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【旧記事】■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPしています。
以下の最新記事をご覧ください。(この記事は最新ではありません。)


〔最新記事〕
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1(旧 大里町エリア/旧 江南町エリア/旧 熊谷市エリア-1)
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)へつづく。
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1(旧 川本町エリア/旧 花園町エリア/旧 深谷市エリア-1)
■ 埼玉県深谷市の御朱印-2(旧 深谷市エリア-2)

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〔以下は旧記事へのリンクです〕

■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3 からのつづきです。

■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4


■ 荒神山 地蔵院 龍昌寺
熊谷市柿沼499
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第1番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第20番
『新編武蔵風土記稿』の柿沼村の項に「京都智積院末 中興開山海寶慶長十九年六月十二日寂ス 本尊地蔵ハ恵心ノ作 荒神社 辨天社 稲荷社 聖天社 金毘羅社 観音堂 此堂焼失後イマダ再建ナラス」とあります。
・境内石碑には、慶長年間(1596-1615年)、海宝上人の開基で智積院直末の格院とあり、忍秩父観音霊場の第1番初願所であることからしても、相当の格式をもつ寺院と思われます。

・樹木が少なくすっきり明るい境内。本堂は入母屋造本瓦葺でがっしり大ぶりな流れ向拝を構えています。見事な本瓦葺や格調高い山号扁額から名刹の矜持が感じられます。

・御朱印は庫裡にて忍秩父三十四観音霊場第1番の御朱印を拝受しました。幡羅郡新四国霊場第廿番の札所印も捺されているので、2札所兼用の御朱印と思われます。
・こちらの忍観音霊場の札所本尊の情報がなく、とりあえず聖観世音菩薩の御真言をあげて参拝しましたが、いただいた御朱印の種子は「キリーク」。ご住職に千手観音か如意輪観音かをお伺いすると、なんと如意輪観世音菩薩とのこと。初番から如意輪観音の観音霊場はあまり記憶にありません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第1番 如意輪観世音菩薩(大悲殿)

※ 幡羅郡新四国霊場第廿番の札所印あり


■ 天神山 観音院 吉祥寺
熊谷市原島682
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第33番
『新編武蔵風土記稿』の原島村の項に「埼玉郡上ノ村一乗院末 慶安二年境内観音堂領トシテ十石ノ御朱印ヲ賜フ 中興ノ僧ヲ榮快ト云寛文十三年(1673年)正月二十五日寂ス 本尊大日ヲ安ス 観音堂 十一面観音ヲ安ス 運慶ノ作ナリト云伝フ」とありますが、開基・開山、創建年代等は不明です。

・緑濃いよく整備された境内。山門は本瓦葺。本堂は寄棟造銅板葺で、端正な流れ向拝を置いています。

・御朱印は忍観音霊場のもので、当寺第33番と上奈良の第24番妙音寺を授与されています。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第33番 十一面観世音菩薩



■ 熊谷山 報恩寺
公式Web
熊谷市円光2-8-1
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第1番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第20番
・当地の武将、熊谷直実ゆかりの曹洞宗の名刹で、創建について公式Webはつぎのように記しています。
・熊谷直実は一ノ谷の戦いで平家の御曹司、平敦盛を討ち取たことで自責と無常を覚え、京にのぼって法然上人に入門して僧侶(法力房蓮生)となりました。
熊谷に残された家族はこれを悲しみ、直実の妻は病をえて亡くなってしまいます。
そして残された直実の息女、玉津留姫のもとに直実他界の知らせが入りました。
姫は泣き暮らした果てに、仏さまのお力にすがり両親の冥福を祈るほかないと、建暦二年(1212年)に当寺を創建しました。
その後、関東管領上杉能憲が永和四年(1378年)に再建、管領職を継いだ上杉憲方も報恩寺の復興に力を注ぎました。この両者は「中興開基」という呼び名で、現在まで大切にまつられています。
寛永元年(1624年)、上之の龍淵寺第14世萬矢大拶禅師は、あらたに曹洞宗の寺院として開山しました。

・一方、熊谷市資料には「熊谷直実の子直家が、父の没後菩提の為に浄土宗寺院として創建したものと伝わります。」とあり、「本尊は熊谷直実の娘千代鶴姫玉鶴姫の開基・守佛であり、多くの信仰を集めてきました。」という含みのある表現をしています。

・さらに『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「埼玉郡成田龍淵寺末 当寺ハ昔熊谷直実ノ子直家 父ノ没後菩提ノ為ニ起立セル浄土門ノ草庵ニテ 直実カ木像ヲ置シカ 遥ノ後東照宮此邊御遊●之時 由緒ヲ御尋ノ上新ニ熊谷寺ヲ造立セサセラレテ 当所ハ猶其マゝニテオカレシテヲ 其後又一寺ニ取立テ報恩寺ト号ストイヘリ 此説熊谷寺ノ伝ヘト同シカラス 姑両説を記シオケリ 中興開山ヲ萬室察和尚ト云(略)本尊阿彌陀ヲ安ス 佛師安阿彌カ作ト云 其余直実カ女ナリシ千代鶴玉鶴ノ守佛ナリト云 薬師ヲモ安置セリ」とあります。

・たしかに熊谷寺の由緒とは「同シカラス」内容なので、興味のある方は読み比べてみては・・・。
・いずれにしても、徳川家康公も絡んだ熊谷寺との複雑な経緯が感じられます。

・当山の伽藍神として袖引稲荷が祀られ、こちらの御由緒も玉津留姫にかかわるものです。
・熊谷直実には美貌をうたわれたふたりの息女がおりました。姉が玉津留姫、妹が千代鶴姫と伝わります。
・この袖引稲荷は、玉津留姫が内池町の菩薩院にあったお稲荷さまが荒れ果てていたのに心を痛め当山にお移ししたものとされます。
・玉津留姫が戦乱で離れ離れになっていた妹の千代鶴姫に巡り会いたいとお稲荷さまに願をかけたところ夢の中に白狐に乗られた霊神が現れ「これより京に向いて行けば願いは叶うであろう。」とお告げがあり、京に向け出立すると焼津のあたりで袖を引くように千代鶴姫に出会ったため、お稲荷さまの神通力に感激し「袖引稲荷」と呼ぶようになったと伝わります。

・伽藍神の由緒譚の主役も玉津留姫ですから、やはりこのお寺は玉津留姫との所縁がすこぶる強いものとみられます。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。御朱印は御本尊のもののみで札所御朱印は授与されていないとのことです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釋迦牟尼佛



■ 赤城久伊豆神社 
熊谷市石原1007
御祭神:豊城入彦命、大己貴命、大山祇命
旧社格:旧石原村鎮守
元別当:羽黒山 不動院 真宗寺(熊谷市石原)
授与所:境内授与所
・赤城神社と久伊豆神社の合祀(合社)という、北関東ならではの神社です。
・『埼玉の神社』には、「『風土記稿』には『赤城久伊豆合社 赤城明神は村内の鎮守とす』と載る。これは戦国末期、古くから当地の鎮守であった赤城神社に久伊豆神社が合祀され一社となったことを示している。」とあります。
・同書によると、赤城神社は、宮城村鎮座の赤城神社から勧請。久伊豆神社は、成田氏の崇敬する神社であった。両社合祀の経緯は「忍城主となった成田氏が自らの城の防備と領内の灌漑のため、用水堀(成田用水)を開削し、その源に当たる荒川の水門に久伊豆神社を勧請したが、後に荒川の流路が変わり、境内地が浸食されるようになったので、やむなく赤城神社に合祀されることになったという。」とのことです。

・本殿は寛延三年(1750年)建立とされる二間社流造りで、向かって右側に「正一位赤城明神」の幣帛、左側に「正一位久伊豆明神」の幣帛が納められているとのこと。
秋山藤八正勝、石原吟八郎、前原藤次郎などの名工の名が棟札に残り、その力量を示す建造物として市指定文化財となっています。
・もともとの本殿・拝殿は赤城山に相対するように創建され、久伊豆神社合祀の際に建て替えられ、現在の本殿・拝殿は忍城に相対する形で建っているとのことです。

・参拝時ご不在でしたが、たしか境内にご神職の電話番号が貼り出されており、こちらに連絡すると、お出でになられて無事拝受できました。熊谷七福神(福禄寿)の御朱印は通常不授与の模様です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:赤城久伊豆神社 直書(筆書)



■ 雪渓山 普門院 松巖寺(松岩寺)
公式Web
熊谷市本石1-102
臨済宗妙心寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第2番
・情報があまりとれませんが、公式Webに「慶長元年(1596年)に喜庵西堂和尚によって開創された」とあり、『新編武蔵風土記稿』の石原村の項には「東漸寺ノ末ナリ 本尊観音ヲ安セリ 開山喜庵明暦二年(1656年)十二月七日寂ス」とあるので、江戸時代前期の開山とみられます。

・山門まわりは思いっきり和風の佇まいですが本堂はかなり個性的な意匠の近代建築で、そのコントラストがなかなか強烈です。
・御朱印は庫裡にて忍秩父観音霊場のものを拝受できました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第2番 聖観世音菩薩


■ (鎌倉町)愛宕神社・八坂神社 
熊谷市鎌倉町44
御祭神:軻遇突智命、須佐之男命、大市姫命、菅原道真公、事代主命
旧社格:(熊谷うちわ祭りの祭神社)
元別当:大善院
授与所:古宮神社(池上)授与所
・「熊谷うちわ祭」で有名な市内中心部に御鎮座の神社です。
・『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)、熊谷うちわ祭の公式Webなどから御由緒を辿ってみます。
・大永年間(1521-1528年)に本山派修験大善院三世行源法印(大膳院)が、山城国愛宕郡御鎮座の愛宕大神を勧請したのが創祀とされます。
・文禄年間(1592-1596年)に市神・八坂・伊奈利の三神を合祀し、「愛宕牛頭天王稲荷合社」として祀られるようになりました。八坂社は京都八坂神社からの勧請と伝わります。
・明治の神仏分離により別当大善院の管理を離れ、社号を愛宕神社に改号。
・昭和20年8月の空襲により当社の社殿も灰燼に帰しましたが、戦後、八木橋デパート前にあった旧社地から現社地に移転し、社殿が再建。
・もともと現社地には宇佐稲荷神社が御鎮座されていましたが、「愛宕様が移ってくるなら少しでも広い方がよかろう」ということで、同社が境内を譲って向かいの社地に遷られたといいます。

『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「本山派修験 葛飾郡幸手不動院配下 水原山ト号ス 本尊不動ヲ安置ス 愛宕牛頭天王稲荷合社」とあります。
・社号については「愛宕八坂神社」としている資料もありますが、埼玉県神社庁資料では「愛宕神社」となっています。

〔うちわ祭について〕
・江戸中期の寛延三年(1750年)、各寺社毎に行っていた祭りを町内統一の祭りとし、天保元年(1830年)、町衆により愛宕八坂神社の神輿が製作。全町合同の神輿渡御をともなう夏の祭礼は神輿祭りとして定着し、華やかさを増しました。
・もともと、この祭りは、町内各店が客に赤飯をふるまったことで「熊谷の赤飯ふるまい」として評判となっていたところ、明治24年頃(天保年間とも)から泉屋横町の料亭「泉州楼」の主人がうちわを配りはじめ、これがさらに人気を集めて「熊谷うちわ祭」として定着したといいます。

・平成元年建替落成の本殿は入母屋造銅板葺流れ向拝で、両社併記の扁額を掲げています。鳶職とゆかりのふかい神社で、鳶組合の寄進垣も置かれています。

・御朱印は、愛宕神社、八坂神社ともに古宮神社(池上)授与所にて授与されています。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:愛宕神社 直書(筆書)


2.御朱印揮毫:八坂神社 直書(筆書)



■ 星河山 千手院 石上寺
熊谷市鎌倉町36
真言宗智山派
御本尊:千手観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第3番、熊谷七福神(毘沙門天)
・「熊谷桜」で知られる寺院ですが、お寺としての公式情報は多くありません。
『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「埼玉郡上ノ村一乗院末 開山榮光 寛文十一年(1671年)寂ス 開基ハ当所ノ名主新右衛門カ先祖 竹井新左衛門尉信武ナリ 寛永十五年(1638年)九月卒ス 則開山榮光ノ父ナリトイヘリ 本尊千手観音ヲ安置ス 聖徳太子ノ作ト云伝フ座身長一尺二寸 観音堂 毘沙門堂 地蔵堂 千體佛堂。伊勢両社 鹿島社 星川池」とあります。

Wikipediaには「度重なる荒川の洪水を治めるため、熊谷を支配していた鉢形城主北条氏邦は、天正二年(1574年)松岩寺あたりから石上寺先あたりまで堤を築いた(北条堤)。現在も高所である。築堤後も堤の決壊に繰り返しみまわれ、その加護を願って堤の傍に建てられたのが石上寺である。石を積んだ上に建てられた寺という意味である。」との縁起が記載されています。

・当寺は早咲きの熊谷桜で有名です。桜の咲き駆け(早咲き)と源平合戦における熊谷直実公の先駆け(先陣)との掛詞を由来とするそうです。
・また、近年、約400本の白い曼珠沙華(ヒガンバナ)でも知られる花の寺です。

・参道階段の先に入母屋造本瓦葺の本堂。大棟に金色の鴟尾を置き、向拝の桁行五間の堂々たる伽藍です。

・御朱印は庫裡にて親切なご住職から拝受できました。山門横の掲示板に御朱印2種の見本が貼り出されていたので、御朱印に積極的なお寺様かもしれません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第3番 千手観世音菩薩(大悲殿)


2.熊谷七福神(毘沙門天)の御朱印


■ 熊野山 千形院 圓照寺
公式Web
熊谷市星川1-1
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:千形神社(熊谷市本町)、熊野神社(高城神社境内社)

・境内掲示および公式Webによると、天禄元年(970年)僧覚榮法師の創立で、熊谷市最古の名刹のようです。
・御本尊は阿弥陀如来。不動明王は「くまがやお不動様」といわれ、全国不動霊場に名をつらねているそうです。
『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「埼玉郡下中条村常光院末 開山覚榮寂年ヲ伝ヘス 本尊彌陀ヲ安ス 住吉金比羅合社」とあります。

・熊谷の中心部、星川に面して祈願寺らしい華麗な伽藍を構えています。
・境内は広くはないですが、多くの仏像が安置され、それぞれの御前に御真言が掲げられています。

・御朱印は不動明王と聖徳皇太子の2種を授与されています。

〔拝受御朱印〕
1.不動明王の御朱印


2.聖徳皇太子の御朱印



■ (宮町)高城神社
公式Web 
熊谷市宮町2-93
御祭神:高皇産霊神
旧社格:県社、延喜式内社、熊谷総鎮守
元別当:星河山 石上寺(鎌倉町)
授与所:境内授与所
・奈良時代以前の創建と伝わる古社で、『延喜式神名帳』に「大里郡一座髙城神社」と記載されている式内社に比定されています。
・天正十八年(1590年)豊臣秀吉の忍城攻めの際、当社も戦火にかかり社殿を焼失。寛文十一年(1671年)に忍城主・阿部豊後守忠秋により再建されています。

・熊谷総鎮守として地域の尊崇を集め、「節分祭」「胎内くぐり」「酉の市」などが催されています。

〔拝受御朱印〕
・参拝はしていますが、御朱印は拝受していないかもしれません。



■ 藤井山 源宗寺
熊谷市平戸611
曹洞宗
御本尊:薬師如来 観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第5番
・「平戸の大ぼとけ」として知られる曹洞宗寺院です。
『新編武蔵風土記稿』の平戸村の項には「浄土宗 足立郡鴻巣宿勝願寺末 開山源宗寂年ヲ伝ヘス 開基ヲ藤井雅楽助ト云 寛永七年(1630年)六月卒ス 本尊薬師観音ノ二像ヲ安ス 共ニ開山源宗ノ作ナリト云」とあります。
・開創時は浄土宗、現在は曹洞宗なので、いずれかの時点で曹洞宗に改宗されたとみられますが、詳細は不明です。

・熊谷経済新聞(2021.12.9)の記事によると、当寺所蔵の木彫仏像坐像は高さ3.48メートルの薬師如来と、3.93メートルの観世音菩薩で、その大きさから「平戸の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれています。木造寄せ木造りの仏像としては国内最大級とされ、市有形文化財に指定されています。

・本堂は老朽化したため令和3年に再建されています。

・御朱印は忍秩父三十四観音霊場のものを東竹院にて拝受していますが、下記のとおり現在、東竹院は原則御朱印不授与なので、こちらの御朱印も拝受できるかはわかりません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第5番 南無薬師瑠璃光如来 観世音菩薩

※ 画像探索中です。


■ 佐谷田神社 
熊谷市佐谷田310
御祭神:誉田別命
旧社格:旧佐谷田村鎮守
元別当:
旧佐谷田村八幡社:藤林山 地蔵院 永福寺(新義真言宗/佐谷田村)
旧戸出村神明社:薬師山 東福院 金錫寺(新義真言宗/戸出村)
旧平戸村他國明神社:平戸山 多寶院 超願寺(真言宗新義/平戸村)
・『埼玉の神社』によると、明治22年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となり、これにともない佐谷田の八幡社に、明治40年に戸出の神明社、大正2年に平戸の他國明神社を合祀して成立した神社です。よって、『新編武蔵風土記稿』に当社の記載はありません。(平戸の他國明神社は、後に旧地に戻っています。「長崎平戸の神を祀り他国という」との口碑があるようです。)
『新編武蔵風土記稿』の佐谷田村の項には「八幡社 (佐谷田)村ノ鎮守 永福寺持」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の戸出村の項には「神明社 社領七石ノ御朱印ヲ賜ヘリ 別当金錫寺 新義真言宗」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の平戸村の項には「他國明神社 村ノ鎮守ナリ 祭神詳ナラス 或云佳吉ヲ祀リシ社ナリト云、超願寺持」とあります。
・佐谷田の八幡社については『大里郡神社誌』に、享保七年(1722年)に宗源宣旨を受け正一位になったことや、寛政五年(1793年)に伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記載があります。

・御朱印は佐谷田神社より拝受しましたが、令和3年12月現在、佐谷田神社の本務神社は上之の上之村神社となっており、御朱印も上之村神社での授与かもしれません。(拝殿前書置きの可能性も。)

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:佐谷田神社 筆書



■ 梅籠山 久松寺 東竹院
熊谷市久下1834
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第4番、熊谷七福神(寿老人)
・源平合戦期の武将、久下次郎重光が開基、月擔承水法師が開山となり創建。深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基し寛永十九年(1642年)に寺領三十石の御朱印拝領という名刹です。
『新編武蔵風土記稿』の久下村の項には「下総國結城孝顕寺末 古は天台宗ナリシト云 本尊釋迦 開基ハ久下次郎重光、建久七年(1196年)七月卒ス 又久下権守直光 元久元年(1204年)四月卒ス コノ直光ハ重光ト父子ノ間ナルヘケレト 東鑑ニ其コトハ見エス 直光ハ熊谷直実ノ姨母ノ夫ナリト載ス 開祖ハ月擔承水法師 安貞元年(1227年)八月示寂 中興ノ開基ハ深谷ノ城主上杉三郎憲賢ニテ永禄十一年(1568年)七月卒ス 此時ノ僧ヲ的翁文中ト云」との記載があります。

・久下氏については、熊谷市江南文化財センター資料「報告 梅籠山久松寺「東竹院」に関する歴史概要」に詳しく述べられていますが、この資料によると、「久下氏は武蔵国大里郡久下郷を名字の地とする中世武家」で、治承四年(1180)、源頼朝が挙兵すると、久下直光・重光父子は熊谷次郎直実とともに平家方で参戦した。のちに頼朝方に転じて活躍、一ノ谷の合戦などに戦功をあげ、頼朝より伊豆国玉川荘・美作国印庄・丹波国栗作郷などを与えられた。」とのことです。

・御朱印は現在、庫裡前に「御朱印不授与」の旨の掲示があり原則授与されていないそうですが、「忍秩父観音霊場」巡拝中の旨告げると、ご好意で授与いただけました。ただし、これも特例的なご対応で、霊場御朱印も原則不授与かもしれません。
・団体で御朱印の授与を求められることがあり、対応できないのでこのようなかたちにしている、とのことでした。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釋迦牟尼佛


2.忍秩父三十四観音霊場第4番 南無釋迦牟尼佛



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以降は、荒川を渡った旧・大里郡江南町、大里町の寺社です。


■ 龍谷山 静簡院
熊谷市成沢125(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第11番
・関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第11番の札所を務められる曹洞宗の寺院です。
・霊場ガイドおよび山内由緒書を参考に由緒をまとめてみます。
・古くは天台宗寺院の浄閑寺の名刹でしたが一時期衰退。
・大永五年(1525年)に成澤越前守隼人正義佑が当地に武蔵成澤城を築城しました。関東管領上杉憲政の麾下であった成澤氏が、甲斐の武田信玄の侵攻に対処するため活用したとみられています。
・義佑の戦死後、上杉一門武将が守備した関係から深谷城主上杉三郎憲盛によって静簡院が創建されたと伝わります。開基憲盛の墓が寺の裏に奥津城としてあり、浄閑寺跡の石垣も現存しているそうです。

・御本尊は釈迦如来で両脇仏に文殊菩薩・普賢菩薩を安置。内陣には四天王、大間には十六羅漢の額の彫刻があります。
・関東三十三観音霊場の札所本尊の観音様は、山内に露仏として安置されています。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釋迦如来


2.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第11番 徳王観音



■ 高根山 満讃寺
武州路十二支霊場Web
熊谷市小江川827(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:武州路十二支霊場 辰(普賢菩薩)
・武州路十二支霊場の公式Webによると、開山は江南町野原の文殊寺第五世霊因祖源大和尚。天正四年(1576年)稲垣若狭守重大の臣田村茂平重次を開基とし、弘化二年(1845年)当寺第十九世当付大和尚による中興と伝わります。

・御朱印は庫裡にて武州路十二支霊場拝受しました。御本尊の御朱印については不明です。

〔拝受御朱印〕
1.武州路十二支霊場 普賢菩薩



■ 東方山 保泉寺
熊谷市小江川1317(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
・由緒等の情報が少ないですが、「江南公民館だより 令和元年9月号」によると、創立は貞観四年(892年)秋という寺伝が残り、当初は天台宗で洞仙院と号していたが荒廃してしまった。
・下って天文二一年(1552年)に野原文殊寺の第四世玉岺宗彛(ぎょくいんそうい)大和和尚を開山として曹洞宗に改め開創。
・江戸時代前期の寛永元年(1624年)、当地の領主、旗本・稲垣若狭守重太により当地に遷り伽藍を造営。その際、山麓にある清泉水の薬効にちなんで保泉寺と改めたと伝わります。
・「むさしの浄苑」を併設し、よく整備された山内。

・こちらはご縁をいただいて御朱印を拝受したもので、常時授与されているかは定かではありません。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛



■ 五台山 文殊寺
公式Web
熊谷市江南町野原623(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:文殊師利大菩薩
・「野原の文殊さま」と称され、「京都の切戸(天橋立)文殊」「山形の亀岡文殊」と並んで「日本三体文殊菩薩」のひとつとされる曹洞宗の名刹です。
・公式Webを参考に由緒などをまとめてみます。
・「三人寄れば文殊の智恵」のことわざ通り、文殊菩薩は智恵を司る仏様で、古より学業成就の願掛けに多くの人々が訪れます。
・開山は崇芝性岱(そうししょうたい)大和尚(名応五年(1497年)寂)。
・古くは五台山 能満寺という天台宗の古刹でしたが、室町期の文明十三年(1481年)に焼失。二年後に比企郡高見の四ツ山城主、増田四郎重富が再建し、曹洞宗に改めて五台山 文殊寺を号したとされています。

・名刹らしく見どころの多い山内。山門(仁王門)は江戸中期の建築と推定され熊谷市の指定文化財に指定されています。

・御朱印は本堂横の授与所にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 文殊師利大菩薩(文殊尊)



■ (高本)高城神社 
熊谷市高本562(旧・大里郡大里町)
御祭神:高皇産霊命
旧社格:村社、延喜式内社(小)論社
元別当:地蔵院(元和四年(1618年)~)
授与所:神社そばのご神職宅
『埼玉の神社』を参考に、御由緒などをまとめてみます。
・創建年代等は不詳ながら、文久三年(1863年)、相上村吉見神社の社家徳永豊洲氏が当社旧社地の地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を発見したとされ、延喜式神名帳の式内社に比定されています。
・当社の旧社地は村の北方(和田吉野川の流れに近い中街)でしたが川の氾濫で流れが変わって下流の中ノ森(高城街)に流され、これを神慮であるとしてこの地に御遷座となり、昭和45年、中ノ森が河川改修地域となった際に旧社地である中街の現社地へ再び御遷座されています。

・田畑のなかにお社が御鎮座。御遷座を示す説明板も設置されています。

・御朱印はすこし離れたご神職のご自宅そばにて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:高城神社 書置(筆書)



■ 吉見神社 
熊谷市相上1(旧・大里郡大里町)
御祭神:天照大神
旧社格:郷社、旧上吉見領総鎮守、旧相上村鎮守
授与所:神社そばのご神職宅
・旧上吉見領二三か村のうちの上・中・下の恩田は「武州恩田御厨」といわれ、伊勢神宮の神領であったことが知られています。『埼玉の神社』では御厨で伊勢神宮を分祀する例は多く知られていることから、当社もこの例の一つとして天照大神を祀ったと考えられるとしています。
・いくつかの創祀伝承が伝わります。和銅六年(713年)御諸別王が当地を巡視した折、不毛の地であることを嘆かれ、各地から里人を移して多里郡(大里郡)を置き、豊かな地となった奉賽として、天照大神ゆかりの筬を御神体として天照大神を祀ったといいます。

・古社らしい厳かな境内。御朱印は、境内向かって右手のご神職宅にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:吉見神社 書置(筆書)


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ここまでくれば東京方面への帰路、関越道・東松山ICも近いです。
結局4編構成となってしまったこの記事、やはり深谷・熊谷は御朱印王国であることを実感しました。

「青天を衝け」ですが、近代ものにしては視聴率健闘したようです。
個人的にはかなり面白く、最後まで視つづけた数少ない大河ドラマとなりました。

最後に、渋沢栄一翁ゆかりの御朱印をご紹介して、この記事を〆たいと思います。

■ 寶登山神社・寶登山神社奥宮 
長瀞町長瀞1827
御祭神:神日本磐余彦尊、大山祇神、火産霊神
旧社格:県社、別表神社
元別当:會慶山 地蔵院 玉泉寺(長瀞町長瀞/真言宗智山派)
授与所:境内授与所

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:寶登山神社 直書(筆書)

「青淵ゆかりの地」の印判が捺されています。「青淵」とは渋沢栄一翁の号です。

御朱印揮毫:寶登山奥宮 書置(筆書)

「寶登山は千古の霊場」の印判が捺されています。
これは栄一翁が八十八歳のときに揮毫した軸にちなむもので、参道には栄一翁揮毫の石碑が建立されています。


【写真 上(左)】 栄一翁揮毫の石碑
【写真 下(右)】 宝登山山頂

栄一翁は熊谷と秩父を結ぶ秩父鉄道の延伸を援助し、秩父セメントの設立にも力を貸しました。
秩父や長瀞の発展に、栄一翁の貢献は多大なものがあったとされています。

【予告】
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は鎌倉がメインの舞台となります。
年明けからは、かなり無謀な企てですが「鎌倉市の御朱印」にトライしてみたいと思います。


【 BGM 】
■ 潮見表 - 遊佐未森


■ 夢の途中 - KOKIA


■ far on the water - Kalafina
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■ LPの復権?(■ utsuboの音楽遍歴-4 【 洋楽1983年ピーク説 】)

2021/12/21 UP

さっきTVのニュースでLPの人気が上昇中との特集をやっていた。
触発されて(笑)、数年ぶりに書庫の奥の奥から引っ張りだしてLPを手にとってみました。
ほとんど実家にあるのですが、手元にも数百枚程度はあるので・・・。

やっぱり重い、そして扱いにくい。下手に立て掛けると倒れるし、平置きすると場所はとるし・・・。
でも、ジャケットに圧倒的な存在感がある。


ジャンルばらばらにぶちまけてみました。


佐野元春『No Damage』。見開きジャケの存在感。


【写真 上(左)】 歴史的名盤Roxy Musicの『Avalon』(1982年オリジナル盤)
【写真 下(右)】 『Avalon』のレーベル


CDは軽いし、見やすく探しやすい。でも・・・


この程度の存在感。


以前書いた ↓ の記事にCDの音をはじめて聴いたときの違和感について書いています。
↑のTVの特集でも、誰かが「音がちがう」とコメントしていたけど、たしかに音の質感が明らかに違う。
LPから録音したカセットテープにも、このLPの音の質感は残っている。
CDにデジタル化するときの、音域カット(倍音などが失われてしまう?)が影響しているのではないか?

LPなんてここ10年くらい聴いてないし、オーディオが生きているかもわからないけど、時間をつくってひさびさにトライしてみようと思います。

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せっかく奥から引っ張り出してきたので、遊んでみました(笑)

■ Rockの名盤特集


■ BCM(ブラコン)特集


■ Fusion特集


■ 英国funka latina特集


日本版といえば帯ですね。
ベタなコピーがなんとも・・・。


CDにも帯はありますが・・・。


LPとCDをくらべてみました。



ラックへの収まり方もだいぶ違います。

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2020/01/18 UP

このところ、1970~80年代のPop-Musicの再評価が、洋楽・邦楽問わず進んでいるような気がします。
わたしは以前から「洋楽1983年ピーク説」を勝手に唱えていますが、改めて考えると、洋楽が1983年頃に大きく変容したため、結果として1983年が洋楽の(個人的な)ピークとなったような感じがしています。

なので、その「変容」について書いたこの記事を「洋楽1983年ピーク説」とサブタイトルし、以前にUPした楽曲集を「1983年洋楽ピーク説(名曲編)」 として整理しなおします。


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1983年から1984年にかけて起こった洋楽シーンの変容は、わたしにとって大きな転機となりました。
ここではその状況について書いてみます。

〔 失速 / AORの巻 〕
百花繚乱の様相をみせていた'82年の洋楽シーン。
だが、このころからAORシーンの変質がびみょ~に気になりだしていた。
ディールを得ていたAORに他ジャンルからの参入があいつぎ、MORやカントリーシーンからもAORライクなアルバムがつぎつぎと送り出された。
Jesse Colin Young『The Perfect Stranger』('82)、Lee Greenwood、『Somebody's Gonna Love You』('83)、Larry Lee(Ozark Mountain Daredevils)『ロンリー・フリーウェイ(Marooned)』('82)などがその好例だ。


■ Larry Lee 「Don't Talk」 (1982)

彼らは個性も実力もあるので、なかなかのアルバムに仕上がっているが、「そいつは違うんでないかい?」と感じたのが、ベタでMORチックな新人が”AORの新星”とかタイトルされ売り出されてきたことだ。
リズムやアレンジが複雑なAORでは歌の巧さが高度に要求されるが、そこまでの実力も経験もない新人がつぎつぎと参入してきた。

ところで、当時洋楽(AOR)好きのあいだで常識となっていたのが「クレジット買い」だ。
これはなじみのないアルバムを、裏ジャケに載っているバック(スタジオ)ミュージシャンの顔ぶれ(=credit)を確認して買うというもので、当時のAORシーンでバック(スタジオ)ミュージシャン達がいかに重要なポジションを占めていたかがわかる。
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■ Alan O'day 『Appetizers』 (1977)



ジャケのクレジット ↓

Jeff Porcaro : drums
Scott Edwards&Lee Sklar : bass
Michael Omartian : keyboards
Dean Parks&Jay Graydon : guitars
Victor Feldman : percussion
Jim Horn : horns
Arranged by Michael Omartian

Alan O'day知らなくても、↑のクレジットみたら”即買い”かと・・・。

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これら経験豊富な一連のバックミュージシャンのセッションは抜群に安定していて、MORだろうがカントリーだろうが持ち前のワザとセンスで洒落たAORに仕立ててしまう。
なので、上にあげたAORへのシフトは、「AOR系バック(スタジオ)ミュージシャンの起用」でほぼ9割方達成されるといっても過言ではない。

Boz Scaggs - Lowdown (Live-HQ)

■ 名うてのスタジオミュージシャンがサポートしたBoz Scaggsの名曲。ばりばりのグルーヴ感

↓ Vinnie Colaiuta(ds)&Neil Stubenhaus(b)&Russell Ferrante(key)という、AOR的にはほぼ最強のラインナップ。Vo.が名手Howard Smithなのでかなりの出来に仕上がっているが、ここまでお膳立てされたら誰が歌ってもAORになると思う(笑)
Robben Ford 「Save Your Night for Me」 (1983)


裏返していうと、生半可なボーカルだと完璧にバックに喰われてしまう。
じっさい、AOR後期('83年~)にはバック一流、ボーカル三流という、だれが主役だかわからないアルバムがいくつも出された(あえて例はあげぬが・・・(笑))。
後年、AORが批判の矢面に立たされたときの常套句に「ワンパターン」「没個性」「誰が歌ってもおなじ」というのがあるが、少なくとも後期AORについては、わたしは反論できない・・・。
(余談になるが、邦楽、とくにアイドル系でこれら米国スタジオミュージシャンをレコーディングに起用した例は意外に多い。)

初期のAORは違った。
もともとAORの醍醐味は、Rock、R&B、Jazz、Ethnoなどが渾然一体に混じり合うところにあり、当然、アーティストはおのおのアイデンティティをもっていた。
たとえば、Boz ScaggsBobby CaldwellBill LaBountyはブラックミュージックの影響を受けていたし、Michael FranksBen SidranはJazzやBossa Novaのエッセンスをもっていた。J.D.SoutherPhotogloには古きよきR&Rの香りがあった。


■ Bill LaBounty 「Room205」 (1978)


■ Michael Franks 「One Bad Habit」 (1980)


■ J.D.Souther 「You're Only Lonely」 (1979)

なので、AORというのはもともと分類ジャンルではなく、「ポピュラーミュージックのさまざまな要素を盛り込んだソフトでメローなイメージをもつ、アダルト向けの音楽」を意味したと思う。
この手の音楽が初期に「ソフト&メロー」や「クロスオーバー」と呼ばれたのがそのことを如実に物語っているし、現在、米国でこの流れを汲むフォーマットは、分類ジャンルをつけず単にアダルト・コンテンポラリー(Adult Contemporary/AC)と呼ばれている。


■ Homi & Jarvis 「It Didn't Work Out That Way」 (1983)
↑いろいろな要素がほどよくバランスして、テクニカルだけどさらっと流せる曲も多かった。

AORがそのマーケット性を拡大したときに、”AOR”でイメージされる楽曲のパターンができあがり、それを得意とするミュージシャンがAORというジャンルフォーマットをつくりあげた。(たとえば、「After The Love Is Gone」/Airplay、Michael McDonaldの一連の楽曲など)これらは音楽的にはすこぶる質の高いものだが、あまりに氾濫するとどうしても没個性になっていく。


■ Michael McDonald 「That's Why」 (1982)

これと並行して、プロデューサーの地位上昇が進んだ。
もともとAOR界にはTommy LiPumaJay Graydon、Randy Goodrum、James Strondなど著名なプロデューサーがいたが、彼らはどちらかというと、ミュージシャン達のよきとりまとめ役であったような気がする。
これに対して、'83年頃からはプロデューサーが強力なイニシアティブをとり、アルバムコンセプトから果てはマメジメントに至るまで関与するようになっていく。このような体制のもと、楽曲はサビメロで固められ一分の隙もないアレンジが施された。
楽曲としての完成度はたしかに高いが、なんとなく音に隙間がなく、厚化粧で息が詰まるような曲が増えていった。

初期のAORでは、リズムセクションがグルーヴをキープし、そのうえでVoやリード楽器(Key,g,saxなど)が伸びやかに泳ぐというパターンの曲が多かったが、このころからきっちりとプロデュース、というかむしろオーバープロデュース気味の作品が増えてきた。

これはバックミュージシャンが多忙すぎて、セッションを楽しむ余裕をなくしたことも大きいと思っているが、いずれにしてもこの時点で「アーティスト&ミュージシャンの時代」から「プロデューサーの時代」への変化が起こった意味は大きく、これと歩調を合わせるようにしてAORシーンは急速に失速していく。

〔 パラダイム・チェンジ / ブラックミュージックの巻 〕
Rapの先駆とされる、The Sugarhill Gangの登場は1979年。
それでも1982年頃まではブラックミュージックのメインストリームは、なおセルフコンテインド・グループ(Selfcontained Group)にあった(と思う)。
これはいわゆる自給自足バンドで、一般にはボーカル・コーラス、リード楽器からリズムセクションまで、すべてグループ内で補う大型ファンクバンドをさす。EW&FAtlantic StarrSkyyDazz BandLakeside、One Wayなどがその代表例だ。


■ Skyy 「Show Me The Way」 (1983)

リズムセクションが叩き出すグルーヴのうえでダイナミックなコーラスやファルセットを展開、Up~Balladeまで多彩な名曲を提供する彼らはディスコの花形だった。
しかし、大人数ゆえ、その維持にはコストがかかる。おりしも景気の下降局面にあった米国で、その状況は次第にきびしいものとなっていく。


■ B B.&Q.Band 「(I Could Never Say) It's Over」 (1982)

異論はあると思うが、勢力を拡大しつつあったhip hop/Rap系が一般的な意味で大ブレークしたのは1983年Herbie Hancockの『Future Shock』に収録された"Rock It"だと思う。
大胆なスクラッチが導入されたこの曲は、たしかに異様なインパクトがあった。
低コストで斬新な音を産み出せるこれらの流れは、またたく間にブラックシーンに浸透していった。


■ Herbie Hancock 「Rock It」 (1983)

その勢いはパラダイム・チェンジといえるほどすさまじく、すでに1984年の時点でリズムをデジタルサンプリングしていない新譜を探すのがむずかしいほどだった。
経済的に苦境を迎えていたSelfcontained Groupはつぎつぎと瓦解し、ボーカルはソロとして独立。残ったメンバーはRap系小ユニットやバラードグループとして余命を保つことになる。

このなかでは、バラードに活路を見いだした連中が気を吐いた。
彼らはニュー・クラシック・ソウル(New Classic Soul)などと呼ばれ、甘甘ながらなかなかに聴かせる作品を残している。


■ Atlantic Starr 「Secret Lovers」 (1985)/ New Classic Soulの例


Force MD's - Tender Love (1985)

'80年代後半まではいわゆるレディ・ソウルも好調だった。Whitney Houstonのデビューは1983年だし、Anita BakerNatalie Cole、そしてKlymaxxなどの女性グループも80年代中期以降にいいアルバムを残しているので、AORほどの強烈な失速感はない。


■ Natalie Cole 「Miss You Like Crazy」 (1989)/ '80年代後期のLady Soulの例


■ Klymaxx 「Finishing Touch」 (1990)/ 抜群のメロディライン


■ Genobia Jeter 「Take A Look」 (1986) こんな曲も・・・

それでもわたしのなかでのブラックミュージックは、やはりSelfcontained Group。
彼らは”レア・グルーヴ(Rare Groove)”(広義です(笑))とジャンルされ、のちに腐るほどカバー、サンプリングされることになる。

〔 ボーダーライン / ポップミュージックの巻 〕
1983~85年までのおもなヒット曲をみると、
Every Breath You Take(The Police)、Billy Jean・Beat It・Thriller(Michael Jackson)、Maneater・Out Of Touch(Hall & Oates)、Let's Dance(David Bowie)、When Doves Cry(Prince)、Against All Odds(Phil Collins)、Jump(Van Halen)、Hello(Lionel Richie)、Girls Just Want To Have Fun(Cyndi Lauper)、Careless Whisper(Wham!)、Like A Virgin(Madonna)、We Are The World(USA For Africa)など、ビッグネームたちの錚々たる代表曲が並んでいるようにみえる。

たしかに、Michael Jacksonの『Thriller』のビデオクリップは圧倒的なインパクトがあった。でも、曲的にはひとつ前のALBUMの「Don't Stop 'Til You Get Enough」、「Rock With You」などの方がしっくりときていた。
Hall & Oatesにしても「Maneater」よりも「Wait for Me」「Kiss on My List」などが、Princeにしても「When Doves Cry」より「Little Red Corvette」の方が曲としての魅力を感じた。


■ Hall & Oates 「Maneater」 (1983)


■ Hall & Oates 「Wait For Me」 (1979)

Madonnaについても、Studio1stALBUM「Madonna」(1983)と大ヒットした「Like a Virgin」(1984)を聴き比べたときに同じような印象を抱いた。


■ Madonna 「Holiday」(「Madonna」(1983)収録。リズムに新しいテクノロジーは入ってきているものの、曲全体のイメージはこれまでの洋楽の流れを引き継いでいる。)

先日、同世代の友人たちと飲んだときに、こんなハナシが出た。
それはいま振り返ると、H&Oにせよ、Journeyにせよ、世間で大ブレークしたときにはすでにピークを過ぎていたのではないか? ということだ。
そして、この大ブレークする直前にこの世代にとって面白い音楽とそうでなくなってしまった音楽のボーダーラインがあるというのだ。(「14番目の月」説)

例えば、H&Oの『Private Eyes』('81)と『H2O』('82、ブレークは'83)。前者は全米5位だが、後者は全米1位で彼ら最大のヒットとなった。

でも『H2O』を聴いたとき、「なにか違う」という違和感を感じたことはたしかで、大ヒットした"Maneater"もたいした曲には思えなかったわけだ。
Journeyにしても、データ的には『Escape』('81)のほうが売れているが、日本での反響は『Frontiers』('83)のほうが大きかったような気がする。

そして『Frontiers』をきいたときも『H2O』とおなじ違和感を覚えた。
Michael Jacksonもそうで、少なくとも仲間うちでは、歴史的メガヒットとなった『Thriller』('83)より前作『Off The Wall』('79)の評価が高い。


■ Journey 「Still They Ride」 (1981) / ALBUM『Escape』収録

このとき感じた違和感が何だったかは断言できないけれど、厚化粧で妙な圧迫感があり、心底から音に浸れない心地わるさがあったように思う。
そして、その原因はやはりオーバープロデュース、いいかえれば、楽曲が”作品”から”商品”へと変化しはじめたことが大きいような気がする。


■ Michael McDonald 「Our Love」 (1985)
個人的には「AORの時代」の終焉を告げたと思っている名曲。


■ Patti Austin 「if i belive」 (1985/Qwest)
Quincy Jonesの秘蔵娘、Patti Austinの名曲。女性Vo.だが、これも「AORの時代」の幕引きを感じる曲のひとつだと思う。

音楽をめぐる環境もこのころ大きな変貌を遂げていた。
MTVが一躍人気を集め、若者向けの飲食店などでもふつうに流されていた。
楽曲のよしあしより、ビデオクリップのできに話題が集中し、「ビデオクリップのでき(=MTVでの見映え)が悪いと、曲がよくてももはやヒットしない。」などと揶揄されたりした。

一方、1982年秋に発売が開始されたCDは、またたく間に市場シェアを上げ、1986年にははやくも販売枚数ベースでLPを追い抜いた。
CDはたしかに手軽で便利だが、はじめてその音を聞いたとき感じたいいようのない違和感はいまでも忘れられない。

妙な閉塞感があり、スネアやハイハットの音がすこ~んときれいに抜けないのだ。
「これはひょっとして音楽のつくり方や質じたいが変わっていくのでは?」という漠たる予感があった。
そして、事態はその予感をはるかに超えるスピードで進行した。

この頃Rapはますます勢力を拡大し、「hip hop(いまで言う”Old School”)」といわれる一大ムーブメントを形成しつつあった。
おりしもRock Steady Crewなどにより紹介されたブレイクダンス(breakin')が日本でも広まり、1983年_On SaleのHerbie Hancockは「Rock it」でGrandmixer DSTのスクラッチをとり入れ一世を風靡したのは↑に書いたとおり。

このような動きは当然のことながらRock/Pop Marketにも大きな影響を与え、次第にストリート感やアグレッシブな雰囲気が求められるようになっていった。
メロディ・ハーモニー・リズムがバランスよく構成されていたそれまでの楽曲にくらべ、リズム(というかピッチ)が極端に重視されるようになった。
これは端的にいうと、「メロディの時代」から「リズム(ピッチ)の時代」への転換だったのではないか・・・。

単発的にこういう↓名メロ曲はでたけどね。

■ Starship 「We Built This City」 (1985)


■ BRUCE HORNSBY and the Range 「THE WAY IT IS」 (1986)


■ Boy Meets Girl 「Waiting for a Star to Fall」 (1988)

いま振り返ると、ポピュラーミュージックをめぐるこのような環境の変化が重なって、(すくなくともわたしにとっては)「新譜を聴くのがあまり面白くない時代」に入っていったのではないかと思う。
(さらにもう1回つづきます。)
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)


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■ utsuboの音楽遍歴-1 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-2 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-3 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)
■ utsuboの音楽遍歴-4 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)【1983年洋楽ピーク説】
■ utsuboの音楽遍歴-5 (洋楽1983年ピーク説とカラバトU-18黄金世代説をつなぐもの)

1979年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
1980年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
1981年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
1982年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)

黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
1983年洋楽ピーク説(名曲編)
AOR系名曲を100曲! ※リンク切れあり
AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のリズム
AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のデュエット
プログレハードの名曲

女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
女神系歌姫【Angel Voice列伝 】のリスト(110曲)(カラバトU-18系含まず、リンク切れ多数)
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【旧記事】■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPしています。
以下の最新記事をご覧ください。(この記事は最新ではありません。)


〔最新記事〕
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1(旧 大里町エリア/旧 江南町エリア/旧 熊谷市エリア-1)
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)へつづく。
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1(旧 川本町エリア/旧 花園町エリア/旧 深谷市エリア-1)
■ 埼玉県深谷市の御朱印-2(旧 深谷市エリア-2)

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〔村の鎮守十社めぐり〕
当初は「以下10社について御朱印を拝受していますが、長井神社と大杉神社以外は常時授与かどうか不明なのでとりあえずリストのみです。」としましたが、令和2年秋に案内パンフが作成され、実際に御朱印も拝受していますので、ご参考までにUPします。
なお、現時点では御朱印は原則不授与かもしれません。詳細は長井神社宮司様にご確認ください。



情報が少ないですが、現地掲示のほか、案内パンフ、『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)、『新編武蔵風土記稿』などを参考にまとめてみます。

1.(日向)長井神社 熊谷市日向
2.(俵瀬)伊奈利神社 熊谷市俵瀬
3.神明社・大杉神社 熊谷市葛和田
4.(大野)伊奈利神社 熊谷市大野
5.(弁財)嚴島神社 熊谷市弁財
6.善ヶ島神社 熊谷市善ヶ島
7.(八ツ口)日枝神社 熊谷市八ツ口
8.江波神社 熊谷市江波
9.西城神社 熊谷市西城
10.八幡大神社 熊谷市上須戸

■ (日向)長井神社 
熊谷市日向1090
御祭神:品陀別命、息長帯姫命
旧社格:村社、旧日向村鎮守
元別当:三学院(日向村、当山修験)
授与所:境内脇社務所
・江戸時代には八幡社と称された旧日向村の鎮守社。(明治9年現社号に改号)
・天喜五年(1057年)、源頼義公が安陪貞任討伐の折にこの地に滞留されたとき、竜海という池に棲み村人を悩ましていた大蛇の退治を島田大五郎道竿に命じた。頼義公より弓矢と太刀を下賜された道竿は、竜海から利根川まで堀(道竿堀/どうかんぼり)を掘り、池の水を利根川に落としてこの四丈もの大蛇を退治した。頼義公は東北地方平定の吉事として、大蛇を倒したところに当社を、大蛇の出現したところに弁財天を祀ったといいます。
・暦応元年(1338年)、足利尊氏が再興、戦国時代には忍城主成田長泰が信仰した記録が残ります。

『新編武蔵風土記稿』の日向村の項に八幡社があり、上記の「竜海伝説」が詳細に記載されています。
・本地堂の御本尊は阿弥陀如来で、これは八幡神の本地が阿弥陀如来とされたことと符合します。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:長井神社 筆書



■ (俵瀬)伊奈利神社 
熊谷市俵瀬489
御祭神:
旧社格:旧俵瀬村鎮守
元別当:寶林山 妙音寺 成就院(俵瀬村、新義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・俵瀬は利根川と福川に挟まれた島状のエリアで、『新編武蔵風土記稿』には俵瀬村の項に稲荷社が記載されているものの「成就院持」としかありません。
・これにはさすがの『埼玉の神社』も困り果てたらしく、成就院の記載を引き「成就院は慶安四年(1651年)の草創と伝えている。当地が一村としての体裁を整え始めるのが寛永(1624-1645年)の末ごろと思われ、当社の創建も、別当成就院と前後して行われたものであろう。」と記されています。
・江戸時代には「稲荷社」と称し、明治初期に「伊奈利社」と改め、明治41年合祀政策により同大字の神明社、厳島神社を合祀し、大正2年には堤防工事に伴い利根川縁にあった当社を厳島神社の旧社地に御遷座と伝わります。

・厳つい石垣の上に入母屋造桟瓦葺でどっしりと鎮座するお社は、ながらく水害と闘ってきた俵瀬の地の鎮守社ならではのお姿に思えます。

 
〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市俵瀬 伊奈利神社 筆書


■ (葛和田)神明社・大杉神社 
熊谷市葛和田591 大杉神社は(葛和田)神明社の境内社
御祭神:天照皇大神、大杉大神
旧社格:旧葛和田村鎮守
元別当:瑠璃光山 東光院 醫王寺(葛和田村、古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・伊勢の御師が当地に逗留した折に奉齋した社であると伝わります。
・旧社地は現在利根川の川中にあり、数回の移転を経て高台の現社地(氷川神社の社地)に御遷座とのこと。
『新編武蔵風土記稿』の葛和田村の項に神明社があり「氷川ヲ合殿トス 村ノ鎮守ナリ 別当醫王寺」とあります。

・境内社の大杉神社(あんば様)の祭礼は利根川の流れに大御輿・大杉御輿を乗り入れるもので、「葛和田の勇み御輿」「関東一のあばれ御輿」として広く知られています。
・江戸時代の葛和田の地は利根川の河岸場として賑わいました。あるとき、与助という腕のいい船頭が霞ヶ浦の西浦で暴風雨に襲われ窮まったとき、日頃から信仰している大杉明神に祈りをささげると神佑を得て難を逃れました。このご神徳への御礼と今後の船路安全祈念のため、茨城県稲敷の大杉神社から勧請し、御輿を造営したと伝わります。
・当初は利根川に注ぐ道竿堀の南に御鎮座でしたが、大正3年堤防工事に伴い現社地に御遷座・合祀されました。

・御朱印は(日向)長井神社社務所にて拝受しました。
・Web上では神明社の御朱印がみつかりますが、現在は大杉神社の御朱印のみ授与とのことです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:大杉大神 筆書



■ (大野)伊奈利神社 
熊谷市大野751
御祭神:豊宇気比咩命
旧社格:旧村社、旧大野村鎮守
元別当:大野山 利劔寺 文殊院(葛和田(大野)村、古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・〔村の鎮守十社めぐり〕のなかではもっとも利根川に近く、利根川の堤防下に鎮座します。
・江戸期には大野村は葛和田村の一部とされ、『新編武蔵風土記稿』には葛和田村の項に「稲荷社二宇 一ハ文殊院 一ハ正泉寺持」とあり、『埼玉の神社』には文殊院が別当とあるので、こちらが該当とみられます。
・ただし、『埼玉の神社』には「宝暦六年(1756年)の伏見稲荷からの分霊証書に『武州 大野村鎮守』とあることから、当時既に『大野村』という名称が使われており、葛和田村から実質は独立していたことがわかる」とあります。
・上記のとおり、宝暦六年(1756年)には伏見稲荷からの分霊証書を受けて創祀しています。
・地形からしても、なにより水害防除が求められる地とみられ、『埼玉の神社』には「伊奈利社を(利根)川の側に勧請することによって水害から村を守ろうとした開発者の心情が推察される。」とあります。
・小山状の高台に鎮座し、参道右手が旧文殊院跡。その手前に大国主尊、参道階段右手に三峰社、拝殿左手には馬頭観世音菩薩、庚申様、青面金剛が祀られています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市大野 伊奈利神社 筆書



■ (弁財)嚴島神社 
熊谷市弁財174
御祭神:
旧社格:弁財地区鎮守
元別当:辨財山 醫王院 薬王寺(辨財村、古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「当地(弁財)は大昔利根川の流れの中にあったが、やがて流路が変わり、自然堤防を形作った所である。」とあり、河川とのかかわりから弁財天が祀られたとする一方、口碑に「当地の草分けであり、屋号を庄屋と呼ぶ大島清和家の先祖が祀った。」とあり、「同家は平家の落人であり、そのゆかりから嚴島神社を祀った。」という説にも触れています。
『新編武蔵風土記稿』の辨財村の項に辨財天社があり「村名ナリシテ見レハ古社ナルヘケレト傳ヘテ失フ」とあります。

・(日向)長井神社縁起の竜海伝説では、大蛇の出現したところに弁財天を祀ったとされ、この弁財天を当社とする説と(日向)長井神社境内の宇賀神(弁天様)とする説があるようです。
・『埼玉の神社』では、享保十六年(1731年)の利根川大洪水の折、当地に沼ができて、その後沼の主と呼ばれる大蛇が棲み、それが竜海伝説に重なったと指摘しています。

・こちらも社叢のなかに御鎮座。拝殿は石垣のうえに入母屋造桟瓦葺で、主屋根の軒に瓦屋根の向拝を重ねるようにせり出し変化のある意匠。
・弁財天や厳島社はもともと蛇とのゆかりがありますが、向拝の屋根飾りにも蛇の姿がみられます。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:嚴島比賣 筆書



■ 善ヶ島神社 
熊谷市善ヶ島197
御祭神:
旧社格:旧善ヶ島村鎮守
元別当:光明山 福壽院 龍泉寺(善ヶ島村、古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』『パンフ』には、当地は当初葦が生えた島で葦ヶ島と呼ばれたが、後に利根川の流れが変わり、近村と地続きになり善ヶ島と改めた。また、1500年頃の蔵王権現社の勧請が当社の起源とされ、当初は蔵王権現社、明治初期に御嶽神社と称し、明治42年に善ヶ島神社に改称といいます。
・明治41年には大字裏久保の愛宕神社と、上元割の阿夫利神社を合祀。地元では合祀社の阿夫利神社に因み「阿夫利様」と呼ばれることが多いそうです。

『新編武蔵風土記稿』の善ヶ島村の項に蔵王権現社があり「永正(1504-1521年)年中の勧請ト云 龍泉寺持 末社 天神 疱瘡神 摩陀羅神」とあります。
・金剛蔵王権現は修験系の尊格で、ことにの吉野の金峯山寺本堂(蔵王堂)の御本尊として知られています。
・当社の現在の主祭神は不明ですが、金剛蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊、金山毘古命との習合例が多く、明治の神仏分離時、金剛蔵王権現を祀る堂祠は上記の神々を祭神とする神社となった例がみられます。
・末社に摩陀羅神の名がみられます。すこぶる複雑な性格をもたれる尊格として知られ、東日本で祀られる例は多くありません。
・別当龍泉寺は古義真言宗で赤岩光恩寺の末。赤岩光恩寺の寺伝には「推古天皇11年(603年)には秦河勝を勅使として仏舎利三粒が納められた」とあります。(秦河勝と摩陀羅神は強い関係があるとされる。)
・当社に摩陀羅神が祀られていた背景には、このような所縁が関連しているのかもしれません。
・現在も、複雑な由緒を想起させる境内社が複数ご鎮座されます。

・社叢のなか、入母屋造桟瓦葺向拝付設の社殿と境内社が御鎮座。
・鳥居、灯籠ともに大きく嵩が上げられ、拝殿も数段高く、水害防除が大切な地であることを物語っています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:善島神社 筆書


■ (八ツ口)日枝神社 
熊谷市八ツ口922
御祭神:
旧社格:旧村社、旧八ツ口村鎮守
元別当:●源山 長昌寺(八ツ口村、禅宗臨済派)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「(別当の)長昌寺は、天文元年(1532年)に成田氏に従い武川の合戦で討死した山田弥次郎の菩提追福のために、その父山田伊平が、弥次郎の領地であったこの地に草創した寺院である。当社の成立背景には、長昌寺の僧とのかかわりが考えられるが、明らかにできない。」とあります。
・同書によると、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようです。
『新編武蔵風土記稿』の八ツ口村の項に山王社があり「村ノ鎮守ニテ稲荷ヲ合殿トス 長昌寺持」とあります。
・元別当の長昌寺は幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第88番の結願寺で、相応の寺格をお持ちかと思いますが、現在のところ御朱印は拝受しておりません。

・社頭に朱塗りの2つの鳥居。向かって左手が日枝神社、右手が八坂神社と伊奈利社です。
八坂神社の夏祭りの御輿渡御は、以前は「暴れ御輿」として広く知られていたようです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市八ツ口 日枝神社 筆書



■ 江波神社 
熊谷市江波315
御祭神:菅原道真公
旧社格:旧村社、旧江波村鎮守
元別当:福原山 寶蔵院(江波村、古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「明治四十一年の改正まで天神社であったことから、氏子にはいまだに天神様と呼ばれている。(中略)明治四十一年、字西嬉愛の宇知多神社(妙見社)と字道上の稲荷神社の無格社二社を合祀した。」とあります。
・同書によると、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようです。
『新編武蔵風土記稿』の江波村の項に天神社があり「村ノ鎮守トス 寶蔵院持」とあります。

・一面の麦畑のなかに浮かぶように、切妻造瓦葺妻入りの社殿が御鎮座。向拝も切妻の屋根がかかり、めずらしい様式の社殿です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:江波神社 筆書


■ 西城神社 
熊谷市西城2
御祭神:
旧社格:旧村社、旧西城村(本郷)鎮守
元別当:浄瑠璃山 薬樹院 長慶寺(西城村、古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「西城の地名は、かつてこの地に左近衛少将藤原義孝の居舘があったことにちなむものといわれ、古来、西城の村は郭(くるわ)と呼ばれる幾つかの小さい集落に分かれ、神社の祭祀もまた郭ごとに鎮守として各々神社を祀っていた。明治維新の際、社格を定めるに当たり、(大天貘社は)村内の諸社の中で最も規模が大きく、村の中で最も早く開かれた本郷の鎮守であったことから、当社が西城村の村社になった。恐らく、明治9年に村社となった時に村名を採って西城神社と社名を改めたものであろう。明治42年には、字東田鎮座の稲荷神社と字鴉森鎮座の厳島神社を合祀し現在に至っている。」とあります。
・また同書には「境内にある勝根神社は、古くから当社の末社として祀られており、その祭神は大物主命である。当社(大天貘社)が元は本郷だけで祀る神社であったのに対し、勝根神社は初めから(西城)村全体で祀る神社」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の西城村の項に大天貘社があり「村ノ鎮守トス 長慶寺持」とあります。

・西城神社は入母屋造桟瓦葺、「西城神社」と彫り込まれた棟飾りは精緻で一見の価値があります。
・向かって左手に御鎮座の勝根神社は、切妻造桟瓦葺の整った社殿で「村全体で祀ってきた神社」としての重みを放たれています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:西城神社 筆書



■ 八幡大神社 
熊谷市上須戸838
御祭神:
旧社格:大字上須戸鎮守、(旧長井村総鎮守)
元別当:福原山 開城院 正法寺(上須戸村、天台宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の上須戸村の項に八幡社があり「八幡社 辨天社 何レモ社領ヲ附ラル年代下●出セリ 別当正法寺」とあります。
・『埼玉の神社』の内容は、(日向)長井神社の「竜海伝説」とほぼ同様で、このエリアに広く伝わっていたことが伺われます。

・うっそうと茂る社叢。木造朱塗りの両部鳥居、石造の明神鳥居の正面おくに入母屋造桟瓦葺平入り流れ向拝の八幡神社、向かって右手には切妻造桟瓦葺妻入りの八坂大神が御鎮座されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市上須戸 八幡大神社 筆書



■ 寶積山 白道院 大龍寺
公式Web
熊谷市葛和田898
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第15番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第21番
・名刹のようですが、現地、Webともに詳しい情報がとれませんでした。
『新編武蔵風土記稿』の葛和田村の項に記載がありますので抜粋引用します。「館林町善導寺末 開山ハ幡随意上人元和元年正月示寂 開基ハ成田氏ノ臣嶋田采女正ナリ コノ子孫今村民六兵衛ナリト云 本尊阿弥陀ヲ安セリ 荒神社 愛宕社 不動堂 観音堂」。
・幡随意(ばんずいい)上人は、 慶長二十年(1615年)寂と伝わる浄土宗の名僧で、鎌倉光明寺で教学を修められ、後に京都百万遍知恩寺の三十三世住持。徳川家康公の信任厚く、駿河台に新知恩寺(のちの幡随院)を開創、熊谷の名刹、熊谷寺(ゆうこくじ)の中興など全国で寺院を創立・再興されました。
・当寺所蔵の「幡随意上人の書」、本堂に御座す「三十三体観音像」(元禄期、寄木造金泥)は市の文化財に指定されています。

・名刹らしい風趣のある山内。御朱印は庫裡にて書置のものを拝受しました。御本尊および幡羅郡新四国霊場の御朱印は授与されていないとのことです。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第15番 三十三体観世音菩薩



■ 瑠璃光山 浄光院 福生寺
熊谷市日向1154
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第34番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第4番
・こちらも御由緒詳細がとれませんが、山内石碑には「四九四年前に開創せられし名刹」とあり、『新編武蔵風土記稿』の日向村の項には「邑楽郡赤岩村光恩寺末 開山専祐寛永十八年(1641年)寂 本尊大日ヲ安セリ 薬師堂」とあります。

・重厚な山門、本堂、観音堂を擁して山内はよく整っています。
・こちらは忍秩父三十四観音霊場第34番の結願所で、札所本尊は馬頭観世音菩薩。御本尊の大日如来は幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の札所本尊でもあり、こちらの御朱印も授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第34番 馬頭観世音菩薩


2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第4番 大日如来



■ 浄瑠璃山 薬樹院 長慶寺
公式Web
熊谷市西城93-1
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来・薬師如来?
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第46番
司元別当:西城神社(西城村、旧西城村(本郷)鎮守) 
・こちらは詳細な公式Webをお持ちなので、そちらから引用させていただきます。
・南北朝の永和二年(1376年)、慶弘という僧が伝・行基作の薬師如来像を祀り開創。赤岩光恩寺の末寺で、歴代の住職が隠居されていました。
・薬師如来像は12年に一度、寅年の御開帳で信仰を集めているようです。

・本堂と薬師堂、薬師堂厨子は、2020年9月に市の有形文化財に指定されています。
・ともに、上州花輪村の名工・石原吟八郎のグループと、「歓喜天聖天堂」の棟梁の林兵庫正清を中心に建立。江戸期のこの地の彫物師集団の技巧を示す作品として評価されています。

・本堂には阿弥陀如来、薬師堂には薬師如来が御座します。
公式Webに「本堂の阿弥陀如像は、宝永年間(1704-1711年)に祀られた。平成26年遷座300年目に修復。本尊とご縁を結び、人生を輝いて全うできるように御手綱を握ってお参りができる」とあるので、当寺のいまの御本尊は阿弥陀如来とみられますが、宝永年間までの御本尊は薬師如来とみられ、現在でも御本尊のポジションなのかもしれません。

・仏教寺院、とくに密寺の御本尊のポジションは複雑で、観音堂、薬師堂、不動堂などで草創し、のちに本堂が建てられた場合などは、複数の御本尊がおられる場合もあるようです。(例えば、本堂御本尊は大日如来、薬師堂御本尊は薬師如来で、寺院としての御本尊は両尊併記となる。)
・弘法大師霊場の札所本尊は草創時の御本尊が札所本尊になられる場合も多く、こちらもその例ではないでしょうか。

・御朱印はご住職がご不在で書置もなかったので、ご親切な寺庭様にお願いして郵送をいただきました。なお、こちらは忍秩父三十四観音霊場第10番光明山 観音寺(上中条)の御朱印も授与されています。 

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第46番 薬師如来




■ 大慈山 薬師院 観音寺
熊谷市下奈良913
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第11番
・この寺社巡りも、下奈良エリアに至ってますますディープな世界に入っていきます(笑)
・忍秩父三十四観音霊場第11番のこの札所寺院は、現在無住のお堂で、境内掲示はなくWebでも情報がとれないので、『新編武蔵風土記稿』の下奈良村の項の記載を引用します。
「埼玉郡羽生村正覺院ノ末ナリ 本尊十一面観音安セリ 薬師堂」。
・幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第43番の札所は福聚山 利永寺とされていますが、別の資料によると、もともとはこちらが第43番の札所であった可能性もあります。

・まわりにランドマークがないので説明しにくいですが、Googleマップの住所検索でヒットします。
・竹林を背にした奥まったところにあり、向拝柱はあるものの、切妻造妻入で一見お堂らしくないので、参道入口の如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩の石仏がなければそれとわからないかもしれません。

・御朱印は、真言宗智山派関東十一談林の名刹、光明山 一乗院(熊谷市上之2891-1)で規定用紙のものを拝受できます。(一乗院の御朱印は授与されておりません。)

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第11番 十一面観世音菩薩(大悲閣)



■ 福聚山 阿弥陀院 利永寺
熊谷市下奈良796
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第12番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第43番
・こちらは、今回の記事のなかでもっともマニアックな札所かと思われます。記事UPは迷いましたが、確かに忍観音霊場の札所なのでご紹介します。
・参拝情報がほとんどなく、Googleマップで位置検索するととある企業の敷地を示すので、意を決してこちらの事務所にお伺いすると、こちらの敷地内に御座とのこと。
・ご丁寧にもご案内いただき、ようやく参拝が叶いました。
『新編武蔵風土記稿』の下奈良村の項には「埼玉郡上ノ村一乗院末 本尊前(十一面観音)ニ同シ 観音堂 利永寺持」とあり、本堂(御本尊:十一面観世音菩薩)のほか、観音堂を擁していたかもしれません。

・整った宝形造で向拝を付設し、向拝見上げにはしっかり御詠歌の木板が掛かっていました。ただし、この木板の札番は「第七番」。こちらは忍観音霊場で第11番、幡羅郡新四国霊場で第43番のはずなので、この「第七番」というのはナゾです。

・こちらの御朱印はなかばあきらめていたのですが、一乗院様にお伺いすると、第11番観音寺のほか、こちらの御朱印(規定用紙)も授与されているとのことで、ありがたく拝受しました。
・ご紹介はしましたが、参拝時に一般企業さんのお手間をいただくこともあり、忍観音霊場巡拝者に限ってお伺いした方がよろしいかと思います。また、休業日や営業時間外の参拝も不可だと思います。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第12番 十一面観世音菩薩(大悲殿)



■ 萬頂山 集福寺
熊谷市下奈良551
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第13番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第1番
・山内掲示によると、永仁年間(1293-1299年)、由良法燈圓明國師によって臨済宗法燈派の本山として開かれ、天文年間(1532-1555年)、永平道元孫桂室秀芳大和尚によって曹洞宗に改められたという名刹です。
・同掲示には、(当寺)五世扶嶽太助大和尚は、後に「とげぬき地蔵」(江戸・巣鴨(当時は神田明神下)の萬頂山 高岩寺を開いたことで知られています、との記載があります。
・境内の諸堂は江戸時代後期の建立で、法堂、庫裡、仏殿、開山堂を回廊で結び、内部に鐘楼を設けた七堂伽藍の配置をとっているようです。

・幡羅郡新四国霊場の初番発願所を務められ、このことからも当地屈指の名刹であることがわかります。

『新編武蔵風土記稿』の下奈良村の項にも大きく記載され「相傳フ往昔ハ臨済派ニテ開山圓明國師(略)其後永正年中桂室秀芳ト云僧、曹洞派ニ改メシヨリ今開山トス(略)開基ハ式部大輔助高十代成田下総守親泰法名貞岡宗蓮菴主ト号ス 入道シテ当村ニ隠棲ヲ営ミ 即当寺ヲ造建シ大永四年六月八日卒ス 御打入ノ後 東照宮忍城ヨリ此辺御放鷹ノ時、当寺ヘ成ラセラレ住僧桂岩ヘ御目見仰付ラレ 其後慶長年中江戸ヘ召セレシ時 元神田蔵王権現ノ舊(旧)蹟ニ於テ寺地ヲ賜ハリ一寺ヲ草創シテ金峯山高林寺ト号シ蔵王権現ヲ鎮守トセリ 後替地ヲ給ヒ本郷ヘ遷リ 又駒込ヘ遷リテ 今ハ当寺ノ末トナレリ 本尊三尊ノ釋迦ヲ安セリ(以下略)」とあります。
・「金峯山 高林寺」とは、文京区向丘の金峰山 高林寺をさすとみられ、本郷区史のP.1247には、たしかに「高林寺 武州幡羅郡下奈良村集福寺末、金峰山と号ス」との記載があります。

・「七堂伽藍の名刹」だけあって、さすがに伽藍は整っています。
・庫裡にて拝受した御朱印は。忍観音霊場と幡羅郡新四国霊場のふたつの札所印が捺されていました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第13番 札所本尊不明 御朱印尊格は釋迦牟尼佛
2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第1番 釋迦牟尼佛
1通で兼用。




■ 永昌山 常楽寺
熊谷市中奈良1956
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第14番
『新編武蔵風土記稿』の中奈良村の項には「奈良村集福寺末 開山ハ本尊(ママ)七世ノ僧宗察慶長年中(1596-1615年)創建ト云 本尊釋迦ヲ安セリ」とあります。
・おそらく本寺であった集福寺第七世の僧宗察が慶長年中(1596-1615年)に創建とみられます。
・また、山内の石碑には「当常楽寺ノ境内地ハ創立当時南ハ新井北ハ堀内東ハ後原ヲ境ニ凡ソ五千三百余坪アッタ」とあり、相当の大寺であったことが伺われます。

・参拝時ご不在でしたが、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第14番で、曹洞禅ナビで「御朱印対応あり」となっているので、郵送をお願いするとお送りいただけました。
・こちらの御朱印にも幡羅郡新四国霊場の札所印が捺されていました。「幻の霊場」ともいわれる幡羅郡新四国霊場ですが、意外に札所印が残っているようです。

・御本尊は釈迦如来のようですが、御朱印尊格は観世音菩薩となっています。禅宗寺院の観音様は聖観世音菩薩が多いですが、御朱印の主印に種子は確認できず聖観世音菩薩かどうかはわかりません。(観世音菩薩、大悲殿などの揮毫でも、朱印に種子があれば(=御寶印)、こちらで観音様の個別の尊格はわかります。)
・新四国霊場の札所本尊は御本尊の例が多いのですが、こちらはなんらかの由縁で観音様が札所本尊となられているのかもしれません。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第14番 釈迦如来



■ 奈良神社 
熊谷市中奈良1969
御祭神:奈良別命
旧社格:延喜式内社(論社)、奈良四村の総鎮守
元別当:摩尼山 熊山院 長慶寺(中奈良、高野山真言宗)
授与所:境内拝殿前
・中奈良に御鎮座の古社で、『延喜式神名帳』の幡羅郡小社四座の一社(論社)とされます。
・『埼玉の神社』には、仁徳天皇の御世、下毛野君の祖で豊城入彦命の子孫とされる奈良別命が、下野国国造の任を終えたのち当地を開拓したことから、郷民がその徳を偲んで創祀とあります。
・また、当地に拠った奈良氏は、成田・別府・玉井氏などとならぶ名族で、当社を奉斎していたとみられています。

・中世、当社は熊野信仰の影響を受けて奈良神社から熊野神社に号を改めました。
『新編武蔵風土記稿』の中奈良村の項の熊野社には「奈良四村ノ惣鎮守ナリ 本地彌陀・薬師・観音を安ス 古は修験圓蔵坊カ持ナリシガ 成田氏下野國烏山ニ移ル時圓蔵坊モ随テ移リ(略)今ハ長慶寺ノ持トナル 社内ニ奈良神社ヲ合セ祀ル 奈良神社ハ神名帳当郡四座ノ一ナリ想ニ舊章衰廃ノ後、熊野三社ヲ合祀シ」とあります。
・『埼玉の神社』では、「恐らく、古代に創建された奈良神社は廃絶したのではなく、中世、その時流に合った熊野信仰を収容することにより社名を変えて存続したのであろう。」とみなしています。
・また、「江戸後期になると、中世以来永く熊野神社としてきた当社は、復古の思想興隆により、社名を古代の奈良神社に復した。」とも記されています。

・古社の落ち着きを感じる境内。本殿の意匠も見事なものです。
・拝殿前に御朱印が置かれていたので、お代を賽銭箱に納めて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:奈良神社 書置(筆書)



■ 摩尼山 熊山院 長慶寺
熊谷市中奈良1995
高野山真言宗
御本尊:地蔵菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第25番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第5番
司別当:奈良神社(熊野社)(中奈良村、奈良四村の総鎮守)
『新編武蔵風土記稿』の中奈良村の項に「紀伊國高野山清浄心院末(略)相傳フ当寺は古修験地ナリシガ 天正十八年(1590年)圓蔵坊ト云僧、成田氏ニ従ヒ下野國ニ移リシ後 長慶ト云僧今ノ宗ニ改メ造立セリト云(略)元空坊号ヲ継テ其頃当村ニ住シ後黒田村ヘ移シニヨリ 坊宇以下其ママ長慶(延寶四年(1676年)寂)譲受テ今ノ宗ノ一寺トセシニヤ 本尊地蔵ヲ安セリ」とあります。
・当初は(天台系)修験の圓蔵坊・元空坊が護持し、後に長慶が跡を継いで紀伊国の真言宗高野山浄心院の末寺となり、江戸期には奈良神社(熊野社)の別当を司りました
・『埼玉の神社』には「明治期に入ると、当社(奈良神社/熊野社)本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は、長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安された。」とあるので、熊野神は本地(弥陀・薬師・観音の三尊)として長慶寺に遷られたことになります。

・寄棟造桟瓦葺の均整のとれた本堂。忍観音霊場の札所本尊、如意輪観世音菩薩も本堂に御座とのことです。
・御朱印はご住職がいらっしゃれば庫裡にて拝受できるかと思いますが、ご不在がちのようで、書置もないので拝受はなかなかむずかしい札所です。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第25番 如意輪観世音菩薩


2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第5番 地蔵菩薩


■ 福聚山 慈眼寺
熊谷市田島238
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第14番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第27番
司元別当:(田島村)稲荷社(旧田島村鎮守)
・こちらも無住の寺院で情報が少ないです。
司別当:奈良神社(熊野社)(中奈良村、奈良四村の総鎮守)
『新編武蔵風土記稿』の田島村の項に「弥藤五村観清寺末(略)古ハ観音ノ堂ナリシガ寛永年中(1624--1645年)●月堂開山シテ一寺トナセリ コノ人ハ慶安四年(1651年)寂セリト云 本尊十一面観音ヲ安ス」とあり、もとは観音堂として草創、寛永年中(1624--1645年)に寺院になったようです。

・入り組んだ路地のなか、集落に囲まれるようにあります。寄棟造桟瓦葺で右手に庫裡らしき建物を連接しています。
・向拝柱はなく中央サッシュ扉、上部に「慈眼寺」の寺号扁額を掲げています。

・参拝時ご不在でしたので郵送をお願いしお送りいただきました。郵送なので欲張らず忍観音霊場の御朱印のみお願いしましたが、御朱印には幡羅郡新四国霊場の札番揮毫もいただいておりました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第14番 十一面観世音菩薩
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第27番 十一面観世音菩薩
※1通に2札所併記。



■ 光明山 地蔵院 観音寺
熊谷市上中条2018
高野山真言宗
御本尊:
札所:忍秩父三十四観音霊場第10番
・こちらも無住で情報が少ないです。
『新編武蔵風土記稿』の上中條村(埼玉郡忍領)の項に「邑楽郡赤岩村光恩寺末(略)慶安二年(1649年)観音堂領トシテ十六石六斗ノ御朱印ヲ附セラル 開山了空明應五年(1496年)寂セリ 本尊不動ヲ安ス 観音堂」とあります。

・現在の御本尊は聖観世音菩薩のようで、地元では「中条観音様」と呼ばれ、信仰を集めている模様です。
・境内入口の石碑に「聖観世音安産守護」、本堂扉に「腹帯子宝祈願」「安産祈願」の案内があるので、子宝・安産に霊験あらたかな観音様のようです。
・入母屋造銅板葺で切妻様の向拝を付設しています。照りの強い本棟の屋根と起り気味の向拝屋根が独特のコントラストを見せています。
・大棟と鬼板に聖観世音菩薩の種子「サ」が掲げられているので、やはり御本尊は聖観世音菩薩とみられます。向拝正面には「観世音」の扁額が掲げられています。
・木鼻側面貘と正面獅子の彩色が異なるなど芸が細かいです。

・現在無住で、御朱印は浄瑠璃山 長慶寺(熊谷市西城93-1)で拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第10番 聖観世音菩薩



■ 龍智山 毘廬遮那寺 常光院
公式Web
熊谷市上中条1160
天台宗
御本尊:釈迦如来(三尊佛)
札所:関東九十一薬師霊場第38番、関東百八地蔵尊霊場第16番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番、武蔵国十三佛霊場第13番
・公式Webの縁起より抜粋引用させていただきます。
「長承元年(1132年)、藤原鎌足十六代目の子孫・判官藤原常光公が武蔵国司として下向し、当地に館(中條館)を構え豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着。常光公の孫の中條出羽守藤次家長公は、16歳で既に頼朝公の石橋山の合戦に扈従し信任が厚く、関東武士では唯一人貞永式目制定に参画、評定衆として鎌倉に住したため中條館を寺院とし、比叡山から天台の名僧金海法印を迎えて、建久三年(1192年)開基」「文禄三年(1594年)には忍城主松平忠吉(家康公四男)が成田氏建立の下忍清水の聖天院を廃して常光院へ合併」「開基以来延暦寺直末で天台宗に属し、特に梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章『梶竪一葉紋』を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至り寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇」
・山門には「天台宗別格本山」の木板が掲げられ、関東屈指の天台宗の名刹であることがわかります。

・境内は「中條氏舘跡」として県指定史跡に指定されています。
・本堂は元禄五年(1692年)頃の再建とされる平屋書院造茅葺きのどっしりとしたつくりで、市指定文化財です。

・「熊谷厄除大師」として知られ、4つの現役霊場の札所を兼ね、御本尊の御朱印も授与されているので計5種以上もの御朱印が拝受できますが、おのおの性格が異なる霊場のため都度の参拝の方がいいかもしれません。
なお、おのおのの札所本尊の御座所が異なるので要注意です。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦如来(三尊佛)(釈迦三尊)
本堂に御座します。


2.関東九十一薬師霊場第38番 薬師如来(瑠璃光殿)
本堂御内佛で室町作とされる一尺三寸の木彫坐像です。


3.関東百八地蔵尊霊場第16番 地蔵菩薩(地蔵尊)
本堂内御厨子に安置。室町初期作とされる一尺二寸の木彫坐像の延命地蔵尊です。


4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番 観世音菩薩(大悲殿)
境内に露仏として奉安されています。


5.武蔵国十三佛霊場第13番 虚空蔵菩薩(虚空蔵尊)
境内に露仏として安置されている十三佛のうち、虚空蔵菩薩が札所本尊とみられます。


■ 伊弉諾神社 (いざなぎじんじゃ)
熊谷市上川上36
御祭神:伊弉諾命、伊弉冉命、大日孁貴命、猿田彦命、菅原道真公
旧社格:村社、旧上川上村鎮守
元別当:
授与所:古宮神社(池上)授与所
・社伝、「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)などによると、中世、紀伊国熊野三所権現の勧請が創建で、当社、下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社を総称して「熊野三所権現」と呼ぶとのこと。また、当社は「十二所権現」とも称されるようです。
・鎌倉期、征夷大将軍・宗尊親王が帰京した際、親王の供の平家ゆかりの宮田太郎貞明は北条氏の追及をおそれてこの地に逃れ当社の宮守りになった(『宮田氏家系図』)とされます。
・安政二年(1855)には、神祇管領から「伊弉諾神社熊野大権現」の幣帛を受けています。
・所蔵の黒馬図、相撲絵馬は市指定文化財に指定されています。

・古社にふさわしい厳かな境内。入母屋造桟瓦葺流れ向拝の端正な拝殿で、向拝には「伊弉諾神社」の扁額が掲げられています。
・御朱印は、古宮神社(熊谷市池上606)にて拝受しました。
・こちらは以前参拝し、その時は御朱印はないものと思っていましたが、いまは拝殿前に御朱印の案内が貼り出されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:伊弉諾神社 直書(筆書)


■ 太平山 龍淵寺
熊谷市上之336
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第8番
・名族成田家の菩提寺とされる名刹。
・境内掲示の寺伝・新編武蔵風土記稿などによると、開基は成田左京亮家時。応永十八年(1411年)和庵清順(わなんせいじゅん)大和尚により開創・開山。
・天正十九年(1591)、徳川家康公が遊猟の折に当寺へ立ち寄られ、時の住職呑雪和尚が家康公の三河時代の御乎習の御相手であったことがわかり、これを奇瑞として当寺に曹洞派の総録を許されましたが、呑雪和尚はあえてこの申し出を辞したと伝わります。
・本堂の後にあった小池は「龍ヶ淵」と呼ばれ、かつて龍が潜んでいましたが、開山の和尚清順が法力をもってこれを退けてこの地に当寺を建立したため「龍淵」を寺号としたと伝わります。

・成田氏系図をはじめ多くの文化財を蔵します。高浜虚子が当寺で詠んだ句碑も残されています。

・御朱印は庫裡にて御本尊のものを授与されています。忍観音霊場の御朱印は不授与とのことです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛


■ 古宮神社(こみやじんじゃ)
公式Web 
熊谷市池上606
御祭神:石凝姥命、少彦名命、武甕槌命
旧社格:旧池上郷総鎮守
元別当:
授与所:境内授与所
・公式Web、境内由緒書、『埼玉の神社』などによると、古代、紀伊国秋月に御鎮座の旧宮幣大社、日前国懸神宮(ひのくま・くにかかすじんぐう)を勧請して創祀と伝わり、当初は社殿はなくいわゆる「磐座(いわくら)信仰」だったとみられています。
・社殿造立は、平安末期の長寛二年(1164年)。
・祭神の石凝姥命(いしこりどめのみこと)は、天孫降臨の際に邇邇芸命に随伴し、天児屋命、太玉命、天宇受売命、玉祖命と共に天降った五伴緒の一柱とされ、天照御大神が天岩戸にお隠れになったとき、日像鏡・日矛鏡を造られた神といわれています。
・西日本で祀られる例が多く、『埼玉の神社』には「なぜ、和歌山に祀られ鏡作部の遠祖とされる同神が、この地に勧請されたか不明であるが、埼玉地方は、武蔵国の古代文化の中心地の一つであり、近くには金錯銘鉄剣で有名な埼玉古墳群があることなどを考え合わせると、当地に神部(鏡作)ゆかりの人たちが住み、当社を祀ったとも考えられる。」とあります。
・室町期の文安二年(1445年)、相殿の神として少彦名命と武甕槌命を勧請したとされるので、創祀時の主祭神は石凝姥命とみられます。
・古くは岩倉社、又は岩倉大明神とも称し、『新編武蔵風土記稿』の池上村の項には「岩倉社」として記載されています。

・境内はよく整備され、明るい雰囲気のお社です。本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で多彩な棟飾りを配し、寺院建築のエッセンスが入っているかも。

・御朱印は境内の授与所にて拝受でき、親切なご神職が兼務社の御朱印も授与されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:古宮神社 直書(筆書)



■ 上之村神社
公式Web
熊谷市上之16
御祭神:事代主命、大山祇命、大己貴命
旧社格:郷社、上之村・箱田村・池上村三村の鎮守社
元別当:伊豆国 浄慶院 久見寺(上村、新義真言宗)
授与所:境内授与所
・公式Web、境内掲示、『埼玉の神社』などによると、創祀は平安時代以前とみられ、応永年間(1394-1428年)、成田五郎家時により再興とされます。
・明治2年に現在の上之村神社に改められるまでは、「久伊豆神社」ないし「久伊豆明神社」と号し、『新編武蔵風土記稿』の上村の項には「久伊豆社」として記載されています。
・『新編武蔵風土記稿』に「祭神ハ大山祇命ニテ 伊豆國三嶋社ヲ写シ祀ルトイヘト疑フヘシ 此久伊豆社ト云ハ騎西町塙ニ大社アリテ近郷往々是ヲ勧請スレハ 当社モ恐クハ彼ヲ写セシナラン」とあり、騎西ご鎮座の久伊豆神社の総社、玉敷神社からの勧請を示唆しています。
・御祭神は、江戸期は大山祇命でしたが、明治2年、主祭神を事代主命、相殿の神を大己貴命と大山祇命に改めています。
・また、別当の久見寺客殿に久伊豆の本地十一面観音が安置されていたとあり、神仏混淆の歴史が伺われます。

・当社ご鎮座の旧上(之)村は成田郷ともいわれた名族、成田氏の本貫で、当社は成田氏の尊崇篤く、後に徳川氏の尊崇を受けたと伝わります。なお、成田・別府・奈良・玉井氏は「武州四家」と呼ばれ、いずれも中世にこの地に勢力を張った名族とされています。

・当地有数の古社だけあって厳かな境内。木造の両部鳥居は寛文四年(1664年)建造の墨書が残り、市内最古の木造鳥居として市指定有形文化財に指定されています。
・応永年間(1394-1428年)、成田左京亮家時再建の本殿は一間社流造銅板葺で県指定文化財に指定されています。

・御朱印は参拝時たまたまご神職がいらしたのでいただけましたが、常駐ではありません。(公式Webにご在社予定が出ています。)
・熊谷七福神(恵比寿天)の御朱印は通常不授与かもしれませんが、御朱印には恵比寿様のお姿印が捺されていました。

・なお、兼務社として佐谷田神社、奈良神社(中奈良)、豊布都(とよふつ)神社(上奈良)、春日神社(小島)があり、それぞれWeb上で御朱印がみつかりますが、こちらで拝受できるかは不明です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:上之村神社 直書(筆書)



■ 大雷神社 
熊谷市上之16
御祭神:大雷神
旧社格:上之村神社の境内社
元別当:
授与所:上之村神社境内授与所
『新編武蔵風土記稿』に「末社 雷電 但馬国木田郡雷電社を勧請スト云伝フ(略)別当久見寺 客殿ニ雷電ノ本地馬頭観音を蔵ス」とあります。この地は雷の名所(?)ですが、どうしてわざわざ大雷神を但馬国(現・兵庫県)から勧請したのかはナゾです。
・上之村神社の摂社ですが、社号標、鳥居扁額ともに上之村神社と併記され、拝殿扁額も併記となっています。
・本殿は別で、こちらの本殿も県指定文化財に指定されています。
・この様な祭祀形態を配祀というか相殿というのかわかりませんが、本殿は分かれているので配祀なのかもしれません。
・「上之の雷電さま」と呼ばれ周辺住民の尊崇を集めています。利根川沿いのこのエリアはとくに雷が多く、随所で大雷神が祀られています。

・御朱印は、上之村神社境内授与所にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:大雷神社 直書(筆書)



■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4 へつづきます。
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