二年(1682年)回禄の後、此地へ移されたり。毎月八日十二日を縁日として参詣多し。

『東京名所図絵』(国立国会図書館)
萬徳山弥勒寺ハ天祖神社の北二丁余彌勒寺橋の北詰林町に在り 真言新義の触頭にして東京四ヶ寺の一なり 本尊ハ薬師如来なり 世に河上薬師と云ふ 中興開山ハ宥鑁上人なり 毎月八日十二日ハ縁日として参詣人多し



「弥勒寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都営新宿線・大江戸線「森下」駅で徒歩約5分。
住宅、オフィスビル、寺院が混在するエリアにひっそりとあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号札


【写真 上(左)】 山内&本堂
【写真 下(右)】 杉山検校墓菩所

山内入口は門柱のみで、本堂もすぐそこに見えますが、どことなく風格を感じるのは触頭寺院の歴史でしょうか。

参道右手の観音聖像は、昭和20年3月10日の東京大空襲による犠牲者の冥福を祈る尊像です。この聖像のもとに多くの遺骨が収納されています。

「日本大百科全書(ニッポニカ)」によると2時間半の爆撃によって東京下町一帯は廃墟 (はいきょ)と化した。約2000トンの焼夷弾を装備した約300機のB-29の攻撃で下町エリアの40平方キロメートルが焼失、焼失家屋約27万戸、罹災者数は実に100万余人に達したといいます。
広くはない山内ということもあって、令和の今日でもなお戦禍の悲惨さが逼ってくるような感じがあります。

本堂は近代建築で、様式はよくわかりません。
向拝柱はなく、扉に置かれた真言宗豊山派の宗紋「輪違紋」がよく目立ちます。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 「筆供養」の碑

堂前向かって右手の「筆」と彫られた石碑は、「弥勒寺で書道の道場を開いていた昭和の書家、相沢春洋の命日にあたり、門下生がそれにちなんで使い古した毛筆に感謝を込めて供養する」「筆供養」の碑です。(すみだ経済新聞より)

本堂には表装をかけた千社札が掲げられていました。
御府内でも有数の名刹ゆえ、かつての堂宇には多くの千社札が貼られていたのでは。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 千社札

御朱印は本堂向かって左手奥の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に薬師如来のお種子「バイ」と「薬師如来」の揮毫。別に左右に種子の揮毫がありますが、達筆すぎて読解できません。
中央の主印は三寶印。
右上に「御府内第四十六番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ ノーサイド - 松任谷由実


■ thaw song - 中恵光城


■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - 杏里
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■ 今井美樹 屈指の名曲

アンジェラ・アキ関連でいきなりつながってしまった(笑)

「The Days I Spent With You」

数え切れないほどの楽曲聴いてきたけど、曲そのものに惚れ込んだ例はじつはそれほど多くない。
これはその数少ない1曲。
個人的には「空が近い週末」と並ぶ今井美樹のベスト曲だと思う。

■ 今井美樹 - 空に近い週末



今井美樹7枚目のオリジナル・アルバム『flow into space』(1992/12/23 On Sale)収録のアルバム曲。
作曲:布袋寅泰。
個人的には柿原朱美や上田知華の曲が好きだけど、この曲のできは図抜けている。
コード

曲調と歌詞のハマリ具合がハンパじゃない。
歌詞
作曲はおそらく岩里祐穂。

これ、別れた直後に聴いたら相当キツいかも。


■ The Days I Spent With You 〔オリジナルLP Vers.〕

でも、この曲はほぼ例外なくLIVEテイクの方がよい。

この曲、インストのアレンジやフレーズどりによって表情がかなり変わる。
それだけインスト陣には腕のふるいどころの楽曲では?
なんせ、今井美樹のサポートミュージシャン、腕利きぞろいだから・・・。

やっぱりインスト(楽器)は巧いに越したことはない。歌もだけど・・・。
つくづくそう思う今日このごろ。

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■ The Days I Spent With You 〔TOUR 1997 "PRIDE" Vers.〕


■ The Days I Spent With You


■ The Days I Spent With You

さっき新発見した貴重なLIVE画像付きVers.。
ドラムスの炸裂っぷりがお茶目(笑)
それと、バックVo.、川江美奈子じゃね?(3:22~)
レインボーボイスといわれる色彩感あるコーラスは今井美樹との相性抜群。

これで音質がよければベストじゃが・・・。

■ The Days I Spent With You (Dream Tour Final At Budokan 2004 / Live)


■ The Days I Spent With You

個人的にはこれがベストテイクかな。

↑ どれを聴いてもそれぞれに美味しい。
これが名曲の証かと・・・。

■ 今井美樹の名バラード25曲!
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■ 勢至菩薩の御朱印 / 二十三夜月待講

今年はうさぎ年なので、月やうさぎに関連する尊格をすこし追加してみました。


今回は、すこし趣向を変えて尊格ベースでご紹介してみます。
如意輪観世音菩薩
につづく第2弾です。



【 勢至菩薩 】
勢至菩薩は迷いや戦いの世界から、智慧の光明をもって苦を取り除き、衆生を救われる菩薩とされます。
梵語はマハーストハーマ(スターマ)・プラープタ。大勢至菩薩、得大勢、大精進菩薩などの別名があります。
御真言は、オン・サンザン(ザン)サク・ソワカ。
種子はサク。三昧耶形は未敷蓮華(蓮の蕾)、御縁日は毎月23日です。

単体で祀られることは少なく、あらわれるお姿としてはつぎの4パターンが一般的です。

1.阿弥陀三尊の一尊
阿弥陀如来の脇侍として、右側(礼拝者からは左手)に御座します。左側(礼拝者からは右手)は聖観世音菩薩です。

2.十三仏の一尊
追善供養の十三仏のうち、一周忌(裁判官 都市王)に供養する仏様とされています。

3.十二支守り本尊の一尊
午(うま)年と6月生まれの守り本尊として祀られます。

4.月待講の二十三夜講中の御本尊
この場合は単体で祀られます。後述します。

お寺で目にする場面はけっして少なくありませんが、なぜか地味なイメージのある仏様です。
おすがたは比較的多彩で、合掌形、梵篋印(掌を合わせ重ねられる)などが多いですが、右手に持物(水瓶や未敷蓮華)、左手は与願印の例もあります。
阿弥陀三尊の場合は、とくにもう一尊の脇侍、聖観世音菩薩とのバランスで持物や印相が定められているケースが多いようです。

阿弥陀三尊の場合はその御座の位置、十三仏や十二支守り本尊の場合は「勢至菩薩」と尊名がふられていますので識別は容易ですが、単体で祀られる場合(独尊像)はなかなか困難です。
ただ、勢至菩薩は頭上の髻の正面(ないしは宝冠)に水瓶を置かれるので、これで区別する人もいるようです。(聖観世音菩薩の場合は、この位置に化仏を置かれる。)

阿弥陀三尊では立像が多いですが、十三仏や十二支守り本尊では坐像が多くなっています。

浄土宗の根本所依教典である「観無量寿経」で説かれ、法然上人を勢至菩薩の化身(勢至菩薩は法然上人の本地身)とする信仰もあって、浄土宗でもなじみのふかい尊格です。
(法然上人の幼名は勢至丸。浄土宗寺院で「勢至堂」が置かれる場合は、この法然上人信仰の意味合いが強そうです。)

〔 二十三夜講/二十三夜待ち〕
『神仏混淆の歴史探訪』(川口謙二氏著)を参考にしました。

勢至菩薩は古くから二十三夜講(月待念仏講)の御本尊とされ、お寺の境内に十九夜塔や地蔵菩薩などとともに露仏として多くみられます。
また、「二十三夜塔」「廿三夜待供養塔」「月天子」として祀られる例もあります。

月待念仏講とは、特定の日に潔斎して月の出を拝し、厄除、除災、繁栄を祈る行事で多くは地域の人々が集って催されました。
十七夜は千手観世音菩薩、十八夜は聖観世音菩薩、十九夜は馬頭観世音菩薩、二十夜は十一面観世音菩薩、二十一夜は如意輪観世音菩薩、二十二夜は准胝観世音菩薩、二十三夜は勢至菩薩を月待ちの本尊とします。
二十六夜は、月光の中に阿弥陀如来・聖観世音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊が現れるとされます。
二十三夜は男性の月待、二十二夜は女性の月待とする地方もあるようです。


月に関係する尊格としては月天(子)があり、十二天の一尊。月やその光明を神格化した尊格とされ、勢至菩薩の変化身ともされるようです。
単体で祀られることはほとんどなく、御朱印もみたことがありません。

月光菩薩(がっこうぼさつ)は、日光菩薩と共に薬師如来の脇侍を務め、薬師三尊を構成します。
月の光を象徴する菩薩とされますが、月待信仰との関連は薄そうです。

授与例はきわめて少ないですが、五反田の薬師寺東京別院ではこちらの稀少な御朱印を拝受できます。

薬師寺東京別院の月光菩薩の御朱印


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以上は仏教系の月待信仰で、神道系では月讀尊が信仰の対象となります。
神社の境内ではときおり「月讀尊」の石碑がみられますが、これは月待信仰からきているものとみられます。

御祭神に月讀尊を祀る神社は、月待信仰と関係のあるケースとないケースがあるようです。
月読尊を祀る神社じたいがもともと少なく、御朱印はかなりレアです。

栃木県足利市の伊勢神社の境内社・月讀宮、川崎市麻生区の月讀神社、阿佐ヶ谷神明宮の摂社・月讀社は御朱印を授与されています。
茨城県つくば市の(樋の沢)月讀神社は、月待信仰との関連が示唆されており、御朱印も授与されています。(→ご紹介ブログ
千葉の柏神社でも不定期ながら月讀尊の御朱印が授与されています。


■ 栃木県足利市の伊勢神社の境内社・月讀宮の御朱印

 
【写真 上(左)】 川崎市麻生区の月讀神社の御朱印
【写真 下(右)】 阿佐ヶ谷神明宮の摂社・月讀社の御朱印


【写真 上(左)】 新宿・赤城神社の雪うさぎの御朱印帳

新宿区(牛込)の赤城神社では、かわいい雪うさぎの御朱印帳が頒布されていますが、これは、群馬の赤城神社(元宮)の御祭神の一座が月讀尊であることと関係があるかもしれません。
阿佐ヶ谷神明宮では時期限定で「神むすび 月うさぎ」が頒布されます。

また、浦和の調神社(つきじんじゃ)も月待信仰と関係があったらしく、境内はうさぎだらけです。
こちらは御朱印、御朱印帳ともにうさぎが登場しています。

神仏習合における月讀尊の本地はふつう阿弥陀如来とされるようですが、勢至菩薩とする説もある模様。
いずれにしても阿弥陀三尊に勢至菩薩は含まれるので、神仏習合の流れからみても月讀尊と勢至菩薩は関連があるのかもしれません。
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月待ちは、庚申待ち(庚申講)などと同様、娯楽の少なかった時代のストレス発散やコミュニケーションの場として機能していたという説があります。

勢至菩薩の二十三夜(二十三日)は、六齋日(月のうち斎戒謹慎、あるいは念仏すべき6つの日、8日、14日、15日、23日、29日、30日)に当たり、夜が明けた二十四日はメジャーな地蔵菩薩の縁日でもあることから、とくに広まったという見方があります。

二十三夜は毎月、月を限る場合は正月、5月、9月、11月の23日など、地方によって異なるようですが、とくに中秋の9月(10月)23日は盛んにおこなわれたようです。
「にじゅうさんや」と呼びますが、「三夜様(講)」(さんやさま(こう))と呼ぶ地方もあり、妙法寺の「二十三夜堂」は「さんやさま」と呼ばれています。

御朱印については、1.阿弥陀三尊の一尊、4.二十三夜講中の御本尊として授与される例はまれで、ほとんどが2.十三仏の一尊、3.十二支守り本尊の一尊の御朱印となります。
今回、妙法寺様にて4.の御朱印をいただきましたので、これまで関東で拝受した勢至菩薩(ないし二十三夜様)の御朱印をご紹介します。

01.大智山 勢至院

東京都江東区三好1-4-5
浄土宗 御本尊:勢至菩薩
札所:-
御朱印尊格:秘佛 勢至菩薩
※ 令和初縁日の御朱印です。

勢至菩薩が御本尊の稀少な例です。
御本尊はもともと霊巌島の霊巌寺の勢至堂に安置されていたもので、寛永六年(1629年)霊巌上人自らが彫刻されたものを、明暦の大火で全焼した霊巌寺から、霊巌上人の弟本誉太巌上人がおまもりし、当寺を開山・創建して御本尊として安置されたと伝わります。

御本尊の勢至菩薩は平安時代末~鎌倉時代初期の作とされる一木造、彫眼で合掌形をとられる坐像で秘仏です。

外観はこじんまりとしたお寺様ですが、ご住職がいらっしゃるときは御朱印の授与をいただけ、思いのほかに広い2階の本堂にあげていただけます。

02.光明山 照徳院 円勝寺

東京都北区中里町3-1-1
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:滝野川寺院めぐり第7番、江戸・東京四十四閻魔参り第36番、閻魔三拾遺第7番
御朱印尊格:南無阿彌陀佛(六字御名号)・勢至菩薩(印判)

中央に六字御名号「南無阿彌陀佛」と阿弥陀如来の種子「キリーク」の揮毫と梵字九字の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左上に勢至菩薩の種子「サク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「勢至菩薩」を含む印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
丸みを帯びた六字御名号は、祐天上人の御名号、徳本上人の「徳本文字」を彷彿とさせる筆致です。
御朱印にも勢至菩薩が登場されるので、やはりこのお寺様において勢至菩薩は格別の尊格なのかもしれません。
なお、滝野川寺院めぐり、霊場無申告(御本尊)、いずれの御朱印でも勢至菩薩の御印はいただけるようです。

03.師慶山 医王寺

埼玉県皆野町三沢1960
真言宗豊山派 御本尊:勢至菩薩
札所:秩父十三仏霊場第9番
御朱印尊格:勢至尊
公式Web

秩父十三仏霊場は関東では鎌倉十三仏と並んでメジャーな十三仏霊場です。

こちらは、御本尊が勢至菩薩です。
寺伝によると、聖徳太子がこの地を巡訪された際、諏訪明神から夢の中でお告げを受けられ、自ら薬師如来の像を彫刻して安置され開山、これが今の奥の院となっています。
聖武天皇の時代には行基菩薩が巡訪され、勢至菩薩を安置し、師慶山観音院と名付けられました。弘仁元年(810年)に弘法大師が訪れ、自ら馬鳴菩薩を彫刻され安置されたという、華々しい寺歴をもつ寺院です。

通称、二十三夜寺と呼ばれ、この地域の二十三夜様信仰の中心となっていた可能性があります。
また、寺宝として「月輪石」を護持されていることも、月待信仰との関連を想像させます。

御本尊の勢至菩薩は立像の合掌形。
毎月23日・旧暦23日限定の「二十三夜寺御朱印」を授与されています。


【写真 上(左)】 23日の御本尊御朱印
【写真 下(右)】 23日の二十三夜寺御朱印

04.泉谷山 浄光明寺

 
神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-12-1
真言宗泉涌寺派 御本尊:阿弥陀如来
札所:鎌倉十三仏霊場第9番、鎌倉六阿弥陀霊場第4番、鎌倉三十三観音霊場第25番、鎌倉二十四地蔵霊場第16番・第17番、相州二十一ヶ所霊場第6番、新四国東国八十八ヶ所霊場第82番
御朱印尊格:勢至菩薩

鎌倉十三仏霊場は、関東ではもっともメジャーな十三仏霊場で、専用納経帳も用意されています。
浄光明寺は鎌倉でももっとも兼務霊場が多い寺院のひとつで、御朱印の霊場申告ははっきりとお伝えした方がいいかと思います。

05.永山阿弥陀堂

東京都多摩市永山18-9
宗派不明 御本尊:阿弥陀三尊
札所:多摩十三仏霊場第9番
御朱印尊格:勢至菩薩

多摩十三仏霊場は、多摩市内に奉安されている13の仏様を巡る霊場です。
この霊場の札所は大きめのお寺様が多いのですが、第9番は無住のお堂です。
お堂前に御座す勢至菩薩は、坐像の合掌形です。
御朱印は近くの個人宅で拝受できます。

06.聖天山 歓喜院

埼玉県熊谷市妻沼1627
高野山真言宗 御本尊:大聖歓喜天
札所:武州路十二支霊場(午)、関東八十八箇所第88番、東国花の寺百ヶ寺霊場26番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第16番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第13番
御朱印尊格:大勢至菩薩
公式Web

「妻沼聖天」で知られる真言宗の名刹。武州路十二支霊場の午の札所をつとめられ、御朱印も拝受できます。
こちらも4つの現役札所を兼ねられており、参拝客も多いので、御朱印の霊場申告ははっきりとお伝えした方がいいかと思います。

07.石青山 威徳院 大聖寺

埼玉県小川町下里1857
天台宗 御本尊:如意輪観世音菩薩
札所:武蔵国十三佛霊場第9番
御朱印尊格:大勢至尊
小川町観光協会Web

武蔵国十三佛霊場は、埼玉県の西部~北部にまたがる天台宗寺院の十三仏霊場。
札所対応はしっかりしており、汎用御朱印帳でも拝受できました。
御本尊、如意輪観世音菩薩の御朱印も授与されています。

08.紫雲山 大正寺 放光院

埼玉県寄居町寄居967
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:武州寄居十二支守り本尊霊場(午)
御朱印尊格:勢至菩薩
寄居町Web

武州寄居十二支守り本尊霊場は埼玉県寄居町内の8箇寺から構成される十二支守り本尊めぐりです。
町を挙げてプッシュしている感じがあり、御朱印対応もスムーズです。

09.亀養山 松樹院 長安寺

神奈川県横須賀市久里浜2-8-9
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:三浦干支守り本尊八佛霊場第1番(午)、三浦二十八不動尊霊場第9番、三浦二十一ヶ所薬師霊場第10番、三浦三十八地蔵尊霊場第6番、三浦半島観音三十三札所第23番
御朱印尊格:勢至菩薩

三浦干支守り本尊八佛霊場は、三浦半島の古刹8箇寺からなる干支守り本尊霊場で、現役霊場として活動されています。
他の霊場札所を兼務されているお寺様が多く、御朱印対応は手慣れておられます。

10.龍澤山 普門院 慶岩寺

埼玉県行田市酒巻1862
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:行田救済菩薩十五霊場第7番
御朱印尊格:勢至菩薩
公式Web

行田救済菩薩十五霊場は、埼玉県行田市、鴻巣市の15箇寺からなる霊場で、宗派、札所本尊とも多彩です。
こちらの御本尊は阿弥陀如来ですが、霊場の札所本尊は勢至菩薩となっています。
「救済菩薩十五霊場」なので、菩薩を札所本尊にお迎えしたのかもしれません。
霊場の専用納経帳があるようですが、汎用御朱印帳でも拝受できました。

11.日圓山 妙法寺



東京都杉並区堀ノ内3-48-8
日蓮宗
御朱印尊格:弐十三夜堂
公式Web

「厄除祖師」として知られる日蓮宗の本山(由緒寺院)です。
本堂(三軌堂)の奥に二十三夜堂。
二十三夜尊大月天王をお祀りしていますが、お堂前の「廿三夜堂縁起」には、勢至菩薩の御名も記されていました。
うさぎにゆかりのある尊格らしく、お堂の鬼板や持送りにはうさぎの彫刻が施されています。このお堂の彫刻はどれもすばらしいです。

都内とは思えないすばらしい雰囲気のお寺様で、とくに本堂(三軌堂)から日朝堂、二十三夜堂にかけてはしっとりと落ち着いて深山の空気感さえ感じます。

御首題、御朱印は祖師堂向かって右手奥の授与所でいただけます。
いつお伺いしても清々しいご対応です。

「二十三夜堂」は毎月23日のみの御開帳で、「二十三夜堂」の御朱印も毎月23日の限定授与となっています。この御朱印や一緒にいただける散華にもかわいいうさぎが登場しています。
通常は、御首題、厄除祖師の御朱印、日朝堂の御朱印の3種の授与で、オリジナル御朱印帳も頒布されています。

12.大悲山 保和院 桂岸寺

茨城県水戸市松本町13-19
真言宗豊山派 御本尊:勢至菩薩
札所:茨城百八地蔵尊霊場第1番
御朱印尊格:勢至尊

地元の水戸では「谷中の二十三夜尊」と呼ばれ親しまれるお寺さま。
天和二年(1682年)、檀海和尚の開山で、全隈町にあった普門寺を、中山備前守信治が水戸藩家老中山信正の供養のためにこの地に遷して建立。
保和院への改号は徳川光圀公の命によるもので、京都御室仁和寺末でありながら律宗も兼ねるという一寺二律の修験場でした。

御本尊の勢至菩薩は行基菩薩の御作と伝えられ、佐竹貞義公の護持仏でした。
縁日は毎月旧暦23日で、とくに正月・5月・9月・11月は賑わうそうです。

13.嶺嶽山 龍源寺

群馬県藤岡市藤岡甲317
曹洞宗 御本尊:勢至菩薩
札所:-
御朱印尊格:南無勢至菩薩

天正年間(1573-1592年)、藤岡三万石の藩主・芦田(依田)康勝の兄、芦田(依田)康国の開基と伝わります。

御本尊は勢至菩薩ですが、その所縁はよくわかりません。
「天正十九年奉安 勢至大菩薩」という石標もあるので、芦田(依田)氏所縁の勢至菩薩ではないでしょうか。
寺号標には「厄除祈願 三夜尊」、御朱印にも「上州二十三夜」とあるので、やはり二十三夜と関係のふかいお寺さまとみられます。

現在の本堂は文化十二年(1815年)の再建で、向拝の彫刻が見事です。

※ 勢至菩薩の御朱印は授与されていませんが、二十三夜と関係のふかいお寺さまとみられるのでご紹介します。

14.月光山 福正寺
 

埼玉県滑川町月輪454
天台宗 御本尊:聖観世音菩薩
札所:比企西国三十三観音霊場第23番
御朱印尊格:聖観世音

比企西国三十三観音霊場第23番の巡拝に行くと、立派な勢至堂があり、由緒書もありました。
「須弥壇の四方には勢至菩薩にお仕えする卯の彫刻が施され、郷の人は兎を食べないといわれ、縁日(1.4.10月の23日)には精進して信仰する」とあるので、やはり二十三夜と関係のふかいお寺さまとみられます。

月輪という地名は、月輪大納言藤原兼実卿にちなむとする説があり、兼実卿は勢至菩薩を信仰していたとされますが、兼実卿がこの地に下向されたことはなく、荘園を領していたという確たる記録もないようです。

勢至堂は建久七年(1196年)の創建、嘉永二年(1849年)の再興と伝わります。
堂前にはうさぎが控え、向拝には見事な彫刻と天井絵が施されています。

御朱印は御本尊聖観世音菩薩のものが授与されています。


15.妙雲山 宝幢寺


埼玉県加須市大越1515
真言宗豊山派 御本尊:阿弥陀如来
札所:利根中流川十三仏霊場第9番
御朱印尊格:勢至菩薩

利根川中流十三仏霊場は、埼玉県加須市、羽生市、群馬県板倉町の利根川中流域にまたがる真言宗豊山派寺院の十三仏霊場です。
霊場一覧は → こちら(「ニッポンの霊場」様)

あまり知られていませんが札所対応は意外にしっかりしており、汎用御朱印帳でも概ね拝受できます。
こちらは山内がよく整ったお寺さまで、きもちのよい参拝ができます。

16.大沼田山 萬福寺

栃木県足利市大沼田町1436
時宗 御本尊:阿弥陀如来
御朱印尊格:勢至菩薩

こちらは多様な尊格の御朱印を授与されており、勢至菩薩の御朱印も授与されています。

■ 三日月様/三日月尊天
北関東、とくに栃木県南部では三日月様/三日月尊天が祀られ、壬生町の向陽山 常楽寺では三日月尊天の御朱印も授与されています。
複雑な性格の尊格のようですが、月待信仰とも関係がありそうです。





【 BGM 】
■ 月のヒカリ - Noa feat.中村舞子


■ 月光 - 鬼束ちひろ(カバー)


■ 三日月 - 絢香
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冬の名曲10曲

寒くなってきたので、思いつくままにリストしてみました。
例によって女性ボーカル限定です。
メジャー曲は、カバーテイクをもってきました。

01. AYANE - 初雪 • HATSUYUKI (2022年)


02.ロッヂで待つクリスマス - Covered by ??? (1978年)


03.遠い街から - 今井美樹 (1992年)


04.サイレント・イヴ - Covered by ClariS (1991年)


05.フユラブ - Juliet (2009年)


06.ORION - Covered by 堀優衣 (2008年)


07.DEPARTURES - Covered by 華原朋美  (1996年)


08.雪の華 - Covered by 花たん(hanatan) (2003年)


09.メリクリ - Covered by 荒牧陽子 (2004年)


10.Over and Over - Every Little Thing  (1999年)


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■ シャ・ラ・ラ - サザンオールスターズ - 桑田 佳祐 & 原 由子 - (1980年)

ラストに初期サザンの名曲を入れてみました。

■ 初期サザンとメガサザン(サザンオールスターズ、名曲の変遷)
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■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 2.目黒不動尊

写真を追加しました。

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2023-11-18 UP

こちらからつづく

02.泰叡山 護國院 瀧泉寺〔目黒不動尊 / 江戸五色不動〕
目黒区下目黒3-20-26
天台宗
御本尊:不動明王(目黒不動尊)
札所:江戸五色不動(目黒不動尊)、関東三十六不動霊場第18番、江戸三十三観音札所第33番、山手七福神(恵比寿)、東京三十三所観世音霊場第3番、江都三十三観音霊場第33番、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第22番、江戸・東京四十四閻魔参り第23番、弁財天百社参り第24番

境内掲示、公式Webの縁起天台宗東京教区の公式Web((一社)しながわ観光協会Web)目黒区資料、『関東三十六不動霊場ガイドブック』などを参考に、縁起、変遷などをまとめてみます。


「目黒不動之図 / 源氏絵」  国芳
国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所」より利用規約にもとづき転載。)


「目黒不動堂 / 江戸名所図会. 七」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)

大同三年(808年)、慈覚大師円仁が十五歳のとき、師の広智阿闍梨に伴われて故郷の下野国から比叡山の伝教大師最澄のもとに赴く途中、目黒の地に宿をとられました。
その夜のこと、夢の中に恐ろしい形相をした神人が現れ「我、この地に迹を垂れ、魔を伏し、国を鎮めんと思ふなり。来って我を渇仰せん者には、諸々の願ひを成就させん」と告げられました。
慈覚大師がその神人の尊容を像に刻して安置されたのが開創と伝わります。

承和五年(838年)、渡唐された大師が長安・青竜寺の不動明王を拝したところ、件の夢中の神人がまさにこの不動尊であると察せられ、御帰朝後の天安二年(858年)、像を安置した目黒の地に堂宇を建立されました。

堂宇の建立にあたり大師が法具の獨鈷を投じると、そこに霊泉が湧出し滝を落としました。
この滝は「獨鈷の瀧」と名づけられ、大師自ら「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉長久」と棟牘に記されて、その由縁から「瀧泉寺」と号されたと伝わります。
貞観二年(860年)、清和天皇より「泰叡」の勅額を賜り「泰叡山」と号します。

弘治三年(1557年)堂塔の修理造営成ったものの、元和元年(1615年)火災により多くの伽藍を失いました。
このとき御本尊の不動明王はみずから猛火をなぎ払い、獨鈷の瀧の上に飛来して火災の難を逃れたと伝わります。

江戸時代の寛永年間(1624-1645年)、三代将軍家光公がこの地で鷹狩りを催した際、愛鷹が行方知れずになりました。
家光公みずから不動尊の前に額づき祈願を籠めると、愛鷹は本堂前の松(鷹居の松)に戻ってきたため家光公は不動尊の霊威を尊信、帰依しました。

寛永七年(1630年)、上野護国院の開祖・生順大僧正が当寺を管掌、堂宇再建を手掛けた際に家光公は寄進援助し、五十三棟にも及ぶ大伽藍の復興を成しました。
その壮大な伽藍は「目黒御殿」と称されるほどに華麗を極めたと伝わります。

承応三年(1654年)には御水尾天皇より「泰叡山」の勅額を、元禄六年(1693年)には御西天皇御宸筆の「不動明王」を拝戴して、開山以来、実に三度の勅額の下賜を受けています。

以降、徳川将軍家の保護もあって隆盛を極め、関東最古の不動霊場として、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と併せて「日本三大不動」のひとつに数えられます。

目黒は江戸御府内からほどよい距離の風光明媚の地(夕陽の紅葉で名高い行人坂上)で、目黒不動尊をはじめ蛸薬師と呼ばれる成就院や、弁財天霊場として知られる蟠龍寺もあったため江戸庶民の格好の参詣先となり、門前も市をなしてにぎわいました。
”江戸の三富”(当山、湯島天神、谷中感応寺)と呼ばれた名物の富くじも、目黒繁栄の一因といわれます。

明治に入っても諸人の尊崇篤く、西郷隆盛や東郷元帥などが祈願に訪れています。
西郷隆盛は主君島津斉彬公の当病平癒のために日参。
東郷元師は日本海海戦の勝利を立願し見事に成就したため、庶民の目黒不動尊信仰はますます隆昌を極めたといわれます。

なお、落語噺として有名な「目黒のさんま」は当然目黒の名物ではなく、江戸期には「目黒のたけのこ」と賞され、とくにたけのこ飯が名物だったようです。

~ 筍や 目黒の美人 ありやなし ~  正岡子規

『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「同所の西百歩あまり不動堂 泰叡山 龍泉寺と号す天台宗●●東叡山に属せし 開山ハ慈覚大師 中興慈海僧正なりと 本堂不動明王 慈覚大師作脇士ハ八大童子なり 本殿額泰叡山御西院御筆 楼門額泰叡山御水尾帝御筆 鳥井(ママ)額泰叡山日光御門主明王院宮御筆 経蔵 一代蔵経を安置本尊に釋迦阿難迦葉の像を置 八幡宮 早尾権現/祭神猿田彦大神或ハ素戔嗚尊ともいふ祭礼ハ五月十五日なり此堂社何れも本堂の左に並ぶ 恵比寿大黒祠 鐘楼 水神社 愛染明王 大行事権現/此地の地主神なり祭神高祖皇産霊尊なり五月十五日祭礼あり 石不動尊/何れも本堂の右にあり 稲荷祠 地蔵尊/掌善掌悪の二童子を置 聖観音 開山堂 聖徳太子 天照太神宮 本地大日如来/本堂の後峙●る山の腰を切割く安置を俗す奥の院と称す 吉祥天女祠 天満宮 鬼子母神 十羅刹女祠 虚空蔵堂 遮軍神祠 何れも本堂の後に並び建つ 結神祠 役小角/女坂の中程にあり銅像にして前鬼後鬼の像あり三佛堂/弥陀薬師釋迦等の三尊を安す 子安明神/鬼子母神あり 疱瘡神 粟島明神 石地蔵尊 秋葉権現 六所明神 荒神宮 何れも二(ママ)王門入て右の方にあり 辨財天祠/江島弁天の模なり 地蔵堂/堂内閻王脱衣婆等の像を安せり 観音堂/中尊ハ聖観音廻●●西國坂東秩父等の札所百番の観音を安置せり 勢至堂 稲荷祠 前不動/左右に十二天の像を安置す 何れも楼門の左の方にあり 楼門/左右に金剛密迹二王の像を置裏に使者犬の像を置り 獨鈷の瀧/(中略) 一年此滝水の涸たりしことありたる● 沙門某江島の弁天に祈請したてまつり再ひ元の如しとぞ故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる(中略) 鷹居の松/(中略) 」

明治23年刊の『東京名所図会』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「開山ハ慈覚大師なり 本尊不動明王ハ慈覚大師の作なり 本殿の額泰叡山は御西院天皇の御筆 楼門の額泰叡山ハ御水尾天皇の宸筆 鳥居の額泰叡山ハ日光御門主明王院宮の御筆なり 境内に神佛の堂社多くありて一々枚挙すべからぞ 獨鈷の瀧ハ常山の垢離場にして霊泉常に滔々と落下す 如何なる炎天干魃にも涸るヽ事なしと云ふ 往昔ハ三口に分れて湧出せしかど今ハニ流となれり 当寺ハ慈覚大師夢想に感得せし尊容を彫刻して露示の如く此地に安置せしなりとぞ 此地少しく都下を隔つと雖も諸人常に群参せり 殊に正五九の月にハ廿七廿八両日とも非常に賑へり 此門前五六町の間ハ左右酒店茶肆軒を連ねて参詣人の休憩所に充つ 殊に粟餅飴及び餅花等名物として之を商ふ家頗る多し 其繁昌推して知るべし」

参詣の土産として知られていたのが”粟餅”、”餅花”、”飴”でした。
「桐屋」の飴は人気だったらしく、『江戸名所図会』に「目黒飴」と題して挿絵が載せられています。


「目黒不動餅花 / 江戸自慢三十六興(書画五十三次) 絵師:広重, 豊国」
錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)


「目黒飴 / 江戸名所図会. 七」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)

公式Webでは、江戸五色不動につき以下のとおりとりあげています。引用します。
「江戸五色不動は、江戸時代には五眼不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すものです。その由来については諸説ありますが、各位置は江戸城(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤)、甲州街道(白)、東海道(黒)といった江戸府内を中心とした五街道沿い(又は近く)にあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたといわれています。」

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最寄り駅は「目黒」駅か東急線「不動前」駅ですが、どちらからも微妙に距離があります。
名勝・行人坂の往年の情景をしのぶには、目黒駅から歩いた方がいいかもしれません。

目黒駅から目黒川に向けて行人坂をくだっていきます。
江戸時代、紅葉夕景の名所「夕日の岡」として広く知られた急坂です。
江戸名所図会. 七(国会図書館DC)には「明王院の後の方西に向へる岡といへり古へハ楓樹数株梢を交へ晩秋の頃ハ紅葉夕日に映し奇観なりしと知らされと今ハ楓樹少く只名のみを存せり」とあります。


「夕日岡 行人坂 / 江戸名所図会. 七」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)

目黒の高台から西側に下るこの坂は富士眺望の名所でもあり、数々の浮世絵が遺されています。
現・ホリプロのビルのあたりに富士の眺望で名を馳せた「富士見茶屋」があり、錦絵にも遺されています。


【写真 上(左)】 行人坂下り口
【写真 下(右)】 富士見茶屋跡地


「行人坂 / 江戸名勝図会 絵師:広重」
錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)
※ 右手の冠木門が富士見茶屋


「目黒行人阪之図 / 広重東都坂尽 絵師:広重」
錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)


「目黒行人坂富士 / 江戸自慢三十六興 絵師:広重, 豊国」
錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)

作家・杉本苑子先生の『東京の中の江戸名所図会』/文春文庫には、江戸時代のこのあたりの情景が叙情ゆたかに描写されています。引用します。
「もう、ここまでくると、いちめんの田園風景・・・・・・。春は梅が咲き桃が咲き、菜の花畑れんげ畑に野末がかすんで、ひばりの囀りが降るほどになるし、秋は百姓家の背戸に色づく柿の実、稲の垂れ穂に鳴子がひびいて、ごみごみした下町から抜け出してきた人々の耳目をたのしませてくれた。」


【写真 上(左)】 行人坂
【写真 下(右)】 行人坂の案内板


【写真 上(左)】 手前が目黒川架橋供養勢至菩薩、奥が大圓寺
【写真 下(右)】 大圓寺

坂の途中、左手に松林山 大圓寺。
出羽修験系の開創とされるこの天台宗寺院は、明和九年(1772年)の大火(行人坂火事)とかかわりを持ち、幕末に薩摩島津氏の菩提寺として再興されました。
山手七福神の大黒天で、数種の御朱印を授与されています。

さらに下ると雅叙園。
かつてここには松樹山 明王院という天台宗寺院がありました。

『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「坂の側にあり天台宗●●東叡山に属す 本尊阿弥陀如来脇士観音勢至を安置せり 開山を栄運法師といふ常念佛の道場●●頗る殊勝なり 毎月四日報恩念佛百万遍修行あり 此常念佛ハ西運といふ沙門の発願なりとぞ」
雅叙園内のお七の井戸あたりが明王院跡とされ、八百屋お七の恋人吉三郎が出家して入り百万遍修行を経て西運上人となった寺と伝わります。
八百屋お七は、浮世草子『好色五人女』(貞享三年(1686年)刊)、浄瑠璃、歌舞伎などで広くとりあげられて江戸庶民の知名度が高く、また弁財天百社参り第25番の札所でもあったので、江戸期には参詣者を集めたとみられます。

明和九年(1772年)、行人坂火事で焼失した大圓寺は嘉永元年(1848年)まで再建を許されなかったので、その間はとくに行人坂と明王院の結びつきが強まったかもしれません。
明王院は明治13年(1880年)頃廃され、大圓寺に統合されました。

雅叙園先の太鼓橋で目黒川を渡ります。
雁歯橋とも呼ばれたこの橋も名所で、『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「同所坂下の小川に架せ●/目黒川といへり 桂を用ひて両岸より石を畳の如くして橋とす故に横面より是を望めハ太鼓の胴に彷彿せり故(略)」と記されています。

太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め(八百屋お七の恋人吉三郎が出家した西運上人とも)、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って宝暦十四年(1764年)から6年をかけて完成した江戸ではめずらしい太鼓状の石橋です。
初代の石橋は大正9年(1920年)の豪雨で崩壊し、当時の石材は大圓寺の境内に置かれています。
太鼓橋のシンボルツリーは椎の木だったようで、↓ の広重の「目黒太鼓橋夕日の岡」にも描かれ、目黒区の木に指定されています。


「太鼓橋 / 江戸名所図会. 七」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)


「目黒太鼓橋夕日の岡 / 名所江戸百景 絵師:広重」
錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)


【写真 上(左)】 行人坂上り口
【写真 下(右)】 太鼓橋

山手通りを越えると五百羅漢寺。羅漢会館の裏手が目黒不動尊への近道です。
五百羅漢寺でも数種の御朱印を授与されています。


【写真 上(左)】 五百羅漢寺
【写真 下(右)】 参道入口

東急目黒線「不動前」駅からのアプローチでも、臥龍山 安養院や不老山 成就院(蛸薬師)などの御朱印授与寺があります。(安養院の現在の授与は不明)
こちらは商店街づたいで、門前街としての風情はこちらの方があると思います。

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それでは見どころ満載の山内に参ります。(→ 境内案内

仁王門の門前に伏見稲荷社と芝居でおなじみの白井権八・小紫の比翼塚。
明暦元年(1655年)頃に生まれ波乱の生涯をおくった鳥取藩士平井(白井)権八は、歌舞伎『浮世柄比翼稲妻』、講談、浄瑠璃などでとりあげられ、新吉原の三浦屋の遊女・小紫との恋物語は、つとに知られています。
また、浮世絵見立て『役者見立 東海道五十三駅』(『役者東海道』)初版には「川崎駅 白井権八」(五代目岩井半四朗)が登場、こちらでも名を広めたとされます。

比翼塚とは相思相愛の男女を弔う塚で、こちらの比翼塚は白井権八・小紫の塚です。
目黒不動尊のそばに普化宗の東昌寺というお寺があり、権八は一時東昌寺に身を寄せたとされます。
東昌寺は『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「虚無僧寺」として記されていますが、明治初期に廃寺となり、比翼塚は東昌寺から当地に移されたそうです。

行人坂の明王院、太鼓橋、そして比翼塚など、歌舞伎、浄瑠璃、講談でなじみふかい人物ゆかりの名所があることも、目黒が行楽地として人気を集めた一因かもしれません。


【写真 上(左)】 伏見稲荷社
【写真 下(右)】 比翼塚


【写真 上(左)】 仁王門
【写真 下(右)】 仁王門と寺号標

仁王門の前に「目黒不動尊 瀧泉寺」の寺号標と一対の狛犬。
わたしのまわりにも、お寺と神社の区別がつかない人がけっこういたりします。
鳥居の有無、墓地の有無もありますが、やはり名称(●●寺、●●神社)で区別している人が多いようです。
●●寺、●●神社ならば問題ないですが、●●宮、●●尊となると?マークがついてくるようです。

こちらには鳥居も狛犬もあるし、「目黒不動尊」のみではお寺か神社かわからない人もいるのでは。
その点でこの「瀧泉寺」の寺号標は役立っているかもしれません。


【写真 上(左)】 仁王門扁額
【写真 下(右)】 参道

仁王門は三間一戸、瓦葺八脚の楼門で、二層中央に「泰叡山」の扁額を掲げ、さすがに名刹の風格があります。
左右に阿吽の仁王尊像、階上には韋駄天が祀られているそうです。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 山内

仁王門をくぐって右手に大ぶりな手水舎で、ここから山内が一望できます。
都内有数の名刹だけあって、さすがに広大な山内を構えます。


【写真 上(左)】 弁天堂(三福神)入口
【写真 下(右)】 金明湧水

仁王門から左手時計まわりにいくと、朱塗りの明神鳥居。そのよこの手水は金明湧水です。
この金明湧水のまわりは色濃く赤茶け、おそらく鉄分を含む湧水だと思います。
鳥居の先の三福神にお参りしてから、金明湧水で”福泉洗い”をするそうです。

これは、いわゆる”銭洗い弁天”を彷彿とさせますが、この一画は『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)で「辨財天祠/江島弁天の模なり」と記され、江戸三十三ヶ所弁財天霊場第22番、弁財天百社参り第24番の札所で、江戸期には弁天様の霊場としても知られたところではないでしょうか。


【写真 上(左)】 弁天堂(三福神)
【写真 下(右)】 恵比寿様

太鼓橋を渡って右手に折れると、正面が弁天堂(三福神)、向かって右手に豊川稲荷、左手に福珠稲荷大明神が御鎮座。
弁天堂はおそらく切妻造桟瓦葺。立派な降り棟を備えた整った堂宇で、向拝、水引虹梁まわりに木鼻、斗栱、蟇股、二軒の垂木を配しています。向拝正面は桟唐戸(閉扉)、見上げに「三福神」の扁額、左右に花灯窓を配しています。
桟唐戸の前には恵比寿様が鎮座され、こちらが「山手七福神」の一尊かと思います。(御前立かもしれぬ)

堂内の須弥壇上に奉られる「木造弁才天及び十五童子像」は目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されています。
(→ 区資料
制作年代は14世紀前半頃、南北朝時代と推測されています。

こちらは御開扉されることがあるようで、その際のWeb投稿写真によると、堂内には大黒天と七福神もお祀りされているようです。
単なる「弁天堂」ではないところが、瀧泉寺の信仰の複雑さを物語っています。

北向六地蔵尊、三界万霊塔と過ぎ、本堂の山裾に腰立不動尊、憂国の士北一輝の碑、作曲家本居長世の碑、勢至堂、青木昆陽(甘藷先生)碑、前不動堂、青龍大権現を祀る垢離堂と並び、本堂参道下左手が獨鈷の瀧です。


【写真 上(左)】 北向六地蔵尊
【写真 下(右)】 腰立不動尊

北向六地蔵尊は、切妻屋根銅板葺の立派な覆屋の下に御座。石造りの端正な立像です。
この前を通って左に向かうと、瀧泉寺墓地に至ります。
掲示によると「地蔵菩薩の浄土『迦羅陀山』は南方にあり、南を向いて地蔵菩薩を祈れば、直ちに浄土を発し我々のいる北に向かって救いに来てくださるので北を向いています。」とのこと。

腰立不動尊は、本堂の山裾にあり階段の参道です。
切妻造の堂宇の前に切妻の向拝を付設した複雑な構成。
向拝に掲げられた扁額には「山不動」とあり、御詠歌らしきものが記されていました。


【写真 上(左)】 勢至堂
【写真 下(右)】 前不動堂

勢至堂は「瀧泉寺勢至堂」として目黒区の有形文化財(建造物)に指定されています。
江戸時代中期の建築。瓦葺で一間の向拝を設けた整った意匠で、とくに絵様の一部は寛永中興期の瀧泉寺の面影を伝えるものとされます。
もとは前不動堂の手前にありましたが、昭和44年に現在地に移築されました。

青木昆陽(甘藷先生)碑は、当寺に青木昆陽の墓(国指定史跡)
あることにちなむと思われ、毎年10月28日には先生の遺徳をしのんで甘藷祭りが催されています。

前不動堂は「滝泉寺前不動堂」として都の有形文化財(建造物)に指定されています。(→ 指定内容(都文化財情報DB)
江戸時代、将軍や大名の参拝持には庶民は本堂へは近づけず、その際の参詣者の便宜を図って建立したものとされます。

桁行三間梁間二間向拝一間、桟瓦葺の宝形造で、江戸時代中期の建築とされています。
堂内には木造不動明王三尊立像等を安置。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「前不動/左右に十二天の像を安置す」の記載があり、いまも十二天像が安置されているのかもしれません。

堂建立当時のものとされる扁額「前不動」は書家「佐玄龍書」の署名があり、附指定されています。
こちらは毎月28日の御縁日に内部公開とのこと。


【写真 上(左)】 前不動堂扁額
【写真 下(右)】 前不動堂下の湧水龍口

前不動堂の下には、湧水を吐き出す龍口があります。
目黒台と羅漢寺川(現在は暗渠化)を境するこのあたりは崖線となり、いわゆる「ハケの湧水」ポイントとみられます。
実際、こちら(「東京湧水巡礼」様)には「水を通しにくい東京層の地層が擁壁や石垣の裏側で露出し、その上から湧水が流れ出していると思われる。」とあります。(ただし、同記事によると、現在はすこし離れた浅井戸から送水しているらしい。)


「目黒不動尊(水垢離) / 東都名所 絵師:広重」
錦絵で楽しむ江戸の名所(国会図書館DC)より利用規約にもとづき転載。)

本堂への参道階段左横に獨鈷の瀧。
慈覚大師が長安青竜寺の清滝を想起され法具の獨鈷を投じるとそこに霊泉が湧出し、滝をなしたので「獨鈷の瀧」と号します。

いまでも銅製の竜口から滝が注ぎ、不動講の水垢離場となっています。
数十日間の炎天旱魃が続いても涸れることがないそうです。
水垢離場上には石不動や講が奉安した倶利伽羅剣が奉られ、手前には水かけ不動明王が御座、垢離堂も配されて、不動霊場特有のパワスポ的雰囲気が感じられます。


【写真 上(左)】 獨鈷の瀧と水垢離場
【写真 下(右)】 参道方向から獨鈷の瀧


【写真 上(左)】 水かけ不動明王
【写真 下(右)】 水かけ不動明王の手水の龍

垢離堂の御本尊は青龍大権現で、5月の御縁日には青龍大権現大祭が営まれます。
青龍大権現は、法華経で説かれ仏法を守護するとされる八大竜王の一尊、娑伽羅(サーガラ)龍王の第三王女・善女(如)竜王と同一とされ、雨を司る尊格とされます。


【写真 上(左)】 倶利伽羅剣
【写真 下(右)】 垢離堂

善女龍王は、弘法大師が京の神泉苑で請雨修法を施された際に出現された尊格とされ、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の守護女神ともされます。(清瀧大権現と呼称されます)
もともと西安の青龍寺の鎮守とされ、弘法大師が御帰朝ののち、京・高雄山麓の清滝に勧請されたと伝わります。
醍醐寺を開かれた聖宝の時代、昌泰三年(900年)頃に醍醐寺に御降臨。以来、醍醐寺の守護神として篤く祀られています。

『呪術宗教の世界』(速水 侑著)によると、聖宝の法系は平安中期の名僧、仁海に受け継がれ、ことに請雨の修法に優れて雨僧正とも称されました
仁海は東密(真言密教)小野流の祖とされ、小野流は独自の秘法として「請雨修法」を伝えました。
現在でも清瀧権現は真言宗寺院、とくに大寺で祀られ、川崎大師、成田山新勝寺、高尾山薬王院は、いずれもお祀りされています。

台密(天台密教)でも八大竜王を祀る例があり、目黒不動尊のそばの臥龍山 安養院(寝釈迦尊)には木食円空作八大龍王像が収蔵されています。
また、山梨県忍野村の天台宗寺院、忍草山 東円寺では稀少な娑伽羅龍王の御朱印を授与されています。

【写真 上(左)】 臥龍山 安養院の御朱印
【写真 下(右)】 忍草山 東円寺の娑伽羅龍王の御朱印

『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「獨鈷の瀧/一年此滝水の涸たりしことありたる● 沙門某江島の弁天に祈請したてまつり再ひ元の如しとぞ故に今も年々当寺より江島の弁天へ衆僧をして参詣せしむる」とあり、獨鈷の瀧は江島弁財天にゆかりがあったようです。


【写真 上(左)】 大本堂への参道(男坂)
【写真 下(右)】 鳥居工事中の男坂

水垢離場よこから大本堂への参道階段がはじまります。参道階段が男坂、右手の坂が女坂です。

階段右手には家光公ゆかりの「鷹居の松」(跡)、女坂途中には神変大菩薩(役ノ行者/役小角)のお堂があります。


【写真 上(左)】 女坂
【写真 下(右)】 神変大菩薩のお堂

堂内安置のお像は「銅造役の行者倚像」として目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されています。(→ 区資料

寛政八年(1796年)、太田駿河守藤原正義の作とされる銅造の倚像で、頭巾をかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手に錫杖、左手に巻子を持って腰掛けられています。
均整のとれた体躯、精緻な表現、品格ある表情などを備え、江戸時代の銅造彫刻の中でも優品とされています。

『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「役小角/女坂の中程にあり銅像にして前鬼後鬼の像あり」とあります。
前鬼・後鬼とは、元は生駒山地に住んでいた夫婦の鬼で、役小角は彼らを不動明王の秘法で捕縛して従者とされました。
堂内、役ノ行者の背後に安置されている二体のお像は、前鬼・後鬼かと思われます。


【写真 上(左)】 山王鳥居
【写真 下(右)】 鳥居の扁額

平成29年、男坂の参道途中に酉年本尊御開扉記念として石造の山王鳥居が建立されました。
現地掲示には「当山は往古より神仏習合の寺院でありました。江戸時代、天海大僧正が山王一実神道を創始され 当山にも山王鳥居が奉安。酉年復興いたしました。」とあります。
「護國院」の院号扁額が掲げられ、山王鳥居の合掌形と大本堂の千鳥破風が意匠的に呼応しています。


【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 手水舎の龍

階段を登り切ると大きな空間が広がります。
手前の狛犬はなかなかインパクトのある表情をしています。
手前左手に手水舎。水盤の龍がオーラを放っています。


【写真 上(左)】 大本堂
【写真 下(右)】 大本堂(斜めから)

正面の大本堂は石段の奥に朱塗りの堂々たる構え。
傾斜地ではないですが、舞台造(懸造)的な構成で、入母屋造本瓦葺正面千鳥破風とその先に設えた唐破風の下に三間の大がかりな向拝を張り出しています。

向拝水引虹梁は彩色で木鼻と中備えに蟇股。向拝中央に「目黒不動尊」の大提灯を掲げ、千鳥破風には猪ノ目懸魚を設えています。

慈覚大師の作と伝わる御本尊不動明王(目黒不動尊)が御座され、秘仏で十二年に一度、酉年のご開帳です。


【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 意志不動尊

大本堂まわりには諸仏が御座します。
時計回りに辿ってみます。
大本堂向かって右手、玉垣に囲われて意志不動尊。
由緒は不明ですが、手前に眷属、制多迦童子と矜羯羅童子を配した石像の立像です。

そのお隣に微笑観世音菩薩。
穏やかな面差しの石造り立像の聖観世音菩薩です。


【写真 上(左)】 微笑観世音菩薩
【写真 下(右)】 愛染明王

大本堂向かって左手には愛染明王。
八角形の石敷の結界中央に、端正なおすがたの愛染明王の坐像露仏が御座。
こちらでは、良縁成就、縁結びを願掛けします。



【写真 上(左)】 子安延命地蔵尊
【写真 下(右)】 虚空蔵菩薩

大本堂右手には甘薯先生(青木昆陽)ゆかりと思われるサツマイモ畑があり、その前に子安延命地蔵尊。
左手に如意宝珠、右手に錫杖を持たれ、金色の輪光背を帯びて蓮華座に御座す坐像の金仏です。

サツマイモ畑の奥には虚空蔵菩薩。
頭上に宝冠を抱かれ蓮華座のうえに結跏趺坐される石仏で、あたらしいお像と思われます。
右手の石柱の上には牛の像が置かれています。

境内掲示の境内案内図には、諸仏諸堂に十二支が記されています。
大本堂には「うし、とら、うさぎ、たつ、へび、とり」、大本堂裏手の大日如来には「ひつじ、さる」、女坂下の観音堂には「ねずみ」、阿弥陀堂には「いぬ、いのしし」、勢至堂には「うま」。
このうち、こちらの虚空蔵菩薩に大本堂から「うし、とら」を分祀されたのでは?

なお、未確認ですが、この内容からすると大本堂に釈迦三尊(文殊菩薩/うさぎ、普賢菩薩/たつ、み(へび))が御座されているかもしれません。

子安延命地蔵尊の右には護衛不動尊。
石碑によると、開山一千二百年を記念して奉安された厄除けのお不動様で、儀軌に忠実なお像とみました。
お不動様に関することなので、少しく詳細に書いてみます。

『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)によると、菅原道真の孫、淳祐が著した「不動尊道場観」のなかに不動尊の尊格や像容を記した「十九観」があり、うち第四~第十八の像容は次のとおりです。
この「十九観」は、のちの不動尊作像に大きな影響を与えたとみられています。

第四:童子形、第五:七莎髻(頭髪が七個の束になっていること)、第六:弁髪(左側に弁髪を垂らす)、第七:額の皺文、第八:一眼を閉じる(通常は左眼)、第九:下の犬歯が上唇を、上の犬歯が下唇を噛む、第十:その口を緘閉す、第十一:右手に剣を執る、第十二:左手に羂索を持つ、第十三:行人の残食を喫す、第十四:大盤石に座す、第十五:色醜くして青黒なり、第十六:奮迅忿怒す、第十七:遍身に迦楼羅炎、第十八:変じて倶利迦羅と成り

高々と迦楼羅焔を背負われ、盤石に御座すこの護衛不動尊は、「十九観」の特徴の多くを満たされています。


【写真 上(左)】 護衛不動尊
【写真 下(右)】 鐘楼

その右手に鐘楼、その奥は鬱蒼と木々が茂る八大童子の山。
八大童子の山の手前を奥に昇ると瀧泉寺墓地で、甘薯先生(青木昆陽)の墓所があります。


【写真 上(左)】 本堂裏手
【写真 下(右)】 大日如来

本堂裏手に回ると、覆屋の下に目黒区の有形文化財(彫刻)に指定されている銅造大日如来坐像。(→ 区資料
現地掲示には「不動明王本地佛」とあります。

『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「本地大日如来/本堂の後峙●る山の腰を切割く安置を俗す奥の院と称す」とあります。

覆屋の屋根には二十八宿図が掲げられています。
これは天球を二十八のエリア(星宿)に分割した図で、東方青龍、北方玄武、西方白虎、南方朱雀の各七宿から成り立ち、風水思想と関連をもつという説があります。
なお、目黒不動尊は江戸城をはさんで上野寛永寺と鬼門・裏鬼門ラインのほぼ直線上に当たることから、目黒不動尊を江戸城の裏鬼門の鎮めとみる説もあります。

蓮華座に結跏趺座される高さ385㎝のお像は、宝髪、頭部、体躯など十数の部分に分けて鋳造して組み合わる”吹き寄せ”の技法で制作されています。
体躯に比べて頭部が大きいのがこの技法の特徴で、この像も同様とされます。
台座の刻銘によると、天和三年(1683年)、鋳物師横山半右衛門尉正重による造立。

法界定印を結ばれているので胎蔵(界)大日如来とみられ、回りを四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)が囲みます。
不動明王は大日如来の化身(教令輪身)とされますが、金剛界大日如来の化身とする説もあるようで、どうして胎蔵(界)大日如来が御座されるのかはわかりません。


【写真 上(左)】 覆屋屋根の二十八宿図
【写真 下(右)】 大行事権現

さらにその奥、神明鳥居を前に地主神・大行事権現が御鎮座です。
大行事権現は、大津坂本の日吉神社の山王二十一社の一社(中七社)で、山王一実神道とふかいかかわりをもつとされます。
『江戸名所図会. 七』(国会図書館DC)には「大行事権現/此地の地主神なり祭神高祖皇産霊尊なり」とあります。


【写真 上(左)】 本坊方面への案内
【写真 下(右)】 本坊への参道

男坂・女坂をくだって右手方向、阿弥陀堂への参道の左右に交通安全自動車祈祷殿、地蔵堂、精霊堂、観音堂、書院、阿弥陀堂(本坊・寺務所)と並びます。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂扁額


【写真 上(左)】 地蔵堂御内陣
【写真 下(右)】 精霊堂

地蔵堂は、入母屋造銅板葺平入りだと思いますが、すこし変わった感じの意匠です。
向拝柱はなく、見上げに「地蔵堂」の扁額を掲げています。
中央に地蔵菩薩坐像、向かって右に閻魔大王、左に奪衣婆が御座します。
毎月24日のお地蔵様ご縁日の午後の法要時には堂内に入れるようです。
瀧泉寺は江戸・東京四十四閻魔参り第23番の札所ですが、札所本尊はおそらくこちらの閻魔様とみられます。

地蔵堂と相対して交通安全祈願殿。御本尊は不動明王です。


【写真 上(左)】 交通安全祈願殿
【写真 下(右)】 幟

地蔵堂の横、精霊堂前には書道の大家西川春洞の碑。
精霊堂には地蔵菩薩坐像、六地蔵、閻魔大王、奪衣婆などが御座し、いずれも石仏です。


【写真 上(左)】 観音堂
【写真 下(右)】 観音堂扁額

観音堂は朱塗りの端正なお堂。
全容がよくわからないのですが、瓦葺で向拝側に千鳥破風を構えて流れ向拝。入母屋造妻入りかもしれません。
向拝柱や水引虹梁はなくシンプルな向拝で、見上げに「観音堂」の扁額。
向拝柱には観音霊場の札所板と御詠歌が掲げられています。

堂内には江戸三十三観音札所第33番結願の聖観世音菩薩のほか、千手観世音菩薩、十一面観世音菩薩も御座されるそうです。

第1番浅草浅草寺からはじまる江戸三十三観音は、府内各所を巡ってここ瀧泉寺で結願を迎えます。
現在の江戸三十三観音は、昭和51年(1976年)に改訂された「昭和新撰 江戸三十三観音霊場」ですが、江戸時代には享保二十年(1735年)版の『続江戸砂子』に収録された「江都三十三観音」(札所情報は→こちら(「日本を巡礼する」様))が、その前身として江戸庶民にさかんに廻られていたとみられます。

現在の江戸三十三観音とはことなる札所もありますが、発願の浅草寺と結願の瀧泉寺は変動なく、下町・浅草にはじまり、府内(都内)各所を巡って郊外の景勝地、目黒で結願するというコース設定に変わりはないということになります。

こちらの観音堂が江戸三十三観音札所第33番の結願所です。
東京三十三所観世音霊場第3番、江都三十三観音霊場第33番などの札所もおそらくこちらと思われます。


【写真 上(左)】 阿弥陀堂(本坊)-1
【写真 下(右)】 阿弥陀堂(本坊)-2

阿弥陀如来が御座す阿弥陀堂(本坊)の右手に御朱印授与所(寺務所)があります。
複数のメジャー霊場の札所を兼ね、ご親切で手慣れたご対応です。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:不動明王 「関東最古不動霊場」の印判 直書(筆書)

〔関東三十六不動尊霊場第18番の御朱印/専用納経帳〕

・御朱印尊格:不動明王 関東三十六不動尊霊場第18番印判 書置(筆書)

〔関東三十六不動尊霊場第18番の御朱印/御朱印帳〕

・御朱印尊格:不動明王 関東三十六不動尊霊場第18番印判 直書(筆書)

〔江戸三十三観音札所第33番の御朱印〕(通常御朱印)

・御朱印尊格:聖観世音 江戸三十三観音札所第33番印判 直書(筆書)

〔江戸三十三観音札所第33番の御朱印〕(結願御朱印)

・御朱印尊格:聖観世音 江戸三十三観音札所第33番印判 結願印 直書(筆書)

〔山手七福神(恵比寿神)の御朱印〕

・御朱印尊格:恵比寿神 山手七福神印判 直書(筆書)

(つづく) → こちら
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-14

Vol.-13からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第40番 福聚山 善應寺 普門院
(ふもんいん)
江東区亀戸3-43-3
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第40番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第30番、亀戸七福神(毘沙門天)

第40番札所は、下町・亀戸の普門院です。

第40番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに普門院なので、御府内霊場開創時から一貫して亀戸の普門院であったとみられます。

第40番の四ッ谷の真成院も御府内霊場開創時からの札所とみられるので、第39番の四ッ谷から第40番は亀戸へと、一気にエリアを変えることになります。
これは本四国八十八ヶ所霊場が第39番の延光寺(高知県(土佐國)宿毛市)から第40番の観自在寺(愛媛県(伊予國)愛南町)で国が変わることと関連があるのかもしれません。

本四国霊場は四国内の阿波國(1-23番)、土佐國(24-39番)、伊予國(40-65番)、讃岐國(66-88番)と国別に構成されており、それぞれ発心の道場、修行の道場、菩提の道場、涅槃の道場とされています。

御府内霊場をみると、23番(薬王寺/市ヶ谷)→24番(三光寺/内藤新宿)は比較的近いですが、39番(真成院/四ッ谷)→40番(普門院/亀戸)は大きくエリアを変え、65番(大聖院/芝三田寺町)→66番(東覚寺/田端)とこちらもエリアを移しています。

御府内の東端は亀戸辺とされ、亀戸天神御鎮座の参詣地でもあったため、御府内霊場札所の配置は自然な成り行きかも。

なお、これより東寄りは荒川辺八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場、新四国四箇領八十八ヵ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場など、下町の弘法大師霊場の領域となり、現在巡拝するにはよりマニアックな踏み込みが必要となります。

亀戸あたりになると、『寺社書上』『御府内寺社書上』への記載はなくなりますが、『新編武蔵風土記稿』の収録エリアなのでこちらから追っていけます。
亀戸は江戸の名所のひとつなので『江戸名所図会』にも挿絵を添えてしっかり収録されています。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

普門院は大永二年(1522年)三股(隅田川・荒川・綾瀬川の合流点、現・足立区千住周辺)の城中に創建されました。

開山は長賢上人、開基は千葉中務大輔自胤と伝わります。
千葉自胤(1446-1494年)は室町時代の武将で、武蔵千葉氏第3代当主とされます。
千葉氏は桓武平氏の名族で、下総に勢力を張り坂東八平氏・関東八屋形のひとつに数えられました。

千葉(介)常胤は、頼朝公の旗揚げに呼応し、公の信任を得て、鎌倉時代には下総守護の家柄となりました。
千葉一族は繁栄した一方、同族間の確執が多く争いも絶えなかったといいます。

室町時代中期の千葉氏の嫡流は千葉胤賢でしたが、享徳の乱(1455-1483年)で古河公方・足利成氏方で同族の原胤房・馬加康胤に殺され、遺児となった実胤と自胤は下総八幡荘の市河城へ逃れました。

しかし、成氏方の簗田持助に敗れ、康正二年(1456年)市河城を失って武蔵へと逃れました。
実胤は石浜城(現・台東区橋場)、自胤は赤塚城(現・板橋区赤塚)に拠り、後に兄の実胤が隠遁したため、自胤が石浜城主となり千葉氏当主を嗣ぎました。

自胤は本領である房総への帰還を目指しましたが、分家の岩橋氏が勢力をふるい岩橋孝胤は千葉氏当主を自称、後に公認されました。

惣領筋の自胤はそれでも幾度か房総奪還を図りますが、岩橋孝胤は勢力を固めて下総千葉氏継承を確定しました。
自胤の子孫はよんどころなく武蔵に定着し、武蔵千葉氏とも呼ばれました。

普門院はこの千葉自胤が、自身が拠った城内に開基と伝わります。
『新編武蔵風土記稿』に「古ハ豊嶋郡橋場村ニアリシ」とあるのは、おそらく石浜城内を指すとみられます。
『江戸名所図会』には「三俣の城中に一宇の梵刹を開き(略)三俣といへるは、隅田川、綾瀬川、荒川の落合ひ、三俣になる所をいへり。昔千葉家在城の地なり。」とあります。
三俣はいまの千住周辺とされ、石浜城とはべつに三俣(三原)城という城があったのかも。

当初の普門院の御本尊は伝教大師の御作とも伝わる観世音菩薩で、自胤の信仰も篤く、自城内に一宇を建ててこの観世音菩薩を奉安したといいます。
また、千葉自胤の臣・佐田善次郎盛光が讒言を受け斬られそうになったとき、盛光が日頃信仰するこの観音像に祈ったところたちまち刀の刃がこぼれ、盛光は死を免れたとのこと。

天文三年(1534年)、この地に疫病が流行した際、この観音像を念ずる者はことごとく病が平癒し、患者と床を同じくしても感染しなかったといいます。
この観音様が衆生の身代りとなって疫病を引き受けられたという逸話もあり、以来「身代観世音」と尊称されて人々の信仰を集めました。

元和二年(1616年)荒川辺から現在地の亀戸に移転。
この時、誤って梵鐘を隅田川に沈めてしまい、鐘ヶ淵の地名の由来になったともいいます。

慶安二年(1649年)八月には大猷院殿(徳川家光公)の御渡りあって御休所も設けられましたが、いつしか取払われたとのこと。

「猫の足あと」様には『江東区の民俗城東編』の興味深い記事が紹介されているので、孫引きさせていただきます。
「『浅草区誌』によれば、鐘ヶ淵に沈んだ鐘は法元寺(『再校江戸砂子』註:保元寺)、普門院(『新編江戸志』)、長昌寺(『武蔵古蹟志』)と三説をあげている。『帝都郊外発展誌』によれば、安永年中(1772-1781年)に栄範上人が本尊を身代観音菩薩から大日如来に改め、観音堂を別に建立した。」

これによると安永年中(1772-1781年)までの普門院の御本尊は身代観世音菩薩で、栄範上人が御本尊を身代観音菩薩から大日如来に改めたということになります。

現在の御本尊も大日如来で、庶民の信仰を集めたとされる身代観世音菩薩の現況を辿ることはできませんでした。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十番
本所亀戸天神先
福聚山 善應寺 普門院
葛飾郡青戸村寶持院末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『新編武蔵風土記稿 巻之24 葛飾郡之5』(国立国会図書館)
(亀戸村)普門院
新義真言宗青戸村寶持院末 福聚山善應寺ト号ス 本尊大日 開山長賢大永七年(1527年)寂ス 開基ハ千葉中務大輔自胤ニテ 古ハ豊嶋郡橋場村ニアリシヲ 元和二年(1616年)今ノ処ニ移サル 慶安二年(1649年)八月大猷院殿(徳川家光公)当院ヘ御立寄アリテ 即日寺領五石ノ御朱印ヲ賜ハリ ツヒテ御小休ノ御門ヲ建サセラレシシカ 其後絶テ御渡モアラス 御殿モツヒニ取払ハセラレシナリ 
観音堂
今ハ大破ニ及ヒテ再建ナラサレハ 観音ハ仮に本堂ニ置リ 縁起ニ云 当寺安置ノ聖観音ハ伝教大師ノ作ニテ 昔ハ下総國足立庄隅田川ノ邊ニアリシカ 大永ニ年(1522年)千葉中務大輔自胤ノ臣佐田善次郎盛光ト云モノ 讒者ノタメニ冤罪ヲ蒙リ 既ニ死刑ニ行レントセシトキ 盛光兼テ信スル処ナレハ カノ観音ニ祈誓セシニ 不思議ヤ奇瑞ノ奇特アリテ助命ニ逢シカハ 夫ヨリ身代ノ観音ト唱フ 斯テ盛光剃髪シテ観慧ト号シ 弥信心浅カラス 自胤モ深ク是ヲ感シテ乃城内ニ一宇ヲ建テ 普門院ト号シ 彼ノ観音ヲ安置スト云々 是ニ拠ハ初ハ寺ノ本尊トナセシト見ユ 其後別ニ堂ヲ建タル 年代等ハ詳ナラス
青龍権現社

『江戸名所図会 第4 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
福聚山普門院
善應寺と号す。真言宗にして、今大日如来を本尊とす。慶安二年(1649年)住持沙門栄賢●給の譽あるをもって、公命を得て寺産若干を賜り、永く香燭の料に充てしむとらん。

身代観世音菩薩
当寺に安置す。伝教大師の作にして、聖観音なり。
縁起に云ふ。大永二年(1522年)千葉介中務大夫自胤、兼胤の●にて季胤の二男なり。三俣の城中に一宇の梵刹を開き、此霊像を安置し、長賢上人をして始祖たらしむ。今の普門院これなり。三俣といへるは、隅田川、綾瀬川、荒川の落合ひ、三俣になる所をいへり。
昔千葉家在城の地なり。其頃普門院の郭と称しけるとなり。然れども、後兵火にかかり、堂塔ことごとく灰燼せり。此際にいたり、洪鐘一口隅田川に沈没す。其地を名づけて鐘ヶ潬と呼ぶ。元和ニ年(1616年)(或云六年)住持栄眞法印、公命によりて三俣の地を転じて、寺院を今の亀戸の邑に移すといふ。
往古千葉自胤の臣佐田善次盛光、後剃髪して観慧と号せり。虚名の罪により、誅に伏す時、日頃念ずる所の霊像の加護にて、其白刃段々に壊し、危難を免れたり。
此霊像により、自胤三俣の城中に当寺を創し、長賢上人を導師として且開祖とす。
又天文三年(1534年)、國中大に疫疾流行し、死に至る者少なからず。されど此霊像を念ずる輩は悉く病平癒し、将病に臨まざる者は、病者と床を等しうすといへども、敢て染延の患なし。
其後住持長栄上人、睡眠の中、一老翁の来るあり。吾は是施無畏大士なり、多くの人に代り、疫病を受く、故に病苦一身に逼れり。上人願くは我法一千坐を修して、予が救世の加彼力となるべしと。夢覚めて後、益々敬重を加へ、本尊を拝し奉るに、佛體に汗みちて蓮臺に滴る。感涙肝に銘じ、夫より昼夜不退に一千坐の観音供を修しけば、國中頓に疫疾の患を遁れけるとぞ。故に世俗身代観世音と唱へ奉るとなり。



「普門院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「普門院」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第4,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・東武亀戸線「亀戸」駅で徒歩約10分。
亀戸天神と亀戸香取神社の間に広大な山内を構えています。


【写真 上(左)】 山内入口-1
【写真 下(右)】 山内入口-2

山内入口からすでに鬱蒼とした樹木に覆われ、これが本堂までつづいています。
緑の少ない下町にはめずらしいくらいの緑濃い山内。

門柱脇に「伊藤左千夫の墓」の石碑。
伊藤左千夫は正岡子規の門人でアララギ派の歌人として知られ『野菊の墓』の作者としても有名で、普門院が墓所となります。

それにしても、この植物たちの繁茂ぶりはいったいどうしたことでしょう。マント群落のようにあたりを覆い尽くしています。
山内の各所には廃棄された?家具やブルーシートが掛けられ、これがまたなんとも雑然としたイメージを醸し出しています。
御府内霊場の札所としては異色の空気感があり、おそるおそる足を進めます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 観世音菩薩像

参道右手、台座のうえに端正な相貌の観世音菩薩坐像が御座します。
坐像で手に経巻を持たれているので、おそらく持経観世音菩薩かと思われます。
この観音様の奉持される経巻には、お如来さまの説法の内容がすべて収められているとのこと。

旧御本尊の身代観世音菩薩との関連を考えましたが、どうも身代観世音菩薩と持経観世音菩薩がストレートに結びつかず、別の系譜の観音様かもしれません。


【写真 上(左)】 毘沙門堂
【写真 下(右)】 毘沙門堂の扁額

その先左手の宝形造の堂宇が毘沙門堂。亀戸七福神(毘沙門天)の拝所です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

正面が近代建築の本堂。樹木に覆われて全貌はよくわかりませんでした。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股の意匠が凝らされています。
向拝正面鉄扉のうえに山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 院号標

9月と10月の2回参拝したのですが、いずれもものすごい数の蚊の襲撃に遭い、格闘しながらの読経となりました。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受。
山内の様子から、おそるおそるお伺いしたのですが、ご対応はいたって普通で亀戸七福神の御朱印も拝受できました。
ただし、原則書置授与のようです。

なお、身代観世音菩薩の現況については、参拝時、不勉強にも認識がなかったのでお伺いしておりません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 亀戸七福神の御朱印


■ 第41番 十善山 蓮花寺 密蔵院
(みつぞういん)
中野区沼袋2-33-4
真言宗御室派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第41番、弘法大師二十一ヶ寺第17番

第41番札所は、中野・沼袋の密蔵院です。
御府内霊場では真言宗御室派の札所寺院は第32番圓満寺とこちらのふたつしかありません。
真言宗御室派の総本山、仁和寺は真言宗の流派「広沢流」の本拠で、仁和寺門跡として2世性信入道親王(大御室)が就任されて以来、江戸末期まで門跡には法親王(皇族)を迎えたというすこぶる格式の高い寺院です。
当山も『寺社書上』『御府内寺社備考』などに「京都御室御所仁和寺宮末」と記されています。

第41番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに密蔵院なので、御府内霊場開創時から一貫して密蔵院であったとみられます。

中野仏教会Web、下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

密蔵院は北條氏直公(1562-1591年)の持仏・将軍(勝軍)地蔵菩薩を御本尊として、小田原城内に創建といいます。
開山は氏直公の帰依を受けた小田原蓮華寺の住持、慶誉法印(寛永十三年(1636年)寂)。

北條氏没落後、徳川家康公は慶誉法印を招聘し、その経歴知見から王子権現の別当・金輪寺の住職に誘いましたが、慶誉法印はこれを受けず弟子の宥雄を金輪寺住職に奉じ、みずからは慶長十六年(1611年)矢之倉に寺地30間を拝領、将軍(勝軍)地蔵菩薩を奉安して当山を結構したといいます。

また、北條家より伝わる愛宕権現を山内に安置して鎮守としたといいます。
こちらの愛宕権現の御神体は、のちに芝の愛宕社に安するとも。

正保元年(1644年)、浅草永住町(浅草寺町)に寺地を拝領して移転。
当時、御室法親王の隠室となり、代々仁和寺門跡に直属したと伝わります。

護摩堂は愛宕権現との合殿でしたがこれを失い、愛宕権現は本堂に奉安といいます。
護摩堂御本尊の不動明王は弘法大師の御作と伝わりますが、文化三年(1806年)に焼失したとも。
火災で寺伝類をことごとく焼失し、詳らかな由緒・沿革は伝わっていないようです。

明治45年に墓地を現在地(沼袋)に移し、昭和7年に寺院の移転を概ね終えました。
沼袋には寺院が多く集まっていますが、各寺院の沿革を追うと、関東大震災で被災した浅草寺町辺の寺院が東京府豊玉郡野方村沼袋(現在の中野区沼袋)に移転し、寺町を形成したようです。

当山は第二次大戦末期の空襲で浅草に残した堂宇を全焼、次いで沼袋の堂宇も戦禍に遭い、この時に多くの寺宝・寺什を失ったといいます。
昭和25年に現在地に本堂を再建。
幾多の変遷を辿りながらも、御府内霊場第41番の札所は堅持されて今日に至ります。

草創の縁起からすると、もともとの御本尊は勝軍地蔵菩薩。
現在の御本尊・御府内霊場札所本尊ともに大日如来ですが、『寺社書上』『御府内寺社備考』には「本堂 本尊 十一面観音座像」、江戸末期の『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊:十一面観世音 勝軍地蔵尊 弘法大師」とあり、御本尊・札所本尊ともに変遷があった模様。

また、史料によると勝軍地蔵菩薩・愛宕権現を通じて芝の愛宕社とも関係があったようですが、寺伝類を焼失したため詳細は辿れないようです。

当山は「弘法大師二十一ヶ寺」第17番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。

これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。

「弘法大師二十一ヶ寺」の札所リストは↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)に記載されています。ご参考までにリストします。


【弘法大師二十一ヶ寺】
1番  萬昌山 金剛幢院 圓満寺 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番  宝塔山 多寶院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番  五剣山 普門寺 大乗院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番  清光院 台東区下谷(廃寺)
5番  恵日山 延命寺 地蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番  阿遮山 円満寺 不動院 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番  峯松山 遮那院 仙蔵寺 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番  高野山 金剛閣 大徳院 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番  青林山 最勝寺 龍福院 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6

このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。

●「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の札所ながら、「御府内八十八ヶ所」の札所ではない寺院の例

 
【写真 上(左)】 五剣山 普門寺 大乗院(元浅草)
【写真 下(右)】 恵日山 延命寺 地蔵院(元浅草)

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
四十一番
浅草新寺町
勝軍山 蓮花寺 密蔵院
京都御室御所末 古義
本尊:十一面観世音 勝軍地蔵尊 弘法大師

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.1』
京都御室御所仁和寺宮末 浅草新寺町
勝軍山密蔵院
宗旨古義真言宗
当院小田原北条氏直公祈願所
開山 慶誉法印 寛永十三年寂
開基 不分明
本堂
 本尊 十一面観音座像 丈一尺七寸作不詳
 大師 十三仏 観音 不動尊 護諸童子経画像
 当院十八世光照法印筆一巻 勝軍地蔵画像一幅
鎮守社
 愛宕大権現 本地佛勝軍地蔵
当院開山慶誉ハ相州小田原蓮華寺住持シ 北條氏直公ニ親ミ深ク御祈祷等相●●
氏直没落之後 東照宮様慶誉を被(略)其由緒を●慶誉を王子権現別当金輪寺住職社例ヲ改可修神法旨蒙御上意候●共 極老たる●恐多も辞退申上 弟子宥雄ヲ金輪寺住職ニ奉●●(略)尚北條家より伝ル所之愛宕権現ヲ境内二安置シ可為鎮守●●
大猷院様御代正保元年(1644年)地所替●●付 於当浅草寺地三十間四方拝領仕候 もとハ護摩堂ありて愛宕と合殿なりし●再建ならす 愛宕ハ本堂に安す 護摩堂本尊不動ハ弘法大師作にて空海と志るし手判ありしと云 文化三年(1806年)焼失す 勝軍地蔵縁起もありしか 明暦火災に焼失せりと云伝ふ 
北条氏より伝ふる愛宕神体ハ 今芝愛宕社ト安す所是なり ●本地仏ハ当寺に安す●と云伝ふ●と、古火災の時記録皆焼失して其由来詳ならすといふ

『中野区史下巻1』(P.447)(中野区立図書館)
密蔵院
江古田四丁目一、四八九。本尊十一面観音。勝軍山密蔵院蓮花寺と号する。もと真言宗御室派の院室地であつたが、今は同宗東寺派に屬する。
はじめ北條氏直が相模小田原に創建し、勝軍地蔵を安置し祈願所としたのであつた。山号はこれに因由する。
北條氏没落後、慶長十六年(1611年)に至り、僧慶譽、勝軍地蔵の木像を背負うて江戸に来り、矢之倉に小庵を結んだが、正保元年(1644年)淺草永住町に移つた。
明治四十五年墓地を現在の地に移轉し、昭和七年に至り、寺をも同所に移した。


「密蔵院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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西武新宿線「沼袋」駅北側の寺院が集まるエリアの一画にあります。
駅から徒歩約10分ほどです。


【写真 上(左)】 冠木門
【写真 下(右)】 院号札

路地に面して冠木門で、門柱には院号が掲げられています。
こぢんまりとした山内は、よく手入れされ心落ち着く感じがあります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

正面の本堂は桟瓦葺で様式は不明。
堂宇というより民家を思わせるつくりで、向拝柱はありますが水引虹梁はありません。

参拝後、本堂向かって右の庫裡で御朱印をお願いすると、本堂に上げていただけ、たしか本堂内で揮毫いただいたと思います。

本堂内で参拝できる、貴重な札所のひとつです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内第四十一番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第42番 蓮葉山 妙智院 観音寺
(かんのんじ)
公式Web

台東区谷中5-8-28
真言宗豊山派
御本尊:大日如来・阿弥陀如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第42番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第3番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第32番、東方三十三観音霊場第13番

第42番札所は、御府内霊場札所の集中エリア・谷中の観音寺です。
御府内霊場には「観音寺」を号する札所寺院が3つ(第42番蓮葉山 観音寺(谷中)、第52番慈雲山 観音寺(早稲田)、第85番大悲山 観音寺(高田馬場))あり、前2者をそれぞれ谷中観音寺、早稲田観音寺と呼んで区別されます。

第42番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに観音寺なので、御府内霊場開創時から一貫して谷中の観音寺であったとみられます。

公式Web、下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

観音寺は、慶長十六年(1611年)神田北寺町(現・千代田区神田錦町周辺)に、長福寺を号し尊雄和尚を開基に創建されました。
神田など、江戸城まわりにあった寺院は江戸城の拡張やこれにともなう武家屋敷地化もあって次々と移転を命ぜられましたが、当山もその例にもれず、慶安元年(1648年)御用地として召し上げられ、谷中清水坂(現・台東区池之端周辺)に移転したもののこちらもまた御用地となり、延宝八年(1680年)現在地に移転しています。

元禄十四年(1701年)三月十四日、浅野内匠頭長矩が江戸城内にて刃傷。即日切腹となり浅野家はお家断絶、領地を没収されました。
元禄十五年(1702年)二月、当山でしばしば密議を重ねた近松勘六行重、奥田貞右衛門行高(ともに当山6世朝山和尚(文良)の兄弟)は江戸を下り、十二月十四日赤穂義士討入り。
主君の仇の吉良上野介義央の首級をあげ本懐を遂げました。
元禄十六年(1703年)赤穂義士切腹。当山は義士の供養塔を建て、義士の菩提を弔うこととなりました。
これより、当山は「赤穂義士ゆかりの寺」としても知られています。

享保元年(1716年)8代将軍・徳川吉宗公の長子の長福丸(家重公)と寺号が重なるため、ときの住職朝海和尚はこれをはばかり寺号を長福寺から観音寺へと改めました。

『寺社書上』ではこの朝海和尚を中興開基とし、真言宗江戸四箇寺の本所弥勒寺末とされたと記され、公式Webでも朝海和尚の功績がとり上げられています。

谷中は江戸城周辺から寺院の移転が相次ぎ、元禄年中(1688-1703年)頃には御府内有数の寺町となりました。
御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1763年)とみられるので、御府内霊場に谷中の札所が多数定められる下地はすでに整っていました。
公式Webにも「宝暦年中(1751-1763年)江戸府内八十八所霊場巡拝が設けられ、観音寺は四十二番札所となる。」と明記されています。

明和九年(1772年)、行人坂の大火で諸堂宇を失い、寺伝類の多くも焼失しました。
しかし、谷中の中心にある御府内霊場札所で、観音堂安置の如意輪観音信者の助力もあってか、観音寺の復興ははやかったと伝わります。

安永年中(1772-1780年)には「三十三所観音参/上野より王子駒込辺西国の写し霊場」が開創。
観音寺は第32番札所に定められ、弘法大師(御府内霊場)、観音(上野王子駒込霊場)両霊場の札所となりました。
『江戸歳事記 4巻 付録1巻 [2]』(国立国会図書館)に「上野より王子駒込辺西国の写三十三所観音参」の一覧があり、たしかに第32番として「谷中観音寺」がみられ、札所本尊は如意輪観世音菩薩となっています。
(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」)様)

この霊場は「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」とも呼ばれますが、筆者がまわった範囲では「西国霊場」の方が通りがよく、札所印つき御朱印授与の札所もあれば、廃寺や御朱印じたい不授与の札所も多く、御朱印拝受しにくい霊場となっています。

■ 希少な札所印

 
↑ 第4番札所思惟山 正受院(北区滝野川)の札所御朱印。
「西國四番寫」の札所印が捺されています。

明治初頭の神仏分離・廃仏毀釈により寺地を官有地とされましたが、住職および檀信徒の寺運繁栄の努力により昭和18年現本堂が落慶しています。
このとき境内佛(濡佛)であった胡銅製大日如来像と阿弥陀如来像が本堂内に遷座され、御本尊となっています。

公式Webによると、当山創建当初の御本尊は五智如来木座像(金剛界五佛仏/大日如来(中心)、阿閦如来(東)、宝生如来(南)、阿弥陀如来(西)、不空成就如来(北))で開基・尊雄和尚が師子相承されていた尊佛でしたが、火災により失われました。

ついで観音堂本尊であった如意輪観世音菩薩と不空羂索観世音菩薩が御本尊となられ、昭和18年現本堂落慶とともに大日如来・阿弥陀如来両尊が御本尊となりました。
旧御本尊の観音菩薩像は、現在本堂内位牌堂に安置されています。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十二番
谷中●●門前町
蓮葉山 妙智院 観音寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [112] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.104』
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
蓮葉山妙智院観音寺
起立慶長年中
権現様御代 神田北寺町ニて拝領仕候
大猷院様御代 御用地ニ相成代地谷中清水坂ニ●右之●坪数程拝領仕候
厳有院様御代 御用地ニ相成 延寶八年只今之場所代地拝領仕候
開基 尊雄 寂年月不知
中興開基 当寺第六世朝快住職中 本所弥勒寺之末寺ニ●
右等之始末古記録等焼失仕候ニ付●●分不申候
本堂
 本尊五智如来
 四佛 阿閦 宝生 弥陀 釈迦 各木坐像
 弘法大師 興教大師 各木坐像
護摩堂
 本尊不動明王木坐像
観音堂
 本尊如意輪観音木坐像
稲荷社
濡佛二体 大日如来 阿弥陀

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
観音寺(谷中上三崎北町七番地)
本所彌勒寺末、蓬莱山と号す。本尊大日如来。慶長十六年、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年谷中清水坂に移り、延寶八年現地に転じた。開山は僧尊雄。境内に観音堂(如意輪観音安置)、大師堂(弘法大師像安置)、駄枳尼天堂(駄枳尼天安置)がある。


「観音寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約5分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。

谷中は都内有数の寺院の集積地で、複数の御府内霊場札所が立地します。
観音寺は日暮里駅から谷中銀座(夕やけだんだん)に至る御殿坂と千駄木から谷中にのぼる三崎坂を南北に結ぶ通り沿いにあります。
谷中マップ

南側路地沿いの築地塀は国の国の登録有形文化財(建造物)に指定され、その趣きある風景は寺町・谷中のシンボルとしてしばしばメディアなどでとり上げられます
「観音寺の築地塀」は、幕末頃の築造で、南面のみ現存しています。


【写真 上(左)】 築地塀
【写真 下(右)】 山内入口

前面道路から少し引き込んで石畳。
右手石標は特徴ある字体の御寶号「南無大師遍照金剛」。


【写真 上(左)】 御寶号の石標
【写真 下(右)】 観音霊場札所碑


【写真 上(左)】 遠忌碑
【写真 下(右)】 山門

左手の「西国三十二番 近江観音寺うつし」とある石標は、「上野王子駒込辺三十三観音霊場」第32番の札所標。
そのとなりには弘法大師九百五十年と興教大師六百五十年の併記遠忌碑。

山門は切妻屋根本瓦葺で、おそらく薬医門と思われます。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

参道正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝、照り気味に秀麗に葺きおろす屋根が風格を感じさせます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。
向拝正面の4連の桟唐戸が意匠的に効いています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂右手

本堂向かって右手には宝形造銅板葺の大師堂があり、こちらは御府内霊場の拝所となっています。


【写真 上(左)】 大師堂-1
【写真 下(右)】 大師堂-2

堂宇前には年季の入った御府内霊場の札所標。
堂宇前面には複数の御府内霊場の札所板、向拝見上げに御府内霊場の札所板と上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所板。
御府内二十一ヶ所第参番の札所札もみえます。

『江戸歳事記』では、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」の第32番札所(観音寺)の札所本尊は如意輪観世音菩薩となっていますが、この札所板には千手観世音菩薩と刻されています。
また、札所板の霊場名は「西國三十三ヶ所寫」とみえ、やはり従前からこの霊場名で通っていたようです。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所板-1
【写真 下(右)】 御府内霊場札所板-2


【写真 上(左)】 御府内廿一ヶ所札所板
【写真 下(右)】 観音霊場札所板と千社札

軒裏を埋める古びた千社札が、札所としての古い歴史を感じさせます。
(現在はほとんどの寺社で千社札の貼付は禁止されています。)

堂内中央に弘法大師坐像、向かって右手に不動明王立像、左に興教大師坐像を奉安。


【写真 上(左)】 大師堂向拝
【写真 下(右)】 赤穂義士供養塔

本堂と大師堂の間には赤穂義士の供養塔と宝篋印塔。
その周辺には、聖観世音菩薩立像、如意輪観世音菩薩の石仏、救世菩薩地蔵尊などが安置されています。

『全国霊場大事典』(六月書房)によると、御府内霊場の開創は宝暦年間(1751-1764年)頃とされています。
同書によると、信州・浅間山真楽寺の憲浄僧正と千葉県松戸の諦信によって四国八十八ヶ所霊場が写されたもの。

『全国霊場巡拝事典』(大法輪閣)では、宝暦五年(1755年)刊の『大進夜話』に「江戸にも此頃は信州浅間山の上人本願にて、四国の八十八箇所を移して立札など見えたり」とあり、文化十三年(1816年)の札所案内には「宝暦五乙亥三月下総葛飾松戸宿諦信の子、出家して信州浅間山真楽寺の住になりぬ。両人本願して江戸に霊場をうつす」とあることを紹介しています。
また、このことは「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総國 諦信」と刻まれた札所碑が第42番観音寺にあり、他の札所にも同様の石碑が残ることからも裏付けられるとされています。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総國 諦信」とあります

本堂並びにある客殿も登録有形文化財(建造物)に指定されています。


【写真 上(左)】 客殿
【写真 下(右)】 客殿からの本堂

御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。

こちらの御朱印拝受については、以前はいささか敷居が高い印象がありましたが、久しぶりにWebで観音寺の御朱印情報を検索してみたら、なんとスワロフスキー(クリスタルガラス)付御朱印や切り絵御朱印で有名になっている模様。(ぜんぜん知らなかった。)

 
【写真 上(左)】 スワロフスキー付御朱印の案内
【写真 下(右)】 スワロフスキー付御朱印

大師堂前には↓のような掲示が依然としてあります。


スワロフスキー付御朱印や切り絵御朱印目当ての人も、いちおうは参拝しているのでしょうか・・・。

谷中の西光寺も以前は御朱印不授与でしたが、いまでは絵御朱印が人気となり、遙拝を条件とした御朱印郵送対応までされています。

■ 谷中の御朱印・御首題

やはり絵御朱印の人気はかなりのものがありそうです。
個人的には絵御朱印や切り絵御朱印にさほど興味はありませんが、これをきっかけに仏教に興味をもつ人が増えるのは、意義あることなのかもしれません。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」、「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫とお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
公式Web掲載の御本尊は智拳印を結ばれる金剛界大日如来、当山の当初の御本尊は五智如来で金剛界系です。
御寶印の「ア」は、胎蔵大日如来のお種子というより、通種子(すべての尊格をあらわす)として用いられているのかもしれません。

 
【写真 上(左)】 御本尊・大日如来の御朱印
【写真 下(右)】 お種子(ア)の御朱印

上記のとおり、現在観音寺の御朱印はスワロフスキー付御朱印や切り絵御朱印がメインの模様で、無申告での墨朱御朱印は大日如来の揮毫御朱印か、お種子(ア)の揮毫御朱印が授与されている模様です。
御府内霊場御朱印の汎用御朱印帳への授与については不明です。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-15


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Ebb and Flow (凪のあすから) - LaLa(歌ってみた)


■ 思い出の向こうに - 小川範子


■ 空に近い週末 - 今井美樹
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■ 「シティ・ポップ」って?-2

先ほどBS朝日で放送していたシティポップ・スタジオ、聴き応えがあった。
とくに、桑江知子、浜田金吾とマリーン。

改めて思ったのは、インスト陣が腕利きで、どの曲もボーカルなしでもFusionとして成り立っていること。
これに雰囲気あるボーカルが乗ってくるので、悪くなりようがない。

それにしても、BSとはいえプライム・タイムでこの面々のパフォーマンスが聴けるとは・・・。
喜んでいいのか、はたはた哀しむべきか・・・。

■ 桑江知子 - ダンシング・イン・ザ・ワンダーランド

歳を重ねても声のよさ、歌の上手さは翳りを見せず。

■ 濱田金吾 - Piano Man

リリカルなフェンダー・ローズ、シンコペなクルーヴ、流麗なストリングス、むせび泣くサックス・・・。
完璧なAORの構成。

■ マリーン - It's Magic - 1983.09

マリーンって、こんなに上手かった??
と思うほど説得力があった。
そうね、この頃はサックスも主役級だったな。

■ THE SQUARE - ALL ABOUT YOU

これはサックスじゃなくて、リリコンだけど。
完璧なリード楽器。

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2023 /05/17

こちら→「■ 「シティ・ポップ」って?」に続けて書こうと思いましたが、字数オーバーになったので若干記事を重ねて続編としました。

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かなり前に録画したNHK「あさイチ」のシティ・ポップ特集、さきほど視てみました。
いろいろとシティ・ポップのサウンド分析していたけど、いくつか面白いポイントがあった。

1.波形が自然の音に近い
これはおそらく、1/fゆらぎを含んでいるということ。
だから聴いてて心地よく、しかも飽きがこない。
番組中でシティ・ポップの波形分析していたけど、すごく綺麗な波形をしていた。
※1/fゆらぎについては→こちらをみてね。

じっさい実験によると、シティ・ポップをBGMに作業したときが、他のジャンルに比べてもっとも作業効率が上がったという。


2.人間の鼓動に近い
シティ・ポップのBPMは100~120 程度。
これは人間のもつ鼓動にアジャストしやすいテンポだという。
人間の鼓動は外部からのリズムに呼応しやすいというから、シティ・ポップやディスコ曲を聴くと自然にからだが揺れるというのは、こういう流れなのかもしれない。

■ Plastic Love - 竹内まりや (Official Music Video)

↑ この曲でBPM104とのこと。
ミディアム曲でBPM100~110、アップテンポ曲でBPM110~120程度か。
この程度ならば”ヨコノリ”で心地よく踊れる。

ハウスでBPM120~130、テクノ/トランス系でBPM120~140とされるが、こうなるともはや”ヨコノリ”はむずかしく、強制的に”タテノリ”となる。
だから、いまのスタンダードなビート(BPM120-)にサンプリングで載せても、シティ・ポップならではの質感の再現はできない。
ただ、メロディのよさを伝えられるだけ。

2:28 キメ~インストパート
3:22 キメ~フィルイン~Aメロ復帰
4:00 キメ~コーラス(リフレイン) 


3.インストのパッセージ&存在感
これは番組でとり上げていなかったが、代表曲として流していた曲を改めて聴いてみたら、いかにインストのパッセージ(メロをつなぐフレーズやリフなど)が大きな役目を果たしていたかがわかる。

■ 水銀燈 Mercury Lamp - 杏里

米国の一流ミュージシャンがサポート。
インスト一音一音の芸がこまかい。

■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオールスターズ

サザンサウンドを決定づけていた原さんのキーボード。
フレーズどりのセンスがただごとじゃない。


4.キメ&ブレイク
3.と関連して、キメ(演奏者が一斉に同じ動きをすること)やブレイク(すべてor一部の演奏者が演奏を止めること)がやたらに効果的に使われていた。
キメやブレイクは演奏者の技倆がないと決まらないから、やはりシティ・ポップのつくり手のレベルが高かったんだと思う。

番組後半でAiがつくったシティ・ポップ曲を流していたが、まったくダメダメだったのは、「インストのパッセージ」や「キメ&ブレイク」が欠落していたためではないか。

↓ の例を聴くと、キメやブレイクが聴きどころになっているのがわかる。

たとえば・・・。

■ Off Shore - 角松敏生

0:37 イントロからいきなりのキメ
2:07 キメ
3:44 フィルイン~リズムブレイク~キメ~フィルイン~復帰

■ GoodBye Boogie Dance - 杏里

0:00 イントロからいきなりキメ3連
1:22 キメ~Aメロ
2:58 キメ~Aメロ
3:29 キメ~カッティングギター残してブレイク

■ P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子
    
0:59 聖子ちゃんのステップ契機のキメ
1:49 キメ~~16ビートのハット
3:45 キメ~イントロフレーズ回帰

↑ どれもインストのパッセージが決まりすぎてる。
シティ・ポップの曲のつくりは、洋楽のなかでもロックよりはむしろディスコに近い。↓

■ A Night To Remember - Shalamar

0:35 キメ~ボーカル(female)・イン
1:17 キメ~ボーカル(male)・イン
2:21 キメ~リズムセクション残してブレイク
4:07 ボーカル契機のテクニカルなキメ
ダンスが完璧なヨコノリ!

■ On The Beat - The BB & Q Band

0:33 キメ~カッティングギター
2:50 キメ~インストパート
3:07 カッティングギターのフレーズ決まりすぎ
4:11 キメ+ブレイク(こういうところで曲をつなげる)
5:24 キメ~ホーンのソロパート

↑ やっぱりこいつらも、「インストのパッセージ」や「キメ&ブレイク」にあふれていることがわかる。

「インストのパッセージ」や「キメ&ブレイク」はインスト名手の掛け合いやアドリブによるものも多いし、データ変数が多いからサンプリングがやっかいだし、この質感はおそらくアナログ音源でしか記録・再現できない。

「ChatGPT」的なものが幅を利かせるであろうこれからの時代、おそらく「AIではつくり出せないもの」の価値がどんどん上がっていくから、その点からも1980年代の音楽は普遍的な価値を高めていくのではないか。


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2023-01-15 UP

どのテイクとはいわないけど・・・。
シティ・ポップの名曲のアレンジは練りに練られているし、インスト陣のレベルもハンパないし、
しかもはっきりしたサビメロのないメジャー・セブンス曲がメインだから、よほどの技倆 or オリジナリティがないとすぐさまお経になる・・・。

とくに、シティ・ポップ特有の弾むようなリズム&グルーヴは1980年代のBCMやAORでもそうは聴けないものだから、4つ打ち全盛のいま、再現するのは相当きつい。

安易にカバーすると返り血浴びると思うよ(笑)

なによりオリジナルテイクのイメージが強烈だから、上位互換はまずムリだと思う。
いじるな危険!(笑)

■ 松任谷由実 - Hello,my friend (1994年)

↑ サウンドの質感はもはやシティ・ポップのものじゃないけど、往年のユーミンを彷彿とさせる曲想。
ユーミンのヴォーカルあってこその難曲。

■ -TATSURO YAMASHITA-山下達郎 'SPARKLE' (1982年) Tribute Cover 2022

↑ これはかなりよくできたカバーだと思う。
やっぱり神曲はオリジナルのアレンジから離れられない。
それだけのものが原曲にこもってる。

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2023/01/08
紅白で反響が大きかったという・・・・ ↓

【milet×Aimer×幾田りら×Vaundy】「おもかげ」| 第73回NHK紅白歌合戦 音源Ver.


ポイントはカッティングギター、ベースライン、そしてコーラスだと思う。
ポップミュージックが失ってしまった”グルーヴ感”を、人々がふたたび求めはじめてるのかもしれぬ。

↓ 40年前の角松敏生。ヴォーカルとインストのバランスが絶妙。
■ SUMMER EMOTIONS - 角松敏生 (1983年)


↓ 異論はあると思うが、シティ・ポップのマスターピースのひとつだと思う。
■ 【EY TV】矢沢永吉「YES MY LOVE」Music Video (1982年)



↓ 現在、もっとも巧みにグルーヴ感を生み出せるユニット-その1
FictionJunction (FBM
■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」


↓ 現在、もっとも巧みにグルーヴ感を生み出せるユニット-その2
Bank Band
■「to U -PROTECT “to U” version- 」 Bank Band with Salyu


↓ インストとのアンサンブルや、”音の隙間”を大切にする若手アーティストが増えてきている感じもする。
■ 三阪咲 - Rollercoaster (Acoustic Live Performance)



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2022/12/29 UP

昨日放送のBSフジ『シティポップカレンダー'81』、録画したやつを視てみました。
民放にしてはかなりよくできた構成だったと思う。(コメンターによっては2、3意味不明の発言もあったけど。)

とくに当時、シティ・ポップを創り上げた当事者のコメントが深すぎた。

以前、シティ・ポップの構成要件として ↓ を挙げたけど、これを裏付けるコメントが多かった。
とくに、松任谷正隆氏の「メジャー・セブンス=シティ・ポップ」発言には正直おどろいた。

それと、大滝詠一『A LONG VACATION』のモチーフがJ.D. Southerにあったとは、これもびっくり。
■ 大滝詠一 - カナリア諸島にて(1981年)


■ J.D. Souther - You're Only Lonely (Official Audio)
10/20/1979 / 7位 13Weeks


レコーディングに関するファクターがひとつあったと思うので8.として追加します。

1.リズムセクションが生楽器で、アップビート(裏拍)、ヨコノリであること。
2.音にすきまがあって、16分のハイハットがシャープに響いていること。
3.グルーヴ感があること。リズムに「キメ&ブレイク」やシンコペーションが絡んでいること。
4.メジャー・セブンス(四和音)系のコード進行で、ドミナントを多用すること。
5.ボーカルとインスト(楽器)のアンサンブルバランスがいいこと。とくにカッティングやリフのサポートがあること。
6.多声部は基本的にコーラス(ハモリ)であること。
7.AORやBCMに通じるこ洒落た質感があること。
8.マルチトラック・レコーダーでバウンス(ピンポン録音)され、腕利きのエンジニアが手掛けていること。

その背景となったのが、↓ のファクターだと思う。
A.聴き手に洋楽を聴く”素養”があったこと。だからセブンスや”抽象な歌詞”も受け入れやすかったこと。
B.エッセンスをベースにし、これに日本人ならではのこだわりの職人芸を加えていること。
C.上質なアンサンブルを展開できる、腕利きのミュージシャンが日本にも数多くいたこと。
D.セッションが頻繁に行われ、そのなかから新しいフレーズやコード進行などが生まれていたこと。
E.プロのライターやアレンジャーがメインストリームで活躍していたこと。
F.媒体が情報量の多いアナログレコードで、しかもLP購買がメインだったのでアルバム曲がふつうに聴かれていたこと。
G.経済がほぼ右肩上がりで「生活の質を高めよう」という意識が高かったこと。なので曲調がブライトで気分を高揚させるものだった。
H.ウォークマンやカーオーディオで音楽を外で聴く機会が多かったので、「心に刺さる歌詞」よりもBGMとしての適性が求められていた。
I.MTVなどビジュアル媒体がほとんどなく、サウンドだけで勝負する必要があったので、”音”に集中できる環境にあった。

だから、シティ・ポップの成立にはおそらくこのような時代背景が必要だし、腕利きのミュージシャンやプロ(本来の意味での)のクリエイターがいないと成立しない。

とくに1981年といえば、洋楽がその洗練度を高めており、→ ■ 1981年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)、しかもその多くがグルーヴ感を備えていた。
洋楽が邦楽に与えていた影響は計り知れず、なおかつ日本独自の解釈が生まれメジャー化するタイミングだったと思う。

だがら当時は洋楽と邦楽(シティ・ポップ)の質感はほぼ同質で、同じカセットに入れて聴いたりしていた。
例→ ■ 1984年のテープリスト

※ 以前の記事ですが、すぐ聴けるように再掲します。↓

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おそらく1984年くらいにつくったテープだと思います。
この時代、洋楽と邦楽をシャッフルしてもまったく違和感がなかったことがわかる。
リズムが16ビート、シンコペがらみのアップビートのグルーヴで通底していたからかもしれぬ。

01.C調言葉に御用心 - Southern All Stars  〔from『Tiny Bubbles』/1980〕


02.Just One Kiss - Rick Springfield  〔from『Success Hasn't Spoiled Me Yet』/1982〕


03.Sunset Memory - Kazu Matsui Project Feat. Robben Ford  〔from『Standing On The Outside』/1983〕


04.Plastic Love - 竹内まりや 〔from『VARIETY』/1984〕


05.Let's Celebrate - Skyy  〔from『Skyy Line』/1981〕


06.Seeing You (For The First Time) - Jimmy Messina 〔from『Oasis』/1979〕


07.He's Returning - White Heart 〔from『White Heart』/1982〕


08.Last Summer Whisper - 杏里・Anri 〔from『Heaven Beach』/1982〕


09.Tribeca - Kenny G 〔from『G Force』/1983〕


10.The Goodbye Look - Donald Fagen 〔from『The Nightfly』/1982〕


11.The Last Resort - Eagles 〔from『Hotel California』/1976〕

↑ なぜかラストにこの曲が入っていた。

And they called it paradise, I don't know why.
みんなその場所を楽園と呼ぶけど、僕には何故だか分からない・・・
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アンサンブル、洗練度、グルーヴ感は、いまのほとんどの洋楽が失ってしまったものだから、これをマニアックに追求した1980年代の日本のシティ・ポップが全世界から再評価されているのではないか。


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個人的に、シティ・ポップの源流のひとつと思っている「サーフ・ロック」。
当時(1970年代中盤~)はいまから考えられないほど日本でも人気があって、ニューミュージックとサーフ・ロックを一緒に聴いていた輩がたくさんいた。

■ Ned Doheny - A Love Of Your Own (1976年)


■ Kalapana - Dilemma (1977年)


■ Pablo Cruise - Atlanta June (1977年)




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2022/11/16 UP

さきほど「マツコの知らない世界」でDJ Night Tempo氏招いて”80's Japanese POPSの世界”を特集してた。
やっぱりマツコさん音楽の造詣ふかいわ。

正鵠射まくりのコメントがいくつかあったので、テープおこし的にいくつか紹介してみます。

【マツコ氏】
「('80年代の曲って)歌詞とかもさ~、何て言ったらいいのかな、なんか壮大なんだよね。夢や希望が詰まっている人が聴くからさ、なんか異国がいっぱい出てくるのよ 不必要な(笑) 明菜ちゃんなんてすぐに中東行っちゃうのよ。砂漠の歌歌うのよ(笑)」
↑ たしかに・・・、聖子ちゃんもすぐに南の島に行っちゃうし(笑)
■ 松田聖子 - セイシェルの夕陽


■ スペクトラム(SPECTRUM) - なんとなくスペクタクル

そうそういたなぁ、スペクトラム。ほんとに何十年ぶりかで聴いた!

スペクトラム聴いて【マツコ氏】
「いまのっていわゆる向こうのChicだったりとかE.W&Fとか、あっちのリスペクト・ヴァージじゃない。(中略)音楽に対してめちゃくちゃ日本人って貪欲だったと思うんだよね、あの頃・・・。もう世界中のありとあらゆる音楽を知りたくて、それをすぐに吸収してああやって学びたくて、なんであんなに貪るように音楽を聴いていたんだろう。」
↑ ほんとに、誰もかれもが音楽マニアだった気がする。
音楽はたいていLP(アルバム)聴きで、シングルカットされないアルバム曲でもさりげに人気があったりした。

■ Chic - Good Times(1979)



【途中で出てきた外国のシティ・ポップファン】のコメント
「僕がすごいと思うのは、この時代の日本の音楽のレベルの高さ。ミュージシャンの演奏も素晴らしいし、曲のアレンジ、ストリングスすべてが贅沢でお金がかかっている。でも日本の80年代の音楽は日本の中だけに閉じ込められていたから、まだまだ知らない素晴らしい曲がたくさんあってまるで宝探し。」
↑ そうなのかな???
当時の音楽好きはたいてい洋楽メインに聴いていたし、日本のトップアーティストだってみんなLAレコーディングとかしてた訳で・・・。
日本のポップス買いかぶり過ぎの感なきにしもあらず。
それをいうなら、70年代後半~80年代初頭の米国のBCM系マイナーレーベルなんて、それこそお宝だらけかと・・・。

【マツコ氏】
「いまの(日本の)音楽をあまり聴かない理由のひとつは、イントロも間奏もないじゃん。(中略)だから変化は頑張ってつけているけど、ギターソロとか入ってないと大して変わらないじゃん。その、一曲通しての物語としては・・・。なんか物足りない。」
↑ いまの曲はボーカルがベタに張り付いて、アンサンブルが弱いといったことかと思う。


【Tempo氏】
「トイレ行ってスッキリしてない気分ですかね・・・。」

【マツコ氏】
(絶句しつつ)「じゃあ、そういうことにしておこう、いいよ(苦笑)」

【マツコ氏】
「あぁ、でもこれ言いすぎるとまた、『オワコンオカマがノスタルジー語ってる』とか言われるからやめよ(笑)」
↑ オワコンサンプリングして悦に入る、しかも世界的に受けてるって、いったいどゆこと?(笑)

【マツコ氏】
「当時の特徴としてね、不倫の曲がめちゃくちゃ多いのよ、日本って。相当不倫願望の強い国だったんんだと思う。なんかああいうのって、余裕がないと出てこないんだろうっていうのは、いまの歌とかみてると・・・、まぁでも世界的にそうなのかな? なんか歌詞とか現実的な歌詞が多くなったよね。前はめちゃくちゃな歌あったじゃない、いっぱい、日本の歌・・・。」
↑ これとか・・・ ↓
■ 恋におちて -Fall in love- 小林明子(カバー)


【マツコ氏】
「(当時の)日本の歌詞ってすごい独特だったと思うのよ、その、感情表現が・・・。”I Love You”だけじゃないじゃない。いま日本の歌って、けっこうめちゃくちゃシンプルな歌詞をみんなつかってるけど・・・。」
「ほんと、むかしの曲って1回聴いただけではちょっと理解できないというか、という歌詞が多かった気がする。」


■ 涙のアベニュー - 桑田佳祐

暗喩絡みの歌詞がおサレすぎる。


菊池桃子氏登場。RA MUの原曲聴いて。
■ ラ・ムー(RA MU)/ 菊池桃子 - 少年は天使を殺す(1988年6月15日)

ラ・ムー(RA MU)は、アイドル(菊池桃子)とブラコンとフュージョンが合体したユニット。

【マツコ氏】
「お洒落だね~。Tempoちゃんのやつもそうだけど(意味深な笑い)、原曲もいま聴き返すと凄いわ。やっぱあの頃って。(菊池桃子は)すごいアイドルだったのに、それに挑戦させる。いまだったらこわいというか、想像すらしないと思うのよ。あれができちゃうって、相当、芸能界も含めて、日本っていろんなチャレンジをする国だったんだなっていうのが・・・。」

【桃子氏】
「なにか、遊びごころが減ってきたのか、リスクをとらなくなってきたのか???・・・。」

【マツコ氏】
「RA MUは遊びすぎですけどね(笑)」

一度でいいから、マツコさんとマキタスポーツ氏の音楽対談きいてみたい。
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-13

Vol.-12からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第38番 神霊山 慈眼寺 金乗院
(こんじょういん)
豊島区高田2-12-39
真言宗豊山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:
〔金乗院〕
江戸八十八ヶ所霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番、山の手三十三観音霊場第9番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第14番
〔新長谷寺〕
江戸八十八ヶ所霊場第54番、江戸五色不動(目白不動尊)、関東三十六不動霊場第14番、東京三十三観音霊場第23番、近世江戸三十三観音霊場[1] 第16番
司元別当:此花咲耶姫社など
授与所:庫裡

第38番札所の金乗院は、第54番札所の目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)を合寺したので、現在、金乗院が第38番、第54番のふたつの札所の御朱印を授与されています。
この記事では第54番札所の目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)もとりあげ、第54番ではこの記事を再掲します。
(なお、本記事は「江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊」から転載・追記したものです。)

第38番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに金乗院なので、御府内霊場開創時から一貫して下高田砂り場の金乗院であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

金乗院は天正年間(1573-1592年)、開山永順が御本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を建立したのが草創といいます。
当初は蓮花山 金乗院と号し中野寶仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山 金乗院 慈眼寺と号を改め、音羽護国寺の末寺となりました。

御本尊は正観世音菩薩(伝・眦首羯摩作、運慶の作とも)。
山内に荒神を合殿する観音堂、御嶽社、辨天社、三峯社などを置き、江戸時代には旧砂利場村の此花咲耶姫社をはじめ社地三、四ヶ所の別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂などの伽藍、水戸光圀公揮毫とされる此花咲耶姫の額などの宝物を焼失しました。

戦災で全焼した関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)を合併し、新長谷寺の札所も金乗院に移動しています。

明治初期の神仏分離を乗り切ったふたつの札所のうち一方が戦災で全焼して、一方に合寺されたという比較的めずらしい例です。

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第54番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに新長谷寺(目白不動尊)なので、御府内霊場開創時から一貫して関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)であったとみられます。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示、『ルートガイド』および『関東三十六不動霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)は、元和四年(1618年)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(現・文京区関口、金乗院から東に約1㎞)にありました。

『江戸切絵図(小日向絵図)』をみると、江戸川橋から目白台にのぼる目白坂沿い北側に永泉寺、養国寺、八幡宮(正八幡神社)と並び、その南側神田川寄りに目白不動尊があったことがわかります。

目白不動堂奉安の不動尊は高さ八寸、「断臂不動明王」といい、弘法大師の御作と伝わります。

縁起によると、弘法大師が唐より御帰朝の後、出羽羽黒山に参籠されたとき大日如来が現れてたちまち不動明王のお姿に変じました。
大師に告げるには「此の地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火をあたうべし」と。
不動尊は利剣をもってみずから左の御臂を切られると、霊火が盛んに燃え出でて仏身に満ちあふれました。
大師はこの御影を二体謹刻され、一体は出羽国の荒沢に安置され、もう一体は大師みずから護持されたと伝わります。

後年、野州足利の沙門某が大師護持の不動尊を奉持していましたが、武蔵国関口の松村氏が霊夢を得て足利よりお遷しし、領主の渡辺岩見守より関口台の一画に土地の寄進を受けて一宇を建立したのが本寺の濫觴(らんしょう/はじまりのこと)とされます。

元和四年(1618年)、大和長谷寺小池坊秀算僧正が中興、徳川2代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立。
大和長谷寺から御本尊と同木同作の十一面観世音菩薩像を御遷ししてその直末となり、東叡山 浄滝院 新長谷寺と号しました。

寛永年間(1624-1644年)、3代将軍家光公は当山の断臂不動明王に「目白」の号を贈り、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、また、江戸三不動の代一位として名を高め、人々の篤い信仰を受けました。
ことに護身、厄除け眼病治癒の不動尊として霊験あらたかとされます。

元禄年間(1688-1704年)には、5代将軍綱吉公とその母桂昌院が深く帰依してさらに伽藍を整え、寺容は壮麗を極めたと伝わります。

境内は堰口の流れを見下ろす高台の景勝地で、付近には茶肆、割烹などの店が出て、ことに月雪景の名所であったようです。
その佳景は、『東京名所四十八景 関口目しろ不動』 (慶應義塾大学メディアセンターDC)からも偲ぶことができます。

昭和20年5月の戦災で焼失したため金乗院に合併、御本尊の目白不動明王像は関口から金乗院に遷られました。

ふたつの名刹が合併した金乗院は今日も複数のメジャー霊場の札所であり、多くの参拝客を集めています。
また、当寺住職の小野塚幾澄大僧正は、平成20年から平成24年まで真言宗豊山派管長・長谷寺化主に就任されています。

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【史料】
【金乗院関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
三十八番
砂り場
神霊山 金乗院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:千手観音 興教大師 弘法大師

『新編武蔵風土記稿 巻之12 豊島郡之4』(国立国会図書館)
(下高田村)金乗院
新義真言宗多磨郡中野村寶仙寺末、神靈山観音院ト號ス 本尊正観音長一寸八分眦首羯摩作 開山永順文禄三年(1594念)六月四日寂 御嶽社 辨天社 三峯社 観音堂/荒神ヲ合殿トス 観音ハ木ノ立像長三尺運慶ノ作ト云


「金乗院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「宿坂関旧址 金乗院 観音堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』音羽絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

【新長谷寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十四番
関口駒井町
東豊山 海瀧院 新長谷寺
紀州初瀬小池坊末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社目白不動明王 弘法大師

『江戸名所図会. 十二』(国立国会図書館)
目白不動堂 同所東の方にありて堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と号す
長谷小池坊の宿寺とす
本尊不動明王の霊像は長八寸弘法大師の作 総門の額東豊山の三大字ハ南岳悦山の筆
縁起云弘法大師唐より帰朝の後 羽州湯殿山に参籠ありし時 大日如来忽然と不動明王の姿に変現し滝の下に現ハれ●● 大師に告て云く此地ハ諸佛内證秘密の浄土なれハ有為の穢土をきらえり 故に凡夫登山することかたし 今汝に無漏の上火をあたふべしと宣ひ持ちし●●●の利劍をもって左の御臂を切●●ハ、霊火盛に燃出でて佛身に充てり 依て大使面前に出現の像二躯を模刻し一躰ハ同國荒澤に安置し 一躰ハ大師自ら護持なしたまふ
その後野州足利に住せる沙門某之を感得し●奉持せしに一年 霊感あるを以て此地の住人松村氏某に●かりつひに一宇を開きて此本尊を移し安置なし奉ると
当寺元和四年和州長谷小池坊秀算僧正中興ありし頃 大将軍台徳公の厳命により堂塔坊舎御建立あり
また和州長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像をうつし新長谷寺と改む
大将軍大猷公目白の号を賜ひ 元禄の始にハ桂昌一位尼公御帰依浅からす諸堂修理を加へたまひ丈余●地蔵尊等を安置なさしめられたり
此地麓●●堰口の流を帯ひ 水流そうそうとして日夜不絶 早稲田の村落高田の森林を望む風光の地なり 境内貸食亭多く何れも涯に臨めり

また、『寺社書上(御府内備考). [61] 関口寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社書上P.134』
新義真言宗
和州長谷小池坊末
目白不動尊別当
東豊山 新長谷寺 海瀧院
本堂
 本尊不動尊 弘法大師御作 秘佛
 開帳佛不動 木立像
 前立不動 木座像 四大明王ニ童附各立像
不動堂本殿 桂昌院御建立別堂
 地蔵尊木立像
 不動木立像 良弁僧都作
 聖徳大師木立像
 七曜佛木立像 運慶作
 庚申佛木立像
 疱瘡神木立像
 愛染明王木像
 大日如来木像 聖徳太子作
 毘沙門木像
 弁財天木像 竹生嶋写し
観音堂
 本尊十一面木立像 行基菩薩作 開山秀算僧正勧請
 前立観音木立像
 与森天神木座像
 興教大師木像
 弘法大師木像 伊豫國延命寺写しニテ五十四番札所
 開山秀算僧正木像
 子安地蔵尊金立像
 如意輪観音木像
 弥陀木座像
 聖天金像
末社
 稲荷社、秋葉社、人丸社
唐金地蔵尊 濡佛

『東京名所図会』(国立国会図書館)
目白不動堂は同所東の方にあり堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と號す 本尊不動明王は弘法大師の作なり 当寺は元和年間(1615-1624年)和州長谷の小池坊秀算僧正中興ありしより将軍家の厳命にて堂塔伽藍建立あり 後ち桂昌院尼公諸堂に修理を加えられ頗る荘厳を極めたり 境内眺望佳絶にして茶肆割烹店等多し 冬月雪景最も宜しと云ふ


「新長谷寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「目白不動堂」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十二,博文館,1893.12.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』小日向絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅か都電荒川線「学習院下」駅ですが、道行きの風情は「雑司ヶ谷」駅ルートの方があると思うので、こちらをご紹介。

メトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅3番出口から、目白通りを渡って宿坂通りに入ります。
目白通りは目白台の台地上を走り、ここから南側、神田川にかけては下り勾配となります。
宿坂(しゅくざか)もかなりの急坂ですが、この一本西側の「のぞき坂」は別名を「胸突(むなつき)坂」といい、「東京一急な坂」として知られています。

『江戸名所図会. 十二』(国会図書館DC)には以下のとおり「宿坂」と「金乗院」が記されています。
「宿坂関之旧跡 同北の方金乗院といへる密寺の寺前を四谷町の方へ上る坂口をいふ 同じ寺の裏門の辺にさらちの平地あり(中略)昔の奥州街道●●其頃関門のありて跡ありといへり」

現地掲示によると、この辺りは中世に「宿坂の宿」と呼ばれた関所があり、「立丁場」と呼ばれた金乗院裏門辺の平地が関所跡との伝承があります。
宿坂は「江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話」が伝わっているそうです。


【写真 上(左)】 宿坂
【写真 下(右)】 山門

宿坂をほぼ下りきった右手が金乗院の山門です。
二軒の垂木を備えた銅板葺のどっしりとした二脚門で、「神霊山」の山号扁額を掲げています。
右の門柱には、関東三十六不動霊場、左には江戸三十三観音札所の札所板。


【写真 上(左)】 関東三十六不動霊場の札所板
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の札所板

約200年前の建立ですが昭和20年4月の戦災で屋根を焼失、昭和63年に檀徒の寄進により復元されています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門前の不動尊

山門周辺に御府内霊場第38番および第54番の札所標、「目白」と刻まれた台座の上に石造坐像のお不動さま、江戸八十八ヶ所霊場第38番の札所標、「東豊山 新長谷寺」の寺号標などが建ち並び、当寺の歴史を物語っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場第38番の札所標
【写真 下(右)】 御府内霊場第54番の札所標


【写真 上(左)】 江戸八十八ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 山の手三十三観音霊場の札所標

「江戸第拾六番 山之手第九番 本尊十一面観世音」の札所柱もありました。
「山之手第九番」は山の手三十三観音霊場第9番(新長谷寺)と思われますが、「江戸第拾六番」については霊場不明です。


【写真 上(左)】 金乗院の寺号標
【写真 下(右)】 新長谷寺の寺号標

石敷のすっきりとした境内。
山門正面が庫裡(納経所)、その左手に本堂、山門右手の高みが目白不動尊の不動堂です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂と不動堂

御府内霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番は本堂、御府内霊場第54番、関東三十六不動霊場第14番は不動堂のお参りとなります。(御府内霊場は修行大師像も参拝)
(「本堂に『断臂不動明王』を安置」とする資料もありますが、『関東三十六不動霊場ガイドブック』には不動堂が参拝堂とあり、不動堂への参道に「目白不動尊参道」の案内掲示、不動堂の扁額も「目白不動堂」です。)

ちなみに御府内霊場のうち、一寺二札所、ふたつの御朱印をいただけるのはこちらのみです。


【写真 上(左)】 本堂(斜めから)
【写真 下(右)】 本堂向拝露天

本堂は昭和46年再建、平成15年の改修。
木造ではありませんが、入母屋造本瓦葺流れ向拝。
大棟、降り棟ともにやや細身ですが、隅棟、稚児棟まわりの鳥衾・熨斗瓦、掛瓦などのつくりが精緻で、屋根の照りもほどよく風格ある堂宇です。
水引虹梁に禅宗様の木鼻、中備えに蟇股、向拝正面は格子戸、その上に「神霊山」の扁額を掲げています。
御本尊は眦首羯摩作と伝わる高さ7㎝の聖観世音菩薩。金剛仏で秘仏です。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂向かって左に端正な修行大師像が御座。
金乗院は江戸五色不動唯一の真言宗寺院で、江戸五色不動巡拝中に修行大師像のお参りができるのはこちらだけです。

本堂向かって右には「倶梨伽羅不動庚申」。
不動明王の法形である倶梨(利)伽羅剣と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られた石像で、寛文六年(1660年)の建立です。
「人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」という現地掲示があります。


【写真 上(左)】 倶利伽羅不動庚申
【写真 下(右)】 不動堂参道

その横に宝塔。その後ろには立像の金仏(地蔵尊)。
その右横が墓地への参道で、その奥には慶安の変(由井正雪の乱、慶安四年7月(1651年))の首謀者の一人、丸橋忠弥の墓所があります。

さらに右手の山門寄りの高みのお堂が、目白不動尊の不動堂です。
確信はないですが、おそらく入母屋造銅板葺妻入り、妻側に付向拝の構成かと思われます。
棟部に経の巻獅子口、猪の目懸魚が見えます。


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂向拝

水引虹梁部は向拝幕が張られているのでよくわかりませんが、身舎正面上部に「目白不動尊」の扁額。
格子戸越しに目白不動尊のおすがたが拝せます。
こちらの不動尊は御前立かと思われます。
整った面差しで、右手に剣、左臂に火焔を抱かれ、大盤石の上に御座される立像です。


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 鐔塚

境内にはこの他、寛政十二年(1800年)に建立の刀剣の供養塔、鐔塚(つばづか)などの見どころがあります。

なお、江戸名所図会で宿坂のかなり上方に描かれている観音堂(運慶作の観音像が奉られていたと伝わる)の現況については不明です。

御朱印は境内寺務所にて快く授与いただけます。
こちらは江戸五色不動のほか、御府内霊場(2札所)、江戸三十三観音札所、関東三十六不動霊場の札所も兼ねられ、いずれも御朱印を授与されています。

札所無申告の場合、目白不動尊、聖観世音菩薩いずれの御朱印になるかは不明ですが、おそらく先方からお尋ねになるのかと思います。


〔 御府内霊場第38番(金乗院)の御朱印 〕


【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「聖観世音菩薩」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔御府内霊場第54番(新長谷寺)の御朱印〕

【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「目白不動明王」「弘法大師」の揮毫と聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右上に「弘法大師御府内霊場第三十八 五十四番」の札所印。左下に寺号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 直書(筆書)
※ 関東三十六不動霊場の御朱印が授与されている模様です。

〔関東三十六不動尊霊場第14番の御朱印/専用納経帳〕

・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 筆書

〔江戸三十三観音札所第14番の御朱印〕

・御朱印尊格:聖観世音菩薩 江戸三十三観音札所第14番印判 目白不動尊の印判 直書(筆書)


■ 第39番 金鶏山 海繁寺 真成院
(しんじょういん)
公式Web

新宿区若葉2-7-8
高野山真言宗
御本尊:大日如来・薬師如来 他?
札所本尊:潮干十一面観世音菩薩
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第39番、江戸三十三観音札所第18番、関東九十一薬師霊場第13番、大東京百観音霊場第14番、山の手三十三観音霊場第27番、江都三十三観音霊場第18番、東京市史稿撰四十四観音霊場(第15番)
司元別当:
授与所:寺務所

御府内霊場には札所の密集エリアが4つあります。
三田、元浅草・寿、谷中、四ッ谷で、第39番札所の真成院は四ッ谷エリアにあります。

第39番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに真成院なので、御府内霊場開創時から一貫して真成院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』および『関東九十一薬師霊場ガイドブック』などから縁起・沿革を追ってみます。

真成院は慶長三年(1598年)、祈祷僧・清心法印によって開山され、江戸城外濠工事にともない幕府より替地として与えられた四ッ谷(現在地)に移転しました。

当山には「潮干観世音」と呼ばれる観音菩薩像が奉安され、江戸三十三観音札所第18番の札所本尊となっています。

潮干観世音菩薩像は天徳四年(960年)唐土より朝廷に奉納され、村上天皇はこの尊像を敬礼し給われたといいます。
また、信濃の戦国武将・村上義清の守り本尊とも伝わります。
Wikipediaには(村上氏の出自について)「村上天皇の第四皇子為平親王が村上姓を賜り、その子源憲定(村上憲定)の娘婿に源頼清がなったことが由来とされる。ただし、この説は十分な確証を得られていない。」とあり、村上天皇、村上氏双方とのゆかりはこの説から来ているのかもしれません。

村上氏は清和源氏頼清流とされる信濃源氏を代表する名族です。
源氏系図には清和天皇-貞純親王-源六孫王経基-源満仲-源頼信-源頼清-源仲宗-源盛清とあり、源仲宗とその子息が政変に巻き込まれて諸国に配流され、信濃国更級郡村上郷に配流された盛清が信濃(村上)源氏の実質的な祖となったという説がみられます。
(盛清の兄弟の顕清も村上郷に配流説あり)

『尊卑分脈』には村上姓初代は源仲宗とありますが、これは仲宗が子息の信濃配流以前に信濃国村上郷を領していたためとする説があります。

清和源氏の名族、村上氏は更級郡を本拠として信濃国内に勢力を張り、戦国期の当主・村上義清は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘を母とし、正室を信濃守護・小笠原長棟の娘として北信濃の戦国大名として重きをなしました。

血筋だけでなく武勇にも優れ、上田原の戦い(天文十七年(1548年))、砥石崩れ(天文十九年(1550年))の二度に渡って武田信玄軍を撃退した猛将として名を馳せました。
しかし武田軍の猛攻は止まらず、天文二十二年(1553年)4月、村上義清はついに本拠の葛尾城を放棄して越後国の長尾景虎(上杉謙信)のもとへと身を寄せ客将となりました。
越後に追われたとはいえ、武田信玄を二度までも破った戦国武将は村上義清のみとも目され、その名将ぶりはいまも語り継がれています。

村上氏とその流れの山浦氏は上杉家臣となり、一時は旧領の海津城代となりましたが後にその地位を失い、子孫は上野国、下総国などに飛散したとみられています。

寺伝によると、村上義清の守護佛であった潮干観世音は孫の村上兵部道楽斎(覚玄齊)に伝わりました。
道楽斎は上杉家に従い大阪夏の陣に出陣のため奥州米沢から江戸に入った際、身を隠す必要にかられ、当山の祈祷僧・清心法印が迎え入れて匿ったといいます。
戦後そのお礼として家宝の潮干観世音像を当山に奉安と伝わります。

かつて真成院の近辺は海が迫り、潮干観世音の台石が潮の干満により常に濡れていたためその名を称されたといいます。(汐干(シホヒ)観世音、鹽踏(シホフミ)観世音とも)

潮干観世音は十一面観世音菩薩ですが、史料には「潮干観世音は聖観世音菩薩」という記載もあり、この尊格の錯綜についてはよくわかりません。

一時期本堂と観音堂が失われたものの天保八年(1837年)に再建。
御府内八十八ヶ所第39番札所、江戸三十三観音第18番札所で江戸時代から多くの参拝者を集めたといい、『江戸名所図会』では「四谷の四名所の一つ」に数えられています。

戦前までは境内も広く、四万六千日などの縁日には多くの信者で賑わったといいます。
兼務される観音霊場の多さをみても、江戸期から著名な観音霊場であったことがわかります。

昭和20年5月の東京大空襲によって焼失したものの戦後に再建。
昭和46年に当時としてはめずらしい室内墓地(四谷霊廟)を建立されています。

当山第19世の織田隆弘住職は青森県青森市の高野山青森別院・青龍寺を開山され、昭和59年青銅製の大日如来としては日本最大の「昭和大仏」を造立されたことで知られ、「正純密教」を唱えられ、在家のままであっても救われると説かれました。(Wikipediaより)

また、織田隆弘住職は楠造二尺三寸の薬師如来坐像を勧請され、加持によるお薬師様の御利益は難病平癒にことにあらたかといわれ、全国から信者が集まるといいます。
薬師如来は関東九十一薬師霊場第13番の札所本尊となっており、御朱印も授与されています。

観音堂に十一面観世音菩薩と大聖歓喜天尊を奉安し、什宝として太元明王画像、五大明王画像を蔵されていた(『寺社書上』)ことからも、往古から祈願寺、加持寺としての寺歴をもたれていたことが伺われます。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十九番
四ッ谷南寺町
金鶏山 海繁寺 真成院
中野村宝仙寺末 新義
本尊:薬師如来 潮干観世音 弘法大師

『寺社書上 [44] 四谷寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社書上P.126』
新義真言宗
中野寶仙寺末
錦敬山 海繁寺 真成院
起立年代相分り不申候
開山 清心(正保四年(1647年)寂)
本堂
 本尊薬師如来木坐像 運慶作
 両脇 日光 月光 各運慶作
什宝
 太元明王画像
 五大明王画像
 乾閻婆王画像
観音堂
 十一面観音金銅立像*
 歓喜天 木喰以空上人作
*)天徳四年(960年)唐土より朝廷に奉しと云 (村上)天皇此尊像を敬礼し給ふ(略)  村上義清殊に尊伝し給ひ堂宇を奉安(略)
太子堂
稲荷社

『四谷区史 [本編]』(国立国会図書館) 
錦敬山海繁寺眞成院は四谷南寺町今の寺町にある新義眞言宗で、中野村寶仙寺の末寺である。(略)起立及び替地等の年代は詳でないが、開山清心は正保四年(1647年)に入寂(略)府内八十八箇所卅九番の札所で、鹽踏観音は一に汐干観音とも称して、村上天皇の守護佛と傳へている。又歓喜天があつて十六日を縁日とし、参詣者が多い。外に吉祥水がある。『武江披砂』に武州四谷潮干観音之説を載せて、「(略)眞成院の本尊観音也、潮干の観音といふ、其近邊の地を潮干といふ、亦潮ふみの観音共いふ(略)古代は足の下より潮出たりともいふ。(略)越後村上氏代々の守佛なり、村上義清の守本尊なり、一尺計の石の上に坐像の聖観音なり、此石潮のさし引に湿り乾くの変あり、村上信濃守成清(イに賴清)は上総國久留利の城主なり、北條氏康の為めに落城に及ぶ、成清自殺の期に其子二人あり、五歳と三歳の男子なり、是をも刺殺さむとす、折ふし城に信濃國の僧清心法印来りて曰、大将の跡絶へからすといひて、其二子を衣にかゝへ、城を出て寺に帰り育けり、後に兄をば村上左衛門信清といひ、弟をば勝長門守といふ、長門守は里見義弘の家臣となり、老職となる、兄村上左衛門は未だ浪人たりしに、三州より里見へ被仰談度事有しに、未だ其便を求させ給はず、村上左衛門は勝長門守が兄なるよしに付き、鈞命を蒙りて義弘へ使す、此時村上左衛門召出されしとぞ、先年落城の頃にや有らん、彼守本尊を彼僧携へて其寺にをく、一説に村上義清末流村上兵部入道楽斎は奥州米澤に在りしが、大坂御陣に立、其後江戸に帰る、当寺開山清心法印は祈の師たるにより、浪人の内当地に寓す、後水戸の御家に出勤す、其頃此本尊は当寺に納むともいふ、此観音の石座潮汐干満にしたがひ、乾湿の変有、此僧後に武州に来り、四ツ谷今の地に居す、此の佛をも安置す、此石に潮時のしるしを以て、諸人奇として尊み称して潮踏の観音と名づく、後になへて汐干の観音といふは、潮の満干の観音といふの略語なるべし(略)

『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
汐干(しほひ)観世音菩薩
(四ッ谷)南寺町戒行寺の裏の坂口、眞言宗錦敬山眞成院にあり。此本尊は越後國村上義清が守佛にして、其末流村上兵部入道道楽齊大阪御陣の時、上杉景勝に従ひ、奥州米澤より彼地に赴く。後江戸に帰り、当寺に収むるといへり。(略)鹽踏(シホフミ)観世音とも号く、村上天皇護身の尊像なり。依て村上肥後守頼清常に崇信し、其後堂宇を造り安置す、大阪御陣のみぎり、村上覚玄齊当寺第三世●心に授興し当寺に安ずといふ。本尊聖観音 作者詳ならず、一尺斗の石の上に立せ給ふ。此台石潮のミチヒには必ず湿るヽとなり。


「真成院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「日宗寺 戒行寺 汐干観音」/出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第2,有朋堂書店,昭2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR・メトロ丸ノ内線・南北線「四ッ谷」駅で徒歩約7分。
このあたりは山谷が複雑に入り組んだ地形で、真成院も「観音坂」の途中に位置します。


【写真 上(左)】 観音坂
【写真 下(右)】 山内入口

ビルタイプの寺院ながら、周囲には御宝号や尊格を記す幟がはためき、霊場札所の趣きがあります。


【写真 上(左)】 潮干観世音菩薩の幟
【写真 下(右)】 薬師如来の幟

門扉から左手方向が本堂・事務所、右手の階段上が観音堂です。
御朱印尊格からすると、御府内霊場の札所本尊には観音堂奉安の潮干十一面観世音菩薩も定められているとみられますが、観音堂は事務所で受付してからのお参りとなります。


【写真 上(左)】 延命地蔵尊
【写真 下(右)】 雨宝稲荷大明神

左手正面に延命地蔵尊坐像と雨宝稲荷大明神のお社。
延命地蔵尊は、先代織田隆弘和尚の傘寿を記念して平成5年に建立された尊像。
稲荷大明神は、「当山鎮守で潮干十一面観世音菩薩と関係の深い雨宝童子に因む神様(公式Web)とのことで、『寺社書上』に記載のある「稲荷社」の系譜かもしれません。


【写真 上(左)】 エントランスの手水鉢
【写真 下(右)】 札所板

ビルに入ると正面が事務所でこちらで参拝受付。
たしか御府内霊場では本堂(回向堂)と観音堂どちらも参拝したかと思います。
(公式Webには本堂(回向堂)の説明に「御府内八十八箇所の札所巡りの方は、ここでお参りいただきます。」とあります。)

本堂(回向堂)は事務所向かって左奥にあり、奉安されている御像は左から阿弥陀如来、金剛界大日如来、釈迦如来です。
弘法大師も本堂に御座されます。

寺務所の上階には加持殿があり、中央には薬師如来と胎蔵大日如来、右脇には不動明王、左脇には愛染明王が奉安されています。
関東九十一薬師霊場の札所本尊はこちらの薬師如来となります。
関東九十一薬師霊場の巡拝時にはちょうど加持がおこなわれており、手前からの黙拝としましたが、すこぶる厳粛な空気感で身が引き締まる思いでした。


【写真 上(左)】 観音堂入口
【写真 下(右)】 観音堂

一旦寺務所に戻りお断りをしてから観音堂に向かいます。
階段をのぼった風とおしのよい上階に観音堂があります。
入口は鉄扉で堅く閉ざされていますが、扉をあけると正面に潮干十一面観世音菩薩像、毘沙門天、弁財天もこちらに奉安されています。
江戸三十三観音札所の拝所はこちらになります。


【写真 上(左)】 観音堂向拝
【写真 下(右)】 真成院の外観

御内陣に護摩壇と天井には金色の天蓋。外陣の天井には格子の天井絵と絢爛たる設えですが、観音様の前に座ってみると不思議にきもちが落ち着きます。
先客がいた場合は、参拝を待った方がベターかと思います。

加持を本旨とされる寺院だけあって、いずれの堂宇も厳粛な空気が流れています。
御府内霊場はこのような雰囲気の札所も少なくないので、巡拝に当たっては少なくとも数珠と可能であれば勤行式の持参をおすすめします。

 
【写真 上(左)】 真言宗智山派の勤行式
【写真 下(右)】 真言宗豊山派の勤行式

このように書くと、敷居の高いお寺さまのように思われがちですが、建物壁面には御府内霊場、江戸三十三観音、関東九十一薬師の3つの札所板が掲げられ、巡拝者の受入体制は整い、ご対応も親切です。

御朱印は巡拝受付時に御朱印帳(集印帳)をお預けすると、参拝後に授与いただけます。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「潮干十一面観世音」「弘法大師」の揮毫と十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内八十八 第三十九番」の札所印。左下に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 江戸三十三観音札所の御朱印
【写真 下(右)】 関東九十一薬師霊場の御朱印


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-14

■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Trust You + Endless Story - Yuna Ito (20 Mar 2010 LIVE @ SOTSUGYOU NO UTA '10)


■ far on the water - Kalafina


■ 千年の恋 - ANRI
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■ 冬向きの洋楽30曲!

ようやく涼しくなってきたので、リンクつなぎなおしてアゲてみます。

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2020/11/27 UP(2022/11/30 UP)

30曲で完成版を仕上げてみました。

関連記事 ↓ もどーぞ。
■ 冬の夜のソウル・バラード12曲!

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2020/11/13 UP

あまりに寒いので、つくってみます。
冬の曲はむずかしいな・・・(笑)

今回はUPしながらつくっていきます。
夏バージョン秋バージョンと同様、1980年代の曲がメインです。

とりあえず、思いつくまま10曲ほど。
ただし、何曲かは消えると思います。

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止まらなくなった(笑)
あとで整理します。


01.Vanessa Williams - Save The Best For Last
〔 From 『The Comfort Zone』(1991)

■ 1983年、アフリカ系アメリカ人初のミスアメリカ(第59代)だが、歌の実力も相当なもの。
これは希代のメロディメイカー、Keith Thomasのカラーが前面に出たメロディアスなバラード。
Lady Soulが1990年代に入ってもなお勢いがあったことを物語る1曲。
1994年の「The Sweetest Days」も好メロの名曲。

02.Alexander O'Neal - My Gift To You
〔 From 『My Gift To You』(1988)

■ 米国のBCMシンガーだが、なぜか英国で人気があった。
Jam & Lewisとの共作が多く、リズムサンプリングを多用したとんがった曲調がアピールしたのかも。
巨漢で野太い声質だが、バラードでもいい味を出していた。これはそんな1曲で1988年にリリースされたクリスマス・アルバム『My Gift To You』のタイトル曲。

03.Switch - Love Over And Over Again 
〔 From 『This Is My Dream』(1980)

■ オハイオ州で結成されたファンク&コーラスグループ。Motown系のGordyレーベルから1978年~1981年まで5枚、1984にTotal Experience Recordsに移籍して1枚のアルバム・リリースで、いずれも好盤として知られている。
これは4thALBUMからのミディアム曲で、Bobby DeBargeとPhillip Ingramのファルセットの掛け合いが堪能できる名曲。

04.Commodores - Nightshift
〔 From 『Nightshift』(1985)

■ 1985年、看板VocalのLionel Richieが抜けたあと、心機一転放ったヒット曲。
亡きMarvin GayeとJackie Wilsonに捧げたトリビュート・ソング。
Lead VocalsはJ.D. Nicholas&Walter Orange。
個人的にはLionel Richieはあまり好みではないので(笑)、こういう渋いCommodoresに魅力を感じてしまう。

05.Christopher Cross - Swept Away
〔 From 『Back Of My Mind』(1988)

■ テキサス州サンアントニオ生まれのAOR系シンガー。
1979年、ALBUM『Christopher Cross』(南から来た男)で彗星のごとくデビューし、名曲「Sailing」は1981年のグラミー賞で5部門を独占した。
「Sailing」や「Arthur's Theme (Best That You Can Do)(ニューヨーク・シティ・セレナーデ)」(フラミンゴ(笑))のイメージがあまりに強いので他の作品がかすみがちだが、透明感あふれるハイトーンを活かした佳曲を以降も多数残している。
夏のイメージが強いが、凜とした冬の朝を思わせるリリカルな曲も。これはそんな1曲。

06.Louise Tucker - Midnight Blue
〔 From 『Midnight Blue』(1982)

■ 英国のオペラシンガーが1982年に突如として放ったポップス曲でベートーヴェンのピアノ・ソナタ第8番ハ短調「悲愴」のカバー。デュエットはCharlie Skarbek。
シンセの使い方がこの時代ならではだが、原曲のメロディを活かしたヒーリング感ある曲調は、1990年代に人気を高める”クラシカル・クロスオーバー”のはしりかも。

07.Jesse Colin Young - The Hawk
〔 From 『The Perfect Stranger』(1982)

■ 本来はフォークロック/カントリー系のシンガーソングライターだが、1982年という時代の風を受けてAORなALBUM『The Perfect Stranger』をリリース。
Bill Payne(key)、Bill Cuomo(key)、Fred Tackett(g)、Robben Ford(g)、Dean Parks(g)、Mike Porcaro(b)、Carlos Vega(ds)とくれば、AOR路線確定かと・・・(笑)
この後はフォークロック/カントリー系のフィールドに戻るので、このALBUMはJesse Colin Young のエモーショナルな歌声がAORと融合した貴重な作品となった。

08.Tom Snow - Our Song
〔 From 『Hungry Nights』(1982)

Lee Sklar(b)、Abraham LaBoriel(b), Jeff Porcaro(ds)、Ed Greene(ds)、Mike Baird(ds)、Lenny Castro(per)のリズム陣に、Richard Page&Tom Kellyのバックヴォーカルときたら、買うしかないかと・・・。
本職はMOR系のコンポーザーで、ヴォーカルのレベルは高いとはいえないが、Richard Page&Tom Kellyの名手2人のバックヴォーカルが手堅くサポートしてなかなかの仕上がりとなっている。

09.Cyndi Lauper - Time After Time
〔 From 『She's So Unusual』(1983)

■ なんか、衝動的にリストしたくなった。
デビューアルバムにして「Girls Just Want To Have Fun」とこの曲を盛り込んでくるとは、やはりその才能はただごとじゃない。
この名盤も1983年か・・・。

10.Michael W. Smith - Straight To The Heart
〔 From 『I'll Lead You Home』(1995)

■ Contemporary Christian Music(CCM)の代表的アーティスト。
1995年リリースの『I'll Lead You Home』はとくにメロディアスな佳曲がつまった名盤。
「Trilogy: The Other Side Of Me」からの3曲の出来も圧巻。
1990年代中盤、CCMのフィールドには未だAORのエッセンスが残っていた。

11.Boys Town Gang - I Just Can't Help Believing (Dance Mix)
〔 From 『A Cast Of Thousands』(1984)

■ Boys Town Ganというと「Can't Take My Eyes Off Of You」(君の瞳に恋してる)一択と思われがちだが、他にもさりげにいい曲がある。
この1点のかげりもないbright感は1980年代前半ならではのもの。

12.Atlantic Starr - Secret Lovers
〔 From 『As The Band Turns』(1985)

■ 1980年代のSelf-Contained Groupの代表格。アップチューンもいいけど、とくにバラードに名作が多い。
これは1987年のヒット曲でBarbara Weathersのヴォーカルが冴え渡っている。Paulinho Da CostaのPercussionもさりげに効いて、バラードながらキレのある仕上がり。

13.Marc Jordan - She Used To Be My World
〔 From 『A Hole In The Wall』(1983)

■ またしてもMarc Jordanだけど・・・(笑)
これは1983年リリースの日本制作盤(米国盤はないと思う)『A Hole In The Wall』収録のミディアム曲。
前2作に比べるとアップ・チューンはややハードな仕上がりに振れているが、スロー~ミディアム曲はあいかわらずのアダルトな仕上がり。
クレジット(LP)がいま手元にないので確証はないが、おそらくRobbie Buchananと思われるキーボードのフレーズが曲の輪郭を際立たせている。

14.Elton John - I Guess That's Why They Call It The Blues
〔 From 『Too Low For Zero』(1983)

■ やっぱりどうしてもElton Johnは外せない(笑)
この曲はたしかシングルで切られてヒットしたと思う。Elton Johnらしい隙のない楽曲構成。
それにしてもこの曲が入ったALBUM『Too Low For Zero』(1983年)、すごみを感じるほどのすばらしい出来じゃわ。

15.The Manhattan Transfer - Birdland
〔 From 『Extensions』(1979)

■ AORやBCMのカテゴリーから外れていて、意外と忘れられがちなユニットだけど、1980年代前半には日本でも絶大な人気があった。
これは1979年のヒットALBUM『Extensions』の冒頭を飾る曲で、いま聴きなおしても洗練感がすごい。

16.Alex Bugnon - Missing You
〔 From 『Head Over Heels』(1990)

■ 1990年代にジャンルを確立した”Smooth jazz”の担い手のひとりで、音数の多いキーボードに個性。
レーベルはSmooth jazz系の”Orpheus Records”、音の質感も典型的なSmooth jazzで、1970~1980年代のFusionとはあきらかに質感がことなる。

17.Roger Voudouris - On The Ladder
〔 From 『A Guy Like Me』(1980)

■ Michael Omartianがプロデュースに入り、関連のスタジオミュージシャンがサポートしてAORなALBUMを1978~1981年に4枚リリースしている米国のシンガー。
これは1980年リリースの3rdALBUM『A Guy Like Me』収録曲。変則的な曲構成の小曲ながら、持ち味のハスキーでエモーショナルな声質がよくあらわされている。
そういえば、1980年頃のAORのALBUMって、こういう味のある小曲がよく挟み込まれていた。
当初、米国ではAORが「Album-Oriented Rock」(Adult-Oriented Rockではなく)の略称として使われていた意味がわかる気がする。

18.Donald Fagen - Maxine
〔 From 『The Nightfly』(1982)

■ いままでさんざUPしてるけど、やっぱり外せなかった神曲。どのフレーズを切り取っても洒落っ気にあふれている。Steely Danも好きだけど、個人的にはこっちの方が上かな?
それにしてもこれが35年以上も前の曲とは・・・。

19.Amy Keys - Has It Come To This
〔 From 『Lover's Intuition』(1989)

■ これも何度目かのご紹介。1989年にわずか1枚のALBUMしか残していないLady Soulのシンガー。とくに声質が優れているわけじゃないけど、歌いまわしが抜群に巧い。

20.James Ingram & Patti Austin - How Do You Keep The Music Playing
〔 From 『It's Your Night』(1983)

■ 御大Quincy Jonesの秘蔵っ子ふたりが華麗なデュエット。
フック抜群なメロディラインながらベタつくことなくサラリと仕上がった、この時代ならではの質感。

21.Giorgio Moroder & Philip Oakey - Together In Electric Dreams
〔 From 『Giorgio Moroder & Philip Oakey』(1985)

■ '70年代~'80年代初頭にかけての欧州のディスコ・シーンの中核をなした「ミュンヘン・サウンド」。代表格にSilver Convention、Donna Summer、Boney M.、Baccaraなどがいた。(→こういうの
4つ打ちベースでベタなメロディが特徴で、日本でもけっこう人気があった。(ある意味ABBAもそうですね。)
個人的には「ミュンヘン・サウンド」がメジャーコード方向に洗練されて、グルーヴと流麗なストリングス(ないしはシンセ)が入ってきたのがハイエナジー(Hi-NRG)だと思っている。
これは、「ミュンヘン・サウンド」の代表的なプロデューサーGiorgio Moroderが1985年にリリースしたヒット曲。1985年といえばハイエナジー(Hi-NRG)の代表曲は概ね出揃っているが、やはりHi-NRGとは微妙に質感が異なる。
「Let's Get Started」/Voyage なんかも同じようなポジションだと思う。

22.Sarah Brightman - Scarborough Fair
〔 From 『La Luna』(2000)

■ Sarah Brightmanがイギリスの伝統的バラッドをカバー。透明感あふれるSarahのハイトーンとの相性抜群。
この曲収録の2000年リリース『La Luna』はクラシカル・クロスオーバー屈指の名盤だと思う。

23.Peabo Bryson - Learning The Ways Of Love
〔 From 『Straight From The Heart』(1984)

■ 地味だけど佳曲が揃った『Straight From The Heart』からのバラード。
Producer, Written By Michael Masserならではのメロディが際立った曲でRandy Kerberのキーボードも絶妙。
バックがいまいちだと情感過多になりがちな人だけど、Neil Stubenhaus(b)、Carlos Vega(ds)のリズム陣が小気味よく抑えて、AC的な上質な仕上がり。

24.UK Players - So Good To Be Alive
〔 From 『No Way Out』(1982)

■ 英国funka latina(ファンカラティーナ)からミディアム曲を1曲。
ALBUMは1982年の『No Way Out』わずか1枚だが、これが名盤で、好き者のあいだではけっこう人気が高い(と思う)。
ベースとサックスの音運びがこの時代ならでは。

25.Whitney Houston - Greatest Love Of All
〔 From 『Whitney Houston(そよ風の贈りもの)』(1985)

■ デビュー・アルバム『そよ風の贈りもの』収録の壮大なバラードで、Michael Masserの華麗なメロディが際立っている。
一般的には1992年の『ボディガード』/「I Will Always Love You」が有名だと思うけど、個人的にはこのALBUMと次作の『Whitney』(1987)の方がはるかにレベルは高いと思う。
筆者は「洋楽1983年ピーク説」を勝手に唱えていますが、これらのALBUMを聴くと、BCM(ブラコン)のピークはもっと後かもしれぬと思えてくる。
米国のポピュラー音楽界は、この素晴らしい才能をあまりに早くに失った。

26.Lisa - Rocket To Your Heart (Hot Tracks Remix_1983)
〔 From 『Lisa』(1983)

最初、ハイエナジー(Hi-NRG)の代表曲としてHazell Dean - Evergreenをリストしていたが、やっぱりこっちかな?
San FranciscoのHi-NRGレーベル、Moby Dickからのリリース。
21.「Together In Electric Dreams」と聴きくらべると、質感の違いがよくわかる。

27.Olivia Newton John & David Foster - The Best Of Me
〔 From 『David Foster』(1986)

■ 1983年の『The Best Of Me』、1986年の『David Foster』と初期2枚のソロアルバムで続けて収録された名曲。
『The Best Of Me』はソロ・ヴォーカルだったが、こちらはOlivia Newton Johnとのデュエット。
個人的にはDavid Fosterの才能のピークは1983年だと思っていて、『The Best Of Me』を聴くと、その類い希なメロディ・メイカーぶりがよくわかる。

28.Michael McDonald - Our Love (Remix)
〔 From 『No Lookin' Back』(1985)

■ 1985年リリース『No Lookin' Back』収録のエモーショナルなバラード。
こちらも個人的にだが、Michael McDonaldの最高作だと勝手に思っている。
こういうメロディライン、曲構成は天性の才能がないとつくり出せないと思う。

29.Kathy Troccoli - If I'm not in love
〔 From 『Kathy Troccoli』(1994)

■ 米国CCM(Contemporary Christian Music)系の女性ヴォーカリスト。
これは1994年リリースの『Kathy Troccoli』収録曲で、伊藤由奈の「Endless Story」の原曲。

(番外)伊藤由奈 - Endless Story

■ ↑の2曲、聴き比べると洋楽と邦楽の女性ヴォーカルの持ち味のちがいがよくわかる。
個人的には、伊藤由奈Vers.方が好きだけど・・・。
日本のハイトーン系の女性ヴォーカルは、世界的にも貴重な存在では?

30.Journey - When You Love A Woman
〔 From 『Trial By Fire』(1996)

■ 前作『Raised On Radio〜時を駆けて』(1986)から実に10年を経た1996年、Steve Perry、Neal Schon、Jonathan Cainが顔を揃えてつくりあげたALBUM『Trial By Fire』。
なかでもこの曲のできは出色で、数あるJourneyのバラードのなかでもベストかも・・・。
しかしこの曲を聴くと、Neal Schonのギター、Jonathan Cainのキーボードがいかに重要な役割を果たしているかがわかる。
そしてSteve Perry。やっぱり「Steve PerryなくしてJourneyなし」だと思う。
1996年、この奇跡のような名曲を残しながら、以降、いまに至るまでJourneyでSteve Perryの歌声は聴けていない。

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春向きの洋楽
夏向きの洋楽
秋向きの洋楽
冬向きの洋楽

↓こっちも聴いてね
1983年洋楽ピーク説

〔関連記事〕
■ 洋楽1983年ピーク説
■ 1983年洋楽ピーク説(名曲編)
■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)
■ 1980年代中盤の夏ソング
■ 1980年代のサントラ(&CM)
■ 初夏のグルーヴ曲20曲
■ AOR系名曲を100曲!
■ 1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1

〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。

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それでは、順にご紹介していきます。

■ 第0番 愛鷹山 三明寺(さんみょうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
沼津市大岡4051
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:静岡梅花観音霊場第65番
授与所:寺務所


当初、伊豆八十八ヶ所の専用御朱印帳頒布・ご不在札所の御朱印代理授与などは、修禅寺の「札所0番」で対応されていましたが、近年、沼津の三明寺がこの役割を担われています。
霊場公式Webの寺院一覧には第0番札所として掲載され、伊豆八十八ヶ所第0番の御朱印も授与されているので、正式な札所となっている模様です。

三明寺は沼津市北部の長泉町寄り、門池公園のすぐよこの高台にあります。
東名高速道路「長泉沼津IC」からもほど近く便利のよいところです。
伊豆八十八ヶ所の札所ではほぼ北端、伊豆の入口、沼津市内に手引き所があるのは戻り行程がなく便利です。
ただし、伊豆88遍路の紹介ページには「伊豆霊場振興会の関係者が常駐している訳ではありませんので、ご了承ください。」とあるので霊場会の事務局寺院ではなさそうです。

公式Webによると、沼津市本郷町にあった室町時代開創の瑞眼山光明院を、平成14年(2002年)の曹洞宗開祖道元禅師750回大遠忌を期して景勝地の門池に移転しました。

草創は平安時代、真言宗の愛鷹山 参明寺という名刹が存在し門池を含む公大な寺地を有していたことから、音が通じる「三明寺」に改称したようです。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 本堂

本堂は、千葉県茂原市の日蓮宗実相寺旧本堂を禅宗様式に改装・建立したもの。
入母屋造銅板葺で向拝上に大がかりな千鳥破風を興し、手前に附設した向拝屋根には軒唐破風を設えて、変化に富んだ意匠です。
水引虹梁両端に獅子・象の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。
向拝柱には「静岡梅花観音霊場第65番」の札所板、向拝見上げには寺号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 門池不動尊

本堂向かって右に御座の6メートルの不動明王立像(門池不動尊)は存在感を放たれ、密寺かと思うほどです。

御本尊の酒糟地藏菩薩は、室町時代足利尊氏公奉納と伝わり、沼津市の有形文化財に指定されています。
山内掲示には、村民の祈願を受けた地蔵菩薩が貴人に姿を変えて酒を搾って酒を売り、その家を富ませたという由来が記されています。

本堂向かって左手の階段うえには、南足柄の大雄山最乗寺道了大薩埵を勧請されたという道了堂があり、こちらは当山鎮守のようです。
その左手には、いいなり地蔵尊、地蔵尊坐像、銭洗弁天、魚籃観音、御印章供養塔などが整然とならびます。
尊像はいずれもおだやかでやさしいお顔です。


【写真 上(左)】 道了堂
【写真 下(右)】 寺務所

御朱印は本堂向かって左手よこの寺務所にて拝受できます。
専用納経帳など、伊豆八十八ヶ所霊場関連グッズもこちらで頒布されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳/嶺松院

〔 地蔵菩薩の絵御朱印 〕


〔 門池不動尊の御朱印 〕


〔 道了尊の御朱印 〕


※すみません、いろいろと忙しかったので「静岡梅花観音霊場第65番」の御朱印については聞きそびれました。


■ (旧)第1番 観富山 嶺松院(れいしょういん)
伊豆市田沢129
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆天城七福神(弁財天)、中伊豆観音札所第33番
授与所:本堂横、ないし第2番弘道寺
※現在、こちらの寺院は第1番札所を外れられ、第1番札所は伊豆の国市四日町の長徳寺に変更となっています。
記録の意味で記事は残します。



発願寺の嶺松院は、月ヶ瀬温泉にほど近い県道349号修善寺天城湯ヶ島線沿いにあります。
寺伝によると、大同年間(806-810年)(延暦年間(782-805年)とも)、弘法大師諸国巡錫の途次、この地で村民が病に苦しんでいる姿に接され草堂を建立、薬師三尊、十二神将を勧請、病気平癒・疫病退散の加持を修され村民を救われたのが開創といいます。

『豆州志稿』には「田澤村 宮上最勝院末 本尊聖観世音 昔ハ庵也 佛山和尚ヲ祖トス 永禄四年(1561年)寺トスト云」とあります。
『霊場めぐり』には、永禄四年(1561年)、僧真亮創建で旧は小庵。最勝院十一世僧仏山(慶長十年(1605年)寂)寺となす、とあります。

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湯ヶ島温泉から約3㎞。狩野川右岸の山腹、田沢集落にあり、対岸は月ヶ瀬。
本堂は寄棟造銅板葺平入りで桁行きがあります。向拝柱はなく正面桟格子戸。
扁額はないですが、門柱に院号と「伊豆國八十八ヶ所 第一番札所」の札所板が掲げられ発願所の雰囲気を盛り上げています。

現在の御本尊は聖観世音菩薩ですが、本堂には薬師三尊、十二神将、地蔵菩薩などが奉安されているそうです。
パワスポ感ある奥の院は伊豆天城七福神の弁財天霊場でもあり、弁財天(別名縁結び弁天)の御朱印も授与されています。

御朱印は嶺松院、第2番弘道寺いずれかで拝受できますが、三寶印のデザインが異なるようです。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳/嶺松院


御朱印帳/弘道寺

〔 伊豆天城七福神の御朱印 〕
● 弁財天 /主印は三寶印

御朱印帳


■ 第1番 瑞応山 長徳寺(ちょうとくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆詣Web
伊豆の国市四日町1027
臨済宗円覚寺派
御本尊:延命地蔵願王菩薩
札所本尊:延命地蔵願王菩薩
他札所:
授与所:庫裡

伊豆の国市仁田、原木、韮山、長岡あたりはふるくから伊豆國の中心で多くの寺院があり、伊豆中道三十三観音霊場、中伊豆観音札所など、ふるい霊場の中核エリアでした。

長徳寺は霊場札所ではなかった模様ですが、閻魔様・地蔵尊のお寺として知られているようです。

ご住職は気さくで話のお上手な方で、山内を案内していただけました。
現在は臨済宗円覚寺派ですが、往時は関東十刹に数えられた奈古谷の名刹・国清寺の影響が強かったようです。

伊豆詣Webによると、開創は延文年間(1356-1361年)とも伝わり、開祖は大拙祖能和尚。
大拙祖能和尚は足利義満公の駿河太守であった大江氏の帰依を受け、円融天皇より広円明鑑禅師のおくり名を与えられ、円覚寺の第四十世、建長寺の第四十九世などを歴任されたという高僧です。

『豆州志稿』には「四日市村 臨済宗円覚寺派 奈古谷國清寺末 本尊地蔵 慶安(1648-1652年)中ノ創立也 建長寺十三世廣圓和尚初祖タリ 島昔ハ庵也 佛山和尚ヲ祖トス(永和二年(1376年)唱滅ス) 本尊ヲ河越地蔵ト云 運慶ノ作ナリト傳フ」とあり、やはり開創は室町時代まで遡るようです。

 
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 本堂

山内は芝生メインで広々と明るいイメージ。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝で水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に板蟇股。
御朱印見上げには山号扁額を掲げています。

御本尊は延命地蔵願王菩薩で「河越地蔵」とも呼ばれたようです。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額

本堂向かって左手の十王堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端を設えています。
屋根勾配が急で、引き締まった印象の堂宇です。


【写真 上(左)】 十王堂
【写真 下(右)】 霊場の幟

十王堂には十王尊と地蔵菩薩・閻魔大王・奪衣婆が安置されています。
十王堂の主座は閻魔大王の例が多いですが、こちらでは主座に地蔵菩薩が御座されます。
『十王経』などでは地蔵菩薩と閻魔大王は同体、もしくは閻魔大王は地蔵菩薩の化身ともされ、奪衣婆さんは閻魔大王の妻とされるので、こちらの尊格構成は儀軌類にもっとも忠実なものなのかもしれません。

三途の川を渡り終えた亡者は、現世の罪過や善根功徳の軽重を問うため七日ごとに七回の裁判を受けることになりますが、三十五忌に閻魔大王の裁判があり、四十九日忌に判決によって六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道)に導かれるとされます。

日本の地蔵信仰では地蔵菩薩は六道(とくに地獄)の責め苦から衆生を救う役割を果たすといいます。
閻魔大王=地蔵菩薩ですから、地蔵菩薩は閻魔大王として六道(とくに地獄)に送られた衆生を、みずから救われるということになります。

伊豆八十八ヶ所には閻魔大王ゆかりの札所は比較的すくないので、第1番からいきなり閻魔大王・奪衣婆の洗礼を受け、現世の罪過や善根功徳、六道輪廻について考えさせられる札所構成は、なかなかのものかと思います。

御朱印は本堂向かって右の庫裡にて拝受。閻魔大王の御朱印も授与されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 閻魔大王の御朱印 〕



■ 第2番 天城山 弘道寺(こうどうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市湯ケ島296
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆天城七福神(福禄寿)、中伊豆観音札所第35番
授与所:庫裡



第2番弘道寺は、第1番から天城街道を南下した、湯ヶ島温泉郷の東側の山ぎわにあります。
寺伝によると、弘治年間(1555-1558年)、最勝院七世笑山精眞禅師を開山とし、福寿庵と号して当町東原にありましたが、第二世気添龍意和尚が現寺地に遷され、天城山弘道寺と号を改めました。

『豆州志稿』には「湯ヶ島村 宮上最勝院末 本尊聖観世音 此寺舊昔ハ龍若ノ祠ノ傍ニ在リ(其頃ハ福壽庵ト称ス) 龍若自屠スル所ト云神版アリ 龍若ハ上杉憲政ノ嫡男也 北条氏康当国修善寺ニ送リ誅戮セシムル事古戦録ニ見ユ 蓋此地ニテ屠腹セシナラン 其遺跡字東原ニアリ 最勝院七世精眞ヲ開山トス」とあります。
また、『霊場めぐり』には「創建として天文二十年(1551年)、上野国平井城主上杉憲政公の息竜若丸が北条氏に逐われこの地にて自刃せるを祀る」とあります。

関東管領上杉憲政公(1531-1561年)は、有名な河越夜戦で北条氏康に大敗を喫して上野国平井城に逃れ、長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家家督と関東管領職を譲りました。
天文二十一年(1552年)、憲政公が拠る平井城は西上野の諸衆に攻められ落城。吾妻から越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに退去しました。
平井落城の際に嫡男・龍若丸は置き去りとなり(安保泰広の御嶽城に待避という説もあり)、北条軍に捕らえられ、小田原ないし伊豆で自刃したと伝わります。

龍若丸の墓所は妙高山最勝禅院(宮上最勝院、第3番札所)にあり、最勝院は弘道寺の本寺です。
最勝院は宅間上杉家の上杉憲清公の再興ということもあり、末寺である弘道寺にこのような上杉氏御曹司の伝承が残っているのかもしれません。

『豆州志稿』の最勝院の項には「上杉安房守憲実鎌倉管領タル時 其弟兵庫頭清方ヲ越中ョリ招テ政ヲ摂セシム 永享十一年(1439年)年冬憲実豆州ニ遁レ 自称高岳長棟庵主 其の二子を携テ西遊セリ獨第三子龍若丸(龍若即憲忠也 憲政ノ子ニモ龍若アリ混ス可ラス)ハ豆州ノ邊鄙ニ棄置タリ(邊鄙トハ此ノアタリヲ云 憲実深ク罪ヲ成氏ニ得ン事ヲ恐ル 是故ニ伊豆ニ遁レ又僧トナリ 尚不安又西州ニ遠遊ス 此頃ハ大見邊ハ別シテ邊鄙也 故ニ玆(ここ)ニ匿シ置タル也 二子ヲ携ルニ対シテ棄置トハ●タルナラン 鎌倉大草紙ニ豆州ノ山家 北條五代記ニ伊豆ノ奥 北條九代後記ニ豆州奥山トアリ 共ニ此地ヲ云」とあり、憲政公の嫡男・龍若丸の逸話とは異なる内容を伝えています。

安政四年(1857年)、初代米国総領事のタウンゼント・ハリス、通訳のヒュースケン、下田奉行支配頭以下足軽等の一行36名が、通商条約締結のため江戸へ向かう途中に宿泊しました。当時門前に掲げられた「亜米理賀使節泊」の表札や床風脚などが今も残るそうです。

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本堂は寄棟造銅板葺で照り気味に曲線を描く降棟が端正な印象。
向拝柱はなく正面桟唐戸。上部に「弘道寺」の寺号扁額をおいています。
御本尊は行基作と伝わる聖観世音菩薩立像。伊豆天城七福神の福禄寿尊を奉安します。

御朱印は庫裡にて拝受。(旧)第1番嶺松院の御朱印も拝受しました。
伊豆天城七福神(福禄寿)の御朱印も授与されているようです。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 湯ヶ島温泉 「河鹿の湯」の入湯レポ


■ 第3番 妙高山 最勝院(さいしょういん)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市宮上48
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:庫裡



第2番弘道寺は天城街道の伊豆市側のいちばん南に位置し、ここから天城越えを経て札所密集エリアである河津・下田方面に抜けられます。
しかし、第3番最勝院は天城越えに背を向けて、狩野川筋から東側の大見川筋にルートを変えねばならず、早くもここでルート選択の岐路に立たされます。

伊豆観光のハイライトとして人気の高い「天城越え」ですが、伊豆八十八ヶ所で順打ち(札番通りに巡拝すること)をすると、東伊豆経由で南伊豆に至り、西伊豆まわりで中伊豆の結願所(修禅寺)に向かうので「天城越え」はしません。
ただし、この霊場はとくに「フリースタイル」の巡拝を推奨されているようなので、第2番からいきなり「天城越え」をして南伊豆に向かう、というコースどりもありかと思われます。

■ 天城越え - 石川さゆり(1986.12)


基本(札番)に忠実に大見川筋に向かえば、しばらくは第4番城富院や修善寺周辺の札所を巡ることになります。

また、大見川筋に向かう道筋も、いったん修善寺近くまで戻って大見川沿いを南下するルートと、湯ヶ島から県道59号伊東西伊豆線で国士峠を越え直接大見川上流に入るルートがあります。
県道59号は名うての険路(→情報)で、山道好きなら問題ないかと思いますが、運転に不慣れな方には荷が重いかもしれません。

伊豆の山道は隘路でカーブが多く、地図上では近くにみえても思いのほか時間を要します。
なので無理のない巡拝には、自身の運転の技量に合わせた行程づくりがポイントとなります。


地図(「伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅」より)

寺伝によると、永享五年(1433年)、管領上杉憲清公が祖父重兼公のために宮上村内の鎮守ヶ島という霊地にあった真言宗西勝寺の廃寺跡を再興し堂宇を建立。
妙高山と号し、金光明寺最勝院と号を改めて第一世吾寶宗璨禅師を招き開祖しました。

以降、優れた門下を輩出し、なかでも拈笑(ねんしょう)、雲岫(うんしゅう) 、南極(なんぎょく)、模菴(もあん)、洲菴(しゅうあん)は五哲と呼ばれ、それぞれに禅寺を開かれ、門下寺は実に1400余ヶ寺に及び、「曹洞宗吾宝五派の本山」と賞される伊豆屈指の名刹です。
その後、幾度の火災により堂宇を消失していますが、第四十八世玄道の代、昭和29年に再建、以降も境内整備が進められ、「最勝寺十景」という景勝を擁して山内はよく整っています。

『豆州志稿』には「宮上村 相州最乗寺末 本尊釋迦 金光明寺と称ス 管領藤(上杉)憲清欲追薦先考冥福 創院於豆州大見荘(略)文安元年(1444年)上杉氏ノ老長尾昌賢之ヲ鎌倉ニ迎ヘ管領ヲ継カシム 上杉右京亮憲忠ト称ス 乃叔父清方ノ為ニ大見ニ於テ寺を創ム 清方法名ハ道宣最勝院ト号ス因テ寺ニ名ク」とあります。

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端正な山門からまっすぐに延びる参道。背後には山、右手に唐破風の客殿を備えさすがに名刹の風格があります。
本堂は入母屋造平入りで大がかりな千鳥破風。その前面に流れ向拝で唐破風をおく変化のあるつくり。
水引虹梁端部の木鼻は正面獅子、側面貘ないし象。中備えに見事な龍の彫刻をおき、海老虹梁、手挟みの彫刻も見応えがあります。
正面格子の硝子戸で見上げに「妙高山」の山号扁額が掲げられ、名刹らしい格調を感じる本堂です。

御本尊の釈迦牟尼彿は約33cm昆首羯摩の正作と伝えられ、当院の体内釈迦牟尼佛として秘蔵されている霊佛とのことです。
火防大薩埵菩薩(秘仏)も奉安され、火防尊霊場としても知られています。
山内の弁財尊天は古来から当地の鎮守として祀られてきた、と御縁起にあります。

御朱印は庫裡にて拝受できますが、筆者の参拝時(2019年秋)には、「御朱印受付時間:9時~正午、午後1時~4時」の掲示がありました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 白岩温泉 「小川共同浴場」の入湯レポ


■ 第4番 泉首山 城富院(じょうふいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市城391
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡



第4番城富院は、第3番から県道12号伊東修善寺線を北上し、中伊豆(関野)の集落から城川沿いの枝道を遡った山あいにあります。
ちなみに、周辺の大見~白岩にかけては温泉が集中し、温泉マニアは素通りできないエリアです。

寺伝によると、天文十二年(1542年)、最勝院七世笑山精真和尚により開創され、北条氏五代の祈願所でもありました。
火災や山崩れにより幾度か被災しましたが、延宝九年(1681年)、相州の寿伝が来任して再興、今日に至っているとのこと。
春には境内の「北條氏康公手植えの梅(三代)」が開花します。
笑山和尚は氏康公と親交ふかく、和尚が氏康公に梅花に添えて贈ったという詩が残っています。

~ 武有りて文無きは隻翼に同じ 文有りて武無きは英雄ならず 此の梅遠く贈る君親しく見よ 紅白の花開く一樹のうちに ~

『豆州志稿』には「城村 宮上最勝院末 本尊観世音 天文中ノ創立也 開山笑山和尚 笑山贈梅花於北條氏康 係以詩曰(略・詩文)氏康大ニ悦ヒコレニ田園ヲ附ス」とあります。  

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山内ふもとにがっしりとした切妻造桟瓦葺の四脚門を配し、北条氏五代祈願所としての寺格を感じさせます。
本堂は入母屋造桟瓦葺で、重厚なボリューム感があります。
向拝柱はありませんが、向拝両脇の格子入りの花頭窓が意匠的に効いています。

御朱印は本堂内に印が置かれているので自分で捺し、納経料は賽銭箱に納めます。
なので、山内では専用納経帳がないと、(揮毫なし)印判のみの御朱印となります。
公式Webに「代行納経所は永徳寺です。」とあるので、永徳寺(伊豆市徳永122)まで出向けば御朱印帳に拝受できるかもしれませんが、筆者はお伺いしていません。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印は三寶印

専用納経帳


■ 上白岩温泉 「希望園」の入湯レポ
■ 上白岩温泉 「雨月庵」の入湯レポ


■ 第5番 吉原山 玉洞院(ぎょくとういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市牧之郷679
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第31番、駿豆両国横道三十三観音霊場第5番、中伊豆観音札所第29番
授与所:庫裡



第5番玉洞院は、修善寺と大仁のあいだに位置する牧之郷にあります。伊豆箱根鉄道駿豆線「牧之郷」駅にもほど近いところです。
由緒沿革は焼失のため詳細不明ですが、当初は真言宗で、天正十一年(1583年)最勝院十世香山宋清により曹洞宗に改宗と伝わります。
複数の霊場の札所となっていることからも、相応の歴史が感じられます。

『豆州志稿』には「牧之郷村 宮上最勝院末 本尊観世音 元密宗也 天正十一年(1583年)最勝院十世宗清留錫シテ改宗ス」とあります。

末寺であった大悲山 合掌寺を合併、伊豆中道三十三観音霊場第31番札所を務められており、こちらの御朱印も授与されています。

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山門は切妻屋根桟瓦葺柱4本のおそらく薬医門で、見上げに院号扁額を掲げています。
本堂は昭和51年総改築の近代建築ですが、入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股を配し、向拝左右に花頭窓、向拝見上げに「玉洞院」の院号扁額と整っています。
御本尊は十一面観世音菩薩。密寺に多い御本尊尊格で、真言宗寺院としての歴史が感じられます。

御朱印は、庫裡にて伊豆八十八ヶ所と伊豆中道観音霊場のものを拝受しました。
伊豆中道観音霊場の御朱印には、「駿豆両国第五番」の札所印も捺されていました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆中道観音霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩 /主印は三寶印

御朱印帳


■ 第6番 大澤山 金剛寺(こんごうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市大沢248
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:-
授与所:無住、別途連絡



第6番金剛寺は、大仁から山田川を西側に遡った奥にあります。
筆者参拝時は無住で、御朱印拝受の難易度はかなり高いと思います。

伊豆八十八ヶ所のうち、御朱印難易度のとくに高い札所は、第6番金剛寺、第8番益山寺、第15番高岩院、第70番金泉寺、第81番宝蔵院あたりかと思いますが、第6番金剛寺、第8番益山寺はいずれも山田川流域にあります。

沿革等は史料散逸で不明ですが、天文年間(1532-1555年)僧海真創立との由緒が伝わります。また明治22年、この札所で「豆州八十八ヶ所」の書入れのある版木が発見されています。
檀家を持ちませんが、本堂には貴重な仏像が安置されているそうです。

『豆州志稿』には「大澤村 紀州高野山金剛峯寺末 本尊大日 天文元年(1532年)僧海眞創立ス」とあります。

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山田川の清流にほど近く、木立のなかにたたずむ本堂は寄棟造銅板葺で向拝柱をおかないシンプルな堂宇。「金剛寺」の寺号扁額は縁台のうえに置かれていました。
すぐお隣には子神社が鎮座し、急な階段のうえに端正な拝殿を構えています。

御朱印はご住職や霊場会に連絡をとり、なんとかゲットしました。
位置関係からすると、手前の第7番泉龍寺が納経を受けられてもいいような感じがしますが、金剛寺は高野山真言宗、泉龍寺は曹洞宗と宗派がことなるので、そういう訳にはいかないかと。
第8番益山寺は高野山真言宗ですがこちらも難易度が高く、第6番、第8番は初盤の難所といえるかもしれません。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 大日如来
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
・主印は御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。不動明王の種子「カーン」のような気もしますが、よくわかりません。
【写真 下(右)】 郵送の御朱印
・主印は三寶印


■ 第7番 東嶽山 泉龍寺(せんりゅうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市堀切343
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:中伊豆観音札所第28番
授与所:庫裡



第7番泉龍寺は、大仁から第6番金剛寺に向かう途中にあります。
こちらは2回参拝していますが1度目はご不在で、金剛寺の帰途に再度立ち寄ると戻っておられたので、可能性を高めるためまずは泉龍寺に参拝した方がいいかもしれません。

明應九年(1500年)伝覚泰心院主を開基とし、当初は真言宗で玉泉寺と号しました。
寛文七年(1667年)僧日山白により曹洞宗に改め、現寺号となりました。
寛延四年(1751年)、大洪水により被災、村中の下川戸の地より現寺地に移ったとされます。

『豆州志稿』には「洞岳山泉龍寺 堀切村 修善寺修禅寺末 本尊聖観世音 開基博覺天文元年(1544年)化ス 明應中創立玉泉寺ト称シ真言宗也 元禄十一年(1698年)修禅寺廿五世心了改宗シテ泉龍寺ト号ス」とあります。

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本堂は昭和33年改築。入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
向拝正面桟唐戸とその上に「東嶽山」の山号扁額を掲げています。
境内には立派な寝釈迦も奉安されています。

御朱印は庫裡にて拝受できます。牀座に結跏趺坐される真如親王様のお大師さまのおすがたの印が捺されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第8番 養加山 益山寺(ましやまでら)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市観光情報サイト
伊豆市堀切760
高野山真言宗
御本尊:千手観世音菩薩
札所本尊:千手観世音菩薩
他札所:駿豆両国横道三十三観音霊場第6番、中伊豆観音札所第27番
授与所:庫裡(ご不在気味?、要事前連絡)



第8番泉龍寺は、大仁から小山田川沿いの小道を延々と遡り、尾根に到達する直下にあります。
第81番の宝蔵院とならび、この霊場でもっとも山深いロケーションと思われます。
ご不在も多いようで要事前連絡とされますが、筆者はルート変更の急遽の参拝で事前連絡なしでお伺いしたにもかかわらず、ご住職がおられ御朱印を拝受できたのはラッキーでした。

この小山田川沿いの小道は、周辺にまったく人家がないためか相当に荒れており、山道の運転に慣れていないとかなり厳しいです。
霊場にはしばしば”難所”といわれる札所がありますが、このお寺もそうだと思います。
坂東三十三観音霊場第21番の八溝山日輪寺は”難所”として知られており、八溝山には登らず麓の遥拝所から遙拝する巡拝者も多かったことから「八溝知らずの偽坂東」という寸言が残っています。

道の険しさからすると日輪寺より益山寺の方が上で、同じく山道を長駆して到達する第81番宝蔵院よりも厳しく、「益山知らずの偽豆州」という例えがあってもいいほどです。

『豆州志稿』には「堀切村益山 紀州高野山高室院末 本尊千手観世音 益山ノ上に在リ古名千手院 本尊観世音ハ弘法大師自作(現今ノ本尊ハ弘法ノ作ニ非ス)(略)寺地延喜式内伊加麻志神社ノ旧跡ニシテ今佛殿(観音堂ト称ス)ノ地 往古ノ社域寺ハ庫裡ノ地ニ在テ別当ナリシヲ遂ニ社域ヲ略有セルナル可シ境内祠跡トアル 蓋其跡ナラム 今佛殿ノ後背僅ニ一小祠ヲ存スルノミ」とあります。  

弘法大師の創建と伝わる名刹で、御本尊の千手観世音菩薩はお大師さまの御作と伝わります。

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参道、境内には百体の観音様が祀られ、深山の静謐なロケも加わり霊場の趣きゆたか。
参道の大楓と大銀杏は見事な古木で、ともに市の文化財に指定されています。
本堂は、おそらく寄棟造桟瓦葺で流れ向拝。水引虹梁は簡素で、正面の格子入りの硝子戸の上に「大悲殿」の扁額が掲げられています。

本堂右奥には延喜式内社に比定される伊加麻志神社(いかましじんじゃ)が御鎮座。
神仏ともに相い御座す、山上の聖域といえましょう。

御朱印拝受は上記のとおり要事前連絡です。
これほどの難路をたどって授与をのがすのは忍びないので、事前連絡をおすすめします。
専用納経帳の御朱印には「横道第六番」の札所印もいただき、駿豆両国横道三十三観音霊場第6番の御朱印を兼ねています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 千手観世音菩薩 /主印はいずれも御寶印(蓮華座+火焔宝珠)および三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第9番 引摂山 澄楽寺(ちょうらくじ)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆の国市三福638
真言宗高野山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第27番
授与所:庫裡



第8番益山寺から平地に戻って、しばらくは中伊豆の里を巡るおだやかな道行きとなります。
第9番澄楽寺は大仁の北側の三福(みふく)にある、延暦十年(791年)、弘法大師の開創と伝えられる古刹です。

延暦十年は18歳の弘法大師が、修禅寺奥の院の正覚院で天魔地妖を岩谷に封じ込められたとされる年です。
弘法大師は15歳から18歳にかけて、母方の叔父阿刀大足について学問の時期で、延暦十一年(792年)、18歳で京の大学寮に入られています。
大学寮に入られる前ですが、巡拝ガイドには「たとえ出家前とはいえ庵を結ぶか何か縁があって、開創とされたものと考えられる。」と記されています。

公式Webなどでは宗派は「真言宗高野山派」となっています。
「高野山真言宗」の別称とも思いましたが、他の「高野山真言宗」寺院は「高野山真言宗」となっているので、この寺院が「真言宗高野山派」となっている理由はよくわかりません。
お大師さまとのゆかりが強いこともあって真言宗として残り、なにかの由緒があって「真言宗高野山派」となっているのかもしれません。
田京村深沢神社の供僧・覚乗による中興が伝わりますが、幾度かの祝融(火災)により旧記を失い、由緒変遷については不詳のようです

『豆州志稿』には「三福村 紀州高野山金剛峯寺末 本尊不動 元作長楽寺 延暦十年(791年)弘法大師創建 此寺最古刹ナレ共頻ニ回禄ノ災ニ罹リ流記古寶皆灰燼トナル 僧覺乗ヲ中興トス 田京深澤神社ノ供僧タリキ 慶安四年(1651年)ノ上梁文ニ供僧長楽寺ト見ユ 同社供僧六坊ノ一ナリキト伝フ 或者曰 当寺往昔定額ニ預リタル寺ニテ 定額ノ字長楽又澄楽ノ字ニ転セシナル可シ 延暦中ノ創建ト云古刹也ト伝フルヲ以テ証スベシト(略)小野の高村篁書ケルト云地蔵ノ像アリ」とあります。    

伊豆88遍路の紹介ページには「桂谷二十一ヶ所巡礼の第9番」とあります。
修善寺には、桂谷八十八ヶ所巡礼という地域霊場があります。
昭和5年、修禅寺三十八世丘球学老師は、四国八十八ヶ所の霊場の土を、弘法大使が錫を留めたと伝わる修善寺・桂谷の地に移し、弘法大師の像と札所本尊の梵字・名号を刻んだ石碑を地元の協力を得て建立し「桂谷八十八ヶ所」を開創されました。
以降、霊場が開創された11月7日からの3日間に、各地から集まったお遍路さんが約28㎞の山道を歩いて巡拝する修善寺の晩秋の風物詩となりました。(2020年は新型コロナ禍により中止、2021年もこちらの記事に中止とあります。

「桂谷二十一ヶ所巡礼」については情報がほとんど得られていません。
ただし、ふつう、二十一ヶ所弘法大師霊場は八十八ヶ所の簡略版として開創されることが多いので、たとえば路傍ではなく、寺院内におかれた石碑を「桂谷二十一ヶ所」として再編したものかもしれません。

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本堂は入母屋造桟瓦葺で、正面屋根上に鐘楼をおく特徴あるつくり。
向拝柱はなく向拝正面はサッシュ扉で扁額もありませんが、本堂向かって右に御座す修行大師像が、お大師さまとのゆかりを語っています。
札所本尊は不動明王。この霊場初のお出ましです。
伊豆半島は意外にお不動さまを御本尊とする寺院が少なく、伊豆八十八ヶ所の札所本尊としても多くはないのでこちらは貴重な札所です。

御朱印は庫裡にて拝受。伊豆中道三十三観音霊場第27番の御朱印も授与されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 不動明王 /主印はいずれも不動明王の種子「カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


〔 伊豆中道観音霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印は三寶印

御朱印帳

■ 大仁温泉 「一二三荘」の入湯レポ


■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2へつづく。



【 BGM 】
■ by your side - Wise feat. Nishino Kana


■ Waiting For Love feat.Noa - 中村舞子


■ SWEET MEMORIES 松田 聖子
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