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■ Every Breath You Take(The Police)の謎

1983年のポリスのヒット曲「Every Breath You Take」、主旋律はわりあい単調なのにどうしてこういう深みのある音になるのか前々から不思議だった。



これに答えを出してくれたのが、ザ・カセットテープ・ミュージックのマキタスポーツ氏 ↓


なんと、ギターのカウンターメロはアドナインス(Add9)の嵐だった。
コード
アドナインスは(セブンス抜きの)四和音のテンションコードで、こいつの連打はほとんど聴いたことがない。
この曲の独特の陰影と浮遊感は、アドナインス(Add9)がもたらしていると思う。

マキタスポーツ氏は韜晦まじりに「余計な音(コード)」とかいっているけど、じつはこういうのが効く。
1980年代の楽曲は「ディテールにこだわっていた」というけれど、この曲はその好例だと思う。

■ 薬師丸ひろ子- Woman "Wの悲劇"より(1984年)

コード
↑ ユーミン屈指の神がかり的コード進行といわれる名曲。
浮遊しまくって、ほとんど地上に降りてこない(笑)
でもって、メジャーかマイナーかさえよくわからない。
理論的にはよくわからんが(笑)、ドミナントが解消されないままさらにドミナントを重ねていく音のイメージで、これにテンションノートと9th(ナインス)が加わってさらに複雑な音世界に・・・。
トライトーン炸裂しまくりの破綻ぎりぎりの不安定なコード進行だが、これを美しくまとめきってしまうところがユーミンの才能だと思う。

最近の曲で気の効いたドミナント(トライトーン)は、たいてい4361丸サ進行(Just The Two of Us進行)かツーファイブ(251)だったりする。
ここ数年、平易なペンタやダイアトニックスケール曲が主流だったから、ここにきてドミナントが新鮮に響き、これは丸サやツーファイブもってくれば安直に対応できるので、期せずして”丸サブーム”になってるのかもしれぬ。

ペンタトニックの代表的なヒット曲 ↓
■ 米津玄師 - パプリカ Kenshi Yonezu - PAPRIKA


Just The Two of Us進行の本家 ↓
■ Grover Washington Jr. - Just the Two of Us (feat. Bill Withers) (Official Lyric Video)



1980年代は意表をついたドミナント曲がたくさんあったけど、意外なほど聴きやすかった。
ドミナント(トライトーン)やノンダイアトニックコードを縦横無尽に使い倒せるこういう才能が、そろそろ出てきてもいいタイミングかも。
(ヒゲダンがそうかもしれぬが・・・)

■ 松原みき - 真夜中のドア〜stay with me

↑ いまやシティ・ポップの代表曲となったこの曲が刺さるポイントは、たぶんイントロの浮遊感とサビのせつなさだと思うが、
イントロはサブドミナント系のB♭maj7からA7→Dm7(たぶんA7がセカンダリードミナント)。
1:00~のサビ(stay with me 真夜中のドアをたたき 帰らないでと泣いた・・・)は、B♭maj7のロングトーンのあとにA7→Dm(たぶんA7がセカンダリードミナント)ときて、Dmルートのクリシェ。
メジャーセブンスを契機に、セカンダリードミナント、クリシェと連打的にかますから、これだけフックばりばりのエモーションが出てくるのだと思う。

やっぱり1980年代前半はメジャーセブンスとドミナントの時代か・・・。


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一昨日、NHK-BSで1985年のPrinceのLIVE放映してた。
やはりもの凄い存在感があった。
コードー譜に拾われていない微妙なコードが随所に仕込まれていて、これがただならぬ深みを創り出しているのでは。

それと、おそらく意図的にか即興的にか、アボイド・ノート(avoid note/音楽理論上使用を避けるべき音)を使っている感じがする。
Princeの創り出す旋律はじつはもの凄く綺麗だけど、これがアボイド・ノートとぶつかって、ならではのインパクトが生み出されるのかも・・・。

■ Prince - Purple Rain (Official Video)


一度でいいから、ザ・カセットテープ・ミュージックでPrinceの特集やってほしい。
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■ 透明感のある女性ヴォーカル50曲

2022-02-24 UP

このところコンスタントにアクセスいただいているので、一挙に50曲まで増やしました。
こういう繊細なハイトーンPOP、日本のレベルは世界最高峰では?

■ タイムマシンにおねがい - サディスティック・ミカ・バンド(1974年リリース)

↑ ミカの声って、さりげに透明感あったと思う。
日本の透明感ハイトーンの系譜はすでにこのころから・・・。

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2022-02-07 UP

miletの新曲 ↓ 聴いてたら、やっぱり自分は透明感のある女性ヴォーカルがいちばん好きなんだと・・・(笑)

milet「One Reason」MUSIC VIDEO (映画「鹿の王 ユナと約束の旅」主題歌)


「透明感 女性ボーカル」でググるといろいろ出てくるけど、単にハイトーンでヒーリング感のある曲調のものが多くて、いまいち納得いかなかった。
(ハイトーン=透明感 ではないと思う。)

また、アンニュイでアンプラグドな楽曲を「透明感」と捉えているWebやメディア記事もけっこうあるが、筆者のいう「透明感」はこれとは違い、どちらかというとハイトーンの声質の美しさに比重をおくものです。


そんなことで、自分でつくってみました。
というか、これまでUPしたそれ関連の記事からとりあえず25曲持ってきました。

女神系歌姫 (ハイトーンJ-POPの担い手たち)【リニューアル】
歌の女神が舞い降りた国 / 美メロ&ハイトーン&透明感の癒し曲50曲


01.海のキャトル・セゾン - とみたゆう子

名古屋市出身のシンガーソングライター。
「ミルキー・ヴォイス」といわれた甘いながらも透明感にあふれた美声。
曲のできも抜群。
これは1982年リリースの名盤『DEUX』収録曲。

02.二人だけ - 八神純子

名古屋では有名な八神製作所オーナー家の令嬢。いまはたしかアメリカにいるはず。
これは1982年リリースの名盤『夢みる頃を過ぎても』収録のバラードで、作曲・編曲は大村雅朗。
彼女にしてはシンプルな曲構成で、それだけに声のよさが際立っている。

03.また会おね - 矢野顕子 with YMO 1979

矢野顕子の声ってさりげに透明感ある。
それにしてもこのLIVE、さすがにインストの演奏もキレっキレだわ。

04.LANI ~ HEAVENLY GARDEN ~ - 杏里(ANRI)

シティ・ポップブームで再評価がすすむ杏里。
クセのない素直な声質だが、聴き手のこころに訴えかけてくるなにかをもっている。
これは1992年リリースの『MOANA LANI』収録で、シングルでも切られているバラード。
キーボードのサポートメロが綺麗でスケール感のある杏里らしい曲調。
個人的に変拍子がかったサビ部のリズムパターンがツボ。
杏里の名バラード20曲!

05.潮見表 - 遊佐未森

一筋縄ではいかないクセの強い曲風で、なかなか聴きやすい曲がないのだが、こんなヒーリング系の名曲も。
バックも実力派揃いで聴き応え充分の名LIVE。

06.上野洋子(協和発酵 焼酎「かのか」CM・・・たぶん2003年頃?)

この手のArtistはなかなかメジャーシーンに出てきにくいのだが、たとえば協和発酵 焼酎「かのか」CMで、その癒しヴォイスが大きな反響を呼んだ上野洋子(ZABADAKの結成メンバー)など、巧くプロモートすればブレークできる環境は整っていたのだと思う。
この曲、さんざ探したのだがどうやらリリースされておらず、世理奈のバージョン(2005)のみみつかります。

07.For Our days - 川田まみ(I'VE)

札幌の音楽創作集団「I'VE」でヴォーカルをとっていた。
『そして明日の世界より』OPで、これもかなりのナイスメロ。
独特のビブラートとヒーカップの連打のパフォーマンスで聴き応えあり。

08.君の知らない物語 (supercell)- くゆり(歌ってみた)
 
supercellの曲は「歌い手」のカバーも多い。
くゆりさんは、歌い手のなかでもかなり上位の実力を持っていると思う。
supercellの人気曲「君の知らない物語」を見事に歌いこなし、その卓越した完成度はニコ動のコメント群がよく物語っている。
ときおり繰り出す繊細なビブラートと(ヒーカップじゃない)高音への跳ねが絶品。

09.Dreaming Sheep - 中恵光城

『大図書館の羊飼い』のOP。
繊細なメロディラインの難曲だが、透明感あふれるハイトーンで歌いこなしている。
アニソン系ではかなりの実力派で、プログレ系サウンドプロジェクト「少女病」にMitsuki名義でヴォーカル参画している。

10.Cloe - 山本千夏

ネイチャー系アニメ「地球少女アルジュナ」の挿入歌。
才人、菅野よう子氏の作品だけに細部の構成がテクニカルだが、透明感あふれる声色で巧く仕上げている。

11.雪の華 - Cover.花たん(hanatan)

この人のハイトーン、バイオリンのように艶があるのに透明感もばっちり。逸材。
■ 花たんの名テイク

12.孤独な生きもの - KOKIA

国際的に幅広い分野で活動する個性派Artist。
桐朋女子高等学校音楽科→桐朋学園大学音楽学部(ともに声楽専攻)というバックボーンをもちながら、声楽とは一線を画したオリジナリティを確立。
クラシカルかつメッセージ性の高い佳曲を多数もち、以前から海外での評価が高い。
安定感のあるヒーリングヴォイス。J-POPのレベルの高さを世界に発信できる逸材。
KOKIAの名バラード12曲

13.アレルヤ - Kalafina

惜しくも解散してしまったKalafinaの屈指の名バラード。
3人のコーラスのバランスが絶妙。
ニコ動のコメント「天使は実在した。」、ほんとうにそう思う。
■ 伝説のユニットkalafina
梶浦サウンド総ざらい!(&「炎」-homura)

14.月のかほり - 夏川りみ

個人的には、2001年に「涙そうそう」をブレークさせた夏川りみの存在も大きかった。
夏川りみの声をはじめて聴いたのはたしか、水戸黄門の合間に流れていた松下グループのCM Song「この星を感じて」だったと思う。
ハイトーンが綺麗に伸びるそのボーカルは強烈なインパクトがあり、画面の下に出ていた”夏川りみ”というクレジットを頼りにCDをさがしたが、その当時はまったくのマイナーで、ごく一部の大手CDショップでシングルが見つけられただけだった。
メジャーデビューからの「南風」(2002/3)、「てぃだ~太陽・風ぬ想い~」(2002/9)、「空の風景」(2003/3)、初期3枚のALBUMのできは抜群だった。
沖縄独特の音階や歌いまわしはそれほど強く出ておらず、さらりと明るい曲調に彼女の伸びやかなハイトーンが乗る内容は、まさに「ヒーリング・ミュージック」そのものだった。

15.Drive_Qualia - 櫻川めぐ

抜群の声質をもつ声優&アニソンシンガー。
アップテンポの曲がメインでヒーリング系バラードはなかなか歌ってくれないのだが、これは貴重な1曲。

16.夏雪 ~summer_snow~(夏の日のリフレイン) - 西沢はぐみ

神奈川県出身のArtistでPCゲーム関連の作品が多い。声質にすぐれとくに高音の伸びが出色。
ふつうの人はハイトーンに引っぱり上げる感じがあるが、この人は高い地声から降りてくるイメージがある。
才人、松本慎一郎作曲の名曲で、バックのフレーズどりも非の打ち所なし。

17.One love ~恋におちて~ - MARINA.

情報があまりない人だけど、曲調も声質にもただならぬ透明感。

18.Happy Birthday to... - Kako

「終わる世界とバースデイ」ED。好メロ&ハイトーン&ビブラートのゲーム曲。
通りのよい美声だけど、単なる「うたのおねえさん」じゃないよ。

19.きっと - 藤田麻衣子

2006年秋デビューの名古屋出身のArtist。ゲーム主題歌も多数手がける。
透明感あふれる声質は天性のものか。
作曲・アレンジに天才的なキレをもち、小柄な体型からは想像できない歌唱力も。
ドラマティックかつエモーショナルな佳曲多数。

20.PLANETES - Hitomi(黒石ひとみ)

浮遊感とヒーリング感覚あふれるたおやかな声質。
これはアニメ『プラネテス』のテーマソングで、声質を活かしたスケール感のある佳曲に仕上がっている。

21.Erato - 志方あきこ

東京都出身のシンガーソングライターで、2001年11月自主制作盤を初リリース
けっこう難解な曲が多いが、ときにつくるヒーリング曲では透明感あふれるヒーリング・ヴォイスを聴かせてくれる。

22.空気力学少女と少年の詩 - はな

同人系やゲーム系で活動するシンガー。「歌い手」の”うさ”と同一人物という説がある。
すこぶる声質にすぐれ、アップテンポ曲でも透明感を感じさせる希有の歌い手。
これはPCゲーム 『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』のOP・EDで、アップテンポな変拍子のこなしがやたらに巧い。

23.~you / Vocal ~【ひぐらしのなく頃に】 - 癒月

ゲーム・アニメ系のストーリー性高い曲の例。
同人系のArtistで声優としても活動。メリハリがありながらヒーリング感の高いすぐれた声質をもつ。
「雪月」名義でユニット活動も。
これはゲーム『ひぐらしのなく頃に』の名曲とされるBGM。

24.最高の片想い - タイナカ彩智(Live 2007 Concert)

■ 兵庫県出身のArtistで本名は田井中 彩智(タイナカサチ)。
2006年2月メジャーデビュー。以降安定して作品をリリース。
これは2006年8月On Saleのシングル曲でNHK衛星第2テレビアニメ『彩雲国物語』EDにもつかわれた。
高い声域と透明感と伸びのあるハイトーンヴォイスに個性。
ライブハウスでの実績豊富な実力派で、LIVEパフォーマンスに定評がある模様。

25.夏空の下 - やなわらばー

2020年夏に流されていたCHOYA「夏梅」のCMソング。
沖縄・石垣島出身の女性デュオユニットやなわらばーの書き下ろし曲。
この実力で解散は惜しい・・・。(2020年12月31日解散)

26.ひらひら ひらら - ClariS

よくわからないけど、なにかと話題の多い女子2人組ユニット。(当初は顔出ししていなかった)
佐久間 誠氏作の流麗なメロに、フェミニンで透明感あるハイトーンが冴えわたる名曲。

27.StarCrew - misha(歌ってみた)

透明感あふれるハイトーンの歌い手。声に独特な艶があり繊細なビブラートも。
ブレスのとり方も巧く、個人的には「もっと評価されるべき」歌い手の一人だと思う。

28.1/6 - みにゅ(歌ってみた)

ガラス細工のように繊細な声質&唱法でちょっと曲を選ぶような気もするけど、はまったときのヒーリング感&感情の入り方はハンパじゃない。

29.ebb and flow - LaLa(歌ってみた)

Rayのオリジナルバージョンの出来が秀逸だがshort ver.しか残っていないので、これに迫るナイスな歌ってみたVers.をあげてみました。
こういうフェミニンで透明感の高い楽曲は、いまの洋楽ではなかなかつくれないと思う。

30.Where the lights are - Wakana(FictionJunction/kalafina)

実力派揃いのFictionJunction/kalafinaで、ハイトーンパートを担えた実力が、このテイクを聴くとよくわかる。

↓ Kalafinaの透明感あるハーモニーを堪能できる伝説的名曲「Mirai/未来」

ハイトーン女性ヴォーカルを手掛けたら敵なしのコンポーザー、梶浦由記さんの抜群のメロ&アレンジ。
インスト陣のFBM(FRONT BAND MEMBERS)/(G/Vo)是永巧一 (B/Harp)高橋Jr知治 (Vln)今野均 (Key)櫻田泰啓 (Ds)佐藤強一 も当代一流のテクニシャン。
(メンバー紹介は →こちら
1980年代では生み出せなかった曲調とテクニック。
世が世なら、日本を代表するトップユニットになっていたと思う。

31.星の涙 - 三月のパンタシア(みあ)

ヴォーカルの”みあ”を中心に、クリエイターが参画して創設されたユニット。
芯の強い声質だが、ハイトーンに駆け上がるときに繰り出す透明感は出色。
2016年メジャー・デビュー。

32.君の花を祈ろう - 鬼頭明里

名古屋市出身の声優系シンガー。
声質に優れ、音程・ピッチともに安定している。
歌うま声優の代表格では?

33.約束 (Yakusoku) - 如月千早(今井麻美) // covered by 凪原涼菜

バーチャルアーティストで皇美緒奈(すめらぎみおな)とユニット「Meteopolis」を組んでいる。
スケール感をはらんだハイトーンで、情感の込め方がやたらに巧い。
Web上でいくつかみつかる”歌ってみた”動画はいずれも高水準の仕上がり。

34.トワイライト・アヴェニュー - 金月真美

声優系シンガーの草分けともいえる存在で、「藤崎詩織」名義のテイクも。
艶と深みと透明感を併せもつ抜群の声質は聴いていて心地よい。

35.ヒカリヘ - miwa

いわゆる ”美声” とはいえないかもしれないが、独特の個性をもつハイトーンは透明感を帯びている。
miwaの作曲・アレンジ力は、いまのメジャーアーティストのなかでは傑出している。

36.青の蛍言葉 - SeA0 feat.yin

yin(イン)さん。詳細不明の歌い手。
声優・かわいい系じゃなく、芯のとおったハイトーンで清涼感さえ感じる。
逸材では?

37.空に近い週末 - 今井美樹

〔 From 『Ivory』(1989)/ 作詞:戸沢暢美、作曲:柿原朱美、編曲:武部聡志 〕
個人的には今井美樹のベスト、J-POPでも屈指の名曲だと思う。
シングル「Boogie-Woogie Lonesome High-Heel」カップリング曲で、オリジナルアルバム未収録なので、もっぱらベストアルバム『Ivory』で聴いていた。
天空から降りそそぐようなポリフォニックで清々しいメロディと、その上で舞い踊る今井美樹のたおやかなヴォーカル。
柿原朱美の作曲力が炸裂した文句のつけようのない神曲。
初期~中期の今井美樹は、こういう透明感あふれる楽曲がかなりあった。

コード
「さえぎるもの のない 青空に あこがれて いたんだわ」
C G Am G Fmaj7 C Dm G9 G7 (Cメジャースケール)/ 1565 41255
カノン進行(1563、4145)まじりのメジャー・セブンス+ナインス。
これはハマるわ・・・(笑)

38.消えてしまえたならいいのに、なんて - めありー (歌ってみた)

かなりの美声をもつ歌い手。
リズムの掴み方がやたらに巧く、WebにUPされたテイクはいずれもオリジナリティ感が高い。

39.変わらないもの - Covered by コバソロ & こぴ (Covered)

こぴさん。
Wikipediaによると群馬県出身のYouTuber、俳優、シンガーで2020年10月にミニアルバムをリリースしている。
奥華子のこのエモーショナルな名曲は、こぴさんのはかなげで透明感を帯びる声質とよく合っている。

40.キミトセカイ - 佳仙 (歌ってみた)

人気歌い手の一人。
透明感の高い繊細なエンジェル系ハイトーンが特徴ながらさりげに艶と力感も備え、このハイトーンつづきの難曲を余裕を残して歌い切っている。

41.I'm proud - 華原朋美

いま聴き返すと、類い希な美声と透明感を兼ね備えていたことがわかる。
流麗なハイトーンを求める小室サウンドには、やはり欠かせない才能だった。

42.Crescent Moon ‐SOA Hinano(SOA /雛乃そあ)

プロフィール詳細はよくわからんが、自作自演自己プロデュースのシンガーソングライターらしい。
澄み切ったハイトーンを生かし切るような、リリカルな曲調も魅力。

43.I LOVE... - Uh. (Covered)

Uh.(うー)さん。大阪を中心として活動しているらしいアーティスト?
美声とパワーをあわせもつ実力派でUhyang(うひゃん)名義も。
抜群の音感とリズム感は、ヒゲダンのこの難曲をキレ味を保って歌いこなしていることからもわかる。

44.bouquet - @ゆいこんぬ(Covered)

人気歌い手のひとり。
声優系の甘くやわらかなハイトーンヴォイス。
微妙にゆらぐ歌声がエモーショナルで表現力も相当なもの。

45.絆 - 池田綾子

武蔵野音大声楽科卒の本格派でその歌唱力には定評がある。
自然保護活動や伝統文化系ライブなど多彩なステージで活躍。
透明感のある凜とした声質。

46.名もない花 - 遥海

フィリピン生まれの日本人とフィリピン人のハーフのシンガー。
以前は”草ケ谷遥海”名義で路上LIVEなどで活動し、その並はずれた歌唱力には定評があった。
2020年5月メジャーデビュー。
ゆらぎを湛えたパワフルでエモーショナルな唱法だが、ときにみせるハイトーンの透明感が絶妙なアクセント。
スケール感があってエモーショナルでしかもフェミニン。
そして”音のスキマ”を大切にする楽曲構成。
こういう実力派アーティストが正当に評価される時代がやってきているのかもしれぬ。
公式Web

47.さよならメモリーズ - 奏夢(歌ってみた)

ニコ動の歌い手で現在の活動状況は不明。声質、テクニックともに文句のつけようなし。
絶妙にゆらぐビブラートが圧巻で、アドリブのとり方も巧い。
「さよならメモリーズ」のカバーは腐るほど聴いたが、個人的にはこれがベスト。

48.点描の唄 - キノシタユイ (Covered)

情報があまりないのだが、オリジナルソングももっているらしい。
フェミニンで聴きやすいハイトーンだが、情感の込め方が巧く聴き手を飽きさせない。
それにしてもこの曲はよくできている。

49.ここにあること - 桜ほたる/桜菜 (歌ってみた)

歌い手のなかではもっとも透明感のある声質をもつひとりで絶妙なブレスどりに個性。
難音階、難符割り&転調・変拍子の嵐。しかもオーラスにかけての超絶ハイトーン。
歌いこなせる人はごくごく限られると思う。

50.You Raise Me Up(Celtic Woman) - 熊田このは (Covered)  ※期間限定リンクです。

透明感といったらやっぱりこのはちゃん。
これは数ある名テイクのなかでも、屈指の名唱かと。
高音の美しさと空に舞い上がるような透明感&高揚感。
ここまで共鳴を効かせて艶やかなハイトーンを創り出せる歌い手は、ほんとうに希だと思う。
■ 熊田このはちゃんのセトリ(&出演記録)-Vol.2


まだまだあふれんばかりにネタがあるのですが、とりあえず50曲で一区切りつけます。
気が向いたら随時追加していきます。
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2月リリースの新曲

2月にリリースの新曲2曲。

2023/02/08 On Sale
■ 由薫 – 星月夜 → 公式Web 



2023/02/22 On Sale
■ 遥海 - 名もない花 → 公式Web



miletの「One Reason」聴いたときも思ったけど、スケール感があってエモーショナルでしかもフェミニン。
そして”音のスキマ”を大切にする構成。

”セツナ系”とはあきらかに違う質感。

日本の女性アーティストは新たな境地に入ったのかもしれぬ。

■ milet「One Reason」MUSIC VIDEO (映画「鹿の王 ユナと約束の旅」主題歌)



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東亜樹ちゃん。(→公式Web
たしかカラバト出てたよね。
そのときも巧いと思ってたけど、さらに進歩してる。
そして抜群の声質。

演歌歌手になるのかな?
器用すぎて何でも歌えるので、かえってコンセプト絞りにくいのかも。
曲がはまればブレークするか・・・。
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〔 温泉地巡り 〕 (旧)川原湯温泉

このところ、休廃業となった施設レポへのアクセスがやたらに目立つので、ダム湖の底に沈んでしまった旧・川原湯温泉の記事を10年振りにアゲてみます。

 
【写真 上(左)】 2003年の聖天様露天風呂
【写真 下(右)】 2007年の温泉街上部

  
【写真 上(左)】 2007年の川原湯神社境内
【写真 下(右)】 2011年の笹湯

川原湯はかなり通ったので、それなりに写真が残っています。
記録の意味も含めて随時追加していきたいと思います。

なお、現在川原湯温泉は移転し、新たな歩みを始めています。


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2013-02-23 UP 

 

吾妻の名湯、川原湯温泉。「八ッ場(やんば)ダム」建設をめぐり揺れ動く温泉地ですが、先日(2013/02)ひさびさに訪れたので、最新の情報をまじえリニューアルUPします。(前回UPは2007/04/09)

 
【写真 上(左)】 吾妻川対岸からの主要部 (2011/02)
【写真 下(右)】 サイン (2013/02)

<プロフィール>
川原湯温泉は、上州、吾妻渓谷を見おろす歴史ある温泉地。JR吾妻線「川原湯温泉」駅から川原湯神社へ登る細い坂道の両側に共同浴場、旅館、お店などが並び建ちこぢんまりとまとまった集落を形成していました。

川原湯温泉は八ッ場(やんば)ダムの完成により、近い将来ダムの底に沈む予定とみられていましたが、政権の交代など(諸説あり)により、現在その方向性は不明瞭なものとなっています。
1966年、実施計画調査が開始(調査出張所開設)されたこのダム計画は、激しい反対運動と必要性をめぐる議論を巻き起こしながら、1994年関連道路の工事に着手。以降、周辺工事が進捗しています。
現在の川原湯温泉はダムの底に水没し、山側のダム湖畔に移転・再建(現地再建方式(ずり上がり方式))される計画です。
脱ダムの流れのなか建設される「八ッ場ダム」。これにより水没し温泉地の再生を強いられる可能性がある川原湯温泉の将来に、全国から多くの視線が注がれています。
(なお、群馬県の公式Webでは、工期は昭和42(1967)年度~平成27(2015)年度、2012年8月時点での工事進捗状況は用地取得進捗率89.3%、家屋移転進捗率は95.3%、付替鉄道進捗率は73.8%、付替国道・県道進捗率は91.3%となっています。)
なお、国土交通省八ッ場ダム工事事務所Webでは、現在の川原湯地区の工事実施状況はこちら、川原湯地区の方々が主として移転する予定の「打越地区」における利用計画はこちらに掲載されています。

 
【写真 上(左)】 新川原湯温泉の計画掲示 (2013/02)
【写真 下(右)】 温泉地上部の造成状況 (2013/02)

計画の方向性は不明瞭ながら、現地では建物の撤去や道路の付け替えなどが進み、数年前とは趣を一新しています。

 
【写真 上(左)】 上手旅館群があった頃の温泉街 (2007/01)
【写真 下(右)】 多くの建物がなくなった温泉街(「山木館」下から) (2013/02)

鉄道でのアプローチはJR吾妻線「川原湯温泉」駅。ダム建設にともなう線路の付替えにより駅の移設が行われ「新川原湯温泉(仮称)」駅として新設される計画があります。
温泉地の玄関駅らしく駅舎内には温泉分析書が掲出されています。
ここから徒歩でアプローチできる距離ですが、登り坂がつづくので荷物をもっての移動はなかなかきびしいかも。

  
【写真 上(左)】 「川原湯温泉」駅 (2006/07)
【写真 下(右)】 「川原湯温泉」駅舎の分析書 (2006/07)

 
【写真 上(左)】 駅構内 (2006/07)
【写真 下(右)】 駅舎内の旅館案内 (2006/07)

「川原湯温泉」駅の温泉寄り上空には、代替路の一部である湖面1号橋の橋脚がそびえ立ち、一種独特な景観をみせています。
坂ののぼり口にある温泉街入口のゲートは以前よりむしろ立派になっています。
この周辺にはPが点在しているので、上のPが満車の場合はここに停めることになります。

 
【写真 上(左)】 川原湯温泉入口 (2013/02)
【写真 下(右)】 そびえ立つ橋脚 (2013/02)

途中クランクを抜け小沢を超えると坂が急になり温泉街に入ります。
左方の高みには人気の共同浴場「聖天様露天風呂」があります。
もすこし上ると「山木館」下でふたたび小沢を渡ります。このあたりからのロケーションは「渓ばたの湯」「崖湯」を彷彿とさせるものがあります。

 
【写真 上(左)】 小高いところにある聖天様露天 (2013/02)
【写真 下(右)】 「崖湯」の風情 (2013/02)

ダム建設計画があったためか温泉地ながら全体にインフラ整備は進んでおらず、数年前まで古びた温泉街の佇まいを色濃く残していましたが、いまは建物の取り壊しや集落の移転が進み、かなり見通しがよくなっています。

 
【写真 上(左)】 建物が建ち並んでいた頃の下部 (2007/01)
【写真 下(右)】 すでに温泉街の面影はない下部 (2013/02)

 
【写真 上(左)】 建物が折り重なる往年の川原湯 (2003/8)
【写真 下(右)】 すっきりとした温泉街 (2011/02)

昭和36年10月発行の国鉄時刻表、平成4年発行JTB温泉案内いずれも、下記の旅館が掲載されています。(*は後者のみ)
養寿館、柏屋旅館、敬業館みよしや、山木館、山木星、丸木屋*。
絶景風呂として知られていた「養寿館」は2001年7月31日をもっていちはやく閉館し、以降、「敬業館みよしや」「高田屋」「柏屋旅館」が漸次閉(休)館・撤去となっています。

 
【写真 上(左)】 「柏屋」と川原湯神社 (2011/02)
【写真 下(右)】 「柏屋」跡地 (2013/02)

 
【写真 上(左)】 「柏屋」と「高田屋」 (2007/01)
【写真 下(右)】 上手旅館跡地と新源泉 (2013/02)

 
【写真 上(左)】 「みよしや」 (2007/12)
【写真 下(右)】 「みよしや」跡地 (2011/02)

笹湯周辺は移転が進み空き地が目立ちます。
以前は建物が密集した路地を抜けてのわかりにくいアプローチだった共同浴場「笹湯」周辺は次第に建物がまばらになり、いまは笹湯だけがぽつんと残っています。
その「笹湯」も2011年10月7日をもって閉鎖されています。
閉鎖を告げる貼り紙にあった「新天地への移転」という文字が印象に残りました。

 
【写真 上(左)】 建物に囲まれていた「笹湯」入口 (2003/02)
【写真 下(右)】 かつての面影はない「笹湯」へのアプローチ (2013/02)

 
【写真 上(左)】 孤軍奮闘で稼働をつづけていた「笹湯」 (2011/02)
【写真 下(右)】 寂しくなった「笹湯」のまわり (2013/02)

 
【写真 上(左)】 閉鎖された「笹湯」 (2013/02)
【写真 下(右)】 「笹湯」閉鎖の案内 (2013/02)

もともと民宿を含めると20軒ちかくもあったとされる湯宿は数年前には数軒に減り、今回(2013/02)、確実に営業が確認できた旅館は「山木館」と「丸木屋」(その他は未確認)。民宿系は数軒営業継続している可能性がありますが詳細不明。

 
【写真 上(左)】 山木館 (2013/02)
【写真 下(右)】 丸木屋 (2013/02)

 
【写真 上(左)】 やまきぼし (2013/02)
【写真 下(右)】 ゆうあい (2013/02)

「王湯」のまわりは上手の建物がなくなり明るくなりましたが、なんとなく淋しそう。
やっぱり背後に「柏屋」を配したかつての姿の方が安定感があるような・・・。

 
【写真 上(左)】 背後に「柏屋」を配した往年の「王湯」 (2011/02)
【写真 下(右)】 上手が空いて明るくなった「王湯」 (2013/02)

 
【写真 上(左)】 建物に囲まれていた「王湯」の露天 (2007/01)
【写真 下(右)】 基礎だけになった王湯の裏手 (2013/02)

また、川原湯神社よこから上手に抜ける道は旧「高田屋」のあたりに付け替えられ、ここをいくと山手を走る新道に抜けられます。
その合流点の傍らには「薬師堂」が鎮座しています。

 
【写真 上(左)】 新道脇の薬師堂 (2013/02)
【写真 下(右)】 鬱蒼とした川原湯神社境内 (2003/08)

 
【写真 上(左)】 タンク設置前の川原湯神社境内 (2007/01)
【写真 下(右)】 同(タンク設置後) (2013/02)

新源泉がある川原湯神社境内は以前は鬱蒼と木々が茂り厳かな雰囲気でしたが、その後、足湯や温泉タンクが設置され開けた感じになっています。
現在、往時の姿を比較的よく保っているのは「山木館」から「王湯」にかけての一画のみです。

 
【写真 上(左)】 往時を比較的残す「丸木屋」前 (2013/02)
【写真 下(右)】 「王湯」から温泉街 (2013/02)

【 2007/04/09UP時 】
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温泉地移転に向けて徐々に建物が取り壊されています。展望が開け、道からもところどころ吾妻渓谷が見おろせるようになりましたが、温泉地としての風情は次第に薄れていってしまうのでしょう。
川原湯温泉のパンフに「昔日の湯治場へ。幻となる前に・・・」とあるように、この往年の名湯を偲ぶのに、いまが最後のチャンスなのかもしれません。
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一般客が入浴できる共同浴場は「王湯」「笹湯」「聖天様露天風呂」の3軒(ジモ専的な「笹湯」まで開放されているのはありがたいことでした。)ありましたが、上記のとおり2011年10月7日をもって「笹湯」は閉鎖されています。

なお、「やまた旅館」のWebによると、「笹湯」は、かつては王湯の露天風呂のところにあって、王湯の露天風呂が出来る前は郵便局だったそうです。
そのためか、今も「王湯」露天前には赤いポストがあって温泉街のいいアクセントになっています。

 
【写真 上(左)】 王湯の看板 (2007/01)
【写真 下(右)】 王湯の内湯 (2007/01)

 
【写真 上(左)】 笹湯 (2003/02)
【写真 下(右)】 笹湯の浴槽 (2007/04)

混浴の「聖天様露天風呂」は高みにあってロケ抜群なのでとくに人気が高く、週末の昼間で人がいないことはほとんどなく、今回も数人の客でにぎやかでした。

 
【写真 上(左)】 聖天様露天 (2004/04)
【写真 下(右)】 聖天様露天の浴槽 (2011/02)

吾妻渓谷に面する山肌に張りつくように連なる独特なロケーションで、「崖湯」とネーミングされた浴場をもつお宿もあります。
冬場は雪雲が流れてくるエリアで、雪化粧していることも。凛と引き締まった冬の川原湯は独特の風情があります。

 
【写真 上(左)】 足湯設置前の新源泉 (2003/08)
【写真 下(右)】 新湯(新源泉)&足湯 (2007/01)

温泉街の上手、川原湯神社の境内には新源泉が開発され足湯が設置されています。その上の湯槽ではよくたまごが茹でられています。約15分で茹で上がるそうです。
そこから上手に階段をのぼると川原湯神社が鎮座しています。厳冬の早朝に行われる「湯かけ祭り」は奇祭として有名です。(詳細下記)

<歴史> (川原湯温泉観光協会資料他を参考)
約800年の歴史をもつという川原湯温泉には、ふたつの開湯伝承があります。

[ 伝承1 ]
「800年ほど昔、上湯原の不動院を旅のお坊さまが訪れ一晩の宿を乞うた。不動院のお坊さまが中に迎え入れると、旅のお坊さまは薬師如来像を取り出し、お経を唱えはじめた。不動院のお坊さまが身の上をたずねると『私の名は川原朝臣権頭光林。帝にお仕えした家に生まれたのですが体が弱くお勤めもできませんので、こうして諸国の霊場霊地を廻って歩いているのです。』といわれた。その夜のこと、光林が眠っていると、薬師如来が夢枕に現れ、『ここから東へ八・九丁行ったところの岩陰に熱い湯が湧いている。その湯に入ると病が治り、長生きすることは間違いない。』とのお告げがあった。光林がその岩陰に行くとお湯が湧いていてその湯に毎日入るとすっかり健康になった。その後、村人たちもこの湯の恩恵を受けることになり、川原朝臣権頭光林の名にちなみ『川原湯』と呼ばれるようになった。」

[ 伝承2 ]
「建久四年(1193)(建久三年とも)、源頼朝公が浅間山麓での狩りに赴く折り、今の川原湯を通りがかった。その時、山の中腹から湯けむりがあがっているのに気づき、発見されたのが川原湯温泉。このとき頼朝公は、そばにあった大きな石を王石(衣掛石)と名づけられた。」
この伝承にちなんでか、「王湯」の玄関には源氏の紋所”笹竜胆”が誇らしげに掲げられています。

 
【写真 上(左)】 笹竜胆 (2013/02)
【写真 下(右)】 川原湯神社の扁額 (2013/02)

[ 湯かけ祭り ]
「源頼朝公の発見から約400年が過ぎたある日のこと、川原湯温泉のお湯が突然出なくなってしまった。困り果てた村人達は、かつて湧いていたお湯がニワトリの卵を茹でた匂いがしていたことから、ニワトリを生贄にしてお祈りしたところ、あら不思議、お湯が再び湧き出た。村人は豊かに湧いた熱いお湯を『お湯わいた』『お祝いだ』といいながらお互いに掛け合い祝った。これがいまもおこなわれる奇祭『湯かけ祭り』の始まりといわれている。」
毎年正月20日、大寒の早朝におこなわれる「湯かけ祭り」は、ふんどし一つの裸姿でお湯をかけ合う祭で、関東を代表する奇祭として有名です。

 
【写真 上(左)】 奇祭、湯かけ祭り (2013/02)
【写真 下(右)】 湯かけ音頭 (2013/02)

[ 湯かけ音頭 ] 豊田嘉雄 作詞
1.ヤアー 正月二十日にゃ どなたもおいで
  サテ 上州川原湯 湯かけの祭 ソレ
(囃子)  メデタヤ メデタヤ オシャシャンのシャン
      オヤ オシャシャンのシャン

囃子にある「シャンシャンシャン ソレ オシャシャンのシャン」という拍子は、祭りの手締めにもつかわれるもので、「川原湯シャンシャン締め」といわれ川原湯独特の手締めとされています。

なお、湯かけ祭りについては、「やまた旅館」のWebで詳細に説明されています。

 川原湯の社のすだれ   
 古りたれど入りて拝めば
 肩ふれて鳴る
       与謝野 寛(晶子)

 
【写真 上(左)】 川原湯神社 (2013/02)
【写真 下(右)】 句碑 (2011/02)

江戸期の温泉番付にも「川原湯」「河原の湯」としてしばしば登場し、別格の草津、伊香保の次点クラスに沢渡、四万などとならんでランクされているので、相応の評価を得ていたものと思われます。
また、「草津の仕上げ湯(直し湯)とされていた」という資料もみられます。

「錦絵にみる日本の温泉」(木暮金太夫氏著/国書刊行会)収録の「上州川原湯温泉之図(墨摺)萩原太郎右衛門板」には、大湯、笹湯、留湯の浴場が記載され、滝の湯、目の湯、虎の湯という浴場ないし源泉があったようです。
絵図をみると現在より下手の吾妻川沿いまで浴場が描かれています。

 
【写真 上(左)】 川原湯下の吾妻川 (2011/02)
【写真 下(右)】 吾妻渓谷 (2007/11)

維新後、”関東の耶馬渓”といわれる景勝地、吾妻渓谷をひかえて文人の来訪も多く、大正九年に著された若山牧水の「渓ばたの温泉」には川原湯温泉が描写されています。
「上州中之条町で渋川から来た軌道馬車を降りた客が五人あった。うち四人は四万温泉へ向かひ、私はただひとりそれらの人たちと別れて更に五里ほど吾妻の流れに沿うて遡り、その渓ばたに在る川原湯温泉にやって来た。・・・」(川原湯温泉Webより)

また、昭和初期には、老舗「山木館」に「のらくろ」の作者・田河水泡画伯が滞在、原稿を講談社へ送っていました。(「山木館」Webより。)

 
【写真 上(左)】 「元の湯」の泉源 (2007/01)
【写真 下(右)】 たまごが茹でられる高温泉、新湯(新源泉)

<温泉>
takayamaさんの「群馬の温泉ページ」に掲載されている県薬務課作成の温泉統計(平成11年度温泉利用状況)によると、川原湯温泉で源泉総数6(すべて自噴、内 利用源泉5)となっています。確認できた源泉と利用状況は以下のとおり。(TIM=イオン計、TSM=溶存物質計、TS=総硫黄、成分濃度・TSの単位はg/kg)

■元の湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 71.6℃ pH=7.1 TIM=1.82 TS=2.2 <新湯との混合泉データ>
「王湯」(内湯のみ?)
■元の湯・新湯混合泉 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 71.6℃ pH=7.1 総計=1.96 TS=2.2
「聖天様露天風呂」「柏屋旅館」「丸木館」「高田屋」
■新湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 78.9℃ pH=7.3 総計=1.89 TS=4.1
「笹湯」
■虎湯 S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 59.5℃ pH=7.6 総計=1.69 TS=4.89
「敬業館みよしや」「山木館」
■養寿館(廃業)* S-Ca・Na-Cl・SO4温泉 -℃ pH=7.7 TSM=1.77
■ますや* Na・Ca-Cl・SO4冷鉱泉 -℃ pH=8.4 TSM=1.67
「民宿ますや」?
■新川原湯(上湯原)温泉 泉質未詳
(* やませみさんデータ)

「元の湯」の泉源は「王湯」母屋の真下、「新湯(新源泉)」の泉源は川原湯神社境内、本殿階段下にあり、よこにたまご茹で場と足湯があります。
新湯(新源泉)は温泉地移転後も利用されるとみられますが、他の泉源については不明。

 
【写真 上(左)】 王湯の内湯湯口 (2007/01)
【写真 下(右)】 析出&硫化バリバリの王湯露天湯口 (2007/01)

上述の「錦絵にみる日本の温泉」で「大湯」「笹湯」「留湯」「滝の湯」「目の湯」「虎の湯」のうち、「滝の湯」以降の効能は別になっているので、源泉が違うのかも。
推測ですが、「王湯」「笹湯」「留湯」は現「元の湯」、「虎の湯」は現「虎湯」につながるものかもしれません。
また、「丸木屋」の館内掲示によると、ここは「智与の湯(通称・丸木屋目の湯)」という台帳登録源泉をもっているようなので、これは上の「目の湯」の系譜かもしれません。

 
【写真 上(左)】 新源泉の標識 (2013/02)
【写真 下(右)】 かなりの硫黄成分を含んでいます(新源泉足湯) (2013/02)

泉質は硫黄含みの含芒硝土類食塩泉系。アブラ臭としぶ焦げイオウ臭が醸し出す独特な”川原湯臭”が特徴です。
うすく黄色味がかった透明の熱湯に白~灰色の羽毛状の湯の花を浮かべ、きしきしととろみを帯びた肌に喰い入るような力強いお湯で、強い温まり感があります。
温泉王国群馬のなかでも第一級に入る、文句なしの名湯です。

 
【写真 上(左)】 「山木館」の内湯 (2003/02)
【写真 下(右)】 「丸木屋」の浴場 (2013/02)

〔 源泉名:川原湯温泉 新湯 〕 <H23.6.6分析>
含硫黄-Ca・Na-塩化物・硫酸塩温泉 79.3℃、pH・湧出量=記載なし、成分総計=2.15g/kg
Na^+=352.00mg/kg、Ca^2+=341.00、Fe^2+=0.05
Cl^-=680.00、HS^-=2.60、SO_4^2-=579.00
陽イオン計=701.00、陰イオン計=1314.00、メタけい酸=87.9、メタほう酸=39.1、硫化水素=1.9

「元湯」「元湯・新湯混合泉」「新湯」「虎湯」と入っていますが、お湯のイメージに大差はありません。
熱湯の絞りかけ流しが多いので、泉質の微妙なちがいより、むしろ加水やお湯のなまり加減に影響を受けるのだと思います。

 
【写真 上(左)】 なお稼働をつづける「王湯」 (2013/02)
【写真 下(右)】 案内板 (2013/02)

今後については八ツ場ダム次第ということになりそうですが、数百年の歴史とたぐい希な名湯は、ほかでは得ようとしても得られない資産です。
魅力あふれる温泉地として再生し、繁栄することを願っています。

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■ 静岡県河津町の御朱印



河津町の河津桜がそろそろ見頃のようです。
「河津桜まつり」(2/1~3/5)が開催されています。
(当初~2/28までが~3/5に変更か?)
18時~21時はライトアップもされる模様。


河津町の御朱印を網羅的にまとめたWebが見当たらないのでつくってみました。

河津町は伊豆八十八ヶ所霊場と伊豆横道三十三観音霊場の札所が複数あり、拝受可能御朱印数は多いエリアです。
ただし、伊豆横道三十三観音霊場の札所は無住のお堂がメインで、他所でいただくことになるので拝受難易度は高くなっています。

 
【写真 上(左)】 伊豆八十八ヶ所霊場のガイドブック
【写真 下(右)】 伊豆横道三十三観音霊場のガイドブック

御朱印帳は神社なら川津来宮神社、寺院ならば栖足寺で頒布されています。

仏像ファンならば谷津の「河津平安の仏像展示館」も見どころとなります。
(南禅寺の御朱印はこちらでいただけます。)

それでは天城峠から河津浜に向かって順にご紹介していきます。
※現在、拝受できない御朱印があるかもしれません。

〔ご参考〕
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


■ 天城山 慈眼院(じげんいん)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
賀茂郡河津町梨本28-1
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
札所:伊豆八十八ヶ所霊場(新?)第35番 
授与所:温泉施設「禅の湯」内
・国道414号天城街道が天城峠から七滝ループ橋を経て下ってきたところ、温泉地としても知られる梨本エリアにあり、お寺というより温泉施設「禅の湯」が前面に出ています。
・伊豆山中に真言宗の庵として草創、慶安(1648-1652年)年間に現在地に遷り普門院雲國和尚を開山祖として庵を院に改めています。
・伊豆八十八ヶ所霊場第35番は栖足寺から慈眼院に変更された模様です。

 


【写真 上(左)】 御本尊・聖観世音菩薩の御朱印
【写真 下(右)】 弘法大師の御朱印


■ ほうそうばあさんの御朱印


■ 龍の御朱印

龍の御朱印は、本堂の豪快な天井絵にちなむもの。
「ほうそうばあさん」は、疱瘡神(疱瘡を患うことがないよう祈念する神様)です。

詳細は、→ ■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


■ 千手山 三養院(さんよういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町川津筏場807-1
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
札所:伊豆八十八ヶ所霊場第34番
授与所:庫裡
・現地由緒書等の寺伝によると、三養院は韮山昌渓院を開山した竺仙宗僊による開山で、竺仙宗僊は永正八年(1511年)寂なのでそれ以前の創立と推測されています。

・開山当初は千手院(庵)と号しました。
・天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、下田の鵜島城(現・下田公園)も攻撃され、城主・清水上野介康英は降伏して妻と息子の能登寺正令とともに千手院に身を隠しました。
・この3人を養いおいたことから、三養院に号を改めたと伝わります。
・なお、このとき鵜島城には、羽柴秀長、毛利輝元、宇喜多秀家、長宗我部元親、九鬼嘉隆など、じつに1万4千もの大軍が攻め寄せたとのことです。

 

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

詳細は、→ ■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4

■ 湯ヶ野温泉 「福田家」の入湯レポ


■ 澤田涅槃堂(さわだねはんどう)
紹介Web(河津町)
河津町沢田108
曹洞宗?
御本尊:釈迦如来涅槃像
札所本尊:-
札所:-
授与所:期間限定・現地
・創立は江戸時代初期で三養院の控寺として建てられたものと推定されています。
澤田涅槃堂の御朱印は、河津さくらまつり(2/1~3/5)中の限定授与となる模様です。(筆者未拝受)


■ 萬松山 普門院(ふもんいん)
河津町逆川500
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
札所:伊豆横道三十三観音霊場第13番
授与所:入口左手の個人宅
・応永七年(1400年)、鈴木采女正が一寺を建立し、模菴宗範和尚(足利持氏の甥)を迎えて開山と伝わります。
・模菴宗範和尚はのちに小田原最乗寺の住職となり、足利持氏とのゆかりもあって寺勢は隆盛したといいます。

 


■ 金鳥山 東大寺(とうだいじ)
河津町峰382
曹洞宗
御本尊:
札所本尊:十一面観世音菩薩
札所:伊豆横道三十三観音霊場第15番
授与所:寺役管理で現地に授与先の電話番号
・草創は東大庵と号する小庵で、慶長元年(1596年)菩提寺と合併して東大寺に改めました。
・御本尊は行基菩薩の御作と伝わる十一面観世音菩薩。

 


■ 稲荷山 善光庵(ぜんこうあん)
河津町峰382
宗派不明
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
札所:伊豆横道三十三観音霊場第16番
授与所:観音堂区長管理
・峰温泉のそばにあり、南禅寺より十一面観世音菩薩を移遷して改築・再興と伝わります。
・下峰観音堂とも呼ばれ、伊豆横道三十三観音霊場第16番札所です。
・檜材一本造等身大の御本尊は、平安中期の作とみられ県の指定文化財です。

 


■ 東泉山 南禅寺(なぜんじ)
河津町谷津129
真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:十一面観世音菩薩
札所:伊豆横道三十三観音霊場第17番
授与所:河津平安の仏像展示館受付
※絵御朱印がある模様。
・行基菩薩開創と伝わる古刹で、御本尊の薬師如来も行基の自刻と伝わります。
・当初は那蘭陀(ならんだ)寺と号し、伽藍建立は康和元年(1099年)といいます。
・多くの仏像を擁し、一部はすぐよこの河津平安の仏像展示館で公開されています。

 


■ 小峰堂(こみねどう)
河津町田中268
宗派不明
御本尊:
札所本尊:千手観世音菩薩
札所:伊豆横道三十三観音霊場第14番
授与所:近くの谷水屋商店にて(営業日のみ、原則火曜休)
・縁起類が遺っておらず詳細不明ですが、伊豆横道三十三観音霊場第14番の札所で、御本尊は千手観世音菩薩です。

 


■ 杉桙別命神社 (川津来宮神社)(すぎほこわけのみことじんじゃ)
公式Web
河津町田中宮ノ脇153
御祭神:杉桙別命
旧社格:延喜式内社(小)、郷社、川津17箇村総鎮守
授与所:境内社務所にて
・社格が高く、このあたりでは貴重なご神職常駐の神社。樹齢千年以上といわれる「来宮様の大クス」で有名。

 


■ 鳳儀山 栖足寺(せいそくじ)
公式Web
河津町谷津256
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
札所:(旧)伊豆八十八ヶ所霊場第35番
授与所:授与所 or 本堂内
・河津川の河童を和尚さんが救い、お礼に不思議な瓶を得たという伝説が伝わる河童ゆかりのお寺で「河童の寺」とも呼ばれます。
・公式Webの寺伝によると、元応元年(1319年)、下総総倉の城主千葉勝正の第三子で、大覚禅師(蘭渓道隆)の直系弟子と伝わる徳瓊覚照禅師により開山という古刹です。
・徳瓊禅師は文永六年(1269年)支那に渡り、文永十年(1273年)帰朝。
応長元年(1311年)に北条時宗の旗士、北条政儀が河津に建立した真言宗の政則寺に、元應元年(1319年)迎えられ禅寺に宗を改め栖足寺とされたと伝わります。
・カラフルで多彩な御朱印で有名です。

 

〔 (旧)伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
※こちらは現在、胡瓜封じ河童の絵入りの両面御朱印が通常御朱印となっている模様です。
公式Webによると、「活潑潑地」は禅語で「活発」の語源。元気はつらつの願いを込めて授与とのことです。


■ 御本尊・無釋迦牟尼佛の御朱印

詳細は、→ ■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4


■ 佛光山 専光寺(せんこうじ)
河津町谷津256
浄土真宗本願寺派
御本尊:
札所本尊:-
札所:-
授与所:本堂内
・開放的なお寺さまで、浄土真宗本願寺派ですが御朱印(参拝記念)を授与されています。

 


■ 長運山 乗安寺(じょうあんじ)
河津町観光協会
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町谷津413
日蓮宗
御本尊:十界曼荼羅
札所本尊:
札所:伊豆八十八ヶ所霊場第36番
授与所:庫裡
・伊豆八十八ヶ所霊場唯一の貴重な日蓮宗の札所です。
・『こころの旅』『霊場めぐり』によると、慶長年間(1596-1615年)縄地金山採掘の際、縄地に身延山久遠寺廿二世日遠上人を開山に創立、のちに現在地に移されたといいます。
・開山日遠上人が法輪のため駿府城に赴いた際、家康公の怒りにふれ安倍川の河原で斬罪に処せられるところ、側室お万の方が上人を自らの女駕籠に乗せてこの地へ逃したという伝承があります。当山には、そのときの女乗物駕籠が保存されています。

 

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 御首題
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御首題帳

詳細は、→ ■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


■ 金剛山 真乗寺(しんじょうじ)
公式Web
河津町見高540
臨済宗建長寺派
御本尊:大日如来
札所本尊:
札所:-
授与所:庫裡
・臨済宗建長寺派の寺院で、札所ではないですが山内の樹齢41年の河津桜が知られています。
・豪快な筆致の大日如来の御朱印を拝受できます。

 


■ 玉田山 地福院(じふくいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町縄地430
曹洞宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
札所:伊豆八十八ヶ所霊場第37番
授与所:第38番禅福寺(下田市白浜)庫裡
・平安時代の創立ともいわれ、かつては玉田山金生院という真言宗寺院でしたが、慶長五年(1600年)に曹洞宗に改め再興。
・縄地金山が栄えた際に、近隣に創立された9つの寺院のうちの一ヶ寺で、金山衰退後に他の8つの寺院は移転ないし廃寺となりましたが、地福院だけはこの地に残ったとの由。

 

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

詳細は、→ ■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


■ 宝林山 称念寺(しょうねんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
河津町浜334-1
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
札所:伊豆八十八ヶ所霊場別格旧第31番
授与所:庫裡
・伊豆八十八ヶ所霊場に設定されている別格札所。
・称念寺は、安元元年(1175年)、河津三郎祐泰が居館・谷津館のなかに阿弥陀如来を奉安した庵(称念庵)を開創したのが始まりと伝わる古刹です。

 

・歴史の香り高い寺院なので、すこしく長めにご紹介します。

河津三郎祐泰は伊豆の豪族・伊東祐親の長男で、「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我祐成・時致の実父です。

藤原南家の流れとされる工藤氏は伊豆の名族で、工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)

伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)

一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。

工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。

工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。

安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。

伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため伊東の久遠寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。

河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。
(河津祐泰の妻を満功御前とする説もありますが、『曽我物語』では伊東祐親の娘となっており錯綜しているようです。)

祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。

『曽我物語』の発端ともなった奥野の狩りの相撲で、祐泰は俣野五郎に勝ちましたが、そのとき祐泰が掛けた(掛けられた)技が「河津掛け(蛙掛け)」とされ、いまでも相撲の決まり手として残っています。

「河津掛け」は、「相手が外掛けや切り返しで攻めてきたところを逆に相手の脚を内側から掛けていき、足の甲を相手の脚に引っ掛け、腕を相手の首に巻いて自分の後方に倒す。」(wikipediaより)という大技で、めったにみることができません。
非常に危険なワザとされ、アマチュア相撲では禁止されています。

「河津掛け」の由来について、wikipediaには「書籍『大相撲大事典』によると名称は脚の形状からカエル(かわず)に由来し、かつては「蛙掛け」(かわずがけ)と呼ばれていた。「河津」の表記にかわったのは、『曽我物語』にある河津祐泰と俣野景久が相撲を取った話で、俣野が河津祐泰に今でいう河津掛けを繰り出したが、江戸時代の草子において「かわずがけ」という名称に掛けた洒落によって、逆に河津祐泰が俣野に掛けている絵が流行り、それが由来ではないかと推測できるが、よくわからないとしている。」とあります。

■ 平成8年初場所 貴乃花貴ノ浪 河津掛け(貴ノ浪、河津掛けで初優勝)


〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

詳細は、→ ■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4

■ 片瀬温泉 「味湯海亭 福松荘」の入湯レポ


おとなりの稲取も伊豆有数の御朱印スポットです。
1/20~3/31の雛のつるし飾りまつり期間中は、普段いただけない素盞嗚神社の御朱印も拝受できます。


【 BGM 】
■ サクラ色 - アンジェラ・アキ

もう歌わない?。日本は貴重なシンガーソングライターを失ったのか・・・?
感情過多にならず、たおやかに聴き手のこころをゆさぶる歌声。

■ 春風 - Rihwa(リファ)


■ 桜 - 中村舞子
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カラバトU-18世代の「月光」

難曲中の難曲「月光」。
これをカラバトU-18世代がどう歌ったか。
まぁ、聴いてみてください。

【 原曲 】
■鬼束ちひろ - 月光



【 佐久間彩加ちゃんの月光 】
@_angelvoice_ #カラオケバトル #佐久間彩加 #月光 #鬼束ちひろ ♬ オリジナル楽曲 - 天使の歌声を聞いた


【 熊田このはちゃんの月光 】
OGPイメージ

熊田このはさんの月光 カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

熊田このはさんの月光 カラオケ動画【KARASTA(カラスタ)】

 



音程・ピッチ崩しどころ満載のこの曲で、どちらもまったく崩していない。
そのうえでどちらもオリジナリティばりばり。
しかもしっかり感情が乗っている。
この子たち、ほんとうに凄いわ。
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■ 埼玉県所沢市の札所と御朱印

2023/02/12 追加UP

所沢市内の御朱印はほぼ拝受した気がするので、画像を交えてUPします。
まずはリストと御朱印画像をUPし、寺社の写真は追って追加します。

【エリア概要】
所沢市は埼玉県南西部の主要都市で、古くから鎌倉街道上道筋に位置した交通の要衝。
中世には新田氏と北条氏、足利氏の戦場となり、戦国時代は関東管領扇谷上杉氏、ついで後北条氏の支配下にあり、これらの武将ゆかりの寺院も多い。
江戸時代も交通の要衝の地の利を生かして物資の集積地として発展し、巡拝霊場の札所もかなりの数がおかれている。

川越のように観光寺院が多い訳ではないが、複数の現役の観音霊場があるため御朱印がいただきやすいエリアとなっている。
宗派は真言宗豊山派と曹洞宗が多い。

令和二年正月、あらたに所沢七福神が開創され、書置ながら通年御朱印対応されているので、さらに拝受可能な御朱印数が増えている。

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所沢市域はかなり広く、札所も全域に広がっているので、車がないとアクセスがやっかいなエリアといえる。
ただし、所沢は西武鉄道の牙城で、メインとなっている武蔵野三十三観音霊場、狭山三十三観音霊場ともに西武鉄道がバックアップし、巡拝コースも設定されているので、このふたつの霊場については鉄道・バス利用でも比較的回りやすくなっている。
市東部は都心から車で川越に向かうルート上に位置するので、川越の御朱印巡りとの合わせワザも可能。

【所沢市と札所】
県内では秩父三十四ヶ所観音霊場と並んでメジャーな武蔵野三十三観音霊場の札所は7を数え、現役霊場として機能している狭山三十三観音霊場の札所も12を数える。
とくに狭山三十三観音霊場は発願、結願の両寺ともに所沢市内に位置し、発願寺の金乗院放光寺は県内有数の名刹として知られている。

弘法大師霊場では、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の札所が複数ある。専用納経帳を持参すれば御朱印を授与いただける札所が多い。
活動を停止している武玉八十八ヶ所霊場の札所が数箇寺あるが、いずれも他の現役霊場の札所となっているので現役霊場の御朱印は拝受できる。

狭山三十七薬師霊場の札所も数箇寺あるが、現役霊場ではなく御朱印は不授与の模様。
ただし、こちらも他の現役霊場の札所となっているケースが多く、最近、御朱印通年授与の所沢七福神が設定されたこともあって市内の札所寺院の御朱印授与率は高くなっている。
他に武蔵野七福神の札所が一箇所(金乗院放光寺)あるが、広域の霊場札所は少ないエリアである。

御朱印をいただいた非札所系寺院についても名刹がメインのため、今回はあわせてご紹介します。


【拝受データ】 (おおむね東部から。現時点で授与休廃止の可能性あり、形態(直書・書置など)は状況により変化する可能性大です。)


■ (坂之下)天神社 
所沢市坂之下64
御祭神:菅原道真公
旧社格:村社、旧坂下村鎮守
元別当:梅林山 大學院(現・富士見市南畑)
授与所:金子宮司様宅(所沢市坂之下350-1)
御朱印揮毫:天神社 /筆書(直書)



・もともとは当地の治水開発の守護神として水神様が祀られ、その後天神様が合祀されたと伝わる。旧坂下村の鎮守で、現在は「柳瀬総鎮守」ともいわれる。


■ 城山神社 
所沢市城537
御祭神:宇迦之魂神
旧社格:村社、旧城村鎮守
元別当:城村龍蔵院、本郷村東福寺、氏照院
授与所:金子宮司様宅(所沢市坂之下350-1)
御朱印揮毫:城山神社 /直書(筆書)



・後北条氏の麾下、大石氏の軍事拠点であった「滝の城」(本郷城)の鎮守社といわれ、城跡に祀られる神社。明治に入り村内各社を合祀し村社に列格した。


■ 医王山 東光寺
公式Web 
所沢市坂之下383
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所:-



・滝の城城主・北条氏照により城の東北に鬼門の鎮めとして建てられた寺院。。
・御本尊の薬師如来は「平の時頼公」ゆかりで、北条氏照の守り仏と伝わる。
・山内には金毘羅大王尊が祀られ、毎月十日のご縁日は賑わいをみせる。


■ 大光山 妙乗寺
所沢市南永井688−2
日蓮宗
御首題 /直書(筆書)



・開基等不詳ですが、所沢市内では稀少な日蓮宗寺院で、快く御首題を授与いただけました。


■ 武蔵野坐令和神社
公式Web
所沢市東所沢和田3-31-3
御祭神:天照大御神、素戔嗚命
授与所:境内授与所  ※オリジナル御朱印帳あり
御朱印揮毫:武蔵野坐令和神社 /直書(筆書)



・「KADOKAWAによる日本初のコンテンツモール、ところざわサクラタウン」内に祀られ、「所沢から新たな物語を創造・発信する起点となることを目的として」創建。
・正式名称は「武蔵野坐令和神社(むさしのにますうるわしきやまとのみやしろ)」、通称「武蔵野令和神社(むさしのれいわじんじゃ)」。
・社務所は常駐で、オリジナル御朱印帳も頒布されています。


■ 成田山 観音院 東福寺
所沢市本郷764
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第29番


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・天平勝寶元年(聖武天皇の御代)に行基菩薩が創建、聖寶尊師(延喜九年(909年)入寂)の開祖と伝わる真言宗の古刹。
・奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第29番の札所本尊は、羽村の加藤家から羽村市の道路拡張工事にともない平成29年(2017年)5月に東福寺に御遷座、札所も移転し東福寺となる。
(旧札所は羽村山 禅林寺)
・奥多摩新四国霊場の御朱印は専用納経帳にて拝受。タイミングが合えば御本尊の揮毫御朱印も授与いただける可能性あり。


■ 龍王山 霊源寺
所沢市上安松1353
日蓮宗
御首題 /直書(筆書)



・開基等不詳ですが、所沢市内では稀少な日蓮宗寺院で、快く御首題を授与いただけました。
・新座市野火止の清立山 番星寺も護持されており、こちらの御首題も授与いただけました。


■ 宝塔山 吉祥寺 多聞院
所沢市中冨1501
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第36番


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 毘沙門天の御朱印


【写真 上(左)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第36番
【写真 下(右)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・元禄九年(1696年)、川越藩主柳沢吉保が三富新田として上富・中富・下富村を開村した際、祈願所・鎮守の宮として毘沙門社を創建。明治の神仏分離令によって多門院として独立した。
・毘沙門堂本尊の毘沙門天は、武田信玄公の守り本尊であったと伝わる。
・よく整備された境内。300株にも及ぶ牡丹で有名で紅葉も綺麗。
・御朱印は霊場申告なしだと毘沙門天の御朱印になる模様。奥多摩新四国霊場の御朱印は専用納経帳にて拝受。タイミングが合えば御本尊の揮毫御朱印も授与いただける可能性あり。


■ (三富・富岡総鎮守)神明社
公式Web
所沢市中富1507
御祭神:天照太御神 ほか
旧社格:村社、三富・富岡総鎮守
元別当:多門院?
授与所:境内社務所
御朱印揮毫:神明社 /直書(書置)



・元禄九年(1696年)、川越城主柳沢出羽守が上富村、中富村、下富村の三ヶ村を開かれた折、鎮守宮として毘沙門社と多聞院を創立し、宝暦十一年(1761年)境内に神明社を勧請したのが創祀と伝わる。
・三富・富岡総鎮守で「富の神明様」として崇敬篤く、境内には天神宮、いも神様などを祀る。
・境内社務所に書置御朱印を用意されているようなので、どなたかおられれば拝受できる。


■ 北田山 長寿院 寳泉寺
公式Web
所沢市北岩岡130
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第50番


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・公式Webには天和三年(1683年)の開山、所沢市資料には寛延年間(1748-1751年)多摩郡澤井村から移転とあり。
・奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の札所本尊は、立派な大師堂内に御座されています。
・奥多摩新四国霊場の御朱印は専用納経帳にて拝受。タイミングが合えば御本尊の揮毫御朱印も授与いただける可能性あり。


■ (下新井)熊野神社
所沢市西新井町17-33
御祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命、須佐之男命、大己貴命、少毘古那命
旧社格:村社、旧下新井村鎮守
授与所:ご神職宅
御朱印揮毫:熊野神社 /直書(筆書)



・新井郷(旧上新井・下新井)の惣社として創建、鎌倉時代から続く社家の三上山城守清定が長禄三年(1457年)再興と伝わる。明治期に村内各社を合祀。


■ 東光山 自性院 薬王寺
所沢市有楽町8-18
曹洞宗
御本尊:薬師如来


御本尊の御朱印

・南北朝時代の武将、新田義貞の三男新田武蔵守義宗が観応の擾乱、武蔵野合戦を経て当地に隠棲し、草庵をかまえたことがはじまりとされる。
・義宗は当寺で一族の菩提を弔い、この地で亡くなったと伝わり、境内には義宗の子孫が建てた「新田義宗終焉之地」の碑がある。
・札所ではありませんが、歴史的な伝承をもち、御朱印も快く授与いただけたのでご紹介します。


■ 乾坤山 長青寺
所沢市弥生町2868
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 御本尊の御朱印

・昭和40年所沢市林の長清山 松林寺の別院として堂宇が建立された比較的新しい曹洞宗寺院。
・札所ではありませんが、快く御朱印を授与いただけたのでご紹介します。


■ 所澤神明社
公式Web
所沢市宮本町1-2-4
御祭神:天照大御神、倉稲魂大神、大物主大神
旧社格:村社、旧所沢村鎮守
元別当:花向院
授与所:境内社務所  ※オリジナル御朱印帳あり
御朱印揮毫:神明社 /直書(筆書)




オリジナル御朱印帳

・日本武尊の東夷征伐の際、当地で天照大御神に祈られたことが創祀とされる旧所沢村(野老澤)の鎮守社。
・所沢は日本の航空の発祥の地として知られ、明治四十四年(1911年)、日本初の飛行場が造られ、徳川好敏大尉は所沢での初飛行に際して当社に参詣祈願し、無事初飛行を果たしたとされる。
・御朱印に積極的で、航空機をデザインしたオリジナル御朱印帳も頒布されています。


■ 鳥船神社
所沢市宮本町1-2-4
授与所:所澤神明社社務所
御朱印揮毫:鳥船神社 /直書(筆書)



・所澤神明社の境内社。所沢航空場で徳川好敏大尉が初飛行を成し遂げたことを記念し、初飛行から100年後の平成23年に創建、所澤航空神社とも称する。
・御朱印のデザインは、1月、4月、7月、10月に替わります。


■ 遊石山 観音院 新光寺
所沢市宮本町1-7-3
真言宗豊山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:武蔵野三十三観音霊場第10番、狭山三十三観音霊場第8番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第24番


【写真 上(左)】 武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(専用納経帳規定用紙)


【写真 上(左)】 狭山三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・御本尊の聖観世音菩薩は行基菩薩の御作と伝わることから、天平年間(729-749年)開基の説がある。
・建久四年(1193年)源頼朝が那須野へ鷹狩に赴く途中、当地で昼食をとった折に幕舎の地を当寺に寄進したといわれる。
・元弘三年(1333年)新田義貞が鎌倉攻めの途上、必勝を祈願し、北条氏を平げての帰途に再び立ち寄り土地を寄進したと伝わる。
・3つの霊場の札所を兼務され、御朱印はすべて授与されています。(奥多摩新四国霊場八十八ヶ所は専用納経帳が必要かもしれません。)


■ 野老山 実蔵院
所沢市元町20-15
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所:武蔵野三十三観音霊場第9番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第68番


【写真 上(左)】 武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳書入)


奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・宥圓(元和二年(1616年)七月二十四日示寂)の開山と伝わる真言宗豊山派の寺院で、もとは正福寺と号し、宝暦年間(1751-1764年)に慧海阿闍梨により中興開山。
・以前所蔵していた半鐘には「新田義興開基」の銘があったという。
・ふたつの霊場の御朱印は、いずれも授与されています。(奥多摩新四国霊場八十八ヶ所は専用納経帳が必要かもしれません。)


■ 愛宕権現社
所沢市緑町3-13-1
御祭神:愛宕大権現



・山口の中氷川神社の奉仕社で、区画整理により上新井字中丁道から御遷座。
・正月、節分、祭典日等の限定授与。→授与情報


■ 三ツ井戸大師
所沢市Web資料
所沢市西所沢1-26
御本尊:弘法大師、十一面観世音菩薩
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第48番


奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・所沢の市街地にある奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の札所。
・「所沢の火事は土で消す」といわれたほど水利の悪かったこの地に、ある日ひとりの僧が訪れ三つの場所を杖で指し示し、井戸を掘るようにと言い残された。村人達がその場所を掘ると、清らかな水がこんこんと湧き出し涸れることがなく、しかも諸病を除き寿命無量の益があったという。村人達はこの有り難い井戸を「三ツ井戸」と呼び、いつしかかの僧は弘法大師であったという話が広まった。
・「三ツ井戸」の地にはかつて普門院が建ち、寛文年間(1661-1663年)に普門院が移転してからもお大師様ゆかりの地として崇められ、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の札所として参拝者を集めている。
・奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印は普門院にて授与いただけますが、専用納経帳が必要かもしれません。


■ 六所神社
所沢市上新井2-6-8
御祭神:小野大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、金佐奈大神、杉山大神
元別当:上洗山 普門院(上新井/真言宗豊山派)



・府中大国魂神社(旧称:六所宮)を勧請して創建。
・明治43年、字荒神脇の稲荷社と字前の稲荷社を合祀。
・原則として毎月1日・15日の午前8時〜11時ごろに限定授与。


■ 上洗山 無量寺 普門院
所沢市まちづくり観光協会Web資料
所沢市上新井189
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:武蔵野三十三観音霊場第11番、狭山三十三観音霊場第7番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第72番


【写真 上(左)】 武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳書入)


【写真 上(左)】 狭山三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・もとは「三ツ井戸」付近にあり、お大師さまゆかりの「三ツ井戸」に寿命無量の益があったことから無量寺と号したとされる。
・天平年間(1573-1592年)に重誉が中興、寛文年間(1661-1663年)に現在地に移転。
・木造毘沙門天は市指定文化財。
・車でのアプローチは狭い路地経由ですが、駐車場はそれなりに広いです。
・奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第48番(三ツ井戸大師)の御朱印もこちらで授与されています。
・ご丁寧な対応をいただけますが、御本尊の御朱印は授与されていないとのこと。


■ 祥雲山 瑞岩寺
所沢市まちづくり観光協会Web資料
所沢市山口400
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:狭山三十三観音霊場第6番


狭山三十三観音霊場の御朱印

・山口城の城主、山口氏の菩提寺として室町時代初期ごろに創建と伝わる曹洞宗の寺院。
・山口氏は平安時代の末期に武蔵七党のひとつ村山党から分かれたとされる当地の名族。


■ 大龍山 永源寺
所沢市久米1342
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:所沢七福神(弁財天)、狭山三十七薬師霊場第25番


所沢七福神(弁財天)の御朱印

・南北朝時代に大石信重が創建したと伝わる古刹。大石氏は木曾義仲の末裔を名乗り、関東管領山内上杉氏に仕え多摩・入間両郡の内十三郷の領主となり、武蔵・伊豆両国の守護代を歴任したとされる。
・開山は八王子の由木城主大石定久の叔父で由木永林寺を開山した一種長純大和尚(永禄八年(1565年)寂)と伝わる。
・所沢七福神(弁財天)の御朱印は書置での授与。御本尊の御朱印の授与は不明です。


■ 花向山 常行院 長久寺
公式Web
所沢市久米411
時宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:所沢七福神(大黒天)、狭山三十七薬師霊場第27番


所沢七福神(大黒天)の御朱印

・所沢で唯一の時宗寺院で、元弘元年(1331年)玖阿弥陀佛(二祖真教上人の徒弟)による開山。
・御本尊の金銅造阿弥陀三尊立像は秘仏で所沢市指定有形文化財。
・豊川稲荷は愛知県の豊川稲荷よりの分社で熊野大権現とともに寺の鎮守として大切にお祀りされている。
・所沢七福神(大黒天)の御朱印は書置での授与。御本尊の御朱印の授与は不明です。


■ 淵上山 持明院
所沢市立所沢図書館Web資料
所沢市北秋津85
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:所沢七福神(恵比寿尊)


所沢七福神(恵比寿尊)の御朱印

・元慶二年(878年)権大僧都寂寛によって創建と伝わる古刹。
以前は秋津村の中央に位置し松根寺と号していたとされ、享保六年(1721年)当地に移転し改号したとされています。
・曼荼羅堂(阿弥陀堂)の本尊阿弥陀如来は弘法大師のお作といわれていたが明治17年の火災で焼失。
・柳瀬川の曼荼羅淵で悪さをしていた河童が書いたとされる「河童のわび証文」ゆかりの寺院としても知られている。
・竹林に囲まれた風情あるお寺さんです。所沢七福神(恵比寿天)の御朱印は書置での授与。御本尊の御朱印の授与は不明です。


■ 王禅山 釋迦院 佛眼寺
所沢市Web資料
所沢市久米2445
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:所沢七福神(福禄寿)、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第53番、狭山三十七薬師霊場第26番


奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

※所沢七福神(福禄寿)の御朱印も授与されています。
・延暦二十一年(802年)の建立とも伝えられ、当村出身の圓宥が元亀年間(1570-1573年)に中興したとされる真言宗豊山派の寺院で、3つの霊場の札所。
・奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印は、専用納経帳が必要かもしれません。


■ 鳩峯八幡神社
所沢市久米2428
御祭神:誉田別命、比売神、気長足姫尊
旧社格:郷社、久米地域の総鎮守
元別当:王禅山仏眼寺(所沢市久米)
御朱印揮毫:鳩峯八幡神社 /直書(筆書)



・延喜二十一年(921年)、石清水八幡宮より分祀して創建。
・元弘三年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めの際、当社で社前の松に兜を掛け、境内に鎧を置いて戦勝祈願し、戦勝ののち兜を掛けた松を「兜掛の松」と呼び、鎧を置いたところに稲荷社を祀って「鎧稲荷」と称したと伝わる。
・本殿は一間社流造見世棚形式の木造建築で、県内に残る稀少な室町時代以前の建造物で、埼玉県指定有形文化財に指定。
・御朱印は境内脇のご神職宅にて授与されています。


■ 久米水天宮
所沢市Web情報
所沢市久米鳩峯2432
御祭神:安徳天皇
御朱印揮毫:久米水天宮 /直書(筆書)



・久留米水天宮の分祀で鳩峯八幡神社の境内社だが、八幡神社の社殿からは若干離れている。
・安産や水難除けの神様として崇敬を集め、1月5日のだるま市は賑わいを見せる。
・御朱印は鳩峯八幡神社のご神職宅にて授与されています。


■ 荒幡山 無量院 光蔵寺
所沢市荒幡499
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来 
札所:所沢七福神(寿老人)


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 所沢七福神(寿老人)の御朱印

・創建年代は不詳、もとは奥富にあり寛和年間(985ー987年)記銘の古碑があったと伝わる。寛永年間(1624-1645年)に法印賢宥が中興開山。
・御本尊阿弥陀如来像は、弘法大師の御作と伝わる。
・庫裡にて御本尊の御朱印を授与いただけましたが、ご多忙の折はむずかしいかもしれません。七福神(寿老人)の御朱印は本堂前で書置授与されています。


■ 月桂山 本覚院 喜福寺
所沢市荒幡653
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:所沢七福神(布袋尊)、狭山三十七薬師霊場第24番


所沢七福神(布袋尊)の御朱印

・庚暦二年(1380年)、阿闍梨法印法円により創建、弘治元年(1555年)大僧都法印恵静によって中興と伝わる古刹。
・明るく開けた感じの境内に立派な伽藍。七福神(布袋尊)は書置授与ですが、御本尊の御朱印は授与されておりません。


■ 荒幡浅間神社
所沢市まちづくり観光協会Web情報
所沢市荒幡748
御祭神:木花咲耶姫命、大山咋命 ほか
旧社格:村社、旧荒幡村総鎮守
元別当:月桂山 本覚院(所沢市荒幡)
授与所:中氷川神社社務所(所沢市山口1850)
御朱印印判:浅間神社 印判



・創立年代は不詳。明治5年(1872年)、荒幡村内の神社を合祀し村社に列し、明治17年(1884年)には字浅間久保からの遷座を機に村民総出で富士山(荒幡富士)を築き上げ明治32年(1899年)に完成。
・高さ約10mと富士塚としてはかなりの規模で、頂上からは360°の眺望が開ける。
・御朱印は本務社の中氷川神社(所沢市山口1850)にて授与されています。


■ 辰爾山 勝楽寺 佛蔵院
所沢市山口1119
真言宗豊山派
御本尊:釈迦如来
札所:狭山三十三観音霊場第2番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第73番、武玉八十八ヶ所霊場第35番、狭山三十七薬師霊場第21番


【写真 上(左)】 狭山三十三観音霊場の御朱印
【写真 下(右)】 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・百済より帰化した儒生王仁の五代孫、王辰爾の子が父の菩提の為に旧勝楽寺村に創建、権大僧都尊海が延久三年(1071年)に中興とされ、往時は寺中十二坊を数えたという古刹。
・山口貯水池の造成(昭和9年(1934年)完成)にともない、旧勝楽寺の地より当地へ移転。(「勝楽寺」の地名はいまも狭山湖南岸に残る。)
・古刹の歴史を物語るように、じつに4つの霊場札所を兼務され、うち2つの霊場の御朱印を授与されています。


■ 瑞幡山 勝光寺
所沢市山口1410
臨済宗妙心寺派
御本尊:釈迦如来
札所:狭山三十三観音霊場第5番、狭山三十七薬師霊場第19番


狭山三十三観音霊場の御朱印

・弘安四年(1281年)、建長寺第一世石門和尚が開山、北条時宗を開基として創建されたという名刹。
・元禄七年から九年(1694-1696年)にかけて建立された唐様桜門造の山門は、野火止の平林寺、上富の多福寺の山門とならび称されるもの。
・本堂に御座す若狭法眼賀竹作の不動明王像も名作として評価されている。
・御朱印は、狭山三十三観音霊場のものを授与いただけます。


■ 川嶋山 釋迦院 海藏寺
所沢市山口2725
真言宗豊山派
御本尊:釈迦如来
札所:所沢七福神(毘沙門天)


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 所沢七福神(毘沙門天)の御朱印

・創建年代等は不詳で従前霊場札所でもなかったため情報が少ない寺院ですが、『新編武蔵風土記稿』には記載されています。
・御朱印は御本尊釈迦如来と所沢七福神(毘沙門天)のものを拝受できましたが(いずれも書置)、御本尊御朱印が常時拝受できるかは不明です。


■ 中氷川神社
公式Web
所沢市山口1850
御祭神:素戔嗚命、稲田姫命、大己貴命、七社大神
旧社格:延喜式式内社(小)論社、県社
元別当:普賢寺(旧打越村)
御朱印揮毫:中氷川神社 /直書(筆書)



・崇神天皇の朝に創始せられ、延喜式式内社の中氷川社に比定される歴史ある神社。
・大宮の武蔵國一之宮氷川神社と奥多摩氷川の奥氷川神社の中間に鎮座するため、中氷川神社と号されたという説がある。
・武蔵國造、山口城主の崇敬篤く、入間・多摩二郡内九十二ヶ村の総鎮守として尊崇されたという。
・終戦直後の昭和20年(1945年)11月、GHQ民間情報教育局初代局長のケン・R・ダイク准将が当社の例大祭を視察しました。このタイミングはGHQが日本政府に対して発した「神道指令」(同年12月15日発出)の直前で、村人総出で和気藹々と催されるこの祭礼の様子は、GHQがそれまで抱いていた全体主義的な神道感を改めさせ、後の神社政策に大きな影響を与えたとされています。
・境内社務所にて境内社、兼務社を含め4社の御朱印を授与され、御朱印界?では有名。


■ 金刀比羅神社
公式Web
所沢市山口1850
御祭神:
御朱印印判:金刀比羅神社 /印判



・中氷川神社の境内社で、御朱印は社務所にて授与されています。


■ (堀口)天満天神社
公式Web
所沢市上山口字長久保436
御祭神:菅原道真朝臣、天穂日命、花園姫
元別当:星見山 清照寺(所沢市上山口)
御朱印印判:天満天神社 /印判



・天正年間(1573-1593年)、徳川家家臣久松氏の崇敬あり耕地を奉納された旧堀口村の鎮守。
・明治元年(1872年)、元別当の清照寺境内に鎮座の八坂神社、稲荷神社を合祀し現・堀口総鎮守。旧堀口村字天神山に鎮座していたが、昭和9年狭山湖の造成に伴い現社地に御遷座。
・社叢に囲まれ神さびた境内。境内社の稲荷神社は「火消し稲荷」と称され火防の信仰を受けている。
・御朱印は本務社の中氷川神社社務所にて授与されています。


■ 星見山 無量壽院 清照寺
所沢市上山口439
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第42番


奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・村山党の末裔といわれる里見小太郎が星見堂と号して室町期に創建。僧賢譽(明暦二年(1656年)入寂)の代に、当地の領主、旗本久松忠次が東谷にあった安楽寺を引寺して清照寺と改号、以後久松氏の菩提寺になったとされる。
・御朱印は奥多摩新四国霊場八十八ヶ所のものを授与いただけましたが、専用納経帳がない場合、授与いただけるかは不明です。


■ 証智庵(正智庵)
所沢市上山口13
臨済宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:狭山三十三観音霊場第4番


狭山三十三観音霊場の御朱印

・僧白瑛(宝暦七年(1757年)入寂)の創建と伝わる、十一面観世音菩薩を祀る庵。
・御朱印は、第5番勝光寺にて拝受できます。


■ 六斎堂
所沢市上山口1642
真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:狭山三十三観音霊場第3番


狭山三十三観音霊場の御朱印

・創立年代は不詳。往時は六観音が祀られ、六斎(毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日は「斎戒謹慎」し、善心を起こすべき日とする民衆教化の宗教行事)の守り本像として六観音が祀られていたと推測されている。
・昭和17年(1942年)金乗院の所属となり、御朱印も金乗院にて授与されています。


■ 菩提山 仏國寺 密厳院
所沢市山口2045
真言宗豊山派
御本尊:薬師如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第23番、武玉八十八ヶ所霊場第40番、狭山三十七薬師霊場第23番


奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・弘法大師が東国修行の折りに当地で三尊阿弥陀如来を刻まれ、そのしるしに現在の翁樹神社に菩提樹の木を植えられた事により、当地を菩提樹村と呼び当寺を菩提山 密厳院 佛國寺と号したという伝承がある。
・また、圓清(元和八年(1622年)入寂)による開山とも伝わる。
・奥多摩新四国霊場の札所は開創当時青梅市柚木地区にあったが廃寺となり密厳院に移管。
・御朱印は奥多摩新四国霊場八十八ヶ所のものを授与いただけましたが、専用納経帳がない場合、授与いただけるかは不明です。


■ 狭山山 不動寺(狭山不動尊)
公式Web
所沢市上山口2214
天台宗
御本尊:不動明王


御本尊の御朱印

・昭和50年(1975年)、 当時の西武グループのオーナー堤義明氏が寛永寺の助力を受けて天台宗別格本山として建立した寺院で、西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られる。
・芝増上寺をはじめとする各地の文化財を移築し、「文化財の寺」としても知られている。
・御朱印の授与は10:00~15:00(年末年始を除く)、駐車場利用可能時間は10:00~14:45なので要注意です。


■ 吾庵山 金乗院 放光寺
所沢市上山口2203
真言宗豊山派
御本尊:千手観世音菩薩
札所:武蔵野三十三観音霊場第13番、狭山三十三観音霊場第1番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第52番、第65番、第67番、第77番、第79番、武蔵野七福神(布袋尊)、武玉八十八ヶ所霊場第39番、狭山三十七薬師霊場第22番


【写真 上(左)】 武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】同(御朱印帳書入)


〔 狭山三十三観音霊場の御朱印 〕
〔 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印 〕


〔 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印 〕


〔 奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印 〕


〔 武蔵野七福神(布袋尊)の御朱印 〕

・所沢市内屈指の名刹で山口観音とも称される。
・寺伝によれば弘仁年間(810-824年)、行基菩薩の東国巡錫の際、光り輝く木に千手観世音菩薩を感得され、そのお姿を霊木に刻まれて安置し開創。
・弘法大師が湯殿山に向かわれる途中、当地に立ち寄られ白髪の老婆から行基作の観音様について告げられ堂宇を建立されて開基。弘法大師は観音像供養のため閼伽水を求められたところ神龍が応じて浄水を湧かせ、これが加持水として今も湧き出ている。
・また、新田義貞の鎌倉攻めの際に当寺に祈願し、後にみずからの乗馬を寄進したとも伝わる。
・御本尊千手観音は「木造千手観音立像」として市の指定文化財に指定され33年に一度の御開帳。脇仏として不動明王と毘沙門天が祀られている。
・多くの霊場札所を兼ねられているため、御朱印拝受にあたっては霊場の申告が必要と思われます。


■ 物部天神社・国渭地祗神社・天満天神社(北野天神社)
公式Web
所沢市小手指元町3-28-44
御祭神:櫛玉饒速日命、八千矛命(大国主命)、菅原道真公
旧社格:県社、延喜式式内社
御朱印揮毫:物部天神社国渭地祗神社天満天神社 /直書(筆書)
御朱印揮毫:北野天神社 /直書(筆書)




令和改元奉祝御朱印

・正式な社名は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社で、総称として北野天神社が使われる。
・社伝によると物部天神社・國渭地祇神社は、景行天皇の御代に日本武尊が天神の櫛玉饒速日命と地祇の八千矛神をお祀りした延喜式内社。
・天満天神社は、長徳元年(995年)に菅公五世の孫、武蔵国司菅原修成が勅命を奉じて京都の北野天満宮より御分霊を関東地方以東で最初に勧請したため、「坂東第一北野天満宮」と定められたとされる。
・源頼義・義家公が奥州追討の宿願成就のため境内に総社を建立。建久六年(1195年)源頼朝公が正八幡宮を勧請、社殿を全て修造し、新たに延喜式内の諸神を祀った諸神堂を建立。
・延文元年(1356年)には足利尊氏も境内諸社を再建したとされ、以降も前田利家、徳川家康、大久保石見守などの尊崇篤く、度々社殿が造営されている。
・御朱印は境内授与所にて2種類を拝受。限定御朱印も適宜授与されている模様です。


■ 梅林山 北野院 全徳寺
所沢市北野2-13-5
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:武蔵野三十三観音霊場第12番、狭山三十七薬師霊場第20番


【写真 上(左)】 武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳書入)

・西多摩郡平井の寶光寺二世願山明鑑大和尚(永禄十一年(1568年)入寂)が地区内の数寺を統合して開山・創建したという曹洞宗寺院。
ロウバイの寺として有名で、武蔵野三十三観音霊場の札所でもあります。
・御本尊の御朱印は授与されていない模様。


■ 糀谷八幡神社
公式Web
所沢市糀谷78
御祭神:誉田別尊
旧社格:村社、旧糀谷村鎮守、神饌幣帛料供進神社
御朱印揮毫:糀谷八幡宮 /直書(筆書)

 
【写真 上(左)】 御朱印
【写真 下(右)】 オリジナル御朱印帳

・江戸時代初期に鶴岡八幡宮を勧請して創建。明治41年(1908年)に字富士塚の山神社)、大字三ヶ島字新水の愛宕神社、同境内社金刀比羅神社を合祀したと伝わる。
・御朱印に力を入れられており、多彩な限定御朱印が授与され、御朱印帳も頒布されています。


■ 愛宕神社
公式Web
所沢市糀谷78
御朱印印判:愛宕(愛太子)大権現のお姿の印判



・糀谷八幡神社に合祀された愛宕神社で、白鳳十三年(673年)役行者の勧請と伝わり本山派修験玉蔵坊(後に竜蔵院)にお祀りされていた愛宕様とみられる。
・御朱印は、糀谷八幡神社社務所にて授与されています。


■ 聴松軒(長昌軒)
所沢市堀ノ内
真言宗
御本尊:馬頭観世音菩薩
札所:狭山三十三観音霊場第31番


狭山三十三観音霊場の御朱印

・金仙寺の住僧覚秀が宝永年間(1704-1710年)に創建したとされる馬頭観世音菩薩を安置するお堂。
・御本尊の馬頭観世音菩薩は弘法大師の御作といわれ、金仙寺の本寺である青梅の金剛寺から移られたと伝わる。
・御朱印は近くの「別所人形店」で拝受できます。


■ 別所山 西光院 金仙寺
所沢市堀之内343
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第66番、武玉八十八ヶ所霊場第34番


【写真 上(左)】御本尊の御朱印
【写真 下(右)】奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・平安時代に傳燈阿闇梨覚堂という僧が、弘法大師御作の阿弥陀如来を本尊として、現在地の西方「堂入り」に開山と伝わる。
・その後、鎌倉北条氏からの寄進を得て、天正十八年(1590年)堯戒律師により現在地に移転・再建される。
・所沢市指定の「しだれ桜」は樹齢百二十年余の名木といわれる。
・御朱印は奥多摩新四国霊場八十八ヶ所のものを授与いただけましたが、専用納経帳がない場合、授与いただけるかは不明です。


■ 慈眼庵
所沢市三ヶ島5-821
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:狭山三十三観音霊場第32番


狭山三十三観音霊場の御朱印

・狭山三十三観音霊場の第32番札所で開創等詳細は不明。
・御朱印は第33番の妙善院で拝受できます。


■ 稲荷山 寳玉院
所沢市三ヶ島3-1167
真言宗豊山派
御本尊:
札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第47番


奥多摩新四国霊場八十八ヶ所の御朱印

・寛永年間(1624-1645年)に権大僧都長賢法印が創建したと伝わる寺院。
・御朱印は奥多摩新四国霊場八十八ヶ所のものを授与いただけましたが、専用納経帳がない場合、授与いただけるかは不明です。


■ 光輪山 三ヶ島寺(原の寺) 妙善院
所沢市三ヶ島3-1410
曹洞宗
御本尊:白衣観世音菩薩
札所:武蔵野三十三観音霊場第14番、狭山三十三観音霊場第33番、狭山三十七薬師霊場第18番


【写真 上(左)】 武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】同(御朱印帳書入)


狭山三十三観音霊場の御朱印

・天正年間(1573-1592年)、後北条氏の家臣澤(佐和)次郎右衛門吉縄(光輪院殿)が、東久留米市大門の浄牧院11世呑碩和尚を開山に迎えて開創したという曹洞宗寺院。
・天明八年(1788年)、金乗院の住職亮盛和尚と妙善院の住職卍杲禅師は狭山三十三観音霊場を開創、当寺は結願寺となっている。
・御本尊の白衣観世音菩薩は行基菩薩の御作と伝わる。


■ 吟龍山 松林寺
所沢市林2-147
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:武蔵野三十三観音霊場第15番、狭山三十三観音霊場第30番、狭山三十七薬師霊場第15番


【写真 上(左)】武蔵野三十三観音霊場の御朱印(開創八十年総開帳/専用納経帳)
【写真 下(右)】 同(御朱印帳書入)


狭山三十三観音霊場の御朱印

・承応二年(1653年)、吟國寒龍大和尚により開山・創建という曹洞宗寺院で、ふたつの現役霊場の札所を兼務される。
・御本尊の御朱印は不授与の模様。

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■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)
■ 埼玉県富士見市・ふじみの市・三芳町の御朱印


■ 御朱印情報の関連記事
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■ コードづかいとコード進行(丸サ進行とメジャー・セブンス)

先ほどのNHKの「歌える!J-POP」面白かった。
”歌える!J-POPバンド”のレベルがすこぶる高いので、サウンドそのものも楽しめる。

イルカ(風)の「海岸通」、ひさびさに聴いた。
なんということもないコード進行だけど、妙にひっかかる。

■ イルカ - 海岸通


コード進行

あなたを 乗せた 船が
A  A#dim  Bm  Bm/A
ディミニッシュとオン・コード。
シンプルなコード進行だけに、こいつらの威力がよけいによくわかる。

■ ザ・カセットテープ・ミュージック 「コード進行まとめました」


■ J-POPを席巻!定番コード進行5選をまとめて紹介~コード特徴、使用楽曲など~



個人的には、↓ この手のコード進行が好きなんですけど・・・
■ Butterfly - 木村カエラ(Covered)

コード進行
ベースは変則カノンだと思うけど、強引な転調がたまらん (笑)

■ あなたに会えてよかった - 小泉今日子(Covered)

コード進行
イントロですでに転調してる。
しかもサビがドミナント始まり
でもって、エンドはしっかりトニック。

こんな曲をアイドルが歌い、しかもヒットする時代があった。


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2021-09-24 UP

ザ・カセットテープ・ミュージックが残念ながら終わってしまったので、ちとコードについてUPしてみます。

■ 思い過ごしも恋のうち - サザンオールスターズ

↑ この曲がどうしてベタにならなかったかというと、たぶんメジャー・セブンスだから。
コード
そして、サザンがこれだけ成功した理由のひとつもここにあるのでは?
なんつっても、メジャー・セブンスから入ったら(入れたら)、あとの曲づくりはかなり楽だと思う。

■ 日本人が大好きなコード進行 J-POP編 大ヒット曲の法則


「元祖コード進行」? マキタスポーツ氏の解説
マキタ氏が即興でつくった曲(4:15~)。こういうの2010年以降、ほんとよく聴くようになった。
6451小室進行の4つ打ち。
いくらでもつくれそ~ でもって、困ったら ”ラララ”(笑)

■ そばにいるね - 青山テルマ feat.SoulJa

ドラマチックコード/小室進行(Am F G C)の例
ベタにならずに巧く仕上げた例だと思う。
コード

最強なのはたぶん ↓ だけど、これみよがしにつかわれるパターンはさすがに減った。

■ カノン進行が使われているJ-POP30曲メドレー


■ Aiwa Katsu

カノン進行にとことん徹した大ヒット曲。


【音楽チャンプ Presents「愛は勝つ」】歴代の最強歌うま7人がリモートリレー!!

カラバトU-18世代にも、しっかり浸透か?
カノン進行曲はたいていメロやリズムがストレートで変化がつけにくく、歌うまの歌い手でも意外に手こずったりする。

■ Mirai 未来 - Kalafina

コード
ベースはたぶんカノン進行だけど、オンコード(分散コード)と転調を複雑に絡めて、そうは思わせないテクニカルな仕上がり。
さすがに梶浦サウンド


でね・・・、

■ 【うっせぇわ】ここ数年のヒット曲には全て「○○進行」が使われていた!?【夜に駆ける】


■ 丸サ進行が使われているJ-POP10曲メドレー


↓ とまぁ、このところこ~なってる感じで・・・ ↑
■ Just the Two of Us - Grover Washington Jr. (1980年) 

コード

■ Got To Be Real - Cheryl Lynn (1978年)


丸サ進行(Just the Two of Us進行)。
ドミナントモーション絡みだからループに使っても飽きがこないし、意外にペンタ(ドレミソラ/ヨナ抜き音階)との相性がいいわりに適度なオサレ感もあるしで、使い勝手がいいんだと思う。

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でも1980年代ネタつかうなら、いっそのこと「おメジャーセブンス」つかってほしいんですけど、個人的には。
でも、Just the Two of Us進行よりぜんぜんむずかしいよきっと。コード進行じゃないから・・・(笑)

■ 第31回「あけまして、おメジャーセブンス特集」|ザ・カセットテープ・ミュージック|BS12


■ 素顔で踊らせて - サザンオールスターズ

サザンのメジャー・セブンス曲
なかなか地上に降りてこない、メジャー・セブンスならではの浮遊感。
コード

■ 海 - サザンオールスターズ

コード
サザンの究極のメジャー・セブンス曲。
オンコード(分散コード)のつかい方が絶妙で、桑田さんの際立った才能を実感できる曲。

イントロのフレーズ。リバーブの効いたドラムス。複雑なカウンター・メロディ。
むせぶSaxophone、そして桑田さんの色気ただようスキャット。
文句なしの名曲!
1984年の時点で、こんなものすごいメジャー・セブンス曲かましてくるとは、やっぱりハンパな才能じゃないわ。

■ SPARKLE - 山下達郎(Covered)

コード
達郎のメジャー・セブンス曲。(とゆ~か、達郎の代表曲の多くはメジャー・セブンスだけど・・・)
クリシェ絡めたコード遷移のセンス抜群。

■ 水銀燈/Mercury Lamp - 杏里

コード
杏里のメジャー・セブンス曲。
イントロからのフェンダー・ローズ、キメのリズム、流麗なストリングス、オサレなスキャット、泣きのサックスソロ・・・、そしてうねるグルーヴ感。
文句のつけようのない名曲!

「噴水そして真(Gmaj7) 夜中(Bm7)」
こういう曲は、メジャー・セブンスじゃないと、たぶんぜったいに成立しない。

■ グッドタイムス&バッドタイムス - 佐野元春

佐野元春のメジャー・セブンス曲( 6thコード絡み)
コード

■ ロッヂで待つクリスマス - 松任谷由実/歌おうfavorite songs 171

ユーミンのメジャー・セブンス曲(sus4&ハーフディミニッシュ絡み)
コード

■ 卒業写真 - 荒井由実(松任谷由実)(カバー)

ユーミンのメジャー・セブンス曲(オンコード(分散コード)絡み)
コード
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■ 伝説の熱湯

昨晩、なぜか下諏訪温泉の「旦過の湯」のレポがアクセスランキングに入っていたので、久々に読んでみました。

そのなかに「熱湯というと、高崎天神の湯(揚湯試験時の52℃)をはじめ、群馬鎌田温泉「千明旅館」、山梨「草津温泉」、新潟かのせ温泉「赤湯」、川原湯温泉「笹湯」、熱川温泉「臨泉閣」、湯河原温泉「若草荘」などが記憶にありますが、それらとくらべても遜色のない熱湯です。」というコメントがありました。

筆者は熱湯好きで、45℃くらいまではなんということもないのですが、さすがにこれを越えてくると思うところはあります。
熱湯といえば関東では那須湯本温泉の「元湯 鹿の湯」の48℃槽や湯河原温泉「ままねの湯」が人気ですが、これは人気がありすぎて浴客でしょっちゅう撹拌されているためか、さほどの熱湯とは思えません。

本当の熱湯とは、浴客もまれな小さな浴槽に無調整の熱湯源泉が滔々と掛け流しされているような場面で遭遇します。

こういうところはたいてい絞り投入されていますが、それでも優に50℃はあります。
投入量が多めに設定されていると60℃オーバーもあって、かなり危険な状況です。
ふつうは湯揉みで対応するのですが、湯揉みでは太刀打ちできず泣く泣く加水ということも・・・。

泉温はさほどでもなくても、掛け流し量が多い場合は湯揉みが効かず、これはこれで厳しい戦いとなります。


今回は、過去記事に埋もれている”伝説の熱湯”(筆者のなかでの)の記事を、3つほどまとめてそのままもってきました。
寒い冬に、きもちだけでもあたたまってください(笑)

なお、これらのお湯は現在、休廃業等により入れない可能性があります。
レポ内容はあくまでも入浴時点のもので、営業継続している施設も現在は状況が変わっている可能性があります。

こういう個性あるお湯が姿を消してしまった?ことは、熱湯マニア(笑)としてほんとうに残念です。
なお、壮絶な湯揉み対決をした熱川温泉「臨泉閣」が強く記憶に残っているのですが、これは未レポなので、近いうちにレポしたいと思います。


-------------------------
1.湯の小屋温泉 「葉留日野山荘」 (群馬県みなかみ町(旧 水上町))



<湯の小屋温泉 「葉留日野山荘」>
(群馬県みなかみ町(旧 水上町)藤原6289、9:30~20:00(厳冬期要事前TEL)、500円、0278-75-2210)
オフィシャルHP
紹介ページ (@nifty温泉)

北毛、藤原エリアの懐ふかく、湯の小屋温泉が湧いています。
かつてこの地は「葉留日(はるひ)の里」と呼ばれ、鎌倉時代に奥州藤原一族が隠れ住んだところと伝わります。

交通の便がよくなった今日でも、上越新幹線「上毛高原」駅からバスで80分、上越線「水上」駅からでも同じく60分、利根川づたいに奥利根の山々を分け入ってようやく到達。
ここより奥に集落はなく、名実ともに北関東最奥のお湯です。
ただし、道は悪くないので、厳冬期をのぞけばマイカーでも問題ありません。

湯の小屋にはいくつかの日帰り可能な湯宿があってここもそのひとつ。
廃校になった分校を改装した湯宿で、そこかしこに学校の面影が残っています。
母屋で受付し、別棟の湯小屋へ・・・。


【写真 上(左)】 浴場棟
【写真 下(右)】 浴室入口

ゆったりとした男女別の浴場は、清掃のいきとどいた気分のいいもの。
二面採光のあかるい浴室に、黒みかげ石枠鉄平石貼5-6人の渋い浴槽ひとつとシンプル。
かなりの熱湯浴場ですが、天井が高く通気がいいのでこもりはありません。


【写真 上(左)】 女湯
【写真 下(右)】 女湯の湯口

土曜の10時。前客がいなかったらしく、浴槽は47℃ほどもあるかと思われるゲキ熱湯で満たされていました。
カラン6(温泉?)、シャワー・シャンプーあり、ドライヤーなし。

加水はしたくなかったので、ひたすら湯もみに励みなんとかからだを沈めます。
石膏の析出がでた岩の湯口から熱湯を30L/minほども投入で、槽内注排湯はなく全量をオーバーフローのかけ流し。
ものすごいかけ流し量で内床は洪水状態。


【写真 上(左)】 男湯
【写真 下(右)】 男湯の湯口

きれいに澄み切ったお湯にはうす茶の浮遊物。
微塩味に弱い石膏味と、ほこほことした石膏芒硝系の湯の香が香る鮮度感の高いお湯。
硫酸塩泉特有のとろみときしきしに、アルカリ泉系のヌルすべをまじえたすこぶる入りごこちのいいお湯です。

個性はさほどないものの、奥行きを感じるなかなかにいいお湯で、浴場の雰囲気も捨てがたいものがあるのでおすすめ。
なお、湯の小屋周辺の多くの施設はおそらく1号泉か1.2号泉混合泉を使用していますが、ここは貴重な2号泉単独使用です。

藤原~照葉峡~湯の小屋~坤六峠~尾瀬戸倉とぬける道は、とくに紅葉の時季にはすばらしいドライブコースとなるので、これとからめて入浴するのもいいかもしれません。(紅葉の盛りは例年10月中~下旬)

アルカリ性単純温泉 63.4℃、pH=8.2、湧出量不明、成分総計=0.479g/kg、Na^+=114mg/kg、Ca^2+=21.8、F^-=4.7、Cl^-=95.2、SO_4^2-=110、HCO_3^-=54.4、CO_3^2-=10.0、陽イオン計=144.09、陰イオン計=274.3、メタけい酸=95.3、メタほう酸=9.4 <H12.6.20分析> (源泉名:湯の小屋温泉2号泉)

<温泉利用掲示> 加水:なし 加温:なし 循環ろ過:なし 消毒剤使用:なし

〔 2009/12/04 (2006/07入浴) 〕


E139.5.34.090N36.52.10.140


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2.草津温泉 「凪の湯」 (群馬県草津町)



<草津温泉「凪の湯」>
(群馬県草津町泉水区、無休?、24h(清掃等で不可時間あり)、無料、0279-88-0001(草津町観光課))
紹介ページ (草津観光協会)
紹介ページ (@nifty温泉)

共同浴場は観光用ではありません。地域住民の生活のお風呂です。
つねに“もらい湯”の心を忘れずにご利用下さい。
(草津観光協会HPより)

草津を代表する有名浴場、「西の河原露天風呂」
ここでは当然、「西の河原源泉」をつかっていると思っている人も多いかと思いますが、じつはここでつかっているのは現在の草津の主力源泉で湯量の多い「万代鉱源泉」。
「西の河原源泉」をつかうお宿は意外にすくなく、共同浴場ではここ「凪の湯」のみです。


【写真 上(左)】 西の河原公園-1
【写真 下(右)】 西の河原公園-2

やませみさんの情報によると、ここは以前「凪の湯」という自家源泉をつかっていましたが、「凪の湯泉源」は低温化により封鎖され、現在は「西の河原源泉」が引湯されています。
ちなみに「凪の湯」の泉質は、酸性-Al-SO4・Cl泉でpH=2.3、TSM(溶存成分計)=1.06g/kg(出所:同上)


【写真 上(左)】 住宅地図
【写真 下(右)】 まんじゅう攻撃と「凪の湯」への曲がり口

草津の目抜き通りのひとつ、湯畑から西の河原公園へ抜ける「西の河原(公園)通り」で、ひときわ有名な「まんじゅう攻撃」(^^;;)
そのまんじゅう屋さんのすぐ脇の路地を入ったところにあります。

観光客でごったがえす通りからすこしく入っただけなのに、あたりは落ち着いたたたずまい。
草津でも好きなポイントのひとつです。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 脱衣棚

石積み木造の趣ある湯屋建築。建物の両側の階段をおりると浴場です。左が男湯、右が女湯。
脱衣所、浴室ともさして広くなく、上部に湯抜き用の連子窓があるだけなので昼間でも暗く洞窟風呂のよう。


【写真 上(左)】 湯気にけむる冬の夜の凪の湯
【写真 下(右)】 湯口

木造2人ほどの浴槽がひとつ。これは草津の共同湯のなかでもっともこぶりなもの。
奥の金属パイプから熱湯源泉をこれでもか!というくらいの大量注入で切欠からの大量流し出し。
わたしが入ったときはいつもコックがロックされていて、絞ることさえできませんでした。
当然、お湯はゲキ熱、ふつうに47℃ほどはあります。
まるで「どうじゃ、入れるもんなら、入ってみい!」とばかりに、しゃかりきになって熱湯をキープしていると思えるほどの湯量&湯温であります。

気合い入れまくって湯もみだけで入ったこともあるし、あきらめてホースで加水したこともあります。
ま~、いずれにしても、すぐに入って出る、ということはとうていできないのでしばらく浴場にとどまることになります。

そうこうしているうちに、たいてい何組かの観光客がものめずらしげにやってきます。
でもって、たいてい「ここは無料で入れるのか?」的なことを尋ねてくるので、「無料だけど、めちゃくちゃ熱いっすよ・・・」なぞと答えると、だいたいお湯に手をつっこんだあと、あきれた顔をしつつ退散していきます(笑)

草津の共同湯は熱いのがあたりまえですが、これだけコンスタントに熱いのは「凪の湯」くらいでは?
「草津でいちばん熱い共同湯」としてあげる温泉好きが多いのも、なるほどうなづけます。
(ただし浴客の増える夕方はさすがに入れる湯温になるのでは? ・・・ 夕方入ったことないので不明。)

ここも当然、アメニティ類はいっさいありません。


【写真 上(左)】 切欠からの大量流し出し
【写真 下(右)】 湯色

ほぼ無色透明のお湯には湯の花はほとんどなく、酸性泉系のつよいレモン味としぶ焦げイオウ臭にタールじみた臭いとよわい金気臭が混じります。
このタール臭+弱金気臭がこの源泉の個性かと思います。

酸性泉特有のぬるぬる感が強く、イオウより酸性が表にでたイメージのお湯ですが、おなじく酸性泉のイメージのつよい「万代鉱源泉」にくらべるとピリピリ感はよわくて、よほど奥のふかい浴感があります。
また、お湯の力感じたいは「湯畑源泉」より上かと思います。

熱いですが、個人的には好きな浴場のひとつ。
ただ、あのすさまじい注入量を絞ってもらえると、もっと入りやすくなるのですが・・・。

<西の河原源泉/草津温泉旅館協同組合オフィシャルHP「ゆもみねっと」より>
酸性・含硫黄-Al-硫酸塩・塩化物温泉(硫化水素型) 49.5℃、pH=2.0、湧出量測定せず(自然湧出)、成分総計=2.00g/kg、H^+=10.0 (32.18mval%)、Na^+=81.4mg/kg (11.48mval%)、Mg^2+=41.4 (11.05)、Ca^2+=93.8 (15.19)、Mn^2+=1.45、Fe^2+=15.0、Al^3+=70.2 (25.32)、F^-=14.2、Cl^-=499 (45.34)、SO_4^2-=668 (44.79)、HSO_4^-=225、陽イオン計=348 (30.8mval)、陰イオン計=1406 (31.1mval)、メタけい酸=229、メタほう酸=13.2、硫酸=5.7、硫化水素=4.7 <H15.4.30分析> (源泉名:西の河原源泉(町有))

〔2009年10月18日UP (2006年から数回入湯)〕




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3.湯河原温泉 「若草荘」 (神奈川県湯河原町)



湯河原温泉 「若草荘」
住 所 :神奈川県足柄下郡湯河原町宮上749
電 話 :0465-62-3576
時 間 :10:00~16:00(要事前確認) / 不定休
料 金 :500円
オフィシャルHP
紹介ページ (「どこどこ」by 社団法人小田原青色申告会)
紹介ページ (ぐるなびトラベル)
紹介ページ (神奈川の温泉宿(求人ジャーナル社))


【写真 上(左)】 右端の路地に入ります
【写真 下(右)】 県道からの分岐

湯河原の山手にある自家源泉の宿。
湯河原にはめずらしくPは広めで、温泉場からのアプローチも急坂なので車で攻めるのがベター。
温泉場に入る橋を左に分けてすぐの斜め右手に入る路地(入口に「亀屋」の看板、「光陽館」の裏手)を進み坂をのぼった先、住宅地のなかに見えてきます。


【写真 上(左)】 アプローチの途中
【写真 下(右)】 看板

建物の裏手に誇らしげに温泉櫓が立っていてはやくも期待が高まります。
こぢんまりとしたお宿でお宿の人も親切な感じ。


【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 ロビー

ロビーよこに浴室がふたつ。
HPによると浴室は3つ(1階の”狸の湯”(男女)と3階の”黎明の湯”)あるらしいですが、このときは「黎明の湯」には気づきませんでした。
また、ここは源泉を利用した砂風呂(2階)でも知られています。


【写真 上(左)】 脱衣所
【写真 下(右)】 湯口のうえのタヌキ

1階の”狸の湯”のふたつの浴室は脱衣所共通だったような気がしますが、定かではありません。
正面の浴室は狭くて暗め。


【写真 上(左)】 禁断の(笑)ゲキ熱浴室
【写真 下(右)】 湯口

狭いうえに石造りのちいさな浴槽に超熱湯を大量投入しているので、もの凄い熱気の天然サウナ状態。
とてもさわれないほどの熱湯が内床にザンザンあふれだしていて、浴室に足を踏み入れることさえできません。
なんとしても湯口写真ゲットしたかったので、イスとオケを踏み石にして(^^;;)どうにか撮影成功。
浴槽に浸かるどころか、浴室に居ることじたいきびしいものがあります。
これまでいろいろなお湯に入っていますが、ここまで凄まじい浴室はここがはじめて(笑)

ということで、この浴槽の攻略は断念。


【写真 上(左)】 浴槽
【写真 下(右)】 湯口

右手にやや広めで明るい浴室。こちらは窓があけられていて熱気が抜けています。
鉄平石貼4-5人の浴槽がひとつとシンプル。
水カラン2、シャワー・シャンプー・ドライヤーなし。
土曜11時で独占でした。

白い石膏の析出がでた岩組みの湯口からゲキ熱湯を絞り投入で、槽内注排湯はなく全量をオーバーフローのかけ流し。
湯口のうえには信楽焼のタヌキが居座り、よこにはコップがおかれています。
こちらはかなり熱めながら、多少の湯もみで入れる常識的な(^^;)熱さでした。


【写真 上(左)】 洗い場
【写真 下(右)】 石膏の析出

お湯はかなり個性的なものです。
きもち緑がかってうすく懸濁し白とうす茶のこまかな湯の花が舞っていて、湯中の指先がつよく青白に発光しています。
芒硝石膏味で塩味はほとんど感じず。
芒硝臭に独特な鉱物臭がまじって、なんとよわいながらくらぶち相間川的な香りになっています。
硫酸塩泉的なきしきしとアルカリ泉的なヌルすべを感じ、後者のほうが卓越しています。
つよいとろみは、メタけい酸&硫酸塩由来か?

熱湯ということもありますが、お湯に勢いがあるのであたたまりがハンパではなく、ときおりカランの水を浴びながらの入湯。
浴槽からすぐに追い出されるが、水浴びしてひとごこちするとまたぞろ入りたくなるあと曳き湯でもあります。
濃度感もしっかりとあって、温泉場の源泉よりクセもの系で、湯河原では「南明園」とならぶキャラの立ったお湯だと思います。

しかし、浴室脇で湧く82.5℃の高温源泉を加水しないで提供するとは気合いが入っています。
お湯に対するお宿の見識は、HPの案内(下記)からもしっかりと伝わってきます。
また、こういうお宿がしっかり残っているのも湯河原温泉の底力なのかと・・・。

4ケタあたりまえの湯河原で500円は良心的だし、お湯も個性あふれるものなので温泉好きなら一浴の価値ありかと。
ただし、熱湯が苦手な方にはおすすめしませんが・・・。

〔源泉名:若草源泉(台帳番号 湯河原第156号)〕
Na-塩化物泉 82.5℃、pH=8.3、湧出量不明、成分総計=2.89g/kg
Na^+=797mg/kg、Ca^2+=170、Fe^2+=0.08、Cl^-=1290、SO_4^2-=350、HCO_3^-=57.0、メタけい酸=142、メタほう酸=15.5、遊離炭酸=0.47 <H14.11.18分析>
 
<温泉利用掲示>
加水:なし 加温:なし 循環装置等使用:なし 消毒処理:なし
コンコンと涌き出づる良質な源泉を濾過も追い焚きも循環もせず、
40数年間一度も止めずに使用しています。(HPより)

〔 HPより 〕
みかんの木が映える若草山の中腹に、良質で豊富な源泉のお宿がございます。
薄めず、濾過せず、巡回(ママ)せず、昔ながら、湯治旅館の本分を違えず
岩風呂・家族風呂・砂風呂と、歴史のある本物のお湯をご用意しました。

ようこそ若草荘へ。
その昔、元湯湯治旅館として多くのお客様に愛され、頑なに守られた温泉を
より多くの方に解放し、お手軽な料金でご利用いただける事が私達の本望です。

■ブランドグルメ
〔 湯河原の担々やきそば 〕
湯河原の開湯伝説にあらわれるたぬきにちなんで産み出された湯河原のご当地麺、“担々(タンタン)やきそば”。
食べたことないのですが、Web情報によると「練りごまやトウバンジャンなどを主原料とした香ばしいピリ辛の味つけが特徴」だとか・・・。
湯河原柑橘系と温泉玉子系の2系統あるのも斬新。
B級グルメブームの昨今、ひょっとして大ブレークするかも・・・(もうしてる??)

〔 2010/11/27UP (2008/11入湯) 〕


E139.4.27.830N35.8.49.328
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■ 名手揃いのパフォーマンス

■ 高中正義


村上”ポンタ”秀一、宮崎まさひろのツインドラムスに、
パーカッションは斉藤ノヴ。
ここにベースでWillie Weeksが加わるとは・・・。

ベースってリード楽器だったのね(笑)
そして途絶えることなくつづく、心地よいグルーヴ。
インストだけで聴かせてしまう名テイク。

1980年代のシティ・ポップはこういう名手たちが支えていたから、テイクそのものの質が高かった。

1989年~のイカ天ブーム以降か?
「楽器ヘタでもぜんぜんOK」的な風潮が広まったけど(いまにつづく)、腕利きたちしか創り出せない音世界はぜったいあると思う。


************
歌の世界も同じく・・・。

梶浦由記さんのTV放映でのコメント。
「歌は ”心” っていいますが、心を表現するには絶対的にスキルが必要ですから」
「感情の大きさだけでは、いい歌は歌えない」
って言い切られた寸評、異様に説得力があった。
(梶浦由記さんの言われる”スキル”って、はんぱなくレベル高いよ~、聴けばわかるけど・・・ (笑))

■ Everlasting Song - FictionJunction


いつの頃からか(1989年の「イカ天」あたりから?)、J-POPは「気持ち入ってれば(あるいはインパクトがあれば)技術なくてもOK!」って流れがメインになっていったと思うけど、やっぱりプロにはプロならではのスキルや魅力がほしい。

それに、あっちもこっちも”大人の事情”や”しがらみ”でがんじがらめじゃ、質のよい作品が売れる(評価される)とは限らないし・・・。
となると力関係の露出度次第。でもって、玉石入り乱れてなんでもありのいまの状況に・・・。

でも、すこしづつ、状況は変わりつつあるような気もする。
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■ カラバトU-18の宇多田ヒカル

歌い手泣かせの難曲揃いは宇多田ヒカル。
一般人はオリジナリティを効かせるどころか、歌い切るだけで精一杯。

でも、カラバトU-18黄金の世代は、しっかりオリジナリティをかませて宇多田曲を歌いあげていた。

どのテイクも、画像やクレジットなしでも誰が歌っているかすぐわかる。
卓越したオリジナリティ。
やっぱりただならぬ才能揃いだと思う。

とりあえず見つかった4人のテイクをどうぞ。

■ 真夏の通り雨 - Covered by 佐久間彩加


■ Flaver of Life - Covered by 富金原佑菜


■ 花束を君に - Covered by 熊田このは 


■ Automatic - Covered by 堀優衣



【 関連記事 】
■ 【抜粋編】黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)
■ カラバトU-18黄金の世代の7人
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■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPします。

深谷市・熊谷市は、東京からだと徳川氏発祥の地とされる上州・世良田郷(太田市世良田町・徳川町)へのアプローチルートにあたります。
併せてまわってみてはいかがでしょうか。


■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1(旧 大里町エリア/旧 江南町エリア/旧 熊谷市エリア-1)
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)から。
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1(旧 川本町エリア/旧 花園町エリア/旧 深谷市エリア-1)
■ 埼玉県深谷市の御朱印-2(旧 深谷市エリア-2)


■ 関連記事
「血洗島 諏訪神社の御朱印」

↓ の記事は当面残しますが、後日、本記事と統合します。
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4



【エリア概要】(熊谷市・深谷市を併せてまとめています。)
東京方面から血洗島へのアプローチは通常、関越道「花園」IC(深谷市)経由となります。
ここから北上して利根川に沿って熊谷市に入り、熊谷から関越道「東松山」IC、ないしは国道17号(中山道)経由の帰路になると思われますので、このエリア(熊谷市・深谷市の一部)の御朱印をご紹介します。

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深谷・熊谷周辺は、かつて幡羅郡(はら/はたら)、および榛沢郡と呼ばれ、古墳群も多くみられて早くから開けた土地とされています。

武蔵七党をはじめとする多くの武士団が興った地で、わけても源平合戦で平敦盛との一騎討ちで名を馳せた熊谷直実の本拠地として知られています。

平家方として源氏との富士川の戦いや木曽義仲と戦いで活躍した斎藤別当実盛も当地を拠点とし、妻沼聖天山を開いたとされています。
また、室町期には山内上杉家系の深谷上杉家が深谷城に拠りました。

江戸時代には、熊谷・深谷ともに中山道の宿場町として栄えます。
宿場だけでなく、木綿織物や多くの農産物の集散地・取引の場としても隆盛しました。
また、秩父から甲州へ抜ける秩父往還の起点で、荒川・利根川の渡船場や江戸方面への物流の要衝・河岸も擁していたため、秩父絹の集散地としても栄えたようです。

江戸初期には深谷藩が立藩、岡部には岡部藩、近隣の行田には忍藩があり、寺社の成立・変遷にはこれらの藩の支配の影響も考えられます。

熊谷市の資料には、「秩父街道は、秩父34番札所めぐりや三社(秩父神社、三峰神社、宝登山神社)めぐり、また秩父絹の商人の往復でにぎわいました。」とあり、妻沼聖天山歓喜院は、日本三大聖天の一つとされ、古くから人々の信仰を集めていたといいます。

また、熊谷寺の門前町としても発展し、「関東一の祇園」と称される愛宕八坂神社の例大祭「うちわ祭り」が広く知られるなど、宗教都市としての一面ももっていたのではないでしょうか。

このように古くから栄えて城下町の色彩ももち、宿場町や商都としての役割も大きかったため、寺社もおのずから多くなりました。

【深谷・熊谷と札所】
寺院が多く人流が活発だったので、北関東でも有数の霊場エリアとなっています。

観音霊場としては、熊谷を中心に忍秩父三十四観音霊場の札所が複数あり、「忍秩父三十四観音霊場」+「忍領西国三十三観音霊場」+「足立坂東三十三観音霊場」で百観音霊場を構成しているとされます。

日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた百箇所の観音霊場をいい、日本各地で写しの霊場が開創されました。
「忍秩父三十四観音霊場」は三十四所あるので「秩父」の位置づけですが、これまで拝受した御朱印で「忍秩父」の札所印が入ったものはたしかありません。多いのは「忍観音」「忍三十四所(霊場)」「忍坂東」などで、御朱印拝受のときも「忍秩父観音霊場」と申告して首を捻られ、「忍三十四霊場」と言い直すとすぐに納得いただいたことが何度もありました。

三十四所ですが「忍坂東」と呼ばれていた可能性があり、もともとは三十三の札所で構成され、他の三十四所霊場を「秩父」として百観音を構成していた可能性もあるのかもしれません。
(ただし、この記事では「忍秩父三十四観音霊場」で統一します。)

「忍秩父三十四観音霊場」は”忍”とありますが、34の札所のうち熊谷30、深谷2、行田2で、実質的には熊谷の観音霊場といえます。

また、ナゾが多いのですが、熊谷を中心に幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場が開創されています。

深谷には深谷七福神、熊谷には熊谷七福神が開創されています。
深谷七福神の寺院にはそれぞれ”秋の七草”が植えられ、秋には”花の寺巡り”も楽しめます。

その他、関東八十八箇所、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)、武州路十二支霊場、武蔵国十三佛霊場、関東九十一薬師霊場、関東百八地蔵尊霊場、東国花の寺百ヶ寺霊場など広域霊場の札所が複数立地し、さながら御朱印王国の様相を呈しています。

御朱印授与率が高いのは↑の広域霊場と深谷七福神で、忍秩父三十四観音霊場もかなりの札所で授与いただけます。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場はこのところ復興の気運も感じられ、札所印をご用意されている札所もありますが、廃寺・無住寺院も多く、巡拝難易度はかなり高くなっています。
なお、忍秩父三十四観音霊場のいくつかの札所は、最近巡拝者以外は不授与となっているので要注意です。

熊谷七福神は正月限定のスタンプ方式とみられ、御朱印授与についてはまちまちのようです。

有名なのは埼玉厄除開運大師(龍泉寺)で、絵御朱印や限定御朱印マニアでいつも賑わいをみせています。
妻沼聖天 歓喜院や常光院(熊谷厄除け大師)も複数の御朱印を授与されており、御朱印スポットとして知られています。

神社めぐりについては、熊谷の長井神社の宮司様が「村の鎮守十社めぐり」を主催され、条件つきながら御朱印を授与されているので、御朱印拝受できる神社が増えています。

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それでは、南から北に上がるかたちで、旧市町村エリア別にご紹介していまきす。
なお、熊谷は日本有数の酷暑の地です。
夏場の巡拝は、どうぞ充分にお気をつけくださいませ。


4.旧 妻沼町エリア

■ 瑠璃光山 浄光院 福生寺
熊谷市日向1154(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第34番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第4番
・こちらも御由緒詳細がとれませんが、山内石碑には「四九四年前に開創せられし名刹」とあり、『新編武蔵風土記稿』の日向村の項には「邑楽郡赤岩村光恩寺末 開山専祐寛永十八年(1641年)寂 本尊大日ヲ安セリ 薬師堂」とあります。

・重厚な山門、本堂、観音堂を擁して山内はよく整っています。
・こちらは忍秩父三十四観音霊場第34番の結願所で、札所本尊は馬頭観世音菩薩。御本尊の大日如来は幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の札所本尊でもあり、こちらの御朱印も授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第34番 馬頭観世音菩薩


2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第4番 大日如来



■ 寶積山 白道院 大龍寺
公式Web
熊谷市葛和田898(旧・大里郡妻沼町)
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第15番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第21番
・名刹のようですが、現地、Webともに詳しい情報がとれませんでした。
『新編武蔵風土記稿』の葛和田村の項に記載がありますので抜粋引用します。「館林町善導寺末 開山ハ幡随意上人元和元年正月示寂 開基ハ成田氏ノ臣嶋田采女正ナリ コノ子孫今村民六兵衛ナリト云 本尊阿弥陀ヲ安セリ 荒神社 愛宕社 不動堂 観音堂」。
・幡随意(ばんずいい)上人は、 慶長二十年(1615年)寂と伝わる浄土宗の名僧で、鎌倉光明寺で教学を修められ、後に京都百万遍知恩寺の三十三世住持。徳川家康公の信任厚く、駿河台に新知恩寺(のちの幡随院)を開創、熊谷の名刹、熊谷寺(ゆうこくじ)の中興など全国で寺院を創立・再興されました。
・当寺所蔵の「幡随意上人の書」、本堂に御座す「三十三体観音像」(元禄期、寄木造金泥)は市の文化財に指定されています。

・名刹らしい風趣のある山内。御朱印は庫裡にて書置のものを拝受しました。御本尊および幡羅郡新四国霊場の御朱印は授与されていないとのことです。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第15番 三十三体観世音菩薩



■ 浄瑠璃山 薬樹院 長慶寺
公式Web
熊谷市西城93-1(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来・薬師如来?
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第46番
司元別当:西城神社(西城村、旧西城村(本郷)鎮守) 
・こちらは詳細な公式Webをお持ちなので、そちらから引用させていただきます。
・南北朝の永和二年(1376年)、慶弘という僧が伝・行基作の薬師如来像を祀り開創。赤岩光恩寺の末寺で、歴代の住職が隠居されていました。
・薬師如来像は12年に一度、寅年の御開帳で信仰を集めているようです。

・本堂と薬師堂、薬師堂厨子は、2020年9月に市の有形文化財に指定されています。
・ともに、上州花輪村の名工・石原吟八郎のグループと、「歓喜天聖天堂」の棟梁の林兵庫正清を中心に建立。江戸期のこの地の彫物師集団の技巧を示す作品として評価されています。

・本堂には阿弥陀如来、薬師堂には薬師如来が御座します。
公式Webに「本堂の阿弥陀如像は、宝永年間(1704-1711年)に祀られた。平成26年遷座300年目に修復。本尊とご縁を結び、人生を輝いて全うできるように御手綱を握ってお参りができる」とあるので、当寺のいまの御本尊は阿弥陀如来とみられますが、宝永年間までの御本尊は薬師如来とみられ、現在でも御本尊のポジションなのかもしれません。

・仏教寺院、とくに密寺の御本尊のポジションは複雑で、観音堂、薬師堂、不動堂などで草創し、のちに本堂が建てられた場合などは、複数の御本尊がおられる場合もあるようです。(例えば、本堂御本尊は大日如来、薬師堂御本尊は薬師如来で、寺院としての御本尊は両尊併記となる。)
・弘法大師霊場の札所本尊は草創時の御本尊が札所本尊になられる場合も多く、こちらもその例ではないでしょうか。

・御朱印はご住職がご不在で書置もなかったので、ご親切な寺庭様にお願いして郵送をいただきました。なお、こちらは忍秩父三十四観音霊場第10番光明山 観音寺(上中条)の御朱印も授与されています。 

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第46番 薬師如来




■ 福聚山 慈眼寺
熊谷市田島238(旧・大里郡妻沼町)
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第14番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第27番
司元別当:(田島村)稲荷社(旧田島村鎮守)
・こちらも無住の寺院で情報が少ないです。
司別当:奈良神社(熊野社)(中奈良村、奈良四村の総鎮守)
『新編武蔵風土記稿』の田島村の項に「弥藤五村観清寺末(略)古ハ観音ノ堂ナリシガ寛永年中(1624--1645年)●月堂開山シテ一寺トナセリ コノ人ハ慶安四年(1651年)寂セリト云 本尊十一面観音ヲ安ス」とあり、もとは観音堂として草創、寛永年中(1624--1645年)に寺院になったようです。

・入り組んだ路地のなか、集落に囲まれるようにあります。寄棟造桟瓦葺で右手に庫裡らしき建物を連接しています。
・向拝柱はなく中央サッシュ扉、上部に「慈眼寺」の寺号扁額を掲げています。

・参拝時ご不在でしたので郵送をお願いしお送りいただきました。郵送なので欲張らず忍観音霊場の御朱印のみお願いしましたが、御朱印には幡羅郡新四国霊場の札番揮毫もいただいておりました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第14番 十一面観世音菩薩
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第27番 十一面観世音菩薩
※1通に2札所併記。



■ 福源山 長昌寺
熊谷市八ツ口869(旧・大里郡妻沼町)
臨済宗円覚寺派
御本尊:
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第88番

・山内由来書によると、長井庄司斎藤別当実盛公が堀之内に館を構えたとき、この地にあった薬師堂を鬼門除けの祈願所に定めたといいます。
・山内の椎の巨木は、鬼門除けの祈願所に選んだ証に植えた3本のうち、唯一残った1本と言われているそうです。(熊谷市Web

・同由来書によると、慶安年中に寺領二十石余の朱印を賜る名刹とのこと。
・忍城主成田氏の臣、山田伊半が武川の合戦で討死し、息子の弥治郎が追福のため開基となり建立。その折には成田氏より寄進等があったといいます。
・幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の第88番(結願所)の重要なポジションは、斎藤別当実盛公や忍城主成田氏とのゆかりに由来するものかもしれません。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第17番 釈迦如来




〔村の鎮守十社めぐり〕
当初は「以下10社について御朱印を拝受していますが、長井神社と大杉神社以外は常時授与かどうか不明なのでとりあえずリストのみです。」としましたが、令和2年秋に案内パンフが作成され、実際に御朱印も拝受していますので、ご参考までにUPします。
なお、現時点では御朱印は原則不授与かもしれません。詳細は長井神社宮司様にご確認ください。



情報が少ないですが、現地掲示のほか、案内パンフ、『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)、『新編武蔵風土記稿』などを参考にまとめてみます。

1.(日向)長井神社 熊谷市日向
2.(俵瀬)伊奈利神社 熊谷市俵瀬
3.神明社・大杉神社 熊谷市葛和田
4.(大野)伊奈利神社 熊谷市大野
5.(弁財)嚴島神社 熊谷市弁財
6.善ヶ島神社 熊谷市善ヶ島
7.(八ツ口)日枝神社 熊谷市八ツ口
8.江波神社 熊谷市江波
9.西城神社 熊谷市西城
10.八幡大神社 熊谷市上須戸

■ (日向)長井神社 
熊谷市日向1090(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:品陀別命、息長帯姫命
旧社格:村社、旧日向村鎮守
元別当:三学院(日向村、当山修験)
授与所:境内脇社務所
・江戸時代には八幡社と称された旧日向村の鎮守社。(明治9年現社号に改号)
・天喜五年(1057年)、源頼義公が安陪貞任討伐の折にこの地に滞留されたとき、竜海という池に棲み村人を悩ましていた大蛇の退治を島田大五郎道竿に命じた。頼義公より弓矢と太刀を下賜された道竿は、竜海から利根川まで堀(道竿堀/どうかんぼり)を掘り、池の水を利根川に落としてこの四丈もの大蛇を退治した。頼義公は東北地方平定の吉事として、大蛇を倒したところに当社を、大蛇の出現したところに弁財天を祀ったといいます。
・暦応元年(1338年)、足利尊氏が再興、戦国時代には忍城主成田長泰が信仰した記録が残ります。

『新編武蔵風土記稿』の日向村の項に八幡社があり、上記の「竜海伝説」が詳細に記載されています。
・本地堂の御本尊は阿弥陀如来で、これは八幡神の本地が阿弥陀如来とされたことと符合します。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:長井神社 筆書



■ (俵瀬)伊奈利神社 
熊谷市俵瀬489(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧俵瀬村鎮守
元別当:寶林山 妙音寺 成就院(俵瀬村/新義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・俵瀬は利根川と福川に挟まれた島状のエリアで、『新編武蔵風土記稿』には俵瀬村の項に稲荷社が記載されているものの「成就院持」としかありません。
・これにはさすがの『埼玉の神社』も困り果てたらしく、成就院の記載を引き「成就院は慶安四年(1651年)の草創と伝えている。当地が一村としての体裁を整え始めるのが寛永(1624-1645年)の末ごろと思われ、当社の創建も、別当成就院と前後して行われたものであろう。」と記されています。
・江戸時代には「稲荷社」と称し、明治初期に「伊奈利社」と改め、明治41年合祀政策により同大字の神明社、厳島神社を合祀し、大正2年には堤防工事に伴い利根川縁にあった当社を厳島神社の旧社地に御遷座と伝わります。

・厳つい石垣の上に入母屋造桟瓦葺でどっしりと鎮座するお社は、ながらく水害と闘ってきた俵瀬の地の鎮守社ならではのお姿に思えます。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市俵瀬 伊奈利神社 筆書



■ (葛和田)神明社・大杉神社 
熊谷市葛和田591(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:天照皇大神、大杉大神
※大杉神社は(葛和田)神明社の境内社
旧社格:旧葛和田村鎮守
元別当:瑠璃光山 東光院 醫王寺(葛和田村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・伊勢の御師が当地に逗留した折に奉齋した社であると伝わります。
・旧社地は現在利根川の川中にあり、数回の移転を経て高台の現社地(氷川神社の社地)に御遷座とのこと。
『新編武蔵風土記稿』の葛和田村の項に神明社があり「氷川ヲ合殿トス 村ノ鎮守ナリ 別当醫王寺」とあります。

・境内社の大杉神社(あんば様)の祭礼は利根川の流れに大御輿・大杉御輿を乗り入れるもので、「葛和田の勇み御輿」「関東一のあばれ御輿」として広く知られています。
・江戸時代の葛和田の地は利根川の河岸場として賑わいました。あるとき、与助という腕のいい船頭が霞ヶ浦の西浦で暴風雨に襲われ窮まったとき、日頃から信仰している大杉明神に祈りをささげると神佑を得て難を逃れました。このご神徳への御礼と今後の船路安全祈念のため、茨城県稲敷の大杉神社から勧請し、御輿を造営したと伝わります。
・当初は利根川に注ぐ道竿堀の南に御鎮座でしたが、大正3年堤防工事に伴い現社地に御遷座・合祀されました。

・御朱印は(日向)長井神社社務所にて拝受しました。
・Web上では神明社の御朱印がみつかりますが、現在は大杉神社の御朱印のみ授与とのことです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:大杉大神 筆書



■ (大野)伊奈利神社 
熊谷市大野751(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:豊宇気比咩命
旧社格:旧村社、旧大野村鎮守
元別当:大野山 利劔寺 文殊院(葛和田(大野)村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・〔村の鎮守十社めぐり〕のなかではもっとも利根川に近く、利根川の堤防下に鎮座します。
・江戸期には大野村は葛和田村の一部とされ、『新編武蔵風土記稿』には葛和田村の項に「稲荷社二宇 一ハ文殊院 一ハ正泉寺持」とあり、『埼玉の神社』には文殊院が別当とあるので、こちらが該当とみられます。
・ただし、『埼玉の神社』には「宝暦六年(1756年)の伏見稲荷からの分霊証書に『武州 大野村鎮守』とあることから、当時既に『大野村』という名称が使われており、葛和田村から実質は独立していたことがわかる」とあります。
・上記のとおり、宝暦六年(1756年)には伏見稲荷からの分霊証書を受けて創祀しています。
・地形からしても、なにより水害防除が求められる地とみられ、『埼玉の神社』には「伊奈利社を(利根)川の側に勧請することによって水害から村を守ろうとした開発者の心情が推察される。」とあります。
・小山状の高台に鎮座し、参道右手が旧文殊院跡。その手前に大国主尊、参道階段右手に三峰社、拝殿左手には馬頭観世音菩薩、庚申様、青面金剛が祀られています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市大野 伊奈利神社 筆書



■ (弁財)嚴島神社 
熊谷市弁財174(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:弁財地区鎮守
元別当:辨財山 醫王院 薬王寺(辨財村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「当地(弁財)は大昔利根川の流れの中にあったが、やがて流路が変わり、自然堤防を形作った所である。」とあり、河川とのかかわりから弁財天が祀られたとする一方、口碑に「当地の草分けであり、屋号を庄屋と呼ぶ大島清和家の先祖が祀った。」とあり、「同家は平家の落人であり、そのゆかりから嚴島神社を祀った。」という説にも触れています。
『新編武蔵風土記稿』の辨財村の項に辨財天社があり「村名ナリシテ見レハ古社ナルヘケレト傳ヘテ失フ」とあります。

・(日向)長井神社縁起の竜海伝説では、大蛇の出現したところに弁財天を祀ったとされ、この弁財天を当社とする説と(日向)長井神社境内の宇賀神(弁天様)とする説があるようです。
・『埼玉の神社』では、享保十六年(1731年)の利根川大洪水の折、当地に沼ができて、その後沼の主と呼ばれる大蛇が棲み、それが竜海伝説に重なったと指摘しています。

・こちらも社叢のなかに御鎮座。拝殿は石垣のうえに入母屋造桟瓦葺で、主屋根の軒に瓦屋根の向拝を重ねるようにせり出し変化のある意匠。
・弁財天や厳島社はもともと蛇とのゆかりがありますが、向拝の屋根飾りにも蛇の姿がみられます。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:嚴島比賣 筆書



■ 善ヶ島神社 
熊谷市善ヶ島197(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧善ヶ島村鎮守
元別当:光明山 福壽院 龍泉寺(善ヶ島村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』『パンフ』には、当地は当初葦が生えた島で葦ヶ島と呼ばれたが、後に利根川の流れが変わり、近村と地続きになり善ヶ島と改めた。また、1500年頃の蔵王権現社の勧請が当社の起源とされ、当初は蔵王権現社、明治初期に御嶽神社と称し、明治42年に善ヶ島神社に改称といいます。
・明治41年には大字裏久保の愛宕神社と、上元割の阿夫利神社を合祀。地元では合祀社の阿夫利神社に因み「阿夫利様」と呼ばれることが多いそうです。

『新編武蔵風土記稿』の善ヶ島村の項に蔵王権現社があり「永正(1504-1521年)年中の勧請ト云 龍泉寺持 末社 天神 疱瘡神 摩陀羅神」とあります。
・金剛蔵王権現は修験系の尊格で、ことにの吉野の金峯山寺本堂(蔵王堂)の御本尊として知られています。
・当社の現在の主祭神は不明ですが、金剛蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊、金山毘古命との習合例が多く、明治の神仏分離時、金剛蔵王権現を祀る堂祠は上記の神々を祭神とする神社となった例がみられます。
・末社に摩陀羅神の名がみられます。すこぶる複雑な性格をもたれる尊格として知られ、東日本で祀られる例は多くありません。
・別当龍泉寺は古義真言宗で赤岩光恩寺の末。赤岩光恩寺の寺伝には「推古天皇11年(603年)には秦河勝を勅使として仏舎利三粒が納められた」とあります。(秦河勝と摩陀羅神は強い関係があるとされる。)
・当社に摩陀羅神が祀られていた背景には、このような所縁が関連しているのかもしれません。
・現在も、複雑な由緒を想起させる境内社が複数ご鎮座されます。

・社叢のなか、入母屋造桟瓦葺向拝付設の社殿と境内社が御鎮座。
・鳥居、灯籠ともに大きく嵩が上げられ、拝殿も数段高く、水害防除が大切な地であることを物語っています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:善島神社 筆書


■ (八ツ口)日枝神社 
熊谷市八ツ口922(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧村社、旧八ツ口村鎮守
元別当:●源山 長昌寺(八ツ口村/禅宗臨済派)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「(別当の)長昌寺は、天文元年(1532年)に成田氏に従い武川の合戦で討死した山田弥次郎の菩提追福のために、その父山田伊平が、弥次郎の領地であったこの地に草創した寺院である。当社の成立背景には、長昌寺の僧とのかかわりが考えられるが、明らかにできない。」とあります。
・同書によると、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようです。
『新編武蔵風土記稿』の八ツ口村の項に山王社があり「村ノ鎮守ニテ稲荷ヲ合殿トス 長昌寺持」とあります。
・元別当の長昌寺は幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第88番の結願寺で、相応の寺格をお持ちかと思いますが、現在のところ御朱印は拝受しておりません。

・社頭に朱塗りの2つの鳥居。向かって左手が日枝神社、右手が八坂神社と伊奈利社です。
八坂神社の夏祭りの御輿渡御は、以前は「暴れ御輿」として広く知られていたようです。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市八ツ口 日枝神社 筆書



■ 江波神社 
熊谷市江波315(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:菅原道真公
旧社格:旧村社、旧江波村鎮守
元別当:福原山 寶蔵院(江波村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「明治四十一年の改正まで天神社であったことから、氏子にはいまだに天神様と呼ばれている。(中略)明治四十一年、字西嬉愛の宇知多神社(妙見社)と字道上の稲荷神社の無格社二社を合祀した。」とあります。
・同書によると、お産を軽くしてくれる有り難い御利益がある」として信仰を集めたようです。
『新編武蔵風土記稿』の江波村の項に天神社があり「村ノ鎮守トス 寶蔵院持」とあります。

・一面の麦畑のなかに浮かぶように、切妻造瓦葺妻入りの社殿が御鎮座。向拝も切妻の屋根がかかり、めずらしい様式の社殿です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:江波神社 筆書


■ 西城神社 
熊谷市西城2(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:旧村社、旧西城村(本郷)鎮守
元別当:浄瑠璃山 薬樹院 長慶寺(西城村/古義真言宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「西城の地名は、かつてこの地に左近衛少将藤原義孝の居舘があったことにちなむものといわれ、古来、西城の村は郭(くるわ)と呼ばれる幾つかの小さい集落に分かれ、神社の祭祀もまた郭ごとに鎮守として各々神社を祀っていた。明治維新の際、社格を定めるに当たり、(大天貘社は)村内の諸社の中で最も規模が大きく、村の中で最も早く開かれた本郷の鎮守であったことから、当社が西城村の村社になった。恐らく、明治9年に村社となった時に村名を採って西城神社と社名を改めたものであろう。明治42年には、字東田鎮座の稲荷神社と字鴉森鎮座の厳島神社を合祀し現在に至っている。」とあります。
・また同書には「境内にある勝根神社は、古くから当社の末社として祀られており、その祭神は大物主命である。当社(大天貘社)が元は本郷だけで祀る神社であったのに対し、勝根神社は初めから(西城)村全体で祀る神社」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の西城村の項に大天貘社があり「村ノ鎮守トス 長慶寺持」とあります。

・西城神社は入母屋造桟瓦葺、「西城神社」と彫り込まれた棟飾りは精緻で一見の価値があります。
・向かって左手に御鎮座の勝根神社は、切妻造桟瓦葺の整った社殿で「村全体で祀ってきた神社」としての重みを放たれています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:西城神社 筆書



■ 八幡大神社 
熊谷市上須戸838(旧・大里郡妻沼町)
御祭神:
旧社格:大字上須戸鎮守、(旧長井村総鎮守)
元別当:福原山 開城院 正法寺(上須戸村/天台宗)
授与所:(日向)長井神社社務所
・『埼玉の神社』には「伝説によると、天喜五年(1057年)、源頼義が安倍貞任を討つために奥州へ下る途中、当地に逗留した。この折竜海という沼に棲む大蛇が村人を悩ますことを聞いたため、土地の島田大五郎道竿に命じて退治させた。頼義はこの大蛇退治を安倍氏征討の門出に吉事であると喜び、大蛇の棲んでいたところから、東・西・北に三本の矢を放ち、その落ちた所にそれぞれ八幡社を、沼の中央に大蛇慰霊のための弁天社を祀った。当社は、西に放たれた矢が落ちた所に祀られたという。」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の上須戸村の項に八幡社があり「八幡社 辨天社 何レモ社領ヲ附ラル年代下●出セリ 別当正法寺」とあります。
・『埼玉の神社』の内容は、(日向)長井神社の「竜海伝説」とほぼ同様で、このエリアに広く伝わっていたことが伺われます。

・うっそうと茂る社叢。木造朱塗りの両部鳥居、石造の明神鳥居の正面おくに入母屋造桟瓦葺平入り流れ向拝の八幡神社、向かって右手には切妻造桟瓦葺妻入りの八坂大神が御鎮座されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:熊谷市上須戸 八幡大神社 筆書



■ 王子山 観清寺
熊谷市弥藤吾574-1(旧・大里郡妻沼町)
曹洞宗
御本尊:釈迦三尊
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第3番
・こちらは幡羅郡新四国霊場のみの札所なので、とくに情報が少ないです。
『新編武蔵風土記稿』には「禅宗曹洞派 下奈良村集福寺末王子山ト號ス(中略)開山ハ本寺(集福寺)二世要岩春津弘治三年(1557年)示寂 本尊ハ釋迦文殊普賢ヲ安ス」とあります。

・予想以上の大寺で境内もよく整っています。御朱印は庫裡にて授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦牟尼佛



■ 禅源山 長井寺
熊谷市弥藤吾1979(旧・大里郡妻沼町)
臨済宗円覚寺派
御本尊:
札所:忍秩父三十四観音霊場第17番
『新編武蔵風土記稿』には「禅宗曹洞派 上野國那波郡矢場村泉福寺末 禅源山ト號ス 本尊釋迦ヲ安セリ」とあります。
・その他の由来などは不明です。
・現況は無住と思われ、御朱印は別途お願いし郵送いただきましたが、これはイレギュラー対応で原則不授与かもしれません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第17番 釈迦如来



■ 大悲山 薬師院 観音寺
公式Web
熊谷市八木田198(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第18番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第44番、第67番(薬師堂)
・公式Webに、慶長年間(1596-1615年)のはじめ、澄海上人による開基とされ、徳川幕府よりご朱印を賜り、とあります。
『新編武蔵風土記稿』には「大田村能護寺末大悲山薬師院ト号ス 慶安(1648-1652年)中寺領六石五斗ノ御朱印ヲ賜フ 開山澄海寂年知レス 本尊千手観音ヲ安ス」とあります。
村内の薬師堂と阿弥陀堂一宇も護持していたようです。

・忍秩父三十四観音霊場の観音堂は本堂とは別で、札所本尊は十一面観世音菩薩です。
・御朱印は庫裡にて拝受しました。幡羅郡新四国霊場の御朱印は授与されていない模様です。
 
〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第18番 十一面観世音菩薩



■ 聖天山 長楽寺 歓喜院(妻沼聖天山)
公式Web
熊谷市妻沼1627(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:大聖歓喜天
札所:関東八十八箇所第88番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第16番、武州路十二支霊場 午(勢至菩薩)、東国花の寺百ヶ寺霊場第26番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第13番、第76番(旧宝蔵院)
・「日本三大聖天」のひとつ、「妻沼の聖天様」と呼ばれる関東を代表する名刹で、複数の霊場札所を務められます。
・名刹だけに記事ネタが多いですが、こちらでは簡単なご縁起と御朱印関連に絞ってご案内します。
・平安時代末期の武将斎藤別当実盛公(長井別当)が治承三年(1179年)、守り本尊の大聖歓喜天を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされます。
・実盛公は、源平争乱期に源義朝公、木曾義仲公、平維盛公と複雑な関係をもち、寿永二年(1183年)、平維盛公らと木曾義仲公追討のため出陣した加賀国篠原の戦いで奮戦し、ついに討ち取られました。この篠原の戦いの顛末は『平家物語』巻第七「実盛最期」として一章を成し、東国武士の機微を語るものとして広く知られています。
・建久八年(1197年)、良応僧都(実盛公の次男である実長(宗光))が聖天宮の別当(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観世音菩薩を本尊としたといいます。
・国宝の本殿は絢爛たる廟型式権現造で、「埼玉日光」ともいわれます。

・御朱印は境内授与所にていただけます。5つの札所を確認しており、うち4つを拝受しています。残りの幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第13番については不明です。
なお、札所御朱印ではない御本尊・大聖歓喜天の御朱印も授与されている模様です。

〔拝受御朱印〕
1.東国花の寺百ヶ寺霊場第26番 大聖歓喜天
札所本尊は御本尊。本殿が札所とみられます。


2.関東八十八箇所第88番 大聖歓喜天
本殿向かって左の大師堂が札所(第88番結願所)となっています。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の札所もこちらになります。


3.武州路十二支霊場 午 勢至菩薩
本殿向かって左の大師堂のお大師さまの右手(礼拝者からは左手)に御座す立像の勢至菩薩が札所本尊と思われます。大師堂内に単尊で勢至菩薩が安置される例は少ないと思われます。
当地は二十三夜月待講がさかんで、当山山内にも二十三夜塔が建立されています。そちらとの関連もあるのかもしれません。


4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第16番 聖観世音菩薩
中門そばの護摩堂の手前に御座す露仏の観音様が札所本尊です。



■ 寶珠山 光明禅寺 玉洞院
熊谷市妻沼2404(旧・大里郡妻沼町)
臨済宗円覚寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第16番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第86番
・開基は月峯常圓居士、開山を養嚴宗胡(文明九年(1477年)寂)とする曹洞宗寺院。
・『新編武蔵風土記稿』には鐘樓の銘文に「淀城主石川主殿頭憲之妻女、及び次男義孝、武運長久の誓の為に元禄三年(1690年)寄附する由を鐫す」とあります。
・石川憲之(1634-1707年)は、石川数正の叔父、石川家成の家を継いだ大久保忠隣の次男、石川忠総の孫にあたり、近江膳所藩第二代藩主、伊勢亀山藩石川家四代、山城淀藩初代藩主を務めました。憲之の妻女(正室)は羽林家の公家、梅園実清(1609-1662年)の息女で、その子石川義孝は山城淀藩第二代藩主、伊勢亀山藩石川家五代。
・妻女梅園氏、石川義孝ともに妻沼とのゆかりは確認できず、どうして当寺にこのような鐘銘が残っているのかも不明です。

御朱印は庫裡にて忍秩父観音霊場のものを拝受しました。幡羅郡新四国霊場については不明です。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第16番 聖観世音菩薩



■ 祥興山 真徳院 瑞林寺
熊谷市妻沼2485(旧・大里郡妻沼町)
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第73番
・『新編武蔵風土記稿』および境内記念碑によると、建久年間(1190-1199年)に天台宗寺院として創建。慶長六年(1598年)矢場村惠林寺第五世大庵文恕により曹洞宗に改められて開山、開基は大河内孫十郎政信と伝わります。
・大河内氏は摂津源氏源頼政流とされ、三河の吉良氏の家老の家柄でしたが、天正十五年(1587年)大河内秀綱の二男正綱が家康の命で長沢松平家庶流の松平正次の養子となり、子孫は大河内松平家と称します。武蔵野の名刹、平林寺は大河内大名家の墓所として知られています。
こちらのWeb(大河内松平氏の研究)に「吉良家を去った大河内秀綱後は伊奈氏の配下で代官として活動している。『伊奈忠次文書集成』の中に、大河内秀綱に宛てた慶長年間の文書がある。文禄三年(1594年)、徳川家康が江戸から上州新田に向かうため、通り道にあたる妻沼の名主に人馬継立を命じる文書が大河内孫十郎(久綱)の名で発給されている。このころ既に久綱が代官だったことが知られる。」とあり、孫十郎(久綱)と孫十郎政信が同一人物であるかはわかりませんが、江戸時代初期に大河内氏が妻沼の地を代官差配していたことがうかがわれます。
・本堂向かって右手前の日限地蔵堂には赤い幟がならび、信仰を集めている感じがします。
・墓所には江戸時代の俳匠・有磯庵五渡(ありそあんごと)三代の墓があります。江戸時代の妻沼は芭蕉ゆかりの俳句のメッカで、各地の俳人たちは妻沼聖天の参詣と併せて妻沼の俳人と交流し、これを「妻沼詣」と称したと伝わります。

・幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第73番の札所で、門前に御朱印のサンプルが掲示されています。庫裡にて「新四国第七十三番」の札所印入りの御朱印を拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第73番 釈迦牟尼佛



■ 能満山 定禅院 能護寺(あじさい寺)
熊谷市Web
熊谷市永井太田1141(旧・大里郡妻沼町)
高野山真言宗
御本尊:大日如来・虚空蔵菩薩
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第75番、東国花の寺百ヶ寺霊場第25番
・天平十五年(743年)に国家安穏・万民豊楽と五穀豊穣祈願のため行基上人が開山し、後に弘法大師空海が再建され真言密教の道場として整えられたと伝わります。
・「妻沼のあじさい寺」として知られ、毎年6月には多くの参詣者を迎えます。
・現本堂は文化十一年(1814年)の再建で、内陣に大日如来、外陣に阿弥陀如来を安置した堂内の格天井(十六羅漢図)には、金井烏洲・岩崎榮益・樋口春翠などの彩色の花鳥獣が描かれています。
・虚空蔵堂には虚空蔵菩薩が祀られ、男女13歳厄除け祈願(十三参り)の寺として信仰を集めています。
・鐘楼の鐘は、元禄十四年(1701年)、諸八郎兵衛藤原正綱による鋳造で、乳の間に百字真言の梵字が鋳込まれているもの。市の文化財に指定されています。

・メジャー霊場「東国花の寺百ヶ寺霊場」の札所で、御朱印は庫裡にて拝受。御朱印尊格は「十三参り」の虚空蔵尊となっています。

〔拝受御朱印〕
1.虚空蔵堂御本尊 虚空蔵菩薩


2.東国花の寺百ヶ寺霊場第25番 虚空蔵菩薩




【 BGM 】
■ glow Piano&Strings Acoustic .Ver うたってみた 鹿子


■ 夢の途中 - KOKIA


■ far on the water - Kalafina
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■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPします。

深谷市・熊谷市は、東京からだと徳川氏発祥の地とされる上州・世良田郷(太田市世良田町・徳川町)へのアプローチルートにあたります。
併せてまわってみてはいかがでしょうか。

■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1(旧 大里町エリア/旧 江南町エリア/旧 熊谷市エリア-1)から。
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)へつづく。

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1(旧 川本町エリア/旧 花園町エリア/旧 深谷市エリア-1)
■ 埼玉県深谷市の御朱印-2(旧 深谷市エリア-2)


■ 関連記事
「血洗島 諏訪神社の御朱印」

↓ の記事は当面残しますが、後日、本記事と統合します。
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4



【エリア概要】(熊谷市・深谷市を併せてまとめています。)
東京方面から血洗島へのアプローチは通常、関越道「花園」IC(深谷市)経由となります。
ここから北上して利根川に沿って熊谷市に入り、熊谷から関越道「東松山」IC、ないしは国道17号(中山道)経由の帰路になると思われますので、このエリア(熊谷市・深谷市の一部)の御朱印をご紹介します。

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深谷・熊谷周辺は、かつて幡羅郡(はら/はたら)、および榛沢郡と呼ばれ、古墳群も多くみられて早くから開けた土地とされています。

武蔵七党をはじめとする多くの武士団が興った地で、わけても源平合戦で平敦盛との一騎討ちで名を馳せた熊谷直実の本拠地として知られています。

平家方として源氏との富士川の戦いや木曽義仲と戦いで活躍した斎藤別当実盛も当地を拠点とし、妻沼聖天山を開いたとされています。
また、室町期には山内上杉家系の深谷上杉家が深谷城に拠りました。

江戸時代には、熊谷・深谷ともに中山道の宿場町として栄えます。
宿場だけでなく、木綿織物や多くの農産物の集散地・取引の場としても隆盛しました。
また、秩父から甲州へ抜ける秩父往還の起点で、荒川・利根川の渡船場や江戸方面への物流の要衝・河岸も擁していたため、秩父絹の集散地としても栄えたようです。

江戸初期には深谷藩が立藩、岡部には岡部藩、近隣の行田には忍藩があり、寺社の成立・変遷にはこれらの藩の支配の影響も考えられます。

熊谷市の資料には、「秩父街道は、秩父34番札所めぐりや三社(秩父神社、三峰神社、宝登山神社)めぐり、また秩父絹の商人の往復でにぎわいました。」とあり、妻沼聖天山歓喜院は、日本三大聖天の一つとされ、古くから人々の信仰を集めていたといいます。

また、熊谷寺の門前町としても発展し、「関東一の祇園」と称される愛宕八坂神社の例大祭「うちわ祭り」が広く知られるなど、宗教都市としての一面ももっていたのではないでしょうか。

このように古くから栄えて城下町の色彩ももち、宿場町や商都としての役割も大きかったため、寺社もおのずから多くなりました。

【深谷・熊谷と札所】
寺院が多く人流が活発だったので、北関東でも有数の霊場エリアとなっています。

観音霊場としては、熊谷を中心に忍秩父三十四観音霊場の札所が複数あり、「忍秩父三十四観音霊場」+「忍領西国三十三観音霊場」+「足立坂東三十三観音霊場」で百観音霊場を構成しているとされます。

日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた百箇所の観音霊場をいい、日本各地で写しの霊場が開創されました。
「忍秩父三十四観音霊場」は三十四所あるので「秩父」の位置づけですが、これまで拝受した御朱印で「忍秩父」の札所印が入ったものはたしかありません。多いのは「忍観音」「忍三十四所(霊場)」「忍坂東」などで、御朱印拝受のときも「忍秩父観音霊場」と申告して首を捻られ、「忍三十四霊場」と言い直すとすぐに納得いただいたことが何度もありました。

三十四所ですが「忍坂東」と呼ばれていた可能性があり、もともとは三十三の札所で構成され、他の三十四所霊場を「秩父」として百観音を構成していた可能性もあるのかもしれません。
(ただし、この記事では「忍秩父三十四観音霊場」で統一します。)

「忍秩父三十四観音霊場」は”忍”とありますが、34の札所のうち熊谷30、深谷2、行田2で、実質的には熊谷の観音霊場といえます。

また、ナゾが多いのですが、熊谷を中心に幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場が開創されています。

深谷には深谷七福神、熊谷には熊谷七福神が開創されています。
深谷七福神の寺院にはそれぞれ”秋の七草”が植えられ、秋には”花の寺巡り”も楽しめます。

その他、関東八十八箇所、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)、武州路十二支霊場、武蔵国十三佛霊場、関東九十一薬師霊場、関東百八地蔵尊霊場、東国花の寺百ヶ寺霊場など広域霊場の札所が複数立地し、さながら御朱印王国の様相を呈しています。

御朱印授与率が高いのは↑の広域霊場と深谷七福神で、忍秩父三十四観音霊場もかなりの札所で授与いただけます。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場はこのところ復興の気運も感じられ、札所印をご用意されている札所もありますが、廃寺・無住寺院も多く、巡拝難易度はかなり高くなっています。
なお、忍秩父三十四観音霊場のいくつかの札所は、最近巡拝者以外は不授与となっているので要注意です。

熊谷七福神は正月限定のスタンプ方式とみられ、御朱印授与についてはまちまちのようです。

有名なのは埼玉厄除開運大師(龍泉寺)で、絵御朱印や限定御朱印マニアでいつも賑わいをみせています。
妻沼聖天 歓喜院や常光院(熊谷厄除け大師)も複数の御朱印を授与されており、御朱印スポットとして知られています。

神社めぐりについては、熊谷の長井神社の宮司様が「村の鎮守十社めぐり」を主催され、条件つきながら御朱印を授与されているので、御朱印拝受できる神社が増えています。

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それでは、南から北に上がるかたちで、旧市町村エリア別にご紹介していまきす。
なお、熊谷は日本有数の酷暑の地です。
夏場の巡拝は、どうぞ充分にお気をつけくださいませ。


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ここからは、いよいよ忍秩父観音霊場、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場の核心部に入っていきます。小規模で無住の寺も多く、御朱印拝受難易度は高いです。


■ 光明山 地蔵院 観音寺
熊谷市上中条2018
高野山真言宗
御本尊:
札所:忍秩父三十四観音霊場第10番
・こちらも無住で情報が少ないです。
『新編武蔵風土記稿』の上中條村(埼玉郡忍領)の項に「邑楽郡赤岩村光恩寺末(略)慶安二年(1649年)観音堂領トシテ十六石六斗ノ御朱印ヲ附セラル 開山了空明應五年(1496年)寂セリ 本尊不動ヲ安ス 観音堂」とあります。

・現在の御本尊は聖観世音菩薩のようで、地元では「中条観音様」と呼ばれ、信仰を集めている模様です。
・境内入口の石碑に「聖観世音安産守護」、本堂扉に「腹帯子宝祈願」「安産祈願」の案内があるので、子宝・安産に霊験あらたかな観音様のようです。
・入母屋造銅板葺で切妻様の向拝を付設しています。照りの強い本棟の屋根と起り気味の向拝屋根が独特のコントラストを見せています。
・大棟と鬼板に聖観世音菩薩の種子「サ」が掲げられているので、やはり御本尊は聖観世音菩薩とみられます。向拝正面には「観世音」の扁額が掲げられています。
・木鼻側面貘と正面獅子の彩色が異なるなど芸が細かいです。

・現在無住で、御朱印は浄瑠璃山 長慶寺(熊谷市西城93-1)で拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第10番 聖観世音菩薩



■ 福聚山 阿弥陀院 利永寺
熊谷市下奈良796
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第12番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第43番
・こちらは、今回の記事のなかでもっともマニアックな札所かと思われます。記事UPは迷いましたが、確かに忍観音霊場の札所なのでご紹介します。
・参拝情報がほとんどなく、Googleマップで位置検索するととある企業の敷地を示すので、意を決してこちらの事務所にお伺いすると、こちらの敷地内に御座とのこと。
・ご丁寧にもご案内いただき、ようやく参拝が叶いました。
『新編武蔵風土記稿』の下奈良村の項には「埼玉郡上ノ村一乗院末 本尊前(十一面観音)ニ同シ 観音堂 利永寺持」とあり、本堂(御本尊:十一面観世音菩薩)のほか、観音堂を擁していたかもしれません。

・整った宝形造で向拝を付設し、向拝見上げにはしっかり御詠歌の木板が掛かっていました。ただし、この木板の札番は「第七番」。こちらは忍観音霊場で第11番、幡羅郡新四国霊場で第43番のはずなので、この「第七番」というのはナゾです。

・こちらの御朱印はなかばあきらめていたのですが、一乗院様にお伺いすると、第11番観音寺のほか、こちらの御朱印(規定用紙)も授与されているとのことで、ありがたく拝受しました。
・ご紹介はしましたが、参拝時に一般企業さんのお手間をいただくこともあり、忍観音霊場巡拝者に限ってお伺いした方がよろしいかと思います。また、休業日や営業時間外の参拝も不可だと思います。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第12番 十一面観世音菩薩(大悲殿)



■ 大慈山 薬師院 観音寺
熊谷市下奈良913
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第11番
・この寺社巡りも、下奈良エリアに至ってますますディープな世界に入っていきます(笑)
・忍秩父三十四観音霊場第11番のこの札所寺院は、現在無住のお堂で、境内掲示はなくWebでも情報がとれないので、『新編武蔵風土記稿』の下奈良村の項の記載を引用します。
「埼玉郡羽生村正覺院ノ末ナリ 本尊十一面観音安セリ 薬師堂」。
・幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第43番の札所は福聚山 利永寺とされていますが、別の資料によると、もともとはこちらが第43番の札所であった可能性もあります。

・まわりにランドマークがないので説明しにくいですが、Googleマップの住所検索でヒットします。
・竹林を背にした奥まったところにあり、向拝柱はあるものの、切妻造妻入で一見お堂らしくないので、参道入口の如意輪観世音菩薩と地蔵菩薩の石仏がなければそれとわからないかもしれません。

・御朱印は、真言宗智山派関東十一談林の名刹、光明山 一乗院(熊谷市上之2891-1)で規定用紙のものを拝受できます。(一乗院の御朱印は授与されておりません。)

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第11番 十一面観世音菩薩(大悲閣)



■ 萬頂山 集福寺
熊谷市下奈良551
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第13番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第1番
・山内掲示によると、永仁年間(1293-1299年)、由良法燈圓明國師によって臨済宗法燈派の本山として開かれ、天文年間(1532-1555年)、永平道元孫桂室秀芳大和尚によって曹洞宗に改められたという名刹です。
・同掲示には、(当寺)五世扶嶽太助大和尚は、後に「とげぬき地蔵」(江戸・巣鴨(当時は神田明神下)の萬頂山 高岩寺を開いたことで知られています、との記載があります。
・境内の諸堂は江戸時代後期の建立で、法堂、庫裡、仏殿、開山堂を回廊で結び、内部に鐘楼を設けた七堂伽藍の配置をとっているようです。

・幡羅郡新四国霊場の初番発願所を務められ、このことからも当地屈指の名刹であることがわかります。

『新編武蔵風土記稿』の下奈良村の項にも大きく記載され「相傳フ往昔ハ臨済派ニテ開山圓明國師(略)其後永正年中桂室秀芳ト云僧、曹洞派ニ改メシヨリ今開山トス(略)開基ハ式部大輔助高十代成田下総守親泰法名貞岡宗蓮菴主ト号ス 入道シテ当村ニ隠棲ヲ営ミ 即当寺ヲ造建シ大永四年六月八日卒ス 御打入ノ後 東照宮忍城ヨリ此辺御放鷹ノ時、当寺ヘ成ラセラレ住僧桂岩ヘ御目見仰付ラレ 其後慶長年中江戸ヘ召セレシ時 元神田蔵王権現ノ舊(旧)蹟ニ於テ寺地ヲ賜ハリ一寺ヲ草創シテ金峯山高林寺ト号シ蔵王権現ヲ鎮守トセリ 後替地ヲ給ヒ本郷ヘ遷リ 又駒込ヘ遷リテ 今ハ当寺ノ末トナレリ 本尊三尊ノ釋迦ヲ安セリ(以下略)」とあります。
・「金峯山 高林寺」とは、文京区向丘の金峰山 高林寺をさすとみられ、本郷区史のP.1247には、たしかに「高林寺 武州幡羅郡下奈良村集福寺末、金峰山と号ス」との記載があります。

・「七堂伽藍の名刹」だけあって、さすがに伽藍は整っています。
・庫裡にて拝受した御朱印は。忍観音霊場と幡羅郡新四国霊場のふたつの札所印が捺されていました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第13番 札所本尊不明 御朱印尊格は釋迦牟尼佛
2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第1番 釋迦牟尼佛
1通で兼用。




■ 荒神山 地蔵院 龍昌寺
熊谷市柿沼499
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第1番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第20番
『新編武蔵風土記稿』の柿沼村の項に「京都智積院末 中興開山海寶慶長十九年六月十二日寂ス 本尊地蔵ハ恵心ノ作 荒神社 辨天社 稲荷社 聖天社 金毘羅社 観音堂 此堂焼失後イマダ再建ナラス」とあります。
・境内石碑には、慶長年間(1596-1615年)、海宝上人の開基で智積院直末の格院とあり、忍秩父観音霊場の第1番初願所であることからしても、相当の格式をもつ寺院と思われます。

・樹木が少なくすっきり明るい境内。本堂は入母屋造本瓦葺でがっしり大ぶりな流れ向拝を構えています。見事な本瓦葺や格調高い山号扁額から名刹の矜持が感じられます。

・御朱印は庫裡にて忍秩父三十四観音霊場第1番の御朱印を拝受しました。幡羅郡新四国霊場第廿番の札所印も捺されているので、2札所兼用の御朱印と思われます。
・こちらの忍観音霊場の札所本尊の情報がなく、とりあえず聖観世音菩薩の御真言をあげて参拝しましたが、いただいた御朱印の種子は「キリーク」。ご住職に千手観音か如意輪観音かをお伺いすると、なんと如意輪観世音菩薩とのこと。初番から如意輪観音の観音霊場はあまり記憶にありません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第1番 如意輪観世音菩薩(大悲殿)

※ 幡羅郡新四国霊場第廿番の札所印あり


■ 天神山 観音院 吉祥寺
熊谷市原島682
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第33番
『新編武蔵風土記稿』の原島村の項に「埼玉郡上ノ村一乗院末 慶安二年境内観音堂領トシテ十石ノ御朱印ヲ賜フ 中興ノ僧ヲ榮快ト云寛文十三年(1673年)正月二十五日寂ス 本尊大日ヲ安ス 観音堂 十一面観音ヲ安ス 運慶ノ作ナリト云伝フ」とありますが、開基・開山、創建年代等は不明です。

・緑濃いよく整備された境内。山門は本瓦葺。本堂は寄棟造銅板葺で、端正な流れ向拝を置いています。

・御朱印は忍観音霊場のもので、当寺第33番と上奈良の第24番妙音寺を授与されています。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第33番 十一面観世音菩薩



■ 有應山 浄圓院 養平寺
熊谷市原島1192
真言宗霊雲寺派
御本尊:地蔵菩薩
札所:-
こちらは非札所で存じ上げませんでしたが、公式Webによると、
養平寺本尊「歓喜地蔵菩薩」
薬師堂「薬師如来」
愛染堂「愛染明王」
毘沙門堂「毘沙門天」
の4種の御朱印を授与されている模様です。
拝受次第、掲載します。


■ 永昌山 常楽寺
熊谷市中奈良1956
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第14番
『新編武蔵風土記稿』の中奈良村の項には「奈良村集福寺末 開山ハ本尊(ママ)七世ノ僧宗察慶長年中(1596-1615年)創建ト云 本尊釋迦ヲ安セリ」とあります。
・おそらく本寺であった集福寺第七世の僧宗察が慶長年中(1596-1615年)に創建とみられます。
・また、山内の石碑には「当常楽寺ノ境内地ハ創立当時南ハ新井北ハ堀内東ハ後原ヲ境ニ凡ソ五千三百余坪アッタ」とあり、相当の大寺であったことが伺われます。

・参拝時ご不在でしたが、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第14番で、曹洞禅ナビで「御朱印対応あり」となっているので、郵送をお願いするとお送りいただけました。
・こちらの御朱印にも幡羅郡新四国霊場の札所印が捺されていました。「幻の霊場」ともいわれる幡羅郡新四国霊場ですが、意外に札所印が残っているようです。

・御本尊は釈迦如来のようですが、御朱印尊格は観世音菩薩となっています。禅宗寺院の観音様は聖観世音菩薩が多いですが、御朱印の主印に種子は確認できず聖観世音菩薩かどうかはわかりません。(観世音菩薩、大悲殿などの揮毫でも、朱印に種子があれば(=御寶印)、こちらで観音様の個別の尊格はわかります。)
・新四国霊場の札所本尊は御本尊の例が多いのですが、こちらはなんらかの由縁で観音様が札所本尊となられているのかもしれません。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第14番 釈迦如来



■ 奈良神社 
熊谷市中奈良1969
御祭神:奈良別命
旧社格:延喜式内社(論社)、奈良四村の総鎮守
元別当:摩尼山 熊山院 長慶寺(中奈良/高野山真言宗)
授与所:境内拝殿前
・中奈良に御鎮座の古社で、『延喜式神名帳』の幡羅郡小社四座の一社(論社)とされます。
・『埼玉の神社』には、仁徳天皇の御世、下毛野君の祖で豊城入彦命の子孫とされる奈良別命が、下野国国造の任を終えたのち当地を開拓したことから、郷民がその徳を偲んで創祀とあります。
・また、当地に拠った奈良氏は、成田・別府・玉井氏などとならぶ名族で、当社を奉斎していたとみられています。

・中世、当社は熊野信仰の影響を受けて奈良神社から熊野神社に号を改めました。
『新編武蔵風土記稿』の中奈良村の項の熊野社には「奈良四村ノ惣鎮守ナリ 本地彌陀・薬師・観音を安ス 古は修験圓蔵坊カ持ナリシガ 成田氏下野國烏山ニ移ル時圓蔵坊モ随テ移リ(略)今ハ長慶寺ノ持トナル 社内ニ奈良神社ヲ合セ祀ル 奈良神社ハ神名帳当郡四座ノ一ナリ想ニ舊章衰廃ノ後、熊野三社ヲ合祀シ」とあります。
・『埼玉の神社』では、「恐らく、古代に創建された奈良神社は廃絶したのではなく、中世、その時流に合った熊野信仰を収容することにより社名を変えて存続したのであろう。」とみなしています。
・また、「江戸後期になると、中世以来永く熊野神社としてきた当社は、復古の思想興隆により、社名を古代の奈良神社に復した。」とも記されています。

・古社の落ち着きを感じる境内。本殿の意匠も見事なものです。
・拝殿前に御朱印が置かれていたので、お代を賽銭箱に納めて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:奈良神社 書置(筆書)



■ 摩尼山 熊山院 長慶寺
熊谷市中奈良1995
高野山真言宗
御本尊:地蔵菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第25番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第5番
司別当:奈良神社(熊野社)(中奈良村、奈良四村の総鎮守)
『新編武蔵風土記稿』の中奈良村の項に「紀伊國高野山清浄心院末(略)相傳フ当寺は古修験地ナリシガ 天正十八年(1590年)圓蔵坊ト云僧、成田氏ニ従ヒ下野國ニ移リシ後 長慶ト云僧今ノ宗ニ改メ造立セリト云(略)元空坊号ヲ継テ其頃当村ニ住シ後黒田村ヘ移シニヨリ 坊宇以下其ママ長慶(延寶四年(1676年)寂)譲受テ今ノ宗ノ一寺トセシニヤ 本尊地蔵ヲ安セリ」とあります。
・当初は(天台系)修験の圓蔵坊・元空坊が護持し、後に長慶が跡を継いで紀伊国の真言宗高野山浄心院の末寺となり、江戸期には奈良神社(熊野社)の別当を司りました
・『埼玉の神社』には「明治期に入ると、当社(奈良神社/熊野社)本殿の熊野神の本地である弥陀・薬師・観音の三尊は、長慶寺に移され、代わって神鏡が奉安された。」とあるので、熊野神は本地(弥陀・薬師・観音の三尊)として長慶寺に遷られたことになります。

・寄棟造桟瓦葺の均整のとれた本堂。忍観音霊場の札所本尊、如意輪観世音菩薩も本堂に御座とのことです。
・御朱印はご住職がいらっしゃれば庫裡にて拝受できるかと思いますが、ご不在がちのようで、書置もないので拝受はなかなかむずかしい札所です。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第25番 如意輪観世音菩薩


2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第5番 地蔵菩薩



■ 開敷山 観音院 妙音寺
熊谷市上奈良702
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第24番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第28番
・『新編武蔵風土記稿』によると、開山の頼尊は奈良三郎と伝わり、成田大夫助高の三男奈良三郎高長とみなしています。高長は入道して頼尊と号し当寺を開山されたとの由。
・境内の「奈良三郎の墓」は市指定記念物(史跡)に指定されています。
・如意輪観世音菩薩は行基の作と伝わります。

・御朱印は、忍秩父三十四観音霊場第33番の吉祥寺(熊谷市原島682)にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第24番 聖観世音菩薩



■ 瑠璃光山 真蔵院 東光寺
熊谷市上奈良953
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第24番
・山内石碑によると、創立は慶長年間(1596-1615年)。延宝年間滎伝阿闍梨により中興するも、文化八年(1811年)火災により古文書を焼失し由緒詳細は不明とのこと。
・『新編武蔵風土記稿』によると、慶安年間(1648-1652年)以前は「東ノ坊」と称し、妙音寺を「西ノ坊」と称していたようです。
・寄棟造桟瓦葺の均整のとれた本堂です。
・御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第24番 薬師如来



■ 豊布都神社 
熊谷市上奈良1286
御祭神:武甕槌命、(旧)鎌倉権五郎景政公
旧社格:旧上奈良村鎮守
元別当:瑠璃光山 真蔵院 東光寺(上奈良/高野山真言宗)
授与所:境内拝殿前
・旧上奈良村の鎮守で、かつては御霊社と号し、御祭神は鎌倉権五郎景政公と伝わります。(『新編武蔵風土記稿』)
・『埼玉の神社』には、明治5年に御祭神と社号を改めたとありますが、「豊布都とは、武甕槌命の別称で、鎌倉権五郎の武勇にちなんだものと思われる」とあり、旧御祭神のゆかりを示唆しています。
・上奈良はかつて荒川の川筋に当たっていた地で、境内掲示には「往時の人々は、河川の氾濫によって生じる疫病などの厄災を怨霊の祟り・御霊によるものとの考えから御霊という音に近い鎌倉権五郎の怨霊を祀ってその祟りを鎮めようとした。」とありました。
・本地の愛染明王は、明治の神仏分離時に元別当の東光寺に遷されています。
・こぢんまりとした境内ですが、すっきりと整って清冽な気が流れているような感じがしました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:豊布都神社 書置(筆書)



■ 増田山 観音堂
熊谷市下増田841
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第20番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第28番
〔拝受御朱印〕
・第19番下増田観音寺からほど近く、県道263号弁財深谷線沿いにあるのでわかりやすいです。
・寺号標は「増田山観音堂」、門柱には「旧宝蔵院」と「牛頭天王分社」、観音堂扁額には「十一面観世音」「牛頭天王宮」。
・忍観音二十番霊場の立派な札所碑。宝形造の端正な観音堂には真如親王様のお大師さまが描かれた幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第28番の札所板も掲げられ、霊場札所の趣きがあります。

・御朱印は、忍秩父三十四観音霊場第19番の下増田観音寺(熊谷市下増田866)にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第20番 十一面観世音菩薩



■ 大悲山 慈眼院 観音寺
熊谷市下増田866
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第19番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第69番
・忍秩父三十四観音霊場には「観音寺」「観音堂」と号する札所がじつに5つ(6番行田市持田、10番上中条、11番下奈良、19番下増田、20番下増田(観音堂)、26番玉井(廃寺))もあり、場所が近いこともあって混乱します。
・こちらは第19番下増田の観音寺で、第20番下増田観音堂も護持されています。

・御朱印は忍秩父第19番、第20番(増田山観音堂)を拝受しました。本堂にあげていただき、たいへんご親切なご対応をいただきました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第19番 聖観世音菩薩



■ 福聚山 香林寺
熊谷市東別府799
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第23番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第61番、第6番(旧福泉寺・薬師如来)
・別府小太郎清重が父入道義重(法名香林寺義重道薫居士)追福のため建立と(開基は義重)いう寺伝があり、集福寺第二世要岩(弘治三年(1557年)十六日示寂)が開山という伝もあります。
・別府小太郎清重は平家物語に登場し、平家物語は延慶二年(1309年)以前に成立とみられているので、開基開山の年代が合いません。
・これについては、『新編武蔵風土記稿』も「清重の開基といはんには年代相あたらず、若くは天文(1532年-1555年)の頃、別府尾張守長清など、己が遠祖義重のために造立せしにや、さあれば開山開基の年代合へり」と指摘しています。
・香林寺は(東)別府城の城址とされる東別府神社のすぐそばにあり、香林寺を別府氏館跡とする史料もあるようです。
・別府城跡(県指定記念物(史跡))の掲示には「成田助高の二男次郎行高が別府に住み、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知」とあるので、小太郎清重は能幸の流れの東別府氏とみられ、同掲示には「太郎能幸に初まった東別府家は、それから十一代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、敗軍側についたため家禄を失ってしまった。」ともあります。

・御朱印は、庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛



■ 吉祥山 丈六院 安楽寺
熊谷市西別府2044
臨済宗円覚寺派
御本尊:釈迦如来
札所:忍秩父三十四観音霊場第22番
・養老年間(717-24年)、藤原不比等淡海による草創と伝わる古刹。
・草創時に丈六の釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来の三尊を安置、後に武蔵国国司(藤原)式部大輔任助の二男別府左衛門行隆が、六阿弥陀を加えて九品の本尊とし、その子孫の別府甲斐守頼重が再興したといいます。
・繁室玄茂和尚(文和二年(1353年)寂)の開山という伝もあります。
・『新編武蔵風土記稿』および『埼玉の神社(西別府湯殿神社の項)』によると、康暦二年(1380年)九月、乱を起こした下野守護小山義政征討のため足利左馬頭氏満が鎌倉を出立。別府の地に陣を構えて小山攻めの軍勢を催促するとともに丈六(院)に参詣念誦したところ、小山義政みずから当所に赴き降参したことは、ひとえに丈六の尊像の感應によるものと称揚されました。

・御朱印は庫裡にて授与いただけましたが、新型コロナ禍のなかでは原則授与を中止されているようです。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第22番 九品佛
※御本尊の御朱印不授与



■ 瑠璃光山 薬師院 玉井寺
熊谷市玉井1888
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
司別当:玉井大神社:境内社の内、稲荷社二宇と諏訪社
札所:幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第62番、熊谷七福神(布袋尊)
・埼玉県神社庁『埼玉の神社』の「玉井大神社」の項に、「玉井」および「玉井寺」についての記載もあるので抜粋引用します。
・桓武天皇の平安京遷都(延暦十三年(794年))に先立ち、新都の造営大夫藤原小黒麻呂より四神相応の地の見立てを命じられた南都興福寺の僧賢璟は、巡視の足を東国までのばしました。
・賢璟が当地に滞在の折に目を患い難儀していたところ、「井戸を掘り、その水で目を洗え」との霊夢を受け、その通りにするとたちまち快癒したため、賢璟は井戸の傍らに一祠を祀り井殿明神と称したといいます。
・この井戸「玉の井」は玉井寺の境内にあり、玉井寺の縁起では井戸の中から二つの宝珠が出てきたため、この井戸は「玉の井」と名付けられ、一つは寺宝とし、もう一つは寺の北方に神祠を建てその中に祀ったといいます。中興開山は賢海(寛永十七年(1640年)寂)。
・『新編武蔵風土記稿』には、玉井大神社(玉井明神社)は玉井村の鎮守で「古は井殿明神と呼べりと云」とあります。別当は吉祥院(本山修験、井殿山井殿寺)、境内社の稲荷社四宇のうち二宇と諏訪社の別当は玉井寺とあります。
・玉井寺の山号は「瑠璃光山」ですが本堂の扁額には「井殿山」とあり、玉井寺と吉祥院はなんらかの関係があったのかもしれません。

・「玉の井」の脇には市指定記念物(史跡)の「玉井四朗の墓」があり、玉井寺は玉井四朗の屋敷跡と伝わります。
・玉井氏は、成田助高の子助実が玉井四郎と称したのをはじめとし、『保元物語』の白河殿夜討ちの条には、源義朝公に従った玉井四郎が軍功を立てたことが記されています。また、『郡村誌』には「往古元暦元年(1184年)木曾義仲追討のため右大将頼朝二弟範頼義経をして兵六万の将として上洛せしむ時(玉井四朗)助重は範頼の午の手に属せり」とあるそうです。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場と熊谷七福神という、ふたつの稀少な札所の御朱印を授与されています。
・布袋尊の御朱印は、種子「ユ」一字のダイナミックなもの。布袋尊は弥勒菩薩の化身ともされるので、弥勒菩薩の種子「ユ」が使われます。

〔拝受御朱印〕
1.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第62番 阿弥陀如来


2.熊谷七福神 布袋尊



■ 赤城久伊豆神社 
熊谷市石原1007
御祭神:豊城入彦命、大己貴命、大山祇命
旧社格:旧石原村鎮守
元別当:羽黒山 不動院 真宗寺(石原/真言宗智山派)
授与所:境内授与所
・赤城神社と久伊豆神社の合祀(合社)という、北関東ならではの神社です。
・『埼玉の神社』には、「『風土記稿』には『赤城久伊豆合社 赤城明神は村内の鎮守とす』と載る。これは戦国末期、古くから当地の鎮守であった赤城神社に久伊豆神社が合祀され一社となったことを示している。」とあります。
・同書によると、赤城神社は、宮城村鎮座の赤城神社から勧請。久伊豆神社は、成田氏の崇敬する神社であった。両社合祀の経緯は「忍城主となった成田氏が自らの城の防備と領内の灌漑のため、用水堀(成田用水)を開削し、その源に当たる荒川の水門に久伊豆神社を勧請したが、後に荒川の流路が変わり、境内地が浸食されるようになったので、やむなく赤城神社に合祀されることになったという。」とのことです。

・本殿は寛延三年(1750年)建立とされる二間社流造りで、向かって右側に「正一位赤城明神」の幣帛、左側に「正一位久伊豆明神」の幣帛が納められているとのこと。
秋山藤八正勝、石原吟八郎、前原藤次郎などの名工の名が棟札に残り、その力量を示す建造物として市指定文化財となっています。
・もともとの本殿・拝殿は赤城山に相対するように創建され、久伊豆神社合祀の際に建て替えられ、現在の本殿・拝殿は忍城に相対する形で建っているとのことです。

・参拝時ご不在でしたが、たしか境内にご神職の電話番号が貼り出されており、こちらに連絡すると、お出でになられて無事拝受できました。熊谷七福神(福禄寿)の御朱印は通常不授与の模様です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:赤城久伊豆神社 直書(筆書)



■ (小島)春日神社 
熊谷市小島142
御祭神:天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売神
旧社格:旧小島村鎮守
元別当:小嶋山 無量院 西光寺(小島/天台宗)
授与所:拝殿前
・旧小島村の鎮守社と伝わり、明治42年、地内の稲荷社・天神社・八坂社および飛地境内社道祖社を合祀しています。
・『埼玉の神社』には「鎌倉時代に源家が滅亡し、北条氏が執権政治を始めた年に当たる承久元年(1219年)三月、奈良の春日神社から神霊を遷した」とあります。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:春日神社 書置(筆書)



■ 青野山 清浄院 大正寺
熊谷市籠原南1-252
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:忍秩父三十四観音霊場第27番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第36番
・境内石碑によると、創立は藤原の世と伝えられますが、元和年間(1615-1624年)頼(?)秀大和尚により中興開山とあります。
・忍秩父三十四観音霊場の札所本尊、馬頭観世音菩薩は本堂左手の観音堂に御座します。
奉納幟や奉納額がみられ、現在でも信仰を集めていることが伺われます。
・幡羅郡新四国霊場の札所本尊、不動明王は本堂に御座す御本尊です。
・本堂、観音堂ともに入母屋造妻入りとみられ、入母屋破風がシャープに際立ち存在感を放っています。
・境内に御座す弘法大師像は、三鈷杵を右手で頭上高く掲げられたおすがたです。
・山内入口の掲示板に「御朱印は霊場巡りの方のみ受付しております」の掲示がありました。忍秩父観音、幡羅郡新四国で2度の巡拝をしていますが、いずれも快く授与いただけました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第27番 馬頭観世音菩薩


2.幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第36番 不動明王


※霊場巡拝者にのみ授与


■ 狗門寺
熊谷市熊谷市新堀(廃寺、大正寺へ)
真言宗豊山派?
御本尊:
札所:忍秩父三十四観音霊場第28番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第58番
・忍秩父三十四観音霊場第28番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第58番の札所ですが、すでに廃寺になっており、札所機能は大正寺に移動しています。
・忍秩父三十四観音霊場第28番の御朱印は、大正寺にて授与いただけましたが、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第58番の御朱印は授与されていないとのこと。
・忍秩父霊場の札所本尊、馬頭観世音菩薩は現在さるところに御座され、礼拝は大正寺本堂にて、ということでしたのでこちらにてお唱えをいたしました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第28番 馬頭観世音菩薩

※霊場巡拝者にのみ授与(大正寺にて拝受)


■ 田中神社 
熊谷市三ケ尻2924
御祭神:武甕槌命、少名彦名命、天穂日命
旧社格:延喜式内社論社(武蔵國幡羅郡田中神社)
元別当:寶珠山 延命寺(三ケ尻/真言宗豊山派)
授与所:(三ケ尻)八幡神社社務所
・延喜式内社(論社)とされ、境内に要石があるため、この要石の磐座信仰が創祀とする説があります。また、田の神(稲の霊)を祀ったとする説もみられます。
・由緒ある式内社(論社)で、氏子区域は三ケ尻全域に及んでいたとされます。
・現在はシンプルな境内ですが、渡辺崋山の『訪瓺録』には「古代ハ大社ナルヨシ」とあり、かつては広大な境内を擁していたようです。
・この貴重な式内社(論社)の御朱印は、(三ケ尻)八幡神社社務所で授与されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:田中神社 直書(筆書)


■ 少間山 観音院 龍泉寺(埼玉厄除開運大師)

公式Web
熊谷市三ケ尻3712
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所:関東八十八箇所第83番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第29番、忍秩父三十四観音霊場第29番、武州路十二支霊場 子(千手観世音菩薩)、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第38番
・小此木紀伊守が開基、心海法印が開山となり永禄年間(1558-1570年)に創建と伝わる真言宗寺院。
・多くの霊場札所を兼務され、最近では「切り絵御朱印」で人気です。
・不動明王、お大師様の礼拝は本堂、観音霊場・十二支霊場の参拝は左手山上の観音堂となります。
・狭山(通称:観音山、標高82m)の山腹にあり、南側、荒川方面の眺めがいいです。
・御朱印スポットとして超人気のお寺さんで、週末は書置御朱印といえども数十分待ちとなるので、時間に余裕をもっての参拝をおすすめします。

〔拝受御朱印〕
1.お大師様の御朱印 埼玉厄除開運大師


2.関東八十八箇所第83番 不動明王


3.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第29番 聖観世音菩薩

尊格揮毫は「観世音」ですが、御寶印の種子は聖観世音菩薩の「サ」で、関東三十三観音霊場の札所本尊・聖観世音菩薩をあらわしています。

4.忍秩父三十四観音霊場第29番 千手観世音菩薩


5.武州路十二支霊場(子) 千手観世音菩薩

3.と同様、尊格揮毫は「観世音」ですが、御寶印の種子はおそらく千手観世音菩薩の「キリーク」で、武州路十二支霊場の札所本尊・千手観世音菩薩をあらわしています。

6.「如月 花手水」の御朱印


7.切り絵御朱印

※幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第38番の御朱印は不授与です。



■ (三ケ尻)八幡神社 
熊谷市三ケ尻2924
御祭神:誉田別命、大日孁貴命、菅原道真公
旧社格:村社、旧三ケ尻村鎮守
元別当:
授与所:境内社務所
・天喜四年(1056年)、源頼義・義家父子が奥州征伐の折にこの地に本陣を設け、鎌倉の鶴岡八幡宮の遙拝所を建てて戦勝祈願したことが創祀とされ、武の神として信仰を集めました。
・本殿の彫刻は三ケ尻出身の名工・内田清八の作とされます。
・週末は概ね境内社務所にてご対応されているようで、両面の絵入り御朱印を授与されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:八幡神社 直書(筆書)



■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)へつづく。



【 BGM 】
■ LANI~HEAVENLY GARDEN~ - ANRI 杏里


■ 約束 (Yakusoku) - 如月千早(今井麻美) // covered by 凪原涼菜


■ Mirai 未来 - kalafina

1:58~ 「少し優しい未来を~」のハーフディミニッシュ&転調絡みの展開が凄い!
さすがに梶浦由記さん 
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■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1

2021年大河ドラマ「青天を衝け」関連で「熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)」の標題でUPしていましたが、熊谷市・深谷市を分離し、御朱印を追加してリニューアルUPします。

深谷市・熊谷市は、東京からだと徳川氏発祥の地とされる上州・世良田郷(太田市世良田町・徳川町)へのアプローチルートにあたります。
併せてまわってみてはいかがでしょうか。


■ 埼玉県熊谷市の御朱印-1(旧 大里町エリア/旧 江南町エリア/旧 熊谷市エリア-1)
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)へつづく。
■ 埼玉県熊谷市の御朱印-3(旧 妻沼町エリア)

■ 埼玉県深谷市の御朱印-1(旧 川本町エリア/旧 花園町エリア/旧 深谷市エリア-1)
■ 埼玉県深谷市の御朱印-2(旧 深谷市エリア-2)


■ 関連記事
「血洗島 諏訪神社の御朱印」

↓ の記事は当面残しますが、後日、本記事と統合します。
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-1
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-2
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-3
■ 熊谷市・深谷市の御朱印(渋沢栄一翁郷里の地へのアプローチで拝受できる御朱印)-4



【エリア概要】(熊谷市・深谷市を併せてまとめています。)
東京方面から血洗島へのアプローチは通常、関越道「花園」IC(深谷市)経由となります。
ここから北上して利根川に沿って熊谷市に入り、熊谷から関越道「東松山」IC、ないしは国道17号(中山道)経由の帰路になると思われますので、このエリア(熊谷市・深谷市の一部)の御朱印をご紹介します。

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深谷・熊谷周辺は、かつて幡羅郡(はら/はたら)、および榛沢郡と呼ばれ、古墳群も多くみられて早くから開けた土地とされています。

武蔵七党をはじめとする多くの武士団が興った地で、わけても源平合戦で平敦盛との一騎討ちで名を馳せた熊谷直実の本拠地として知られています。

平家方として源氏との富士川の戦いや木曽義仲と戦いで活躍した斎藤別当実盛も当地を拠点とし、妻沼聖天山を開いたとされています。
また、室町期には山内上杉家系の深谷上杉家が深谷城に拠りました。

江戸時代には、熊谷・深谷ともに中山道の宿場町として栄えます。
宿場だけでなく、木綿織物や多くの農産物の集散地・取引の場としても隆盛しました。
また、秩父から甲州へ抜ける秩父往還の起点で、荒川・利根川の渡船場や江戸方面への物流の要衝・河岸も擁していたため、秩父絹の集散地としても栄えたようです。

江戸初期には深谷藩が立藩、岡部には岡部藩、近隣の行田には忍藩があり、寺社の成立・変遷にはこれらの藩の支配の影響も考えられます。

熊谷市の資料には、「秩父街道は、秩父34番札所めぐりや三社(秩父神社、三峰神社、宝登山神社)めぐり、また秩父絹の商人の往復でにぎわいました。」とあり、妻沼聖天山歓喜院は、日本三大聖天の一つとされ、古くから人々の信仰を集めていたといいます。

また、熊谷寺の門前町としても発展し、「関東一の祇園」と称される愛宕八坂神社の例大祭「うちわ祭り」が広く知られるなど、宗教都市としての一面ももっていたのではないでしょうか。

このように古くから栄えて城下町の色彩ももち、宿場町や商都としての役割も大きかったため、寺社もおのずから多くなりました。

【深谷・熊谷と札所】
寺院が多く人流が活発だったので、北関東でも有数の霊場エリアとなっています。

観音霊場としては、熊谷を中心に忍秩父三十四観音霊場の札所が複数あり、「忍秩父三十四観音霊場」+「忍領西国三十三観音霊場」+「足立坂東三十三観音霊場」で百観音霊場を構成しているとされます。

日本百観音とは、西国三十三所・坂東三十三所・秩父三十四所を合わせた百箇所の観音霊場をいい、日本各地で写しの霊場が開創されました。
「忍秩父三十四観音霊場」は三十四所あるので「秩父」の位置づけですが、これまで拝受した御朱印で「忍秩父」の札所印が入ったものはたしかありません。多いのは「忍観音」「忍三十四所(霊場)」「忍坂東」などで、御朱印拝受のときも「忍秩父観音霊場」と申告して首を捻られ、「忍三十四霊場」と言い直すとすぐに納得いただいたことが何度もありました。

三十四所ですが「忍坂東」と呼ばれていた可能性があり、もともとは三十三の札所で構成され、他の三十四所霊場を「秩父」として百観音を構成していた可能性もあるのかもしれません。
(ただし、この記事では「忍秩父三十四観音霊場」で統一します。)

「忍秩父三十四観音霊場」は”忍”とありますが、34の札所のうち熊谷30、深谷2、行田2で、実質的には熊谷の観音霊場といえます。

また、ナゾが多いのですが、熊谷を中心に幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場が開創されています。

深谷には深谷七福神、熊谷には熊谷七福神が開創されています。
深谷七福神の寺院にはそれぞれ”秋の七草”が植えられ、秋には”花の寺巡り”も楽しめます。

その他、関東八十八箇所、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)、武州路十二支霊場、武蔵国十三佛霊場、関東九十一薬師霊場、関東百八地蔵尊霊場、東国花の寺百ヶ寺霊場など広域霊場の札所が複数立地し、さながら御朱印王国の様相を呈しています。

御朱印授与率が高いのは↑の広域霊場と深谷七福神で、忍秩父三十四観音霊場もかなりの札所で授与いただけます。
幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場はこのところ復興の気運も感じられ、札所印をご用意されている札所もありますが、廃寺・無住寺院も多く、巡拝難易度はかなり高くなっています。
なお、忍秩父三十四観音霊場のいくつかの札所は、最近巡拝者以外は不授与となっているので要注意です。

熊谷七福神は正月限定のスタンプ方式とみられ、御朱印授与についてはまちまちのようです。

有名なのは埼玉厄除開運大師(龍泉寺)で、絵御朱印や限定御朱印マニアでいつも賑わいをみせています。
妻沼聖天 歓喜院や常光院(熊谷厄除け大師)も複数の御朱印を授与されており、御朱印スポットとして知られています。

神社めぐりについては、熊谷の長井神社の宮司様が「村の鎮守十社めぐり」を主催され、条件つきながら御朱印を授与されているので、御朱印拝受できる神社が増えています。

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それでは、南から北に上がるかたちで、旧市町村エリア別にご紹介していまきす。
なお、熊谷は日本有数の酷暑の地です。
夏場の巡拝は、どうぞ充分にお気をつけくださいませ。


1.旧 大里町エリア

■ 吉見神社 
熊谷市相上1(旧・大里郡大里町)
御祭神:天照大神
旧社格:郷社、旧上吉見領総鎮守、旧相上村鎮守
授与所:神社そばのご神職宅
・旧上吉見領二三か村のうちの上・中・下の恩田は「武州恩田御厨」といわれ、伊勢神宮の神領であったことが知られています。『埼玉の神社』では御厨で伊勢神宮を分祀する例は多く知られていることから、当社もこの例の一つとして天照大神を祀ったと考えられるとしています。
・いくつかの創祀伝承が伝わります。和銅六年(713年)御諸別王が当地を巡視した折、不毛の地であることを嘆かれ、各地から里人を移して多里郡(大里郡)を置き、豊かな地となった奉賽として、天照大神ゆかりの筬を御神体として天照大神を祀ったといいます。

・古社らしい厳かな境内。御朱印は境内向かって右手のご神職宅にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:吉見神社 書置(筆書)



■ (高本)高城神社 
熊谷市高本562(旧・大里郡大里町)
御祭神:高皇産霊命
旧社格:村社、延喜式内社(小)論社
元別当:地蔵院(元和四年(1618年)~)
授与所:神社そばのご神職宅
『埼玉の神社』を参考に、御由緒などをまとめてみます。
・創建年代等は不詳ながら、文久三年(1863年)、相上村吉見神社の社家徳永豊洲氏が当社旧社地の地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を発見したとされ、延喜式神名帳の式内社に比定されています。
・当社の旧社地は村の北方(和田吉野川の流れに近い中街)でしたが川の氾濫で流れが変わって下流の中ノ森(高城街)に流され、これを神慮であるとしてこの地に御遷座となり、昭和45年、中ノ森が河川改修地域となった際に旧社地である中街の現社地へ再び御遷座されています。

・田畑のなかにお社が御鎮座。御遷座を示す説明板も設置されています。
・御朱印はすこし離れたご神職のご自宅そばにて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:高城神社 書置(筆書)



2.旧 江南町エリア

■ 東方山 保泉寺
熊谷市小江川1317(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
・由緒等の情報が少ないですが、「江南公民館だより 令和元年9月号」によると、創立は貞観四年(892年)秋という寺伝が残り、当初は天台宗で洞仙院と号していたが荒廃してしまった。
・下って天文二一年(1552年)に野原文殊寺の第四世玉岺宗彛(ぎょくいんそうい)大和和尚を開山として曹洞宗に改め開創。
・江戸時代前期の寛永元年(1624年)、当地の領主、旗本・稲垣若狭守重太により当地に遷り伽藍を造営。その際、山麓にある清泉水の薬効にちなんで保泉寺と改めたと伝わります。
・「むさしの浄苑」を併設し、よく整備された山内です。

・こちらはご縁をいただいて期せずして御朱印を拝受したもので、常時授与されているかは定かではありません。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛



■ 東方山 保泉寺
熊谷市小江川1317(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
・由緒等の情報が少ないですが、「江南公民館だより 令和元年9月号」によると、創立は貞観四年(892年)秋という寺伝が残り、当初は天台宗で洞仙院と号していたが荒廃してしまった。
・下って天文二一年(1552年)に野原文殊寺の第四世玉岺宗彛(ぎょくいんそうい)大和和尚を開山として曹洞宗に改め開創。
・江戸時代前期の寛永元年(1624年)、当地の領主、旗本・稲垣若狭守重太により当地に遷り伽藍を造営。その際、山麓にある清泉水の薬効にちなんで保泉寺と改めたと伝わります。
・「むさしの浄苑」を併設し、よく整備された山内。

・こちらはご縁をいただいて御朱印を拝受したもので、常時授与されているかは定かではありません。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛



■ 高根山 満讃寺
武州路十二支霊場Web
熊谷市小江川827(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:武州路十二支霊場 辰(普賢菩薩)
・武州路十二支霊場の公式Webによると、開山は江南町野原の文殊寺第五世霊因祖源大和尚。天正四年(1576年)稲垣若狭守重大の臣田村茂平重次を開基とし、弘化二年(1845年)当寺第十九世当付大和尚による中興と伝わります。

・御朱印は庫裡にて武州路十二支霊場拝受しました。御本尊の御朱印については不明です。

〔拝受御朱印〕
1.武州路十二支霊場 普賢菩薩



■ 五台山 文殊寺
公式Web
熊谷市江南町野原623(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:文殊師利大菩薩
・「野原の文殊さま」と称され、「京都の切戸(天橋立)文殊」「山形の亀岡文殊」と並んで「日本三体文殊菩薩」のひとつとされる曹洞宗の名刹です。
・公式Webを参考に由緒などをまとめてみます。
・「三人寄れば文殊の智恵」のことわざ通り、文殊菩薩は智恵を司る仏様で、古より学業成就の願掛けに多くの人々が訪れます。
・開山は崇芝性岱(そうししょうたい)大和尚(名応五年(1497年)寂)。
・古くは五台山 能満寺という天台宗の古刹でしたが、室町期の文明十三年(1481年)に焼失。二年後に比企郡高見の四ツ山城主、増田四郎重富が再建し、曹洞宗に改めて五台山 文殊寺を号したとされています。

・名刹らしく見どころの多い山内。山門(仁王門)は江戸中期の建築と推定され熊谷市の指定文化財に指定されています。

・御朱印は本堂横の授与所にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 文殊師利大菩薩(文殊尊)



■ 龍谷山 静簡院
熊谷市成沢125(旧・大里郡江南町)
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所:関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第11番
・関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第11番の札所を務められる曹洞宗の寺院です。
・霊場ガイドおよび山内由緒書を参考に由緒をまとめてみます。
・古くは天台宗寺院の浄閑寺の名刹でしたが一時期衰退。
・大永五年(1525年)に成澤越前守隼人正義佑が当地に武蔵成澤城を築城しました。関東管領上杉憲政の麾下であった成澤氏が、甲斐の武田信玄の侵攻に対処するため活用したとみられています。
・義佑の戦死後、上杉一門武将が守備した関係から深谷城主上杉三郎憲盛によって静簡院が創建されたと伝わります。開基憲盛の墓が寺の裏に奥津城としてあり、浄閑寺跡の石垣も現存しているそうです。

・御本尊は釈迦如来で両脇仏に文殊菩薩・普賢菩薩を安置。内陣には四天王、大間には十六羅漢の額の彫刻があります。
・関東三十三観音霊場の札所本尊の観音様は、山内に露仏として安置されています。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釋迦如来


2.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第11番 徳王観音



3A.旧 熊谷市エリア-1

■ (鎌倉町)愛宕神社・八坂神社 
熊谷市鎌倉町44
御祭神:軻遇突智命、須佐之男命、大市姫命、菅原道真公、事代主命
旧社格:(熊谷うちわ祭りの祭神社)
元別当:大善院
授与所:古宮神社(池上)授与所
・「熊谷うちわ祭」で有名な市内中心部に御鎮座の神社です。
・『埼玉の神社』(埼玉県神社庁)、熊谷うちわ祭の公式Webなどから御由緒を辿ってみます。
・大永年間(1521-1528年)に本山派修験大善院三世行源法印(大膳院)が、山城国愛宕郡御鎮座の愛宕大神を勧請したのが創祀とされます。
・文禄年間(1592-1596年)に市神・八坂・伊奈利の三神を合祀し、「愛宕牛頭天王稲荷合社」として祀られるようになりました。八坂社は京都八坂神社からの勧請と伝わります。
・明治の神仏分離により別当大善院の管理を離れ、社号を愛宕神社に改号。
・昭和20年8月の空襲により当社の社殿も灰燼に帰しましたが、戦後、八木橋デパート前にあった旧社地から現社地に移転し、社殿が再建。
・もともと現社地には宇佐稲荷神社が御鎮座されていましたが、「愛宕様が移ってくるなら少しでも広い方がよかろう」ということで、同社が境内を譲って向かいの社地に遷られたといいます。

『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「本山派修験 葛飾郡幸手不動院配下 水原山ト号ス 本尊不動ヲ安置ス 愛宕牛頭天王稲荷合社」とあります。
・社号については「愛宕八坂神社」としている資料もありますが、埼玉県神社庁資料では「愛宕神社」となっています。

〔うちわ祭について〕
・江戸中期の寛延三年(1750年)、各寺社毎に行っていた祭りを町内統一の祭りとし、天保元年(1830年)、町衆により愛宕八坂神社の神輿が製作。全町合同の神輿渡御をともなう夏の祭礼は神輿祭りとして定着し、華やかさを増しました。
・もともと、この祭りは、町内各店が客に赤飯をふるまったことで「熊谷の赤飯ふるまい」として評判となっていたところ、明治24年頃(天保年間とも)から泉屋横町の料亭「泉州楼」の主人がうちわを配りはじめ、これがさらに人気を集めて「熊谷うちわ祭」として定着したといいます。

・平成元年建替落成の本殿は入母屋造銅板葺流れ向拝で、両社併記の扁額を掲げています。鳶職とゆかりのふかい神社で、鳶組合の寄進垣も置かれています。

・御朱印は、愛宕神社、八坂神社ともに古宮神社(池上)授与所にて授与されています。

〔拝受御朱印〕
1.御朱印揮毫:愛宕神社 直書(筆書)


2.御朱印揮毫:八坂神社 直書(筆書)



■ 星河山 千手院 石上寺
熊谷市鎌倉町36
真言宗智山派
御本尊:千手観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第3番、熊谷七福神(毘沙門天)
司元別当:(宮町)高城神社(熊谷市宮町)
・「熊谷桜」で知られる寺院ですが、お寺としての公式情報は多くありません。
『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「埼玉郡上ノ村一乗院末 開山榮光 寛文十一年(1671年)寂ス 開基ハ当所ノ名主新右衛門カ先祖 竹井新左衛門尉信武ナリ 寛永十五年(1638年)九月卒ス 則開山榮光ノ父ナリトイヘリ 本尊千手観音ヲ安置ス 聖徳太子ノ作ト云伝フ座身長一尺二寸 観音堂 毘沙門堂 地蔵堂 千體佛堂。伊勢両社 鹿島社 星川池」とあります。

Wikipediaには「度重なる荒川の洪水を治めるため、熊谷を支配していた鉢形城主北条氏邦は、天正二年(1574年)松岩寺あたりから石上寺先あたりまで堤を築いた(北条堤)。現在も高所である。築堤後も堤の決壊に繰り返しみまわれ、その加護を願って堤の傍に建てられたのが石上寺である。石を積んだ上に建てられた寺という意味である。」との縁起が記載されています。

・当寺は早咲きの熊谷桜で有名です。桜の咲き駆け(早咲き)と源平合戦における熊谷直実公の先駆け(先陣)との掛詞を由来とするそうです。
・また、近年、約400本の白い曼珠沙華(ヒガンバナ)でも知られる花の寺です。

・参道階段の先に入母屋造本瓦葺の本堂。大棟に金色の鴟尾を置き、向拝の桁行五間の堂々たる伽藍です。

・御朱印は庫裡にて親切なご住職から拝受できました。山門横の掲示板に御朱印2種の見本が貼り出されていたので、御朱印に積極的なお寺様かもしれません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第3番 千手観世音菩薩(大悲殿)


2.熊谷七福神(毘沙門天)の御朱印



■ 熊野山 千形院 圓照寺
公式Web
熊谷市星川1-1
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
司元別当:千形神社(熊谷市本町)、熊野神社(高城神社境内社)

・境内掲示および公式Webによると、天禄元年(970年)僧覚榮法師の創立で、熊谷市最古の名刹のようです。
・御本尊は阿弥陀如来。不動明王は「くまがやお不動様」といわれ、全国不動霊場に名をつらねているそうです。
『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「埼玉郡下中条村常光院末 開山覚榮寂年ヲ伝ヘス 本尊彌陀ヲ安ス 住吉金比羅合社」とあります。

・熊谷の中心部、星川に面して祈願寺らしい華麗な伽藍を構えています。
・境内は広くはないですが、多くの仏像が安置され、それぞれの御前に御真言が掲げられています。

・御朱印は不動明王と聖徳皇太子の2種を授与されています。

〔拝受御朱印〕
1.不動明王の御朱印


2.聖徳皇太子の御朱印



■ 雪渓山 普門院 松巖寺(松岩寺)
公式Web
熊谷市本石1-102
臨済宗妙心寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第2番
・情報があまりとれませんが、公式Webに「慶長元年(1596年)に喜庵西堂和尚によって開創された」とあり、『新編武蔵風土記稿』の石原村の項には「東漸寺ノ末ナリ 本尊観音ヲ安セリ 開山喜庵明暦二年(1656年)十二月七日寂ス」とあるので、江戸時代前期の開山とみられます。

・山門まわりは思いっきり和風の佇まいですが本堂はかなり個性的な意匠の近代建築で、そのコントラストがなかなか強烈です。
・御朱印は庫裡にて忍秩父観音霊場のものを拝受できました。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第2番 聖観世音菩薩



■ (宮町)高城神社
公式Web 
熊谷市宮町2-93
御祭神:高皇産霊神
旧社格:県社、延喜式内社、熊谷総鎮守
元別当:星河山 千手院 石上寺(鎌倉町/真言宗智山派)
授与所:境内授与所
・奈良時代以前の創建と伝わる古社で、『延喜式神名帳』に「大里郡一座髙城神社」と記載されている式内社に比定されています。
・天正十八年(1590年)豊臣秀吉の忍城攻めの際、当社も戦火にかかり社殿を焼失。寛文十一年(1671年)に忍城主・阿部豊後守忠秋により再建されています。

・熊谷総鎮守として地域の尊崇を集め、「節分祭」「胎内くぐり」「酉の市」などが催されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:高城神社 直書(筆書)


髙城神社の御朱印帳



■ 肥塚山 成就院
熊谷市資料(PDF)
熊谷市肥塚2-6-1
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:-
司元別当:肥塚伊奈利神社(熊谷市肥塚)
・永正元年(1504年)以前に僧欽照による開山(ないし中興)と伝わり、古くは鎌倉胡桃大楽寺末であったといいます。
・「肥塚氏供養板石塔婆」があることから、肥塚氏ゆかりの寺院とみられます。「熊谷市文化財ガイドブック」(PDF)によると、熊谷氏の祖となった直季の弟直長が肥塚に住んで肥塚氏の始祖となったとのことです。
・御本尊は阿弥陀如来。脇本尊に「一光三尊(弥陀、勢至、観音)燈籠佛」(とても小さいそうです)を奉安され、こちらの御朱印も授与されています。
・燈籠佛は各種の霊験で知られ、江戸中期の忍藩主・阿部豊後守正充公も信仰したといいます。
・墓地は肥塚殿(山)と呼ばれた古墳跡とされます。

・御朱印は本堂にて拝受しましたが、1回目はご不在でした。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊 阿弥陀如来


2.脇本尊 燈籠佛



■ 熊谷山 報恩寺
公式Web
熊谷市円光2-8-1
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第1番、幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場第20番
・当地の武将、熊谷直実ゆかりの曹洞宗の名刹で、創建について公式Webはつぎのように記しています。
・熊谷直実は一ノ谷の戦いで平家の御曹司、平敦盛を討ち取たことで自責と無常を覚え、京にのぼって法然上人に入門して僧侶(法力房蓮生)となりました。
熊谷に残された家族はこれを悲しみ、直実の妻は病をえて亡くなってしまいます。
そして残された直実の息女、玉津留姫のもとに直実他界の知らせが入りました。
姫は泣き暮らした果てに、仏さまのお力にすがり両親の冥福を祈るほかないと、建暦二年(1212年)に当寺を創建しました。
その後、関東管領上杉能憲が永和四年(1378年)に再建、管領職を継いだ上杉憲方も報恩寺の復興に力を注ぎました。この両者は「中興開基」という呼び名で、現在まで大切にまつられています。
寛永元年(1624年)、上之の龍淵寺第14世萬矢大拶禅師は、あらたに曹洞宗の寺院として開山しました。

・一方、熊谷市資料には「熊谷直実の子直家が、父の没後菩提の為に浄土宗寺院として創建したものと伝わります。」とあり、「本尊は熊谷直実の娘千代鶴姫玉鶴姫の開基・守佛であり、多くの信仰を集めてきました。」という含みのある表現をしています。

・さらに『新編武蔵風土記稿』の熊谷町の項には「埼玉郡成田龍淵寺末 当寺ハ昔熊谷直実ノ子直家 父ノ没後菩提ノ為ニ起立セル浄土門ノ草庵ニテ 直実カ木像ヲ置シカ 遥ノ後東照宮此邊御遊●之時 由緒ヲ御尋ノ上新ニ熊谷寺ヲ造立セサセラレテ 当所ハ猶其マゝニテオカレシテヲ 其後又一寺ニ取立テ報恩寺ト号ストイヘリ 此説熊谷寺ノ伝ヘト同シカラス 姑両説を記シオケリ 中興開山ヲ萬室察和尚ト云(略)本尊阿彌陀ヲ安ス 佛師安阿彌カ作ト云 其余直実カ女ナリシ千代鶴玉鶴ノ守佛ナリト云 薬師ヲモ安置セリ」とあります。

・たしかに熊谷寺の由緒とは「同シカラス」内容なので、興味のある方は読み比べてみては・・・。
・いずれにしても、徳川家康公も絡んだ熊谷寺との複雑な経緯が感じられます。

・当山の伽藍神として袖引稲荷が祀られ、こちらの御由緒も玉津留姫にかかわるものです。
・熊谷直実には美貌をうたわれたふたりの息女がおりました。姉が玉津留姫、妹が千代鶴姫と伝わります。
・この袖引稲荷は、玉津留姫が内池町の菩薩院にあったお稲荷さまが荒れ果てていたのに心を痛め当山にお移ししたものとされます。
・玉津留姫が戦乱で離れ離れになっていた妹の千代鶴姫に巡り会いたいとお稲荷さまに願をかけたところ夢の中に白狐に乗られた霊神が現れ「これより京に向いて行けば願いは叶うであろう。」とお告げがあり、京に向け出立すると焼津のあたりで袖を引くように千代鶴姫に出会ったため、お稲荷さまの神通力に感激し「袖引稲荷」と呼ぶようになったと伝わります。

・伽藍神の由緒譚の主役も玉津留姫ですから、やはりこのお寺は玉津留姫との所縁がすこぶる強いものとみられます。

・御朱印は庫裡にて拝受しました。御朱印は御本尊のもののみで札所御朱印は授与されていないとのことです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釋迦牟尼佛



■ 梅籠山 久松寺 東竹院
熊谷市久下1834
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第4番、熊谷七福神(寿老人)
・源平合戦期の武将、久下次郎重光が開基、月擔承水法師が開山となり創建。深谷城主上杉三郎憲賢が中興開基し寛永十九年(1642年)に寺領三十石の御朱印拝領という名刹です。
『新編武蔵風土記稿』の久下村の項には「下総國結城孝顕寺末 古は天台宗ナリシト云 本尊釋迦 開基ハ久下次郎重光、建久七年(1196年)七月卒ス 又久下権守直光 元久元年(1204年)四月卒ス コノ直光ハ重光ト父子ノ間ナルヘケレト 東鑑ニ其コトハ見エス 直光ハ熊谷直実ノ姨母ノ夫ナリト載ス 開祖ハ月擔承水法師 安貞元年(1227年)八月示寂 中興ノ開基ハ深谷ノ城主上杉三郎憲賢ニテ永禄十一年(1568年)七月卒ス 此時ノ僧ヲ的翁文中ト云」との記載があります。

・久下氏については、熊谷市江南文化財センター資料「報告 梅籠山久松寺「東竹院」に関する歴史概要」に詳しく述べられていますが、この資料によると、「久下氏は武蔵国大里郡久下郷を名字の地とする中世武家」で、治承四年(1180)、源頼朝が挙兵すると、久下直光・重光父子は熊谷次郎直実とともに平家方で参戦した。のちに頼朝方に転じて活躍、一ノ谷の合戦などに戦功をあげ、頼朝より伊豆国玉川荘・美作国印庄・丹波国栗作郷などを与えられた。」とのことです。

・御朱印は現在、庫裡前に「御朱印不授与」の旨の掲示があり原則授与されていないそうですが、「忍秩父観音霊場」巡拝中の旨告げると、ご好意で授与いただけました。ただし、これも特例的なご対応で、霊場御朱印も原則不授与かもしれません。
・団体で御朱印の授与を求められることがあり、対応できないのでこのようなかたちにしている、とのことでした。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釋迦牟尼佛


2.忍秩父三十四観音霊場第4番 南無釋迦牟尼佛



■ 佐谷田神社 
熊谷市佐谷田310
御祭神:誉田別命
旧社格:旧佐谷田村鎮守
元別当:
旧佐谷田村八幡社:藤林山 地蔵院 永福寺(佐谷田村/新義真言宗)
旧戸出村神明社:薬師山 東福院 金錫寺(戸出村/新義真言宗)
旧平戸村他國明神社:平戸山 多寶院 超願寺(平戸村/真言宗新義)
・『埼玉の神社』によると、明治22年に佐谷田と戸出と平戸が合併して佐谷田村となり、これにともない佐谷田の八幡社に、明治40年に戸出の神明社、大正2年に平戸の他國明神社を合祀して成立した神社です。よって、『新編武蔵風土記稿』に当社の記載はありません。(平戸の他國明神社は、後に旧地に戻っています。「長崎平戸の神を祀り他国という」との口碑があるようです。)
『新編武蔵風土記稿』の佐谷田村の項には「八幡社 (佐谷田)村ノ鎮守 永福寺持」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の戸出村の項には「神明社 社領七石ノ御朱印ヲ賜ヘリ 別当金錫寺 新義真言宗」とあります。
『新編武蔵風土記稿』の平戸村の項には「他國明神社 村ノ鎮守ナリ 祭神詳ナラス 或云佳吉ヲ祀リシ社ナリト云、超願寺持」とあります。
・佐谷田の八幡社については『大里郡神社誌』に、享保七年(1722年)に宗源宣旨を受け正一位になったことや、寛政五年(1793年)に伯家に願い出て八幡宮の神号を受けた時の添え状の記載があります。

・御朱印は佐谷田神社より拝受しましたが、令和3年12月現在、佐谷田神社の本務神社は上之の上之村神社となっており、御朱印も上之村神社での授与かもしれません。(拝殿前書置きの可能性も。)

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:佐谷田神社 筆書



■ 藤井山 源宗寺
熊谷市平戸611
曹洞宗
御本尊:薬師如来 観世音菩薩
札所:忍秩父三十四観音霊場第5番
・「平戸の大ぼとけ」として知られる曹洞宗寺院です。
『新編武蔵風土記稿』の平戸村の項には「浄土宗 足立郡鴻巣宿勝願寺末 開山源宗寂年ヲ伝ヘス 開基ヲ藤井雅楽助ト云 寛永七年(1630年)六月卒ス 本尊薬師観音ノ二像ヲ安ス 共ニ開山源宗ノ作ナリト云」とあります。
・開創時は浄土宗、現在は曹洞宗なので、いずれかの時点で曹洞宗に改宗されたとみられますが、詳細は不明です。

・熊谷経済新聞(2021.12.9)の記事によると、当寺所蔵の木彫仏像坐像は高さ3.48メートルの薬師如来と、3.93メートルの観世音菩薩で、その大きさから「平戸の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれています。木造寄せ木造りの仏像としては国内最大級とされ、市有形文化財に指定されています。

・本堂は老朽化したため令和3年に再建されています。

・御朱印は忍秩父三十四観音霊場のものを東竹院にて拝受していますが、下記のとおり現在、東竹院は原則御朱印不授与なので、こちらの御朱印も拝受できるかはわかりません。

〔拝受御朱印〕
1.忍秩父三十四観音霊場第5番 南無薬師瑠璃光如来 観世音菩薩

※ 画像探索中です。


■ 上之村神社
公式Web
熊谷市上之16
御祭神:事代主命、大山祇命、大己貴命
旧社格:郷社、上之村・箱田村・池上村三村の鎮守社
元別当:伊豆国 浄慶院 久見寺(上村/新義真言宗)
授与所:境内授与所
・公式Web、境内掲示、『埼玉の神社』などによると、創祀は平安時代以前とみられ、応永年間(1394-1428年)、成田五郎家時により再興とされます。
・明治2年に現在の上之村神社に改められるまでは、「久伊豆神社」ないし「久伊豆明神社」と号し、『新編武蔵風土記稿』の上村の項には「久伊豆社」として記載されています。
・『新編武蔵風土記稿』に「祭神ハ大山祇命ニテ 伊豆國三嶋社ヲ写シ祀ルトイヘト疑フヘシ 此久伊豆社ト云ハ騎西町塙ニ大社アリテ近郷往々是ヲ勧請スレハ 当社モ恐クハ彼ヲ写セシナラン」とあり、騎西ご鎮座の久伊豆神社の総社、玉敷神社からの勧請を示唆しています。
・御祭神は、江戸期は大山祇命でしたが、明治2年、主祭神を事代主命、相殿の神を大己貴命と大山祇命に改めています。
・また、別当の久見寺客殿に久伊豆の本地十一面観音が安置されていたとあり、神仏混淆の歴史が伺われます。

・当社ご鎮座の旧上(之)村は成田郷ともいわれた名族、成田氏の本貫で、当社は成田氏の尊崇篤く、後に徳川氏の尊崇を受けたと伝わります。なお、成田・別府・奈良・玉井氏は「武州四家」と呼ばれ、いずれも中世にこの地に勢力を張った名族とされています。

・当地有数の古社だけあって厳かな境内。木造の両部鳥居は寛文四年(1664年)建造の墨書が残り、市内最古の木造鳥居として市指定有形文化財に指定されています。
・応永年間(1394-1428年)、成田左京亮家時再建の本殿は一間社流造銅板葺で県指定文化財に指定されています。

・御朱印は参拝時たまたまご神職がいらしたのでいただけましたが、常駐ではありません。(公式Webにご在社予定が出ています。)
・熊谷七福神(恵比寿天)の御朱印は通常不授与かもしれませんが、御朱印には恵比寿様のお姿印が捺されていました。

・なお、兼務社として佐谷田神社、奈良神社(中奈良)、豊布都(とよふつ)神社(上奈良)、春日神社(小島)があり、それぞれWeb上で御朱印がみつかりますが、こちらで拝受できるかは不明です。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:上之村神社 直書(筆書)



■ 大雷神社 
熊谷市上之16
御祭神:大雷神
旧社格:上之村神社の境内社
元別当:
授与所:上之村神社境内授与所
『新編武蔵風土記稿』に「末社 雷電 但馬国木田郡雷電社を勧請スト云伝フ(略)別当久見寺 客殿ニ雷電ノ本地馬頭観音を蔵ス」とあります。この地は雷の名所(?)ですが、どうしてわざわざ大雷神を但馬国(現・兵庫県)から勧請したのかはナゾです。
・上之村神社の摂社ですが、社号標、鳥居扁額ともに上之村神社と併記され、拝殿扁額も併記となっています。
・本殿は別で、こちらの本殿も県指定文化財に指定されています。
・この様な祭祀形態を配祀というか相殿というのかわかりませんが、本殿は分かれているので配祀なのかもしれません。
・「上之の雷電さま」と呼ばれ周辺住民の尊崇を集めています。利根川沿いのこのエリアはとくに雷が多く、随所で大雷神が祀られています。

・御朱印は、上之村神社境内授与所にて拝受しました。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:大雷神社 直書(筆書)



■ 太平山 龍淵寺
熊谷市上之336
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:忍秩父三十四観音霊場第8番
・名族成田家の菩提寺とされる名刹。
・境内掲示の寺伝・新編武蔵風土記稿などによると、開基は成田左京亮家時。応永十八年(1411年)和庵清順(わなんせいじゅん)大和尚により開創・開山。
・天正十九年(1591)、徳川家康公が遊猟の折に当寺へ立ち寄られ、時の住職呑雪和尚が家康公の三河時代の御乎習の御相手であったことがわかり、これを奇瑞として当寺に曹洞派の総録を許されましたが、呑雪和尚はあえてこの申し出を辞したと伝わります。
・本堂の後にあった小池は「龍ヶ淵」と呼ばれ、かつて龍が潜んでいましたが、開山の和尚清順が法力をもってこれを退けてこの地に当寺を建立したため「龍淵」を寺号としたと伝わります。

・成田氏系図をはじめ多くの文化財を蔵します。高浜虚子が当寺で詠んだ句碑も残されています。

・御朱印は庫裡にて御本尊のものを授与されています。忍観音霊場の御朱印は不授与とのことです。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 南無釈迦牟尼佛



■ 伊弉諾神社 (いざなぎじんじゃ)
熊谷市上川上36
御祭神:伊弉諾命、伊弉冉命、大日孁貴命、猿田彦命、菅原道真公
旧社格:村社、旧上川上村鎮守
元別当:
授与所:古宮神社(池上)授与所
・社伝、「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)などによると、中世、紀伊国熊野三所権現の勧請が創建で、当社、下川上の熊野社、大塚の熊野社の三社を総称して「熊野三所権現」と呼ぶとのこと。また、当社は「十二所権現」とも称されるようです。
・鎌倉期、征夷大将軍・宗尊親王が帰京した際、親王の供の平家ゆかりの宮田太郎貞明は北条氏の追及をおそれてこの地に逃れ当社の宮守りになった(『宮田氏家系図』)とされます。
・安政二年(1855)には、神祇管領から「伊弉諾神社熊野大権現」の幣帛を受けています。
・所蔵の黒馬図、相撲絵馬は市指定文化財に指定されています。

・古社にふさわしい厳かな境内。入母屋造桟瓦葺流れ向拝の端正な拝殿で、向拝には「伊弉諾神社」の扁額が掲げられています。
・御朱印は、古宮神社(熊谷市池上606)にて拝受しました。
・こちらは以前参拝し、その時は御朱印はないものと思っていましたが、いまは拝殿前に御朱印の案内が貼り出されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:伊弉諾神社 直書(筆書)



■ 古宮神社(こみやじんじゃ)
公式Web 
熊谷市池上606
御祭神:石凝姥命、少彦名命、武甕槌命
旧社格:旧池上郷総鎮守
元別当:
授与所:境内授与所
・公式Web、境内由緒書、『埼玉の神社』などによると、古代、紀伊国秋月に御鎮座の旧宮幣大社、日前国懸神宮(ひのくま・くにかかすじんぐう)を勧請して創祀と伝わり、当初は社殿はなくいわゆる「磐座(いわくら)信仰」だったとみられています。
・社殿造立は、平安末期の長寛二年(1164年)。
・祭神の石凝姥命(いしこりどめのみこと)は、天孫降臨の際に邇邇芸命に随伴し、天児屋命、太玉命、天宇受売命、玉祖命と共に天降った五伴緒の一柱とされ、天照御大神が天岩戸にお隠れになったとき、日像鏡・日矛鏡を造られた神といわれています。
・西日本で祀られる例が多く、『埼玉の神社』には「なぜ、和歌山に祀られ鏡作部の遠祖とされる同神が、この地に勧請されたか不明であるが、埼玉地方は、武蔵国の古代文化の中心地の一つであり、近くには金錯銘鉄剣で有名な埼玉古墳群があることなどを考え合わせると、当地に神部(鏡作)ゆかりの人たちが住み、当社を祀ったとも考えられる。」とあります。
・室町期の文安二年(1445年)、相殿の神として少彦名命と武甕槌命を勧請したとされるので、創祀時の主祭神は石凝姥命とみられます。
・古くは岩倉社、又は岩倉大明神とも称し、『新編武蔵風土記稿』の池上村の項には「岩倉社」として記載されています。

・境内はよく整備され、明るい雰囲気のお社です。本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で多彩な棟飾りを配し、寺院建築のエッセンスが入っているかも。

・御朱印は境内の授与所にて拝受でき、親切なご神職が兼務社の御朱印も授与されています。

〔拝受御朱印〕
御朱印揮毫:古宮神社 直書(筆書)



■ 龍智山 毘廬遮那寺 常光院
公式Web
熊谷市上中条1160
天台宗
御本尊:釈迦如来(三尊佛)
札所:関東九十一薬師霊場第38番、関東百八地蔵尊霊場第16番、関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番、武蔵国十三佛霊場第13番
・公式Webの縁起より抜粋引用させていただきます。
「長承元年(1132年)、藤原鎌足十六代目の子孫・判官藤原常光公が武蔵国司として下向し、当地に館(中條館)を構え豪族白根氏の娘を娶り中條の地名を姓として土着。常光公の孫の中條出羽守藤次家長公は、16歳で既に頼朝公の石橋山の合戦に扈従し信任が厚く、関東武士では唯一人貞永式目制定に参画、評定衆として鎌倉に住したため中條館を寺院とし、比叡山から天台の名僧金海法印を迎えて、建久三年(1192年)開基」「文禄三年(1594年)には忍城主松平忠吉(家康公四男)が成田氏建立の下忍清水の聖天院を廃して常光院へ合併」「開基以来延暦寺直末で天台宗に属し、特に梶井宮門跡(現三千院門跡)の令旨と、その御紋章『梶竪一葉紋』を下腸されて寺紋とし、徳川幕府に至り寺格は十万石、帝鑑定の間乗輿独札の待遇」
・山門には「天台宗別格本山」の木板が掲げられ、関東屈指の天台宗の名刹であることがわかります。

・境内は「中條氏舘跡」として県指定史跡に指定されています。
・本堂は元禄五年(1692年)頃の再建とされる平屋書院造茅葺きのどっしりとしたつくりで、市指定文化財です。

・「熊谷厄除大師」として知られ、4つの現役霊場の札所を兼ね、御本尊の御朱印も授与されているので計5種以上もの御朱印が拝受できますが、おのおの性格が異なる霊場のため都度の参拝の方がいいかもしれません。
なお、おのおのの札所本尊の御座所が異なるので要注意です。

〔拝受御朱印〕
1.御本尊の御朱印 釈迦如来(三尊佛)(釈迦三尊)
本堂に御座します。


2.関東九十一薬師霊場第38番 薬師如来(瑠璃光殿)
本堂御内佛で室町作とされる一尺三寸の木彫坐像です。


3.関東百八地蔵尊霊場第16番 地蔵菩薩(地蔵尊)
本堂内御厨子に安置。室町初期作とされる一尺二寸の木彫坐像の延命地蔵尊です。


4.関東三十三観音霊場 (ぼけ封じ)第28番 観世音菩薩(大悲殿)
境内に露仏として奉安されています。


5.武蔵国十三佛霊場第13番 虚空蔵菩薩(虚空蔵尊)
境内に露仏として安置されている十三佛のうち、虚空蔵菩薩が札所本尊とみられます。



■ 埼玉県熊谷市の御朱印-2(旧 熊谷市エリア-2)へつづく。



【 BGM 】
■ 夏影~Airness~ - 茶太ver


■ 春風 - Rihwa(カバー)


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