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■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)

現在、新型コロナウイルス感染急拡大により、不要不急の外出の自粛が要請されています。
また、寺社様によっては御朱印授与を中止される可能性が高くなっています。
以上、ご留意をお願いします。

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2021/0130・2019/08/31 補足UP

先にUPした「草津温泉周辺の御朱印」「四万温泉周辺の御朱印」の温泉&御朱印記事が予想外にアクセスをいただいているので、伊香保温泉版もつくってみました。

第1回目(草津温泉編)は、→こちら
第2回目(四万温泉編)は、→こちら



■ 伊香保温泉周辺の御朱印
伊香保温泉(→〔 温泉地巡り 〕)は平地に近く、関東有数の名刹、水澤観音とのゆかりも深く、行き帰りに寺社(御朱印)巡りしやすい温泉地です。
また、榛名山中には最近パワスポとしてとみに人気が高まっている榛名神社も鎮座し、伊香保温泉&榛名神社でツアーを組む向きも多いのでは?

今回は伊香保温泉の東京寄りの玄関口である関越道前橋ICから利根川右岸の渋川市域、そして榛名山周辺で御朱印を拝受できる寺社をご案内します。
帰路は榛名神社経由になることを想定し、国道406号の室田~並榎IC(国道17号との交差IC)沿いの寺社もご紹介します。
なお、一般に広く御朱印を授与されていないと思われる寺社については、今回もご紹介は割愛します。

群馬県央、前橋、高崎はいずれも城下町で寺社が多く、御朱印を授与される寺社も少なくないですが、両市中心部は利根川左岸にあたるので今回は対象外とします。
利根川右岸に限っても相当数の寺社があり、坂東三十三箇所(観音霊場)、東国花の寺百ヶ寺霊場、県内ではメジャーな新上州三十三観音霊場、上州七福神などの札所が点在します。
複数の現役霊場札所を兼ねるメジャーな寺院も多く、御朱印拝受のハードルは比較的低いエリアといえましょう。
宗派的には天台宗が多いエリアとなっています。
(1泊では制覇は無理です。燃えた方は(笑)、何回か泊まってあげてください。ちなみに伊香保は風情も泉質もよく、おすすめの温泉地です。)

メジャーな札所やパワスポが多いので記事ネタには事欠きません。
ボリュームが出たので、4編の構成となりました。

リストはつぎのとおりです。

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)
 1.青雲山 実相院 大福寺 (前橋市鳥羽町)
 2.(中尾)飯玉神社 (高崎市中尾町)
 3.鷲霊山 釈迦尊寺 (前橋市元総社町)
 4.(上野国)総社神社 (前橋市元総社町)
 5.功叡山 蓮華院 徳蔵寺 (前橋市元総社町)
 6.三鈷山 吉祥院 妙見寺 (高崎市引間町)
 7.秋元山 江月院 光巌寺 (前橋市総社町)
 8.氣雲山 春光院 元景寺 (前橋市総社町)
 9.東向八幡宮 (高崎市箕郷町)
10.金富山 実相院 長純寺 (高崎市箕郷町)

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)
11.箕輪山 慈眼院 法峰寺 (高崎市箕郷町)
12.黒髪山神社 (榛東村広馬場)
13.威徳山 常楽院 長松寺 (吉岡町漆原)
14.玉輪山 龍傳寺 (渋川市半田)
15.慈眼山 福聚院 神宮寺 (渋川市有馬)
16.威徳山 無量寿院 眞光寺 (渋川市並木町)
17.渋川八幡宮 (渋川市渋川)
18.登澤山 照泉院 金蔵寺 (渋川市金井甲)

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
19.船尾山 等覚院 柳澤寺 (榛東村山子田)
20.五徳山 無量寿院 水澤寺 (渋川市伊香保町水沢)
21.伊香保神社 (渋川市伊香保町伊香保)

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)
22.榛名神社 (高崎市榛名山町)
23.大森神社 (高崎市下室田町)
24.中嶋稲荷神社 (高崎市下室田町)
25.矢背負稲荷神社 (高崎市下室田町)
26.根古屋天満宮 (高崎市下室田町)
27.根古屋道祖神 (高崎市下室田町)

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-5(後編A)
28.白岩山 長谷寺(白岩観音) (高崎市白岩町)
29.白山神社 (高崎市白岩町)
30.大嶽山 瀧澤寺 (高崎市箕郷町)
31.(箕郷町富岡)飯玉神社 (高崎市箕郷町)
32.(生原)北野神社 (高崎市箕郷町)
33.(生原)嚴島神社 (高崎市箕郷町)
34.(原新田)北野神社 (高崎市箕郷町)
35.(保渡田)白山神社 (高崎市保渡田町)
36.(保渡田)諏訪神社 (高崎市保渡田町)
37.(保渡田)榛名神社 (高崎市保渡田町)
38.天王山 薬師院 徳昌寺 (高崎市足門町)
39.(足門)八坂神社 (高崎市足門町)
40.鈷守稲荷神社 (高崎市金古町)
41.金古諏訪神社 (高崎市金古町)
42.菅原社 (高崎市金古町)

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)
43.如意山 宝蔵院 大乗寺 (高崎市棟高町)
44.烏子稲荷神社 (高崎市上小塙町)
45.新比叡山 本実成院 天竜護国寺(高崎市上並榎町)
46.我峰八幡神社 (高崎市我峰町)
47.上野國一社八幡宮 (高崎市八幡町)
48.神通山 遍照王院 大聖護国寺 (高崎市八幡町)
49.慈雲山 養寿院 福泉寺 (高崎市鼻高町)
50.少林山 達磨寺 (高崎市鼻高町)


【伊香保温泉周辺で拝受できる御朱印】


1.青雲山 実相院 大福寺
前橋市鳥羽町717
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:関東百八地蔵尊霊場第24番
札所本尊:地蔵菩薩(関東百八地蔵尊霊場第24番)



〔 関東百八地蔵尊霊場の御朱印 〕
見開きの霊場規定用紙での授与となります。
中央に札所本尊、地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と三寶印、そして「成願千体地蔵尊」の揮毫。
右上に「関東百八地蔵尊第二十四番札所」の札所印。左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
裏面には寺院の情報と記念スタンプが捺されています。
 
まずは関越道前橋ICそばの寺院からご紹介します。
前橋ICから500mと離れていない至近に立地するこのお寺は、室町時代初期の応永元年(1394年)に総本山延暦寺の直末寺院として開山されたと伝わります。
「当時七堂伽藍壮麗にして、本堂間口二十間・奥行十八間、境内に不動堂、大師堂、薬師堂等を有し、仏教弘宣の大道場として近郷の尊崇をあつめた」(寺伝より)という大寺で、紆余曲折の歴史を辿りながらも法灯を絶やすことなく今に至ります。

比較的新しい伽藍につき、さびた風情はないものの、明るく開放的な雰囲気です。

関東百八地蔵尊霊場第24番の札所で、札所本尊である成願千体地蔵尊は昭和63年にご住職の発願によって建立され、「一願一体の『願掛け地蔵尊』」とも呼ばれて信仰を集めているそうです。

関東百八地蔵尊霊場は、かつて仙台市に存在した「佛教文化振興会」という組織がとりまとめたとみられる霊場で、現況、霊場会もとりまとめ役もいないなか、比較的御朱印授与率の高い霊場です。
霊場開創時に霊場(札所)印が整備されたらしく、札所印もいただきやすくなっています。
また、霊場開創時に専用納経帳も整備されたらしく、大判の専用納経帳用の書置御朱印が授与される場合があります。
とはいえ、汎用御朱印帳に授与いただける札所も少なくなく、札所(御朱印)対応は多種多様です。



【写真 上(左)】 霊場の巡礼ガイド(平成2年1月、佛教文化振興会刊)
【写真 下(右)】 発願寺(初番)「瑶光山 真日院 最明寺」(川越市)の札所御朱印(現在、この御朱印は非授与のようです)

札所には相当数の名刹も入っていますが、納経所の御朱印見本で掲示される例はほとんどなく、こちらからお伺いしてはじめて授与いただける「裏メニュー」的なケースが多くなっています。
また、札所本尊のお地蔵様の御座所がわかりにくく(本堂でない場合が多い)、霊場ガイドを持っていない場合は、お寺さんに確認する必要があります。
そんなこんなで、かなりマニアックな霊場であることは間違いないかと・・・。

なお、札所本尊のお地蔵様は御本尊でないケースが多く、別に御本尊の御朱印をいただける場合とそうでない場合があります。
こちらのお寺様は地蔵霊場のみの授与とのことでした。


2.(中尾)飯玉神社
高崎市中尾町347
主祭神:宇気母智神(飯玉さま) 配祀:菅原道真公(天神さま)、建御名方神、須佐之男命、美留目之神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進社、中尾総鎮守



〔 御朱印 〕
中央に「飯玉神社」の神社印と揮毫。右下には「中尾総鎮守」の陰刻印が捺されています。

温泉好きのあいだでは有名な、高崎中尾温泉「天神の湯」のすぐ隣にある神社です。
じつに「延暦三年(784年)に勧請せり」と伝わる(公式Webより)古い由緒をもち、千葉上総介常重、足利幕府の管領上杉氏、高崎城主酒井左衛門尉など、歴代のこの地の支配者との関係も伝わっているようです。
明治後期に村内の菅原神社、諏訪神社を合祀し、神饌幣帛料を供進すべき指定神社になったといいます。

主祭神は、宇気母智神(うけもちのかみ)。配祀神は菅原道真公、建御名方神、須佐之男命、美留目之神です。
公式Webによると、「飯玉神社の主祭神である宇気母智神は、『食物の神様』であり、保食神とも記され、五穀を司る神と言われています。」

保食神(うけもちのかみ)は稲荷神社の祭神となられる場合がありますが、上武(上野國・武蔵國)一円では、稲荷神社(祭神 倉稲魂命(宇迦御魂命)と飯玉神社(祭神 保食神(宇気母智命)は明確に区別されているという説もあるようです。
また、豊受比売命が飯玉神社の祭神となられている例もありますが、豊受比売命も食物と関わりの強い神様ですから、飯玉神社と食物は切り離せない関係なのかもしれません。

境内に数台の駐車スペースがあります。
鳥居・参道から階段を昇って拝殿。小規模ながら風格のある拝殿です。
ご朱印は境内で書置きのものを拝受しました。


3.鷲霊山 釈迦尊寺
公式Web
前橋市元総社町2502−2
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛



〔 御本尊の御朱印 〕

中央に三寶印と「南無釋迦牟尼佛」の揮毫。右上には「聖徳太子乳母の寺」の印、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
禅寺らしい端正な御朱印です。

〔 大黒天の御朱印 〕

大黒天の御朱印も授与されています。
中央に三寶印と「南無大黒天」の揮毫。右には「聖徳太子乳母の寺」の印、左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

すこぶる古い来歴をもつ上州の名刹。
寺歴については、公式Webで詳細に説明されていますが、概略を抜粋引用しつつご紹介します。

三十一代用明天皇二年(587年)、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたとき物部氏に加担した中臣羽鳥連と妻、玉照姫は上毛野国青海に流罪となりました。
玉照姫は聖徳太子の乳母で、太子の守仏、闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏を太子より授けられました。

天武天皇十五年(686年)、勅令による大赦で羽鳥連の孫青海羊太夫が上洛して勅赦を受けた際、定慧和尚が玉照姫の敬信した釈迦尊仏の由来を尊信し、翌年(687年)上野国蒼海に御下りになり七堂伽藍を建立、釈迦尊仏を安置され釈迦尊寺と号されました。
開基は青海羊太夫、開山は多武峯定慧和尚とされています。

当初は法相宗に属したとされますが、のち(文永年間(1264~1274年))に臨済宗門、鎌倉建長寺より蘭渓和尚が入られて再興。永禄元年(1558年)永源寺より芳伝和尚が入られ曹洞宗となり現在に至るようです。

江戸期には寛永三年四月、幕府より三百六十石余の御朱印寺とされています。
御本尊の闇浮壇金一寸八分の釈迦尊仏は平安時代末のものと推定され、秘仏となっています。

すこしく横道に逸れます。
古代、東国を代表する政治勢力として「毛野(けの/けぬ)」と「那須」があり、毛野は「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」に二分されたといわれます。
このうち上毛野は上野國(上州)をさし、令制国の一つに定められたとされます。

令制国制のもとでは、令制国諸国は国力により四等級に分けられましたが、延喜式では上野國は最上の「大国」に充てられ、しかも、全国で3国しかない親王任国のひとつでした。
親王任国(常陸國、上総國、上野國)は、親王が国守に任じられる「大国」で、親王任国の筆頭官である親王は太守と称されました。(上野國の初代太守は桓武天皇の皇子葛井親王とされる。)
親王太守は現地へ赴任しない遙任のため、現地の実質的な国守は次官の介(すけ)となります。
なので原則、武士階級に「上野守」はおらず、「上野介」となります。(本多正純も、吉良義央も、小栗忠順もすべて「上野介」です。)

話が大逸れしましたが(笑)、何がいいたかったかというと、上野國は上代から東国で最も栄えた地域であり、西国との結びつきも強かったのでは、ということです。
そう考えると、聖徳太子の乳母・玉照姫にまつわる伝承もうなづけるものがあります。

また、仏教は欽明天皇の御代にわが国に伝わったとされますが(仏教公伝)、その際に積極的に仏教を迎え入れたのが崇仏派、仏教排斥に回ったのが排仏派で、崇仏派の代表格が蘇我氏、排仏派の代表格が物部氏とされます。
厩戸皇子(聖徳太子)は崇仏派で、玉照姫の夫羽鳥連は排仏派の物部氏に加担したとされていますから、聖徳太子の乳母・玉照姫の立ち位置は微妙なものであったのかもしれません。
そんなことをつらつらと想い起こさせてくれる、歴史をもったお寺さんです。

上代開基の寺院を物語るような、広々と明るい境内です。
札所ではありませんが、このような悠久の歴史をもつ古刹なのでご紹介しました。

御朱印は庫裡にて御朱印帳に書入れいただけました。
いただいたのは御本尊の御朱印ですが、Webでは大黒天の御朱印もみつかるので、こちらも授与いただけるかもしれません。


4.(上野国)総社神社
公式Web
前橋市元総社町1-31-45
主祭神:磐筒男命、磐筒女命、経津主命、宇迦御魂命、須佐之男命
上野國総社 旧社格:県社



〔 御朱印 〕
中央に社名印の捺印と「上野総社神社」の揮毫。右に「上野國總鎮守」の印判。
左下に社名印が捺されています。
なお、最近の日付の御朱印では、主印として神紋印が捺されているようです。

諸説あるようですが、総社(惣社)とは、一般的には特定地域内の神社の祭神を集めて合祀した神社をさすとされます。
もともとは、律令制のもとで着任した国司は令制国内の一定の神社を早々に巡拝することが義務づけられていたが、国府の近くに総社を設け、そこに詣でることで巡拝を省く趣旨で置かれたという説があります。
また、地域内の神社を合祀した神社を称する例もあり、旧社格は、官幣小社から村社(ないし無格社)までと多岐にわたっています。
なお、全国総社会が組織され、専用御朱印帳も頒布されています。

総社神社公式Webには「上野総社神社は上野の総鎮守なり、上野総社 神社は国内総神社の神集ひ座す御神地なり、上野総社神社を参拝するは県内各神社を参拝するにひとし。」とあり、国司巡拝型の総社であったことがうかがわれます。

また同Webでは「崇神天皇の四十八年三月皇子豊城入彦命は東国平定の命を奉じ、上野にお下りになられるや、神代の時代に国土の平定に貢献された経津主命の御武勇を敬慕され、軍神としてその御神霊を奉祀して御武運の長久を祈られ、また、経津主命の親神(ご両親)である磐筒女命の御二方をも合祀せられた。これが当社の始まりである。」という創祀由緒、そして、「国司は国内各地の神社に幣束を捧げ、親しく巡拝していたが、人皇第五十六代清和天皇のころ国司は上野国内各社の神明帳を作り、国内十四郡に鎮座する総五百四十九社を勧請合祀」という合祀由緒も紹介されています。

大国、上野國の総社だけに、さすがに厳かな境内です。
御朱印は社務所にて拝受。御朱印帳への書入れをいただきました。


5.功叡山 蓮華院 徳蔵寺
前橋市元総社町1-31-38
天台宗
御本尊:阿弥陀如来三尊
札所:群馬郡三十三観音霊場第24番
札所本尊:千手千眼大悲観音(群馬郡三十三観音霊場第24番)



〔 御朱印 〕
群馬郡三十三観音霊場第24番の札所本尊と思われる千手千眼大悲観音の御朱印です。
中央に千手観世音菩薩の種子「キリーク」の御寶印と「千手千眼大悲観音」の揮毫。
右上には「上野国元総社」の印判。
尊格の左右に山号・寺号の揮毫と、左下には寺院印が捺されています。

室町時代の文明三年(1471年)足利八代将軍義政公の祈祷所として建立、往時には寺中七ケ院、末門十七ケ寺を擁して幕府から朱印十六石を下賜され、檀徒三百有余戸を有したとされる古刹。(寺伝より)
室町時代の製作と考えられる三面の懸仏(弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩)が残されていることからも、古刹の歴史が裏付けられます。

江戸時代初期の慶長十二年(1607年)、惣社(総社)領主の秋元越中守が惣社城築城の際に一寺の建立を計りましたが、当時は新寺院の建立を幕府が禁じていたため、天海僧正の内意により、本地および寺中数箇寺を北側利根川沿いの惣社城周辺に移して光厳寺と号しました。
爾来、この地に本寺格の寺院はなくなりましたが、明治五年(1872年)、檀徒が旧徳蔵寺の再建を官に願い出て、また光厳寺とも折衝して独立し、然海法印を住職として再建がなったものと伝わります。

総社神社と隣り合う、いかにも別当寺的な立地で、総社神社の別当だったという説があります。
上記の歴史を考えると江戸時代を通して大社、総社神社の別当を勤めるのはむずかしかった感じもしますが、少なくとも光厳寺への移転前は勤められていた可能性はあるかもしれません。

こちらは群馬郡三十三観音霊場第24番の札所です。
群馬郡三十三観音霊場は、現在の渋川市、前橋市、高崎市、榛東村、利根川右岸に広がる古い霊場で、今回ご紹介するエリアとかぶります。
発願寺は宇輪寺(榛東村)、結願寺は布留山 石上寺(高碕市)で、小規模な観音堂を含み、現在は活動を完全に停止しています。
先日、発願寺の宇輪寺にも参拝しましたが無住でした。

ただし、札所の遺伝子が残っているのか、御朱印をいただけるお寺さんがいくつかあります。こちらもそのひとつです。
御朱印は庫裡にて御朱印帳に書入れいただけました。


6.三鈷山 吉祥院 妙見寺
高崎市引間町213
天台宗
御本尊:釈迦如来、妙見菩薩
札所:群馬郡三十三観音霊場第23番



〔 御本尊の御朱印 〕
中央に御本尊、妙見菩薩の種子「ソ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「妙見大菩薩」の揮毫。
左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

創建は和銅七年(714年)、ないし霊亀元年(715年)と伝わる天台宗の古刹で、上野国国司・藤原忠明の開基とされています。
寺伝によると、延暦七年(797年)成立の「続日本紀」に妙見寺に関する記載があり、古くは「七星山息災寺」と号し、妙見菩薩を祀る寺として信仰されてきたそうです。

境内の妙見社は日本三妙見のひとつとして知られ、この地方の妙見信仰の中心をなしていたという説があります。(→ 高崎市Web
また、妙見寺は妙見社の元別当寺であったという見方もあるようです。

妙見信仰とは、中国の星宿思想から北極星を神格化ないし、菩薩として信仰するものとされます。(北斗七星との関連を指摘する説もあり。)
仏教においては妙見菩薩、神道においては天之御中主神が主な信仰の対象になります。

東日本の妙見信仰というと、まず坂東八平氏(平良文を祖として下総国、上総国、武蔵国、相模国などを領地とした、千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾氏など)、ことに千葉氏が思い浮かびますが、どうして千葉から遠くはなれた群馬のこの地の妙見社が「日本三妙見」として崇められているのか、不思議な感じもします。

これについては、興味深い伝承が存在します。
平安時代の中ごろ、上野国花園村付近で、平氏(将門公、良文公・国香公)が相争う「染谷川の戦い」がありました。
この戦いの勝敗の鍵を握られたのが、この付近に鎮座されていた花園妙見(一説に羊妙見)とされ、平良文公を祖とする坂東八平氏は、これより妙見信仰の家系となったと伝わります。
千葉氏が信仰する千葉神社、秩父氏が信仰する秩父神社では、花園妙見との関連を示す資料がWeb上でもいくつかみつかります。(ex.『榛名山東南麓の千葉氏伝承』青木祐子氏 2002年論文)

とくに秩父神社については、「花園村から妙見社を勧請」と明記している資料があります。
妙見寺の妙見様と花園妙見が同一という決定的な史料は見当たらないようですが、深い関係にあったであろうことは想像されます。
榛名東麓には千葉氏ゆかりの伝承がいくつか残り、「19.船尾山 等覚院 柳澤寺」の縁起にも千葉氏が登場します。

なお、上記の『榛名山東南麓の千葉氏伝承』には、船尾山柳澤寺とのつながりが指摘される「独鈷山妙見院息災寺」について、「現在、高崎市引間町に『三鈷山吉祥院妙見寺』という寺院があり、これが『息災寺』の後身だと言われている。さらに、千葉氏の守護神である妙見大菩薩はこの寺から勧請されたとされている。」と述べられ、妙見寺は柳澤寺と息災寺を介してなんらかのつながりを有していたかもしれません。

妙見菩薩は「菩薩」を名乗られていますが、一般には天部に属するとされ、すこぶる複雑な尊格のようです。
また、天之御中主神も造化三神というすこぶる格の高い神格でありながら、ナゾの多い神様とされています。
星宿思想が絡む尊格は、複数の信仰が習合・混交していることもあって、複雑な性格をもたれるものが多く、生半可な知識では到底語れませんので、このくらいにしておきます。
なお、妙見菩薩を祀られる寺院は日蓮宗と天台宗で目立ち、こちらも天台宗寺院です。

御朱印は庫裡にて書置きのものを拝受しました。


7.秋元山 江月院 光巌寺
前橋市総社町総社1607
天台宗
御本尊:釋迦牟尼如来
札所:群馬郡三十三観音霊場第22番、前橋四公御朱印巡り
札所本尊:釋迦牟尼如来(前橋四公御朱印巡り)



〔 御本尊の御朱印 〕


〔 前橋四公御朱印巡りの御朱印(専用御朱印帳) 〕

中央に御本尊、釋迦牟尼如来の種子「バク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「釋迦牟尼如来」の揮毫。
左下には山号・寺号の揮毫と寺院印、右上には山号印が捺されています。
御朱印帳書入れ、専用御朱印帳ともに同じ内容です。

釈迦(如来)の御朱印は釈迦如来ないし(南無)釈迦牟尼佛での授与例が多く、釈迦如来は密教系、(南無)釈迦牟尼佛は禅宗系での授与が多くなっています。
この御朱印は複合形の「釈迦牟尼如来」で、数は多くないもののこの授与例もみられます。

なお、釈尊は仏教の開祖としての釈迦(ゴータマ・シッダルタ)、諸仏としての釈迦如来、本仏釈尊(久遠実成本仏)など、多様な性格、あるいはその存在を巡る解釈論(本仏論など)をもち、一言では語れない複雑な尊格です。

慶長六年(1601年)総社藩初代藩主の秋元長朝が徳蔵寺の亮應を招いて創建(開山)、以後秋元家の菩提寺としてつづく名刹。
秋元氏は名族宇都宮氏の流れとされ、戦国期の当主、長朝は関ヶ原の戦いの功績により慶長年間に一万石で総社藩に入り、利根川の右岸に総社城を築きました。
藩内の町割りを進めるなど名君の誉れが高かったと伝わりますが、二代泰朝の代に甲斐・谷村藩一万八千石に加増されて転封し、総社藩は廃藩となっています。

前橋市資料などによると、秋元氏は谷村藩に移封となったものの、光厳寺はこの地に留まり歴代秋元家の菩提を弔っているとの由。
また、慶安二年(1649年)には三代将軍家光公より16石の加増を受けて計46石。
この地域の天台宗の修業寺として寺運が隆盛したと伝わります。

境内は名家の菩提寺らしい落ち着いた空気に包まれています。
古い伽藍が多く残り、なかでも、薬医門は江戸時代初期に総社城の城門として建てられ、廃城になった際に移築したと推定される貴重な建物で、前橋市指定重要文化財に指定されています。

御朱印は庫裡にて拝受できます。
こちらは「前橋四公御朱印巡り」の一寺です。
「前橋四公御朱印巡り」は霊場とはいえないと思いますが、現在の前橋市域内で藩主を務めた酒井雅楽頭家、松平大和守家、秋元越中守家、牧野駿河守家ゆかりの6つの寺社を巡るイベントで、平成28年秋にはじまり毎秋開催、昨年平成30年秋で3回目となります。(平成30年は9/29~10/6の開催)
期間中、専用御朱印帳が配布され、これに捺印をいただく形で御朱印が授与されています。

 

【写真 上(左)】 四公祭ののぼり(光巌寺)
【写真 下(右)】 四公祭の専用御朱印帳

「前橋四公御朱印巡り」のほとんどの寺社は通常ご朱印も授与されていますが、専用御朱印帳とは尊格が異なるところもあり、御朱印収集的には貴重なイベントです。
前橋(厩橋)藩は、譜代(酒井雅楽頭家)、御家門(越前松平家)がおおむね十五万石の石高をもって封じられた上州屈指の大藩で、ゆかりの寺院の格式も高くなっています。


8.氣雲山 春光院 元景寺
前橋市総社町植野150
曹洞宗
御本尊:釋迦牟尼佛
札所:前橋四公御朱印巡り
札所本尊:釋迦牟尼佛(前橋四公御朱印巡り)



〔 御本尊の御朱印 〕


〔 前橋四公御朱印巡りの御朱印(専用御朱印帳) 〕

中央に三寶印と「南無釋迦牟尼佛」の揮毫。
左下には寺号の揮毫と寺院印、右上に「拝登記念」の揮毫と寺号印?が捺されています。
御朱印帳書入れ、専用御朱印帳ともに同じ内容です。
「拝登(記念)」は、山岳信仰系の神社の御朱印でときおり見られますが(とくに富士塚のお山開きの御朱印に多い)、平地の寺院の御朱印ではめずらしいと思います。

利根川右岸にもほど近い、植野の地に構えるこちらも秋元氏ゆかりの名刹。
寺伝によると、開基は初代総社藩主秋元長朝で、父景朝の菩提を弔うため景朝の法名である「春光院殿気山元景大居士」から山号・院号・寺号が名づけられたとの由。
天正十五年(1587年)開創、天正十八年(1590年)に本堂が建立され、御本尊釈迦牟尼佛、脇侍文殊菩薩・普賢菩薩が安置されたと伝わります。

伽藍は、本堂・山門・鐘楼・庫裡・書院・位牌堂などからなります。
境内には、名君と伝わる総社藩初代藩主、秋元長朝の治世を物語る天狗岩伝説にまつわる羽階権現(はがいごんげん)が祀られ、長朝の功績を称える「力田遺愛碑」も建立されています。

このお寺には淀君にまつわる哀しい伝承と、淀君の墓と伝えられるものが残されています。
淀君は大阪夏の陣で秀頼と共に自害したとされますが、落ち延び説もあり、その落ち延び先として薩摩国と上野国厩橋の二つの説があるようです。
その上野国厩橋説にかかわるお寺ということでしょうか。
なお、境内掲出の寺伝には、「敷島公園内のお艶観音」との関係を示唆する内容が書かれています。

秋元家の墓のそばに、淀君の墓と伝えられるものが残されています。
戒名は、女性としては最高位の院殿・大姉号で、相当の高貴な身分の女性の墓所であることは間違いないとされています。(公式Webでは「伝・淀君(おえん)の墓」と表記されています。)
また、淀君所有とされる「正絹の大打掛」と「籠の引き戸」も伝えられているようです。

こちらも前橋四公御朱印巡りの一寺で、期間内は専用御朱印帳に授与いただけます。
御朱印は庫裡にて拝受、御朱印帳に書入れいただきました。


9.東向八幡宮
高崎市箕郷町西明屋4
主祭神:品陀和気命
旧社格:村社、箕輪城総鎮守



〔 御朱印 〕
中央に社名印の捺印と「東向八幡宮」の揮毫。右に「上毛野國箕輪」の印判。
左下には宮司印が捺されています。

旧箕郷町は平成18年に高崎市と合併し高崎市となりましたが、固有の歴史・文化を育んできたエリアです。
箕郷は上州の名族長野氏(皇別氏族、在原氏(在原業平)の流れで上野國守護代の家格であったとされる)の本拠地で、ことに箕郷城は名将の誉れ高い長野業正が拠った城として知られています。(箕郷城は「日本百名城」のひとつ。)

関東管領・山内上杉家に属した長野氏は、しばしば後北条氏の侵攻を受けましたが、業正は能く戦って譲らず領地を守りました。
また、武田信玄は信州経由で上州に侵攻し、箕郷城はその攻防の地となりましたが、やはり業正はこの領地を譲りませんでした。

しかし、業正亡きあとついに武田方の手に落ち、この地は武田方の上州経営の拠点として甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種、内藤昌豊など錚々たる武田方の武将が城代として入りました。
武田氏滅亡後、滝川一益の統治下に入りましたが、本能寺の変により後北条氏の領地に、後北条氏没落後は12万石をもって井伊直政が入り箕郷藩を立藩したものの、慶長三年(1598年)高崎城に移封され箕輪藩は廃藩、城は廃城となりました。

このように箕輪城は「戦国時代の縮図」といわれるほどの歴史を刻みましたが、この箕輪城の総鎮守と伝わるのが東向八幡宮です。

室町時代中期の文明六年(1474年)、箕輪初代城主長野尚業が山城の石清水八幡宮より分霊勧請して創祀、箕輪城の総鎮守と成したと伝わります。
また、江戸期には阿房国勝山藩主酒井安芸守の飛地領地で、その病の平癒に霊験あらたかであったという伝承もあるようです。

境内はこぢんまりとしていますが、市指定重要文化財の「東向八幡宮の石幢」があります。珍しい十三仏の石幢で、神仏習合の歴史を物語るものかと。

御朱印は境内の社務所で、御朱印帳に書入れいただきました。


10.金富山 実相院 長純寺
高崎市箕郷町富岡852
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛



〔 御本尊の御朱印 〕
中央に三寶印と「南無釈迦牟尼仏」の揮毫。
左には山号、寺号の揮毫。通常、寺院印が捺される位置には長野氏の家紋「檜扇」紋が捺されています。

この地の名族、長野氏代々の菩提寺として伝わる曹洞宗の名刹。
高崎市資料によると、箕輪城主長野信業が明応六年(1497年)に箕郷町上芝に創建し、弘治三年(1557年)長野業政が現在地に移したと伝わります。

開山堂には市の指定重要文化財「長野業政公の像」が安置されています。
参道入口の閻魔大王や奪衣婆などの石仏はインパクトがあります。
閻魔大王は天台宗や浄土宗などの寺院にはよくおられますが、曹洞宗寺院では比較的めずらしいような感じもします。

御朱印は、2度目の参拝でご住職不在だったため郵送をお願いし拝受しました。
こちらはご不在がちの感じもありますが、名刹で「日本百名城」城主の菩提寺でもあるのでご紹介しました。

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)


■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-5(後編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

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