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■ 草津温泉周辺の御朱印

2020/05/16 UP

すこし追加&追記します。(08.~)
草津温泉からの帰路に、国道406号・須賀尾峠・浅間隠温泉郷・倉渕経由で高崎に抜けるルートがあり、御朱印を授与される寺院がいくつかあります。
このルートは榛名町室田交差点で榛名神社からの帰路と合流しますので、国道406号の室田交差点までを「草津温泉編」、室田交差点から高崎寄りを「伊香保温泉編」として構成しなおします。

国道406号「室田」交差点から高崎寄りの寺社については→こちら(伊香保温泉編)をご覧ください。
また、渋川方面からの国道353号「大戸口」交差点までの寺社については、→こちら(四万温泉編)をご覧ください。

御朱印情報を得ている東吾妻町の寺院を追加します。
また、このエリアは真田氏、海野氏など、武田信玄公とゆかりのふかい武家の本拠地なので、信玄公にちなむ事跡などを補強してリニューアルします。
(→ 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

 
 

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2017/10/09 UP

先日、ふるさと納税でゲットした地域券があったので、ひさびさに草津&四万に泊まってきました。
御朱印もいただいてきましたので、草津&四万周辺でいただける御朱印をご紹介します。
(非札所の寺院も多く、現時点でも拝受できるかは定かではありません。)

吾妻エリアには吾妻三十三番観音霊場や三原(谷)三十四所観音札所などの古い霊場はあるものの、それらの札所の多くは廃寺や山中のお堂で、この霊場でいただける御朱印はほとんどありません。
複数の現役霊場が重複する県央(前橋・高崎)や東毛(伊勢崎・桐生・太田・館林など)エリアとくらべると、授与所はどうしても少なくなります。
それでも、神社も含めるとそれなりの数は揃いますので、草津のアプローチベースとなる長野原町、同じく四万の中之条町も併せてご紹介してみます。
1発目は草津温泉です。

第2回目(四万温泉編)は、→こちら
第3回目(伊香保温泉編)は、→こちら

【草津温泉周辺で拝受できる御朱印】

01.大洞山 雲林寺
公式Web
 
 
  
長野原町長野原73
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:三原郷(谷)三十四観音霊場第1番(作道観音堂)
朱印尊格:南無釋迦牟尼佛 直書(筆書)
札番:なし(御本尊の御朱印)
・中央に御本尊釈迦牟尼佛の種子「バク」(蓮華座+火焔宝珠)の御寶印と「南無釋迦牟尼佛」の揮毫。
左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
※三原(谷)三十四所観音の御朱印は授与されていないようです。

長野原町役場に隣接する曹洞宗の古刹で、信濃国小県郡~吾妻の豪族、海野氏ゆかりの寺です。
弘長三年(1263年)、臨済宗妙心寺派の龍幡和尚が創建されました。
創建時は大字長野原字火打花、その後貝瀬に移り、永禄二年(1559年)、海野幸光が開基となって現在地に伽藍を再建、後閑(安中市上後閑)の長源寺九世為景清春が入られ大洞山雲林寺として開創されました。

長源寺の末寺となっていますが、これは長源寺の為景清春が当山の他、宝昌寺(高崎市)、長伝寺(安中市)、桂霊寺(佐久)を開かれ、長源寺との本末関係が継承されているためと思われます。

当寺の公式Webには、「海野幸光は、西吾妻地方の吾妻川左岸に勢力を持ち、戦国時代に羽根尾城に拠った羽尾景幸の孫である。」とあります。

海野氏、羽尾氏の家系はすこぶる錯綜していて、辿るのがむずかしいですが、Web情報を総合すると、羽尾景幸の子が羽尾幸世で、羽尾幸世の子が、長男幸全、次男幸光、三男輝幸、四男幸昌と続くようです。(これは「幸光が景幸の孫」という寺伝に符合します。なお、海野幸光は羽尾景幸の子で羽尾幸世の弟という説もありますが、幸光・輝幸は兄弟という点は一致しています。)
複雑な経緯があって、次男幸光、三男輝幸は海野姓を名乗って”海野兄弟”として知られています。
幸光は仏教、とくに修験道への帰依が深かったと伝わります。

戦国期、この地は甲斐から侵攻した武田勢と関東管領家の上州の山内上杉勢の勢力がぶつかるところで、武田方に真田幸隆、鎌原氏、上杉方に岩櫃城の斎藤氏が立って、そのはざまで羽尾氏は複雑な動きをとったものとみられます。
真田氏、鎌原氏、羽尾氏ともに滋野姓の同族なので、その駆け引きは同族ゆえよけいに複雑化したのでは。

海野兄弟は、永禄元年(1558年)の頃より岩櫃城主斎藤憲広に仕えて岩櫃城内に居住。
永禄六年(1563年)、真田氏の侵攻による斎藤氏滅亡後は武田方に属し、永禄九年(1566年)岩櫃城城代となり、真田幸隆の配下に入っていたとされます。

その後、海野兄弟は真田家の家督を継いだ真田昌幸に属し、幸光は岩櫃城に拠ったとされます。
天正九年(1581年)、幸光は北条氏に通じたとの疑いを受け、真田、鎌原、湯原氏の軍勢に攻められ、奮戦むなしく討ち死にしたと伝わります。齢75歳。
墓所は旧領羽根尾の北小滝にあります。

国道145号上州街道に面して参道入口。
石造冠木門。寺号標と右に観世音の石碑、左にも石碑があります(揮毫不明)。
うっそうと茂る杉木立の下に、本堂につづく階段が伸び、脇には地蔵尊、観音様などの露仏が御座します。

階段を登り切ると右手に鐘楼、宝篋印塔と六地蔵。左手本堂前の老松がいいアクセント。

入母屋造桟瓦葺の本堂で、左手に寄せて桟唐戸。その上に寺号「雲林禅寺」の扁額。
簡素ながら端正な格子窓が意匠的に効いた、禅寺らしい建築です。

本堂と相対して観音堂。三原郷(谷)三十四観音霊場第1番、打ち始めの「作道観音堂」です。
(おそらく)入母屋造妻入り銅板葺。桟戸木連格子、木鼻に獅子、梁間に龍の彫刻、向拝脇に花頭窓。向拝柱には御詠歌の木板。
さすがに発願所。屋根の照りが強く、勢いを感じる仏堂です。

御朱印は庫裡にて尊格御本尊のものを拝受しました。
ただし、現役札所ではないので、御朱印拝受はタイミング次第かと思います。

02.龍燈山 常林寺
 
 
長野原町応桑547
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
札所:三原郷(谷)三十四観音霊場第6番(穴谷観音堂)
朱印尊格:南無釋迦牟尼佛 直書(筆書)
札番:なし(御本尊の御朱印)
・中央に三寶印の捺印と御本尊「南無釋迦牟尼佛」の揮毫がされています。
また聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印と穴谷観音の印判も捺されているので、三原(谷)三十四所観音札所第6番札所の性格も帯びている御朱印と思われます。

草津とは吾妻川の反対側になりますが、こちらも長野原町のお寺。
滋野氏族鎌原氏の菩提寺で、予想以上に立派な境内と伽藍を構えていました。

鎌原氏は滋野氏族で、ふるくから三原庄に拠り勢力を張りました。
文明年間(1469年~1486年)頃から上野平井城の関東管領山内上杉氏ないし、上杉方の岩櫃城主斎藤氏の支配下にあったと伝わります。

甲斐の武田信玄の信濃侵攻がはじまると、永禄三年(1560年)、鎌原幸重・重澄父子は、真田幸隆の斡旋で信玄に謁見し、斎藤氏を離れて武田方に加わりました。
永禄五年(1562年)斎藤氏と羽尾氏(滋野一族)の攻撃を受けた鎌原氏は、鎌原を保てず佐久へ退去したものの、武田氏・真田氏の支援を得て鎌原領を奪還しました。

永禄六年(1563年)、真田氏は斎藤氏拠る岩櫃城を攻め、難攻不落といわれた岩櫃城をついに落としました。
吾妻郡は真田幸隆の支配下に入り、真田氏の与力として活躍した鎌原氏は岩櫃城代に任ぜられたといいます。
以降、武田・真田軍の将として、武田軍の戦いに臨み、鎌原筑前守は「長篠の戦い」で戦死しています。

武田氏滅亡後も鎌原氏は真田氏に属し、沼田城に入って家老職を務めましたが、沼田真田家の断絶を受けて松代真田家に仕え、以降松代藩士として続いています。

駐車場は庫裡の横にあるので、参道起点は本堂の下に一旦降りていくことになります。
参道階段のぼり口には破風と鬼瓦の遺構。その右手には石造の観音様が御座し、「三原谷三十四番霊場 第六番穴谷観音」の石碑があります。

一面二臂の菩薩形。左手に未開敷蓮華を持たれ、頭髪部の正面に化仏を置かれた蓮華座の結跏趺坐像で、石造の聖観世音菩薩の坐像と思われます。
巨石を両断し刳り抜いたなかに御座される、特徴的なおすがたです。

石段をのぼりきると本堂前。宝篋印塔一対、石灯籠一対。
本堂は入母屋造平入り、向拝格子戸の上に縦書きの寺号扁額。軒下に平三斗と雲斗の組み合わせ。妻部は経の巻獅子口、三ツ鼻懸魚に複数の彫刻を備えています。
禅宗の名刹らしい堂々たる本堂です。

こちらも三原(谷)三十四所観音札所の札所(第6番)で、参道脇に札所本尊の穴谷観音が御座しますが、観音霊場単体の御朱印は授与されていない模様。
御朱印は庫裡にて拝受しました。

03.鎌原観音堂
 
  
嬬恋村鎌原492
曹洞宗(現) 御本尊:十一面観世音菩薩
札所:三原郷(谷)三十四観音霊場第8番
朱印尊格:鎌原観音 直書(筆書)
札番:三原郷(谷)三十四観音霊場第8番印判
・御朱印尊格は御本尊の十一面観世音菩薩。種子「キャ」の御寶印と「鎌原観音」の揮毫に三原(谷)三十四所観音札所の札所印が捺され、観音霊場の御朱印となっています。
この御朱印は三原(谷)三十四所観音札所唯一のものである可能性があります。

草津からは少し離れた嬬恋村のお寺ですが、こちらもご紹介。
天明三年(1783年)の、浅間山(天明の)大噴火(浅間焼け)による土石なだれの際、境内にいた村民を救われた観音さまとして広く信仰を集めています。
爾来、信州善光寺による追善法要が営まれてきたようですが、現在は応桑の常林寺の管理下にあるようです。

鎌原観音堂の北方約200mのところに土石なだれで埋没した延命寺がありました。
このお寺のものとみられる石碑が東吾妻町矢倉の吾妻川の河原で発見され、鎌原観音堂そばに安置されています。
この地から東吾妻町矢倉までは約25㎞。これだけの距離を重い石碑が押し流されたわけで、土石なだれのすさまじさがうかがえます。
石碑には、「浅間山」と記され、延命寺は鎌原村に鎮座されていた浅間大明神の別当と推測されています。

また、鎌原観音堂を旧延命寺の一部とみる説もあります。
三原郷(谷)三十四観音霊場の開創は江戸時代初期とみられています。
延命寺はこの地域屈指の寺院であったらしいので、延命寺と鎌原観音堂の関係がうすければ、延命寺に観音堂を設けて札所とするのが自然です。
しかし、鎌原エリアでは鎌原観音堂のみ札所となっているようなので、鎌原観音堂は延命寺の観音堂であった、という可能性もあるのかもしれません。

観音堂は寄棟造ないし方形造茅葺。向拝部三間のうち中央開放で上部に「かんのんさま」の扁額が掲げられています。
飾り気のすくない仏堂ですが、壁面にはわらじや奉納額、写真などが掲げられ、信仰の篤さが感じられます。
三原(谷)三十四所観音札所の札所(第8番)で、札所板も掲げられています。

嬬恋郷土資料館に隣接し観光客の来訪もあるようで、観音堂右手に授与所があるので御朱印はいただきやすいです。

04.草津山 常楽院 光泉寺
 
 
 
草津町草津442-1
真言宗豊山派 御本尊:薬師如来
札所:関東九十一薬師霊場第44番
朱印尊格:薬師如来 直書(筆書)
札番:なし(御本尊の御朱印)
・関東九十一薬師霊場で申告した御朱印の尊格は御本尊(札所本尊)の薬師如来で、霊場無申告でも同様と思われます。
薬師如来の種子「バイ」(蓮華座+火焔宝珠)の御寶印と「薬師如来」の揮毫、右上には「日本三薬師」*の印判が捺されています。
*)これは「日本三大温泉薬師」のことだと思われます。あとひとつは有馬の温泉寺ですが、もうひとつは明確に定まっていないようで、光泉寺の公式Webには山中の湯、城崎の湯、道後の湯のいずれかのお薬師様ではないかとの旨の記述があります。
(「日本三大薬湯」(有馬温泉、草津温泉、松之山温泉)にちなむお薬師様だとしたら、松之山温泉の薬師堂でしっくりくるかもしれません。)

吾妻エリアではめずらしい真言宗のお寺で、関東九十一薬師霊場第44番の札所でもあります。
養老五年(721年)行基による開基と伝わり、正治二年(1200年)白根明神の別当寺として草津の領主湯本氏が再建、僧職は鎌倉幕府から地頭職を賜い白根庄の領有を許されていたともされる草津温泉の保守本流的なお寺。
旧郷社、白根神社の別当寺であったことからも、草津温泉における重要なポジションがうかがわれます。

湯本氏はこの地の名門で、木曾義仲に仕え、のちに建久四年(1193年)、源頼朝公が浅間山麓で巻狩りを行った際に案内役となり、湯本の姓と三日月の家紋、そして草津の支配を認められたといいます。
頼朝公の浅間巻狩りは草津温泉の開湯伝承にも数えられますから、湯本氏は草津の開湯にまで遡る古い家柄とみることができます。

 
〔白旗源泉説明板〕
建久四年(1193年)鎌倉将軍頼朝公が浅間山六里ヶ原の巻狩の折、この草津まで騎馬を進めあれはてた源泉地を改修しみずから入浴されたと伝へられる。以来この湯を御座の湯と呼び、その後いつの頃からか祠を建てて頼朝公を祀った。現在の頼朝宮は天明二年(1782年)八月に改築されたもので、草津温泉伝承(光泉寺蔵温泉奇効記)を今に伝え、草津温泉の入浴客の深い信仰をあつめてきた。
明治二十年、白旗の湯と改称されたが、旧源泉は、この湯畑に沈んでいる小さな湯枠の中と考えられる。草津温泉の開湯伝承につらなる歴史的遺跡である。
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湯本氏が歴史上活躍するのは戦国時代です。
永禄六年(1563年)、岩櫃城に拠る上杉方の斎藤氏を真田氏が攻め落としましたが、その際、湯本善太夫・三郎兵衛門は真田方につき、勝ち戦の恩賞として草津谷の領有を安堵されたといいます。
湯本善太夫は真田氏同様、甲斐・武田軍の与力となり各地を転戦、長篠の戦いで討死したといいます。

以降、天和元年(1681年)草津谷が天領となるまでこの地を領したとみられています。
湯本氏は真田沼田藩の家老であったとされますが、草津谷が天領となったのは延宝八年(1680年)、真田沼田藩の改易・天領化を受けてとみられます。

 
 

湯畑、白旗源泉のすぐ横から山手に登る階段が参道で、観光客も多く入り込んでいます。
階段をのぼると山門。三間一戸の単層、金属葺木部朱塗りで仁王尊が御座す仁王門です。

本堂前向かって右手に奥まって、「遅咲き如来」が御座す釈迦堂。
元禄十六年(1703年)、江戸の医師外嶋玄賀宗静の発願、草津村湯本弥五右衛門が施主となって建立。志賀の夢告にもとづき、桁行二間、梁間二間の四間藁葺で寄棟造。

木部朱塗り、屋根に鬼瓦、藁葺の唐破風向拝を擁し、屋根は起り気味で独特の形状です。
扁額は「釋迦堂」。多彩な枓栱、海老虹梁、木鼻の獅子、蟇股部の彫刻、左右の花頭窓など、意匠的にも見どころがあります。
釈迦堂に御座す釈迦如来は、「遅咲き如来」として知られ、元禄時代東大寺公慶上人の御作です。

本堂は入母屋造金属板葺照り屋根。向拝付き木部朱塗り。扁額は山号「草津山」。
御本尊は薬師如来です。

境内には温泉の守護神「湯善堂」、湯浴み弁財天、湯泉観音、初代熱の湯湯長野島小八郎の碑など、温泉にかかわる尊格や碑が建立されています。

〔湯浴み弁財天略記(境内掲示)〕
養老年間(717年~724年)行基菩薩はこの地にたち眼下に光る泉を見出しそれがただの泉でなく万病にきく温泉であることを喜び薬師如来をまつり光泉寺を開く以来泉は人々の病をいやす慈悲の泉となり今日の草津温泉の源となった
この池はそれにちなみ「慈悲の泉」となずけられ名湯草津温泉に浴し身も心も清浄になった喜びと感謝の姿をあらわす湯浴み弁財天をおまつりした 
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境内左手の趣ある庫裡が授与所です。
御朱印帳も頒布されていますが、御朱印帳を持っていない参拝客には書置御朱印が授与されているようです。
参拝客の多い観光地のお寺にもかかわらず、お寺さんの対応は丁寧なものでした。

05.妙立山 日晃寺
 
 
草津町草津540
日蓮宗
御首題

安政四年(1857年)草津祖師堂として創建、昭和3年に日蓮宗草津教会に改称し、昭和21年に身延山の許可を得て妙立山日晃寺(正規の日蓮宗寺院)に昇格したとされる日蓮宗のお寺。
草津温泉の北東に位置するため、温泉街の鬼門鎮守として信仰されていたようです。
吾妻エリアに日蓮宗の寺院は少なく、貴重な御首題を拝受できます。

〔境内の掲示〕
当山わ通稱祖師堂と稱す 延享三年(1747年)一宇建立記念供養碑あり降って弘化年間(1845年~1848年)一堂建立す 草津町鬼門除の祖師として町民の信仰の中心なり 大正年間身延山説教所となり又草津教会を経て昭和二十二年日晃寺と公稱す 
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大阪屋旅館の横手の道を登った桐島屋旅館の手前に参道の階段があります。この周辺に共同浴場はないので、温泉マニアからするとブラインド的な立地です。

参道入口にお題目塔。石段両脇に2つの寺号標はめずらしいと思います。
石段正面に本堂。
本堂の全容が掴めず、しかも庫裡とつながっているので詳細不明ですが、身舎ベースで桁行三間向拝流れ屋根付一間、寄棟造平入りではないかと。
身舎の規模のわりに向拝屋根のせり出しが大きく、雨雪の多い草津の気候を配慮したつくりにも思えました。

ブラインド的立地ながら参拝客は少なくないようで、御首題も手慣れた感じの授与でした。
日蓮宗なので御首題帳にいただきましたが、他宗まじりの御朱印帳の場合、「妙法」となるのか、はたまた授与いただけないのかは不明です。

06.白根神社
 
 
草津町草津538
御祭神:日本武尊
旧社格:郷社
旧別当:光泉寺
授与所:参道階段左手前の蕎麦屋「松美」
朱印揮毫:白根神社 印判

神社御朱印です。
温泉街からだと関の湯の前をさらに下っていくと左手に参道入口があります。
急な階段を登っていくと思いがけず広い境内と立派な社殿にびっくり。

氏子をもたれているかはわかりませんが、旧郷社と社格は高く、鎮守社であればおそらく範囲は草津温泉に留まらないかと思われます。

祭神は日本武尊。白根山を祀る神社で、白根山上に鎮座する本社の遥拝所が明治六年、郷社に列格した際に温泉街を見下ろすこの地に移られたようです。

社頭右手に「(郷社)白根神社」の社号標。その先に総丸材の石造神明系鳥居。
石段をのぼりきると左手に手水舎。その先に両脇に石灯籠が並ぶ参道。
その先に石造明神鳥居で、「白根大明神」の扁額が掲げられています。
さらにその先に狛犬一対。向かって右が「子取り」、左が「玉取り」で、端正な仕上がりです。

拝殿は石積みの上に入母屋造平入りで銅板葺向拝付き。拝殿の扁額は社号「白根神社」。
積雪地らしくがっしりとした向拝。巴紋付きの白地の拝殿幕が厳かな雰囲気を醸し出しています。

うかつにも見逃しましたが、境内には古い共同浴場「鷲乃湯」の由来などが記されている碑があるそうです。

 
参道階段左手奥には、諏訪大社上社草津白根分社と沼神社が鎮座しています。

御朱印は参道階段左手前の蕎麦屋「松美」にて拝受できます。
御朱印帳に捺していただく印判タイプで、書置があるかは不明なので、御朱印帳持参が確実かと思います。

07.草津穴守稲荷神社
本社の公式Web
草津町西ノ河原公園
御祭神:豊受姫命
授与所:確定情報ではないですが、白根神社参道階段左手前の蕎麦屋「松美」にて拝受できる可能性があります。
※未参拝です。参拝次第、追記します。御朱印は授与されているようです。

明治四十年ごろ、東京の山崎染物店の主人が草津へ湯治に通い、病気平癒の記念に常々信仰していた羽田の穴守稲荷をこの場所に分霊し勧請したそうです。
平成13年に草津町内有志により改築されています。

羽田の穴守稲荷と同様、お砂「招福の砂」をいただけるようです。

08.密岩神社
 

東吾妻町大字郷原1126
御祭神:密岩権現?
授与所:東吾妻町観光協会(JR群馬原町駅構内)か平沢登山口観光案内所
※参拝済ですが、御朱印は未拝受です。上記授与所で、密岩神社、金剛院(観音山不動)、岩櫃城の御城印の3点セットを授与いただけます。
→案内情報

古来よりランドマーク的な岩山は修験の聖地となることが多いですが、上州吾妻の名山、岩櫃山も例外ではありません。
また、この地には上州屈指の堅城、岩櫃城が築かれ、こちらも神仏とのゆかりがあります。

永禄六年(1563年)甲斐・武田方の真田幸隆は、岩櫃城に拠り上杉の麾下にあった斎藤基国を攻め、落城させました。
このとき身ごもっていた基国の奥方は基国とちりぢりになり、岩櫃山の洞穴で子を産み落とし育てました。

奥方は、わが子を里人に託し、夫基国を求めて旅に出ましたが基国と巡り会うこと叶わず、帰り着いた岩櫃山の洞穴の中で落命しました。
すると一筋の煙が立ちのぼり観音様のお姿が現れるとともに、奥方の屍は跡形もなく消え去りました。
奥方の不運を哀れんだ里人たちは、密岩権現として祀り手厚くその霊を慰めました。

奥宮とされるもともとのお社は岩櫃山の中腹にありますが、参道は難路で現在は立ち入り禁止です。
古来、密岩神社を崇敬してきた古屋集落の方々により平成23年(2011年)里宮が設けられ遷座されました。
里宮の地は、岩櫃山が前面に広がる眺望の地で、東吾妻町はパワースポットとしてPRを進めています。

09.瀧峩山 金剛院(観音山不動)
東吾妻町
授与所:東吾妻町観光協会(JR群馬原町駅構内)か平沢登山口観光案内所
※未参拝です。参拝次第、追記します。上記授与所で、密岩神社、金剛院(観音山不動)、岩櫃城の御城印の3点セットを授与いただけます。
→案内情報

岩櫃山の群馬原町寄りにある柳沢城跡(岩櫃城の支城)の下、不動滝のよこにある観音山 不動堂を指しているようで、修験系の寺院とみられます。
1.大洞山 雲林寺を開基した海野(羽尾)幸光は、修験とのかかわりもあったとみられているので、ゆかりの寺院かもしれません。
岩櫃城の鬼門鎮守として建てられたという説もあるようです。

〔 岩櫃城について 〕
古来、この地は吾妻(あがつま)氏の本拠で、岩櫃に拠ったのは、藤原氏秀郷流の吾妻斎藤氏とされます。関東管領・山内上杉家の配下にあり、同族の大野氏とともに吾妻郡に勢力を張りました。

戦国時代の当主は岩櫃城主、斎藤憲広で、郡西の羽尾氏、鎌原氏と領地を巡る駆け引きを繰り返しました。
羽尾氏、鎌原氏ともに信濃の滋野一族の流れで、おおむね羽尾氏は斎藤氏寄り(上杉方)、鎌原氏は真田氏寄り(武田方)であったとみられています。

永禄六年(1563年)、岩櫃城は真田・鎌原勢の攻勢を受けて落城。、城主斎藤憲広は越後(ないし上野)に落ちのびたとされます。
岩櫃城の支城である嵩山城には憲広の子憲宗と弟虎城丸が残り抵抗をつづけましたが、永禄八年(1565年)に攻められて落城。
ながらく上杉方として吾妻に勢力を張った斎藤氏はここに滅亡しました。

以降、岩櫃城は真田氏の支配下に入り、武田氏の版図に組み込まれます。
天正十年(1582年)、織田・徳川軍の甲斐侵攻を受けて劣勢となった主家の武田勝頼を真田昌幸は岩櫃城へ迎え入れ武田家の再興を図ろうとしましたが、これはかなわず武田家は滅亡しました。

その後、岩櫃城は真田信之の支配下に入り、慶長十九年(1614年)に破却されました。
要害の地に建つ典型的な山城で、脚光を浴びたのも戦国時代。
武田家や真田家ゆかりの逸話をもち、戦国武将ファンには見逃せない城ではないでしょうか。

10.(岩下)菅原神社
 
   
東吾妻町大字岩下1582
御祭神:菅原道真公
授与所:境内社務所
朱印揮毫:菅原神社 直書(筆書)

由緒などはよくわかりませんが、しっとり落ち着いた神社で、ご神職がいらっしゃれば御朱印を拝受できます。

参拝は木造の明神鳥居(二の鳥居)からとなりました。灯籠一対、狛犬一対。
石段をのぼると三の鳥居で木造の明神鳥居です。拝殿のすぐ下に木造の冠木門。
写真の構図が拙く、いまひとつよくわからないのですが、桁行三間の入母屋造妻入り銅板葺唐破風向拝付きではないかと思います。

向拝梁木鼻は正面獅子、側面貘。梁に雲形の彫刻、梁上に龍、唐破風拝飾に朱雀とみられる彫刻が施されています。
唐破風の鬼板も見事なものです。

向かって右手の神楽殿方向には、千鳥破風が設けられています。
つまり、入母屋の妻入り方向に唐破風の拝殿、平入り方向に拝殿と45度の角度をもって千鳥破風が設けられているという構図です。
この千鳥破風は入母屋破風に近いほど規模が大きく、梅紋入りの鬼板と破風拝飾り、懸魚、破風尻飾りと数々の装飾が施されています。
神楽殿の基礎は拝殿よりむしろ高く、入母屋造銅板葺妻入りで縁高欄をまわしています。

当社は「太々神楽」で有名です。その関係もあって、神楽殿向きに破風を設ける必要があったのかもしれません。

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以降は、国道406号(草津街道・信州街道)沿いの寺社のご案内になります。

草津街道(信州街道)は、中山道の高崎宿から分岐し、神山宿、室田宿、三ノ倉宿、大戸宿、本宿、須賀尾宿、長野原宿を経て草津温泉に至る道筋で、中山道ルートにくらべて距離が短いので、北信濃諸藩と江戸の往来や草津温泉への湯治などに多く利用されました。
北信濃、とくに小布施や須坂は菜種油の量産地で、この輸送は主に草津街道(信州街道)経由だったため、この道は「油街道」とも呼ばれ、沿道の宿場町はたいそう栄えたそうです。

東吾妻町大戸には大戸関所があり、現在も関所跡が残ります。
このそばには、大戸の関所を破ったかどで処刑された国定忠治刑死場跡があり、勝負運や脳卒中除けに霊験あらたかといわれる忠治地蔵尊が祀られています。御朱印は授与されていないようです。

 
【写真 上(左)】 大戸関所跡
【写真 下(右)】 忠治地蔵尊

〔大戸関所跡の説明板〕
大戸関所は、信州街道の要点をおさえる重要な関所で、近世初頭の寛永八年(1632年)に設置された。信州街道は草津温泉を初めとする湯治客。善光寺参り、北信濃の三侯の廻米や武家商人の荷物、各地の産物の輸送路として、中山道を凌ぐ程の活気を呈したともいわれ、江戸と信濃を結ぶ最短距離として重要な街道であった。別名信州道、草津道、善光寺道、大戸廻りとも呼ばれていた。(中略)嘉永三年(1850)年に関所破りの罪を受け侠客国定忠治はこの地で処刑された。映画演劇や講談浪曲でも知られる處である。
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11.華庭山 天樹院 大運寺
 
 
東吾妻町大戸371
浄土宗 御本尊:阿弥陀如来
朱印尊格:南無阿弥陀佛 印判
札番:なし(御本尊の御朱印)
・中央に三寶印と六字御名号「南無阿弥陀佛」の印判。
左に山号・寺号と寺院印が捺されています。

榛名の西麓にある浄土宗の名刹。
南北朝時代の興国年間(1340年~1346年)、宝誉上人が京から恵心僧都御作の阿弥陀仏を背負って来られ、大戸村寺原に堂宇を創立、「浄土布教の地」として信者を勧請されたのが開山と伝わります。
天正年間(1573年~1593年)に当地に遷り、大戸・本宿・萩生の三村を檀徒としています。

御本尊は宝冠を戴いた木彫座像で「鎌倉時代の仏像の特徴とされる鋭い衣紋の線が何ともいえず美しいもの」とのことです。(山内掲示より)
「大運寺の本尊」として町指定重要文化財に指定されています。
大運寺は桜の名所として知られており、とくに山門手前の古木のシダレザクラは有名です。

参道入口の総門は、切妻造三間一戸桟瓦葺の四脚の単層門で、薬医門や三棟門のように左右の門に屋根がかかっています。(木戸はないが薬医門の一種か?) 本柱に寺号板。

山門は三門一戸の桟瓦葺、一層に桟瓦葺の屋根を配する堂々たる二重門。
木部朱塗りの華麗な意匠。二層中央の拝部に山号「華庭山」の扁額を掲げています。

さらに石段をのぼると本堂。
桁行八間ほど、入母屋造桟瓦葺唐破風向拝付き。
向拝梁木鼻は正面が獅子、側面が貘。梁上に見事な龍の彫刻。海老虹梁。格子天井。
桟唐戸上桟木連格子窓下桟入子板、長押部に彫刻。上部に寺号「大運寺」の扁額。
破風拝に彫刻、獅子口に経の巻三個と紋章。
規模はさほどではないですが、しっとりと落ち着いたイメージです。

お伺いしたときは丁度法要が始まるところでしたが、「はんこの御朱印紙でよければ」とのお言葉をいただいたので、ご厚意に甘えて拝受しました。

12.諏訪山 東善寺
公式Web
 
  
高崎市倉渕町権田169
曹洞宗 御本尊:釈迦牟尼佛
朱印尊格:釋迦牟尼佛 / 英豪大器 直書(筆書)
札番:なし(御本尊・英豪大器の御朱印)
〔御本尊の御朱印〕

・中央に三寶印と御本尊「釋迦牟尼佛」の揮毫。
右上に山号印。左上に小栗上野介忠順のお姿印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔「英豪大器」の御朱印〕

・中央に三寶印と「英豪大器」の揮毫。
右上に小栗上野介●●の揮毫。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
「英豪」とは英雄豪傑、「大器」とは並みはずれて優れた器量を備えた人物をあらわすので、小栗上野介の人となりを示す揮毫かと思われます。
(通常は御本尊の御朱印のみのようです。「英豪大器」の御朱印も所望すると、寺庭さま?は少しく驚かれたご様子でしたが、ネットで見た旨お話しすると納得されておられました。この御朱印は書き手(ご住職)がご不在だと書けないとの由。)

幕末の名奉行、小栗上野介忠順(ただまさ)ゆかりの曹洞宗寺院。
寺伝によると、開創は寛永十年(1633年)。宝永元年(1704年)に権田村が小栗家の知行地となり小栗家との縁が始まりました。
開山は円室存察大和尚、開基は洞庵首座、中興開基は高屋寺殿永山良傑居士(小栗政信公・小栗家五代)と伝わります。

小栗上野介は文政十年(1827年)に生まれ、三河小栗氏第十二代当主で二千七百石の旗本。
攘夷論が主流の幕府内で一貫して開国思想を深め、万延元年(1860年)、遣米使節目付役として日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、世界一周して帰国。
その後数々の奉行を務め、海外の技術を積極的にとり入れて、幕府の財政再建、洋式軍の整備、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設、仏語学校の建設など数多の事績を残しました。
高崎市倉渕支所の史料には、「『明治の近代化は小栗の敷いたレールの上になされた』といわれるほどの、大きな業績」と記されています。

薩長軍の東征に際して主戦論を唱えるも容れられず、慶応四年(1868年)3月に罷免され領地である上野国権田村の当寺に隠遁。
同年閏4月、東山道総督が追捕し、水沼村鳥川原にて斬首されました。
享年42歳。墓所は養子の又一、殉職の家臣の墓とともに当寺にあります。
落命の地、水沼川原には顕彰慰霊碑が建立されています。

参拝者が多いらしく広い駐車場。
山内入口左右には「渓声便是広長舌」「山色豈非清浄身」(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ さんしきあにしょうじょうしんにあらざらんや)の禅語(中国北宋時代の詩人蘇東坡の詩)の石標が掲げられています。
その奥に寺号標。
坂をのぼって手前に庫裡。茶菓子を出されており庭で楽しむことができます。
小栗公遺品館もあり、遺品館・庫裡・本堂の展示資料を有料で拝観できます。

奥に本堂、小栗公と公の朋友栗本鋤雲の銅像、六地蔵、小栗公の墓所とつづきます。

本堂は入母屋造銅板葺正面向拝付き。虹梁に板蟇股、梁両端に斗栱。がっしりとした海老虹梁。扁額は寺号「東善寺」。
桟唐戸上・中桟格子窓下桟入子板。長押部の雲形木板に唐草文様彫刻。
妻部は鬼板、懸魚、狐格子を備え、均整のとれた禅寺らしい本堂です。

13.蓮華院(水沼観音)
 
 
    
高崎市倉渕町水沼1303
真言宗豊山派 観音堂御本尊:千手観世音菩薩
朱印尊格:観世音 書置(筆書)
札番:なし(観音様の御朱印)
※本堂御本尊の御朱印は不授与とのこと。
・中央に三寶印と「(北向厄除)観世音」の揮毫。
右上に火焔宝珠の印。左下には院号の揮毫と寺院印が捺されています。

名湯で知られるくらぶち相間川温泉のそばにある観音様で知られる真言宗寺院。
山内に由緒書はなく、Web情報もほとんどとれませんが、高崎新聞の記事によると、「本尊の千手観音像は自覚大師(ママ 慈覚大師?)の手によるといわれる秘仏です。節分の日には厄落としの人で賑わいます。」とのこと。

石段の参道の先に朱色の山門とそのおくに観音堂。
山門は切妻造金属板葺の四脚門で、門柱に寺号標。
さらにのぼって観音堂正面、右手に向かい正面が本堂です。
本堂は、入母屋造桟瓦葺向拝付きの渋い意匠、これに対して観音堂は朱塗りの華麗な意匠でふたつのお堂の対比があざやか。

観音堂は独特なつくりです。寄棟造にボリュームのある唐破風をつけたような形状ですが、はたしてそうなのかわかりません。
しかも大棟の部分に共同浴場の湯気抜きのような構築物がついています。
屋根の勾配はすこぶる急で、どことなく兜造りのようなイメージがあります。

向拝梁の木鼻に獅子、梁上には龍の彫刻。正面の桟戸は上段が黒い木連格子、下段が朱と黒の連子で、華々しいイメージのある仏殿です。
山門のたたずまいや観音堂の華やいだ雰囲気からして、かつては相応の参拝客を集めていた感じがあります。

倉渕は道祖神や露仏(とくに馬頭観音)の宝庫で、これは草津(信州)街道のかつての賑わいを示すものかと思います。

14.済度山 龍水院 大福寺
 
 
  
高崎市倉渕町水沼1303
天台宗 御本尊:不動明王
札番:北関東三十六不動霊場第3番
朱印尊格:瀧不動 書置(筆書)
札番:北関東三十六不動霊場第3番印判
※ご不在につき郵送にて拝受しました。前後の札所でも拝受可能というWeb情報あり。
・中央に札所本尊不動明王の種子「カーンないしカンマン」の御寶印(火焔宝珠)と「瀧不動尊」の揮毫。
右上に「北関東三十六不動霊場第三番」の札所印。左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。

寺伝によれば、約千二百年前、最澄(伝教大師)が東国を巡錫された折(弘仁八年(817年)~)、榛名の舟尾山寺に立ち寄られ一体の不動明王像を彫り、当寺に堂宇を建立し安置されたと伝わります。
舟尾山寺がはっきりしませんが(柳沢寺?)、当寺御本尊は伝教大師の御作ということになります。

伝教大師は堂宇に納めた不動尊に水を供えようと呪文を唱えられ、手にされた「独鈷」を岩に投げつけたところ、そこから清泉が湧き出したといわれます。
大師曰く「滝に沐浴すれば総じて苦悩を洗い、去りて秘境の極に至ることこの清泉に勝るものなし」とされ、これにより「独鈷泉」とも称されます。

とくに脳病平癒に霊験あらたかとされ、上州のみならず東国近隣にまで「室田の瀧不動尊」として広く知られていたそうです。

こちらは北関東三十六不動尊霊場第3番札所です。
北関東三十六不動尊霊場は、群馬・栃木・茨城の三県にまたがる36の不動明王を巡る不動尊霊場です。
「三密修行の道場」とされ、群馬の寺院は『身密の道場』、栃木の寺院は『口密の道場』、茨城の寺院は『意密の道場』とされています。
(間違えやすいのですが、関東三十六不動尊霊場とは異なります。)
昭和63年4月に開創された比較的新しい霊場で、霊場会が組織され、ほとんどの札所で御朱印も拝受できる模様です。
ただしご不在気味の札所が多い感じもあるので、事前問合せがベターかと思います。

鳥川沿いにあるので、街道からだと下り参道となります。
水とゆかりのふかい不動尊霊場や弁天様霊場でよくみられる形です。

坂道を降りきった山内入口に「瀧不動大福寺」の寺号標と六地蔵。
山内には「独鈷泉」の滝下に御座す露仏の不動尊、不動堂、弁天堂、薬師堂などが点在し、祈願霊場特有のパワスポ的雰囲気が感じられます。
なお、こちらは「下室田町の大福寺の境外仏堂」という情報がありますが、詳らかでありません。

瀧不動本堂は明和四年(1767年)に室田村の名工清水谷仁右衛門藤原貞宴の作と伝えられ、御堂内部に向拝を設けているという特徴があるそうです。
高崎市指定重要文化財に指定されています。

「御堂内部の向拝」はよくわからなかったのですが、おそらく入母屋造銅板葺妻入り、唐破風向拝一間付き。
向拝上の扁額は「瀧不動明王」。向拝柱に「北関東三十六不動尊霊場第三番札所」の札所板。
向拝柱が2連あるような変わった形状(奥のは母屋柱かも)で、手前の木鼻は獅子と貘。奥の木鼻は獅子2で、ともに彩色が施されています。
桟唐戸上桟格子窓下桟格子状の入子板。

組物が複雑すぎて正直よくわからないのですが、とりあえず書いてみます。(ぜんぜん違うかもしれません(笑))
尾棰と鬼斗らしきものはあり、少なくとも三手先はあると思います。
地垂木と飛檐垂木が明瞭で密な「二軒繁垂木」。
二重虹梁かどうかは不明ですが、梁は二本で、彩色の浮き彫りがみられます。
手前の向拝柱上部の斗が内側に伸びて小斗が5個見えます。(通四ツ斗?)
二本の梁のあいだは笈形の形状となっていますが、大瓶束はありません。
手挟みに花文様の彩色彫刻。海老虹梁。

不動堂らしい、インパクトのある仏堂です。

納経所はありますが参拝時はご不在だったので、御朱印は後日郵送いただきました。

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●その他に御朱印を拝受した寺院がいくつかありますが、原則不授与のようなので、こちらでのご紹介は控えます。

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宿泊は自家源泉*の「ホテルみゆき」にとりました。これで入浴可能で未湯の草津の源泉はおそらくあとふたつだと思います。(いずれもお高いので難物(笑))
*)使用源泉は、みゆき第一源泉・西ノ河原源泉の混合泉
 

【関連ページ】
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■ 希少な札所印Part-1 (東京・千葉編)
■ 希少な札所印Part-2 (埼玉・群馬編)

【 BGM 】
Heaven Beach - Anri / 1982

あまりに懐かしすぎる名曲。いろいろな想い出が詰まっていて感慨なくして聴けぬ。
3:14~のストリングス。時代じゃな(笑)
Heaven Beach、消されちゃったので、とりあえず替わりにこちらを。↓ (直リンならこちらから聴けます。)
ANRI - LONG ISLAND BEACH(1985)

ちと時代が下るけど、1985年「WAVE」からの名バラード。
当時、ドラマティックなバラードを歌わせたら敵無しだったと思う。

海のキャトル・セゾン - とみたゆう子 / 1982

ミルキー・ヴォイスといわれてた甘~いハイトーン。

当時はどちらもひたすら聴いてたもんな~。やっぱり昔からハイトーンフリークだったのかも・・・(笑)

熊田このは 『花』 まねきの湯 16Dec2017

でもって、いまもやっぱりハイトーンフリーク・・・(笑)

熊田このは「手と手」2019/11/04 Birth Day 2MAN LIVE 溝ノ口劇場

1stCD、2019/11/03リリースです。

熊田このはさんの特集
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