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■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊、4.目赤不動尊、5.目黄不動尊(永久寺)

※ 現在、新型コロナウイルス感染拡大を受け、外出自粛が要請されています。また、寺社様によっては御朱印授与を休止されている可能性があります。ご留意願います。


こちらからつづく

■ 神霊山 慈眼寺 金乗院〔目白不動尊 / 江戸五色不動〕
豊島区高田2-12-39(新長谷寺(現・文京区関口)から移転)
真言宗豊山派
御本尊:聖観世音菩薩・断臂不動明王(目白不動尊)
元司別当:此花咲耶姫社など
札所:江戸五色不動(目白不動尊)、関東三十六不動霊場第14番、御府内八十八箇所第38番(金乗院)、同 第54番(新長谷寺)、江戸三十三観音札所第14番、山の手三十三観音霊場第9番、近世江戸三十三観音霊場第14番、江戸八十八ヶ所霊場第38番(金乗院)、東京三十三観音霊場第23番(新長谷寺)


「目白不動堂 / 江戸名所図会. 十二」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)


「宿坂関旧址 金乗院 観音堂 / 江戸名所図会. 十二」
国立国会図書館DCより利用規約にもとづき転載。)

寺伝・縁起書、および『関東三十六不動霊場ガイドブック』によると、金乗院は天正年間(1573-1592年)、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされます。
当初は蓮花山 金乗院と号し中野寶仙寺の末寺でしたが、のちに神霊山 金乗院 慈眼寺と号を改め、音羽護国寺の末寺となりました。

『新編武蔵風土記稿 巻之12 豊島郡之4』(国会図書館DC)には以下のとおりあります。
「金乗院 新義真言宗多磨郡中野村寶仙寺末、神靈山観音院ト號ス 本尊正観音長一寸八分眦首羯摩作 開山永順文禄三年六月四日寂 御嶽社 辨天社 三峯社 観音堂/荒神ヲ合殿トス 観音ハ木ノ立像長三尺運慶ノ作ト云」

江戸時代には旧砂利場村の此花咲耶姫社をはじめ社地三、四ヶ所の別当でしたが、昭和20年4月の戦災で本堂などの伽藍、水戸光圀公揮毫とされる此花咲耶姫の額などの宝物を焼失しました。

戦災で全焼した関口駒井町の新長谷寺(目白不動尊)を合併し、新長谷寺の札所も金乗院に移動しています。

目白不動堂(東豊山 浄滝院 新長谷寺)は、元和四年(1618年)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し、関口駒井町(現・文京区関口、金乗院から東に約1㎞)にありました。

『江戸名所図会. 十二』(国会図書館DC)には以下のとおりあります。
「目白不動堂 同所東の方にありて堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と号す
 長谷小池坊の宿寺とす 本尊不動明王の霊像は長八寸弘法大師の作 総門の額東豊山の三大字ハ南岳悦山の筆 縁起云弘法大師唐より帰朝の後 羽州湯殿山に参籠ありし時 大日如来忽然と不動明王の姿に変現し滝の下に現ハれ●● 大師に告て云く此地ハ諸佛内證秘密の浄土なれハ有為の穢土をきらえり 故に凡夫登山することかたし 今汝に無漏の上火をあたふべしと宣ひ持ちし●●●の利劍をもって左の御臂を切●●ハ、霊火盛に燃出でて佛身に充てり 依て大使面前に出現の像二躯を模刻し一躰ハ同國荒澤に安置し 一躰
ハ大師自ら護持なしたまふ その後野州足利に住せる沙門某之を感得し●奉持せしに一年 霊感あるを以て此地の住人松村氏某に●かりつひに一宇を開きて此本尊を移し安置なし奉ると 当寺元和四年和州長谷小池坊秀算僧正中興ありし頃 大将軍台徳公の厳命により堂塔坊舎御建立あり また和州長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像をうつし新長谷寺と改む 大将軍大猷公目白の号を賜ひ 元禄の始にハ桂昌一位尼公御帰依浅からす諸堂修理を加へたまひ丈余●地蔵尊等を安置なさしめられたり 此地麓●●堰口の流を帯ひ
水流そうそうとして日夜不絶 早稲田の村落高田の森林を望む風光の地なり 境内貸食亭多く何れも涯に臨めり」

また、『寺社書上(御府内備考). [61] 関口寺社書上』(国会図書館DC)には「目白不動尊起立書 新長谷寺浄瀧院 本尊不動尊 弘法大師御作秘佛 開帳佛不動 前立不動」(縁起も記されていますが略)とあります。

『東京名所図会』(国会図書館DC)にも以下の記載があります。
「目白不動堂は同所東の方にあり堰口の涯に臨む真言宗にして東豊山新長谷寺と號す 本尊不動明王は弘法大師の作なり 当寺は元和年間和州長谷の小池坊秀算僧正中興ありしより将軍家の厳命にて堂塔伽藍建立あり 後ち桂昌院尼公諸堂に修理を加えられ頗る荘厳を極めたり 境内眺望佳絶にして茶肆割烹店等多し 冬月雪景最も宜しと云ふ」

目白不動堂奉安のお不動さまは高さ八寸、「断臂不動明王」といい、弘法大師の御作と伝わります。

縁起によると、弘法大師が唐より御帰朝の後、出羽羽黒山に参籠されたとき大日如来が現れてたちまち不動明王のお姿に変じました。
大師に告げるには「此の地は諸仏内証秘密の浄土なれば、有為の穢火をきらえり、故に凡夫登山する事かたし、今汝に無漏の浄火をあたうべし」と。
不動尊は利剣をもってみずから左の御臂を切られると、霊火が盛んに燃え出でて仏身に満ちあふれました。
大師はこの御影を二体謹刻され、一体は出羽国の荒沢に安置され、もう一体は大師みずから護持されたと伝わります。

後年、野州足利の沙門某が大師護持の不動尊を奉持していましたが、武蔵国関口の松村氏が霊夢を得て足利よりお遷しし、領主の渡辺岩見守より関口台の一画に土地の寄進を受けて一宇を建立したのが本寺の濫觴(らんしょう/はじまりのこと)とされます。

元和四年(1618年)、大和長谷寺小池坊秀算僧正が中興、二代将軍秀忠公の命により堂塔伽藍を建立。
大和長谷寺から御本尊と同木同作の十一面観世音菩薩像を御遷ししてその直末となり、東叡山 浄滝院 新長谷寺と号しました。

寛永年間(1624-1644年)、三代将軍家光公は当山の断臂不動明王に「目白」の号を贈り、江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして、また、江戸三不動の代一位として名を高め、人々の篤い信仰を受けました。
ことに護身、厄除け眼病治癒の不動尊として霊験あらたかとされます。

元禄年間(1688-1704年)には、五代将軍綱吉公とその母桂昌院が深く帰依してさらに伽藍を整え、寺容は壮麗を極めたと伝わります。

境内は堰口の流れを見下ろす高台の景勝地で、付近には茶肆、割烹などの店が出て、ことに月雪景の名所であったようです。
その佳景は、『東京名所四十八景 関口目しろ不動』 (慶應義塾大学メディアセンターDC)からも偲ぶことができます。

昭和20年5月の戦災で焼失したため金乗院に合併、御本尊の目白不動明王像は金乗院に遷られました。

ふたつの名刹が合併した金乗院は今日も複数のメジャー霊場の札所であり、多くの参拝客を集めています。
また、当寺住職の小野塚幾澄大僧正は、平成20年から平成24年まで真言宗豊山派管長・長谷寺化主に就任されています。

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最寄りはメトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅か都電荒川線「学習院下」駅ですが、道行きの風情は「雑司ヶ谷」駅ルートの方があると思うので、こちらをご紹介。

メトロ・都電荒川線「雑司ヶ谷」駅3番出口から、目白通りを渡って宿坂通りに入ります。
目白通りは目白台の台地上を走り、ここから南側、神田川にかけては下り勾配となります。
宿坂(しゅくざか)もかなりの急坂ですが、この一本西側の「のぞき坂」は別名を「胸突(むなつき)坂」といい、「東京一急な坂」として知られています。

『江戸名所図会. 十二』(国会図書館DC)には以下のとおり「宿坂」と「金乗院」が記されています。
「宿坂関之旧跡 同北の方金乗院といへる密寺の寺前を四谷町の方へ上る坂口をいふ 同じ寺の裏門の辺にさらちの平地あり(中略)昔の奥州街道●●其頃関門のありて跡ありといへり」

現地掲示によると、この辺りは中世に「宿坂の宿」と呼ばれた関所があり、「立丁場」と呼ばれた金乗院裏門辺の平地が関所跡との伝承があります。
宿坂は「江戸時代には竹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみ坂と呼ばれ、狐や狸が出て通行人を化かしたという話」が伝わっているそうです。


【写真 上(左)】 宿坂
【写真 下(右)】 山門

宿坂をほぼ下りきった右手が金乗院の山門です。
二軒の垂木を備えた銅板葺のどっしりとした二脚門で、「神霊山」の山号扁額を掲げています。
右の門柱には、関東三十六不動霊場、左には江戸三十三観音札所の札所板。


【写真 上(左)】 関東三十六不動霊場の札所板
【写真 下(右)】 江戸三十三観音札所の札所板

約200年前の建立ですが昭和20年4月の戦災で屋根を焼失、昭和63年に檀徒の寄進により復元されています。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 山門前の不動尊

山門周辺に御府内霊場第三十八番および五十四番の札所標、「目白」と刻まれた台座の上に石造坐像のお不動さま、江戸八十八ヶ所霊場第38番の札所標、「東豊山 新長谷寺」の寺号標などが建ち並び、当寺の歴史を物語っています。


【写真 上(左)】 御府内霊場第三十八番の札所標
【写真 下(右)】 御府内霊場第五十四番の札所標


【写真 上(左)】 江戸八十八ヶ所の札所標
【写真 下(右)】 山の手三十三観音霊場の札所標

「江戸第拾六番 山之手第九番 本尊十一面観世音」の札所柱もありました。
「山之手第九番」は山の手三十三観音霊場第9番(新長谷寺)と思われますが、「江戸第拾六番」については霊場不明です。


【写真 上(左)】 金乗院の寺号標
【写真 下(右)】 新長谷寺の寺号標

石敷のすっきりとした境内。
山門正面が庫裡(納経所)、その左手に本堂、山門右手の高みが目白不動尊の不動堂です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂と不動堂

御府内霊場第38番、江戸三十三観音札所第14番は本堂、御府内霊場第54番、関東三十六不動霊場第14番は不動堂のお参りとなります。(御府内霊場は修行大師像も参拝)
(「本堂に『断臂不動明王』を安置」とする資料もありますが、『関東三十六不動霊場ガイドブック』には不動堂が参拝堂とあり、不動堂への参道に「目白不動尊参道」の案内掲示、不動堂の扁額も「目白不動堂」です。)

ちなみに御府内霊場88ヶ所のうち、一寺二札所、ふたつの御朱印をいただけるのはこちらのみです。


【写真 上(左)】 本堂(斜めから)
【写真 下(右)】 本堂向拝露天

本堂は昭和46年(1971年)の再建、平成15年(2003年)の改修。
木造ではありませんが、入母屋造本瓦葺流れ向拝。
大棟、降り棟ともにやや細身ですが、隅棟、稚児棟まわりの鳥衾・熨斗瓦、掛瓦などのつくりが精緻で、屋根の照りもほどよく、風格ある堂宇です。
水引虹梁に禅宗様の木鼻、中備えに蟇股、向拝正面は格子戸、その上に「神霊山」の扁額を掲げています。
御本尊は眦首羯摩作と伝わる高さ7㎝の聖観世音菩薩。金剛仏で秘仏です。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 修行大師像

本堂向かって左に端正な修行大師像が御座。
金乗院は江戸五色不動唯一の真言宗寺院で、江戸五色不動巡拝中に修行大師像のお参りができるのはこちらだけです。

本堂向かって右には「倶梨伽羅不動庚申」。
不動明王の法形である倶梨(利)伽羅剣と「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られた石像で、寛文六年(1660年)の建立です。
「人間を罪過から守る青面金剛の化身、三猿は天の神に人間の犯す罪を伝えない様子をあらわしている。」という現地掲示があります。


【写真 上(左)】 倶利伽羅不動庚申
【写真 下(右)】 不動堂参道

その横に宝塔。その後ろには立像の金仏(地蔵尊)。
その右横が墓地への参道で、その奥には慶安の変(由井正雪の乱、慶安四年7月(1651年))の首謀者の一人、丸橋忠弥の墓所があります。

さらに右手の山門寄りの高みのお堂が、目白不動尊の不動堂です。
確信はないですが、おそらく入母屋造銅板葺妻入り、妻側に付向拝の構成かと思われます。
棟部に経の巻獅子口、猪の目懸魚が見えます。


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂向拝

水引虹梁部は向拝幕が張られているのでよくわかりませんが、身舎正面上部に「目白不動尊」の扁額。
格子戸越しに目白不動尊のおすがたが拝せます。
こちらの不動尊は御前立かと思われます。
整った面差しで、右手に剣、左臂に火焔を抱かれ、大盤石の上に御座される立像です。


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 鐔塚

境内にはこの他、寛政十二年(1800年)に建立の刀剣の供養塔、鐔塚(つばづか)などの見どころがあります。

なお、江戸名所図会で宿坂のかなり上方に描かれている観音堂(運慶作の観音像が奉られていたと伝わる)の現況については不明です。

御朱印は境内寺務所にて快く授与いただけます。
こちらは江戸五色不動のほか、御府内霊場(2札所)、江戸三十三観音札所、関東三十六不動霊場の札所も兼ねられ、いずれも御朱印を授与されています。

札所無申告の場合、目白不動尊、聖観世音菩薩いずれの御朱印になるかは不明ですが、おそらく先方からお尋ねになるのかと思います。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 直書(筆書)
※ 関東三十六不動霊場の御朱印が授与されている模様です。

〔関東三十六不動尊霊場第14番の御朱印/専用納経帳〕

・御朱印尊格:目白不動明王 関東三十六不動尊霊場第14番印判 師子光童子の印判 筆書

〔御府内八十八箇所第38番(金乗院)の御朱印/御朱印帳〕

【写真 上(左)】 専用納経帳(直書)
【写真 下(右)】 御朱印帳(直書)
・御朱印尊格:聖観世音菩薩・弘法大師 御府内八十八箇所第38番・54番印判 三十八番の揮毫

〔御府内八十八箇所第54番(新長谷寺)の御朱印/御朱印帳〕

【写真 上(左)】 専用納経帳(直書)
【写真 下(右)】 御朱印帳(直書)
・御朱印尊格:目白不動明王・弘法大師 御府内八十八箇所第38番・54番印判 五十四番の揮毫

〔江戸三十三観音札所第14番の御朱印〕

・御朱印尊格:聖観世音菩薩 江戸三十三観音札所第14番印判 目白不動尊の印判 直書(筆書)


■ 大聖山 東朝院 南谷寺〔目赤不動尊 / 江戸五色不動〕
文京区本駒込1-20-20
天台宗
御本尊:不動明王(目赤不動尊)
札所:江戸五色不動(目赤不動尊)、関東三十六不動霊場第13番

納経時にいただいた縁起書、境内掲示などから縁起を辿ってみます。

元和年間(1615年頃)、比叡山南谷に万行律師という不動尊への尊信篤い名僧がおり修行を重ねておられました。
ある夜、童子が夢枕に立ち「万行多年不動尊を尊信する事深切なり、伊賀の国の赤目山来たれ不動明王の霊験あらん」と告げて飛び去りました。

律師は童子のお告げに従ってすぐさま伊賀の赤目山に登り、絶頂の磐石に端座して不動真言を称え、印を結んで不動明王の御来迎を待ち奉りました。
三日三夜がたつと、虚空に声が響いてなにかが投げ入れられました。
拾い上げて見れば一寸二分の黄金の不動明王の尊像で、律師は礼拝恭敬して山をくだり比叡山南谷の庵室にこの尊像を安置しました。

暫くのち、律師は衆生済度を発念され不動尊像を護持して関東に向かい、下駒込の動坂(堂坂)の地に縁を得て、堂を建立して尊像を安置しました。
この不動尊に参詣祈願をなす者に奇瑞少なからず、衆生はこの地を「不動坂」と称えて群参したといいます。

寛永五年(1628年)、将軍家光公が鷹狩りの途中、不動尊の由来を聞き及んだところ、府内五不動の因縁を以って”赤目”を”目赤”と称える様にとの沙汰があり、以後目赤不動尊と称したとされます。

その後改めて上意があり、浅嘉町藤堂家屋敷跡(現在地)を拝領して堂宇を建立し、大聖山 東朝院と号して天台宗羽黒派に属しました。
このとき故有って、智證大師御作の不動明王の霊像を受得して御前立に安置、黄金の御本尊は後の厨子に秘仏として奉安したとされます。(御前立本尊の胎内に奉安とも)

万行大僧都が寂したのちも、目赤不動尊の御利益は著しく、参詣者は絶えず、天明八年(1788年)には東叡山寛永寺の直末となりました。その際、初代万行大僧都の遺徳を偲んで大聖山 南谷寺と号されました。

『江戸名所図会 巻之五』(国会図書館DC)に以下の記載があります。
「駒込淺香町にあり。伊州赤目山の住職萬行和尚回國の時供奉せし不動の尊像、屡(しばしば)霊験あるに仍て、其威霊を恐れ、別に今の像を彫刻して、彼像を腹籠とす。則ち赤目不動と號し、此所に一宇を建立せり。始めハ千駄木に草堂をむすびて安置ありしを、寛永の頃、大樹御放鷹の砌、今の所に地を賜ふ。千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂のありし旧地なり。後年終に目黒、目白に對して、目赤と改むるとぞ。」

また、『東京名所図会(国会図書館DC)』には以下の記載があります。
「大観音の西北淺嘉町大聖山南谷寺にあり 本尊不動尊ハ伊賀國赤目山の住職萬行和尚回國の時供奉らし尊像屢(しばしば)霊験あるにより別に今の像を腹籠となせり 依て赤目不動と呼びしを後ち目黒目白に對して目赤と改めしとぞ 始めハ千駄木にありしを寛永年間此地に移さると云ふ 千駄木に動坂と云へる所あるハ其旧地にして不動坂の略語なりと云ふ」

動坂にあったと伝わる南谷寺の旧地については → こちらで推測されています。

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最寄りはメトロ南北線「本駒込」駅。2番出口から本郷通りを渡って徒歩2分弱、通りに面しているので、すぐにわかります。
この辺りは寺院が多く、寺町の趣。メジャー霊場の札所も多くあります。


【写真 上(左)】 柱門
【写真 下(右)】 寺号板


【写真 上(左)】 右の門柱
【写真 下(右)】 左の門柱

道沿いのみかげ石の門柱、右に青文字で「大聖山 南谷寺」、左に「目赤不動尊」で字色のコントラストが効いています。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 初夏の本堂

伽藍配置は正面に本堂、右手に庫裡。その手前、参道右手にすこしく奥まって不動堂。
著名なお不動様や観音様を擁する寺院によくみられるかたちです。
緑が多く、落ち着いた転生の境内。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は寄棟造本瓦葺で大棟両端に鴟尾を置き、やや起(むく)り気味の屋根です。
向拝柱はなく、正面桟唐戸で上部は連子、下部は入子板。その上に中央に蟇股、見上げに「大聖山」の扁額。
向拝左右に格子戸、菱格子欄間、連子窓、軒下には斗栱を連ね、趣きのある寺院建築です。
垂木は一軒。軒丸瓦に阿弥陀如来の種子「キリーク」、軒平瓦に花紋様など細やかな意匠。


【写真 上(左)】 軒瓦
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂には阿弥陀如来が御座します。
『関東三十六不動霊場ガイドブック』によると、当寺の御本尊は「黄金不動明王」とあります。
天台宗では著名な尊格を独立の堂宇(不動堂、観音堂など)に奉り、本堂に阿弥陀如来を奉る例がかなりあり、当寺もその例かもしれません。
そのような場合、阿弥陀如来の御朱印は非授与の場合が多いのですが、当寺も非授与のようです。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 六地蔵


【写真 上(左)】 六地蔵と不動堂
【写真 下(右)】 大日如来と不動堂

不動堂まわりに進むと、手前に六地蔵。
その先で本堂参道から不動堂参道を右に分け、左手に手水鉢と恵比寿像、右手に「目赤不動尊」の石標や石碑、智拳印を結ばれる金剛界大日如来像と並びます。
恵比寿像と大日如来像は、江戸時代中期頃の作風とされています。
江戸五色不動の6寺院が記された石標もありました。


【写真 上(左)】 大日如来
【写真 下(右)】 手水鉢と恵比寿様


【写真 上(左)】 目赤不動尊の石標
【写真 下(右)】 目赤不動尊の石碑


【写真 上(左)】 江戸五色不動の石碑
【写真 下(右)】 不動堂参道

その先が不動堂。
桟瓦葺の宝形造で頂に火焔宝珠、そこから隅棟、稚児棟を降ろしています。
棟には精緻な熨斗瓦、雁振瓦、鳥衾、鬼瓦を備え、全体に整った印象があります。


【写真 上(左)】 不動堂
【写真 下(右)】 不動堂の棟

身舎まわりに縁をまわして向拝は格子戸。その上の小壁に「目赤不動尊」の扁額と、左右にふたつの奉納額が掲げられています。
その上、二軒の垂木、軒平瓦、桟瓦、火焔宝珠と重なり、重厚感のある向拝。

 
【写真 上(左)】 斜めからの不動堂
【写真 下(右)】 不動堂向拝


【写真 上(左)】 右奉納額
【写真 下(右)】 左奉納額

向拝の格子戸があいており、お不動様のおすがたが拝めます。
御内陣の目赤不動尊は、真紅の迦楼羅炎を背負われ、右手に劍、左手に羂索をもたれて盤石に御座す、力感あふれるおすがたです。


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 関東三十六不動霊場札所板

関東三十六不動霊場の札所でもあり、御朱印は授与所にて快く授与いただけます。
繊細な筆致の御朱印です。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目赤不動尊 江戸五色不動の印判 直書(筆書)

〔関東三十六不動霊場第13番の御朱印〕

【写真 上(左)】 専用納経帳(直書)
【写真 下(右)】 御朱印帳(直書)
・御朱印尊格:目赤不動尊 関東三十六不動尊霊場第13番印判 伊醯羅童子の印判


■ 養光山 金碑院 永久寺〔目黄不動尊 / 江戸五色不動〕
台東区三ノ輪2-14-5
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:江戸五色不動(目黄不動尊)、東都北部三十三観音霊場第17番

天台宗東京教区Webによると草創は14世紀南北朝騒乱の頃、当時は真言宗で唯識院と号していたようです。
その後、白岩寺、大乗坊、蓮台寺と改号を重ね、宗派も真言宗から禅宗そして日蓮宗と変遷したようです。

下記の『寺社書上(御府内備考)』によると、道安和尚が堂宇を整えて禅宗白岩寺とし、四谷本源寺の弟子月窓が堂宇を修理し大乗坊 蓮台寺と号して日蓮宗となりました。
月窓の父の所縁により、将軍の命を受け月窓は日光御門主本照院宮の弟子となり、圭海(大僧都圭海法印)と称し、宗派を天台宗に改めて養光山 永久寺と号したとあります。

その後東叡山 浄円院と号を改めていたところ、寛文年間(1661-1673年)、幕臣の檀家山野嘉右衛門(号.藤原の永久)が諸堂を再建し、号の二字を以て永久寺と改めて中興の祖とされます。(永久寺改号のくだりが錯綜していて、詳細不明)

寛永年間(1624-1643年)の中ごろ、五街道の整備にともない街道の道中安全祈願が幕府より命じられ、上野寛永寺の天海大僧正の発願によって江戸府内の由緒ある古刹が五色不動として五街道沿いに定められたと伝わります。
その際、日光街道沿いの古刹、永久寺が目黄不動尊として定められたといいます。

『寺社書上(御府内備考). [118] 下谷寺社書上.四』(国会図書館DC)には以下の記載があります。
「往古真言宗ニテ号唯識院 道安和尚悉ク殿堂ヲ再造シテ禅閣トナシ白岩寺と改ム 亦衰微セシヲ四谷本源寺弟子月窓修理シテ大乗坊蓮台寺ト唱ヒ為ニ日蓮宗トナル 月窓父ハ七澤作左衛門清宗入道シテ(中略) 爰ニ蒙台命日光御門主本照院宮之御弟子トナリ 圭海ト名ス 天台宗ニ改メ養光山永久寺と号シ 其ノ後東叡山浄円院トナル 御朱印二百石御寄附アリ今ノ律院是ナリ 又同山内養寿院ト成ル ココニ当寺檀越山野加右衛門永久トイフ者(中略)当寺佛閣諸堂ヲ悉ク建立シ門前地等ヲ寄附シ(中略)実名永久之二字ヲ以永久寺ト号ス(中略)改称圭海法印 抑大僧都圭海法印者 大樹家綱公御母堂宝樹院殿同腹御実弟ニテ男女兄弟八人也 羽州羽黒山執行別当を兼帯シ 終ニ京都愛宕山長床坊住職シテ天台顕密ノ僧ト云々」

当寺の目黄不動尊の縁起がよくわからないのですが、境内掲示にあるとおり「寛永年間の中頃、三代将軍家光が天海大僧正の具申により、(五色不動として)江戸府内の名ある不動尊を指定」というところによるのではないでしょうか。

当寺を天台宗に改めた圭海法印は将軍家ともかかわりをもつ相応の身分と考えられ、天台宗東京教区Webによると、宝物として慈覚大師御作の不動明王像、智證大師御真筆の不動尊一幅が記載されているので、目黄不動尊に指定される寺格・由緒は有していたものと考えられます。
なお、境内掲示には「不動尊信仰は、密教がさかんになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描きわけることは、平安時代すでに存在したという。」という興味ぶかい記述があります。

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メトロ日比谷線「三ノ輪」駅3番出口至近です。
都営荒川線の終点「三ノ輪橋」駅からも近いので、1日結願ではない場合、目白不動尊から「学習院下」駅で乗車し、52分の都電の旅を楽しむという手もあります。これだけ乗って運賃170円は安いです。


【写真 上(左)】 門
【写真 下(右)】 寺号標

交通量の多い明治通り沿いにあります。
山門、通用門ともに閉扉され、ガードが堅い印象ですが、たしか右手の通用門が開いたかと思います。

アール・ヌーヴォー的なやわらかな曲線を用いた本堂。その下に桟瓦の屋根(本堂向拝の屋根?)が走る様は、意匠的になかなかインパクトがあります。

天台宗東京教区Webによると、御本尊は阿弥陀如来。宝物として運慶作の阿弥陀如来像が記載されているので、御本尊は運慶作かもしれません。
また、宝物として慈覚大師御作の不動明王像が記載されているので、目黄不動尊は慈覚大師の御作かもしれません。
智證大師御真筆の不動尊一幅も宝物とされています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂(手前)と不動堂(左奥)


【写真 上(左)】 目黄不動尊の石碑
【写真 下(右)】 不動堂

本堂向かって左手に不動堂。
こちらも意匠的に特徴があり。造りはよくわかりませんが銅板葺で、向拝柱を備えています。
不動堂左前に「目黄不動尊」の石碑。
格子戸越しに御内陣が拝せます。
目黄不動尊はご内陣中央に御座。
朱の迦楼羅炎を背負われ、右手に劍、左手に羂索をもたれる黒色の引き締まった立像です。


【写真 上(左)】 不動堂扁額
【写真 下(右)】 板碑

本堂前には板碑二体ありましたが、こちらは宝物の南北朝期の板碑二体かもしれません。

御朱印は庫裡にて拝受できますが、Web情報によるとご不在の場合も。書置対応もされているようですが、事前確認がベターかもしれません。

〔江戸五色不動尊の御朱印〕

・御朱印尊格:目黄不動 「江戸五色不動」の印判 直書(筆書)

(つづく) → こちら

■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 1.概要・目青不動尊
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 2.目黒不動尊
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 3.目白不動尊、4.目赤不動尊、5.目黄不動尊(永久寺)
■ 江戸五色不動の御朱印 ~ 江戸の不動尊霊場 ~ 6.目黄不動尊(最勝寺)
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