goo

■ 平林寺の御朱印

4/17、新型コロナ禍で中止となっていた平林寺の半僧坊大祭がひさびさに開催されました。

■ 平林寺の半僧坊大祭(2015年の様子)


大祭当日は拝観料はかかりませんが、仏殿から奥のエリアは立ち入り禁止となります。
また、普段は閉門の半僧門が開門され、総門には幔幕がめぐらされて中央が通行可能となります。

開場は10時、半僧坊感応殿では14時から大般若祈祷が催行されるので、周辺は13時45分以降立ち入り禁止となります。

御朱印は、半僧坊感応殿よこで書置の特別御朱印が授与されていました。
筆者は昼頃に退去したので詳細不明ですが、御朱印授与は13時30分頃までだった可能性があります。

少なくとも2017年までは、半僧坊大祭の特別御朱印の揮毫は「半僧坊大権現」だった模様ですが、今回は「南無釈迦牟尼佛」で通常と同様です。
(「半僧坊大権現」の御朱印についてお伺いしましたが、今回は「南無釈迦牟尼佛」のみとのこと。)
ただし、通常御朱印の三寶印ではなく、半僧坊大権現の御紋である「羽団扇紋」の印判が捺されています。

新緑の盛り、平日ながら平林寺周辺は賑わいをみせていました。


■ 半僧坊大祭の特別御朱印
今回も相方と1人1通宛計2通拝受しました。揮毫なので微妙に筆致が異なります。


【写真 上(左)】 前面道路(平林寺大門通り)にならぶ屋台
【写真 下(右)】 開門される半僧門


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 半僧坊感応殿-1


【写真 上(左)】 半僧坊感応殿-2
【写真 下(右)】 半僧坊感応殿-3


【写真 上(左)】 開門される総門
【写真 下(右)】 総門の幔幕


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 仏殿

--------------------------
2021/10/31 UP

本年の平林寺の御朱印授与については、3/1から開始されておりますが、こちらに「例年11月〜翌2月の期間中は、御朱印のご用意はありません。」と記載のとおり、本日10/31をもって年内の御朱印授与は休止となる可能性があります。(本日の授与についても参拝してみないとわかりませんが・・・。TEL問い不可です。)

紅葉にはまだ早く、天気もいまいちの感じですが、お近くの方は投票の後にでも出向かれてみてはいかがでしょうか。
(なお、今春4/17に予定されていた半僧坊大祭は新型コロナ禍により中止となり、「半僧坊大権現」の特別御朱印も授与されておりません。)



↑ 写真は昨年12/10前後の紅葉です。

おとなりの朝霞市には、美女神社を含む朝霞五社巡りがあって、こちらもおすすめです。

また、おとなりの志木市にも、市内七社の神社をお参りする志木開運・招福七社参りがありますが、こちらは御朱印拝受難易度が高いと思われます。

あわせまして、同じくおとなりの所沢市でいただける御朱印もご案内申し上げます。→ こちら(埼玉県所沢市の札所と御朱印)
メジャー霊場や令和2年正月に開設された所沢七福神(御朱印通年授与)があり、授与神社も多く、御朱印をいただきやすいエリアです。

いまやカップルの聖地?と化した川越にもほど近いので、車であればAMは平林寺で紅葉狩り、PMは川越で御朱印&グルメ三昧という、欲張りなデートを組むこともできます。
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)

新座市に近い富士見市でも御朱印を授与される寺社がいくつかありますが、拝受難易度は比較的高くなっています。
■ 埼玉県富士見市・ふじみの市・三芳町の御朱印


-----------------------------
2020/10/10 UP

金鳳山 平林寺
埼玉県新座市野火止3-1-1
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
公式Web

武蔵野の名刹、平林寺。
いまも禅宗の修行道場として機能し、深い雑木林を抱えるこの寺院は一般の拝観も許されています。
御朱印についてはながらく授与を中止していたようですが、現在、条件つきながら授与を再開されています。
先日、参拝し御朱印を拝受してきましたので、ご紹介します。

武蔵国屈指の名刹だけあって『新編武蔵風土記稿』にも当然掲載されています。
「境内六萬坪余 金鳳山ト号シ臨済宗ニテ京師妙心寺ノ末ナリ 寺領五十石ヲ賜ヘリ 境内ノメクリ多摩川分水ヲ引テ限レリトイヘリ 寺ノ後ノ方ハ喬木ヲヒシケリテ山野ノ如シ」と紹介されていますが、「寺ノ後ノ方ハ喬木ヲヒシケリテ山野ノ如シ」というくだりは驚くべきことに現在でも変わっていません。

公式Web掲載の寺伝および『平林寺史』によると、南北朝時代の永和元年(1375年)、現在の岩槻の地に創建。
開基は大田備州守春桂蘊沢居士、開山には鎌倉建長寺住持、石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師が迎えられました。

開基の大田備州守は太田道灌(資長)の父、太田資清(道真)ともいわれますが、資清の生年は応永十八年(1411年)とされ、平林寺創建の永和元年(1375年)にはまだ生まれていません。
先代(太田資房)以前の人物の開基だったのかもしれません。

石室善玖禅師は中国に渡り、帰朝後京都万寿寺、天龍寺、鎌倉円覚寺、建長寺と入られ、光格帝から「直指見性禅師」の勅諡号を宣下された高僧です。

天正十八年(1590年)、岩槻は豊臣秀吉の小田原征伐の戦禍を受け、平林寺も多くの伽藍を失い、塔頭の聯芳軒のみが辛うじて焼亡を免れました。

翌年、関東に入部した徳川家康公が鷹狩りで岩槻を訪れた際、聯芳軒で休息した家康公は軒主から平林寺の由緒を聞いて再興を約し、騎西郡内に五十石の朱印地を寄進。
天正二十年(1592年)には駿河臨済寺にて面識のあった臨済禅の名僧、鉄山宗鈍禅師を住持として招聘し中興が果たされました。

公式Webによると「平林寺は建長寺派、大徳寺派の系譜を経て、妙心寺派としての新たな歴史を刻んでいきます。」とのこと。
(現在も臨済宗妙心寺派の別格本山として、高い寺格を保っています。)

徳川家臣として三河から関東入りした大河内秀綱は、平林寺の大檀那となって山門や仏殿など諸伽藍を再建しました。
大河内氏は摂津源氏源頼政流とされ、三河の吉良氏の家老の家柄でしたが、天正十五年(1587年)大河内秀綱の二男正綱が家康の命で長沢松平家庶流の松平正次の養子となり、子孫は大河内松平家と称します。

正綱の兄久綱の子で正綱の養子となった伊豆守信綱は「知恵伊豆」と呼ばれた逸材で老中に進み、武蔵忍藩三万石から川越藩六万石と加増、家運は隆盛します。
信綱は大河内松平家を興し、平林寺を当家の菩提寺と定めて一族は代々大河内松平家廟所で供養されています。

寛文三年(1663年)、信綱の遺命を受けた子の輝綱により岩槻から野火止に移され、信綱が総奉行を務めて開削した玉川上水から分水された野火止用水は平林寺境内にも引かれました。

歴史に詳しい人なら、転封のある大名が一定の地(平林寺)に定まった菩提寺を持ちつづけられたことに疑問を抱くかも知れません。
実際、信綱の子孫は川越藩を去り、三河国吉田藩(七万石/伊豆守家)と上野国高崎藩(八万二千石/右京太夫家)に移っています。
しかし、高崎の右京太夫家は、野火止周辺の5か村は先祖の墳墓の地であるので所領したいと将軍綱吉公に願い出て、見事に将軍の知行宛行状を得て許可されました
知行宛行状の文面は「武蔵国新座郡の内先祖の廟所これ有り、願いに付いて永く下し置く。」
これにより、野火止周辺5か村は高崎藩の飛び地となり、平林寺の大旦那の立場を固めました。

川越藩は老中格の家柄が入る関東屈指の有力藩、高崎の大河内右京太夫家も老中を出す家柄で、そのなかで平林寺境内地を幕末まで確保できたのは、綱吉公直々のお墨付きと大河内右京太夫家の安定した政治力、そして野火止用水を拓いた信綱への信奉の念があった故かもしれません。

また、三河国吉田藩の大河内伊豆守家も老中を出す高い格式の家柄ですが、こちらも代々平林寺を菩提寺としており、ふたつの老中家が連携してこれだけの広大な廟所を営々と守ってきたとも考えられます。
なお、信綱の直系ではないですが、上総国大多喜藩(二万石/大多喜家)の墓所もこちらにあり、実質的には大名家3家の廟所となっています。

明治三十六年(1903年)、山内に禅宗僧侶の修行道場である平林僧堂が開かれました。
臨済宗妙心寺派の僧堂としては関東初で、以降、関東を代表する僧堂として各地から集まった僧侶が修行に励んでいます。
13万坪を超える広大な山内に広がる平林寺境内林は僧堂の修行環境を守るために大切に保全され、昭和四十三年(1968年)、国の天然記念物に指定されています。

平林寺は一般の拝観も許されています。
現時点の拝観時間は9:00 ~ 16:00(最終受付15:30)、拝観料は大人(中学生以上)500円です。
行事等により拝観不可、または拝観制限になる場合があります。

御朱印は拝観受付で書置のものを授与いただけます。
11月〜翌2月の期間中(混雑期)は、御朱印の授与はありません。
また、「当寺都合により予告なくご用意できない場合」があるそうです。
なお、4月17日の半僧坊大祭には特別御朱印が授与されます。

〔 御朱印 〕

中央に三寶印、寺院印と「南無釈迦牟尼佛」の揮毫。左には「野火止」と寺号の揮毫があります。
めずらしく、相方とで一人1通宛計2通拝受しました。筆致は似ていますが、揮毫なので細部は微妙に異なります。

平林寺に拝観者用Pはなく、周辺の有料駐車場も台数が少ないので、バスを利用した方がベターかと思います。(→バス便の案内
※近くの新座市役所駐車場はタイムスがコインパーキングとして運営し、比較的安価で利用できますが平日(開庁時)は混雑が予想されます。


【写真 上(左)】 川越街道沿いにある寺号標
【写真 下(右)】 総門対面の「睡足軒の森」も見どころ


-----------------------------

■ 境内案内図(平林寺パンフレットより/現在配布されていない模様)

拝観受付は新座市役所側、総門をくぐった左手にあります。
公式Webの境内案内図
なお、こちらは修行道場なので入山には細心の注意が求められ、各種掲示にある「入山者心得」に従っての拝観となります。


【写真 上(左)】 入山者心得
【写真 下(右)】 通用門(拝観受付)


【写真 上(左)】 総門(正面から)
【写真 下(右)】 総門(斜め前方から)



【写真 上(左)】 総門見上げ
【写真 下(右)】 総門の標板

総門(惣門)は県指定有形文化財(建造物)で、切妻造茅葺、単層の六本柱四脚門、妻部に蕪懸魚と花文様の脇懸魚を置いています。
総門からしてすでに格高の円柱使用です。
主扉(板両扉)は入場時閉門、退出時は開門していましたが、ここはおそらく常時通り抜け不可で、左手の通用門からの入場となります。

正面梁上に山号「金鳳山」の扁額、柱には「臨済宗 平林寺専門道場」の標板、手前には寺号標ではなく「天然記念物 平林寺境内林」の石標。
寺号標は、ここからはるかに離れた川越街道沿いに置かれています。
山号扁額「金鳳山」は、正保五年(1648年)、京都詩仙堂の石川丈山の手によるものとされます。

この南側には銅板葺の立派な半僧坊大権現の山門(半僧門)がありますが、通常は閉門となっています。平成二十九年(2017年)落慶の真新しい門です。


【写真 上(左)】 半僧門
【写真 下(右)】 拝観受付


【写真 上(左)】 総門(外)から山門
【写真 下(右)】 総門(内)から山門

総門から山門(三門)、仏殿、中門、本堂と一直線に並ぶ禅宗様式の伽藍配置で、寛文三年(1663年)の輝綱による移転時に、岩槻から移築されたものもあります。(→参考資料(新座市資料)


【写真 上(左)】 山門(正面から)
【写真 下(右)】 秋の山門

山門(三門)も県指定有形文化財(建造物)で岩槻からの移築。
入母屋造茅葺桁行三間一戸両脇間、梁間二間の堂々たる楼門(重層門)でおそらく八脚門。
一層の両脇間に羅漢像が御座し、上層中央に楼上桟唐戸とその上に「凌霄閣(りょうしょうかく)」の扁額。この扁額も石川丈山揮毫です。
楼内には松平信綱寄進の釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の釈迦三尊、および十六羅漢像が御座すそうです。
上層桟唐戸脇には花頭窓、周囲に高欄を廻し、見上げれば二軒の平行垂木に茅葺きの重厚な佇まい。
さすがに名刹の山門です。


【写真 上(左)】 山門(側面から)
【写真 下(右)】 山門上層


【写真 上(左)】 仏殿(正面から)
【写真 下(右)】 仏殿(斜め前方から)


【写真 上(左)】 仏殿向拝
【写真 下(右)】 仏殿軒裏

仏殿も県指定有形文化財(建造物)でこちらも岩槻からの移築。
桁行六間、梁間五間半の入母屋造茅葺で正面桟唐戸は開かれて、連子越しに殿内を拝せます。
両開きの桟唐戸は上部に格狭間を置き、両脇には花頭窓二連を配します。
扁額は江戸中期の書家三井親和の揮毫によるもの。
殿内には釈迦如来坐像、脇侍には迦葉尊者と阿難尊者が御座します。

新座市資料には岩槻から遷られたこちらの釈迦如来坐像が御本尊とありますが、本堂御座の釈迦牟尼佛が御本尊とする資料もあり、両佛御本尊かもしれません。

近くで拝観ができるのは仏殿までで、ここから本堂までのエリアは立ち入り禁止です。


【写真 上(左)】 中門
【写真 下(右)】 本堂

中門は左手の僧堂門(常時閉門)手前から望むことができます(県指定有形文化財(建造物)、通年閉門)。
総門と同様の切妻造茅葺の単層四脚門で、総門より小振りですが茅葺きの厚みはさほど変わらないので、茅葺屋根がすこぶるボリューミーに感じます。

僧堂門のそばに掲示版があり、修行僧の日常生活時間割が載っていました。
 暁鐘、開静(起床)  午前三時
 朝課(朝のお勤め)  (一時間位)
 粥座(朝食、粥)   四時
 座禅、参禅(禅問答) 四時半  
 作務(労働作業)   七時半
 提唱(禅書の講義)又は托鉢 この時間は日により
 仏餉(仏様に御飯を供えるお勤め) 九時
 齋座(昼食、麦飯、一汁一菜) 十一時
 作務         午後一時
 晩課(夕方のお勤め) 三時
 薬石(夕食、麦飯、一汁一菜) 五時
 昏鐘(入相の鐘)   日没時
 座禅、参禅      六時
 解定(消灯)     十時

これは2日ともたないわ・・・(笑)

奥にそびえる本堂は、遠目の木立越しにしか望めません。
入母屋造平入りの堂々たる建物。禅寺の本堂らしい、装飾の少ない端正なつくりのようです。

もともと堂外からの参拝は想定していないらしく、目立った向拝は設けられていません。
堂内には御本尊の釈迦如来坐像をはじめ、達磨大師坐像、大権菩薩倚像などが奉安されているそうです。
なお、現本堂は慶応四年(1864年)の火災で庫裡と共に焼失した旧堂に近い形で、明治期に再建されたものとのこと。(このときの火災でも、総門、山門、仏殿、中門は消失を免れています。)
本堂の扁額「平林禅寺」も石川丈山の揮毫で、正保三年(1646年)に信綱の父久綱が逝去した際、追善供養として信綱の弟・重綱らが洛東・詩仙堂の石川丈山に揮毫を依頼したものとされます。

本堂左棟は開山堂で、開山石室善玖禅師をはじめ歴代住職、松平信綱や大河内松平家一族の位牌が安置されています。

以上がメインの門と仏殿です。
この他にも拝観できる仏殿があります。


【写真 上(左)】 僧坊門
【写真 下(右)】 山内案内図

半僧坊感応殿は、山門の左手に少しく奥まったかたちで鎮座します。
浜松の奥山方広寺、鎌倉の建長寺と合わせて日本の三大半僧坊のひとつで、明治二十七年(1894年)、浜松の奥山方広寺の奥山半僧坊大権現からの分祀とされています。
(建長寺半僧坊からの分祀という資料もあり。)

毎年4月17日の半僧坊大祭では半僧門が終日開門され、門前には露店が並んで賑わいます。


【写真 上(左)】 半僧坊大祭時の半蔵門(開門)
【写真 下(右)】 秋の半僧坊参道


【写真 上(左)】 旧半僧門
【写真 下(右)】 半僧坊手水舎の玉取りの獅子


【写真 上(左)】 半僧坊感応殿
【写真 下(右)】 半僧坊感応殿の向拝


【写真 上(左)】 半僧坊感応殿の扁額
【写真 下(右)】 半僧坊感応殿の木鼻獅子

入母屋造平入り唐破風向拝付。唐破風鬼板、拝殿幕、屋根大棟、降棟鬼飾りには羽団扇紋。
向拝柱上には、皿斗つきの三ツ斗で巻斗は繰型仕上げ。中央に殿号「感応殿」の扁額。
向拝の水引虹梁には精緻な浮き彫り。木鼻の見返り唐獅子、中備の龍、兎毛通の鳳凰の彫刻はどれも素晴らしいもので、意匠的には山内でもっとも見どころの多い建物かもしれません。
半蔵門寄りには移築された旧半僧門が残っていますが、近くには寄れません。


【写真 上(左)】 大祭時の感応殿
【写真 下(右)】 紅葉の感応殿


【写真 上(左)】 放生池
【写真 下(右)】 弁天堂

半僧坊の裏手に放生池。中島には弁天堂が置かれています。
このあたりはすでにうっそうと茂る林のなかです。


【写真 上(左)】 経堂
【写真 下(右)】 戴渓堂

山門に戻り、仏殿に向かう参道左手に経堂、右手に戴渓堂(たいけいどう)。
経堂は二間四方、外縁を廻らせた宝形造。
寛文十二年(1672年)、松平久綱室の宗学院による寄進で、野火止移転後の建築物では古いものとされます。

戴渓堂は、日本に書法・篆刻を伝えた独立性易禅師を祀るお堂です。
宝形造茅葺の端正な堂宇で、禅師の念持佛であった聖観世音菩薩と独立性易禅師の像が安置されています。

なお、客殿の奥、隠寮エリアにある平林寺庭園は県の史蹟(名勝)に指定される池泉回遊式庭園ですが、拝観不可となっています。


【写真 上(左)】 片割れ地蔵
【写真 下(右)】 平和観音

拝観コースは、ここから本堂を左手に回り込むかたちで奥に進みます。
地蔵尊、平和観音を過ぎると、墓所エリアに入ります。
この地蔵尊は「片割れ地蔵」と呼ばれ、もとは1対だった地蔵の片方を平林寺に祀ったといわれています。

その先左手の墓所には増田長盛の墓、武田信玄次女(見性院)の供養塔があります。


【写真 上(左)】 山内の紅葉
【写真 下(右)】 増田長盛の墓

増田長盛はいわゆる「豊臣五奉行」のひとりで、文禄四年(1595年)には大和郡山城主として二十万石を領しましたが、関ヶ原の戦いで微妙な行動をとったことを咎められ領地は没収、高野山に入り僧籍に身を置きました。

家康公はもと「豊臣五奉行」の増田長盛が上方にいることを厭い、岩槻城主・高力清長預かりとなりました。
元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が大坂夏の陣で尾張家を出奔、豊臣氏に与したことを受け同年5月27日自害しています。
長盛の墓所は当初岩槻の平林寺にありましたが、寺の移転に伴い現地に移されています。

見性院は武田信玄の次女で重臣・穴山梅雪(信君)の正室ですが、この見性院供養塔の由来ははっきりわかっていないようです。

ただ、新座市資料では『大河内三家廟所控』および関連過去帳・系譜類のなかに「詳庵寿参禅定尼、文禄四年(1592年)八月十四日休心殿之祖母甲斐信玄より保科家之付、平林寺檀那初」「雪峯院詳庵寿参禅定尼、文禄四年八月十四日 大河内金兵衛秀綱母、平林寺檀那初」とあることを示しています。

天正十年(1582年)織田・徳川連合軍による甲州征伐の際、梅雪は織田・徳川方に通じ、その功績から武田宗家の継承を認められたとされます。
この時点で梅雪の正妻・見性院は武田宗家の正室の地位を得たことになります。
見性院は信玄の正室・三条夫人の娘であり、その資格は充分備えていたとみられます。

同年6月の本能寺の変ののち梅雪は宇治田原で横死し、穴山流の武田宗家は子の勝千代が嗣ぎました。
しかし勝千代も天正十五年(1587年)に早世したため、穴山流武田宗家は断絶しました。
家康公は名家・甲斐武田家の断絶を惜しみ、側室に入っていた於都摩の方(下山殿、武田家臣・秋山虎康の娘で穴山梅雪の養女)を生母とする五男・万千代(信吉)に武田の名跡を継がせました。
このときの万千代の後見人が見性院とも伝わり、天正十九年(1591年)万千代の生母・於都摩の方の逝去ののちには、見性院が養母となったともみられています。

武田信吉は下総小金城3万石~下総佐倉城10万石と加増を受け、慶長七年(1602年)には秋田に転封された佐竹氏に替わって常陸に入り、水戸25万石の大大名となりました。
このとき、旧武田家の遺臣も多く召し抱えたといいます。
名家・武田氏は水戸で大名家として存続するやにみえましたが、慶長八年(1603年)9月、信吉はわずか21歳で跡継ぎを残さず病没し、ここに水戸武田家は断絶しました。
この後水戸には家康公の末男・頼房が入り御三家のひとつ水戸徳川家を興しました。


【写真 上(左)】 見性院供養塔
【写真 下(右)】 野火止用水を渡る橋

見性院は水戸武田家断絶ののちも家康公に保護されて江戸城北の丸に居住し、2代将軍徳川秀忠が侍女のお静に生ませた子(幸松丸、後の保科正之)を養育したといいます。
元和八年(1622年)、見性院は江戸城内にて逝去し、墓所は知行地であったさいたま市緑区の清泰寺にあります。

幸松丸が養子に入った保科正光はもともと武田家臣で、武田氏滅亡後も信州・高遠城を預かり高遠藩2万5千石を立藩。
こうした武田氏とのゆかりもあって、幸松丸の養育に見性院が当たったのかもしれません。

中興開山の鉄山宗鈍禅師は甲斐武田氏の家臣・窪田氏の出とされ、武田信玄の菩提寺・恵林寺で得度されています。
窪田氏は武田家滅亡後も活動が目立ち、「八王子千人同心の祖形」(開沼正氏)にも窪田氏の名が複数みられます。

「大河内金兵衛秀綱母」の記述が気になったので調べてみました。
大河内秀綱(1546-1618年)は大河内松平宗家初代・松平正綱の父で、平林寺の大旦那です。
母は小見氏。小見氏は麻績氏とも記され、諏訪頼重の側室で武田勝頼の祖母にあたる女性は小笠原氏(甲斐源氏)の家臣・小見(麻績)氏の娘とされていることから、武田氏とも相応のゆかりがあったのでは。

いろいろと取り散らかしましたが、
1.平林寺檀那初の「雪峯院詳庵寿参禅定尼」は武田氏・保科氏ゆかりの女性とみられること。
2.中興開山の鉄山宗鈍禅師は武田氏家臣筋の家柄で、恵林寺(信玄公菩提寺)で得度されていること。
3.平林寺の檀那・大河内秀綱は武田氏ゆかりとみられる小見氏を母にもつこと。

以上から、武田氏再興・存続の中心的な役割を果たした見性院の供養塔が平林寺の境内に置かれているのではないでしょうか。

なお、先日入手できた『平林寺史』(542頁~)には、下記のとおり記述がありました。
・穴山梅雪は、武田家臣の窪田氏より出る鉄山和尚を駿河臨済寺に訪ねて親交を深めた。
・養女が家康の閨閥に奉仕するにあたって、養母見性院も介添をもって将軍家閨庭に出入したのであろう。
・妾腹の男児は高遠の保科正光の世継ぎとなり、名も正之と改めて保科家の人となって成人した。
・鉄山和尚・穴山梅雪・保科正光等の旧武田家家臣団の旧知旧縁は、家康天下の世界となっても、正之という寵児を抱えて強靱な結びつきを示し(た。)
・大河内の祖信政の室となった詳庵寿参尼もまた甲斐武田の家に出て、保科に仕えた経歴がある。
・武田・保科・大河内と移った信政室の寿参尼、武田・大奥・保科と転じた見性院、この間に将軍秀忠の子正之を擁して保科に参公した。
・(将軍)秀忠への阿りを幕閣に参与した経験のある(大河内)正綱が感じないわけは無い。
・鉄山和尚所縁の寺、平林寺に見性院の供養塔を建てたのは、大河内松平の正綱ではなかったか。


【写真 上(左)】 大河内松平家廟所
【写真 下(右)】 林床のヒガンバナ

野火止用水を橋で渡ると大河内松平家の廟所で、松平伊豆守信綱公の墓もこちらにあります。
玉垣の内に大ぶりな墓石が整然と並ぶさまは圧巻で、3,000坪の墓域に170基余りの墓石が配されているそうです。

- 知恵伊豆の墓に俳句が詣りけり - 高浜虚子

ここからは平林寺境内林。武蔵野の雑木林が広がります。
左手奥の「もみじ山」は紅葉の名所のようですが、現在周辺の公道拡幅工事のため散策路は閉鎖されています。


【写真 上(左)】 平林寺境内林
【写真 下(右)】 もみじ山


【写真 上(左)】 山内の紅葉
【写真 下(右)】 山内の紅葉

もみじ山手前で道は北に方向を変え、しばらく行くと右手に野火の見張台であったとされる「野火止塚」、さらに進むと左手の林のなかに「業平塚」があります。
「業平塚」も野火の見張台であったとされますが、在原業平が東くだりの折、ここで駒を止めて休んだという言い伝えがあります。
世紀のプレイボーイ、在原業平にちなんでか、このふたつの塚には美女にまつわるジンクスがあるようです。くわしくは→こちら

なお、「業平塚」については武蔵野の美貌の姫君・皐月の前(さつきのまえ)との恋物語が伝わります。
■ 志木開運・招福七社参り-1の2.舘氷川神社で取り上げていますが、こちらにも再掲します。

志木市のWeb資料によると、この地の郡司・藤原長勝は「柏の城」のそばの大蛇ヶ淵を埋めて水田にしようとしたところ、淵の主の大蛇の怒りに触れて工事は滞りました。
そこで長勝は日頃から尊崇篤い家宝の弘法大師お筆の不動明王に祈願したところ、夢枕で二本の矢を伝授され、長勝はこのうちの一本で大蛇を射たものの一本は射損じて窮地に陥りました。するとどこからともなく白衣の若者があらわれて、格闘の末に大蛇の首をはねました。
長勝の手柄で広大な水田を得たので人々は長勝を田面(たのもの)長者と尊称しました。

長勝には皐月の前(さつきのまえ)というすぐれて美貌の息女がおりました。
在原業平が東下りの折に当地に逗留し、皐月の前と恋におち、ある晩二人して「柏の城」から出奔しました。
長勝は家来に捜索を命じましたが、草深い武蔵野のこととて容易にみつからず、長勝は窮余の策として野に火を放ちました。

猛火は二人の身に迫りましたが、皐月の前が「むさしのは今日はなやきそ若草の つまもこもれり我もこもれり」という一首を詠み出すと、たちまちに火勢は収まり二人は「柏の城」に連れ戻されたとのことです。(志木市Web史料より)
このとき二人がかくれた場所が平林寺境内の「業平塚」とされ、「野火止」の地名もこの逸話にちなむものとされています。

伊勢物語にもこのくだりが記されています。(出所は →こちら(『伊勢物語』と業平伝説/近藤さやか氏 2016年))

<東下り・東国章段 第十二段>
「むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、ぬすびとなりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかに置きて、逃げにけり。道来る人、『この野はぬすびとあなり』とて、火をつけむとす。女、わびて、~ 武蔵野は今日はな焼きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり ~ とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。」


【写真 上(左)】 野火止塚
【写真 下(右)】 業平塚

「業平塚」で折り返す人が多いようですが、さらに奥に進んでみました。
このあたりはもっとも林が深いところで、すでに深山の雰囲気があります。


【写真 上(左)】 野火止塚の奥に進みます
【写真 下(右)】 キノコがはえていました


【写真 上(左)】 散策路最奥
【写真 下(右)】 埼玉の平野部とは思えません

平坦だった散策路に起伏がでてきて、ひとしきり降ったところに歴代塔所の参道入口。
林床はクマザザに覆われ、あたりは静寂につつまれて、とても東京にほど近い埼玉の平野部とは思えません。
二次林とされますが、そうとは思えない深い森の趣きがあります。
(筆者註:このエリアは2022年11月から倒木の危険があるため立入禁止となっています。)


【写真 上(左)】 歴代塔所への参道
【写真 下(右)】 高原の散策路のようです

一旦、「野火止塚」の手前まで戻り、左手の道を行くとすぐに大河内松平家の廟所に出るので帰路はこのルートが近道かと。

伽藍のたたずまいや荘厳な廟所もさることながら、この境内林にはおどろきました。
さすがに天然記念物に指定されているだけのことはあります。


【写真 上(左)】 山内の紅葉
【写真 下(右)】 山内の紅葉


国木田独歩の『武蔵野』には
「楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲へば、幾千萬の木の葉高く大空に舞ふて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち尽せば、幾十里の方域に亘る林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高く此上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気が一段澄みわたる。」
とありますが、この一節に描き出された武蔵野の風景が、平林寺ではいまも味わうことができます。


【 BGM 】
■ Endless Night - Jack Jezzro


■ "Joy Dancing" - Michael Colina


■ The Time Is Now - Michael Omartian
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )