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■ 熊田このはちゃんの夏の終わり歌【限定公開】

切なさを帯びたこのはちゃんの歌は夏の終わりにぴったり。
夏の終わりっぽい曲をいくつか集めてみました。
期間限定公開です。

 

■ 少年時代


■ 月のしずく


■ 打上花火 (w/富金原佑菜)


■ いのちの歌 (w/鈴木杏奈)


■ ツキミソウ


■ ずっと、ふたりで



■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
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■ 希有のシンガー、遥海(草ケ谷遥海)

最新LIVE情報です。 → 公式Web

HARUMI LIVE 2024 "ECHO"
■公演日 :2024/10/27(日) 18:00開演
■会場名 :草月ホール(港区赤坂)
■チケット料金 :料金7,300円(税込)全席指定

本日(8/17)10:00~ 予約開始です。

個人的には、おそらくいまのJ-POPでもっとも歌がうまいシンガーのひとりだと思っています。
この才能で、わずか526席を即完できないとは・・・。

いまの日本のPOPS界って、どうなってるんだか・・・。
逆にいうと、この名シンガーを526席の小ホールで聴けるんだから、プラチナチケットかも。

■ 遥海 -『answer』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)



声がよくても、音程やリズムが正確無比でも、聴き手に響かない歌い手はたくさんいる。
でも、この人の歌声は一音一音に感情が乗っている。
一度聴き始めたら、最後まで聴かずにはおかない圧倒的な声の存在感。

こんな逸材が、よくぞ日本のJ-POP界にリアルタイムであらわれたものだと思う。
個人的には、いまのJ-POP界でトップクラスの歌唱力だと思う。
というか、ワールドワイドで活躍できるレベル。

[歌うまCollection]プロより上手い歌唱力 2017.8.12 S級素音 草ヶ谷遥海さん 『Listen』 カバー


元祖[歌うまCollection] DOOR'S SC.12.11 MISIA cover/逢いたくていま 『遥海』

路上でこのレベル。
これ聴いて、素通りできる人の気がしれない(笑)
コメントが、この人の才能のすごさを物語っている。


■ 本当に上手い女性シンガー20人!


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2023/06/26 UP

さっきまで、録画したカラバト視てた。
しらスタさんが決勝進出してびっくり。
やっぱり実力あるんだ。

でも、このしらスタさんが絶賛してるのが遥海。

【遥海】カラオケBARで点描の唄(Mrs. GREEN APPLE)をデュエットしたら最高だった...

遥海へのリスペクト感がハンパない。

【遥海 - Pride】歌の神様が100人くらい喉に住んでます。【リアクション動画】【波よ聞いてくれ】

しらスタさんのコメって、いい音へのストレートな愛情が感じられる。
「歌の神様が100人くらい喉に住んでいる」 ← ほんとにそう思う。

こんどは遥海ちゃんもカラバトにトライして欲しい。

〔1stCDシングル/2020/5/20リリース〕
■ 遥海 -『Pride』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)



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なんかこのところ、この人のテイクばっかり聴いている気がする(笑)
ここまで才能があると、それを触媒にしていろいろと見えてくるものがある。

■ 草ケ谷遥海 Harumi Kusagaya STAGE2 - X Factor Okinawa Japan

これだけのパフォーマンスを目の当たりにして、審査員のリアクションってこれだけ?
で、「英語ってどうやって習ったの?」とか本質から逸れまくった質問。
んで結局つぎのステージで落としたらしい。いったい何やってんだか・・・。

これだけじゃないけど、日本のオーディションって審査員のレベル●すぎ。

■ Hey, World!!「つつみ込むように...」 Hey, World!! performs "Tsutsumikomu youni" - TOP 9 LIVE SHOW 2nd Round

メンバー、みなそれぞれに歌えるけど、やっぱり遥海さんだけ別次元。

■ 草ケ谷遥海(くさがやはるみ)(1)曲:Bang Bang 「X Factor Okinawa JapanでTOP9まで残った4人組女性ボーカルグループ「 Hey, World!!」のメンバーの一人

R&Bもこの仕上がり。曲幅がめちゃくちゃ広そう。

■ I will always love you - 草ケ谷遥海(Covered)

圧倒的なライブパフォーマンスの安定感。

■ いとしのエリー 2018.8.18

サザンの難曲をここまでオリジナル化してしまうとは、やっぱりただものじゃない。

■ 遥海 (草ケ谷遥海) - Listen (Beyoncé Cover)  #歌唱王

これでも優勝できなかったんだよね。なぜか。

■ 遥海(Harumi)×RIOSKE -『Dotchi』 MUSIC VIDEO

遥海のデュエットテイクって、相手方が実力の落差で破綻してしまうケースが多いけど、これは健闘している。
ただし、遥海を凌ぐ相手方がどうにも思いつかない。

■ Precious(伊藤由奈)/草ケ谷遥海

バンド・・・。
一流の歌手にはやっぱり一流のインスト陣゛が必要か。


やっぱりここまで人のこころを打つ歌い手はほとんど思いつかない。

■ 草ケ谷遥海 誓い


■ 遥海 -『Sky's the limit』(金城学院大学 Special Movie)

名古屋きってのお嬢様学校、金城学院とのコラボ?
このディレクション力、そこらへんのプロよりぜんぜん上じゃん。
ここ数年まともにヒット曲を生み出せなくなったのは、フロントを占めている”プロ”の力量も関係してるのでは?

この逸材をブレイクさせるだけの感性や見識が、いまの日本のメディアやリスナーにまだ残っているかどうか・・・。(ひつこい(笑))

〔1stCDシングル/2020/5/20リリース〕
■ 遥海 -『Pride』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)



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2023/04/11 UP

遥海。
1996年、フィリピンで生まれたハーフのシンガー。
3歳にしてすでにフィリピンのゴスペルチームに入り、13歳で日本に移ってシンガーとして活動をつづける。

『第2回関ジャニ∞のTheモーツァルト 音楽王No.1決定戦』(2015/12/18)、『第5回全日本歌唱力選手権 歌唱王』(2018/1/3)などに出演していたし、↓ のものすごいLIVEテイクは以前から知っていた。

■ [歌うまCollection]プロより上手い歌唱力 2017.9.24 初ワンマン ストロボカフェ 草ケ谷遥海さん カバー『ILOVE YOU』


これまで何度かこのブログに書いたこともあるが、まとめてとりあげたことはなかった。
(というか、なぜか注力フォローしていなかった。)

2023年2月22日、3rd CDSingle「名もない花」リリース。
その圧倒的な歌唱力に改めておののく。
このとき、遥海=草ケ谷遥海であることをはじめて知る。
バイオグラフィー

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なんというか、歌に魂が乗り移っている感じがする。
今回WebUPされている動画をいろいろ聴いてみたけど、ほとんどハズレのテイクがないのも驚異。

来日当初は日本語が話せなかったため「日本語ができなかったから、日本語がわからない人にも伝わるような歌を歌いたい」と思うようになったという。
ある意味、昨今もてはやされる「こころに刺さる歌詞」とは対極のポジション。

テクに走らず真っ正面から声をぶつけてくる。
”歌だけで伝えきる”という気迫が感じられるテイクの数々。

本当に、歌うために生まれてきたような希有のシンガー。
この逸材をブレイクさせるだけの感性が、いまの日本のメディアやリスナーにまだ残っているかどうか・・・。
ウォッチしていきたいと思います。


■【歌うまCollection】2017.7.13 草ケ谷遥海さん 『Precious』路上 Live


■ 草ケ谷遥海『DREAMIN'/ JASMINE』@ 梅田シャングリラ 2018/03/26


■ 遥海 - 記憶の海


〔1stCDシングル/2020/5/20リリース〕
■ 遥海 -『Pride』 Live Ver. (HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)


〔2ndCDシングル/2021/11/10リリース〕
■ 遥海 -『声』 Live Ver. (2021.08.27 HARUMI LIVE 2021”FOCUS”)


〔3rdCDシングル/2023/2/22リリース〕
■ 遥海 -『名もない花』(TVアニメ「アルスの巨獣」ED)
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■ 鎌倉市の御朱印-10 (B.名越口-5)

書きかけの「鎌倉市の御朱印」に戻ります。
しばらくつづけます。

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 鎌倉市の御朱印-2 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-3 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-4 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-5 (A.朝夷奈口)
■ 鎌倉市の御朱印-6 (B.名越口-1)
■ 鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)
■ 鎌倉市の御朱印-8 (B.名越口-3)
■ 鎌倉市の御朱印-9 (B.名越口-4)から。


33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)

蛭子神社は小町大路に面する小町地区の鎮守社です。
蛭子神社の縁起沿革はすこぶる複雑で、本覚寺内の夷三郎社、宝戒寺内の山王大権現、現在地に御鎮座の七面大明神の合祀といいます。

各社の縁起沿革を順に追ってみます。

【 夷三郎社(夷堂) 】
滑川は鎌倉十二所、二階堂方面から鶴岡八幡宮東脇~若宮大路に沿って流れ、由比ヶ浜に注ぐ鎌倉随一の河川です。

源頼朝公は鎌倉幕府の裏鬼門除けのために小町大路が滑川を渡る橋のたもとに「夷三郎社」(夷堂)を祀ったといい、この橋を「夷堂橋」といいます。
当所は小町と大町の境。
夷堂橋の上に立って左右を眺めると西は本覚寺山門、東は妙本寺参道で、信仰的にも重要な場であることがわかります。


【写真 上(左)】 夷堂橋の石碑
【写真 下(右)】 夷堂橋から本覚寺

「本覚寺公式Web」「鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)」等によると、夷堂はもともと天台宗系でしたが、流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が約40日間滞在されたお堂といい、鎌倉幕府に対して三度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められたと伝わります。

鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覚寺と伝わります。

Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覚寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。

---------------------------------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------------------------------(抜粋引用おわり)

夷三郎社(夷堂)は旧地の橋のたもとから本覚寺境内に遷され、ひきつづき夷三郎社と称して山内の鎮守と仰がれましたが、明治初期の神仏分離により同山の管理を離れ、現社地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神に合祀されたといいます。

【 宝戒寺内の山王大権現 】
『新編鎌倉志』には「(宝戒寺)山門を入て右にあり。」とあり、小町上町の鎮守といいます。
『鎌倉市史』には「山王権現は応永二年(1395年)二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろう。」とあり、宝戒寺草創当初(観応三年(1352年)頃の造営)から山内に御鎮座とみられます。

『山門秘書記』翻刻版(小峯和明氏/PDF)、Wikipediaの「山王権現」によると、山王七社とは日吉大社の本社・摂社・末社二十一社を上・中・下に七社ずつ分けていう呼び名のうち、とくに上の七社をさすといい、大宮(大比叡)・二宮(小比叡)・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮の七所です。

大行事権現は中七社の一社で本地を毘沙門天といい、天台宗寺院の地主神として本堂の裏手等に祀られる例があります。
早尾権現も中七社の一社で本地を不動明王といいます。

上記の山王七社と大行事権現、早尾権現を併せて(宝戒寺の)山王大権現と称していた可能性があります。

明治維新後の神仏分離令により宝戒寺から分離され、現社地に御鎮座の七面大明神に合祀されたといいます。

なお、小町下町の鎮守・七面大明神についての縁起沿革は見つかりませんでしたが、神号からおそらく日蓮宗系の尊格と思われます。

以上のとおり、もともと現在地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神、本覚寺山内の夷三郎社、宝戒寺山内に御鎮座で小町上町の鎮守・山王大権現の3社を合祀して、明治7年8
月蛭子神社を号したとみられます。

明治6年の村社列格を記念して、明治7年社殿を新築。
本殿は、そのときに鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものといいます。
昭和15年神饌幣帛料供進神社に指定。

『鎌倉市史』には、旧社殿は関東大震災で大破し、昭和8年改築とあります。

3社合祀の沿革で御祭神が気になるところですが、神奈川県神社庁資料には大己貴命(おおなむちのみこと)と記されています。


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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
夷堂橋
夷堂橋は、小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此邊に夷三郎社ありしとなり。今はなし。

寶戒寺(山王権現社)
門を入て右にあり。

神奈川県神社庁Web資料
蛭子神社
新編相模風土記稿に「夷堂橋は 此辺に夷三郎社ありしとなり」とある如く、産土神であったが、其所に本覚寺が創建され、地主神として山門の鎮守として奉斎されていたが、神仏分離令により寺内より離れ、小町村の鎮守として明治6年村社に列格された、付近の山王権現、七面大明神などを合祀に明治7年8月、蛭子神社と称した。

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
蛭子神社
ヒルコと読む。祭神、大己貴命。例祭九月十五日。元指定村社。境内地八二.六二坪。拝殿・本殿・社務所あり。本殿は明治七年八月、鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲りうけて建立したものである。
小町の鎮守。この所にはもと小町下町の鎮守七面大明神が祀られていたが、神仏分離により本覚寺の鎮守であった夷三郎社をここに移し、かつ上町下町が一村に合され一村に鎮守は一社しかおかぬという達しによって、小町上町の宝戒寺鎮守山王大権現も合祀したという。
夷三郎社は『風土記稿』本覚寺境内図に見えている。いま本覚寺山門前の橋を夷堂橋というのはこの社によってつけられた名といわれている。
宝戒寺の山王も『風土記稿』同寺の項に見えている。現在の社殿は大正十二年関東大震災で大破したが、昭和八年九月改築したもの。

宝戒寺(山王権現の項)
寛永十二年、弁盛が宝戒寺造営のことについて目安を江戸幕府に上った。それによると、境内には本堂・僧堂・鎮守(山王権現)があり、山王権現は応永二年二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。
御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろ
う。

■ 境内掲示(鎌倉市)(「猫のあしあと」様より)
鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗夷尊神)と称され、往古永享年間(凡五百余年前)日蓮宗本覚寺前夷堂端の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、同寺境内に祀られし北条一門の守護神山王大権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。
爾来百余年えびす様の愛称で福の神・むすびの神として信仰され遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。

えびす様は、皆様おなじみの釣棹を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影をえがいて敬い親しみ産業福祉の道をお拓きになった。御神業の神として一般に福の神・縁結びの神・商売繁盛の神として信仰する者多く殊に近年は学びの神・交通安全の神として氏子を始め崇敬し参詣するもの日毎に増し、えびす様と私共の生活が「むすび」の御霊力即ち愛情によって人間は活かされており、そのことに感謝し、その愛情にふれさせて頂く努力をすることによって、明るい生活が出来るのであります。
私等の氏神として、永い歴史があって変わらない信仰と崇敬をおうけになっている尊い鎮守様であります。

■ 鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)
鎌倉十橋(かまくらじっきょう)/夷堂橋
夷堂橋は、本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、その名は本覚寺の仁王門前あたりにあったとされる夷堂に由来します。夷堂は源頼朝が御所の裏鬼門に夷神をまつった夷三郎社が始まりで、滑川もこのあたりでは夷堂川とも呼ばれていました。現在夷堂は本覚寺の境内にあります。

夷堂橋(えびすどうばし)
設置場所:小町1-12-12
本覚寺前。鎌倉十橋の一つ。かって、この橋のたもとに源頼朝が幕府の鬼門除けのために創建した「夷三郎社」(夷堂)があったことからこの名前になったと言われています。

本覚寺
小町大路が滑川を渡るところに、源頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂がありました。
今も夷堂橋があります。
日蓮が滞在していたお堂で、その後ここから身延山へ旅立ちました。
夷堂は鎌倉幕府滅亡のときに焼け、その跡につくられたのが本覚寺です。
1436(永享8)年、もとこの地にあった天台宗夷堂を日出上人が日蓮宗に改めたのがはじまりと伝えます。

本覚寺公式Web
本覺寺の創立は永享8年(1436)ですが、夷堂の歴史はさらに古く、鎌倉時代の初期頃と伝わります。そしてこの夷堂は日蓮聖人とも縁が深く、流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が、40数日滞在されたといわれています。その間に、日蓮聖人は鎌倉幕府へ3度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められるなど、後の布教のあり方などを大きく変えられました。


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鎌倉駅にもほど近い小町大路に面して御鎮座、「日蓮上人辻説法跡」にもほど近いところです。

小町大路に面する社頭・参道の間口は広くなく、あまり目立たなのので観光客の参拝はさほど多くはないのでは。
御朱印が授与されていることも、あまり知られていないかと思います。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標

社頭に社号標と亀腹を置いた明神鳥居で、社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 参道

しかしながら小町の鎮守であり、鎌倉有数の名刹、本覚寺、宝戒寺と古いゆかりをもつこともあってか、参道を進むにしたがい神さびた空気感に包まれます。

桟瓦葺で木鼻獅子や蟇股を備えた立派な手水舎。
手水鉢には「魚がし」の刻字。


【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 斜めからの拝殿

拝殿は南面し、向かってすぐ右手(東側)は滑川です。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な彫刻を置いています。
唐破風の鬼板や兎の毛通しも見事な出来映えで見応えがあります。
向拝正面桟唐戸の上部に、端正な字体の社号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天水鉢

向拝桟唐戸と殿前の天水鉢とに同じ紋を置いています。
梶の葉紋系統にも思えますが、諏訪系の梶の葉紋とは趣を異にしていて、他の神紋を当たってみましたが該当する紋がみつからず、よくわかりません。


御朱印は大町の八雲神社にて拝受しました。

〔 御朱印 〕




以下、つづきます。


34.長慶山 正覺院 大巧寺(たいこうじ)
公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町2-17-20
単立
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-


35.妙厳山 本覚寺(ほんがくじ)
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)



【 BGM 】
■ Never Too Far to Fall - George Benson


■ Don't Let Love Slip Away - Freddie Jackson


■ Stay - The Temptations
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第21番 清瀧山 観音院 蓮花寺
(れんげじ)
墨田区観光協会公式Web

墨田区東向島3-23-17
真言宗智山派
御本尊:弘法大師
札所本尊:
司元別当:(寺島村)総鎮守・白鬚神社(墨田区東向島)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第72番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第84番、新葛西三十三観音霊場第19番、墨田区お寺めぐり第11番

第21番は墨田区東向島の蓮花寺。
東向島の旧町名「寺島」の地名のいわれとなったとされる中本寺格の真言密寺です。

墨田区観光協会公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

蓮花寺はすこぶる複雑な縁起をもたれます。
一説には寛元四年(1246年)、鎌倉幕府第5代執権、最明寺入道北条時頼の開基で、時頼の兄の北条武蔵守経時追福のため鎌倉佐介谷(現・鎌倉市佐助)に創建された蓮華寺が創始といいます。

頼朝公の外伯父、深井法眼範智の孫・良弁法印審範を開祖として聖徳太子の御像を安置といい、後に京の禁裏から弘法大師空海御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を招来し奉安したといいます。

経時の死後、子の頼助は諸般の事情から執権職を叔父の時頼に譲り、自らは剃髪入道して諸国を廻ったといいます。

廻国ののち寺島の地に一寺を建て、弘安三年(1280年)鎌倉の蓮華寺の名跡を遷し、「女人済度厄除弘法大師」を御本尊とし、堂宇を建てて聖徳太子の御像を納め、佐々目大僧正頼助と号して自ら開山となったといいます。
(『ガイド』によると蓮花寺の『日過去帳』には、「大僧正頼助永仁四年(1296年)二月八日蓮華寺開山」とある由。)

以上の縁起は、江戸期には人口に膾炙していたようですが、『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』『葛西志』などは、こぞってこの縁起に疑義を呈しています。

その疑義とはおおよそ以下のとおりです。

*******
1.『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)経時のために佐介谷に蓮華寺を建立した住持は良忠(記主禅師)と記されていること。

2.『鎌倉志』に、佐介谷の蓮華寺は寛元元年(1243年)平(北条)経時の建立にて、時の導師は記主禅師(良忠)とあること。

3.上の二書ともに蓮華寺建立の導師は記主禅師(良忠)とあるからには、その宗門はもとより浄家(浄土宗)であることは明らかである。

4.『鎌倉志』には蓮華寺創立の後、経時の霊夢により光明寺と改めたとあり、光明寺でもこのように伝わる(ので蓮華寺が光明寺の前身であることは明らか)。

5.以上より、佐介谷の蓮華寺は光明寺となったことは明らかであり、あるいは寺島の地は頼助の領地だったため、(佐介谷の蓮華寺)遙拝のために同名の寺を起立したのではないか。
佐介谷の蓮華寺が(光明寺)に改号した(材木座に移転して佐介谷の蓮華寺がなくなった)ため、後の人々が(佐介谷の)蓮華寺が(寺島の)蓮華寺に移ったという説を打ちたてたのではないか。
*******

鎌倉材木座の光明寺といえば浄土宗の大本山であり、光明寺公式Webには「良忠上人は鎌倉幕府第四代の執権、北条経時公の帰依を受けてこの光明寺を開かれたといわれています。」と記されています。

その光明寺の前身が佐介谷の蓮華寺であることは諸史料に明らかで、記主禅師良忠上人ゆかりの佐介谷の蓮華寺が、江戸墨東・寺島の地に、しかも真言密寺として移転というのはどうみても不自然です。

また、諸史料からすると、京の禁裏から弘法大師空海御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を招来し安置したのは佐介谷の蓮華寺とみられますが、禁裏に奉安の弘法大師御自筆の「女人済度厄除弘法大師」といえば真言宗の至宝であり、その至宝を浄土宗の蓮華寺に相伝するというのもいささか解せない流れです。

さらにWikipediaで頼助 (北条氏)を当たってみると、
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・頼助(1244-1296年)は真言僧で、父・北条経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれた。
・弘長二年(1262年)以前には出家している。
・三宝院・安祥寺・仁和寺各流を受法し、仁和寺流・法助の弟子となって文永六年(1269年)に頼守から頼助に改名した。
・修行を積んで鎌倉に戻り、弘安四年(1281年)の元寇の際には異国降伏祈祷を行い、弘安六年(1283年)には鶴岡八幡宮の10代別当となる。
・円教寺、遍照寺、左女牛若宮等の別当、東寺長者などを歴任し、正応五年(1292年)、大僧正・東大寺別当に就任。
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とあり、真言僧として錚錚たる地位を歴任しています。

なお、佐々目(谷)は佐助と長谷の間の谷で、『吾妻鏡』寛元四年(1246年)閏4月2日條には、北条経時が佐々目山麓に葬られたと記されています。

佐々目の遺身院および頼助については、以前こちらの記事(鎌倉市の御朱印-7の24.安養院)でもふれています。

『鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -』(高橋秀栄氏/PDF)には「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。」とあります。

以上から考えると、頼助は真言密各派の教義を修めたばりばりの真言僧で、自身の領地(寺島)に鎌倉から寺院を遷すとすれば、拠点としていた佐々目の真言密寺・遺身院を遷すのではないかとも思えます。

鎌倉の拠点として遺身院を残しておきたいのであれば、寺島には分院を置いてもいいですし、佐々目にいくつかあった真言密寺を遷してもいい筈です。
少なくとも他宗派の重要寺院・蓮華寺を遷すという発想には至らないのでは。

このような疑義もあってか、当山の縁起については「はっきりしない」とか「諸説あり」と記される例が多くなっているのだと思います。

どうにもすっきりしないので、さらに『鎌倉市史 寺社編』を当たってみました。
同書P.429~に気になる記述があります。

「従来光明寺について多くのものは『鎌倉佐介浄刹光明寺開山御伝』により、然阿良忠か仁治元年(1241年)二月、鎌倉に入り、住吉谷悟真寺に住して浄土宗を弘めていた、時の執権経時は良忠を尊崇し、佐介谷に蓮華寺を建立して開山とし、ついで光明寺とその名を改め、前の名蓮華の二字を残して方丈を蓮華院となづけた。寛元元年(1243年)五月三日、吉日を卜して良忠を導師として供養した。といい、『風土記稿』所引の寺伝では、この時に、現在地材木座に移転したようにいっている。しかし、経時(1246年没)の法名は蓮花寺殿安楽大禅定門とあるから、光明寺と改名するのは、どうも後世のように思われる。『良暁述聞制文』には、「佐介谷悟真寺今号蓮華寺」とあり、正中二年(1325年)三月十五日にはまだ光明寺という名がでてこない。(中略)『開山御伝』に建長頃(1249-1256年)、北条時頼が寺領を加へ、外門の額字を、佐介浄刹としたという話も、佐介谷にあればこそのことではないかと思う。(中略)『資料編』三の四七六及び四七八はいづれも江戸時代に納められたもので、内容から考えてどうも密教系の寺のものでここのものではないらしい。光明寺の肩の文字を抹消していることも、疑問がのこるところである。(中略)現在のところ(材木座)に移転した期日及び名を光明寺と改めた時期はなお研究を要する問題である。」

『資料編』三の四七六及び四七八が手元にないのでなんともいえませんが、「密教系の寺」が寺島の蓮花寺だとすると、光明寺の縁起を辿るときに寺島蓮花寺関連の文書が入り、錯綜している様子がうかがえます。
こんなこともあって、寺島の蓮花寺の縁起は現代に至ってなお「諸説あり」とされるのかもしれません。

なお、上記の『鎌倉市史 寺社編』によると、正中二年(1325年)の時点ではまだ光明寺の名は出てこず(=蓮華寺が存在していた)、弘安三年(1280年)に頼助が鎌倉から蓮華寺を遷したという当山縁起(説)の内容と時系列的には符合しますが、そうなると弘安三年(1280年)以降は(寺島に移転したため)鎌倉に蓮華寺は存在しないことになり、光明寺まで系譜がつながらなくなってしまいます。

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以上のように縁起沿革こそ不明瞭さは残るものの、禁裏から相伝の弘法大師御自筆の「女人済度厄除弘法大師」を奉安は、江戸庶民にとって圧倒的なインパクトであり、当山は「厄除け寺島大師」と尊称され、川崎大師平間寺、西新井大師総持寺とともに「江戸三大師」に数えられて参詣者を集めました。

一説に鎌倉幕府第5代執権、北条時頼公の開基、大僧正・東大寺別当の(北条)頼助の開山ということもあり、自ずから寺格は高く京都智積院直末の中本寺格寺院でした。

墨東の弘法大師霊場・隅田川二十一ヶ所霊場の結願寺として、まことにふさわしい名刹といえましょう。

北条家滅亡の後も足利将軍、管領等の崇敬は篤かったものの、文明年間(1469-1487年)の下総千葉家内の騒乱によって当山は荒廃したといいます。
天文年間(1532-1555年)、この地が小田原北條家の領地となった頃、遠山丹波守が奉行として寺領等を寄附して寺勢を復しましたが、その後ふたたび戦乱で荒廃。

しかし家康公の治世に当山由緒の御尋ねあって、御朱印を賜い堂舎を造立、「江戸三大師」にも数えられて寺勢を保ちいまに至るといいます。

女人救済の霊場としては「江戸六阿弥陀」(→ 関連記事)が知られていますが、「女人済度厄除弘法大師」は江戸近辺ではあまり例がないとみられ、多くの女性の参詣を集めたことは想像に難くありません。

なお、当山は江戸期には東向島(寺島村)総鎮守・白鬚神社の別当でした。


【写真 上(左)】 白髭神社
【写真 下(右)】 白髭神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(寺島村)蓮華寺
新義真言宗山城國醍醐三寶院末 清瀧山観音院ト号セリ
本尊弘法大師自書ノ像ヲ安ス(中略)縁起云 当寺ハ最明寺平時頼ノ舎兄武蔵守経時朝臣ノ菩提寺ナリ
初ハ相州鎌倉郡佐介谷ニ創立アリテ 其経時寛元四年(1246年)逝去ノ後時頼一寺ヲ建立シ 蓮華寺殿前武州安楽大禅定門ト謚ス 時ノ開山ハ辨法印審範ナリ 審範ハ則頼朝卿ノ外伯父 深井法眼範智ノ孫ナリ 其後経時ノ子佐々目大僧正頼助此寺嶋ヲ知行アリシ時 鎌倉ノ蓮華寺ヲ此所ニ移シ 弘安三年(1280年)八月建立シテ頼助自カラ中興ノ開山トナレリ云々
按ニ此寺伝甚疑フヘシ イカニト云ニ 鎌倉大日記ニ建長三年(1251年)経時ガ為ニ佐介ニ於テ蓮華寺建立住持ハ良忠ト記シ 又鎌倉志ニ佐介谷ノ蓮華寺は寛元元年(1243年)五月三日平経時ノ建立ニテ 時ノ導師ハ記主禅師トアリ 此二書ニ載ル処年代等ハ異同アレト 導師ハ共ニ記主ナレハ宗門元ヨリ浄家ニシテ審範ニアラサルコト明ケシ シカノミナラス鎌倉志ニハ蓮華寺創立ノ後経時霊夢アリテ光時(明?)寺ト改ム由ヲ記シ今モ光明寺ニテモシカ伝フレハ 当寺の伝記正シトハオモハレス モシクハ当所頼助カ領知ナレハ 遙拝ノ為別ニ同名ノ寺ヲ起立アリシヲ タマタマ佐介谷ノ蓮華寺改号セル故 後人妄ニ彼寺ヲ引キ来リシナト云コセシニアラスヤ
鐘楼 宝暦八年ノ鐘ナリ
愛染堂 興教大師ノ書ケル像ヲ安ス
権現堂 清瀧権現ト号ス

『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
清瀧山蓮華寺
寺嶋村にあり 寺記に云く昔此地ハ海原なり 後世ようやく干潟となりし頃当寺を創建ありし故に寺嶋の称ありといへり 小田原北条家の所領役帳に行方与●島葛西寺寺嶋の地を領すとあり
当寺ハ真言宗にして醍醐の三宝院末に属す 本尊阿弥陀如来如来の像ハ恵心僧都の作といふ
太子堂 本堂の右にあり本尊聖徳太子の像ハ十六歳の真影にして太子自彫造ありしと云
北条経時の念持佛にて往古ハ相州鎌倉佐々目にありしを 弘安三年(1280年)の秋北条頼助寺院●●●に本尊共に此地へ引移し同年八月二日入佛供養を営し故(中略)
寛文二年(1662年)の夏國中大に疫病流行し人民死する者少からしを 経時頗●是を嘆き本尊に告て諸人の病苦を消除せんとて懇に祈願すと 或夜経時に霊示ありて秘符を賜ふ 即此秘符によりて其頃病を退け命を全うする者●●(少な?)からすとなり
相伝ふ 寛元四年(1246年)三月北条経時病に臨む其時 舎弟時頼を側へ招き示して云く我疾難治なり 死後に至らハ一宇の梵刹を創建し年頃念ね処の聖徳太子の像を安置すへしといひ●て同四月朔日享年三十八歳にして逝去あり
依時頼遺命を奉じて鎌倉佐介谷に一宇を闢き蓮華寺と号く 経時の法号を蓮華寺殿前武州安楽大禅定門と号す 即辨法印審範を以て開山とす
寺記に審範は頼朝の伯父深井法眼範智の孫なりと云されと 鎌倉大日記にハ開山良忠とありて一なら●●次に詳ん
又其後経時の子頼助此寺嶋を領せし● 出離の志頗にして忽に剃髪し弘安三年(1280年)の秋鎌倉の蓮華寺●寺嶋に移し自開山たり
佐々目大僧正頼助と号せり按に先に審範を開山とすとあるハ鎌倉にありての寺をいふなるへし 此寺移るに至りてハ頼助開山たりしなるへし 諸家係累に経時の子に顕助といふ号を載て●傍に依て木像と注せり
疑ふらくハ佐々目といふ●●●を誤●るなるへしにて頼助ハ顕助のことをいふならん(以下不明)
北條家滅亡の後もなを尊氏将軍及ひ管領基氏等崇敬厚く(中略)文明(1469-1487年)の頃下総の千葉両家と別●て時 たがひに争戦止時なく兵火の災●にして当寺も大に荒廃せり 然に天文年間(1532-1555年)小田原北條家の領地となりし頃 遠山丹波守奉行として寺領等を寄附せし(以下略)
按に鎌倉光明寺の開山記主禅師伝に云く 寛元元年(1243年)五月三日前武州太守平経時鎌倉の佐介谷にをひて浄刹を建立し蓮華寺と号け良忠を導師として供養を●らる後に経時霊夢を感するところありて 光明寺とあらたむると云々
又鎌倉大日記に云く建長三年(1251年)経時の為に佐介にをひて蓮華寺建立住持良忠とあり されと寛元(1243-1247年)に建立せし蓮華寺ハ経時の生前なり 又建長(1249-1256年)に建立ありし蓮華寺ハ経時の没後にして其間七年を隔てり 依て考ふるに其号によるときハ一寺の如なれども自ら別なるへし 然る時ハ鎌倉光明寺の開山伝に載て寛元元年(1243年)経時生前に建立すとある●のハ 後に光明寺 とあらしめ鎌倉の内の材木座へうつしたる是なり 又鎌倉鎌倉大日記に●●●る経時卒去の後菩提の為に建立とある●ノハ即当寺の権よなるへし



『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(寺島村)蓮華寺
新義真言宗、山城國醍醐三寶院末なり。清瀧山観音院と号す。
縁起云、最明寺平時頼の舎兄、武蔵守経時朝臣の菩提寺なり。
初めは相州鎌倉郡佐介谷に創立あり、かの経時は、寛元四年(1246年)逝去なり。
執権の職を、舎弟最明寺殿(時頼)にゆべり、その後一寺~建立し、法号を蓮華寺殿前武州安楽大禅定門と号す。
その時の開山は辨法印審範なり。審範は、則頼朝卿の外伯父、深井法眼範智の孫なり。
初は天台宗長瞬法眼の門弟なりしが、後に真言となり、道禅僧正に受法す。
又公縁僧正灌頂の弟子となり、弘長元年(1261年)入滅す。
其後経時の御ご子息、佐々目大僧正頼助、此寺嶋を知行ありしとき、鎌倉の蓮華寺を此所に移転し、弘安三年(1280年)八月当寺を建立して、則頼助開山となれり。
按に此縁起の説、未他の所見なし、鎌倉志に、佐介谷の蓮華寺は、寛元元年(1243年)五月三日平経時の建立にして、時の導師は記主禅師なりとあり、又鎌倉大日記に、建長三年(1251年)経時が為に、佐介谷に於て蓮華寺建立、住持は良忠(記主禅師の名なり、とあり(略)導師は共に記主禅師なるよしいへば、今ここに開山を審範なりといふ事最疑ふべし、又鎌倉蓮華寺創立の後、経時霊夢有て、光明寺と改むとあり、是によればかの佐介谷の蓮華寺は、全く今の光明寺の古号にして、当所のは自ら別寺なりしを、たまたま同名なるゆへ附会せしものか、ここに当所は頼助が、領知なりしといへば父の菩提の為に建立ありて蓮華寺と称せしも、又しるべからず とにかく鎌倉より移転せしと云はおぼつかなし。

その後此僧正鎌倉八幡宮の別当に補任なり、在鎌倉十四年京六條の若宮の別当も、兼帯なり、此僧正は、守海法印入室の弟子、三寶院良入前僧正灌頂安祥寺 奉遇仁和寺御室開田准后灌頂(中略)

文明(1469-1487年)の比に至りて、下総の千葉両家相分かれて、合戦やむ時なし、千葉自胤、同實胤は、葛西郡及び武州石濱まで出張して、総州勢とかけ合たれば、当所はたまたま合戦のただ中となり、兵火の為に焼るゝ事度々なり、よりて代々の寄附状、或は古佛に至るまで、みな何地へか分散して、僅にのこれるものは、本堂と本尊のなり、かゝりける程に、天文年中(1532-1555年当所の地頭、遠山丹波守某が推挙に依て、小田原北條家より虎印の願書と、寺領を附せられて、再建なり
北條家の運尽て、天正十八年(1590年)、終に落城に及びしかば、朱印はむなしく伝へたれども、領地はいづくへか奪はれしを悉くも、神君関東後打入の後、当寺の由緒を御尋有て、先規のごとく若干の寺地をゆるされ、御朱印をも賜ひしかば、再び堂舎を造立して、今に至ると云。

客殿 本尊阿彌陀如来を安置す 作しれず。
清瀧権現堂 祭神詳ならず。
鐘楼 鐘は宝暦八年の鋳造(以下略)

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
蓮花寺(清滝山観音院)
山城三宝院末で真言宗に属し本尊の宗祖の像は弘法大師の自画像と伝えられ、「厄除女人済度弘法大師」の称がある。
伝えられる創建の由来によれば、同寺は初めは相模の国の鎌倉郡佐介谷にあり、最明寺入道北条時頼が寛元四年(1246年)に死去した兄の武蔵守経時の追福のために建立、辨法印審範を開山としたもので、経時の子佐々目大僧正頼助が葛西寺島の地を知行していた関係で鎌倉から寺島に移し、弘安三年(1280年)八月に則頼みずから中興助開山となったのである。
しかし蓮花寺移転のことについては「夢跡集」門柱「蓮花寺は佐介ヶ谷より武蔵国葛西の地へうつり、其寺院の跡に光明寺を建立せし事ならん。」と述べているものの、「新編武蔵風土記稿」の記すところによれば鎌倉の蓮花寺は浄土宗の寺院であり、経時追福のために良忠が建長三年(1251年)に創建したといい、あるいは経時自身によって寛元元年(1243年)五月三日に建立されたともいわれ、のちに霊夢によって寺号を光明寺と改称したのであると伝えられている。
これによれば蓮花寺は鎌倉の蓮華寺(のちに光明寺)とは別の同名の寺院であるが、寺号改称のことは光明寺の寺伝にも明らかに記されているとのことであるから、寺島の蓮花寺はおそらく「武蔵通志」が述べているように、経時の子で僧籍にはいった頼助によってその所領地の寺島に弘安三年(1280年)八月に建立されたものであろう。
蓮花寺創建によって土地の名称を寺島というようになったとの説がある。(以下略)

『すみだの史跡文化財散歩 P.21』(墨田区資料/PDF)
蓮花寺(東向島3-23-17)
清滝山蓮花寺は、京都智積院末で真言宗智山派に属し、本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説があります。

『新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
光明寺
光明寺は、本は佐介谷に在しを、後に此地に移す。当寺開山の伝に、寛元元年(1243年)五月三日、前武州太守平経時、佐介谷に於て浄刹を建立し、蓮華寺と号し、良忠を導師として、供養をのべらる。後に経時、霊夢有て光明寺と改む。方丈を蓮華院と名くとあり。

蓮華寺跡(佐介谷)(同上資料
今俗に光明寺畠と云ふ。光明寺、本此地にあって、蓮華寺と号す。後に光明寺と改む。
『鎌倉大日記』に、建長三年(1251年)、経時が為に、佐介に於て蓮華寺建立、住持良忠とあり。良忠此谷に居住ありしゆへに、佐介の上人と云ふなり。光明寺の條下及ひ『記主上人傳』に詳也。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「東向島」駅で徒歩約10分。
下町らしからぬ整備された街区にあり、門前、山内ともに広々として名刹の風格があります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 女人済度弘法大師碑

参道入口向かって右手に「女人済度 御自筆 弘法大師」の道標石碑(文化十五年(1818年)建立)、左手には「厄除弘法大師」の道標石碑(文政五年(1822年)建立)があり、いずれも隅田区登録文化財です。


【写真 上(左)】 厄除弘法大師碑
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額

その先に立派な寺号標と山門。
山門は築地塀を附設した切妻屋根本瓦葺の四脚門で、見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 石碑群

山内も十分な奥行きがあり、山門くぐって右手には石碑群が整然と並び、山内には多くの石碑が点在します。


【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 地蔵堂

参道右手墓域入口には六地蔵と地蔵堂、墓域内には弘法大師千百五十年御遠忌記念の大きな仏塔と舎利塔があります。


【写真 上(左)】 弘法大師千百五十年御遠忌記念塔と舎利塔
【写真 下(右)】 太子堂

樹木が少なく明るく開けた山内を進みます。
参道右手の宝形造の堂宇は太子堂で、開祖と伝わる良弁法印審範奉安の聖徳太子像ゆかりとみられます。

その先に切妻屋根桟瓦葺一間妻入りの大師堂。
堂内に御座すお大師さまの台座には「第八十四番」とあるので、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第84番の札所とみられますが、荒川辺霊場、隅田川霊場の拝所でもあると思われます。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 佐助稲荷大明神

さらにその先には佐助稲荷大明神が御鎮座です。
当山が鎌倉・佐助谷の蓮華寺ゆかりという縁起に因んでの勧請かもしれません。



【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂

本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。桟瓦葺のコンクリ身舎ながら名刹にふさわしい風格があります。
本堂の扉は開きました。
大規模な天蓋、幢幡を拝した絢爛たる堂内の御内陣正面に、牀座に結跏される真如親王様の弘法大師像が御座されます。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 堂内


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 庫裏

堂前天水鉢の三つ鱗紋は、開山の(北条)佐々目大僧正頼助にちなむものでしょうか。


御朱印は本堂左手奥の庫裏にて拝受しました。


〔 蓮花寺の御朱印 〕



中央に「女人済度 厄除弘法大師」の揮毫と、弘法大師のお種子「ユ」の印判と寺院印。
左には寺号の印判が捺されています。


■ 墨田区お寺めぐり第11番のスタンプ


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これにて隅田川二十一ヶ所霊場のご紹介は完結です。
いまはほとんど知られていない存在となっていますが、下町の歴史ある寺院を順にまわれる面白い霊場かと思います。

興味のある方はぜひぜひどうぞ。


※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ Waiting For Love feat.Noa - 中村舞子


■ ガラスの林檎 - 松田聖子

踊りはおろか、振りさえつけていない。
それでいてこの存在感。天性のシンガーだと思う。

■ 瞳がほほえむから - 今井美樹
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第18番 宝寿山 遍照院 長命寺
(ちょうめいじ)
公式Web
天台宗東京教区公式Web

墨田区向島5-4-4
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:隅田川七福神(弁財天)、東京三十三所観世音霊場第32番、弁財天百社参り番外22、墨田区お寺めぐり第15番

第18番は墨田区向島の長命寺、比叡山延暦寺直末とみられる名刹です。

公式Web天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

長命寺の創建年代等は詳らかでないですが、寺伝には「元和元年(1615年)頃の中田某の檀那寺」とあり、「長命水石文」によると古くは寶寿山常泉寺と号した天台宗寺院でした。
一説には慶長年間(1596-1615年)に孝徳または宗泉によって創立ともあります。

中興開山は誓院権僧正玄照和尚(寶暦十三年(1763年)寂)。

御本尊は『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には阿弥陀如来、『江戸名所図会』には釋迦如来と記され、公式Web天台宗東京教区公式Webでは阿弥陀如来となっています。

寛永年間(1624-1643年)のある日、三代将軍家光公(大猶院殿)がこの地に鷹狩に訪れた際、にわかに腹痛をおこして当寺で休憩、住職・孝徳(専海とも)和尚が傳教大師御作と伝わる当山の辨財天に加持した庭の井水・般若水を捧げ、この水で薬を服用したところ痛みはたちまち収まったので、家光公はこの水に「長命水」の名を賜い、これより寺号を長命寺と改めたといいます。
山内には長命水がいまもその姿を残しています。
(なお、『紫の一本』『墨水消夏録』は、これを徳川家康公の事跡としています。)

山内の精大明神社は「蹴鞠ノ神」と言い伝えられましたが、祭神等は定かではないようです。

般若堂と不動堂は相殿で、安する不動尊像は智證大師の御作といいます。
『新編武蔵風土記稿』によると、傳教大師御作の辨財天と元三大師降魔像も相殿だったようです。

地蔵堂は『葛西志』に「西國二十二番観音の寫を相殿とす」とあるので西國写観音霊場第22番札所であった模様ですが、この観音霊場については不明です。
当山は関東大震災の慰霊のため開創という東京三十三ヶ所観音霊場第32番の札所ですが、前身としてこの観音霊場の存在があったのかもしれません。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

こちらの辨天様は有名で、隅田川七福神の一尊であっただけでなく、弁財天百社参り番外22の札所本尊にもなっています。


『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館より、筆者にて加筆加工)

古くは山内に弁天堂や芭蕉堂がありました。
芭蕉堂は宝暦年間(1751-1764年)に俳人衹徳が建てた自在庵を創始とし、後に能阿により再興、芭蕉の木像を安置して芭蕉堂と称されていました。
『本所区史』には、芭蕉像を安したのは芭蕉の門人・青流(稲津祇空/1663-1733年)の門人で浅草蔵前の札差であった自在庵祇徳で、享保年間(1716-1736年)のこととあります。

しかし、『江戸名所図会』には「自在庵𦾔址 堂の右竹藪の中にあり 誹諧師水國ここに庵室をむすひて住たりしといへり」とあり、現地掲示にも芭蕉庵を建てたのは俳人雲津水国(1682-1734年)とあります。

山内に建つ、松尾芭蕉の「いざさらばの句碑」(区登録文化財)。
「いさゝらは 雪見にころふ 所まて」

これは芭蕉が熱田神宮参詣の際に『笈の小文』に詠んだ句ですが、長命寺が墨堤の雪景色の名所として知られていたため、山内に句碑が置かれたとされています。

現地掲示には「いざさらばの句碑」を建てたのは三代仲祇徳で、安政五年(1858年)とあります。
よって、芭蕉堂は俳人雲津水国(1682-1734年)が建て、「いざさらばの句碑」を建てたのは三代仲祇徳ということになります。
ただし、仲祇徳は少なくとも三代(三人)はいるようなので、このあたりの時系列はよくわかりません。

筆者は俳諧の道にはまったくうとく、下手に書き込むとたちまち馬脚を露わすので(笑)、このくらいにしておきます。

なお、『江戸名所図会』で長命寺のすぐ横に「本社」と描かれているお社はおそらく牛御前社(現・牛嶋神社)と思われます。
いかにも本社と別当を示す位置関係ですが、牛御前社の別当は東駒形の第7番札所の牛宝山 最勝寺で、最勝寺は大正2年江戸川区平井に移転しています。

本堂は安政二年(1855年)の大地震で焼失、麻布の武家屋敷を移築して本堂とし明治に及んだといいます。
関東大震災で本堂、芭蕉堂など多くの伽藍を失いましたが、御本尊は難を遁れていまも本堂に御座します。

長命寺は雪景色の美しさでも知られ、『江戸名所花暦』にも「長命寺隅田川の堤曲行の角にあり。境内に芭蕉の碑あり。この辺に佇みて左右をかへり見れば、雪の景色いはんかたなし。」と記されています。

もとより向島は風流の地として知られ、雪景色や芭蕉堂の存在もあって、長命寺には多くの文人墨客が訪れたとみられます。

寺内には芭蕉句碑をはじめ、東京都指定の橘守部(江戸時代の国学者)の墓、義太夫節の名家鶴沢清六の塚、太田蜀山人の歌碑、成島柳北(明治時代のジャーナリスト)の碑などがあり、いまもエリア屈指の文化財のお寺として知られています。
※山内の文化財については→ 公式Webをご覧ください。


【長命寺桜もち】
「桜餅 食ふてぬけけり 長命寺」 (虚子)

長命寺桜もちはこの向島屈指の銘菓です。
享保二年(1717年)、創業者山本新六が墨堤土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにした「桜もち」を考案して長命寺門前で売り始め、参詣客や桜の名所・隅堤の花見客のあいだで評判となりました。

桜葉の香り高い美味しさもさることながら代々の店主の看板娘の接待が評判で、なかでも三代目の長女「お豊さん」は美貌で名を馳せ、猿若町で芝居にも上演されたといいます。

明治の「お陸さん」という娘も美人の誉れ高く、正岡子規が当家の二階に下宿し、子規とお陸さんとの恋物語もあったとか。
「鐘の音に夢さめはてて浅草や 朝の別れのつらくもあるかな」 (子規)

『江戸切絵図』では長命寺の山内に「名物サクラモチ」とあり、よほど人気があったと思われます。

「長命寺桜もち」はなんと長命寺の公式Webでも紹介され、両社の密接な関係を物語っています。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(須崎村)長命寺
天台宗東叡山末 寶寿山扁(ママ)照院ト号ス 本尊阿彌陀脇士ニ観音勢至ヲ置 過去帳ニ住僧宗泉慶安二年(1649年)十一月七日示寂トアリ 境内辨天ノ縁起ニ 寛永(1624-1644年)ノ末大猶院殿御放鷹ノ時 俄ニ御異例ニテ当寺ニ入御アリケルニ 住僧専海辨才天ニ祈願ヲコメ則御手洗ノ般若水ヲ汲ミテ御供ノ士中根壱岐守ヲ以テ捧ケ奉リシニ 御心地サハヤカニナラセタマヒケレハ 御快気ノ程ヲ祝セラレ 寶樹山常泉寺ノ𦾔号ヲ改テ今ノ寺山号ヲ賜ヒシト云 是ニヨレハ専海ハ寛永ノ頃ノ住僧ニシテ宗泉ヨリ先代ナルヘシ

精大明神社
神体金幣ニテ光成卿ノ霊ヲ祭ル 蹴鞠ノ神ナリトノミ云傳フ 光成卿トイヘルハイカナル人ニヤ 蹴鞠ノ宗匠難波飛鳥井両家ニハ聞エサル人ナリ 按ニ諸神記ニ中御門西洞院東頬滋野井小社三座是蹴鞠神也 此地大納言成通卿旧跡トアリ 成通卿ハ蹴鞠ノ名人ニテ凡人ノシワサニアラサル由『著聞集』等ニモ記シタリハ モシクハ是ヲ誤テ光成卿ナト云傳ヘシニヤ 又近江國志賀郡松本ト云地ニ精大明神社アリ 祭礼猿田彦命ニテ蹴鞠ノ神ナリト云 当社ハ恐クハ是ヲウツセシモノニテ光成卿ヲ配祀セルナラン
稲荷社
般若堂 文殊普賢ノ外十六善神ヲ置 又不動及二童子アリ 不動ハ智證大師ノ作又傳教大師ノツクレル辨天元三大師降魔ノ像アリ
地蔵堂
長命水趾 此井ノ水ヲ般若水ト呼フ則前ニ云ル御手洗ノ跡也
奈岐木 菓子所大久保主水カ植シモノナリ 高二丈程周四尺モアルヘシ 樹根ニ此木ヲ植ル顛末ヲ鋳セル碑ヲ立

『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
寶寿山長命寺
遍照院と号す 天台宗東叡山に属せり 本尊ハ等身の釋迦如来 脇士ハ文殊普賢 般若十六善神等の像を安す
牛嶋辨財天 同じ堂内に安す 傳教大師の作なり
長命水 同じ堂の後の方にあり 一に般若水と云
自在庵𦾔址 堂の右竹藪の中にあり 誹諧師水國ここに庵室をむすひて住たりしといへり 今其地に芭蕉翁の句を彫たる碑を建てあり
殊更当寺ハ雪の名所にて前に隅田川の流れをうけて風色たらすといふをなし

『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
牛御前社の北に隣りて、門は西向きなり、天台宗東叡山末、寶寿山遍照院と号す、寺伝云、当寺古は寶樹山常泉寺と唱へしに、寛永年中(1624-1644年)、大猶院殿此邊御鷹狩に成らせ給ひて、御不例おはしませし時、中根壱岐守当寺の井水を汲て、後手水に奉りしかば、御なやみ頓に御本復あり、よりて寺山号を、今のごとくに改められしと、又紫一本には、これを、東照宮の御事績となし、寺もその比なでは寺号もなく、ただ草庵なりしなど、いとうきなる伝へなれど、何れゆへある寺号とはみヘたり、開山起立の年代詳ならず、中興を弘誓院権僧正玄照和尚と云、寶暦十三年(1763年)四月廿二日寂を示せり、本尊釋迦如来を安置す。

辨天不動相殿 門を入て正面にあり
精大明神社 門を入て右の方にあり、祭神詳ならず。
長命水 辨天堂の側にあり、則前にしるせる、大猶院殿御手水に用ひ給ひしと云井なり。
地蔵堂 門を入て右の方にあり、西國二十二番観音の寫を相殿とす。 

『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
長命寺は。向島須崎町八十八番地即ち牛島神社の北隣に在り。寶寿山と号し。遍照院と称す。天台宗にして。延暦寺の末なり。当寺初は常泉寺といひしが。寛永年間(1624-1644年)将軍家家光公放鷹の途次。微恙ありて寺に憩ひ。住持孝徳をして境内の盤石水を加め。服薬して頓に快癒せしを以て。長命水の名を賜ふ。因て是より長命寺と改む。
長命水今尚現存し。洗心養神と刻したる石標の傍に屋代弘賢のしるしたる碑を建たり。(中略)本堂は二十九年焼失後の新築にて。別に盤若堂と芭蕉堂あり。芭蕉堂殊に雅なり。


『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
長命寺は向島須崎町八十八番地即ち牛島神社の北隣に在り寶壽山と号遍照院と称した。
天台宗にして延暦寺の末である。当寺初は常泉寺といったが寛永年間(1624-1644年)将軍家家光公放鷹の途次微恙の為めに寺に憩ひ、住持孝徳の差出した境内の般若水を以て服薬した処頓に快癒したので長命水の名を賜はった。因て是より長命寺と改めたのである。
長命水は今尚現存し洗心養神と刻した石標の傍に屋代弘賢のしるした碑を建てたとある。
り。(中略)本堂は二十九年焼失後の新築にて。別に盤若堂と芭蕉堂あり。芭蕉堂殊に雅なり。
元禄の昔、芭蕉松尾桃青は西行宗祇の遺風を慕ひ、未だ五七五の野風を楽しとして生涯を過ごしたが、即ち彼芭蕉は誹諧道中興開山といふべきであらう。
芭蕉の門人に青流といふ人が居り、或時宗祇法師の墓参をなしその墓前に於て、既に祇空しとて名を祇空と更め、向島の地に草庵をむすんで居たが、ふと雲水の心動き剃髪して諸国を遊歴し、享保十八年(1733年)四月廿三日享年六十八にして箱根湯本に没し、早雲寺に葬られた。
祇空の門人に自在庵祇徳といふ人があった。この人は浅草蔵前の札差であったが隠遁の志深く、享保年間(1716-1736年)に祇空の庵址近き長命寺中に草庵をしつらへ、庵室に芭蕉翁の像を安置し、三昧の外に他事なかった。これ即ち長命寺芭蕉堂の起原である。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
長命寺
天台宗延暦寺の末寺で古くは宝樹山常泉寺と号していたというが、開基者・開山者および創建の年などは明らかではなく、一説には慶長年間(1596-1615年)に孝徳または宗泉によって創立されたとする。
中興開山は誓院権僧正玄照和尚で、本尊は阿弥陀如来を安置する。
長命寺の寺号については、寛永(1624-1644年)のころ三代将軍家光が墨東の地に鷹狩を行った時、急病となってこの寺に立ち寄り寺内の井戸の水で薬を服用してたちまちに快癒したので、寺号常泉寺を改めて長命寺としたと伝えられており、また「紫の一本」や「墨水消夏録」はこれを徳川家康の事跡とし、当寺は名もない小庵であったので長命寺の寺号を与えたのであると述べている。
寺内には長命水が今もその姿を残していて、これが家光の用いた名水とされているが、このほか古くは弁天堂や芭蕉堂もあった。
芭蕉堂は宝暦年中(1751-1764年)に俳人祇徳が建てた自在庵という庵で、のちに能阿によって再興され長命寺芭蕉堂と通称されていたものである。
長命寺はまた雪景色の美しさで江戸名所のひとつに数えられていた。(中略)『江戸名所花暦』にも「長命寺隅田川の堤曲行の角にあり。境内に芭蕉の碑あり。この辺に佇みて左右をかへり見れば、雪の景色いはんかたなし。」と述べられている。
寺内には東京都指定の橘守部の墓、成島柳北の碑があり、また弁財天は隅田川七福神のひとつである。

『すみだの史跡文化財散歩 P.35』(墨田区資料/PDF)
長命寺(向島5-4-4)
天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していたそうですが、創建年等は不明です。寛永のころ3代将軍家光がこの辺りに臆狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職
が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。

■ 松尾芭蕉「いざさらば」の句碑 <区登録文化財>
「いさゝらは 雪見にころふ所まて」
碑陰には、3世自在庵祇徳の文で、芭蕉や祇空、祇徳の略伝等が述べられています。

■ 「長命水石文」の碑
この寺が長命の寺号を賜った経緯と井戸が長命水と名付けられたことを、時の住職最空が記しています。書は国学者の屋代弘賢で、天保3年(1832)の建碑です。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは都営地下鉄浅草線・メトロ半蔵門線「押上駅」駅で徒歩約15分。
隅田川にかかる「桜橋」経由で今戸方面からも歩けます。


【写真 上(左)】 桜橋
【写真 下(右)】 桜橋からの隅田川

第13番弘福寺のすぐお隣りにあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 門扉の三諦星紋
【写真 下(右)】 山内幼稚園ゾーン

山内門寄りは言問幼稚園で、山内入口の門柱と寺号標、そして門扉に輝く天台宗の宗紋・三諦星(さんたいせい)がなければほとんど寺院とわかりません。
平日昼間は園児の声で賑やかで主門は閉められていますが、通用門からお参りはできるようです。
圓舎の並びには「よいこのおじぞうさま」も御座されます。


【写真 上(左)】 よいこのおじぞうさま
【写真 下(右)】 本堂ゾーン

園庭を抜けると本堂前、俄然名刹の趣がでてきます。
本堂向かって右手が庫裏で、その前に傳教大師童像と辨財天碑が置かれています。


【写真 上(左)】 傳教大師童像
【写真 下(右)】 辨財天碑


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝。
コンクリ身舎ながら整った寺院建築で、向拝にはしっかり水引虹梁、雲形の木鼻、繋ぎ虹梁、蟇股を備え、向拝見上げには寺号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 辨財天のお姿

本堂は通常は閉扉のようですが、お正月期間の七福神ご開扉期間は開扉されます。
辨財天は八臂坐像のお姿です。


【写真 上(左)】 長命水
【写真 下(右)】 長命水石文

本堂向かって左手の隅田川寄りの一角が文化財の宝庫。
本堂すぐよこには長命水と長命水石文。
芭蕉の「いざさらば」句碑、橘守部の墓、太田蜀山人の歌碑、鶴沢清六の塚と成島柳北の碑などがこのエリアに点在します。


【写真 上(左)】 芭蕉の「いざさらば」句碑
【写真 下(右)】 同 説明板


【写真 上(左)】 橘守部の墓
【写真 下(右)】 太田蜀山人の歌碑


【写真 上(左)】 鶴沢清六の塚と成島柳北の碑
【写真 下(右)】 庚申地蔵尊

万治二年(1659年)造立の庚申地蔵尊石像も御座し、「出羽三山の碑」は墨田区登録文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 出羽三山の碑
【写真 下(右)】 隅田川側からの入口


御朱印は庫裏にて拝受しました。
複数の御朱印を快く授与いただけました。


〔 長命寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 辨財天の御朱印

 
【写真 上(左)】 寺号の御朱印
【写真 下(右)】 同



■ 墨田区お寺めぐり第15番のスタンプ


■ 第19番 清滝山 金長院 正王寺
(しょうおうじ)
葛飾区堀切5-29-14
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(下千葉村)八王子権現社(現・葛飾氷川神社の境内社)/(下千葉村)氷川社(現・葛飾氷川神社)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第59番、荒綾八十八ヶ所霊場第15番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第59番、(京成)東三十三観音霊場)第3番

第19番は葛飾区堀切の正王寺で、朱塗りの山門から「赤門寺」とも呼ばれています。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正王寺は治承二年(1178年)、(下千葉村)八王子権現社(現・葛飾氷川神社の境内社)の別当として法印侔義(正治元年(1199年)寂)が創建という古刹です。
青戸村寶持院末の新義真言宗寺院で、御本尊は阿弥陀如来です。

『葛飾区寺院調査報告』記載の『清滝山正王寺八王子宮神縁起』によると、源頼朝公は山王廿一社のうち八王子権現を深く尊信し、関西よりこの地に勧請、御鎮座といいます。

天文七年(1538年)、国府台合戦(後北条氏と里見氏など房総諸将との戦い)の戦火を受け荒廃しましたが、慶長年間(1596-1615年)に山城国の法印源榮(承応元年(1652年)寂)が中興して開山と伝わります。

慶安年間(1648-1652年)、徳川3代将軍家光公が鷹狩の際に八王子権現社を拝せられ、当社の由緒を尋ねられたところ源頼朝公の勧請であることを知り、大いに尊崇されて荘園を寄附したといいます。

家光公の来山(1648-1652年)と法印源榮(承応元年(1652年)寂)の年代が重なるので、おそらく家光公から荘園を賜ったのが法印源榮で、その功績により中興開山になったとみられます。

また、当山の住僧は、徳川四天王のひとり本多忠勝ゆかりの家系ともいいます。

八王子権現社は徳川家綱公の代、慶安二年(1649年)にも御朱印をくだされています。

数度にわたる水禍で古記録を失い由緒は不詳ですが、『葛飾区寺院調査報告』には本堂、山門、客殿、庫裏を備え、御本尊に室町時代の作とみられる阿弥陀如来立像、不動明王立像、聖観世音菩薩立像、弘法興教両大師像、弘法大師坐像などの寺宝を安するとあります。
うち、聖観世音菩薩立像は(京成)東三十三観音霊場)第3番の札所本尊と思われます。

なお、正王寺は(下千葉村)氷川社(現・葛飾氷川神社)の別当も務めていました。
葛飾氷川神社境内縁起書によると、氷川社は正治元年(1199年)武蔵国一の宮氷川神社を勧請、下千葉村の鎮守として奉斎とのことです。


【写真 上(左)】 葛飾氷川神社
【写真 下(右)】 葛飾氷川神社の御朱印

八王子神社は現在、葛飾氷川神社の境内末社ですが(大正年間氷川神社へ勧請)、頼朝公ゆかりの由緒もあってか末社らしからぬ存在感を放たれ、御朱印も授与されています。


【写真 上(左)】 八王子神社
【写真 下(右)】 八王子神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(下千葉村)八王子社 別当正王寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 清龍山金長院ト号ス
開山俊義正治元年三月十四日寂ス 中興源榮承応元年九月十六日寂セリ 本尊彌陀

『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(千葉村)八王子権現社 別当正王寺
八王子権現社
下千葉の内、西南の方にあり、勧請の年歴詳ならず。
別当正王寺
清龍山金長院と号す。新義真言宗、青戸村寶持院の末なり。
開基は俊義法印にて、此人正治元年三月十四日寂すといへば、古き草創なる事知らる。
中興を源榮法印と云、承応元年九月十六日化す、客殿八間に六間、本尊阿彌陀如来を安置す。

氷川社
同じ邊にあり、正王寺持。

『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正王寺
治承二年(1178年)五月、法印俊義の開山と伝えられる。
天文七年(1538年)国府台の合戦による兵火に焼失して荒廃したが、慶長年間(1596-1614年)山城国の人法印源栄が再興し、中興開基となった。
その後数回にわたる水禍のため古記録を失い、由緒は明らかでないが、当寺がもと別当職を勤めた八王子社(隣接する現氷川神社)の縁起には、次のように記されている。

清滝山正王寺八王子宮神縁起
武蔵国葛飾郡下千葉村清滝山正王寺は、治承二年(1178年)の創建(中略)人皇八十二代後鳥羽院の御宇、右大将頼朝卿、山王廿一社の内なる八王子権現を深く尊信なし給ひ、坂西より此地に移し、当寺に鎮座し奉り(中略)慶安年間(1648-1652年)、三代将軍家光公御鷹狩の刻、境内を通らせられ、八王子の宮を拝せられ、神録を御訊問ありしに、征夷大将軍の始祖たる源右幕下の勧請たりし事を聞召され、恭も五石の荘園を寄附し給ふ。
当寺の住僧は、山城国の産にして、将軍の親臣本多図書忠勝候の紙支層なり。

なお当寺の山門は朱色のため、一般に赤門寺と呼んでいる。

本堂 山門 客殿・庫裏

寺宝
阿彌陀如来立像(本尊) 寄木造 蓮華座 室町時代の作か
不動明王立像 寄木造 両童子 江戸時代の作
聖観世音菩薩立像 寄木造 江戸時代の作
弘法興教両大師像 寄木造 椅子に座し 江戸時代の作
天部坐像 江戸時代の作
弘法大師坐像 椅子に座す 江戸時代の作であろう
紙本着色弥勒菩薩造 江戸時代の作
正岡子規遺墨二点


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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約5分。
下町らしい住宅密集地に、切妻屋根桟瓦葺の朱塗りの四脚門で山号扁額を掲げ、門前には寺号標を置いています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 寺号標


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 寺号表札

門前からすでに古刹らしい落ち着きをみせていますが、山内もよく整備されきもちのよい参拝ができます。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 本堂

階段上の本堂は、入母屋造桟瓦葺流れ向拝の堂々たる構え。
堂前の十三重石塔がいいアクセントとなっています。
天水鉢には家光公とのゆかりを示すがごとく、葵紋が刻まれています。


【写真 上(左)】 天水鉢
【写真 下(右)】 向拝

コンクリ身舎の近代建築ですが、水引虹梁、雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に虹梁、中備に蟇股と寺社建築に則った意匠で、向拝見上には寺号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庭園

山内に大師堂があります。
切妻造桟瓦葺妻入りで、柱には「弘法大師堂」の堂号と「南無大師遍照金剛」の御寶号が掲げられています。


【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂札所板

見上げに掲げられた札所板には「四国八十八箇所五十九番」の御詠歌が掲げられており、荒川辺八十八ヶ所霊場第59番あるいは南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第59番の札所ですが、荒綾八十八ヶ所霊場第15番の札所も兼ねているかと思われます。

薬師如来を称える御詠歌で、本四国八十八ヶ所霊場第59番札所の金光山 国分寺(札所本尊:薬師如来)を示す内容かと思います。


御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 天王寺の御朱印 〕



中央に「聖観世音」の揮毫と、聖観世音菩薩のお種子「サ」の御寶印(蓮華座+宝珠)。
右の札所印は不明瞭ですが「東観音第三番」とも読めるので、(京成)東三十三観音霊場第3番の札所印かもしれません。
左には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 第20番 榎木山 善福院
(ぜんぷくいん)
葛飾区四つ木3-4-29
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:(若宮村)若宮八幡社(現・若宮八幡宮)(葛飾区四つ木)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第67番、荒綾八十八ヶ所霊場第25番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第43番、葛西三十三観音霊場第15番、新葛西三十三観音霊場第15番

第20番は墨田区四つ木の善福院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

善福院は、(若宮村)若宮八幡社の別当で新義真言宗、寺嶋村蓮花寺の末でした。
善福院じたいは永正十六年(1519年)祐誉法印が東照宮若王寺と号して創建とも伝わりますが、若宮八幡社の社歴はそれよりも古いので、こちらから追ってみます。

文治五年(1189年)7月源頼朝公は奥州征伐を決意、伊豆山走湯権現の僧侶で頼朝公の師僧ともいわれる専光坊良暹を伊豆山から呼び戻し、留守中の安寧維持と戦勝祈願を託しました。
自身も奥州発向の折、若宮八幡社に参詣し源家の武運長久を祈りました。
その際、手みずから榎の枝根を逆に地に挿して宣うに、この度の戦に利あればこの榎は根付いて繁るべしと。

奥州を収めて凱陣なったとき、この榎は見事に根付いて盛んに繁っていたため、頼朝公は改めて鶴岡八幡宮を勧請し、この地の領主・葛西三郎清重に命じて社容を整えたといいます。

『新編武蔵風土記稿』には「ヨリテ別当寺ヲ榎木山ト号スト云(中略)年歴テ再建修理等中絶シ空ク狐狸ノ住家トナリシヲ 御入國ノ後伊奈備前守中興スト云」とあるので、流れからすると、善福院は源頼朝公の治世にすでに若宮八幡社の別当として存在し、永正十六年(1519年)祐誉法印が東照宮若王寺と号して創建(中興)したとみられます。
天正十八年(1590年)、家康公関東入国後の関東郡代伊奈備前守による若宮八幡社中興の際に、別当の当山も整備されたとみられます。

元和二年(1616年)4月、家康公は薨去し、同年12月に久能山に東照社(現・久能山東照宮)が創建されました。
当時、「東照宮若王寺」を号していた当山は、東照宮の神号をはばかり善福院と改め寺号は唱えなくなったといいます。

御本尊は『新編武蔵風土記稿』で薬師如来、『葛西志』で大日如来、『葛飾区寺院調査報告』で聖観世音菩薩とありますが、拝受した御朱印の尊格は十一面観世音菩薩でした。
また、『新編武蔵風土記稿』には「観音堂 正観音ヲ安ス 葛西三十三番札所第十五番ナリ」とあり、こちらは葛西三十三観音霊場第15番であったことがわかります。
(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
なお、現在も再編された新葛西三十三観音霊場の第15番札所です。

末社として稲荷社が御鎮座と伝わります。

若宮八幡宮は若宮村の鎮守で、別当であった当山は明治初期の神仏分離を乗り越え存続しました。
しかし大正元年、荒川放水路の開削により現在地に移転しています。

関東大震災や幾度の水難を経て、現本堂は昭和44年の落慶です。

比較的情報の少ない寺院ですが、『ガイド』には寺嶋村蓮花寺末から京都智積院末に変更とあるので、相応の寺格を有するとみられ、当地のおもだった霊場の札所を兼務しています。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻二』(国立国会図書館)
(若宮村)若宮八幡社 別当善福院
新義真言宗寺嶋村蓮花寺末 榎木山ト号ス
昔ハ東照院若王寺ト称セシヲ 御神号ヲ避テ今ノ如ク善福院ト改メ寺号ハ唱ヘズ云
本尊薬師
観音堂 正観音ヲ安ス 葛西三十三番札所第十五番ナリ

(若宮村)若宮八幡社
村ノ鎮守ナリ
相伝フ当社ハ右大将頼朝文治五年泰衡征伐トシテ奥州ニ発向ノ時 軍功アランコトヲ祈願シ手ツカラ榎ノ策ヲサカシマニ挿 此行利アランニハ此木必生ヒ榮フヘシト誓ヒシニ 果シテ勝利ノ後枝葉盛ニ生ヒ茂リ今ノ世マテモ社頭ニ残レリ ヨリテ別当寺ヲ榎木山ト号スト云(中略)年歴テ再建修理等中絶シ空ク狐狸ノ住家トナリシヲ 御入國ノ後伊奈備前守中興スト云(中略)
末社稲荷社

『江戸名所図会 7巻 [19]』(国立国会図書館)
若宮八幡宮
若宮村にあり 別当ハ真言宗にして善福寺と号す 
社伝云往古文治五年七月右大将源頼朝卿 奥州泰衡征伐として発向あるにより同十八日伊豆國より専光坊の阿闍梨を召て潜に泰衡征伐の立願の旨を告らす(中略)当社に参詣ありて源家繁盛武運長久の祈念あり
又手自榎の策を逆に地に指誓て云く 此度の軍利あらハ枝根を生して栄ゆへしと●
竟に奥州ををさめて凱陣あら●●ハ 其後鶴岡八幡宮を勧請し此地ハ葛西三郎清重乃領地たるにより清重に命じて社頭を経営せしめ(以下略)


『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(若宮村)若宮八幡社 別当 善福院
(若宮八幡社)の側に住居す。新義真言宗、寺島村蓮華寺末 榎木山若王寺と号す。
古は東照院号せしが、後に東照宮の御神号を避て、今の寺山号に改められしと云。
本尊大日如来を安置す。

『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
善福院
真言宗智山派。榎木山と号し、古くは寺島村蓮華寺の末、後には京都智積院の末であった。
永正十六年(1519年)祐誉法印の創立。はじめ東照宮若王寺と号したが、徳川家康公の神号をはばかり、善福院と改めたという。明治維新前までは付近の若宮村若宮八幡宮の別当職を勤めた。大正元年、荒川放水路開削工事のため、現在地に移転した。大正十二年九月の関東大震災で本堂が大破し、昭和九年、火災に焼失し、同十二年再建、さらに同二十二年九月の水害で破損し、同四十四年四月、現在の本堂が新築された。

本堂 客殿・庫裏 大師堂
寺宝
聖観世音菩薩立像(本尊) 寄木造蓮華座 江戸時代の作
弘法大師立像 寄木造 江戸時代の作か
興教大師坐像 寄木造 近時の補修か



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは京成押上線「四ツ木」駅で徒歩約11分。
隅田川河畔の四つ木三丁目の住宅密集地にあります。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 院号標

築地塀の中央に切妻屋根桟瓦葺の山門、様式はおそらく薬医門かと思いますが写真が少なく確定できません。
門柱に院号標。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 天水鉢

山内は広くはないものの、手前右に大師堂、正面おくに本堂を配して、立体感ある伽藍構成です。
本堂前の天水鉢には真言宗智山派の宗紋・桔梗紋。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造でおそらく銅本棒葺と思われ流れ向拝。
大棟、降り棟、隅棟、掛瓦も整って端正な印象。
身舎に設えられた縦長の花頭窓がいいアクセントになっています。

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、向拝見上げには山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 大師堂

大師堂は銅板葺の宝形造で基盤上に宝珠を置いています。
こちらも格子文様が効果的につかわれてきっちり端正なイメージ。

向拝見上げに「大師堂」濃醇扁額、向拝扉には真如親王様のお大師さまが描かれた立派な千社札が打たれています。


【写真 上(左)】 大師堂の千社札
【写真 下(右)】 大師堂の扁額


当山は荒川辺、荒綾、南葛(いろは大師)、隅田川の4つの弘法大師霊場の札所で、おそらくこちらの大師堂が霊場拝所とみられます。


御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 善福院の御朱印 〕



中央に「十一面観世音」の揮毫と、十一面観世音菩薩のお種子「キャ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左には山号院号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-8へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ 言い出しかねて -TRY TO SAY- 当山ひとみ


■ By the side of love - 今井優子


■ ebb and flow - LaLa(歌ってみた)
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第15番 金剛山(常在山) 寶蔵寺
(ほうぞうじ)
墨田区八広6-9-17
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(木下村)山王社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第68番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番、新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)、墨田区お寺めぐり第10番

第15番は墨田区八広の寶蔵寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

寶蔵寺は慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した真言宗寺院で寺島蓮花寺の末寺でした。(『ガイド』では安永年間(1772-1780年)創立)
御本尊は阿弥陀如来。客殿に不動明王を安していたようです。
境内に祀る稲荷社は、おそらく鎮守とみられ、『葛西志』にも境内社として記載されています。
山号を「常在山」としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』『葛西志』などでは「金剛山」としています。

もとは南葛西郡大木村字木下にありましたが明治43年の出水に遭い、さらに荒川放水路開設のために大正8年、西方に約550mほどの現在地に移転しています。

江戸時代は木下村の山王社(慶長十九年(1614年)御鎮座)の別当を務めていました。

情報があまりない寺院ですが、荒川辺霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの札所となっているので、真言密寺として相応のポジションを担っていたことがわかります。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(木下村)寶蔵寺
新義真言宗 寺嶋村蓮華寺末 金剛山ト号ス 本尊ハ不動ナリ

(木下村)山王社
慶長十九年(1614年)ノ鎮座ナリ 寶蔵寺持下同シ 
稲荷社

『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(木之下村)寶蔵寺
山王社と同じ邊にあり。当寺も慶長十九年(1614年)の起立なりと云、新義真言宗、寺島村蓮華寺末、金剛山と号す。
本尊不動尊 客殿に安す。
稲荷社 境内にあり。

(木之下村)山王社
村の南へよりてあり、慶長十九年(1614年)の鎮座と云、寶蔵寺持。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
宝蔵寺(金剛山 吾嬬町西九丁目10番地)
慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した寺院で新義真言宗に属し、寺島蓮花寺の末寺である。
もと南葛飾郡大木村字木下に所在し、その後明治四十三年の出水にあい、さらに荒川放水路開設のために西方約五五0mほどの現在地に大正八年に移転した。
本尊は阿弥陀如来である。


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最寄りは京成押上線「八広」駅で徒歩約3分。
荒川の流れに近いこのあたりは、住宅と町工場が密集する下町らしい街並みです。
曳舟川通り(新四ツ木橋)とゆりのき橋通りが交差する「更正橋」五叉路のすぐそばのゆりのき通り沿いにあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

大通りの沿道なので門前はやや雑然としていますが、意外に広い山内に入ると札所寺院らしい落ち着きをみせています。
門柱に寺号標。


【写真 上(左)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所標
【写真 下(右)】 新葛西三十三観音霊場の札所標

参道右手には石佛群と札所標があります。
札所標は隅田川二十一ヶ所霊場第15番と新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)のもので、いずれも稀少な遺構です。


【写真 上(左)】 覆屋
【写真 下(右)】 地蔵尊と弘法大師像

本堂向かって右手の覆屋には、石佛の地蔵尊立像と弘法大師坐像。
弘法大師坐像の台座には「第七十五番」とあるので、おそらく南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番の札所本尊とみられます。


【写真 上(左)】 ”いろは大師”の札所本尊
【写真 下(右)】 天水鉢

本堂前の桔梗紋(真言宗智山派の宗紋)入の天水鉢は、錆を帯びて風合いがあります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

階段上の本堂は近代建築ながら、屋根頂部に露盤と宝珠を置いているのでおそらく宝形造かと思われます。
銅板葺きで流れ向拝。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に桔梗紋を配した蟇股を置いています。
向拝格子扉のうえに寺号扁額。


御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。

〔 寶蔵寺の御朱印 〕



中央に「本尊阿彌陀如来」の印判。御寶印(蓮華座+火焔宝珠)のお種子は胎蔵大日如来の「アーンク」(荘厳体・五点具足の阿字)。
当山の御本尊は『新編武蔵風土記稿』『葛西志』では不動明王、『墨田区史』では阿弥陀如来とあり、胎蔵大日如来ではない模様なので、尊格を代表する通種子(本不生)の意で使われているのかもしれません。

霊場札所の札所印はとくに捺されていないとのことでした。



■ 墨田区お寺めぐり第10番のスタンプ


■ 第16番 恵日山(孤竹山) 正覚寺
(しょうがくじ)
墨田区八広3-5-2
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(大畑村)稲荷社(現・三輪里稻荷神社)(墨田区八広)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第69番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第49番、墨田区お寺めぐり第14番

第16番は墨田区八広の正覚寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正覚寺は、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創、中興開山は快厳(宝暦五年(1755年)寂)と伝わり東葛西領上小松村正福寺末の真言宗寺院です。

御本尊は、『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には薬師如来、『葛西志』には阿弥陀如来とありますが、現在の御本尊は薬師如来のようです。

資料類には山号は「恵日山」とありますが、『新編武蔵風土記稿』には「狐竹山明王院」とあり、御朱印の揮毫も「狐竹山」でした。

江戸時代は大畑村の鎮守・稲荷社の別当でした。
『葛西志』によると稲荷社の御鎮座は慶長十九年(1614年)なので、正覚寺とほぼ同時期の創建とみられます。

(大畑村)稲荷社は、現在の三輪里稲荷神社とみられます。


【写真 上(左)】 三輪里稲荷神社
【写真 下(右)】 三輪里稲荷神社の御朱印

当社公式Webには「慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座」とあります。
御祭神は倉稲魂命。

初午の日にのどの患いや風邪に神験あらたかな湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と呼ばれ参詣客を集めていたようです。

正覚寺開山の長養法印と三輪里稻荷大明神を勧請の大日坊との関係はよくわかりませんが、稲荷社の本地は十一面観世音菩薩で、別当・正覚寺と神仏混淆状態にあったことがうかがわれます。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(大畑村)正覚寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 狐竹山明王院ト号ス 中興僧快巌宝暦五年(1755年)六月十七日寂
本尊薬師

(大畑村)稲荷社
村ノ鎮守ナリ 本地十一面観音 正覚寺持

『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(大畑村)正覚寺
(稲荷社)社地の並にあり。新義真言宗、東葛西領上小松村、正福寺の末なり。
恵日山と号す。当寺も鎮守稲荷と同時の草創なりしと云、本尊阿弥陀如来を安置す。

(大畑村)稲荷社
村の中ほどにあり、慶長十九年(1614年)の鎮座にして、此村の鎮守なりと云、正覚寺持。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正覚寺(恵日山 吾嬬町西六丁目91番地)
新義真言宗で上小松正福寺の末、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創し中興開山は快厳である。
本尊薬師如来を安置し八月六日を縁日と定めている。

『すみだの史跡文化財散歩 P.58』(墨田区資料/PDF)
慶長19年(1614)に出羽国(山形県)湯殿山の修験者大日坊が、羽黒大神の分霊を大畑村(現在地)の鎮守として勧請し、三輪里稲荷大明神と称したのが始まりと伝えられていま
す。
初午の日に、湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と乎ばれていました。

三輪里稻荷神社公式Web
御祭神は倉稲魂命。当社は、慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座いたしました。
現在は三輪里稻荷神社、通称“こんにゃくいなり”として八広の地をお守りしてます。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは京成押上線「京成曳舟」駅で徒歩約9分。
八広のメイン通り・八広中央通りに面してあります。
すぐ北側はかつて別当を務めた三輪里稻荷神社ですが、参道は別にあるので隣り合った感じはありません。
あるいは明治の神仏分離時に一線を画したのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

すっきりとまとまった近代的な山内で、入口門柱に寺号標。
参道をいくと左手に立派な大師堂があります。
おそらく切妻造銅板葺妻入で、水引虹梁、木鼻、斗栱、身蟇股を備えています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 大師堂

堂碑の碑文によると、昭和59年の弘法大師1150年御遠忌事業として建立されたとのこと。
堂内には弘法大師坐像が御座されています。
台座に札番はないですが、おそらく荒川辺、南葛八十八ヶ所(いろは大師)、墨田川霊場の3つの弘法大師霊場の札所本尊とみられます。


【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 札所標

堂宇横には「二十一ヶ所大師」と刻まれた石碑があり、こちらはおそらく稀少な隅田川霊場の札所標です。

本堂向かって右手には石塔や石佛群(如意輪観世音菩薩・地蔵尊など)があります。
コンクリで固められた山内ですが、緑が多く落ち着きがあります。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 本堂

本堂は陸屋根の近代建築ですが、屋根上の相輪と向拝の扁額が効いて風格があります。
向拝鉄扉にうえに寺号扁額を掲げています。

驚いたことにこの鉄扉が開きました。
堂内は絢爛たる装いで、前面に護摩壇、背面に両界曼荼羅、御内陣正面お厨子前にはおそらく御前立の右手施無畏印、左手に薬壺をもたれる薬師如来坐像が御座されていました。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裏


御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。


〔 正覚寺の御朱印 〕



中央に「本尊薬師如来」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

霊場札所印は捺されていない模様です。



■ 墨田区お寺めぐり第14番のスタンプ


■ 第17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
(れいこうじ)
墨田区吾妻橋1-9-11
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:新葛西三十三観音霊場第24番、江戸東方四十八地蔵霊場第40番、墨田区お寺めぐり第22番

第17番は墨田区吾妻橋の霊光寺、隅田川霊場唯一の浄土宗寺院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

霊光寺は、木食重譽上人霊光和尚を開山として寛文七年(1667年)に創建、当初は霊光庵を号しましたが、寶永三年(1706年)増上寺の末寺となり現号を号したといいます。

御本尊の阿弥陀如来は、増上寺中興の観智国師の持念佛と伝わります。
増上寺の公式Webは、「増上寺第12世・観智国師(源誉存応上人)(元和六年(1620年)寂)は、徳川家康公と増上寺の寺檀関係を結ばれ、増上寺および近世浄土宗の発展に寄与された方」とあります。

『寺社書上』にも、観智国師と家康公の邂逅の逸話が記されています。

当山の御本尊・阿弥陀如来は、天照太神の御作という縁起が伝わります。
この縁起は『寺社書上』にも記されています。読解不能の箇所もありますが、縁起概略を辿ってみます。

慶長十五年(1610年)、源誉存応上人(観智国師)は後陽成天皇(1571- 1617年)に参内し講説をおこなったところ天皇は大いに敬まわれて普光観智國師の号を賜りました。
観智国師が関東帰国の前に伊勢太神宮に参詣された時、神宮の神主は阿弥陀如来の像を国師に奉じたといいます。
内宮の宝殿に御座し、代々安置してきた尊像との由。

国師は帰国の後、こちらの尊像を持念佛に奉じ、のちに家康公の使僧もつとめた弟子の林應にこの尊像を授けたといいます。

林應和尚より四代の住持・十譽和尚は、ある夜霊夢にて御本尊の阿弥陀如来が御声を発せられるのを聴き、観智国師が伊勢太神宮から相伝されたこの尊像が天照太神の御作と確信し、後世に御本尊縁起として伝えられたようです。

『寺社書上』には恵心僧都作の御前立本尊(阿弥陀如来座像)、弘法大師御作の十一面観世音菩薩・辨才天、興教大師御作の不動明王などの寺宝が記されています。
しかし、関東大震災、東京大空襲で伽藍はことごとく焼失したためか、上記の寺宝についてのその後の情報は不明のようです。

当山は葛西三十三観音霊場第24番の札所となっています。
この霊場は天保九年(1838年)刊とされる『東都歳事記』に載っているので、江戸時代からの観音霊場札所です。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

文政十二年(1829年)頃の編纂とされる『寺社書上』には「観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作」とあるので、こちらが札所本尊であった可能性があります。

また、当山は江戸東方四十八地蔵霊場第40番の札所でもあり、こちらの札所本尊は「元日地蔵菩薩」と伝わります。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

こちらも『東都歳事記』に記載がある江戸時代からの地蔵尊霊場です。
『寺社書上』には「石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置」とあり、こちらが札所本尊の「元日地蔵菩薩」と思われ、下記の「元日地蔵菩薩縁起」(山内掲示)にもその旨が記されています。
現在は立像石佛として再興され、山内に奉安されています。
『ガイド』によると、こちらの地蔵尊は昭和62年初春の奉安とのこと。

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【史料・資料】

『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 一』(国立国会図書館)

江戸増上寺末
本所中之郷
浄土宗 瑞松山栄隆院霊光寺
右霊光寺ハ寛文七年(1667年)之起立

本尊 阿彌陀如来立像 下品之印木像
 天照大神宮之御作也 縁起有之
 右本尊ハ増上寺中興観智国師之持念佛也
観音勢至 二菩薩
前立本尊 阿彌陀如来座像 上品之印 恵心僧都作
法祖 善導大師 座像
宗祖 圓光大師 座像
当寺開山之像 号聲蓮社十譽願値本阿霊光上人
金佛善光寺如来 三尊厨子入
不動明王 興教大師之作 縁起有之
観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作 縁起有之
釈迦涅槃木像
当寺鎮守 辨才天 弘法大師之作
焔魔王木像 
妙説観世音石像
石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置 一基
 右ハ近年再興した門之内西ノ方ニ有
矢野稲荷大明神
小鍛冶稲荷大明神
 
本尊縁起
当寺の本尊阿弥陀如来者天照太神の御作也 先師某に語て曰く ●尊像ハ三縁山増上寺中興貞蓮社慈昌源譽普光観智國師存應大和尚より弟子代々伝持之像也 國師俗称ハ武州由木乃人平山左衛門尉李重之御也 十五歳の時増上寺十代感譽上人を師として顕密の教ヲ究メ 天正十二年(1584年)に増上寺に住シ賜フ(中略)大将軍家康公武州江府乃御城に入在ス時 増上寺ハ今の龍ノ口に有シ時 ●●は将軍御馬にて門前を通り在ス 源譽門●出て御城入を見給ふに 御馬ヲ不進 公左右ヲ御覧●さ●れハ 寺門に老僧立て有り 人を使うハして問給ふ 何●の事何と号スと尋在ス 源譽●寺ハ浄土宗三縁山増上寺 名ハ存應と応り 家康公聞召則テ 寺に御入在て 師ハ感譽の弟子●参河にて聞及ひぬ 明日ハ寺に来て●を食りせん● 御契物在て御城に入 翌日此所増上寺ニ御入在りて 御●食在ス 則十念を受師檀乃物在て大イに崇信在ス

後陽成天皇慶長十五年(1610年)七月十九日入宮封御説法盛に浄●乃奥義安心乃秘要を講説在ス 天皇大に敬悦在して賜普光観智國師之号ヲ洛陽に在ス事三旬 京都の道俗化を受候事 甚多シ 國師帰国節 伊勢太神宮江参詣の時 神主敬●して●阿弥陀如来乃像を國師に捧ぬ 神主の曰ク此尊像ハ 内宮乃宝殿に在し●兵乱の砌 出し●り 某代々安置し候へども今師に奉●
國師帰国の後弟子林應と云僧に授給ふ ●林應和尚 力ハ数十人力にて道の早き事ハ凡人の●● 駿河の國御用之節ハ 此僧を使僧となし給ふに(中略)林應和尚より代々相伝て汝●四代の末第●●故説授のため國師之名号相添(中略)
十譽或夜夢を感候事 ●意に伊勢太神宮江参り宝前●信敬し念佛して神前の御を● 自然●開き閉に此如来在ス 本尊御聲を出し告て曰ク 汝我●頼って能ク念佛を我能ク護て不捨と曰ふ● 夢覚候 其御相好と安置乃本尊と先師物語と符合せり 天照太神の御作成事無疑 惟は阿弥陀如来の利益事 尊像をして言●出し(以下読解できず)

『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に在り。瑞松山と号す。浄土宗にして芝増上寺の末なり。開山は木食重譽上人霊光和尚にて。初め草庵なりしが。寶永三年(1706年)寺院に列せり。
本尊阿彌陀如来は。増上寺の観智國師京都よりの帰途。伊勢にて得たるものなりといふ。

『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に有り瑞松山と号し、浄土宗にして芝増上寺の末である。開山は木食重譽上人霊光和尚で、初め草庵であったが寛永三年(1626年)寺院に列した。
本尊阿彌陀如来は増上寺の観智國師京都よりの帰途伊勢にて得たものなりと伝説されて居る。

■ 元日地蔵菩薩縁起(山内掲示)
当寺は今を去る寛文七未年(西暦1667年)の創建で霊光庵と称していたが、寶永参戌年(西暦1706年)増上寺末に列し、霊光寺と改め山号を瑞松山、院号を栄隆院と定めた。
境内に何時のころからか石の地蔵菩薩が安置されていた(年号不詳)が、「江戸府内中郷寺社書上」には文政拾壱子年(西暦1828年)ころ金佛の地蔵菩薩を再興と記されている。(中略)昭和四拾年本堂、書院、庫裏等を完成した(中略)説法印の元日地蔵菩薩を建立することとした。
元日地蔵菩薩は「東都歳事記」等によれば江戸東方四拾八所四拾番札所の地蔵菩薩であるが名称の由来は不明である。


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約6分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。

「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
第6番遍照院から浅草通りを挟んだ対面にあります。

【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号

浅草通りに面して寺号が刻まれた門柱。
すぐ前に駐車場と、その奥にこ洒落た住宅のような建物がありますが、その建物の一部に千鳥破風を配した向拝が設けられています。
都心のお寺然とした、たたずまいです。

門柱右手には石佛立像の「元日地蔵菩薩」が御座し、石碑の縁起書もおかれていました。


【写真 上(左)】 元日地蔵菩薩
【写真 下(右)】 元日地蔵菩薩縁起


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 扁額

山内にも立派な寺号標があり、向拝上には山号扁額も掲げられていました。


御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 霊光寺の御朱印 〕



中央に六字御名号(南無阿彌陀佛)の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の印。
右には「元日地蔵菩薩」の印と「江戸東方四十八所四十番札所」の札所印。
左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
「江戸東方四十八地蔵霊場」の札所印は他寺ではみたことがなく、たいへん稀少な御朱印です。

■ 希少な札所印



■ 墨田区お寺めぐり第22番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ 滴 - 今井美樹


■ Love is all/愛を聴かせて - 椎名恵


■ Musunde Hiraku - Kalafina
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■ 夏の終わりの名曲(邦楽編)

虫の音が日に日に増して、猛暑のなかにも秋の気配。
曲を追加し、リンクつなぎなおしてリニューアルUPです。

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2021/08/23・2022/08/30・2023/09/05 UP

もうすぐ9月。すこしく足してリニューアルUPです。

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夏の終わりの名曲をいくつか・・・
なんか、以前もつくった気がするけど、まぁいいか(笑)
重複あったらすみませぬ。


■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオールスターズ

個人的にはサザン屈指の名曲。
そして「TSUNAMI」の原曲ではないかと思っている・・・。
原さんのキーボードワークの凄さが伝わってくる名テイク。

■ 海 - サザンオールスターズ

イントロのフレーズ。リバーブの効いたドラムス。複雑なカウンター・メロディ。
むせぶSaxophone、そして桑田さんの色気ただようスキャット。
文句なしの名曲!
1984年の時点で、こんなものすごいメジャー・セブンス曲かましてくるとは、やっぱりハンパな才能じゃないわ。

■ 初期サザンとメガサザン(サザンオールスターズ、名曲の変遷)
■ サザンのセブンス曲

■ Secret Base ~君がくれたもの~ - 茅野愛衣&戸松遥&早見沙織  ACE2013 LIVE

声優系の歌唱レベルはこの頃からすでに高かった。

■ 女神系歌姫-1 【 Angel Voice列伝 01-50 】
■ 女神系歌姫-2 【 Angel Voice列伝 51-100 】

■ Canary - 松田聖子 

これ、自作曲って・・・。聖子ちゃんおそるべし。
こんなメロディ、計算づくではなかなか浮かばない。

■ 松田聖子スペシャル & 関ジャム

■ うまく言葉にできないけれど - SoulJa feat. 果山サキ

”セツナ系”には、こういう好メロ曲がたくさんあった。

■ セツナ曲25曲(唐突ですが・・・)

■ 少年時代 - 熊田このは(Covered)

陽水の名曲を別の解釈で歌いあげてしまう。
これがカラバトU-18黄金の世代のオリジナリティ。

■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2
■ 歌のオリジナリティ(カラバトU-18黄金の世代)

■ さよなら夏の日 - 山下達郎

夏歌の巧者だから、夏の終わりの描写もピカ一。

■ YOUR EYES - 山下達郎

これ、達郎屈指の名バラードだと思う。

■ 山下達郎の名曲
■ Ride On Time カバー特集(ザ・カセットテープ・ミュージック)

■ Love Is All / 愛を聴かせて - 椎名恵

洋楽カバーだけど、日本語の歌詞が好アレンジに見事に乗っている。

↓ 洋楽バージョン 「I've Never Been to Me(愛はかげろうのように)」 - Charlene(1977年)


■ 雨のウェンズデイ - 大滝詠一 

名手、大滝詠一の夏の終わり歌。
情景が目に浮かぶ。

■ 4つ打ちとグルーヴ (音のスキマ論-0)

■ 思い出は美しすぎて - 八神純子

やっぱり、八神純子のハイトーンは珠玉。

■ Melody For You - 角松敏生 (Summer 4 Rhythm)

角松敏生の曲って、夏歌でもどこかに秋の翳りを帯びているとおもう。

■ Crescent Aventure - 角松敏生

1982年ならではの、余裕かました曲調と風景が浮かぶ歌詞。
~ 過ぎた遊びのしめくくりと 潮風を受けて 閉じたまぶたに・・・ ~
こんな歌詞、なかなか歌えないよ(笑)

■ 場をつくりだす音楽

■ ホノルル・シティ・ライツ - 二名敦子

J-POPのなかではもっとも洋楽(ウェストコーストサウンド)に接近した一人。

■ 切なさを帯びた女性ボーカル10曲

■ 夏の終わりのハーモニー - 井上陽水 & 安全地帯

日本を代表する夏の終わり歌。
つくろうとしてつくれる曲じゃないと思う。

■ 陽水の50年

■ 海のキャトル・セゾン - とみたゆう子

”ミルキーヴォイス”と呼ばれた抜群の美声。爽快感をもちAC系の楽曲にもよく乗っていた。

■ 鈴を転がすような声  ~ 究極のハイトーンボイス ~

■ 【神回】実の妹と一緒に「点描の唄」歌ったら大感動の嵐だった件【Mrs. GREEN APPLE (feat. 井上苑子)】(竹中雄大)

もはや国民的スタンダード曲と化した?名曲だが、歌うとなるとかなりの難易度で名唱はすくない。
これはそんなレア・テイクかと思う。

■ Planetarium(プラネタリウム) - 花たん

バイオリンのように艶立つ花たんのハイトーンはやっぱり唯一無二。

■ 花たんの名テイク

■ 願い - 童子-T feat.YU-A

2009年リリースのセツナ曲。
この頃はこういう曲がトレンドだった。
2000年以前ではおそらくこういう曲はつくれず、今後はこういう曲がメインになっていくかとも思った。
でも、実際は違った。
この路線がメインをとっていたら、2023年までにもっと多くの名曲が生まれていたと思う。

■ ”来る曲” J-POP Female Vers. Part-2

■ One Reason - milet

ここ数年では屈指の好メロ&好リズムのJ-POP。
才能あると思うが・・・。

■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲

■ Imaginary Affair - KOTOKO

アニソンを代表する夏の終わりの名曲か。

■ For Our days - 川田まみ(I'VE)

札幌の音楽創作集団「I'VE」でヴォーカルをとっていた。
『そして明日の世界より』OPで、これもかなりのナイスメロ。
独特のビブラートとヒーカップの連打のパフォーマンスで聴き応えあり。

■ 君の知らない物語 (supercell)- くゆり(歌ってみた)
 
この曲がリリースされた2009年8月。
この頃は、これからますますこういった好メロ&華麗なハイトーンの曲が増えていく(というかメインストリームになる)と思っていた・・・。
クリエイターチーム・supercellのメジャーデビューシングルで、ボーカルにニコ動で人気のガゼルことnagi(やなぎなぎ)を迎えてつくりあげられた夏歌の名曲。
メロ、歌詞、アレンジ、そしてヴォーカルともに卓越した仕上がり。

supercellの曲は「歌い手」のカバーも多い。
くゆりさんは、歌い手のなかでもかなり上位の実力を持っていると思う。
supercellの人気曲「君の知らない物語」を見事に歌いこなし、その卓越した完成度はニコ動のコメント群がよく物語っている。
ときおり繰り出す繊細なビブラートと(ヒーカップじゃない)高音への跳ねが絶品。

■ 私たち - 西野カナ

西野カナの歌声は、夏全開にならないセツナサを秘めている。
それにしても、西野カナの曲って名曲揃いだわ。

■ セツナ曲25曲(唐突ですが・・・)
■ 西野カナ復帰 & 西野カナの名テイク

■ Dive Into Summer - miwa

miwaも素晴らしい才能の持ち主。
2010年頃のセツナ系本流とはちとニュアンスが違うけど、やっぱり切ない。

■ Hello,my friend - 松任谷由実

複合カノン進行の名曲。
大衆路線まっしぐらの頃だけど、やっぱり創ろうと思えば創れる。
そんなことを感じた1曲。

■ 翳りゆく部屋(松任谷由実~私と荒井由実の50年~)
■ 伝説的ミュージシャンの50年 〜ユーミンの名曲〜

■ 片恋日記 - 中村舞子

”切なさを帯びた声”というチョイスなら、中村舞子はトップレベル。

■ 中村舞子の名バラード20曲

■ 滴 - 今井美樹

2009年リリースの『corridor』収録曲。
作詞・作曲:川江美奈子。川江美奈子の曲やバックヴォーカルと今井美樹の相性は抜群。

■ 今井美樹の名バラード25曲!

■ LOVE BRACE - 華原朋美

小室哲哉氏が渾身の名曲の多くを華原朋美に注いだ理由がわかる気がする。
というか、この曲は華原朋美にしか歌えない。
世が世なら、第一線を走りつづけられた希有の実力。

■ 時代を読んだ? 小室哲哉氏

■ Musunde Hiraku - Kalafina

このまま解散で終わらすには、あまりにも惜しい名ユニット。

■ 幻のユニットkalafina
■ FictionJunctionの秘密?

■ Never Ending Summer IV~Prolog - 杉山清貴&オメガトライブ

名手・林哲司作編曲の名曲。
作詞は秋元康。いい歌詞書くと思ってたけどね・・・。

■ グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?)

■ Cloudyな午後 - 中原めいこ

中原めいこのこの甘く危険な歌声(笑)は、完コピ不可だと思う。

■ 歌は世につれ
■ 日本にシティ・ポップはなかった??

■ Over and Over - Every Little Thing

持田香織さん、もともとアイドル系だけど歌唱力あり。
David Fosterを思わせるKeyのカウンターメロディが光る、きらびやかかつリリカルな名曲。
もっと売れてもよかったと思う。

■ Story Teller - Kicco

アニソン&ゲーム系では、さりげにこういう名曲がつくられたりする。
意表をつくメロディ展開が魅力。

■ answer - 遥海

歌に魂が乗っている。
いまのJ-POP界では屈指の歌唱力。

■ 希有のシンガー、遥海(草ケ谷遥海)
■ 本当に上手い女性シンガー12人!

■ Endless Story - 伊藤 由奈

インスト陣のパフォーマンスも観客のレスも抜群。
J-POP屈指の名演かと・・・。

■ 圧倒的名演!

■ YES-YES-YES - オフコース

1982年リリース。
こういうフックのあるメロディラインを、この頃の小田氏はよくつくっていた。

↓ そのものずばりの「秋の気配」。
■ 秋の気配 - オフコース

コード
1977年のオフコース・サウンド。
すでにメジャー・セブンスやハーフディミニッシュが効果的に使われている。

■ 稲垣潤一 - 夏のクラクション

このグルーヴ感!
シティ・ホップスの名曲として再評価されている理由がわかる。

■ 「シティ・ポップ」って?

■ 二人の夏 - ZARD

坂井泉水さんならではの切ない歌声が活きる、ZARDの隠れた名曲。

■ This Love - Angela Aki

日本が生んだ類いまれなシンガー・ソングライター。
J-POPシンガーとしての活動再開を切に願います。

■ アンジェラ・アキ なう!

■ グッドタイムズ & バッドタイムズ - 佐野元春

聴くほどに何かを考えさせられる佐野元春の曲は、秋の入口にぴったり。

■ 名曲のもとに名歌詞あり! ~ 心に刺さる名歌詞? ~
■ 佐野元春の3枚のALBUM

■ LONG ISLAND BEACH - 杏里(ANRI)

個人的には、杏里を代表する名バラード。
~ 急いで寒くなるの 夕暮れは 結んだTシャツほどく ~
夏の終わり感ばりばり。

極めつけはこれかな? ↓
ALBUM 『Heaven Beach』(1982) - 杏里(ANRI)
1982年11月21日On Saleの4thアルバム。
小林武史、角松敏生、二弓などが参画して一気にリゾート感を強めた。
これといったヒット曲が出ていないので地味めな作品だが、個人的にはベスト。
1982年秋のリリースなので、ひたすら聴きまくっていたのはおそらく1983年の夏。

30:16~ ラスト3曲(Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach)の流れが絶妙すぎる。


とくに、ラストの「Heaven Beach」。

個人的に想い入れがありすぎて(笑)、涙なくして聴けぬ。

■ 杏里の名バラード20曲!

洋楽バージョンはこちらをどーぞ ↓
■ 秋向きの洋楽30曲!
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■ 逸材! 柴山サリー(SARI)

アーカイブ、まだじっくり聴けていないのですが、↓の動画がみつかりました。

ライブを終えて


↓ でいろいろ書いたけど、↑の動画の歌声を聴くと、やっぱり素晴らしい才能だと思う。
アーカイブ視て感じたことがあったら追記します。

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2024/08/04 UP



昨日は朝霞の花火に行ってしまったので、配信LIVEはリアルタイムで視ていません。
先ほど、アーカイブをざっくりと流しで視てみました。

あくまでも筆者の個人的感想ですが・・・・

・SARI(柴山サリー)の声質、歌い回し、安定感はやっぱり逸品。
・9人のバックにはびっくり。ツインギター、ツインキーボード、ベース、ドラムス、2人のコーラス、1人不明。
・バックの音が厚すぎ、存在感が強すぎる。言い過ぎかもしれぬがフュージョンバンド(あるいはサックスプレイヤーのソロライブ)のゲストヴォーカル的なポシジョン。
・音圧のあるキーボードのユニゾンやカウンターメロがSARIのヴォーカルとぶつかっていた。これはシンガー的にはかなりキツいと思う。すくなくともユニゾンは不要では?
・ドラムスの音が全体に堅い。

・アカペラでも十分オーディエンスを魅了できるすばらしい声をもっているので、次回(9/16)はもうすこしヴォーカルを前に出してくれるとうれしい。

アーカイブをじっくり聴き直して、気がついたことがあれば追記します。

↓ ZARD曲はやっぱりこのくらいのバランスでは?

■ ZARD - 遠い日のNostalgia


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2024/08/02 UP



いよいよ明日(8/3)ですね。
筆者はチケとれなかったので、9/16参戦だけど。

■ 追記
なんとLIVE配信あったですね。
いまさっき購入しました。

申し込みページ
3,000円で、アーカイブ配信は1ヶ月間視聴可能です。


↓ ダンスもMCも不要! 声と表情と身振りだけでオーディエンスを魅せられるであろうこの才能は、いまの時代にはすこぶる貴重。






↓ やっぱりSARIの「渡良瀬橋」、絶品だわ。



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2024/05/29 UP

ソロライブ決定。
昨日(5/28)からの発売です。


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2024年8月3日 (土)
「Wish for wonderful happiness」
会場 横浜ベイホール
開場 15:00 開演 16:00
チケット 料金 発売日時 プレイガイド お申し込み
VIP席 30,000円 2024年5月28日18時 SARIスタッフ wishforwonderfulhappiness@gmail.com
一般席 8,000円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
スタンディング 5,500円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
ワンドリンク制 600円

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2024年9月16日 (月)
「Wish for grateful luckiness」
会場 横浜ベイホール
開場 15:00 開演 16:00
チケット 料金 発売日時 プレイガイド お申し込み
VIP席 30,000円 2024年5月28日18時 SARIスタッフ wishforgratefulluckiness@gmail.com
一般席 8,000円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
スタンディング 5,500円 2024年5月29日18時 イープラス eplus.jp/sf/detail/4110…
ワンドリンク制 600円


一般席、8月3日 (土)のやつはうまくとれなかった。(完売かもしれぬ)
で、9月16日 (月)のほうを予約しました。

予想以上の売れ行き?
往年のZARDファンが大挙して入り込んできているのかも・・・。

それと、「SARI」に改名したそうです ↓
■ 改名決定


■ ZARD マイ フレンド 揺れる想い Don't you see! 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト


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2024/04/09 UP

口の悪い面々が、もっと聴きたいモードに入ってる。
強心臓? この独自キャラも魅力?

【ZARD】鬼レンチャン【柴山サリー】
@chidorinoonirenchan2022 パート267丨#柴山サリー パート1 #鬼連チャン #千鳥 #かまいたち #千鳥の鬼レンチャン #モノマネ ♬ オリジナル楽曲 - Kontuna


@chidorinoonirenchan2022 パート268丨#モノマネ #千鳥の鬼レンチャン #かまいたち #千鳥 #柴山サリー ♬ オリジナル楽曲 - Kontuna



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20240409UP

先ほど放送の日テレ「熱唱!ミリオンシンガー」、柴山サリー出てましたね。
得点は500点。神声認定まであと1点!

■ ZARD神声 マイ フレンド 熱唱!ミリオンシンガー

出だしは文句なしだったけど、後半で泉水さん特有の「切なさ」感がちょっと弱かった感じもする。

↓ このレベルの歌唱だったら、501点~で神声認定だったと思う。

■ ZARD+柴山サリー『負けないで』比較


切なさを帯びた声色とキレッキレの歌い回し。
このふたつを兼ね備えた歌い手はほんとうに稀少。

■ ZARD 揺れる想い マイ フレンド 異邦人 遠い日のNostalgia 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト

1:57~の「遠い日のNostalgia」名テイク。

■ 中野ZERO小ホール 公演中止

事情はよくわからんが、仕切り直しで成功させてほしい。


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2024/03/12UP

3/10放送の「千鳥の鬼レンチャン」、録画したやつ視てみたけど、やっぱり柴山サリー凄い。
というか、どんどん巧くなってる。

■ ZARDレンチャン マイ フレンド 負けないで 揺れる想い DAN DAN 心魅かれてく 君に逢いたくなったら… あなたを感じていたい 歌ってみた 千鳥の鬼レンチャン


自分の部屋でリビングのTVから流れて来た歌声、聴き流し不可避だったのは熊田このはちゃんと柴山サリーくらいかな。

それだけ筆者にとっては魅力のある声。
(相方によると、どちらも「これ歌ってるの誰?」って飛んできたらしい(笑))
どっちも左手マイクだ。
どーでもいいけど、好きなんだよね。左手マイクの美声ボーカル。

■ 左手マイクの美声ヴォーカル


柴山サリーはこの記事(熱唱!ミリオンシンガー出場の逸材たちでもとりあげたことあるけど、やっぱり逸材だと思う。

■負けないで/ZARD 【歌ってみた】 柴山サリー

こういうせつなさを帯びた声質を出せるシンガーはほとんどいない。
ほんとうにいい声してると思う。

■【ZARDカバー】テレビ出演で話題!スラムダンク主題歌『マイ フレンド』を歌ってみた | covered by 柴山サリー (歌詞付き・フルver.)

この坂井泉水さんワンアンドオンリーの難曲をここまで歌いこなすとは・・・。
とくに高音に飛ばすときの声の表情がそっくり。
さすがにサビ部の神がかり感は完璧には再現できてないけど、やっぱりすごいテイクだと思う。

ZARDだけじゃないよ。
森高千里も絶品。

■ 大学生が[everysing]で 森高千里 渡良瀬橋 歌ってみた カラオケ (cover)


■ 森高千里 気分爽快 歌ってみた


ZARDと森高千里だけじゃないよ。

■ 岡村孝子 夢をあきらめないで KAN 愛は勝つ 大事MANブラザーズバンド それが大事 岡本真夜 TOMORROW ZARD 負けないで 歌ってみた


聴き飽きしない歌声。
曲そのもののよさを引き出せる才能。

■ ZARD 心を開いて 1人10役 歌ってみた まいにち賞レース


これだけの多彩な歌いまわしもってるから、曲に陰影を与えられるのだと思う。

☆柴山サリー 大阪天保山スペシャルライブ 全三部総集編☆

この才能が本物であることがわかる、オープンな会場でのLIVE。
ニュアンスが繊細で歌いまわしにキレがある。

■ 聖母たちのララバイ/ 日本の名曲残し隊【第5回公演】

深みのあるビブラートと伸びのあるハイトーン。
そして抜群の安定感。


■ ずっとあなたに会いたかった/柴山サリー【オリジナル曲】


まだまだ伸びる才能だと思います。
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■ 志木開運・招福七社参り-2

4.宿氷川神社の「武蔵三氷川」について、追記しました。

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2021/05/12 UP



こちらのサイトで以前からその存在は知っていたものの、詳細不明だった神社参り。

■ 志木開運・招福七社参り-1からのつづきです。


4.宿氷川神社

「猫の足あと」様
埼玉県志木市上宗岡2-2-34
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:心身安穏
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:青龍山 千光寺(志木市上宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宿氷川神社 直書(筆書)


境内掲示資料によると、宿(しゅく)氷川神社は上ノ氷川神社とも通称され、千光寺を中興した権大僧都善海(権大僧都青海とも)が、高鼻の武蔵國一の宮氷川神社を分祀して承暦二年(1078年)創建したといわれます。
爾来、千光寺の管理下に置かれ、宗岡上組・見次組の産土神として敬仰されてきました。

伝承では、観応二年(1351年)、宿氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は当社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は下ノ氷川神社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って下ノ氷川神社が創祀されたと伝わり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。

明治維新後には村社に列格、明治22年に字袋の無格杜稲荷神社を合祀したといいます。
昭和8年に拝殿、幣殿、覆殿を新築し、昭和18年3月に神饌幣帛料供進神社に指定されています。

志木市内には上ノ氷川神社と呼ばれる当社、中ノ氷川神社と呼ばれる産財氷川神社、そして下ノ氷川神社が鎮座し、いずれも「志木開運・招福七社参り」の対象となっています。

三社の氷川神社となると、どうしても武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインや武蔵三氷川を思い起こします。

武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインとは、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社、中川の中山神社(中氷川神社)がこちらのWebの三社所在図のとおり、旧見沼をからめとるかのようにほぼ一直線に並び、中川の中山神社からみると大宮氷川神社は夏至の日没の場所、三室の氷川女體神社は冬至の日の出の場所に当たるという神社配置をいいます。

中川の中氷川神社が低地にあり、高鼻の大宮氷川神社、三室の氷川女體神社が高台にあることを考えあわせると、この三社の配置はたしかに暦歴(自然暦)に関係する可能性があると思います。
こちらのWebこちらのWebで鋭い考察を展開されています。)

この三社は古来から父母と子の関係とみなす説があります。
●高鼻の大宮氷川神社の主祭神は須佐之男命で父上(男体社)
●三室の氷川女體神社の主祭神は奇稲田姫命で母上(女体社)
●中川の中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の主祭神は大己貴命で御子(氷王子社)


【写真 上(左)】 武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 氷川女體神社の御朱印


【写真 上(左)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中山神社(中氷川神社/氷川簸王子神社)


武蔵三氷川は、ふつう下記3社をいうようです。

・武蔵一ノ宮(大宮氷川神社) (さいたま市大宮区)
・中氷川神社 (埼玉県所沢市山口)
・奥氷川神社(上氷川神社) (東京都奥多摩町氷川)


【写真 上(左)】 武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 中氷川神社の御朱印


【写真 上(左)】 奥氷川神社(上氷川神社)の御朱印
【写真 下(右)】 奥氷川神社(上氷川神社)

なお、武蔵三氷川について「一直線に並んでいるともいわれる。」というWeb記事がやたらに目立ちますが、実際には一直線ではありません。
Google マップで直線距離を当たってみると、
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-所沢中氷川が23.62㎞、所沢中氷川-奥氷川が30.24㎞
一ノ宮-奥氷川が49.58㎞、一ノ宮-三ヶ島中氷川が25.25㎞、三ヶ島中氷川-奥氷川が27.20㎞で、いずれも二等辺三角形にもなっていません。
こちらの記事にもあるとおり、地図で調べればすぐわかることですが、それをせずに安易に孫引きしてしまったからかもしれません。

はなしを志木の氷川三社に戻してみると、宿氷川(上氷川)-産財氷川(中氷川)が1.31㎞、産財氷川(中氷川)-下氷川が1.60㎞、下氷川-宿氷川(上氷川)が2.42㎞で、こちらも二等辺三角形になっていません。
三社の御祭神は、いずれも須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神で、三社それぞれに親子が揃われているかたちとなっています。

また、入間郡誌には「(宗岡村)は幕末の頃上中下三邑各独立の一村となる(中略)明治十年三邑聯合して、一村に復し、遂に大字の別を失ひたれど、今日も普通には上中下三組の名を用いて、村内小邑制とせり。」とあるので、氷川神社の冠称の上・中・下は村名ないし組名に由来するものかもしれません。

なので、三社揃っているとはいえ、武蔵一ノ宮(大宮氷川神社)レイラインに安易に牽強付会はできないかと思います。

ただし、氷川神社は水辺とのかかわりが強く、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川のそば、産財氷川(中氷川)が荒川沿いに鎮座され、宗岡エリアを囲む三角形を形成していることはなにがしかの意味があるのかもしれません。
(宗岡の地は荒川と新河岸川にはさまれた低地で、入間郡誌には「土地低平、水田に富む。水害の恐あり」「水害頻繁なりし」とあるので、水害防除のご利益が切に求められていたのではないでしょうか。)

〔追記〕
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』によると、「宿氷川神社(上ノ氷川神社=当社)の祭神は素戔嗚尊・奇稲田姫命・大己貴命の三柱である。書類の上では主祭神は素戔嗚尊で、あとの二柱は武蔵一宮氷川神社に倣って配祀された形になっているが、昔からこの三柱は当社の祭神であるとされ、中でも女神である奇稲田姫命が主神であるため、当社の祭礼には御輿などは出さず、静かに祭典を行うという。一方、下宗岡の氷川神社(下ノ宮氷川神社)の氷川神社も当社と同じ三柱を祀るが、そちらは主神が素戔嗚尊であるため、祭礼には御輿が勇壮に渡御するのが習い」とあります。

上ノ氷川神社の主祭神が奇稲田姫命、下ノ宮氷川神社の主祭神が素戔嗚尊ということになり、これで産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神が大己貴命(氷王子社)であると父母と子の三氷川が成立しますが、産財氷川神社(中ノ氷川神社)の主祭神は不明です。


【写真 上(左)】 千光寺本堂
【写真 下(右)】 千光寺堂宇

元別当の青龍山 千光寺と相並ぶかたちで鎮座します。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 夫婦和合の狛犬

社頭に木製の両部鳥居で「氷川神社」の扁額が掲げられています。
右手には「村社 氷川神社」の社号標。
そのさき右手には夫婦和合の狛犬が鎮座しています。
参道階段下右手に手水舎。石灯籠一対、狛犬一対、石灯籠一対の先に入母屋造銅板葺平入り流れ向拝の拝殿。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝殿


【写真 上(左)】 斜めからの拝殿
【写真 下(右)】 向拝

向拝は水引虹梁で両木鼻は獅子、中備に蟇股で正面桟唐戸(格子)。
本殿は覆屋に囲まれているので様式は不明です。


【写真 上(左)】 社殿
【写真 下(右)】 稲荷社

拝殿の向かって右には、石造明神鳥居を構えた一間社流造の稲荷社が鎮座しています。

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宿氷川神社のすぐそばに、道興准后歌碑があります。
道興准后(永享二年(1430年)-文亀元年(1501年)/『実隆公記』)は、関白近衛房嗣の子で、本山派修験の総本山聖護院門跡に任ぜられ準后(准三宮)の宣下を受けられています。

将軍足利義政や義尚の護持僧として信任あつく、詩歌をよくする風流人としても知られていました。
また、東国巡遊の紀行文『廻国雑記』の作者としても知られています。


廻国雑記の絵図(いろは橋たもとの掲出資料)

道興は文明十八年(1486年)から翌年にかけて聖護院末寺の掌握を目的としたとされる東国巡遊の際、一時当地の十玉坊(現・志木市幸町三丁目に比定説あり)を拠点とされ、付近の大石信濃守の館(柏の城)、野火止、野寺、膝折、浜崎などに足跡を残されています。


【写真 上(左)】 歌碑
【写真 下(右)】 歌碑の説明板

歌碑の歌は、
~ 夕けぶり あらそう暮をみせてけり 我家々のむね岡の宿 ~
室町時代のむかしに、「宗岡」の地名が詠み込まれた貴重な歌として評価されています。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


5.産財氷川神社

埼玉県神社庁Web
志木市Web資料
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡2-29-12
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:縁結び
旧社格:村社、旧宗岡村鎮守
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:産財氷川神社 直書(筆書)


荒川の堤防そばに鎮座する氷川神社。
境内説明板および新編武蔵風土記稿によると、永享年間(1429-1441年)に武蔵国一の宮氷川神社を分祀して創建、江戸期には旧宗岡村の鎮守社でした。
また、「猫の足あと」様の情報(出典:埼玉の神社)では「中宗岡に鎮まる当社は村の開発が進展する中で、既に村内の上下で祀られていた氷川神社に倣って勧請されたものと推測され、『明細帳』によれば、古老の口碑に永享年間(一四二九〜四一)に高鼻村(現大宮市高鼻)の氷川神社から分霊して産土神とした。」とあります。


【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 鳥居扁額

推測の域を出ないのですが、旧宗岡村は荒川と新河岸川に挟まれた低平地で、どちらの川が氾濫してもおそらく被害を免れません。
氷川神社に水害防除を祈ったとすると、宿氷川(上氷川)と下氷川が新河岸川沿いに鎮座しているのに対し、荒川側には氷川神社がなかったので、荒川の鎮めとして産財氷川(中氷川)をお祀りしたのかもしれません。
荒川の堤防を背に、宗岡地区に向けて設けられた社殿は、たしかに荒川の鎮めとしてふさわしい存在感を宿しています。

御嶽山は氷川神社の玉垣の外にあるので、正確には境外社かもしれませんが、リーフレットには「摂社」とあります。

この御嶽山はかなりかなり険しい擬岳で、荒川の堤防沿いにさほど距離を置かずに冨士塚(浅間神社)と御嶽山(当社)がみられるという、興味ぶかいかたちになっています。

市内には敷島神社の境外社に御嶽神社(本町2-15)があり、「天保二年(1831年)に実明講社(御嶽講の一派)の人々が木曽御嶽神社を勧請し創建」(境内説明板)とあります。
当初はこちらの御嶽山と実明講社との関係を考えましたが、どうやら異なる流れのようです。

『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』には、「宗岡村の一山講(いっさんこう)によって明治二十五年に築造され」とあります。
同資料によると、一山講開祖の井原一山行者は与野市の人で、木曽御嶽講開祖の一人とされ、各地の山岳で修行され木曽御嶽山で荒行を積まれた後、江戸と与野に御嶽大神を勧請した一山講を結ばれ、数万の信者を集めたとあります。
宗岡村に生まれ、一山行者の教えを受けた知足行者が宗岡一山講を結ばれたと伝わります。

また、同資料には、かつて中宗岡に松浦利平(普寛)行者が開かれた普寛堂を中心に御嶽教の信仰が盛んだったとの記述があり、この中宗岡の地は御嶽信仰との所縁がふかい土地柄であったことがうかがわれます。

リーフレットによると御嶽神社の御祭神は国常立大神、大己貴大神、少名彦名大神、頂上の石碑には御嶽山大神(中央)、八海山大神(右)、三笠山大神(左)と刻まれています。

荒川の堤防のすぐそばにありますが、このあたりの荒川の河川敷はとても広いので、荒川の流れまでは600mほどの距離があります。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 拝殿と御嶽塚


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿向拝

石造の台輪鳥居で「氷川神社」の扁額。
境内は木々が少なく明るく開け、右手は御嶽神社(御嶽山/御嶽塚)です。
参道右に手水舎。拝殿までに石灯籠二対。

拝殿はこのあたりではめずらしい桟瓦葺で入母屋造平入り流れ向拝。
向拝柱はありますが木鼻はなく、海老虹梁も直線的で全体にシンプルな構成。正面桟唐戸。


【写真 上(左)】 社殿全容
【写真 下(右)】 本殿の向拝

覆屋に覆われた本殿はすばらしいものです。
境内説明板によると「造営年代は定かではありませんが、明治二年に着工し、同十四年に完成」とあります。
本殿は一間社流造りでケヤキ材使用とのこと。
廻縁腰組の斗栱がすばらしく、知識の浅い筆者には何手先なのか見当がつきません。


【写真 上(左)】 本殿の水引虹梁
【写真 下(右)】 廻縁腰組の斗栱

身舎まわりの斗栱や彫刻も手がこんでおり、この本殿は志木市指定文化財に指定されています。

本殿向かって左の神明鳥居の先に、切妻造妻入のお社と石の祠が鎮座しています。
切妻造妻入のお社御嶽社、石の祠は八坂社とみられます。
(リーフレット記載の「境内社 八坂神社」はこちらの八坂社ではないでしょうか。)


【写真 上(左)】 御嶽塚
【写真 下(右)】 御嶽大神の石碑


【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 山頂の石碑

御嶽神社はこんもりと盛り上がった擬岳で、山容にくらべて石碑類が多く賑やかな印象。
正面に石像の不動明王の坐像。両脇に矜羯羅、制吒迦の両童子を従えて整った像容です。
その横に「御嶽大神」の石碑があり、御嶽神社であることを示しています。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


6.下ノ宮氷川神社

埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市下宗岡4-7-43
御祭神:須佐之男大神、奇稲田姫大神、大己貴大神
御利益:強運厄除
旧社格:
元別当:観音寺
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:下ノ宮氷川神社 直書(筆書)


下ノ氷川神社は、宿(上ノ氷川)神社を分祀して観応二年(1351年)に創建された神社です。
伝承には、宿(上ノ氷川)氷川神社にあった御神体の茶臼を二つに分けて年号を刻み、下石は宿(上ノ氷川)氷川神社の本殿下の土中に鎮めとして埋納、上石は当社の神殿の床下に鎮めとして分祀埋納し、真上にあたる社殿内に幣帛のご神体を祀って創祀されたとあり、下ノ氷川神社は宿氷川神社と向かい合うように北面して建てられ氏子の村人を守るとされています。


【写真 上(左)】 あたりの景色
【写真 下(右)】 まむしに注意!

下宗岡の集落の外れ、朝霞市との市境に近いところ、新河岸川の支流がそばを流れる人家も少ない低地で、イメージ的には朝霞・内間木地区に近いものがあります。
市域が狭く人口密度の高い志木市内に、このような場所が残っているとは、ある意味おどろきです。
このような村はずれの低地に分祀して創祀ということは、やはり水害防除の願いが強かったのかもしれません。

『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には、「当社の拝殿には、数多くの絵馬が奉納されている。(中略)「水難除け祈願」は、土地の官有化によって水神を祀れなくなった下組の人々が、代わりに水神の幣束を絵馬に描いて鎮守に奉納することによって水難を避けようとしたもの」とあり、やはり水難防除の祈願がかけられていたことがわかります。


【写真 上(左)】 鳥居と参道
【写真 下(右)】 鳥居扁額


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 水神社


【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道と拝殿

上社、中社とちがい木々が茂って荘厳な雰囲気、北面のお社ということもあり、引き締まった気を感じます。
石造の明神鳥居に「氷川神社」の扁額。
参道左手に手水舎。
社頭付近に水神社の境内社が鎮座されます。
その先の朱い銅板葺の一間社流造のお社には「正一位新田稲荷大神」の扁額が掲げられていました。


【写真 上(左)】 狛犬1
【写真 下(右)】 狛犬2

階段を数段登って狛犬一対。この狛犬は四つ脚立ちでかなり個性的なお姿です。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 社殿

正面の拝殿は入母屋造銅板葺平入り流れ向拝で、端正な水引虹梁を構えています。
木鼻は雲形、中備えに蟇股、正面は格子戸、軒天は二軒繁垂木です。


【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 八坂神社

本殿は切妻平入りで、拝殿と連接しています。
本殿よこに護国神社と疱瘡神、拝殿手前よこには八坂神社が鎮座しています。
疱瘡神は疱瘡(天然痘)除け、八坂神社は疫病除けとして祀られているとされ、毎年七月には八坂神社の祭礼である「天王様」が催され「下組下の宮囃子」が奉奏されます。

御朱印は水宮神社でタイミングが合えば拝受できます。


7.(中宗岡)天神社

埼玉県神社庁Web
「猫の足あと」様
埼玉県志木市中宗岡1-4-36
御祭神:菅原道真公
御利益:受験合格
旧社格:村社
元別当:蓮華山 実蔵院(志木市中宗岡)
授与所:水宮神社授与所(富士見市水子1762-3)※常時授与かは不明
朱印揮毫:宗岡天神社 直書(筆書)


志木市中宗岡に御鎮座の天神社で、境内説明板などによると、寛永三年(1626年)、江戸の湯島天神を分祀したと伝えられ、近世初頭にこの地を支配し後に名主役を務めていた木下氏の先祖にあたる山口大膳が山口(現・所沢市山口)から来住した際に氏神として分祀という説もあり定説はないようです。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居

社頭はいろは通りに面し、そこから露地の中を細長く参道が延びています。
路地を抜けると一気に境内が広がります。


【写真 上(左)】 八坂神社の鳥居
【写真 下(右)】 左が天神社、右が八坂神社

向かって左手に天神社の石造明神鳥居、右手に八坂神社の石造神明鳥居で、おのおの参道の先に拝殿を配して二社構成の神社のように見えます。
左手の石造明神鳥居には「天神社」の扁額がかかります。
参道中ほどに手水舎。
右手に子取り、左手に玉取りの整った狛犬。


【写真 上(左)】 狛犬
【写真 下(右)】 天神社の社殿

数段登って石灯籠一対を配し、正面に入母屋造桟瓦葺平入りの拝殿。
水引虹梁はなく、身舎は格子で覆われ寺院(堂宇)建築のようです。
見上げに「天神社」の扁額。


【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額

切妻造銅板葺平入りの本殿が拝殿に連接しています。


【写真 上(左)】 八坂神社
【写真 下(右)】 八坂神社の扁額

右手の社殿は八坂神社。
切妻造桟瓦葺平入りで向拝上部のみ格子で、見上げに「八坂神社」の扁額を掲げています。
桟瓦葺二棟のコントラストが絶妙で、見応えがあります。

八坂神社の本殿は、拝殿から距離を置いて御鎮座。
天神社と八坂神社の間に鳥居とお社と石祠の二社が鎮座します。
切妻造妻入のお社は稲荷社とみられ、そちらの向かって右の石の祠にはおそらく立像の弁財天が祀られています。

また、本殿の向かって左には一間社流造のお社二社(御祭神不明)、水神宮の石碑と「高光美玉姫命」の石碑が建立されています。

リーフレットには下記のお社が記載されています。
ご本殿(天照大御神、八幡大神、春日大神、菅原道真公(天神様))、八坂神社、阿夫利神社、御嶽神社、伊都岐島神社、大杉神社、水神社、稲荷神社、弁材天。
『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』には「当社の本殿には社が三社安置されている。そのうち中央が天神社、向かって左側が春日社、右側が八幡社」とあります。
同資料の境内図によると、本殿向かって左側に、大杉神社(荒川砂採取組合による再新築)、伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)、大山阿夫利神社、水神宮とあります。

『しきふるさと史話/志木市教育委員会刊』によると、中宗岡には「大講義高光美玉姫命」と刻まれた碑があり、こちらは御嶽教の清水スミ行者の神霊碑とあります。
同書に、名声高い百村の普寛行者を中宗岡の地に招いたのが清水スミ行者とあるので、上記の「伊都岐島神社(「ふかん様」と呼ぶ)」という記載と符合します。
また、同書には「大山(の)御師佐藤織部の先祖が舘村佐藤家の出身だったこともあって、志木市域での布教活動はかなり活発だったようで、引又からは毎年代参者が登拝している。」ともあり、その流れから当社の境内に大山阿夫利神社が祀られているのかもしれません。

『埼玉の神社/埼玉県神社庁刊』に「当社の境内にある『あんば様』こと大杉神社は、荒川の秋ヶ瀬から採取された砂を運ぶ砂船の船頭をしていた人たちが昭和十年に字原に建立」「同三十年に荒川砂採取株式会社が解散してからは管理上の問題から当社の境内に移された。」とあります。

これで、各種の資料と現地のお社・碑の配置がほぼ合致することになります。


【写真 上(左)】 八坂神社元宮社頭
【写真 下(右)】 八坂神社元宮

境外社として八坂神社元宮があり、そちらの境内由緒書には「享和三年(1803年)、当地に祀られ悪疫、病魔退散を願い氏子宗岡邑中組(現三区・四区)一帯で天王祭(祇園際)が行われはじめた、近年は御輿御渡など盛大に行われている. その元宮」とありました。

宗岡エリアは新河岸川対岸の本町や柏町に比べて高台が少ないですが、当社地は一段高くなっており、引又河岸(いろは橋/新河岸川と柳瀬川の合流点)を挟んで敷島神社と相対しているようにもみえます。
ともに水神宮が祀られ、天神社には伊都岐島神社(御祭神:宗像三女神)や弁財天社も祀られているので、水や川に対する鎮護の意味合いもあるのかもしれません。

これで志木開運・招福七社参りのご紹介はおわりです。
多彩な神社や御祭神をお参りできる神社巡りで、寺社に興味のある方であれば御朱印を抜きにしても充分楽しめるかと思います。


【 BGM 】
■ ただ泣きたくなるの - 国分友里恵


■ 風と花と光と - 世理奈


■ Hello,my friend - 松任谷由実


■ 滴 - 今井美樹


■ 夏空の下 - やなわらばー
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■ 夏のFemale J-POP(1980~1990年代)

あまりに暑いので、夏らしいはじける曲とクールダウンできるAOR系を思いつくままに引っ張ってきました。
やっぱりシティ・ポップがメインになってしまう(笑)


■ P・R・E・S・E・N・T - 松田聖子(『Pineapple』1982年収録)

名盤『Pineapple』のA-1を飾る名曲。作曲:来生たかお、編曲:大村雅朗。
1980年代前半の夏のきらきら感全開。

■ 夏をかさねて- 今井美樹(『Bewith』1988年収録)

名盤『Bewith』の1曲目。
柿原朱美のお洒落で透明感あふれる曲調が今井美樹の声質とよく合っている。
イントロのメジャー・セブンスからヴォーカルパートはマイナー・セブンスメインか。(→コード

夏が手招きしてる
はずむパーコレーター
のサスフォーの効きがテクニカル。

■ マンハッタン・キス - 竹内まりや(シングル1992年リリース)

作詞・作曲:竹内まりや/編曲:山下達郎。
1992年にしてなお、こういうAC的エッセンスの佳作を生み出せる、達郎&竹内まりやはやはり凄いと思う。

■ MORNING HARBOUR - とみたゆう子(『DEUX』1982年収録)

名古屋市出身のシンガーソングライターで曲のできも抜群。
「ミルキー・ヴォイス」といわれた甘いながらも透明感にあふれた美声。
これは1982年リリースの名盤『DEUX』収録曲。

■ 天使の絵の具 - 飯島真理(シングルc/w1984年リリース)

活動範囲が多彩でいまいちポジションがよくわからない人だが、国立音楽大学入学の実力派。
1983年、坂本龍一氏プロデュースの1stアルバム『Rosé』でメジャー・デビュー。
1984年、『超時空要塞マクロス』の主題歌「愛・おぼえていますか」がブレーク。
一時、達郎氏のMOON RECORDSに所属し、ロサンゼルスに移住。
現在は帰国して音楽活動を継続している。
達郎氏が注目しただけあって、そのハスキーでキレのある歌声は独特のオリジナリティを備えている。
これは「愛・おぼえていますか」のc/w曲。

■ 瞳はダイアモンド - 鮎川麻弥(『1984』2014年収録)

1984年7月にソロデビューでアニメ系の活動が多かった。
シンガーソングライターで、中山美穂、酒井法子などにも楽曲を提供している。
これは1984年の楽曲をカバーした2014年リリースのアルバム『1984』収録曲。
艶と奥行きのあるハイトーンで、聖子ちゃんVers.よりコンテンポラリーでアダルトな仕上がり。

■ エリア・コード808 - 二名敦子(『Loco Island』1984年収録)

1980年代前半、洋楽にもっとも接近した邦楽アーティストの一人。
とくにサーフ・ロックとの相性がよく、kalapanaやPabloCruiseの曲もよくカバーしていた。

■ Teenage Walk - 渡辺美里(シングル1986年リリース)

初期小室サウンドの名曲で、1986年渡辺美里5枚目のシングル。
イントロの意表をつく転調は、最初聴いたときはなにかの間違いかと思った。
この難曲を破綻することなく歌いこなせる渡辺美里は、やっぱり実力派だと思う。

■ With You - 須藤薫(シングルc/w1993年リリース)

1979年「やさしい都会」(作詞:荒井由実、作曲:筒美京平)でメジャーデビュー。
ユーミンの1980年「SURF&SNOW」にコーラスで参加している。
大瀧詠一や杉真理などとも活動を共にし、当時のシティ・ポップシーンの一角を担う。
これは1993年リリースのシングル「小さな奇跡」のc/w曲。

■ 海になりたくて - 惣領智子(シングル1981年リリース)

東京都出身で国立音楽大学卒の実力派シンガーソングライター。
1991年に歌手の阿部敏郎と再婚し2002年に沖縄に移住。
これは1981年リリースのシングル曲で、当時のアダルトな空気感がよく表現されている。

■ I Wonder What You're Like - MARLENE(『Looking for love』1984年収録)

マリーンも1980年代の夏によく聴かれていた。
フィリピン・マニラ市出身のシンガーで19歳で来日し、1981年にメジャー・デビュー。
これは1984年『Looking for love』収録のミディアム曲で、バックのサウンドはほとんど洋楽。

■ Dream In The Street - 池田典代(『Dream In The Street』1979年収録)

シンガー池田典代の唯一のアルバム『Dream In The Street』(1979年)は、山下達郎、鈴木茂、佐藤博、岡沢茂らが参画したシティ・ポップの伝説的名盤となっている。
まぁ、この曲を聴けば、彼らのセンスがいかに優れていたかがいやでもわかる。

■ 天気雨 - 松任谷由実(荒井由実)

1976年リリースの名盤『14番目の月』収録の人気曲。
松任谷正隆プロデュースで、小気味のよいサウンドに初期ユーミン特有の透明感あるメロが乗るナイス・チューン。

■ 霧雨で見えない - 麗美(1984年)

1984年に松任谷正隆・由実夫妻の全面バックアップでデビューしたハーフのシンガー。
これは1984年リリースのユーミン作曲曲で、この当時のユーミンの才能の冴えが感じられる。

■ Morning Flight - 間宮貴子(『LOVE TRIP』1982年収録)

1982年に井上鑑、山下達郎バンドらが参加したアルバム『LOVE TRIP』をリリース。
当時はさほどメジャーではなかったが、最近のシティ・ポップブームで再評価が進み、とくに「真夜中のジョーク」は有名。
これは『LOVE TRIP』収録のミディアム曲。リズムの跳ね具合やブラスの入り方はまさに1982年。

■ 音楽のような風 - EPO(シングル1985年リリース)

EPOも最近のシティ・ポップブームで再評価が進んでいる。
これは1985年リリースの8枚目のシングルで彼女の代表曲。

■ Slow Nights - 亜蘭知子(『MORE RELAX』1982年収録)

長戸大幸、織田哲郎とともにBeingの創設に参加した初期所属アーティスト。
作詞家、エッセイスト、パーソナリティの活動で知られるが、シンガーとしての実力も一級品。
これは1984年リリースの『MORE RELAX』収録曲で、カシオペア(向谷実)サウンドに繊細で伸びのあるハイトーンがよく乗っている。

■ 世界でいちばん熱い夏 - プリンセス プリンセス(シングル1987年リリース)

コメント不要(笑)
プリプリを超えるガールス・バンドは未だに出ていないと思う。

■ Crystal City - 大橋純子

大橋純子も音楽通から評価の高いアーティスト。
1974年メジャー・デビューし、1970年代後半に多くのヒットを放つ。
この曲でも歌謡曲の範疇では語りきれない才能が聴いてとれる。

■ Fantasy - 中原めいこ (『2時までのシンデレラ-FRIDAY MAGIC』1982年収録)

1980年代前半、夏といえば中原めいこのイメージがあった。
巧みな作曲能力と甘さを帯びた独特の声質で人気が高かったが、1992年歌手活動を休止している。
近年のシティ・ポップブームで再評価が進んでいるひとり。
これは1982年リリースの『2時までのシンデレラ-FRIDAY MAGIC』収録曲で、ディスコとACが絶妙にバランスしている。

■ Candy - 具島直子 (『miss.G』1996年収録)

1996年にアルバム『miss.G』でメジャーデビュー。
曲調は1996年デビューにしてはグルーヴィーでアダルト。
声質も伸びやかで、オリジナルな雰囲気があり貴重な存在だと思う。
これは1996年の1stALBUM『miss.G』からのシングルカット曲。

■ 穏やかな夏の午後 - 今井優子 (『DISCLOSE』1994年収録)

1987年メジャー・デビューで、1990年角松敏生プロデュースのアルバム『DO AWAY』で注目を集める。
清楚なルックスと華麗なハイトーンが魅力で、アダルトなミディアムチューンが多い。

■ マイピュアレディ - 尾崎亜美(シングル1977年リリース)

作曲力に定評がある尾崎亜美の3rdシングルで、アレンジは松任谷正隆。
ゆらぐフェンダー・ローズの音色が、当時の「シティ・ポップ」の空気感を再現している。

■ 月のかほり - 夏川りみ(『てぃだ~太陽・風ぬ想い~』2002年収録)

※2000年代のシンガーですが、好きなので入れてみました。
沖縄県石垣市出身の日本を代表するハイトーン・シンガー。
メジャーデビューからの「南風」(2002/3)、「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」(2002/9)、「空の風景」(2003/3)、初期3枚のALBUMのできは抜群だった。
沖縄独特の音階や歌いまわしはそれほど強く出ておらず、さらりと明るい曲調に彼女の伸びやかなハイトーンが乗る内容は、まさに「ヒーリング・ミュージック」そのものだった。
これは「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」収録の清涼感あふれる佳曲。

■ Wind&Kiss - 桑江知子(『Mr.COOL』1980年収録)

沖縄出身、渡辺プロダクションからデビューしたシンガー。
「私のハートはストップモーション」(1979年)のイメージが強いが、アルバム曲を聴くと優れた声質とテクニックをもっていることがわかる。
最近では「シティ・ポップ」の流れで再評価も。

■ Fall In Love - 山根麻衣(『SORRY』1981年収録)

1979年ポプコンで入賞しメジャー・デビュー。
はやくから柳ジョージ、鈴木茂、向谷実、斎藤誠(サザン)、村田和人などと活動をともにし、アダルトでクロスオーバーな楽曲が多い。
多彩な人で、福山雅治のプロデュースも。
これは1981年リリースの2ndALBUM『SORRY』収録のミディアム曲。
クルーヴでアダルトなサウンドは、鈴木茂(g)、松下誠(g)、佐藤準(key)、山木秀夫(ds)などの参画が大きい。

■ 二人ぼっちのHeaven - 笠井紀美子(『PERIGO A NOITE』1987年収録)

1971年9月、日清カップヌードルのCMで人気を集めたが、米国をベースにジャズ/ACシーンで活動していたため、日本ではジャズ・シンガーのイメージが強い。
1998年音楽活動から引退。これは後期のレゲエまじりのスロー・チューン。

■ Squall - 松本英子(シングル1999年リリース)

1999年リリースのじつはさりげに人気曲。
福山雅治主演のドラマ『パーフェクトラブ!』の挿入歌として使用された、福山雅治作曲の名曲。
透明感ある美声が、メロディアスなこの曲によく合っている。

■ Behind You - 当山ひとみ(『Sexy Robot』1983年収録)

当山ひとみも1980年代前半、洋楽にもっとも接近した邦楽アーティストの一人だと思う。
中学2年まで沖縄で過ごしたという、バックグラウンドもあるかもしれない。
ゆったりしたAC系のMid~バラードに名曲多数。

■ 都会 - 大貫妙子(『SUNSHOWER』1977年収録)

コアな音楽好きから高い評価を得ている大貫妙子。
これは1977年の2ndALBUM『SUNSHOWER』収録曲。
当時すでにクロスオーバー(のちにフュージョン)という言葉はあったが、それを邦楽で具現化したもっとも早い作品のひとつだと思う。

■ Long Island Beach - 杏里/ANRI(『WAVE』1985年収録)

杏里屈指の名バラードで、当時ほんとうによく聴いた。
1980年代前半ならではの聴き飽きしない洒落たメロディーライン。ブライトだけど切なさも。


いくらでも湧いてきてキリがないので(笑)もうやめます。


■ なぜZ世代は40年前の日本の歌に夢中なのか?

↑ 別に「Z世代は40年前の日本の歌に夢中」でもないと思うけど、1980年代前半の曲がここまで再評価されるとは思ってもいなかった。


【関連記事】
■ ハイトーン女性ヴォーカルの夏歌25曲
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■ 天賦の才! 歌姫・佐久間彩加ちゃん

🩷佐久間彩加 20歳 記念SPワンマンライブ🩷



2024/11/3(日)
Yokohama mint hall(神奈川県横浜市)
[開 場] 11:20
[開 演] 12:00
全自由席 6,000円+ワンドリンク

席数はおそらく150~200
レア・チケットかも・・・。

2024/8/3販売開始
予約は→ こちらから

予約しました。
生バンドの彩加ちゃん、絶品なので楽しみ。


■ 配信ドラマ「見上げた空に、あなたを想う(#2 春)」主題歌 / 佐久間彩加


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2024/06/06 UP

■ 【カラオケバトル公式】唯一無二の中低音ボイス 佐久間彩加 歌唱まとめ

↑ これって、カラバトスタッフが編集してUPしたのか?
それだけ素晴らしい歌い手だということ。


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2023/05/31 UP

なぜかアクセスをいただいているので、動画を追加リンクしてみます。

■ 駅(竹内まりや)

名テイク。
彩加ちゃんが歌う竹内まりやの曲は名テイク揃い。さすがに難曲キラー。

■ カラオケ四天王の佐久間彩加ちゃん登場!! 極上の歌声をご堪能下さい!!

コミュニケーション能力が抜群だと思う。

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2023/03/27 UP

ついにU-18卒業ですね。
やっぱり最後の最後まで戦っていた。

【カラオケバトル公式】佐久間彩加:いきものがかり「SAKURA」(森アナイチオシ動画)


天賦の才のうえに努力家だから、まだまだ伸びていくのだと思う。
応援しています。

ps.
森香澄アナもカラバト卒業とのこと。
「森アナイチオシ動画」もなくなってしまうのかな?
Ai判定機、しばしば好テイクに低得点かますから、これをフォローしてくれる「森アナイチオシ動画」はとても貴重だった。

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2023-03-04 UP
↓「皆さまと一緒に戦ってきました」
本当に「戦う」という言葉がぴったりのパフォーマンスを繰り広げてくれた彩加ちゃん。
彼女のU-18卒業でひとつの時代が終わったような気がする。

いつかこのメンバーで、ふたたびバトルを繰り広げてほしい。



3月~4月にかけてワンマンライブが予定されています。
こちら

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2022/12/26 UP

2022/12/25放送のカラバト、優勝おめでとう。

予選、伊沢さんの高得点で、Ai機種で自身の最高得点出さなければ決勝行けない背水の陣。
でも、ここできっちり結果出すとはやっぱり勝負師だと思う。

サビパートの頭と二小節でどうしても赤バーが出て、これはむずかしいか? とも思ったけど、その他のポイントで伸ばして100点近い点数。

※もう一度聴き直してみたら、音程の外しは「ハンマリング」(わざと音符の半音下から発音を始めて表現力を高めるテク、バーは頭の0.5秒ほど赤になる)かもしれぬ。
だからあれだけ赤バー出しても点数に響かなかったのかも。
(赤バー多発のサビ部で、むしろ音程正確率が上がっている。)

ex.
3:19~ の降メロ(瞬きするほど~)、完璧にバーを黄色トレースしているのに、
3:36~ の昇メロ(聴こえる?)でビブラート&しゃくり絡みの赤バー規則的に出してる。
少なくともこのパートは「ハンマリング」だと思う。
ただしAi機種の裏加点要素がよくわからないので、「ハンマリング」がどこまで効いたかは不明だし、この子のフックあふれる声色からするとそもそも「ハンマリング」なんぞ(Ai採点じゃなかったら)不要な気もするが・・・。
(こういう些末なテクに、彩加ちゃんのような貴重な才能を費やさせるのもAi機種の罪のひとつだと思う。)

この子ほどAi機種ととことん戦った歌い手はいないと思うほど、テクニカル面でツボ押さえてる。
とくにビブラートのかましは、ほとんど芸術的。(54秒42回のボックス形B-2)
今回は「勝つべくして勝った」と思う。

■ 今回(Ai機種)↓
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:スピッツ「楓」/2022.12.25 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)


■ 以前の機種 ↓
【カラオケバトル公式】佐久間彩加 「未来予想図Ⅱ」DREAMS COME TRUE/2018.2.21 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)


■ Ai機種に打ち勝った?例
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:Crystal Kay「君がいたから」/2020.12.13 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)

歌い出しから前半は、”置きに行く” 唱いまわししていたと思う。
ところが、1:32~ 「強く 手を握りしめた」からモードを一気に変えて? Ai機種に打ち勝った?
(とくに「しめ」の全開ビブラート)

ただしこれでも99.870で、じっさいのところ今回これでは足りなかった。

以前のフックかましまくりのキレッキレな歌いまわしでは、Ai機種で100点近い高得点とれないこと重々わかった上で、あえて表現を抑えて丁寧に置きに行ってる?
だから、予選曲が「楓」になったんだと思う。

予選は本当に凄い表情をしてた。
そして織り込まれた感情の量がハンパじゃなかった。
それだけこの1曲に期するものが大きかったのでは。


荒牧さん、選曲ミスかも・・・
荒牧さんの実力、こんなもんじゃないでしょ。
この唱法だったら、倖田來未あたりの曲の方がはまっていたような感じがする。

■ 倖田來未 「あなただけが」を荒牧陽子のガイドボーカルで



荒牧さん、彩加ちゃん、オペラ魔女さんの決勝。ほんとうに見たかった。
ただし、自身の得意曲で・・・。
今回の決勝のシステムってなんなん?

歌い手と曲の相性って絶対にある。
それを決勝で有無を云わさず曲指定かけるとは・・・。
ほんとうにどうかしている。

彩加ちゃん、「恋人がサンタクロース」唱ったことないってコメントしてたけど、本当にそうなんだろうと思う。
「恋人がサンタクロース」のコード、ユーミンがターゲット層拡大を狙って意図的に平易なコード進行を仕組んだ曲だと思う。)

こういう音域の狭いUP曲って、彩加ちゃんならではの歌いまわしに合っていないから。
UP曲やるなら、もっとオクターブの広い、あるいはコード進行の複雑な曲の方がたぶんこの子の魅力が出る。
なんといっても希代の難曲キラーだから・・・。

それでも優勝はさすがの実力。
これをバネにして、志望校いけるといいね。


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今回思ったのは、海蔵さん、宮本さん、オペラ魔女さんなどの往年のウィナーは、みな曲の魅力を引き出して唱っていること。
だから単調にならず聴いてて飽きない。(点数はともあれ)

それとAi機種のナゾがますます深まった。
松浦さんにせよ吉田さんにせよ、これまででベストでは?というエモーショナルな好テイクをみせていた。
でも、点数はさほど伸びていない。
本人たちも納得いかない部分があったかもしれぬ。


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2022/03/25 UP

3/21のセトリです。

〔前半〕


01.Crystal Kay - 恋におちたら
02.夢の途中 - 来生たかお
03.あなたに - 安全地帯
04.J.BOY - 浜田省吾
05.三日月 - 絢香
06.Wonderland - iri
07.ふたりごと - RADWIMPS



(休憩)

〔後半〕


01.炎 - LiSA
02.Sweet Impact - BoA
03.悲しみにさよなら - 安全地帯
04.接吻 -kiss- - ORIGINAL LOVE
05.Best Friend - 西野カナ
06.Hello, Again 〜昔からある場所〜 - My Little Lover

〔アンコール〕
01.木蘭の涙 - スターダストレビュー



曲のバラエティ感が凄かった。
そして高音にさらに華と艶が出ている。
それになにを歌っても「佐久間彩加オリジナル」感。

「あなたに」「J.BOY 」「ふたりごと」「接吻 -kiss-」「Best Friend」がよかった。

・「あなたに」は、ファンのリクエスト曲。彩加ちゃんに曲調が合っていると思う。
・「J.BOY 」は、お父上のリクエストとのこと。1986年ならではの16ビートバックビートのグルーヴ曲。
 彩加ちゃんの世代がこんな曲歌ってくれるとは・・・。しかもしっかり彩加オリジナルになってる。
・「ふたりごと」は、難符割、難音階のむずかしい曲。でも、こういう難曲の方が彩加ちゃんの真価が発揮されると思う。
・「接吻 -kiss-」は、スイングビート、‎Just The Two Of Us進行のオトナ曲だけど、見事に歌いこなしていた。拍手。
・「Best Friend」は、この前のカラバトで鈴木杏奈ちゃんに贈ったトリビュート曲。こういうエモーショナルな曲歌ったら敵なしじゃわ。

あと、↑には挙げてないけど「Sweet Impact」の発声が凄かった。
ファルセットやヒーカップを散りばめて、さらにいろいろなテクにトライしている。
ほとんど天才の域と思うのに、こういう努力を重ねているところがいいですね。

やっぱり「佐久間LIVE」面白かった。そろそろやっぱり生LIVEで生の声聴きたい。


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2022/03/21 UP

本日でしたね。
後日アーカイブじっくり視てからセトリなど入れます。

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2022/03/17 UP

■ 季節の訪れ(オリジナル) - 佐久間彩加



情報遅くてすみません。↓

● 佐久間彩加 第五回配信ワンマンライブ
2022.3.21(祝) 14:30~16:30 ツイキャス
アーカイブ、4/4まであり
「今回も…泣ける曲、盛り上がる曲とご用意致します✨」とのことです。

詳細は → こちら

チケ買いましたわ。
当日外出予定なので、アーカイブで視てセトリ入れます。


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2022/03/15 UP

■ サーカスナイト / 佐久間 彩加cover.

一気に大人びて・・・。でもまだ高校生なんだよね。

■ Lovin' You · Minnie Riperton

↑ なんかこの曲浮かんできた。
彩加ちゃんだったら、どうこなすんかな?

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2022/01/17 UP

この記事、急にアクセス数が増えたので、もしや、と思ったらやっぱりこれ ↓ か・・・。
すみませぬ。いそがしくてカラパトの録画まだ視てないので・・・。

【カラオケバトル公式】佐久間彩加:浜田省吾「もうひとつの土曜日」/2022.01.16 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)

「もうひとつの土曜日」。そう来たか・・・。
1980年代にしてはベタなバラードで、一般人が歌うと冗長になりがちな難曲。
音色と歌いまわしに変化をもたせて、ラストまで一気に聴かせてしまう”歌ぢから”はさすがに佐久間彩加ちゃん。
でもって、優勝か。

今度はボカロ的なアップテンポ曲聴いてみたい。
きっともの凄いこなし、みせてくれると思う。

たとえば、こんなやつ ↓
■ 空奏列車 歌ってみた /めありー



■ [2015GP 優勝 佐久間彩加 様] やさしさで溢れるように/juju~カラオケ大会 グランプリ大会 首都圏カラオケバトル2015 GP~

これっていくつのとき?? 11歳? 小5?
聴き手を惹き込んでしまう音色の魅力は、すでにこの頃から。
やっぱり黄金の世代だ!

■ 空と君のあいだに 佐久間彩加

歌う前の不敵な微笑み。歌ってるときの勝負師的な表情。
そして完璧な”佐久間オリジナル”。なみの歌い手じゃないわ・・・。

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2021/05/10 UP

さっき放映してたカラバト。
彩加ちゃんの選曲は「STARS」(中島美嘉)。
曲調があっていると思うし、実際申し分のないできだったと思う。

このパフォーマンスで予選落ちは、正直いってどうなのかな???
このカラバト判定機の能力じゃ、変化自在で深みのある彩加ちゃんの歌唱はたぶん正当に評価できない。
(宇都宮聖くんの歌唱の評価も、この判定機じゃムリだと思う。この子もの凄い逸材では?)

ハイトーンのこなしがますます巧くなってるし、ニュアンスの込め方が抜群。そして洗練感がでてきている。
個人的にはいつか本格的なR&B聴いてみたい。

たとえば、こんなやつ ↓
Anita Baker - "Giving You The Best That I Got" [Official Music Video]


Toni Braxton - Un-Break My Heart (Official HD Video)


日本では「R&B=シャウト」あるいは「R&B=ホイッスルボイス」(笑) みたく思われてるけど、
本当のR&B系の名手って、こういうミディアム曲で真価を発揮すると思うし、
これまでこういう曲を歌いこなせそうかな? と思った歌手は(個人的には)日本には一人もいない。
彩加ちゃん(と加藤礼愛ちゃん)がはじめてかも・・・。

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2020/04/12 UP

4/3(土)の第4回配信ワンマンライブのセトリです。


〔前半〕
01.う、ふ、ふ、ふ、 - EPO
02.BLONDE - 中森明菜
03.優里 - ドライフラワー
04.カムフラージュ - 竹内まりや
05.駅 - 竹内まりや
06.六本木心中 - アン・ルイス
07.夢見る少女じゃいられない - 相川七瀬



(休憩20分)



〔後半〕
01.MOON - レベッカ(REBECCA)
02.ボヘミアン - 葛城ユキ 〔リクエスト〕
03.Story - AI
04.瞳がほほえむから - 今井美樹
05.春風 - Rihwa
06.Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜 - YEN TOWN BAND
07.たしかなこと - 小田和正

〔アンコール〕
01.星のかけらを探しに行こう - 福耳
02.FINAL DISTANCE - 宇多田ヒカル



声の圧が増して、しかも安定感が凄い。
なにを歌っても「佐久間彩加オリジナル」感。

「ドライフラワー」「駅」「Story」「Swallowtail Butterfly」「FINAL DISTANCE」がよかった。
とくに「ドライフラワー」と「駅」。
エモーショナルな難曲で、彩加ちゃんの天才ぶりが際立つ感じがする。

それにしてもスタジオライブ状況で、これだけの感情移入できる力量って、やっぱりただものじゃないと思う。

駅【佐久間彩加】


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2020/04/06 UP

4/3(土)の第4回配信ワンマンライブ、なんとまたしても見逃しました(笑)

さきほどチケット買ったので、アーカイブ(4/17まで)視て後日セトリをUPします。
チケ購入は→こちら

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2021/03/09 UP




このところやたらに忙しかったので、さきほどようやくセトリとりました。
↑ スクショも時間がなかったのでいまいちかも。すみませぬ。

〔前半〕
01.SAKURA - いきものがかり
02.本当の恋 - May J.
03.元気を出して - 竹内まりや
04.Hero - さなり
05.ORION - 中島美嘉
06.夢見る少女じゃいられない - 相川七瀬
07.あゝ無情 - アン・ルイス
08.unlasting - LISA

〔後半〕
01.誰より好きなのに - 古内東子
02.イエスタデイ - Official髭男dism
03.366日 - HY
04.あなた - 宇多田ヒカル
05.あなたに会えてよかった - 小泉 今日子
06.トイレの神様 - 植村花菜

〔アンコール〕
僕が死のうと思ったのは - 中島美嘉

「unlasting」「誰より好きなのに」「イエスタデイ」「あなた」「僕が死のうと思ったのは」がよかった。
とくに「あなた」と「僕が死のうと思ったのは」。
どれも難曲だけど、こういう曲で彩加ちゃんの真価が発揮される気がする。

「僕が死のうと思ったのは」は、歌詞はシリアスだけど曲調はアップビートのグルーヴ曲でバックのキーボードがよく効いている。
こういうシンプルでお洒落な曲調、歌い崩せるしすごく向いていると思う。
「僕が死のうと思ったのは」聴いてて、やにわに佐野元春のバラッドを想い起こした。
自分でもどうしてかわからないけど・・・。

Heart Beat/小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド - 佐野元春(LIVE 1983)


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2021/02/28 UP

2/23(火) 14:30~の「第3回 佐久間彩加 配信ワンマンライブ」、うかつにも見逃しました。
先ほどチケ購入したので、後ほど視聴してセトリ上げます。
3/9(火)まで視聴できます。
見逃した方は→こちらから。

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2/21放映のカラオケバトルの「超絶ハーモニー連発・最強デュエット王決定戦!」、彩加ちゃんが名演してたので、Blog内マルチポストですが載っけてみます ↓

〔 予選 〕
■ life AAA - 佐久間彩加 / 鈴木杏奈

このふたり、初コラボ?? 超面白かった。
アニソン歌手?らしく、杏奈ちゃんがかなりヒーカップかましてる。
ビブラート、19秒、61回のD型(上昇型)。
このふたりはまずほとんどボックスB-2型で、D型はみたことがない。
ビブラートが干渉したのかも・・・。でも不安定感はまったくなし。

〔 決勝 〕
■ ハッピーエンド - 佐久間彩加 / 鈴木杏奈

0:47~ 最後は嘘になって (杏奈ちゃんの中低音)
2:08~ もう離さないで (彩加ちゃんのハイトーン)
杏奈ちゃんがハイトーン、彩加ちゃんが中低音ってパート振られてたけど、↑ 聴くとそんなこと全然ないと思う。

ハモリ部、ふたりの声がはっきり聴き分けできるのに、絶妙にハモってる。
実力に裏付けられたオリジナルな個性が際立っているので、共演してもブレることがない。
それぞれの個性がぶつかって、新しいなにかを生み出しそうな予感ばりばり。

またまたいまごろ言っても詮ないことだけど、一度でいいから「U-18プロジェクト」もやってほしかった。
堀優衣ちゃん、鈴木杏奈ちゃん、佐久間彩加ちゃん、熊田このはちゃん、原藤由衣ちゃんあたりで・・・。

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2020/12/31 UP

佐久間彩加ちゃん配信ライブ
『大晦日~ツイキャスプレミア配信ワンマン』のセトリです。

〔前半〕
01.雪の華 - 中島美嘉
02.ゲレンデがとけるほど恋したい - 広瀬香美
03.雪のクリスマス - DREAMS COME TRUE
04.あの頃へ - 安全地帯
05.なごり雪 - イルカ
06.炎(ほむら) - LISA
07.あなた - 宇多田ヒカル
08.夢見る少女じゃいられない - 相川七瀬

「炎(ほむら)」 と「あなた」がよかった。
「あなた」みたいな難曲をこなしていくのが、彩加ちゃんLIVEの醍醐味だと思う。
「炎(ほむら)」はやっぱり名曲。これから多くの歌姫を育てていく歌では。

〔後半〕
01.夜空のムコウ - SMAP
02.NAO - HY
03.Aitai - 加藤ミリヤ
04.ドライフラワー - 優里
05.プラスティック・ラブ - 竹内まりや
06.Everything - MISIA
07.流星群 - 鬼束ちひろ
08.遠く遠く - 槇原敬之

〔アンコール〕
木蘭の涙 - スターダスト レビュー

後半、エモーショナルな曲が多くて聴き応えがあった。
一見、あっけらかんとして見えるけど、繊細な感受性と強いきもちを持っているのだと思う。
だから、こんなにこころに響く歌が歌えるのでは。

それと「プラスティック・ラブ」にはびっくり。
もともと広い曲幅が、さらに広がっているような。

来年は、カラバトU-18の面々のますますのご活躍をお祈りします。

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2020/12/29・2019/12/16 UP

チケットゲット!
まだ販売中なので、ぜひ。

佐久間彩加ちゃん配信ライブ
『大晦日~ツイキャスプレミア配信ワンマン』
2020.12.31(木) 14:30~16:30(アーカイブ2021.1.14まで)
チケット販売中です。(2,500円+手数料)
詳細は→こちら

難曲ほど燃える感ばりばり。セトリが楽しみ。

ちなみに、10/25の配信ライブのセトリは ↓ (数曲抜けあるかも・・・)
・手をつなごう - 絢香
・奏(かなで) - スキマスイッチ
・流星群 - 鬼束ちひろ
・夢見る少女じゃいられない - 相川七瀬  
・あゝ無情 - アン・ルイス
・初恋 - 村下孝蔵
・香水 - 瑛人
・U&I(ユーアンドアイ) - Ailee(エイリー)
・白い恋人達 - 桑田佳祐
・If 〜I know〜 - EXILE
・ピエロ - 上木彩矢
・God knows - 涼宮ハルヒ

・季節の訪れ - 佐久間彩加(オリジナル)
・かくれんぼしてる君に - 佐久間彩加(オリジナル)

・トイレの神様 - 植村花菜

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(blog内マルチポストですが、入れときます。)
先ほど放送してた12/13放送のカラバト、やっぱりまたしてもU-18の強さを物語る内容だった。
黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)

優勝した佐久間彩加ちゃん、凄かった。
予選の「奇跡を望むなら...」は、2020.11.1 OAの「風が吹いている」と似たような歌いまわしだったと思う。
精密機械のように冷静に、淡々と置きに行く歌い方。
これで99.664で決勝に・・・。

決勝の「君がいたから」。
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:Crystal Kay「君がいたから」/2020.12.13 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)

歌い出しから前半は、「風が吹いている」や「奇跡を望むなら...」と同じ歌いまわししていたと思う。
ところが、1:32~ 「強く 手を握りしめた」からモードが一気に変わったような感じがする。
(とくに「しめ」の全開ビブラート)
いつもの「佐久間モード」に入ったら、もう「置きに行く」歌い方には戻れないと思うし、実際戻っていない。

さすがに我慢できなくなったのかな(笑)。
後半~ラストはほとんど「佐久間モード」全開でDIVA状態に・・・。
結果は99.870で優勝。
しかし、決勝でこんな超難しい曲選んで、しかも途中で歌い方変えて(?)優勝とは、やっぱりこの子ただものじゃない。

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2019/11/02 UP

昨日放送のカラバト、やっぱりU-18世代レベル高いと思った。
下尾礼子ちゃん、いいパフォーマンスだったけど残念。

佐久間彩加ちゃん、優勝おめでとう!

予選:ア・イ・シ・テ・ルのサイン ~わたしたちの未来予想図~
決勝:風が吹いている

決勝は、Ai判定機最高得点の99.8点台ゲット。
これです ↓
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:いきものがかり「風が吹いている」 /2020.11.1 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)

こんなに慎重に歌ってる彩加ちゃん、はじめてみた。
バーの上に歌声を置きに行ってる感じか。
おそらく、意識的に声色の幅と声の広がりを絞ってると思う。
それと、予選曲のビブラート回数18回にもびっくり。ここまでビブラートを抑えたテイクも聴いたことがない。

でも、Ai判定機で勝つためには、これしかなかったのだと思う。

↓ も声色が暴れにくい曲だけど、これだけ多彩な声色とビブラートを繰り出してるのが、↑と聴き比べてみるとよくわかる。
【カラオケバトル公式】佐久間彩加 「未来予想図Ⅱ」DREAMS COME TRUE/2018.2.21 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)


勝ちに行くために、あえてこういうテクニカルな戦略とれる才能って、やっぱりただごとじゃないと思う。
(でも、個人的にはLIVEの歌い方のほうが好きだけど・・・(笑))

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2019/10/26 UP

15:00~ LIVEで聴く予定だったけど、急な用事が入って聴けず、さきほどアーカイブでざっくり聴いてみました。
配信LIVEはこれができるからいいですね。

配信LIVEは観客のリアクションがないので、けっこうやりにくいと思う。
でも面白い内容だった。

個人的にとくに面白かった曲は、

■ 手をつなごう/絢香 20:55~

この曲で表情と左手のうごきが変わった感じがある。
彩加ちゃん、調整気味のときは、ちょっと迷ったふうの表情になるし、乗ってきたときはキレのある勝負師的な眼になる感じがする。
それと、左手の動きがしなやかになってきたときは、声も乗ってる感じがする。
この曲では、勝負師的な眼としなやかな左手の動きがあった(と思う)。
声のつくり方が絢香より多彩なので、オリジナルよりも変化に富んだ仕上がりになっていたと思う。

■ 流星群/鬼束ちひろ 32:30~

富金原佑菜ちゃんの「流星群」凄いけど、彩加ちゃんの流星群も凄い。
こういうメロディーの輪郭がはっきりした曲、ほんとに巧い!
鬼束ちひろって、カラバトU-18世代(黄金の世代?)育てた一人だと思う。

■ 香水/瑛人 1:15:16~
テクがないとふつうにお経になる曲調。
これだけ変化のある曲に仕上げられるとは、やっぱり「声色の魔術師」だと思う。
それにしてもこの曲って、YouTubeの再生回数1億回超えなんだ。ふ~ん・・・。

■ 白い恋人達/桑田佳祐 1:23:36~
音幅の広い曲。もの凄く複雑な発声でこなしていて面白かった。
それと、サビ部分の高音の伸び。
ヒーカップでもファルセットでもなく、ひっくり返すようにたおやかなハイトーンが出てくるこの発声ってなに?

■ かくれんぼしてる君に/佐久間彩加(オリジナル) 1:43:25~

この曲むずかしいわ・・・。
でも、このくらいの曲の方が、彩加ちゃんの才能が活きるような気もする。
いくつもの声色を紡ぎあわせていくような歌いまわし。
並みの才能でできるワザじゃないと思う。

それと、アップテンポ系では、ピエロ/上木彩矢、アンコールのトイレの神様もしみじみとよかった。
ときおり聴けた、スキャットやフェイクが凄く気になったので、もっとばりばりかましてくれるとさらに面白くなるかも(笑)

まだざっくりとしか聴いていないので、気になるところがあったら追記します。

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2019/10/16 UP

佐久間彩加ちゃんの配信ライブ(初めてのツイキャスプレミア配信)情報です。
『佐久間 彩加 16th 〜Anniversary Live〜』
2020.10.25(日) 15:00~17:00
11/8までアーカイブ視聴可能 fee:2,500円
詳細は →こちら

もちろん購入しましたよ。この子のLIVEすごく面白いもん。

驚愕のテイク ↓
■ やさしさで溢れるように【佐久間彩加】

完璧なオリジナル化。すでにDIVAの貫禄!

■ 空と君のあいだに 佐久間彩加

ほんとにこの曲めちゃくちゃ合ってるわ。
もはや点数気にしてない感あり。音楽の面白さを実感させてくれるパフォーマンス。

はじめて作詞したオリジナル曲。↓
■ 『かくれんぼしてる君に / 佐久間彩加』music video


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2020/06/22 UP

「CDTVライブ!ライブ! 4時間生放送で完全復活! 」、さっきまで視てたけどちょっと抜け出してきました(笑)
こういうLIVEってどんどんやってほしいんだけど、スタジオライブは誤魔化しがきかず、いろいろ見えて(聴けて)しまうからな~。
ある意味こわい。

佐久間彩加ちゃんが名唱を残している曲が何曲か歌われていたので、聴き比べしてみました。
たとえば ↓こんな曲。 
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:YEN TOWN BAND「Swallowtail Butterfly~あいのうた~」/2018.9.12 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)


やっぱり凄い、このオリジナル感。
歌にぐいぐい引き込まれてく。
音楽の楽しさすばらしさをストレートに伝えてくれる希有の才能。

こういうすばらしい才能が、もっともっと広く聴かれていくような ”場” がほしい。
この子のLIVE、まじで凄かったから・・・ ↓

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2019/12/21 UP

 
 


カラバトの上位陣はだいたい生(LIVE)で聴いているのですが、佐久間彩加ちゃんは未聴。
ようやく本日聴いてきました。

■‏2019.12.21 新宿21世紀 生バンド 佐久間彩加 2回転ワンマンライブ
昼と夜の2回転で、夜の部に行きました。

昼夜で計30曲以上も歌うという耐久LIVE。
しかし、夜の部のラストでも全然声の勢いが落ちていない。
でもってアンコールは2曲!
どんだけ強い声帯持ってるんだ(笑)

すでにプロアーティスト的なオーラをまとっていて、ほんとに彼女中学生??
ふつう中学生クラスだとどうしてもバックに飲まれがちになるけど、この子はバックを従えている感ばりばり(笑)
多彩な声色持っているので曲幅が広く、エンタメ的にも面白いステージでした。

カラバトでも中低音の声の深みやフックのあるビブラートは堪能できたけど、LIVEとなるとやっぱり違う。

とくに高音。
LIVEの出だしは「やっぱりハイトーンのメインはファルセットか?」と思ったけど、中盤から飛ばしてきて、フラジオレットやヒーカップ含むいろいろなパターンのハイトーンを縦横無尽に繰り出してた。
とくにあでやかに開いていく感じのハイトーンがあって、これは絶品。
(裏声系ではない。ミックスボイスかとも思うが、それらしくない質感もあってよくわからず・・・。)

来年1月にリリース予定のCD収録のオリジナル曲2曲をアンコールで演ったけど、ハイトーン寄りの曲調。
やっぱり高音にも相当自信があるのだと思う。

それと、彩加ちゃんのビブラートって、たぶん1/fゆらぎ入っていると思う。

個人的なベストは、Jupiter(平原綾香)。
リズムの立ったJupiterで、これは生バンドならでは。
色気と深みのある低音から、↑で書いた「あでやかに開いていく感じのハイトーン」までの引き上げは信じられない展開。
まさに声色の魔術師!
前にも書いたけど、こんなの意識して出せるとは思えないから、たぶん天性のものだと思う。だから天才。

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熊田このはちゃんフリークとしては、どうしてもこのはちゃんと比較してしまう(笑)
両者の個性はかなり対照的で、このはちゃんが持っていないものを彩加ちゃんが持ち、彩加ちゃんが持っていないものをこのはちゃんが持っていると思う。
具体的にいろいろ思い当たったけど、これは安易には書き散らせないので、確信をもてたら後日書いてみます。

それにしても、カラバトU-18世代の実力おそるべし!
やっぱり彼女たち黄金の世代では? → 黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)


次回のワンマンLIVEは↓ チケット発売中とのことです。(オリジナルCDもその時発売)
⚪2020.1.19 新宿ARISE舞の館 2回転和装ワンマンライブ → 情報
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■ 左手マイクの美声ヴォーカル

柴山サリーの記事でも書いたけど、なんか好きなんだよねー、左手マイク持ちの美声ヴォーカル。

そこで、今回はこの視点から書いてみます。

左手マイクが気になったのは熊田このはちゃんから。
それまではマイクの持ち手なんてあまり気にしてなかった。

このところ個人的にヘビロテしてる柴山サリーが左手マイクで、その視点から改めて見てみるとけっこう面白い。


■ 熊田このは 花束を君に

持ち手はほぼ左手。右手を添えることはあるけど、右手持ちはほとんどない。
このリズムブレーク的難曲を、右手でリズムを押さえるように歌いこなしている。

■ 柴山サリー ZARD 揺れる想い マイ フレンド 異邦人 遠い日のNostalgia 負けないで 歌ってみた ライブダイジェスト

確認した限りではほぼ左手持ち。

■ 坂井泉水(ZARD) 負けないで (What a beautiful memory 〜forever you〜)

マイクスタンド使用曲でもマイクに左手当ててるので左手持ちだと思う。

■ KOKIA   / 孤独な生きもの【OTO NO TABI BITO #20】

確認した限りではほぼ左手持ち。
右手の表現力がすごい。

■ 持田香織(Every Little Thing) 「Over and Over」

確認した限りではほぼ左手持ち。

■ 加藤礼愛 :平原綾香「Jupiter(Little Glee Monster ver.)」(森アナイチオシ動画)

加藤礼愛ちゃんもほぼ左手持ち。

■ 【絶対女王・新妻聖子🎤「白日」歌唱動画】関ジャニ∞のTheモーツァルト音楽王No.1決定戦

新妻聖子はほぼ左手持ちとみられる。

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昔のアイドルはたいてい左手持ちだったらしい。

■ キャンディーズ 微笑がえし

キャンディーズは全員左手持ち。

■ 岩崎宏美 聖母たちのララバイ

岩崎宏美は左手持ちといわれているが・・・。
右手持ちテイクもある ↓

■ 岩崎宏美 - 聖母たちのララバイ - 1982


■ 森 昌子 越冬つばめ  1984 Masako Mori Ettoh-Tsubame

左手持ち。演歌は左手持ちメイン説あるが、意外に少ない模様。
それにしても歌うまいわ・・・。

■ 安室奈美恵 Hero / (ライブ編集)

安室奈美恵はどちらもいける感じがする。

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昔のアイドルは左手持ちのレッスンを受けたらしい。
これはおそらく、利き手の右手で振りをつけられるため。

じっさい、いまもハロプロはほとんど左手持ち。
マイクの持ち方~ハロプロ研修生編~

でも、山口百恵をはじめ歌が上手いといわれるアイドルが右手持ちか、右手持ちに変えていったことから、「右手持ち=本格派歌手説」が生まれる。

■ 中森明菜 DESIRE -情熱-

代表的な右手持ち本格派。

■ 華原朋美  LOVE BRACE(2013/11/25 NHKホール)

一貫して右手持ちだと思う。

■ 西野カナ『君って』 Live Performance-Kana Nishino “Kimitte”

西野カナは一貫して右手持ちだと思う。

確かに歌の上手いシンガーに右手持ちは多く、「右手持ち=本格派歌手」説を信じたくなる。
でも、ほんとうにそうかな・・・。

左マイクの意義
↑ の記事によると、「右マイクだと体が強ばるというか力んで歌う感じになるように感じます。」とのこと。
だから、ここ一番の熱唱の場合は両手持ちの人も右手持ちになるのかもしれぬ。

それと、気のせいかもしれないが、左手持ちのシンガーはブレスどりが巧いような気がする。
力まずに、8分目の力加減で歌えるからかもしれぬ。

左脳と右脳の違いから語る人もいる。
左脳は右手の動き、右脳は左手の動きを司るという。

「右脳」と「左脳」の働きの違いと、それぞれの鍛え方
↑ の記事によると、「数学・音楽・美術など、イマジネーション(想像)が重要な教科では、『「空間認知』や『イメージ』を司る『右脳』の働きが大切になります。」とのこと。

だから、左手(右脳)持ちのシンガーの方が、イマジネーション豊かな歌を生み出すという説もある。
筆者としてはなんとなく、この説を信じたくなる。(むろん右手持ちにも好きなシンガーはたくさんいるが)


また、ペアの場合、右手持ち&左手持ちの方がビジュアル的に変化がでると思う。

■ 熊田このは&富金原佑菜  打上花火 DAOKO X 米津玄師

熊田このはちゃんが左手持ち、富金原佑菜ちゃんが右手持ち。

■ 堀優衣&小豆澤英輝 :コブクロ「蕾」/2021.2.21 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)

堀優衣ちゃんが左手持ち、小豆澤英輝君が右手持ち。

カラバトU-18世代では堀優衣ちゃんと熊田このはちゃんがほぼ左手持ち。
鈴木杏奈ちゃん、原藤由衣ちゃん、佐久間彩加ちゃん、三阪咲ちゃん、富金原佑菜ちゃんがほぼ右手持ち。
だからユニットを組んだらバランスがとれていたと思う。


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次に梶浦由記さんのユニットをみてみました。
ユニットも両方いた方がバランスがいい感じがする。

■ Kalafina - Mirai 未来

KEIKOとWAKANAが右手持ち、HIKARUが左手持ち。

■ FictionJunction  Everlasting song

KEIKOとWAKANAが右手持ち、貝田さんとKAORUが左手持ち。

■ Yuki Kajiura(FictionJunction) - Open your heart (live)

KEIKOが右手持ち、貝田さんとKAORUとWAKANAが左手持ち。
KEIKOはほぼ右手持ち、貝田さんとKAORUはほぼ左手持ちだけど、WAKANAは曲調やパートによって使い分けている模様。
ゆったりとしたヨコのり曲やコーラスメインの曲は左手持ちになる感じがする。

■ FictionJunction(現) 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」

KEIKOが右手持ち、貝田さんとKAORUとJoelleが左手持ち。


■ FictionJunction+Kalafina+YUUKA - Angel Gate

KEIKOとWAKANAが右手持ち、貝田さんとKAORUとHIKARUとYUUKAが左手持ち。
途中からオーラスまでKEIKOとWAKANAも左手持ちに。

■ 梶浦由記(FictionJunction)+Revo (Sound Horizon) 砂塵の彼方へ....

KEIKOがめずらしく右手持ち、2:35~のWAKANAのソロパートは右手持ち。
後半はほぼ全員左手持ち。オーラスの”右手振り”に備えている感じがある。
FictionJunctionにしてはめずらしい展開。

こうしてみると、やはり”振り”は右手(左手持ち)の方が決まりやすいのか。

さすがにマニアック過ぎるとも思いますが(笑)、新ネタがみつかったら追加していきます。
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第12番 西方山 安養院 九品寺
(くほんじ)
葛飾区堀切6-22-16
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第58番、荒綾八十八ヶ所霊場第78番

第12番は葛飾区堀切の九品寺(安養院)です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

九品寺は、建久四年(1193年)宥真法印が創建と伝わる真言宗の古刹です。
しかし享和二年(1802年)および明治元年の火災と幾たびかの水害で記録類を散失して縁起由緒は定かではありません。

山内には九品仏が安置され、こちらが寺号の由来となっているとの由。
現在の本堂は、昭和35年造営されたものです。

古刹の九品寺ですが、史料・資料類が少なく、この程度しか辿れませんでした。

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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(下千葉村)九品寺
同末(青戸村宝持院末) 西方山安養院ト号ス 開山宥真 建久八年(1197年)六月二日寂ス 本尊彌陀

『葛飾区寺院調査報告 上』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
九品寺
真言宗豊山派。西方山安養院と号し、もと青戸宝持院の末。
当寺は付近の普賢寺とともに区内有数の古刹。
寺伝によると、建久四年(1192年)2月、宥真法印によって創立されて以来、八百年に近い法灯を伝えているが、一時荒廃し、また享和二年(1802年)および明治元年の火災と幾たびかの水害により、寺宝・記録散失して由緒不明。
ただし当寺の過去帳の奥書に、歴代住持とその没年が記録されている。
開山 法印宥真 建久八年(1197年)六月二日寂
(中略)
本堂以下建物も幾たびか再建されたが、現在の本堂は昭和35年5月の改築である。
寺宝
 阿彌陀如来像 江戸時代の作
 釈迦牟尼仏・十一面観世音地蔵二菩薩像 三軆とも同一岩座
 弘法興教両大師坐像 江戸時代の作


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最寄りは京成本線「堀切菖蒲園」駅で徒歩約10分。


【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 駐車場横の石佛群

区立東綾瀬小学校のすぐ南に、名刹らしい奥行きある山内を構えています。
寺域左手が広めの駐車場。
その隣に地蔵堂と石佛群(舟形光背の如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩)が御座します。



【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標-1

山内入口に寺号標。
門柱の向こう正面に本堂がみえます。
すっきりと整備されたいい山内です。


【写真 上(左)】 参道-1
【写真 下(右)】 寺号標-2

石畳の参道。右手は墓域で、少しく進むと左手にもう一基の寺号標があります。
その先には釈迦如来の誕生佛が立っています。
その対面にはめずらしい金剛歌菩薩の坐像が御座します。


【写真 上(左)】 釈迦如来の誕生佛
【写真 下(右)】 金剛歌菩薩

令和5年に開創された「四国阿波 八供養菩薩霊場」公式Webによると、金剛歌菩薩(こんごうかぼさつ)は八供養菩薩の一尊で「箜篌(くご=ハープのような楽器)を持ち、歌をもってマンダラの世界を彩る仏さま、ご真言は『オン バザラ ギテイ ギク』」とのこと。

箸蔵寺(徳島県三好市)の公式Webには「密教の修法を行う僧侶にとっては、実際のお花や灯りをお供えする(事供養)に併せて、八供養菩薩のご真言をお唱えする心の供養(理供養)は必ずといっていいほど用いられており、密教では欠かせない仏様」「八供養菩薩は大きく分けて、金剛嬉菩薩、金剛鬘菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩という、曼荼羅の中心におられる大日如来さまが自分の周りの四如来様を供養するために生み出された「内の四供養菩薩(ないのしくようぼさつ)」と、金剛香菩薩、金剛華菩薩、金剛燈菩薩、金剛塗菩薩という、今度は四如来さまの方から先ほどのお返しに大日如来様を供養するために生み出された「外の四供養菩薩(げのしくようぼさつ)」という二つのグループから成り立っています。」とあります。

「四如来」とは胎蔵曼荼羅の中心・中台八葉院の四方に御座す(東)宝幢如来、(南)開敷華王如来、(西)無量寿如来、(北)天鼓雷音如来と思われます。
大日如来と中台八葉院の四如来の「相互供養」にかかわる尊格と思われます。

八供養菩薩や金剛歌菩薩は仏像として拝することは希で、少なくとも筆者は初めてです。
ご真言がわかりませんので、光明真言をお唱えしました。

こちらは、『有楽町で逢いましょう』、『潮来笠』、『いつでも夢を』などを生み出した作詞家の佐伯孝夫(明治35年-昭和56年)の菩提寺なので、そのゆかりで奉安されているのかも。

■ いつでも夢を - 橋幸夫・吉永小百合 / 1962年(昭和37年)

高度成長期のこの頃のヒット曲ってほんとうに明るく、夢にあふれている感じがします。



【写真 上(左)】 参道-2
【写真 下(右)】 三尊


【写真 上(左)】 延命地蔵菩薩
【写真 下(右)】 修行大師像

さらに進むと左手に延命地蔵菩薩倚像、阿弥陀如来坐像、修行大師像の三尊が並んで御座します。
参道右手には六地蔵尊に金佛の聖観世音菩薩立像。


【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 観世音菩薩


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

昭和35年改築の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
堂前に金灯籠一対、十三重石塔一対を配した堂々たる本堂です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 横からの向拝

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に本蟇股を置き、真言宗豊山派の宗紋「輪違紋」を染め抜いた紫の向拝幕を巡らせています。
見上げには寺号扁額。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 九品仏

本堂向かって右手奥は墓域で、その前に石佛坐像の九品佛が安されています。
そのさらに奥の墓域入口には、佐伯孝夫の『いつでも夢を』の歌碑がありました。

御朱印は本堂向かって左奥の庫裏にて拝受しました。


〔 九品寺の御朱印 〕



中央に「阿弥陀如来」の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(火焔宝珠)。
左上には「荒綾第七十八番」の札所印。
右下には寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

御朱印は荒綾霊場第78番の一種類で、隅田川霊場の御朱印は出されていないとのことでした。


■ 第13番 牛頭山 弘福寺
(こうふくじ)
公式Web

墨田区向島5-3-2
黄檗宗
御本尊:釈迦如来(釈迦牟尼佛)
札所本尊:
司元別当:
他札所:大東京百観音霊場第31番、弁財天百社参り第84番、隅田川七福神(布袋尊)、墨田区お寺めぐり第16番

第13番は墨田区向島の弘福寺で、黄檗宗の名刹です。
弘法大師霊場で黄檗宗の寺院が札所となっている例はきわめて希で、この点からも隅田川二十一ヶ所霊場と隅田川七福神の関連がうかがわれます。

公式Webをメインに、適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。

延宝元年(1673年)、黄檗宗(派)第2代木庵性瑫禅師の弟子・鐵牛道機禅師は、葛飾郡須田村香盛島にあった香積山弘福寺を黄檗禅の寺(宇治萬福寺の末寺)として葛西一族(江戸氏一族の牛島氏とも)の城址に遷し、牛頭山弘福寺と号したといいます。

山号の「牛頭」とは、当時隣接していた牛嶋神社の御祭神、須佐之男命の別称が牛頭天王で、古くから地主神として祀られていたことによると伝わります。

開山は鉄牛道機禅師、開基は小田原城主稲葉正則。
鉄牛禅師(1628-1700年)は石見國(島根県)(長門とも)出身の黄檗宗の名僧で号は自牧子。諡号は大慈普応国師。

因幡龍峯寺(鳥取市)で修行後、隠元隆琦禅師に参禅し宇治黄檗山萬福寺創建にかかわりました。
隠元禅師の高弟・木庵禅師に師事して、その法統を嗣ぎました。

教禅一致の教化につとめ、洛西の葉室山浄住寺を中興、小田原藩主稲葉正則の招きで関東に入られ紹太寺、江戸弘福寺などを開山されています。

仏道だけでなく、印旛沼や手賀沼干拓などの社会事業にも注力し、稲葉正則に働きかけて町人請け負いの新田開発を進めるなど、行動力に富んだ禅僧と伝わります。

開基の稲葉正則(1623-1696年)は、江戸時代前~中期の譜代大名で小田原藩2代藩主です。

稲葉氏は伊予の豪族・河野氏(伊予橘氏)の一族(異説あり)とされ、戦国期の当主良通(一鉄)は安藤守就・氏家卜全とともに「西美濃三人衆」と称され西美濃で勢力を振るいました。
斎藤道三から織田信長麾下に転じ、本能寺の変ののちは豊臣秀吉に仕えました。

良通の嫡子・貞通は関ヶ原の戦いで東軍に転じて武功をあげ、美濃郡上藩4万石から豊後臼杵5万余国の大名となりました。
良通の庶長子・重通も美濃清水1万2千石の大名となり、その家督は稲葉氏の一族尾張林氏より婿養子に入った正成が継ぎ、これより正成の系譜は正成系稲葉家と呼ばれます。

正成の継室の春日局が徳川3代将軍家光公の乳母となったため、正成の子正勝が下野真岡藩4万石から相模小田原藩8万5千石へと栄転し、老中も務めました。

稲葉正則は正勝の次男で相模小田原藩2代藩主となりました。
家督相続時は幼少のため大伯父(春日局の兄)・斎藤利宗の補佐を受け、後に父方の従兄で幕政の有力者・堀田正盛が後見人を務めたこともあり、幕閣内で重きをなし、老中、大政参与まで進み「元老」と称されて、4代将軍家綱公の文治政治を担ったといいます。

伊達家、毛利家の支援・後見も務めるなど、外様系大名にも大きな影響力をもったといいます。

明暦三年(1657年)の明暦の大火を契機に、万治元年(1658年)幕府直轄の消防組織・定火消が制度化され、万治二年(1659年)1月、稲葉正則率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげました。

これは「出初」(でぞめ)と呼ばれて後に制度化され、その伝統はいまも各地の消防の「出初式」として受け継がれています。

稲葉正則は仏道、ことに黄檗宗の信仰篤く、鐡牛禅師を招いて小田原紹太寺を開基、江戸では弘福寺の開基となっています。

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黄檗宗(おうばくしゅう)は、明末清初の禅宗の仏教僧隠元隆琦(いんげんりゅうき、1592-1673年)禅師が来日して開いた禅宗の一派です。
黄檗宗大本山萬福寺の公式Webなどから沿革を追っています。

明国の福建省に生まれた隠元は若くして仏道に発心、29歳で福建省福州府の黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度し、35歳で黄檗山の費隠通容から印可を受けて萬福寺住持となりました。

当時、長崎には明朝の動乱から逃れて多くの中国人が渡来し、福州出身者を中心に興福寺、福済寺、崇福寺(いわゆる長崎三福寺)が建てられました。
うち崇福寺の住持に空席が生じ、渡日していた興福寺住持の逸然性融によって、承応三年(1654年)63歳の隠元禅師は日本に招請されました。

来日した隠元禅師のもとには、明禅の新風と隠元の人柄を慕う僧や学者たちが集まり活況を呈したといいます。
隠元禅師は当代一流の文化人・知識人として知られ、隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚なども禅師が請来されたと伝わります。

来日は当初三年間の約束でしたが、妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇の崇敬を受け、龍渓禅師が4代将軍家綱公との会見の場を設け、万治三年(1660年)山城国宇治郡に寺地を賜り、翌年、禅刹を開創して中国の自坊と同じ黄檗山萬福寺を号しました。

翌順治十二年(1655年)隠元禅師は中国黄檗山から名僧・木庵性瑫禅師を招いて長崎・福済寺の住持とし、寛文元年(1661年)木庵禅師は宇治の黄檗山萬福寺に入りました。

寛文四年(1664年)、隠元禅師は後席を木庵禅師に譲り松隠堂に退きました。
寛文十三年(1673年)、隠元禅師は後水尾法皇から「大光普照国師」の特諡を認められたのちに示寂。世寿82歳といいます。

黄檗禅の法統を嗣いだ木庵禅師は寛文五年(1665年)、江戸にくだり4代将軍家綱公に謁見して優遇され、紫雲山瑞聖寺を初め十余寺を開創し、将軍より紫衣を賜っています。
以降も、黄檗禅と徳川将軍家との関係は良好だったといいます。

隠元隆琦禅師の禅(黄檗禅)は、鎌倉時代中期の臨済宗(混淆禅)の僧・円爾(えんに/聖一国師)の師である無準師範や、明禅の費隠通容禅師の法系を嗣ぐ臨済禅とされ、臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗ったともいいます。

江戸時代もこの状態がつづいたとみられますが、明治7年明治政府が禅宗を臨済・曹洞の二宗と定めたため、明治9年禅宗の一宗、黄檗宗として独立しました。

しかし、臨済禅と黄檗派の関係は密接で、いまでも臨済宗・黄檗宗共同の公式Web(臨黄(りんのう)ネット)が運営されています。

宗風は、明禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映した混淆禅とされています。(Wikipediaより)

黄檗派は当初から茶道や料理との関係が深く、中国風の普茶料理はよく知られています。
また、黄檗派は大本山・黄檗山萬福寺の当初の住職の多くが中国から渡来ということもあり、中国風の様式を色濃く残しています。

文化面でも独特な新味があり、幕府の外護もあって複数の大名家や文化人の支援を得、鉄眼道光(1630-1682年)らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めました。
延享二年(1745年)の『(萬福寺)末寺帳』には、1043もの末寺が記載といいます。

黄檗派(宗)の伽藍の多くは明朝様式を取り入れたもので、正面一間を吹放しとした主伽藍を中心軸に置き、同じ大きさの諸堂をシンメトリに配します。
「卍字くずし」の勾欄、「黄檗天井」(アーチ形の天井)、円窓、「桃符」(桃の実形のデザイン)などがその代表例とされます。

黄檗宗の寺院を訪れたとき、ある種独特の印象を受けるのはこのような意匠によるものと思われます。
また、「梵唄」(太鼓や銅鑼など様々な鳴り物を使い独特の節で読まれるお経)も黄檗宗独自のものとして知られています。

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牛頭山弘福寺は、江戸における黄檗禅の名刹です。
開山の鉄牛禅師は隠元禅師の直弟子ですから、まさに黄檗禅本流の寺院かと。

御本尊は松雲作の釈迦如来(釈迦牟尼佛)坐像。
七堂伽藍を整えた大寺でしたが、江戸時代の幾度の大火や関東大震災で焼失し、現存の本堂等は昭和8年再建のものです。

当山は文化文政の頃より隅田川七福神詣りの札所として知られ、布袋尊が祀られています。
また、名入り根付や咳や口中の病に霊験あらたかな「咳の爺婆尊」などもよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいたそうです。

また、弁財天百社参り第84番の札所ですから、弁財天霊場としても知られていたとみられます。

山内には鳥取池田藩藩主・松平冠山公、徂徠学の嚆矢、儒家南宮大湫、星学家桃東園、
林東溟などの墓があり、俳人建部寒葉齋綾足の碑があるなど見どころの多い寺院です。

森鴎外は少年時代この地で過ごしており、没後一時は弘福寺に葬られましたが、のちに三鷹の禅林寺に改葬されました。

幕末の元勲勝海舟(1823-1899年)が江戸島田道場で剣道に励んでいた若いころ、師のすすめで当山に通い、雲水とともに参禅していたといいますが、これを示す記録は残念ながら関東大震災の折に焼失したそうです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾群巻二』(国立国会図書館)
(須崎村)弘福寺
黄檗宗山城國宇治萬福寺ノ末 牛頭山ト号ス
当寺元善左衛門村内香積山トイヘル小庵ナリシカ 黄檗二代木庵ノ弟子鉄牛延寶二年(1674年)爰ニ移シテ山号寺号ヲモ今ノ如ク改メ 堂舎寮坊善美ヲ盡シテ落成シケレハ 大家の帰依日々ニ増加シ繁栄セリ
開基ハ稲葉美濃守正則ナリ 元禄九年(1696年)歿シ潮信院泰應元如ト法贈ス
本尊釈迦 恵心ノ作長三尺坐像ナリ
脇士迦葉阿難モ同作ニテ 立像長三尺五寸
延寶五年(1677年)十一月二十一日厳有院殿御遊猟ノ時当寺ニ渡御アリテ 堂舎ノ落成ヲ上覧マシ々々白銀許多ヲ賜ヒ 夫ヨリ後タヒ御膳所トナレリ

総門 今ハ廃セリ
天王閣 弘福寺ノ三字ヲ扁ス 木庵ノ筆ナリ(略)正面ニ布袋後面ノ中央ニ韋駄天文殊四隅ニ四天王ヲ置リ 共ニ運慶ノ作 楼上天王閣ノ三字ヲ掲ク 是モ鉄牛ノ筆也
佛殿 大雄殿ノ扁額アリ 隠元筆 又本尊ノ上ニ大威徳ノ三字ヲ扁ス(略)
禅堂 選佛場ノ扁額ヲ掛ク 内ニ観音地蔵ヲ安ス(略)
斎堂 今ハ蹟ノミナリ
開山堂 コレモ今ハ廃セリ
大神宮八幡春日合社 八僧稲荷社 箱根権現浅間熊野合社

『江戸名所図会 第4』(国立国会図書館)
牛頭山弘福禅寺
牛御前宮の東に隣る。此邊を須崎といふ。黄檗派の禅室にして、洛陽萬福寺を模す。
本尊は唐佛の釋迦如来、左右は迦葉、阿難なり。
開山鉄牛和尚、延寶紀元癸丑創造す。

『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区資料/PDF P.40)
弘福寺(向島5-3-2)<大雄宝殿は区登録文化財>
かつて隅田村香森島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673年)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城趾に寺地を受け、ここに移し、現在に至っていると伝えています。
開山は鉄牛道機禅師で、開基は小田原城主稲葉正則です。
鉄牛は石見(島根県)の出身で、京都宇治万福寺の創建にも尽力し、大変行動力のあった禅僧と伝えられています。
現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれています。
伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建されました。
森鴎外は少年時代、この地域で過ごし、没後ここに葬られました。しかし、震災後に三鷹禅林寺へ改葬されました。
黄檗宗の関係から鳥取藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院として、多くの関係者の菩提寺となっています。

咳の爺婆(じじばば)尊
風外和尚の名と徳から、人呼んで「咳の爺婆尊」。
口中に病のある人は爺に、侯を病む人は婆に祈り、咳・風邪の病が全快したら、煎豆や番茶をそなえて供養する習わしが伝わっています。



原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第4,有朋堂書店,昭2. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは京成本線・都営浅草線・東武スカイツリーライン「押上」駅で徒歩約15分。

徒歩ならば今戸方面から桜橋経由でもアプローチできます。
吾妻橋から牛嶋神社、三囲神社と隅田川沿いに巡るのも、風情ある道行きです。

都道461号見番通り沿いにあり、すぐお隣は第18番札所の長命寺です。


【写真 上(左)】 前面道路から
【写真 下(右)】 寺号標

周囲に築地塀を巡らし、少し引きこんでインパクトのある山門を構えています。
山門手前には亀の上に寺号標。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 正月の山門と山内

山門は切妻屋根を二重におき、本瓦葺でいずれも鴟尾(しび)を置いています。
どういう様式かよくわからないのですが、Webでは「黄檗様式」「明様式」としている記事が目立ちます。


【写真 上(左)】 寺号入りの軒丸瓦
【写真 下(右)】 山門扁額

軒には寺号入りの軒丸瓦が巡らされるなど、芸が細かいです。
見上げに独特の書体の山号扁額。
門柱には禅刹らしく「偈」が掲げられています。

参道右手の鐘楼は、切妻屋根本瓦葺で鴟尾を置いたすこぶる端正な意匠。


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 咳の爺婆尊のお堂

その先には「咳の爺婆尊」の堂宇。
風外和尚禅師(寛永年中(1624-1644年)の僧)自刻の父母の石像が御座します。

風外禅師は相州真鶴山中の洞穴で求道し父母の石像を朝に夕に孝養していたところ、小田原城主で当山開基の稲葉正則が和尚の温情に感じ入り江戸下屋敷にて供養をつづけ、のちに菩提所である弘福寺に祀らしめたものとの由。


【写真 上(左)】 咳の爺婆尊
【写真 下(右)】 咳の爺婆尊の扁額

人呼んで「咳の爺婆尊(せきのじじばばそん)」と称し、口内を病む者は爺に、咳を病む者は婆に快癒祈願し、全快ののちには煎り豆に番茶を添えて供養する習わしです。

とくに咳止めの飴を買い求める参拝者が多く、この飴はいまも頒布されています。
祈願すれば”風邪をひかない”ともいわれ、受験シーズンはことに賑わうそうです。


【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 庭園

参道左手は寺務所と客殿?。
かつては山門と主伽藍を中心軸に、同じ大きさの諸堂をシンメトリに配していたようですが、幾度の大火や関東大震災で焼失し、いまはこのような伽藍配置となっています。
客殿の裏手は庭園になっています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂(大雄宝殿)はさすがに風格があります。
「文化遺産オンライン」には、「(昭和8年竣工で)二重仏堂である礼堂の後方に一重の後堂が接続した複合仏殿である。」「月台・聯額・棟飾りなどを備える点は黄檗宗大雄宝殿の一般形式に準じる。」とあります。


【写真 上(左)】 「祝國」の扁額
【写真 下(右)】 「大雄寳殿」の扁額

1層向拝に「祝國」、2層に「大雄寳殿」の扁額を掲げています。
まぁ、建築的にいろいろと見どころはあるのでしょうが、独自の意匠を旨とする「黄檗様式」に生兵法のコメントは無謀なので、このくらいにしておきます。(と、逃げる・・・(笑))


【写真 上(左)】 横からの向拝
【写真 下(右)】 向拝上


【写真 上(左)】 葵紋が刻まれた天水鉢
【写真 下(右)】 年始の山内

豪壮な唐破風を押し立てた客殿?も見事な建築です。


【写真 上(左)】 客殿?の二重蟇股
【写真 下(右)】 客殿?の木鼻彫刻(見返り獅子)


【写真 上(左)】 布袋尊の向拝
【写真 下(右)】 布袋尊の碑

隅田川七福神の一尊、布袋尊は本堂向かって右手の扉の奥深くに御座します。
布袋尊(布袋和尚)は中国の実在の禅僧で、その名を釈契此(しゃくかいし)といいます。
中国とゆかりの深い弘福寺に布袋尊が祀られているのは。なるほどうなづけるものがあります。

本堂向かって右手墓域には池田冠山(池田定常、因幡国若桜藩5代藩主)の墓があります。
他にも句碑や文化財多数ですが、きりがないのでこのあたりで引き上げます。


【写真 上(左)】 池田冠山墓
【写真 下(右)】 御朱印見本

御朱印は本堂向かって左手前の授与所にて拝受できます。
複数の御朱印が見本で案内されています。

〔 弘福寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 大雄宝殿の御朱印
【写真 下(右)】 御本尊・釈迦牟尼佛の御朱印

 
【写真 上(左)】 達磨大師の御朱印
【写真 下(右)】 布袋尊の御朱印


寶船の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第16番のスタンプ

なお、「大雄宝殿」の意味については→ こちら(御朱印の読み方)を覧ください。


■ 第14番 八幡山(渋江山) 清重院 西光寺
(さいこうじ)
葛飾区宝町2-1-1
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(寶木塚村)八幡社(現・(宝町)八幡神社(葛飾区宝町))
他札所:南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第36番

第14番は葛飾区宝町の西光寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
なお、この記事は■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2の「19.超越山 来迎院 西光寺」をベースに作成しました。


西光寺は、親鸞聖人に帰依した西光房善慶(葛西清重)の草庵として元仁元年(1224年)に創建され、慶長十八年(1613年)浄土真宗より新義真言宗に宗旨を改めたといいます。
寺宝の阿弥陀如来画像は親鸞聖人の御作といわれ、戦前までは浄土真宗の門徒が当山を訪れ、報恩講が行われていた(→ wikipediaより)ともいい、真宗の名残りを残す寺院です。

渋江山としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』には「八幡山無量院」とあり、山内掲示にも「八幡山西光寺」とあるので現山号は八幡山と思われます。

約1㎞南の四つ木にある天台宗の超越山 来迎院 西光寺も葛西清重と親鸞聖人にゆかりがあり、しかも南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第33番の札所でもあるため間違いやすくなっています。

なお、超越山 来迎院 西光寺については→ こちらの「19.超越山 来迎院 西光寺」をご覧ください。

少しく当山開基の葛西壱岐守清重(西光房善慶)について辿ってみます。

葛西氏は桓武平氏良文流の秩父氏(坂東八平氏の一)の一族豊島氏の庶流。
鎌倉幕府草創期の豊島氏の当主、豊島清元(清光)の三男、三郎清重は葛西御厨を継いで葛西氏を称しました。

治承四年(1180年)、源頼朝公の旗揚げには父・清元とともに隅田川で参陣。
この時点での秩父氏一族の動静は複雑で、江戸重長は頼朝公の参陣要求になかなか応じず、公は江戸重長の所領を召し上げて同族の葛西清重に与えようとしました。

これに対して清重は「一族(江戸氏)の所領を賜うのは本望ではなく、他者に賜るように」と頼朝公に言上したといいます。
これを聞いた頼朝公は怒りをあらわし清重の所領も没収すると脅しましたが、清重は「受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」ときっぱり拒絶しました。
頼朝公は清重の毅然たる態度に感じ入り、これに免じて江戸重長を赦したといいます。(以上『沙石集』より)

この逸話の背景については諸説ありますが、おおむね頼朝公の葛西清重に対する信頼をあらわすもの、また、葛西清重が頼朝公と秩父一族の融和に奔走したことを示すものとみられています。

常陸国の佐竹氏討伐の帰途、頼朝公は清重の館に立ち寄り、清重は丁重にもてなして頼朝公とのきずなを強め、清重は頼朝公寝所警護役に選ばれています。

元暦元年(1184年)夏の平氏討伐には源範頼公に従軍。
九州で活躍し頼朝公から御書を賜り、文治五年(1189年)には奥州藤原氏討伐に従軍し、阿津賀志山の戦いで抜け駆けの先陣を果たし、さらに武名を高めました。

奥州討伐後、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など奥州の地に所領を賜り、奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任されています。
のちに奥州で勢力を伸ばした葛西氏は清重の流れと伝わります。

以後は鎌倉に戻り幕府の重臣として職責を果たしましたが、奥州総奉行も兼務。頼朝公からの厚い信任は以後もかわらず、幕府内の立場を確かなものにしています。
頼朝公没後は北条氏と歩調を合わせ、北条方からも信任を得て壱岐守にも任じられています。

有力御家人の粛清、失脚あいつぐなかで一貫して時の権力者から信任を得、存在感を保ったことは、清重のただならぬ政治力を示すものかと思われます。

晩年、清重は関東教化で訪れた親鸞聖人に帰依して出家しました。
嘉禄元年(1225年)、親鸞聖人が渋江郷の清重の館(現・西光寺とされるが当山か、四つ木の西光寺かは不明)に立ち寄られた際に雨が降り止まず、聖人は五十三日間も足止めされ、その間に清重は存分に聖人の教えを受けて発心し、聖人に帰依して西光房善慶(西光坊定蓮とも)と改め、居館を雨降山 西光寺と号したとされます。


なお、葛飾区四つ木にある天台宗 超越山 来迎院 西光寺、墨田区東向島にある曹洞宗 晴河山 法泉寺も葛西清重ゆかりの寺院で、後者は清重が両親供養のために建立したとされています。(戦国時代に真言宗から曹洞宗に改宗)

また、江戸期には(寶木塚村)八幡社(現・(宝町)八幡神社)の別当を務めていました。


【写真 上(左)】 寶木塚(宝町)八幡神社
【写真 下(右)】 寶木塚(宝町)八幡神社の御朱印


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻四』(国立国会図書館)
(寶木塚村)西光寺
新義真言宗 青戸村寶持院末 八幡山無量院ト号ス 本尊彌陀

(寶木塚村)八幡社
村ノ鎮守ナリ 西光寺持 下持同シ
稲荷社

『葛飾区寺院調査報告 下』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
西光寺
寺伝によると、元仁元年(1224年)西光房善慶(葛西清重)の草庵にはじまり、のち浄土真宗の一寺となって西光寺と名づけた。
慶長十八年(1613年)再興のとき真言宗に転じたが、東金町光増寺とともに親鸞聖人ゆかりの地として、さまざまな伝説がある。
境内にあった周囲四メートルの親鸞聖人袈裟かけの松は、聖人がわが弘法とともに千有余年の間繁茂せよといわれたと伝え、根元にその由来を記した碑がある。天明六年(1786年)の大風雨のために倒れ、天保年間(1830-1844年)に植え継いだ樹も枯れ、現在の樹は三代目にあたるという。また境内に天保十二年(1842年)地元の人々の建てた<丹頂塚>がある。将軍放鷹のとき死んだツルの供養のためにできたものである。

本堂 客殿・庫裏 大師堂 六地蔵堂
寺宝
 阿彌陀如来立像(本尊) 室町時代作か
 金剛界大日如来像
 地蔵菩薩立像
 不動明王・両童子立像
 聖徳太子立像
 弘法大師坐像
 麻布淡彩親鸞聖人像
 
【十方庵遊歴雑記】(文政九年(1826年、釈敬順著より)(要旨抜粋)
本堂五間、内陣を囲みて彌陀の尊形を掛たり。
御尊形もおぼろに、いとゞ殊勝に拝れ賜ふは、親鸞聖人の御自画とぞ。
これはその往古、聖人常総の間より武州及び相州へ通行し賜ふ途中、渋江村の草庵に仮初にゆすらひ賜ひしが、霖雨降りしきり止ざる事五十三日、清重が茅屋に留錫し賜ふ折から、当寺の住僧も参上して願ひしまゝ、御序に御自画ありい与え賜ひし御真向とかや。
文政九年の三月、一村の人々同信一列して、件の御真向の本尊を内陣左に懸まいらせ、渋江村の参詣の人々我もゝと群参して低頭礼拝するは、今日を結縁のはじめ、開扉弘法の時節到来といふべし。

■ 寶辨財天勧請由来之記(山内掲示/抜粋)
かつて当寺境内に親鸞聖人袈裟懸之松と称する老松があり、住民らはこれを宝の木と称して大切にしていました。
当地の宝木塚村という旧名はこの老松に由来すると伝えられております。
今日老松はなくなり、宝木塚の地名はわずかに宝町という町名に名残りをとどめるのみとなりました。
当山ではこの宝の地名にちなんで、かねて境内地に辨財天を勧請し、これに祈祷の熱誠をこらし、もって当山檀信徒をはじめ、当地近在の人々に有形無形の福徳をめぐみ、財宝と技芸の豊満をもたらしたいと発願して参りました。
時あたかも平成大不況のさ中、仏師苦心の斧鑿ようやく成就して、ここに宿願の等身八臂の大辨財天を勧請し得ましたこと老衲の最も慶びとするところであります。
平成十年五月五日
八幡山西光寺 昭全 敬白


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最寄りは京成本線「お花茶屋」駅で徒歩約8分。

荒川と旧・曳舟川の間、住宅密集地にあります。
このあたりの路地は複雑で交通規制も多いので、電車利用をおすすめします。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号標

築地塀に囲まれた山内。
門柱に寺号扁額
村内はさほど広くはありませんが、緑濃く落ち着いた雰囲気があります。


【写真 上(左)】 宝辨財天のお堂
【写真 下(右)】 宝辨財天の扁額

参道右手に宝辨財天を奉安する辨天堂(六角堂)。
山内掲示によると、等身八臂の宝辨財天は平成十年五月の勧請・奉安とのことで、当山ご住職肝入りの勧請らしく、御朱印も授与されています。


【写真 上(左)】 六地蔵尊
【写真 下(右)】 修行大師像

参道に沿って、六地蔵尊、修行大師像も奉安されています。



【写真 上(左)】 緑濃い山内
【写真 下(右)】 本堂

本堂は堂前に仏舎利宝珠を配し、入母屋造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に見事な龍の彫刻を置いています。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

桟唐戸の上に寺号扁額。
コンパクトながら落ち着きのあるいい向拝です。


【写真 上(左)】 見返り獅子の木鼻と斗栱
【写真 下(右)】 中備の龍の彫刻



【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 親鸞聖人御𦾔跡の碑

めずらしいのは「親鸞聖人御𦾔跡の碑」で、当山と親鸞聖人のゆかりを物語っています。


御朱印は庫裏にて拝受しました。
御本尊・阿弥陀如来と辨財天の2種の御朱印を授与されています。
隅田川霊場と南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)、ふたつの霊場の札所ですが、札所印は捺されていないとのことでした。


〔 西光寺の御朱印 〕

  
【写真 上(左)】 御本尊・阿弥陀如来の御朱印
【写真 下(右)】 宝辨財天の御朱印


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ Forever You ~永遠に君と~ - 愛内里菜


■ Hands ~Our Love~ - 中村舞子


■ 梶浦由記「Yuki Kajiura LIVE vol.#16 ~Sing a Song Tour~『overtune〜Beginning』」
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■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第9番 千葉山 薬師寺 西光院
(さいこういん)
足立区千住曙町27-1
新義真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(千住本)氷川神社(足立区千住)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第63番、荒綾八十八ヶ所霊場第82番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所

第9番は足立区千住曙町の西光院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

西光院は徳治二年(1307年)に下総国千葉氏の創建、覺音法印の開山と伝わりますが、千葉氏庶流石出帯刀吉深の創建という説もあります。
千住本氷川神社 公式Webによると徳治二年(1307年)、牛田に(千住本)氷川神社とともに創建と伝わるとの由。

『江戸名所図会』には、千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝は下総國香取郡石出郷の領主で、別に牛田村も領し、永和二年(1376年)入道し宏明と号して牛田村に隠栖。その末裔の(石出帯刀)吉深も牛田村に隠栖して梵宇(密寺か?)をなして西光院と号したとあります。

整理すると、徳治二年(1307年)に下総国の千葉氏が覺音法印を開山に創建。(同時期に(千住本)氷川神社も創建。)
御本尊に千葉介常胤(1118-1201年)の守護佛で弘法大師の御作とも伝わる薬師如来(牛田薬師)を安しました。

永和二年(1376年)千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝(入道して宏明)が牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖。
石出帯刀吉深(1615-1689年)も先祖の胤朝にならい牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖、真言密寺として伽藍を整え西光院を号したとみられます。

千葉常胤(1118-1201年)は千葉氏第3代当主で、保元の乱(保元元年(1156年))に出陣し源義朝公麾下で戦いました。

治承四年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝公が石橋山の戦いに敗れ安房国へ渡ると安達盛長を使者として常胤に加勢を求め、常胤はこれに応じました。
頼朝公に鎌倉入りを勧めたのも常胤といいます。

頼朝公に従って武蔵国に入り、武蔵の豪族豊島清元・葛西清重父子とも良好な関係を結んだとされます。
富士川の戦いなどに参戦、頼朝軍主力として働き、寿永二年(1183年)、又従兄弟の上総介広常が頼朝公に誅殺された後も頼朝公の信任厚く、房総平氏の惣領の地位を得たといいます。

一ノ谷の戦いに参戦、豊後国で軍功を上げ、文治三年(1187年)洛中警護のため上洛。
文治五年(1190年)の奥州合戦では東海道方面の大将に任じられたとも。

諸戦の戦功で常胤は相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2ヶ国をはじめ、東北から九州にまで及ぶ全国20数ヶ所の広大な所領を得、屈指の有力御家人となりました。

建仁元年(1201年)3月逝去。
子孫は房総平氏として各地に拠り、千葉六党(ちばりくとう)とも呼ばれて大いに栄えました。
(以上「千葉氏の歴史」(千葉氏Web資料)などより)

つぎに石出帯刀吉深です。
中央区観光協会特派員ブログなどを参考に辿ってみます。

石出帯刀(いしでたてわき)とは個人名ではなく、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名です。
家禄は三百俵。格式は譜代の旗本といいます。

初代の石出帯刀(本田図書常政)は千葉介常胤の曾孫で、下総国香取郡石出(現・東庄町石出)を領した石出次郎胤朝の子孫と伝わります。
台東区元浅草の法慶山善慶寺は、初代帯刀の開基といいます。

当山の開基?ともされる石出帯刀吉深(1615-1689年)は、歴代でもっとも有名な石出帯刀として知られています。

明暦三年(1657年)1月、明暦の大火(振袖火事)の火勢は伝馬町牢屋敷にも迫りました。
牢屋敷を統括する石出帯刀吉深は、この大火から120人余(数百人とも)の囚人を救うために、必ず戻ることを条件に独断で「切り放ち」(期間を設けた囚人の解放)を行いました。

緊急時とはいえ、当時、幕府上層部に無断で囚人を解き放つことが、牢屋敷の長官である石出吉深にどういう咎をもたらすか、囚人たちにも容易に想像できたはずで、囚人たちは見送る吉深に合掌をしてから牢屋敷を出たといいます。

鎮火ののち、囚人たちはこの恩情に応えて、一人も欠くことなく牢屋敷に戻ってきたといいます。
吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れ」と称え、老中に囚人たちの罪一等の減刑を嘆願しました。
そしてみずからの越権行為を幕閣につぶさに報告し、覚悟して断罪を待ったといいます。

当時は幼い家綱公の治世。補佐役を務め、名宰領の誉れ高い保科正之の計らいにより、囚人全員の減刑を行い、吉深の罪も問われることはなかったといいます。
吉深の「切り放ち」はこれ以降制度として定められ、現行の刑事収容施設法にも影響を与えたとされます。

吉深は晩年関屋の里に隠棲して常軒と号しました。
歌人・連歌師としても知られ、当時の江戸の四大連歌師の一人に数えられます。

著作『所歴日記』は江戸初期の代表的紀行文とされ、隠棲後には源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させるなど、当世一流の文化人でした。
国学に傾倒し、廣田坦斎・山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えたのも吉深といいます。

元禄二年(1689年)3月没。
当初は石出帯刀ゆかりの元浅草善慶寺に埋葬されましたが、のちに西光院に改葬されています。

西光院には吉深以下三代の墓碑と、吉深の実子でのちに囚獄を世襲した師深が建立した吉深の彰徳碑「日念碑」が残されています。

しかし、すみませぬ。
筆者参拝時にはこれほどの偉人との認識がうすく、碑は墓域にあることもあって「石出常軒の碑」の説明板の写真しか撮っておりません。

西光院は江戸期には(千住本)氷川神社の別当でした。
千住本氷川神社 公式Webには「明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築(中略)別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、現在に至る。」とありますが、この移築の経緯はよくわかりません。

御本尊は「牛田薬師」と称され、諸人の信仰を集めているようです。


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【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 足立郡巻二』(国立国会図書館)
(千住町三町目)西光院
新義真言宗 本木村吉祥院門徒 千葉山ト号ス 本尊薬師ハ千葉介常胤ノ守護佛ナリト云 コノ寺域ハ常胤カ庶流石出帯刀吉深カ別業ヲ捨テ 開闢スル所ナリ 故ニ祖宗ノ守護佛ヲ安シ 又碑ヲタテ当寺草創ノ事跡及吉深カ世系行實ノ大概ヲ記ス

『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
牛田薬師堂
牛田村にあり真言宗にて千葉山西光院と号く
徳治二年(1307年)当国の領主千葉氏の草創 開山を覺音法印といふ
本尊瑠璃光如来ハ弘法大師の作にて千葉介常胤崇尊の霊像なりと云
●●へて霊験著しく 石出氏吉深をよひ其子常英等殊に尊信し●●霊験を得たりといふ
相伝ふ千葉介常胤の末裔に同五郎胤朝といへる者あり 下総國香取郡石出といへる地に居住し石出日向守と唱ふ 此牛田村ハ胤朝別業の地なり
永和二年(1376年)入道して宏明と号し●に隠栖す 其末流●雪入道吉深に至りて此牛田村に遁れ住竟荘園の地を転して梵宇とし西光院と号くといふ(以下略)

千住本氷川神社 公式Web
(徳治2年1307)に下総国千葉氏が、牛田に千葉山西光院と共に氷川社として創建されたと伝えられている。
江戸初期に現在地に千葉氏の一族であった。権の兵衛(小林氏)等、地主が土地奉納によって分社を建立した。明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築、この用地に鎮座の氷川柱を分社に合祀す、別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、共に現在に至る。


原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約5分。
住所に「千住」がついているので北千住周辺かと思いきや、墨田区にも近い牛田~堀切辺です。

荒川と隅田川をつなぐ隅田水門にもほど近く、このあたりも治水上の要衝です。

民家と町工場が密集する下町らしい路地に面しています。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標


【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道

山内入口は門柱でその左手前に院号標。正面に本堂が見えます。
参道左側の朱塗りの一間社はおそらく稲荷社で、当山鎮守かもしれません。

その左横の石碑は石出帯刀吉深関連かもしれませんが撮影し忘れました。


【写真 上(左)】 「石出常軒の碑」の説明板
【写真 下(右)】 天水鉢

本堂前の天水鉢には千葉氏の家紋である九曜紋。
山号が「千葉山」ということもあり、千葉氏との関連を色濃くのこします。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
おそらく近代建築ですが、向拝の二本の朱塗りの丸柱が意匠的に効いています。

スケール感のある向拝で見上げに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 荒綾八十八ヶ所霊場の札所標

山内には荒綾八十八ヶ所霊場の札所標、庚申様の石佛や石碑があります。


庫裏にはご住職がいらっしゃいましたが、御朱印は不授与とのことでした。

もと別当を奉任した(千住本)氷川神社(足立区千住)の御朱印を掲載します。


〔 (千住本)氷川神社の御朱印 〕

 


■ 第10番 梅柳山 墨田院 木母寺
(もくぼじ)
公式Web

墨田区堤通2-16-1
天台宗
御本尊:慈恵大師(元三大師)
札所本尊:
司元別当:
他札所:閻魔三拾遺第27番、墨田区お寺めぐり第2番

第10番は墨田区堤通の木母寺です。

木母寺は江戸時代の隅田河畔の名所で、とりあげている史料は多数ありますが、公式Webをメインに適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。

木母寺は天台僧・忠圓阿闍梨が平安中期の貞元元年(976年)に梅若丸の供養のために開山、当初は梅若寺(ばいにゃじ)隅田院を号したといいます。
文治五年(1189年)源頼朝公が奥州遠征の折に参拝し、長禄三年(1459年)には太田道灌が梅若塚を改修したと伝わります。

天正十八年(1590年)徳川家康公より梅柳山の山号を得、梅柳山梅若寺隅田院と号したとみられます。

慶長十二年(1607年)、前関白・近衛信尹卿参詣の折、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の木母寺を号しました。
信尹卿は自筆の額を与え、この額は寺宝となっています。

江戸時代の当山は大いに栄え、山内には隅田川御殿が建てられ、徳川3代将軍家光公から8代吉宗公の治世まではの将軍鷹狩りや隅田川遊覧の際の御座所とされ、将軍に献上する御前栽畑もあるなど、徳川将軍家と深い関係にありました。

明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若山王権現を改めて祀り梅若神社となり明治7年には村社に列しました。
明治21年、光円僧正が尽力されて仏寺として再興し、木母寺の号を復しました。

昭和20年戦災で諸伽藍を焼失したものの、戦後に復興をとげています。
昭和51年、東京防災拠点建設事業により南東に160mほど移転して現在に至ります。

『江戸切絵図』には、旧綾瀬川と隅田川の合流点、関屋あたりに「木母寺・梅若塚」がみえ、ずいぶんと北寄りにあったように思えますが、実際は東寄りの現・梅若公園(堤通2-6-10、都指定旧跡の「梅若塚」がある)あたりにあったとされています。

『江戸切絵図』の隅田川寄りに「水神」がみえますが、こちらは現・隅田川神社とみられます。
隅田川神社も旧地から南に100mの地に移転しており、隅田川神社の100m北あたりは、ちょうど梅若公園の隅田川寄りに当たりますから、やはり現在の梅若公園あたりが木母寺・梅若塚の旧地とみられます。

『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区/PDF)のP.7-8にも「梅若公園はかつて、梅若神社々頭の地を児童公園にしたことに始まり」「(梅若)公園の中に『旧跡梅若塚』の標石が建っています。梅若伝説の発祥地がこの場所です。昭和51年に木母寺が移転した時に塚も移動しましたが、塚のあったこの場所は今でも《都指定旧跡》であり」と明記されています。




原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

伽藍は近代建築ですが、山内は句碑・歌碑の碑林をなし、墨東有数の文化財の地としても知られています。

【 梅若伝説 】
木母寺公式Webの『梅若権現縁起』墨田区Web史料『梅若伝説』(PDF)などから追ってみます。

平安時代の中頃、京都北白川に吉田少将惟房卿とその妻で美濃国野上長者の一人娘・花御前の夫妻がおりました。
夫妻には子がなく、子の誕生を近江国坂本の日吉山王権現に祈願したところ、神託により梅若丸を授かりました。

梅若丸五歳のとき父・吉田少将はこの世を去り、梅若丸はわずか七歳で比叡山にのぼり月林寺で学問修行に励みました。

梅若丸はすこぶる才知に優れ、これほどの稚児はいないと賞賛されました。
東門院にも松若丸という評判の稚児がいましたが、彼を取り巻く山法師たちは梅若丸を妬んで排斥しました。

梅若丸は追われるように比叡山を下り、琵琶湖のほとり大津の浜で人買い商人の信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、梅若丸をかどわかして奥州へと旅立ちます。


原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)

その途中、梅若丸は隅田川のほとりで病に倒れ、信夫藤太は梅若丸を置き去りにして姿を消しました。
里人たちの介抱のかいもなく、自分の身の上を語ったのち、辞世の句をのこして梅若丸はその生涯を閉じました。

 尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと 

ときに貞元元年(976年)3月15日、梅若丸はわずか十二歳であったといいます。

その折、居あわせていた天台宗の高僧忠圓阿闍梨が里人と墓(梅若塚とも)をつくって柳を植えました。


山内掲示(梅若権現御縁起)より

花御前は、わが子が行方知れずとなった哀しみのあまり、狂女に身をやつし、わが子の行方を東国までも探し求めました。
当地に至り、隅田川の渡し守から梅若丸の死を知らされたのはちょうど一周忌の日だったといいます。
花御前が梅若塚の前で念仏を唱えると、亡きわが子の姿が現れるや、はかなくもその姿は消え去っていったとも。

忠圓阿闍梨はこの悲話を聞いて、梅若丸を弔う堂を築き、母の花御前(妙亀尼)はそこに住みつきましたが、ある日、対岸の鏡が池に身を投げてわが子の後を追いました。

すると不思議なことに霊亀が妙亀尼の遺体を乗せて浮かびあがってきました。
忠圓阿闍梨は妙亀尼の墓を建て、妙亀大明神として祀り、梅若丸も山王権現として祀られたということです。

この悲話は謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄「八重霞賤機帯」などにうたわれ、戯作や小説にもなって多くの人に知られることとなります。

梅若伝説をモチーフとした浄瑠璃や歌舞伎の演目は「隅田川物(すみだがわもの)」と呼ばれて人気を博し、一ジャンルを築きました。
「隅田川物」の人気は、その舞台となった隅田川の岸辺に文人墨客が集まるきっかけになったともみられています。

「隅田川物」上演の際には、役者は梅若丸の供養と興行の成功、そして自身の芸道上達を祈念するため木母寺を詣でたとのことです。

また、日本古典芸能では狂女が繰り広げる演目を「狂女物」といいますが、「隅田川物」は代表的な「狂女物」としても知られています。

維新後も「隅田川物」の人気は高く、木母寺は参詣客で賑わっていたようです。
また、『ガイド』には比叡山延暦寺直末とあり、高い寺格を有することがわかります。


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【史料・資料】

『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
梅柳山木母寺
隅田村堤のもとにあり隅田院と号す 天台宗にして東叡山に属す 本尊ハ五智如来なり
中にも阿彌陀如来の像ハ聖徳太子の作なりと云伝ふ
貞元年間(976-978年)忠圓阿闍梨当寺を草創す 天正十八年(1590年)台命あり依て梅柳山と号す
昔ハ梅若寺と呼びたりしを慶長十二年(1607年)近衛関白信尹公武蔵國に下りたまひし時 隅田河逍遙のゆくてに 当寺へ立ちよらせられ寺号を改むへにハいかにとありしに 寺僧応諾す 依木母寺の号を賜ひぬ(中略)
寛文の始 大樹此地に御遊猟の砌当寺を御建立ありて 新殿なと造らせたまひぬ
按に木母ハ梅の分字ならんされと(中略)

梅若丸塚
木母寺の境内にあり 塚上に小祠あり 梅若丸の霊を祠りて山王権現とす
縁起に梅若丸ハ山王権現の化現なのと云
後に柳を植て是を印の柳と号く



原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約7分。
西側は隅田川、首都高と堤通り、東側は東白髭公園で人通りの少ないところです。
東白髭公園の向こうには、都営白髭東アパートが堤防のごとく建ち並びます。


【写真 上(左)】 東門
【写真 下(右)】 西門

徒歩だと東白髭公園側(東側)からのアプローチですが、車は一方通行の堤通り側からのみなので要注意です。
駐車場はありますが、夕刻には堤通り側(西側)の門扉が閉まるので閉門後は駐車できません。
本堂が東向きなので、表参道は東側の東白髭公園側かと思います。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は近代建築で、階段をのぼった2階が向拝、見上げに寺号扁額を掲げています。
御本尊は慈恵大師(元三大師)です。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 身がわり地蔵尊


【写真 上(左)】 梅若念仏堂と梅若塚
【写真 下(右)】 梅若念仏堂

本堂向かって右手のガラス貼りの覆屋のなかにある(おそらく)宝形造桟瓦葺の堂宇は「梅若念仏堂」です。
このお堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らに建立したお堂が基とされています。

毎年4月15日の梅若丸御命日には、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供」が勤行されます。


【写真 上(左)】 堂内のお像
【写真 下(右)】 梅若塚

「梅若念仏堂」の向かって左隣には梅若塚があります。
貞元元年(976年)梅若丸が亡くなった場所に、忠圓阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養したという塚です。
江戸時代には、梅若山王権現の霊地として信仰されていたといいます。



境内には浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑、高橋泥舟の筆になる落語家三遊亭円朝の建碑「三遊塚」、伊藤博文の揮毫による巨碑「天下之糸平の碑」、山岡鉄舟揮毫の石碑などが点在し、文化の香り高い山内です。


御朱印は本堂1階に書置が用意されています。

〔 木母寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御本尊・元三大師の御朱印
【写真 下(右)】 梅若塚の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第2番のスタンプ


■ 第11番 宝珠山 理性院 如意輪寺
(にょいりんじ)
天台宗東京教区公式Web

墨田区吾妻橋1-22-14
天台宗
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:牛島太子堂(中之郷太子堂)
他札所:新葛西三十三観音霊場第2番、西三十三観音霊場第2番、墨田区お寺めぐり第20番

第11番は墨田区吾妻橋の如意輪寺です。

天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

如意輪寺は、嘉祥二年(849年)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794-864年)が唐から帰国され、郷里の下野国大慈寺へ向かわれる途中、この地に聖徳太子自作(慈覚大師が感得されて彫刻とも)とされる太子像を堂宇(牛島太子堂・中之郷太子堂)に安置したのが草創といいます。

如意輪寺の位置づけは牛島太子堂の別当で、如意輪寺の御本尊は如意輪観世音菩薩でした。
『葛西志』には「本尊大師の本地如意輪観世音を安置す」とあります。

慈恵大師良源(元三大師)(912年-)は如意輪観世音菩薩の化身とされますから、「本尊大師」は元三大師をさしているのかもしれません。
ただし、当山が慈覚大師円仁の草創だとすると元三大師の御生誕前ですから、年代的に符合せずナゾが残ります。

『葛西志』によると当初は小梅村水戸家御蔵屋敷の辺(現・隅田公園)にあり、中の郷への移転時期は定かではないものの、寛文二年(1662年)刊行の『江戸名所記』に「中の郷太子堂」とあるので、寛文二年より前に小梅村から中の郷元町に移っていると解しています。

1849-1869年刊行の『江戸切絵図』にも、「中の郷」にその名がみえます。

原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

『江戸名所記』には文禄年中(1592-1595年)太子堂近くに光りが発し、弥陀三尊の種子を記した板碑が出土、これを供養するとその怪異は消えたとありますが、この板碑は現存していません。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』(時代設定:天明七年(1787年)-寛政七年(1795年))では、「敵(かたき)」に如意輪寺の南の門前にある花屋が登場します。

「大滝の五郎蔵は、まっすぐに大川(隅田川)をわたって、本所、中ノ郷元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあり、このあたりの道行きはいまも変わりません。

なお、江戸時代は現・吾妻橋、東駒形辺を「中之郷(村)」といい、如意輪寺は「中之郷元町」にあったといいます。

明治維新までは上野寛永寺末、その後、成就寺(江戸川区逆井)末となりました。

大正12年の関東大震災で灰尽に帰し、区画整理によって現在地に移転したといいますが、中の郷元町は吾妻橋の東側で、現在地にほど近く近距離の移転とみられます。

おそらく関東大震災で牛島太子堂・太子像と如意輪観音像が失われています。
現在は如意輪寺の本堂(昭和32年建立)に、新たに勧請された如意輪観世音菩薩と中興のご住職が刻まれた孝養太子像が合祀されています。


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【史料・資料】

『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 二止』(国立国会図書館)
本寺東叡山末
武州葛飾郡中之郷
天台宗 嘉桂山南光院成就寺末
同宗 宝珠山理性院如意輪寺
開闢起立 相知不●候
開山開基 相知不●候
中興開山開基 相知不●候
 
太子堂
 聖徳太子立像 太子御自作●●候
 聖徳太子前立 木立像
 四天 木立像
 不動明王 木立像
 二童子 木立像
 庚申 木立像  
客殿
 本尊 如意輪観世音 木佛

『江戸名所図会 7巻 [18]』(国立国会図書館)
太子堂
同所(中郷)元町にあり天台宗如意輪寺に安置す本尊聖徳太子の像ハ十六歳にならせたまふ時自親造りたまふとなり 当寺ハ淳和天皇の嘉祥年間(848-851年)慈覚大師東國遊化の頃の創建にして帝百畝の水田を寄附したまふ 天文の頃(1532-1555年)此地祝融氏の災にかく●と雖も太子の霊像ハ自火焔を●●て出たまひて恙なりしより江戸名所(以下不詳)

『葛西志 : 東京地誌史料 第1巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
太子堂
一道寺の南に隣れり、四間に二間半の塗屋の堂なり(中略)起立の年歴その詳なる事は伝へされとも、往古は今の小梅村水戸家御蔵屋敷の辺に有て、村開闢よりの堂なりといえば、古くよりのものなるは論なし。当所へ移りしその年歴は伝へざれども、寛文二年(1662年)梓行の江戸名所記に、中ノ郷太子堂をのせたれば、是よりさき移りしはしらる、同書に云、太子堂は、これ慈覚大師の建給ひしなり、その比太子の像を安置し給へり、此像は太子みづから作り給ふ所なり、数年を経て文禄年中(1592-1595年)此堂のほとりに、夜なゝ光りありければ、その地を堀たりければ、一ツの石塔を堀出す、石のおもてに彌陀三尊の種子あり、その下に文字ありとみえしきがきへて知がたし、文明二年(1470年)庚寅とあり、さのみ久しき石塔にはあらすと覺へ侍り。是を堀出して立置けるよりして、光物二度出ることなしと、これは太子にあづからさる事績なれど、𦾔地の一證となすへし。
別当如意輪寺
門を入て右の方に住居す、天台宗同所成就寺末、寶珠山理性院と号す、本尊大師の本地如意輪観世音を安置す。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
如意輪寺
伝えられる創建年代はきわめて古く仁明天皇の代、嘉承二年(849年)八月に慈覚大師の創建とされる。天台宗で中之郷成就寺末であるが、神仏分離以前には牛島太子堂の別当寺となっていて太子堂の名称の方が広く知られていた。
牛島太子堂は中之郷太子堂ともいわれ慈覚大師の作になる聖徳太子の像を安置していたが、これは大師が関東修行中に作ってこの地に安置したものと伝えられ、一説には『江戸名所図会』が「本尊尊聖徳太子の像は十六歳にならせ給う時自親造り給うとなり」と延べているように、聖徳太子自身の作ともいわれている。
本尊は如意輪観世音の木像で、また水戸徳川家の臣雪斉の書になる「牛島聖徳太子」の石額および延宝六年(1678年)の六地蔵などが寺内にある。





原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約5分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。

「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
「リバーピア吾妻橋」の東側の路地に面してあります。
対岸の浅草の殺到がうそのように、人通りが少なく落ち着いた一角です。


【写真 上(左)】 吾妻橋
【写真 下(右)】 山内入口

かつては門前町をなし、寺域560坪にも及ぶ大寺と伝わりますが、いまはこぢんまりとした山内です。


【写真 上(左)】 堂号標
【写真 下(右)】 寺号標

向かって右の門柱に「牛島太子堂」の堂号標、左には「如意輪寺」の寺号標。
すぐ正面が本堂です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

昭和32年建立の本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝で、屋根に大ぶりな千鳥破風を押し立てて風格があります。


【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に縦長の変わった形状の蟇股を置いています。

向拝向かって右手に「牛島太子堂 南無聖徳太子」、左手に「本尊 如意輪観音菩薩」の幟をたて、太子堂と別当・如意輪寺双方を継承していることがわかります。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 二重扁額

向拝見上げに「牛嶋聖徳太子」の扁額、堂内に「寶珠山」の山号扁額を掲げて、二重扁額となっています。


【写真 上(左)】 六面六地蔵石幢
【写真 下(右)】 扁額

本堂向かって右手にある六面六地蔵石幢は墨田区の登録文化財に指定されています。

石幢とは、主に六角の角柱と笠、宝珠などから構成される石塔の一種です。
『すみだ文化財・データベース』Webでは「総高160 ㎝径40 ㎝(笠石及び蓮座の径)。如意輪寺の石幢は、周囲をくぼめた水盤の中央に蓮華座を置き、その上に六角の塔身が乗り、各面にはそれぞれ地蔵菩薩の名が刻まれ、像身が半肉彫されています。六地蔵の上には蓮弁状の笠石が乗りますが、宝珠は失われたものと考えられます。刻まれた銘文から、父母の菩提を弔うために造立されたと考えられます。」と解説されています。


御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。


〔 如意輪寺の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 平成28年拝受の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年拝受の御朱印

中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」の揮毫。
主印は三昧耶形(仏の印相や持物をもって、それぞれの仏を象徴的に表現するもの)を蓮華状に配置したものと思われますが、よくわかりません。
右上の印判は不明。
左下には「牛島太子堂」「如意輪寺」の揮毫と寺院印が捺されています。

令和6年拝受の御朱印には、なんと「葛西三十三所観音霊場 第二番」の札所印が捺されていました。
「葛西三十三ヶ所観音霊場」は元禄年間(1688-1704年)、浄清和尚が開創されたという葛西エリアの観音霊場で、のちに「新葛西三十三ヶ所観音霊場」として再興されていますが、情報がすくなくナゾの観音霊場です。
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の発願は(現)江戸川区平井の成就寺、結願は江東区亀戸の浄心寺で、如意輪寺は新旧いずれも第2番の札所となっています。

「葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

下町エリアを代表する、如意輪観世音菩薩の御朱印です。
■ 東京都区内の如意輪観音の御朱印



■ 墨田区お寺めぐり第20番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ ずっと二人で - BENI


■ ヒカリヘ - miwa


■ Let Go - 中村舞子
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■ 「Xメロ」の名曲10曲

先ほど放送のザ・カセットテープ・ミュージック「謎のメロディ・Xメロとは」
これはよかった。

番組紹介で「Xメロ」をつぎのように定義している。
「Aメロ、Bメロ、サビ、Cメロなどと言われるメロディ区分の中でも、“曲中一度しか出てこないメロディ”に注目!『大サビ』とも言われるこの謎のメロディを『Xメロ』とマキタが名づけ、90年代以降のJPOPのヒット曲に出てくる『Xメロ』を次々に聴いていきます。」

個人的には「Xメロ」と「大サビ」は違うと思うけど、どちらもメロディを余しているワケだから、作曲者やアレンジャーが絶好調のときの楽曲が多い。


ちがうかもわからんが、筆者が「Xメロ」と勝手に思い込んでる曲を思いつくままに10曲ほどあげてみます。
例によって女性Vo限定です。


■ あなたに会えてよかった - 小泉今日子

3:15~「思い出が 星になる~」のフレーズが確信的に「Xメロ」。
こんな不安定なフレーズつかって、よく破綻しないと思う。
ドミナントだらけの展開で、アウトロだけしっかりトニックって、笑いしかない。
名曲中の名曲だと思う。

■ One Reason - milet

miletはかなり変化のある楽曲が多い。
2:52~がおそらく「Xメロ」。
落ちサビを挟んで転調~サビ回帰の威力は抜群。

■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI/杏里

杏里もさりげに「Xメロ」を織り込む。
だからアルバム通して聴いても飽きがこない。
3:15~「空と大地が溶けて~」がたぶん「Xメロ」。
そのあとの転調とサビ回帰のお約束の展開。

■ Story Teller(ゆめいろアルエットOST) - Kicco

アニソン、ゲーム系も「Xメロ」の宝庫。
意外とクリエイターに遊びが許されているからかも。
2:14~「僕の服の袖も~」、4:33~「僕の腕を握り~」。
2回出てくるから厳密には「Xメロ」じゃなくて「大サビ」だと思うが、意表をついたメロ展開はいかにも「Xメロ」的。

■ Butterfly - 木村カエラ(Covered)

「Xメロ」曲はイントロからしていい曲が多い。
これ、いきなりイントロから転調してるし・・・。
3:53~「運命の~」がラストフレーズだけど「Xメロ」では?

■ CAN YOU CELEBRATE? - 安室奈美恵(Covered)

小室哲哉氏も当然ながら「Xメロ」の使い手。
3:44~「間違いだらけの道順」がたぶん「Xメロ」。
この曲の難易度を1ランク上げている不安定なフレーズ。
歌い手の技量を問いまくる小室哲哉氏らしい展開。

■ Shunkan (瞬間) - 藤田麻衣子

天才肌の藤田麻衣子も「Xメロ」を多用する。
3:11~「形には残らないものだから~」が、思いっきりエモーショナルな「Xメロ」。

■ Because - LGYankees Feat.中村舞子

”セツナ系”は長尺曲が多く、「Xメロ」もかなり使われていた。
3:45~「お守りに触れるよに~」と4:40~「そばにいてほしい」がおそらく「Xメロ」。
中村舞子、「Xメロ」の扱い巧すぎ。

■ Everlasting Song - FictionJunction

梶浦由記さんも当然「Xメロ」の使い手。
5:44~「手を取って二人で奏でる~」がおそらく「Xメロ」。
ここだけ主旋律が強力なユニゾンになるので余計に「Xメロ」っぽい。

■ ここにあること - ふわりP/@うさ(歌ってみた)

ボカロ曲は「Xメロ」が多い。
2:30~「オレンジいろの そらのかげ~」以降、ほとんどすべてが「Xメロ」じゃないかと思えるほどのもの凄い曲。
「Xメロ」?+転調のバラエティではピカ一とも思える名曲かつ超難曲。
歌いこなせる人はごくごく一握りだと思う。


なんか、名曲と思ってる曲のほとんどが「Xメロ」絡みぽっいんですけど・・・(笑)
個人的に長尺曲好きだし、長尺曲は「Xメロ」絡めないともたない、ってのもあるかと思う。
気が向いたら追加していきます。
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