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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、始まりました。
今回も東日本、とくに伊豆と鎌倉がメイン舞台なので、関連する御朱印を随時ご紹介していきます。

最新記事→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5


1.伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
伊豆は北条(北條)氏の本拠地で、この霊場には北条氏や源頼朝公ゆかりの寺院がいくつかあります。

2.鎌倉市の御朱印
鎌倉市内でいただける御朱印・御首題は、おそらくほとんど拝受したと思うので、こちらについても随時UPしていきます。
■ 鎌倉市の御朱印

3.「鎌倉殿の御家人」ゆかりの御朱印
「13人」とは、足立遠元、安達盛長、大江広元、梶原景時、中原親能、二階堂行政、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三善康信、三浦義澄、和田義盛を指すそうです。
当初は「こちらの豪族ゆかりの寺社の御朱印も適宜ご紹介していきます。」と書きましたが、文官が多く意外にゆかりの寺院が少ないので、「鎌倉殿の御家人」とされている人物ゆかりの寺社についてもまとめてみます。
〔関連記事〕 → ■ 鎌倉殿の御家人


なお、頼朝公、北条政子とのゆかりがふかい伊豆山神社・伊豆山温泉については、→ こちら(〔 温泉地巡り 〕 伊豆山温泉)に書いています。
令和3年7月伊豆山土砂災害からの一日も早い復旧をお祈りいたします。

とりあえずランダムにUPし、あとでエリア別にまとめます。


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1

01.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮)
鎌倉市材木座
〔源頼朝公〕

02.巨徳山 北條寺
静岡県伊豆の国市
〔北條義時〕

03.(西御門)白旗神社
鎌倉市西御門
〔源頼朝公〕

04.天守君山 願成就院
静岡県伊豆の国市
〔北條時政〕

05.甘縄神明宮
鎌倉市長谷
〔源氏・安達盛長〕

06.清月山 元光院 金剛寺
埼玉県川島町
〔比企能員〕

07.慧日山 薬王院 寳泉寺
渋谷区東
〔常盤御前・源義経公〕

08.鷲峰山 覚園寺
鎌倉市二階堂
〔北条(北條)義時〕

09.高橋山 放光寺
山梨県甲州市
〔安田義定〕

10.粟船山 常楽寺
鎌倉市大船
〔北条(北條)泰時〕

11.萬年山 城願寺
神奈川県湯河原町
〔土肥實平〕

12.岩殿山 光明院 安楽寺
埼玉県吉見町
〔源範頼公〕

13.医王山 清光寺
北区豊島
〔豊島清元(清光)〕


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2

14.稲荷山 東林寺
静岡県伊東市
〔工藤氏・伊東氏・曾我氏〕

15.葛見神社
静岡県伊東市
〔伊東氏〕

16.飯室山 大福寺
山梨県中央市
〔浅利冠者義遠(義成)〕

17.金色山 吉祥院 大悲願寺
東京都あきる野市
〔平山左衛門尉季重〕

18.古尾谷八幡神社/寳聚山 東漸寺 灌頂院
埼玉県川越市
〔源頼朝公・古尾谷氏〕

19.超越山 来迎院 西光寺
葛飾区四つ木
〔葛西三郎清重〕

20.龍ヶ崎鎮守 八坂神社
茨城県龍ヶ崎市
〔下河辺氏・下河辺四郎政義〕


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3

21.冷水山 清浄土院 長徳寺
埼玉県川越市
〔仙波氏〕

22.阿毘盧山 密乗院 大日寺
千葉県千葉市稲毛区
〔千葉介常胤〕

23.和田(義盛)神社
静岡県富士市
〔和田太郎義盛〕

24.(羽根倉)浅間神社
埼玉県志木市
〔金子小太郎高範〕

25.瑠璃光山 薬師院 玉井寺
埼玉県熊谷市
〔玉井四郎資重/玉井氏〕

26.如意山 観音院 大輪寺
茨城県結城市
〔(小山七郎)結城朝光〕

27.宝林山 称念寺
静岡県河津町
〔河津三郎祐泰〕

28.慈眼山 無量院 萬福寺
大田区南馬込
〔梶原平三景時〕


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4

28.慈眼山 無量院 萬福寺(つづき)
大田区南馬込
〔梶原平三景時〕

29.永劫山 華林院 慶元寺
世田谷区喜多見
〔江戸太郎重長〕

30.龍智山 毘廬遮那寺 常光院
埼玉県熊谷市
〔中条藤次家長〕

31.礒明山 松岸寺
群馬県安中市
〔佐々木三郎盛綱〕

32.勅使山 大光寺
埼玉県上里町
〔勅使河原三郎有直〕


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5

33.金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺
栃木県足利市
〔足利上総介義兼〕

34.多福山 一乗院 大寳寺
鎌倉市大町
〔佐竹四郎秀義〕

35.萬徳山(梅田山) 梅林寺 明王院
足立区梅田
〔志田三郎先生義広〕

36.白山 東光寺
〔畠山次郎重忠〕


■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6

37.岩浦山 福寿寺
神奈川県三浦市
〔三浦平六義村〕

38.筑波山神社
茨城県つくば市
〔八田右衛門尉知家、八田太郎知重〕

39.大聖山 金剛寺
神奈川県秦野市
〔源実朝公〕

■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7
40.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院
鎌倉市大町
〔北条政子〕


■ 源頼朝公ゆかりの寺社


1.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮) 〔源頼朝公〕
神奈川県鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇、神功皇后、比売神

康平六年(1063年)源頼義公が、前九年の役で奥州を鎮定され京に帰る帰途、鎌倉に立ち寄られこの地に源氏の守り神である京の石清水八幡宮の御祭神を勧請されて創祀と伝わります。
後に源頼朝公が現在の鶴岡八幡宮の地(小林郷北山)に社殿を遷してからは、「元八幡」とも呼ばれるようになりました。
鶴岡八幡宮には、由比若宮遥拝所があります。


【写真 上(左)】 由比若宮の社頭
【写真 下(右)】 由比若宮の拝殿


【写真 上(左)】 由比若宮遙拝所(鶴岡八幡宮境内)
【写真 下(右)】 由比若宮の御朱印


2.巨徳山 北條寺 〔北條義時〕
静岡県伊豆の国市南江間862-1
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
札所:伊豆八十八ヶ所霊場第13番、伊豆中道三十三観音霊場第16番、駿豆両国横道三十三観音霊場第8番、中伊豆観音札所第20番

源頼朝公の正室・北條政子の弟である北條義時(江間小四郎)が創建した寺院です。
義時の嫡子安千代が領内の大池で大蛇に襲われ命を落とした際に、この北條寺を墓所とし七堂伽藍を建立し、運慶に仏像を作らせたといいます。
御本尊の聖観世音菩薩は南北朝期の作とされ中国宋風の像容で県文化財に指定されています。鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が北條寺に奉納したとも伝わります。
境内の「小四郎山」と呼ばれる丘の上には、義時夫妻の墓所があります。


【写真 上(左)】 北條寺の山門
【写真 下(右)】 北條寺の本堂


【写真 上(左)】 北條寺本堂の扁額
【写真 下(右)】 北條寺の御朱印(伊豆八十八ヶ所霊場)


3.(西御門)白旗神社 〔源頼朝公〕
神奈川県鎌倉市西御門2-1-24
御祭神:源頼朝公

現在の源頼朝公墓所にあった法華堂がこの地に移され、江戸期まで鶴岡八幡宮二十五坊の一つ相承院が別当を勤めていましたが、明治の神仏分離令により白旗神社に改められたとされます。

源頼朝公墓所の尾根つづきに北条義時法華堂跡があり、こちらは『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記された地とみられています。
北条義時法華堂跡の山上に、大江広元の墓所があります。


【写真 上(左)】 (西御門)白旗神社
【写真 下(右)】 (西御門)白旗神社の御朱印


【写真 上(左)】 北条義時法華堂跡
【写真 下(右)】 大江広元の墓所


4.天守君山 願成就院 〔北條時政〕
静岡県伊豆の国市寺家83-1
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:伊豆中道三十三観音霊場第18番、中伊豆観音札所第18番

文治五年(1189年)、源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して北條時政公が建立したと伝わる中伊豆の名刹。
時政公建立の大御堂と南塔、二代執権北條義時公建立の南新御堂、三代執権北條泰時公建立の北條御堂と北塔など、北條氏三代にわたり伽藍が整えられました。
御本尊、阿弥陀如来をはじめとする大御堂安置の五仏は、数少ない運慶の真作として国宝に指定されています。


【写真 上(左)】 願成就院
【写真 下(右)】 御本尊阿弥陀如来の御朱印


【写真 上(左)】 不動明王の御朱印
【写真 下(右)】 毘沙門天の御朱印


5.甘縄神明宮 〔源氏・安達盛長〕
神奈川県鎌倉市長谷1ー12ー1
主祭神:天照大神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:甘縄院(臨済宗)

和銅三年(710年)行基の草創、染谷太郎太夫時忠の創建と伝わり、鎌倉最古のお社ともいわれます。
永保元年(1081年)源義家公が社殿を再建、以降も源頼朝公、政子の方、源実朝公などの崇敬が篤かったと伝わります。
また、源頼義公が相模守として下向の折に当宮に祈願し、八幡太郎義家公が生まれたとも伝えられ、源氏とつよい所縁をもちます。

社殿がある場所は安達盛長の屋敷跡とされています。


【写真 上(左)】 甘縄神明宮
【写真 下(右)】 甘縄神明宮の御朱印


6.清月山 元光院 金剛寺 〔比企能員〕
「鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡マップ」(PDF/川島町Web)
埼玉県川島町中山1198
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:武州八十八霊場第55番

比企能員は、息女・若狭局を二代将軍頼家公に嫁がせ、その子一幡が生まれてからは北条一門と対立して権勢を誇っていたものとみられています。
建仁二年(1203年)9月、比企氏の乱で北条方に破れ、比企能員は一族郎党とともに討死したと伝わります。
比企能員の舘は、埼玉県東松山市大谷付近にあったとされています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂

比企能員の墓所は鎌倉の妙本寺にありますが、比企氏の末裔が天正(1573-1592年)の頃より当地一帯を舘とし比企左馬助則員が中興、金剛寺は比企氏の菩提寺となり比企氏歴代の墓所となっています。
山門と比企氏の位牌堂である金剛寺大日堂は、国の登録有形文化財に指定されています。

川島町Webによると、「比企地域9市町村(東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)と比企地域の各種関係団体は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映を契機として地域の活性化につなげようと、令和2年(2020年)12月に『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げ、大河ドラマが放映される令和4年(2022年)に向けてさまざまな取組を行っていきます。」とのことです。


【写真 上(左)】 大日堂
【写真 下(右)】 御朱印


7.慧日山 薬王院 寳泉寺 〔常盤御前・源義経公〕
天台宗東京教区Web
東京都渋谷区東2-6-16
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:関東九十一薬師霊場第12番、江戸西方三十三観音霊場第31番、弁財天百社参り番外6

渋谷と恵比寿の中間辺りに位置する都会のお寺さまで、御朱印で有名な氷川神社のすぐそばです。
御本尊は阿弥陀如来。平安中期から鎌倉の作とされる薬師如来像は、源義朝公の側室で義経公の母、常盤御前の守り佛(持彿)と伝わり「常盤薬師」としてふるくから信仰を集めています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額

このあたりはかつて「常磐松町」といいましたが、その由来となった松の古木は常盤御前が植えたという言い伝えがあるそうです。

このような都会の真ん中に常盤御前ゆかりの寺院があるとはちょっと驚きです。
「常盤薬師」は関東九十一薬師霊場第12番の札所本尊で、御朱印が授与されています。


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 「常盤薬師」の御朱印


8.鷲峰山 覚園寺 〔北条(北條)義時〕
公式Web
神奈川県鎌倉市二階堂421
真言宗泉涌寺派
御本尊:薬師如来
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第3番、相州二十一ヶ所霊場第3番、鎌倉十三仏霊場第13番(阿閃如来)

建保六年(1218年)、薬師如来の眷属・十二神将のうちの「戌神」(伐折羅大将)が北条義時の夢に現れ、これを受けて義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の草創とされます。
永仁四年(1296年)、九代執権北条貞時は外敵退散を祈念して、大倉薬師堂を正式の寺に改めた(覚園寺の創建)といいます
開基は北条貞時、開山は京・泉涌寺の智海心慧律師とされます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 大河ドラマ関連の掲示

現在は真言宗泉涌寺派となっていますが、当初は北京系律の本拠地で、律を中心に天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学の道場であったと伝わります。
元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が勅願寺とされ、足利氏も祈願所として保護した名刹です。

なお、入口正面の愛染堂と諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺(当初桃ヶ谷→薬師堂ヶ谷)から移されたものです。

御本尊、薬師如来のほか、3種の札所の御朱印を授与されています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御本尊の御朱印
※ その他の御朱印は■ 鎌倉市の御朱印でご紹介しています。


9.高橋山 放光寺 〔安田義定〕
公式Web
山梨県甲州市藤木2438
真言宗智山派
御本尊:金剛界大日如来
札所:甲斐百八霊場第8番、甲斐八十八ヶ所霊場第72番、甲州東郡七福神(大黒天)

「鎌倉殿の13人」には何度か甲斐源氏の武田信義が登場していますが、平家追討のなかで大きな役割を担った甲斐源氏のひとりに安田義定がいます。

安田義定は、甲斐源氏の祖とされる源義光(新羅三郎)公の孫源清光公の子(清光の父義清の子説もあり)という名流で、現在の山梨市を中心とした峡東一帯に勢力を張りました。
平家追討の令旨に応じて挙兵し、「富士川の戦い」などでの戦功により遠江国守護に任じられました。(『吾妻鏡』)

寿永二年(1183年)、平家追討使として東海道から上洛。大内裏守護として京中を守護し、同年8月には従五位下遠江守に叙任。
「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」と歴戦。とくに「一ノ谷の戦い」では、義経の搦め手軍を率いて奮戦、平経正、平師盛、平教経を討ち取ったと伝わります。

放光寺の公式Webには、『吾妻鏡』による平家追討軍の編成は「大手の大将範頼軍には武田有義、小山朝政、下河辺行平、千葉常胤、梶原景時ほか五万六千余騎、搦手の大将義経軍には安田義定、大内惟義、土肥宗平、三浦義連、熊谷直実以下二万余騎とあり」とし、「甲斐源氏の中では安田義定と武田有義が副大将として活躍」とあります。
また、建久二年(1191年)の鶴岡八幡宮法会では、頼朝公御供の筆頭に義定の名がみられ、頼朝公配下のなかでもすこぶる高い地位を占めていたことがわかります。

建久四年(1193年)、義定の子、安田義資が罪を得て斬られ、義定の所領も没収。
翌建久五年(1194年)には義定みずからが謀反の疑いをうけ、放光寺にて自刃と伝わります。


【写真 上(左)】 放光寺本堂
【写真 下(右)】 天弓愛染明王の御朱印

この当時の甲斐源氏には、武田信義、安田義定、一条忠頼らの有力武将がおり、「富士川の戦い」の主力は甲斐源氏であったともみられています。
しかし、安田義定は謀反の疑いで自刃、一条忠頼も鎌倉にて酒宴の最中に暗殺、武田信義の子逸見有義は頼朝公から疎まれ、同じく信義の子板垣兼信は違勅の罪を問われて配流されるなど、次々と失脚していきました。
また、小笠原長清の兄の秋山光朝は京で平重盛に仕え重盛の息女を娶ったため、甲斐国内の本拠地を頼朝公に攻められ自害したと伝わります。

当時の甲斐源氏は頼朝公も御せないほどの強大な勢力があり、武家の頭領としての地位を確立するために、頼朝公が甲斐源氏の力を削いでいったという見方が有力です。

頼朝公は八幡太郎義家公の流れ、甲斐源氏は新羅三郎義光公の流れで、たしかに嫡流系は頼朝公ですが、それをいえば源満仲公の長子は源頼光公で、その流れの多田源氏、摂津源氏などが清和源氏の嫡流筋にあたります。
しかし多田源氏の多田行綱は勢力を張れず没落、摂津源氏の土岐光衡も鎌倉殿の御家人に収まっているので、やはり武家の統領としての八幡太郎義家公とその流れの頼朝公の声望が高かったものとみられます。

以降、甲斐源氏では武田氏宗家となった信光の流れと信義の弟加賀美遠光から小笠原氏、南部氏が出て、以降勢力を張りました。
小笠原氏、南部氏は江戸時代も大名家として存続しています。(大和郡山藩の柳沢氏、新発田藩主の溝口氏、松前藩主の松前(蠣崎)氏なども甲斐源氏の末裔を称しています。)

放光寺は元暦元年(1184年)、安田義定が「一ノ谷の戦い」の戦勝を記念して創立したと伝わる、甲斐を代表する名刹です。
詳細およびその他の御朱印は■ Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印をご覧ください。


10.粟船山 常楽寺 〔北条(北條)泰時〕
鎌倉市観光協会Web
神奈川県鎌倉市大船5-8-29
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀三尊
札所:-

北条義時の子で、名君として知られる三代執権北条泰時の創建とされる名刹です。
鎌倉市には、鎌倉七口(八口)の外のエリアにも高い格式を誇る名刹がいくつかあって、こちらもそのひとつです。

嘉禎三年(1237年)、北条泰時が義母の供養のために建てた「粟船御堂」(あわふねみどう)が草創とされ、常楽寺の寺号は泰時の法名にちなむものとされます。
開山は退耕行勇、開基は北条泰時。

建長寺開山の蘭渓道隆が建長寺の建立まで当寺に住待され、「常楽は建長の根本なり」といわれて、臨済宗建長寺派において高い格式をもちます。
仏殿には蘭渓道隆像が安置されています。

 
【写真 上(左)】 常楽寺
【写真 下(右)】 常楽寺の御朱印

仏殿は、元禄四年(1691年)建立の小形禅宗様で県指定重要文化財、鎌倉期作とされる木造文殊菩薩坐像も県指定重要文化財。
御本尊の阿弥陀如来像、山門は市の指定文化財。梵鐘は建長寺・円覚寺の梵鐘とともに「鎌倉三名鐘」に数えられ、国の重要文化財に指定されるなど文化財の宝庫です。

仏殿背後には北条泰時の墓があり、裏山には清水冠者(木曽義高)の墓と伝わる塚「木曽塚」があります。
清水冠者は木曽義仲の子で、源頼朝公の長女・大姫の婿の名目で鎌倉に入りましたが、父・義仲が粟津の戦いで討たれたのちは微妙な立場となり、鎌倉を脱出したところを入間河原であえなく討たれました。没年12歳と伝わります。

御朱印は、御本尊の阿弥陀三尊ではなく、蘭渓道隆ゆかりとされる文殊菩薩のものが授与されています。


11.萬年山 城願寺 〔土肥實平〕
公式Web
神奈川県湯河原町城堀252
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:-

土肥氏は、相模国の有力豪族中村氏の流れで桓武平氏良文流。足下郡・土肥郷(早川庄)(現在の湯河原、真鶴、早川周辺)を本拠として勢力を張りました。
鎌倉幕府草創期の当主は土肥實平で、東国武士のあいだで人望があり、『曽我物語』で有名な伊豆奥野の狩場での河津祐泰と俣野景久のいさかいの際に、仲裁に入ったと伝わります。

治承四年(1180年)、頼朝公挙兵の際には嫡子遠平をはじめ中村一族を率いて参じ、石橋山の敗戦から安房落ちの際にも頼朝公につき従ったとされます。
以降も一貫して頼朝公を支えて公の信任篤く、奥州から参陣した義経公を取り次ぎ、平家方から頼朝公に降った梶原景時をとりなしたのも實平という説があります。

養和元年(1181年)の鶴岡八幡宮の造営にあたっては奉行をつとめています。

源平合戦では宇治川の戦い、大江山守護、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いと歴戦し、一ノ谷の戦いののちには吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(のちに長門・周防を加える)に補任と伝わります。

建久元年(1190年)の頼朝公上洛の際には、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、公側近の重職の地位を占めていたことがわかります。
以降子孫は繁栄し、相模土肥氏の祖とされています。

なお、戦国期「毛利両川」の小早川氏は、實平の子・遠平が土肥郷の小早川に拠り小早川を称し、平家討伐の恩賞として安芸国沼田荘の地頭職を拝領して土着、以降この地で勢力を伸ばしたものとされています。


實平の居舘は城願寺のあたりとされ、寺伝(城願寺公式Web)には「實平が、萬年の世までも家運が栄えるように「萬年山」と号して持仏堂を整えたことから城願寺の歴史は始まる。」とあります。
草創は實平。以来、城願寺は土肥一族の菩提寺となっています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額

もともとは密寺でしたが臨済宗に改め萬年山成願寺として勧請開山、五山十刹につぐ諸山に定められ、戦国期の再興(重興開山)で曹洞宗に改め、城願寺と号して現在に至ります。

湯河原と土肥一族とのゆかりは深く、毎年春には「土肥祭」が催され、城願寺でも式典が催されます。

御本尊は聖観世音菩薩。
公式Webには「寺院が禅宗に改宗する場合には、以前の本尊をそのまま受け継いでも構わないとされることも多く、或いは創建時そのままの御本尊様かもしれません。」とあります。
このような例は、伊豆の寺院にとくに多くみられます。→■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印


【写真 上(左)】 七騎堂
【写真 下(右)】 城願寺の御朱印

土肥実平・遠平像(湯河原町指定文化財)を所蔵し、實平をはじめとする土肥一族の墓所や、石橋山の戦いで頼朝公とともに落ちのびた七騎を祀る七騎堂があります。
ちなみに、「七騎」とは、源頼朝公、土肥實平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、田代信綱、新開忠氏をさすようです。(→出典:『観光かながわNOW』

境内360度画像(公式Web)

湯河原の高台にあり、落ち着いたたたずまい。
實平手植えと伝わるビャクシンは樹齢800年を越え、国の天然記念物に指定されています。

御朱印は御本尊の聖観世音菩薩(観自在菩薩)のものが授与されています。

■ 湯河原温泉「中屋旅館」の入湯レポ
■ 湯河原温泉「若草荘」の入湯レポ


12.岩殿山 光明院 安楽寺 〔源範頼公〕
公式Web
埼玉県吉見町御所374
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第11番、関東八十八箇所第75番、武州路十二支霊場(申・金剛界大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場第17番、中武蔵七十二薬師霊場第62番、武州八十八霊場第36番

源範頼公は源義朝公の子(六男と伝わる)で、頼朝公の異母弟、義経公の異母兄です。
『尊卑分脈』では生母は遠江国池田宿の遊女とされていますが、池田宿周辺の然るべき家の娘という説もあります。

江国蒲御厨(現在の浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも称されました。
後白河法皇の近臣、従二位・式部権少輔藤原範季に養育され、その縁から「範頼」を名乗ったとされます。

兄・頼朝公への合流時期は明確ではないようで、当初は安田義定など甲斐源氏との交流が深かったとの見方もあります。
また、寿永二年(1183年)、常陸国の志田義広と下野国の小山氏の野木宮合戦に参戦の記録が残っています。

寿永三年(1184年)、頼朝公の代官として源義仲追討の大将軍となり上洛、義経公の軍勢に合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。
以降、平家追討の大手軍の大将として一ノ谷の戦い、九州進軍の率将としても勝利し、以降も義経軍と別働しつつ大手軍の大将として諸戦を戦い、壇ノ浦で平氏追討を成しました。

義経公の活躍があまりに華々しいため脇役に回っているきらいもありますが、大手軍の大将として個性の強い鎌倉武士をまとめ、戦を勝利に導いた手腕を評価する見方も少なくありません。
義経軍の進軍にくらべ範頼軍の動きが遅かったことは事実のようで、これをもって範頼公を凡将とみなす説もありますが、中世、華々しい戦さぶりを展開したのはたいてい動きの軽い別働隊や搦手軍で、これをもって範頼公を凡将とすることに疑問を呈する向きもあります。

また、大手の範頼軍の安定した働きあればこそ、搦手の義経軍の奇襲が奏功したという見方もあります。

独断専行が目立った義経公に対し、頼朝公への報告を怠らなかった範頼公は平家追討後も鎌倉での立場を保ち、文治五年(1189年)の奥州合戦には頼朝公に従い参戦。建久元年(1190年)11月にも頼朝公に従い上洛しています。

しかし、その後次第に頼朝公との関係は微妙なものとなり、建久四年(1193年)8月、範頼公は頼朝公に対して忠誠を誓う起請文を差し出すものの、頼朝公は状中で「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責め、範頼公は伊豆国に流され、修禅寺に幽閉されました。
その後の消息については不明とする説が有力です。

範頼公は頼朝公に対して公然と反旗を翻したわけでもなく、「源範頼」を名乗る資格も名分もある筈です。
にもかかわらずの伊豆への配流は、独裁色をつよめる頼朝公にとって異母兄弟の存在じたいが危険なものとして映った結果かもしれません。

実際、頼朝公の実弟で源平合戦の功労者でもある範頼公でさえ、対応を誤ればたちまち立場を失うという事実は、鎌倉御家人たちを震え上がらせたものと思われます。
範頼公の配流は、あるいはこのような効果を狙っての政治的な動きだったのかもしれません。

範頼公の墓所は伊豆・修善寺にあります。
伊豆配流後の範頼公の消息が不明なため、範頼公にはいくつかの配流伝説が残りますが、範頼公ゆかりの寺院は多くはありません。


【写真 上(左)】 安楽寺参道と山門内湯
【写真 下(右)】 範頼公旧跡を示す寺号標

吉見の吉見観音・安楽寺は、範頼公とのゆかりが明示されている貴重な例のひとつです。
武蔵国横見郡(現埼玉県吉見町)の吉見観音への隠住説は範頼公配流伝説のひとつで、吉見観音周辺の大字”御所”は貴人の居住地をあらわし、範頼公にちなむものと伝わります。

これとは別に、吉見は範頼公の妻の祖母で、頼朝公の乳母でもある比企尼の居所に近いので、この縁により移り住み、その子孫は吉見氏として続いたという説もあります。
範頼公の妻は安達盛長の息女で、頼朝公の乳母を務めた比企尼の長女丹後内侍の子です。
安達盛長の館は吉見にもほど近い現・鴻巣市糠田とされていますから、安達盛長の壻となった縁で吉見に所領を得たのかもしれません。
範頼公の次男範圓と三男源昭は外曾祖母の比企尼から吉見庄を分与され、範圓の子為頼が吉見を名字とした、という説もあります。


【写真 上(左)】 安楽寺山内
【写真 下(右)】 「比企一族と武蔵武士ゆかりの地」のポスター

安楽寺の公式Webには「平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500メートルには『伝範頼館跡』と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。」とあり、吉見御所への範頼公の居住は配流後ではなく、幼少期であるとしています。
範頼公が『吾妻鏡』に登場するのは30歳すこし前で、それ以前、とくに幼少期ははっきりしないことが多いので、幼少期吉見居住説が出てくるのだと思います。


【写真 上(左)】 息障院山門
【写真 下(右)】 息障院本堂

吉見の名刹・息障院は「伝範頼館跡」とされ、吉見町の公式Webには「息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。」とあります。


【写真 上(左)】 安楽寺本堂向拝
【写真 下(右)】 安楽寺本堂扁額

比企市町村推進協議会企画の「鎌倉殿の13人」資料には、「息障院と安楽寺はかつては一つの大寺院を形成していたことが知られています。当時、息障院には多くの御堂がありましたが、その一つの観音堂が現在の安楽寺になったと伝わります。」とあります。

なお、安楽寺、息障院ともに創建・開基は天平年中(730年頃)の行基菩薩、あるいは大同元年(806年)の坂上田村麻呂と伝わり、鎌倉幕府草創のはるか以前です。

範頼公の記事だけで長くなりましたので、安楽寺山内のご案内は省略です。
メジャーな坂東霊場の札所、パワスポとしても知られており関連情報はWeb上でたくさんみつかるので、そちらをご覧ください。(と逃げる・・・(笑))

山門下の寺号標側面には「蒲冠者 源 範頼 旧蹟」と刻まれています。
また、山内の三重塔の説明書には「鎌倉時代に源範頼は十六丈の三重大塔と二十五間四面の大講堂を建立し、非常に壮大であったと伝えられております。しかし天文年間に松山城の落城に際してこれらの大伽藍もことごとく焼失いたしました。」とあります。


【写真 上(左)】 三重塔
【写真 下(右)】 御開帳時の薬師堂

安楽寺は複数の現役霊場の札所を兼ねられ、数種の御朱印が授与されています。
うち、中武蔵七十二薬師霊場第62番の御朱印は、12年に一度の寅年御開帳時(本年令和4年4月7日~13日)のみの授与とみられます。

 
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 関東八十八箇所の御朱印

 
【写真 上(左)】 武州路十二支霊場(申・金剛界大日如来)の御朱印 
【写真 下(右)】 中武蔵七十二薬師霊場の御朱印


東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印


13.医王山 清光寺 〔豊島清元(清光)〕
東京都北区豊島7-31-7
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第79番、荒川辺八十八ヶ所霊場第18番、豊島七佛第1番(不動明王)、第2番(釈迦如来)

豊島氏は武蔵国の名族で、桓武平氏の平良文の孫の平(秩父)将常の次男秩父武常が治安三年(1023年)の戦功により武蔵国豊島郡を賜り、豊島氏を称したことにはじまるとされます。
いわゆる「坂東八平氏」の流れです。

発祥は現在の北区豊島、平塚神社が豊島舘跡と伝わります。
鎌倉幕府草創期の当主は豊島清元(清光とも、以下清光と記します)で、子の清重とともに隅田川で頼朝軍に参陣し、御家人の列に加わりました。

清光の三男清重は葛西御厨を継いで葛西氏の祖となり、清重は平家追討で範頼軍に加わり九州で武功をあげています。
有経が豊島氏を継ぎ紀伊守護人に任ぜられ、子(?)の朝経は土佐守護に任じられて各地で勢力を張りました。

豊島武常は源頼義公・義家公に従って奥州で戦死しており、累代の源氏の家人の立ち位置で、豊島清光に対する頼朝公の信頼は厚かったとされます。
豊島舘跡とされる平塚神社の御祭神は源義家公、義綱公、義光公。
後三年の役の帰路、源義家公、義綱公、義光公の三兄弟がこの豊島館に逗留して豊島近義にもてなしを受け、義家公は鎧一領と十一面観音像を豊島氏に下賜され、後にこの鎧を本尊として塚を築き埋めたのが創祀とも伝わります。
豊島一族と源氏のつながりの深さを伝える由緒といえましょう。

豊島清光は行基菩薩ゆかりのふたつの霊場に深い関係をもち、武蔵国の仏教(霊場)を語るうえで重要な役柄です。
行基菩薩は奈良時代の人、豊島清光は鎌倉幕府草創期の人でそもそも時代が合いませんが、とにかくそういうことになっています。

1.豊島七佛
清光が、行基菩薩の東国布教の際に彫ってもらった七体の仏像が安置される寺院を巡る霊場。
2.江戸六阿弥陀
行基作の阿弥陀佛を巡る江戸時代の代表的な女人霊場。霊場縁起に「豊島左衛門尉清光」が登場します。
■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~

清光の二男清康ないし娘は荒川で命を落としており、その供養のためにいくつかの寺院の開創にかかわっている可能性があります。
江戸六阿弥陀第1番の西福寺は豊嶋左衛門清光の創建とされ、『新編武蔵風土記稿』には「豊嶋左衛門清光、(略)一人の女子を産す、(略)彼女私に逃れ荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか(以下略)」との記載があります。

 
【写真 上(左)】 平塚神社の御朱印
【写真 下(右)】 西福寺の江戸六阿弥陀如来第1番目の御朱印

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ここでは清光の館跡ともいわれ、清元が開基し、僧形の清元の木像が残る医王山 清光寺(東京都北区)をご紹介します。
清光寺は豊島清光の開基(父の康家とも)と伝わり、戦国時代末期の豊島明重により再興とされる真言宗豊山派の寺院です。


【写真 上(左)】 清光寺の山門
【写真 下(右)】 清光寺の本堂

山内の説明書には「豊島清光は、その子葛西清重とともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で『吾妻鏡』などにもその名が見えます。またこの地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や(中略)この寺は、豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。」とあり、豊島七佛や江戸六阿弥陀との関係を示唆しています。

かつては大寺であったと推定される古刹で、山門・本堂ともがっしりした本瓦葺きであることから、寺格の高さがうかがわれます。

 
【写真 上(左)】 清光寺の向拝
【写真 下(右)】 清光寺の御朱印(豊島八十八ヶ所)

御本尊の不動明王、および釈迦堂の釈迦如来は行基作とされ、豊島七佛に数えられています。
当寺所蔵の豊島清光像は江戸時代の作で、北区指定文化財です。

御朱印は、現役霊場と目される豊島八十八ヶ所のものが授与されています。




■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2へつづく。


〔 関連記事 〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4

■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ I.G.Y. - Donald Fagen


■ Oh Yeah! - Roxy Music


■ Our Love - Michael McDonald


■ Isn't It Time - Boz Scaggs


■ Both Sides Now - Marc Jordan
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