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ライブ動画配信

仕事も一段落したし、当面「Stay Home」継続なので、しばらく気合い入れて(笑)ブログ書いていきます。

「3密」の代表施設としてライブハウスがあげられています。
休業を余儀なくされる状況で、運営者もミュージシャンも経済的に苦境を迎えていると思います。
コロナが長引けば、音楽界は壊滅的な状況になりかねません。

そんななかで注目を集めているのが、ライブ動画配信。

■音楽ライブ配信の“投げ銭”に注目 新型コロナでミュージシャンが動画配信へ

■ライブ動画配信をしているアーティスト

視るだけでは配信者の収入にならないので、音楽好きはぜひ「投げ銭」(ギフト)を・・・。
事前告知して、入場料決済者だけ入場できるシステムもつくれるような気がするけど、詳しくないので・・・。

熊田このはちゃんのkarasta
↑ あいかわらず、素晴らしい歌声です。
ギフトしてあげてね。
それと、「セトリ記事」もみてね。(癒されます)

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音楽の灯を消さないために、なにができる・・・??
不要不急なんかじゃない! ぜったいに必要。
コンテンツもテクノロジーも揃ってる。
みなさんの知恵を、工夫を、守るちからに・・・。

KOKIA - 夢の途中(LIVE)


森恵 - 茜色の約束


富金原佑菜 - 流星群


Yuna Ito - Endless Story


Angela Aki - This Love


Revo/梶浦由記(FictionJunction) - 砂塵の彼方へ....
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「3密」をさけて「三密」を

最初に「3密(さんみつ)」の言葉をきいたとき、密教の「三密」を連想してしまいました。
「三密」とは仏教(密教)の重要な教えで、「行動・言葉・こころ」の3つを整えることとされます。
くわしくは→ こちらを。

密教修行における「三密」では、「身密」は印相を組まなくてはならないし、「口密」は御真言を唱えなければなりません。
「三昧耶戒」(密教独自の戒律)のこともあるので、素人が修するのはむずかしいと思いますが、
基本的な心構えは、こちらに書かれているとおりで、
日々実践できるかと思いますし、たしかにコロナ対策に通ずるところもあるかと思います。

「病気に苦しむ人々を助ける仏様」は薬師如来(薬師瑠璃光如来)で、いままさにそのご加護をいただきたい尊格です。
外出自粛で参拝はむずかしいと思いますが、
上野・寛永寺の御本尊、そして東京の御府内八十八ヶ所霊場のうち、通称名をもたれ人々の信仰篤い3尊のお薬師様の御朱印をご紹介します。

  
【写真 上(左)】 寛永寺(台東区上野桜木)
【写真 下(右)】 弥勒寺・川上薬師(墨田区立川)

   
【写真 上(左)】 真福寺・愛宕薬師(港区愛宕)
【写真 下(右)】 梅照院・新井薬師(中野区新井)

せっかくなので、薬師如来の脇侍の日光菩薩・月光菩薩の御朱印もご紹介します。
薬師寺東京別院(品川区東五反田)で授与されています。(現在閉院中、御朱印不授与の模様です。)

  
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■ Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

つづきです。
※新型コロナ感染拡大防止のため、拝観&御朱印授与停止中の寺社が多くなっています。参拝は、新型コロナ収束後にお願いします。

■〔 信玄公と甲府五山 〕

信玄公は神仏への信仰ふかく、宗派を越えて寺社を厚く保護されました。
「信玄」は、永禄二年(1559年)(天文二一年(1552年)説もあり)に39歳で出家された際の諱で、院号は法性院、道号は機山、別号は徳栄軒と伝わります。

『甲陽軍鑑』によると「玄」は中国の臨済義玄、日本では関山恵玄にゆかりで、得度式を務め「信玄」を授けたのは臨済宗長禅寺(甲府市愛宕町)の住持、岐秀元伯(ぎしゅう げんぱく)とされています。
岐秀元伯は京都妙心寺の学僧で、信玄の母大井夫人の招聘により鮎沢の(古)長禅寺、次いで愛宕の長善寺に住山されました。

岐秀元伯は信玄公の学問の師であったと伝わります。
伝灯は大応国師~大灯国師~妙心寺開山の関山慧玄と続く「応灯関」「関山禅」を嗣ぎ、とくに臨済宗妙心寺派への帰依が深かったとされます。

信玄公の葬儀で大導師を勤められた恵林寺の快川紹喜(かいせん じょうき)も臨済宗妙心寺派の高僧で、信玄公に「機山」の号を授けたとされます。

信玄公は京や鎌倉の五山制度にならい、甲府にも臨済宗寺院で五山を定めました。
長禅寺、東光寺、能成寺、円光院、法泉寺が甲府(府中)五山です。
円光寺の公式Web資料には、「信玄公は元より仏法信仰を重んじ臨済宗に帰依し、京都妙心寺の開山である開山国師の遺風を崇敬しておりました。その因縁により、京五山、鎌倉五山にならい、甲州の古刹の寺を城下に移しました。そして何れも妙心寺派に改め、それぞれに土地を寄付し、これらの寺を御城附御祈願所五山と号しました。」とあります。

また、法泉寺前掲示の甲府五山の説明書には、「戦国武将武田信玄公は臨済宗に深く帰依し、京都五山・鎌倉五山の制度にならって『甲府(府中)五山』を定めました。その五寺は、宝泉寺、長禅寺、東光寺、円光院、能成寺です。信玄は広く仏教を信仰し、宗旨のいかんを問わず、寺院・僧侶を崇敬保護したことが知られています。とりわけ臨済宗に対する帰依は深く、平素より多くの禅僧と親交を深めていました。諸国から禅宗の高僧を招いて師とし、その教えを民政や軍法に活かしたのです。代表的な高僧は、五山派の惟高妙安、策彦周良、妙心寺(関山)派の岐秀元伯、快川紹喜らです。特に岐秀は信玄幼少時からの参禅の師であり、学問・修養を通じて信玄の人格形成に深い影響を及ぼしたといわれ、信玄剃髪の際に大導師もつとめました。」とあります。

五山の所在地は甲府北部の住宅地から山手に点在し、「小松」といわれる一帯に宝泉寺、長善寺、円光院、「板垣」といわれる一帯に能成寺、東光寺があり、「北山野道」という遊歩コースが設けられています。

■ 瑞雲山 長禅寺
 
 
 
 

甲府市愛宕町208
臨済宗単立 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第58番、甲斐国三十三番観音札所第9番、甲斐八十八ヶ所霊場第64番、府内観音札所第9番
※御朱印は不授与です。

信玄公の母、大井夫人(瑞雲院殿)の菩提寺で、岐秀元伯が開いたとされる臨済宗の名刹。
創建は天文二一年(1552年)と伝わり(『甲斐国志』)、甲府五山の主座(筆頭)とされます。
長禅寺の前身は、大井夫人の出である西郡の国人、大井氏領する巨摩郡相沢(現・南アルプス市鮎沢)の長善寺(現・古長禅寺)で、大井氏の菩提寺でした。(古長禅寺は後述します。)

大井夫人は西郡の国衆(国人領主)で、武田氏一門の大井信達公の息女。
駿河に近い西郡の大井信達公は今川氏と結んで信虎公と抗争を続けていましたが、永正十四年(1517年)に信虎公と和睦。
このとき大井夫人が信虎公の正室として嫁いだため、政略結婚の意味合いが強いものとみなされています。

信虎公との間に嫡男信玄公、信繁公、信廉公(逍遙軒信綱)および長女をもうけました。
信繁公、信廉公ともに能く信玄公を補佐されたと伝わり、二十四将に数えられています。
大井夫人は賢母で、悟渓宗頓(大徳寺五二世住持、妙心寺四派の一、東海派の開祖)の法統を嗣ぐ、尾張国瑞泉寺の岐秀元伯を長禅寺に招き、若き日の信玄公に「四書五経」「孫子」「呉子」などを学ばせたといわれます。

天文十年(1541年)の信玄公による信虎公駿河追放ののちも甲斐に留まられ、躑躅ヶ崎館北曲輪に居住されました。
天文二一年(1552年)に逝去。法名は瑞雲院殿月珠泉大姉。
葬儀の大導師を務められたのは岐秀元伯と伝わります(『高白斎記』)。

大井夫人逝去の後、西郡の鮎沢では墓所が遠いため、亡き母を開基に、導師の岐秀元伯を開山に請じて新たに長禅寺として開かれました。
本堂左手手前に大井夫人の霊廟があり、本堂左手の坂の上に墓所があります。
参拝時には落枝の危険で墓所参道は通行禁止となっていました。

非公開ですが、「絹本著色武田信虎夫人像」「紙本著色渡唐天神像」の文化財を所蔵しています。
「絹本著色武田信虎夫人像」は大井夫人(瑞雲院殿)の肖像画で、画人としても知られた信玄公の同母弟・信廉公(逍遥軒信綱・二十四将の一人)の筆によるもの。
信廉公21歳、天文二二年(1553年)の作とされます。

なお、名門大井氏は嫡流信業公の三弟と六弟が武藤姓を名乗り、関ヶ原の戦いの際、上田城で秀忠軍を釘付けにした真田昌幸は、永禄年間にこの大井氏流武藤家に養子に入っていたと伝わります。
「武藤三郎左衛門尉のときに実子の武藤与次が早世したため、真田昌幸を養子にとった」という説があり、武藤喜兵衛尉昌幸は二十四将のひとりに数えられることもあります。(→関連資料

どことなく近寄りがたい威厳のある禅寺で、いくつかの霊場札所となっているものの、御朱印は一切授与されていないようです。

■ 法蓋山 東光寺(東光興国禅寺)
 
 
 
 

甲府市東光寺3-7-37
臨済宗妙心寺派 御本尊:薬師如来
札所:甲斐百八霊場第56番
朱印尊格:本尊 薬師如来 書置(印刷?)
札番:甲斐百八霊場第56番印判
・中央に札所本尊、薬師如来の種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に三寶印。中央に「本尊 薬師如来」の揮毫。
右上に「甲斐百八霊場第五六番」の札所印。左下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

寺伝によると平安時代の保安二年(1121年)に源義光(新羅三郎)公が密教の祈願所として諸堂を整え、興国院と号したとされます。
その後鎌倉期に蘭渓道隆が禅宗寺院として再興、寺号を東光寺と改めました。

この寺に幽閉され終焉を遂げられた信玄公の長子義信公、諏訪から移られて自害された諏訪の領主諏訪頼重公の墓所であり、戦国の哀史を物語る史跡として訪れる人も多いようです。

〔武田義信公〕
義信公は、天文七年(1538年)信玄公の嫡男として生まれました。
母は信玄公の正室、公家の三条公頼公の息女の三条夫人です。
天文十九年(1550年)、若くして今川義元公の息女(従姉妹とも)を正室に迎えています。

初陣の知久氏攻めをはじめ、小諸城攻略、川中島での戦いなどでの華々しい武功が伝わります。
天文二二年(1553年)、将軍足利義藤(義輝)公より将軍家の通字である「義」の偏諱を受けて義信と名乗られ(『高白斎記』)、永禄元年(1558年)、信玄公が信濃守護に補任された際には「准三管領」としての待遇を受けており、武田家嫡男としての道を順調に歩まれていました。

永禄八年(1565年)10月、信玄公暗殺を企てた謀反にかかわったとされ甲府東光寺に幽閉。(『甲陽軍鑑』)
永禄十年(1567年)10月19日に東光寺で逝去されました。享年30歳。
同年11月には正室の今川氏は駿河へ帰国しています。

この事件は「義信事件」と通称され、信玄公をめぐる謎のひとつとされています。
経緯がこみ入っているので詳細は省きますが、『甲陽軍鑑』によると、義信公の傅役である飯富虎昌以下の側近が処刑され、八十騎の家臣団が追放処分になっているので、これを受けた武田家臣内紛説がみられます。

永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元公の戦死、永禄四年(1561年)第4次川中島の戦いを経た北信地域の実質的な領有などを契機に信玄公は対外方針を転換し、永禄十一年(1568年)には今川氏の領国駿河への侵攻を始めています。

「義信事件」は駿河侵攻の3年前であり、今川氏に対する方針で親子、および家臣内で深刻な対立があり、これが事件の契機となったとする見解がみられます。
今川義元公の息女を正室としていた義信公が親今川派、「義信事件」後に駿河侵攻を進めた信玄公が反今川派という構図です。
また、永禄年間以降、信玄公と信長公とに同盟の動きがあり、信長公と敵対関係にあった今川氏との間に生じた軋轢を背景のひとつとみる説もあります。

信虎公の長女定恵院(信玄公の同母姉)は義元公の正室で、氏真公の母であり、娘の嶺松院は義信公の正室です。
永禄三年(1560年)5月、桶狭間の戦いで戦死した今川義元公の跡を継いだ氏真公は、家臣の掌握に苦しみ離反を招きました。当時今川家の食客となっていた信虎公は、今川家臣と謀って氏真公の追放を企図しましたが事前に露見し、駿府を追われ京に向かわれたとされます。
また、信虎公の子武田信友は今川家臣団に加わり、後に武田氏の駿河侵攻に呼応しています。
このあたりの今川家をめぐる複雑な事情も「義信事件」の背景にあるとみられます。

駿河に接する河内領の領主で武田御一門衆の穴山氏は、武田・今川の甲駿同盟を取次し、義信公と今川氏の婚姻も仲介しましたが、「義信事件」翌年の永禄九年(1566年)に当主穴山信君の弟、穴山彦八郎(信嘉、信邦)が身延山久遠寺塔頭において自害しており(『甲斐国志』)、これを対今川戦略対立説の論拠とする説もあります。
義信公の墓所は、本堂裏山の左手にひっそりとあります。

〔諏訪頼重公〕
諏訪頼重公は、諏訪氏第十九代当主で諏訪大社大祝。上原城城主であり、戦国大名として諏訪一円を治めました。
諏訪氏は神代以来の諏訪大社上社の大祝の家柄で、「神氏(みわし/じんし)」とも尊称された名族です。

信虎公の時代、諏訪氏は武田氏と抗争し、享禄元年(1528年)信虎公は諏訪に侵入して頼満公と対戦、享禄四年(1531年)には逆に頼満公が韮崎あたりまで兵を入れています。
諏訪氏との抗争を不利とみた信虎公は、天文四年(1535年)に頼満公と和睦(盟約)し、天文九年(1540年)には三女・禰々を頼満公の跡を継いだ頼重公に嫁がせています。
以降、小県郡侵攻などで武田家と連携していました。

甲斐から信濃へ向かうには、諏訪口(甲州街道)と佐久口(佐久甲州街道)の2つのルートがあります。
諏訪ルートは諏訪氏との盟約があってとれないので、信虎公の時代はもっぱら佐久ルートをもって信濃侵攻がなされました。
しかし、晴信公が当主となると方針を転じ、諏訪への侵攻を開始しました。

『甲陽軍艦』では、この時期の信玄公の戦として「瀬沢合戦」を記しています。
これは天文十一年(1542年)、信濃四将(中信の小笠原長時、北信の村上義清、木曽の木曽義康、諏訪の諏訪頼重)と信玄公の大合戦で、信濃勢一万六千を武田軍八千が瀬沢(現・長野県富士見町)で迎え撃ち、信濃勢は千六百二十一人の戦死者を出して敗走したというもの。
瀬沢周辺にはこれを示す史跡も残りますが、この戦いは『甲陽軍艦』のほかに確実な史料が認められないため、合戦そのものの存在が疑問視されています。

神代より、諏訪大社上社の大祝は諏訪氏、諏訪下社の大祝は代々金刺氏が継いできました。
この時代、金刺氏は諏訪氏の配下にありましたが、両氏は伝統的に対立関係にあったとされています。
また、諏訪氏の一族、伊那・高遠城主の高遠信濃守頼継も諏訪氏と対立関係にありました。
諏訪総領家の祖・安芸守信嗣は高遠氏の祖・信濃守頼継の弟であり、高遠氏が本来の上社大祝の家柄である、という自負があったためとみられています。

信玄公はこのような諏訪一族内の軋轢に乗じ、謀略の手を伸ばして金刺氏、高遠頼継をみかたにつけて諏訪に侵入しました。ときを合わせて高遠頼継も杖突峠を越えて諏訪に攻め入りました。

南方から武田、西方からは高遠勢の攻撃を受け苦境に陥った頼重公は、上原城を退き北方の桑原城に移りました。
桑原城にて、信玄公から「城を明け渡せば武田勢は甲斐に引き上げる」旨の和睦案を受けた頼重公はこれを容れ、城を渡して甲斐・府中に送られました。
頼重公は東光寺に幽閉され、その後自刃されました。
ときに頼重公27歳。辞世の句が残されています。
- おのづから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ -

これにより諏訪惣領家は滅亡したとされていますが、上社大祝は叔父諏訪満隣の家系が継ぎ、その子孫は近世に中興されて諏訪高島藩三万石の大名となっています。

頼重公の墓所は、本堂裏山の左手にあります。
桑原城址そばには、頼重公の家臣らが公の遺髪を埋めたと伝わる頼重院があり、供養塔が残されています。

 
【写真 上(左)】 頼重院 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 頼重院 観音霊場の御朱印

信玄公はこののち頼重公の息女を側室として迎え、この側室は勝頼公を産んでいます。
よって頼重公は勝頼公の外祖父にあたります。
『甲陽軍艦』に「尋常かくれなき美人にてまします」と記されたこの美貌の側室(諏訪御料人)は、小説やドラマでは、湖衣姫(こいひめ)、由布姫(ゆぶひめ・ゆうひめ)として描かれています。

東光寺は甲府北部の住宅地の奥に、落ち着いたたたずまいをみせています。
室町時代の作とされる仏殿は、鎌倉禅宗様式の代表的な建築物として国の重要文化財に指定されています。
仏殿の御本尊は薬師如来。鎌倉時代作の檜材の坐像で、これを取り囲むように守護神である十二神将立像(檜材、伝鎌倉時代作)が安置されています。

本堂裏手には、蘭渓道隆(ないし当寺中興開山・大覚禅師)の作と伝わる北宋山水様式の池泉式庭園(東光寺庭園)が構えられ、鎌倉中期の特色を残す作例として知られています。

甲斐百八霊場第56番の札所であり、ご丁寧な対応にて御朱印をいただけました。

■ 定林山 能成寺(能成護国禅寺)
 
 
 

公式Web
甲府市東光寺町2153
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第57番
朱印尊格:釈迦如来(佛心) 直書(筆書)
札番:甲斐百八霊場第57番印判
・中央に三寶印と「○」字と「佛心」の揮毫。右上に「甲斐百八霊場第五七番」の札所印。左下には「甲府五山」と寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

南北朝時代の貞和年間(1345年~1349年)に天目山棲雲寺の業海本浄(ごっかい ほんじょう)の開山、甲斐国守護・武田信守公(能成寺殿)を開基として、小石和筋八代村(現在の笛吹市八代町)に創建された古刹です。

信玄公のとき西青沼(現在の甲府市宝)に移され、さらに文禄年間(1592年~1595年)、甲府城築城の折に現在地に移されました。

創建時の御本尊は三尊阿弥陀如来(安阿弥作)でしたが、現在は釈迦牟尼仏。
本堂上間の間に富士山大息合結縁地蔵尊が奉安されています。

信玄公により甲府五山に定められ、寺宝として信玄公の家督相続を知らせる「信玄公制札」などが残されています。
参道右手の駐車場あたりはかつて大池で、これを伝える「宿竜の碑」と芭蕉の句碑があります。
- 名月や池をめぐりて夜もすがら -

愛宕山の山腹にあるこの寺の境内は広くはないですが、全体にしっとりと落ち着いて甲府五山の格式を感じます。

甲斐百八霊場第57番の札所で、「佛心」という豪快な揮毫の御朱印を快く授与いただけました。

■ 瑞巖山 円光院(円光護持禅院)
 
 
 
 

公式Web
甲府市岩窪町500
臨済宗妙心寺派 御本尊:釈迦如来
札所:甲斐百八霊場第60番
朱印尊格:釈迦如来(佛心)
札番:甲斐百八霊場第60番印判
〔平成28年4月の御朱印〕
・中央に札所本尊、(勝軍)地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と中央に「信玄公守本尊」の揮毫。
右上に武田菱の印、右下に「甲斐百八霊場第六十番」の札所印。左には「甲府五山」と院号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔令和元年5月の御朱印〕
・中央に札所本尊、(勝軍)地蔵菩薩と刀八毘沙門天の御影の印と中央に「信玄公守本尊」の揮毫。
右上に武田菱の印、右下に「甲斐百八霊場第六十番」の札所印。左には「甲府五山」と院号の揮毫と寺院印が捺されています。

信玄公開基、信玄公正室三条夫人の菩提寺として知られる名刹。
前身は小石和郷に甲斐源氏の始祖、逸見太郎清光(源清光)公が開創された清光寺で、室町期に甲斐守護武田信守公により再興され成就院となりました。

永禄三年(1560年)、信玄公が京より説三和尚を迎えて開山とし、当地に移され甲府五山の一つ円光禅院と改めました。
この時点では甲府成就院で、三条夫人(円光院殿)逝去ののち、その法名にちなんで円光院に改称されたという説もありますが、三条夫人墓所の説明書には「晴信公は夫人の生前、その牌所として府中五山の一、圓光院を宛て、夫人をその開基とした」とあるので、夫人の生前に円光院に改めたとみられます。(以上、境内由緒書などより)

三条夫人(三条の方)は、清華家の左大臣転法輪三条公頼公の次女で、母は高顕院。
姉は細川晴元室、妹は顕如の妻の如春尼という名流です。
天文五年(1536年)、今川義元公の媒酌で信玄公の正室として嫁し、義信公、黄梅院(北条氏政室)、海野信親(竜芳)公、信之、見性院(穴山梅雪室)の三男二女をもうけました。

三条夫人は度重なる不運に見舞われたと伝わります。
次男信親(竜芳)公は盲目。天文二十年(1551年)には父の公頼公が大寧寺の変(周防の大内義隆が家臣陶隆房の謀反で殺害)に巻き込まれて殺され、三男信之は夭折しました。
さらに永禄八年(1565年)の「義信事件」により長男義信公を失い、永禄十一年(1568年)、信玄公の駿河侵攻により黄梅院が北条氏から離縁され、その翌年に病死しました。

その人物像については諸説ありますが、Wikipedia記載の「円光院の葬儀記録」には、快川和尚の三条の方の人柄を称賛する「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」と記された記録が残されているそうです。

境内にはこのようなお人柄を示す案内が掲出されていました。
 三條夫人のお人柄の真実
 西方一美人 円光如日 和気似春(快川国師の語)
 これにより 暖かく穏やかな 三條夫人の婦徳高いお姿が偲ばれます。

元亀元年(1570年)7月に逝去。圓光院殿梅岑宗い大禅定尼と号されました。

本願寺の顕如(光佐)の正室は三条夫人の妹の如春尼であり、本願寺と信玄公との信長包囲同盟の裏には夫人の存在が大きかったと考えられています。

薄倖のイメージをまとわれる三条夫人ですが、その子信親(竜芳)公は穴山信君(梅雪)の娘を娶り、その子の信道公は出家して顕了道快と号し、その子武田信正公とともに紆余曲折を経て家系は存続し、江戸幕府には表高家として武田宗家の命脈を保ちました。(→関連記事

境内の「三條氏墓の説明書」には、つぎのような記載があります。
「武田家の正統は信親公により今日に継続され、その原づくところが一向宗の僧となった信親公の嫡子信道公に在ることを思えば三條夫人が妹壻本願寺光左上人と武田氏との連携の楔として大きな役割を果たしたことと関連して夫人が武田家のために内外に於ける立場をより利用して大いに尽くされたことが偲ばれる」

三条夫人の菩提寺につき、ゆかりの宝物が所蔵されています。
夫人が武田家に嫁ぐ時に持参されたと伝わる三条家伝来の木造釈迦如来坐像、武田氏の家紋と夫人が皇室から使用を許された菊花紋と桐紋が彫られた愛用の鏡などです。

当寺には信玄公ゆかりの尊像も所蔵されています。
〔境内の解説書(抜粋)〕
刀八毘沙門天像及び勝軍地蔵像は、武田信玄公が殊に信仰した尊像で、もとは居館である躑躅が崎の館内の毘沙門堂に祀り、戦場行軍の際にも座右を離さなかったとされ、元亀四年(1573年)四月三河の軍陣で亡くなる際、馬場美濃守に命じて当寺の開山説三和尚に贈らせ、永く当寺の鎮護となしたとされる。本像は同一厨子内に、向かって右に獅子に乗る刀八毘沙門天像、左に白馬に乗る勝軍地蔵像が安置される。刀八毘沙門天像は、鎧を着用し、忿怒形の顔を正面とその左右、菩薩形の顔を頭上に表し、左右各五本ずつの腕を表す四面十臂の姿である。勝軍地蔵像は、鎧兜に袈裟を掛けた若々しい青年武将の姿で、左手を振り上げて持物を持ち、右手は腹前で剣を持つ。刀八毘沙門天像は毘沙門天、勝軍地蔵像は地蔵菩薩をそれぞれもととして我国で考案された軍神で、室町時代から戦国時代にかけて多くの武将の信仰を集めた。作者は京都の七條大仏師康清と伝えられる。康清は、信玄公造立の恵林寺の武田不動尊の作者であり、活気のある派手やかな作風は両像に共通するところである。」
普段は秘仏ですが、毎年4月の信玄公祭りの際には御開帳されます。

円光院から400mほど離れたところに「武田信玄公墓所」があります。
信玄公の御遺言どおりその死は三年間秘されましたが、その間ひそかに荼毘に附され、埋葬されたのが土屋右衛門の邸で、この場所が後に「武田信玄公墓所」となっています。
毎年4月12日の忌日の廻向そのほかの供養は、円光院により営まれています。

禅寺らしい整った境内。桜の名所としても知られています。
三条夫人の墓所は本堂左奥の高みにあり、宝篋印塔は信玄公の建立と伝わります。

甲斐百八霊場第60番の札所をつとめられ、御朱印は庫裡にて快く授与いただけました。

■ 金剛福聚山 法泉寺
 
 
 

公式Web
甲府市和田町2595
臨済宗妙心寺派 御本尊:弥勒菩薩(釈迦牟尼佛)
札所:甲斐百八霊場第62番、甲斐国三十三番観音札所第8番

〔甲斐百八霊場の御朱印〕
朱印尊格:南無釈迦牟尼佛 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第62番
・中央に三寶印と札所本尊「南無釈迦牟尼佛」の揮毫。
右上に「甲斐三十三観音霊場第八番」の札所印がありますが、本来は「甲斐百八霊場第六二番」の印判かと思われます。左には「甲府五山」「武田勝頼公菩提寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

〔甲斐国三十三番観音札所の御朱印〕
朱印尊格:聖観世音菩薩 書置(筆書)
札番:甲斐百八霊場第62番
・中央に三寶印と札所本尊「聖観世音菩薩」の揮毫。
右上に「甲斐三十三観音霊場第八番」の札所印。左には「甲府五山」「武田勝頼公菩提寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

南北朝時代の元徳二年(1330年)、甲斐国守護・武田信武公が開基となり、夢窓国司の高弟であった月舟禅師を招いて創建された名刹。
経緯からすると月舟禅師が一世ですが、禅師は自ら二世を称して恩師の夢窓国師を開山とされました。
開山後は夢窓国師を中心とする五山派の官寺となりましたが、その後衰微していたところ、信玄公が快岳周悦を住職として招き再興・庇護したといわれます。
快岳禅師は武田家滅亡に際して帯那郷へ逃れ、妙心寺の南化和尚(後の定慧円明国師)の力添えを得て京より持ち帰った勝頼公の遺髪をこの寺に手厚く葬ったとされます。

〔宝泉寺境内由緒書より抜粋〕
「本山は臨済宗妙心寺派に属し、本尊は弥勒菩薩である 後醍醐天皇の元徳二年(1330年)、当寺の甲斐の国主武田信武公が夢窓国司弟子月舟禅師に帰依して当山を設立した 禅師が初祖であるが夢窓国師を開山とし自ら二世と称した また信成は武田家九世の王で足利尊氏に厚遇せられ室町幕府の創建に功のあった人で天下の副将軍といわれ当山にその墓がある 爾来信玄公に至る二百余年の事跡は明らかでない 信玄公は当山に寺領を寄進し本堂の大修理を行い 武田家の祈願所とし且つ甲府五山の一に列した 勝頼公・信玄公の志を継ぎ当山を庇護した 天正十年三月公が天目山にて討死し、その首級が京都六條河原にさらされた後京都妙心寺に葬られたが 当山の快岳和尚は妙心寺の南化和尚と謀り密かに公の首級を貰い受けて急ぎ帰山したが当山は織田軍の陣所に充てられ入れず且つ身辺の危険もあり●帯那町穴口の奥の山林中に隠れ首級を護った その時に穴口の三上●家の甚大なる協力があった 偶々信長の死により織田軍が撤兵したので帰山し 公の首級を葬り山桜を植えて標とした 同年七月入甲してきた徳川家康に召され武田家の事情を説明し また武川十二騎を説得してその旗下に服させる寺の功ありその翌年勝頼公を当山の中興開基とし菩提を弔うよう御下命があった 当山は往年は塔頭寺院四ヶ寺県下に末寺六十数ヶ寺を有し多数の修行僧が去来し中本山としての格式を備え」(以下略)

徳川家康公は、甲斐の内情に精通する快岳禅師を召し、徳川家に服従しなかった武川十二騎の説得を命じ、禅師はこれに成功しました。
この功績により寺領御朱印を賜るとともに、快岳禅師(ないしは勝頼公)を中興開基とし、勝頼公の菩提寺に定めたといいます。(以上寺伝等より)

なお、「武川十二騎」とは、現在の北杜市武川町周辺を本拠とする地域武士団「武川衆」をさし、甲斐一条氏の流れを汲む一団とされます。
主に諏訪口の国境を守り、武田家中でもその名を馳せていたと伝わります。武田家滅亡後、その多くは徳川家に属し、旗本となった例も少なくありません。

将軍綱吉公の側用人として大老格まで上り詰めた柳沢吉保は武川衆の末裔といわれ、信玄公の次男、信親(龍芳)公の子孫武田信興公を将軍綱吉公に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力、甲斐国国中三郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を領した際には領内の整備に務め、恵林寺で営まれた信玄公百三十三回忌の法要に関係するなど、甲斐国や武田遺臣の保護に注力したと伝わります。

整った境内に端正な本堂は、やはり五山の格式を感じます。
勝頼公の墓所は、信武公の墓所ととなりあって本堂左手の高みにあります。

由緒書には「本尊は弥勒菩薩」とありますが、甲府市教育委員会の説明書には「釈迦如来像(鎌倉末期作推定) 本像は寺伝に弥勒菩薩と称せられているが、むしろ、宝冠の釈迦または華厳の釈迦といわれるものに近い」とあり、御本尊は釈迦如来(もしくは弥勒菩薩)一尊であることがわかります。
甲斐百八霊場の御朱印尊格は御本尊のケースが多いですが、法泉寺の御朱印尊格は「南無釈迦牟尼佛」となっています。

甲斐百八霊場第62番、甲斐国三十三番観音札所第8番の札所で、御朱印は快く授与いただけました。
観音札所の御朱印をお願いすると、一瞬とまどわれた感じでしたが無事拝受できました。(観音霊場の巡拝者はすくないそうです。)

甲斐国三十三番観音札所の札所本尊は聖観世音菩薩で本堂に御座します。本堂軒の説明板には「弘法大師作」の掲示がありました。
本堂内には「夢窓国師坐像」(鎌倉時代末期作推定)も安置されています。

以上、甲府五山のご紹介でした。
鎌倉五山には手強いお寺さんがあるので甲府五山も身構えましたが(笑)、いずれも快く御朱印の授与をいただけました。
長禅寺様が非授与なのはご事情がおありなのでしょうが、やはり五山の御朱印を揃っていただきたい感じはします。

~ つづきます ~

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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こんな雨の日に・・・(新型コロナ禍のさなかに)

新型コロナ禍のさなかの雨の週末。
思いつくままに、落ち着いた感じの曲を選んでみました。

01.ベルベット・イースター (Velvet Easter) - 荒井由実


02.In 25 Words Or Less - Bill LaBounty


03.Melody - Steve Perry


04.you and me - Arielle Paul


05. I Know Him So Well - Elaine Paige, Barbara Dickson


06.ロマンスをもう一度 - 葛谷葉子


07.Desperado - Jill Johnson


08.Now We Are Free - Kelly Sweet


09.Hero - David Crosby & Phil Collins


10.フリージア (Uru) - 熊田このは


今日は、これから気合い入れてブログ書くよ~(笑)
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1983年洋楽ピーク説(名曲編)

2020/04/14再UP
このところ、メディアで昔の曲がかかることが多くなった気がする。
新型コロナで番組の新録ができず、権利(放映コスト)の関係で流しやすいのかもしれないけど、ディレクターが気分的に昔の明るい曲調を流したくなっているからかも・・・。

そんなことで、またまたしつこく焼き直しUPで恐縮ですが、思いっきりブライトだった1983年前後の曲たちをあげてみます。
関連記事→洋楽と邦楽の境界

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本編は→こちら(1983年洋楽ピーク説)

2019/09/22UP
すんません。サザンが入っていなかったので追加です。31曲(ハンパ)です。

2019/09/01UP
22曲ではハンパなので、3曲加えて25曲としました。とりあえず完成です。

2019/08/09UP
7曲追加しました。とりあえず完成です。

2019/08/08UP
3曲追加しました。20曲までいく予定です。

2019/08/05UP
邦楽2曲追加しました。

2019/08/03UP
前々から勝手に唱えている自説です(笑)
このところ、洋楽を聴き返す機会が増えて、ますます確信に。
じつはこの時期、邦楽にも名曲がたくさん!

ということで1979年~1983年の5年間くらいで、当時のリアルな雰囲気が伝わる曲をランダムに入れていきます。
まずは思いつくまま10曲。

01.Steel Breeze - You Don't Want Me Anymore (1982)

米カリフォルニア州サクラメント出身の6人組。
いわゆる”一発屋”で終わったが、スマッシュヒットしたこの曲は、当時のWest Coast Rockのエッセンスが詰まっていると思う。
ちなみに彼らの1st ALBUM「Steel Breeze」の邦題は、「カリフォルニア・ブリーズ」(笑)

02.Hall & Oates - Kiss on My List (1980)

この時代に一世を風靡したユニット。
Blue-Eyed Soulの代表格とされるが、根っこはもっととんがっていたと思う。
「Private Eyes」や「Maneater」が代表曲とされるが、個人的にはこの曲や「Wait for Me」の方がソフィスティケートされていて好き。

03.松田聖子 P・R・E・S・E・N・T 2006-2007 Count Down Live (1982)

1982年リリースのALBUM「Pineapple」のA-1曲。
曲調が歌謡曲じゃない。(作詞:松本隆/作曲:来生たかお/編曲:大村雅朗)
この頃の松田聖子のALBUMは全曲通しで聴ける完成度があった。

04.Lee Ritenour/Eric Tagg - Cross My Heart (1982)

Vocalを大きく取り入れたALBUM「RIT2」収録曲。
洗練された楽曲が詰まったこのALBUMはコアなファンからの不評も買ったが、これも時代の流れか・・・。
Dave Grusin、Harvey Mason、Nathan Eastなど一流ミュージシャンの演奏の安定感が半端なく、これに伸びのあるハイトーンのEric TaggのVocalが乗る展開。
演っていて気持ちよかっただろうな(笑)

05.Michael Jackson - Don’t Stop 'Til You Get Enough (Official Video) (1979)

Michael Jacksonだって、全盛期は1979年リリースの「Off The Wall」~1982年リリースの「Thriller/スリラー)だと思う。
個人的にはとくに「Off The Wall」が好き。
これは「Off The Wall」の1曲目で、軽めのパーカッション&ギターリフとマイケルのファルセットが効いてキレキレのでき。

06.Shalamar - You can count on me(1983)

ダンスクラシックス的なイメージのあるグループだが、Slow曲にもいい作品がある。
シャープで透明感のあるデュエット。
数年のちにシーン化した甘甘の”Quiet Storm”系とは、あきらかに質感がことなっている。

07.角松敏生 - Crescent aventure (1982)

1982年リリースの名盤「WEEKEND FLY TO THE SUN」収録のミディアムチューン。
米国の一流ミュージシャンがサポートしているだけあって、抜群のグルーヴ感。

08.Nielsen Pearson - Hasty Heart(1982)

1983年リリースの3rd ALBUM「Blind Luck」から。
疾走感あふれるメロディ、キメの多いリズムにハイトーンボーカル。当時の典型的なAOR。
Lenny Castro(Per/ds)、Vinnie Colaiuta(ds)、Carlos Vega(ds)、Neil Stubenhaus(b)、Robbie Buchanan(Key)、Jai Winding(key)、Victor Feldman(key)、Michael Landau(g)って、
一発で”クレジット買い”じゃん(笑)
2:07~のギターソロは、おそらくSteve Lukatherだと思う。

09.skyy - Let's Celebrate (1981)

当時のブラコンの主流だったself-contained Groupのひとつ。
SALSOULから1981年にリリースの「Skyy Line」収録の軽めのUP~Midナンバー。
groovyなリズムのうえで漂う重複ギターリフがやたらに心地よいが、こういう曲調はあと数年で姿を消すことになる。
ジャケ写真が時代の雰囲気を物語っている。

10.Jon and Vangelis - BESIDE (1981)

YesのVocalist、Jon Andersonとギリシャのシンセサイザー奏者Vangelis Papathanassíouのコラボ第2作「The Friends of Mr. Cairo」(1981年)からのスケール感あふれる名曲。
2人の天才が相対したシナジー効果がいかんなく発揮されている。
じつはこの時代、プログレ(シンフォニック・ロック)シーンでも、The Moody Blues「Long Distance Voyager」(1981年)、Barclay James Harvest「Turn Of The Tide」(1981年)、The Alan Parsons Project「Eye in the Sky」 (1982年)などのメロディーにあふれた名盤が生み出されている。

しかし、↑の8-10と続けて聴いてみると、この時代の洋楽シーンがいかにバラエティに富んでいたかがよくわかる。

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11.久保田早紀 - 異邦人(1979-1980)

リリースは1979年だが、ブレークは1980年。久保田早紀の最初にして最大のヒット曲。
声質に張りがあり、ビブラートのかかりも絶妙。なによりロングトーン盛り込んでいるのに、ブレスをまったく感じさせないところが凄い。
作曲能力、歌唱力、そして類いまれな美貌。天は三物以上を与えた。
天狗になってもおかしくないところだが、数々の謙虚なコメントを残し、1984年には芸能界から身を引いてしまった伝説のArtist。

12.Tatsuro Yamashita - Sparkle(1982)

いきなりの抜けまくったカッティング・ギター。
リズムアクセントのチョッパーベース。
こういう空気感は、あの時代ならではかも・・・。
とくにイントロのカッティング・ギター、達郎のメインギター、テレキャス買いこんで挑む好き者多数?
でも、あふれる「絶対に再現できない」「永遠に練習中」などの声。


「シンプルだけどお洒落ですよね~」って、ほんとそう思う。
すげ~、スペクトル分析までしてるよ(笑)

13.OMD(Orchestral Manoeuvres in the Dark) - Joan Of Arc(1981)

1970年代後半から1980年代前半にかけて英国でシーン化したフォーマット、Electropop(エレクトロ・ポップ)。
質感は無機質ながら叙情的なメロをもつ名曲がいくつか生み出されている。
これは、訳すと「暗闇で演奏するオーケストラ団」という訳のわからないネーミングのユニットが生み出した佳曲。
収録ALBUM「Architecture & Morality」はメロディにあふれた名盤。

14.Shakatak - Live in Japan 1984 - Night Birds(1982)

1980年代前半の英国ではElectropopと並行してfunka latina(ファンカ・ラティーナ)というムーブメントが勃興していた。
ロック、ラテン、ファンク、ジャズなどの要素を散りばめたダンサブルで洗練された曲調が時代とシンクロしていた。
これは人気バンドだったShakatakの2nd ALBUM「Night Birds」収録の代表曲。
わたくし、このLIVE行きましたわ(笑)

15.竹内まりや - Plastic Love(1984)

時代はちと下るけど、やっぱりこの曲は80年代前半の雰囲気をよく伝えていると思う。
1984年リリースの『VARIETY』収録。
弾みまくるリズム、メジャーなメロディに竹内まりやの深みある声色が映えて海外でも人気の高い曲。

16.Roxy Music - True To Life(1982)

やっぱり外せないRoxy Music。
希代の傑作となったラストアルバム「Avalon」(1982年)からの1曲。
Bryan Ferryのダンディなボーカルとうねりを帯びたリズムが時代を象徴していた。
伝説となった最後の来日公演(1983年2月)、期末試験前日(一夜漬け(笑))にぶち当たり、泣く泣く見送ったのがいまでも悔やまれる。

17.Step by Step - J.D Souther & Karla Bonoff(1986)

これも1986年と時代が下るけど、ロブ・ロウとデミ・ムーア共演の「About Last Night...(邦題:きのうの夜は…)」(wikipediaへリンク)のサントラ曲。
当時のサントラはALBUM通して聴ける作品も多かった。
そしてデュエットにも多くの名曲が・・・。→AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のデュエット

18.サザンオールスターズ - 夕陽に別れを告げて~メリーゴーランド~(1985) (cover)

いろいろ考えたけど、個人的に思い入れのあるこれかな?
1985年リリースの「kamakura」から。地味だけど前期サザンのエッセンスを詰め込んだような佳曲。
やっぱりこの時代はサザンなしには決して語れない。

19.Boys Town Gang - Can't Take My Eyes Off You【Extended Version】(1982)

邦題「君の瞳に恋してる」。Hi-NRG(ハイエナジー)ユニットBoys Town Gangが、1967年リリースのFrankie Valliの名曲をHi-NRG化してカバーしたもの。
ディスコ曲だけに、やはりExtended Versionの出来が出色。
ストリングスのメロどりが抜群で、この曲の主役はボーカルというよりむしろストリングスやブラスでは?
Hi-NRGはのちに日本で人気を集めるEUROBEATに似ているが全然別もの。(ただしEUROBEATの定義は、日本、米国、欧州でそれぞれ異なるとされている。)
ともに表拍コンシャスな4つ打ちながら、Hi-NRGはメジャーコードで、リズム慣れした人は裏拍もとれて広がりのある曲調。
ジュリアナ東京などでメインとなっていたEUROBEATは日本人好み(というか日本人でも踊りやすい)の4つ打ちにベタなマイナーコードが乗るもので、むしろ高BPMな盆踊り的。(言い過ぎか・・・笑)

EUROBEAT以前の当時のディスコは、groovyな裏拍系のブラコンやファンカ・ラティーナに、4つ打ち系のユーロ・ディスコやHi-NRGが入り交じり、リズム的にも変化に富んでいた。

20.松任谷由実 - ずっとそばに (1983)

1983年リリースの「REINCARNATION」収録曲。
淡々としたメロディだけど捨て音が一切ない。Yumingの天才的な作曲能力を感じさせる曲。
リズムセクションがさりげにいい仕事しているのもこの時代らしい。
この年、Yumingはオリジナルアルバムを2枚リリースしている。
1979年から1983年の5年間で、なんと9枚リリース。ぜんぶオリジナルで、しかも名曲揃い!
そんな時代だった。

21.Sneaker - Before You [Loose in the World] (1982)

LAで結成されたAOR系グループ。
1981年リリースの1st ALBUM「Sneaker」から「More Than Just The Two Of Us」のスマッシュヒットを放ち、その名を高めた。
これは1982年リリースの2nd ALBUM 「Loose In The World」からの佳曲。
Steely Danを敬愛し、グループ名はSteely Danの人気曲「Bad Sneakers」からとったとされる彼らだが、曲調はむしろThe Beach Boys、KalapanaやPablo Cruiseなどのサーフロックに近い。

22.中原めいこ - Cloudyな午後 (1984)

1984年リリースの「ロートスの果実」からで、リズムの響きはすでに80年代中盤の感じがあるけど、曲調は80年代前半そのもの。
当時はさらっと聴き流してたイメージがあるが、甘さを帯びた独特なボーカルはいま聴き直してみるとけっこう染みる。

23.矢沢永吉 - YES MY LOVE(1982)

いま聴いても大人の色気ぷんぷん。そして余裕のボーカル。
1982年2月リリース。コカ・コーラのイメージ・ソングに起用され、巷でよくかかっていた。
のちにスタンダードとなるナンバーが、新譜としてCMでばりばり流されていた時代。

24.L.T.D. - For You(1982)

この時代のブラックミュージック(ソウル(soul)あるいはブラコン(black contemporary/BCM)と呼ばれていた)はディスコのイメージが強いけど、気合い入った泣きのバラードも多くつくられていた。
これはL.T.D.が1982年にリリースした『For You』のタイトル曲で、NEW BIRTHで鳴らしたLeslie Wilsonの骨太ながらしなやかなボーカルワークがいかんなく発揮されている。
この他にもOne Way(Al Hudson) - You´re So Very Special(1982年)Tavares - Words And Music(1983年)FOUR TOPS - BACK WHERE I BELONG(1983年)などおすすめ品多数。
このあたり、実は専門なのでマニアックになりすぎてすんません(笑)

25.Donald Fagen - Maxine(1982)

Steely Danの主力メンバーDonald Fagen。
Steely Danは1980年の「Gaucho」を最後に活動休止に入るが、Donald Fagenは1982年に1st ALBUM「The Nightfly」をリリース。
圧倒的な完成度を備えたこのALBUMは、のちにAORを代表する名盤として評価を確定することとなる。
今聴き返しても、この洒落っ気は色あせていない。

26.Steve Perry/Journey "Still They Ride" Live and Studio versions (1981)

Steve PerryなくしてJourneyなし。バラードにも名曲多数。
全盛時には年300日以上もツアーしていたという、LIVEの安定感はハンパじゃない。

追加↓
Journey - Don't Stop Believin' (from Live in Houston)

伝説の「The Escape Tour」(1981)
「産業Rock」だ、何だかじゃいわれてもいいものはいい!
いまのプロモーションどっぶりのポピュラー音楽とくらべたら、かわいいもんだわ・・・。
そういえば、わたくし、このLIVE(The Escape Tour、1982/4/16、武道館)も行きましたわ・・(笑) ドギモ抜かれた。

27.Anri [Heaven Beach] - Heaven Beach(1982)

あまりに懐かしすぎる名曲。いろいろな想い出が詰まっていて感慨なくして聴けぬ。
3:14~のストリングス。時代じゃな(笑)
Heaven Beach、消されちゃったので、とりあえず替わりにこちらを。↓ (直リンならこちらから聴けます。)
ANRI - LONG ISLAND BEACH(1985)

ちと時代が下るけど、1985年「WAVE」からの名バラード。
当時、ドラマティックなバラードを歌わせたら敵無しだったと思う。
・「Heaven Beach」(杏里 Heaven Beach/1982 B-5)

28.佐野元春- HEART BEAT (小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド)(1981/ライブ 1983)

1981年2月リリースの2ndALBUM「Heart Beat」のラストを飾る名曲。
あくまでも個人的にだが、これを越えるバラッドは多くないと思う。
「この曲を名曲と言わず何を名曲と言うのだろう」(コメ欄より) ほんとそう思う。

■ AORのバラード
この時代、メインストリームとなっていたAORのALBUMの聴きどころはなんといってもバラード。
個人的には、↓の曲が「AOR3大バラード」だと思っている。
(1曲にしようと思ったが絞り込めず、3曲とも載っけます。)

29.Marc Jordan - It's Only Love / From "A Hole In The Wall" (1983)


30.Ray Kennedy - My everlasting love / From "Ray Kennedy" (1980)


31.Bill Champlin -The Fool Is All Alone / From "Runaway" (1981) 



--------------------
以上31曲。
なんというか、屈託なく明るい。でも、そのなかに洒落っ気や哀感も・・・。
そしてリズムが軽くてgroovy。
これからバブルに向かう高揚感を湛えた世相を映していたのかも・・・。

いまからすると信じられないが、↑のような曲がTVやFMでふつうに流されていた。
YouTubeもニコ動も、CDさえもなかったけど、街中にリアルタイムに名曲があふれていた時代。


【追加】
↑を聴いてみると、当時のJ-POP(シティポップ)が洋楽とほとんど遜色ないレベルにあったことがわかる。
これは4和音のセブンスコードやテンションコードの普及、そしてグルーヴ感あるリズムの導入などにより、マイナー調のいわゆる「四畳半フォーク」とは異なる別の流れができ、成熟していったことが大きいと思う。

【上級 Vol.4】ギター講座「4和音のコード」

楽器ほとんどまともに弾けないけど(笑)、こういう動画で確認できるのは助かります。

そして、ここにきて70~80年代に発表されたJ-POP(シティポップ)が海外で人気を集めはじめているという。→ 記事

当時、海外でさほど注目を集めなかった理由は、単純に、
「当時、日本の音楽作品(レコードやCD)は輸入されていなかったからね」(仏のファン、上記記事より)
「日本の音楽はアメリカではほとんど知られていない。豊かで複雑な歴史を持っているのに、日本以外ではほとんどリリースされてこなかったからね」(米国のファン、同上)
ということだろう。
それがYouTubeなどのWeb媒体を通じて耳にする機会を得た。それがコアな音楽マニアから一般層に広がりはじめているのでは?

それにしても、人気を集めているのが70~80年代に発表されたシティポップ(90年代以降のJ-POPではなく)、というのは意味深。

それと、昨年(2018年)の紅白。
圧倒的な存在感を放っていたのはサザンとYumingだったことは衆目の一致するところかと。
この紅白への批評記事で、「『国民的求心力』のハブとなるのは、もはや演歌ではなく、桑田佳祐と松任谷由実らの音楽だろうということだ。さらに細かく刻めば、両者のような1950年代生まれのレジェンドが、その天才性を遺憾なく発揮し、かつ、ボリューム的に視聴者層の中核をなす1960年代生まれの層(私含む)が多感な時期に聴いた、1970~1980年代の『ニューミュージック』ではないか、ということである。」(著者・スージー鈴木氏)
と、ここまで言い切られては「1983年邦楽ピーク説」も成立するような気がしないでもないが、邦楽は90年代以降も良質なムーブメントが生まれたし、多くの才能も生まれているのでさすがにこの説は唱え切る自信がない。
でも、1980年代前半が、邦楽でも有数のピークをなしたことは間違いないと思う。
(音に適度に隙間があって、メロディ・ハーモニー・リズムのバランスがとれていたこの時代のPop-Musicが、じつは人類にとってもっとも「聴き心地のよい」Pop-Musicであったのかもしれぬ。)

洋楽1983年ピーク説を想うに至った経緯

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【さらに追加】
時代の雰囲気やCMは、1990年代前半までは、なお、この雰囲気を引きずっていた(と思う)。
YouTubeモードにして、コメ欄読んでね。

↓屈指の人気番組、ひょうきん族のエンディングがこの乗りだったからね(笑)
DOWN TOWN / EPO & ひょうきんストリートBAND


さすがコカコーラのCM!


【出会い、別れ】傑作集 CM編「JR東海 シンデレラエクスプレス」 (1988-1992)

しょっぱなのJメールのCMとの落差が酷すぎ~~

榮倉奈々出演、山下達郎「クリスマス・イブ」特別映画版PV (2014年冬)

※ 2014年冬の榮倉奈々のは、どことなくシリアスで屈託感あり?
よくある「あの頃はよかった!」パターンでしょっ て言うこともできるかもだが、コメ欄みてるとあながちそうとも言えない。
いまでもクリスマスに流れるのはこの曲だし。

【関連記事】
洋楽1983年ピーク説を想うに至った経緯
グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)

AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のデュエット
AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のリズム

☆ ↑の雰囲気に思いっきり浸りたい方にはおすすめします。
AOR系名曲を100曲!
(100曲すべてリンクを貼りなおしました。)

↓こっちも聴いてね
秋向きの洋楽10曲!

■ utsuboの音楽遍歴-1 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-2 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-3 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【1983年洋楽ピーク説】
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
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■ 〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印

戦国時代を代表する武将、武田信玄公。
4月12日は信玄公のご命日で、例年、ご命日前の金~日曜には”信玄公祭り”、4月12日には”武田二十四将騎馬行列”が催されますが、今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で見送り(延期か中止かは未定)となっています。



「武田二十四将」は戦国期に実在した職制ではなく、後世に武田氏の家臣として活躍した武将から23人ないし24人を選定したもので、江戸期以降、絵画や浄瑠璃を通じて広く親しまれたものです。
「二十四将図」に描かれる武将は諸本により異なりますが、武田神社で入手した「新編 武田二十四将 正伝」では、以下の24将が挙げられています。

〔武田家の四宿老〕
●甘利備前守虎泰 
●板垣駿河守信方 
●飯富兵部少輔虎昌 
●高坂弾正忠昌信(春日虎綱)
●内藤修理亮昌豊(昌秀)
●馬場美濃守信春
●山県三郎右兵衛尉昌景

〔武田家の御一門衆〕
●穴山玄蕃頭信君
●一条右衛門太夫信龍(信竜)
●武田刑部少輔信廉
●武田典厩信繁

〔武田家の侍大将〕
●秋山伯耆守信友(虎繁)
●小山田左兵衛尉信茂
●真田弾正忠幸隆(幸綱)
●真田源太左衛門尉信綱
●土屋右衛門尉昌続
●原隼人昌胤

〔武田家の足軽大将〕
●小幡山城守虎盛(小畠虎盛)
●小幡豊後守昌盛
●三枝勘解由左右衛門尉守友(昌貞)
●多田淡路守満頼(三八郎)
●原美濃守虎胤
●横田備中守高松
●山本勘助晴幸

山梨県内には信玄公をはじめ「武田二十四将」ないしその一族ゆかりの寺社が多く存在します。
また、山梨県内の霊場として「甲斐百八霊場」「甲斐三十三観音霊場」「郡内三十三観音霊場」「甲斐八十八ヶ所霊場」などが開創され、多くの寺社で御朱印を拝受することができます。
じつは、筆者の家は「武田二十四将」の武将の末裔と伝わっているので、これまで山梨県内の「武田二十四将」ゆかりの史跡はそれなりにまわっています。
そんなこともあって、これから、信玄公と「武田二十四将」ゆかり寺社と御朱印をまとめてご紹介してみます。

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目次
〔導入編〕武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.1 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2A 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.2B 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.3 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.4 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.5 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
Vol.7~9(分離前) 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印
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〔 温泉地巡り 〕 松之山温泉

新型コロナウイルス感染症拡大による混乱がつづいています。
各地の温泉地は、未曾有の客数減に見舞われているのではないでしょうか。
ピークが抑えられ、かつ早急の収束がはかられることを祈っています。

超久しぶりに温泉関連の記事を入れます。
ここ数年、完璧に御朱印&音楽ブログと化していましたが、これから少しづつ、温泉関係記事も入れていきます。

「温泉地巡り」シリーズ、松之山温泉編のリニューアルUPです。

 

〔松之山温泉について〕
<プロフィール>
越後、妻有の雪ぶかい山あいに湧く松之山温泉は、有馬、草津とともに”日本三大薬湯”に数えられ、ふるくから名湯の誉れ高い湯場です。
松之山温泉の中心は”鷹の湯温泉街”で、周辺に点在する別源泉の、”庚申の湯”、”鏡の湯”、”湯田の湯”などをあわせて松之山温泉郷と称します。

松之山のメイン、鷹の湯(湯本)地区は、湯本川の沢沿いにしっとりと温泉街らしい佇まいをみせています。
中心は共同浴場「鷹の湯」、「千歳」あたり。こぢんまりとした温泉街で端から端まで歩いても10分程度。湯宿は約10軒。

 
【写真 上(左)】 冬の鷹の湯温泉街入口
【写真 下(右)】 春の鷹の湯温泉街入口


【写真 下(右)】 雪の鷹の湯温泉街-1
【写真 下(右)】 雪の鷹の湯温泉街-2

比較的小規模な宿が多く、全体にまとまりのあるたたずまい。
団体向け大規模旅館がないのでしっとりと落ち着いた雰囲気がただよっています。
(ただし、最近廃業したお宿もありやや淋しくなっている箇所も。)

多くのお宿で日帰り入浴OKなので外湯感覚でまわるのもよいのでは?(ただし、いまは日帰り入浴のハードルが高くなっている模様)
鷹の湯温泉街の道は狭く人通りも多いので、日帰りの場合は温泉街入口の無料公共Pに停めた方がベター。
中心の「鷹の湯」まで歩いても3分程度です。

 
【写真 上(左)】 鷹の湯2号泉
【写真 下(右)】 湯気あがる湯本川

温泉街上手の湯本川沿いに2号井の温泉やぐらがあり、独特の湯の香をふりまきながらもうもうと湯けむりをあげています。
奇祭、”婿投げ”で有名な薬師堂もこのそばにあります。

 
【写真 上(左)】 薬師堂
【写真 下(右)】 ”婿投げ”&”すみ塗り”の説明板

 
【写真 上(左)】 温泉街上手の不動滝
【写真 下(右)】 上手からの温泉街

しかし、火山もない雪深い山里に90℃以上の温泉が涌いているのは何とも不思議な感じ。地下の異常高圧熱水が涌き出る「ジオプレッシャー型温泉」とされています。


【写真 上(左)】 鏡の湯「凌雲閣」
【写真 下(右)】 じょうもんの湯からの展望

”鷹の湯”のほかにも、鏡の湯「凌雲閣」、庚申の湯「植木屋旅館」(廃業情報あり)、兎口温泉 翠の湯「兎口露天風呂 翠の湯」(2013年春廃止)、湯坂の湯「ナステビュウ湯の山」など、個性ゆたかな名湯が点在し、温泉好きにはこたえられないエリアとなっています。
また、鏡の湯「凌雲閣」は木造三層の趣ある建物で、かつて高松宮殿下がご宿泊された名宿として知られています。

 
【写真 上(左)】 雪降り時のアプローチ
【写真 下(右)】 豪雪に埋もれる「千歳」の露天

■ 松之山の名物
<美人林>
松口エリアにあるの樹齢約100年ほどのブナ林で、ブナの立ち姿が美しいことから「美人林」(びじんばやし)と呼ばれています。周辺は野鳥の宝庫としても知られています。
 
【写真 上(左)】 美人林
【写真 下(右)】 松之山の野鳥

<棚田>
山間の豪雪の地、松之山には棚田(階段状に連なる水田)がよく残っています。
「狐塚の棚田」は、日本の棚田百選に認定されています。
 
【写真 上(左)】 棚田-1
【写真 下(右)】 棚田-2

<美味しいもの>
松之山の銘菓としては、ふるくからこしあんを米粉のお餅でくるんだ「しんこもち」が知られています。名物まんじゅうとして「婿投げまんじゅう」もあります。

「はっか糖」は越後塩沢の名物として知られていますが、松之山でも昔からつくられていたようです。はっかはミントの一種で日本には古来”和薄荷”が自生しており、この”和薄荷”をつかってつくられたとされます。国産のミントキャンディです。

山間の豪雪地だけに山の幸には事欠きません。なかでもなめこの質には定評があり、ご当地カレーとして松之山温泉なめこカレーが開発されています。

新潟は味噌の本場ですが、松之山(黒倉集落)にも「山鳩みそ」という貴重な地味噌があります。松之山産の米と麹、新潟県産のエンレイ大豆を使って手作りでつくられる自然熟成・無添加の貴重な味噌で、とくに焼き味噌の風味には定評があるようです。
「しょうゆの実」(しょうゆ豆)は、大豆・白米・大麦などからつくった麹を生醤油で仕込み、もろみとして発酵熟成させる越後の郷土料理です。
松之山では、「山鳩みそ」「しょうゆの実」そして発酵味噌「まんまの味」を”松之山三大発酵食品”として売り出し中のようです。

酒処、越後だけに地酒のレベルは高いです。
とくに上越市浦川原の 新潟第一酒造の山間(やんま)は、松之山ゆかりの銘柄として売り出しに注力しているようです。
私は飲んだことがありませんが、精米がむずかしく廃れてしまった幻の酒米「たかね(高嶺)錦」を復活させて醸したものもあり、人気が高いようです。
ほとんどの特産品は温泉街中ほどにある十一屋商店で買い求めることができます。

 
【写真 上(左)】 「ちとせ」の夕食
【写真 下(右)】 滝見屋の蕎麦

松之山の名宿「ちとせ」(旧「千歳」)では、里山料理に力を入れ、「棚田鍋」「あんぽ」「湯治豚」「菜々煮」などの名物レシピが楽しめます。
もともと、松之山では鯉料理が名物でしたが、嗜好の変化により鯉料理が苦手な客が増えているようです。松之山の鯉は清水で泳がせるため臭みが抜けるとされ、事前に希望すれば鯉料理を楽しめるお宿もあります。

松之山に逗留する場合など、昼食は温泉街の「滝見屋」で山菜たっぷりの蕎麦を楽しむことができます。

■ 松之山の雪(以前のレポを集約)
松之山は日本有数の豪雪地です。
どれくらいすごいかというと・・・、小千谷79、十日町148、塩沢148、妙高高原213、酸ヶ湯307(全国1位)、山形肘折285(同2位)に対して、松之山284 (2002/02/19現在の積雪深、単位㎝) (「新潟県雪情報システム」、「雪センター」HPより)といった感じで、豪雪で知られる魚沼地方よりいちだんと雪深いところです。

また、旧国鉄駅の積雪ランキング1位は、ひと山越えた飯山線「森宮野原駅」の785㎝なので、やはり第一級の豪雪地帯といえるでしょう。
北信濃には「一里一尺」ということばがあります。これは長野盆地から信濃川(飯山線)に沿って信越国境を進むと、一里(3.9㎞)につき積雪が一尺(30㎝)づつ増えていくというもので、市川健夫博士は、実データを用いてこのことばの裏付けをされています。(雪国文化誌、NHKブックスS55刊)
その積雪がピークを迎えるのが、松之山にもほど近い「森宮野原」駅ということになります。

●豪雪地の代表格として知られる越後湯沢の積雪データ
●おなじく津南のデータ
松之山のデータ
雪が多い年で、越後湯沢・津南が3m程度、これに対して松之山は4m越えもあり、豪雪で知られる越後湯沢・津南あたりよりさらに約1mほども積雪(最大積雪深)が多いことがわかります。

ここでは、屋根の「雪下ろし」ではなく「雪堀り」というそうです。
日に1mあまりも積ることがあり、5月まで雪が残ります。

でも、雪降りの日でも北西風はよわくそれほど寒くありません。
粒の大きな湿った雪がひらひらと降り、もこもこと積もります。
日本海から近く、背後に東頸城丘陵が北西季節風を受けるように屹立しているので、山雪、里雪どちらでも局地的な大雪となるようです。

 
【写真 上(左)】 雪の壁
【写真 下(右)】 5月でも残る雪

ここにノーマルタイヤ、ノーチェーンで入るのは完全に自殺行為(というか、まず辿りつけない ^^ )。
雪道運転に自信のない方は鉄道利用がベター。ほとんどの宿でほくほく線「まつだい駅」から送迎有です。

松之山でももっとも雪が多いとみられるのは、東頸城丘陵寄りの天水越、田麦立、中原などで、さらに奥の大厳寺高原は11月から翌5月までの約半年、道路閉鎖により車で到達することはできません。

大厳寺高原の上にある野々海峠(池)あたりはとくに雪が多いらしく、「東頸城丘陵の野々海峠は信越国境にあり、(中略)このあたりでは平年でも8mほど積る。」(雪国文化誌(同上))という情報もあります。
西高東低の冬型の気圧配置がゆるむとき、最後まで雪雲がかかっているのはたしかにこのあたりのようです。

 
【写真 上(左)】 5月の大厳寺高原
【写真 下(右)】 5月下旬でもこの雪の量(大厳寺高原)

●飯山線の並はずれた豪雪ぶりを実感できる貴重な動画 ↓
【前面展望】 大雪のJR飯山線 十日町→戸狩野沢温泉 164D キハ110-229
(2013-02-11、新潟県津南町で日積雪85cm、→天気図(おそらく里雪型の豪雪時)

とくに33:45 足滝駅~49:15 平滝駅の豪雪がもの凄い。(→飯山線の路線図
この状況で4分遅れで留めるとは、運転手さん、神業すぎ!
これじゃ車は走れないわな。やっぱり鉄道は雪に強い。
そして、こんな豪雪の地に集落があって人が住んでいるとは、日本人おそるべし。

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【 松之山入り(2002年2月、松之山初訪時の雪のようす)】
その後、津南へもどり国道353号を北へ(R405は冬期閉鎖)。いよいよ松之山入りです。
折しも雪が激しくなり路面は完全圧雪。
津南と松之山の町境、豊原トンネルを抜けると雪の降り方が変わりました。雪の粒が異常に大きく、雪の固まりが落ちてくるような降り。
道幅がけっこうあるのが救いですが雪の壁の高さは今までで最高。ところどころで3mを超えている感じです。
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小雪で明けた2日目は、朝ぶろを浴び朝餉をとっているうちにみるみる青空に。
さらに豪雪を求めて最奥の集落田麦立へ。
凄いくらいの雪晴れのもと、あちこちで「雪掘り」をしています。
干し物をしたり、日だまりに盆栽が出されていたり、雪国の晴れ間の貴重さが窺い知れます。
奥の大厳寺高原まで除雪が入っていたのでここぞとばかりに突入。
あたりはおそらく4m近い積雪。でも、除雪が速く、路面の雪はかなり消えています。
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【写真 上(左)】 「鷹の湯」外観
【写真 下(右)】 「鷹の湯」内湯

<歴史>(「まつのやま.com」などを参考)
「700年ほど前の南北朝時代、一羽の鷹が舞い降りて傷ついた羽を休めているのを木こりが見つけ、そこにこんこんと湧く熱泉を発見した」という開湯伝承をもつ古湯で、室町時代には、越後守護上杉家の隠し湯であったという説もあります。
伝承にちなみ「鷹の湯」、「霊鷹の湯」と呼ばれ、その効能の高さは古くから知られていたようです。

江戸時代に入ると湯小屋場と木賃宿を擁する7日一廻りの湯治場の体裁を整え、集められた湯銭で出湯役(一種の税金)を納め、湯小屋や薬師堂の維持・補修の費用に充てていたとされます。

なお、松之山温泉の守護神として少彦名命が祀られていたという伝承があるようです。
また、温泉守護とされた薬師如来の系譜は、現在も山手の「薬師堂」に伝わっているようです。

 
【写真 上(左)】 鷹の湯の説明板
【写真 下(右)】 温泉番付

庶民のあいだに”温泉ブーム”が訪れた江戸中期以降、松之山はいよいよその名を高め、温泉番付でも前頭上位あたりの常連でした。
越後でこれより上に位置づけられた湯場はほとんどみられず、越後第一の名湯であったことがうかがわれます。

明治期の泉源所有権騒動、昭和29年8月の大火など波乱の歴史を辿りながらも、その薬湯の名声は衰えることなく現在に至り、広く浴客を集めています。

 
【写真 上(左)】 「和泉屋」内湯
【写真 下(右)】 松之山最強と思われる「千歳」家族風呂の湯口

<温泉>
平成17年3月現在の県作成の「温泉利用状況報告書」によると、松之山温泉で利用源泉11(内 自噴10、動力1)、湧出量自噴257L/min、動力168L/min、宿泊施設数16となっています。

情報を整理してみると、
1.鷹の湯(1号・2号・3号)
「鷹の湯共同浴場」「ひなの宿 千歳」「和泉屋」など”鷹の湯温泉街”各宿。「旅館明星」は3号泉単独利用です。
Na・Ca-Cl温泉 85.5℃ pH=7.5 総計=14.98 〔1号・2号・3号混合泉/共〕
Na・Ca-Cl温泉 84.0℃ pH=7.3 総計=14.75 〔1号・2号混合泉(以前)/共〕

4.鏡の湯(・鷹の湯3号)
「凌雲閣」
Na・Ca-Cl温泉 98℃ 〔鏡の湯/自〕

5.庚申の湯 (廃業のWeb情報あり)
「植木屋旅館」
含ホウ酸土硫食塩泉? 37℃ pH=8 〔庚申の湯/自〕

6.兎口温泉 翠の湯 (廃業のWeb情報あり)
「兎口露天風呂 翠の湯」
Na・Ca-Cl温泉 72.1℃ pH=7.6 総計=14.34 〔兎口1号/自〕

7.湯田の湯
「渋海リバーサイド ゆのしま」
泉質不明 25℃ pH=8.8 ER=1.45 〔湯田の湯/自〕

8.じょうもんの湯
「おふくろ館」
単純硫黄冷鉱泉(Na・Mg-HCO3・SO4型) 13.0℃ pH=7.8 総計=0.46 TS=3.9 〔じょうもんの湯/自〕

9.湯坂の湯
「ナステビュウ湯の山」
Na・Ca-Cl温泉 95℃ pH=7.6 総計=15.42 〔湯坂温泉/自〕

10.まきばの湯
「ばーどがーでん」
単純鉄冷鉱泉(Fe-HCO3型) 12.1℃、pH=6.6、2.0L/min自然湧出、成分総計=111.5mg/kg 〔まきばの湯/自〕

 
【写真 上(左)】 鷹ノ湯3号の湯色(旅館 明星)
【写真 下(右)】 鏡の湯の湯口&湯色(凌雲閣)

11の利用源泉のうち、上記のとおり10までは比定できますが、のこる1源泉が不明。
名湯並び立つ松之山だけに気になるところですが、下記の情報を照合してみると、
http://www.city.tokamachi.niigata.jp/site/reiki_int/reiki_honbun/r106RG00000628.html
http://www.pref.niigata.lg.jp/tokamachi_kenkou/1265576492447.html
http://www.matsunoyama.com/modules/info/index.php?content_id=36
・松之山4号(十日町市松之山湯本539番地1)
・兎口1号(十日町市松之山兎口346番地)
が該当する可能性があります。

入湯リスト

 
【写真 上(左)】 湯坂温泉 「ナステビュウ湯の山」
【写真 下(右)】 兎口温泉 「翠の湯」

昭和初期まで、松之山温泉は旧?”鷹の湯”源泉1本に依存していたものとみられます。
昭和12年、天水越で「鏡の湯」の掘削に成功、翌13年には湯本(鷹の湯地区)でも掘削に成功し安定した供給が可能になったようです。(1号井、深度170m、開発時92℃、62.3L/min)
昭和39年、湯宿の増加に対応するため2号井が掘削され湧出に成功(2号井、深度264m、開発時90℃、360L/min)、この2号井は温泉街のおく、湯本川沿いで湯煙を上げているものです。

 
【写真 上(左)】 庚申の湯 「植木屋旅館」
【写真 下(右)】 棚田

以降、”鷹の湯”共同泉は1号・2号混合泉が利用されてきましたが、平成19年8月、上湯地内で新源泉3号井の掘削に成功、以降、共同泉は1号・2号・3号の混合泉となっています。(3号井、深度1,301m、開発時92℃、600L/min)

〔鷹の湯3号泉(松之山温泉バイナリー発電)について〕
鷹の湯3号井は鷹の湯1号・2号の補完源泉として、温泉街から1㎞ほど離れた上湯地内に掘削され、平成19年8月に自噴の湧出を得ました。
掘削後の調査では湧出量(最大)624L/min、井戸を絞って湧出量は260L/min。源泉は減圧所で温泉街での使用量とのバランスをとり、温泉街へ埋設配湯管で送湯、不要分は河川へ排出されていました。

 
【写真 上(左)】 3号源泉遠景
【写真 下(右)】 3号源泉

その排出量は平成21年11月の調査時において130L/min(温泉街への送湯量は約130L/min)でした。
発電導入可能性検討資料によると「源泉3号からの湧出量を411L/minに増加させることで、バイナリー地熱発電システム*(送湯端:50kW、年間送電量:416MWh)を導入可能」としています。
松之山温泉での温泉発電システムの開発と実証事業は、平成22年度~24年度の3年間実施されましたが、ここから考えると、温泉街へは地熱発電による温度低下を受けない130L/minが供給されていたものとみられます。

このWeb記事には「浴用には使えず捨てていた熱水に加えて大気に捨てている余剰蒸気を利用することで、源泉3号からの湧出量をほとんど増やさずに、発電設備へ水温98度、毎分388リットルの温泉水に匹敵する熱量を供給しようというものです。」という記載があります。

*)80~150℃の蒸気や熱水を熱源として、アンモニアなど、低沸点の媒体を加熱・蒸発させて、その蒸気でタービンを回し発電するもの。2つの媒体(水と低沸点媒体)を利用することからバイナリーと呼んでいます。
 通常の蒸気発電に使われる地熱より低い温度、または、小規模な蒸気・熱水が利用可能で、温泉井に適用できる可能性があります。新潟県資料より

 
【写真 上(左)】 川に捨てられる熱水
【写真 下(右)】 バイナリー発電の説明

ここで気になるのは「発電設備へ水温98度、毎分388リットルの温泉水に匹敵する熱量を供給」するために、「湧出量を411L/minに増加」していたのか、それとも「湧出量は260L/minのままで、大気に捨てている余剰蒸気を利用」していたのかということです。

温泉関係者のWebUP記事などをみると「捨てていた温泉の熱水を利用する」という認識があるようなので、後者だとは思いますが、何となく気になります。

素人的素朴な疑問ですが、湧出量(最大)624L/minで、温泉街への必要送湯量が130L/minであれば、井戸を130L/minまで絞れば「河川に捨てる」こともないのでは?
異常高圧自噴で湧出量を260L/minまでしか絞れないということであれば、どうしても余ってしまう130mlを発電に充てることは理にかなっているとも思いますが・・・。
ただしその場合も経済性はあるのかな?(この資料を読む限りかなり収支は厳しそうな感じもしますが)

松之山温泉(鷹の湯井系列)はジオプレッシャー型の化石海水温泉とみなされ、その賦存量は有限(=いつかは枯渇する)であるとされています。
そうであれば、「薬湯」とも称される希有の源泉、できる限り大切に扱ってほしいような気がします。

なお、十日町市発表資料(H22.4.19)では、この発電実証試験は、「平成21年度に新潟県が実施した『バイナリー地熱発電導入可能性調査』で有望な温泉として選ばれ、地元の意向を確認して実証研究を行うこととなった。」との経緯が説明されています。

十日町市の最新情報によると、「松之山温泉「鷹の湯3号源泉」を活用した地熱発電事業について、平成31年3月27日付けで締結した基本協定に基づき、発電事業を実施する特別目的会社「松之山温泉合同会社 地・EARTH(ジアス)」が設立されたことから、事業契約を締結しました。」とあります。
発電出力は210キロワット、一般家庭約300世帯に相当する年間124万キロワットアワーの電力を売電し、契約期間は令和元年12月24日から20年間とのことです。

<松之山温泉1号泉>
Na・Ca-塩化物温泉 84.0℃、pH=7.3、60L/min掘削自噴、成分総計=14.75g/kg
Na^+=3412mg/kg (58.20mval%)、Ca^2+=2013 (39.37)、Fe^2+=0.5
F^-=2.3、Cl^-=8656 (98.73)、Br^-=25.7、I^-=4.4
陽イオン計=5565 (255.0mval)、陰イオン計=8832 (247.3mval)
メタけい酸=79.3、メタほう酸=242.0、遊離炭酸=36.0 <S57.11.30分析>

<松之山温泉2号泉>
Na・Ca-塩化物温泉 92.4℃、pH=7.6、93L/min掘削自噴、成分総計=15.71g/kg
Na^+=3496mg/kg (57.65mval%)、Ca^2+=2097 (39.65)、Fe^2+=0.2
F^-=2.8、Cl^-=9367 (98.89)、Br^-=27.5、I^-=3.3
陽イオン計=5752 (263.6mval)、陰イオン計=9534 (267.1mval)
メタけい酸=67.6、メタほう酸=349.5、遊離炭酸=3.2 <S57.11.30分析>

<松之山温泉3号泉>
Na・Ca-塩化物温泉 97.5℃、pH=7.7、200L/min掘削自噴、成分総計=16095mg/kg
Na^+=3700mg/kg (60mval%)、Ca^2+=2100 (37)、Fe^2+=0.04
F^-=2.9、Cl^-=9500 (99)、Br^-=28、I^-=7.3
陽イオン計=6032 (266.9mval)、陰イオン計=9623 (272.3mval)
メタけい酸=170、メタほう酸=270、遊離炭酸=0.2 <H20.11.14分析>

<松之山温泉1号・2号・3号混合泉>
Na・Ca-塩化物温泉 88.7℃、pH=7.8、882L/min 掘削自噴、成分総計=16257mg/kg
Na^+=3781mg/kg (59.77mval%)、Ca^2+=2043 (37.05)、Fe^2+=0.0
F^-=2.8、Cl^-=9514 (98.68)、Br^-=35.0、I^-=5.8
陽イオン計=6085.9 (275.1mval)、陰イオン計=9712.8 (271.9mval)
メタけい酸=169.5、メタほう酸=287.4、遊離炭酸=1.7 <H30.10.15分析>

<松之山温泉1号・2号・3号混合泉>(旧データ)
Na・Ca-塩化物温泉 85.5℃、pH=7.5、掘削自噴、成分総計=14979mg/kg
Na^+=3500mg/kg (60mval%)、Ca^2+=1900 (38)、Fe^2+=0.03、F^-=2.8、Cl^-=8900 (99)、Br^-=25、I^-=10、陽イオン計=5593 (251mval)、陰イオン計=9025 (252mval)、メタけい酸=110、メタほう酸=250、遊離炭酸=0.8 <H20.11.14分析>

強鹹味+苦味の松之山味に墨を思わせる臭素&イオウがかったアブラ臭の”松之山臭”は”薬湯”の名に恥じない絶品で、一時期中毒症状に陥った筆者は、4年連続して冬場に泊まりました(笑)。
強食塩泉特有のほてりをともなう強烈なお湯は、やはり冬場に真価を発揮するような・・・。
降り積もる雪を眺めながらつかるほてり湯は、ほかには代え難い独特の趣があります。


E138.36.8.095N37.3.43.280

〔 2020/04/04リニューアルUP 〕
〔 2011/09/08UP 〕

【 BGM 】
WIDE OPEN SPACES - John Jarvis


Hey Nineteen - Steely Dan


Emily - Dave Koz
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思い

いっこうに収束のきざしを見せない新型コロナウイルス禍。

平成23年3月の東日本大震災のときは、→こういう情報記事つくって、それなりにアクセス数もいただいたのですが、今回はコンテンツのつくりようがありません。
(このときは、「困ったときはお互い様」という考えが共有されていたような気がします。
今回は国民全員が危機の当事者だし、この頃に比べて世相も変わっているので、人々の気持ちがどういう方向に向かっていくのか想像もつきません。)

本来なら、夏のオリンピックに向けて全国の温泉地も活況をみせていただろうに、この状況はあまりに悲惨すぎて言葉がありません。
東日本大震災のとき、箱根町町観光協会の村上政司専務理事は「観光業は昔から景気、天気、人気に左右される『3気商売』といわれてきた。近年は、病気(新型インフルエンザなど)、狂(凶)気(戦争や災害など)も影響する『5気商売』になっている」と話されていたが、今回、おそろしいほどにこれが的中している。
政府の休業・減収支援策が適切に打たれ、1軒でも多くのお宿や関連企業が救われることをただただ祈るのみです。

家にいることが多くなって、つらつらと思い、考えることが増えた。
デフレ下の苛烈な社会をひたすら走りつづけてきた人々も、ふと足をとめて振り返るタイミングなのかもしれません。

佐野元春 『ハートビート(ライブ 1983)』



こんなときでも、リスクを冒して生活を支えてくれる人びとがいる。
スーパーや薬局のスタッフさん、物流・配送・交通機関の方々、そして医療に携わる方々・・・。
自粛による休業補償も必須だけど、こういう方々にも十分な手当やサポートを講じてほしい。
もはやPB度外視の国債財源しかないのだから、それこそ「思い切った」「前例のない」具体的な政策を。
1日も早く。
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