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■ 落ちサビ&Xメロの名曲

2021/06/29 UP

「Xサビ」じゃなくて「Xメロ」でしたね(笑)
訂正して2曲追加します。

■ きぼうのうた - RAM WIRE

2:14~ たぶんXメロ
2:38~ 「見たいよ ねぇ、どんな顔で笑うの」 落ちサビ

■ 君がいない世界は切なくて - CHIHIRO feat. KEN THE 390 (Official MV)

3:57~ 「切ない青に赤が混じって」 Xメロ
4:21~ 「今も君のことを思い出すよ」 落ちサビ

やっぱりセツナ曲や「来る曲」系で絶大な効果を発揮すると思う。

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先ほど放送してた、ザ・カセットテープ・ミュージック、これも面白かった。
”サビ”の特集で、目からうろこ状態(笑)

とくに↓の2パターンのサビ。個人的にツボだと思う。
Xメロ:Aメロ、Bメロやサビとはラインを変えたメロディ。これがなくても曲じたいは成り立つ。
落ちサビ:ラストのサビや大サビ前に挿入される、インストの音量を落としてボーカルを際立たせるサビ。 

先日UPした■ 歌の女神が舞い降りた国 / 美メロ&ハイトーン&透明感の癒し曲50曲からをメインに、思い当たる名曲を7曲リストしてみました。

01.さよならメモリーズ - 奏夢(歌ってみた)

3:48~ 「初めて見た 満開の桜」 Xメロ
4:35~ 「一目見たときに思ったんだ~」 落ちサビ

02.片恋日記 - 中村舞子

3:20~ 「君に届け~」 Xメロ+落ちサビ

03.夏雪 ~summer_snow~ - 西沢はぐみ

1:46 インストの転調サビ
2.13~ 「君にこぼれおちた~」 Xメロ+落ちサビ
2:34 インストの転調サビ
3:06~ 大サビ

04.Imaginary Affair - KOTOKO

3:27~ 「振り返る坂道~」 落ちサビ

05.Destiny feat.花たん【HoneyWorks】

4:13~ 「きいてほしいの~」 ブリッジ~Xメロ
4:40 「ずっと前から君が好きでした」 落ちサビ

06.Shunkan (瞬間) - 藤田麻衣子

3:11 「かたちには残らないものだから だから何度も確かめたくなるのかな」 Xメロ~大サビ

07.最高の片想い - タイナカ彩智

3:42 「幸せだとか 嬉しいときは」 落ちサビ
4:11~ (たぶん)Xメロ~大サビ、しかもフラジオレット絡み!
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■ 毒沢温泉 「沢乃湯」 〔閉館〕



超ひさしぶりに温泉レポをUPしてみます。
なお、この施設はすでに閉館しています。

毒沢温泉 「沢乃湯」
住 所 :長野県諏訪郡下諏訪町星が丘7075
電 話 :閉館
時 間 :10:00~16:00(営業時データ)
料 金 :500円(同上)
紹介ページ (@nifty温泉)

温泉王国、諏訪の北方の山裾に温泉マニアをうならせる名湯、毒沢温泉があります。

毒沢鉱泉の歴史は古く、永禄年間に武田信玄が金山発掘の際、怪我人の治療に利用したと伝えられる、いわゆる”信玄の隠し湯”のひとつです。
”毒沢”とはなんともおそろしげな名前です。
読みは古いガイドで”ぶすざわ”と紹介されていた記憶がありますが、最近ではほとんど”どくさわ”が使われています。

「神乃湯」、「宮乃湯」、国民宿舎「沢乃湯」の3軒の宿がありましたが、「沢乃湯」は2014年1月末 閉館(Web情報)となっています。
これは2007年8月に入湯したときのレポです。
「神乃湯」、「宮乃湯」、「沢乃湯」とも入湯していますが、「神乃湯」しかレポしていなかったので記録の意味でUPしてみます。

諏訪湖の北岸、上諏訪は古来交通の要衝で「聴泉閣かめや」前で甲州からの甲州街道(道中)と中山道が合流し、その地点には「甲州道中・中山道合流地」の石碑が建っています。
木曽から塩尻に入り、塩尻から塩尻峠を越えて諏訪に入った中山道は、諏訪湖畔に出ることなく諏訪大社下社秋宮前で甲州街道と合流し、北に向きをかえて砥川沿いを難所・和田峠に向かいます。

毒沢温泉はこの砥川に注ぐ小沢沿いにあり、諏訪からみると諏訪大社下社春宮の裏手にあたります。
諏訪市街を抜けた中山道は、諏訪大社下社春宮の脇を過ぎると俄然山の気を帯びてきます。
そこから約1㎞で「沢乃湯」に到着です。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 看板

地味めな外観の2階建てで、「薬湯 沢乃湯」の看板がないと、それとわからないかもしれません。


【写真 上(左)】 玄関
【写真 下(右)】 エントランス・ロビー

鄙び入った外観ながら館内はきれいに手入れされ、このあたりは国民宿舎の矜持のようなものが感じられます。
館内に掲示されていた案内書きを引用します。
「信玄の隠し霊泉の源泉は、標高800米の内山地籍より湧出しています。信玄が金鉱採掘の際、ケガ人をこの湯に入れ治療したものです。飲用・浴用・外用にと3拍子揃いの比類なき神秘の薬水の所在を隠すため毒沢(どくざわ)の地名をつけたと云われています。」

平成10年1月6日付の温泉分析書(源泉名:毒沢鉱泉)の申請者は、湯元会 宮乃湯、㈲神の湯、沢乃湯の三者となっているので、この3施設に分湯使用かと思われます。
なお、沢乃湯ではこの源泉を利用して保湿剤「沢乃湯ジェル」をつくり、全国に通販していたようです。


【写真 上(左)】 沢乃湯ジェルの案内
【写真 下(右)】 館内図

私が訪れた時点では、すでに日帰りのみの営業になっていたかもしれず、回数券が販売され、日帰り用の休憩室も用意されていました。


【写真 上(左)】 休憩室
【写真 下(右)】 浴室前

廊下のおくに浴室。手前が男湯、おくが女湯です。
脱衣所棚は木枠タイプで、その上に温泉関係掲示がしっかり掲出されています。


【写真 上(左)】 脱衣所
【写真 下(右)】 温泉利用掲示

飾り気のない浴場で、コンクリ造2人ほどの浴槽と、その横に飲泉用カランとそれを受けるポリ容器、すこし離れて洗い場カラン2。
女湯もシンメトリで同様の構成です。


【写真 上(左)】 男湯
【写真 下(右)】 女湯

カラン2、シャワー・シャンプーあり。土曜13時で男女湯とも2人~独占でした。

飲用カランはおそらく源泉で、「飲用」表示はありませんでしたが、まわりにコップがいくつか置いてありました。
なお、休憩室には「毒沢温泉の性質上、煎茶又はそれに類したお茶はあまりよくありません。麦茶か白湯をお召し上がり下さい。」との注意書きがありました。
お茶のタンニンが鉄分の吸収を妨げるためと思われますが、それだけ飲泉するお客が多いのかもしれません。


【写真 上(左)】 飲用カラン
【写真 下(右)】 注意書き

浴槽は、金属パイプの湯口からうす赤くにごったお湯を投入。槽内の注排湯は不明ですが、オーバーフローはなかったので、おそらく自然流下式の排湯では?
温泉利用掲示によると、「給湯は貯湯槽方式、加水なし、加温あり、殺菌剤使用なし」で加温かけ流しではないかと・・・。


【写真 上(左)】 浴槽の湯口パイプ
【写真 下(右)】 湯口パイプからの注入

浴槽のパイプはうすにごり、飲用カランはほぼ透明だったので、加温による懸濁があるかもしれません。
なお、これは「神乃湯」でも不思議に思ったのですが、毒沢鉱泉の泉温はわずかに2.0℃。
飲用カランは冷たいですが2.0℃ということはないので、どこかで弱加温しているのかもしれません。

ほぼ適温のお湯は、赤茶色のにごり湯で透明度は数㎝。湯中には酸化鉄と思われる若干の赤茶の浮遊物が舞っています。
金属パイプからの注湯の味不明。湯面ではよわく金気のなまった臭いがします。
キシキシとギシギシが入り交じる特徴ある湯ざわり。


【写真 上(左)】 湯色
【写真 下(右)】 内床の排湯口

あたたまりの強いお湯で、飲用カランの水浴びがすこぶる快感。
泉質じたいのレベルはかなり高いと思いますが、浴槽のお湯にややなまりを感じるのは残念。

飲用カランの水はすばらしいものです。
ほぼ透明で強レモン味+甘味+収斂味、よわく焦げ臭を感じ、pH2.6の酸性明礬泉の質感豊か。
これを無為に流してしまうのはもったいない気も・・・。
容器ではなく小浴槽に流し込めば、極上の源泉水風呂ができそうな感じがしました。


【写真 上(左)】 飲用カランの源泉
【写真 下(右)】 飲用カランと洗い場

なお、浴槽の金属パイプの上にはふたつのカランがあり、私のメモには「右のカランにはレモン収斂味あるが、洗い場カランよりよわい」とありました。(左のカランは記載なし)

正直、浴槽のお湯のレベルは「神乃湯」の源泉槽には及ばないと思いますが、料金は安いし渋い雰囲気を味わえるし、温泉好きならば一度は攻めてみてもいいような感じがしました。

〔 後記 〕
諏訪大社下社春宮から砥川沿いに星が丘源湯、毒沢鉱泉、六峰源湯(六峰温泉)と並び、星が丘源湯は未湯ですが、六峰温泉もかなりの名湯でした。
しかし、六峰温泉は2010年3月をもってすでに閉館しています。(→ 入湯レポ
信州にはこのような小規模な名湯がいくつも点在しています。
このコロナ禍を乗り切って、なんとか継続してほしいものです。

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茶色の濃い濁り湯とインパクトのある味から、”成分濃厚なお湯”のイメージがありますが、成分濃度自体はそれほど濃いものではありません。
特徴のある泉質の成因は、「硫化鉱物の酸化溶解」+「有機的メカニズム」による低温酸性泉(やませみさんの「温泉の科学」参照)かと思われます。

〔 源泉名:毒沢鉱泉 〕 <H10.1.5分析>
含鉄(Ⅱ)-Al-硫酸塩冷鉱泉 2.0℃、pH=2.6、7.5L/min自然湧出、成分総計=2273mg/kg
H^+=2.5 (10.27)、Na^+=5.0mg/kg (0.91mval%)、Mg^2+=31.7 (10.81)、Ca^2+=7.4、Al^3+=120.0 (55.27)、Fe^2+=132.4 (19.64)、Fe^3+=5.6、Cl^-=1.5 (0.17)、HSO_4^-=92.7、SO_4^2-=1107 (95.59)
陽イオン計=307.2 (24.14mval)、陰イオン計=1202 (24.11mval)、メタけい酸=96.3、遊離炭酸=666.6 <H10.1.5分析> (源泉名:毒沢鉱泉)

〔 2021/06/26UP (2007/08入湯) 〕

※ このレポは2007/08入湯時のものです。

【 BGM 】
■ 夢の途中(LIVE) - KOKIA
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1983年の夏歌12曲-2

なにかときもちが沈む話題が多いので・・・。
またまたつくってみました。

この前の断捨離で発見した当時のテープリストからです。(← 断捨離になってないし(笑))
(これは1983年じゃないかもしれません。)

ホントにこういうのつくって車の中でかけてた(笑)、90分テープ片面だいたい10~12曲くらいのボリューム感。
だから45分(10~12曲)タームで,曲をBGM的に流していく習慣がついていたのだと思う。

聴き返してみると、洋楽(AOR/BCM/Fusion)と邦楽(いまでいうシティ・ポップ)をバランスして入れていたことがわかる。
洋楽と邦楽が接近していた時代ならではだと思う。

気が向いたら後日コメント入れます。

01.角松 敏生 - OFF SHORE


02.Haircut 100 - Love Plus One


03.Pablo Cruise - This Time


04.Finis Henderson - Skip To My Lou


05.Roby Duke - Time To Stand


06.Skyy - Show Me The Way


07.Cusco - Virgin Island


08.杏里 ANRI - Memorial Story


09.Kid Creole And The Coconuts - I'm A Wonderful Thing Baby


10.Lava - Cruisin'


11.Shakatak - Streetwalkin'


12.山下 達郎 - Your Eyes


〔 関連記事 〕
1983年の夏歌12曲-1
夏向きの洋楽30曲!
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■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 後編 】

■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~ 【 前編 】から


■ 第5番目 福増山 常楽院
公式Web
天台宗東京教区の紹介Web
調布市西つつじヶ丘4-9-1(旧下谷(上野)広小路)
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:上野王子駒込辺三十三観音霊場第18番、京王三十三観音霊場第12番、東方三十三観音霊場第18番


『江戸名所図会』十七(国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

天平年間(729-749年)(勝宝年中(749-757年)とも)、行基菩薩の開創、慈覚大師の中興と伝わる名刹で、もとは寶王山 常楽院 長福壽寺と号しました。
戦前までは下谷(上野広小路、現在のABAB付近)にありましたが、昭和20年3月戦災での焼失を機に当地の福増山 蓮蔵寺を合併して調布市に移転しています。
なお、現在も上野広小路には常楽院の別堂が残ります。
行基作と伝わる御本尊阿弥陀如来は六阿弥陀第5番目です。

常楽院は、六阿弥陀唯一の御府内(町奉行の支配に属した江戸の市域とされる)の寺院でした。
なので、『新編武蔵風土記稿』の範囲外で「御府内風土記」に記載とみられていますが、「御府内風土記」は焼失したとされています。
「御府内風土記」の編纂資料として整理された『寺社書上(御府内備考) 下谷寺社書上 壱』(国会図書館DC)の常楽院の項には「六阿弥陀」の略縁起が記されていますので、以下引用します。

「抑当国六阿弥陀如来の尊像ハ 行基菩薩の御作にして霊験あらた(か)なる尊像なり
むかし此地に足立の長者といへる人あり 年老るまて子なきをうれひ、熊野権現に祈りて女子を生り 容顔うるハしくして人みな心をかけすといふ事なし 又そのほとりに豊嶋の長者といふものあり 此娘を娶りし●いかなる故にやありけん 此娘荒川に身を投て死す。侍女もともに入水して失ぬ 足立の長者これをかなしミ 娘●侍女の菩提のために諸國の霊場を見めぐり 紀州牟宴の郡熊野権現に参籠して霊夢を蒙り霊木を得て 弥陀の尊像を彫刻せんと願を発し 願ハくハ當山権現本地阿弥陀如来我願をミたしめ●ハ 此霊木わか本國沼田の浦に流れよるべしと祈りしに 不思儀に此木百有余里の波涛をへて本國沼田の浦につき夜ごとに光を放つ 其頃行基菩薩諸國をめぐりて此所に来り給ひ 誠に亡女ハ汝を浄土に導んがための佛菩薩の化身なるべしとて 南無阿弥陀佛の六字の数にあハせて彼の一木を以て六體の弥陀を彫刻して其此の街道の六ヶ所の村里に安置し給ひしより千有余年にちかし 伏して惟ハ弥陀如来は五劫の間思惟し給ひて四十八願をたて 濁悪の衆生をして悉ク極楽浄土に往生せしめんとの御誓ひなりといふ 況や現世にして願ふ所の事一切圓満せずといふ事なし 仰ぎ尊ふべくふして信ずべし ことに二李の彼岸にハこの六ケ寺を巡礼して尊容を拝すべきものなり。」(文政八年(1825年)再版)

なお、天台宗東京教区のWebには、「足立の長者」は庄司従二位藤原正成で、「聖武天皇(724~749)の頃」と記されています。

京王線「つつじケ丘」駅南口から徒歩3分。いちおう駐車場もあるようですが、周辺道路はすこぶる狭く人通りも多いので電車利用がおすすめです。


【写真 上(左)】 入口?
【写真 下(右)】 山門


【写真 上(左)】 寺号板&札所板
【写真 下(右)】 境内

参拝時の記憶があいまいなのですが、たしか呼び鈴を押して六阿弥陀参拝の旨をお伝えすると、本堂内にあげていただいたかと思います。
御朱印はたしか本堂内で揮毫いただいたと思われ、揮毫中に勤行一式あげさせていただいた記憶があります。
現在はどういう形での授与かはわかりませんが、できれば数珠と経本持参で、般若心経、阿弥陀如来の御真言などを唱えられた方がベターかもしれません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 院号扁額

本堂はおそらく切妻造平入り銅板葺で、千鳥破風の向拝が付設されています。
向拝見上げに「常楽院」の院号扁額。


【写真 上(左)】 お地蔵さま
【写真 下(右)】 「思い出のアルバム」の歌碑

境内には「思い出のアルバム」の歌碑が建てられています。
”日本の歌百選”にも選ばれた「思い出のアルバム」は、当院住職で当院付属の神代幼稚園の園長でもあった第五十二世住職本多慈祐氏(作曲家名本多鉄麿、昭和41年没)の作曲による卒園歌の名曲です。
鉄麿氏はこのほかにも讃仏歌、仏教保育歌、各地の校歌などを数多く作曲されました。

■ 思い出のアルバム - Foresta


● 江戸六阿弥陀第5番目の御朱印

中央に阿弥陀如来の種子キリーク(蓮華座+火焔宝珠)の御寶印と「六阿弥陀如来」とキリークの揮毫。右に「第五番」の札所印。
左下に山号寺号の揮毫と寺院印。
こちらの御寶印は蓮華座+火焔宝珠が菱形の枠内に収まる、比較的めずらしい意匠のものです。

六阿弥陀のほか複数の観音霊場の札所を兼ねておられますが、いずれも現役霊場ではなく、そちらの御朱印の授与については不明です。


■ 第6番目 西帰山 常光寺
公式Web
江東区亀戸4-48-3
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:亀戸七福神(寿老人)、新葛西三十三観音霊場第32番、南葛八十八ヶ所霊場第66番

公式Webの縁起によると、こちらも「足立姫伝説」ゆかりの開基です。

建立は天平九年(737年)、開山は行基菩薩、開基は豊島の冠者、御本尊は行基菩薩作、座像六寸の阿弥陀如来像で六阿弥陀第6番目です。
天文十三年(1544年)に曹洞宗に改宗、中興開山は浅草総泉寺四世の勝庵最大和尚で、中興開基は下総の里見義実と伝わります。

縁起によると、足立姫の父は足立庄司従二位宰相藤原正成、嫁ぎ先は豊島左衛門尉清光となっています。

「禅宗曹洞派豊嶋郡橋場村 總泉寺末、西蹄山ト號ス 本尊彌陀行基ノ作ニシテ長六寸許 脇立ニ観音勢至ヲ安ス コレ六阿彌陀第六番目ニシテ春秋彼岸ハ殊ニ参詣ノモノ多シ 縁起アレト世ノ知ル所ニシテ外ニ事寶カハラサレハ●ス當寺ハ行基草創ノ地ナリト云傳ヘ又中興ヲ勝庵最和尚ト云天文十三年七月十五日寂ス」
(『御府内風土記新編武蔵風土記稿』巻之24葛飾郡之5(国会図書館DC)より)

当山七世圓月江寂禅師は、元禄七年(1694年)正月武府に生まれ、総泉寺(常光寺の本寺)大寂に得度、常光寺了山に従い参禅、各地を遍参され当山や越後宝光寺、武府総泉寺に住されました。
後、武蔵の龍穏寺三十七世に昇住、元文五年(1740年)永平寺禅師を拝命され、寛延二年(1749年)の五百回大恩忌に永平寺で現存する最古の木造建築である山門再建を発願、完成に至りました。
墨跡には曹洞宗の禅師としてはめずらしく「南無阿弥陀仏」が多いとされます。


【写真 上(左)】 山門まわり
【写真 下(右)】 山門の札所標

江戸川区との区界にも近い亀戸四丁目にあります。
亀戸駅から10分ほど、押上駅からも意外に近く北十間川沿いに2㎞ほどです。


【写真 上(左)】 境内
【写真 下(右)】 本堂1

 
【写真 上(左)】 本堂2
【写真 下(右)】 本堂向拝

広々した印象の境内で、アーチ状の身舎に破風向拝を張り出した個性的な意匠の本堂。
本堂向かって左側には、亀戸七福神の壽老人堂と定印を結ばれた阿弥陀如来が趺坐される無量寿塔があります。


【写真 上(左)】 壽老人堂
【写真 下(右)】 無量寿塔


【写真 上(左)】 南葛霊場の札所標
【写真 下(右)】 六阿弥陀の道標

こちらは南葛八十八ヶ所霊場第66番の札所で札所碑もありましたが、南葛第66番は亀戸三丁目の龍光寺に移動したという情報があり、実際、龍光寺の大師堂には「南葛霊場八十八ヶ所第六十六番」の札所板が掲げられていました。
なお、龍光寺は御朱印の授与はされておりません。(2019年5月確認)

本堂手前の「南無阿弥陀佛」の道標は延宝七年(1679年)在銘で、江戸六阿弥陀最古のものとされています。

御朱印は庫裡にて授与いただきました。
ほかに亀戸七福神の寿老人の御朱印も授与されていますが(筆者は未拝受)、新葛西三十三観音霊場の御朱印授与は不明です。

● 江戸六阿弥陀第6番目の御朱印

中央に三寶印と「六阿弥陀如来」とキリークの揮毫。右に「亀戸六番」の札所印。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 木余の弥陀 龍燈山 貞香院 性翁寺
公式Web
足立区扇2-19-3
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:荒綾八十八ヶ所霊場第47番

公式Webの由緒によると、こちらも「足立姫伝説」ゆかりの開基で、足立姫の墓所となっています。

寺伝および山門前説明板によると、神亀三年(726年)行基菩薩が庵を開いた(あるいは足立姫菩提所として開創)のが始まりで、(足立姫の父)足立荘司宮城宰相が開基となり、明応元年(1492)には行蓮社正譽龍呑上人が開山とあります。
江戸時代、阿出川對馬守貞次が中興開基となり、慶安元年(1648年)には三代将軍徳川家光公から朱印地十石を与えられ、以降阿出川對馬守を大檀那とする名刹です。

『新編武蔵風土記稿』(足立郡之二、国会図書館DCコマ番号80/196)には以下の記述があります。
「浄土宗、埼玉郡岩槻浄國寺の末、龍燈山貞香院と號す、本尊彌陀行基の作なり、昔此邊六阿彌陀の像彫刻の時、根元の餘木を以て彫刻せし像なれば、根元阿彌陀と稱すと云、六阿彌陀の由来は小臺村の條に出したれば合せ見るべし、寺領十石慶安元年御朱印を賜ふ、開山行蓮社正譽龍呑、明應七年二月十五日寂す、開基は足立庄司宮城宰相と云傳ふ、此人【宮城家譜】及び他の書にも所見なし、かの家譜を見るに、豊嶋二郎吉國が子六郎政業(叉の譜には宮城中務と載せたり)當所を領してより、宮城を氏とせりと云ときは、此人の開基なるにや、されど天正十七年卒せし人なれば、開山より少し時代おくれし人なり、よりて思ふに中興の檀越をたヾちに開基と稱すること、他にも其例あれば、是も實は中興の開基なるも知るべからず、其後阿出川對馬守藤原貞次と云者、中興開基せり、此人は北條氏の家人なりしが、彼家没落の後、當村に土着し、元和二年三月廿三日死す、法諡を性翁院覺譽相圓と云、子孫今村内に住すれど、家系及び記録なければ詳ならず、叉云開闢の頃は荒川の水除堤の外にありしが、何の頃か今の地へ移れりと云。古墳。境内にあり、菩提樹として植てしるしとせり、是は足立庄司の女足立姫の墓なりとて、恵曜禅定門、永禄十三年八月十五日と彫たる古碑をたつ、かの女の碑ならざることは彫せし法諡にても知るべし、寺傳によるに足立姫の法諡を蓮相浄地と號し、卒年は詳ならず、父庄司が此女の爲に六阿彌陀を彫刻せしことは、小臺村の條に出したればここには略す。」

「性翁寺は六阿弥陀発祥の地にして根元の旧跡」といわれ、足立姫物語を描いた『紙本着色性翁寺縁起絵』(足立区登録有形文化財)が伝わります。


『紙本着色性翁寺縁起絵』(足立区史料より。)

これまでの内容と重複するところもありますが、足立姫と当寺の所縁が詳細に説明されている足立区の縁起絵の説明文から抜粋引用します。
「性翁寺は、宮城宰相の娘足立姫の悲劇にまつわる六阿弥陀伝説ゆかりの寺で、この縁起絵は六阿弥陀伝説を檀家にわかりやすく説明するために作られたものです。(中略)
足立姫と豊島左衛門尉が婚礼し、婚家と不仲になった足立姫が十二人の侍女と荒川(現隅田川)へ入水します。足立姫の父である宮城宰相は、十二人の侍女の亡骸を荒川から引き上げましたが、姫の亡骸は見つかりませんでした。宮城宰相は、墓石を立てて、供養のため諸国霊場巡礼の旅に出ます。そして、紀州熊野権現(和歌山県)へたどり着きました。宮城宰相は熊野権現から霊木を授かり、霊木を熊野灘に流します。宮城宰相が紀州を出て邸宅へ帰ると、流した霊木が現在の熊野木付近(足立区江北)で引き上げられていました。宮城宰相はたまたま付近に来ていた行基菩薩を邸宅に招き、行基菩薩に霊木を使って仏を彫るよう依頼します。行基菩薩は、熊野権現の助けを借りて一夜の内に、六体の阿弥陀如来と余った霊木からさらにもう一体の阿弥陀如来を彫りあげました。宮城宰相夫婦は行基菩薩に足立姫の形見の菩提樹で作られた数珠を差し出し、行基菩薩がその数珠を埋葬供養して姫の葬儀をしました。宮城宰相は姫の墓所横へ草庵を建て、木余り如来を安置し、姫の菩提を追善しました。)

第2番目恵明寺からほど近い、荒川の流れのそばにあります。
住宅地のなか、豪壮な山門と瓦塀を構えています。


【写真 上(左)】 門1_「山門」
【写真 下(右)】 軒丸瓦に施された「木餘」

門がふたつありますが、伽藍構成がわからないので、仮に道に面した門を「山門」、その奥の門を「中門」とします。

「山門」は切妻屋根本瓦葺で塀と連接し、寺院にはめずらしい自動扉です。
「山門」周囲の瓦塀の軒丸瓦に施された「木餘」の文字もなかなかの見どころ。


【写真 上(左)】 門2_「中門」
【写真 下(右)】 お不動さま

その先には中門で、右手には矜羯羅・制吒迦の二童子を従えた坐像のお不動さまが御座します。台座には「成田山」の文字。
東京下町には浄土宗寺院でも、お不動さまが御座す例がけっこうあります。


【写真 上(左)】 斜めからの「中門」
【写真 下(右)】 「中門」屋根の見事な意匠

「中門」は、おそらく四脚門ないし薬医門で本瓦葺。
梁上に二連の本蟇股。大棟の熨斗瓦端に鴟尾、降棟の鬼瓦部に「性翁寺」とその上に龍の棟飾り。精緻な設えの留蓋瓦の下に巴紋?を刻した軒丸瓦(鐙瓦)が並ぶ見事な意匠です。

参拝前に右手の事務所にお声掛けするのがルールとなっています。

こぢんまりとしていますが、細やかに手入れされ「女人霊場」にふさわしいしっとり落ち着いた山内です。


【写真 上(左)】 「中門」越しの本堂
【写真 下(右)】 緑ゆたかな山内

参道左手には三基の「木餘如来」の石碑、その先の本堂手前にも「木餘如来」の石碑があります。


【写真 上(左)】 「木余如来」の石碑1
【写真 下(右)】 「木余如来」の石碑2


【写真 上(左)】 本堂前参道
【写真 下(右)】 本堂


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 お地蔵さま

本堂左手前にはお地蔵さまが御座します。
本堂は陸屋根の近代建築で、屋根側面に浄土宗の月影杏葉紋、向拝見上げに「木余如来」の扁額、扉の下欄に葵紋。
堂内上部には「竜灯山」の扁額が掲げられていました。


○ お寺様でいただいた東京都教育庁のポストカードより(御本尊の阿弥陀如来)

御本尊の木像阿弥陀如来坐像は東京都指定文化財(彫刻)
六阿弥陀の余木で作られたされる伝・行基作の阿弥陀如来像で、平安末期から鎌倉初期の作とみられています。
六阿弥陀を刻したあとの根元の余り木を用いたお像と伝わるため、「根元阿弥陀」とも呼ばれます。

阿弥陀如来像、『紙本着色性翁寺縁起絵』ともに、不定期ながら公開されることがあります。

足立姫の墓所は墓地内にあります。
寺務所で場所をお伺いしたところ快くご教示いただいたので、部外者でもお参り可能かと思いますが、事前に寺務所にて申し出た方がよろしいかと思います。


【写真 上(左)】 足立姫の墓所
【写真 下(右)】 「足立荘司」の碑

足立姫の墓所は奥まった一画にあります。
手前に「足立姫」の石碑と、向かって右手奥には「足立荘司 宮城宰相」と刻された石碑ないし墓石がありました。

御朱印は、寺務所での参拝受付時に書置のものを拝受できます。
なお、御朱印は江戸六阿弥陀の1種で、荒綾八十八ヶ所霊場の御朱印は授与されていない模様です。

● 江戸六阿弥陀 木余の弥陀の御朱印

中央に阿弥陀三尊の種子「キリーク、サ、サク」の御寶印と「木余如来」の揮毫。右に「第札所印、左下に寺号の揮毫と「木餘」の寺院印が捺されています。


■ 木残(末木)の観音 補陀山 補陀落寿院 昌林寺
北区西ケ原3-12-6
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番、北豊島三十三観音霊場第19番、滝野川寺院めぐり第10番

『滝野川寺院めぐり案内』には、開創・開山・開基などは不詳。行基菩薩の作とされる末木観世音菩薩を御本尊とする。応永年間(1394~1428年)に鎌倉公方足利持氏公が再興し、禅刹に改め祥林寺と号した。その後江戸橋場総泉寺4世の宗最和尚が中興開山となり、昌林寺に改称。太田道灌公の寄進を受けて伽藍を善美とし、彫刻物はすべて左甚五郎の作と伝わる。明治十六年(1883年)曹洞宗大本山永平寺の61世絶海天真禅師がご入山され御隠寮となり、太政大臣三条実美公は当山の風光を賞して「百花一覧之台」と賛した。などの寺歴が記されています。

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之10、国会図書館DCコマ番号20/114)に以下の記述があります。
「禅宗曹洞派橋場總泉寺末 補陀山ト号ス 古ハ補陀楽壽院ト号セシヲ應永十八年足利持氏再營シテ祥林寺ト改メ 文明十一年太田道灌田園二十四町を寄附セリ 其後大永五年丙丁ニ罹リシ後本山四世勝庵宗最中興シテ今ノ文字ニ改ム 此僧ハ天文十三年七月十五寂ス 本尊正観音ハ行基ノ作ニテ 六阿彌陀彫刻ノ時同木ノ末木ヲ以テコノ像ヲ作リシユヘ 末木ノ観音と号と云 昔ハ本堂ノ造リモ壮厳ヲ盡セシニヤ 今ノ堂ニ用ル所ノ扉獅子牡丹桐鳳凰等ノ彫刻最工ニシテ 近世ノモノニアラス是左甚五郎ノ作ニテ先年火災ノ時僅ニ残リシモノト云」

昌林寺は江戸(武州)六阿弥陀ゆかりの木残の末木観音様として知られ、『江戸名所図会』に「本尊末木観世音菩薩は、開山行基菩薩の作なり。往古六阿弥陀彫刻の折から末木を以って作りたまひしとぞ。」と記され、江戸六阿弥陀との関連が裏付けられています。

江戸六阿弥陀の無量寺、与楽寺、昌林寺の3寺は滝野川寺院めぐりの札所と重複します。
滝野川寺院めぐりは、桜の名所であった王子・飛鳥山、紅葉の名所として知られた滝野川、つつじの名所の駒込染井など、江戸時代のレクリエーションの名所ときれいに重なっていますが、江戸六阿弥陀も一部同じコースを辿ります。


【写真 上(左)】 山門から山内
【写真 下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所標

谷田川通りから少し入った住宅街のなかにこぢんまりと整った山内。
山門脇に上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)第5番の札所標が建っています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所碑


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜め左から本堂

入母屋造本瓦様の銅板葺で、軒下に向拝を付設しています。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に「補陀山」の扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝見上げ

朱の欄干と横長の花頭窓が印象的な本堂の手前には、江戸六阿弥陀&上野王子駒込辺三十三観音霊場(西國霊場)の札所標と昭和62年造立の百寿観世音菩薩が御座します。


【写真 上(左)】 百寿観世音菩薩
【写真 下(右)】 本堂扁額

御朱印は庫裡にて拝受しました。
メジャー霊場の札所ではありませんが、最近は「江戸六阿弥陀」巡拝者も増えているのか、御朱印対応は手慣れておられます。
滝野川寺院めぐりの御朱印も問題なく授与いただけました。
なお、上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印は、「江戸六阿弥陀」の参拝でも捺されているようです。

● 江戸六阿弥陀 木残(末木)の観音の御朱印

中央に「本尊 末木観世音菩薩」の印判と聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に「末木観世音菩薩 西国五番」の横書きの印判。
左上に上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印の札所印「藤井寺寫 西國第五番」の札所印が捺されています。
左下には山号・寺号の印判と寺院印が捺されています。
滝野川霊場の御朱印では「末木観音」の揮毫。
江戸六阿弥陀と観音霊場の御朱印では「本尊 末木観世音菩薩」の印判の様式にて授与されるようです。

〔滝野川寺院めぐり第10番の御朱印〕

中央に「末木観音」の揮毫と聖観世音菩薩の種子「サ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)とその下に「末木観世音菩薩 西国五番」の横書きの印判。
左上に「滝野川寺院めぐり 第十番寺」の札所印で、札所無申告で授与されると思われる「藤井寺寫 西國第五番」の上野王子駒込辺三十三観音霊場第5番の札所印は捺されていません。
左下に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


■ 江戸六阿弥陀 その他の関連寺社

□ 船方神社
北区堀船4-13-28


旧船方村鎮守。
もとは十二天塚とも称され、六阿弥陀伝承ゆかりのお社と伝わります。

現地案内板(北区教育委員会)より抜粋引用します。
「昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を投げたという話が江戸六阿弥陀伝承のなかにあります。(中略)熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつられたものといえます。なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。」

『新編武蔵風土記稿』(豊島郡之九、国会図書館DCコマ番号170/209)には以下の記述があります。
「(船方村)十二天社 足立郡宮城村性翁寺の縁起に、神龜二年六月足立庄司宮城宰相の女、豊嶋左衛門に嫁せしか故有て荒川に入水せし時、彼に従ひたる侍女十二人主に殉して水に投せし骸を葬て十二天森と號す、今の船方村鎮守是なりと載たり、されと彼事績の疑ふへきことは性翁寺の條にも辨せし如くなれは元より信すへき事にはあらず、延命寺持。」

当社は御朱印不授与の模様です。


□ 中臺山 医王院 光圓寺
文京区小石川4-12-8
浄土宗

小石川にある浄土宗寺院で江戸六阿弥陀とのゆかりが伝わります。

『小石川區史』/文京区立真砂中央図書館蔵P.834の光圓寺の項には「六阿弥陀」ゆかりの縁起が記されていますので以下引用します。
「天平十三年行基菩薩東國巡錫の砌此處に一宇を建立し、薬師如来を自刻して安置し、堂前に一公孫樹を植ゑたのが當寺の創めであると云ふ。(中略)文政時代には境内三千坪あり、本堂には薬師如来を本尊とし、別に江戸六阿彌陀の一と稱せられる阿彌陀如来を新本尊として其背後に勧請した。」


『江戸名所図会』7巻[13](国会図書館DC(保護期間満了資料)より転載)

また、『江戸名所図会』の光圓寺の挿絵には、確かに「六阿弥陀本木薬師如来安置あり」とあり、光圓寺の項(7巻 [13])には「行基菩薩件の杉の本木を以て此本尊を模刻し此境に一宇を営んで安置せり又六道流傳の衆生●救ハん為末木を以て六躰の弥陀像を彫造し六所に分ちたり 江戸六阿弥陀と稱●る●の是なり」とあります。

この伝承によると杉の本木から刻したのは薬師如来で、六体の阿弥陀造は末木を刻したことになっています。

また、当寺公式Webには以下の記載があります。
「天平13(741)年、行基菩薩が43歳の時、東の方の国の人々に教えを広めようとして、まず南紀州の熊野神社に泊まりがけで参詣をして奈良へ帰る路の傍らに大きな杉の木がありました。これを像の材として仏像を作ろうとその木を切って、心に誓って思われましたのは、『もし御仏様のこころにかないますなら、この木を流しますから縁のある土地に到着さしてください』と。ご自分は全国を回り東の方の国に行かれ、この小石川の土地にいたり給うと、紀州から流された杉の木が小石川という入江に流れ着いていました。(注釈して、大昔はこの辺りから高田のあたりまで神田橋の内外すべて入江で河をなしていたと記されています)。これは御仏様のこころであると自分のやさしい母のため香や花をささげ、礼拝して信心のまことをおつくしになりました。そうすると目の前に薬師女が金色の光を放って表れました。行基菩薩は、例の流れ着いた杉の木の本木で御本尊様をかたどって刻み、この土地に一つの寺を建てて安置申し上げました。」

足立姫、足立の長者、豊島の長者などは登場しないものの、六阿弥陀伝承に近い内容となっています。

当寺は御朱印不授与の模様です。


□ 本木熊野神社
足立区本木南町18-8

性翁寺がある足立区扇の東隣に本木というエリアがあります。
『新編武蔵風土記稿』(足立郡之二、国会図書館DCコマ番号76/196)には、旧本木村について以下の記述があります。
「(本木村) 村名の起りは、今宮城村性翁寺の本尊本木阿彌陀と云もの、昔村内善覺寺に在て名高かりしゆへ、後村名になせしと云(中略)かの一番の像は今豊島村西福寺にあり」

旧本木村の善覺寺は荒川辺八十八ヶ所霊場の第33番札所で、廃寺となったのちは札所は六阿弥陀第1番目の西福寺に移動しています。
『風土記稿』の記載によると、六阿弥陀第1番目の阿弥陀如来も善覺寺から西福寺に移動したことになります。

なお、善覺寺は本木北野神社(足立区本木南町17-1)の元別当だったので、現在の足立区本木南町付近にあったのではないでしょうか。

なお、六阿弥陀伝承は熊野信仰とふかいつながりがありますが、本木熊野神社(→「猫の足あと」様)は熊野を信仰していた豊島清光による創建と伝わります。(本木北野神社も豊島清光創建と伝わります。)

さらに王子神社の公式Webの「御由緒」には、「元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神をお迎えして、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。」とあり、豊島氏がこの大社の奉斉にかかわっていたことがうかがえます。

となると、江戸六阿弥陀は豊島氏を介して王子神社とも関わりをもっていた可能性もあります。
豊島氏が熊野より勧請したのは王子大神で、「若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)」と称したと伝わり、こちらについては複雑な経緯もありそうなので稿を改めます。

また、『東都六阿弥陀考證』という文献もみつかりましたが、これについても別途調べてみたいと思います。


【 BGM 】
■ ひらひら ひらら - ClariS


■ 夢の途中 - KOKIA


■ 潮見表 - 遊佐未森
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■ 青蛙堂鬼談 / 岡本綺堂



ひさびさに気に入りの小説を読み返してみたので一稿。

筆者はどちらかというと小説よりもノンフィクション派ですが、文体に惚れこんだひとりの作家がいます。

岡本綺堂(おかもと きどう)。

小説家とも、劇作家とも括られるこの人は大正から昭和初期にかけて代表作を遺し、「半七捕物帳」の作者としても知られています。
筆者が好きなのは綺堂の小編で、とくに怪奇譚。

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綺堂は元旗本の子弟として育ち、英語が堪能で、中国にも渡り、長く新聞記者をつとめて新歌舞伎の作者としても第一人者だった。
このような経歴が、平明でムダのないリズミカルな文体を生み出したのだと思う。
たとえば名作として知られる「青蛙堂鬼談」(せいあどうきだん)の序段から引用してみると

「午後四時頃からそろそろと出る支度をはじめると、あいにく雪はまたはげしく降り出して来た。その景色を見てわたしはまた躊躇したが、ええ構わずにゆけと度胸を据えて、とうとう真っ白な道を踏んで出た。小石川の竹早町で電車にわかれて、藤坂を降りる、切支丹坂をのぼる。この雪の日にはかなりに難儀な道中をつづけて、ともかくも青蛙堂まで無事たどり着くと、もう七、八人の先客があつまっていた。」

この短い節のなかで、語り手のこころの動き、東京の雪景色と道行きをまじえ、出支度から、もう行き先の青蛙堂には七、八人の先客がいることまで語り尽くしている。
並みの技量ではない。

「青蛙堂鬼談」はいわゆる「百物語」的な展開だが、その振り出しはこんな感じ。

「それが済んで、酒が出る、料理の膳が出る。雪はすこし衰えたが、それでも休みなしに白い影を飛ばしているのが、二階の硝子戸越しにうかがわれた。あまりに酒を好む人がないとみえて酒宴は案外に早く片付いて、さらに下座敷の広間へ案内されて、煙草をすって、あついレモン茶をすすって、しばらく休息していると、主人は勿体らしく咳(しわぶき)して一同に声をかけた。」

綺堂の状況描写は動的でたくみだが、どこかにしんとした静謐感が流れている。
この世界に曳き込まれるとなかなか抜け出すことができず、気がつくと完読している。

とくにこれから事がはじまるまえの、一片の情景の切りとり方が凄い。

「叔父は承知して泊まることになった。寝るときに僧は雨戸をあけて表をうかがった。今夜は真っ暗で星ひとつ見えないと言った。こうした山奥にはありがちの風の音さえもきこえない夜で、ただ折おりにきこえるのは、谷底に遠くむせぶ水の音と、名も知れない夜の鳥の怪しく啼き叫ぶ声が木霊してひびくのみであった。更けるにつれて、霜をおびたような夜の寒さが身にしみて来た。」(「くろん坊」(光文社文庫『鷲』収録)より)

水の音と夜の鳥を配することで、かえって飛騨の山奥の夜更けの静寂と、闇のふかさをあらわしている。

綺堂の怪談の多くはすっきり解決しないでおわる。描写は的確で語り漏らすことがないのだが、なぜそのような怪異がおこるかについての説明がない。
もやっとしたなぞかけが、読後、じわじわとした怖さにかわっていく。
これが綺堂の怪談の身上だと思う。

綺堂の登場人物の語り口は大概に上品だ。
たしか「山の手の武士階級のことば」と表現した評論家がいたと思うが、これはおそらく綺堂が旗本の家に育ったというところが大きい。

「いえ、どうも年をとりますとお話がくどくなってなりません。前置きはまずこのくらいに致しまして、本文(ほんもん)に取りかかりましょう。まことに下らない話で、みなさまがたの前で仔細らしく申上げるようなことではないのでございますが、席順が丁度わたくしの番に廻ってまいりましたので、ほんの申訳ばかりにお話をいたしますのですから、どうぞお笑いなくお聴きください。」

これは「青蛙堂鬼談」でも傑作と評される「猿の眼」の導入で、年配の女性の上品で落ち着いた語り口から怪談に曳き込む手法をもちいている。

英語や中国語を知り尽くしたうえで、日本語のうつくしさを表現できる作家。
もっと読まれてもいいと思う。
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