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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23

Vol.-22からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第70番 照光山 無量寺 禅定院
(ぜんじょういん)
練馬区石神井町5-19-10
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第70番

第70番は石神井の禅定院です。
御府内霊場に「禅定院」を号する札所寺院がふたつ(第48番(中野沼袋)と第70番(練馬石神井))あり、前者を(中野)沼袋禅定院、後者を石神井禅定院と呼んで区別しているようです。

第70番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに谷中の西光寺となっており、第70番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで谷中の西光寺で、明治初頭以降に石神井の禅定院に変更となった可能性があります。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【禅定院】

禅定院は、鎌倉時代の高僧、願行上人によって開かれたと伝わります。
願行上人(憲静)については「鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)」で触れていますので、この記事から抜粋してもってきます。

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願行上人は相州や鎌倉の古寺をたどるときしばしばその名が出てきますが、史料が少なくナゾの多い高僧です。

『願行上人憲静の研究(上)』(伊藤宏見氏/PDF)」、『願行上人憲静の研究(下)』(同/PDF)から経歴・事績の要点を引いてみます。

願行上人憲静は、健保三年(1215年)生誕、永仁三年(1295年)寂の鎌倉時代の高僧です。
「ナゾが多い」とされるのは、様々な法統を受け継がれ、しかもおのおの重要なポジションを占められたこと、北条政子や北条一門に強い影響力をもったことなどによると思われます。

〔法統・真言宗系統〕
・建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)
・弘長元年(1261年)定清?から潅頂を受ける。定清は金剛王院流を奉じた小野流の事相家(『血脈類集記』)
・文永九年(1272年)三宝院流を意教上人より受ける。(『真言宗年表』『鶏足寺譜』)

三宝院流は真言宗醍醐派の一派で、醍醐寺三宝院門跡初代勝覚を派祖とし、いわゆる「小野六流」のひとつ。
真言宗醍醐派は古義真言宗で修験道の一派、当山派の中心でもある。派祖は理源大師聖宝。
これより、願行上人は真言宗醍醐派三宝院流の法流を受けられていることがわかります。

〔法統・律宗系統〕
・月翁智鏡に律部を受学。月翁智鏡は泉涌寺来迎院の開山で泉涌寺四世。当時の泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学(密を天台、東密に分けると五宗兼学)の道場。
『鎌倉初期の禅宗と律宗』(中尾良信氏/PDF)には、「北京律の祖とされる泉涌寺の俊芿」「北京律の中心たる泉涌寺」「月翁は俊芿から教律を学んだ」とある。

月輪大師俊芿(1166-1227年)は渡宗され、天台と律を学び建暦元年(1211年)帰朝。泉涌寺の実質的な開山といわれ四宗兼学の道場として再興されました。
その律は北京律(ほっきょうりつ)といわれ、日本における開祖とされます。
この北京律が、月輪大師俊芿-月翁智鏡-願行上人と伝わったとみられます。

以上から、願行上人は真言宗三宝院流と北京律兼学の高僧で、祇園山はこの流れから当初律宗(北京律)とされたとみられます。

〔鎌倉での活動〕
願行上人の鎌倉下向期間については錯綜気味ですが、「鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -」(高橋秀栄氏/PDF)には下記のとおりあります。
・弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間。

ただし、「建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流(『血脈類集記』)」という記録があり、それ以前に下向されているかも。
また、文永二年(1265年)意教上人に従って関東に赴くという諸伝もあります。

「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。守海は成賢の資の一人憲深から受法している。」(『願行上人憲静の研究(上)』P.5/血脈類集記より)

これによると長谷の佐々目(笹目)は当時真言宗三宝院流の本拠地で、願行上人はこの地(遺身院)で守海より三宝院流を受法の記録があります。

佐々目西方寺は現在の補陀洛山 西方寺(横浜市港北区新羽町)とされ、西方寺の公式Webには「西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に『補陀洛山、安養院、西方寺』として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正」とあります。

なお、西方寺は現在真言宗系単立のようですが、公式Webによると極楽寺(真言律宗)との関係が深かったようです。
願行上人と関係のある金沢の称名寺も真言律宗なので、佐々目の三宝院流はのちに真言律宗とかかわりを強めたのかもしれません。

「(願行上人は)金沢越後守平実時堂廊に能禅方(西院)の灌頂を授けている。北条実時が金沢文庫を開設するのはそれよりのちの建治元年(1275年)である。その翌年願行の自筆文書が残っている。願行はのちにこの住持審海をも弟子として指導しているのであるから、その教界での位置を想像することができる。かくて建治の頃はすでに極楽寺とならぶ新興の律院の称名寺において、伝法灌頂を授けるほどの名徳(以下略)」(『願行上人憲静の研究(上)』P.18)

佐々目の守海は願行上人と頼助(佐々目僧正)に受戒しており、頼助は鎌倉幕府4代執権北条経時の子です。
Wikipediaには頼助は「父経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれる。」とあり、経時の没年は寛元四年(1246年)なので、「(願行上人が)建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院(北条経時の菩提寺)において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)。」という記録はタイミング的に符合します。

同僚の頼助が執権の子という有力者なので、願行上人の鎌倉での立場も強かったとみられます。
また、師・意教上人が一時、高野山金剛三昧院(実朝公菩提のため北条政子が発願)に入られたことも、願行上人と鎌倉幕府の結びつきを強めたという説があります。

『本朝高僧伝』には「乃至稲瀬川滸。設念仏会。名祇園山安養院」とあり、これは「文永十一年(1274年)~建治元年(1275年)、願行上人が鎌倉稲瀬川のほとりで頼朝公の霊のお告げに従い、説法念仏会を37日間行う」という諸伝と符合します。

『新編鎌倉志』の(覚園寺)地蔵堂の項には「地蔵を、俗に火燒地蔵と云ふ(中略)【沙石集】には丈六の地蔵とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。」とあり、願行上人の稲瀬川念仏会との関連を指摘する説もあります。

さらに安養院所蔵の願行上人像胎内銘に「鎌倉由井浜安養院開山願行上人、建治二年(1275年)八月廿八日、未剋往生。春秋八十二」とあり、説法念仏会の前後に鎌倉稲瀬川に安養院ないしその前身となる寺院を開山された可能性があります。

なお、上記の参考資料によると、願行上人が係わられた関東の代表的な寺社はつぎのとおりです。
二階堂永福寺真言院、鎌倉観音寺、(金澤)称名寺、相州大山寺、二階堂理智光寺、二階堂大楽寺、二階堂覚圓寺、大町安養院、最明寺(足柄上郡大井金子)、鶴岡八幡宮。

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御府内霊場では願行上人所縁の寺院は多くはみられませんが、禅定院は願行上人を開山とする貴重な例です。

文政年間(1818-1830年)の火災で、伽藍・寺伝などことごとく焼失しましたが、境内には応安・至徳(南北朝時代)年号の板碑が残り、創建の古さを裏付けています。

かつての御本尊は不動明王で、側に閻魔大王を奉安といいます。

門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は、石神井村の光明真言講中によって造立されたものです。
本堂前、寛文十三年(1673年)銘の織部灯籠は形状から「キリシタン灯籠」ともいわれ、区内でもめずらしい石造物の一つとして区登録文化財に指定されています。

墓地入口に御座のいぼ神地蔵尊は、いぼの治癒に霊験のありとして「いぼとり地蔵」とも呼ばれます。

石神井小学校の前身である豊島小学校は、明治7年区内初の公立小学校としてここに創立され、墓地内には寺子屋師匠の菩提を弔った筆子塚があるなど、教育との所縁がふかい寺院です。

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【西光寺】

仏到山 無量寿院 西光寺
台東区谷中6-2-20
新義真言宗
御本尊:五大明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第70番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第7番、弘法大師二十一ヶ寺第15番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第7番
公式Web


【写真 上(左)】 西光寺入口
【写真 下(右)】 西光寺本堂

西光寺は慶長八年(1603年)、傳燈大阿闍梨妙音院法印宥義大和尚(佐竹氏代16代当主・義篤次子、元和四年(1618年)寂)が幕府より神田北寺町に寺地を賜り開山。
開基檀越は佐竹右京大夫義宣。
当山は佐竹氏との所縁がふかいので、佐竹氏について少しく追ってみます。

佐竹氏は新羅三郎源義光公の孫昌義(1081-1147?年)が常陸国久慈郡佐竹郷(現・茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹氏を称したという清和源氏の名族です。

源平合戦では平家にくみしたため頼朝公により所領を没収された(Wikipedia)ものの、後に再興し奥州討伐では鎌倉方に加わりました。
南北朝時代の8代当主・貞義、9代・義篤は足利氏に応じて北朝方として活躍し、その功から守護職に任ぜられて家勢は興隆しました。

足利満兼公制定と伝わる「関東八屋形」に列せられ、戦国時代の15代当主・義舜は反目する佐竹山入家を討って佐竹氏統一を果たし、18代の義重は常陸の大半を支配下に置き、奥州南部にも進出して有力戦国大名としてその名を馳せました。

義重の子・19代義宣は秀吉公の小田原征伐に参陣し、常陸國54万5800石の大名となり、
徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」と呼ばれるほど勢力を拡大。

佐竹義宣は佐竹義重の嫡男で母は伊達晴宗の娘。
官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫を賜るという、家柄・格式を有する、名実兼ね備えた太守でした。

義宣は幾度か石田三成のとりなしを受け、天正十八年(1590年)三成の忍城攻めに加勢したこともあり、石田三成との関係は良好でした。
慶長四年(1599年)3月、前田利家逝去ののち、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政らが三成の屋敷を襲撃した際、義宣が三成を女輿に乗せ、宇喜多秀家邸に逃れさせたという逸話は有名です。
また、秀吉から羽柴姓を与えられるなど豊臣色の強い大名でした。

関ヶ原の戦いでは水戸城へ引き上げ、積極的に徳川方に与力しなかったため戦後咎を受けましたが家康公に謝罪し、家名断絶は遁れたものの出羽国秋田、54万石から20万石への減転封となりました。

義宣が家康公から転封の沙汰を受けたのは慶長7年(1602年)5月(Wikipedia)、出羽(秋田)入国は同年9月なので、水戸から秋田への転封直後にみずから開基となって西光寺を創建(慶長八年(1603年))したことになりますが、その背景は史料からは辿れませんだした。

慶安元年(1648年)神田北寺町の寺地が幕府用地として収公、谷中の現所に替地となりました。
慶安二年(1649年)佐竹修理大夫義隆(秋田久保田藩第2代当主)が堂舎を再建したため、義隆は中興開基とされます。
以降何度か火災に遭っていますが、都度佐竹家により再建されています。

公式Webによると、当山は「秋田藩(秋田市)佐竹家・伊勢津藩(三重県津市)藤堂家の祈願寺として信仰されてきた歴史」があるそうです。

公式Webによると、仏寺創建の際には藤堂高虎が財政的支持をおこなったと伝えられ、山内の韋駄天像は藤堂高虎安置と伝わり、別名を「韋駄天寺」ともいわれたようです。


【写真 上(左)】 韋駄天石碑
【写真 下(右)】 左が韋駄天

江戸時代の西光寺は御府内霊場のほか、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺、上野王子駒込辺(西國)三十三観音霊場の札所を兼ねられてお大師さまとの所縁もふかい寺院でした。

明治初頭の神仏分離の波も乗り越えているのに、おそらく明治初頭以降のどこかのタイミングで御府内霊場第70番の札所は石神井の禅定院に変更となっています。

西光寺は和歌山の根來寺を総本山とする新義真言宗。
禅定院は真言宗智山派で宗派も異なり、変更の理由についてはよくわかりません。

西光寺は以前は御朱印不授与でしたが、近年カラフルな月替わり御朱印で一気に人気のお寺となり、おそらく参拝者(というか絵御朱印ファン)の数は御府内霊場札所より多いかと思います。
絵御朱印の威力おそるべし。

■ 西光寺の御朱印
 


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【史料】

【禅定院】
『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻五』(国立国会図書館)
(下石神井村)禅定院
新義真言宗 上石神井村三寶寺寺ノ末 照光山ト号ス 願行上人ノ開キシ寺二テ 本寺ヨリハ古跡ナリト云 本尊不動 側ニ閻魔ヲ安ス 是ハ元ハ別堂ニアリ 境内二明応四年(1498年)二月八日妙慶禅尼ト彫ル古碑アリ
八幡社
阿彌陀堂三 一ハ道場寺 一ハ禅定院 一ハ三寶寺ノ持

【西光寺】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十番
谷中 門前町あり
佛到山 無量壽院 西光寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:不動明王 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.98』
谷中 不唱小名
本所彌勒寺末
佛到山無量壽院西光寺
当寺之濫觴慶長八年(1603年) 開山宥義 於神田北寺町寺地拝領仕
堂舎 佐竹右京太夫義宣公建立
慶安元年(1648年)右寺地御用地ニ付 於当所旧地之●第四世宥鏡代拝領仕
慶安二年(1649年)佐竹修理太夫義隆公堂舎再建仕候

開山 伝灯大阿闍梨法印宥義、俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男 元和四年(1618年)寂
開基 佐竹右京太夫義宣公 寛永十年(1633年)卒
中興開基 佐竹修理太夫義隆公(秋田久保田藩第2代当主) 寛文十一年(1671年)卒

本堂
 本尊 不動尊鋳型座像 附二童子木像
 四大明王木像 十一面観音木像 聖天府秘符
 阿弥陀如来木像
 弘法大師木像 興教大師木像
 愛染明王木像座像 地蔵菩薩木像座像 不動明王古像座像
境内鎮守社 天神稲荷疱瘡合殿
十一面観音石像
地蔵尊石像
韋駄天石像

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
西光寺(谷中上三崎南町二〇番地)
本所彌勒寺末、佛到山無量壽院と号す。本尊不動明王、五大尊。慶長八年(1603年)、開山妙音院宥義。(佐竹義篤次子、元和四年(1618年)寂)
幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、佐竹右京大夫義宣開基檀越として当寺を創建した。慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや、現所に替地を給せられ、翌二年(1649年)佐竹修理大夫義隆堂舎を再建した。義隆はために中興開基と呼ばれる。時の住持は第四世宥鏡であつた。(略)佐竹家の他に藤堂家の祈願所であつた。境内の韋駄天石像は同家の寄進する所で、韋駄天寺の俗称は之に基くのである。



「西光寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは西武池袋線「石神井公園」駅で徒歩約10分。
石神井池の南に広がる緑ゆたかな一帯で、第16番三寶寺にもほど近いところです。


【写真 上(左)】 山門入口
【写真 下(右)】 山門

前面通りから引き込んで山門。
本瓦葺に唐破風を配した重厚な四脚門で、常閉のようです。
山門脇には「光明真言講中」の銘がある延命地蔵尊座像の両脇に端正な六地蔵。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 院号標

山門向かって左手に回り込むと山内入口で立派な院号標。
郊外寺院らしく、緑多くゆったりとした山内です。
庫裡前の見事なヒヨクヒバは「ねりまの名木」に指定されています。
茅葺きの鐘楼も趣きがあります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 ヒヨクヒバ


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 観世音菩薩

右手に入母屋造銅板葺流れ向拝で唐破風を附設した堂々たる本堂。
向拝は桁行三間で朱塗りの水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二連の蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂



【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁装飾には曲線を多様、身舎まわりにはシャープな連子格子を置いて、その対比が面白い意匠。
向拝見上げには院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 いぼ神地蔵尊
【写真 下(右)】 弘法大師尊像

山内には区の文化財である「石幢六面六地蔵」「織部燈籠」(キリシタン燈籠)、いぼ神地蔵尊などがありますが、三回参拝しているのになぜか「石幢六面六地蔵」「織部燈籠」(キリシタン燈籠)の写真がありません。
(庫裡前の重石塔の右に御座と思われます。)


こちら(練馬区Web史料)をご覧ください。


【写真 上(左)】 御府内霊場の札所板
【写真 下(右)】 豊島霊場の札所板

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
こちらでは豊島八十八ヶ所霊場の御朱印も授与されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第七十番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 豊島霊場の御朱印

※ 御府内霊場と豊島霊場の御朱印を同日に拝受していますが、これは御府内霊場参拝日にご不在で拝受できなかったためで、基本的には弘法大師霊場のかけもち巡拝は避けた方がベターかと思います。


■ 第71番 新井山 薬王寺 梅照院(新井薬師)
(ばいしょういん)
公式Web

中野区新井5-3-5
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:(新井村)天満宮、稲荷社、秋葉社、諏訪社
他札所:江戸・東京四十四閻魔参り第27番、閻魔三拾遺第30番

第71番は中野区新井の梅照院(新井薬師)です。

第71番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに小石川の玄性院となっており、第71番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで小石川の玄性院で、『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所変更資料に玄性院から梅照院への変更が記されているので、第71番札所は幕末から明治初頭にかけて中野の梅照院に変更とみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから両山の縁起・沿革を追ってみます。

【梅照院】

永禄年間(1558-1570年)、相模國の沙門行春が行脚の途中、ここ新井を有縁の地と定め草案を結んで日夜行法に励んでいました。
(『ルートガイド』には、沙門行春は元北条家の家臣・梅村将監とあります。)

天正十四年(1586年)のある晩、庭の老梅の梢から光明が輝くのを見た行春が、件の梅の木を索ると梢の空洞から二仏一体(薬師瑠璃光如来・如意輪観世音菩薩)の尊像が出現されました。

村内の新田氏所縁の人々がこの御佛を拝すると、この尊像こそ新田家伝来の守り本尊と悟り、この奇縁に因んで一宇を建立したのが創始と伝わります。
梅樹から光明が照り輝いた奇瑞から、梅照院と号しました。

「新田家伝来の守り本尊」については以下の縁起が伝わります。

清和源氏の名族・新田家伝来の守り本尊は、薬師如来・如意輪観世音菩薩の二仏一体丈一寸八分の坐像黄金仏で弘法大師の御作と伝わります。

南北朝時代、新田家嫡流は上野國大田の金山城に拠り、守り本尊を宝庫に収めていましたがあるとき御本尊はお姿を消されました。
その後の変遷については公式Webをご覧ください。

戦に敗れた新田家所縁の人々が新井の庄に定住していたところ、沙門行春の霊夢により、行方知らずとなっていた新田家代々の守護仏を迎えたので恐懼し、また欣喜雀躍して堂宇に奉安したのでは。

公式Webによると、新田一族は薬師如来信仰の家系が多く、それぞれの家系に薬師如来の尊像が存在したといいます。
四散した新田一門がそれぞれの御本尊を各地で奉安したため「新田家の薬師如来」の系譜は錯綜していますが、当山の御本尊が「新田家伝来の守り本尊」とされています。

開創当時は山内に日本一ともいわれた傘松があったため、高松山梅照院薬王寺と号しましたが、新井薬師の名が高まるにつれ新井山と山号を改めたといいます。
新井薬師の通称が知られているので、新井薬師梅照院とも称します。

公式Webには行基が開基、中興は朝曇・聖道とあります。

『新編武蔵風土記稿』には、開山を快儀(正保三年(1646年)寂)、天正年中(1573-1592年)に僧・行春が開基、第六世朝曇を中興とあります。

元和三年(1617年)、第五代住職玄鏡の夢中に薬師如来が現れて御手の瑠璃の壺中より法軌を授与されました。
玄鏡和上は早速授与された法軌のとおりに薬を処方、難病の小児に施すとすこぶる効いて治らない者がひとりもいないため、この薬を「夢想丸(むそうがん)」と称して参詣者にわかちました。

中興の朝曇和上はこの霊験譚を世に広めたため御本尊の霊験が広く世に知られるようになり、「子育薬師」として諸人の信仰を集め、門前は市をなしたといいます。

寛永六年(1629年)徳川2代将軍秀忠公の第五女和子の方(東福門院)が眼病に罹られ、秀忠公をはじめ側近の人々が名医名薬、祈祷など八方手を尽くしましたが効果なく、万策つきたと思われたとき、当山の御本尊の霊験を伝え聞いて御本尊に祈願せしめました。
すると眼病はたちまち快癒したので、秀忠公は当山に厚く御礼を賜りました。

この逸話はたちまち天下に広まり、当院は「治願薬師」(ぢがんやくし)とも呼ばれてさらに参詣者を集めたといいます。

以降も参詣者は途絶えることなく、中野から新井薬師へと至る参道は門前町として大いに栄えて「東の浅草寺、西の新井薬師」と並び称されるほどでした。
門前町はいまでも「薬師あいロード商店街」として賑わいをみせ、8がつく日のお薬師さまのご縁日はことに賑わいをみせます。

和子の方の逸話に因み、とくに眼病にご利益ありとして広く参詣客を集めています。
西武新宿線の駅名にもなり、知名度の高い城西の名刹です。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「(新井村)天満宮、稲荷社、秋葉社、諏訪社 供ニ村内梅照院ノ持ナリ」とあるので、こちらの4社の別当を司っていたとみられます。

新井天神 北野神社の公式Webに「天正年間(1573-1592年)、新井薬師の開祖である沙門行春が建立したとも、それ以前よりこの地の鎮守社であったとも言われています。」と、沙門行春との関係を示す記載があります。
また、「残存する梅照院縁起に『開基の行春より数代後の住持玄鏡が、天和年間に手植の梅一株を北野天満宮に献じた』とあります。」とあり、すでに天和年間(1681-1684年)から梅照院と良好な関係を保っていたことがわかります。


【写真 上(左)】 新井天神北野神社(旧拝殿)
【写真 下(右)】 同 御朱印


【写真 上(左)】 (新井天神)稲荷神社
【写真 下(右)】 同 御朱印

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【玄性院】

玄性院は小石川の金剛寺坂辺にあった新義真言宗寺院です。
当地に御鎮座の金杉稲荷社の別当で、本社金杉稲荷大明神の本地、十一面観世音菩薩を奉安していたとみられます。

『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊:十一面観世音菩薩 本社金杉稲荷大明神 弘法大師」とあり、こちらが御府内霊場の拝所であったことがわかります。

玄性院は史料が少なく詳細を辿れないのですが、『江戸町巡り』様によると小石川金杉水道町のうちに稲荷前町という場所があり、由来は金杉稲荷の前の町屋であったためとの由。
現在の文京区春日二丁目です。

また、『東京さまよい記』様の記事には以下のとおりあります。
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荷風「断腸亭日乗」昭和16年(1941)9月28日に、「・・・金剛寺坂左側の駒井氏、右側の岩崎氏、其鄰の石橋氏なり。その筋向に稲荷の祠あり。余の遊びし頃には桐畑なり。・・・」(前回の記事)とあるが、その稲荷が金杉稲荷であろう。現在はないようである。
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以上に『江戸切絵図』の情報を加えると、金杉稲荷大明神(玄性院)は小石川・金剛寺坂の春日通り寄りにあったのでは。

『寺社書上』には「中興開基 六角越前」とありますが、『江戸切絵図』では比較的近い場所に「六角越前守」の屋敷がみえます。

「六角越前守」で検索するとwikipediaの「六角広孝」がヒットしたので、こちらとの由縁を考えましたが、中興開山の聖譽法印は正徳三年(1713年)卒で、中興開山・開基を同時期と考えると六角広孝(1747-1815年)とは年代が合いません。

六角氏というと宇多源氏佐々木氏流で近江守護職もつとめた名族を思い起こしますが、Wikipediaによると、高家六角家は正二位権大納言烏丸光広の次男・広賢が江戸幕府に仕えて高家に列した流れ(日野流六角家)のようです。

当山中興開山・聖譽法印と同年代の高家六角家当主は2代の六角広治(1644-1719年)。
元禄二年(1689年)二月、従五位下侍従・越前守に叙任され「六角越前」に符合します。
禄は二千石で、高家の身分を考えると「大身の旗本」といってもいいかもしれません。

この六角広治が玄性院に中興開基となさしめるほどの大きな寄進をしたか、あるいは檀家総代として貢献したのかもしれません。

玄性院は本所彌勒寺の末なので現在の真言宗豊山派。
梅照院も真言宗豊山派ですから宗派的なつながりはあり、中野の名刹・梅照院に御府内霊場札所を承継したのかもしれません。

ただし、不思議なのは梅照院が豊島八十八ヶ所霊場の札所になっていないことです。
豊島八十八ヶ所霊場の開創は明治に入ってからで、中野区内にもいくつかの札所があります。

梅照院が弘法大師霊場の札所入りを考えていたとしたら、当然有力候補にあがるはずです。
あるいは明治初期にすでに御府内霊場の札所を承継していたので、それでよしとされたのかもしれません。

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【史料】

【梅照院】
『新編武蔵風土記稿 多磨郡巻三十五』(国立国会図書館)
(新井村)梅照院
当村(新井村)ト上高田村トノ接地ニアリ松高山ト号ス 新義真言宗ニテ 当郡中野村寶仙寺末 客殿六間四方南向
本尊薬師坐像ノ石佛ニテ長一寸八分 厨子ニ入
開山ヲ快儀ト云 正保三年(1646年)示寂ス 又云天正年中(1573-1592年)行春ト云僧開基セシト 其後第六世朝曇ヲ中興トス 此僧ノ頃ヨリ本尊ノ霊験世ニアラハル
子育薬師ト称シテ遠近コソッテ歩ヲ運フ者多シ 就中近キ比江戸日本橋邊ノ商売願ヲカケシニ 速ニ霊数ヲ蒙フリシカハ渇仰斜ナラス ソノ後同志参詣ノ者ノ便リセントテ 豊島郡下高田馬場ノホトリヨリ 道ノ辻々ニ碑標ヲタテヽ方角ヲ示ス コレヨリ次第ニ参詣ノ者多クナリテ 今ハ新井ノ薬師トテ其名隠レナキコトニソナリケル

(新井村)天満宮、稲荷社、秋葉社、諏訪社
供ニ村内梅照院ノ持ナリ

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【玄性院】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十一番
小石川金杉●●町
永壽山 吉祥寺 玄性院
本所彌勒寺末 新義
本尊:十一面観世音菩薩 本社金杉稲荷大明神 弘法大師

『寺社書上 [64] 小石川寺社書上 一』(国立国会図書館)
金杉稲荷社
小石川金杉
神躰無之
本地 十一面観音立像
弘法大師 辨財天十五童子付 阿弥陀如来
相殿 六角稲荷
神體宝珠
氏子町 金杉水道町四ヶ町 富坂新町
別当 永壽山吉祥寺玄性院
彌勒寺末 起立年代不詳
中興開山 聖譽法印 正徳三年(1713年)卒
中興開基 六角越前 



「玄性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:戸松昌訓著、版元金鱗堂尾張屋清七、『〔江戸切絵図〕』東都小石川絵図 嘉永7[1854]/安政[4][1857]改刊.東京都立中央図書館Web(保護期間満了)

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最寄りは西武池袋線「石神井公園」駅で徒歩約10分。
「新井薬師門前」の五叉路から長い参道を構え、さすがに名刹のスケール感があります。
この五叉路から北西に進むと菅原道真公をお祀りする新井天神で、近在屈指の参詣エリアとなっています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 新井薬師の碑
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑

参道入口には院号標と新東京百景の「新井薬師」の碑。
石畳の参道正面の山門左手前に御府内霊場の札所碑。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の提灯

山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、軒下には新井薬師の提灯が掲げられています。

山門をくぐると正面が本堂。左手に霊堂、右が不動堂です。
順にご紹介していきます。
公式Webの境内案内


【写真 上(左)】 霊堂
【写真 下(右)】 修行大師と聖観世音菩薩


霊堂は均整のとれた朱塗りの二重の楼閣で、堂前向かって左手に修行大師像と聖観世音菩薩立像。
向拝見上げに「薬師霊堂」の扁額を掲げています。

霊堂の向拝扉には「御本尊真言」として阿弥陀如来と閻魔大王の御真言が掲出されているので、おそらくこちらの二尊を主尊として奉安とみられます。
なお、梅照院は江戸・東京四十四閻魔参り第27番、閻魔三拾遺第30番の札所で、閻魔様のお寺としても知られていたと思われます。

閻魔大王のご縁日16日に参拝しましたが、現在、閻魔大王の御朱印は不授与とのことだした。


■ 閻魔大王のご縁日の御朱印


【写真 上(左)】 霊堂の扁額
【写真 下(右)】 不動堂


【写真 上(左)】 お願い地蔵尊
【写真 下(右)】 水屋

右手には不動堂。堂前右手にはお願い地蔵尊、左手には水子地蔵尊。
不動堂は宝形造桟瓦葺で流れ向拝。水引虹梁に木鼻、斗栱、海老虹梁、中備に蟇股を備えています。

 
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 大香炉

不動堂の本堂寄りには本瓦葺の屋根付きの立派な水屋(手水舎)とその奥に鐘楼。
参道を進むと大香炉。そこから左手に進むと西門で、墓所入口には六地蔵。



【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は基壇のうえに入母屋造本瓦葺流れ向拝、向拝の張りだしが大きくスケール感ある堂容で、向かって右手が授与所(札所)となっています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 提灯と扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股。
水引虹梁奥に「新井薬師」の提灯、向拝見上げには「瑠璃殿」の扁額、向拝柱には御府内霊場の札所板を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 札所板

御本尊は秘佛で、寅年の御開帳です。


【写真 上(左)】 白龍権現水屋
【写真 下(右)】 大悲殿

本堂を向かって右手に回り込み、回廊をくぐると右手に白龍権現水屋と大悲殿。
当山北側の瓢箪池(新井薬師公園)はその昔、霊泉の水垢離場として修行の道場となり不動尊を奉安していました。
その不動尊の傍には常に白蛇がいて不動尊を守護していたとも。

いつしか霊泉は枯れ、不動尊は山内の不動堂に遷られ、守護の白蛇供養のために白瀧権現を不動堂に祀りました。
当山貫首が「大悲殿に聖観世音菩薩を迎えて井戸の霊泉を閼伽水として衆生に施す」旨の夢告を受け、大悲殿(聖観世音菩薩の堂宇)を建立したところ、その敷地の地下に大井戸を発見し霊水が湧き出たためこの瑞祥を祝し、双竜を鋳造して水屋を建立し、「白龍権現水屋」と称しました。

大悲殿は二層の大規模な建物で、向拝には「大悲殿」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 大悲殿の扁額
【写真 下(右)】 聖徳太子像

本堂裏手には聖徳太子像。
昭和34年、聖徳太子の遺訓を仰ぐため、東京都左官職組合連合会中野支部の鶴谷善平氏が梅照院と支部の協力を得て像立・奉安されたお像です。

本堂のすぐ裏には年季の入った「魚がし」の天水鉢も置かれています。


【写真 上(左)】 「魚がし」の天水鉢
【写真 下(右)】 本堂再建供養塔

場所が定かでないのですが、本堂再建祈念塔(中野区登録有形文化財)の説明書には、当山再興に尽くされた蓮樹住職、後継英俊住職の功績と、この塔が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立されたことが記されています。

御朱印は本堂右手の札所にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に薬師如来のお種子「バイ」「薬師如来」「弘法大師」の揮毫と三寶印。
右に「御府内第七十一番」の札所印と「新井薬師」の印判。
左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-24


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ retour - 今井美樹


■ Sayonara Solitia - Yuki Kajiura(FictionJunction)


■ ここにあること - @うさ(歌ってみた)
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■ 休符の価値

最近の曲を聴くと”疲れる”と感じる人は少なくないのでは?
これは単にノイジーなフレーズやビートの音圧、そしてせわしい4つ打ちによるものだけではないと感じていました。

芥川也寸志先生の『音楽の基礎』(昭和46年初版)を読んでたら、示唆に富んだ文章がありましたのでご紹介します。

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真の静寂は、連続性の轟音を聞くのに似て、人間にとっては異常な精神的苦痛をともなうものである。
(略)
真の静寂は、日常生活のなかには存在しないまったく特殊な環境ではあるが、この事実は音楽における無音の意味、あるいは、しだいに弱まりつつ休止へと向う音の、積極的な意味を暗示している。

休止はある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮する。

われわれがふつう静寂と呼んでいるのは、したがってかすかな音響が存在する音空間を指すわけだが、このような静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。

音楽はまず、このような静寂を美しいと認めるところから出発するといえよう。
作曲家は自分の書いたある旋律が気にいらないとき、ただちにそれを消し去ってしまうだろう。
書いた音を消し去るということは、とりも直さずふたたび静寂に戻ることであり、
その行為は、もとの静寂のほうがより美しいことを、みずから認めた結果にほかならない。

音楽は静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。
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前々から漠然と感じていたのですが、最近の曲は休符がすくなく、音で隙間を埋め尽くしていくような曲調が多い。
その結果として、サウンドの音圧が上がっているのでは・・・。
(ここでいう「休符」とは譜面上の休符ではなく、むしろ静寂や ”間” に近いものです。)


【休符がすくない例】

■ You Spin Me Round - Dead Or Alive (1984年)

POPSを休符の支配から遠ざけた張本人SAW (Stock Aitken Waterman)。
個人的にはいまのPOPシーンは、いまなおこの曲の流れのうえにあると思う。

■ New Jack Swing The Best Collection

休符の世界からさらに離れていった(と思っている)NJS(New Jack Swing)。
跳ねてるようだけど、じつは4つ打ちやタテノリとの親和性が高い。

■ U.S.A. - DA PUMP (2018年)

↓ と聴き比べてみると、この曲がユーロビート(SAW)の流れのうえにあることがわかる。

■ ダンシング・ヒーロー(Eat You Up) - 荻野目洋子 (1985年)

この曲調でなんと洋楽カバー
ユーロビートには、ヨコノリがまったく乗らないことがわかる(笑)
でもって、この先も「洋楽の歌謡曲化(ベタメロ化)」が進みタテノリ4つ打ち全盛の時代へ・・・。

■ 天体観測 - BUMP OF CHICKEN (2002年)

後の世代に大きな影響を与えたといわれる期を画した曲。
いまもこの系統のバンド・サウンドは腐るほどある。

■ 'Dynamite' - BTS (2020年)

いまでもこのフォーマットは、世界のPOPシーンのメインストリーム。


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【休符を活かした例】

■ Lowdown - Boz Scaggs (1976年)

1983年までの洋楽に休符は欠かせないものだった。
休符が創り出す”音のキレ”と”グルーヴ”はウエストコーストミュージックの身上だった。

■ 16ビートDr&Bass リズム音源

16ビート裏拍(アップビート)+シンコペーション。
休符が思いっきり存在を主張していたフォーマット。

■ 童謡で比較 裏拍と表拍 ーメリーさんのひつじ編

1970~1980年代前半の音楽好きはほとんど洋楽を聴き込んでいたから、知らず知らずに裏拍(アップビート)&休符の洗礼を受けていた。
これをベースにシティ・ポップが創り出された。

■ ベルベット・イースター - 荒井由実 (1973年) 【Covered】

荒井由美時代のユーミンの曲はどこか凜とした空気感を帯びている。
これも静寂(休符)のなせるワザか。

■ 水銀燈/Mercury Lamp - 杏里 (1984年)

静寂から立ち上がるインストとボーカル。
そして静寂を活かした”キメ”と"グルーヴ"。
1980年代のシティ・ポップは16ビート絡みで休符のつかい方がすこぶる巧かった。

■ YES MY LOVE - 矢沢永吉 (1982年)

休符が創り出す”オトナの余裕”。

■ Everlasting Song - 梶浦由記(FictionFunction&Kalafina) (2009年)

休符(静寂)の活かし方が抜群に巧い梶浦由記さん&歌姫&FBMの名テイク。

■ 花降らし - pazi(歌ってみた)

音圧高いけど、絶妙に休符が効いている例。
ブレイクビーツ系4つ打ちと、アップビート系のグルーヴと変拍子が混在してる。
1980年代では表現することができなかった音世界。
こういう曲聴くと、J-POPは確実に進歩していると思う。
でも、メジャーシーンに出てこれない。


■ Leave the Door Open - Bruno Mars, Anderson .Paak, Silk Sonic (2021年)

”休符の魅力”&”ヴォーカルの力量”を取りもどしたBruno Marsのディレクション。
彼らが世界中の音楽好きから愛される理由がわかる気がする。


■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)
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■ 伊藤由奈&18曲の「Precious」

2005年から数々の名曲を残し、下の世代にも影響をあたえた伊藤由奈(Yuna Ito)。
アンジェラ・アキも10年ぶりに日本再始動!することだし、ふたたびJ-POPシーンに戻ってきてほしい。

■ 伊藤由奈(Yuna Ito) - Endless Story


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伊藤由奈の名曲、「Precious」。
安定したハイトーン、繊細なニュアンスや表現力、そして声そのものの魅力が問われる超難曲。
謡い込める感情の量が多い曲で、しかも超難曲につき極限状態で歌うので、歌い手のオリジナリティや強み弱みが浮き彫りにされるおそろしい曲です(笑)

うまく歌いこなした人はそうはいないと思っていたが、YouTubeでかなりの数の名テイクを発見。
それぞれ聴き比べができるほどのクオリティなので、一挙に貼り付けてみます。

■ 伊藤由奈(Yuna Ito) - Precious(オリジナル)



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■ 奏音さん


■ 桜川えみさん


■ 天野なつさん


■ 髙野瑠菜さん


■ 富士葵さん


■ 愛原まなさん


■ 山田祥子さん


■ 岩口和暖さん


■ YuNiさん


■ 長真由美さん


■ アルトナイトさん


■ 加藤梨菜さん


■ 季子さん


■ 花耶さん


■ 一華ひかりさん


■ May J.さん


■ 熊田このはさん

■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2

■ 草ケ谷遥海さん

■ 希有のシンガー、遥海(草ケ谷遥海)

歌の技量と再生回数が比例しないことが、↑ を聴くとよくわかる。

■ 本当に上手い女性シンガー15人!
■ 鈴を転がすような声  ~ 究極のハイトーンボイス ~
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1B

※ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1から分離。

Vol.-1Aからのつづきです。


■ 第1番 高野山東京別院(こうやさんとうきょうべついん)
公式Web
港区高輪3-15-18
高野山真言宗
御本尊:弘法大師
札所本尊:弘法大師
他札所:関東八十八箇所特別札所、江戸三十三観音札所第29番
授与所:本堂左手の納経所

御府内八十八ヶ所霊場の初番発願所は、高野山真言宗の高野山東京別院です。
正式名称は、高野山真言宗総本山金剛峯寺 高野山東京別院。
ご住職は総本山金剛峯寺座主が兼摂され、「高輪結び大師」の通称をもち、首都圏における「大師信仰」の教化の拠点として広く親しまれています。
東都の弘法大師霊場の発願所として、誠にふさわしい名刹といえましょう。

慶長年間(1596-1615年)、高野山学侶方の江戸在番所として浅草日輪寺に寄留して開創。明暦元年(1655年)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673年)高野山江戸在番所高野寺として建立されました。

以降、幕府方との宗務にかかる交渉、幕府諸通達を全国の古義真言宗寺院に通達する「触頭」(ふれがしら)を務められ、江戸における古義真言宗の中核としての役割を果たされました。

明治に入って在番所が廃止され、葛飾牛島の長壽寺の名蹟を移して継承し、昭和2年現号に改号しています。

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【写真 上(左)】 二本榎通りからの山門
【写真 下(右)】 修行大師像と山門

高野山東京別院は、高輪の海辺から桂坂を登ったところ、門前の二本榎通りは古代東海道ともいわれる主要道で要衝の地にあることがわかります。
このあたりの寺院は武蔵野台地の突端に置かれていることが多いですが、当山もその好例かと思います。

二本榎通り沿いに山門。
切妻屋根本瓦葺。門後に控柱を立てその上に小屋根を置いているのでおそらく高麗門。
門の左右に脇門付きの築地、さらにそのよこになまこ壁を配して変化をもたせた意匠です。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 院号板

山門向かって左手には、修行大師像が門外までお出ましになられています。
さすがに「首都圏における『大師信仰』の教化の拠点」です。


【写真 上(左)】 札所碑(表面)
【写真 下(右)】 札所碑(側面)


【写真 上(左)】 別の札所碑
【写真 下(右)】 弘法大師碑

そのよこの石碑は正面に「第壱番」、側面に「御府内八十八●●」とあるので御府内霊場の札所碑です。
そばには別の札所碑もあります。

山門向かって右には「弘法大師」の石碑。
山門幕には高野山真言宗の宗紋、「五三の桐」と「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」が染め抜かれています。
こうやさん便りWebによると、
 五三桐 - 豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋。
 三つ巴 - 鎮守・丹生都比売神社(通称・天野神社)の定紋。
ということで、通常このふたつの紋をセットで使用されます。

すでに山門前からして「お大師さまのお寺」のイメージ炸裂です。
また、札所碑の位置からして、御府内八十八ヶ所が弘法大師信仰のうえから重要な霊場であることがわかります。


【写真 上(左)】 参道とお砂踏み霊場
【写真 下(右)】 以前のお砂踏み霊場


【写真 上(左)】 幟旗
【写真 下(右)】 六地蔵

山門をくぐると都心らしからぬ広々とした空間が広がります。
最近山門周辺の四国八十八箇所お砂踏み霊場が参道沿いに移設され、以前よりもひろびろ感が増しています。
日当たりのよい台地にあるためか、山内は明るい雰囲気です。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 明神社参道


【写真 上(左)】 明神社鳥居扁額
【写真 下(右)】 明神社

参道右手に明神社が御鎮座です。
第一殿は、丹生明神(丹生都比売大神)・気比明神(大食津比売大神)
第二殿は、高野明神(高野御子大神)・厳島明神(市杵島比売大神)
第三殿は、十二王子・百二十番神(高野山の周囲を守る神々)
第四殿は、高輪神社の御祭神(東京別院の氏神社)

うち、第一殿、第二殿の御祭神を高野山の(天野)四社明神といい、高野山と関係のふかい丹生都比売神社(和歌山県かつらぎ町、紀伊国一宮、旧官幣大社)の御祭神です。
丹生明神は、高野山の鎮守神とされ、高野明神は丹生明神の子で弘法大師を高野山上に案内されたと伝わります。

弘法大師は高野山を開かれるに当たり、まず明神社を祀られ、その後山内伽藍の建築に着手されたといいます。
高野山には明神社が祀られ、山内諸行事はすべて明神社参拝からはじまるとされます。

神仏習合の江戸期には当山山内に明神社が祭祀されていましたが、明治の神仏分離で廃され、平成27年の高野山開創千二百年の記念事業により再建されました。
10月16日の明神社の鎮座祭は丹生都比売神社の宮司様により執行され、翌日の萬燈萬華大法会では宮司様と管長猊下により、奉祝祭と開眼法要が神仏混淆で奉修されたとのことです。(山内掲示より)


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 元旦の本堂


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝前

その先右手には宝形造の不動堂。ここまでくると本堂は目の前です。

昭和63年落慶の本堂は二層建築で、おそらく入母屋造本瓦葺の妻入かと思います。
上層に千鳥破風、下層向拝上に唐破風を興してスケール感があります。
行事日には向拝まわりに五色の幔幕が廻らされ、ひときわ華やいだ雰囲気になります。
向拝の「遍照殿」の扁額が、当山御本尊が弘法大師であることを示しています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額

天井高く奥行き深く、荘厳な堂内。
タイミングにより、御内陣まで上げていただけることもあります。(新型コロナ禍以降のご対応は不明)
密寺らしく、堂内には多くの尊像が奉安されています。


【写真 上(左)】 聖観世音菩薩
【写真 下(右)】 一願大師


本堂向かって右手には端正な聖観世音菩薩立像、そして一願大師も御座されています。

御朱印は本堂向かって左手の納経所で授与されています。
複数の札所を兼任されているので、御府内霊場の申告は必須。ご対応はたいへんに親切です。
なお、御府内霊場専用集印帳の頒布は、おそらくこちらのみとみられます。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。


汎用御朱印帳-2
御府内八十八ヶ所、江戸三十三観音札所、関東八十八箇所の3札所兼印が捺されることもあります。
※霊場無申告の場合は、こちらの御朱印になる模様です。


御府内霊場の掛け持ち参拝はおすすめしませんが、いちおう他の御朱印もご紹介します。

〔 関東八十八箇所特別霊場の御朱印 〕


「遍照金剛」の御朱印をいただきたい場合は、こちらで申告します。
原則として日付は入らないようです。

〔 江戸三十三観音札所第29番の御朱印 〕


札所本尊の聖観世音菩薩は、当山四世増舜大阿闍梨が高野山青巌寺より奉持・安置された尊像です。


■ 第2番 金峰山 世尊院 東福寺(とうふくじ)
中野区江古田3-9-15
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第2番
授与所:授与所

中野区江古田にある真言宗豊山派寺院です。

オフィシャルな由緒沿革資料がみつからなかったので、「中野区史 下巻』を当たってみました。P.497に以下の記載があります。
「金峯山世尊院と号する。本尊不動明王。立像長一尺二寸。舊(旧)は字御嶽山にあつたのを、某年現在の地に移した。開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某で、天正年中(1573-1592年)の起立と傳へるけれども未だ詳でない。法流の祖は法運といひ、享保七年(1722年)十一月五日示寂した。(略)本堂の左に大師堂があり、府内八十八箇所の第二番に当る。もと大久保の二尊院に在つたのを明治の初年当寺に遷したのである。(略)当寺は、舊と氷川神社(現在村社、江古田三丁目一一五九鎮座)の別当であり、又江戸時代には将軍放鷹の際の御膳所であつた。」

また、『新編武蔵風土記稿』には以下のとおりあります。
「除地五段 村ノ南ノ方上鷺ノ宮村堺ニアリ 金峯山世尊院ト号ス 新義真言宗ニテ中野村寶仙寺ノ末 此寺元ハ村内御嶽山ノ邊ニアリシヲ 年月詳ナラス此処ヘ移シタリト云 本堂ハ八間半ニ七間 本尊不動ノ立像長一尺二寸 開山詳ナラス 法流ノ祖ヲ法運ト云 享保七年(1722年)十一月五日示寂 開基ハ村民次郎右衛門カ先祖ニテ 天正年中(1573-1592年)ニ起立トイヘト 其詳ナルコトヲ傳ヘス」

さらに「中野区公式観光サイト『まるっと中野』」(PDF)には、「旧江古田村には正保年間(1644-1648年)の鷹狩の折に東福寺で江古田獅子舞を上覧したという言い伝えがあります。江古田獅子舞の上覧は、8代将軍吉宗の時、享保十三年(1728年)2月12日にこのときに御膳所に指定された東福寺で行われています。」「東福寺には『御成の間』が造られ将軍来訪に備えました」とありました。

上記と『中野区寺院・仏事ガイド』および山内掲示の内容をあわせ、由緒沿革をまとめてみます。


中世、江古田本村に御鎮座の御嶽神社の氏子・二郎左衛門(堀野氏)が、武州御獄神社の社僧源教の教化を受けて神社の南麓に堂宇を建立、弘法大師の御作と伝わる一本彫の不動明王立像を御本尊として奉安し、金峰山世尊院東福寺の号を贈られたといいます。

開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某(江古田御嶽神社の氏子・二郎左衛門(堀野氏)か)。

天正年中(1573-1592年)に堂宇が焼失、寛永年間(1624-1644年)?に当地に遷して再建(起立)。
法流の祖は法運(享保七年(1722年)寂)とあるので、法運による中興があったのかもしれません。

当山は江戸時代にしばしば将軍の鷹狩の御膳所となりました。
記録の残る正保年間(1644-1648年)の鷹狩御座と江古田獅子舞上覧は、三代将軍徳川家光公(在職:1623-1651年)とみられます。
この江古田獅子舞(祈祷獅子)は御嶽神社の社憎から伝授と伝わり、当山梵鐘の四面には獅子舞ゆかりの四神を模写した彫刻があります。

八代将軍・吉宗公は享保十三年(1728年)2月に来臨、すでに承応年間(1652-1655年に『御成りの間』として改築されていた客殿で休息したといい、跡地には「徳川将軍御膳所跡」の石碑が建てられています。

「中野区史 下巻』によると、弘法大師霊場としての系譜は新宿・余丁町の厳島神社の元別当・二尊院からで、明治の神仏分離により廃寺となったため東福寺に遷されたとのこと。

余丁町の厳島神社とは抜弁天(ぬけべんてん)のことで、新宿山ノ手七福神の弁財天となられて、本務社(?)の西向天神社で御朱印を授与されています。

『新編武蔵風土記稿 巻之11』の東大久保村の項に以下のとおりあります。
「辨天社 意形ノ像ナリ 弘法大師ノ作(以下略)」
「別当二尊院 新義真言宗 愛宕圓福寺地中金剛院ノ末 雨寶山ト号ス 本尊大日ヲ置」

↑によると、厳島神社(抜弁天)の御神体は弘法大師の御作とされ、別当二尊院は新義真言宗。
いずれもお大師さまゆかりの寺社です。


抜弁天の御朱印

『札所めぐり』によると、二尊院は弘安三年(1280年)の創建で、御本尊の不動明王は弘法大師の御作と伝わります。
二尊院の御本尊は弘法大師御作の不動明王というWeb記事もいくつかみつかりましたが出典は不明。
『新編武蔵風土記稿』には二尊院の御本尊は大日如来とありますが、弘法大師御作の不動明王奉安となると、こちらが御本尊になるとも思われよくわかりません。

ともあれ、御府内八十八箇所第2番は明治に二尊院から東福寺に遷ったという複数の資料があるのでこれは事実かと。
『新編武蔵風土記稿』には東福寺の御本尊は不動明王とあるので、こちらの(伝・弘法大師作の)お不動様が札所異動後の札所本尊となられたとみるのが自然かもしれません。

旧第2番が新宿余丁町だったとしても、初番の高輪から新宿余丁町の間には御府内霊場の札所がいくつもあるので、どうも御府内霊場の札番は単純にルート的な廻りやすさから振ったものではないような気もします。
(札所位置図→第76番蓮華山金剛院様公式Webで新宿余丁町は四ッ谷の上あたり。)

そんなこともあって、この霊場の順打ち(逆打ち)はすこぶる時間がかかるものとなります。



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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 札所碑

沼袋周辺は細い路地が多いですが、その北の新青梅街道から江古田の森公園にかけては比較的ゆったりとした街区となります。
東福寺は江古田の森公園の南側に、広めの山内を構えています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 参道

山門は切妻屋根銅板葺で寺号扁額を掲げ、左右に築地をまわしています。
山門右手には御府内霊場の札所碑。

山門をくぐった右手は幼稚園で、平日は園児の声で賑やかです。
参道左手の山手は墓地で、その山裾に手前から庚申塔、大蔵院不動尊、徳川将軍御膳所跡の碑、鐘楼と並びます。


【写真 上(左)】 大蔵院不動尊と鐘楼
【写真 下(右)】 興教大師像と御膳所跡碑

大蔵院不動尊は青山鳳閣寺配下大蔵院ゆかりの尊像で、もとは現・江古田二丁目に御座し耳や眼の病に霊験あらたかな不動尊として多数の信者を集めたといいます。

大蔵院不動尊の上方に鐘楼、その手前には新義真言宗寺院らしく興教大師のお像が御座します。
そのよこの徳川将軍御膳所跡碑の前から本堂に向かって階段をのぼります。
間口の広い堂々たる参道階段で、その途中右手に大師堂があります。


【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 大師堂

大師堂は宝形造銅板葺きの整った堂容で向拝には弘法大師の扁額が掲げられ、さすがに札所第2番、弘法大師霊場の趣きゆたかです。
弘法大師霊場の巡拝では当然こちらも参拝することになります。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 本堂

のぼり切った正面が本堂で、向かって右手前には修行大師像が御座します。。
入母屋造本瓦葺流れ向拝のスケール感あふれるつくりで、向拝見上げに山号扁額を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝扁額

山内掲示には不動堂は「成田不動尊写」とあり、境外佛堂として江原町観音堂が記されていますが、不動堂の所在はわかりませんでした。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所第2番の御朱印 〕


豊島八十八ヶ所も第2番です。主印、揮毫はおなじですが札所印が異なります。


■ 第3番 金剛山 悲願寺 多聞院(たもんいん)
世田谷区北烏山4-10-1
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第44番、江戸八十八ヶ所霊場第3番
授与所:庫裡

御府内八十八ヶ所の札所のうちには、府内(都心部)から郊外に移転したケースがいくつかあって、こちらものひとつです。

場所は世田谷区北烏山。
ここは都心部から移転した二十六もの寺院が集中し「烏山寺町」という大規模な寺町を形成しています。
手元にさるお寺様からいただいた『烏山寺町』という冊子があるので、こちらを参考に沿革を辿ってみます。


『烏山北町』

烏山寺町のおいたちは大正12年の関東大震災を直接の契機としますが、すでに明治21年には「東京市区改正条例」により都心部寺院・墓地等の共葬墓地・郊外への移転方針が決定していました。

共葬墓地への移転は順調に進み青山、雑司ヶ谷、染井、谷中、亀戸などは早い時期にすでに飽和状態になりました。
このため郊外の多摩共葬墓地の整備が進められ、大正12年春より共用開始しています。
同年9月の関東大震災は、この都心から郊外への寺院・墓地移転の流れを一気に加速しました。

練馬の寺町には浅草田島町から11箇寺、足立区伊興には元浅草・下谷・本所から、築地の西本願寺別院および塔頭55箇寺は杉並区和泉、仙川、調布そして烏山に移転しました。

烏山へは築地・浅草をはじめ、下谷、麻布、三田、品川などから寺院が移転しています。
当時の烏山は民家はほとんどなく、畑や桑圓が広がる農村地帯だったといいます。

移転した26箇寺は、真宗13、日蓮宗4、法華宗3、浄土宗4、真言宗1、臨済宗1と、真宗・日蓮宗・法華宗寺院が過半を占め、御朱印エリアのイメージはあまり強くはないものの、複数の寺院で御朱印・御首題を授与され、なかでももっとも御朱印がいただきやすいのが御府内八十八箇所の札所である多聞院です。
(→ 東京都世田谷区の札所と御朱印 (前編)をご参照。)

「烏山寺町」によると、多聞院は元和元年(1615年)新宿角筈村に創建。
開山は述譽法印、開基は角筈村名主・渡邉與(小)兵衛(法名天雪舊満)と伝わり、大塚(音羽)護国寺の末でした。
昭和20年5月の戦火で堂宇を焼失して現在地に移転、昭和29年末には本堂・庫裡が完成しています。

『新編武蔵風土記稿』には「新義真言宗、江戸大塚護國寺末金剛山慈願寺ト号ス 開山述誉ハ寛永元年(1624年)五月五日寂ス 開基ハ村内名主傳右衛門先祖與兵衛ニテ 法名天雪舊満ト云 明暦四年(1658年)六月十日死ス 本尊地蔵ヲ安ス」とあります。

御府内八十八ヶ所霊場3番札所、玉川八十八ヶ所霊場44番札所となっています。
玉川八十八ヶ所霊場の前身である四郡多摩川八十八所は江戸期の開創と伝わりますが、昭和48年に玉川八十八ヶ所として再編しているので、そのときに札所となったとみられます。

世田谷区内の弘法大師霊場は玉川八十八ヶ所がメインで、多聞寺は世田谷区内唯一の御府内霊場札所です。

山内に「天竺渡来石彫涅槃図」があり、これは奈良・壺坂寺(南法華寺)よりの寄贈。
説明碑によると多聞院先々代中興教荘和尚は壺坂寺住職として在職時の昭和36年に日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を開設されました。
(壺坂寺は眼病に霊験で有名)

壺坂寺は長年の救ライ活動に対して、インド政府より大観音石像の寄贈を受け、これが発展して昭和61年壺坂寺に大仏伝図(涅槃図)レリーフが建立され、そのゆかりの図が多聞院に寄贈されたのでは。

壺坂寺(南法華寺)は大宝三年(703年)創建の真言宗系の古刹で、元正天皇の祈願寺となっています。
承和十四年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せらたという名刹で、多聞院先々代教荘和尚が壺坂寺住職として在職されていたとなると、多聞院はかなりの寺格ではないでしょうか。

また、ふるくから壺坂寺と関係をもっていた事も想像されます。
壺坂寺は西国三十三所第6番札所ですから、そのゆかりで御府内霊場札所に列したのかもしれません。


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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 参道

烏山寺町は一部路地的な街区もありますが、たいていは広い道路に面して車でのアクセスは楽です。
当山も広めの駐車場がありますが、お盆やお彼岸などの参拝はさけた方がベターかと思います。


【写真 上(左)】 観世音菩薩
【写真 下(右)】 延命地蔵尊


【写真 上(左)】 観世音菩薩
【写真 下(右)】 不動明王

山門入口は門柱。ここから正面の本堂に向かって参道が伸びています。
木々は少なめで開放的な山内。
参道まわりには、不動明王、地蔵尊、観世音菩薩などが御座します。


【写真 上(左)】 仏足石
【写真 下(右)】 レリーフ

精緻な仕上がりの仏足石と、上記の「天竺渡来石彫涅槃図」レリーフが見どころです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
向拝上に山号扁額を置いています。

堂前に修行大師像は御座されず、弘法大師は本堂内御座と思われます。

墓域には天保八年(1837年)の大飢饉の犠牲者を供養する「五百六十八人無縁墓」、明治詩壇の重鎮・本田種竹の墓、館林藩の尊皇攘夷の士・大久保鼎の墓があります。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
ふたつのメジャー霊場を兼務され、手なれたご対応です。


〔 御府内霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は地蔵菩薩のお種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 地蔵菩薩」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。

〔 玉川八十八ヶ所霊場第44番の御朱印 〕


主印、揮毫はおなじですが札所印が異なります。


以下、Vol.-2へつづきます。



【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina


■ 桜 - 中村舞子


■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
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■ ギャル系ユニット「juliet」

さきほどTVの音楽番組視てたら、思いがけずjulietが流れた。
ゲストからは「はじめて聴いた」の声も・・・。
たしかに大きくブレークはしなかったもんな。

Biography

カリスマモデルプロデュース・チームRomeoが手がけたギャル系3人組ユニットで2009年デビュー。
2016年からはマイコとユミの2人によるツインボーカルユニットとして新スタートするも2018年12月31日をもって活動終了。(出所:wikipedia


いま聴き直してもちゃんとしてる。
楽曲もアレンジもボーカルもプロダクションも・・・。

■ フユラブ


■ Yuki Love


■ 23:45


「ギャル」「Shibuya」などのキャッチワードが、時流のなかでかえって裏目に出たのかも・・・。
もっと音楽的に認められてもよかったユニットだと思う。

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julietデビューの2009年前後の数年間、”セツナ系”といわれるメロディアスでエモーショナルな楽曲が人気を博していた。
たくさんのニューフェイスがあらわれて、実力派もかなりいた。
当時は、おそらくこういうフォーマットがこれからのJ-POPのメインストリームになっていくと思っていた。

ところが、現実は予想外の展開に・・・。

毎日のように1980年代(昭和ヒット)特集が組まれる昨今だけど、このあたりの楽曲やアーティストも再評価されていいと思う。

■ うまく言葉にできないけれど - SoulJa feat. 果山サキ


■ Because - LGYankees feat. 中村舞子


■ By Your Side - WISE feat. 西野カナ


2019年1月8日の西野カナの無期限活動休止宣言は象徴的なできごと。


【 関連記事 】
■ セツナ曲25曲
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-22

Vol.-21からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第67番 摩尼珠山 宝光院 真福寺
(しんぷくじ)
公式Web

港区愛宕1-3-8
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第67番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所(第23番)、江戸地蔵菩薩霊場三十六ヶ所(第23番/一言地蔵尊)、江戸西方三十三観音霊場第4番(真福寺内長久寺)、弁財天百社参り第7番(真福寺本道)、弁財天百社参り第8番(真福寺弁天堂)、大東京百観音霊場 特番4

第67番は愛宕の真福寺です。

第67番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに真福寺となっており、第67番札所は御府内霊場開創当初から愛宕の真福寺であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

真福寺は、天正十九年(1591年)照海上人が鐵砲洲に小庵を営み、慶長十年(1605年)徳川家康公より愛宕下に土地を賜り開創されました。
新義真言宗江戸四箇寺のひとつで、智積院の触頭でした。

御本尊は弘法大師御作の薬師如来像で、浅野幸長は等身の薬師如来を造立し、弘法大師御作の薬師如来像をその胎内に安置したとも伝わります。

江戸時代は「愛宕のお薬師さん」として庶民に親しまれ、毎月8日のご縁日には門前市を成す賑わいをみせたそうです。

明治初頭の神仏分離の波は乗り越えたものの、大正の大震災で焼失。
昭和6年現堂宇を再建、平成7年に近代的な『真福寺・愛宕東洋ビル』として再生されています。
現在も、真言宗智山派総本山・智積院の東京別院として智山教化を担われています。

山内には勝軍地蔵尊銅像があります。
この勝軍地蔵尊は廃寺となった圓福寺ゆかりの尊像と伝わります。
圓福寺は江戸時代、御府内霊場第19番の札所であった可能性があります。

詳細は第19番青蓮寺で記していますが、圓福寺は真福寺同様、新義真言宗江戸四箇寺のひとつでもあるので、要旨を抜粋して再掲します。

江戸期の真言宗には「江戸四箇寺触頭」という制度があり、これにより本末関係が精緻に整えられていました。

『新義真言宗触頭江戸四箇寺成立年次考』(宇高良哲氏/PDF)によると、発足当初の「江戸四箇寺触頭」はつぎの4箇寺です。
・知足院(江戸白銀町)
関連資料
・真福寺(愛宕下)
・円(圓)福寺(愛宕下)
・弥勒寺(本所)

智積院公式Webには「貞享4年(1687)七月に知足院が将軍家の祈祷寺を理由に免除され、代わりに根生院が任じられます。以後、明治までは変化はありません(円福寺は明治二年に廃仏毀釈により廃寺)。」とあるので、貞享四年(1687年)以降は真福寺(67)、圓福寺(19)、弥勒寺(46)、根生院(35)の四箇寺体制となっています。
( )内は御府内霊場の札番で、これをみても御府内霊場が真言宗の名刹をおおむねカバーしていたことがわかります。
また、『宝瞳寺文書解題』(国文学研究資料館/PDF)にも「江戸四箇寺触頭」の役割が詳細に記されています。

圓福寺は「江戸四箇寺触頭」を勤められ、御府内にいくつもの末寺をもつ御府内有数の名刹でした。
これほどの名刹がどうして明治の廃仏毀釈でいともあっさり(?)と廃絶してしまったのでしょうか。
(実際、触頭4箇寺のうち他の3箇寺は現存しています。)

どうにも気になったので、まずはここから調べてみました。

真福寺の勝軍地蔵尊の説明書には以下のとおりあります。
「この勝軍地蔵菩薩は、天平十年(738年)行基が近江信楽遊行の砌、造顕したもので、同地に安置され、霊験あらたかなり。天正十年(1582年)徳川家康、本能寺の変の難を逃れんがため伊賀越に際し、信楽の土豪多羅尾氏、当勝軍地蔵を献上、沙門神証これを護持し、三河に帰還するをえたり。爾来、家康の帰依厚し。慶長八年(1603年)家康、征夷大将軍に栄進するにより、江戸に愛宕神社を創建し、同社の本地仏として勧請、神証を別当の円福寺第一世とせり。明治の廃仏毀釈で円福寺は廃寺、尊像は真福寺に移されたが、大正十二年 (1923年)関東大震災で焼失、昭和九年(1934年)弘法大師一千百年御遠忌記念として、霊験を不朽にせんがため、銅製で造顕せり。」

一方、愛宕神社の公式Webには配祀として将軍地蔵尊が明記され、愛宕権現(神社)にとって将軍(勝軍)地蔵尊がいかに重要な尊格であるかがわかります。

以上から、圓福寺は愛宕権現の別当の色彩がすこぶる濃厚だったとみられます。
この点は、全国の愛宕神社の総本社とされる愛宕神社(京都市右京区嵯峨愛宕町)と、その別当・白雲寺との関係とよく似ています。

中世~江戸期の愛宕権現社の多くは、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られたといいます。
神仏習合のもと修験道の道場として栄えたこともあり、別当の勢力はたいへん強かったとみられます。

この強大な立場が明治の廃仏毀釈で裏目に出て、愛宕権現の別当・圓福寺は存続の危機に見舞われたのでは。
実際、京都の愛宕神社総本社の別当・白雲寺は廃仏毀釈で廃絶となっています。

総本社の別当・白雲寺が廃絶となった以上、東都の愛宕権現の別当・圓福寺も、たとえ「江戸四箇寺触頭」の格式があったとしても廃絶を遁れられなかったのでは?

ちなみに『寺社書上』の圓福寺の項には「従是愛宕山上之分」として以下のとおりあります。

□「(圓福寺)従是愛宕山上之分」(諸佛のみ抜粋引用)
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【史料】
『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上』(国立国会図書館)
愛宕大権現御神● 秘像
御前立 勝軍地蔵尊
脇立 不動明王 毘沙門天

本地堂 脇坊金剛院持
朝日愛染明王

太郎坊北之方
唐●地蔵尊 勝軍地蔵尊 地蔵尊 石地蔵尊

女坂
勝軍地蔵尊

男坂上り口
役行者堂
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これをみると江戸期の愛宕権現が諸佛に満ち、神仏習合していたことがよくわかります。
本地堂の別当は金剛院(圓福寺地内末寺)とあるので、愛宕権現全体の別当が圓福寺、本地堂の別当が金剛院という二重構造だったのかもしれません。

なお、『江戸名所図会』の愛宕社總門の絵図をみると、男坂の右手に本地堂、左手に別当(おそらく圓福寺)がみえ、本地・別当系の諸堂は坂下にあったことがわかります。

ここから「出世の石段」を登って参拝する愛宕権現は海抜26mという都内随一の高みにあり、ここからの見晴らしと桜花のすばらしさは御府内有数と称えられ、ほおずき市や羽子板市も賑わいをみせて江戸の図絵類に描かれています。


■『江戸名所図会』 7巻 (須原屋茂兵衛[ほか])/愛宕社總門
(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了)より転載 → 出所

~ 伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり ~ (愛宕神社御由緒書より)


【写真 上(左)】 愛宕神社社頭
【写真 下(右)】 出世の石段


【写真 上(左)】 愛宕神社拝殿
【写真 下(右)】 愛宕神社の御朱印

真福寺勝軍地蔵尊の説明文のとおり、圓福寺が廃寺となったとき、御本尊の(勝軍)地蔵菩薩は愛宕の真福寺に遷られました。
このとき真福寺はすでに御府内霊場第67番の札所だったので、重番を避けるため御府内霊場第19番は浅草の清光院に承継されたとみられます。

江戸時代の真福寺と圓福寺の関係はよくわかりませんが、真福寺は智積院の触頭としての性格、圓福寺は愛宕権現別当としての性格が強く、それぞれ棲み分けしていたのではないでしょうか。

いずれにしても、真言宗「江戸四箇寺触頭」のうち2箇寺までが愛宕に位置しており、この地が江戸の真言宗にとって特別な地であったことがうかがえます。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十七番
あたご下
摩尼珠山 宝持院 真福寺
院家智積院方
本尊:薬師如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [53] 愛宕下寺社書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.71』
愛宕下
山城国三寶院末 新義真言宗
摩尼珠山宝光院真福寺
天正十九年下総国匝瑳郡谷辺村真福寺住層照海上人開山 常陸●●と由緒(略)鉄砲洲に草庵を結び●● 慶長十年●付寺地拝領仕 同十五年●●●● 仰付候
開山 照海上人 元和二年卒
常憲院様御代●●朱印頂戴仕候 御文云写応之通

本堂
 本尊 薬師如来木立像(縁起書あり)
 前立薬師座像 日光月光木立像 四天王、十二神 大黒天
 弘法大師木座像 興教大師木座像
 不動明王 両童子
 十一面観音 一言地蔵
 聖天 辨財天 賓頭尊
稲荷社

地中 玉藏院
地中 長久院
 本尊 観音木立像
真養院
 本尊 庚申

『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
摩尼珠山 真福寺
櫻川の西岸に傍びてあり 新義の真言宗にして江戸四個寺の一員 智積院の触頭なり 当寺本尊薬師如来の霊像ハ 弘法大師の作なり 慶長の頃甲州の領主浅野長政当寺中興照海上人をして自 らの等身に薬師佛の像を手刻せしめ 件の霊像をハ其胎中に籠●るといへり 毎月八日ハ縁日にして参詣多し

『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
眞福寺 愛宕町一丁目八番地
新義眞言宗智山派に属し、摩尼珠山と号する。江戸時代には本宗派四役寺の随一であり、總本山智山派の觸頭として派内の公務を處辨する樞要な宗冶機関であった。今尚同本山の東京別院として同派の宗務所が置いてある。天正十九年僧照海鐵砲洲に一小庵を営み、慶長十年此地に本寺を建立した。本尊は浅野幸長等身の薬師如来である。大正大震火災の為め炎上したので、昭和六年現堂宇を再建した。境内には勝軍地蔵の銅像がある。御府内第六十七番の札所である。


「真福寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝愛宕下絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「愛宕下 真福寺薬師堂」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836] .国立国会図書館DC(保護期間満了)


「名所江戸百景 愛宕下藪小路」/原典:江戸百景 絵師:広重出版者:魚栄 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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【写真 上(左)】 愛宕神社車道(女坂)入口と真福寺
【写真 下(右)】 外観-1

最寄りはメトロ「虎ノ門ヒルズ」駅で徒歩約3分。
都営三田線「御成門」駅やメトロ銀座線「虎ノ門」駅からも歩けます。
周辺はハイグレードなオフィスやホテルが建ち並ぶ都心の一等地です。


【写真 上(左)】 外観-2
【写真 下(右)】 寺号標

すぐ右隣は愛宕神社の車道(女坂)入口で、真福寺が愛宕権現のすぐ隣にあったことがわかります。
7階建程度の瀟洒なビルですが、ビル前に寺号標があり、そこから登る階段のうえには向拝が見えるのですぐに寺院とわかります。


【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 向拝-1


【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額

向拝上に巡らされた紫色の向拝幕には真言宗智山派宗紋の「桔梗紋」が染め抜かれています。


【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 御真言

向拝正面に御本尊・薬師如来が御座される開放的な堂内です。
向拝幕の後ろに「醫王尊」の扁額が掲げられています。
御縁日には五色幕も掲げられ、より華々しい雰囲気となります。


【写真 上(左)】 寺号提灯
【写真 下(右)】 1階寺務所前

本堂下向かって左手に回り込むと、上記の旧・圓福寺から遷られた勝軍地蔵尊が御座します。
一帯は緑濃く、都心のオアシスとなっています。


【写真 上(左)】 真福寺外構と勝軍地蔵尊
【写真 下(右)】 勝軍地蔵尊

御朱印は1階の寺務所にて拝受しました。
寺務所はまさにオフィスですが、ご対応は事務的ではなくとてもご親切です。
なお、勝軍地蔵尊の御朱印は不授与とのことでした。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に薬師如来のお種子「バイ」「本尊薬師如来」「弘法大師」の揮毫と「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十七番」の札所印。
左に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
智山派総本山の東京別院だけあって、さすがに安定感のある御朱印です。


■ 第68番 大栄山 金剛神院 永代寺
(えいたいじ)
江東区富岡1-15-1
高野山真言宗
御本尊:歓喜天尊
札所本尊:歓喜天尊
司元別当:富岡八幡宮(永代島八幡社)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第68番、江戸六地蔵6番目、大東京百観音霊場第37番

第68番は深川富岡の永代寺です。

第68番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに永代寺となっており、第68番札所は御府内霊場開創当初から深川富岡の永代寺であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

永代寺は、寛永四年(1627年)ないし同五年長盛上人によって永代島に遍照院と号して創建され、富岡八幡宮(永代島八幡社)の別当をつとめました。

永代島とは現在の門前仲町周辺で、中世以降の海退、埋め立てなどによって隅田川河口域に形成された六万坪強にもおよぶ砂州をいいます。

寛永四年(1627年)ないし同五年の夏、開山・長盛上人が弘法大師の夢告を受け、高野山の碩学等の僧が永代島に参集して一夏九旬の間法要を催し、弘法大師の御影堂を建立したといいます。

現地の略縁起によると長盛上人は菅原道真公の末裔で、夢のお告げにより八幡大菩薩を携えて江戸に下向とあるので、寛永四年(1627年)西国でお大師さまの夢告を受け、翌五年(1628年)東国・永代島に下向されて永代寺開山に至ったのかもしれません。

なお、夢告を受けたのは周光阿闍梨とする史料もあり、 『御府内八十八ケ所道しるべ』にも「開山 周光阿闍梨 寛文年中」とあります。

一方、富岡八幡宮公式Webの御由緒には「富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。」とあり、長盛上人が富岡八幡宮およびその別当・永代寺を開創されたとみるのが通説のようです。
※詳細は → こちら(永代寺略縁起(『寺社書上』))

ただし、『江戸名所図会』には富岡八幡宮の草祀はさらにふるく、源三位頼政公(1104-1180年)が当社八幡宮の神像を尊信し、千葉家および足利将軍尊氏公、鎌倉公方・足利基氏、関東管領・上杉家、太田道灌等の崇敬殊に厚かったとあります。

「今当社より十二町ばかり東の方 砂村の海浜に元八幡宮と称する宮居あり」とあるので、当初は砂村に御鎮座かもしれません。

「砂村の元八幡宮」とは、おそらく江東区南砂の富賀岡八幡宮をさすと思われます。
『新編武蔵風土記稿』の (砂村新田村)八幡社(富賀岡八幡宮)の項には「村ノ鎮守トス 土人云 当社地ハ富岡八幡宮ヲ始テ勧請セシ地ニテ 寛永(1624-1644年)ノ始今ノ深川ノ地ニ引移セシヨリ 彼舊地ナレハトテ 寛文五年(1665年)八幡ヲ勧請セシカハ元八幡ト唱ヘ 今ニ永代寺持ナリ サレト同寺ニテハ寛文ノ勧請ノコトノミニテ元地タリシコトハ傳ヘサレト イマ深川八幡ノ神体僧形八幡ハ弘法大師ノ作ニテ 寛永ノ始マテ郡中立石川端等ノ内ニ鎮座アリシヲ 同十年伊奈半十郎ノ臣興津角左衛門入道玄理寄附セシヨシ旧記アレハ 土人ノ説ノ如ク始此地ニ移シ祀リ 後ニ今ノ深川ノ社地草創シテ 再ヒ移セシ其舊地ナリヘシ」という意味深な記述があります。

これによると、富岡八幡宮がはじめて勧請されたのは砂村の元八幡宮(富賀岡八幡宮)で、寛永(1624-1644年)のはじめ頃にいまの深川の地に御遷座。
深川八幡の僧形の御神体は弘法大師の御作で、寛永のはじめ頃まで郡中立石川端(立石川端(いまの葛飾区東立石))等の内に御鎮座を、寛永十年(1633年)伊奈半十郎の臣・興津角左衛門入道玄理が寄附したとも。

このように富岡八幡宮の創祀沿革には諸説ありますが、ともかくも寛永五年(1628年)には深川の地に御鎮座され、別当に永代寺が就いたのは確かなようです。

『江戸名所図会』には、大和國生駒山の開基寶山師が正保三年(1646年)永代寺周光阿闍梨の法弟となり 寛文四年(1664年)の頃霊夢を感得し宮社を落成され、以降ますます栄えたとあります。

たしかに、生駒山寶山寺(生駒聖天)の公式Webには、「伊勢に生まれ、江戸永代寺に入った宝山湛海律師(一六二九~一七一六)は歓喜天に対する修法に優れ、江戸の大火で焼失した永代寺八幡宮の復興では思わぬ所から金や資材が集まる祈祷の効験を発揮、人々を驚かせた。」とあり、永代寺との浅からぬ所縁を伝えています。
また、永代寺山内にはその旨を示す石碑も建っています。
※詳細は → こちら(寶山寺開祖行業記(『寺社書上』))

現在の永代寺の御本尊が歓喜天尊であるのも、このような所縁によるものかもしれません。

永代寺は関東五ヵ寺同等の寺格を賜り、有章院殿(徳川家継公)、有徳院殿(吉宗公)が参詣され、将軍家の祈祷も修されました。

『寺社書上』の永代寺の項には本坊のほか10院(多聞院、功徳院、吉祥院、般若院、明王院、長壽院、大勝院、海岸院、支王院、東光院)の支院が記載され、密教の一大拠点を形成していたことがわかります。

四隅の鎮守として蛭子宮(艮隅)、荒神宮(巽隅)、摩利支天宮(坤隅)、大勝金剛宮(乾隅)というすこぶる強力な尊格を奉安。
永代島はもともと低平な新開地。
河東屈指の勝地(神仏が御座されるにふさわしい霊地)と成すにはこのような強力な布陣による結界が必要だったのでしょうか。

このうち大勝金剛尊は金剛峯楼閣瑜伽瑜祇経(瑜祇経)を儀軌とする歴とした密教尊格ですが、大日如来、愛染明王、金剛菩薩などの特徴を備えられ、仏頂とも菩薩とも明王ともいわれるナゾの多い尊格で、東日本での奉安例は少ないとみられ、こちらに奉安されたのは何らかの意味合いがあったのかも。

永代寺は富岡八幡宮とともに多くの参詣者を集め、ことに毎年三月二十一日から二十八日までは弘法大師の御影供が催され、「山開き」と称して庭園も開放されてたいへんな賑わいをみせたそうです。

なお、『御府内八十八ケ所道しるべ』には以下のとおりあります。
「本尊阿弥陀如来 本社富ヶ岡八幡宮 弘法大師」

本地垂迹説では八幡神の本地佛として阿弥陀如来奉安の例が多く、八幡宮別当・永代寺の御本尊が阿弥陀如来であったのはこの例に沿ったものかもしれません。
(ただし『寺社書上』には永代寺御本尊の阿弥陀如来は夢告により感得との記載があるので、この例には当たらないかも。)

宝永三年(1706年)、深川の地蔵坊正元が発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した「江戸六地蔵」。
永代寺は第6番の札所で地蔵尊像は享保五年(1720年)に千葉街道(諸説あり)の守護佛として造立安置されました。
以降、江戸六地蔵の札所としても参詣者を集めましたが、明治初頭の廃仏毀釈の波を受けてかこちらの地蔵尊像は現存しません。

しかし、「江戸六地蔵」第6番のポジションはいまも保たれ、「江戸六地蔵」の巡拝では永代寺の参詣は欠かせないものとされて御朱印も授与されています。

永代寺、というか支院・吉祥院を語るとき外せないのが深川不動尊(成田山東京別院 深川不動堂)との関係です。

深川不動堂公式Webには、「元禄十六年(1703年)に(成田不動尊の)第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。(略)以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。(略)明治元年(1868年)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで(略)旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。『深川不動堂』の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881年)のことでした。」とあります。

「出開帳を行った特縁の地」は、永代寺支院の吉祥院とみられています。
広大な寺地を有した永代寺の旧地には、現在、吉祥院が継いだ永代寺(高野山真言宗)と深川不動堂(真言宗智山派)が存在しています。

富岡八幡宮の別当・永代寺は将軍家の尊崇も受けた名刹でしたが、明治初頭の神仏分離の際に一旦は廃寺となりました。

しかし支院・吉祥院の住僧覚阿坊は伽藍の取り壊し忍びがたく、永代寺法類の湯島円満寺の附属となし、これまで般若院付であった大師堂も吉祥院付とし、永代寺本坊代々の墓守と定めて存置を願い出てついに許可され、吉祥院が永代寺の名跡を継ぐこととなりました。
明治29年には吉祥院を改めて永代寺と号し、円満寺末から仁和寺直末となったといいます。(「猫のあしあと」様より)

八幡神との神仏習合色強い阿弥陀如来は御本尊として迎えにくいため、本坊および吉祥院で奉安され、従前から所縁のある歓喜天尊を御本尊とされたのでは。

永代寺再興にあたっては、当然御府内霊場札所の承継も意図されたはず。
再興時のうごきからみると、江戸時代の御府内霊場第68番札所(永代寺)の巡拝者は、すくなくとも本坊の阿弥陀如来、本社の富ヶ岡八幡宮、般若院の弘法大師堂を拝していたのではないでしょうか。

江戸時代の名刹が明治初頭の神仏分離で廃寺となり、支院・支坊がその名跡を継いだ例は永代寺のほかにもいくつかみられます。

たとえば王子神社および王子稲荷神社の別当を務め、徳川将軍家の御膳所にもなった名刹、禅夷山 金輪寺は神仏分離令もあって廃寺となりましたが、支坊(塔頭)の藤本坊が金輪寺の名跡を継いで再興しています。

富岡八幡宮別当としての永代寺の沿革は、下記の『寺社書上』を丹念に読み込んでいけば、新たなファクトも出てくるのかも知れませんが、筆者の拙い技量では到底かないません。
興味のある方はトライしてみてください↓(と、逃げる・・・(笑))

『寺社書上 [96] 深川寺社書上 二 分冊ノ一/永代島八幡社』(国立国会図書館)
『寺社書上 [96] 深川寺社書上 二 分冊ノ二/永代島八幡社』(国立国会図書館)

永代寺には複雑な縁起来歴が伝わり、深掘りすればまだまだ史料がみつかりそうですが、とりあえずこのくらいにしておきます。

それにしても、永代島八幡社(富岡八幡宮)と永代寺にかかわる『寺社書上』の書き様をみると、先人の記録に対する意思が伝わってきます。
どんな些末な事柄でも、書き逃すことなく何百年でも残そうという執念のようなものが感じられます。

このような貴重な史料がWebで閲覧できるとは、すごい時代になったものです。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十八番
深川仲町八幡社 門前町あり
大滎山 金剛神院 永代寺
御宝末 古義
本尊:阿弥陀如来 本社富ヶ岡八幡宮 弘法大師
開山 周光阿闍梨寛文年中

『寺社書上 [98] 深川寺社書上 三 分冊ノ一』(国立国会図書館)
永代寺
別当大滎山金剛神院永代寺 称号開闢以来自坊建立将来
右別当称号之儀 寛永四年(1627年)開山以来遍照院と唱来●●
右開山長盛

本尊 阿弥陀如来木佛座像
脇士 大勢至菩薩 正観世音菩薩
八幡大菩薩 弘法大師 互相 影像
真言宗八大祖師像
大聖歓喜天 秘蔵 周光中興之弟子寶山持念し天像に●御座候

〔寺寶霊佛霊像書画幅物〕
阿彌陀三尊来迎之像
五輪種子塔●●金泥 弘法大師筆
蝋石大日如来座像
僧形八幡神影

『寺社書上 [99] 深川寺社書上 三 分冊ノ二』(国立国会図書館)

【寺中幷境内に隅し鎮守堂守院号】
●多聞院
本尊 不動明王木佛座像 二童子木佛立像
金比羅権現神像
歓喜天 二軀 秘蔵ニ御座候
弘法大師木佛座像

●功徳院
本尊 不動明王木佛立像 顧行上人作
前立 同尊木佛立像 二童子木佛立像
弘法大師木佛座像
愛染明王木佛座像
稲魔法王

●吉祥院
本尊 毘沙門天木佛立像
脇士 吉祥天 善膩師童子木佛立像
大日如来木佛座像
歓喜天 秘蔵天像
十一面観音木佛立像 

●般若院
右本尊次第之儀不●知
如意輪観音銅佛座像
地蔵菩薩木佛立像
弘法大師木佛座像

●明王院
本尊 千手観音木佛座像 千手観音木佛座像弘法大師作腹蔵ニ御座候
百観音 阿弥陀千躰佛 十一面観音木佛立像 阿弥陀如来木佛座像 不動明王木佛立像 地蔵大士石佛座像 焔魔法王木佛座像

●長壽院
本尊 辨財天女木佛立像 弘法大師作
脇士 毘沙門天木佛立像 運慶作 大黒天 伝教大師作 幷眷属十五童子
弘法大師木佛座像

●大勝院
本尊 大勝金剛木佛座像

●海岸院
本尊 大荒神木佛立像

●支王院
本尊 摩利支天木躰立像

●東光院
神躰 蛭子太神●木躰座像
同前立 木躰座像
同相殿 立像木躰

●正元稲荷社
本地佛 十一面観音木佛立像

『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
富岡八幡宮
深川永代島にあり 別当は真言宗にして大栄山金剛神院永代寺と号す 江戸名所記に寛永五年の夏弘法大師の霊示あるにより 高野山の両門主碩学其外東国一●の●僧此永代嶋に集合し一夏九旬の間法彼あり 別に弘法大師の御影堂を建て真言三密の秘さくを講す(略)
本社 祭神 應神天皇(神影ハ菅神(菅原道真公)作) 相殿 右天照大神宮、左八幡大明神 三座
相傳 往古源三位頼政当社八幡宮の神像を尊信す 其後千葉家及び足利将軍尊氏公 鎌倉の公方基氏 又管領上杉等の家々に伝へ 太田道灌崇敬ことに厚かりしか 道灌没するののちハ 神像の所在も定かならさりしに 寛永年間(1624-1644年)長盛法印霊示によりて感得す 今当社より十二町ばかり東の方 砂村の海濱に元八幡宮と称する宮居あり 当社の旧地といふ 依此地に当社を創建すといへとも いまだ華構の飾におよハす 唯茅茨の営みをなすのみ 然るに大和国生駒山の開基宝山師 正保三年(1646年)永代寺周光阿闍梨の法弟となり 寛文四年(1664年)の頃霊夢を感じ宮社を経営す 日あらすして落成し結構備ハる 志しありしより以降 神光日々に新たにして河東第一の宮居となれり
当社四隅鎮守 艮隅 蛭子宮 巽隅 荒神宮 坤隅 摩利支天宮 乾隅 大勝金剛宮 

『新編武蔵風土記稿 巻之25』(国立国会図書館)
(砂村新田村)八幡社(富賀岡八幡宮)
村ノ鎮守トス 土人云 当社地ハ富岡八幡宮ヲ始テ勧請セシ地ニテ 寛永(1624-1644年)ノ始今ノ深川ノ地ニ引移セシヨリ 彼舊地ナレハトテ、寛文五年(1665年)八幡ヲ勧請セシカハ元八幡ト唱ヘ 今ニ永代寺持ナリ サレト同寺ニテハ寛文ノ勧請ノコトノミニテ元地タリシコトハ傳ヘサレト イマ深川八幡ノ神体僧形八幡ハ弘法大師ノ作ニテ 寛永ノ始マテ郡中立石川端等ノ内ニ鎮座アリシヲ 同十年伊奈半十郎ノ臣興津角左衛門入道玄理寄附セシヨシ旧記アレハ 土人ノ説ノ如ク始此地ニ移シ祀リ 後ニ今ノ深川ノ社地草創シテ 再ヒ移セシ其舊地ナリヘシ



「永代寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「永代寺山開」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)

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【写真 上(左)】 仲見世
【写真 下(右)】 仲見世の提灯

最寄りはメトロ東西線・都営大江戸線「門前仲町」駅。
東西線千葉寄りの1番出口が至近です。
駅を出るといきなり仲見世で、周囲はすでに門前町の趣。


【写真 上(左)】 永代寺門前から不動堂
【写真 下(右)】 外観-1

ここから右手おくの正面が深川不動尊で、そちら方向に歩いてすぐ右手。
間口はさほどではないもののさすがに名刹、本堂上に楼閣を設えて独特のオーラを放っています。


【写真 上(左)】 外観-2
【写真 下(右)】 門柱の寺号標


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 花手水

切妻屋根銅板葺の山門柱に寺号標。その手前に御府内霊場の札所標。
正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺一部楼閣付きで、桁行三間の大がかりな向拝を配し、紫色の向拝幕が華やか。堂前は常に線香の煙がなびいています。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

向拝小壁中央に寺号扁額、向かって右手には奉納額が掲げられ、向拝柱には札所板も。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 奉納額

本堂向かって左手には子育・取持地蔵尊のお堂。こちらも広く信仰を集めているようです。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 地蔵堂扁額

参拝の折は堂内にあげていただけます。
ほの暗い堂内には歓喜天尊霊場特有の厳粛な空気が流れ、物見遊山で訪れる場ではないと思います。

御朱印は堂内にて拝受しました。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所板
【写真 下(右)】 深川不動堂

現地掲示の旧配置図によると、永代寺本堂は現在の深川公園のグラウンドあたりで、永代寺跡の石碑が建っています。


■ 永代寺跡の石碑


■ 旧配置図


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「歓喜天尊」「弘法大師」の揮毫、歓喜天尊のお種子「ギャク」の御寶印(巾着)と弘法大師のお種子「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「御府内第六十八番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 江戸六地蔵の御朱印


■ 第69番 龍臥山 明王寺 宝生院
(ほうしょういん)
港区三田4-1-29
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第69番、江戸六地蔵6番目、御府内二十八不動霊場第22番

第69番はふたたび三田に戻って宝生院です。

第69番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに寶生院となっており、第69番札所は御府内霊場開創当初から三田寺町の宝生院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

宝生院は慶長十六年(1611年)いまの八丁堀に創建し、寛永十二年(1635年)現在地(三田寺町)に移ったといいます。
中興開山は法印重昌(寶永四年(1707年)寂)。

御本尊は大日如来。
本堂内に弘法大師木座像、興教大師木座像、三尊阿弥陀如来木佛立像を奉安と伝わります。

不動堂には海中出現と伝わる(波切)不動尊を奉安。
御前立の不動尊木立像は興教大師の御作ともいいます。

相殿に奉安の地蔵尊石佛立像は弘法大師が伊豆にて彫刻された尊像といい、「伊豆石最初之尊像」とも伝わります。
辨財天像も弘法大師所縁の尊像と伝わります。

『ルートガイド』によると、明治8年境内に青山学院の前身となる寺子屋式の学校が開設されたそうです。

また、江戸末期から明治中期の名力士・陣幕久五郎の菩提寺とも伝わり、山内には大関昇進と横綱昇進の記念碑が建っています。

宝生院は史料が少なく、この程度しか掘り下げられませんでした。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十九番
芝三田寺町
龍臥山 明王寺 宝生院
愛宕圓福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.110』
三田寺町
愛宕圓福寺末 新義真言宗
龍臥山寶生院明王寺
開闢起立之年代 開山開基等●●分不申候
慶長十六年(1611年)八町堀に寺地拝領仕
寛永十二年(1635年)右寺召上げ当所(三田寺町)に替地拝領仕候
中興開山 法印重昌 寶永四年(1707年)寂

本堂
 本尊 大日如来木座像
 弘法大師木座像
 興教大師同前(木座像)
 三尊阿弥陀如来木佛立像
不動堂
 不動尊金佛立像 海中出現 前立不動尊木立像 興教大師作ト云
相殿
 地蔵尊石佛立像 宗祖弘法大師豆州住●之砌 ●●伊豆山石切開此尊像彫刻●●申仕候 右伊豆石最初之尊像也ト申傳
 毘沙門天木立像 辨財天木座像
 辨財天 宗祖弘法大師江ノ島ニ於テ護摩修行之砌 右護摩之灰ヲ以テ作之萩原伊左衛門ト申者夢想感得之尊像ト申傳
 宇賀神木古像

『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
寳生院 三田北寺町十三番地
新義眞言宗愛宕圓福寺派で、龍臥山明王寺と号する。慶長十六年(1611年)今の八丁堀に創建し、寛永十二年(1635年)此地に移った。開山不詳。寺内に波切不動がある。御府内第六十九番札所に該当する。


「宝生院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面していますが、ビルではなく本堂は単層、庫裡は二層です。

街路からやや引き込んだ門柱に院号標。
山内は意外に広く、すっきりとしています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標

山内向かって右に土蔵造りの建物、左手に院号扁額を掲げた建物があります。
扁額を掲げた建物が本堂、土蔵が収蔵庫のようにもみえますが、土蔵造りの建物が本堂です。

【写真 上(左)】 本堂と庫裡(手前)
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に梵字付きの蟇股を置いています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額

向拝扉がうすく開けられ、御本尊・大日如来の御像は確認できました。
『ルートガイド』によると本堂内には御本尊大日如来、弘法大師像、興教大師像を奉安されているようです。


【写真 上(左)】 弘法大師碑
【写真 下(右)】 陣幕の記念碑

上記の陣幕の記念碑は山内右手に、弘法大師碑とともにありました。

御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」「大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫、「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。右に「第六十九番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23

■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ Miss You - 今井美樹


■ Roka - 遊佐未森


■ One Reason - milet
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■ 都内の閻魔大王の御朱印

明日1月16日は閻魔大王のご縁日「初閻魔」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがありますのでアゲてみました。

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2023/07/15 UP

明日7月16日は閻魔大王のご縁日「薮入り」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがあります。

そこで、江戸の閻魔様関連のふたつの霊場(江戸・東京四十四閻魔参り、閻魔三拾遺)の札所をベースに、江戸時代の著名な閻魔様(『江戸歳時記』)のデータを加えて、閻魔様の御朱印をいただける寺院を整理してみました。
なお、ふたつの霊場はいずれも現役霊場ではなく、諸般のご事情で現在御朱印授与を休廃止されている可能性もあります。


※表中、オレンジの寺院は、閻魔様参りにとくにおすすめのお寺さまです。

閻魔様の御朱印はかなりレアですが、都内では比較的授与例が多くなっています。
ただし、毎月16日のご縁日や、閻魔賽日(初閻魔(1/16)、藪入り(7/16))のみの限定授与のケースも多くみられます。

閻魔大王については、こちらの記事(「古今御朱印研究所」様)がわかりやすいので、ご覧くださいませ。

こんな時代だからこそ、閻魔様詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

 
【写真 上(左)】 上品寺(葛飾区東新小岩)の閻魔様
【写真 下(右)】 寶珠院(港区芝公園)の閻魔様

 
【写真 上(左)】 太宗寺(新宿区新宿)の閻魔様
【写真 下(右)】 法乗院(江東区深川)の閻魔様


 
【写真 上(左)】 源覚寺(文京区小石川)の御朱印
【写真 下(右)】 同 閻魔様の御朱印帳

 
【写真 上(左)】 華徳院(杉並区松ノ木)の御朱印
【写真 下(右)】 上品寺(葛飾区東新小岩)の御朱印

 
【写真 上(左)】 安養寺(江戸川区東瑞江)の御朱印
【写真 下(右)】 正受院(新宿区新宿)のめずらしい奪衣婆の御朱印



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ One Reason - milet


■ answer - 遥海
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■ 1/14のカラバト

先ほど放送のカラオケバトル「10th Anniversary 10年王者決定戦」、録画したやつ視てみました。

このところのカラバト、??がつくこと多かったけど、やっぱり出場者の粒が揃うと面白いわ、この番組。

優勝はRiRiKAさん。おめでとうございます。
決勝曲は、感情が乗ってたし、休符がばっちり決まってキレッキレだった。
やっぱり実力者。文句なしの優勝かと・・・。

■ 【ザカラオケバトル1月14日優勝】RiRiKA×小林明子『恋におちて~Fall in love~』りりか宝塚歌唱フル映像 THEカラオケバトル2024年1月14日 FULL LIVE


佐久間彩加ちゃんは、ちょっと調子が悪かったのかな?

それにしても、カラバトU-18黄金の世代、もう少し出てほしかった。
聴きたくなったので、過去の名演(カラバト公式動画)をリンクしてみます。


■【カラオケバトル公式】佐々木麻衣:森昌子「哀しみ本線日本海」舞台裏コメント付き/2018.11.21 OA



■ 【カラオケバトル公式】原藤由衣(北海道・高専2年生):薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」/2019.2.20 OA



■ 【カラオケバトル公式】熊田このは:BENI「見えないスタート」/2017.8.23 OA



■ 【カラオケバトル公式】佐久間彩加:Crystal Kay「君がいたから」/2020.12.13 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)



■【カラオケバトル公式】堀優衣 「サクラ~卒業できなかった君へ~」半﨑美子/2018.6.20 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)



■ 【カラオケバトル公式】鈴木杏奈:LiSA「炎」(森アナイチオシ動画)2020/12/13OA.



きっちり高得点叩き出しているのに、情感とオリジナリティがしっかり乗って、LIVEテイクとしても一級品なのが彼女たちの凄いところ。


■ カラバト黄金の世代の名テイク ~ 日本の歌姫たち ~


〔関連記事〕
【抜粋編】黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
カラバトU-18黄金の世代の7人+4人
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■ 富金原佑菜ちゃんのワンマンライブ

富金原佑菜ちゃんの貴重なワンマンライブです。
ぜひぜひどーぞ ↓



■ カタオモイ/Aimer(Covered)


■ 富金原佑菜オリジナル「群青」 パフォーマート・オブ・ミュージック主催イベント 2019.12.30 @江坂MUZE


■ 富金原佑菜ちゃんのナイステイク
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-21

Vol.-20からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第63番 初音山 東漸寺 観智院
(かんちいん)
公式Web

台東区谷中5-2-4
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第64番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第6番

第63番は谷中の観智院です。

第63番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』では観智院、江戸八十八ヶ所霊場では加納院となっています。
加納院は御府内霊場第64番ですから、どこかの時点で63番と64番の札所が入れ替わった可能性があります。
いずれにしても、谷中の観智院は御府内霊場開創当初からの札所であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

観智院は、慶長十六年(1611年)、照譽法印が小(北)寺町に開山、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。

慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となつたためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)などと同様とみられますが、寺伝には慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、万治年中(1658-1660年)に現在地へ移転とあります。

延宝八年(1680年)、当山12世・宥朝法印が入山され元禄十一年(1698年)に院号を現在の観(觀)智院に改めました。
当初の院号は圓照院。
宥朝法印は「”圓照”は”炎焦”に通ずる」との霊告を受けられて号を改めたといいます。

宥朝法印の入山により寺勢はますます興隆しましたが、公式Webでは当山と檀越関係にあった奥医師・丸山玄棟の外護も大きかったと推察されています。

安永八年(1779年)には不動堂を建立、興教大師作と伝わる不動尊像が安置され、五大明王像を奉安という史料もみられます。
五大明王とは不動明王を中心に降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北)と配置される明王像で、霊験ことにあらたかとして広く信仰されます。

元禄十六年(1703年)十一月、大震災につづいて本郷追分、小石川辺から出火した火災は、折からの強風にあおられて江戸の町の大半を焼きつくしました。
谷中の寺院も多くが焼失しますが、観智院は奇跡的に炎禍を遁れたといいます。

観智院の不動尊は興教大師御作と伝わる霊像であること、中興開山・宥朝法印の「火除けの改号」のいわれ、そして大火の炎禍を免れたことなどもあってか、「谷中の火除不動尊」と呼ばれて多くの参詣者を集めたといいます。

文化・文政(1804-1829年)の頃になると、江戸御府内はもちろん近隣からも参詣人が訪れ、門前は市がたつほどの賑わいになったと伝わります。
谷中のメインロードであった「三崎坂」(さんざきざか)に面していたことも大きいのでは。

明治初頭の神仏分離の際には大店の商人をはじめとする町人の檀信徒が23世・真興法印のもとに結集して寺門を支えたといい、御府内霊場札所のポジションも堅持しています。
明治39年、24世・海隆法印が入山、先々代・石本海隆師も堂宇整備に尽力されて大正年間にはふたたび寺容を整えたといいます。

関東大震災では延焼を免れた当山に人々が避難したといい、昭和20年3月の東京大空襲では本堂・庫裡に砲弾を受けたものの大師堂・不動堂は焼失の難を遁れ、いまなお戦前の姿を残すとともに、御本尊・大日如来をはじめすべての仏像、什器もまた焼失を遁れています。
火除不動尊の霊験まことにあらたかというべきでしょうか。

昭和24年初音幼稚園を設置し、いまでも山内は園児の声でにぎやかです。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十三番
谷中三崎通り
醫王山 東漸寺 観智院
本所弥勒寺末 新義
本尊:弘法大師

『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.100』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
醫王山東漸寺観智院
権現様御世慶長十六年(1611年)2月15日、当寺開山照誉法印代 於神田小寺町ニ寺地拝領仕候 大猷院様御世慶安元年(1648年)中、神田小寺町御用地ニ付被召上 谷中ニ代地拝領仕候
開山 照誉法印 卒年月不知
中興開基 宥朝法印 享保六年(1721年)遷化

本堂
 本尊 弘法大師座像
不動尊土蔵
 不動尊座像 興教大師作
稲荷社

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
觀智院(谷中初音町一丁目二三番地)
本所彌勒寺末、醫王山東漸寺と号す。本尊弘法大師。当寺亦慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや現地に転じた。開山は僧照譽、中興は僧宥朝。(享保六年(1721年)五月二十二日寂)
境内に不動堂がある。



「観智院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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※ 休園日に撮った写真がなぜか見つかりません。見つかったら追加します。

最寄りは東京メトロ千代田線「千駄木」で徒歩約7分ほど。
JR「日暮里」駅からも同じくらいで歩けます。

千駄木から谷中霊園へ向かう三崎坂をほぼ登り切ったところに道に面してあります。
第57番明王院の並びにあり、谷中寺町のほぼ中心部に当たります。


【写真 上(左)】 全景
【写真 下(右)】 本堂

山内のほとんどは幼稚園として使われ、平日の日中はセキュリティ上から閉門されているので、休日の参拝がベターとみられます。

山内入口に初音六地蔵。
昭和58年秋の像立と新しいお像ですが、手篤く供養されて存在感があります。

門柱に院号標があり、おくに本堂は見えますが、平日昼間は園児たちが走り回り幼稚園バスが停まっていたりしてほぼ幼稚園です。

正面の階段上に唐破風の向拝を備えた本堂。
複雑な意匠で見応えがあります。


【写真 上(左)】 不動堂(右)と大師堂(左)
【写真 下(右)】 不動堂の扁額

本堂向かって左手前に不動堂と大師堂があります。
不動堂は宝形造銅板葺で向拝に「火除不動尊」の扁額を掲げています。

大師堂は不動堂の向かって右手に連接してあります。
柱には御府内霊場ではなく、「弘法大師廿一ヶ所六番」の札所板が打ち付けられていました。
お大師さまは、堂内の大ぶりな厨子のなかに御座されています。

御朱印は本堂向かって左手前の庫裡にて拝受しました。
なお、「火除不動尊」の御朱印は授与されていないそうです。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と胎蔵大日如来のお種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第六十三番」の札所印。左に地蔵尊の御影印、院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第64番 長谷山 元興寺 加納院
(かのういん)
台東区谷中5-8-5
新義真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第63番、弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場第4番

第64番は谷中の加納院。御府内霊場では数すくない、紀州根來寺を総本山とする新義真言宗の寺院です。

第64番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』では加納院、江戸八十八ヶ所霊場では観智院となっています。
観智院は御府内霊場第63番ですから、どこかの時点で63番と64番の札所が入れ替わった可能性があります。
いずれにしても、谷中の加納院は御府内霊場開創当初からの札所であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

加納院は、慶長十六年(1611年)、幕府より神田小(北)寺町に寺地を給せられて尊慶上人が開基、慶安元年(1648年)谷中へ移転したといいます。

慶安元年(1648年)の移転は旧寺地が幕府用地となったためで、『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での幕府からの賜地、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)、長久院(第55番)、明王院(第57番)、観智院(第63番)などと同様とみられますが、慶安元年(1648年)に一旦谷中清水坂に遷ったあと、延宝八年(1680年)再び幕府用地となったため現在地へ移転といいます。

加納院は情報が少ないですが、『寺社書上』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考』には、本堂御本尊は阿弥陀如来で両脇侍は正観世音菩薩と勢至菩薩。
御本尊の阿弥陀如来は「(御府内)八十八ヶ所ノ第六十三番」と記されています。

本堂内(『下谷区史』では大師堂内)に弘法大師像、興教大師像を奉安し、御府内霊場札所としての要件は整っていたようです。

聖天堂には大聖歓喜天二躰(秘佛)と本地佛として十一面観世音菩薩を奉安。
相殿に稲荷。阿弥陀如来、弁財天二躰、千手観世音菩薩も安置と伝わります。

『ルートガイド』によると、当山所蔵の「両界曼荼羅版木」は台東区有形文化財に指定されているとのこと。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十四番
谷中
長谷山 元興寺 加納院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [111] 谷中寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.102』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所彌勒寺末
長谷山元興寺加納院
起立 慶長十六年(1611年)
開基 尊慶 寛永十三年(1636年)寂
権現様御代 神田北寺町ニ寺地拝領仕候 慶安元年(1648年)大猷院様御代 神田北寺町御用ニ付 谷中清水坂ニテ替地拝領仕候 延宝八年(1680年)厳有院様御代御用地ニ付 清水坂地処差上● 只今ハ当所ニ住居仕候

本堂
 本尊 阿弥陀如来木座像
八十八ヶ所ノ第六十三番
 両脇士 観世音 勢至
 弘法大師 興教大師
 位牌壇 大日如来 
聖天堂
 歓喜天二躰 秘佛
 本地 十一面観音
 相殿稲荷 阿弥陀如来 弁財天二躰 千手観世音

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
加納院(谷中上三崎北町六番地)
本所彌勒寺末、長谷山元興寺と号す。本尊阿彌陀如来。慶長十六年(1611年)幕府より神田北寺町に寺地を給せられて起立した。開山を尊慶(寛永十三年(1636年)四月六日寂)といふ。慶安元年(1648年)同所が幕府用地となったため谷中清水坂(現谷中清水町)に移り、延寶八年(1680年)同所亦用地となり、現地に転じた。
境内に聖天堂(大聖歡喜天を安置す)及び大師堂(弘法大師像及び興教大師像を安置す)がある。



「加納院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「千駄木」駅からの方が距離的には近いくらいですが、急な登りとなります。

台地上にある「日暮里」駅から歩くとわかりにくいですが、千駄木方面から望むとかなりの高台にあることがわかります。

寺院に囲まれた路地奥の立地ですが、観光スポットの観音寺の築地塀の先にあり、目立つ朱塗り門を構えているので、訪れる人は意外に多いのかもしれません。

位置的には三崎坂から明王院と観智院のあいだの路地を北に入った路地の突き当たりにあります。
この路地まわりはほとんどが寺院で、谷中が都内屈指の寺町であることを実感できます。


【写真 上(左)】 加納院前から望む観音寺の築地塀(左)
【写真 下(右)】 山門

山門は切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの薬医門で、脇塀とともにコの字型の空間をつくり出し、どこか城門のようです。

山門前に御府内霊場札所標。
これは御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)を併記したもので、比較的めずらしいかたちでは。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内

緑濃い山内はよく手入れされて心なごみます。
四季折々の花々が咲き誇る花の寺でもあるようです。

本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝に扁額はないですが、向拝扉右手に御府内霊場(第64番)と御府内二十一ヶ所霊場(第4番)の札所板が掲げられています。


【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 御朱印案内

御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
御府内霊場は参拝後の御朱印申告が原則ですが、こちらでは参拝前に御朱印帳を預ける旨の掲示があります。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊阿弥陀如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫とお種子(おそらく阿弥陀如来のお種子・キリーク)の御寶印。
御寶印は八葉をかたちどったもので、胎蔵曼荼羅の中心部・中台八葉院をモチーフとしたものかも。
右に「第六十四番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
西暦で書かれた奉拝日が個性的です。


■ 第65番 明王山 遍照寺 大聖院
(だいしょういん)
港区三田4-1-27
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第65番

第65番は三田の大聖院。
御府内霊場の後半は、三田の札所が多くなります。

第65番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに大聖院で、三田の大聖院は御府内霊場開創当初からの第65番札所であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

大聖院は、慶長十六年(1611年)数寄屋町に創建ののち八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)淀松尾氏等の外護を受けて三田の現在地に移転といいます。
開山は宥専上人、中興開基は法印祐壽と伝わります。

江戸期は愛宕前真福寺末でしたが、明治12年に智山派総本山智積院の直轄末寺となっています。

本堂には、御本尊の大日如来木座像を奉安。六躰の阿弥陀如来木座像と弘法大師木座像、興教大師木座像を安置して御府内霊場札所の体裁を整えていたようです。

護摩堂には不動尊木座像、千手観音木座像、愛染明王木座像、聖天尊真鍮立像を奉安し、鎮守は稲荷社と伝わります。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十五番
芝三田寺町
明王山 遍照寺 大聖院
愛宕山真福寺末 新義
本尊:金剛界大日如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [13] 三田寺社書上 参』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.92』
三田寺町
愛宕前真福寺末 新義真言宗
明王山大聖院遍照寺
草創之年暦 開山 中興開山 開基 不分明
慶長十六年(1611年)四月数寄屋町 八町堀に替地拝領仕
寛永十二年(1635年)八月八町堀から三田寺町に替地拝領仕
中興開基 法印祐壽 寛永十二年(1635年)

本堂
 本尊 大日如来木座像
 阿彌陀如来木座像 六躰
 弘法大師木座像
 興教大師木座像
護摩堂
 不動尊木座像 千手観音木座像 愛染明王木座像 聖天尊真鍮立像
鎮守稲荷社

『芝區誌』(デジタル版 港区のあゆみ)
大聖院 三田北寺町二十一番地
初め眞言宗愛宕眞福寺末派で、慶長十六年(1611年)数寄屋町に創建し、後八丁堀に移り、寛永十二年(1635年)淀松尾氏等の外護に依って現在地に堂宇を定めた。開山は宥専上人である。明治十二年六月二日京都総本山智積院直轄末寺となった。御府内第六十五番の札所である。



「大聖院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』芝高輪辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都営三田線「三田」駅で徒歩約10分。
国道1号に面し、蛇坂の登り口にあります。
三田界隈は国道1号が低地を走り、台地上を走る二本榎通りに向かっていくつかの坂道があり、その坂道や国道1号に面して寺院が点在する寺町です。


【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 院号標

三田には都心霊場ならではのビルタイプの札所寺院がありますが、こちらもそのひとつ。
国道1号からスロープを介して少しく引き込んでいるので、入口壁面の院号標がなければ寺院とは思えません。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 尊像御座の一画

瀟洒なビルで、エントランスの唐破風がなければ近づいても寺院と気づかないかも。
エントランス向かって右手の一画に札所標、二童子を従えた不動明王、弘法大師像、地蔵尊像が御座し、俄然霊場札所らしい雰囲気が出てきます。


【写真 上(左)】 エントランス
【写真 下(右)】 向拝?

エントランスが拝所(向拝?)と思われ、こちらから参拝しました。
こちらは二度参拝しいずれもご不在だったので、ご在寺時にお声掛けすれば堂内に入れていただけるかは不明です。

『ルートガイド』には弘法大師の御作と伝わる不動明王を安置とありますが、御座所は不明です。

御朱印はエントランス脇の扉に書置が掛けてありました。
専用用紙、御朱印帳貼付、どちらのタイプも準備されていました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と御寶印。
御寶印のお種子は不動明王の「カン/カーン」のようにも見えますが、どうでしょうか。
右に「第六十五番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第66番 白龍山 寿命院 東覚寺
(とうかくじ)
公式Web

北区田端2-7-3
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(田端)八幡神社(北区田端2-7-2)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第66番、豊島八十八ヶ所第66番、谷中七福神(福禄寿)、上野王子駒込辺三十三観音霊場第29番、九品仏霊場第2番(上品中生)、閻魔三拾遺第5番、江戸・東京四十四閻魔参り第35番、滝野川寺院めぐり第2番

※この記事は■ 滝野川寺院めぐり-1をアレンジして仕上げています。

第66番は田端の東覚寺です。
御府内霊場には東覚寺を号する札所がふたつ(当山と第73番/亀戸)ありますが、当山を「田端東覚寺」、第73番を「亀戸東覚寺」と呼んで区別しているようです。

ところで城北の田端あたりは御府内に入っていたのでしょうか。
「御府内」とは「江戸町奉行が支配の対象とする江戸(の範囲内)」ないし「寺社勧化場として許可された江戸(の範囲内)」といわれ、時代によって変化したといいます。

東京都公文書館のWeb資料には以下のとおりあります。
-------------------------
文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。
この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。

その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。
 東…中川限り
 西…神田上水限り
 南…南品川町を含む目黒川辺
 北…荒川・石神井川下流限り
この朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、この墨引で示された範囲が、町奉行所支配の範囲を表しています。朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。

以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。
-------------------------

このようにきわめて明快に説明されています。
つまり、江戸御府内=江戸朱引図内ということです。


■ 江戸朱引図東京都公文書館Web公開資料

江戸朱引図(東京都公文書館)をみると田畑村はしっかり朱引図内に収まっており、田端が御府内に位置することがわかります。


■ 朱引きと田畑村の位置関係東京都公文書館Web公開資料を筆者にて加工)


第66番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに東覚寺となっており、第66番札所は御府内霊場開創当初から田端の東覚寺であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

東覚寺は、延徳三年(1491年)真言宗御室派の僧、源雅和尚が神田筋違橋(現在の万世橋付近)に不動明王を御本尊に勧請して創建。
その後根岸の御印田を経て、慶長年間(1596-1615年)に田畑村の現在地に移転したと伝わります。

田端の名刹・與楽寺(第56番札所)の末寺で、20を数えた末寺のなかで筆頭に位置したといいます。
その名刹ぶりは、末寺なから養福寺・寿徳寺・福蔵寺・普門寺という4つの末寺を擁していたこと、御府内霊場、九品仏霊場、(西国)三十三観音霊場など複数の霊場札所を兼ねていたことからもわかります。

江戸時代には徳川歴代将軍の祈願所となり、寺紋に“葵の紋”を賜りました。

昭和20年4月13日の戦災で御本尊の不動明王を除いて諸堂などほぼ全てを焼失。
現在の本堂は、昭和42年の再建です。

東覚寺は江戸時代は八幡社(田端八幡宮)の別当で、『江戸名所図会』で八幡社の山裾に佇む様は別当としての性格をあらわしています。
八幡社(田端八幡宮)は文治五年(1189年)頼朝公の勧請と伝わる田畑村の鎮守です。

『新編武蔵風土記稿』には東覺寺、八幡社(田畑八幡宮)、石像仁王、九品佛堂、観音堂などが渾然と載せられ、神仏習合の霊地であったことがうかがえます。


【写真 上(左)】 田端八幡神社
【写真 下(右)】 田端八幡神社の御朱印

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
六十六番
田ばた村
白龍山 壽命院 東覺寺
田ばた村与楽寺末
本尊:不動明王 本社八幡大菩薩 弘法大師

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻十』(国立国会図書館)
(田端村)東覺寺
與楽寺末白龍山壽命院ト号ス 寺領七石ノ御朱印ヲ附セラル
本尊不動ハ弘法大師ノ作ナリ
八幡社
村ノ鎮守ナリ 江戸志等ニ文治五年(1189年)頼朝ノ勧請ナル由記シタレト 今社伝ニ存セス 社前ニ石像仁王アリ 昔銘ニ施主道如宗海上人東岳寺賢盛代 寛永十八年(1641年)八月二十一日ト彫ル
九品佛堂
惠心ノ作ノ三尊彌陀ヲ安置ス 第二番ノ堂ト云
観音堂

『江戸名所図会 7巻 [15]』(国立国会図書館)
田畑八幡宮
同所(田畑村)西の方にあり田畑村の鎮守とす 相伝ふ文治五年(1189年)頼朝公勧請す すなはち駒込神明宮と同時の鎮座なりと云 別当ハ眞言宗東覚寺と号して弘法大師の作の不動尊を本尊とす 開山行基菩薩なり



「東覚寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「田畑八幡宮」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[15],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836] .国立国会図書館DC(保護期間満了)

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【写真 上(左)】 赤紙仁王尊と明王堂
【写真 下(右)】 奉納された草鞋

最寄りはJR「田端」駅で徒歩約6分。
複数の霊場札所を兼ね、「赤紙仁王尊」でも知られる寺院です。
区画整理が進んだ広々とした街区に、赤紙を貼られた赤紙仁王尊の出現はインパクトがあります。

この赤紙仁王尊(区の指定文化財)は寛永十八年(1641年)の背銘があり、当時江戸市中に流行していた疫病を鎮めるため宋海上人が願主建立されたもので、赤紙を自分の患部と同じところに貼って願をかけると霊験ありと信じられ、いまもたくさんの赤紙が貼られています。


【絵図】 慶応2年頃の石像金剛力士像の様子(北区教育委員会の現地説明板より/出典『御府内八十八ヶ所道しるべ』/国立国会図書館提供)

ときどき赤紙を剥がすそうですが、剥がす前のタイミングだと石造の仁王尊は赤紙に貼り尽くされほとんどお姿が見えません。
病が治癒すると草履を供えるとされ、仁王尊の脇にはたくさんの草履が奉納されています。

この赤紙仁王尊は門前の明王堂(護摩堂)参道に御座しますが、もともとは当山が別当を務めた田端八幡神社の参道に安置されていたといいます。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂

山門は新しいですが本瓦葺、二軒の平行垂木を備えた立派なものでおそらく薬医門。
正面本堂左手前の修行大師像と金色の金剛界大日如来坐像、向拝欄干には御本尊不動明王の御真言とお大師さまの御寶号が掲げられ、保守本流の真言宗寺院の空気感。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
正面桟唐戸の上に「白龍山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 札所標

本堂左手客殿前には金色の阿弥陀如来坐像、その奥に「九品佛第二番 阿弥陀如来」と西國廿九番(上野王子駒込辺三十三観音霊場、札所本尊馬頭観世音菩薩)の札所標が並びます。
九品佛霊場は江戸時代開創の古い霊場で発願は巣鴨の真性寺、結願は板橋の智清寺。東覚寺は第2番で上品中生の阿弥陀如来です。
両霊場ともに御朱印の有無をお伺いしましたが、いずれもお出しになられていないとのことでした。


【写真 上(左)】 鼓翼(はばたき)平和観音像
【写真 下(右)】 馬頭観世音

庫裡に回り込む手前に、鼓翼(はばたき)平和観音像と馬頭観世音菩薩が御座します。
馬頭観世音菩薩は三面八臂の坐像で、髻に馬頭をいだかれた憤怒相です。
馬頭観世音菩薩は観世音菩薩にはめずらしい憤怒尊で、「馬頭明王」と呼ばれることもあります。
この立派な馬頭観世音菩薩は、上野王子駒込辺三十三観音霊場の札所本尊なのかもしれません。

本堂裏には回遊式の庭園があり、庭内に諸仏が安置されています。
- むらすずめ さわくち声も もも声も つるの林の つるの一声 -
太田蜀山人 / 雀塚の石塔

こちらは江戸・東京四十四閻魔参り第35番の札所で、御縁日に参拝したところ閻魔大王の御朱印は授与されていないとのことで、御本尊の御朱印をいただきました。
閻魔大王は奪衣婆とともに、本堂内に御座されているそうです。

また、歴史ある谷中七福神の福禄寿尊天をお祀りされます。
この福禄寿尊天は、もとは通称「六角山」にあった六角堂(西行庵)に西行法師坐像とともに祀られていたもので、明治に入って当寺に遷座されました。
毎年正月には本堂で御開帳されています。

御朱印は、向かって左裏手の寺務所で拝受します。
複数の霊場札所を兼務されているので、希望の御朱印をはっきりと申告します。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内第六拾六番」の札所印。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【上(左)】 閻魔様の御縁日に拝受した御本尊の御朱印
【下(右)】 豊島八十八ヶ所第66番の御朱印


■ 滝野川寺院めぐり第2番の御朱印
※「滝野川寺院めぐり 第2番」の札所印はお持ちでないとのことでしたが、ご厚意で揮毫の札番をいただけました。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-22


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ ノーサイド - 松任谷由実
願い - 童子-T feat.YU-A

■ いつかまた咲く花へ - 西沢はぐみ


■ into the world - kalafina
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-20

Vol.-19からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第59番 佛寶山 西光院 無量寺
(むりょうじ)
北区西ヶ原1-34-8
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:七社(旧西ヶ原村総鎮守)
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第59番、豊島八十八ヶ所霊場第59番、江戸六阿弥陀如来第3番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、大東京百観音霊場第81番
※本記事は「■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印」および「■ 滝野川寺院めぐり-2」から転載・追記したものです。

第59番は北区西ヶ原の無量寺です。

第59番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに無量寺で、第59番札所は開創当初から西ヶ原の無量寺であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

無量寺の創建年代は不明ですが、『滝野川寺院めぐり案内』には「現在当山には9~10世紀の未完成の木像菩薩小像と、12世紀末の都風といわれる等身の阿弥陀如来像が安置されている。さらに正和元年(1312年)、建武元年(1334年)の年号を始めとする30数枚の板碑が境内から出土しているから、少なくとも平安時代の後期には、この地に寺があったことはまず間違いないであろう。」と記されています。

『江戸名所図会』には開山は行基菩薩とあり、これは江戸六阿弥陀の縁起からきているものとみられます。

北区設置の山内説明板には『新編武蔵国風土記稿』や寺伝等には、慶安元年(1648年)に幕府から八石五斗余の年貢・課役を免除されたこと、元禄十四年(1701年)五代将軍綱吉公の生母桂昌院が参詣したこと、以前は長福寺と号していたが、寺号が九代将軍家重公の幼名長福丸と同じであるため、これを避けて現在の名称に改めたことなどが記されています。

江戸時代には広大な寺領を有していたとみられ、当山が別当を勤めた「七社」はその境内に鎮座されていたと伝わります。
『江戸名所図会』には無量寺山内とみられる高台(現・旧古河庭園)に「七社」があらわされ、現・旧古河庭園の一部も無量寺の境内であったのでは。

大正3年(1914年)、古河財閥3代当主の古河虎之助が周囲の土地を購入したという記録があるので、その時に古河家に移った可能性があります。
なお、「七社」は神仏分離の翌年明治二年(1869年)に一本杉神明宮の社地(現・七社神社)に御遷座されています。


【写真 上(左)】 七社神社の社頭
【写真 下(右)】 七社神社の境内


【上(左)】 七社神社の御朱印(旧)
【下(右)】 七社神社の御朱印

西ヶ原村の総鎮守であった七社神社には、西ヶ原村内に飛鳥山邸(別荘)を構えた渋沢栄一翁が氏子として重きをなし、所縁の品々が残されています。

無量寺は御府内霊場のほか、江戸時代、春夏のお彼岸にとくに賑わったといわれる江戸六阿弥陀詣の一寺(第3番目)で、もともと参詣者の多かった寺院とみられます。
また、豊島八十八ヶ所霊場第59番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番、滝野川寺院めぐり第9番の札所でもあります。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十九番
西ヶ原村
佛宝山 西光院 無量寺
大塚護持院末 新義
本尊:不動明王 弘法大師 興教大師

『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
新義真言宗佛寶山西光院ト号ス 慶安元年(1648年)寺領八石五斗餘ノ御朱印ヲ附ラル 古ハ田端村與楽寺ノ末ナリシカ 常憲院殿厳命ヲ以テ大塚護持院ノ末トナレリ 又昔ハ長福寺ト称セシヲ 惇信院殿の御幼名ヲ避テ今ノ寺号ニ改ムト云 本尊不動外ニ正観音ノ立像ヲ置 長三尺五寸許惠心ノ作ニテ 雷除の本尊トイヘリ 中興眞惠享保三年(1718年)閏正月廿三日化ス 今ノ堂ハ昔村内ニ建置レシ御殿御取拂トナリシヲ賜リテ建シモノナリト云 元境内ニ母衣櫻ト名ツケシ櫻樹アリシカ今ハ枯タリ 母衣ノ名ハ寛永(1624-1644年)ノ頃御成アリシ時名ツケ給ヒシト云伝フ
寺寶
紅頗梨色彌陀像一幅 八組大師像八幅 妙澤像一幅 不動像一幅 六字名號一幅。以上弘法大師ノ筆ト云 其内名號ニハ大僧都空海ト落款アリ 菅家自畫像一幅

七所明神社 村ノ鎮守トス 紀伊國高野山四社明神ヲ寫シ祀リ天照大神 春日 八幡三座を合祀ス 故ニ七所明神ト号ス
末社ニ天神 稲荷アリ 辨天社
阿彌陀堂 行基の作 坐像長三尺許六阿弥陀ノ第三番ナリ 観音堂 西國三十三所札所寫ナリ 鐘樓 安永九年鑄造ノ鐘ヲ掛
寺中勝蔵院 不動ヲ本尊トス

『江戸名所図会 十五』(国立国会図書館)
真言宗にして弘法大師の作の不動尊を本尊とし 開山ハ行基菩薩なり 本堂に●●る南無阿彌陀佛の額ハ幡随意院磧了和尚の筆なり
阿弥陀堂 本堂の右にあり 本尊ハ行基菩薩の作 録阿弥陀第三番目なり 



「無量寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「無量寺」/原典:斎藤長秋 編 ほか『江戸名所図会』十五,博文館,1893.12. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは東京メトロ南北線「西ヶ原」駅で徒歩約7分。
JR「上中里」駅からも徒歩7分ほどですが、こちらは坂の上り下りがあるので下りのみの「西ヶ原」駅の方が楽です。

このあたりの主要道は、不忍通り、白山通り(中山道)など谷間を走る例が多いですが、本郷通りは例外で、律儀に馬の背の台地上を辿ります。
第47番城官寺、あるいは西ヶ原駅・上中里駅からだと本郷通りからの道順となり、かなりの急坂を下ってのアブローチとなります。
旧古河庭園の裏手にあたるこの坂道は木々に囲まれほの暗く、落ち着いた風情があります。

旧古河庭園は陸奥宗光や古河財閥の邸宅で、このあたりは府内屈指の高級住宅地であったことがうかがわれます。

いまでも落ち着いた邸宅がならぶ一画があり、いかにも東京山の手地付きの富裕層が住んでいそうな感じがあります。
内田康夫氏の人気推理小説「浅見光彦シリーズ」の主人公浅見光彦は西ヶ原出身の設定で、家柄がよく、相応の教養や見識を身につけていることなどは、このあたりの地柄を物語るものかもしれません。(内田康夫氏自身が西ヶ原出身らしい。)

坂を下りきり、右手に回り込むと参道入口です。
入口回りは車通りも少なく、相応の広さを保って名刹の風格を感じます。
ここで心を落ち着けてから参詣に向かうべき雰囲気があります。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 ことぶき地蔵尊
【写真 下(右)】 山門

参道まわりに札所碑、地蔵立像、ことぶき地蔵尊など、はやくも見どころがつづきます。
そのおくに山門。
この山門は「大門」と呼ばれ、棟木墨書から伏見の柿浜御門が移築されたものとみられます。本瓦葺でおそらく薬医門かと思います。


【写真 上(左)】 御府内霊場札所碑
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀札所碑


【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 秋の山内



【写真 上(左)】 秋の地蔵堂と参道
【写真 下(右)】 地蔵堂と鐘楼

さらに桟瓦葺の中門を回り込んで進む奥行きのある山内。
緑ゆたかな山内は手入れも行き届き、枯淡な風情を湛えています。
御府内霊場のなかでも屈指の雰囲気ある寺院かと思います。
左手に地蔵堂と鐘楼を見て、さらに進みます。


【写真 上(左)】 見事な紅葉
【写真 上(左)】 冬の山内


【写真 上(左)】 早春の本堂
【写真 下(右)】 秋の本堂


【写真 上(左)】 右斜め前から本堂
【写真 下(右)】 向拝

正面に本堂、向かって右手に大師堂、左手に進むと庫裡があります。
本堂前では数匹のおネコちゃんがくつろいでいます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 まどろむネコ

本堂は、寄棟造平入りで起り屋根の向拝を付設。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
扁額は「無量寺」。格天井。向拝屋根には「佛寶山」の山号を置く鬼板と兎毛通。
落ち着いた庭園に見合う、風雅な仏堂です。

『江戸名所図会』には、「(本堂の)『南無阿彌陀佛』の額ハ幡随意院磧了和尚の筆なり」とあります。
幡随意院磧了和尚はおそらく幡随院(神田駿河台、現・小金井市)開山の高僧と思われます。
幡随意上人(1542-1615年)は京都百万遍知恩寺の33世住持で、徳川家康公の帰依を得て神田駿河台に新知恩寺(のちの幡随院)を開創されました。
浄土宗本流の幡随意上人揮毫の扁額が、新義真言宗の当山にある理由は不明です。

幡随意上人は鎌倉の光明寺で浄土教学を修められたとされ、光明寺のそばには真言僧・願行上人に関係する安養院があるので、なにかの機会に真言宗と関係をもたれたのかもしれません。(これはさすがに牽強附会か?)

強引に安養院まで辿らなくとも、弘法大師 相模二十一ヶ所霊場(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場」様))の札所には光明寺の子院・蓮乗院(第11番)が名を連ねているので、光明寺と真言宗はなんらかの関連があったのかもしれません。

→ 関連記事(■ 鎌倉市の御朱印-7 (24.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院)

本堂には御本尊の不動明王像と阿弥陀如来坐像が御座します。

御本尊の不動明王像は「当寺に忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから『足止め不動』として信仰されるようになった」という逸話が伝わります。
また、『江戸名所図会』には、不動尊は弘法大師の御作とあります。

阿弥陀如来像は、江戸時代に江戸六阿弥陀詣(豊島西福寺・沼田延命院(現・足立区恵明寺)・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷広小路常楽院(現・調布市)・亀戸常光寺)の第三番目として広く信仰を集めた阿弥陀様です。
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印

以前は阿弥陀堂に御座とみられ、『江戸名所図会』には「阿弥陀堂 本堂の右にあり 本尊ハ行基菩薩の作 録阿弥陀第三番目なり」とあります。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 上(左)】 大師堂の堂号板

本堂向かって右手の大師堂は宝形造桟瓦葺で向拝を付設し、向拝柱に「大師堂」の板標。
大師堂には恵心作と伝わる聖観世音菩薩像が安置され、「雷除けの本尊」として知られています。
本堂のそばには上野王子駒込辺三十三観音霊場第3番の札所標。
札所本尊は聖観世音菩薩と伝わるのでこの「雷除けの本尊」が札所本尊なのかもしれません。

御朱印は本堂向かって左の庫裡で拝受できます。
原則として書置はないようで、ご住職ご不在時は郵送にてご対応いただけます。
なお、複数の霊場の御朱印を授与されておられるので、事前に参詣目的の霊場を申告した方がよろしいかと思います。

素晴らしい風情をもつお寺さまですが、山内の環境保全のため団体での入山は禁止されています。


〔 御府内霊場の御朱印 〕


【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に不動明王の種子のお種子「カン/カーン」「不動明王」「弘法大師」の揮毫と「カン/カーン」の御寶印(蓮華座)。
右に「第五十九番」の札所印。左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています

 
【写真 上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 江戸六阿弥陀如来の御朱印


■ 滝野川寺院めぐりの御朱印


■ 第60番 摩尼山 隆全寺 吉祥院
(きっしょういん)
台東区元浅草2-1-14
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第60番、弘法大師二十一ヶ寺第11番

第60番は元浅草の吉祥院です。

第60番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに吉祥院で、第60番札所は開創当初から元浅草(浅草新寺町)の吉祥院であったとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

吉祥院の創建年代は不詳ですが開山宥教法印は万治三年(1660年)寂なので、それ以前の創建とみられます。
慶長十六年(1611年)に中野寺町に寺地を拝領、寛永二十一年(1644年)当地・浅草新寺町へ移転と伝わります。

御本尊は阿弥陀如来木立像。両脇に弘法大師、輿教大師を奉安。
護摩堂には聖天尊、不動尊、薬師佛、稲荷神を奉安と伝わります。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊:阿弥陀如来 観世音菩薩 弘法大師」とあるので、観音様も奉安していたとみられます。

山内には秀明院、長寿院の二軒の塔頭を擁したといいます。

当山は史料が少なく、これ以上は辿れませんでした。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十番
浅草新寺町
摩尼山 降全寺 吉祥院
大塚護持院末 新義
本尊:阿弥陀如来 観世音菩薩 弘法大師

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.56』
浅草新寺町
江戸大塚護持院末 
摩尼山隆全寺吉祥院
拙寺起立之年代旧記に無く候得共 往古慶長十六年(1611年) 中野寺町地拝領仕●在候所 御用地二付所替被● 寛永二十一年(1644年)中当処●引移候由申伝候
開山 宥教法印 万治三年(1660年)寂
本堂
 本尊 阿弥陀如来木立像 両脇弘法大師 輿教大師
護摩堂
 聖天尊 不動尊 薬師佛 稲荷
地中二軒
 秀明院
 長寿院 右往古寛永二十一年(1644年)中当所●引移り候迄二ヶ院有之候処 長寿院儀は 地狭二付外●借地仕引越申候由申伝 秀明院儀●残り有之候処 其後年代不知退転仕候由申伝



「吉祥院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
元浅草~寿とつづく、御府内霊場札所密集エリアにあります。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から左右衛門橋通りを南に入り少し行った右手(西側)です。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 院号標

市街地のなかにかなり広い山内を構えています。
山内入口手前に御府内霊場札所標。門柱に院号標。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 山内

緑ゆたかな境内は、よく手入れされてきもちがいいです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

参道正面に宝形造ないし寄棟造桟瓦葺の本堂。
流れ向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股。
向拝左右の花頭窓が意匠的に効いています。
向拝上部に掲げられた扁額は達筆すぎて筆者には解読できません。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 扁額

『ルートガイド』によると、参道右手には御嶽山中興の祖・普寛行者の「贈大教普寛霊尊供養塔」(山岡鉄太郎(鉄舟)揮毫)があるそうですが、筆者はうかつにも撮りわすれました。

史料類からはうかがい知れませんが、御嶽修験となんらかの繋がりがあったのかもしれません。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に阿弥陀如来のお種子「キリーク」の揮毫と「本尊 阿弥陀如来」の印判。
右に「御府内八十八ヶ所第六十番」の札所印。
左に院号印と寺院印が捺されています。

紙面には御寶印も三寶印もありませんが、お種子「キリーク」の揮毫で御朱印となっています。

なお、平成27年に拝受した御朱印(御朱印帳揮毫)の尊格は「本尊 阿弥陀如来」の揮毫と「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)から構成されています。
Web検索すると、平成31年頃までは両パターンの御朱印がみつかりますが、令和に入ってからはお種子揮毫のパターンに統一されている模様です。


■ 第61番 望月山 般若寺 正福院
(しょうふくいん)
公式Web

台東区元浅草4-7-21
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第61番、弘法大師二十一ヶ寺第14番

第61番は元浅草の正福院です。

第61番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに正福院で、第61番札所は開創当初から浅草新寺町(元浅草)の正福院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正福院は慶長十六年(1611年)に、浜町橘町(現・中央区日本橋浜町)あたりで開創されたといいます。(草創の地は中野寺町とも。)

正保元年(1645年)、3代将軍徳川家光公の治世に、大塚の護持院の末寺として当地を拝領して移転しています。
開山は僧・源秀。
開基は橘町三丁目の名主を勤めた望月貞久ないしその子孫(廣壽院其融到行居士)で、その功績を称えて山号を「望月山(ぼうげつざん)」と号しました。

御本尊は金剛界大日如来。
本堂には弘法大師・興教大師両木座像も奉安し、御府内霊場としての体裁を整えていました。
山内に御座の六地蔵木立像は小野篁の御作、収蔵する両界曼荼羅は興教大師の御筆とも伝わります。

『御府内寺社備考』等によると享保三年(1718年)、開基ともされる望月貞久の子孫が夢中で洛東稲荷山(伏見稲荷)の稲荷大明神翁より「一顆の玉と弘法大師作の十一面観世音菩薩像を与えるにより此処に一社を建立すべし」とのお告げを受け、伏見稲荷を勧請して一社を建立しました。

伏見稲荷のお社は当院の柳の木の下に建立されたので、「柳の稲荷」と呼ばれて尊崇を集めました。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「浅草新寺町柳のいなり別当」とあり、当山が「柳の稲荷」の別当として捉えられていたことがわかります。

明治初頭の神仏分離を乗り越え御府内霊場札所を守りましたが、昭和20年の東京大空襲ですべての堂宇を焼失しました。

本堂は昭和28年に再建され、戦禍を遁れた御本尊の金剛界大日如来、弘法大師像、興教大師はいまも本堂内に御座されます。


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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十一番
浅草新寺町柳のいなり別当
望月山 般若寺 正福院
大塚護持院末 新義
本尊:金剛界大日如来 柳稲荷大明神 弘法大師

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.54』
浅草新寺町
江戸大塚護持院末
望月山正福院
慶長十六年(1611年)起立●申伝候 寛永(1624-1644年)之末●野寺町と申処二●在
其後正保元年(1645年)当所●拝領仕候
開山 源秀 寛永十四年(1637年)遷化
開基 廣壽院其融到行居士 元禄十三年(1700年)卒 俗姓望月貞久子孫今幾八郎と称シ、橘町三丁目名主役ヲ勤
本堂
 本尊 金剛界大日如来
 弘法大師木座像 興教大師木座像 六地蔵木立像(長三尺小野篁作) 不動尊木立像(長四寸五分生駒宝山作)両界曼荼羅(興教大師筆)

鎮守柳稲荷社
神体 長七寸五分弘法大師作 本地十一面観世音。
(縁起記載あり略)



「正福院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から一本東寄りの路地を南に入ってすぐ。

光明寺とは背中合わせで、江戸切絵図の配置と一致しています。
このあたりは元浅草~寿とつづく御府内霊場札所の集中エリアで、正福院の公式Webにあるとおり、メトロ銀座線「稲荷町」駅から「田原町」駅まで、一筆書きの順路で9箇所の札所を巡ることができます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 札所標

街路から若干引き込んで参道入口。
その門柱手前には御府内霊場の札所標。
門柱の院号札には「浅草區南松山町九番地」とあります。


【写真 上(左)】 門柱の院号標
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 観世音菩薩と地蔵尊
【写真 下(右)】 釈迦如来と地蔵尊

参道左手には白衣観世音菩薩と地蔵菩薩の立像で、いずれもおだやかな面立ち。
山内・墓域入口手前の壁際には東京大空襲の戦火により黒くすすけた釈迦如来立像と2体の地蔵尊が御座します。
古にはこのあたりに「柳稲荷」ゆかりの柳の木があったそうです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 札所板

参道正面の本堂は入母屋造桟瓦葺とみられ、おそらく妻入りです。
奥行きのある敷地形状のため、妻入り様式としたのでは。
妻入り特有の千鳥破風を2連構成しています。

公式Webによると、本堂御内陣には正面に御本尊の金剛界大日如来坐像。
向かって右に牀座に結跏趺坐され五鈷杵と数珠を握られる真如親王様の弘法大師像。
向かって左には興教大師像が安置されているようです。

御朱印は御府内霊場の札所板が掛かる、本堂向かって右手前の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊 大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内八十八ヶ所第六十一番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第62番 鶴亭山 隆全寺 威光院
(いこういん)
公式Web

台東区寿2-6-8
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第62番、弘法大師二十一ヶ寺第16番

第62番は寿の威光院です。

第62番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに威光院で、第62番札所は開創当初から浅草新堀端の威光院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

威光院は太田道灌公によって「江戸城鎮守の別当として創建」といいます。
『ルートガイド』ではこの江戸城鎮守を「平川天神」(現・平河天満宮)としています。

平河天満宮の公式Web・現地掲示によると、「平川天神」の創祀は以下のとおりです。
江戸平河城城主の太田道灌公が、ある日菅原道真公の夢を見ました。
その翌朝に菅原道真公自筆の画像を贈られたため、道灌公はこの夢を霊夢と感じ、文明十年(1478年)に城内の北に自ら施主となり江戸の守護神として天満宮を建立しました。(「梅花無尽蔵」による)

家康公の江戸城入城後、築城のため平川門外に奉遷、慶長十二年(1607年)2代将軍秀忠公により現在地(貝塚)に奉遷され、本社にちなみこの地を平河町と名付けられました。
平河天満宮は、徳川幕府をはじめ紀州、尾張両徳川家、井伊家等の祈願所となり、新年の賀礼には宮司は将軍に単独拝謁できる高い格式を有していました。


【写真 上(左)】 平河天満宮
【写真 下(右)】 平河天満宮の御朱印

威光院の公式Webには「平川天神」との所縁は記されておらず、平河天満宮の公式Webにも威光院との関係は記されていないので、『ルートガイド』が威光院を「平川天神」の別当とした根拠は不明です。
なお、『ルートガイド』には「(平川天神の)別当として鶴主計延豊が開基となって創建されたのが威光院」と明記されているので、これを記す寺伝等があるのかもしれません。

本堂御本尊は大日如来。護摩堂の不動明王は恵心僧都の作と伝わります。

その後櫻田村に移転、慶長六年(1600年)には八丁堀に遷り、文禄三年(1594年)ないし元和元年(1615年)辨清法印により現在地に移転再興(あるいは開山とも)といいます。

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【史料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
六十二番
浅くさ新堀端
鶴亭山 般若寺 威光院
愛宕圓福寺末 新義
本尊:大日如来 不動明王 弘法大師

『寺社書上 [75] 浅草寺社書上 甲二』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.107』
浅草新堀端
芝愛宕前(下)圓福寺末 新義真言宗
鶴亭山威光院
当寺起立之年代不詳
開山 法印辨清 元和五年(1619年)三月寂
中興 法印秀仙 安永七年(1778年)七月寂
本堂
 本尊 大日如来木佛坐像
護摩堂
 不動明王 二童子アリ 恵心僧都作 



「威光院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』地,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「田原町」駅で徒歩約3分。
都道463号浅草通り「菊屋橋」交差点から新堀通りを南下して少し行った左手です。

この「新堀通り」は江戸切絵図では川沿いの通りとして記され、「此川ヲ新堀ト云」とあります。
新堀沿いに描かれている宗圓寺、永見寺、威光院、常福寺はいずれも「新堀通り」沿いに現存しています。
元浅草~寿界隈は郊外へ移転した寺院が少なく、江戸切絵図に描かれた寺院がよく残っています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 壁面の院号標

コンクリ打放しの門塀、石敷き参道のおくにモダンな本堂は、美術感のようなイメージ。
外構も含めて2014年に一新された模様です。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂

調べてみると設計は現・京都大学名誉教授の建築家・竹山聖氏。
(→ 情報元・『お宮、お寺を散歩しよう』様(紋谷幹男氏)

門塀にはステンレス浮き文字で山号・院号標。
参道右手には大師講の巡拝祈念碑、六地蔵、修行大師像とならび、本堂前には御府内霊場札所標も建っています。


【写真 上(左)】 霊場巡拝碑
【写真 下(右)】 六地蔵


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 札所標

新旧がほどよく調和した素晴らしい空間ですが、筆者の拙い知識ではこれをうまく表現できません(笑)

紋谷幹男氏のキレ味鋭い解説(→ こちら)をご覧くださいませ。
紋谷幹男氏の「当代きっての腕の立つ建築家の、おそろしくエッジの効いたお寺」
この表現がぴったりの空間だと思います。

御府内霊場巡拝の旨お伝えすると、本堂内にお通しいただけました。

本堂内もコンクリ打ち放しで天井が赤く井桁に組まれた天吊りに天蓋が掛けられています。
(本堂内の様子は→ こちら

護摩壇の向こうに智拳印を結ばれる金剛界大日如来坐像。
堂内の音響がすこぶるよく、読経の声が響きわたります。

東京のお遍路である御府内霊場。
このような斬新な空間はならではのものかと思います。

御朱印は庫裡にて拝受しました。
公式Webには「御府内八十八ヶ所霊場とは弘法大師とゆかりがある寺院を巡る、四国八十八カ所の江戸版のようなモノで、 六十二番札所である当院ではお参りされた方に御朱印を承っております。※霊場専用の御朱印帳(納経帳)が御座いますので、出来ればそちらを推奨しております」とあります。

〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に金剛界大日如来ののお種子「バン」「大日如来」の揮毫と「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内六十二番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
※平成27年に拝受の御朱印の主印は御寶印(羯磨金剛(かつまこんごう))で、「太田道灌開創立寺」の印判があります。

以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-21


■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 瞳がほほえむから - 今井美樹


■ ebb and flow - LaLa(歌ってみた)


■ ヒカリヘ - miwa


■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲
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■ kalafinaの名LIVE

■ into the world


おそらく解散が決まってからのラストライブだと思う。
完璧な女神降臨状態。

FRONT BAND MEMBERSの演奏も、オーディエンスの振る舞いも文句のつけようなし。

メロディ、ハーモニー、リズム&アンサンブル。
そして、完璧なステージング。
音楽と真摯に向き合い、決して妥協しなかったプロのアーティストたち。

このハーモニーは、この3人が揃わなければ絶対に生み出せない。

公式Web?、まだ消えていないんだよね。
どうしても復活を期待してしまう。

→ ■ 伝説のユニットkalafina
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■ パープル・レイン ~ 1980年代洋楽の底力 ~ 

「DISOC TV 2024!年越しスペシャル!」録画したやつ視てたら、思うところがあったので、リンクつなぎなおしてリニューアルUPします。

■ DJ OSSHY 2021年ディスコの日 Special Mix


■ ABBA - Dancing Queen(1976年)

1970年代中盤にはこういうヒット曲があった。
洋楽どころか音楽になじみのうすい人にも、聴き流しさせない圧倒的なメロディ&アレンジ力。
こういう優れた曲たちが1980年代に向けてのレールを敷いた。

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2023/02/16 UP

このところ、仕事で車をつかうときにFMを流していることが多いのだが、
今日、J-WAVE で流れていたこの曲、圧倒的なインパクトがあった。

大袈裟かもしれないが、イントロが流れた瞬間、車内の空気もフロントを流れる首都高の景色も一変した。
これが音楽のもつ力だと思う。

■ Prince - Purple Rain (Official Video)

これは1984年のPrinceのヒット曲。
正直なところ、1984年のリアルタイムではPrinceの本当の凄さは理解していなかった。
39年後のいま、改めて聴き直し、あまりのクオリティに悶絶(笑)

1984年といえば ↓ こんなヒット曲も・・・。

■ Chaka Khan - I Feel For You


■ The Go-Go's - Head Over Heels


■ Madonna - Material Girl (Official Video) [HD]


■ Don Henley - The Boys of Summer (Official Music Video)


■ John Waite - Missing You


■ Pat Benatar - We Belong



個人的には洋楽が劇的に変化したのは1983年から1984年にかけてと思っていて、↑の曲と1983年の洋楽ヒット曲を聴き比べてみるとその質感の違いがよくわかる。
(リズムがグルーヴを喪失し、音の密度が濃くなっている。)

それでも1984年あたりでは、まだまだオリジナリティあふれる名曲が送り出されていた。

■ George Clinton - Atomic Dog(1983年)

↑ のちのHip hopに影響を与えたとされるP-Funk(Pファンク)も、1983年の段階ではまだFunk的なグルーヴを残していた。


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1970年代中盤から加速したポップミュージックのジャンル融合(クロスオーバー)は、曲調に洗練性とグルーヴをもたらし、個人的にはこの流れがピークを迎えたのが1983年だと思っている。
【 洋楽1983年ピーク説 】

具体的にはヴォーカル、コーラス、インストのアンサンブルと”音の隙間”のバランスがベストとなった時代。
これは、人間の耳にとって、ある意味もっとも心地よく響く音色だったのかもしれない。
(いま、再評価されているシティ・ポップがこの音色。)

● クロスオーバーの典型例-1
マイナー・メジャーの循環コード使用のヴォーカル・フュージョン 
■ Grover Washington Jr. - Just the Two of Us (feat. Bill Withers)(1981年)


● クロスオーバーの典型例-2
ユーロテイストのBCM(ブラック・コンテンポラリー
■ Change - The Very Best In You(1982年)


● クロスオーバーの典型例-3
カントリーのAOR化
■ Larry Lee - Don't Talk



クロスオーバーの限界が顕在化したのも1983年あたり。
もう、やるべきことはすべてやった感があった。

■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)


リンドラムなどのドラムマシンやシモンズなどの電子ドラムの一般化が、リズムセクションの音色を大きく変えたのもこのタイミング。

そしてこれらのリズムの音色は、これから市場を席巻することになるCDの音の質感にものの見事にはまっていた。

1980年代前半の時点で、洋楽の流れはふたつに分かれたのではないか。
ルート1.
ここまで積み上げてきたクロスオーバー(洗練化)の流れを、より突き詰めていこうとするもの。

ルート2.
いままでの蓄積を突き崩して、新しい音世界を拓こうとするもの。

この2つの流れが顕在化したのが1984年の洋楽シーンだったと思う。
だからこの年のヒット曲はすこぶるバラエティに富んでいた。

こういう混沌期にはメロディのはっきりした、インパクトのある曲が売れる傾向があると思うが、この年のヒット曲はどれもメロディがはっきりしている。

そのわかりやすい旋律を歌うヴォーカルとシンセビートが前面に出て、アンサンプルやカウンターメロディを重視していた1980年代前半の曲たちとは、あきらかに曲のつくりが違っていた。

■ BERLIN - No More Words(1984年のヒット曲)


いま振り返ると、その後の洋楽のメインストリームはルート2.が制した。


■ Dead Or Alive - You Spin Me Round (Like a Record) (Official Video)(1984年)

決定的だったと思われるヒット曲。(1984年11月5日リリース)
プロデュース= SAW(Stock Aitken Waterman)。
ビートとメロ、そしてサウンド・プロダクションがいまのPop-Musicのメインストリームに通じている。


ルート1.は1990年代前半くらいまではBCMの世界で収斂し、Quiet Storm、あるいはWhitney HoustonやNatalie Coleに代表されるレディ・ソウルの成功を生むが、のちに定型・陳腐化してその魅力を失う。

とくにWhitney Houstonの成功は本人の才能もさることながら、かつてのメインストームから流れ込んだ、コンポーザー、アレンジャー、スタジオ・ミュージシャンたちの貢献も大きいと思う。

■ Whitney Houston - Didn't We Almost Have It All(1987年)

Written-By Michael Masser, Will Jennings
Producer Michael Masser
Arranged By Robbie Buchanan
Robbie Buchanan(key)、Nathan East(b)、John Robinson(ds)

■ Atlantic Starr - Secret Lovers(1985年)※ Quiet Stormの代表曲。


ルート1.はSmooth jazzの流れも生んで、一定のファンは獲得したもののシーンを席巻するほどの動きには至っていない。

■ The Rippingtons - True Companion(1994年)※ Smooth jazz曲の一例。


ルート1.の流れでもっともディールを得たのはEnyaに代表されるヒーリング・ミュージックのような気がするが、これはクロスオーバーからヒーリング成分を純化していったような音楽なので、単純にルート1.の流れとはいえないと思う。

■ Enya - Caribbean Blue(1991年)



一方、Hip hop、New jack swingやDrum'n'Bassなどはルート2.の流れで、以降ブラックミュージックのジャンルにとどまらず、ポップミュージックのメインストリームとなった。

なので、今のポップミュージックシーンを形作った分岐点はやはり1984年だったと思っている。

■【Drum'n'Bass】

32ビートの代表例。
日本のRap系でサンプリングが使い始められたのは1980年代後半で、1990年の普及期を経て、2000年代にはおそらく(少なくとも若い世代には)抵抗なく受け入れられる素地はできていたと思う。
とくに2000年代に入ってからのゲーム曲やボカロ曲には32ビート系の曲がふつうにあるから、この世代は32ビートにまったく抵抗がないと思う。


「洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)」のまとめ記事はこれまで下記の5年分をつくっています。
1979年版
1980年版
1981年版
1982年版
1983年版

1983年版で止めようと思っていましたが、↑の理由により、1984年版もつくることにしました。
この記事に追加するかたちで随時UPしていきます。


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【 1983年を代表する名曲 】
■ 君の瞳に恋してる(Can't Take My Eyes Off You) - Boys Town Gang

リリースは1982年後半だが、日本での大ブレークは1983年初頭にかけて。
ある意味1983年の”洋楽”を象徴する曲だと思う。

信じられんほどポジティブな歌詞(笑)。そして流麗なストリングス。
コメントの多さが、この曲の根強い人気を物語っている。

■ Boys Town Gang - Can't Take My Eyes Off You (Extended Version)

レーベルはHi-NRG(ハイエナジー)の定番、MOBY DICK。
流麗なストリングスが、さらに堪能できます。
9分以上聴いても全然飽きない。
さすがに名曲、名アレンジ。
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■「熱唱!ミリオンシンガー」

録画してたやつ、少し視始めたらそのまま引きずり込まれて三度視です(笑)
やっぱり凄いわこの人たち・・・
さらにWebから探してきたやつをリンクしてみます。

どうしてこういう優れた才能たちをメジャー・プロモートしないんだろう。

■ Don't wanna cry / 安室奈美恵 Covered by 大村唯維

深みと倍音と声の伸び。そしてリズムキープが抜群に巧い。

■ 宇多田ヒカル x 爆笑偽 x「Can You Keep A Secret?」x 小室あいかxミラクルひかる

出場は小室あいかさん。
張りと力感のあるハイトーン。
ちとブレスが目立つが、これを個性として昇華できればかなりのシンガーになるのでは。

■ あー夏休み / TUBE Covered by 森本隆司
@michan_ht #森本隆司 @top2378 #TUBE #あー夏休み #熱唱ミリオンシンガー ♬ オリジナル楽曲 - みっちゃん

オリジナルよりも声質がお洒落でクリア。
1980年代初頭のブライトな空気感をもつ稀少なシンガーでは?

■ ワインレッドの心 / 安全地帯 Covered by 赤澤駿一郎

声にただならぬ色気あり。
こういう才能はレッスンで掴めるものではないと思う。

■ Will / 中島美嘉 Covered by あゆみん
@runa.so #ミリオンシンガー #中島美嘉#WILL#あゆみん #ライバー ♬ オリジナル楽曲 - るな

あでやかに花開いていく感じの抜群のオリジナリティ。
他の曲も聴いてみたくなるクセになる声質。

■ カムフラージュ / 竹内 まりや Covered by 舞乃空(まのあ)

たしか、以前に紹介したことあると思う。
一聴では際立つ個性は感じられないけど、聴き進むほどに惹き込まれる不思議なボーカル。
丁寧な歌唱で、歌詞が心地よく入ってくる。

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気になったので、「カラバト黄金の世代」のテイクと聴き比べてみました。

■ 流星群 / 鬼束ちひろ Covered by 富金原佑菜


■ 君がいたから / Crystal Kay Covered by 佐久間彩加


■ CAN YOU CELEBRATE? / 安室奈美恵 Covered by 熊田このは


■ 蕾 / コブクロ Covered by 堀優衣&小豆澤英輝


やっぱり誰もが逸品。そしてあふれ出るオリジナリティ。
曲そのもののよさを引き出す歌唱という点ではミリオンシンガーたちと共通項がある。
■ カラバト黄金の世代の名テイク ~ 日本の歌姫たち ~

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2023/12/31 UP

レコード大賞で案の定思いっきり脱力したけど(笑)、対照的に裏番組の「熱唱!ミリオンシンガー」が凄かった。
以前から、この番組の出場者さんのレベル突出して高いと思っていたけど、今回は抽出版なのでよけいに凄かった。
信じられないことに、50位以内で歌唱力に?がつく歌い手さんはほぼ1人もいなかった。

歌番組としては衝撃的なレベルの高さでは。
あまりのレベルの高さに思わず二度視した。

出場者さんそれぞれ、オリジナルのアーティストや楽曲へのリスペクトがばりばりに感じられて聴いててきもちよかった。
紅白の裏番組で、これの第2弾あったら絶対こっち視ると思う。

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■ SAY YES / CHAGE and ASKA Covered by KINZとK-ing

とくにASKAのそっくりぶりには唖然。
声質がいいのでオリジナルの歌声も高レベルでは?

■ 乾杯 / 長渕剛 -  Covered by 宮本優哉

渾身の一曲。
このハンパない声の響きは、たぶん倍音もってると思う。

■ YES MY LOVE / 矢沢永吉 Covered by 永真(TOMA)

19歳でこの余裕感。
歌い進むに従って場の雰囲気をつかんでよくなっていく。
この時代、こういう真っ向勝負のシンガーが一人くらい売れてもバチは当たらないと思う。

■ 恋しさと せつなさと 心強さと / 篠原涼子 with t.komuro Covered by 小川美佳 

声質抜群。繊細なビブラートをもっているので華原朋美の曲もばっちりだと思う。

■ 負けないで / ZARD Covered by 柴山サリー

こういうせつなさを帯びた声質を出せるシンガーはほとんどいない。
ほんとうにいい声してると思う。
森高千里 の「渡良瀬橋」も好テイクだった。

■ やさしいキスをして / DREAMS COME TRUE Covered by ななみなな

吉田美和よりは声は細いけど、オリジナルなテクがあって聴き応えあり。
こんな逸材がブレークできないとは・・・。

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■ 遥海 -『Pride』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)

この人の歌力、筆者はJ-POP史上屈指だと思ってるけど、それでもメジャー・ヒットに結びつけられていない。

この記事で、
(いまの時代)アーティストの力量そのものが劣化しているワケではなく、メジャーにプロモートされるテイクのレベル(=プロデューサーやプロモーターの能力)が低下しているのでは?
よい音楽を見抜く(育てる)力量がないから、うわべの話題性やトレンドだけで勝負しようとする・・・。

と書いたけど、ふたつの番組視くらべて改めてそう思った。
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■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)

20240103 UP(2023/06/16・2023/09/30 UP)

年明け早々から信じがたい災害・事故がつづいています。
お亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

御朱印を追加しました。

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2023/01/05 UP
今年も正月は川越詣ででした。
川越城本丸御殿周辺が整備されて見どころが増えています

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2022/05/03・2022/08/16 UP

本日、川越に行ってきました。
新型コロナ禍前でもめずらしいほどの、すさまじい人出でした。(2022/05/03)


【写真 上(左)】 大混雑の時の鐘前
【写真 下(右)】 無人の時の鐘前(2020年のGW)

御朱印と画像をいくつか追加しました。

■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)
■ 埼玉県川越市の近接市町の御朱印

埼玉県所沢市の札所と御朱印もつくりました。

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(2022/02/10、2022/08/16)
(2021/07/13)
(2021/04/16)
(2021/03/13)
(2021/01/01)
(2020/02/01)
御朱印を更に追加しました。
(2019/08/15)
全面リニューアルしました。
(2019/02/25)
(2018/10/06)
御朱印を更に追加しました。

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川越の御朱印はほぼほぼ拝受した気がするので(一部七福神除く)画像を交えてUPしてみます。川越は神社御朱印も多いので、こちらも併せてご紹介します。





【エリア概要】
江戸期、川越藩の城下町として繁栄した川越は戦災や震災を免れたため、多くの歴史的建造物が残る観光都市。
周辺はさつまいもの名産地で芋系グルメや鰻の名店も人気が高い。
メトロ副都心線の東急線乗り入れで城西方面や神奈川からのアクセスがよくなったこともあり、このところ観光客がさらに増えている模様。
市内各所で和風情緒を堪能できることからインバウンド客の人気も上がっている感じも・・・。


城下町だけに多くの寺社が点在し、歴代、老中格の親藩・譜代が城主を勤め「小江戸」と称されたこともあってか格式の高い寺院が目立つ。宗派は天台宗と浄土宗が多い。

パワースポットとして人気の高い川越氷川神社、川越八幡宮や天台宗の名刹喜多院など、オリジナル御朱印帳を頒布するメジャー寺社があり、御朱印デビューする観光客も多そう。

このあたりは鎌倉に似ているが、鎌倉ほどに御朱印授与に積極的な寺院は多くない印象。
目立つ寺院が非授与で、目立たない寺院が授与されたりするので結構マニアックなエリアでは?

それでも小江戸川越七福神が設定され、通年揮毫対応される寺院も多いので、かなりの御朱印を集めることができる。

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川越市の市域はけっこう広く、徒歩や周遊バスで回れる中心エリアと、車がないとアクセスがやっかいな周辺エリアでアプローチがことなるので、2エリアにわけてのご紹介です。

【中心エリア】
北は新河岸川南岸から南は国道16号まで、西は東武東上線から東は国道254線までのエリアで時間をかければ徒歩でも回れるし、周遊バスも多く運行されているので移動しやすい。

北部のメインスポットはなんといっても川越氷川神社
縁結びの神様で、女子ごのみのイベントが催され神社カフェもあるなど、いつも若い女性やカップルなどで賑わっている。
ここで御朱印デビューする女子はかなり多いとみられる。
こちらは童謡「通りゃんせ」の舞台として知られる三芳野神社の御朱印も授与されている。
(2020年秋現在の授与は不明)

北部には授与寺がいくつかあるが、メジャー霊場の札所はなく、拝受できるタイミングも難しい感じがある。
蔵造りの家並みの西側、喜多町、元町2、末広町2、連雀町にかけては市内屈指の寺町で風格ある大寺も多いが、見立寺、蓮馨寺など小江戸川越七福神の札所をのぞいて多くが非授与の模様。

そのさらに西の末広町1、六軒町、三光町には日蓮宗寺院が点在し、御首題を授与される寺院がいくつかある。
小江戸川越七福神のひとつ(弁財天)妙昌寺では書置タイプの御首題が授与されているので、御首題デビューにはいいかも。

市内観光のハイライト、喜多院のそばには成田山川越別院本行院もあって、寺院御朱印拝受のメインエリアとなっている。この2寺は札所でもあるので札所御朱印拝領の楽しみも。
また、日枝神社や東照宮など、川越を代表する神社もこのエリアに鎮座する。

川越駅近くになると、熊野神社や川越八幡宮。喜多院そばにある川越東照宮の御朱印は川越八幡宮で拝受できる。

南部では小江戸川越七福神がメインだが武蔵国十三佛の札所も入ってきて、周辺エリアの色合いも強くなる。

【周辺エリア】
工場の多い北部をのぞき、西部の笠幡・霞ヶ関、東部の伊佐沼周辺、南部の今福エリアなどに札所が点在しているが、上記のとおり公共交通機関でのアクセスはいずれも不便。
立地からしても川越観光の観光客よりも、札所巡りの参拝客がメインとなっている模様。

【川越市と札所】
なんといっても小江戸川越七福神がメジャー。多彩な宗派が参画しバラエティ豊かな陣容となっている。
小江戸川越七福神の札所の多くでは御本尊や別尊の御朱印も授与されているので、拝受数を稼ぐにはここの参拝が有効。

川越市内に札所が集中する霊場はなく、関東三十六不動尊、関東百八地蔵尊、関東九十一薬師、武蔵国十三佛など尊格系霊場の札所が点在するのみ。
武蔵国十三佛はあまり知られていないが、各札所の御朱印対応がしっかりしていて希少な尊格の御朱印を確実に拝受できるので注目かも。(ただし、本来は追善供養に関わる霊場なので、それなりの心構えはいるかもしれません。)

※先日、「平成 小江戸川越 古寺巡礼」という73箇寺からなるお寺めぐりコースを知りました。(→情報
これは2006年に刊行された同名の本(限定発売)にちなむもので、霊場とは言えないかもしれませんが、川越仏教会が関係し、一部のお寺では札所印つきの御朱印も授与されていたようです。

※先日、あるお寺さんでこの本をゲットしました。最後の1冊とのことで、現況、入手はむずかしいかもしれません。

コースに入っている檀家寺系のいくつかのお寺で授与を断られているので、現況では御朱印拝受はかなりむずかしい感じがあります。
それでも今回、いくつかの参画寺院で拝受しているのでご紹介します。(ただし、これらの寺院は御朱印授与を想定されていない感じもあり、タイミングもむずかしいかと思います。)

川越市内の代表的な寺院はほとんど名を連ね、廃寺や無住もほとんどないようなので、正式に霊場として開創すれば巡礼する人はかなりいるのでは。
ただし、真宗、日蓮正宗など、通常は御朱印を授与されない宗派も複数含まれているので、全寺御朱印拝受はむずかしいかと思います。

【拝受データ】 (おおむね北部から。現時点で授与休廃止の可能性あり、形態(直書・書置など)は状況により変化する可能性大です。)
※ このところWeb上で拝受可の情報がある非札所系のお寺で、非授与となっているケースが増えているようです。(とくにメジャーな寺社のそばの寺院)
ご住職や大黒さんなどのお話から察するに、拝受希望者が増えて対応しきれなくなったこと、あるいは、礼を失する不届き者の存在などもあるような感じがします。
なので、札所でない寺院については、寺院名を伏せることにします。
(著名な大寺やWebなどで積極的にPRされている寺院は掲載しました。)

[中心エリア]

■ (小久保)神明神社 

川越市神明町204 ※新河岸川北岸ですが、中心部から歩けるのでこちらでご紹介
御祭神:天照大神、豊受姫命
旧社格:
元別当:良學院(教学院)
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:小久保 神明神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・修験との所縁がふかい神明社。

■ 稲荷山 称名院 東明寺

川越市志多町13-1
時宗 御本尊:虚空蔵菩薩
札所:小江戸川越古寺巡礼第31番
朱印尊格:虚空蔵菩薩(虚空蔵)
札番:なし
直書(筆書)
・鎌倉時代中期に各地を行脚され、時宗の宗祖となられた一遍上人の開山とされる市北部の名刹で、本山清浄光寺(遊行寺)の直末。御本尊・虚空蔵菩薩はは慈覚大師円仁の作と伝わる。
・天文十五年(1546年)、北条氏康が上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍を寡兵をもって打ち破った河越夜戦(東明寺口合戦/日本三大夜戦の一つ)の戦場跡とされる。
・御朱印尊格は時宗ではめずらしい虚空蔵菩薩。タイミングが合えば拝受できる。

■ 川越氷川神社



川越市宮下町2-11-3
御祭神:素盞嗚尊、脚摩乳命、手摩乳命、奇稲田姫命、大己貴命
川越の総鎮守、別表神社
授与所:境内授与所 / 御朱印帳あり
朱印揮毫:氷川神社 直書(筆書)
・創建はじつに欽明天皇二年(541年)とされる古社。室町期の長禄元年(1457年)、太田道真・道灌父子による川越城築城以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬された。(社伝)
・「縁むすびの神様」として知られ、境内は女子やカップルでつねに賑わっている。とくに夏場に開催される「縁むすび風鈴」は抜群の人気を誇り、近年は限定御朱印も授与されている模様。


  
【写真 上(左)】 川越氷川祭の御朱印
【写真 下(右)】 縁むすび風鈴の御朱印

■ 八坂神社

川越市宮下町2-11-3
御祭神:素盞嗚尊・奇稲田姫命
川越氷川神社境内社(摂社)
授与所:川越氷川神社授与所
朱印揮毫:八坂神社 直書(筆書)
・川越氷川神社には多くの摂社・末社が鎮座するが、御朱印を授与されているのは当社のみとみられる。川越の夏の風物詩、きゅうりをお供えする八坂祭の祭礼社。

■ 三芳野神社


【写真 上(左)】 川越氷川神社社務所授与の御朱印
【写真 下(右)】 三芳野神社社務所授与の御朱印

川越市郭町2-25-11
御祭神:素戔嗚尊、奇稲田姫命 / 相殿配祀:菅原道真公、誉田別命
旧社格:県社
授与所::境内社務所(ご不在時等、従来どおり川越氷川神社の授与となるかもしれません。)
朱印揮毫:三芳野神社 直書(筆書)
・川越城本丸御殿の東側に鎮座。大同年間(806~810年)に大宮氷川神社を勧請して創建、後に北野天神社から天神様が勧請されて「お城の天神さま」として親しまれたという。
・童唄「通りゃんせ」発祥の地とされるが、これについては川越城の曲輪の変遷も絡んで多くの説があり、面白そうなので別にまとめます。

■ (富士見櫓跡)御嶽神社

埼玉県川越市郭町2-15
朱印揮毫:御嶽神社 (筆書)
・天守閣のなかった川越城には、東北に二重の虎櫓、本丸北に菱櫓、西南隅に富士見櫓が、合戦の際の物見や防戦の足場として設けられ、なかでも富士見櫓はもっとも高いところにあったとされている。
現在、櫓は取り壊され、跡地に御嶽神社、浅間神社、冨士見稲荷大神が祀られている。
位置などはこちら → 川越の観光と地域情報Web「カワゴエール」

※こちらについては情報が少ないのですが、公式facebookによると、祭祀者は神道大教 木曽御嶽川越大教会で、冨士浅間神社は「富士山本宮講社の川越分社として設立」されたようです。
なお、神道大教は教派神道、神道十三派のひとつで、本局は港区西麻布にあります。

現況、不定期ながら「御嶽神社」と「冨士浅間神社」の御朱印を授与されているようです。
授与日については、公式facebookで告知されている模様です。

■ (富士見櫓跡)冨士浅間神社

埼玉県川越市郭町2-15
朱印揮毫:冨士浅間神社 (筆書)
上記のとおり、冨士浅間神社の御朱印授与も始められました。
ただし、常駐ではないので、上記facebookなどでの確認がベターかと思います。
川越には富士見町に(小)仙波浅間神社があり、毎年7月13日の「初山」では、子どものおでこに御朱印が捺されますが、紙にて授与される御朱印はないようです。
なので、こちらでいただけるようになった「冨士浅間神社」は貴重な御朱印かと思います。

■ 浮島稲荷神社

埼玉県川越市久保町17-626
御祭神:倉稲魂命
授与所:境内ないし熊野神社(連雀町)
朱印揮毫:浮島稲荷神社 印刷?
・太田道灌が川越城築城の際、地域守護のためにこの地に祀ったといいます。
・安産・子育ての神様として知られ、地元では「うきしまさま」と尊称されます。
・最近、御朱印授与が開始され、第1・第3日曜は境内で授与されます。(お納め300円)
・それ以外の日は熊野神社(連雀町)で授与されます。(お納め500円)

■ 来迎山 紫雲院 大蓮寺

川越市元町2-8-25
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来 
札所:小江戸川越古寺巡礼第24番


朱印尊格:阿弥陀如来
主印:種子「カ」・地蔵菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:阿弥陀如来・和顔地蔵尊
主印:種子「キリーク」・阿弥陀如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)

・永禄十年(1567年)、鎮蓮社感譽上人願故存貞大和尚(北条氏康公次男)の開山、河越城城将大導寺駿河守政繁の母寳池院(蓮馨尼)の開基とされる浄土宗の古刹。

■ 長久山 本應寺


 
川越市石原町1-4-9
日蓮宗
札所:小江戸川越古寺巡礼第24番
朱印尊格:御首題 / 御朱印「妙法」
札所印:なし
直書(筆書)
・寛永三年(1626年)谷中感應寺の日長上人を招請して開山と伝わる日蓮宗寺院。旧本山は身延山久遠寺。

■ 六塚稲荷神社


川越市元町2-8-12
御祭神:豊受姫命(荼枳尼天像)
元別当:高澤山 妙智院 観音寺(石原町、天台宗)
授与所:川越氷川神社授与所
朱印揮毫:六塚稲荷神社 書置(筆書)
・菓子屋横丁のそば、新河岸川にかかる高沢橋のたもとに御鎮座の稲荷神社。
・川越城主太田道真(太田道灌の父)が川越開拓の際に切り崩した六つの塚に稲荷社を祀ったのが創祀と伝わる。
・本殿は銅板葺一間社流造で三手先の腰組や華麗な彫刻を備え、市指定文化財に指定。
・身舎背面には亀を助ける浦島太郎、手挟には波間に泳ぐ亀の彫刻。
・境内社の琴平神社・三峰神社・八幡神社の三社は、大蓮寺内から明治の神仏分離により当社へ合祀と伝わる。
・御朱印は新たに川越氷川神社にて授与を開始しています。川越氷川神社で他の兼務社の御朱印授与についてお伺いしましたが、三芳野神社と六塚稲荷神社のみとのことでした。

■ 高澤山 妙智院 観音寺

川越市石原町1-18-1
天台宗 御本尊:聖観世音菩薩
札所:小江戸川越古寺巡礼第5番
朱印尊格:正観世音菩薩(正観世音)
主印:種子「サ」・聖観世音菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)
・大同二年(807年)、弘法大師がこの地にとどまられ開創、御本尊の聖観世音菩薩は弘法大師の一刀三礼親作の霊佛と伝わる。「ささら獅子舞」で知られる。

■ 寿昌山 了心院 見立寺

川越市元町2-9-11
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来 
札所:小江戸川越七福神 (布袋尊)、小江戸川越古寺巡礼第8番
・永禄元年(1558年)、河越城城将大導寺駿河守政繁が建立して建立寺と命名。一族中の存貞和尚(かんよぞんてい、増上寺の第10代法主)を小田原伝肇寺より招請して開山し、のちに見立寺と改めた。

朱印尊格:無量寿 (阿弥陀佛)
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)

朱印尊格:布袋尊
主印:三寶印
札所印:小江戸川越七福神
書置(筆書)

■ 蓮信山 妙養寺

川越市末広町1-4-5
日蓮宗
札所:小江戸川越古寺巡礼第44番
朱印尊格:御首題
札所印:なし
郵送(筆書)
・文永年間(1264~1274年)、宗祖日蓮大聖人が比叡山同学の仙波尊海僧正に再会するためこの地を訪れた際、宿を提供した蓮信・妙養に法名を授けて建てた持仏堂が起源で、天文七年(1538年)日在上人が持仏堂を再興し蓮信山妙養寺と号したという。旧本山は身延山久遠寺。

■ 法眞山 妙昌寺

川越市三光町29
日蓮宗
札所:小江戸川越七福神 (弁財天)、小江戸川越古寺巡礼第42番
・大本山池上本門寺の末寺で、永和元年(1375年)、池上本門寺第四世日山聖人により現在の幸町に開創、開山は法眞院日意上人。寛保元年(1741年)、松平伊豆守信綱による川越城改修の際に当地・三光町に移転したという。土用丑の日の「ほうろく灸」で有名。
 
朱印尊格:御首題
札所印:なし
書置(筆書)


朱印尊格:御朱印(妙法)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:弁財天
札所印:小江戸川越七福神
書置(筆書)

■ 清谷山 十念寺

川越市末広町3-11-1
時宗 御本尊:阿弥陀三尊
札所:小江戸川越古寺巡礼第17番
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)
・川越時宗四箇寺のひとつ。開基は室町中期とみられる古刹で元和元年(1616年)に代官町(現・喜多町)より移転。藤沢清浄光寺(遊行寺)末。

■ 孤峰山 宝池院 蓮馨寺

川越市蓮雀町7-1
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来 
札所:小江戸川越七福神 (福禄壽)、関東十八檀林、小江戸川越古寺巡礼第47番
・天文十八年(1549年)、北条氏康の家老で河越城主の大道寺駿河守政繁の母堂、蓮馨大姉が甥にあたる感誉存貞(かんよぞんてい、増上寺第十世)を招いて開山。当山の存応上人は、増上寺第十二世となり、徳川家康と代々将軍家が檀家となるなど川越を代表する名刹。
・呑龍上人は、当寺住職の存応上人の直弟子で、各地で卓抜した威神力を発揮された生き仏様で、当寺の御朱印の尊格となっている。

朱印尊格:呑龍上人
主印:種子「キリーク」・阿弥陀如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:福禄壽
主印:三寶印
札所印:小江戸川越七福神
印刷

■ 珈琲稲荷神社



川越市仲町1-35
川越珈琲焙煎所に祀られている稲荷神社。原則金・土・日の営業で、御朱印授与もその曜日となります。
朱印揮毫:珈琲稲荷神社 印刷

■ かえる神社

川越市中原町1-5-1
「ナチュリーラ」というウォーキングシューズショップの店頭に鎮座する名物神社。書置が基本のようだが、タイミングがよければ御朱印帳揮毫も。
朱印揮毫:かえる神社 書置(筆書)

■ 熊野神社

川越市連雀町17-1
御祭神:熊野大神で伊弉諾尊、事解之男尊、速玉之男尊の御三神
旧社格:村社、旧松郷の氏神、神饌幣帛料供進神社
朱印揮毫:熊野神社 直書(筆書)
・天正十八年(1590年)、蓮馨寺第二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請し創祀と伝わる。
・観光動線にも当たり、境内は参詣客で賑わっている。御朱印にも注力の模様。

毎年12月3日は「川越熊野神社 酉の市」で、境内社の大鷲神社は参拝客で賑わいます。
大鷲神社の御朱印は不授与ですが、「川越 酉の市」の印判つきの御朱印が授与されます。


■ 厳島神社

川越市連雀町17-1
御祭神:市杵島姫命
熊野神社境内社
授与所:熊野神社授与所
朱印揮毫:厳島神社 直書(筆書)
・熊野神社の境内社で、「銭洗弁天」としても親しまれている。

■ 秋葉神社

川越市連雀町17-1
御祭神:火之迦具土命
熊野神社境内社
授与所:熊野神社授与所
朱印揮毫:秋葉神社 直書(筆書)
・熊野神社の境内社、令和3年11月修復修禅後、御朱印授与開始。川越城主秋元氏ゆかりのお社。

■ 成田山川越別院 本行院

川越市久保町9-2
真言宗智山派 御本尊:不動明王
札所:関東三十六不動尊霊場第27番、小江戸川越七福神(恵比須天)、小江戸川越古寺巡礼第39番
・江戸時代末に石川照温師によって開創。廃寺となっていた川越久保町の本行院を再興すべく川越城主松平大和守に願い出てその許可を得る。嘉永六年(1853年)、成田山貫首照輪上人が御本尊不動明王のご分霊を開眼し、照温師に授与せられこれが成田山川越別院の起源となる。(以上公式Webより)
・成田山らしい華やぎのある境内で、成田山別院で複数の札所を兼ねていることもあり、賑わいをみせている。

朱印尊格:不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+宝珠)
札所印:なし (非札所の御本尊の御朱印)
直書(筆書)


朱印尊格:不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+宝珠)
札所印:関東三十六不動尊霊場第27番
書置(筆書)/専用納経帳


朱印尊格:不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+宝珠)
札所印:関東三十六不動尊霊場第27番
直書(筆書)/御朱印帳揮毫


朱印尊格:恵比須天
主印:種子 (蓮華座+宝珠)
札所印:小江戸川越七福神
書置(印刷?)


※2020年1月頃から新たに「弘法大師」の御朱印(書置のみ)が授与されています。
ご縁日の21日、28日は特別な御朱印となります。

朱印尊格:弘法大師
主印:種子「ユ」・弘法大師・三鈷杵
「御影供 同行二人」の印刷
書置(筆書)
※21日のご縁日の御朱印


弘法大師空海(お大師さま)御生誕1250年記念御朱印(令和5年6月版)
朱印尊格:弘法大師
主印:種子「ユ」・弘法大師・三鈷杵
「お大師さまのお言葉」
書置(筆書)

※2020年6月1日から新たに「荼枳尼天尊」の御朱印(書置のみ)が授与されています。
境内社の出世稲荷大明神の御朱印とみられます。

朱印尊格:荼枳尼天尊
主印:お面
「川越稲荷」の揮毫
書置(筆書)

■ 星野山 無量寿寺 喜多院


川越市小仙波町1-20-1
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:関東三十六不動尊霊場第28番、小江戸川越七福神 (大黒天)、小江戸川越古寺巡礼第6番
・奈良時代、仙芳仙人が仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したと伝わる。平安時代の天長七年(830年)、淳和天皇の勅により慈覚大師円仁により創建された勅願寺で無量寿寺と号した。慶長四年(1599年)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継がれ、仏蔵院北院を喜多院と改めた。以後徳川宗家の尊崇厚く、川越のみならず関東屈指の名刹として名を高める。(以上公式Web等より)



【写真 上(左)】 元三大師のご縁日(だるま市)の御朱印
【写真 下(右)】 御朱印帳
※この大サイズの御朱印帳は川越のみならず、関東でも屈指の紙質だと思います。
(書き手の方から何度か『書きやすい』といわれたことあり。)
喜多院・五百羅漢入口の売店で購入できます。
 
朱印尊格:川越大師
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)

 
朱印尊格:川越大師
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:川越大師不動
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:関東三十六不動尊霊場第28番
書置(筆書)/専用納経帳


朱印尊格:川越大師不動
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:関東三十六不動尊霊場第28番
書置(筆書)/御朱印帳揮毫


朱印尊格:大黒天
主印:種子「マ」・大黒天 (宝珠)
札所印:小江戸川越七福神
書置(印刷?)

■ 仙波日枝神社


川越市小仙波町1-4-1
主祭神:大山咋神
旧社格:県社、喜多院の鎮守社、喜多院寺領旧小仙波村鎮守
元別当:喜多院(社務執行)
授与所:拝殿前(書置)
朱印揮毫:日枝神社 書置(筆書)
・慈覚大師円仁が喜多院を創建した際に、その鎮守として貞観二年(860年)に坂本の日吉大社を勧請して創祀と伝わり、東京赤坂の日枝神社の勧請元とされる。当初は喜多院境内にあったが、大正時代に県道建設のため仙波古墳群の一部を開削して当地に遷座。

■ 仙波東照宮

川越市小仙波町1-21-1
主祭神:徳川家康公(東照大権現)
旧社格:無格社
元別当:喜多院(社務執行)
授与所:当社参道下、ないし川越八幡宮(閉扉時)
・喜多院第二十七世天海僧正が家康公を祀って創祀され、日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮のひとつ。童謡「あんたがたどこさ」発祥の地ともいわれる。

朱印揮毫:仙波東照宮 書置(筆書)
開扉時門前授与所にて拝受


朱印揮毫:仙波東照宮 直置(筆書)
閉扉時川越八幡宮にて拝受

■ 星野山 無量寿寺 中院


川越市小仙波町5-15-1
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:関東八箇檀林、小江戸川越古寺巡礼第33番
朱印尊格:無量寿 (阿弥陀佛)
主印:種子「キリーク」・阿弥陀如来
札所印:なし
直書(筆書)
・天長七年(830年)、慈覚大師円仁が芳道仙人の古跡であった仙波の霊場を天皇に奏上、勅許を得て一寺を建立、星野山無量寿寺仏地院の勅号を賜り、のちに中院と号す。
・永仁四年(1296年)、比企郡の慈光寺から入られた尊海が中興して天台顕密の教えを広め、関東天台の教寺580余箇寺はすべて本院に付属し、関東天台の本山の勅許を得た。天台宗関東八箇檀林の筆頭の座も占めるすこぶる格式の高い寺院。
・高い格式を裏付けるように、境内は四季折々にすばらしく趣きがあります。 

▲ 光西寺

川越市小仙波町5-4-7
浄土真宗本願寺派
札所:小江戸川越古寺巡礼第10番
※Web上では授与情報がみつかりますが、授与されていないそうです。

■ 佛名山 常行院 西雲寺

川越市新富町2-5-4
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:小江戸川越古寺巡礼第11番
・蓮馨寺の末寺で、開山は般舟三昧院西雲法師(正保二年(1649年)入寂)。境内に御座す日限三体地蔵尊は霊験あらたかで広く尊崇を集めている。

朱印尊格:阿弥陀如来
種子「キリーク」・阿弥陀如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:三体地蔵尊 (地蔵菩薩)
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)

■ 道人山 三心院 妙善寺

川越市菅原町9-6
天台宗 御本尊:不動明王
札所:小江戸川越七福神 (毘沙門天)、小江戸川越古寺巡礼第43番
・天僧尊能(寛永元年(1624年)入寂)が開山となり創建された天台宗寺院。

朱印尊格:不動尊 (不動明王)
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)
 

朱印尊格:毘沙門天
主印:種子「ベイ」・毘沙門天 (火焔宝珠)
札所印:小江戸川越七福神
書置(筆書)

■ 川越八幡宮


川越市南通町19-1
御祭神:応神天皇(誉田別命)
元別当:万蔵寺
授与所:当社授与所
朱印揮毫:川越八幡宮 直置(筆書)
・長元三年(1030年)、平忠常追討の際、甲斐守源頼信によって創祀されたと伝わる。
長禄元年(1457年)、川越城築城の際、太田道灌は当社を篤く崇敬し、分霊を川越城内の守護神として奉斎。爾来、川越の歴代城主の崇敬が深く、多くの寄進がなされている。

■ 創建千年祭記念御朱印帳と揮毫御朱印(限定:1000冊)

揮毫の「河越八幡宮」は、川越城主・酒井雅楽守忠衛奉納御神号とのこと。

■ 民部稲荷神社(川越八幡宮境内社)

川越市南通町19-1
御祭神:倉稲魂神
元別当:
授与所:川越八幡宮授与所
朱印揮毫:民部社 書置(筆書)
・八王子に住みついていた老狐にまつわる神社。
相撲をとった狐としてTBSの「まんが日本昔ばなし」でも紹介されたという。
もともとは川越の梵心山(現新富町2丁目付近)に鎮座されていたが、川越八幡宮境内に遷座されたと伝わる。
梵心山に再建された民部稲荷神社は、丸広百貨店川越店移転開業の際に本館屋上に守護神として遷座されたという。
相撲好きの狐だったので、「足腰の健康」に霊験あらたかとされ信仰を集めている。

■ 川越三峯神社

川越市南通町19-1
御祭神:伊弉諾命、伊弉冉命
元別当:
授与所:川越八幡宮授与所
朱印揮毫:川越三峯神社 書置(筆書)
・境内掲示に「当社境内に三峯御本社の遥拝社がお祀りされ(中略)川越八幡宮創建一千年記念事業の一環として令和二年に遷座」とあります。
常時授与かはわかりませんが、令和三年6月時点では御朱印を授与されていました。

■ 民部稲荷神社(丸広百貨店川越店御鎮座)

【写真 上(左)】 民部稲荷神社
【写真 下(右)】 立体駐車場前に御遷座中の民部稲荷神社


川越市新富町2-6-1
御祭神:倉稲魂神
元別当:
授与所:川越八幡宮授与所
朱印揮毫:民部稲荷社 書置(筆書)
・以前、丸広百貨店川越店屋上に御鎮座。2019年9月の屋上遊園地撤去工事に伴い一時クレアモールをはさんだ立体駐車場前に御遷座され、2021年6月に丸広百貨店川越店屋上にふたたび御鎮座。
丸広店内インフォメーションでは「御朱印は川越八幡宮様にて授与」との案内、川越八幡宮授与所でも「丸広百貨店屋上に御鎮座の民部稲荷神社の御朱印」と申告し授与いただけたので掲載します。
・現況、屋上は神社の他はベンチと人工芝が敷き詰められているだけですが、相撲好きの神様という伝承(別称を角力稲荷)もあり、お社脇に土俵を設け奉納相撲などを催すと、地元のスポーツ振興にもつながり有意義かもしれません。

■ 冷水山 清浄土院 長徳寺 (川越観音)

川越市仙波町3-31-23
天台宗 御本尊:阿弥陀如来
札所:小江戸川越古寺巡礼第27番
朱印尊格:大悲殿 (聖観世音菩薩)
主印:種子「サ」・聖観世音菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)
※Webでは御本尊阿弥陀如来の御朱印がみつかりますが、授与されていないそうです。
・平安時代、慈覚大師円仁の開山で、喜多院の末寺であったと伝わる天台宗寺院。また、当地は平安時代の豪族、仙波氏の館跡として川越市の史跡指定を受けている。

■ 自然山 大日院 天然寺

川越市仙波町4-10-10
天台宗 御本尊:金剛界大日如来
札所:武蔵国十三仏霊場第1番(不動明王)、小江戸川越七福神 (寿老人)、小江戸川越古寺巡礼第29番
・慈覚大師円仁草創の地と伝わり、天文二十三年(1554年)栄海による開山とされる天台宗寺院。御本尊・大日如来は慈覚大師の作とされる。

朱印尊格:大日如来
主印:種子「バーンク」・金剛界大日如来(荘厳体) (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:武蔵国十三仏霊場第1番
直書(筆書)

埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)へつづく



【BGM】
Butterfly(バタフライ) - 木村カエラ(cover)


桜色舞うころ - 中島美嘉


千年の恋 - ANRI
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