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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3からのつづきです。

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第9番 千葉山 薬師寺 西光院
(さいこういん)
足立区千住曙町27-1
新義真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(千住本)氷川神社(足立区千住)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第63番、荒綾八十八ヶ所霊場第82番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所

第9番は足立区千住曙町の西光院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

西光院は徳治二年(1307年)に下総国千葉氏の創建、覺音法印の開山と伝わりますが、千葉氏庶流石出帯刀吉深の創建という説もあります。
千住本氷川神社 公式Webによると徳治二年(1307年)、牛田に(千住本)氷川神社とともに創建と伝わるとの由。

『江戸名所図会』には、千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝は下総國香取郡石出郷の領主で、別に牛田村も領し、永和二年(1376年)入道し宏明と号して牛田村に隠栖。その末裔の(石出帯刀)吉深も牛田村に隠栖して梵宇(密寺か?)をなして西光院と号したとあります。

整理すると、徳治二年(1307年)に下総国の千葉氏が覺音法印を開山に創建。(同時期に(千住本)氷川神社も創建。)
御本尊に千葉介常胤(1118-1201年)の守護佛で弘法大師の御作とも伝わる薬師如来(牛田薬師)を安しました。

永和二年(1376年)千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝(入道して宏明)が牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖。
石出帯刀吉深(1615-1689年)も先祖の胤朝にならい牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖、真言密寺として伽藍を整え西光院を号したとみられます。

千葉常胤(1118-1201年)は千葉氏第3代当主で、保元の乱(保元元年(1156年))に出陣し源義朝公麾下で戦いました。

治承四年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝公が石橋山の戦いに敗れ安房国へ渡ると安達盛長を使者として常胤に加勢を求め、常胤はこれに応じました。
頼朝公に鎌倉入りを勧めたのも常胤といいます。

頼朝公に従って武蔵国に入り、武蔵の豪族豊島清元・葛西清重父子とも良好な関係を結んだとされます。
富士川の戦いなどに参戦、頼朝軍主力として働き、寿永二年(1183年)、又従兄弟の上総介広常が頼朝公に誅殺された後も頼朝公の信任厚く、房総平氏の惣領の地位を得たといいます。

一ノ谷の戦いに参戦、豊後国で軍功を上げ、文治三年(1187年)洛中警護のため上洛。
文治五年(1190年)の奥州合戦では東海道方面の大将に任じられたとも。

諸戦の戦功で常胤は相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2ヶ国をはじめ、東北から九州にまで及ぶ全国20数ヶ所の広大な所領を得、屈指の有力御家人となりました。

建仁元年(1201年)3月逝去。
子孫は房総平氏として各地に拠り、千葉六党(ちばりくとう)とも呼ばれて大いに栄えました。
(以上「千葉氏の歴史」(千葉氏Web資料)などより)

つぎに石出帯刀吉深です。
中央区観光協会特派員ブログなどを参考に辿ってみます。

石出帯刀(いしでたてわき)とは個人名ではなく、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名です。
家禄は三百俵。格式は譜代の旗本といいます。

初代の石出帯刀(本田図書常政)は千葉介常胤の曾孫で、下総国香取郡石出(現・東庄町石出)を領した石出次郎胤朝の子孫と伝わります。
台東区元浅草の法慶山善慶寺は、初代帯刀の開基といいます。

当山の開基?ともされる石出帯刀吉深(1615-1689年)は、歴代でもっとも有名な石出帯刀として知られています。

明暦三年(1657年)1月、明暦の大火(振袖火事)の火勢は伝馬町牢屋敷にも迫りました。
牢屋敷を統括する石出帯刀吉深は、この大火から120人余(数百人とも)の囚人を救うために、必ず戻ることを条件に独断で「切り放ち」(期間を設けた囚人の解放)を行いました。

緊急時とはいえ、当時、幕府上層部に無断で囚人を解き放つことが、牢屋敷の長官である石出吉深にどういう咎をもたらすか、囚人たちにも容易に想像できたはずで、囚人たちは見送る吉深に合掌をしてから牢屋敷を出たといいます。

鎮火ののち、囚人たちはこの恩情に応えて、一人も欠くことなく牢屋敷に戻ってきたといいます。
吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れ」と称え、老中に囚人たちの罪一等の減刑を嘆願しました。
そしてみずからの越権行為を幕閣につぶさに報告し、覚悟して断罪を待ったといいます。

当時は幼い家綱公の治世。補佐役を務め、名宰領の誉れ高い保科正之の計らいにより、囚人全員の減刑を行い、吉深の罪も問われることはなかったといいます。
吉深の「切り放ち」はこれ以降制度として定められ、現行の刑事収容施設法にも影響を与えたとされます。

吉深は晩年関屋の里に隠棲して常軒と号しました。
歌人・連歌師としても知られ、当時の江戸の四大連歌師の一人に数えられます。

著作『所歴日記』は江戸初期の代表的紀行文とされ、隠棲後には源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させるなど、当世一流の文化人でした。
国学に傾倒し、廣田坦斎・山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えたのも吉深といいます。

元禄二年(1689年)3月没。
当初は石出帯刀ゆかりの元浅草善慶寺に埋葬されましたが、のちに西光院に改葬されています。

西光院には吉深以下三代の墓碑と、吉深の実子でのちに囚獄を世襲した師深が建立した吉深の彰徳碑「日念碑」が残されています。

しかし、すみませぬ。
筆者参拝時にはこれほどの偉人との認識がうすく、碑は墓域にあることもあって「石出常軒の碑」の説明板の写真しか撮っておりません。

西光院は江戸期には(千住本)氷川神社の別当でした。
千住本氷川神社 公式Webには「明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築(中略)別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、現在に至る。」とありますが、この移築の経緯はよくわかりません。

御本尊は「牛田薬師」と称され、諸人の信仰を集めているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 足立郡巻二』(国立国会図書館)
(千住町三町目)西光院
新義真言宗 本木村吉祥院門徒 千葉山ト号ス 本尊薬師ハ千葉介常胤ノ守護佛ナリト云 コノ寺域ハ常胤カ庶流石出帯刀吉深カ別業ヲ捨テ 開闢スル所ナリ 故ニ祖宗ノ守護佛ヲ安シ 又碑ヲタテ当寺草創ノ事跡及吉深カ世系行實ノ大概ヲ記ス

『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
牛田薬師堂
牛田村にあり真言宗にて千葉山西光院と号く
徳治二年(1307年)当国の領主千葉氏の草創 開山を覺音法印といふ
本尊瑠璃光如来ハ弘法大師の作にて千葉介常胤崇尊の霊像なりと云
●●へて霊験著しく 石出氏吉深をよひ其子常英等殊に尊信し●●霊験を得たりといふ
相伝ふ千葉介常胤の末裔に同五郎胤朝といへる者あり 下総國香取郡石出といへる地に居住し石出日向守と唱ふ 此牛田村ハ胤朝別業の地なり
永和二年(1376年)入道して宏明と号し●に隠栖す 其末流●雪入道吉深に至りて此牛田村に遁れ住竟荘園の地を転して梵宇とし西光院と号くといふ(以下略)

千住本氷川神社 公式Web
(徳治2年1307)に下総国千葉氏が、牛田に千葉山西光院と共に氷川社として創建されたと伝えられている。
江戸初期に現在地に千葉氏の一族であった。権の兵衛(小林氏)等、地主が土地奉納によって分社を建立した。明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築、この用地に鎮座の氷川柱を分社に合祀す、別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、共に現在に至る。


原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約5分。
住所に「千住」がついているので北千住周辺かと思いきや、墨田区にも近い牛田~堀切辺です。

荒川と隅田川をつなぐ隅田水門にもほど近く、このあたりも治水上の要衝です。

民家と町工場が密集する下町らしい路地に面しています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道

山内入口は門柱でその左手前に院号標。正面に本堂が見えます。
参道左側の朱塗りの一間社はおそらく稲荷社で、当山鎮守かもしれません。

その左横の石碑は石出帯刀吉深関連かもしれませんが撮影し忘れました。


【写真 上(左)】 「石出常軒の碑」の説明板
【写真 下(右)】 天水鉢

本堂前の天水鉢には千葉氏の家紋である九曜紋。
山号が「千葉山」ということもあり、千葉氏との関連を色濃くのこします。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
おそらく近代建築ですが、向拝の二本の朱塗りの丸柱が意匠的に効いています。

スケール感のある向拝で見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 荒綾八十八ヶ所霊場の札所標

山内には荒綾八十八ヶ所霊場の札所標、庚申様の石佛や石碑があります。


庫裏にはご住職がいらっしゃいましたが、御朱印は不授与とのことでした。

もと別当を奉任した(千住本)氷川神社(足立区千住)の御朱印を掲載します。


〔 (千住本)氷川神社の御朱印 〕

 


■ 第10番 梅柳山 墨田院 木母寺
(もくぼじ)
公式Web

墨田区堤通2-16-1
天台宗
御本尊:慈恵大師(元三大師)
札所本尊:
司元別当:
他札所:閻魔三拾遺第27番、墨田区お寺めぐり第2番

第10番は墨田区堤通の木母寺です。

木母寺は江戸時代の隅田河畔の名所で、とりあげている史料は多数ありますが、公式Webをメインに適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。

木母寺は天台僧・忠圓阿闍梨が平安中期の貞元元年(976年)に梅若丸の供養のために開山、当初は梅若寺(ばいにゃじ)隅田院を号したといいます。
文治五年(1189年)源頼朝公が奥州遠征の折に参拝し、長禄三年(1459年)には太田道灌が梅若塚を改修したと伝わります。

天正十八年(1590年)徳川家康公より梅柳山の山号を得、梅柳山梅若寺隅田院と号したとみられます。

慶長十二年(1607年)、前関白・近衛信尹卿参詣の折、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の木母寺を号しました。
信尹卿は自筆の額を与え、この額は寺宝となっています。

江戸時代の当山は大いに栄え、山内には隅田川御殿が建てられ、徳川3代将軍家光公から8代吉宗公の治世まではの将軍鷹狩りや隅田川遊覧の際の御座所とされ、将軍に献上する御前栽畑もあるなど、徳川将軍家と深い関係にありました。

明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若山王権現を改めて祀り梅若神社となり明治7年には村社に列しました。
明治21年、光円僧正が尽力されて仏寺として再興し、木母寺の号を復しました。

昭和20年戦災で諸伽藍を焼失したものの、戦後に復興をとげています。
昭和51年、東京防災拠点建設事業により南東に160mほど移転して現在に至ります。

『江戸切絵図』には、旧綾瀬川と隅田川の合流点、関屋あたりに「木母寺・梅若塚」がみえ、ずいぶんと北寄りにあったように思えますが、実際は東寄りの現・梅若公園(堤通2-6-10、都指定旧跡の「梅若塚」がある)あたりにあったとされています。

『江戸切絵図』の隅田川寄りに「水神」がみえますが、こちらは現・隅田川神社とみられます。
隅田川神社も旧地から南に100mの地に移転しており、隅田川神社の100m北あたりは、ちょうど梅若公園の隅田川寄りに当たりますから、やはり現在の梅若公園あたりが木母寺・梅若塚の旧地とみられます。

『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区/PDF)のP.7-8にも「梅若公園はかつて、梅若神社々頭の地を児童公園にしたことに始まり」「(梅若)公園の中に『旧跡梅若塚』の標石が建っています。梅若伝説の発祥地がこの場所です。昭和51年に木母寺が移転した時に塚も移動しましたが、塚のあったこの場所は今でも《都指定旧跡》であり」と明記されています。




原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

伽藍は近代建築ですが、山内は句碑・歌碑の碑林をなし、墨東有数の文化財の地としても知られています。

【 梅若伝説 】
木母寺公式Webの『梅若権現縁起』墨田区Web史料『梅若伝説』(PDF)などから追ってみます。

平安時代の中頃、京都北白川に吉田少将惟房卿とその妻で美濃国野上長者の一人娘・花御前の夫妻がおりました。
夫妻には子がなく、子の誕生を近江国坂本の日吉山王権現に祈願したところ、神託により梅若丸を授かりました。

梅若丸五歳のとき父・吉田少将はこの世を去り、梅若丸はわずか七歳で比叡山にのぼり月林寺で学問修行に励みました。

梅若丸はすこぶる才知に優れ、これほどの稚児はいないと賞賛されました。
東門院にも松若丸という評判の稚児がいましたが、彼を取り巻く山法師たちは梅若丸を妬んで排斥しました。

梅若丸は追われるように比叡山を下り、琵琶湖のほとり大津の浜で人買い商人の信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、梅若丸をかどわかして奥州へと旅立ちます。


原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)

その途中、梅若丸は隅田川のほとりで病に倒れ、信夫藤太は梅若丸を置き去りにして姿を消しました。
里人たちの介抱のかいもなく、自分の身の上を語ったのち、辞世の句をのこして梅若丸はその生涯を閉じました。

 尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと 

ときに貞元元年(976年)3月15日、梅若丸はわずか十二歳であったといいます。

その折、居あわせていた天台宗の高僧忠圓阿闍梨が里人と墓(梅若塚とも)をつくって柳を植えました。


山内掲示(梅若権現御縁起)より

花御前は、わが子が行方知れずとなった哀しみのあまり、狂女に身をやつし、わが子の行方を東国までも探し求めました。
当地に至り、隅田川の渡し守から梅若丸の死を知らされたのはちょうど一周忌の日だったといいます。
花御前が梅若塚の前で念仏を唱えると、亡きわが子の姿が現れるや、はかなくもその姿は消え去っていったとも。

忠圓阿闍梨はこの悲話を聞いて、梅若丸を弔う堂を築き、母の花御前(妙亀尼)はそこに住みつきましたが、ある日、対岸の鏡が池に身を投げてわが子の後を追いました。

すると不思議なことに霊亀が妙亀尼の遺体を乗せて浮かびあがってきました。
忠圓阿闍梨は妙亀尼の墓を建て、妙亀大明神として祀り、梅若丸も山王権現として祀られたということです。

この悲話は謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄「八重霞賤機帯」などにうたわれ、戯作や小説にもなって多くの人に知られることとなります。

梅若伝説をモチーフとした浄瑠璃や歌舞伎の演目は「隅田川物(すみだがわもの)」と呼ばれて人気を博し、一ジャンルを築きました。
「隅田川物」の人気は、その舞台となった隅田川の岸辺に文人墨客が集まるきっかけになったともみられています。

「隅田川物」上演の際には、役者は梅若丸の供養と興行の成功、そして自身の芸道上達を祈念するため木母寺を詣でたとのことです。

また、日本古典芸能では狂女が繰り広げる演目を「狂女物」といいますが、「隅田川物」は代表的な「狂女物」としても知られています。

維新後も「隅田川物」の人気は高く、木母寺は参詣客で賑わっていたようです。
また、『ガイド』には比叡山延暦寺直末とあり、高い寺格を有することがわかります。


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【史料・資料】

『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
梅柳山木母寺
隅田村堤のもとにあり隅田院と号す 天台宗にして東叡山に属す 本尊ハ五智如来なり
中にも阿彌陀如来の像ハ聖徳太子の作なりと云伝ふ
貞元年間(976-978年)忠圓阿闍梨当寺を草創す 天正十八年(1590年)台命あり依て梅柳山と号す
昔ハ梅若寺と呼びたりしを慶長十二年(1607年)近衛関白信尹公武蔵國に下りたまひし時 隅田河逍遙のゆくてに 当寺へ立ちよらせられ寺号を改むへにハいかにとありしに 寺僧応諾す 依木母寺の号を賜ひぬ(中略)
寛文の始 大樹此地に御遊猟の砌当寺を御建立ありて 新殿なと造らせたまひぬ
按に木母ハ梅の分字ならんされと(中略)

梅若丸塚
木母寺の境内にあり 塚上に小祠あり 梅若丸の霊を祠りて山王権現とす
縁起に梅若丸ハ山王権現の化現なのと云
後に柳を植て是を印の柳と号く



原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約7分。
西側は隅田川、首都高と堤通り、東側は東白髭公園で人通りの少ないところです。
東白髭公園の向こうには、都営白髭東アパートが堤防のごとく建ち並びます。


【写真 上(左)】 東門
【写真 下(右)】 西門

徒歩だと東白髭公園側(東側)からのアプローチですが、車は一方通行の堤通り側からのみなので要注意です。
駐車場はありますが、夕刻には堤通り側(西側)の門扉が閉まるので閉門後は駐車できません。
本堂が東向きなので、表参道は東側の東白髭公園側かと思います。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は近代建築で、階段をのぼった2階が向拝、見上げに寺号扁額を掲げています。
御本尊は慈恵大師(元三大師)です。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 身がわり地蔵尊


【写真 上(左)】 梅若念仏堂と梅若塚
【写真 下(右)】 梅若念仏堂

本堂向かって右手のガラス貼りの覆屋のなかにある(おそらく)宝形造桟瓦葺の堂宇は「梅若念仏堂」です。
このお堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らに建立したお堂が基とされています。

毎年4月15日の梅若丸御命日には、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供」が勤行されます。


【写真 上(左)】 堂内のお像
【写真 下(右)】 梅若塚

「梅若念仏堂」の向かって左隣には梅若塚があります。
貞元元年(976年)梅若丸が亡くなった場所に、忠圓阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養したという塚です。
江戸時代には、梅若山王権現の霊地として信仰されていたといいます。



境内には浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑、高橋泥舟の筆になる落語家三遊亭円朝の建碑「三遊塚」、伊藤博文の揮毫による巨碑「天下之糸平の碑」、山岡鉄舟揮毫の石碑などが点在し、文化の香り高い山内です。


御朱印は本堂1階に書置が用意されています。

〔 木母寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・元三大師の御朱印
【写真 下(右)】 梅若塚の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第2番のスタンプ


以下、つづきます。



【 BGM 】
■ ずっと二人で - BENI


■ ヒカリヘ - miwa


■ Let Go - 中村舞子
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■ 都内の閻魔大王の御朱印

本日7月16日は閻魔大王のご縁日「薮入り」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがあります。

【最新情報】
7月16日の授与については不明ですが、
下記リストのうち、
第16番 長徳寺様、第18番 嶺雲寺様については、タイミングにより閻魔様の御朱印を授与されています。


【説法をされる閻魔さま】法乗院(深川えんま堂) 2021年5月8日(土)


こんな時代だからこそ、閻魔様詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

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2024-01-15 UP

明日1月16日は閻魔大王のご縁日「初閻魔」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがありますのでアゲてみました。

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2023/07/15 UP

明日7月16日は閻魔大王のご縁日「薮入り」です。
閻魔様を祀る寺院では、御開扉されたり、限定御朱印が授与されるところがあります。

そこで、江戸の閻魔様関連のふたつの霊場(江戸・東京四十四閻魔参り、閻魔三拾遺)の札所をベースに、江戸時代の著名な閻魔様(『江戸歳時記』)のデータを加えて、閻魔様の御朱印をいただける寺院を整理してみました。
なお、ふたつの霊場はいずれも現役霊場ではなく、諸般のご事情で現在御朱印授与を休廃止されている可能性もあります。


※表中、オレンジの寺院は、閻魔様参りにとくにおすすめのお寺さまです。

閻魔様の御朱印はかなりレアですが、都内では比較的授与例が多くなっています。
ただし、毎月16日のご縁日や、閻魔賽日(初閻魔(1/16)、藪入り(7/16))のみの限定授与のケースも多くみられます。

閻魔大王については、こちらの記事(「古今御朱印研究所」様)がわかりやすいので、ご覧くださいませ。

こんな時代だからこそ、閻魔様詣でをしつつ、勧善懲悪、因果応報の教えを噛みしめてみるのもいいかもしれせん。

 
【写真 上(左)】 上品寺(葛飾区東新小岩)の閻魔様
【写真 下(右)】 寶珠院(港区芝公園)の閻魔様

 
【写真 上(左)】 太宗寺(新宿区新宿)の閻魔様
【写真 下(右)】 法乗院(江東区深川)の閻魔様


 
【写真 上(左)】 源覚寺(文京区小石川)の御朱印
【写真 下(右)】 同 閻魔様の御朱印帳

 
【写真 上(左)】 華徳院(杉並区松ノ木)の御朱印
【写真 下(右)】 上品寺(葛飾区東新小岩)の御朱印

 
【写真 上(左)】 安養寺(江戸川区東瑞江)の御朱印
【写真 下(右)】 正受院(新宿区新宿)のめずらしい奪衣婆の御朱印



【 BGM 】
■ 孤独な生きもの - KOKIA


■ One Reason - milet


■ answer - 遥海
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2からのつづきです。

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第6番 鶴田山 真念寺 遍照院
(へんじょういん)
墨田区吾妻橋1-3-7
真言宗智山派
御本尊:弘法大師
札所本尊:
司元別当:
他札所:

第6番は墨田区吾妻橋の遍照院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

文政四年(1821年)の頃、当山初代住職坂下(松下)諦念(俗称内畑蔵)は、三河国西尾から一念発起して高野山に登り難行苦行の末に信心堅固の僧侶となりました。
その後、布教と困窮の民を救うため諸国行脚の途中、一夜の夢に弘法大師が現れ、この家に重病の者あり、裏山の滝で水行し快癒を祈るべし、と告げられたためそのとおりに水行を為すと、その重病人は救われたといいます。

文久二年(1862年)当地(本所竹町)に来られ大師堂を建立し、かつて弘法大師より夢想に授ったというお灸を施すと病人はたちまち快癒するので、「吾妻橋の弘法様のお灸」と呼ばれて名声は高まりました。

明治三年(1870年)の火災後、同六年に堂宇を再建、同十六年九月に総本山京都教王護國寺(東寺)末に加えられ山号寺称を許されたといいます。

明治二十年の諦念の寂後は松下啓念が住職となりました。
灸点に来る患者は胃病、喘息、神経痛、痰、肩の凝など多彩で、毎年4~5月の頃は最も繁昌して、一日平均千人を下らず平日も七百人は来院したといいます。

寺院というより鍼灸院としての名声が高いような感じもありますが、お大師さまとのゆかり、そして御本尊に弘法大師を奉じていることから隅田川二十一ヶ所霊場の札所となったものと思われます。

当山については資料類が少なく、この程度しか辿れませんでした。


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【史料・資料】

『本所区史〕(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
遍照院
遍照院は中之郷竹町十二番地に在り真言宗にして鶴田山と号し眞念寺と称す。
当寺に於て「弘法様の御灸」と称し僧侶が灸點をなし甚だ繁昌して居る。
今其の由来を聞くに、先代の住職坂下諦念(俗稱内畑蔵)は青年時代品行修まらなかったが、中年に至り一念発起して高野山に登り難行苦行の結果信心堅固の僧侶と為り、文久二年(1862年)現地に来て大師堂を建立し嘗て弘法大師より夢想に授ったと云ふ灸を施したのが始めで、漸次其の名高くなり明治三年の火災後同六年に堂宇を再建し同十六年九月に總本山京都教王護國寺末に加へられて山号寺称を許されたが、此の諦念は同二十年に寂し松下啓念が代って住職となった。
灸點に来る患者は胃病、喘息、神経痛、痰、肩の凝など大部分にて毎年四五月の頃は最も繁昌し一日平均一千人を下らず平日も七百人は来るといふ。


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最寄りは都営浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約4分。「浅草」駅から吾妻橋経由でも徒歩圏内です。

マンション、オフィスビル、商店などが混在する下町らしい街並みのなか、都道453号浅草通り(吾妻橋一丁目交差点)に面してあります。


【写真 上(左)】 スカイツリーも間近です
【写真 下(右)】 外観

マンションと一体となった?寺院らしからぬ白亜の建物。
白い門扉越しに見える「遍照院」のサインと「弘法大師 遍照院」の院号標で、寺院であることがわかります。


【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 受付

たしか受付からインターフォンで来意を告げ、左横の階段を上った本堂でお唱えをしたかと思いますが、本堂(向拝)の写真はのこっておらず、記憶も定かでありません。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 伏見稲荷大明神

山内に御鎮座の伏見稲荷大明神は当山鎮守かもしれません。


霊場巡拝としてはいささか面くらうロケーションですが、御朱印は快く授与いただけた記憶があります。
東京下町エリアでは希少な弘法大師の御朱印です。


〔 遍照院の御朱印 〕



中央に「弘法大師」の揮毫と弘法大師のお種子「ユ」の揮毫、主印は「ユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第7番 牛宝山 明王院 最勝寺
(さいしょうじ)
天台宗東京教区公式Web

江戸川区平井1-25-32(墨田区東駒形から移転)
天台宗
御本尊:釈迦如来・不動明王(目黄不動尊)
札所本尊:
司元別当:
他札所:江戸五色不動(目黄不動尊)、関東三十六不動霊場第19番、新葛西三十三観音霊場第23番

※この記事は「■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 4.目黄不動尊(最勝寺)」をベースに再構成したものです。

第7番は江戸川区平井の最勝寺(目黄不動尊)です。

天台宗東京教区Web江戸川区史(第三巻)江戸川区の文化財1集同5集、『関東三十六不動霊場ガイドブック』、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。


「中郷 最勝寺 神明宮 太子堂 / 江戸名所図会7巻[18]」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)


〔最勝寺の縁起と変遷〕
最勝寺の縁起変遷は牛島の牛御前社や本所表町の東栄寺ともかかわる複雑なもので、長くなりますが適宜、寄り道をしてみます。

貞観二年(860年)、慈覚大師円仁が東国巡錫のみぎり隅田河畔の向島で釈迦如来と大日如来を手ずから刻まれ、これを本尊として一寺を建立したのが草創とされます。
慈覚大師は草創時に、郷土の守護として須佐之男命を勧請して牛御前社(現・牛嶋神社)に祀り、御本尊の大日如来を牛御前社の本地仏とされたといいます。

慈覚大師の高弟・良本阿闍梨は、元慶元年(877年)に寺構を整えて開山となり、「牛宝山」と号しました。
江戸時代になってから本所表町(現・墨田区東駒形)に移転。
維新にいたるまで牛御前社(現・牛嶋神社)の別当をつとめたとされます。

本所表町(東駒形)の本寺には浅草寺参詣の人々が多く立ち寄ったほか、将軍家の鷹狩りの際にはしばしば立ち寄られて「仮の御殿」が置かれ「御殿山」と称されたといいます。

明治初年の神仏分離地に廃寺となった末寺の明王山 東栄寺から御本尊の目黄不動尊と二童子が遷られました。

大正2年(1913年)、隅田川の駒形橋架橋にともなう区画整理により現在地に移転、以降も江戸五色不動の「目黄不動尊」として信仰を集めます。

〔目黄不動尊の縁起と変遷〕
天台宗東京教区Webには以下のとおりあります。
「この不動明王像(目黄不動尊像)は、天平年間(729-766年)に良弁僧都(東大寺初代別当)が東国巡錫の折りに隅田川のほとりで不動明王を感得され、自らその御姿をきざまれたものであり、同時に一宇の堂舎を建立された。」

この由緒ある不動尊像は、最勝寺の末寺で本所表町にあった東栄寺の御本尊として奉られ、ことに将軍家光公の崇拝篤かったとされます。
家光公の治世、江戸府内に五色不動の霊場が設けられましたが、この時に「目黄不動」と称され、江戸の町を守護する不動尊として広く信仰されました。

明治の神仏分離により東栄寺は廃寺となり、本尊の不動明王像は本寺である駒形の最勝寺に遷座され、これより当寺は「明王院」と号します。
大正2年(1913年)、最勝寺の移転とともに「目黄不動尊」は駒形から現在地に移転し今日に至ります。

『関東三十六不動霊場ガイドブック』には「徳川氏の入府により、この良弁僧正御作の不動尊は、将軍家の信仰するところとなった。殊に三代将軍家光公の崇拝は篤く、仏教の大意に基づいて府内に五色不動(江戸五色不動)の霊場をもうけ、方位によって配置し、江戸城と江戸に入る街道の守護を祈願した。この時に本像が『目黄不動』と名付けられ、家光によって江戸の鬼門除けを祈願された。また『目黄』とは五色不動の中の中心的な意を持つ由緒あるものである。」とあります。

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〔日本最古の不動明王について〕
ここで気になったのは、「目黄不動」が天平年間(729-766年)、良弁僧都による謹刻という点です。

こちら(京都じっくり観光)のサイトによると、木造五大明王像(教王護国寺(東寺)講堂安置)は承和六年(839年)完成で日本最古の不動明王像とされています。

しかし『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)には「高野山南院の不動尊の木彫立像(浪切不動尊)は、寺伝によると、弘法大師が長安にあるとき、恵果阿闍梨から木材を与えられて自分で彫刻して、阿闍梨に開眼加持をしてもらった。」とあります。

弘法大師の長安入りは804年の12月、806年3月に長安を立たれているので、この浪切不動尊の造立は、遅くとも806年ということになり、東寺講堂の不動尊(839年)よりも早いことになります。( → 高野山南院の資料

Wikipediaによると、不動明王が説かれている大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の成立は7世紀、漢訳は724年とされています。

『不動明王』(渡辺照宏著/朝日選書)によると、『不空羂索神変真言経』第九巻に「北面、西より第一は不動使者なり。左手に羂索を執り、右手に剣を持ち結跏趺坐す。」と記されているそうです。
『不空羂索神変真言経』は菩提流志の漢訳経が伝わっており、菩提流支(ぼだいるし)は、北インド出身の訳経僧で没年は527年とされます。

良弁僧都の生年は689-774年なので、上記より晩年にはすでに不動明王に関連する不空羂索神変真言経や大日経の漢訳は成されていることになります。

良弁僧都は天平勝宝4年(751年)、華厳宗大本山東大寺の初代別当となられていますが、その時点での華厳宗と不動明王を結びつける史料がみつかりません。

弘法大師空海は、弘仁元年(810年)に東大寺の別当に就任され、山内に真言院を建立されたと伝わります。
また、毘盧遮那仏(大仏)の前で毎朝あげられるお経は「理趣経」で、弘法大師空海の影響を伝えるものとして広く知られています。

ただし、良弁僧都の没年は774年、弘法大師空海の生年も774年なので、良弁僧都が弘法大師将来の純密系の不動明王を感得されたということは考えにくいです。
ただし、日本にはそれ以前に雑密が入ってきており、その流れのなかで不動明王が将来されていた可能性はあるのかもしれません。(参考 → 『純密と雑密』(三崎良周氏))

『関東三十六不動霊場ガイドブック』によると、天平年間(729-766年)、良弁僧都が東国を巡錫した折、隅田川のほとりの大樹のもとで休んでいると、夢に不動明王があらわれ「わが姿を三体刻み、一体をここに安置せよ」との霊告を得たためみずから御影を刻まれ御本尊とされました。

また、相模国の大山不動はこの内の一体であり、当寺の不動尊像と同木同作とあります。
もう一体は大山不動とゆかりが深く、良弁作の不動尊を御本尊とする埼玉・越谷の真大山 大聖寺の大相模不動尊なのかもしれません。

■ 大山不動尊(雨降山 大山寺)/神奈川県伊勢原市 真言宗大覚寺派
「晩年に大山に登られ、石像の不動明王を感得、謹刻。大山寺第三世は弘法大師が入られる。」(『関東三十六不動霊場ガイドブック』)

■ 大相模不動尊(真大山 大聖寺)/埼玉県越谷市 真言宗豊山派
「(西方村)不動堂 縁起ノ畧ニ往古良辨僧正相州大山開闢ノ時面ノアタリ 不動ノ霊容ヲ拝シ 其尊像ヲ刻マントテ 先其木ノ根本ヲモテ一刀三禮シ一像を彫刻シ 是ヲ大山根本不動ト名付ク」(『新編武蔵風土記稿 巻之205 埼玉群郡之7』(国会図書館DC)


【写真 上(左)】 大山不動尊(雨降山 大山寺)の御朱印
【写真 下(右)】 大相模不動尊(真大山 大聖寺)の御朱印(酉年御開帳)

上記のほか、関東三十六不動霊場の札所に限っても、良弁僧都御作と伝わる不動明王は第15番の中野不動尊(明王山 聖無動院 寶仙寺)、第22番浅草寿不動尊(阿遮山 円満寺 不動院)、第23番橋場不動尊(砂尾山 橋場寺)にみられます。

第17番等々力不動尊(瀧轟山 明王院 満願寺別院)は役小角(634-701年伝)御作、第10番の田無山 総持寺の不動尊は行基菩薩(668-749年)御作と伝わるので、最古の不動尊を辿るのは容易いことではないと思います。

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廃寺となった本所表町の東栄寺について、『寺社書上(御府内備考). [92] 本所寺社書上 五』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「本尊不動尊 丈四尺岩座四尺 作人不知 火焔八尺●寸」「二童子 作不知 丈●尺九寸」「御腹●●不動尊 丈二寸五● 座火焔●六寸 良辨僧正之作 但シ厨子入」
御本尊の不動尊は”作人不知”ですが、別尊の不動尊は”良辨僧正之作”となっています。

今となっては詳細は不明ですが、”良辨僧正之作”の「別尊の不動尊」が目黄不動尊なのかもしれません。


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

『江戸切絵図』で本所表町辺を当たると平井への移転前の最勝寺はみつかりますが、東栄寺は見当たりません。
最勝寺の東側に「(表丁)不動堂」が見えるので、あるいはこちらが東栄寺なのかもしれません。

明治23年(1890年)刊の東京名所図会(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「同所表町に在り天台宗にして東叡山に属す 本尊不動明王は良弁僧都の作なり 当寺往古は牛御前の別当寺にして貞観年間慈覚大師の草創良本阿闍梨開山たり 寛永年間将軍家屡々此邊に遊猟せられしを以て当寺に仮殿●を営構せしと云へり 今尚ほ御殿跡と称する所ありとぞ」
明治23年時点において、良弁僧都作の不動明王(目黄不動尊)が御本尊として御座されていたことがわかります。

ただし、天保五-七年(1834-1836年)版の『江戸名所図会 7巻18』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「牛寶山 最勝寺 明王院と号す 同●表町にあり天台宗にして東叡山に属す 本尊不動明王の像ハ良辨僧都の作なり 当寺ハ牛御前の別当寺にして貞観二年庚辰慈覚大師草創良本阿闍梨開山なり 寛永年間 大樹 此辺御遊猟の頃屢(しばしば)当寺へ入御あらせられしより其頃ハ假の御殿抔(など)営構なり●れたりとせり 今も御殿あとと称する地に山王権現を勧清す」

天保五-七年の時点ですでに「明王院」を号し、「良辨僧都作の不動明王」を御本尊としていたという記述は、他の資料と符合せずナゾが残ります。(ただし「明王院」は本所移転時に号したという説もあり。)

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最勝寺がかつて牛島の牛御前社(現在の牛嶋神社)の別当であったことは、複数の史料から裏付けられます。

天保五-七年(1834-1836年)版の『江戸名所図会 7巻18』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「牛島神明宮 同●に並ぶ相伝ふ貞観年間の鎮座なりと別当を神宮寺と称して最勝寺より兼帯す 江戸名所記云 安徳帝の壽永年間本所の郷民夢をえて 伊勢大神宮虚空よりけり大光明の内に微妙の御声にて●●土安穏天人常充満と云 法義経壽量品の文を唱へ●いられ伊勢の大神宮なりとの●●ふところ夢覚なり●中の人民●に僧(中略)伊勢の御神を勧清し」


【写真 上(左)】 牛嶋神社
【写真 下(右)】 牛嶋神社の御朱印

新編武蔵風土記稿 巻之21 葛飾郡之2(国会図書館DC)には以下の記述があります。

「牛御前社 本所及牛嶋ノ鎮守ナリ 北本所表町最勝寺持 祭神素盞嗚尊ハ束帯坐像ノ画幅ナリ 王子権現ヲ相殿トス 本地大日ハ慈覚大師ノ作縁起アリ信シカタキ●多シ 其畧ニ、貞観二年慈覚大師当國弘通ノ時行暮テ傍ノ草庵ニ入シニ位冠セシ老翁アリ 云國土惱乱アラハワレ首ニ牛頭ヲ戴キ悪魔降伏ノ形相ヲ現シ國家を守護セントス 故ニ我形を写シテ汝ニ与ヘン我タメニ一宇ヲ造立セヨトテ去レリ コレ当社ノ神体ニテ老翁ハ神素盞嗚尊ノ権化ナリ 牛頭ヲ戴テ守護シ賜ハントノ誓ニマカセテ牛御前ト号シ 弟子良本ヲ留メテコノ像ヲ守ラシメ 本地大日ノ像ヲ作リ釋迦ノ石佛ヲ彫刻シテコレヲ留メ 大師ハ登山セリ 良本コレヨリ明王院ト号シ 牛御前ヲ渇仰シ 法華千部ヲ読誦シテ大師ノ残セル石佛ノ釋迦ヲ供養佛トス 其後人皇五十七代陽成院ノ御宇 清和天皇第七ノ皇子故有テ当國ニ遷され、元慶元年九月十五日当所ニ於テ薨セラレシヲ、良本崇ヒ社傍ニ葬シ参ラセ其霊ヲ相殿ニ祀レリ 今ノ王子権現是ナリ 治承四年源頼朝諸軍ヲ引率シ下総國ニ至ル時ニ 隅田川洪水陸地ニ漲リ渡ルヘキ便ナカリシニ 千葉介常胤当社ニ祈誓シ船筏ヲ設ケ大軍恙ナク渡リシカバ 頼朝感シテ明ル養和元年再ヒ社領ヲ寄附セシヨリ、代々國主領主ヨリモ神領ヲ附セラル 天文七年六月廿八日後奈良院牛御前ト勅号ヲ賜ヒ次第ニ氏子繁栄セリ 北條家ヨリモ神領免除ノ文書及神寶ヲ寄ス其目後ニ出ス 又建長年中浅草川ヨリ牛鬼ノ如キ異形ノモノ飛出シ 嶼中ヲ走セメクリ当社ニ飛入忽然トシテ行方ヲ知ラス 時ニ社壇ニ一ツノ玉ヲ落セリ 今社寶牛玉是ナリナト記シタレド 奮キコトナレハ慥(タシカ)ナラサルコト多シ」

内容がやや錯綜していますが、牛御前社と最勝寺は、慈覚大師ゆかりの寺社として草創時からふかいつながりをもっていたことが伺われます。


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最寄りはJR総武線「平井」駅。南口から徒歩約16分(1.3㎞)です。
地図上では近くみえますが、意外に距離があります。
住所は江戸川区平井1丁目、荒川の流れにもほど近いところです。

すぐそばにある嘉桂山 成就寺も本所からの移転で、こちらも天台宗で慈覚大師ゆかりの寺院です。新葛西三十三観音霊場初番、大東京百観音霊場第96番の札所で、御本尊、阿弥陀如来の御朱印を拝受できました。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標-1

三間一戸の八脚門から屋根をとり、門柱を加えたような変わった山門(仁王門)で、両脇間には仁王尊が御座します。
本所にあった頃は三重建築の仁王門があり、朱塗りの色が美しく「赤門寺」と称されたそうです。

山門左手の寺号標には「南無妙法蓮華経 南無釋迦牟尼仏 南無阿弥陀仏」が併記されていますが、この様式の石碑はあまりみたことがありません。


【写真 上(左)】 寺号標-2
【写真 下(右)】 山内

広がりのある山内。正面に本堂、その右手に客殿と庫裡、その手前右手に不動堂、さらにその手前右に地蔵観音堂と最勝稲荷社。わかりやすく整った伽藍配置です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は入母屋像本瓦葺流れ向拝の堂々たるつくり。さすがに名刹です。
水引虹梁に木鼻、斗栱、蟇股、海老虹梁を備え、正面桟唐戸の上に「牛寶山」の扁額を掲げています。
本堂にはおそらく御本尊の慈覚大師作の釈迦如来が御座します。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 客殿

本堂右手の客殿も破風屋根を構える風格あるつくり。


【写真 上(左)】 客殿と不動堂
【写真 下(右)】 不動堂


【写真 上(左)】 斜めからの不動堂
【写真 下(右)】 側面からの不動堂

不動堂は楼閣様式ですが、不勉強につき正確なつくりはわかりません。
向拝には水引虹梁に木鼻、斗栱、蟇股、海老虹梁を備え、正面桟唐戸の上に「不動尊」の扁額を掲げています。
全体に本堂よりも複雑な意匠です。


【写真 上(左)】 不動堂向拝
【写真 下(右)】 不動堂向拝上部


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 不動堂賽銭箱の意匠

不動堂には良弁僧都作とされる不動明王(目黄不動尊)が御座され、こちらも御本尊の位置づけにあるようです。
この目黄不動尊像は、都内では高幡不動尊に次ぐほどの大きな像(像高127㎝)で、「木造不動明王坐像」として江戸川区の登録有形文化財(彫刻)に指定されています。

迦楼羅炎の勢いすさまじく、右手に剣、左手に羂索を掲げられ盤石のうえに御座され、二童子を従えています。



【写真 上(左)】 目黄不動明王の石標
【写真 下(右)】 関東三十六不動霊場札所標と本堂

慈覚大師作とされ、牛御前社の本地仏であった大日如来像は、不動堂に安置されているようです。


【写真 上(左)】 地蔵観音堂
【写真 下(右)】 最勝稲荷社

最勝稲荷社は牛御前社より御遷座と伝わり、家屋守護に霊験あらたかとのことです。
墓地には鳥亭焉馬(戯作者)、富田木歩(俳人)、柔道家徳三宝夫妻の墓があります。

御朱印は庫裡にて拝受できます。
関東三十六不動霊場の札所でもあり、手慣れたご対応です。
なお、隅田川二十一ヵ所霊場第7番、新葛西三十三観音霊場第23番の御朱印は授与されていない模様です。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目黄不動尊 江戸五色不動の印判 直書(筆書)

〔関東三十六不動霊場第19番の御朱印〕

【写真 上(左)】 専用納経帳(直書)
【写真 下(右)】 御朱印帳(直書)
・御朱印尊格:目黄不動尊 関東三十六不動霊場第19番印判 法挟護童子の印判


■ 第8番 明王山 不動院 寳性寺
(ほうしょうじ)
公式Web

葛飾区堀切4-54-2
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:
司元別当:小谷野神社(葛飾区堀切)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第62番、荒綾八十八ヶ所霊場第12番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第60番、(京成)東三十三観音霊場第4番

第8番は葛飾区堀切の寳性寺です。

公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

寶性寺は元亀元年(1570年)僧亮歓の創立、天正十四年(1586年)8月、亮歓の法弟歓空(-1607年)が再興して開山と伝わります。
一説には、慶長十八年(1612年)道盤の開基ともいいます。

もともとは約600m離れた地にありましたが、大正4年の荒川放水路開削により現在地に移転しました。

天明六年(1786年)および弘化三年(1864年)の洪水で多くの記録を失いましたが、大正14年に当山檀家で発見された寛政六年(1794年)記の『小谷野寶性寺不動尊縁起』があります。

『小谷野寶性寺不動尊縁起』から概略を記します。
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当山は天正十四年(1586年)、弘法大師御作の不動明王を歓空阿闍梨が御本尊に安置して開基と云う。
その後、慶長年中(1596-1615年)結縁のため開帳したところ何処へかとお隠れになった。
ときの住持は行方をさがすもみつからず、詮方なく一尊を彫り上げて山内に安した。
こちらは現在の後前立である。

宝暦年中(1751-1764年)、法印恵範の夢中に天童があらわれて告ぐには、当山の御本尊は足立郡淵江領栗原村水野弥三郎持、内御堂に御座す。しかし元来、当山が有縁で守るべき地なので帰りたき旨、不動明王の勅ありという。
じつに不思議の夢ゆえ、法印はすぐさま彼の地に出向き水野氏を尋ねると、水野氏の夢中にも童子があらわれて、その方の内御堂の不動尊は葛西領小谷野村寶性寺の本尊なり。はやく彼の地へ移し奉るべしとのお告げがあったという。

この話は諸人に広まり、多くの送り迎えの信者を集めて不動尊は寶性寺に戻られた。
こちらの不動尊は、十方信檀、願望成就せずと云うことなしといわれ、村人の篤い尊崇を集めたという。

安永年間(1772-1781年)諸国に疫病がはやり死者が多くでたときも、当村では死者はおろか一人の患者も出ず、これもひとえにお不動様の御守護のたまものと村人は一層信仰をふかめたという。
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【写真 上(左)】 小谷野神社
【写真 下(右)】 小谷野神社の御朱印

小谷野村の守護佛ともいえる不動尊を安する寶性寺はまた、小谷野村鎮守の稲荷社(源・小谷野神社)の別当を務めました。

弘法大師ゆかりの不動尊を安し、山内に大師堂を擁する当山はおそらく保守本流の真言密寺と目されたとみられ、荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)の3つの弘法大師霊場の札所にもなっています。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(小谷野村)寶性寺
新義真言宗寺嶋村蓮花寺門徒 明王山不動院ト号ス 当寺ハ元亀元年(1570年)僧亮歓ノ草創ナリ 中興歓空 慶長十一年(1606年)寂ス
本尊不動 七寸許 弘法大師ノ作
弁天社

『葛飾区寺院調査報告 上』P.24(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
宝性寺
真言宗智山派。もと寺島町(墨田区東向島三丁目)蓮華寺の末。
元亀元年(1570年)僧亮歓の創立、天正十四年(1586年)八月、亮歓の法弟歓空(-1607年)が再興して開山となったといい、あるいは慶長十八年(1612年)道盤の開基ともいう。天明六年(1786年)および弘化三年(1864年)の洪水で多くの記録を失ったが、現在、古過去帳(表紙欠)や大正十四年に付近の檀家で発見された寛政六年(1794年)六月に記した『宝性寺不動尊縁起』とがある。(中略)
『小谷野宝性寺不動尊縁起』(略)
大正四年、当寺は荒川放水路開削工事のため、約六00メートル移動して、境内を現在地に変更した。本堂には絵額その他が多数掲げられている。

本堂 間口五間 奥行五間 屋根寄棟造 桟瓦葺
庫裏 
表門 薬医門 桟瓦葺
その他、大師堂、六面地蔵尊堂がある。

不動明王坐像(本尊) 中世の作か。宮殿入り。
阿彌陀如来坐像
弘法興教両大師像 二軆

『葛飾区神社調査報告』P.40(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
小谷野神社
祭神 宇迦御魂命
境内社 三峰神社 水天宮 
『葛西志』小谷野村の条に「稲荷社 除地壱畝 勧請の年暦詳ならず。宝性寺持」とあるが、『新編武蔵風土記稿』小谷野村の条には「稲荷社 村ノ鎮守ナリ。宝性寺持」といい、かつ村の総説に「小谷野村ハ正保(1644-1648年)ノ改ニ小谷野柳原村ト記シテ一村ナリ。元禄(1688-1704年)ノ改ヨリ今ノ如クニ村ニ記シタレハ、分村セシハ元禄十年(1697年)検地頃ヨリノ事ナルヘシ」とあり、柳原村の条にも、稲荷社を村の鎮守と記するによれば、小谷野村と柳原村が分村した際にそれぞれ稲荷社を建てて村の鎮守としたのであろう。
ただし「元禄十年(1697年)年武蔵国西葛西領小谷野村検地水帳」に稲荷社が載っているから、当社が元禄十年(1697年)にすでに存していたことは明白である。
旧本殿は明治十五年、拝殿は大正十五年の造営であったが、昭和47年9月、現在の社殿が新たに造営された。神楽殿は昭和14年の改築である。
社名は明治以来、稲荷神社と称していたが、昭和43年5月、住居表示の実施に伴い、小谷野の地名が焼失するので、小谷野神社と改称した。
当社には古くから<桃祭り>という特殊な神事が毎年7月20日に行われた。桃の実を開いて厄を免れる病気平癒災厄解除の神事で、明治・大正の頃には、かなり盛大であったという。
また境内社の三峰・水天宮の両社は、もと当社の南方三五0メートル、隅田川と綾瀬川の合流地点にあったが、荒川放水路の開削により、三峰社は現堀切橋際に、水天宮は隅田川水門際に移され、後さらに当社境内に遷座したものである。


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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約3分。
民家が密集する下町らしい街並みにとけ込むようにあります。

西に数百メートル行くと綾瀬川。
ここは綾瀬川、荒川、隅田川の流れがもっとも近寄ったところで、治水的に重要な場所と思われます。
江戸期に別当を奉任した小谷野神社は少し南西の綾瀬川沿い、綾瀬川と荒川をつなぐ綾瀬水門のすぐそばですから、さらに治水上の要地かと。

『葛飾区神社調査報告』によると、小谷野神社の境内社の水天宮は、もと当社の南方350m、隅田川と綾瀬川の合流地点にありましたが、荒川放水路の開削により隅田川水門際に移され、後に当社境内に遷座されたとのこと。
水天宮は水難除けの神としても知られますから、こちらの水天宮も川除けの性格をもたれるのではないでしょうか。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 山門

山内は築地塀に囲まれ、西側に山門があります。
山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門ないし四脚門で、門前に寺号標。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐった左手に大師堂と本堂で、比較的こじんまりとした山内です。

本堂向かって左手前にある切妻造妻入一間の堂宇は大師堂で、おそらく南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第60番のお大師さまが御座すと思われます。


【写真 上(左)】 向かって左斜めからの本堂
【写真 下(右)】 大師堂


【写真 上(左)】 大師堂扁額
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、向拝左右各二連の花頭窓が印象的です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝まわりの柱梁は直線的で、きっちり端正な印象です。
硝子格子戸の向拝上に山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額


御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 寳性寺の御朱印 〕



中央に「本尊 不動明王」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーンユ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「東第四番」、右下に「南葛八十八ヶ所 いろは大師 第六十番」の札所印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

 

南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師/大心講)も比較的古く、御朱印拝受がむずかしい霊場です。
こちらではこの南葛霊場札所印のみならず、希少な東三十三観音霊場(昭和十年京成電車が企画した霊場)の印判もいただけました。

御本尊の不動明王で、「南葛八十八ヶ所いろは大師第六十番」と「東第四番」の印判が別個に捺されています。
こちらは他に荒綾八十八ヶ所霊場第12番、荒川辺八十八ヶ所霊場第62番、隅田川二十一ヵ所霊場第8番の札所も兼ねていますが、霊場を申告せずにお願いしたところ、この御朱印を拝受できました。

なお「南葛八十八ヶ所霊場」は2系統あります。
 1.「いろは大師」(大心講)と呼ばれ、発願は葛飾区奥戸の善紹寺、結願は葛飾区奥戸の妙厳寺
 2.通称名は不明(「南回り」か?)。発願は江戸川区東小松川の善照寺、結願は江戸川区東小松川の宝積院
(2については、「南葛新四国霊場」と呼ばれることもあるようです。)
一部の札所は重複し、このふたつの南葛霊場の識別をよりむずかしいものにしています。

たとえば、「いろは大師」の葛飾区鎌倉の札所は「南葛八十八ヶ所まんだら六ヶ所参り」として、毎年11月下旬の1日のみ御開帳(というか巡拝)されます。
この6札所のうち、浄光院(1.では第14番、2.では第55番)、輪福寺(1.では第17番、2.では第56番)は札所が重複していますが、「六ヶ所参り」では、1.の「いろは大師」の御朱印が授与されます。


■「南葛八十八ヶ所まんだら六ヶ所参り」の御朱印

どちらも御朱印拝受がむずかしいですが、「1.いろは大師」の方が授与札所は多そうです。(調査中)


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4へつづきます。



【 BGM 】
■ 夏空の下 - やなわらばー


■ I'm proud - 華原朋美


■ Magic - 愛内里菜
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1からのつづきです。

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第3番 医王山 薬王院 極楽寺
(ごくらくじ)
葛飾区堀切2-25-21
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(堀切村)天祖社・八幡社(葛飾区堀切)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第64番、荒綾八十八ヶ所霊場第67番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第61番、(京成)東三十三観音霊場第5番

第3番は葛飾区堀切の極楽寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

極楽寺は、宝徳元年(1449年)紀伊根来寺の普済阿闍梨による創立と伝わります。
普済阿闍梨は弘法大師御作と伝わる薬師如来を笈に納めて東国巡化の途、当地の地頭・窪寺内蔵頭平胤夫の帰依を得て当地に一宇を建立し、医晃山薬王院と号したといいます。

当山縁起には数名の千葉氏流の武将が登場します。
千葉一族は分家がすこぶる多く辿りにくい家系ですが、武蔵千葉氏第2代当主千葉実胤が年代的に符合するので、この武将を手ががりに探ってみました。

宝治元年(1247年)の宝治合戦で千葉氏嫡流の秀胤は縁戚の三浦氏に連座して滅び、以降同族内の嫡流争いが激化します。

享徳三年(1454年)、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことから享徳の乱がおこりました。
千葉氏第16代当主・千葉胤直と弟の胤賢は成氏討伐に功をあげ、8代将軍足利義政公から御内書をもって賞されました。

しかし康正元年(1455年)これに不満の叔父の馬加(まくわり)康胤と千葉氏庶流で重臣の原胤房に千葉城を急襲され、胤直・胤賢兄弟と胤直の子・胤宣は千田荘(現在の多古町)に逃れました。

同年8月、千田荘の多古城に拠った胤宣は馬加康胤・原胤房に攻められ自刃。
志摩城に拠った胤直・胤賢兄弟も馬加・原勢の猛攻を受けて胤直は自刃しました。

胤賢は2人の息子実胤・自胤を伴って志摩城を脱出し、小堤城(現在の横芝光町)に入ったもののこちらも攻められて胤賢も自刃し、2人の息子は八幡荘(現在の市川市)に逃れました。

実胤と自胤は市河城(現在の市川市市川)に入り足利義政が派遣した同族の奉公衆・東常縁の支援を得て再起をうかがうも、康正二年(1456年)1月足利成氏方の簗田持助らに攻められ市河城も陥落し、ついに武蔵国まで落ちのびました。
武蔵国入りしたこの千葉氏の系統を武蔵千葉氏と呼び、初代が千葉胤賢、第二代が千葉実胤(1442年-)とされます。

東常縁は歌人として著名ですが、武将としての才にも優れ、下総匝瑳郡で体勢を立て直すと馬加康胤の拠る馬加城(現在の幕張周辺)を攻め落とし、康胤と子の胤持を討ち取り原胤房を追放しました。

しかし、分家の岩橋輔胤らの勢力は強く、武蔵へ逃れた実胤らの下総への帰還は叶わず、実胤は寛正三年(1462年)に隠遁したとも伝わります。
千葉氏当主の座は実胤の子・千葉胤将が嗣いだとされますが事績はあまり残っておらず、弟の胤宣が当主を嗣いだといいます。

千葉氏当主は第14代満胤、第15代兼胤、第16代胤直、第17代胤将、第18代胤宣とつづきましたが、胤直、胤宣は上記のとおり馬加康胤に攻められ自刃しています。

遡って、千葉氏第14代当主満胤の長男は第15代当主の兼胤で、その弟は馬加康胤。
兼胤の長男は第16代当主の胤直なので、馬加康胤は胤直の叔父にあたります。
諸説はありますが、岩橋輔胤は馬加康胤の庶子とされています。

千葉氏の実権は馬加康胤から嫡子の馬加胤持、さらに康胤の庶子とされる岩橋輔胤、その子の千葉孝胤、孫の勝胤、曾孫の昌胤と遷ったため、第19代は(馬加)康胤、第20代は(馬加)胤持、第21代は(岩橋)輔胤、第22代は孝胤、第23代は勝胤、第24代は昌胤と数えられます。

しかし(岩橋)輔胤=(馬加)康胤の庶子説はかなり微妙で、諸説が建てられています。

このように、千葉氏嫡流の流れは第15代当主兼胤から次男の胤賢、その子の実胤・自胤へとつながりますが、この名流は武蔵国に流れて武蔵千葉氏となりました。
兄の実胤は石浜城(現在の台東区橋場)主、弟の自胤は赤塚城(現在の板橋区赤塚)主となりました。
なお、千葉自胤は曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に「千葉介自胤」として登場します。

武蔵千葉氏は扇谷上杉家の保護を受けたもののついに上総への復帰はならず、子孫は武蔵国の国人となりました。

『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には、当山開基にかかわった窪寺内蔵頭平胤夫は「千葉支流木内宮内少補胤信ノ舎弟ニテ、武州石浜ノ城主千葉介実胤ノ旗下ナリ」とあります。

武蔵千葉氏第2代当主千葉実胤の家臣・木内宮内少補胤信の舎弟が、窪寺内蔵頭平胤夫ということになり、ここでようやく話がつながりました。
それにしても千葉氏関連の家督は複雑で、しかもほとんどが通字の「胤」がついているので、わけがわからなくなります。

ここまで辿ればあとは楽です。
『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には、「千葉東西両流ノ間ニ戦争シバゝ起リテ所領ヲ挑メリ。遂ニ康正二年(1456年)六月、千葉馬加陸奥守孝胤トノ合戦ニ、窪寺内蔵頭胤夫、行年四十二歳、嫡男富千代胤茂、行年十五歳ニテ討死ス。遺骸ハ父子トモニ八幡宮ノ傍ニ埋葬シ、塚ヲ建立シ窪寺塚ト呼ブ。(今ハ塚上ニ稲荷ノ社ヲ祭ル)因テ窪寺家コヽニ滅亡セリ。」とあります。

実胤・自胤兄弟が市河城を追われ武蔵国に落ちたのが康正二年(1456年)1月。
宿敵・馬加康胤は同年11月に東常縁に討たれたとされるので、窪寺内蔵頭胤夫と嫡男富千代胤茂が討死した同年6月は微妙な時期です。

あるいは東常縁の反撃の前に、実胤・自胤兄弟が馬加康胤に対して反撃を仕掛け、その際の戦で討死したのかもしれません。
(『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』にある千葉馬加陸奥守孝胤(第22代千葉家当主?)は年代が合いません。やはり馬加康胤かその与力との戦かと思われます。)

おそらく満身創痍で落ちてきた実胤・自胤兄弟が、地盤のない武蔵国で石浜、赤塚の二城を得られたのは不思議な感じもしますが、背景として享徳三年(1455年)の享徳の乱などで武蔵の有力武家、江戸氏、豊島氏、葛西氏などが没落していたこと、千葉氏宗家の家柄である実胤・自胤兄弟を扇谷上杉氏や足利氏一門の渋川氏が援助したことなどが考えられます。

史料には「地頭窪寺内蔵頭平胤夫」とあるので、窪寺氏は従前からこの地で勢力を張っていたとみられます。
千葉氏と窪寺氏の関係は不詳ですが、「平胤夫」という標記からみて千葉氏系統の感じがします。(千葉氏は「平」姓、「胤」は千葉氏の通字)
あるいは、千葉氏の庶子がこの地に進出していたのかもしれず、だからこそ大きな戦なく石浜、赤塚の二城を得られたのかもしれません。

石浜城は現在の石浜神社(荒川区南千住三丁目)あたりとされ、極楽寺とは荒川・隅田川を挟んですぐ対岸です。

足立区資料によると、武蔵千葉氏は「中曽根城/渕江城」(足立区本木2丁目/現・中曽根神社付近)も築いたとされます。

資料には「天正18(1590)年に後北条氏が滅ぶと武蔵千葉氏もこの地を去りました。」とあります。

こちらの記事(歴史散歩(武蔵千葉氏の史跡を訪ねる 赤塚))には、第6代千葉直胤までの武蔵千葉氏の系譜が載っています。
Wikipediaで「千葉直胤」をひくと武蔵千葉氏第7代当主で石浜城を本拠とし、北条氏繁(1536-1578年)の四男とあり、後北条氏との関係を深め、戦国時代まで城主の座を保ったことがわかります。

『ガイド』には永禄三年(1560年)8月、大洪水のため本堂以下ことごとく流出したので、同五年(1562年)5月、正済法印が再興とあります。
一方、■ 『新編武蔵風土記稿 』には「(堀切村)神明社 村の鎮守ナリ 極楽寺持 下同シ 八幡社 以上二社ハ永禄三年(1560年)ノ鎮座ト云」とあるので、大洪水の年に堀切村の神明社と八幡社が勧請され、極楽寺がその別当となったことになります。


【写真 上(左)】 堀切天祖神社
【写真 下(右)】 堀切天祖神社の御朱印

八幡社といえば、当山の八幡宮にまつわる奇妙な伝承があります。
『極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起』には「(窪寺内蔵頭平胤夫は)別社ヲ設ケ、武運長久ノ為トテ当山開基普済阿闍梨ヲ導師トシテ、八幡宮ヲ勧請ス。(後チ移転シテ今ノ深川富ヶ岡八幡神社ト称スル之ナリ。其旧跡ハ当寺境内ナル森ノ内ニ現存セリ)」とあります。

また、Wikipediaには「開山当初の境内には、八幡宮が祀ってあったが、洪水で流出し、流れ着いた先に設けられたのが富岡八幡宮だという伝説がある。」とあります。

『江戸名所記』の永代橋八幡宮(富岡八幡宮)の項には「御神体は千葉介乃家●あり」とあり、千葉一族との関連をにおわせています。

「猫の足あと」様では、富岡八幡宮を勧請した長盛法印には先祖伝来の弘法大師作の八幡大菩薩像があり、八幡宮勧請の地を夢告されたという伝承が紹介されています。
また、富岡八幡宮の別当・永代寺は高野山真言宗で弘法大師ゆかりの寺院です。
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極楽寺の開山・普済阿闍梨は紀伊根来寺(新義真言宗)の出で、弘法大師御作の薬師如来を背負われて東国巡化とありますから弘法大師とのゆかりがふかく、極楽寺と富岡八幡宮ないし別当・永代寺はなんらかの関係があったのかもしれません。

富岡八幡宮の創祀沿革には諸説ありますが、寛永五年(1628年)には深川の地に御鎮座とされています。
極楽寺山内の八幡宮が大洪水で流出?したのは永禄三年(1560年)ですから、富岡八幡宮の深川御鎮座より前で、年代的には符合します。

葛飾区は水害が多い土地で、永禄三年(1560年)の大洪水のほかにも幾多の水害に見舞われたといいます。
昭和22年9月のカスリーン台風で葛飾区を襲った洪水は、東京湾付近まで流れ下りました。(→ カスリーン台風の洪水流路

中世のこのあたりは利根川本流が乱流していたともみられ、現在よりもはるかに水害は深刻だったと思われます。

堀切から隅田川を南下すると深川に至ります。
Wikipediaにある「(極楽寺)開山当初の境内には八幡宮が祀ってあったが、洪水で流出し、流れ着いた先に設けられたのが富岡八幡宮」という伝説は、このような洪水の歴史を物語るものかもしれません。

門前のいぼとり地蔵尊は、地蔵尊に振りかけた塩を持ち帰りイボに塗り込むと治るとされ、広く参詣者を集めたといいます。

また、明治に愛猫家のご住職がおられたため、「猫寺」という通称があります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(堀切村)極楽寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 醫晃山薬王院ト号ス 本尊彌陀 当寺ハ永禄三年(1560年)ノ起立ト云 中興榮應 元文元年(1736年)寂ス 薬師堂

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(堀切村)神明社
村の鎮守ナリ 極楽寺持 下同シ
八幡社 以上二社ハ永禄三年(1560年)ノ鎮座ト云
稲荷社

『葛飾区寺院調査報告 下』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
極楽寺
真言宗豊山派 医晃山薬王院と号し、もと青戸村宝持院の末。
宝徳元年(1449年)紀伊根来寺の普済阿闍梨の創立。永禄三年(1560年)八月、大洪水のため本堂以下ことごとく流失したので、同五年(1562年)五月、正済法印が再興した。
過去数回にわたる水害のため、多くの記録を失ったが鎌倉-室町時代の板碑を保存(略)
薬師堂の本尊は<寅薬師>または<砦内(とりでのうち)の薬師>ともいい、室町時代に領主窪寺氏の城内にあったものという。

〔医晃山薬王院極楽寺寅薬師瑠璃如来縁起〕(極楽寺第三十一世実照房了諦)
抑々コノ尊像ハ弘法大師ノ直作ニシテ(略)宝徳元年(1449年)、学匠普済阿闍梨、一笈ノ中ニ尊像ヲ納メ東国巡化ノ砌リ、当初ノ地頭窪寺内蔵頭平胤夫(千葉支流木内宮内少補胤信ノ舎弟ニテ、武州石浜ノ城主千葉介実胤ノ旗下ナリ)師ヲ尊敬シテ当所ニ止メ、一宇ヲ創立シテ医晃山薬王院ト号ス。
砦ノ内薬師(城内ノ薬師)コレナリ。
傍ニ別社ヲ設ケ、武運長久ノ為トテ当山開基普済阿闍梨ヲ導師トシテ、八幡宮ヲ勧請ス。
(後チ移転シテ今ノ深川富ヶ岡八幡神社ト称スル之ナリ。其旧跡ハ当寺境内ナル森ノ内ニ現存セリ)
其頃、千葉東西両流ノ間ニ戦争シバゝ起リテ所領ヲ挑メリ。遂ニ康正二年六月、千葉馬加陸奥守孝胤トノ合戦ニ、窪寺内蔵頭胤夫、行年四十二歳、嫡男富千代胤茂、行年十五歳ニテ討死ス。
遺骸ハ父子トモニ八幡宮ノ傍ニ埋葬シ、塚ヲ建立シ窪寺塚ト呼ブ。(今ハ塚上ニ稲荷ノ社ヲ祭ル)因テ窪寺家コヽニ滅亡セリ。
当寺第二世栄宥法印(内蔵頭胤夫ノ二男、普済阿闍梨ノ嗣法ナリ)徳行ノ聞ヘ世ニ高ク(略)永禄三年(1560年)八月、大洪水ノ為ニ堂宇悉ク流失ス。同五年(1562年)仏閣僧坊ヲ再興シテ旧ニ復セリ。
因テ正済法印護持ナス所ノ興教大師直作ノ阿彌陀如来ヲ本尊トナシ、当寺ヲ中興シ極楽寺ト称ス(旧本尊薬師如来ヲ別座ニ安置ス)云々。

阿彌陀如来坐像(本尊) 厨子入 江戸時代作
不動明王立像 室町時代の作か
弘法・興教両大師坐像
薬師如来像 宮殿中に安じ、古来秘仏として開扉されない。
宮殿前に日光・月光二菩薩像、左右に十二神将。
不動明王立像岩座付 佳作
紅頬梨色阿彌陀如来像
聖徳太子立像 

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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約10分。
堀切菖蒲園東側の住宅と工場の混在地にあります。

前面道路から石畳の参道が伸び、その先に石の門柱と堅く閉じられた鉄扉。
門柱には「極楽寺」の寺号札。

門まわりは雑草が生い茂り、ちょっと荒れた印象もあります。

鉄扉の横のくぐり戸は開くのでここから参内できますが、札所めぐりという目的がなければ、檀家さん以外はまず山内には入らないのでは。


【写真 上(左)】 門柱の寺号標
【写真 下(右)】 いぼとり地蔵尊-1


【写真 上(左)】 いぼとり地蔵尊-2
【写真 下(右)】 いぼとり地蔵尊の札

ただし、門前の参道右手に有名な「いぼとり地蔵尊」が覆屋のなかに御座されるので、こちらをお参りする人はいると思います。
覆屋のなかには三躰の石佛。
中央は舟形光背のおそらく地蔵尊で、こちらが「いぼとり地蔵尊」と思われます。
向かって左手も舟形光背像ですが、観音様のような感じもします。
向かって左の像は塩で溶けてしまったのか、像容はよくわかりません。
像の前に塩の入った容器が置かれ、いまでもいぼとりの願をかける人がいるのでは。

門前には地蔵尊立像が門を守るかのように御座しています。


【写真 上(左)】 地蔵尊立像
【写真 下(右)】 山内

おそるおそるくぐり戸を抜けて山内に入ります。
山内はかなり広く、中央は芝生というか草地で開放感はあります。
中央に本堂、向かって右手に薬師堂、左手に庫裏をコの字状に配置しています。

薬師堂の裏手は下町には希なかなり深い森で、この森のなかに八幡宮跡地や、塚上に稲荷社を祀るという窪寺塚があるのかもしれませんが、参拝時には確認していません。

山内各所に石佛が点在し、元文二年(1737年)に「女人講中」の手で架設されたという「女人橋」の遺構は区の登録有形文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 本堂と薬師堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
堂前の天水鉢には真言宗豊山派の宗門「輪違紋」が輝きます。


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 本堂向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備には蟇股を置いています。

向拝見上げには山号扁額と、その横にはなんと隅田川二十一ヶ所霊場第三番の札所板が掲げられていました。
札所板に「本尊(阿)彌陀如来」とあるので、札所本尊はおそらく御本尊・阿弥陀如来。
「昭和七年七月」の銘があり、すくなくともその頃までは盛んに巡拝されていたと思われます。

【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所板

向拝柱には「東三十三所観音霊場五番」の札所札が掲げられています。
東三十三ヶ所観音霊場は昭和10年、京成電鉄と安養院(九品寺・東立石)の住職を中心とした札所住職により開創されたという観音霊場です。(→ 札所リスト(「ニッポンの霊場)様)

この時期、電鉄会社による霊場開設がブームとなり、京王三十三ヶ所観音霊場、小田急武相三十三ヶ所観音霊場、武蔵野三十三観音霊場(西武鉄道)などが開設されましたが、いまでも現役の霊場として活動しているのは武蔵野三十三観音霊場のみで、この東三十三ヶ所観音霊場の札所板は貴重なものです。


【写真 上(左)】 東観音霊場札所板
【写真 下(右)】 薬師堂

本堂向かって左手の薬師堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
見上げに「薬師堂」の扁額と五色の帯が掛けられた鈴。
こちらには開山・普済阿闍梨が奉安された弘法大師御作という薬師如来(砦ノ内薬師・城内ノ薬師・寅薬師)が安ぜられている可能性があります。


【写真 上(左)】 薬師堂扁額
【写真 下(右)】 大師堂

山内には大師堂もあります。
切妻造妻入り一間の堂宇で、向拝上には扁額が掛かっていますが読み取れません。
こちらのWebによると、堂内に奉安の弘法大師坐像の台座に「第六十一番」とある由。
「第六十一番」の札番から、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第61番の札所本尊であることがわかります。

さすがに下町の歴史ある真言宗寺院。見どころがたくさんあります


御朱印は庫裏にて拝受しました。
「堀切 極楽寺 御朱印」でWeb検索しても極楽寺の御朱印はほとんどヒットしないので、現在の授与状況は不明です。


〔 極楽寺の御朱印 〕



中央に「阿弥陀如来」の印判と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下には羯磨金剛の中央に金剛界大日如来のお種子「バン」が置かれた御寶印。
右上には「東観音第五番」とある東三十三ヶ所観音霊場の貴重な札所印。
左下には寺号の印判と寺院印が捺されています。


■ 第4番 延命山 榮壽院
(えいじゅいん)
足立区東伊興4-1-1
曹洞宗
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:
司元別当:
他札所:

第4番は足立区東伊興の榮壽院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

榮壽院の創建は、『本所区史』には明暦元年(1655年)、『寺社書上』には明應元壬子年(1492年)とあります。
『寺社書上』の「明應元年」は「明暦元年」の誤記かとも思いましたが、明暦元年は乙未、明應元年は壬子なので明らかに明應元年をさしています。

しかし、『寺社書上』には「当所開山 丹●周鶴大和尚 延宝九年(1681年)示寂」とあり、明暦元年(1655年)の創建と符合します。

気になるのは「当所開山」で、あるいは室町時代の明應元年(1492年)に他の土地に起立され、徳川第4代将軍家綱公治世の明暦元年(1655年)に本所表町に(移転)開山したのかもしれません。

本寺は東駒形(中之郷原庭町)の曹洞宗牛島山 福厳寺なので、「当所開山」の明暦元年(1655年)から曹洞宗寺院であったとみられます。

開山は周鶴和尚、開基は太田左衛門太夫と伝わります。

御本尊は将軍(勝軍)延命地蔵菩薩で、惠心僧都一刀三禮の尊像といいます。
新田義貞(1301-1338年)の家臣篠塚五郎の守り本尊で、”篠塚地蔵”と称します。
産婦がこの尊像に祈れば霊験あらたかで、安産祈願の地蔵尊として信仰を集めたようです。

しかし『すみだの歴史散歩/P.86』(PDF)、『ガイド』、こちらのWeb(「東京都墨田区の歴史」様)などは、篠塚地蔵尊にまつわるさらに古い縁起を伝えています。

榮壽院の御本尊・篠塚地蔵尊は、一條天皇の御代(993-996年)に恵心僧都(寛仁元年(1017年)寂)によって刻されたと伝わります。
元弘三年(1333年)、北条氏打倒の兵を挙げた新田義貞は当時姉ヶ崎に安置されていたこの地蔵尊の霊験を聞き、家臣の篠塚五郎政景に命じて地蔵尊を上州・世良田に迎えました。
義貞の家臣一同はこの地蔵尊の尊像をうつして護符として肌身につけ、地蔵尊のご加護をもって北条氏を滅ぼしたといいます。

戦勝後、政景は地蔵尊の霊夢を受けて本所の地に地蔵尊を遷座し堂宇を建立しました。
以来、世良田(世来田)地蔵尊、篠塚地蔵尊と呼ばれて人々の尊崇を集めました。

この地蔵尊に掛けられた布を妊婦の腹に巻くと、難産はたちまち安産にかわるとして多くの祈願者を集めたともいいます。

太田道灌(1432-1486年)はこの地蔵尊を尊崇し、その御座の地を延命山榮壽院と号したという説もみられます。
『本所区史』に「(当山の)開基は太田左衛門太夫」とあり、Wikipediaの「太田道灌」の記事には「享徳2年(1453年)1月、従五位上に昇叙し(従五位下叙位の時期は不明)左衛門少尉は如元(左衛門大夫を称する)。」とあるので、あるいは太田道灌は当山にとって(中興)開基的な貢献をしたのかも。

徳川第3代将軍家光公もこの地蔵尊に帰依し、「安産の地蔵尊」としてとくに毎月四の日の縁日は多くの参詣者でにぎわったといいます。

この地蔵尊にゆかりの上州・世良田の地は徳川家発祥の地とされ世良田東照宮がご鎮座します。
徳川氏は新田氏流徳川(得川)氏の末裔を公称(→ 太田市観光協会Web)していたため、世良田と新田氏ゆかりのこの地蔵尊はことに尊崇されたのかもしれません。

『ガイド』によると、大正天皇御病気平癒の祈願もこの地蔵尊になされたとのことです。

大正12年の関東大震災の震災復興計画に基づき、榮壽院の地蔵堂以外の堂宇は昭和4年府下の足立郡伊興村字狭間耕地(現・足立区東伊興)に移転しました。

昭和20年の東京大空襲で地蔵堂は焼失しましたが地蔵尊は東伊興に運ばれて無事でした。昭和43年、旧地の地蔵堂を建て替え、榮壽院御本尊の勝軍地蔵尊の御分体を造立して安置しました。
これが現在の篠塚地蔵堂(東駒形2-8-1)です。

榮壽院は曹洞宗寺院ですが、篠塚地蔵尊の尊崇すこぶる厚いため隅田川二十一ヶ所霊場の札所に選ばれた可能性があります。


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【史料・資料】

『寺社書上 [92] 本所寺社書上 五』(国立国会図書館)
●本所表町 榮壽院
本所中ノ郷福厳寺末
曹洞宗 延命山 榮壽院
開闢起立 明應元壬子年(1492年)
当所開山 丹●周鶴大和尚 延宝九年(1681年)示寂
中興開基 ●●●
本尊 勝軍延命地蔵尊 立像 惠心僧都一刀三禮作 但し秘佛也
御前立 延命地蔵尊 立像
両立 阿●迦葉木像(摩訶迦葉?) 二躰
達磨大師木像
ビンズル尊者木像
十一面観音木像 立像
正一位●●壽稲荷社
地蔵菩薩畧縁起

『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
榮壽院
榮壽院は表町五十三番地に在り延命山と号し曹洞宗にして原庭町福厳寺の末である。明暦元年(1655年)の創建にて開山は周鶴和尚、開基は太田左衛門太夫である。
本尊は将軍延命地蔵で惠心僧都一刀三禮の尊像である。新田左中将義貞公の家臣篠塚五郎の守り本尊で、一名之を篠塚地蔵と称した。産婦之に祈れば靈験新たかなりとて安産を祈るものが多い。同寺も昭和四年二月十九日付をもつて府下足立郡伊興村字狭間耕地に移転する事になった。

あだち観光ネット(一社足立区観光協会)
伊興寺町散策路(足立区東伊興四丁目)
関東大震災後、都心及び各地より、14の寺院が伊興に移転してきました。
13の寺院(長安寺・善久寺・浄光寺・法受寺・栄寿院・正楽寺・専念寺・正安寺・東陽寺・本行寺・常福寺・易行院・蓮念寺)は、東伊興四丁目(古くは伊興狭間)の一地域に移転し寺町を形成しています。
少し離れた伊興本町一丁目に歌川広重で有名な東岳寺もあります。
伊興本町二丁目にある伊興最古のお寺・応現寺を含めてお参りできます。


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足立区東伊興四丁目は「伊興寺町」とも呼ばれ、13の寺院が集中しています。
いずれも関東大震災の震災復興計画に基づき、都心および各地より移転してきた寺院です。
なかには旧地で担った札所を承継している寺院もあり、榮壽院もそのひとつです。

最寄りは東武スカイツリーライン「竹の塚」駅で徒歩約12分。
東伊興あたりは寺院が移転してきただけあって、いまでも比較的ゆったりとした町並みです。

榮壽院は寺院が集中する寺町の東寄り、埼玉県道・都道103号吉場安行東京線(尾竹橋通り)に面してあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 本堂

街路沿いの門柱に院号標。
そこからすぐ正面に本堂がみえます。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

木々は少なく、開けてシンプルな山内です。
本堂は切妻造妻入りの近代建築で、向拝サッシュ戸の上に山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 院号標
【写真 下(右)】 六地蔵尊

本堂前右手に石灯籠と院号標。
左手には六地蔵尊が御座します。


御朱印は寺務所にお伺いしたところご不在だったので、郵送をお願いしたところご対応いただけました。

〔 榮壽院の御朱印 〕



中央に「本尊 篠塚子育延命地蔵尊」の揮毫と三寶印。左に山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第5番 隅田山 吉祥院 多聞寺
(たもんじ)
公式Web

墨田区墨田5-31-13
真言宗智山派
御本尊:毘沙門天
札所本尊:毘沙門天
司元別当:隅田川神社(墨田区堤通)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第65番、荒綾八十八ヶ所霊場旧第5番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第79番、新葛西三十三観音霊場第16番、大東京百観音霊場第91番、御府内二十八不動霊場第12番、隅田川七福神(毘沙門天)、墨田区お寺めぐり第3番

第5番は墨田区墨田の多聞寺です。

公式Web『すみだの歴史散歩/P.7』(PDF)、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

多聞寺は天徳年間(957-960年)に隅田千軒宿(墨田堤の外側、水神森近く、現在の隅田川神社付近)に草創され、当初は大鏡山明王院隅田寺を号しました。
縁起開山は不明ですが、御本尊として不動明王を奉安といいます。

『天正日記』には天正十八年(1590年)に隅田川が大氾濫を起こし、家康公が堤防修復を命じたとあり、多聞寺はこのときに堤防そばの隅田千軒宿から現在地に移転という説があります。
(『ガイド』には慶長十一年(1606年)、実圓による開山とあります。)

現在地に移転後は御本尊に毘沙門天を奉じ、隅田山吉祥院多聞寺と改めました。
天正年間(1573-1591年)、41代鑁海上人が霊夢に毘沙門天尊像を感得し、毘沙門天を御本尊として奉戴したといいます。
こちらの毘沙門天は、弘法大師の御作とも伝わります。

しかし、明治42年開創とされる御府内二十八不動霊場第12番の札所となっているので、旧御本尊の不動明王も著名な尊像であったとみられます。

多聞寺の毘沙門天は、隅田川七福神の一尊です。

隅田川七福神は文化年間(1804-1818)に開創といいます。
文化元年(1804年)に向島の百花園が開かれ、園主佐原鞠塢(きくう)のもとに多くの文人墨客が集まりました。

鞠塢は福禄寿の陶像を愛蔵していましたが、百花園に集った文人たちで福禄寿にちなむ風流ごとはないものかという話になりました。

隅田村多聞寺の御本尊は毘沙門天、須崎村長命寺には著名な弁財天が祀られていることから、この地で七福神を揃えたいという話に発展し詮索していくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國神の小祠があり、須崎村の弘福寺には黄檗禅ゆかりの布袋和尚の木像が安されていることがわかりました。

残る寿老人が難題でしたが、思案のあげく百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神は「白鬚」と申し上げる以上、白鬚をたくわえたご老体のお姿のはずということで寿老人をお受けいただき、ここに七福神が揃いました。(以上、隅田川七福神公式Webより)


【写真 上(左)】 隅田川七福神の幟
【写真 下(右)】 隅田川七福神の案内図

以来、隅田川七福神は正月を中心にたいへんな賑わいをみせ、当山山門の門前右手には「隅田川七福神之内毘沙門天正二位子爵榎本武場(明治四十一年七月)」と刻まれた「毘沙門天案内碑」があります。

多聞寺は現在地に移転後も、明治維新に至るまで隅田川神社の別当を務めました。


【写真 上(左)】 隅田川神社
【写真 下(右)】 隅田川神社の御朱印

多門寺は区内最北端にあって関東大震災、戦災ともに大きな被害に遭わなかったので、往年の面影を残す寺院として知られています。

また、永信講による「地蔵尊密言流念仏」が知られ、毎月ご縁日の24日に催されています。

多聞寺は御本尊・毘沙門天とたぬきにまつわる伝承があり、「たぬき寺」とも呼ばれています。

江戸開府以前のこの地は、葦が生い茂る寂しい河原でした。
そこには大きな池があり、見るだけで気を失い寝込んでしまうというおそろしい毒蛇が棲みついていました。
また、「牛松」と呼ばれる松の大木の根元の大穴には妖怪狸が宿り、人々をたぶらかすので村人はみなおそれをなしていました。

多聞寺のはんかい和尚と村人たちは、この地にありがたいお堂を建てて祈りを捧げ、毒蛇や妖怪たちを追い払うことにしました。
まず、「牛松」を切り倒し、毒蛇の棲む池を埋めてしまいました。
しかし、妖怪狸のいたずらはひどくなるばかりで、また和尚さんの夢の中にも大入道があらわれて脅すのでした。

和尚さんはおどろきおそれて、一心に御本尊の毘沙門天に祈りを捧げました。
すると毘沙門天のお使いが現れて、妖怪狸に「おまえたちの悪さは、いつか自身をほろぼすことになるぞ。」と告げました。
翌朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。

和尚さんと村人たちはこの狸がかわいそうになり、また、切り倒してしまった「牛松」や埋めてしまった池への供養のためにもと、塚を築いて尊崇しました。
これがいまも山内に遺る「狸塚」です。


【写真 上(左)】 山内の狸像-1
【写真 下(右)】 山内の狸像-2


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾群巻二』(国立国会図書館)
多聞寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 隅田山吉祥院ト号ス
慶長十一年(1606年)起立ス
法流開山円実寶暦五年(1755年)正月二日寂ス
本尊毘沙門ハ弘法大師ノ作ニテ長一尺二寸 脇士十一面観音及不動ヲ置
五智堂
鐘楼 香取社 稲荷社

すみだ観光サイト((一社)墨田区観光協会)
多聞寺
天徳年間には今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。
多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。
また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804〜1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。
他にも狸塚や映画人の碑があります。

■ 元宿神社大師堂の説明板
荒綾八十八ヶ所霊場 五番札所
開創年 明治四十四年(一九一一年)
葛飾区史によると、明治四十四年「荒川二十一ヶ所霊場」と「綾瀬二十一ヶ所霊場」をもとに開創されたようだ。開創者は不明。同じ時期に行われた荒川放水路開削工事の影響で霊場参拝は根付かなかった。
開創当時の五番札所は、隅田村多聞寺であったが、大正十一年、掃部宿西裏不動堂に移り、元宿の人々がそれを引き継ぐかたちで、大正十四年太子像(ママ)を造立し、すでに神仏分離が行われていたので、鳥居の外に祀ったものと思われる。
現在は、堂宇のみ、廃寺、札所の異動などが多く霊場としての活動は行っていない。

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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約10分。「鐘ヶ淵」駅からも歩けます。
東側を荒川、西側を隅田川、そして北側を隅田水門から流れる旧綾瀬川と、三方を川に囲まれた治水上重要な場所です。
隅田川一帯の守り神で「水神さま」と崇められた隅田川神社の別当を務めた意味がわかるような気がします。


【写真 上(左)】 鐘ヶ淵駅
【写真 下(右)】 香取神社

本所の街はずれのような立地ですが、寺前の道は古代から続く奥州街道の名残ということなので、水運も含めて交通の要衝であったのかもしれません。

門前は狭い路地ですが山内はかなり広く、さすがに古刹の趣があります。
お隣に香取神社が御鎮座ですが、多聞寺との関係は定かではありません。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

参道入口に立派な寺号標。左手は広めの駐車場。
ここから石畳の参道が真っ直ぐに伸びています。


【写真 上(左)】 参道右手の石佛群
【写真 下(右)】 石佛覆屋


【写真 上(左)】 地蔵尊立像
【写真 下(右)】 弘法大師坐像

参道右手に石佛群が並びます。
手前の切妻屋根妻入りの覆屋はふたつに区切られ、手前に地蔵尊立像二躰。
奥側には台座の上に弘法大師坐像が御座され、奥側の台座にはおそらく「第七十九番」とあります。


【写真 上(左)】 第七十九番の刻字
【写真 下(右)】 石像三躰

当山は荒川辺八十八ヶ所霊場第65番、荒綾八十八ヶ所霊場第5番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第79番の札所でしたが、うち荒綾八十八ヶ所霊場第5番は千手元町の元町神社門前の大師堂に遷っています。


【写真 上(左)】 元町神社参道
【写真 下(右)】 元町神社拝殿


【写真 上(左)】 元宿神社大師堂
【写真 下(右)】 同 説明板

こちらのお大師さまは「第七十九番」ですので、南葛霊場(いろは大師)の大師堂と思われます。


【写真 上(左)】 庚申様
【写真 下(右)】 参道

その横から山門にかけて丸四つ目菱紋付きの手水鉢、尊格不明の立像、地蔵尊立像、観世音(?)立像、数躰の庚申様が整然と並びます。
山門は木造茅葺切妻造の四脚門、当山に残る唯一の江戸期木造建築で山号扁額が掲げられています。

寺伝によると山門は慶安二年(1649年)建立、享保三年(1716年)に焼失し、再建年代は明和二年(1765年)頃とされ、区内最古の建造物と考えられ墨田区の指定文化財です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

門前左手には「南無阿弥陀佛」の石碑、右手には「隅田川七福神之内毘沙門天正二位子爵榎本武場(明治四十一年七月)」と刻まれた「毘沙門天案内碑」があります。


【写真 上(左)】 毘沙門天案内碑
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐるとすぐ右手に東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨が置かれています。
風雅な山内に突然の鉄塊の出現はインパクトがありますが、十善戒の一、「不殺生行」の教えから、戦争の惨禍を忘れてはならないという戒めでしょうか。

左手には「狸塚」。
「狸」の字が刻まれた石碑とあたりにはたくさんの信楽焼の狸が置かれています。
参道右手には坐像の六地蔵尊。
正徳二年(1712年)~享保元年(1716年)の造立で、墨田村地蔵講中との関係が認められ、区の登録文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 六地蔵尊

左手には像容の整った聖観世音菩薩立像。
新葛西三十三観音霊場第16番、大東京百観音霊場第91番という、当山のふたつの観音霊場札所と関連をもつお像かもしれません。


【写真 上(左)】 観世音菩薩立像
【写真 下(右)】 天水鉢と光悦垣

本堂向かって左前の石句碑には、福井県小浜の人で、文政二年(1819)没と伝わる下村義楽の歌が刻まれています。

 たることをしれば浮世も面白や 長く短し夢のうきはし


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 正月の向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、軒唐破風を押し立てて堂々たる伽藍です。
水引虹梁両端に獅子・象?の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻とその上に大瓶束を置いています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 ご真言

向拝格子戸の上に「毘沙門天」の扁額、向拝柱には毘沙門天のご真言を掲げています。

御本尊は弘法大師の御作とも伝わる毘沙門天で、隅田川七福神の札所本尊でもあります。

〔山内掲示より〕
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毘沙門天は佛法の守護神のひとりで、世界の中心に聳える須弥山の北方を厳然として守っていたとされる。またの名を多聞天とも申し上げる。しかし、その反面、三界に余るほどの財宝を保有していて、善行を施した人びとには、それを分け与えたといわれる。強い威力を持つ一方で富裕でもあるという神格が、福徳の理想として、七福神に含められ、信仰された理由である。
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当山の縁起やたたずまいからして、本堂にはほかにも由緒ある仏像が安されている感じもしますが詳細は不明です。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 映画人ノ墓碑

山内には「映画人ノ墓碑」やその横には立派な宝篋印塔もあり、見どころの多い名刹です。


御朱印は本堂向かって右手の庫裏にて拝受しました。
以前は正月七日までの限定授与だった模様ですが、いまは通年授与されています。
御朱印は毘沙門天の1種類で、とくに札所印は捺されていないとのことです。


〔 多聞寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 平成30年正月の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年の御朱印

中央に「毘沙門天」の揮毫(印判)と毘沙門天のお種子「ベイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印。
平成30年正月の御朱印には隅田川七福神の札所印が捺されています。
左には山号の揮毫と寺院印が捺されています。



■ 墨田区お寺めぐり第1番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3へつづきます。



【 BGM 】
■ 夏雪 ~summer_snow~ - 西沢はぐみ


■ ふたりでスプラッシュ - 今井美樹


■ LANI ~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
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■ 四万六千日の御朱印

明日7月9日、明後日7月10日は四万六千日です。
酷暑なので、十分な暑さ対策のうえお出かけくださいませ。

四万六千日(しまんろくせんにち)とは、観世音菩薩の功徳日のひとつです。
功徳日とは、その日に参拝すると100日、1,000日分などの功徳が得られるという特別な日をいいます。

尊格や寺社によって異なりますが、浅草浅草寺の四万六千日(毎年7月9日、10日)にはほおずき市も催され、多くの参拝客で賑わいます。
当初は7月10日が四万六千日とされていましたが、参拝客が殺到するため現在では7月9日、10日の両日が四万六千日とされています。

大正13年刊の『全国縁日案内 第1編(関東之巻)』には「七月九、十日(四萬六千日)」とあるので、すでに大正時代には7月9日、10日が四万六千日とされていたようです。

四万六千日に浅草寺の観音さまを参拝すると、その功徳はじつに46,000日分。
なんと126年分の功徳を積めるといわれています。
四万六千日の縁日は浅草寺が創始といわれ、次第に各地の寺院にも広まったとされます。
(エリアや寺院によっては8月9日、10日のところもあるようです。)

浅草寺の四万六千日の御朱印には「四万六千日」の印判が捺されます。
音羽の護国寺でも7月10日に「四万六千日」の印判つきの御朱印を拝受していますが、今年も授与されるかは不明です。

  
【写真 上(左)】 浅草寺の四万六千日の御朱印
【写真 下(右)】 音羽・護国寺の四万六千日の御朱印

〔関連記事〕
■ ご縁日と御朱印
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-1

先日完結した「御府内二十一ヶ所霊場の御朱印」にひきつづいてUPしていきます。


お大師さまゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場には、主に八十八ヶ所と二十一ヶ所があります。
ご参考(「ニッポンの霊場」様)

八十八ヶ所はかなりの時間と根気を要し、結願までの道のりはなかなか困難です。
そこで生まれたのが簡易(ミニ)版である二十一ヶ所という説がみられます。

簡易(ミニ)版であれば八十八ヶ所の札所からダイジェスト的に選定すればいい筈ですが、そうはなっていないケースもみられます。

「隅田川二十一ヶ所霊場」もそのひとつです。
東京・下町エリアには荒綾八十八ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの弘法大師霊場があります。

隅田川二十一ヶ所霊場はそのうち荒川辺八十八ヶ所霊場のミニ版という説がありますが、重複していない札所もあります。
また、札所宗派も真言宗、天台宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土宗と多彩で、ほとんどが真言宗寺院で構成される荒川辺霊場とは様相を異にしています。

「東大和と寺院散策」様Webには「一説によると、この当時盛んであった七福神巡りを、もっと広げたものらしく」とあります。
たしかに「隅田川七福神」の3寺院はすべて札所となっています。

この霊場の貴重なガイドブックである『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)にも「七福神参りの延長気分で、気軽にお参りできるのがよい。木母寺や長命寺など名高い霊場もある。」とあります。



「古今御朱印研究所」様Webによると「隅田川七福神」の開創は文政七年(1818年)頃です。

「隅田川二十一ヶ所霊場」は、「猫の足あと」様Webに「明治三十八年から四十一年頃と推定する 弘法大師二十一カ所は大師忌日の三月二十一日の行事である。摂陽奇観巻ノ三〇宝暦三年(一七五三)癸酉大阪弘法大師廿一カ所巡り始まる。毎月二十一日道法凡そ三里三年三月の間参詣すれば諸願成就すると云い伝ふ、とある。(「江戸・東京札所事典」より)」とあり、『葛飾区史』にも「隅田川二十一箇所霊場は明治38(1905)年頃始まったとされ」とあります。

「隅田川二十一ヶ所霊場」よりも「隅田川七福神」の方が先の開創で、「隅田川七福神」前身説は年代的に符合します。


【写真 上(左)】 隅田川
【写真 下(右)】 隅田川から向島方向


【写真 上(左)】 第11番如意輪寺
【写真 下(右)】 第21番蓮花寺

「ニッポンの霊場」様に札所リストが掲載されているので、こちらにもとづき巡拝しました。

番外、掛所はなく札所総数は21となります。

隅田川から東のエリア、墨田区、葛飾区、足立区、江戸川区の下町の弘法大師霊場で、浅草から隅田川を挟んで対岸の如意輪寺、木母寺、長命寺などが札所となっており、台東区メインの「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」とはエリア的に連続しています。

〔 札所リスト 〕

1番 月光山 薬王院 正福寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区墨田2-6-20
2番 日照山 源光院 普賢寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区東堀切3-9-3
3番 医王山 薬王院 極楽寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区堀切2-25-21
4番 延命山 榮壽院
 曹洞宗 足立区東伊興4-1-1
5番 隅田山 吉祥院 多聞寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区墨田5-31-13
6番 鶴田山 真念寺 遍照院
 真言宗智山派 墨田区吾妻橋1-3-7
7番 牛宝山 明王院 最勝寺(目黄不動尊)
 天台宗 江戸川区平井1-25-32
8番 明王山 不動院 寳性寺 /荒・綾・南
 真言宗智山派 葛飾区堀切4-54-2
9番 千葉山 薬師寺 西光院(牛田薬師) /荒・綾
 新義真言宗 足立区千住曙町27-1
10番 梅柳山 墨田院 木母寺
 天台宗 墨田区堤通2-16-1
11番 宝珠山 理性院 如意輪寺(牛島太子堂)
 天台宗 墨田区吾妻橋1-22-14
12番 西方山 安養院 九品寺 /荒・綾
 真言宗豊山派 葛飾区堀切6-22-16
13番 牛頭山 弘福寺
 黄檗宗 墨田区向島5-3-2
14番 渋江山 清重院 西光寺 /南
 真言宗豊山派 葛飾区宝町2-1-1
15番 常在山 宝蔵寺 /荒・南
 真言宗智山派 墨田区八広6-9-17
16番 孤竹山 正覚寺 /荒・南
 真言宗智山派 墨田区八広3-5-2
17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
 浄土宗 墨田区吾妻橋1-9-11
18番 宝寿山 遍照院 長命寺
 天台宗 墨田区向島5-4-4
19番 清滝山 金長院 正王寺 /荒・綾・南
 真言宗豊山派 葛飾区堀切5-29-14
20番 榎木山 善福院 /荒・綾・南
 真言宗智山派 葛飾区四つ木3-4-29
21番 清瀧山 観音院 蓮花寺(寺島大師) /荒・綾・南
 真言宗智山派 墨田区東向島3-23-17

〔八十八ヶ所霊場の略記凡例〕
 荒:荒川辺八十八ヶ所霊場
 綾:荒綾八十八ヶ所霊場
 南:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)


「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」「御府内八十八ヶ所霊場」よりも東(下町)寄りの霊場ですが、「隅田川二十一ヶ所霊場」はさらに東(下町)寄りとなっているため、御府内八十八ヶ所霊場、豊島八十八ヶ所霊場との重複札所はありません。

真言宗系の札所は荒川辺八十八ヶ所霊場、荒綾八十八ヶ所霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)の3つの弘法大師霊場との兼務が多いのに対し、他宗の札所では弘法大師霊場との重複はみられず、鮮やかな対比をみせています。

ここからみても、弘法大師霊場(八十八ヶ所)のミニ版とは言い切れない感じがします。

札番はエリア的に飛んでいるので、順打ち、逆打ちともにきびしいです。
また、駅から離れている札所が多いので、下町の風情を味わいながらじっくり回るのがベターかと思います。
隅田川二十一ヶ所霊場は現況ほとんど知られていませんが、下町ならではの雰囲気のある寺院が多く、回り応えがあるいい霊場です。


21箇寺のうち2箇寺は御朱印不授与なので、いただける御朱印は19となります。
(かなり以前に拝受した札所もあるので、現在は不授与の札所があるかもしれません。)
多くの寺院は5以上の霊場札所を兼務されていますが、ほとんどの寺院は1~2種類のみの御朱印授与なので、隅田川二十一ヶ所霊場の札所印はまずいただくことができません。


 
【写真 上(左)】 第1番正福寺の御朱印
【写真 下(右)】 第5番多聞寺の御朱印

 
【写真 上(左)】 第10番木母寺の御朱印
【写真 下(右)】 第21番蓮花寺の御朱印


弘福寺、木母寺、長命寺、最勝寺などは書置があるか、ほぼ常駐されているので拝受は容易ですが、その他の札所についてはご不在もあり拝受難易度はかなり高めです。


それでは第1番から順にご紹介していきます。
なお、『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第1番 月光山 薬王院 正福寺
(しょうふくじ)
公式Web

墨田区墨田2-6-20
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第66番、荒綾八十八ヶ所霊場第66番?、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番、御府内二十八不動霊場第26番、新葛西三十三観音霊場第18番、墨田区お寺めぐり第4番

発願の第1番は墨田区墨田の正福寺です。

公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正福寺は、慶長七年(1602年)、宥盛法印を開山に創建されました。
新義真言宗で寺島蓮花寺の末寺、御本尊は薬師如来。
別尊として両大師と文覚上人守護の不動明王立像を奉安しました。

安政の大地震(安政二年(1855年))で壊滅しましたが、名主坂田三七郎が邸宅を寄進して再建されました。

隅田川の川浚で川底からあらわれた南北朝時代からの戦死者の頭骨を葬った「首塚地蔵尊」は、首から上の病の快癒に霊験あらたかとされ、多くの参詣者を集めます。
毎月4日には法要が勤修され、釈迦堂(寺務所)で首塚地蔵尊朝粥がふるまわれます。

また、明治に愛猫家のご住職がおられたため、「猫寺」という通称があります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(隅田村)正福寺
同(新義真言宗、寺嶋村蓮花寺)末 月光山薬王院ト号ス 慶長七年(1602年)起立シ 本尊薬師別ニ両大師ヲ安ス

『墨田区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正福寺(月光山 隅田町一丁目一、二0七番地)
新義真言宗で寺島蓮花寺の末寺である。慶長七年(1602年)の創建で開山を宥盛法印とし、本尊薬師如来を安置する。
正福寺は通称の猫寺と門前の首塚とによって名を知られていた。
古碑としては宝治二年(1248年)の板碑が所蔵されている。

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小江戸・川越を抜けた新河岸川は富士見市あたりから荒川に寄り添うように流れ下り、北区志茂の岩淵水門で荒川の水を取り込んでからは隅田川と名を変えます。

江戸時代の寛永六年(1629年)、荒川を入間川に付け替える瀬替えで、隅田川の河道は荒川の本流となりました。
明治末期~昭和初期の河川改修で岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、荒川放水路が荒川の本流となり、岩淵水門から下流の従前の河道は「隅田川」と改称されました。(→ 「荒川放水路の変遷」(荒川下流河川事務所)

東武スカイツリーライン「堀切」駅南側の墨田水門から旧綾瀬川の水を取り込んだ隅田川はここで向きを変え、以降一貫して南下します。
ここから南の隅田川両岸には多くの寺社が点在しますが、正福寺は第9番西光院(千住曙町)、第5番多聞寺(墨田)、第10番木母寺(堤通)とともに、その北端の要衝の地に立地します。

正福寺の最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約3分。
下町らしいビルと住居の混在エリアで、正福寺すぐ北の道は「古代東海道」です。

かつての東海道は畿内から常陸国国府へ至る道をさし、大河川の乱流地帯である東京湾沿岸は屈指の難所で、律令時代は相模国から東京湾を船で渡って上総国へ向かったといいます。
時代を追って陸路も整備されていきますが、なお東京湾沿いに道をとることはできず、現在の白鬚橋付近にあった「白鬚の渡し」(「橋場の渡し」)ないし、隅田川神社そばの「水神の渡し」で隅田川を渡っていたとされています。

『伊勢物語』の「第九段 東下り」で主人公(在原業平ともいわれる)が渡ったのは、「白鬚の渡し」(「橋場の渡し」)とされ、『古今和歌集』(巻九 羇旅歌411)の在原業平の歌は、隅田川の「都鳥」を嘆じて詠んだものとされています。(→ 解説

 名にし負はばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

対岸の橋場は大名・豪商の別荘や料亭が隅田川河岸に並び、文人たちで賑わったといい、三条実美公の別荘「對鴎荘」も橋場の渡しの西岸にありました。


■ 「名所江戸百景/墨田河橋場の渡かわら竈」(絵師:広重出版者:魚栄刊行年:安政4、国立国会図書館DCより規定にもとづき転載)

『江戸名所図会』(国立国会図書館)でも「隅田川」にページが割かれ、多くの挿絵が載せられて、隅田川沿岸が江戸屈指の名所であったことがわかります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

路地に面して山内入口。
門塀に山号・寺号の標、門扉には真言宗智山派の宗紋、桔梗紋。


【写真 上(左)】 桔梗紋
【写真 下(右)】 説明板

その左手の説明板には、下記のとおりあります。
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月光山 正福寺
開基 慶長七年(一六0二年) 宥盛法印
本尊 薬師如来 ご縁日 毎月八日
ご真言 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
当山は真言宗智山派に属し 宗祖弘法大師の法灯を継承する
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【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2

門前右には附属正福幼稚園創立三十周年記念に建立された「和みの像」。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂札所板

参道右手にある大師堂は、切妻造銅板葺妻入り一間の堂宇です。
説明板には「昭和二十八年六月、篤信の中馬兄弟会、平野材木店より寄進」とあり、堂内に御座す弘法大師坐像の台座には「第八十六番 奉納中馬兄弟会」とあるので、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番の札所本尊・弘法大師像を寄進とみられます。

堂内には、白衣の観音立像と数軆の修行大師像も奉安されています。
見上げには南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第86番の真新しい札所板が掲げられています。

隅田川霊場の発願寺だけあって、さすがにお大師さまの存在感がみなぎります。

こちらは、荒川辺八十八ヶ所霊場第66番、荒綾八十八ヶ所霊場第66番?の札所でもありますが、山内に他の大師堂は見当たらなかったので、こちらの大師堂が弘法大師霊場の拝所とみられます。


【写真 上(左)】 お大師さま
【写真 下(右)】 手洗水鉢

大師堂の本堂寄りには水鉢としては区内最古の銘(寛文七年(1667年))を有する手洗水鉢。
庚申供養をあらわす水鉢として貴重との由。

さらにその先には数基の板碑。
説明板には、宝治二年(1248年)銘の板碑は在銘の板碑としては都内最古で、高さ116㎝、幅46㎝は区内随一の大きさとあります。
阿弥陀如来のお種子「キリーク」が刻まれています。

宝治二年(1248年)銘は当山創建の慶長七年(1602年)よりずいぶんと古いですが、これらの板碑は江戸時代に付近の御膳栽畑から発掘されたものとあります。


【写真 上(左)】 板碑
【写真 下(右)】 阿弥陀如来立像

板碑の並びには、萬治四年(1661年)銘の阿弥陀如来石仏立像も御座します。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 薬師如来と扁額
【写真 下(右)】 御本尊の幟

参道正面の本堂は頂部に相輪をいただいた二層の宝形造。
二階が御内陣と思われ、向拝正面には背後に光輪を負われた立像の薬師如来が御座し、上方には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 首塚地蔵尊
【写真 下(右)】 寺務所(釈迦堂)

首塚地蔵尊はいったん門外に出て、右手に進んだところにあります。
入母屋屋根妻入りの覆堂で、数軆の地蔵尊石像を奉安。
赤い奉納幟と覆堂にかかる御詠歌の板が、信仰の篤さを物語ります。


御朱印は本堂下の寺務所にて快く授与いただけました。
御朱印は薬師如来の1種類で、とくに札所印は捺されていないとのこと。

写経会、阿字観会、寺ヨガなどが催され、開かれたお寺を志向されているようです。


〔 正福寺の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 平成29年の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年の御朱印

中央に「薬師如来」の揮毫(印判)と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
令和6年版は、右下に聖観世音菩薩のお種子「サ」、左下に金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印も捺され、新葛西三十三観音霊場第18番の御朱印も兼ねているのかもしれません。



■ 墨田区お寺めぐり第4番のスタンプ


■ 第2番 日照山 源光院 普賢寺
(ふげんじ)
葛飾区Web資料

葛飾区東堀切3-9-3
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(上千葉村)香取社、稲荷社、神明社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第57番、荒綾八十八ヶ所霊場第87番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第55番

第2番は葛飾区東堀切の普賢寺です。

葛飾区Web資料、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

普賢寺は、当地の領主葛西兵衛尉入道寂昌の開基といいます。
壽永の頃(1182-1184年)当所に朽ちた大木があり根元から清水が湧出したため、葛西入道がその樹根を掘ってみると薬師如来の霊像を得たため堂宇を建立し、普賢寺を号したといいます。
この薬師如来像は”鼓薬師”といい、弘法大師の御作とも伝わります。

改修で発見された天井板銘より、当山の開創は治承四年(1180年)とされています。

建暦三年(1213年)の和田合戦で領主葛西民部少輔は討死、当山の堂宇も焼亡して、三歳の遺児六郎常則は薬師像を懐に母とともに一旦この地を退去しました。
14年ののち常則は北條家に出仕し本領葛西の地を賜ってここに住し、弘安六年(1283年)薬師堂を再造、法空阿闍梨を請待し導師となしたといいます。
これにより、法空阿闍梨は中興(開山)とされています。

葛西氏は、桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流です。
初代・葛西清重は豊島氏嫡流豊島清元(清光)の三男で、下総国葛西御厨(葛飾区の葛西城)を本拠に、現在の江戸川区・墨田区一円に勢力を張りました。

豊島清元・葛西清重父子は源頼朝公の挙兵に応じて御家人となり、清重は奥州合戦で武功を立て、奥州藤原氏が滅んだ後に奥州総奉行に任じられて陸奥国に所領を得ました。
後に奥州の大族として発展しますが、葛西清重の代には鎌倉御家人として葛西の地を本拠としていたようです。

清重は頼朝公の寝所警護11名の内に選ばれ、建久元年(1190年)頼朝公上洛の際にも右近衛大将拝賀の布衣侍7人を勤めるなど、頼朝公の信任ことに厚かったといいます。

葛西氏は系図が錯綜している氏族で、二代目以降は諸説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、和田合戦で「葛西民部少輔討死シ」とありますが、葛西清重は和田合戦で討死しておらず、葛西氏の別人とみられます。

また、『江戸名所図会』には、「境内に葛西六郎といへる人の墳墓あり 按に葛西三郎清重の氏族なるへし 吾鑑に建暦三年(1213年)五月三日和田左衛門尉義盛兵を起して将軍家及び執権義時の亭をかこむといへる 条下に葛西六郎といへる名を●●● 武蔵國の住人と注せり おそらくは此人ならん歟」とあります。

葛西清重の子として清親、朝清、時清、清宗などの名が伝わりますが、いずれも事績がはっきりとしません。(諸説は伝わりますが、錯綜している模様。)

葛西清重の生涯は1161-1238年と伝わるので、年代的には当山開基(葛西兵衛尉入道寂昌)=葛西清重ともみられ、当山開基を葛西清重とする資料もみられます。
『新編武蔵風土記稿』には「建治元年(1275年)和田北條合戦」とありますが、和田合戦は建暦三年(1213年)で、年代的に和田合戦で討死した「葛西民部少輔」(葛西六郎?)は葛西清重の子、本領に復した葛西六郎常則は葛西清重の孫ではないでしょうか。

しかし、『江戸名所図会』には「当寺過去帳に建久元年(1190年)三月廿日葛西六郎常則卒」とあり、これを信じると↑の推測は時系列的にすべて崩れてしまいます。
(『江戸名所図会』もこのくだりについては「尤も不審少からす」と付記しています。)

葛西清重は、親鸞聖人の関東遊行布教の際に聖人に帰依して出家。
名を西光坊定蓮と改め、自らの居館を西光寺(葛飾区四つ木)としたといいます。
(→ 西光寺公式Web

真宗に帰依した葛西清重が真言宗寺院の普賢寺を開基とは、いささか不思議な感じもしますが、あるいは真宗帰依前のことかもしれません。

じっさい東向島の晴河山 法泉寺は、葛西清重が両親供養のために真言宗寺院として建立、戦国時代に曹洞宗に改めたといいます。

■ 関連記事→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2

「猫の足あと」様Web掲載の『葛飾区寺院調査報告』には「天文7年(1538)10月、国府台の合戦で、兵火に罹り、多くの寺宝・記録を失い、北条氏綱の再興を経て、天正18年(1590)再び兵火のために焼失し、慶長年間(1596-1615年)、宥海法印がその荒廃を惜しみ、衆縁を募って再建」とあります。

国府台合戦(天文七年(1538年))は、第2代古河公方・足利政氏の子足利義明&房総土着の諸将連合軍vs戦国大名・北条氏綱との戦いです。
この時点ですでに葛西氏は勢力を弱めていたとみられ、古河公方の拠点のひとつとなっていた葛西城(葛飾区青戸)は激戦の地となり、そのときの兵火で当山は伽藍を失ったとみられます。

戦後、北条氏綱が再興したものの、『新編武蔵風土記稿』には「天正十八年(1590年)又兵火ノタメニ焼失」とあります。
この年、奥州で「葛西大崎一揆」(豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣による新領主・木村吉清・清久父子に対する反乱)が勃発し、これが葛西氏とゆかりのふかい当山にも波及したのかもしれません。

慶長二年(1597年)斎海により中興。
新義真言宗の古刹として名声を保ち、荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)の3つの弘法大師霊場(八十八ヶ所)の札所となっています。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「又此寺始ハ隣村足立郡普賢寺持ニアリシユヘ 今モ地名ニ残リシト云 或ハ寺領ナリシトモ云」とあります。
足立郡普賢寺村は現在の足立区綾瀬二丁目あたりですが、普賢寺のあった(上千葉村)のむ一部がのちに足立区綾瀬に編入されているので、東堀切(上千葉村)の普賢寺の寺領が
足立郡普賢寺村にあったとみるのが妥当かもしれません。

なお、『新編武蔵風土記稿』には「香取社 村ノ鎮守ナリ 普賢寺持 下ノ二社持同シ 末社天神 辨天 稲荷社 神明社」とあるので、(上千葉)香取社、稲荷社、神明社の別当は普賢寺が務めていたことになります。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(上千葉村)普賢寺
新義真言宗青戸村寶持院末 日照山源光院ト号ス 開山法空 弘安六年(1283年)三月朔日寂ス 本尊ハ鼓薬師ト号シ長二寸 弘法大師ノ作ナレト 今ハ別ニ木佛ヲ造リテ其腹籠ニ安スト云縁起ニヨルニ壽永ノ頃(1182-1184年)当所ニ朽タル大木アリ 其根ヨリ清水湧出セシカハ領主葛西兵衛尉入道寂昌 其樹根ヲ堀ラシメテ薬師ノ像をヲ得タリ ヨリテ堂宇ヲ創シ普賢寺ト名付 寺領等ヲ寄附セシニ 建治元年(1275年)和田北條合戦ノ時 領主葛西民部少輔討死シ 堂宇モ焼亡セラレシユヘ 其子六郎常則ハヤウヤク三歳ナリシカハ 母ナル人此薬師ノ像ヲ懐ニシテ母子共ニ此地ヲ退ケリ 其後十四年ヲ経テ常則再ヒ北條家ニ属シ 本領葛西ノ地ヲ賜リテコヽニ住セシカハ 弘安六年(1283年)薬師ノ堂ヲ再造シ 法空阿闍梨ヲ請待シテ導師トナセリ 其後北條氏綱中興セシカ 天正十八年(1590年)又兵火ノタメニ焼失シテ僅カニ昔ノ蹟ノミ存スル事トナレリ 又此寺始ハ隣村足立郡普賢寺持ニアリシユヘ 今モ地名ニ残リシト云 或ハ寺領ナリシトモ云(中略) 稲荷社

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(上千葉村)香取社
村ノ鎮守ナリ 普賢寺持 下ノ二社持同シ 末社天神 辨天 稲荷社 神明社

『江戸名所図会』(国立国会図書館)
日照山 普賢寺
上千葉村普賢寺にあり 新義真言宗にして本尊薬師如来ハ佛工春日の作なり 弘安年間(1278-1288年)法空阿闍梨開基 境内に葛西六郎といへる人の墳墓あり
按に葛西三郎清重の氏族なるへし 吾鑑に建暦三年(1213年)五月三日和田左衛門尉義盛兵を起して将軍家及び執権義時の亭をかこむといへる 条下に葛西六郎といへる名を●●● 武蔵國の住人と注せり おそらくは此人ならん歟 当寺過去帳に建久元年(1190年)三月廿日葛西六郎常則卒 栄照院常山大居士とあり 当世の法号の如し 尤も不審少からす


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JR常磐線・メトロ千代田線「綾瀬」駅、京成本線「お花茶屋」駅からいずれも1㎞ほどで、鉄道利用ではやや行きにくいところ。
落ち着いた住宅地の一角に、古刹らしいゆったりとした山内を構えています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

前面道路から参道がまっすぐに伸びています。
参道手前に風格のある寺号標を置きで、参道の先に山門。
松樹に囲まれ、古刹ならではの雰囲気があります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の寺号板

山門前左手には「願掛け水掛け不動尊」の石標。
山門は脇塀付切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で、柱に寺号板、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 石佛群

山門をくくった山内。右手に石佛群、左手には石佛群と大師堂。

大師堂は切妻造桟瓦葺妻入一間の堂宇で、見上げに「弘法」の扁額。
お堂向かって左には「荒綾八十八ヶ所第八十七番」とある荒綾霊場の札所標、右には弘法大師一千年塔。
堂前の灯籠は区の指定有形文化財、庚申灯籠と思われます。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂扁額


【写真 上(左)】 荒綾霊場札所碑
【写真 下(右)】 弘法大師一千年塔

堂内にはお大師さまの坐像が奉安され、台座の「第五十五番」は南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)の札番です。


【写真 上(左)】 大師堂堂内
【写真 下(右)】 願掛け水掛け不動尊


墓域にある三基の宝篋印塔は都の指定文化財で葛西氏の墓であるといわれますが、墓域にあるので撮影は控えました。

本堂右手奥の覆屋に御座す不動明王坐像が、おそらく「願掛け水掛け不動尊」と思われます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は近代建築で、唐破風様の大がかりな屋根と棒瓦の直静的な向拝屋根の対比が個性的な意匠。

『新編武蔵風土記稿』によると、当山御本尊の薬師如来は弘法大師の御作で、のちに木佛の薬師如来の胎内に籠安されたとのことです。


本堂向かって左手奥の庫裏にご住職?はいらっしゃいましたが、御朱印は授与されていないとのことでした。

ゆかりのあるところで、普賢寺が別当を務めていた(上千葉)香取神社の御朱印を掲載します。


〔 (上千葉)香取神社の御朱印 〕



■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-2へつづきます。



【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)


■ ナツノカゼ御来光 - 花たん


■ The Days I Spent With You - 今井美樹
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■ 高崎辰年御朱印巡り&関東八十八箇所霊場

6月末までなので、今週末がラストチャンスです。


■ 専用御朱印帳


 
【写真 上(左)】 頒布神社のリスト
【写真 下(右)】 倉賀野神社

 
【写真 上(左)】 烏子稲荷神社
【写真 下(右)】 八幡八幡宮

 
【写真 上(左)】 於菊稲荷神社
【写真 下(右)】 山名八幡宮

 
【写真 上(左)】 進雄神社
【写真 下(右)】 群馬県護國神社

  
【写真 上(左)】 小祝神社
【写真 下(右)】 八幡宮(八幡原)


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2024-05-19 UP

来月6月末までということで、気になっていた高崎辰年御朱印巡り
高崎市内の神社9社をめぐり、辰をモチーフとした御朱印をいただく企画です。

 


本日は天気も悪そうだし、家で情報収集でも・・・と調べ始めたところ、専用集印帳(700円)は好評につき、進雄神社、群馬縣護國神社とも売り切れとのこと。
倉賀野神社にTELすると、まだ少し残っているとのことでしたので、急遽、関越を飛ばしてお参りしてきました。


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群馬縣護國神社のそばにある、高崎白衣観音・慈眼院にもお参りしてきました。
こちらは関東八十八箇所霊場第1番札所です。

関東八十八箇所霊場は2016年の開創20周年時に結願していますが、弘法大師御誕生1250年の昨年に高野山東京別院で発願し、今度は専用納経帳で廻りはじめています。

第1番札所が未参拝なのはなにかすっきりしませんでしたが、ようやく参拝できました。
この専用納経帳はB4版ほどの御詠歌つきの大判で、御朱印はすこぶる迫力があります。
各札所で札所本尊のおすがたがいただけるのも魅力です。

エリアが広く、結願までの道のりは長いですが名刹も多く、じっくり巡るにはいい霊場かと思います。

 



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■ 鎌倉市の御朱印-9 (B.名越口-4)

超ひさしぶりに続編をUPしました。
しばらくつづけます。

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)
■ 鎌倉市の御朱印-8 (B.名越口-3)からつづく。


30.長興山 妙本寺(みょうほんじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市大町1-15-1
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-

妙本寺は日蓮宗の本山(霊跡寺院)で、池上法縁五本山の一つに数えられる名刹です。
比企氏ゆかりの寺院で、『新編鎌倉志』には以下のとおりあります。

「●比企谷、比企能員舊跡、竹御所跡。長興山と号す。日蓮説法始の寺なり。相傳ふ、日蓮の俗弟子、比企大學三郎と云し人、建立す。日蓮在世の時、日朗に附属する故に、日朗を開山とす。正月二十一日、開山忌あり。此寺の住持池上本門寺を兼帯するなり。塔坊十六坊、院家二個院あり。一貫五百文の御朱印あり。此地を比企谷と云。比企判官能員が舊跡なり。今按ずるに、武州に比企郡と云あり。頼朝の乳母、能員が姨母、武州比企郡を請所として居す。故に比企尼と号す。甥の能員を猶子として、共に此所に来居す。故に比企谷と云なり。頼朝幷政子、比企谷が家に御渡の事、又頼家も能員が家にて遊興の事、【東鏡】に見たり。能員が女は、若狭局と号して、頼家の妾にて、一幡君の母なり。故に能員、恩寵逞く、権威盛なりしが、北條家を亡さんと謀るに因て、建仁三年(1203年)九月二日、北條時政が名越の亭にて誅せらる。一族当地にて悉く亡たり。」

また、『新編相模國風土記稿』には以下のとおり記載があります。
「比企判官能員ノ第蹟ナリ。文永十一年(1274年)三月。本行院日學開基ス。寺傳ニ拠ルニ。日學ハ比企能員ノ末男ニテ。大學三郎能本ト号シ。日蓮ノ俗弟子ナリ。先父能員。建仁三年(1203年)。北條時政ノ為ニ誅セラレシ時。叔父伯耆法印●顕。京都東寺ニ在シニ養ハレ。剃髪シテ京ニ隠レ住リ。後文士トナリテ。順徳帝ニ奉仕シ。承久三年(1221年)。佐渡國ノ遷幸ニ供奉ス。其後老後ニ至リ将軍頼経ノ夫人ハ。能員ノ外孫ナル故。其所縁ヲ以テ赦免セラレ。鎌倉ニ帰リテ。竹御所ノ為ニ。当寺ヲ建立セシトナリ。」

妙本寺が建つ鎌倉の東の谷戸は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉の有力御家人・比企能員(よしかず)一族の屋敷がありました。

比企能員は源頼朝公の乳母・比企尼の猶子で、妻は二代将軍・源頼家公の乳母(諸説あり)、娘の若狭局は頼家公の室となって一幡を生むなど、将軍家と深い関係をもちました。
建仁三年(1203年)、頼家公が病に伏すと千幡(後の源実朝公)を推す北条氏と一幡を擁す比企氏の間で対立が表面化します。

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ここで、比企氏について少しく掘り下げてみたいと思います。
比企氏は鎌倉時代初期に没落したため詳細な史料が少なく、ナゾめいた一族です。

比企氏の姓は武蔵国比企郡由来とされますが、比企氏の始祖とされる比企能貴ないし波多野三郎遠光の出自については諸説あります。
・藤原秀郷流ないし藤原北家魚名流
・小碓命(倭建命)の裔
・武蔵国造(上毛野氏ないし阿保朝臣人上)流
・比企郡司(波多野氏ないし秦氏流波多野氏)流
などなど・・・。
これだけ多くの説が立てられる背景として、比企氏は代々猶子縁組み(実親子ではない者が親子関係を結ぶこと)が多かったことがあげられています。

これらを逐一検証するのはたいへんなので、比企能員の父とされる比企掃部允(ひき かもんのじょう)から辿ってみます。
『埼玉叢書』掲載の『比企氏系図』によると比企掃部允は波多野遠義の孫の藤太遠泰。
武蔵国比企郡に拠り、妻は源頼朝公の乳母・比企尼。

比企尼の父母は不明とされますが、頼朝公の乳母に任ぜられているので、源家嫡流か、頼朝公の母・由良御前(熱田神宮大宮司・藤原季範)ゆかりの人物かもしれません。
常陸国の豪族・八田宗綱の娘・寒河尼も頼朝公の乳母とされるので、あるいは東国武士の娘だったのかもしれません。

平治元年(1159年)の平治の乱で源義朝公が敗死し、嫡男の頼朝公が14歳で伊豆国に配流になると、頼朝公の乳母であった比企尼とその夫・掃部允は頼朝公への支援をつづけました。

比企夫妻には娘が3人おり、長女・丹後内侍は安達盛長に再嫁、次女・河越尼は河越重頼の室、三女は伊豆の伊東祐清に嫁いだのち源氏御門葉の平賀義信の室となっています。
また、次女・河越尼および三女は頼家公の乳母と伝わります。

比企尼は男子がなかったとされ、甥(諸説あり)の比企能員を猶子として迎え比企氏当主となりました。

比企尼の長女・丹後内侍の子は、安達景盛、安達時長、島津忠久、源範頼公の室
次女・河越尼の子は、源義経公の正室・郷御前(京姫)
三女は、伊東祐清の兄弟・河津祐泰の子(律師)を連れ子としたと伝わります。

比企氏が鎌倉幕府草創期に権勢をふるったのは、この比企尼の存在が大きかったとみられています。

比企氏没落前、比企氏と北条氏をとりまく主な状況は下記のとおりとみられます。

■比企氏(比企能員)

妻:渋河兼忠の息女
兄弟(女性):
  安達盛長の室(丹後内侍)/安達盛長はのちの「13人の合議制」のひとり。
  河越重頼の室(河越尼)/河越重頼は「武蔵国留守所総検校職」。
  三女は伊東祐清の室/伊東祐清は伊豆の有力豪族。
     のち平賀義信の室/平賀義信は源氏御門葉。
娘:若狭局 頼家公の室
  笠原親景の室/親景は武蔵国笠原郷の御家人。
  中山為重の室/中山氏は秩父氏族? 比企郡の御家人。 
  糟屋有季の室/有季は相模国糟屋荘の御家人。
孫:一幡 頼家公の長男。
  鞠子(媄子) 竹御所・頼家公の息女。

■北条氏(北条時政)

妻:伊東祐親の息女、牧の方
兄弟(女性):未確認
娘:政子 源頼朝公の御台所。
  時子 足利義兼の室/義兼は源氏御門葉。
  阿波局 阿野全成の室/全成は頼朝公の異母弟
  稲毛重成の室/重成は秩父氏族、武蔵国稲毛荘の御家人。
  畠山重忠の室/重忠は秩父氏族、武蔵国畠山郷の御家人。
  平賀朝雅の室/朝雅は平賀義信の四男で源氏御門葉。
  滋野井(三条)実宣の室/実宣は公卿。官位は正二位・権大納言。
  宇都宮頼綱の室/宇都宮氏は下野国の名族。
  坊門忠清の室/忠清は公家で内大臣・坊門信清の子。
  河野通信の室/通信は伊予国・伊予水軍の将。
  大岡時親の室/御家人、詳細不明。
孫:頼家公 頼朝公の嫡男/鎌倉二代将軍。
  実朝公 頼朝公の次男/鎌倉三代将軍。

これをみると、比企能員は頼家公の長男・一幡の外戚、北条時政は頼家公、実朝公の外戚として力を奮っていたことがわかります。
頼家公と若狭局の結びつきは強く、頼家公独裁体制のもとでは北条は劣勢とならざるを得ないきわどい状況でした。

一方、御家人間の勢力図をみると、鍵となるのはおそらく坂東八平氏と源氏御門葉の動向でした。
坂東八平氏は、坂東に下向し武家として勢力を張った桓武平氏良文流の諸氏で、ふつう千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八氏が数えられます。

御家人の政治力学で大きな役割を占めたのは三浦氏(和田氏)、秩父氏、梶原氏とみられます。
わけても秩父姓族は武蔵国の在庁官人のトップで国内の武士を統率・動員する権限をもつ「武蔵国留守所総検校職」を承継し、武蔵七党などの在地武士団に大きな影響力をもっていました。
秩父姓族の主要な流れは秩父氏、河越氏、畠山氏、江戸氏、豊島氏、葛西氏、榛谷氏、小山田・稲毛氏などで、おのおの武蔵・相模国を中心に肥沃な領土をもち、強大な武力を蓄えていました。

一時は河越氏が惣領として中心的な立場にありましたが、河越重頼が義経公に娘(郷御前)を嫁がせていた関係から粛清されたのち、その立場は畠山氏に移ったとされます。
比企氏の女婿・河越氏から、北条氏の女婿・畠山氏への実質的な権威委譲で、結果として北条氏の勢力伸長につながりました。

三浦氏(和田氏)については、もともと地縁的なものもあり、北条氏との関係が強かったとみられます。

源氏御門葉については、平賀氏はほぼ対等ながら、北条氏が重鎮・足利氏を女婿として抑えていたことが大きいと思われます。

また、安達盛長の室は比企氏の丹後内侍、息女は源範頼公の室となっており、比企氏、安達氏、範頼公の所領(ないしは居所)は隣接しているので、相互の連携があったとも思われますが、建久四年(1193年)の範頼公配流以降この関係はおそらく瓦解しています。
範頼公は頼朝公旗揚げ以前から甲斐源氏との関係がふかく、範頼公を通じて比企氏が甲斐源氏と関係をもった可能性もありますが、これも範頼公配流により崩れたのでは。

比企氏、安達氏、範頼公の姻戚関係は、比企氏系図(東松山市観光協会Web資料)からもみてとることができます。

こうしてみると有力御家人の多数派工作という面では北条氏に分があり、わけても北条政子を擁した点が決定的だと思います。

建仁三年(1203年)頼家公は病に伏し8月に危篤に陥りました。
8月27日、北条時政は一幡(比企能員の孫)と実朝公(北条時政の孫)に頼家公遺領分与を決定、関東28ヶ国地頭職と日本国総守護職を一幡に、関西38ヶ国地頭職を実朝公に相続することとしました。(『吾妻鏡』)

翌9月、これに不満の能員は、頼家公に実朝公擁立を狙う時政の謀反を訴え頼家公は時政追討を命じたところ、これを立ち聞きした政子が時政に告げ、時政は先手を打って能員を名越の自邸に呼び出しました。

比企一族はこれを時政の謀りごととして引き止めましたが、能員は「武装すればかえってあやしまれる」といい、平服で時政邸に向かったといいます。
しかし屋敷に入ったところを時政の手勢に襲われ、あえなく落命しました。

能員ほどのやり手がみすみす敵地に身を晒すようなことは考えにくいですが、通説ではこのようになっています。

能員謀殺を受けた比企一族は一幡の屋敷に拠って防戦したものの追いつめられてことごとく討死。
この際、若狭局は井戸に身を投げ、一幡は戦火の中で命を落としたと伝わります。

東松山市観光協会Web資料には「(若狭局は)比企一族滅亡の後、幽閉される頼家に従い修善寺で暮らすが、頼家の死後、武蔵国大谷村へ逃げ、頼朝の菩提を弔ったと云われる。」とあり、当地の扇谷山 宗悟寺には若狭局、頼家公ゆかりの尊格が祀られています。

『新編武蔵風土記稿』の宗悟寺の項には以下のとおりあります。
「寺傳ニ当寺ハ鎌倉将軍頼家 元久元年(1204年)七月伊豆國修善寺ニ於テ害セラレシ後 其妾若狭局当所ニ来テ剃髪染衣ノ身トナリ、前ニシルセル比丘尼山ニ草庵ヲ結ビ、頼家追福の為トシテ一寺ヲ草創シ 則頼家ノ法謚長福寺殿壽昌大居士ノ文字、及村名ヲ取テ大谷山壽昌寺ト号スト云 按ニ若狭局カ当所ヘ隠棲セシコトハ 他ニ所見ナケレト 彼局ハ比企判官能員カ女ニテ 頼家ノ長男一萬ノ母ナルヨシ 将軍執権次第ニ載ス 又東鑑養和二年(1182年)十月ノ條ニ 比企四郎能員云々 武蔵國比企郡ヲ以テ請所ト為ナトミユリハ、頼家沒落後 当所ハ父能員カ舊領ナル因テ以隠レ住セシナラン」

東松山市観光協会の資料は、『新編武蔵風土記稿』に依拠しているものとも思われます。

なお、比企氏の乱で比企側に加勢した御家人は女婿をのぞいてほとんどいなかったとみられ、すでに趨勢は決していたとみるべきでしょうか。

比企一族粛清は頼家公排斥、実朝公擁立と密接に絡んでいるため、なにかとナゾの多いものとなっています。
『吾妻鏡』が伝えなかった大きな事柄があるのかもしれません。

ともあれ、権勢を誇った比企氏はここに滅亡しました。


唯一生き残った能員の末子・大學三郎能本(よしもと)は、和田義盛に預けられた後(諸説あり、安房国に配流とも)に京に送られ剃髪して後に文士となり、順徳帝に仕えました。
承久の乱ののち佐渡島に配流された順徳上皇に供奉しましたが、老いた後、四代将軍頼経の御台所(源頼家公の娘・鞠子(媄子)/竹御所)が能員の外孫(能本の姪)というゆかりで赦され鎌倉に帰りました。

『新編相模國風土記稿』には「竹御所ノ為ニ。当寺ヲ建立セシトナリ。」とあり、比企大學三郎能本が竹御所のために妙本寺を建立と伝えています。

以下は「朗門の三長三本」関連資料やWikipediaからの孫引きです。出典はWikipediaを参照願います。

文暦元年(1234年)竹御所が難産で逝去した際、持仏の釈迦如来像を釈迦堂に奉安の遺言あり、この遺言を受け嘉禎元年(1235年)、比企谷に新釈迦堂が建立され、竹御所はそのそばに葬られたといいます。

寛元元年(1243年)、比企一族の出身ともいわれる仙覚が新釈迦堂の住持となりました。
この仙覚は、比企郡小川町に遺跡が遺る天台僧で万葉集研究者の仙覚律師遺のことを指すとみられます。

建長五年(1253年)、能本は鎌倉で日蓮聖人に帰依、文応元年(1260年)には、父・能員と母の菩提のため法華堂を建立・寄進したといいます。

この際、日蓮聖人が父に「長興」、母に「妙本」の法号を授与されたことから、寺号を「長興山妙本寺」と定めたと伝わります。(「日蓮宗Web」
日蓮聖人寂後には六老僧の一人・日朗上人が継承、長興山 妙本寺を本拠として長谷山 本土寺、長栄山 本門寺を管轄され、この三箇寺を併せて「朗門の三長三本」と称します。
また、このゆかりから日朗門流は「比企谷門流」とも呼ばれます。

妙本寺と池上本門寺は昭和16年までひとりの住持が両寺を管轄する「両山一首制」によって護持され、日蓮宗でもきわめて高い寺格を有し、霊跡寺院に指定されています。

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【写真 上(左)】 お題目塔・寺号標
【写真 下(右)】 総門

鎌倉観光のハイライトは小町通りから鶴岡八幡宮、北鎌倉周辺、長谷周辺、そして朝比奈・十二所方面で、鎌倉駅から南東方面に足を伸ばす観光客はぐっと少なくなります。
妙本寺は南東方面の小町大路からさらに山手に入り込みますので、拝観客で大混雑ということはほとんどないと思います。

あたりは比企谷と呼ばれる鎌倉屈指の景勝地で、落ち着いた参拝ができます。
春は桜と海棠、夏はシャガ・ノウゼンカズラ、秋は紅葉と、花の寺としても知られています。
挙式後の新婚カップルの記念写真撮影スポットとしても有名で、筆者参拝時も撮影していました。

滑川にかかる夷堂(えびすどう)橋のたもとにお題目塔・寺号標が建ち、ここから長い参道が始まります。


【写真 上(左)】 総門扁額
【写真 下(右)】 石碑

しばらく行くと総門。切妻屋根銅板葺の堂々たる四脚門で寺号扁額を掲げます。
傍らには「比企能員邸址」の石碑も建っています。
「能員ハ頼朝ノ乳母比企禅尼ノ養子ナルガ 禅尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ 此ノ地比企ヶ谷ノ名アルモ之ニ基ク 能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト称シ子一幡ヲ生ム 建仁三年頼家疾ムヤ母政子関西ノ地頭職ヲ分チテ 頼家ノ弟千幡ニ授ケントス 能員之ヲ憤リ密ニ北條氏ヲ除カントハカル 謀泄レテ●ッテ北條氏ノ為ニ一族此ノ地ニ於テ滅サル」

妙本寺の総門横の七角形の建物は元塔頭大円坊で、現在は比企谷幼稚園の園舎として使用されています。


【写真 上(左)】 方丈門
【写真 下(右)】 二天門

さらに進んで方丈門。屋根付きの変わった意匠の冠木門で、門柱には「妙本寺方丈」。

方丈門をくぐった先は本堂と事務所・書院。くぐらずに正面の階段をのぼっていくと二天門とその先が祖師堂です。
日蓮宗では他宗では本堂を置くようなセンターに祖師堂を置く例が多くみられますが、こちらもその一例です。

二天門はなぜか引いて撮った全容写真がありません。すみません。
記念写真撮影の真っ最中だったので、撮影を遠慮しているうちに撮り忘れてしまいました(笑)。
なので様式がよくわからないですが、おそらく切妻屋根瓦葺朱塗りの三間一戸の八脚門で、軒高があるので楼門とも思いましたがおそらく単層門だと思います。
二天門なので、脇間に持国天と多聞天を安置しています。

中央の龍の彫刻が見どころですが、これもまったく撮れていません(泣)



【写真 上(左)】 二天門の像
【写真 下(右)】 祖師堂


【写真 上(左)】 斜めからの祖師堂
【写真 下(右)】 祖師堂の水引虹梁

祖師堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝、間数のある堂々たる構えはさすがに名刹。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
身舎軒下の斗栱も手先の多い重厚なものです。


【写真 上(左)】 祖師堂の木鼻
【写真 下(右)】 祖師堂向拝

この祖師堂まわりには比企一族の墓、一幡君の袖塚、仙覚律師の碑、源媄子(鞠子)墓などがありますが、なぜかまったく写真がありません。
ふだんから墓所の写真はあまり撮らないのですが、それにしても撮らなさすぎ。
他の紹介Webにたくさん載っているので、そちらをご覧ください。


【写真 上(左)】 日蓮聖人像
【写真 下(右)】 霊宝殿

なお、こちらの記事によると新釈迦堂は鞠子の館(竹の御所)跡地にありましたが、現在は移設され霊宝殿となっている模様。
祖師堂おく(?)の新釈迦堂跡地には石碑があるようです。

応永二十九年(1422年)、京都扶持衆の佐竹与義(さたけともよし)が、鎌倉公方足利持氏の命を受けた佐竹義人(義憲)によって討たれたとされる”佐竹やぐら”もそばにあるようです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 書院

本堂は入母屋造銅板葺で大がかりな唐破風、書院も大きな千鳥破風を置いてしっとり落ち着いた雰囲気。


【写真 上(左)】 蛇苦止堂への参道
【写真 下(右)】 蛇苦止堂

総門から参道を左にそれた奥には、妙本寺の鎮守とされる蛇苦止堂があります。
あたりは木々に囲まれ、湿った空気に包まれて別次元のようです。

境内には、若狭局が比企氏の乱で戦火から逃れるように飛び込んだとされる井戸が残ります。
蛇苦止堂は若狭局を守護神としていまも大切にお祀りされ、毎月1日(正月は2日)に例祭をつとめ、信徒と共に法華経読誦唱題が続けられています。(公式Web)

比企能員の孫で、頼家公・若狭局の娘ともみられる竹御所(鞠子、媄子)は比企氏の乱後、祖母の北条政子の保護下にあったとみられ、15歳で叔父の実朝公の御台所・西八条禅尼の猶子となりました。

源家嫡流の血が政争によりつぎつぎに途絶えていくなか、女子であった竹御所はついに頼朝公の血筋を引く唯一の生き残りとなりました。
竹御所は、源家鎌倉幕府の象徴として御家人の尊敬を集めました。

寛喜二年(1230年)、29歳で13歳の四代将軍藤原頼経に嫁いで懐妊し、頼朝公の血を継ぐ将軍誕生の期待が高まりましたが、難産の末に男児を死産し、本人も落命しました。
享年33。ついに頼朝公の直系は絶え、源家将軍は断絶しました。

もし、竹御所が無事に男児を出産していたとしたら、頼朝公の血筋は残りしかも比企系の将軍が誕生した可能性もあって、北条得宗家独裁という歴史の流れは大きく変わっていたかもしれません。


御首題、御朱印は事務所にて拝受できます。
寺格の高い寺院で、寺務所まわりも張り詰めた空気が漂っていささか緊張しますが、ご対応はとても親切なものでした。

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


31.金龍山 釈満院 宝戒寺(円頓宝戒寺)(ほうかいじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町3-5-22
天台宗
御本尊:地蔵菩薩
札所:鎌倉三十三観音霊場第2番、鎌倉二十四地蔵霊場第1番、相州二十一ヶ所霊場第1番、鎌倉・江ノ島七福神(毘沙門天)、鎌倉六阿弥陀霊場第5番、小田急沿線花の寺四季めぐり第28番

多くの霊場札所を兼ねる天台宗の名刹で、情報がたくさんあります。
まずは公式Web、現地掲示および『鎌倉市史・社寺編』を参考にご由緒・沿革の要旨をまとめてみます。

建武二年(1335年)創建。
開基は後醍醐帝、開山は天台座主五代・国師円観慧鎮慈威和上。
慈威和上は、五人の帝(後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明)の戒護師となられたので「五代国師」の号を朝廷から賜ったという名僧です。

この地は北条義時公の小町邸以来の北条執権家の邸宅で、元弘三年(1333年)北条氏滅亡後にその霊を慰め、また人材を養成修行せしめる道場として後醍醐帝が足利尊氏公に命じて建立させたという勅願寺院です。

公式Webには「慈威和上は当山を円頓大戒と天台密教(台密)の大法関東弘通の道場として戒壇院を置き」とあり、”円頓大戒”の注釈に「金剛宝戒ともいい、梵綱菩薩戒経所説の十重四十八軽戒を戒相とする大乗戒」としています。
仏教において「戒」はすこぶる重要な概念で、通常、仏教徒が守るべき行動規範や、自身を律する道徳規範をさすとされます。

霊場巡拝の勤行でもよく唱えられる「十善戒」(不殺生 不偸盗 不邪婬 不妄語 不綺語 不悪口 不両舌 不慳貪 不瞋恚 不邪見)(→智積院の公式Web)も「戒」のひとつとされます。

大乗仏教では四分律や十誦律を重視する宗派もありますが、最澄の天台教学では大乗(菩薩)戒を重視する「円頓大戒」が”学処”(学ぶべき事柄)として定められています。
『瑜伽師地論』では四重四十三軽戒が、『梵網経』では十重四十八軽戒が”学処”とされているので、「梵綱菩薩戒経所説の十重四十八軽戒を戒相とする大乗戒」という注釈が公式Webに掲載されているのだと思います。

なお、仏教教学における用語の定義はすこぶる厳格で、たとえば上記の”学処”という言葉は梵語の原典まで遡ってこのように解釈(PDF/大谷大学大学院資料)されます。
なかでも「戒」や「律」は多くの用語や概念が複雑に絡み合い、とても素人の手におえるものではないのでこのくらいにしておきます。

しかし、現代の一般人向けWebで「円頓大戒」を明記するほどですから、「大乗戒」の根本道場としての立ち位置はそれほど重要ということかと。

じっさい、公式Webには「加賀白山の薬師寺、伊豫の等妙寺、筑紫の鎮弘寺と共に遠国四箇の戒場といわれた。」「天海大僧正は(宝戒寺)天台律宗の本寺である故、寺の維持相続の保護を徳川家康公に懇願している。」とあり、天台宗屈指の戒場(戒の道場)であることがわかります。
円頓宝戒寺という寺号も、このような当山固有の沿革に由来しているとみられます。

公式Webには「二世普川国師惟賢和上は国家鎮護のため和合仏たる歓喜天尊像(聖天様)を造立し特殊なる修法を定めてひたすら鎮護国家を祈念した」とあり、聖天様ゆかりの寺院としても知られています。

『新編鎌倉志』には以下のとおりあります。

「附北條屋敷、頼経以降代々将軍屋敷(略)此地は相模入道平(北條)高時が舊宅なり。故に源(足利)尊氏、後醍醐天皇へ奏して、高時が為に葛西谷の東勝寺を遷して、北條の一族の骸骨を改め葬り。此寺を建立せり。開山は、法勝寺の長老、五代國師なり。相傳ふ五代國師は、(近江)坂本の人、諱慧鎮、慈威和上と云。圓観僧正と号す。(略)【太平記】に圓観上人と申は、元は山徒にて御座けるが、顕・密両宗の才、一山に光り有かと疑はれ、智行兼備の譽、諸寺に人無が如し。五代聖主の國師として、三聚浄戒(摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒→円覚寺公式Web)の太祖たりとあり。御相模入道、結城上野入道に預けて、奥州へ下す。開山、帝王戒師なる故に、昔し此寺にも戒壇を立たりと云。尊氏の第二男、幼して多病なりし故に、五代國師に祈祷せしめ、遂に其子を國師の弟子とし、慈源和尚と云、普川國師と号す。此寺の第二世なり。此寺昔は四宗兼學なりしが、今は天台一宗也。」 

ここには当山二世普川国師惟賢(慈源?)和尚は足利尊氏の二男という説が載せられていますが、年代的な齟齬があるため疑義も呈されています。

宝戒寺はわかっているだけで6つもの霊場の札所で、うち鎌倉二十四地蔵霊場と相州二十一ヶ所霊場は第1番(初番)という重要なポジションです。

相州(相模)二十一ヶ所霊場は「鎌倉の弘法大師霊場」といわれます。
しかし、21の札所のうち、天台宗は2、臨済宗は3、浄土宗系は4を占め、弘法大師霊場としてはややめずらしい宗派構成です。
札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

二十一ヶ所霊場は八十八ヶ所霊場の簡易版として開創されることも多いので、新四国東国八十八ヶ所霊場や相模国準四国八十八ヶ所霊場との関連を連想しましたが、前者は横浜市内メイン、後者は湘南メインで、どうもエリア的に異なるようです。
いまのところ、この霊場の開設経緯は筆者的にはわかっていないので、判明した時点で追記します。

開創経緯不詳で霊場会もないようですが、21の御朱印はすべて揃います(揃いました)。
第7番寿福寺では、ご住職との禅問答のようなやりとりの末にいただける御朱印として、一部では有名?でしたが、現在、寿福寺では御朱印授与休止、もしくは書置対応で、書置は御本尊(鎌倉五山)、鎌倉三十三観音、鎌倉二十四地蔵、鎌倉十三佛のみとの情報があるので、現時点ですべて揃うかは不明です。
また、通常は御朱印見本には掲示されず、いわゆる裏メニュー的な御朱印なので、しっかり専用納経帳での巡拝・御朱印拝受がベターな霊場かもしれません。

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【写真 上(左)】 小町大路から
【写真 下(右)】 参道入口

宝戒寺は小町大路の北側から少しく山裾に向けて入ったところにあります。
鎌倉観光のメジャースポット、鶴岡八幡宮から南下する観光客は小町通りないし若宮大路、東側の十二所方面へは雪の下~金沢街道がメインルートとなるので、宝戒寺前の小町大路はエアポケット的に観光客が少ないところです。

なので、宝戒寺は観光客の少ない比較的静かなお寺となっています。
ただし御朱印的には別で、5つの現役霊場の札所を兼ねられているので避けて通れない存在です。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道


【写真 上(左)】 門柱
【写真 下(右)】 地蔵尊霊場札所碑

小町大路からの参道はかなりの奥行き。
門柱から内は緑ゆたかで、萩をはじめとする花の寺としても知られています。
(”はぎ寺”の別称があります。)


【写真 上(左)】 本堂(夏)
【写真 下(右)】 本堂(冬)

正面が本堂で、入母屋造桟瓦葺流れ向拝の整った堂容。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
名刹にふさわしく彫刻の仕上がりはいずれも精緻です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 提灯

こちらは鎌倉ではめずらしく堂内に上げていただけ、尊格を間近で拝することができます。
子育経読延命地蔵尊(鎌倉二十四地蔵札所本尊)、仏母准胝観音(鎌倉三十三観音札所本尊)、阿弥陀如来(鎌倉六阿弥陀札所本尊)、毘沙門天(鎌倉・江ノ島七福神札所本尊)など霊場札所本尊はいずれも本堂内の御座です。(御本尊「木造地蔵菩薩坐像」は秘仏か?)

御本尊の「木造地蔵菩薩坐像」は国の重要文化財に指定され南北朝時代の作品とされています。
御本尊の御前立である立像地蔵菩薩は通称「唐佛地蔵尊」と呼ばれ、おそらくこちらが地蔵尊霊場の札所本尊かと思われます。


「唐佛地蔵尊」が札所本尊であることを示す石標

そうなると御本尊の御朱印が気になりますが、Web検索した限りでは宝戒寺の地蔵尊の御朱印はすべて地蔵尊霊場の札所印つきなので、御本尊=御前立(「唐佛地蔵尊」)=地蔵尊霊場札所本尊という扱いなのかもしれません。

准胝仏母は仏母とされ、変化観音とはみなされない場合もある特異な尊格で、ご真言は「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」。
准胝仏母は鎌倉でも数少ないので稀少な御朱印です。


【写真 上(左)】 宝篋印塔
【写真 下(右)】 鐘楼

本堂向かって左手の宝篋印塔は、北条氏ならびに鎌倉合戦東勝寺戦没者を供養する慰霊塔と伝わります。


【写真 上(左)】 大聖歓喜天堂(宝蔵殿)
【写真 下(右)】 徳崇大権現


本堂向かって右手奥の大聖歓喜天堂(宝蔵殿)は、当山二世普川国師が鎮護国家を祈念された聖天様ゆかりの堂宇とみられます。
また、本堂に掲げられた提灯には聖天様の二股大根紋と巾着袋が描かれ、このお寺と聖天様のご縁の深さを物語っています。

その手前に御鎮座の徳崇大権現は、鎌倉幕府最後の執権・北条高時公を祭祀と伝わります。
元弘三年(1333年)5月22日、新田義貞等の鎌倉攻めにより小町の邸宅(現・宝戒寺)を焼かれた北条高時公は、東方の葛西ヶ谷(現・東勝寺跡)に引き籠もり最期の反撃を試みますがついに力尽き、東勝寺の伽藍堂舎に火をかけて一族郎党とともに自害しました。

宝戒寺は滅亡した北条氏供養のために創建された寺院で、そのゆかりもあって最後の当主・北条高時公が祀られているのでは。

その手前には聖徳太子を祀る太子堂があります。
聖德太子は工芸技能者・職人の育成を図られたとされ、職人の守護神として昔から信仰されているとの由。
鎌倉市観光協会Webによると、宝戒寺の太子講は、かつては関東一円の職人を集めるほど盛んだったとのこと。


【写真 上(左)】 太子堂
【写真 下(右)】 蓮の花


御朱印は本堂内で授与いただけます。
なお、鎌倉二十四地蔵霊場第1番と相州二十一ヶ所霊場第1番は、こちらで御朱印帳を購入するか、まっさらの御朱印帳持参であれば発願印をいただけます。
(中途の頁ではいただけません。)


〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳(発願御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 相州二十一ヶ所霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳(発願御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 鎌倉六阿弥陀霊場の御朱印 〕

御朱印帳

〔 鎌倉・江ノ島七福神(毘沙門天)の御朱印 〕

御朱印帳


32.叡昌山 妙隆寺(みょうりゅうじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉・江ノ島七福神(寿老人)

妙隆寺は小町にある日蓮宗寺院です。
開山は日英上人、開基は千葉胤貞で、至徳二年(1385年)の建立といいます。

千葉胤貞(1288-1336年)は、鎌倉末期~南北朝時代の千葉氏第9代当主・千葉宗胤の長男で、下総国千田荘(現在の千葉県香取郡多古町付近)を本拠とした武将です。
千葉氏当主とはなりませんでしたが日蓮宗に深く帰依し、法華経寺の俗別当として第2代住持日高を支援、第3代住持日祐は胤貞の猶子とも伝わります。

山内掲示によると、妙隆寺のあたりは千葉氏の屋敷跡とされているそうです。

日親上人(1407-1488年/久遠成院)は室町時代の日蓮宗の僧で、上総国埴谷(千葉県山武市埴谷)の埴谷氏一族として誕生され、埴谷氏の信仰篤い中山法華経寺の日英上人の弟子となられて中山法華経寺に入られました。
応永三十四年(1427年)、21歳で当山に入り堂前の池で寒百日間、水行などの修行を積まれて第二祖となりました。

永享五年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国(現・佐賀県)へ赴きました。
佐賀県には上人ゆかりの寺院が多くあります。→ Web資料

しかし、その厳しい折伏に対し反発を受けて同流を離れ、永享九年(1437年)上洛して本法寺を開かれました。

永享十一年(1439年)『立正冶国論』を足利6代将軍義教に献じて乱れた政道を諌めたところ、これに怒った義教は日親上人を投獄し、頭に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切らせ上人の言葉を奪ってしまいました。
この鍋は終生上人の頭から取れることはなかったといわれ、後年、日親上人は『なべかむり日親』と呼ばれるようになりました。

日親上人は「不受不施義」(ふじゅふせぎ)を唱えたとされます。
「Wikipedia」には「『不受不施義』とは、日蓮による思想の1つで、不受とは法華経信者でない者から布施を受けないこと、不施とは法華経信者でない者に供養を施さないこと。」とあります。

『鎌倉市史 社寺編』には「(日親上人は)不信者の施物を受けるは謗法であると強く主張し、折伏不受、不惜身命を信念としたから、迫害も甚だしく鍋かぶりの話もその一つである。」ともあります。

「Wikipedia」では「不受不施義」と「不受不施派」を明確に区別しています。

法華宗(日蓮宗)は豊臣秀吉が命じた方広寺の千僧供養の出仕を受けるか否かで、「受不施派」と「不受不施派」に分裂したとされます。(Wikipedia)
他宗派や他宗門徒との妥協を許さずみずからの信念を貫く「不受不施」の思想は、徳川家康、ひいては徳川幕府から弾圧を受けたといいます。

「不受不施義」の系統については慶長四年(1599年)の「大阪対論」、寛永七年(1630年)の「身池対論」など、徳川家康の宗教政策や主要寺院の対応も絡んだすこぶる複雑でデリケートな経緯があり、その評価についても立場や思想により異なるようなので、これ以上は触れません。

ただし、水戸藩主・徳川光圀の命により貞享二年(1685年)に編纂刊行された『新編鎌倉志』には妙隆寺が記載され、「法華宗、中山末寺なり。」とあるので、江戸時代は法華経寺の末寺として公認されていたとみられます。
「wikipedia」によると達師法縁。)


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
妙隆寺 妙隆谷は、小町の西●にあり。叡昌山と号す。法華宗、中山末寺なり。
開山は日英。二代目は日親、堂に像あり。
日親を、異名に鍋被(ナベカブリ)上人と云。宗門に隠なき僧なりと云ふ。

『新編相模国風土記稿』(国立国会図書館DC.)
妙隆寺 叡昌山と号す、宗旨中山法華経寺末、千葉氏の起立にて開山は日英なり
二世日親は鍋被上人と異名して宗門に隠なき僧なり由

■ 山内掲示(寿老人 妙隆寺)
当山は、源頼朝の御家人・千葉常胤の子孫千葉大隅守平胤貞の旧地で至徳二年(1385年)七堂伽藍を建立し妙親院日英上人を迎えて開山しました。応永三十四年(1427年)の冬第二祖久遠成院日親上人は廿一才の時に当山に来られ堂前の池で寒百日間、水行などの修行を積み、永享十一年(1439年)京都へ上り『立正冶国論』の一書を足利六代将軍義教に献して政道を諌めようとしましたが、これを怒った義教は日親を投獄し、陰惨な拷問でも屈しない日親の頭に灼熱の鍋をかぶせ舌端を切らせ日親の言葉を奪ってしまいました。後年『なべかむり日親』と呼ばれるように成りました。

■ 山内掲示(鎌倉市)
この辺り一帯は、鎌倉時代の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。
第二祖の日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい『立正治国論』で室町幕府六代将軍・足利義教の悪政を戒めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」とよばれました。
本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。


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鎌倉駅にもほど近い、小町大路に面してあります。
「日蓮上人辻説法跡」にもほど近いところです。


【写真 上(左)】 日蓮上人辻説法跡
【写真 下(右)】 日蓮上人辻説法跡の碑


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 門前のお題目碑

小町大路から石畳の長い参道が伸び、切妻屋根銅板本瓦棒葺の山門(四脚門?)があります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寿老人堂と本堂

山門をくぐると向かって右手に寿老人のお堂があります。
堂宇本尊のケヤキ一本造りの寿老人像は、鎌倉・江ノ島七福神の一尊です。


【写真 上(左)】 寿老人のお堂
【写真 下(右)】 行法御池之霊跡

寿老人堂の奥手が、日親上人が寒中、百日間水行をした池と伝わる「行法御池之霊跡」です。

本堂前にはお題目碑。


【写真 上(左)】 お題目碑
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造銅板本瓦棒葺流れ向拝。
屋根中央に大がかりな千鳥破風、向拝に軒唐破風を配して風格があります。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置き、見上げに山号扁額を掲げています。


御首題は本堂向かって左の授与所にて拝受しました。
鎌倉・江ノ島七福神の寿老人の御朱印も授与されています。

〔 御首題 〕



以下、つづきます。


33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)


34.長慶山 正覺院 大巧寺(たいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
単立
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


35.妙厳山 本覚寺(ほんがくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)



【 BGM 】
■ New Frontier - Donald Fagen


■ On And On - Angela Bofill


■ Next To You - Dan Siegel feat. Kenny Rankin
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■ 御朱印の読み方

寺院の御朱印では、ふつうは御本尊や札所本尊の尊格名が揮毫されることが多いです。
この場合は、仏教の尊格の知識があればとくに問題なく解読できます。

ところが、御朱印には尊格に文字が付加されたり、まったく異なる字句(文字)が揮毫されることがあります。
そこで、今回はそのような例をあげてみます。

それぞれの字句(文字)については、それぞれ深い意味があるのでじっくり調べてから追記することとし、まずは事例メインにあげてみます。

なお、日蓮宗、法華宗系寺院で授与される御首題・お題目(南無妙法蓮華経)は「御朱印」ではありません。


■ 御寶号・ご宝号(ごほうごう)
南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)

真言宗でもっとも重要とされるお唱えです。
「南無」は梵語で「ナマス」。帰依、帰命、敬礼などを意味します。
「大師」は、お大師さま(弘法大師空海)。
「遍照金剛」は、お大師さまが師の恵果阿闍梨よりいただいた「密号」というお名前です。
真言宗智山派総本山智積院資料

真言宗寺院では比較的よく授与されますが、揮毫は「遍照金剛」ないし「南無遍照金剛」となる場合が多いようです。
他宗でも、弘法大師霊場の札所寺院では授与されることがあります。

 
【写真 上(左)】 高野山 東京別院(高野山真言宗/港区高輪)
【写真 下(右)】 大悲山 塩船観音寺(真言宗醍醐派/東京都青梅市)


■ 六字御名号(ろくじごみょうごう)
南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛(なむあみだぶつ)

浄土宗、時宗、真宗など、浄土教系で奉じられる名号です。
「南無」は梵語で「ナマス」。帰依、帰命、敬礼などを意味します。
阿弥陀仏(阿弥陀如来)に帰依するとの意です。

浄土宗、時宗、真宗寺院でよく授与される揮毫です。

 
【写真 上(左)】 三縁山 増上寺(浄土宗/港区芝公園)
【写真 下(右)】 藤沢山 清浄光寺(遊行寺)(時宗/神奈川県藤沢市)

この他、御名号は九字御名号、十字御名号などがあります。
九字御名号(南無不可思議光如来)は真宗系の御朱印(参拝記念)で授与されることがあります。


寿徳山 萬榮寺(真宗大谷派/北区田端)

十字御名号(帰命尽十方無碍光如来)の授与例は少ないようですが、「光雲無碍(こううんむげ)」として揮毫授与される例はあります。

 
【写真 上(左)】 東本願寺(浄土真宗東本願寺派/台東区西浅草)
【写真 下(右)】 牛久大佛(浄土真宗東本願寺派/茨城県牛久市)


■ 本尊唱名(ほんぞんしょうみょう)
南無釈迦牟尼佛 南無釋迦牟尼佛(なむしゃかむにぶつ)

禅宗系の宗派本尊、釈迦牟尼佛に帰依するとの意です。

禅宗、とくに曹洞宗、臨済宗寺院でよく授与される揮毫です。
御本尊が釈迦牟尼佛でない禅刹でも、宗派本尊として授与される場合があります。

 
【写真 上(左)】 金鳳山 平林寺(臨済宗妙心寺派/埼玉県新座市)
【写真 下(右)】 大平山 大中寺(曹洞宗/栃木県栃木市)


■ 無量寿(光)殿(むりょうじゅ(こう)でん)

阿弥陀仏(阿弥陀如来)の梵号は「アミターユス」「アミターバ」で、「アミターユス」は「量りしれないいのち(寿)をもつ者」、「アミターバ」は「量りしれないひかり(光)をもつ者」を意味します。
よって、阿弥陀仏(阿弥陀如来)を無量寿仏・無量光仏とあらわす場合があります。

「殿」は尊格が御座(おわ)すところ、仏殿・仏堂を意味します。
総本山知恩院布教師会Web

天台宗寺院、真言宗寺院などでときおり授与される揮毫です。

 
【写真 上(左)】 走湯山 般若院(高野山真言宗/静岡県熱海市)
【写真 下(右)】 浮岳山 深大寺(天台宗/東京都調布市)


■ 瑠璃(光)殿(るり(こう)でん)

薬師如来(薬師瑠璃光如来)をあらわします。
薬師如来は東方浄瑠璃(光)浄土の教主とされ、「瑠璃」が象徴語です。
「瑠璃光」がつかわれる場合もあります。

比較的幅広い宗派の寺院で授与される揮毫です。

 
【写真 上(左)】 東叡山 寛永寺(天台宗/台東区上野公園)
【写真 下(右)】 三療山 薬王寺(真言宗御室派/横浜市金沢区)


■ 大雄宝殿(だいゆうほうでん)

禅宗系の本堂をいいます。
禅宗系寺院の御本尊は釈迦牟尼佛が多いので、間接的に釈迦牟尼佛をあらわす場合もあります。

とくに黄檗宗寺院の御朱印で目立つ揮毫です。

 
【写真 上(左)】 牛頭山 弘福寺(黄檗宗/墨田区向島)
【写真 下(右)】 錦屏山 瑞泉寺(臨済宗円覚寺派/鎌倉市二階堂)


■ 大悲殿/大悲閣(だいひでん/だいひかく)

御朱印をいただきはじめて、まず??マークがつくのがおそらくこの揮毫です。
「悲」というインパクトのある文字が入るので、気になります。

「大悲」とは観世音菩薩(観自在菩薩)の別名です。
Wikipediaには、『観世音菩薩普門品』(観音経)は「観音菩薩の力を信じ、慈悲の心を信じ、その名を唱えれば、観音菩薩に救われることが書かれた経文」とあり、「大悲」は観世音菩薩の慈悲の心をあらわすことばとされます。

「殿」は尊格が御座す仏殿・仏堂、「閣」も同様ですが「閣」は「殿」よりも高い建物をあらわすようです。
つまり「大悲殿」「大悲閣」は観音さまの御座す仏殿・仏閣をあらわすことになります。

幅広い宗派で授与されますが、とくに観音霊場の御朱印で多用されるようです。

 
【写真 上(左)】 荒神山 龍昌寺(真言宗智山派/埼玉県熊谷市)
忍秩父三十四観音霊場第1番
【写真 下(右)】 補陀山 普門寺(曹洞宗/山梨県都留市)
郡内三十三番観音霊場第1番

 
【写真 上(左)】 功臣山 報国寺(臨済宗建長寺派/鎌倉市浄明寺)
鎌倉三十三観音霊場第10番 聖観世音菩薩を示す例
【写真 下(右)】 大蔵山 杉本寺(天台宗/鎌倉市二階堂)
坂東三十三箇所(観音霊場)第1番 十一面観世音菩薩を示す例


■ 圓通閣/圓通殿(えんつ(づ)うかく/えんつ(づ)うでん)

「圓通」も観世音菩薩(観自在菩薩)の別名とされます。
横浜市鶴見区の曹洞宗 醫王山 成願寺のWeb「今月の禅語・当寺所蔵」の2019年7月の項には以下のとおりあります。

作者:總持寺 第5世 新井石禅禅師 書
出典:
題名:圓通「えんづう」
意味:「周圓融通」円満、円成にして神通、通力をさす。聖者所証の理。

Webで「周圓融通」を検索してみると、「智慧によって悟られた絶対の真理は、あまねくゆきわたり、その作用は自在であること。また、真理を悟る智慧の実践。」という定義が複数みつかります。
おそらく孫引きと思われるので原典があるはずですが、いまのところ不明です。
(重要な仏教経典とされる『首楞厳経』(しゅりょうごんきょう)では、「圓通」について能く説かれているとされます。)

京都市北区鷹峯北鷹峯町の源光庵は「悟りの窓」と「迷いの窓」で有名ですが、公式Webの「悟りの窓」の説明には「悟りの窓の円型は『禅と円通』の心を表し」とあります。

「圓通大士」をぐぐると、「円満融通の菩薩 の意、観世音菩薩の異称。」という説明がヒットします。(goo辞書)

八王子市の曹洞宗 皎月院の公式Webの『大悲呪』の説明に「千手千眼を持つ観自在菩薩(観世音菩薩、観音さま)の広大無辺・無量円満・無礙融通なる大慈悲心を表した陀羅尼です。」とあります。

Wikipediaには、『大悲呪』(大悲心陀羅尼)とは「『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』に含まれているため千手観音の陀羅尼として知られているが、(略)主に禅宗で広く読誦される。」とあります。

「圓通」と観音さまの結びつきをみるとき、「周圓融通」よりも「大悲呪」(無量円満・無礙融通)の方がより観音さまに絞られているような気がしますが、「圓通」系の御朱印は千手観世音菩薩以外にも使われ、しかも禅刹以外でも授与されるので、さらに混沌としてきます。

ともあれ、「圓通閣」「圓通殿」はふつう観音堂の意で用いられ、観音堂の扁額に掲げられることもめずらしくありません。
「円通閣」「円通殿」と揮毫されることもあります。

 
【写真 上(左)】 白華山 観音寺(真言宗系単立/群馬県藤岡市)
【写真 下(右)】 慈雲山 逢善寺(天台宗/茨城県稲敷市)

 
【写真 上(左)】 飛渕山 龍石寺(曹洞宗/埼玉県秩父市)
千手観世音菩薩の例
【写真 下(右)】 大悲山 塩船観音寺(真言宗醍醐派/東京都青梅市)
山号との複合例


■ 大光普照/大光普照殿(だいこうふしょう/だいこうふしょうでん)

レファレンス協同データベース(香川県立図書館)には「そもそも、六観音信仰は、六世紀に中国の天台大師智顗が『摩訶止観』で展開した説にはじまります。大師は書中で、大悲・大慈・獅子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深遠の六観音を説きました。」とあります。

六観音とは六道それぞれの衆生を救う六尊の観世音菩薩で、Webでググった結果、天台大師智顗の六観音と現在の六観音、そして六道との間にはおそらく以下の関連があります。

大悲:聖観世音菩薩:地獄道
大慈:千手観世音菩薩:餓鬼道
獅子無畏:馬頭観世音菩薩:畜生道
大光普照:十一面観世音菩薩:修羅道
天人丈夫:准胝観世音菩薩(or 不空羂索観世音菩薩):人間道
大梵深遠:如意輪観世音菩薩:天道/天上界

仏教では、衆生は生死を繰り返しながら六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界)を彷徨いつづけるとされます。
これが六道輪廻です。
極楽往生を遂げるとは、この六道輪廻から抜け出すことをいいます。

六道のうち、最上の天上界は人間道より上の世界で、「苦しみがほとんどない世界」とされます。
凡人には、このような世界から救われるというイメージはなかなか湧きにくいですが、とにかくそういうことになっています。

「苦しみがほとんどない世界」(天上界)といえども依然として六道輪廻のなかにありますから、行いによっては他の世界に生まれかわる可能性はあるわけで、真の救いはやはり六道輪廻から脱けだす極楽往生ということになるのかと。

諸説ありますが、衆生は死後、閻魔大王を含む十回の裁きを受けて来世の道(六道のいずれか)が決まるといいます。
人間道は上から二番目のポジションで、行いが悪ければ修羅道~地獄道、行いがよければ人間道、あるいは天上界が来世ということになります。

しかし、いずれにしても六道輪廻のなかですから、衆生が六道輪廻から抜け出すのは容易ではないようにも思われます。
これを超越するスペシャルなコースが、いわゆる「御来迎」です。

これは臨終の際に、極楽浄土から教主の阿弥陀如来みずからが観世音菩薩、勢至菩薩を従えて地上まで迎えにこられるというものです。
「御来迎」は臨終から極楽への直行コースですから、裁きを受けることなく六道を抜けて極楽往生ということになります。

阿弥陀聖衆来迎図(文化遺産オンライン)

「御来迎」は、”利他”を極めた生涯を送った人に訪れるものだそうです。
たとえば自らを犠牲にして多くの人々を救ったなどが、これにあたるとも思いますが、そのような人はごくごく一部ですから、やはり煩悩を抱えるふつうの人々は六道を彷徨うこととなります。


”忘己利他”の碑(延生山 城興寺(天台宗/栃木県芳賀町))

□ 松任谷由実 - 守ってあげたい

恋愛、子育てや肉親の介護も”利他”を含むと思うが、「御来迎」を招くほどの”利他”は、もっとパブリックなものでは?
(1981年リリースのヒット曲。人々のきもちや社会の空気に余裕のあったこの頃は、いまより”利他”の意識が高かったかもしれぬ。)



しかし、救いはあるもので、どの道にあろうとも救いの手を差し伸べてくださる存在がおられます。
それが六地蔵、六観音です。

六地蔵は六道それぞれの衆生の苦悩を救済するとされ、六観音は六道それぞれ、ないし六道輪廻から衆生を救うとされます。
「六道輪廻から救う」ということは極楽往生を意味しますから、これは究極の救済ともみられます。(このあたりの解釈は宗派によって異なるようです。)

観世音菩薩はこのような「浄土への救済」(極楽往生)を施す存在なので、観音信仰が遍く広まったという見方もあります。

はなしが逸れました。
さて、↑ によると「大光普照:十一面観世音菩薩」ですから、大光普照殿とは十一面観世音菩薩の御座す仏殿をさすことになります。
じっさい、「大光普照」あるいは「大光普照殿」の御朱印を授与される寺院の多くは十一面観世音菩薩をメインに安しているようです。

現世での10種類の利益(十種勝利)と来世での4種類の果報(四種功徳)をもたらすとされる強力な観音さまです。

 
【写真 上(左)】 金鑚山 大光普照寺(天台宗/埼玉県神川町)
【写真 下(右)】 青苔山 法長寺(曹洞宗/埼玉県横瀬町)


■ 阿遮羅殿(あしゃらでん)

「阿遮羅」とは不動明王の梵名「acalanātha(アチャラナータ)」の漢字表記で、不動堂を阿遮羅殿と記す場合があります。
こちらはなかなかレアな揮毫で、筆者はこれまでわずか2例(いずれも真言密寺)しか拝受しておりません。

 
【写真 上(左)】妙池山 實相寺(真言宗豊山派/群馬県板倉町)
【写真 下(右)】八幡山 観音寺(真言宗智山派/横浜市港北区)

北区滝野川の本智院(真言宗智山派)の不動明王が御座す堂宇の扁額には「阿遮羅尊」とあります。
また、荒川区東尾久の蓮華寺(真言宗豊山派)は、不動明王を御本尊とする寺院で、山号を「阿遮羅山」、院号を「阿遮院」と号します。

 
【写真 上(左)】 本智院の扁額
【写真 下(右)】 蓮華寺(阿遮院)の御朱印
御朱印尊格は「不動明王」です。


■ 蓮華王/蓮華王殿(れんげおう/れんげおうでん)

「蓮華王」とは、千手観世音菩薩をさす揮毫です。

千手観世音菩薩は、千手千眼観世音菩薩(観自在菩薩)、十一面千手千眼観世音菩薩などとも呼ばれ、六観音の一尊に数えられます。
梵名の「sahasrabhuja/サハスラブジャ」は「千の手を持つもの」の意で、三昧耶形は開蓮華、蓮華上宝珠。

実際に千以上の手を持たれる像例もありますが、一般には十一面四十二臂で、うち「真手」といわれる二本の手は衆生救済のため四十の功徳をあらわされるといいます。
真手以外の四十本の手は、一本の手でおのおの二十五の苦しみや災難を救う功徳があるといわれ、40×25=1,000で千手をあらわすといいます。
掌に眼をもたれることから「千眼」の名が付されることがあります。

別名「蓮華王」を称されることについては、Web検索すると「胎蔵界曼荼羅で観音が配置される場所を『蓮華部』というが、千手観音はその中でも『蓮華王菩薩』と称される最高位の存在」という記述がかなり見つかります。

しかし高野山霊宝館資料文化庁Web資料『胎蔵マンダラ虚空蔵院の思想』(八田幸雄氏(PDF))などの諸資料をみても、千手千眼観世音菩薩は胎蔵(界)曼荼羅の「虚空蔵院」に位置しています。
なので「蓮華王」といういう名称は、三昧耶形である開蓮華、蓮華上宝珠からきているものと思われます。

「蓮華王」の御朱印授与例は多くはありません。
筆者がこれまでいただいた例はいずれも古義真言宗(高野山真言宗)寺院ですが、1,001躯の千手観世音菩薩立像を御本尊とする京都・東山の三十三間堂(天台宗)は別名を「蓮華王院」といい、天台宗寺院でも授与されている可能性があります。
※Web検索によると三十三間堂の御朱印の揮毫は「大悲殿」のようです。

 
【写真 上(左)】海照山 圓應寺(高野山真言宗/横浜市港北区) 
【写真 下(右)】吉利倶山 光照寺(高野山真言宗/栃木県那珂川町)


以下、つづきます。


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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6

Vol.-5からのつづきです。


■ 第20番 御行の松不動堂(時雨岡不動堂)
(おぎょうのまつふどうどう/しぐれおかふどうどう)
台東区根岸4-9-5
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:(金杉村)福生院
他札所:

第20番札所は荒川区東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)です。
当初の第20番札所は上野の東叡山 寛永寺 一乗院で、明治期の上野駅建設に伴い廃寺となったため、第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に異動と伝わります。

この情報によると一乗院は東叡山 寛永寺の塔頭寺院とみられ、宗派は天台宗です。
どうして御府内二十一ヶ所霊場に1箇寺だけ天台宗寺院が入っているのかは疑問です。
また、天台宗寺院から真言宗寺院への札所承継も異例では?

『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺版木』(台東区教育委員会刊)のP.85には『東都八十八ヶ所』内『御府内二十一所項』を原典として、「第20番 一乗院(廃寺、台東区上野)」との記載があります。

一方、『寺社書上』『御府内寺社備考』には、下記のとおり「下谷上野町」に真言宗寺院の「薬王山 一乗院」が記載されています。
(なお、「薬王山 一乗院」でWeb検索しても、それらしき寺院はヒットしません。)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』下谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
↑『江戸切絵図/下谷絵図』にはふたつの「一乗院」がみえます。

『寺社書上 [115] 下谷寺社書上 壱』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.86』
芝愛宕眞福寺末 下谷上野町
新義真言
薬王山一乗院 境内拝領地百拾四坪
寛永五年(1628年)起立
本堂
 如意輪観音坐像
薬師堂
 薬師如来座像 丈九尺弘法大師作
聖天堂
 聖天金天浴像
 同本地佛 十一面観音 行基菩薩作丈四寸
開山祐照法印(江戸期)

『寺社書上』には、(薬王山)一乗院の項に「御府内十二ヶ所第八番 身代薬師如来畧縁起」があり、弘法大師との所縁が詳細に記されています。

文政年間(1818-1830年)かそれ以前に開創の御府内十二薬師霊場という薬師霊場があったらしいですが、ほとんどの札所が不明となっている模様。
ただし、第6番が本所の弥勒寺(川上薬師)、第8番が一乗院という記録があり、一乗院を天台宗(東叡山 寛永寺 一乗院)とする記録があるようです。
しかし、『寺社書上』には、御府内十二薬師霊場第8番は新義真言宗の薬王山 一乗院と明記されています。

以上からすると、御府内二十一ヶ所霊場第20番は下谷上野町の新義真言宗薬王山一乗院で、こちらがなんらかの理由で廃寺となり、第20番札所は東尾久の真言宗智山派、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)に承継された可能性があります。

一乗院の本寺・愛宕眞福寺は真言宗智山派総本山・智積院の別院ですから、真言宗智山派内での札所承継は自然な流れです。

以上、憶測めいた記事を書きましたが、ともかくも現在の第20番札所は東尾久の御行の松不動堂(時雨岡不動堂)となっており、こちらは現在無住なので第11番札所の根岸・西蔵院の管理下に入っています。

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御行の松不動堂(時雨岡不動堂)については、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』に記載がありますが、由来については諸説あり的な書きぶりです。


根岸の寺院と御行の松の位置図(現地掲示より)


時雨岡不動堂
『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)


初代御行の松(現地掲示より)


戦前の不動堂(現地掲示より)


現地で入手した資料『根岸 御行の松』(御行の松不動講編)では史料類を詳細に拾い紹介、山内にも詳細な掲示類がありますので、併せて要点を書き出してみます。

・初代「御行の松」は時雨の松または大松とも呼ばれ、下谷区中根岸町五十七番地(現台東区根岸四丁目七番)不動堂にあった。
・現在の松は三代目・四代目。初代(昭和三年夏頃に枯れ死、五年に伐採、天然記念物に指定されていた)は樹齢三五0年位と推定される。
・『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』にも記され、詩歌、俳句、絵図にも著され古くから極めて名高い黒松の銘木。
・「御行の松」の由来は、弘法大師、源頼義、源頼朝諸説あるが、(初代の樹齢四百年位からすると年代的に符号しない。
・「御行の松」と称えたのは宝暦(1751-1764年)以降の事らしい。これは輪王寺の宮が寺社巡拝の折りこの松のそばで休憩されたのを、里人が宮様の御行のお休みの松という意味で「御行の松」と称したことに由縁ともいう。(一説に輪王寺宮が行法を修されたとも。)
・「時雨の松」については、『廻國日記』(文明十八年(1486年)出立の東国紀行)の著者・聖護院門跡道興准后が浅草の石浜から上野へ向かわれる途中、松原にさしかかったところにわかに時雨が降り出したので大松の下で雨宿りをなされ、その時
 霜ののちあらはれにけり時雨をば 忍びの岡の松もかいなし
と詠まれたことに因むという。
・史料類には「不動堂は福生院持」とあり、福生院は御行の松のそばにあったが上野桜木町に遷り、明治維新数年前に廃寺となった。
・御行の松不動堂の御本尊は子供の「虫封じ」に霊験あらたかで、参詣者が多かった。
ことに毎月28日のご縁日は露天商も出て賑わった。
・東京大空襲で伽藍を焼失、西蔵院主と有志により仮堂が建立され、昭和34年に現在の堂宇を建立。
・戦後、初代の松の根を地中から掘り出し、この根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院の境外仏堂となり現在に至る。現在は西蔵院と地元の不動講の人々により護持されている。

『江戸名所図会』には「忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ」とあります。
また、資料『根岸 御行の松』では「御行の松」の命名の由来が輪王寺宮にあるという故事を紹介しています。

このような史料・故事から、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は東叡山、輪王寺(天台宗)とゆかりありとみられ、上野にあった東叡山 寛永寺 一乗院から第20番札所を承継したという見方が生まれたのかもしれません。

しかし、『新編武蔵風土記稿』は(金杉村)不動堂の項で「時雨岡不動ト号ス 福生院持」と明記しています。
福生院については「出羽國湯殿山大日坊末」と記しており、湯殿山大日坊は真言宗です。

この点からみても、御行の松不動堂(時雨岡不動堂)は真言宗で、同じ真言宗の薬王山 一乗院から第20番札所を承継したとみるほうが自然な感じがします。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)不動堂
時雨岡不動ト号ス 縁起ハ御行松ノ下ニ出ス 福生院持

(金杉村)御行松
堂傍ニアリ高サ二丈余周囲三●ニ呼フ 或ハ大松トモ呼 舊井アリ洗垢離ノ水ト云 此松ニツキサマ々々ノ説アリ 弘法大師此地ニテ大日不動ノ修法ヲ行セリト 或ハ康平ノ頃(1058-1065年)源頼義 治承ノ頃(1177-1181年)源頼朝等ノ故事及文覚行ヲナセシ所託云伝フ 元来此所ハ福生院の舊地ニテ 世代ノ墳墓今モ此所ニアリ 先ノ年岡田安兵衛ト云モノ先祖左衛門カ襟掛及文覚カ作レル不動ヲ石櫃ニ納メ 此松ノモトニ埋メ 上ニ石像ノ不動ヲ置シカ 其子孫安兵衛宝暦中(1751-1764年)先祖ノ遺書等ノ入シ一櫃ヲ再ビ彼襟掛不動ノ入シ石櫃ノ内ニ蔵メ 新ニ大像ノ石不動ヲ建立シ 境内頗ル景致ヲナセシニ 故アリテ廃却セラレ 石像ノミ松根ニアリシテ 文化三年(1806年)貞照トイヘル比丘尼本願トナリ 公ニ乞奉リ 不動堂ヲ建立シテ松根ノ不動ヲ遷シテ安スト云

(金杉村)福生院
同宗(真言宗)出羽國湯殿山大日坊末 今其山ノ役寺ナリ
本尊大日 当寺元和九年(1623年)マテハ村内御行松ノ辺ニアリ 開山満海寛永五年(1628年)寂ス アル時東照宮寺領ヲ賜ハルヘシト仰セアリシカ 満海出家ハ三衣一鉢ニテ足レリトテ辞シ奉リケレハ 御威マシマシケリト云

『江戸名所図会 7巻 [17]』(国立国会図書館)
同所(根岸の里)庚申塚といへるより三四丁艮の方 小川の傍にあり
一株の古松のあとに不動尊の草堂あり 土人此松を御行の松と号
一小 時雨の松ともよへり
按に忍の岡といへるハ東叡山の旧名なり 此地も東叡山より連綿たれハ回國雑記に出るところの和歌の意をとりて後世好事の人の号けし●らんか



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りはJR「鶯谷」駅で東に徒歩約10分。
「鶯谷」駅は坂の途中にあり、西側は上野の高台の寺社地で御朱印エリア、東側は台地下の根岸・東日暮里エリアでメジャーな御朱印エリアではありません。

根岸柳通りの「根岸四丁目」交差点の1本北側の交差点に面しています。
駐車場はありませんが、すぐそばにコインパーキングがあります。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 門柱

門柱には「御行之松」「不動尊」と刻まれ、参道正面に不動堂がみえます。
参道左手手前にある「狸塚」は、美女・お若さんと、美男・伊之助の恋の悲話(古今亭志ん朝の噺、円朝作「お若伊之助」)を伝えるものです。


【写真 上(左)】 狸塚
【写真 下(右)】 正岡子規の句碑

正岡子規をはじめいくつかの句碑は、「御行の松」が当地の名所であることを伝えています。

紅梅に琴の音きほふ根岸かな(子規)
薄緑お行の松は霞みけり(子規)


山内掲示には「此地ハ上野山の北陰ニテ自ラ幽邃閑雅ナレバ 都下ノ士民多くコヽニ別荘ナド設ケテ 文政天保ノ頃ハ最も盛ニテ 天保六年(1835年)ノ諸家人名録ヲ見レバ 此地ニ住セル文人ノミニテ三十名モアリ」とあり、文政天保ノ頃(1818-1844年)の根岸あたりは、御府内有数の文壇サロンの地となっていたことがわかります。

彼らが地元の銘木「御行の松」を句に詠み詩にうたい、「御行の松」の名声を高めていったのではないでしょうか。



【写真 上(左)】 御行松不動尊之碑
【写真 下(右)】 御行の松

「御行の松」碑の手前の枝振りのよい松が4代目、本堂側の松が3代目のようです。
その間には初代の松の根が覆堂のなかに安置されています。
霊木として崇められた初代の松は伐採後西蔵院で供養されていましたが、この霊木の根をもって三木貞雄氏が不動尊像を彫り上げられました。



【写真 上(左)】 初代・御行の松と石碑
【写真 下(右)】 初代・御行の松

山内掲示類によると、1956年(昭和31年)、御行の松に縁が深い寛永寺から新たな松(2代目)が送られたが間もなく枯れてしまいました。

1976年(昭和51年)に植えられた3代目は盆栽仕様で”大松”のイメージがうすいため、2018年(平成30年)御行の松不動講を中心とする地元有志により4代目の松が植樹されたといいます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝とみられますが、変形の宝形造かもしれません。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股と小規模ながら整った意匠です。向拝中央と左右に「御行の松不動尊」の提灯を掲げ、硝子格子の扉のうえに「不動尊」の扁額を置いています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額


【写真 上(左)】 大提灯
【写真 下(右)】 御真言

不動堂内には現在、宝暦年中(1751-1764年)に文覚上人手彫りの石櫃の一寸八分の不動尊、石像の不動尊、初代御行の松の根から彫刻された不動尊が奉安されているとみられます。

堂内を拝すると、護摩壇の向こうの御内陣には石像と木像の二體の不動尊が御座されていました。

不動講の資料『根岸 御行の松』の気合いが入った編集、山内のさまざまな掲示類からも、御行の松と不動尊が地元有志により大切に護持されていることがわかります。


御行の松不動堂の御朱印授与につき護持寺院の西蔵院にてお伺いしましたが、不授与とのことでした。

不動講発行の資料『根岸 御行の松』の表紙を載せておきます。




■ 第21番-1 宝林山 大悲心院 霊雲寺
(れいうんじ)
文京区湯島2-21-6
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部(界)大日如来
札所本尊:両部(界)大日如来
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第28番、江戸八十八ヶ所霊場第28番、大東京百観音霊場第22番、御府内二十八不動霊場第27番、秩父写山の手三十四観音霊場第1番、弁財天百社参り番外28、御府内十三仏霊場第12番
司元別当:
授与所:寺務所

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9 をベースに再編しています。

第21番はふたつあるようです。
ひとつめは、真言宗霊雲寺派総本山の霊雲寺です。
『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに第28番札所は霊雲寺となっており、御府内霊場開創時からの札所であったとみられます。

現地掲示、下記史料、文京区Web資料東京国立博物館Web資料などから、縁起・沿革を追ってみます。

霊雲寺は、元禄四年(1691年)浄厳覚彦和尚による開山と伝わります。
浄厳和尚は河内国出身の真言律僧で新安祥寺流の祖。
霊雲寺を語るうえで法系は欠かせないので、『呪術宗教の世界』(速水侑氏著)およびWikipediaを参照してまとめてみます。

真言密教は多くの流派に分かれ、「東密三十六流」とも称されました。
その主流は広沢流(派祖:益信)・小野流(派祖:聖宝)とされ、「野沢十二流・根本十二流」と称されました。

小野流は安祥寺流、勧修寺流、随心院流、三宝院流、理性院流、金剛王院流の六流で、とくに安祥寺流、勧修寺流、随心院流を「小野三流」といいます。
浄厳和尚はこのうち「安祥寺流」を承継、「新安祥寺流(新安流)」を興されたといいます。

浄厳和尚は慶安元年(1648年)高野山で出家され、万治元年(1658年)南院良意から安祥寺流の許可を受けて以降、畿内で戒律護持等の講筵を盛んに開かれました。
元禄四年(1691年)、徳川五代将軍綱吉公に謁見して公の帰依を受け、側近・柳沢吉保の援助もあって徳川将軍家(幕府)の祈願所として湯島に霊雲寺を建立。

『悉曇三密鈔』(悉曇学書)、『別行次第秘記』(修行に関する解説書)、『通用字輪口訣』(意密(字輪観)の解説書)などの重要な著作を遺され、近世の真言(律)宗屈指の学徳兼備の傑僧と評されます。

浄厳和尚は霊雲寺で入寂されましたが、霊雲寺は将軍家祈願所であるため、みずから開山された塔頭の池之端・妙極院が墓所となっています。

浄厳和尚、そして霊雲寺を語るとき、「真言律宗」は外せないのでこれについてもまとめてみます。(主にWikipediaを参照)

真言律宗とは、真言密教の出家戒・「具足戒」と、金剛乗の戒律・「三昧耶戒」を修学する一派とされ、南都六宗の律宗の精神を受け継ぐ法系ともいわれます。

弘法大師空海を高祖とし、西大寺の叡尊(興正菩薩)を中興の祖とします。
叡尊は出家戒の授戒を自らの手で行い(自誓授戒)、独自の戒壇を設置したとされます。
「自誓授戒」は当時としては期を画すイベントで、新宗派の要件を備えるとして「鎌倉新仏教」のひとつとみる説さえあります。

■ 日本仏教13宗派と御朱印(首都圏版)

真言律(宗)は当時律宗の新派とする説もあったとされますが、叡尊自身は既存の律宗が依る『四分律』よりも、弘法大師空海が重視された『十誦律』を重んじたため、真言宗の一派である「西大寺流」と規定して行動していた(Wikipedia)という説もあるようです。

以降、律宗は衰微した古義律、唐招提寺派の「南都律」、泉涌寺・俊芿系の「北京律」、そして西大寺系の「真言律(宗)」に分化することとなります。

叡尊の法流は弟子の忍性が承継し、忍性はとくに民衆への布教や社会的弱者の救済に才覚を顕したといいます。
鎌倉に極楽寺を建立したのは忍性です。

叡尊・忍性は朝廷の信任篤く、諸国の国分寺再建(勧進)を命じられたとされ、元寇における元軍の撃退も叡尊・忍性の呪法によるものという説があります。

江戸初期、西大寺系の律宗は真言僧・明忍により中興され、この流れを浄厳が引き継いで公に「真言律(宗)」を名乗ったといいます。

霊雲寺は「将軍家祈願所」であるとともに、関八州真言律宗総本寺を命じられ、御府内屈指の名刹の地位を保ちました。

明治5年、明治政府による仏教宗派の整理により、律宗系寺院の多くは真言宗に組み入れられましたが、その後独立の動きがおこり、西大寺は明治28年に真言律宗として独立しています。

真言律(宗)であった霊雲寺が真言宗霊雲寺総本山となった経緯はオフィシャルな資料が入手できず詳細不明ですが、Wikipediaには「昭和22年(1947年)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。」とあるので、戦後、江戸期に47を数えた末寺とともに独立したとみられます。

霊雲寺を「将軍家祈願寺」としてみるとき、興味ぶかい事柄があります。

真言律(宗)は、もともと民衆への布教・救済と国家鎮護という二面性をもった宗派でした。
とくに、元寇の戦捷祈願に叡尊・忍性が関与したとされることは国家鎮護の面での注目ポイントです。

元寇の戦捷祈願には、大元帥明王を御本尊とする大元帥法が修されたとも伝わります。
もともと大元帥法は国家鎮護・敵国降伏を祈って修される法で、毎年正月8日から17日間宮中の治部省内で修されたといいます。
のちに修法の場は醍醐寺理性院に遷された(江戸期に宮中の小御所に復活)ともいいますが、国家、朝廷のみが修することのできる大法とされています。

一方、霊雲寺の大元帥明王画像について、『御府内寺社備考』には「御祈祷本尊大元帥明王之画像 常憲院様(綱吉公)御自画と(中略)鎮護国家之御祈祷」とあります。

大元帥明王の画像を綱吉公みずからが描かれ、こちらを御本尊として鎮護国家を祈祷したというのです。
しかも大元帥明王が御座される御祈祷殿には、東照大権現も祀られています。
つまり、霊雲寺の御祈祷殿では大元帥明王と東照大権現に鎮護国家が祈祷されていたことになります。

しかも『御府内八十八ケ所道しるべ』には御府内霊場の拝所として「太元堂 灌順堂 本尊太元明王」と明記されています。


出典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

旧来、国家鎮護の大法・大元帥法の御本尊である大元帥明王は厳重に秘すべき存在でしたが、江戸時代になると、そこまでの厳格さは失われていたのでしょうか。
あるいは日の本の為政者としての徳川将軍家の存在を際立たせる、政治的な狙いもあったのやもしれません。

また、当山は「絹本着色大威徳明王像」(文京区指定文化財)を所蔵されます。
大威徳明王は単独で奉安されることは希で、通常、五大明王(不動明王(中心)、降三世明王(東)、軍荼利明王(南)、大威徳明王(西)、金剛夜叉明王(北))として奉安・供養されますから、当山で五大明王を御本尊とする五壇法が修せられていた可能性があります。
五壇法も国家安穏を祈願する修法として知られているので、やはり当山は祈願寺としての性格が強かったとみられます。

御本尊は両部(両界)大日如来。
「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「独自の解釈による両界曼荼羅」とあり、大進美術㈱のWebに「新安祥寺流曼荼羅」として見事な両界曼荼羅が紹介されていることからみても、新安祥寺流(真言宗霊雲寺派)にとって両界曼荼羅、あるいは両界大日如来がとりわけ重要な存在であることがうかがわれます。


出典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第3,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十八番
ゆしま
宝林山 大悲心院 霊雲寺
真言律
本尊:両界大日如来 太元堂 灌順堂 本尊太元明王 弘法大師

『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』
江戸湯嶋(不唱小名)
(関東)真言律宗惣本寺
寶林山 佛日院 霊雲寺
開基 元禄四年(1691年) 浄厳和尚(浄厳律師覚彦)

本堂
 本尊 両部大日如来木像
 右  不動明王木像
 左  愛染明王木像
    四天王立像

御祈祷殿
 本尊 大元帥明王画像
    同 木像秘佛
    東照大権現

寶幢閣
 本尊 地蔵菩薩木像
 右(左) 弘法大師木像
 左(右) 開祖浄厳和尚木像

鎮守社
 神体八幡大菩薩 賀茂大明神 稲荷大明神 三神合殿
 右 冨士権現社
 左 恵寶稲荷社

寺中六ヶ院
 智厳院 本尊 地蔵菩薩
 五大院 本尊 愛染明王
 蓮光院 本尊 辨財天
 寶光院 本尊 十一面観音
 五智院 本尊 愛染明王
 福厳院 本尊 釈迦如来
※ 妙極院(下谷七軒町、本尊 大日如来)を含めて塔頭七院
※ 末寺四拾七ヶ寺を記載

『江戸名所図会 第3 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
寶林山 靈雲寺
大悲心院と号す。圓満寺の北の方にあり。関東眞言律の惣本寺にして、覺彦(かくげん)比丘の開基なり。
灌頂堂 両界の大日如来を安置す。
大元堂 灌頂堂のうしろ方丈の中にあり。本尊大元明王の像は元禄大樹の御筆なり。(以下略(大元法について記す))
鐘楼 本堂の右にあり。開山覺彦和尚自ら銘を作る。
地蔵堂 本堂の左の方艮の隅にあり。本尊地蔵菩薩 弘法大師の作なり。左右の脇壇に弘法大師、ならびに覺彦比丘の両像を安置す。
開山 諱は浄厳、字は覺彦、河州錦部郡小西見村の産なり。父は上田氏、母は秦氏なり。
寛永十六年(1639年)に生る。凡そ耳目の歴る所終に遺忘する事なし。衆人是を神童と称す。(中略)
慶安元年(1648年)高野山検校法雲を禮して薙染す。時に年十歳。朝参暮詣倦む事なし。(中略)元禄四年(1691年)、大将軍(常憲公=綱吉公)召見し給ひ、普門品を講ぜしむ。(中略)遂に城北にして地を賜ひ、梵刹を経始す。ここにおいて佛殿、僧房、香厨、門郭甍を連ね、巍然として一精藍となる。号(なづ)けて霊雲寺という。遂に密壇を建て秘法を行し(中略)元禄五年(1692年)六月、大元帥の大法を修し、國家昇平を祈る。これより以後、毎歳三神通月七日、修法することを永規とす。翌年関東眞言律の僧統となしたまふ。又乙亥の夏、大将軍(常憲公=綱吉公)みづから斎戒し給ひ、大元帥金剛の像を画き、本尊に下し賜ふ。今大元堂に安置し奉る。元禄十年(1697年)、僧俗の請に依って曼荼羅を開く。壇場に入る者九萬人に幾し。隔年灌頂を行ふこと今に至てたえず。(中略)徳化洋々として天下に彌布し。王公より下愚夫に至る迄敬仰せずといふことなし。

『本郷区史 P.1232』(文京区立図書館デジタル文庫)
靈雲寺
湯島新花町に在り、眞言宗高野派の別格本山で寶林山佛日院と称する。元禄四年(1691年)将軍綱吉の建立する所で浄厳和尚を開基とし寺領百石を有した。本堂の外境内に地蔵堂、大元堂、観音堂、鐘楼、経蔵、内佛殿、庫裡、土蔵、学寮等を有したが、何れも大正十二年の震火災に焼失し其後は假建築を以て今日に及んで居る。寺寶の中には十六羅漢十六幅(顔輝筆) 吉野曼荼羅一幅、諸尊集會圖一幅等国寶に指定せられたるものゝ外尊重すべきもの多数を蔵したが何れも大正震火災に焼失した。(國寶は現存)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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湯島といってもメイン通りから外れており、東京で生まれ育った人間でもあまり訪れることのない立地です。
このような場所に突如としてあらわれる大伽藍は、ある意味おどろきです。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 戒壇石

山門脇の石標に「不許葷辛酒肉入山内」とあります。
よく禅宗の寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)と刻まれた標石が立っていますが、これは「戒壇石」といいます。
修行の妨げになるので、「葷」と「酒」は山内に持ち込んではいけない。あるいは「葷」と「酒」を口にしたものは山内に入ってはいけないという戒めです。

「葷」とはニンニク、韮、ラッキョウなどのにおいが強くて辛い野菜、あるいは生臭い肉料理などをさします。
なので、「葷」には「辛」も「肉」も含むはずですが、あえて「葷」「辛」「酒」「肉」すべて列挙して戒めているあたり、戒律を重んじる律宗系の流れの寺院であることが伝わってきます。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山内


山門は薬医門か高麗門。
うかつにも内側からの写真を撮り忘れたので断言できませんが、正面からのたたずまいからすると高麗門のような感じもします。
屋根は本瓦葺でさすがに名刹の風格。見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 寺号標と大本堂
【写真 下(右)】 大本堂

山門をくぐると空間が広がり、正面階段のうえに昭和51年落成の鉄筋コンクリート造2階建ての大本堂(灌頂堂)。
築浅ながら名刹にふさわしい堂々たる大伽藍です。

上層は入母屋造本瓦葺葺、下層も本瓦葺で流れ向拝。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。


【写真 上(左)】 大本堂向拝
【写真 下(右)】 大本堂扁額

向拝見上げに院号扁額をおき、「西大寺 長老」の揮毫がみえます。
霊雲寺は真言律宗から分離独立して真言宗霊雲寺派総本山となりましたが、西大寺(真言律宗総本山)との関係は依然として深いのかもしれません。

大本堂(灌頂堂)には御本尊として両部(金剛界・胎蔵(界))の大日如来像を奉安。
大本堂の下は寺務所・書院となっています。


【写真 上(左)】 地蔵尊と寶幢閣
【写真 下(右)】 寶幢閣

大本堂向かって左手奥に堂宇があり、「寶幢閣」の扁額があります。
『寺社書上 [68] 湯嶋寺院書上 全』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.142.』には、「寶幢閣」として、「本尊 地蔵菩薩木像、弘法大師木像、開祖浄厳和尚木像」とあり、『江戸名所図会』にはこの位置に「開山堂」とあるので、「大師堂」と「開山堂」の性格を併せ持つ堂宇であったとみられ、いまもこの系譜を受け継ぐ堂宇かもしれません。
なお、「寶幢閣」は「寶幢如来」ゆかりの堂号とも思われます。

 
【写真 上(左)】 寶幢閣の扁額
【写真 下(右)】 弘法大師記念供養塔

寶幢如来は胎蔵曼荼羅の中央の区画「中台八葉院」に御座される如来で、胎蔵大日如来(中央)、寶幢如来(東)、開敷華王如来(南)、無量寿如来(西)、天鼓雷音如来(北)とともに「胎蔵(界)五仏」と呼ばれます。

寶幢如来は「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を表す尊格とされます。
開山の浄厳覚彦和尚は啓蒙のためにかな書きの教学書を著わされ、多くの庶民に灌頂・受戒を行うなど衆生を仏道に導かれたとされるので、そのゆかりで「発心」(あるいは発菩提心)を表す寶幢如来の号をいただいているのかもしれません。

『江戸名所図会』には
「大悲心院 花を見はべりて 灌頂の闇よりいでてさくら哉 其角」
の句が載せられ、「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「霊雲寺では目隠しをして敷曼荼羅に華を投げ、落ちた仏と結縁する結縁灌頂が盛んに行なわれた(中略)霊雲寺で結縁灌頂を受けた後、目隠しの闇と心の闇が同時に晴れる喜びを詠った宝井其角(1661~1707)の句が紹介されています。」とあって、霊雲寺の結縁灌頂が広く知られていたことがわかります。

「幕府祈願所 霊雲寺の名宝」(東京国立博物館)には「多くの庶民に灌頂、授戒を行ない、啓蒙のためにかな書きの教学書を著すなど、浄厳と霊雲寺は民衆にも寄り添い親しまれる存在となりました。」とあり、江戸名所図会にも記されていることから、「将軍家祈願所」という厳めしい存在ながら案外庶民に親しまれ、御府内霊場の札所としても違和感なくとけこんでいたのでは。


↑ でも触れましたが、将軍家護持の御本尊・大元帥明王が御府内霊場の拝尊であったこと、「将軍家祈願所」という立ち位置ながら、庶民の結縁灌頂の場としての機能していたことなど、やはり霊雲寺は二面性をもつ寺院であったことがうかがわれます。

江戸期にあった大本堂裏手の太元堂もいまはなく、山内の伽藍構成はシンプルですが、寶幢閣前の百度石のうえに地蔵尊、立像の厄除大師像(記念供養塔)、梵字碑の前にも地蔵尊が御座します。

ふつう「祈願所」というと、密寺特有の濃密な空気をまとった寺院を想像しますが、こちらは徹底して明るい空間。
これは律宗の流れ、奈良仏教の平明さを受け継いでいるためかもしれません。


【写真 上(左)】 地蔵尊と梵字碑
【写真 下(右)】 御朱印授与案内

御朱印は寺務所にて拝受しました。
Web情報によると、お昼前後は授与を休止との情報あり要注意です。
なお、霊雲寺は歴史ある名刹だけあって多くの霊場札所となっていますが、現在、御朱印を授与されているのは御府内八十八ヶ所霊場のみの模様です。


〔 霊雲寺の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」の揮毫と「霊雲精舎」の御印。
右上に「第二十八番」の札所印。左下には「湯島 霊雲寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 「御本尊」申告にて拝受の御朱印
【写真 下(右)】 ご縁日の御朱印

「御本尊」申告にて拝受の御朱印には胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫、ご縁日の御朱印には金剛界大日如来のお種子「バン」と胎蔵大日如来のお種子「ア」の揮毫があります。
「ア」は大元帥明王、寶幢如来のお種子でもあり、当山とは格別のゆかりのあるお種子ではないでしょうか。

なお、申告や日によってお種子の種類が定まっているかは不明です。


■ 第21番-2 大黒山 宝生院
(ほうじょういん)
葛飾区柴又5-9-8
真言宗智山派
御本尊:大黒天
札所本尊:大黒天
司元別当:
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番、柴又七福神(大黒天)、江戸川ライン七福神(大黒天)

第21番ふたつめは柴又の宝生院です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

宝生院は、寛永元年(1624年)常陸国大聖寺末として京橋付近に創建といいます。
宝永七年(1710年)大塚護持院末に転じ、下谷谷中を経て承応・明暦の頃(1652-1658年)に池之端(下谷)茅町へ移転したといいます。
関東大震災で罹災ののち、昭和2年現在地の柴又に移転しました。

『寺社書上』『御府内寺社備考』とも所在は池之端(下谷)茅町となっています。
下谷茅町(したやかやちょう)は不忍池の西側の低地で、現在の台東区池之端一丁目付近です。

『寺社書上』には境稲荷神社が下谷茅町に御鎮座とあり、こちらの現住所は台東区池之端一丁目なので、こちらのそばにあったのではないでしょうか。
(『江戸切絵図』には宝生院の記載がありません。)

『寺社書上』『御府内寺社備考』には、御本尊は智證大師作と伝わる不動明王とありますが、現在の御本尊は大黒天のようです。
柴又七福神の一つとなっている大黒天は、江戸時代から信仰を集めていたといいます。

火災により古記類を失っていますが、御府内二十一ヶ所霊場の第21番結願所ですから、お大師さまと相応のゆかりをもたれているのでは。

現在、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番札所となっていますが、南葛霊場は大正時代に整備とみられ、大正2年移転後、時を経ずして札所に定められたとみられます。

現在は柴又七福神の大黒天霊場として多くの参詣客を集めています。


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【史料・資料】

『『寺社書上』[119] 下谷寺社書上 五止』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.60』
大塚護持院末 真言宗 下谷芽町二丁目
神瑞山寶生院 境内古跡地百二十九坪六合二勺 内門前町屋
当院起立ハ寛永元年(1624年)ニ常州永園村大聖寺末宝性院与申候処 宝永三年(1706年)右寺末●相離 護持院門徒ニ相成 宝永六年(1709年)末寺ニ相願 同七年願之通 僧録大僧正慶善法印被仰付候 其跡宝生之ニ字相改申候
開山不分明 類焼仕古記等ハ焼失
本尊 不動明王立像 智證大師作

「猫の足あと」様掲載の『葛飾区寺院調査報告』には下記内容が記載されています。
・当初は江戸京橋方面にあり、のち下谷の谷中に転じ、さらに承応・明暦の頃(1652-1658年)池之端芽町(台東区)に移ったと伝えられる。
・当寺に安置する出世大黒天は、将軍家をはじめ上下の信仰が厚かったという。
・大正12年の関東大震火災に焼失し、昭和2年12月、現在地に移り、柴又の七福神の一として、甲子の縁日には参詣者でにぎわう。

■ 現地掲示(葛飾区)
柴又七福神 大黒天 宝生院
米俵に乗っている大黒天は、インドの神様と大国主命の習合。当寺に安置する大黒天は、将軍家にも信仰が深く、大きな袋と打ち出の小槌で、多くの人々を救済する「出世財福」の御利益で有名である。
※頭光のある火焔、光背を負った不動明王像が透彫してある「寺宝金銅幡残欠」は、葛飾区文化財に指定されている。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「イナリ」とあるのが境稲荷神社とみられ、おそらくこのあたりに所在していたと推測されます。


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最寄りは北総線「新柴又」駅で徒歩約2分。
駅近ですが、かなり広い敷地をもちます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 柴又七福神の看板

緑は少なく、開けた感じの山内で、下町の名刹によくあるパターンです。
山内入口には「開運柴又七福神 出世大黒天 宝生院」の看板が掲げられています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 参道

ここから本堂に向けて参道がまっすぐに延びています。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝。屋根の勾配が急で勢いのある意匠。
向かって右の唐破風の庫裏といいコントラストを見せています。


【写真 上(左)】 堂内
【写真 下(右)】 堂内扁額


【写真 上(左)】 柴又七福神の札所標
【写真 下(右)】 お前立ち?

向拝には向拝幕が巡らされいくつもの鈴が吊るされて、著名な大黒天霊場であることがわかります。
堂内には護摩壇が設けられ、燈明がともされて厳かな空気感。
堂内上部には「出世大黒天」の扁額が掲げられています。

山内にある切妻造桟瓦葺一間のお堂は、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第50番の大師堂かと思われますが、なぜか確認していません。


【写真 上(左)】 大師堂?
【写真 下(右)】 札所標

山内には御府内二十一ヶ所二十一番の札所標。「剣難除」と刻まれています。

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 宝生院の御朱印 〕
〔 御本尊・大黒天の御朱印 〕



中央に「出世大黒天の揮毫と、大黒天の御影印と宝珠印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

なお、柴又七福神は令和3年元旦から、御朱印受付期間が1月1日~1月31日へと変更となっており、この期間しか御朱印を拝受できない札所があります。
ただし、Webで検索した範囲では、宝生院は令和3年以降も1月以外の日付の御朱印がみつかるので、通年授与かもしれません。


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これにて御府内二十一ヶ所霊場のご紹介記事は完結です。
御府内八十八ヶ所霊場よりも御朱印難易度は高いですが、興味深い歴史をもつ札所寺院もあり、御府内八十八ヶ所霊場を結願された向きはトライされてみてはいかがでしょうか。


記事リスト



【 BGM 】
■ e x - MARINA feat. Hisho (from Bling Journal)


■ ナツノカゼ御来光 - 花たん


■ The Days I Spent With You - 今井美樹
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■ 逸材! 柴山サリー

ソロライブ決定。
昨日(5/28)からの発売です。

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2024年8月3日 (土)
「Wish for wonderful happiness」
会場 横浜ベイホール
開場 15:00 開演 16:00
チケット 料金 発売日時 プレイガイド お申し込み
VIP席 30,000円 2024年5月28日18時 SARIスタッフ wishforwonderfulhappiness@gmail.com
一般席 8,000円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
スタンディング 5,500円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
ワンドリンク制 600円

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2024年9月16日 (月)
「Wish for grateful luckiness」
会場 横浜ベイホール
開場 15:00 開演 16:00
チケット 料金 発売日時 プレイガイド お申し込み
VIP席 30,000円 2024年5月28日18時 SARIスタッフ wishforgratefulluckiness@gmail.com
一般席 8,000円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
スタンディング 5,500円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
ワンドリンク制 600円


一般席、8月3日 (土)のやつはうまくとれなかった。(完売かもしれぬ)
で、9月16日 (月)のほうを予約しました。

予想以上の売れ行き?
往年のZARDファンが大挙して入り込んできているのかも・・・。

それと、「SARI」に改名したそうです ↓
■ 改名決定


■ ZARD マイ フレンド 揺れる想い Don't you see! 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト


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2024/04/09 UP

口の悪い面々が、もっと聴きたいモードに入ってる。
強心臓? この独自キャラも魅力?

【ZARD】鬼レンチャン【柴山サリー】


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20240409UP

先ほど放送の日テレ「熱唱!ミリオンシンガー」、柴山サリー出てましたね。
得点は500点。神声認定まであと1点!

■ ZARD神声 マイ フレンド 熱唱!ミリオンシンガー

出だしは文句なしだったけど、後半で泉水さん特有の「切なさ」感がちょっと弱かった感じもする。

↓ このレベルの歌唱だったら、501点~で神声認定だったと思う。

■ ZARD+柴山サリー『負けないで』比較


■ ZARD 揺れる想い マイ フレンド 異邦人 遠い日のNostalgia 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト

1:57~の「遠い日のNostalgia」名テイク。

■ 中野ZERO小ホール 公演中止

事情はよくわからんが、仕切り直しで成功させてほしい。


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2024/03/12UP

3/10放送の「千鳥の鬼レンチャン」、録画したやつ視てみたけど、やっぱり柴山サリー凄い。
というか、どんどん巧くなってる。

■ ZARDレンチャン マイ フレンド 負けないで 揺れる想い DAN DAN 心魅かれてく 君に逢いたくなったら… あなたを感じていたい 歌ってみた 千鳥の鬼レンチャン


自分の部屋でリビングのTVから流れて来た歌声、聴き流し不可避だったのは熊田このはちゃんと柴山サリーくらいかな。

それだけ筆者にとっては魅力のある声。
(相方によると、どちらも「これ歌ってるの誰?」って飛んできたらしい(笑))
どっちも左手マイクだ。
どーでもいいけど、好きなんだよね。左手マイクの美声ボーカル。

■ 左手マイクの美声ヴォーカル


柴山サリーはこの記事(熱唱!ミリオンシンガー出場の逸材たちでもとりあげたことあるけど、やっぱり逸材だと思う。

■負けないで/ZARD 【歌ってみた】 柴山サリー

こういうせつなさを帯びた声質を出せるシンガーはほとんどいない。
ほんとうにいい声してると思う。

■【ZARDカバー】テレビ出演で話題!スラムダンク主題歌『マイ フレンド』を歌ってみた | covered by 柴山サリー (歌詞付き・フルver.)

この坂井泉水さんワンアンドオンリーの難曲をここまで歌いこなすとは・・・。
とくに高音に飛ばすときの声の表情がそっくり。
さすがにサビ部の神がかり感は完璧には再現できてないけど、やっぱりすごいテイクだと思う。

ZARDだけじゃないよ。
森高千里も絶品。

■ 大学生が[everysing]で 森高千里 渡良瀬橋 歌ってみた カラオケ (cover)


■ 森高千里 気分爽快 歌ってみた


ZARDと森高千里だけじゃないよ。

■ 岡村孝子 夢をあきらめないで KAN 愛は勝つ 大事MANブラザーズバンド それが大事 岡本真夜 TOMORROW ZARD 負けないで 歌ってみた


聴き飽きしない歌声。
曲そのもののよさを引き出せる才能。

■ ZARD 心を開いて 1人10役 歌ってみた まいにち賞レース


これだけの多彩な歌いまわしもってるから、曲に陰影を与えられるのだと思う。

☆柴山サリー 大阪天保山スペシャルライブ 全三部総集編☆

この才能が本物であることがわかる、オープンな会場でのLIVE。
ニュアンスが繊細で歌いまわしにキレがある。

■ 聖母たちのララバイ/ 日本の名曲残し隊【第5回公演】

深みのあるビブラートと伸びのあるハイトーン。
そして抜群の安定感。


■ ずっとあなたに会いたかった/柴山サリー【オリジナル曲】


まだまだ伸びる才能だと思います。
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-5

Vol.-4からのつづきです。


■ 第15番 瑞光山 如意寺 密嚴院
(みつごんいん)
荒川区荒川4-16-3
真言宗豊山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第83番

第15番札所は荒川区荒川の密嚴院・三河島大師です。

下記史料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

密嚴院は天文二年(1533年)、覚錟ないし覺生和尚の開基と伝え、山内には同九年(1540年)銘の板碑(荒川区登録文化財)も残ります。
南側にある清瀧山観音寺の末寺で、新義真言宗豊山派に属します。

観音寺は、天文年中(1532-1553年)に長偏僧都が開基創建した名刹で、江戸時代には将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられていました。
このエリアの獲物は鶴で、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と格別に称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしとなっていました。

密嚴院の御本尊は、一尺八寸の如意輪観世音菩薩立像といいます。
『豊島八十八ヶ所巡礼』には「本尊の如意輪観音は弘法大師作と伝えられ、文化十四年(1817年)に高野山から勧請されたもの」とあります。

境内に弘法大師堂があり「三河島大師」と称され、毎月廿一日の護摩修行は信仰者で賑わったといいます。

御府内二十一霊場札所として、本寺の観音寺ではなく密嚴院が選ばれたのは「三河島大師」の名声が高かったためではないでしょうか。

なお、『荒川区史』には「当院は豊島『八十八ヶ所』の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。」とありますが、「新四國八十八ヶ所の内第四十二番」についてはよくわかりません。

境内には竜女塚があり、塚上にあった文政十三年(1830年)の石碑、本堂・庫裡等は昭和20年の東京大空襲の際に失われたといいます。
伽藍は終戦後に再建されていますが、現在は無住で、観音寺が護持されているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(三河島村)密嚴院
(三河島村)観音寺末 瑞光山如意寺ト号ス 本尊如意輪観音

『荒川区史』(国立国会図書館)
密嚴院(三河島町五丁目九六七番地)
観音寺の北隣にある密嚴院は、瑞光山如意寺と号して、新義真言宗豊山派に属し観音寺の末寺である。本尊如意輪観音は其の丈け一尺八寸の立像である。
開山は覺生和尚と云はれるが詳細は不明である。
境内に弘法大師堂がある。敷地四百六十五坪余。毎月廿一日に護摩修行がある。
当院は豊島「八十八ヶ所」の内第八十三番札所、新四國八十八ヶ所の内第四十二番の札所として有名である。


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京成線「町屋」駅とJR常磐線「三河島」駅の中間くらい、近くに荒川区役所はありますが、区民以外はなかなか訪れないところ。
戸建て、マンション、ビルや町工場が混在する下町らしい街区です。


【写真 上(左)】 門前
【写真 下(右)】 院号標

観音寺の北東側の路地に面していますが、山内はなかなか広そうです。
参拝時は門扉が堅く閉ざされていたので、山内の詳細はわかりません。



【写真 上(左)】 三河島大師の標
【写真 下(右)】 弘法大師の石標

門柱には「院号」と「三河島大師」の刻字。
鉄扉には真言宗豊山派の宗紋「輪違い紋」。
門柱手前には「開運厄除弘法大師」の石標が建ち、弘法大師霊場であることを示しています。

鉄扉ごしに近代建築陸屋根の本堂が見えますが、詳細は不明です。

御朱印は観音寺にて拝受しました。
「門扉が閉まっていたので、門前からの参拝となった旨」申告しましたが、現在、閉門中につきその参拝方法でよろしいということで、快く御朱印を授与いただけました。


〔 密嚴院の御朱印 〕
〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に如意輪観音の揮毫と如意輪観音のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「豊島第八十三番」の札所印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第16番 五剣山 普門寺 大乗院
(だいじょういん)
台東区元浅草4-5-16
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第81番、弘法大師二十一ヶ寺第3番

第16番札所は元浅草の大乗院です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

大乗院の創建年代は不詳ですが、『江戸志』には増誉法印の開山とあります。

『寺社書上』『御府内寺社備考』には、江戸大塚護国寺末、境内古跡拝領地五百坪とあります。
本堂は四間四方で、御本尊は丈壱尺三寸の不動明王立像と記されています。

本堂内奉安の弘法大師御像は「江戸八十八ヵ所之内八十一番」とあり、これは荒川辺八十八ヶ所霊場第81番をさしているとみられます。
『江戸砂子』には「波断不動」ともあるようです。
山内に護摩堂、天王社も擁していたとみられます。

当山は度々類焼に見舞われたためか史料類が少なく、これ以上は辿れませんでした。

しかし、荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺の3つの弘法大師霊場札所を兼務されているわけですから、弘法大師とのゆかりのふかい寺院であると考えられます。


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【史料・資料】

『寺社書上 [80] 浅草寺社書上 甲五』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.45』
江戸大塚護國寺末 浅草新寺町
五釼山普門寺大乗院 境内古跡拝領地五百坪
当寺書留●度々類焼之為焼失仕 年数其外共●相知不申候
本堂 四間四方
 本尊 不動明王、丈ヶ壱尺三寸立像
 弘法大師 江戸八十八ヵ所之内八十一番
護摩堂
天王社 九尺四方 神体幣束
二王門 二天門 山門 楼門
波断不動(江戸砂子)
開山増誉法印 (江戸志)



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩約5分。
メトロ銀座線「田原町」駅からも歩けます。

住宅とオフィスビルが混在する立地。
元浅草から寿にかけては都内有数の寺院の密集地で、需要があるためか仏具・仏壇店が目立ちます。

都道463号浅草通り「松が谷一丁目」交差点から南下する左右衛門橋通りの1本東側の路地を南に入って正福院を過ぎたすぐ先です。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 院号標

路地から少し引きこんだ民家風の建物なので、参道入口の院号札を見落とすとそれとわかりません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

参道をたどり、本堂に近づくにつれて寺院らしい雰囲気が高まります。

建物手前が向拝。
正面はシックな格子扉、壁面には真言宗智山派の宗紋「桔梗紋」、見上げには院号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 札所標

向拝手前の「弘法大師 第十六番」と刻まれた立派な石標は、御府内二十一ヶ所霊場の札所標です。

こちらは何度かの参拝でご不在気味だったので、特別にお願いして御朱印を授与いただきました。
通常は不授与の可能性があります。


〔 大乗院の御朱印 〕



中央に不動明王の揮毫と、不動明王のお種子「カン/カ-ン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・院号の揮毫があります。


■ 第17番 和光山 興源院 大龍寺
(だいりゅうじ)
北区田端4-18-4
真言宗霊雲寺派
御本尊:両部大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:(上田端)八幡神社
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第13番-2、豊島八十八ヶ所霊場第21番、滝野川寺院めぐり第6番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-4 をベースに再編しています。

第17番札所は田端の大龍寺です。

真言律宗の流れを汲むとされる真言宗霊雲寺派の大龍寺は、東京・豊島エリアの「豊島八十八ヶ所霊場」第21番の札所でもあります。
こちらはWeb上で「弘法大師 十三番」の札所印の御朱印がみつかります。
一瞬「御府内二十一ヶ所霊場」のことかと思いましたが、こちらは第17番。
Web上で調べてみると、どうやら御府内八十八箇所第13番の札所らしいのです。

御府内八十八箇所は、番外・掛所などの札所はありませんが、第19番が2つあること(板橋の青蓮寺と南馬込の圓乗院)は知っており、いずれも御朱印は拝受していました。

しかし、第13番についてはノーマーク。Web検索でも確たる情報は出てきません。
通常、第13番は三田の龍生院(弘法寺)がリストされています。

御府内霊場第13番は、もともと霊岸島にあった圓覚寺とされ、明治初期に龍生院に引き継がれたとされていて大龍寺との関連は不詳です。

そこで「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」に注目してみました。
「弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場」は江戸期に開創とみられる弘法大師霊場で、『東都歳時記』に「弘法大師 二十一ヶ所」として記載があります。(ただし、こちらは別霊場とみられる「弘法大師二十一ヶ寺」を示すものかもしれません。)

札所一覧は→こちら(「ニッポンの霊場」様)

こちらをみると、ほとんどが新義真言宗系・真言宗霊雲寺派(天台宗1)で、古義真言宗寺院はありません。
ふたつの真言宗霊雲寺派は湯嶋霊雲寺(結願)と大龍寺で、湯嶋霊雲寺のみの御府内霊場より札所数が多くなっています。

ふつう、弘法大師二十一ヶ所は弘法大師八十八ヶ所の簡易版で、札所が重複するケースが多いですが、御府内二十一ヶ所霊場では21札所のうち7のみ(谷中観音寺、谷中加納院、谷中明王院、谷中長久院、谷中多宝院、谷中自性院、湯嶋霊雲寺、当山を入れると8)で重複はすくなく、御府内霊場とは別の観点から開創されたものかもしれません。

いずれにしても、すくなくとも大龍寺は豊島八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所霊場のふたつの弘法大師霊場札所なので、大師霊場とゆかりのふかい寺院であることは間違いないと思います。

下記史料等によると創建は慶長年間(1596-1615年)。
当初は新義真言宗で不動院 浄仙寺と号していましたが、安永年間(1772-1780年)に湯嶋靈雲寺の観鏡光顕律師が中興され、現寺号に改称しているようです。
俳人の正岡子規をはじめ、横山作次郎(柔道)、板谷波山(陶芸家)などの墓所としても知られています。

『新編武蔵風土記稿』によると、江戸期は(上田端)八幡神社の別当を司っていたようです。

【写真 上(左)】 (上田端)八幡神社
【写真 下(右)】 (上田端)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国立国会図書館DC)
(西ヶ原村)大龍寺
眞言律宗湯嶋靈雲寺末 和光山興源院ト号ス 古ハ不動院浄仙寺ト号セシニ 天明ノ頃僧観鏡光顕中興シテ今ノ如ク改ム 本尊大日ヲ置
八幡社 村ノ鎮守トス
稲荷社

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JR「駒込」駅と「田端」駅のほぼ中間、上野から日暮里、田端、西ヶ原、飛鳥山とつづく台地のうえにあります。

落ち着いた住宅地のなかに名刹らしい広大な寺地を構えています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 墓所を示す境外の石碑

山門は三間三戸の八脚門ですが、脇戸にも屋根を置き、様式はよくわかりません。
主門上部に「和光山」の扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 右手からの本堂

本堂は二層で、入母屋造本瓦葺様銅板葺で流れ向拝、階段を昇った上層に向拝を置いています。
すっきりとした境内に堂々たる伽藍。このあたりは、霊雲寺派総本山の霊雲寺にどことなく似通っています。


【写真 上(左)】 向拝見上げ
【写真 下(右)】 本堂扁額

水引虹梁両端に草文様の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に彩色の海老虹梁と手挟、中備に葵紋付き彩色の板蟇股。
正面に「大龍寺」の扁額と、これを挟むように小壁に彩色の蟇股がふたつ。
身舎出隅の斗栱にも彩色が施され、二軒の平行垂木もよく整って華やかな印象の本堂です。

このところ巡拝者が増えているとみられる豊島八十八ヶ所霊場の札所なので、御朱印は手慣れたご対応です。
拝受者が少ない滝野川寺院めぐりの御朱印申告についても、特段驚かれた風はありませんでした。

御府内八十八箇所は結願したつもりでしたが、知ってしまった以上は、参拝し御朱印を拝受したいところ。

仔細がおありになるかもしれないので、御府内霊場についての詮索めいた質問は控えました。
淡々と「御府内霊場第13番」の御朱印をお願いし、淡々とお受けいただき、淡々と拝受しました。
なお、こちらは原則月曜はお休み(閉門)なので要注意です。


〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊 大日如来」の揮毫と胎蔵大日如来の種子「ア」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右下に「弘法大師 十三番」の札所印。左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕


〔 滝野川寺院めぐりの御朱印 〕



■ 第18番 象頭山 観音寺 本智院
(ほんちいん)
北区滝野川1-58-2
真言宗智山派
御本尊:
札所本尊:
司元別当:鳥越大明神(鳥越神社)?
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第80番、弘法大師二十一ヶ寺第18番、北豊島三十三観音霊場第28番

第18番札所は北区滝野川の本智院(滝野川不動尊)です。

下記史料などから縁起・沿革を追ってみます。

『御府内寺社備考』によると本智院は当初八丁堀辺に起立されたといいます。
明暦年間(1655-1658年)に記録焼失とあるので、すくなくともそれ以前の起立とみられます。(元和年中(1615-1624年)開基という資料あり。)
同書には「京都智積院末」とあり、智積院直末というすこぶる格の高い寺院であった可能性があります。

中興開山は権大僧都法印明実(元禄二年(1689年)寂)。

『寺社書上』(文政年間(1818-1830年)編纂)には「仮本堂」とあるので、この時期なんらかの理由で仮の本堂となっていたとみられます。
とはいえ間口六間奥行三間の堂々たる堂宇です。

御本尊は金剛界大日如来木像。
本堂には弘法大師木座像、興教大師木座像、阿弥陀木立像、正観音木立像を安すと記されています。

聖天堂は宗対馬守建立とあり、対馬藩主宗家の建立かもしれません。
安する長七寸五分の聖天銅立像は弘法大師の御作で赤松円心(赤松則村、1277-1350年、村上源氏赤松氏4代当主で播磨国守護)の所持と記されています。
甲宵聖天像も弘法大師の御作で赤松円心の所持とあります。
本地は十一面観世音菩薩木立像、長一尺七寸五分で恵心僧都作とあります。

弁財天並びに十五童子も弘法大師の御作で、「江の嶋にて十万座護摩修行、其灰を以て作り裏に手判有之」とあります。
正観音立像も弘法大師の御作とあります。

山内に鎮守十二所権現、長珠院・不動院の二ケ院を擁したとあります。

弘法大師御作と伝わる尊像を幾軆も安し、対馬の宗氏、赤松円心という名族とのゆかりをもつことからみても、相応の寺格を有していたとみられます。

荒川辺八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺という3つの弘法大師霊場の札所を務められることについては、寺格の高さもさることながら、複数の弘法大師御作の尊像を安するという所以によるのではないでしょうか。

明暦年間(1655-1658年)に焼失後、浅草(不唱小名)に移転といいます。
『江戸切絵図』には、浅草新寺町の仙蔵寺と玉宗寺の間に「本智院」とみえるので、現在の台東区寿二丁目あたりとみられます。

大正になされたという滝野川への移転の経緯は、当然下記史料には記載がありません。
「猫のあしあと」様記載の『北区史』には「もと浅草区(現台東区)栄久町一三二にあつた。幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた程の由緒ある寺で、元和年中(1615-1624年)開基、大正六年五月区内の滝野川町四八都電飛鳥山終点の所に移転の許可を得て新築し、大正十年五月に移転をおえた。滝野川の不動として知られ本尊は不動明王である。」とあります。

『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあつた」という記載が気になるので、いささか長くなりますが鳥越神社(鳥越大明神)について辿ってみます。。

鳥越神社の別当は御府内八十八ヶ所霊場第51番であった鳥越の長樂寺だった筈です。
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-17

鳥越大明神(鳥越神社)は白雉二年(651年)村人が日本武尊の遺徳を偲び、白鳥明神として鳥越山(白鳥山)に祀ったのが創祀と伝わる古社です。
往年のこの地は「鳥越(白鳥)の山」と呼ばれた小高い丘で、日本武尊が東夷御征伐の折に暫く御駐在された地といいます。
相殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、中臣(藤原)氏の祖神として祀られ、奈良時代に藤原氏が国司として武蔵に赴任した際、この地にお祀りされたといいます。

永承(1046-1053年)の頃、八幡太郎義家公の奥州征伐の折、この地で渡河に難儀しましたが、白い鳥に浅瀬を教えられて無事軍勢を進めることができました。
義家公はこれを白鳥大明神の御加護と称え、鳥越山(白鳥山)のお社を参拝され「鳥越大明神」の号を奉じられて、これより「鳥越」の地名が起こったとされます。

社地はすこぶる広く、三味線堀(姫が池)に熱田明神、森田町に第六天神(榊神社)が末社として御鎮座され「鳥越三所明神」と称していました。

徳川幕府による旗元・大名屋敷・御蔵地整備のため、鳥越山はとり崩されて埋め立てに使われました。
この際、熱田神社は三谷(現・今戸)へ、榊神社は堀田原(現・蔵前)へと御遷座され、鳥越大明神も御遷座を迫られましたが、第二代神主鏑木胤正の請願が容れられて元地に残られました。

別当・長樂寺は『寺社書上』によると、開山の法印の遷化が寛永二十年(1643年)なので、3代将軍家光公の治世(1623-1651年)までには創建とみられます。

鳥越山轉輪院長樂寺と号し、山号は本社から、院号は兼帯していた京都嵯峨轉輪院永院室から号したものとみられます。

本社・鳥越大明神の御本地馬頭観音、御本尊として不動明王を奉安していました。
弘法大師御像も奉安していたため、御府内霊場札所の要件はきっちり満たしていたとみられます。

鳥越大明神の神職鏑木氏は桓武平氏常将流と伝わり、鳥越神社の社紋として月星紋・九曜紋(千葉氏の紋)が使われているようです。
また、長樂寺に星供養曼荼羅が奉安されていたことからも、妙見信仰の千葉氏との関係がうかがわれます。

鳥越大明神と別当・長樂寺は源氏の棟梁・八幡太郎義家公、桓武平氏の代表姓・千葉氏いずれともゆかりをもつ、複雑な来歴をもたれているのかもしれません。

明治初期の神仏分離で別当の長樂寺は廃寺となり、以降は鳥越神社と号して郷社に列せられました。

例大祭・鳥越祭は都内随一の重さを誇る「千貫神輿」の渡御と、夜に行われる荘厳な宮入で「鳥越の夜祭り」として広く知られています。

以上、鳥越神社の沿革を辿ると、別当として長樂寺の名は出てきますが、本智院との関係は明示されていません。
結局のところ、『北区史』の「幕末鳥越神社の別当職を司つた時代もあった」という記載の根拠についてはよくわかりませんでした。


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【史料・資料】

『寺社書上 [77] 浅草寺社書上 甲三』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.33』
京都智積院末 浅草不唱小名
象頭山観音密寺本地院 境内古跡拝領地六百七拾二坪
当寺往古八丁堀辺に起立之由申伝候得● 明暦年中(1655-1658年)類焼之節記録焼失仕相知不申候
中興開山 権大僧都法印明實(元禄二年(1689年)寂)
仮本堂 間口六間奥行三間
 本尊 大日金剛界木像
 弘法大師木座像 興教大師木座像 阿弥陀木立像 正観音木立像
聖天堂 土蔵造方三間 拝殿 二間四方宗対馬守建立
 聖天銅立像 長七寸五分弘法大師作 赤松円心所持
 甲宵聖天像 同作同人所持
 本地十一面観音木立像 長一尺七寸五分恵心僧都作
 辨財天并十五童子 各長七寸八分弘法大師作
  右ハ江の嶋にて十万座護摩修行 其灰を以て作り裏に手判●●
  天長七年(830年)七月七日と●●
 正観音立像 長九分弘法大師作
 大黒天立像 俵千十三俵其上ニ安置長一寸三分
鎮守十二所権現
末社稲荷木立像
 右十二所権現稲荷合社ニ有之候所 先年類焼之節焼失仕 当時聖天堂二安置
寺中長珠院不動院と号し候 二ケ院有之候処退廃仕候 年代は相知不申候得共 延享年中(1744-1748年)御改之節 二ケ院共書上候由申伝候得ハ 其比ハ相続仕有之候義ニ御座



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅至近。「王子」駅からも歩けます。

滝野川は寺社が集まる御朱印エリアですが、その多くは明治通り北側の滝野川沿いに立地しています。
明治通りの南側に位置する本智院周辺は、一種のエアポケット的なエリアとなっており、筆者もこの界隈は初訪でした。

都電荒川線(東京さくらトラム)「飛鳥山」駅のお隣りですが、フェンスがあったりして、やや複雑なアプローチです。


【写真 上(左)】 すぐ横が飛鳥山駅
【写真 下(右)】 外観

山内入口には門柱。院号と「滝野川不動尊」が刻字されています。
入口向かって右脇には身代地蔵堂。堂前の石碑には「江戸三大身代地蔵尊」とあるので、有名な地蔵尊なのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 身代地蔵尊


【写真 上(左)】 狛犬と大日堂
【写真 下(右)】 大日堂

山内右手に狛犬と大日堂。
堂内には法界定印を結ばれる胎蔵大日如来が御座します。
Wikipediaに「境内には、1667年(寛文7年)製の石像の大日如来坐像があるが、これは移転時に一緒に移したものである。(出所:『北区史跡散歩』 (東京史跡ガイド17))」とあるので、こちらの大日如来はおそらく浅草時代に造立され、こちらに遷られたとみられます。

参道右手が庫裏で、その先が本堂です。
3階建の建物の右手1階が向拝となっているかたちです。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

タイル壁に木造の千鳥破風の向拝が填め込まれたような、個性的な意匠です。
左右の向拝柱に木札が掛けられていますが、読みとれませんでした。
向拝上部に「阿遮羅尊」の扁額。
「阿遮羅」とは不動明王の梵名「acalanātha(アチャラナータ)」の漢字表記で、不動堂を
阿遮羅殿と記す場合があります。

【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 本堂側からの大師堂

本堂から駅寄りに進むと大師堂です。
こちらは通常閉門されていますが、毎月二十一日(お大師さまのご縁日)には解放され、中のお砂踏み場にて巡拝することができます。


【写真 上(左)】 大師堂門前
【写真 下(右)】 札所標


【写真 上(左)】 大師堂よこのお砂踏み場
【写真 下(右)】 御砂踏心得

堂前の門柱は「荒川辺八十番、御府内十八番、北豊島二十八番」の3つの霊場の札所標となっています。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 御府内十八番の御詠歌

大師堂は切妻屋根銅板葺でシックな黒色系の格子扉。
見上には御府内二十一ヶ所第18番の御詠歌が掲げられています。

弘法大師霊場を巡拝していて、このようなしっかりとした大師堂に出会うのはやはり嬉しいものです。

御朱印は庫裏にて拝受しました。
お不動様のご縁日(28日)に、事前にTELの上お伺いしました。
常時授与かはわからず、ご不在のこともありそうなので事前確認をおすすめします。


〔 本智院の御朱印 〕
〔 荒川辺霊場・御府内二十一ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「本尊 不動明王」の印判と三寶印。
右上に「御府内十八番 荒川辺八十番」の札所印。
左に「瀧野川不動尊」の印判と寺院印が捺されています。


■ 第19番 阿遮羅山 蓮華寺 阿遮院
(あしゃいん)
荒川区東尾久3-6-25
真言宗豊山派
御本尊:阿遮羅明王(不動明王)
札所本尊:阿遮羅明王(不動明王)
司元別当:
他札所:豊島八十八ヶ所霊場第63番、荒川辺八十八ヶ所霊場第10番

第19番札所は荒川区東尾久の阿遮院です。

下記資料、『荒川区史』、『豊島八十八ヶ所巡礼』(石坂朋久氏著)などから縁起・沿革を追ってみます。

阿遮院の開基創立等は不明ですが、延元三年(1338年)銘の板碑が所蔵されています。
尾久に於ける最古の寺院と伝えられ、「尾久町字大門」の地名は当院の大門があった事によるとの説があります。
『新編武蔵風土記稿』には、新義真言宗で田端村與楽寺の末とあります。

『江戸切絵図』には、東尾久とおぼしきところに「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)

旧本堂は中興の巌永上人により天保二年(1831年)建立といいますが、震災により失いました。

御本尊の阿遮羅明王(不動明王)は、良辨僧都(689-774年)の作と伝えます。
『荒川区史』には「境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。」と記されています。

本尊は阿遮羅明王(不動尊、梵名アシャラナータ)で、こちらが山号・院号の由来といいます。

山内には延元三年(1338)の板碑が所蔵され、元禄十四年(1701年)の光明真言供養塔があります。

『新編武蔵風土記稿』には、東尾久の華蔵院、町屋の慈眼寺は阿遮院の末寺・門徒とあります。

当山についての史料類は多くはありませんが、末寺をもっていたこと、豊島八十八ヶ所霊場、御府内二十一ヶ所霊場、荒川辺八十八ヶ所霊場の3つの弘法大師霊場の札所を兼務されていること、また、現在の寺容からみても相当の名刹と思われます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻六』(国立国会図書館)
(下尾久村)阿遮院
新義真言宗、田端村與楽寺ノ末 阿遮山蓮葉寺ト号ス 本尊不動
稲荷社

『荒川区史』(国立国会図書館)
阿遮院(尾久町一丁目八九七番地)
新義真言宗豊山派に属し、田端與楽寺末である。
開基創立等は不明であるが、尾久に於ける最古の寺院と伝へられている。
尾久町字大門は、昔そこに当院の大門があった事により出たものとの説がある。
境内地は八百五十六坪である。
震災前の本堂は、中興巌永上人によって天保二年(1831年)に建立されたものであった。
本尊阿遮羅明王即ち不動尊は良辨僧都の作と伝える。
境内にはなほ閻魔堂や稲荷社がある。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
※図中「阿比院」とあります。
荒川観音寺、満光寺、慶(華)蔵院、地蔵寺、宝蔵寺と隅田川との位置関係からみて、この「阿比院」が阿遮院と思われます。(ただし満光寺との位置関係が逆。)


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最寄りは都営荒川線(東京さくらトラム)京成線「東尾久三丁目」駅。
まわりに寺社は少なく御朱印エリアではないですが、阿遮院は豊島八十八ヶ所霊場の札所なので一定の参拝客はいるのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の院号標

山内入口の門柱に院号標とその手前に御府内二十一ヶ所の札所標。
反対側には院号サイン。「出世石尊 子育(授)地蔵様 弘法大師霊場」とあります。
「弘法大師霊場」として「武蔵國 豊島八十八箇所第六十三番 荒川邊八十八箇所第十番 御府内二十一箇所第十九番」の掲示も出ています。


【写真 上(左)】 御府内二十一ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 弘法大師霊場案内

荒川区教育委員会の説明板には「山号・寺号は本尊不動明王の梵名阿遮羅囊他(アシャラナータ)にちなむもの」とあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門

ブロック塀に沿って参道を進むと、正面に山門。
切妻屋根桟瓦葺でおそらく薬医門と思われます。
見上げには山号扁額。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 石仏群


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

山内は予想以上に広く、緑もゆたかです。
本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。均整のとれた堂々たる堂宇です。
向拝柱はなく、開けた印象の向拝で、硝子扉の上に院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

現地案内板には、文化財として江戸時代、百万遍念仏講で使用した鐘と数珠、建武三年(1338年)銘の板碑、元禄十四年(1701年)建立の光明真言三百六十万遍供養塔などが記されています、

御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 阿遮院の御朱印 〕
〔 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印 〕



中央に「不動明王」のお種子「カンマン」と尊格の揮毫と「カンマン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
右上に「武蔵國豊島六十三番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-6

記事リスト



【 BGM 】
■ Ring Your Bell - LiSA x Kalafina LisAni! LIVE 2017 Complete Ver CROSS STAGE 2017/01/27


■ 名もない花 - 遥海


■ 千年の恋 - ANRI/杏里
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-4

Vol.-3からのつづきです。


■ 第11番 圓明山 宝福寺 西蔵院
(さいぞういん)
公式Web

台東区根岸3-12-38
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:三島社(金杉村)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第2番

第11番札所は金杉・根岸の西蔵院です。

公式Web『新編武蔵風土記稿』『下谷区史』などから縁起・沿革を追ってみます。

西蔵院の創建年代は不詳ですが、天正十九年(1591年)の『上野郷水帳』にその名が見えること、「康安二年(1362年)」の銘のある板碑が発見されていることから、江戸幕府開府以前の創建とみられています。

開山は法印平眞(寂年未詳)。中興は第二十世法印祐水(文政二年(1819年)寂)。
江戸時代には金杉村の三島社(現・本社(寿)三島神社)の別当を勤めていたといいます。

本社(寿)三島神社は、元寇(弘安の役(1281年))の際、河野通有が伊予國大三島神社に必勝祈願した後、上野に分霊を勧請して創建と伝わります。
慶安二年(1649年)朱印地四石を金杉村に給せられ御遷座。
宝永七年(1710年)には社地が東叡山領(ないし幕府用地)となったため、替地の浅草小揚町(現・台東区寿)へ御遷座といいます。

しかし、三島神社は里民の協議の結果、当地の熊野社と合祀されて元三島社となり、旧金杉村鎮守となって下谷七福神の寿老神もお祀りしています。

このあたりの経緯はなかなか複雑で、西蔵院がどの時点で三島神社の別当を務めたのかは追い切れませんでした。

金杉の三嶋明神社の本地は十一面観世音菩薩と伝わります。
こちらのWeb記事に『東都歳事記』に「江戸三十三所観音参」として記載されている観音霊場があり、その第33番は寿の三島明神内の十一面観世音菩薩といいます。

だとすると、金杉の三嶋明神社の本地の十一面観世音菩薩が寿に遷られて、この観音霊場の札所本尊となった可能性があります。


【写真 上(左)】 本社(寿)三島神社
【写真 下(右)】 本社(寿)三島神社の御朱印


【写真 上(左)】 元三島神社
【写真 下(右)】 元三島神社の御朱印


明治維新後は「御行の松」で有名な時雨岡不動堂を境外仏堂として護持されており、この時雨岡不動堂は、明治維新後廃寺となった上野の一乗院(第20番)を承継しているといいます。
荒川辺八十八ヶ所霊場第2番も兼務しています。

西蔵院は池波正太郎の『鬼平犯科帳」、『九鬼周造随筆集』にもその名がみえます。

文化財として「西蔵院棟札」があり、台東区有形文化財に指定されています。

『新編武蔵風土記稿』には、新義真言宗、足立郡元木村吉祥院末 圓明山寶福寺ト号ス 本尊大日とあり、稲荷社、護摩堂を擁したとあります。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)西蔵院
新義真言宗、足立郡元木村吉祥院末 圓明山寶福寺ト号ス 本尊大日 開山平眞ト云 寂年ヲ失ヒタレト天正十九年、上野郷ノ水帳ニモ寺号ヲ蔵タレハ古キ寺ナリ 浅草田原町続ニ祀ル三島明神(現・本社(寿)三島神社)ノ別当寺ナリ 稲荷社 護摩堂

『下谷区史』(国立国会図書館)
西蔵院(中根岸町二六番地)
京都智積院末、圓明山法福寺と号す。本尊大日如来。起立の年月は詳でないが、天正十九年の上野郷水帳にその名が見えているといひ、又近年土中より康安二年の文字ある板碑を発見したといふから、その古寺なることが察せられる。開山は法印平眞。(寂年未詳)中興は第二十世法印祐水。(文政二年八月二十一日寂)
神佛分離以前は三島神社の別当であったが、今は時雨岡不動堂及び釋迦堂を管理している。そして当寺の弘法大師は府内二十一箇所の第十一番であった。

『下谷区史』(国立国会図書館)
元三島神社
上根岸町四十二番地に鎮り座す。
祭神は伊佐那岐命、大山積命、上津姫命、下津姫命、和足彦命、嚴島姫命。
この社の創祀に就いては江戸名所図絵浅草三島神社條に、往古河野何某、本國豫州の地より此武蔵國へ赴くの海上にして、風波の難に逢、仍本國一宮の御神に祈り奉りしに、恙なく着岸せしかば神恩を報奉らむが為め、第宅の地に勧請ありし由と伝えている。
慶安二年(1649年)徳川家光より朱印地四石を金杉村のうちに於て給せられた。
しかし寶永七年(1710年)当社地は幕府用地となったために、浅草小揚町(現・台東区寿)に替地を給せられ、その地に遷座すると共に朱印地も浅草の三島社に属して行った。
こゝに於て後に遺された里民は協議の上、御分霊を同所の熊野社に合祀し、元三島と称へて篤く崇敬することゝなったのである。
新編武蔵風土記稿金杉村熊野社の條に「里俗に元三島と呼ぶ、前にいへる三島社地寶永年中御用地となり、替地を賜はらざる間は神體を假に此社内に移置けり、故に其此より当社を元三島とは称せりとぞ」とある。
(中略)境内社は二社。稲荷神社(祭神保食神)、菅原神社(祭神菅原道眞公)則ちそれである。
氏子は上根岸町、中根岸町、下根岸町及び荒川區日暮里町元金杉。
舊別当は新義真言宗智山派西蔵院(現中根岸町二六番地)であった。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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都内で御朱印集めを重ねていくと、古刹が集まっているのに不思議と御朱印授与情報が少ないエリアがあることが判ってきます。
その多くは真宗がメインのエリアで、これは教義上からみてもいたしかたないところでしょう。
これとは別に歴史ある札所が集まっていながら、御朱印授与情報が思うようにとれない地域があります。
台東区根岸エリアはその代表例といえましょう。

根岸は江戸期から知られた寺町で、かつては豊島郡金杉村根岸と呼ばれていました。
荒川辺八十八ヶ所、弘法大師御府内二十一ヶ所、江戸東方三十三観音、江戸東方四十八地蔵など古い霊場の札所は集まるものの、現役の御府内八十八箇所、豊島八十八ヶ所、江戸三十三観音などの霊場札所がないこと、加えて七福神札所をもたないことなどが、御朱印を拝受しにくい背景にあるかと思います。

根岸は西を荒川区東日暮里、東を台東区下谷にはさまれた南北に細長い街区です。
寺院の少ない東日暮里から根岸に流れてくる参拝客は稀でしょう。
下谷は鬼子母神(真源寺)をはじめとする下谷七福神の札所や三島神社、小野照崎神社などもある御朱印エリア。寺社巡りの参詣者は概ね下谷で止まってしまうため、その奥の根岸にはなかなか足を向けにくいという状況があるかと思われます。

しかし、ここ根岸には「根岸古寺めぐり」という9箇寺からなる寺院巡りのコースがあって、専用スタンプ(集印)帳方式で集印できるというのです。

第1番 東光山 長命院 薬王寺の薬師如来 台東区根岸5-18-5
第2番 大空庵の虚空蔵菩薩 台東区根岸5-8-12
第3番 佛迎山 往生院 安楽寺の阿弥陀如来 台東区根岸4-1-3
第4番 東国山 中養院 西念寺の一刀三礼三尊佛 台東区根岸3-13-17
第5番 鐡砂山 観音院 世尊寺の大日如来 台東区根岸3-13-22
第6番 補陀洛山 千手院の千手観世音 台東区根岸3-12-48
第7番 法住山 要伝寺の六曼茶羅 台東区根岸3-4-14
第8番 寶鏡山 円光寺の釈迦牟尼佛 台東区根岸3-11-4
第9番 関妙山 善性寺の釈迦牟尼佛 荒川区東日暮里5-41-14

この専用スタンプ帳は画像検索でまったくヒットせず、どういうものか皆目不明でした。一念発起 (^^; してこの集印を結願したので、■ 根岸古寺めぐりでご紹介しています。

しかし西蔵院は根岸の古刹でありながら、この「根岸古寺めぐり」には参画していません。
荒川辺八十八ヶ所霊場第2番、御府内二十一ヶ所霊場第11番の札所ですが、どちらもメジャー霊場ではなく、その点からすると比較的認知度の低い寺院かもしれません。

根岸へのアプローチ駅は三ノ輪(メトロ日比谷線・都営荒川線)、入谷(メトロ日比谷線)、JRの鶯谷ないしは日暮里となります。
大寺と整備された広幅員道、狭い路地と戸建住戸が複雑に入り混じる変わった感じの街区で、路地に迷い込むといきなり方向感を失うので要注意です。

位置的には根岸柳通り「根岸四丁目」交差点の南西です。
路地に面して、名刹らしい風格のある寺容をみせています。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 斜めからの山門
【写真 下(右)】 見事な山門の彫刻

山門は切妻屋根銅板葺の薬医門で、格高の門柱上部に見事な見返り唐獅子の木鼻彫刻を置いています。
脇塀に連接して入母屋造桟瓦葺の門屋を置き、ちょっと変わった意匠となっています。


【写真 上(左)】 根岸小学校発祥之地碑
【写真 下(右)】 御府内二十一ヶ所霊場札所標

門前には「根岸小學校発祥の地」の石碑と「御府内二十一ヶ所霊場第11番」(弘化年間(1845-1848年)銘)の貴重な札所標を置いています。


【写真 上(左)】 院号札
【写真 下(右)】 本堂

山門をくぐった山内は緑が少なく広々とした印象。

正面の本堂は堂前両側に端正な石灯籠を置き、コンクリ造ながら起り気味の銅板葺屋根を置いた寄棟造で、きりりと引き締まった意匠。
流れ向拝で向拝部の軒だけが照り(反り)を帯びるなど芸が細かいです。


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 向拝

向拝柱はないですが、格子扉の上に山号扁額、向拝前に香炉を置いています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 石佛群

本堂向かって左手には堂宇(御本尊尊格不明)、弘法大師一千五十年遠忌供養塔と庚申塔、
石佛群が並びます。
うち、五基の庚申塔は明暦二年(1656年)から正徳元年(1711年)の造立で、台東区の有形文化財に指定されています。

御朱印は以前(2016年)に庫裏にて拝受しましたが、2024年4月の参拝時には「現在コロナ禍におきまして、御朱印記帳を休止しております。」との張り紙がありました。


書置ならばいただけるかとお伺いしましたが、書置もお出しされていないとのこと。
こちらはWeb上で希少な「御府内二十一ヶ所霊場第11番」の札所印つきの御朱印がみつかるのですが、現況は上記のとおりで宿題となっています。

〔 西蔵院の御朱印 〕

中央に金剛界大日如来のお種子「バン」と大日如来の揮毫と三寶印。
左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第12番 鐡砂山 観音院 世尊寺
(せそんじ)
台東区根岸3-13-22
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第1番、根岸古寺めぐり第5番

第12番札所は金杉・根岸の世尊寺です。

『新編武蔵風土記稿』『下谷区史』、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

世尊寺は、豊嶋左近将監輝時の開基、賢栄(永和四年(1378年)寂)の開山で應安五年(1372年)創建という真言宗豊山派の古刹です。

『新編武蔵風土記稿』によると足立郡元木村吉祥院末で鐵砂山観音院と号し、御本尊は大日如来。

聖天社に奉安の御本尊と相殿の薬師如来は豊嶋輝時の守本尊とあります。
大師堂には弘法大師自作ノ長一尺七寸の尊像を安し、堂中には不動明王、愛染明王も安したと記されています。
他に地蔵堂もあったようです。

慶安二年(1649年)には寺領七石五斗の御朱印状を拝領といいます。
文化年間(1804~)開創とされる荒川辺八十八ヶ所霊場の第1番を勤められることからも、江戸期にはこのエリアで主導的な役割を担っていたことが伺われます。

荒川辺八十八ヶ所霊場は根岸の世尊寺で発願し、尾久、滝野川、江北、西新井、千住、綾瀬、掘切、八広、向島、亀戸、浅草などの札所を巡ったのち、同じく根岸の千手院で結願する弘法大師霊場で、江戸期に根岸の寺院が特別な地位を占めていたことが窺い知れます。

世尊寺は荒川辺八十八ヶ所霊場第1番をはじめ、御府内二十一ヶ所霊場第12番、根岸古寺めぐり第5番の3つの霊場札所を兼務されますが、いずれも知る人ぞ知る渋い霊場のためか、Web情報などは少なくなっています。

山内はさすがに広めで、古色を帯びた大師堂、御本尊大日如来、お大師様の御遺告所蔵など、真言密教の保守本流的なお寺のようにも思われます。

名刹だけに「紙本墨書御遺告(弘法大師の遺言書の写本)、紙本墨書御遺告(台東区登載文化財)、絹本着色仏涅槃図(台東区登載文化財)、本墨画普賢・文殊菩薩画像(台東区登載文化財)など多くの文化財を所蔵されます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 豊島郡巻七』(国立国会図書館)
(金杉村)世尊寺
同末(足立郡元木村吉祥院末)、鐵砂山観音院ト号ス 寺領七石五斗慶安二年八月御朱印ヲ附セラル 当寺ハ應安五年豊嶋左近将監輝時建立ス 開山賢榮永和四年十一月晦日寂セリ 本尊大日
聖天社 豊嶋輝時ガ守本尊ト云 相殿薬師モ同 石尊十羅刹稲荷合社
大師堂 弘法大師自作ノ像ヲ安ス 長一尺七寸 又堂中二不動愛染ヲ安セリ
地蔵堂

『下谷区史』(国立国会図書館)
世尊寺(中根岸町八八番地)
京都仁和寺末、鐡砂山観音院と号す。應安五年九月の創建にかゝり、開基は豊島左近将監輝時、開山は僧賢榮である。幕府より二石五斗の朱印地を給せられていた。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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入谷は御朱印エリアで、国道4号を越えた下谷エリアにも小野照崎神社、法昌寺や三島神社があって、御朱印マニアは入り込みますが、その先の金杉通りを越えて根岸エリアまで踏み込む人はまれです。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

世尊寺は、その根岸エリアに入ってしばらく行ったところにあります。
かなりの大寺ながら、山門は奥まった路地に面しているという根岸のお寺らしいたたずまい。


【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2

門柱を構え、その先にシャープな意匠の本堂を構えて、どことなくクールな雰囲気です。
しかし、山内に足を踏み入れると、左手に子育地蔵尊のお堂、右手に大師堂と、古色を帯びた堂宇があらわれ、俄然雰囲気が高まります。


【写真 上(左)】 子育地蔵尊と笠付地蔵六面幢
【写真 下(右)】 子育地蔵尊


【写真 上(左)】 根岸古寺めぐり第5番札所板
【写真 下(右)】 (かつてあった)古寺めぐりの御集印所

子育地蔵堂には三体の地蔵尊立像を奉安で、おそらく中央が子育地蔵尊と思われます。
柱には根岸古寺めぐり第5番の札所板が掲げられ、堂宇向かって右のアイロン台のような台のうえに、以前は根岸古寺めぐりのスタンプが置いてありました。


【写真 上(左)】 笠付地蔵六面幢
【写真 下(右)】 大師堂

その先の漆喰壁の堂宇の前には大ぶりな笠付地蔵六面幢が安しています。

参道の反対側には寄棟造桟瓦葺の大師堂。
すこぶる雰囲気のあるお堂で、こちらがあることで真言密寺の保守本流感を醸し出しています。


【写真 上(左)】 斜めからの大師堂
【写真 下(右)】 御府内二十一ヶ所の札所板


【写真 上(左)】 御府内二十一ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 福智六地蔵菩薩の石碑

堂前には御府内二十一ヶ所霊場第12番の札所標(文久三年(1863年)銘)と、「福智六地蔵菩薩」の石標。
向拝見上げには向かって右に弘法大師、左に六地蔵尊の扁額、その中央には「御府内廿一ヶ所第十二番」の真新しい札所扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 大師堂の扁額
【写真 下(右)】 御府内二十一ヶ所の札所扁額

こちらは荒川辺八十八ヶ所霊場第1番の打ち初めですが、掲示類を見る限り御府内二十一ヶ所の方が前面に出ている感じです。


【写真 上(左)】 大師堂堂内
【写真 下(右)】 お大師さま

堂内は開放されていて、正面に線刻の六地蔵尊。
その背後上部の厨子内には弘法大師坐像が御座され、その下には御府内二十一ヶ所の奉納額(明治31年)が置かれて、少なくともこの頃まではこの霊場が盛んに回られていたことをうかがわせます。


【写真 上(左)】 奉納額
【写真 下(右)】 本堂

本堂は近代建築ながら屋根の相輪と向拝見上げの山号扁額が、名刹の本堂の風格を保っています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

予想に反して本堂の扉は開きました。
高い天井から吊られた豪壮な天蓋の向こう、中央に智拳印を結ばれた金剛界大日如来坐像、向かって右手に観世音菩薩立像、左手には地蔵菩薩立像が御座されています。


【写真 上(左)】 庚申塔
【写真 下(右)】 庫裏

山内の庚申塔は延宝二年(1674年)の造立で、正面に邪鬼を踏む青面金剛像が刻まれ、その左右と下方には二童子、四夜叉、二鶏、一猿が刻まれるという、いささか変わった像容で台東区の有形民俗文化財に指定されています。


根岸古寺めぐり巡拝時には庫裡に伺い御朱印授与につきお尋ねしましたが、揮毫の御朱印は授与されておらず、古寺めぐりのスタンプにて、とのことでした。
たしかに、スタンプは御寶印で寺院名も捺せ、別に古寺めぐりの札番印(つぶれ気味だが)もありますから御朱印とみることができます。


根岸古寺めぐりの専用スタンプ(集印)帳とスタンプ(集印)

スタンプは子育地蔵堂のよこに設置されていましたが、2024年4月参拝時にはスタンプはありませんでした。


〔 世尊寺の御朱印 〕※根岸古寺めぐりの集印


主印(蓮華座+火炎宝珠)の種子はやや不明瞭ですが、金剛界大日如来の荘厳体種子(五点具足婆字)「バーンク」と思われます。右上に不明瞭ながら「第五番」の札所印。
右上に寺院名と尊格の印刷があります。

寺号と御寶印を備えたこのスタンプ(印判)はどうみても「御朱印」なので御朱印帳にもいただきました。




■ 第13番 東光山 等印院 龍泉寺
(りゅうせんじ)
台東区竜泉2-17-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:
司元別当:千束稲荷神社(台東区竜泉)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第3番、東都北部三十三観音霊場第25番

第13番札所は台東区竜泉の龍泉寺です。

下記史料、現地掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

創建年代、開基とも不詳ですが、法印深盛(天正十九年(1591年)寂)の中興で、地名(龍泉寺町)の由来となったという名刹です。

周辺は古くは当山の寺領でしたが、家康公関東入國以後は幕府領となり、正保(1644-1648年)以後は東叡山領となったといいます。
明治維新前は千束稲荷社の別当と伝わります。

関東大震災に罹災し、現伽藍は震災後に建立されています。

『寺社書上』『御府内寺社備考』によれば大塚護國寺末の新義真言宗で御本尊は大日如来木像。

境内に千束稲荷神社が御鎮座で、本地は十一面観世音菩薩とあります。
当社は源頼朝公とのゆかりがあったようですが詳細は不明です。

千束稲荷神社公式Web『東京都神社庁Web』によると、御祭神は倉稲魂命、素盞鳴尊。
江戸時代初期(おそらく寛文年間(1661-1672年))の創建と伝えられ、竜泉寺村(北千束郷)の氏神様とのこと。(明治5年村社に列す)
千束稲荷はかつて浅草寺境内の上千束稲荷(西宮稲荷)と、当社の前身である下千束稲荷の二社に分かれていましたが、上千束稲荷は現存していません。

樋口一葉の名作『たけくらべ』は当社の祭礼が舞台になっており、『たけくらべ』ゆかりの神社として境内には樋口一葉の文学碑も建立されています。

龍泉寺は千束稲荷神社の別当だけでなく、荒川辺八十八ヶ所霊場第3番、東都北部三十三観音霊場第25番の札所を務められ、相応の参拝者を集めていたものとみられます。
いまは下町らしい碁盤の目状の街区に、静かなただずまいをみせています。

なお、荒川辺八十八ヶ所霊場の札所本尊は大日如来、東都北部三十三観音霊場の札所本尊は十一面観世音菩薩とも考えられますが、それを伝える史料はみつかりませんでした。

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【史料・資料】

『寺社書上 [118] 下谷寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.46』
大塚護國寺末 下谷龍泉寺町 
真言宗新義
東光山等印院龍泉寺
起立相知不申候 開基相分不申候
中興 法印深盛 天正十九年(1591年)二月八日寂
本堂
 本尊 大日木像遍照殿之額字。
境内 千束稲荷神社
 拝殿三間二間
 神體 翁之形ニテ稲ヲ荷ヒテ立リ 丈一尺
 本地 十一面観音
 右社●頼朝公御心願あり 霊夢によって夢想の神薬を出す 人参五香湯といふ 諸病によし
 末社疱瘡神
 椎木あり囲ニ抱奉七本ニ分ル 第六天ノ神体トナセリ

当寺ハ此地第一の古跡なり 往古ハ新吉原等も此寺の領●なり 今以龍泉寺町といふあり 此所の千束稲荷神社も当寺の兼帯なり(続江戸砂子)
当寺の開山詳ならす もとより其時代を伝へす。されと龍泉寺を以って地名とすれハ古き寺なること知るへし 古き武蔵國図にハ龍泉寺村と載たり(江戸記聞)

『下谷区史』(国立国会図書館)
龍泉寺(龍泉寺町四〇一番地)
京都智積院末、東光山等印院と号す。本尊大日如来(大正十二年九月焼失)。その起立は詳かでないが、中興の法印深盛は天正十九年(1591年)二月八日に寂したといへば相応の古寺である。町名(もと村名)もこの寺名によって起り、古くは当寺の寺領であったが、家康の關東入國以後幕府の領地となり、正保以後東叡山領となった。維新前は千束稲荷社は当寺の持であった。



出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』今戸箕輪浅草絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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竜泉は入谷・千束の北側、三ノ輪寄りの街区で下谷のお隣です。
場所柄、寺社が多く、御朱印を授与される寺社も少なくありませんが、御朱印エリアのイメージはさほど強くありません。
その理由として、竜泉の複数の寺院が「下谷七福神」の札所となっていることもあるかと思います。(下谷の寺院のイメージがある。)

龍泉寺は国道4号日光街道から1本入った路地に面しているので、意外に目立ちません。
この路地は「一葉桜・光月通り」といい、南下するとかっぱ橋道具街ですがここまでくると車通りも人通りもまばらな静かな一画です。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 山内入口


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

まわりをビル群に囲繞されていますが、築地塀に門柱、その正面に本堂を構え、古刹の風格をただよわせています。
門柱手前に寺号標。正面階段参道の上に本堂がそびえています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。バランスのとれた端正な意匠です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置いています。
向拝正面サッシュ扉の上に山号扁額。
賽銭箱はなく、向拝まわりに札所を示すものもありません。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 石塔・石佛群

しかし、本堂向かって左手には弘法大師一千百年遠忌報恩塔、弘法大師百度石、石塔・石佛群などが並び、本堂に相対する大師堂には弘法大師坐像が御座されて、弘法大師霊場札所であることを物語っています。


【写真 上(左)】 弁天堂と大師堂
【写真 下(右)】 弁天堂


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂よこの弘法大師碑

本堂向かって右手には福徳弁財天が御座されます。
台座銘によると令和4年秋奉安の比較的新しい尊像のようです。

筆者の経験によると、本堂に賽銭箱のない寺院は御朱印不授与のケースが比較的多いですが、こちらも御朱印は不授与とのことでした。

江戸期に別当を務められた千束稲荷神社の御朱印をあげておきます。

〔 千束稲荷神社の御朱印 〕


【写真 上(左)】 千束稲荷神社
【写真 下(右)】 千束稲荷神社の御朱印


■ 第14番 恵日山 延命寺 地蔵院
(じぞういん)
台東区元浅草1-15-8
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第84番、弘法大師二十一ヶ寺第5番

第14番は元浅草の地蔵院です。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

地蔵院の開山は蓮祐で年代不明ですが、第二世法印慶良は寛永十一年(1634年)寂と伝わることから安土桃山時代〜江戸時代初期にかけての創建とみられています。

『寺社書上』『御府内寺社備考』には江戸大塚護持院末の新義真言宗とあります。
同書によると、御本尊は地蔵菩薩、相殿に弘法大師、興教大師の尊像を奉安。
「弘法大師 八十四番」とあるので、荒川辺八十八ヶ所霊場第84番札所として知られていたことがわかります。

護摩堂には愛染明王、不動明王、毘沙門天王を安し、地蔵堂には石地蔵尊立像が御座と記されています。

奉安の尊像、3つの弘法大師霊場の札所であったことからも、保守本流の真言密寺であることがうかがえます。

当山は史料類が少なく、これ以上は辿れませんでした。

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【史料・資料】

『寺社書上 [81] 浅草寺社書上 甲六』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.56』
江戸大塚護持院末 浅草新寺町
新義真言宗
恵日山延命寺地蔵院
開山 蓮祐 年代不知。
第二世法印慶良 寛永十一年九月四日寂
本堂
 本尊 地蔵菩薩 厨子入立像
相殿
 弘法大師 八十四番 厨子入座像
 興教大師 厨子入座像
護摩堂
 本尊 愛染明王座像 不動明王立像 毘沙門天王立像
地蔵堂 石地蔵尊立像



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』浅草御蔵前辺図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはメトロ銀座線「稲荷町」駅で徒歩数分。
元浅草~寿とつづく、御府内八十八ヶ所の札所密集エリアにあります。

「稲荷町」駅から南に伸びる清洲橋通りの1本東側路地に面しています。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 院号標

前面道路から拝すと、門柱とその前に院号標、右手に十三重石塔、左手に羯磨金剛(かつまこんごう)が描かれた堂宇、そして正面に寺院建築の本堂と、お寺感ばりばりの寺容です。


【写真 上(左)】 門柱の院号標
【写真 下(右)】 山内


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂

参道左手にはしっかり御府内二十一カ所の札所標が置かれています。
その先左手の側面に羯磨金剛が描かれた堂宇は向拝が設けられていますが、堂宇本尊はうかつにも訊き忘れたので不明です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

正面の本堂は入母屋造桟瓦葺で流れ向拝。
向拝身舎に設けられた横長の格子つき花頭窓が個性的ないい本堂です。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に蟇股を置き、向拝正面硝子扉の上には山号扁額を掲げています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 地蔵院の御朱印 〕

 

中央に地蔵大菩薩と地蔵菩薩のお種子「カ」、右に梵字、左に「南無遍照金剛」の揮毫と「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内廿一ヶ所第十四番」の札所印。
左に山号・院号の揮毫と寺院印が捺されています。

完璧な「御府内廿一ヶ所」の御朱印、山内の「御府内廿一ヶ所」札所標と、「御府内廿一ヶ所」の現役札所であることを実感できる貴重な寺院です。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-5

記事リスト



【 BGM 】
■ ebb and flow 【凪のあすからOP】 - LaLa(歌ってみた)


■ 滴 - 今井美樹


■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里
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■ 小田和正特集

先ほどNHKで小田和正特集の再放送やってましたね。
しかし、70歳代でこの張りのあるハイトーンとは・・・。

番組の〆で、自分の歌いはじめ(原点?)は鈴木康博とのハモりにあったと語っていた。

世間一般ではメガヒットを重ねた小田和正のソロシンガーのイメージが強いかもしらんが、たしかにオフコースはコーラスグループでもあったと思う。

■ 思いのままに - オフコース 『Three and Two』(1979年)


■ 愛を止めないで - オフコース 1981.2.10 HD


ハーモニーとアンサンブルがポップミュージックの中心にあった時代。
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■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-3

Vol.-2からのつづきです。


■ 第7番 仏到山 無量寿院 西光寺
(さいこうじ)
公式Web

台東区谷中6-2-20
新義真言宗
御本尊:五大明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第70番、弘法大師二十一ヶ寺第15番、上野王子駒込辺三十三観音霊場第7番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-23 をベースに再編しています。

第7番札所は谷中の西光寺です。

西光寺はかつて御府内八十八ヶ所霊場第70番札所でしたが、現在第70番札所は練馬石神井の禅定院に替わっています。

御府内霊場第70番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに谷中の西光寺となっており、第70番札所は御府内霊場開創当初から江戸末期まで谷中の西光寺で、明治初頭以降に石神井の禅定院に変更となった可能性があります。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

西光寺は慶長八年(1603年)、傳燈大阿闍梨妙音院法印宥義大和尚(佐竹氏代16代当主・義篤次子、元和四年(1618年)寂)が幕府より神田北寺町に寺地を賜り開山といいます。
開基檀越は佐竹右京大夫義宣。
当山は佐竹氏との所縁がふかいので、佐竹氏について少しく追ってみます。

佐竹氏は新羅三郎源義光公の孫昌義(1081-1147?年)が常陸国久慈郡佐竹郷(現・茨城県常陸太田市)に土着し、佐竹氏を称したという清和源氏の名族です。

源平合戦では平家にくみしたため頼朝公により所領を没収された(Wikipedia)ものの、後に再興し奥州討伐では鎌倉方に加わりました。
南北朝時代の8代当主・貞義、9代・義篤は足利氏に応じて北朝方として活躍し、その功から守護職に任ぜられて家勢は興隆しました。

足利満兼公制定と伝わる「関東八屋形」に列せられ、戦国時代の15代当主・義舜は反目する佐竹山入家を討って佐竹氏統一を果たし、18代の義重は常陸の大半を支配下に置き、奥州南部にも進出して有力戦国大名としてその名を馳せました。

義重の子・19代義宣は秀吉公の小田原征伐に参陣し、常陸國54万5800石の大名となり、
徳川・上杉・毛利・前田・島津とともに「豊臣六大将」と呼ばれるほど勢力を拡大。

佐竹義宣は佐竹義重の嫡男で母は伊達晴宗の娘。
官位は従四位上・左近衛中将、右京大夫を賜るという、家柄・格式を有する、名実兼ね備えた太守でした。

義宣は幾度か石田三成のとりなしを受け、天正十八年(1590年)三成の忍城攻めに加勢したこともあり、石田三成との関係は良好でした。
慶長四年(1599年)3月、前田利家逝去ののち、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政らが三成の屋敷を襲撃した際、義宣が三成を女輿に乗せ、宇喜多秀家邸に逃れさせたという逸話は有名です。
また、秀吉から羽柴姓を与えられるなど豊臣色の強い大名でした。

関ヶ原の戦いでは水戸城へ引き上げ、積極的に徳川方に与力しなかったため戦後咎を受けましたが家康公に謝罪し、家名断絶は遁れたものの出羽国秋田、54万石から20万石への減転封となりました。

義宣が家康公から転封の沙汰を受けたのは慶長七年(1602年)5月(Wikipedia)、出羽(秋田)入国は同年9月なので、水戸から秋田への転封直後にみずから開基となって西光寺を創建(慶長八年(1603年))したことになりますが、その背景は史料からは辿れませんでした。

慶安元年(1648年)神田北寺町の寺地が幕府用地として収公、谷中の現所に替地となりました。
慶安二年(1649年)佐竹修理大夫義隆(秋田久保田藩第2代当主)が堂舎を再建したため、義隆は中興開基とされます。
以降何度か火災に遭っていますが、都度佐竹家により再建されています。

公式Webによると、当山は「秋田藩(秋田市)佐竹家・伊勢津藩(三重県津市)藤堂家の祈願寺として信仰されてきた歴史」があるそうです。

公式Webによると、仏寺創建の際には藤堂高虎が財政的支持をおこなったと伝えられ、山内の韋駄天像は藤堂高虎安置と伝わり、別名「韋駄天寺」とも称されたようです。

江戸時代の西光寺は御府内二十一ヶ所霊場のほか、御府内八十八ヶ所霊場、弘法大師二十一ヶ寺、上野王子駒込辺(西國)三十三観音霊場の札所を兼ねられてお大師さまとの所縁もふかい寺院です。

明治初頭の神仏分離の波も乗り越えているのに、おそらく明治初頭以降のどこかのタイミングで御府内八十八ヶ所霊場第70番の札所は石神井の禅定院に変更となっています。

西光寺は和歌山の根來寺を総本山とする新義真言宗。
禅定院は真言宗智山派で宗派も異なり、変更の理由についてはよくわかりません。


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【史料・資料】

『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
七十番
谷中 門前町あり
佛到山 無量壽院 西光寺
本所彌勒寺末 新義
本尊:不動明王 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考 P.98』
谷中 不唱小名
本所彌勒寺末
佛到山無量壽院西光寺
当寺之濫觴慶長八年(1603年) 開山宥義 於神田北寺町寺地拝領仕
堂舎 佐竹右京太夫義宣公建立
慶安元年(1648年)右寺地御用地ニ付 於当所旧地之●第四世宥鏡代拝領仕
慶安二年(1649年)佐竹修理太夫義隆公堂舎再建仕候

開山 伝灯大阿闍梨法印宥義、俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男 元和四年(1618年)寂
開基 佐竹右京太夫義宣公 寛永十年(1633年)卒
中興開基 佐竹修理太夫義隆公(秋田久保田藩第2代当主) 寛文十一年(1671年)卒

本堂
 本尊 不動尊鋳型座像 附二童子木像
 四大明王木像 十一面観音木像 聖天府秘符
 阿弥陀如来木像
 弘法大師木像 興教大師木像
 愛染明王木像座像 地蔵菩薩木像座像 不動明王古像座像
境内鎮守社 天神稲荷疱瘡合殿
十一面観音石像
地蔵尊石像
韋駄天石像

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
西光寺(谷中上三崎南町二〇番地)
本所彌勒寺末、佛到山無量壽院と号す。本尊不動明王、五大尊。慶長八年(1603年)、開山妙音院宥義。(佐竹義篤次子、元和四年(1618年)寂)
幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、佐竹右京大夫義宣開基檀越として当寺を創建した。慶安元年(1648年)同所幕府用地となるや、現所に替地を給せられ、翌二年(1649年)佐竹修理大夫義隆堂舎を再建した。義隆はために中興開基と呼ばれる。時の住持は第四世宥鏡であった。(略)
佐竹家の他に藤堂家の祈願所であつた。境内の韋駄天石像は同家の寄進する所で、韋駄天寺の俗称は之に基くのである。



「西光寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約10分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。

三崎坂から南下して瑞輪寺よこを通り一乗寺に向かう路地沿いには、いくつかの寺院があってそのひとつ。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 韋駄天石碑

山内入口は門柱で、その横には「足病平癒 韋駄天安置 藤堂候 佐竹候旧御府内祈祷所」の石碑。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 左が韋駄天



【写真 上(左)】 石佛群-1
【写真 下(右)】 石佛群-2

正面が本堂、向かって左奥が庫裏(寺務所)というシンプルな伽藍配置です。
参道右手手前から、六地蔵、地蔵尊、十一面観世音菩薩、韋駄天、庚申様、如意輪観世音菩薩などの古色を帯びた石佛が並びます。

韋駄天は四天王の増長天に従う八将の一神で、走力に優れ邪神を追い払うことから伽藍の守護神とされ、とくに禅刹の庫裏(玄関)によく祀られています。


【写真 上(左)】 庫裏側の石像と句碑
【写真 下(右)】 本堂

本堂はおそらく切妻造桟瓦葺流れ向拝で手前に修行大師像とかわいい地蔵尊像が御座します。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

向拝は水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に蟇股を置いています。
正面硝子戸には佐竹家の家紋「佐竹扇/五本骨扇に月丸」が描かれ、見上には山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
西光寺は以前は御朱印不授与でしたが、近年カラフルな月替わり御朱印で一気に人気のお寺となり、おそらく参拝者(というか絵御朱印ファン)の数は御府内八十八ヶ所霊場の札所より多いかと思います。
絵御朱印の威力おそるべし。

なお、こちらは授与日・授与時間限定でで案内が出ています。
授与日がすくなく授与時間も短いのでこのサイトで事前確認必須です。


〔 西光寺の御朱印 〕

 

中央に「五大明王」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。カラー御朱印の場合は主印が不動明王の御影となるようです。
右に「佐竹候藤堂候祈祷所」の印判。
左に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第8番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
(ちょうきゅういん)
台東区谷中6-2-16
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第55番、江戸八十八ヶ所霊場第55番、弘法大師二十一ヶ寺第19番、閻魔三拾遺第4番、江戸・東京四十四閻魔参り第12番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-19 をベースに再編しています。

第8番は谷中の長久院です。

第55番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに長久院で、第55番札所は開創当初から谷中の長久院であったとみられます。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

長久院は、慶長十六年(1611年)幕府より賜地を得て宥意上人が神田北寺町に開山、慶安十一年(1658年)幕府による寺地召上げを受け、代地として賜った谷中の現在地へ移転したといいます。

『下谷区史 〔本編〕』によると、神田北寺町での賜地および創建、谷中への移転の事由や時期は多寶院(第49番)、自性院(第53番)と同様とみられます。

江戸期の長久院は、本堂に御本尊の金剛界大日如来、弘法大師、興教大師、不動尊、愛染明王、薬師如来、歓喜天三躰、地蔵尊を奉安し、御府内霊場としての要件を満たしていたとみられます。

本堂とは別に閻魔法王石像(台石とも六尺)を奉安。
こちらは閻魔三拾遺第4番、江戸・東京四十四閻魔参り第12番の札所となっており、御府内でも著名な閻魔様であったことがわかります。

こちらの閻魔法王石像は右左にそれぞれ司命、司録像を配し「六十六部造立石造閻魔王坐像及び両脇侍像」として台東区登載文化財に指定されています。
なお、閻魔法王(大王)王冥界の王で、司命は閻魔王の判決を言い渡し、司録は判決内容を記録する従者であるとされます。

台座銘文に六十六部聖の光誉円心が享保十一年(1726年)に造立とあります。
六十六部聖とは、生前の罪障を滅し、死後の往生に近づくために法華経を六十六部写経し、全国の六十六箇所の霊場に一部ずつ奉納して回る聖のことをいいます。

六十六部聖は巡拝先に奉納経石塔を建立することが多いですが、石仏を奉納する例もみられます。
石仏は地蔵菩薩が多く、閻魔王像は極めて稀であるとされ、この稀少さもあって区登載文化財に指定されている模様です。

『寺社書上』には「飯縄不動安置」とあり、飯縄修験の流れが入っていた可能性があります。
同じく『寺社書上』にある「稲荷社」は、鎮守神かもしれません。

長久院は「弘法大師二十一ヶ寺」第19番の札所でもあります。
この霊場は、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」が伝える弘法大師霊場で、この附版木は寛政二年(1790年)の開版ですからかなり古い来歴をもちます。

これとは別に「弘法大師 御府内二十一ヶ所」という霊場もあります。
「ニッポンの霊場」様によると、この霊場は元禄(1688年)から宝暦(1751年)の間に開創とされる古い霊場で、宝暦五年(1755年)頃の開創とされる御府内霊場より古い可能性があります。

二十一ヶ所霊場は、八十八ヶ所霊場のミニ版として開創され八十八ヶ所と札所が重複するケースもみられますが、「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」ともに御府内霊場(八十八ヶ所)との札所重複は多くありません。

ご参考までにリストします。
なお、「弘法大師二十一ヶ寺」の札所の出所は↓『御府内八十八ヶ所 弘法大師二十一ヶ寺 版木』(台東区教育委員会刊)です。



【弘法大師二十一ヶ寺】
1番 萬昌山 金剛幢院 圓満寺
 真言宗御室派 文京区湯島1-6-2
2番 宝塔山 多寶院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-35
3番 五剣山 普門寺 大乗院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-16
4番 清光院 台東区下谷(廃寺)
5番 恵日山 延命寺 地蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草1-15-8
6番 阿遮山 円満寺 不動院
 真言宗智山派 台東区寿2-5-2
7番 峯松山 遮那院 仙蔵寺
 真言宗智山派 台東区寿2-8-15
8番 高野山 金剛閣 大徳院
 高野山真言宗 墨田区両国2-7-13
9番 青林山 最勝寺 龍福院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-17-2
10番 本覚山 宝光寺 自性院
 新義真言宗 台東区谷中6-2-8
11番 摩尼山 隆全寺 吉祥院
 真言宗智山派 台東区元浅草2-1-14
12番 神勝山 成就院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-8-12
13番 広幡山 観蔵院
 真言宗智山派 台東区元浅草3-18-5
14番 望月山 般若寺 正福院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-7-21
15番 仏到山 無量寿院 西光寺
 新義真言宗 台東区谷中6-2-20
16番 鶴亭山 隆全寺 威光院
 真言宗智山派 台東区寿2-6-8
17番 十善山 蓮花寺 密蔵院
 真言宗御室派 中野区沼袋2-33-4(移転)
18番 象頭山 観音寺 本智院
 真言宗智山派 北区滝野川1-58-2
19番 瑠璃光山 薬王寺 長久院
 真言宗豊山派 台東区谷中6-2-16
20番 玉龍山 弘憲寺 延命院
 真言宗智山派 台東区元浅草4-5-2
21番 宝林山 大悲心院 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派 文京区湯島2-21-6

このうち、「御府内八十八ヶ所」「弘法大師二十一ヶ寺」「弘法大師 御府内二十一ヶ所」の3つの霊場すべての札所となっているのは、霊雲寺(第28番/湯島)、多寶院(第49番/谷中)、自性院(第53番/谷中)、長久院(第55番/谷中)の4箇寺しかなく、札所重複が少ないことを示しています。
※( )は御府内八十八ヶ所霊場の札番。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十五番
谷中寺町
瑠璃光山 薬王寺 長久院
本所弥勒寺末 新義
本尊:阿弥陀如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.97』
谷中不唱小名
新義真言宗 本所弥勒寺末
瑠璃光山薬師寺長久院
慶長十六年(1611年)二月、神田北寺町ニ●寺地拝領仕 其後慶安元年(1648年)右地所御用地ニ相成 同年十一月廿一日当所ニ●代地拝領仕候
開山宥意 寛永四年(1627年)正月三日寂
本堂
 本尊金剛 大日如来木像
 弘法大師 興教大師 不動尊
 愛染明王木坐像 薬師如来木坐像 歓喜天三躰金佛厨子入 地蔵尊木立像
宝篋印塔
閻魔法王石像、臺石共六尺
稲荷社
飯縄不動安置

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
長久院(谷中上三崎町一七番地)
本所彌勒寺末、瑠璃光山薬師寺と号す。本尊大日如来。当寺も亦多寶院、自性院等と同じく慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧宥意。(寛永四年(1627年)一月三日寂)
境内に飯綱不動、石像閻魔等を安置する。



「長久院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「長久寺」となっています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約10分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。

三崎坂から南下して瑞輪寺よこを通り一乗寺に向かう路地沿いには、いくつかの寺院があってそのひとつ。
谷中寺町のほぼ中心部です。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 閉門時の山門

路地から少し引き込み、左右に築地塀と植栽をめぐらした山門の構えはなかなか風格があります。

山門は切妻屋根桟瓦葺の薬医門ないし高麗門で、見上げに院号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 山門の扁額
【写真 下(右)】 山内

山門をくぐると左手に智拳印を結ばれる金剛界大日如来像。


【写真 上(左)】 大日如来像
【写真 下(右)】 本堂と大師堂

参道正面が庫裡で、その右手に本堂、さらにその右手前に直角に向きを変えて大師堂。
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股。
端正に整ったいい本堂です。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 閻魔様

本堂向かって右の堂前には、閻魔様、司命、司録が御座しています。
そばには「『笑いえんま』とよばれています。」という木板も掲げられていました。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂の扁額

大師堂は屋根に宝珠をおいた宝形造で流れ向拝。
向拝まわりの柱や虹梁はいずれも直線で、きっちりまとまった印象です。

御朱印は本堂向かって左の庫裡にて拝受しました。
なお、こちらは16:00閉門なので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 長久院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十五番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています


■ 第9番 寶塔山 龍門寺 多寶院
(たほういん)
台東区谷中6-2-35
真言宗豊山派
御本尊:多宝如来
札所本尊:多宝如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第49番、江戸八十八ヶ所霊場第49番、弘法大師二十一ヶ寺第2番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-16 をベースに再編しています。

第9番は谷中の多寶院です。

下記史料、寺伝・縁起書、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

多寶院は、慶長十六年(1611年)幕府から神田北寺町に寺地を賜り建立されました。
開山は大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)、開基は不明です。

慶安元年(1648年)同所が幕府用地として召し上げとなり、現寺地に替地を得て移転しています。
湯島根生院の末寺の新義真言宗寺院で、御本尊は行基菩薩作と伝わる多宝如来です。
多宝如来は法華経に記され、東方・宝浄国の教主の如来です。

多宝如来は単独で奉安されることは少なく、御本尊の例もほとんどありません。
ただし、日蓮宗では法華経信仰に基づき釈迦如来とともに二体一組で信仰され重要なポジションです。
とくに、題目宝塔の両脇に釈迦如来と多宝如来を配した「一塔両尊」という安置形式は日蓮宗特有の御本尊として多くみられます。

密教では作例は少なく、札所本尊の例もほとんどないので当山の多宝如来は稀少です。
ちなみに、本四国八十八ヶ所に札所本尊が多宝如来の例はなく、他の弘法大師霊場でもみたことがありません。

当山は吉祥天の奉安でも知られています。
吉祥天はヒンドゥー教の女神・ラクシュミーが仏教にとり入れられたもので、仏教では母は鬼子母神、夫を毘沙門天とされます。

鬼子母神はとくに日蓮宗で信仰される尊格で、この点からも日蓮宗の影響が想起されますが当山は当初から純然たる密寺のようです。
この点は弘法大師霊場である御府内霊場の「御府内八十八ヶ所大意版木」が、多寶院が中心となって開版されたことからもわかります。

また、谷中エリアでの代表的な弘法大師霊場は、
 1.御府内霊場(御府内八十八ヶ所霊場)
 2.弘法大師 御府内二十一ヶ所霊場
 3.弘法大師二十一ヶ寺
の3つありますが、多寶院は3つの霊場すべての札所となっており、弘法大師巡拝に外せない寺院であったことがわかります。
(「御府内八十八ヶ所大意版木」、「弘法大師二十一ヶ寺御詠歌所附版木」ともに当山に収蔵。)

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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
四十九番
谷中門外
寶塔山 龍門寺 多宝院
湯嶋根生院末 新義
本尊:多宝如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.57』
湯島根生院末 谷中不唱小名
寶塔山龍門寺多宝院
慶長慶長十六年(1611年)二月十五日神田小寺町ニ寺地所拝領仕 其後慶安元年(1648年)御用地ニ●召上当時之地所拝領仕候
開山大僧都法印宥純(寛永五年(1628年)寂)
開基不分明
中興開山権大僧都法印澄正
本堂
 本尊 多宝如来 行基菩薩作
聖天堂
 聖天尊像
稲荷社
四国写八十八ヶ所碑三本 第四十九番目
石地蔵尊

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
多寶院(谷中町三二番地)
湯島根生院末、寶塔山龍門寺と号す。本尊多寶如来、開山宥純(寛永五年(1628年)八月五日寂)。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給せられて建立した。慶安元年(1648年)同所が幕府の用地となるに及び現地に替地を給うて移転した。



「多宝院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋.国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本郷湯島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約8分。メトロ千代田線「千駄木」駅からも歩けます。
(→ 谷中マップ
千駄木(団子坂下)から谷中に登る三崎坂(さんざきざか)が谷中霊園に月当たるところにあり、谷中界隈では比較的開けたところです。

門柱に札所札。門柱手前に吉祥天安置標。
門柱脇にも札所標がありますが、写真がうまく撮れていません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 つつじの時期の門柱


【写真 上(左)】 門柱の院号札
【写真 下(右)】 吉祥天安置標

参道左手に六地蔵を含む地蔵尊、その先に慈母観音。
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に板蟇股。
見上げに山号扁額を掲げています。
雰囲気のあるいい本堂で、落ち着いて参拝ができます。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂向かって右手に谷中吉祥天のお堂。
堂前には幟がはためき、向拝見上げには「吉祥天」の扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 谷中吉祥天
【写真 下(右)】 谷中吉祥天の扁額

背後に円光(輪光)、胸部に瓔珞(ようらく)を帯び、右手は与願印、左手には宝珠を持たれる煌びやかな立像です。
吉祥天は仏教のなかでも屈指の美形の尊格として知られますが、こちらのお像も整った面立ちです。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
なお、「谷中吉祥天」の御朱印は不授与とのことです。


〔 多寶院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

【専用集印帳】
中央に「本尊多宝如来」「弘法大師」の揮毫とお種子の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第四十九番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。
多宝如来のお種子は「ア」とされますが、このお種子は「ア」ではないと思われます。


■ 第10番 本覚山 寶光寺 自性院
(じしょういん)
公式Web

台東区谷中6-2-8
新義真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
司元別当:
他札所:御府内八十八ヶ所霊場第53番、江戸八十八ヶ所霊場第53番、弘法大師二十一ヶ寺第10番

※この記事は御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-18 をベースに再編しています。

第10番は「谷中愛染堂」とも呼ばれる谷中の自性院です。

第53番札所は『御府内八十八ケ所道しるべ』江戸八十八ヶ所霊場ともに自性院で、第53番札所は開創当初から谷中の自性院であったとみられます。

公式Web、下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

自性院は、慶長十六年(1611年)、道意上人により江戸神田北寺町(現・千代田区神田錦町)に開創、慶安元年(1648年)幕府用地となったため、谷中の現在地を賜り移転と伝わります。

中興開山は第9世貫海上人。
元文年間(1736-1741年)上人が境内の楠を切り彫刻された像高1メートルの像内には、上人が高野山参詣のとき奥之院路上で拾われた小さな愛染明王が納められているといいます。(公式Webによると、「近年修理をしたところ像内より胎内仏を確認」とのこと。)

当山は愛染堂安置の愛染明王像で知られ、文化文政の頃(1804-1830年)になると、その名は近在まで広がり「愛染寺」と呼ばれて親しまれたそうです。

愛染明王はとくに縁結び、家庭円満のご利益で信仰されます。
昭和12年(1937年)1月から翌年5月にかけ「婦人倶楽部」に連載された、文豪・川口松太郎の『愛染かつら』は、当山奉安の愛染明王の縁結びのご利益と本堂前のかつらの古木をモチーフとして書かれた作品といいます。(作品中では「永法寺」として描かれる。)

主人公ふたりは当山の愛染堂前のかつらの木に手をふれ、愛染明王に愛を誓約しました。恋人同士がこうして誓うと、将来かならず結ばれるという筋書きで、「愛染かつら」は昭和13年(1938年)松竹映画として、上原謙と田中絹代が共演して大ヒットとなりました。

また、映画の主題歌『旅の夜風』(昭和13年)を歌った霧島 昇と松原 操(ミス・コロムビア)が共演をきっかけに結ばれるというエピソードもあいまって、当山の愛染明王への参詣者は急増したといいます。

いまは谷中の奥まった一画で、御府内霊場巡拝者を迎える静かな寺院となっています。


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【史料・資料】
『御府内八十八ケ所道しるべ 人』(国立国会図書館)
五十三番
谷中寺町
本覺山 寶光寺 自性院
本所弥勒寺末 新義
本尊:大日如来 弘法大師 興教大師

『寺社書上 [110] 谷中寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.99』
本所彌勒寺末
谷中不唱小名
本覺山寶光寺自性院
新義真言宗
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
慶長十六年(1611年)二月 神田北寺町ニ而拝領仕候処 其後慶安元年(1648年) 御用地ニ奉差上、於当所代地拝領仕候
開山 道意上人
本堂
 本尊 金胎両部大日如来木像坐像 弘法大師木像 興教大師木像 不動尊木像 薬師如来木立像
宝篋印塔
地蔵堂 地蔵尊石像
中興開山 貫海上人
愛染堂 境内にあり 貫海上人の建立
愛染堂ハ今本堂と●●り 昔ハ別に本堂ありしと云

『下谷区史 〔本編〕』(国立国会図書館)
自性院(谷中上三崎南町六番地)
本所彌勒寺末、本覺山寶光寺と号す。本尊金剛界大日如来、胎蔵界大日如来。慶長十六年(1611年)二月、幕府より神田北寺町に地を給うて開創せられ、慶安元年(1648年)現地に移ったのである。開山は僧道意。慶安元年(1648年)同所幕府の用地となり、現地に替地を給せられて移転した。



「自性院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』人,大和屋孝助等,慶1序-明2跋国立国会図書館DC(保護期間満了)


「自證寺(自性院)」/原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』根岸谷中辺絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)
※『江戸切絵図』では「自證寺」と記されています。

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最寄りはJR「日暮里」駅で徒歩約7分。
東京メトロ千代田線「根津」駅からも歩けます。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 愛染明王安置碑

谷中六丁目のこのあたりは、ゆったりした区画の寺町で、落ち着いて参拝ができます。
路地に面した山内入口には愛染明王安置碑と『愛染かつらゆかりの地』の説明板。
左右の門柱は、それぞれ山号・寺号標と院号標となっています。


【写真 上(左)】 山号・寺号標
【写真 下(右)】 院号標

よく整備された山内。本堂前の大木が桂の木かどうかはうかつにも確認し忘れました。
参道が本堂前で右に折れる曲がり参道で、曲がった正面が本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

入母屋造本瓦葺流れ向拝、水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を備えた端正な本堂です。

向拝硝子格子扉のうえに「愛染寺」の扁額。
通称が扁額となるのはめずらしいと思います。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 慈母観世音菩薩

御朱印は本堂向かって左手の庫裡で拝受しましたが、現況は専用納経帳のみへの授与かもしれません。(直近の状況は未確認)
また、こちらは16:00に閉門となるので、時間に余裕をもった参拝をおすすめします。


〔 自性院の御朱印 〕
〔 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊大日如来」「弘法大師」「興教大師」の揮毫と金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「第五十三番」の札所印。左に院号の揮毫と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内二十一ヶ所霊場の御朱印-4

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【 BGM 】
■ 黄昏に風る feat.Osakana / Music&Arrangement:Koa


■ 春空-ハルソラ- - 石野田奈津代


■ Far On The Water - kalafina Live FOTW Special Final
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