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■ 時代遅れのRock’n’Roll Band

■ 桑田佳祐 feat. 佐野元春, 世良公則, Char, 野口五郎 - 「時代遅れのRock’n’Roll Band」 (Official Audio)

本日5/23緊急配信リリースです。→プレスリリース
それぞれのヴォーカルのオリジナリティはさすが!

この5人の技倆からしたら、もっと手の込んだ楽曲やテイク、いくらでもつくれるだろ~に。
あえてシンプルで誰にもわかりやすい展開にしたような感じもする。

時代の風に合わせるため?
桑田さんの
「闇を照らす ダサいRock'nRoll Band!!」
というラス前の歌詞がみょ~に気になる。

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■ サザンオールスターズ(桑田佳祐) - 素顔で踊らせて 1981年


■ 世良公則 - 宿無し 1978年


■ 野口五郎 - 季節風 1977年


■ Char - Shinin You, Shinin Day 1976年


■ 佐野元春 - HEART BEAT(小さなカサノバと街のナイチンゲールのバラッド) 1981年


↑ 40年以上も前のこの時代にこのクオリティ。
1980年代の日本の音楽が、いまになって世界から注目を集めている理由がわかる気がする。

■ NHK-FM サウンドストリート 佐野元春(ゲスト:桑田佳祐)1983.5.16

1983年の佐野元春&桑田佳祐。
貴重すぎる収録!
21:00~ 名曲「Oh! クラウディア」
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■ 1982年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)

2021/05/13 UP

この記事、けっこうアクセスをいただいているので、この時代っぽいメジャー曲5曲(20-25)追加してみました。
コメントはあとで入れます。

しかし、これ以外にもまだまだ名曲多数あり。
1982年のわずか1年で、これだけリストできるとは・・・。
本当に洋楽の全盛期だったんだと思う。

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2021/01/16 UP

ネタがいっぱいあるので、年毎に20曲リストしてみます。
1982年版です。

1979年版
1980年版
1981年版
1982年版
1983年版

※1980年代前半は英国のエレクトロ・ポップ系グループ(ユニット)、The Human League、Culture Club、Eurythmics、Duran Duran、Soft Cell、Spandau Ballet、O.M.D、A Flock Of Seagullsなどが米国のチャートを席捲し、「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン(British Invasion)」と呼ばれた時期でしたが、これらのグループ(ユニット)については別にまとめたいと思いますので ↑ にはリストしていません。(ABCを除く。)

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2020/11/29 UP
10曲じゃ寂しいので、10曲追加して20曲にしました。
今回の追加分(11~20)は、正真正銘のシングルトップ40入りの曲です。

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2020/08/16 UP
断捨離の途中、超久しぶりに手にしてみました。
Billboard誌のチャートデータ集。
たしか日本語版はなく、オリジナルの英語版のみだったと思います。
1987年の初版で1955年からのデータです。(1955 through 1987 by Billboard Publications,Inc.)
SingleとAlbumバージョンがあって、どちらもTOP40です。



つねづね洋楽1983年ピーク説を勝手に唱えているので、このデータをもとに1982年~1983年のチャートイン曲を10曲集めてみました。
セレクト曲は筆者の好みのバイアス(ブラコン系が多い)が少なからずかかっていますが(笑)、この時期にチャートインしたことは間違いないので、時代の雰囲気は伝えているかと・・・。
日付はチャート最高位の獲得日です。


01.Let's Celebrate - Skyy
2/06/1982 / ALBUM『Skyy Line』収録

当時BCMの主流だったセルフコンテインド・グループ(Selfcontained Group)の典型的なアップチューン。
しかし、こういう曲(ALBUM)が全米TOP40入りしていたとは、いまからするととても考えられず。

02.You Don't Want Me Anymore - Steel Breeze
9/18/1982 / 16位 11Weeks

カリフォルニア州サクラメント出身のポップ・ロックユニットが放ったヒット曲で邦題は「冷たい仕打ち」。
この曲が収録された1st ALBUM『Steel Breeze』の邦題は「カリフォルニア・ブリーズ」。
典型的なウエストコーストロックで、ブライトで爽やかなサウンドが展開されている。

03.What About Me - Moving Pictures
11/27/1982 / 29位 13Weeks

'80年代初期にこのスマッシュヒットを放ったオーストラリアのポップユニット。
ALBUM曲もメロディのよさに定評があった。

04.All Of My Heart - ABC
11/20/1982 / ALBUM『The Lexicon Of Love』収録

当時英国で人気のあったニューロマンティック(New Romantic)、ファンカラティーナ(funka latina)、いずれのジャンルともとれるポジショニングのユニット。
Roxy MusicのBryan Ferryを意識していると思われるMartin Fryのボーカルはかなりとダンディで、この曲はこのジャンルでも、もっとも傑出したメロディをもっていると思う。
全英最高位を記録した「The Look Of Love」(同ALBUM収録)は、日本のディスコでもよくかかっていた。

05.Jealous Guy - Roxy Music [Live,1982]

↑と関連してRoxy Music(Bryan Ferry)の1982年当時のLIVEを・・・。
レノン追悼のために1981年にシングルカットされたカヴァーで全英シングルチャート1位、欧州各国でもチャート上位を獲得したが、なぜかBillboardデータでは見当たらない。

06.Little Red Corvette - Prince
11/27/1982 / ALBUM『1999』収録

名盤の誉れ高い『1999』からのシングルカット曲。
曲構成といいボーカルワークといい、天才ならではのなせるワザだと思う。
ビデオクリップの存在感がただごとじゃない。文句なしのカリスマアーティスト。

07.I.G.Y. - Donald Fagen
10/30/1982 / 26位 7Weeks

Donald Fagen!
こういう曲がシングルカットされて、しかもチャートインするとは・・・。

08.Love Come Down - Evelyn "Champagne" King
10/02/1982 / 17位 8Weeks

主に1980年代に活躍したBCM系シンガーで、これは1982年リリースの『Get Loose』からの最大のヒット曲。
ベースは軽めのBCMだが、どこかとんがったニュアンスはニューヨーク・ブロンクス区出身のゆえんか?

09.Just Can't Wait 'till The Night - Dazz Band
5/29/1982 / ALBUM『Keep It Live』収録

この時代、DanceとJazzを融合させた"Dazz"というジャンルがあった。
その"Dazz"を名乗ったグループのチャートインALBUM『Keep It Live』からのミディアム曲。グルーブの効いた仕上がりは典型的な"Dazz"フォーマットだと思う。

10.Mama Used To Say - Junior
4/10/1982 / 30位 3Weeks

後年さんざんカバーされることになる有名曲で、英国のBCM系シンガーJuniorのヒット曲。
微妙にラテン風味が入っていて、BCMというより当時流行っていたfunka latina(ファンカラティーナ)の範疇だと思う。

11.Tell Me Tomorrow - Smokey Robinson
2/27/1982 / 33位 5Weeks

シンコペがかったリズムが心地よいミディアム系BCM。同じ年に「Being With You」のヒットも飛ばしている。

12.I Keep Forgettin' - Michael McDonald
8/28/1982 / 4位 13Weeks

Michael McDonald最大のヒット曲。リフとキメの多い曲構成は、当時一世を風靡した。

13.Vacation - The Go-Go's
7/17/1982 / 8位 9Weeks

1980年代前半にいくつかのメガヒットを飛ばした米国のガールズバンド。
Belinda Carlisleがリードをとっていただけあって、ボーカルもレベルの高い仕上がり。

14.Circles - Atlantic Starr
5/15/1982 / 38位 3Weeks

1970年代後半から活動を開始したSelf-Contained Groupのひとつ。
これは、1982年リリースの『Brilliance』からの彼ら最大のヒット曲。
ALBUMのできは次作の『Yours Forever』(1983)がベストだと思う。

15.Sexual Healing - Marvin Gaye
11/20/1982 / 3位 15Weeks

Marvin Gaye最大にして最後のチャートイン曲。洗練感がハンパじゃない。

16.Tom Tom Club - Genius of Love
4/10/1982 / 31位 4Weeks

Talking HeadsのドラムのChris FrantzとベースのTina Weymouthによる分家的なバンド。
これは1st ALBUM『Tom Tom Club』からのヒット曲で「おしゃべり魔女」の邦題で日本でもヘビロテされていた。
後にサンプリングされまくっているので、そこから知った人も多いのでは?

17.A Penny For Your Thoughts - Tavares
11/20/1982 / 33位 9Weeks

1970年代後半から'80年代中盤にかけて名作を輩出したSelf-Contained Group。
ファルセットまじりの甘いスロー曲にはとくに定評があった。
これは1982年リリースの『New Directions』収録の'80年代の彼ら最大のヒット曲。

18.Forget Me Nots - Patrice Rushen
6/05/1982 / 23位 7Weeks

BCMの名ALBUMを多数もつ人だが、チャートイン曲は意外に少ない。これは1982年シングルカットの最大のヒット曲。

19.Making Love - Roberta Flack
4/17/1982 / 13位 11Weeks

Burt Bacharach、Bruce Roberts、Carole Bayer Sagerという豪華メンバーによってつくられた名曲で、1982年リリースの『I'm The One』収録。
Richard Tee(key)、 Lee Ritenour(g)、Neil Steubenhaus(b)、Jim Keltner(ds)、Paulinho DaCosta(per)というオールスターのバッキングで隙のない仕上がりとなっている。

20.Hard To Say I'm sorry - Chicago
11/27/1982 / 1位 18Weeks

なんじゃかじゃいわれても、やっぱり捨て音なしの名曲だと思う。
David FosterとPeter Ceteraの共作。邦題は「素直になれなくて」。

21.Centerfold - J. Geils Band


22.Faithfully - Journey


23.Nightbirds - Shakatak


24.A Night To Remember - Shalamar ( 1982 LIVE )


25.Can't Take My Eyes Off You(君の瞳に恋してる) - Boys Town Gang


25.Can't Take My Eyes Off You (Original Extended Version) - Boys Town Gang



〔関連記事〕
■ 洋楽1983年ピーク説
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5


〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ 第23番 日金山 東光寺(とうこうじ)
公式Web
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市観光ガイド
熱海市伊豆山968
真言宗
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:駿河一国観音霊場(駿河三十三観音)番外、駿豆両国横道三十三観音霊場番外
授与所:第24番般若院にて授与



第23番の日金山 東光寺からは東伊豆に入ります。

伊豆山は古来からの神仏混淆の霊地で、こちらにあるふたつの札所(第23番日金山 東光寺、第24番走湯山 般若院)は、いずれもただならぬ縁起由緒をもたれます。

膨大な情報がありしかも錯綜気味なので、主に山内掲示、『豆州志稿』『走湯山縁起』にもとづきまとめてみます。
なお、この両札所は令和3年7月伊豆山土砂災害の被災地に近く、以前と状況が変わっているかもしれません。

応神天皇二年(271年)、伊豆山の浜辺(大磯町唐ヶ浜とも)に、光りを放つ不思議な円鏡が現れて波間を飛び交い、やがて西の峰に飛んでいきました。それはさながら日輪のようで、西の峰は火を吹き上たように見えたので「日が峰」と呼ばれ、いつしか「日金山」と呼ぶようになりました。

応神天皇四年(273年)、松葉仙人(勧請仙人)がこの不思議な鏡を崇め奉り、社殿を造立して祀ったのが開山と伝わります。

現地掲示『伊豆開山の三仙人』によると、仁徳天皇七十一年(383年)巨樹の空洞から蘭脱仙人(木生仙人)が出現され災害や疫病を鎮めて霊験をあらわし伊豆辺路(伊豆半島一周の修行路)を開かれました。
敏達天皇四年(575年)、大地震とともに金地仙人が出現され、高麗伝来の国書を読み解かれたといいます。

三仙人の廟所とされる石塔は、文化十年(1813年)頃、般若院別当・周道によって造成されたと伝わり、東光寺の奥に祀られています。
同掲示には「仙人開山の伝承は、仏教公伝(538年説が有力とされる)以前から伊豆山が神仙の鎮まる霊場であったことを主張しているのであろう。」と記されています。

同掲示によると、平安時代、初めて富士登山に成功(富士禅定)し富士修験の開祖とされる末代上人(1103年-)は走湯山の出身で、伊豆・箱根二所権現をも草創され、焔熱で地獄の様相を示していた熱海の衆生を救うため、日金山に地蔵菩薩を安置したとあります。
末代上人が開いた富士登山道は村山口と呼ばれ、末代上人は没後村山浅間社の境内に大棟梁権現として祀られるとともに、村山の地は代々走湯山領として存続したとされ、走湯山と富士山のつながりがうかがわれます。
『走湯権現当峰辺路本縁起集』でも、伊豆山と富士山を両界曼荼羅の入口と出口に位置づけており、往古より両山一体の修験道場と考えられていたという説があります。

また、推古天皇の世(594年)、「走湯権現」の神号を賜り、承和三年(836年)には甲斐國の僧、賢安が日金山本宮から神霊を現在の伊豆山神社のある地に遷したといわれています。(走湯山縁起云云)
源頼朝公の尊崇篤く、御本尊の延命地蔵菩薩像は頼朝公の建立によるとされます。
(頼朝公は、走湯権現、箱根権現を篤く尊崇し、鎌倉将軍家としても奉幣しました(二所奉幣)。)

さて、『豆州志稿』です。
「伊豆山村日金山 今称日金地蔵堂 往昔延喜式内火牟須比命神社(今伊豆山神社)鎮座ノ地也 伝云松葉仙人ナル者始テ此ニ奉祠スト寺後ニ其墳墓アリ 地蔵ヲ祀ル」(地蔵ノ銅像ヲ安ス 貞享(1684-1688)中般若院ノ僧聖算造ル所也(略)粟田口東光寺ノ善祐僧此辺ニサマヨヒ歩キテ住ナレシ 舊院ノユカシサニ 假初ノ庵ヲ繕ヒ現在ノ迷妄ヲ果シ将来ノ快楽ヲ願ヒテ此佛像ヲ据置侍リシニヤト 東光ノ寺名同ク寺ヲ建シ事至テ古シト云伝フレハ 此説是トスベシ 其後源頼朝堂宇ホ再建シ寺領ヲ附セリト云 七坊アリ今四坊存ス皆妻帯僧也 新編鎌倉志曰松源寺ハ日金山ト号ス 本尊ハ地蔵也 頼朝卿伊豆ニ配流ノ時伊豆ノ日金ニ祈テ 我世ニ出デナバ必地蔵ヲ勧請セント約セシ故玆ニ移スト 北條盛衰記ニ日金山ノ麓ニテ朝比奈弥太郎鬼ニ遇フ事ヲ記ス 世俗死者ノ霊魂日金地蔵ノ許ニ至ルト云(略)寺前ニ閻王及生死河婆ノ石像アリ古色●スベシ」とあります。

『豆州志稿』には「往昔延喜式内火牟須比命神社(今伊豆山神社)鎮座ノ地也」とあり、東光寺の山内が当初の伊豆山神社御鎮座の地であったことを示しています。
草創については、松葉仙人によるもの、粟田口東光寺ノ善祐僧によるものの二説を伝えています。

また、『豆州志稿』の「伊豆権現」(伊豆山神社)の項には「往古日金峰ニ鎮座スト云 日金は火ガ峰ノ義ニシテ此神鎮座ヨリ起レル称呼ナル可シ 其後山上ヨリ牟須夫(ムスブノ)峰ニ遷ス 牟須夫ノ称ハ神名ノ遺レルナラム 今之ヲ本宮ト云 次ニ現地ニ移シテ新宮ト称ス 然ルニ山上舊址ニ小祠在リシヲ又遷シテ新宮ノ摂社ト為シ雷電権現或ハ若宮ト称ス(略)現今日金峰ノ舊址ニ日金地蔵堂アリ 伊豆山ノ地名モ日金峰移ヨリセルニテ 日金峰ヲ往古伊豆ノ多可禰ト称ス」とあります。

「日金山」を十国峠とみる説もあります。
十国峠と東光寺はアプローチが異なるのでずいぶんと離れているイメージがありますが、じっさいは東光寺から十国峠まではひと登りで、この一帯が「日金山」とされていたものと思われます。

『豆州志稿』の内容を整理すると、「伊豆権現」(伊豆山神社)は往古は日金山に御鎮座で、のちに牟須夫峰(現在の伊豆山神社本宮社)に御遷座され、ここから現・伊豆山神社の社地に「新宮」として遷られたということになります。

源頼朝公との所縁は、公が御本尊の延命地蔵菩薩像を建立されたこと、日金山に出世を祈願され、成就のあかつきには地蔵尊建立の願をかけ、鎌倉松源寺に地蔵尊を勧請されたことなどが伝わります。

松源寺については、『新編鎌倉志』に記載があります。
「松源寺は日金山と号す。銕観音の西、巌窟堂の山の中壇にあり、本尊は地蔵、運慶が作。相伝ふ、頼朝卿、伊豆に配流の時、伊豆日金に祈て、我世に出ば必ず地蔵を勧請せんと約せし故に、こゝに移すと云ふ。」

現在の巌窟不動尊(不動茶屋・鎌倉市雪ノ下/横大路)の東側にあった松源寺は明治初期に廃寺となり、現在松源寺の御本尊であった日金地蔵尊は、横須賀市武の松得山 東漸寺に遷られて、鎌倉二十四地蔵霊場唯一の鎌倉市外の札所となっています。

『こころの旅』には、「鎌倉時代から室町時代にかけて、この寺には七つの子坊があったが、江戸時代には道正坊、源秀坊、箱根坊、相模坊、土沢坊の五坊になり、現在は道正坊だけが残っている。」とあります。
また、『霊場めぐり』によると、昔日、箱根伊豆両権現の参詣が盛んな頃は経由地に当たっていたため殷賑を極めたそうで、箱根伊豆両権現詣と連動した修験系の一大聖地であった可能性があります。

古来、駿豆地方の死者は日金山に登るため、彼岸に日金山に行くと会いたい人の姿を目にすることができるとされ、お彼岸に先祖供養のため登拝するならわしがあります。
また、朝比奈弥太郎が鬼と出会った地という伝説も残り、伊豆屈指のパワスポとして知られています。

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日金山の成り立ちから考えると、東光寺の表参道は伊豆山や湯河原などからの登山ルートと思われます。
じっさい、日金山中には多くの石仏が遺され、湯河原から登る「石仏ハイキングコース」が設定されています。
また、伊豆山神社から本宮、岩戸山を経て東光寺に至る「岩戸山ハイキングコース」もあります。

車でのアプローチは熱海峠からになりますが、距離は短いもののかなりの悪路で神経を使います。

暗い山道をトラバース気味に抜けて山上の広場に出ると、ここはもう東光寺の山内です。
箱根から伊豆にかけての尾根筋は明るい草原が多いですが、このあたりは木々がうっそうと茂っています。
伊豆有数のパワスポということもあってか、霊気あふれる山内です。

こちらはどうも山内の様子をあれこれレポするようなお寺さまではないような気がします。
公式Webをご参照願います。

なお、御本尊の地蔵菩薩は「銅造延命地蔵菩薩像及脇童子造」として、熱海市の指定文化財となっています。
像高324センチの半跏造で、錫杖、宝珠を持たれ反花蓮華座、輪光輪のおすがたとのこと。

御朱印は通常は無住のようで、第24番般若院で拝受できますが、非巡拝者が御朱印帳に授与いただけるかは不明です。


〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 日金地蔵尊 /主印はいずれも地蔵菩薩の種子「カ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第24番 走湯山 般若院(はんにゃいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市伊豆山371-1
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:熱海三弘法大師霊場第3番、熱海六観音霊場第6番
授与所:庫裡



伊豆山にある真言宗の名刹。
伊豆山権現(伊豆山神社)の別当坊であった走湯山 東明寺が前身で、徳川家の厚い崇敬を受け、院号の「般若院」は徳川家康公による命名とされています。

弘法大師との所縁がふかく、大師堂には弘法大師自ら刻まれたとされる等身大の大師像が安置されているそうです。

「明治の神仏分離によって伊豆山神社内から現在地に移った」とされています。
神仏習合の権現社では世俗にかかる対応は別当が担っていた例があり、伊豆山権現にかかわる頼朝公や北条政子の逸話の舞台は、あるいは東明寺(般若院)であったのかもしれません。
「鎌倉殿の13人」で北条政子らが伊豆山(権現)で掃除する場面が出てきましたが、その舞台は東明寺(般若院)あるいはその支坊であった可能性があります。

長瀞の寶登山神社と別当・玉泉寺は神仏習合がよく遺っている例(→ 寶登山神社公式Web)とされ、じっさい参拝してみると、素人目にはどこが神社とお寺の境界か、皆目わからない感じがあります。
往年の伊豆山権現もこのようなかたちであったと思われます。

「権現」とは”仮に示現すること”をあらわし、仏や菩薩が衆生利益のために仮に(権現として)あらわれることをいいます。
『神仏習合の歴史探訪』(川口謙二氏・東京美術刊)によると「神号に権現と付すのは『最勝王経』に『世尊金剛体、権現現於化身』とあることから出たとされている。」とのことで、いわゆる「本地垂迹(ほんちすいじゃく)論」にもとづくものです。
別当は一山(山内の諸寺諸社)の寺務を意味し、のちに神社(権現社)の事(寺)務を職掌する寺院ないしその長官の意になりました。
また、別当(寺)や神宮寺で仏事を行う僧を、社僧、供僧などと呼びました。
よく、神社とお寺の区別で鳥居、狛犬、墓地の有無などがいわれますが、例外はたくさんあります。
もともと江戸時代までは神仏習合があたりまえの考えだったので、その名残りはいくらも遺っているということかと。

〔 関連記事 〕
■ 御朱印帳の使い分け

伊豆山権現の別当実務は東明寺の支院である密厳院が担っていたという説があり、じっさい伊豆山権現関連の文書には「密厳院」の名がよく出てきます。

般若院(東明寺)の草創は定かではありませんが、平安時代に伊豆山権現法学のために建てられた観音堂が草創という説があります。
『吾妻鏡』によると、治承四年(1180年)、頼朝公は挙兵を前に伊豆山権現の覚淵を北条邸に呼び、法華経千回誦ができなくなったことにつき相談しています。
覚淵が創建したのが東明寺の支院、密厳院ともいわれます。
 
密厳院は天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで北条方についたため攻められて全山焼亡しましたが、その後東明寺には家康公は高野山の僧快運を招聘して中興開山とし、「般若院」の院号を与え、戦火で荒廃した伊豆山権現の復興にあたったとされます。(『こころの旅』)

『こころの旅』には、「伊豆山権現の御法楽のため、承和三年(836年)僧賢安が千手観音をまつる堂宇を創建したのが始まりと伝えられる。」とあります。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「伊豆山村 紀州高野山金剛峯寺末 本尊不動 古ハ密厳院東明寺ト云(略)創立年代不詳弘仁(810年-824年)中僧空海此地ニ留錫シ 承和(834-848年)中甲州僧賢安亦来住スト云 今僧桓舜(天喜五年(1057年)寂)ヲ中興開山ト称ス(略)古来伊豆権現(今県社伊豆山神社)ノ別当也 往昔ハ頗大刹ニシテ巨多ノ支坊ヲ有シ(略)三千八百ノ支坊ヲ領シタリト云 僧徒常ニ群衆シタリキ 明治維新ノ初 別当職ヲ解キ同村成就坊ヲ併セテ境内ニ移転ス 従来古義真言宗関東五刹ノ一ト称ス 院内ニ護摩堂清瀧権現祠(主ハ即唐土清瀧寺ノ伽藍神ニシテ空海ノ持来ル所也 祈雨則應アリト云)アリ 又古佛数十躯ヲ蔵ム 供僧十二坊 眞乗。福壽。本地。善満。寶蔵。泉蔵。定蔵。圓蔵。行學。日下。常心。岸坊。ト云 山伏七坊 圓光。西蔵。寶珠。歓喜。常福。定光。圓秀。ト云 承仕四戸倶ニ伊豆権現ニ奉仕ス 明治ノ初皆廃ス 甞テ(かつて)源頼朝及夫人平政子当山二寄寓ス(略)足利尊氏ノ子竹若当院ニ居住ス」 

これによると、密厳院は東明寺の支院ではなく、東明寺の院号であった可能性があります。
支坊3,800というものすごい規模感で、徳川家の尊崇を受け「古義真言宗関東五刹ノ一」とされていたことからも、伊豆有数の名刹であったことがうかがわれます。

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伊豆山の南側の高台にあります。
山門は谷側でここから参道階段を登りますが、駐車場は高台の庫裡横にあります。
ここからは相模湾を間近に見下ろせます。
海とのかかわりふかい伊豆八十八ヶ所霊場ですが、ここまでは中伊豆だったので、ここ第24番ではじめて海を間近に見ることになります。

駐車場のそばに眺めのよい足湯があります。
すぐお隣りにあった、温泉マニアのあいだで「伝説の名湯」として知られる共同浴場「般若院浴場」は2005年4月に閉鎖されてしまいましたが、これと同じ源泉を使っているとみられます。


【写真 上(左)】 足湯
【写真 下(右)】 ありし日の「般若院浴場」

■ 伊豆山温泉 「般若院浴場」の入湯レポ

ちなみに伊豆山温泉は、すばらしい泉質が味わえる伊豆屈指の名湯です。
詳細については、こちら→〔 温泉地巡り 〕 伊豆山温泉をご覧くださいませ。

駐車場から庫裡経由でいくと、堂宇裏をまわりこむかたちで全容がわかりにくいので、一旦道路沿いに山門までくだってここからのお参りをおすすめします。

山門は両側に石標で、右が山号院号標、左が「弘法大師霊場」の石標。
さすがに温泉のメッカ伊豆山。さりげに参道脇に温泉櫓があります。

階段をのぼりきると正面に重厚感あふれる本堂。
入母屋造で大がかりな唐破風向拝、水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
正面桟唐戸の上に「走湯山」の山号扁額。さすがに名刹らしいたたずまいを見せています。
本堂に安置の「木造伊豆山権現立像」は鎌倉時代の作で伊豆山権現にあったものとされ、国の重要文化財に指定されています。

本堂に相対す鐘楼よこには修行大師像。

本堂向かって左手の高みに大師堂。お大師さま自らが厄除けのため刻まれたとされる等身大のお像が安置されているそうです。
入母屋造流れ向拝で、水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻。
正面桟唐戸の上には「弘法大師」の扁額が掲げられています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも阿弥陀如来の種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 伊豆山温泉 「伊豆山浜浴場」の入湯レポ
■ 伊豆山温泉(走り湯) 「偕楽園」の入湯レポ


■ 第25番 護国山 興禅寺(こうぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市桜木町5-8
臨済宗妙心寺派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:熱海三弘法大師霊場第2番、熱海六観音霊場第2番
授与所:庫裡



熱海市街には御朱印をいただける寺院がけっこうありますが、伊豆八十八ヶ所の札所はこちらだけです。
■ 熱海温泉&湯河原温泉周辺の御朱印

境内説明板には「開山は微妙大師藤原藤房卿で暦應四年(1341年)の創建」とあります。
巡拝ガイド類によると、暦應四年(1341年)、藤原藤房卿が祝髪して授翁を名乗られこの地で創建。
御本尊の十一面観世音菩薩は、授翁禅師の護身仏と伝わります。

藤原藤房卿は万里小路藤房ともいい、後醍醐天皇に近侍して討幕計画に参画した公卿です。
江戸時代の儒学者安東省菴が、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えたほど帝に貢献したと伝わります。官位は正二位中納言。

元弘の変で天皇を奉じ笠置山に逃れるも北条方に捕らえられ、元弘二年(1332年)下総国(常陸国藤沢城とも)に流されたといいます。

元弘三年(1333年)、後醍醐帝の建武の新政により京に戻られ、新政権の要職に就いたものの、突如、世を儚んで京の岩倉に隠れたのち出家され、行方知れずとなりました。
天皇の忠臣で、高貴の身でありながら突如出家・行方知れずとなったことから、各地に藤房卿所縁の伝承が残ります。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「海岸山 興禅寺 熱海村 西京妙心寺末 本尊十一面観世音 推妙心寺二世敕謚神光寂照禅師為初祖 禅師即藤原藤房卿也 明治十二年更ニ圓鑑國師ノ号ヲ敕賜ス 妙心寺伝誦ス 従二位藤原藤房卿遁世薙染シ開山國師ノ衣鉢ヲ伝フ 無幾シテ又寺ヲ棄テヽ漫遊シ不知所終ト 興禅寺ニテ相伝フ 授翁ト云僧熱海ニ至リ温泉ニ浴ス 村人其徳ニ懐キ為ニ温泉寺ヲ構造シテ之ニ居ラシム 又興禅寺ヲ創メコレカ祖ト為ル ソレヨリ東ニ赴クト(略)天授授翁宗弼禅師嗣開山 姓藤氏勧修寺大臣家花族也(略)授翁ハ即藤房卿出世ノ号ナル事ヲ 増鑑ニ天皇隠岐ノ島ニ流サレ玉フ時 萬里小路中納言藤房ハ常陸國ヘ遣ハサル 季房宰相モカシラオロシタリシカドナホ 下野國ヘ流サルト按スルニ 季房ハ失ハレ藤房ハ帰リ上ル事ヲ記セリ 弟季房薦福ノ為ナトニ下野ニ下リシニヤ 只憾ラクハ興禅寺今都テ舊記ノ依據スベキナシ 寛永(1624-1645年)中雲居禅師来住ス 之ヲ中興トス 本尊長三寸八分開祖ノ護念佛ナリト云 又雲居ノ自賛ノ画像ヲ蔵ス 梵鐘ハ寛永十年(1633年)藤堂和泉守高次ノ寄附也」 

『豆州志稿』は、授翁禅師(藤原藤房卿)が熱海の地で当寺と温泉寺を開創と伝えていますが、「只憾ラクハ興禅寺今都テ舊記ノ依據スベキナシ」と旧記なきことを惜しんでいます。
また、当初の山号は海岸山であったようです。

中世の一時期荒廃しましたが、寛永年間(1624-1645年)雲居禅師が来住されて中興を果たしました。

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熱海市街南側の高台にあります。
歓楽色のつよい熱海の街並みも、このあたりまでくるとさすがに落ち着きをみせています。

参道階段の上に切妻屋根瓦葺の豪壮な薬医門。門柱右に寺号、左に伊豆八十八ヶ所の札所板、見上げに山号扁額を掲げています。
門扉には下り藤紋が掲げられていますが、こちらは藤房卿ゆかりのものでしょうか。

山門をくぐるとすぐに本堂。
銅板葺。露盤に相輪を立ち上げる宝形造にも思えますが、それにしては桁行きがあり、寄棟造かもしれません。
向拝柱はなく正面鉄扉のうえに扁額を掲げていますが、筆者は不勉強につき解読できません ^^;)

御本尊の十一面観世音菩薩は授翁禅師の護身仏と伝わり、境内掲示には「当寺は創建の因縁により十一面観世音菩薩をおまつりしてあります。」との説明。



本堂向かって右手に諸仏が御座し、「興禅寺南無金剛當り不動尊」は高く迦楼羅炎を背負われ、右手には龍王が巻き付いた倶利伽羅剣を掲げ、盤石に趺坐して御座す迫力のお不動さまです。
諸仏のおくには半僧坊大権現のお堂。堂前の縁起書によると「創立時に遠州奥山方廣寺派大本山の方廣寺の守護神半僧坊大権現の分霊が奉祀されて興禅寺の守護神となり給う鎮座す」とのことです。

枝垂桜で知られる寺院で、以前は天然記念物の金木犀(キンモクセイ)がありましたが枯死してしまい、現在は二代目とのこと。
かつての金木犀の巨木は、花時には花の香りが熱海の沖合を通る船まで届いて灯台の役目を果たしていたという風流な逸話が伝わります。

御朱印は境内左手の庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩 /主印は「興禅寺南無金剛當り不動」の印で、いささか変わった様式です。御朱印朱印帳Vers.には半僧坊大権現の羽団扇紋の印も捺されています。
 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


熱海温泉の温泉レポはけっこうあります。
こちらをご覧くださいませ。


伊豆東海岸に入ると札所間の距離が急に長くなります。
熱海市街を過ぎて稲取までは、伊豆多賀、網代、宇佐美、伊東、川奈・富戸、城ヶ島・対馬、赤沢、大川、北川、熱川、片瀬、白田と名だたる温泉地がつづきますが、この間、伊豆八十八ヶ所の札所はわずか6を数えるのみです。

巡拝途中にはこれらの温泉に泊まることになりますが、札所が少ないので泊数も少なくなり、その少ない宿泊をどの温泉宿にとるかというのも、この霊場の楽しみのひとつです。
(ただし温泉好きがトライした場合、名湯群を横目に先を急ぐので心理的にはかなりきびしいものあり。東伊豆で不用意に立ち寄り湯トラップにはまったりすると、その先の南伊豆で時間切れ必至となるので要注意です(笑))


■ 第26番 根越山 長谷寺(ちょうこくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
熱海市網代542
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
鎮守:秋葉山三天坊
他札所:-
授与所:庫裡ないし善修院(熱海市網代490-1)



ひもので有名な網代にある、伊豆の海と所縁のふかい寺院です。

行基上人(668-749年)が網代の浜、屏風ヶ岩で修行されていたとき、浜に漂着した霊木をみつけました。
上人はこの霊木が、大和の長谷観音像を彫した木の末木であることを知り、観音像を彫り、洞窟の中に安置して立ち去られたといいます。

里人たちはこの観音像を年久しく信奉し、この洞窟を”観音窟”と称し、海に働く人々は”観音山”と呼んで崇めていたところ、大永元年(1521年)、善修院開山の大祝和尚がいまの地に移し、地名(根越)を山号とし、長谷寺と号したと伝わります。
この観音像は、奈良・鎌倉の長谷観音とともに「一本三体観音」とされる由緒あるお像です。

古くは真言宗の寺で、堂内には弘法大師のお像が安置され、庭には高さ五尺幅六尺程の石面に、弘法大師の爪彫りという阿弥陀如来の線画があるそうです。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「網代村 網代村善修院末 本尊聖観世音 大永(1521-1528年)中、善修院開山大祝創立ス 本寺(善修院)ノ奥ノ院也 本尊観世音ハ元本(網代)村屏風ノ南岩窟ニ在リキ 大祝茲(ここ)ニ移ス 世俗穴観音ト云」

いまは木々がうっそうと茂っていますが、『霊場めぐり』には「根越山の中腹にある南東に開けた谷あいで伊豆の海に面し、目前には初島を始めとし、伊豆大島、伊東の岬、また遠くに房総半島の山を一望する静かな景勝の地である。」と記されています。

その昔、境内に燈明松、立燈松という二本の古松があり、風雨暗夜で陸地がわからないとき、船人たちが御本尊の名号を唱えるとたちまち二本の松に火が上り、船は無事港に入ることができたといいます。

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山内には石造の観音像群や、熱海俳壇の祖・東海呑吐(無壁庵)の句碑があります。

~ 散る時ははてしれなくて秋の月 ~ 東海吞吐

〔 観世音菩薩像三十三体 修復記念碑 〕
「往時網代の郷は 伊豆の一寒村にて小漁港にすぎず 住民は平和な明け暮れを過ごしていた 江戸は徳川氏の開府により人口が密集し 物資の消費は膨大となり 全国からの舟航により集荷され 網代の港はその寄港地として また避難港としてにぎわい 一時は『京 大阪 江戸 網代』とまで呼称されるに至った 当時 網代に寄港した船舶の船主 船頭等相寄って 本観世音菩薩像三十三体を建立し 海上安全と豊漁とを祈願した しかるに明治以降 文明開化によって帆船は蒸気船に替わり 網代の港もその使命を終え」 いつしか本菩薩像の存在も 時代の推移とともに忘却され 荒廃するに任された ここにおいて 網代漁業株式会社これを惜しみ 往時を懐古するとともに 海上の安全と大漁とを祈念して 本仏像を修復し 記念碑をこの地に建つ」

〔 熱海市指定文化財 彫刻 石像三十三所供養観音像 / 熱海市教育委員会 〕
「この石仏群は、三尊仏・三十三所供養観音(聖・千手・十一面・如意輪・馬頭・准胝観音等)仏像、供養塔等、一揃いの珍しい野仏である。江戸時代に網代が津(港)として栄えた頃 観音信仰をする地元民により建立されたものである。供養塔に「寛政」・「嘉永」の刻銘がある。」

また、山内の少し北側には、江戸城増修築のための石丁場跡があります。

〔 江戸城増修築のための石丁場跡 〕
徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる慶長十一年(1606年)より寛永十三年(1636年)にかけて江戸城の大規模な増修築をはかった際、諸国の大名に命じて城郭の分担箇所の工事を督励するとともに、伊豆の国より石材の運搬に当たらせた。石材の採掘は相模の国の真鶴から伊豆の稲取にかけて行われたが、当時大名が義務として提供する石の割当ては、十万石につき100人持ちの石1020玉ずつであったことから九端帆石船3000艘も伊豆と江戸の間を月2回ずつ往復したといわれている。(以下略)


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東京方面からだと、国道135号、立岩(網代)トンネルを抜けた少し先を鋭角に右折して山内に入ります。寺号標は建っていますが、角度的にブラインドで気づきにくいです。
また、ナビによってはとんでもないルートを案内されるので要注意です。

 

急坂を登り、さらに急な石段参道を登ると正面に寺号扁額を掲げた山門。複雑な意匠でつくりは不明です。
山門をくぐると視界が広がり、正面に山を背負った本堂、右手には太子堂などの堂宇がならびます。
山内掲示によると、この太子堂は工芸技芸の祖として尊崇される聖徳太子の遺徳を偲び、網代職工組合にて大正12年建立されたものとのこと。


【写真 上(左)】 太子堂
【写真 下(右)】 本堂

曹洞宗寺院ですが、山内は木々が生い茂り、多くの石仏がならんで修験的な雰囲気も感じられます。伊豆にはこの長谷寺のように、もと密寺でのちに禅寺となった寺院が少なくないですが、いずれも独特な雰囲気をまとっています。

本堂はおそらく宝形造とみられ、棟の頂部に露盤、伏鉢、宝珠を置いています。
本瓦葺の重厚な構えで、朱塗りの向拝柱や欄干が意匠的によく効いています。
建物は比較的新しいものと思われますが、木端や中備えの彫刻は古色を帯び、これは旧堂宇からの移設かもしれません。



向拝見上げに寺号扁額。
向拝扉は1度目の参拝では閉扉、2度目は開いていました。開扉時でも御内陣は暗く、詳細をうかがうことはできません。

御朱印は、庫裡にどなたかおられる場合にはこちらで拝受、ご不在の場合はすこし離れた善修院(熱海市網代490-1)での拝受となります。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳(長谷寺庫裡にて拝受)
【写真 下(右)】 御朱印帳(善修院にて拝受)

■ 南熱海網代温泉 「竹林庵みずの」の入湯レポ
■ あじろ温泉「平鶴」の入湯レポ


■ 第27番 稲荷山 東林寺(とうりんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆・伊東観光ガイド
伊東市馬場町2-2-19
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩(阿弥陀三尊とも)
札所本尊:地蔵菩薩
司元別当:葛見神社(伊東市馬場町)
他札所:伊豆二十一ヶ所霊場第17番、伊豆伊東六阿弥陀霊場第2番、伊東温泉七福神(布袋尊)
授与所:庫裡

ここから伊東市内に入ります。
伊東は寺院メインの伊東温泉七福神が設定されているほど寺院の多いところですが、伊東市内の伊豆八十八ヶ所の札所はわずかに2つしかありません。

こちらは伊東の名族、伊東氏所縁の名刹です。
久安年間(1145-1150年)、真言宗寺院として開かれ久遠寺と号しました。

藤原南家の流れとされる工藤氏は、平安時代から鎌倉時代にかけて東伊豆で勢力を張り、
当初は久須見氏(大見・宇佐見・伊東などからなる久須見荘の領主)を称したともいいますが、のちに伊東氏、河津氏、狩野氏など地名を苗字とするようになりました。

東伊豆における工藤(久須見)氏の流れは諸説あるようですが、これがはっきりしないと東林寺の縁起や『曽我物語』の経緯がわかりません。
いささか長くなりますが整理してみます。

工藤(久須見)祐隆は、嫡子の祐家が早世したため、実子(義理の外孫とも)の祐継を後継とし伊東氏を名乗らせました。(伊東祐継)
他方、摘孫の祐親も養子とし、河津氏を名乗らせました。(河津祐親)

伊東祐継は、嫡男・金石(のちの工藤祐経)の後見を河津祐親に託し、祐親は河津荘から伊東荘に移って伊東祐親と改め、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせました。
(河津祐親→伊東祐親)

一方、工藤祐経は伊東祐親の娘・万劫御前を妻とした後に上洛し、平重盛に仕えました。

工藤(久須見)氏は東国の親平家方として平清盛からの信頼厚く、伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝公の監視役を任されました。

娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸をもうけたことを知った祐親は激怒し千鶴丸を殺害、さらに頼朝公の殺害をも図ったとされます。
このとき、頼朝公の乳母・比企尼と、その三女を妻としていた次男の祐清が危機を頼朝公に知らせ、頼朝公は伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得たといいます。

なお、北条時政の正室は伊東祐親の娘で、鎌倉幕府第二代執権・北条義時は祐親の孫にあたるので、鎌倉幕府における伊東祐親の存在はすこぶる大きなものがあったとみられます。

工藤祐経の上洛後、伊東祐親は伊東荘の所領を独占し、伊東荘を奪われた工藤祐経は都で訴訟を繰り返すものの効せず、さらに伊東祐親は娘の万劫を壻・工藤祐経から取り戻して土肥遠平へ嫁がせたため、所領も妻も奪われた祐経はこれをふかく恨みました。

安元二年(1176年)、奥野の狩りが催された折、河津祐泰(祐親の嫡子)と俣野五郎の相撲で祐泰が勝ちましたが、その帰途、赤沢山の椎の木三本というところで工藤祐経の郎党、大見小藤太、八幡三郎の遠矢にかかり河津祐泰は落馬して息絶えました。
祐親もこのとき襲われたものの離脱して難をのがれました。

伊東祐親は、嫡子河津祐泰の菩提を弔うため当寺に入って出家、自らの法名(東林院殿寂心入道)から東林寺に寺号を改めたといいます。

治承四年(1180年)頼朝公が挙兵すると、伊東祐親は大庭景親らと協力して石橋山の戦いでこれを撃破しました。
しかし頼朝公が坂東を制圧したのちは追われる身となり、富士川の戦いの後に捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられ、義澄の助命嘆願により命を赦されたものの、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」といい、養和二年(1182年)2月、自害して果てたとされます。
以後、東林寺は伊東家累代の菩提寺となりました。
また、伊東氏の尊崇篤い葛見神社の別当もつとめられていました。

河津祐泰の妻は、5歳の十郎(祐成)、3歳の五郎(時致)を連れて曾我祐信と再婚。
建久四年(1193年)5月、祐成・時致の曾我兄弟は、富士の巻狩りで父(河津祐泰)の仇である工藤祐経を討った後に討死し、この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることとなりました。

祐泰の末子は祐泰の弟祐清の妻(比企尼の三女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していましたが曾我兄弟の仇討ちの後、これに連座して鎌倉・甘縄で自害しています。
(なお、平賀氏は清和(河内)源氏義光流の信濃源氏の名族で、源氏御門葉、御家人筆頭として鎌倉幕府草創期に隆盛を誇りました。
この時期の当主は平賀義信とその子惟義で、惟義は一時期近畿6ヶ国の守護を任されましたが、以降は執権北条氏に圧され、惟義の後を継いだ惟信は、承久三年(1221年)の承久の乱で京方に付き平賀氏は没落しました。)

工藤祐経の子・祐時は伊東氏を称し、日向国の伊東氏はその子孫とされています。

天文七年(1538年)に長源寺三世圓芝春徳大和尚が曹洞宗に改宗しています。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「岡村 田方郡中長源寺末 本尊地蔵 大永(1521-1528年)中、善修院開山大祝創立ス 本寺(善修院)ノ奥ノ院也 初久遠寺ト称スト云 相伝フ伊東祐親建ツト 祐親東林院寂心ト称ス法謚ス 祐親寿永二年(1182年)2月15日鎌倉ニ於テ死ヲ賜ル 当村其居住ノ地也(略)圓芝和尚永禄九年(1566年)帰寂今開祖トス コレ必改宗ノ祖也 元真言宗也 曾我勲功記曰 伊東家継ノ後 妻玉江終ニ空クナリニケリ 即菩提寺久遠院ニ送リテ葬禮ノ儀ヲ営ミケル云々ト 当寺ニ日向國伊東家ノ文書数十通 三島旅館ヨリ贈リシ文書ニテ皆同文ナリ 伊東家ハ工藤祐経ノ裔ナリ 祐経ノ子祐時日向地頭職ニ補セラレ 爾後子孫日向ニ住酢ス」。 

河津三郎祐泰は当代きっての相撲の名手として知られ、相撲の中興の祖ともされます。
相撲の大ワザ「河津掛け」は祐泰が編み出したものと伝えられ、昭和34年、東林寺にて横綱栃錦の奉納土俵入りがおこなわれています。同年、時津風理事長(元双葉山)の手により除幕された日本相撲協会建立の相撲塚も境内にあります。

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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山内

伊東市街の山寄りに鎮まる旧郷社・葛見神社のさらに奥側にあります。
伊豆半島の温泉地の寺院は路地奥にあるものが多いですが、こちらは比較的開けたところにあり、車でのアクセスも楽です。
伊東氏の菩提寺で、伊東温泉七福神の札所でもあるので観光スポットにもなっている模様。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額


【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 布袋尊

山門は切妻屋根桟瓦葺、三間一戸の八脚門で、「東林寺」の寺号板と「稲荷山」の扁額。
山内向かって左手に鐘楼、正面に入母屋造桟瓦葺唐破風向拝付きの本堂。
大がかりな唐破風で、鬼板に経の巻獅子口。刻まれた紋は伊東氏の紋としてしられる「庵に木瓜」紋です。
兎の毛通しの拝み懸魚には立体感あふれる天女の彫刻。

水引向拝両端には正面獅子の木鼻、側面に貘ないし像の木鼻。
中備には迫力ある龍の彫刻を置き、向拝上部に「東林禅寺」の寺号扁額が掛かります。
本堂には御本尊のほか、伊東祐親・河津祐泰・曽我兄弟の位牌や伊東祐親の木像、頼朝公と祐親の三女八重姫との間に生まれた千鶴丸の木像を安置しているそうです。

本堂向かって右の一間社流造の祠は伊東七福神の「布袋尊」です。
堂前に樹木は少なく、すっきり開けたイメージのある山内です。

河津三郎の墓、曽我兄弟の供養塔は鐘楼左の参道上にあり、東林寺の向かいの丘の上には伊東祐親の墓所と伝わる五輪塔(伊東市指定文化財)があるそうです。

御朱印は右手の庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 延命地蔵尊

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊東七福神(布袋尊)の御朱印 〕




■ 伊東温泉 「いな葉」の入湯レポ
■ 伊東温泉 「湯川第一浴場・子持湯」の入湯レポ


■ 第28番 伊雄山 大江院(だいこういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊東市八幡野6-1
曹洞宗
御本尊:十一面観世音菩薩
札所本尊:十一面観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

伊東市南部の八幡野にある曹洞宗寺院です。
草創は真言宗で圓光庵 蓮台寺、俗称を大江庵と号しましたが、天文九年(1540年)、宮上の最勝院十二世台翁宗銀和尚により曹洞宗に改宗し、伊雄山 大江院と号を改めました。

情報の少ない寺院ですが、明治45年の日付が記された「伊豆八十八ヶ所納経帳」が当寺で発見され、「伊豆八十八ヶ所霊場」復興の契機となりました。

『豆州志稿』には以下のとおりあります。
「八幡野村 宮上最勝院末 本尊観世音 元真言ナリ 圓光庵蓮臺寺ト称ス 又大江庵トモ云 天文九年(1540年)臺翁和尚ノ時 宗ト号トヲ易フ 元和(1615-1624年)中僧秀天中興ス 寺域ニ清泉有リ 頼朝鬢水ト称ス」

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伊東の南、大室山の東麓に広がる台地は東伊豆ではめずらしい広がりをもち、「伊豆高原」と呼ばれて別荘地や小規模な宿泊施設、ギャラリーなどが点在しています。
老舗の温泉地でもないのに、なぜか高級宿のメッカという、不思議なエリアでもあります。
 
八幡野は「伊豆高原」の南端に位置し、北に大室山、南に城ヶ崎海岸をのぞむ立地です。
大室山はふるくから山そのものが御神体と崇められ、城ヶ崎海岸はおよそ4000年前、大室山の噴火で海へ流れ込んだ溶岩が冷え固まって形成されたという断崖絶壁です。

このような壮大な歴史を反映してか、あたりにはどこかスピリチュアルな雰囲気がただよっています。

大江院はパワスポとして知られる旧郷社、八幡宮来宮神社のすぐそばに位置します。
八幡宮来宮神社は延暦年中(782-806年)に八幡宮と来宮神社が合祀されて創建と伝わり、式内社「伊波久良和気命神社」の有力論社に比定されています。


【写真 上(左)】 八幡宮来宮神社の社頭
【写真 下(右)】 八幡宮来宮神社の参道

位置関係からみて大江院は八幡宮来宮神社の別当ではないかと思いましたが、それを示す史料はみつかりませんでした。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道

入口左手に伊豆八十八ヶ所の札所を示す寺号標。
参道両側に六地蔵や石仏群が並び、その先に門柱。さらに進むと左手に山林を背負って本堂。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂はおそらく寄棟造銅板葺。向拝柱はなく禅刹らしい簡素なたたずまい。
屋根端部の照りが効いて、端正な印象の建物です。
向拝正面格子扉のうえに山号扁額を掲げています。


【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額

御本尊・札所本尊ともに十一面観世音菩薩。
曹洞宗で御本尊が十一面観世音菩薩の寺院は、もと真言宗の例がみられますが、こちらもその一例です。

御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 十一面観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

■ 宇佐美温泉 「宇佐美ヘルスセンター」の入湯レポ
※ 名湯でしたが、残念ながら閉館の情報があります。


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4へ。


【 BGM 】
■ おもかげ (produced by Vaundy) / THE FIRST TAKE - milet×Aimer×幾田りら


■ The Days I Spent with You - 今井美樹


■ Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach - 杏里
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■ 1980年代のリズム

NHKBSプレミアムの『MUST BE UKTV』、このところ毎日聴いています。
で、やっぱりいま聴き返してみても、いちばんメロディ(というかアンサンブル)が輝いていたのは1980年代前半だと思う。

先日、BCM(ブラコン)特集やってましたね。
そう、このリズム。懐かしすぎて涙でてきた(笑)

■ Friends - shalamar


■ Burn Rubber On Me (Why You Wanna Hurt Me) - The Gap Band [MusikLaden]


■ Single Life - Cameo

チョッパーベースが主役。

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■ The Very Best In You - Change 1982

個人的にはBCMがもっとも洗練度を高めた曲だと思う。

■ You Are My Melody - Change  1984

1984年の時点で、すでに数年前のグルーヴを失っているのがわかる。


〔 関連記事 〕
AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のリズム
4つ打ちとグルーヴ


〔 1980年代の洋楽関連記事 〕
初夏のグルーヴ曲20曲
1980年代中盤の夏ソング

AC全盛期('70年代後半~'80年代前半)のデュエット
1980年代のサントラ&CM

ミディアムなAOR25曲
AORの名バラード1ダース


【 洋楽1983年ピーク説 】
1983年洋楽ピーク説(名曲編)
1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
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■ 埼玉県川越市の近接市町の御朱印

字数オーバーにつき、分離しました。

(参考/近接市町)

※中武蔵七十二薬師霊場御開帳関連(2022年4月7日~13日御開帳)の御朱印は後日追加します。

■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)
■ 埼玉県川越市の近接市町の御朱印


■ 水光山 不動院 大應寺

富士見市水子1765
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所:武州路十二支霊場(巳 普賢菩薩)

朱印尊格:本尊 不動明王
主印:種子「カン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:本尊 普賢尊(普賢菩薩)
主印:種子/不詳 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:十一面観音
主印:種子「バン」・金剛界大日如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
書置(筆書)
※薬師如来の御朱印も拝受できます。

■ 水宮神社


富士見市水子1762
御祭神:天照大神、素戔鳴命、木花開耶姫命、誉田別命、大國主命、罔象女神
元別当:神仏習合/摩訶山般若院
授与所:当社授与所
朱印揮毫:水宮神社(印判書置/直書)
※週末はタイミングにより書入御朱印拝受可の模様

■ (水子)氷川神社

富士見市水子5050
御祭神:素盞嗚尊、奇稲田姫尊
旧社格:旧水子村総鎮守
元別当:福性寺
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:水子 氷川神社 直書(筆書)

■ (北側・上水子ノ)氷川神社

富士見市水子1399
御祭神:素戔嗚尊
旧社格:旧水子第一区の鎮守
元別当:
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:富士見市北側鎮座 氷川神社 直書(筆書)

■ 智永山 性蓮寺

富士見市水子5082
日蓮宗
御首題

■ (針ヶ谷ノ)氷川神社

富士見市針ケ谷1-39-2
御祭神:素盞嗚尊
旧社格:村社、旧針ケ谷村鎮守
元別当:西光院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:針ヶ谷 氷川神社 直書(筆書)

■ (山形)氷川神社

富士見市下南畑153
御祭神:健速素盞嗚命
旧社格:下南畑の旧山形地区鎮守
元別当:西廓山 万蔵院
授与所:水宮神社授与所
朱印揮毫:山形 氷川神社 直書(筆書)

■ 富士見市下南畑の曹洞宗寺院
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
朱印尊格:聖観世音菩薩 札番:なし 直書(筆書)
※御朱印非掲載

■ 寳瀧山 延命院 瑠璃光寺(鶴馬薬師)

富士見市諏訪1-8-3
天台宗
御本尊:薬師如来
札所:関東九十一薬師霊場第31番
朱印尊格:薬師如来
主印:種子「バイ」・薬師如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:関東九十一薬師霊場第31番印判
印刷書置

■ 氷川神社

富士見市諏訪1-13-24
御祭神:素戔嗚尊
旧社格:村社、旧鶴間村上組鎮守
元別当:寳瀧山 瑠璃光寺(富士見市諏訪)、来迎寺、三光院?
授与所:宮司様宅
朱印揮毫:氷川神社 諏訪神社 直書(筆書)

■ 諏訪神社

富士見市諏訪2-15-34

御祭神:建御名方之命
元別当:寳瀧山 瑠璃光寺(富士見市諏訪)
授与所:宮司様宅
朱印揮毫:氷川神社 諏訪神社 直書(筆書)

■ (勝瀬)榛名神社

富士見市勝瀬791
御祭神:埴上姫命、豊受姫命
旧社格:村社、勝瀬総鎮守
元別当:萬寶院
授与所:宮司様宅(当社からは離れています)
朱印揮毫:榛名神社(筆書)

■ 見峰山 大願寺

富士見市勝瀬字寺山470-2
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼仏
朱印尊格:瑞光観音
主印:聖観世音菩薩御影印
札所印:なし
直書(筆書)

■ 三富山 多福寺

三芳町上富1542
臨済宗妙心寺派
御本尊:釈迦牟尼仏
札所:関東百八地蔵尊霊場第8番
朱印尊格:子育地蔵尊(地蔵菩薩)
主印:三寶印
札所印:なし
印刷(規定)
※御本尊の御朱印は授与なし

■ 慈眼山 喜見院 満福寺

鶴ヶ島市太田ヶ谷487
天台宗
御本尊:千手観世音菩薩
札所:武蔵国十三仏霊場第5番(地蔵菩薩)

朱印尊格:千手観世音菩薩
主印:種子「キリーク」・千手観音 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:地蔵尊(地蔵菩薩)
主印:種子「カ」・地蔵菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:武蔵国十三仏霊場第5番印判
直書(筆書)

■ (鶴ヶ島)白鬚神社

鶴ヶ島市脚折町6-10-20
御祭神:猿田彦命、武内宿禰命
旧社格:村社 旧脚折七村の総鎮守
元別当:
授与所:境内社務所(授与は不定期の模様)
朱印揮毫:直書(筆書)
・埼玉県中部には白鬚神社が数多く鎮座しますが、こちらもその一社。
奈良時代の創建と伝えられ、この地に居住した高句麗人たちが築いた神社と伝わります。
江戸期頃までは和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)、太田ヶ谷、針うり、脚折の旧脚折七村の総鎮守の総鎮守として重きをなし、旧村社の社格を有します。
境内の宝物殿には十一面観音菩薩立像が収蔵され、かつての神仏習合の名残りがうかがえます。境内の御神木「脚折のケヤキ」は樹齢900年以上とされ、県の指定天然記念物に指定されています。
国の選択無形民俗文化財「脚折雨乞」所縁の神社としても知られています。

▲高徳神社
鶴ヶ島市太田ヶ谷617
旧社格:村社
・規模の大きな神社で、初詣客で賑わっていましたが、御朱印の授与はされていないそうです。

■ 慈眼山 圓通寺

川島町畑中761
信貴山真言宗
御本尊:馬頭観世音菩薩
札所:関東八十八箇所霊場第74番、東国花の寺百ヶ寺霊場第18番

朱印尊格:馬頭尊(馬頭観世音菩薩)
主印:種子「ウン」・馬頭観世音菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:関東八十八箇所霊場第74番印判
直書(筆書)


朱印尊格:馬頭尊(馬頭観世音菩薩)
主印:種子「ウン」・馬頭観世音菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:東国花の寺百ヶ寺霊場印判
直書(筆書)

■ 常楽山 養竹院

川島町表9
臨済宗円覚寺派 御本尊:薬師如来
札所:円覚寺百観音霊場第39番


朱印尊格:南無千手観世音(千手観世音菩薩)
主印:三寶印
札所印:円覚寺百観音霊場第39番印判
印判【御朱印帳に捺印】


朱印尊格:千手観世音菩薩
主印:三寶印
札所印:円覚寺百観音霊場第39番印判
印判【専用納経帳に捺印】

■ 清月山 元光院 金剛寺

川島町中山1198
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:武州八十八霊場第55番 ※比企氏菩提寺
朱印尊格:南無阿弥陀如来
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)

■ 加限山 潮音寺(正直観音)

川島町正直214
真言宗智山派
御本尊:
札所:比企西国三十三観音第7番
朱印尊格:正直観音
札所印:比企西国三十三観音第7番
直書(筆書)

■ 由城山 福聚院 慈眼寺

坂戸市中小坂285
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:武州八十八霊場第64番

〔 御本尊(武州八十八霊場)の御朱印 〕

朱印尊格:十一面観世音菩薩
主印:種子、梵字および十一面観世音菩薩の御影
札所印:武州札所第六十四番
郵送(筆書)

〔 閻魔様の御朱印 〕

朱印尊格:閻魔大王
主印:種子、梵字および閻魔大王の御影
札所印:武州札所第六十四番
郵送(筆書)
※ご不在でしたが、たいへんご丁寧な郵送対応をいただきました。
(幻の)武州八十八霊場の札所印をいただいたのはこちらが初めてです。

■ 大宮住吉神社

坂戸市塚越254
御祭神:表筒男命、中筒男命、底筒男命、
旧社格:郷社 北武蔵十二郡の総社
授与所:ご神職宅(本殿向かって右手の鳥居の近く)
朱印揮毫:直書(筆書)

■ 東照宮

坂戸市塚越254(大宮住吉神社境内)
授与所:ご神職宅(本殿向かって右手の鳥居の近く)
朱印揮毫:直書(筆書)

■ 坂戸神社

坂戸市日の出町7-26
御祭神:白髪武広国押稚日和根子天皇ほか
旧社格:村社、旧坂戸村鎮守
元別当:白髭山 常福寺
授与所:勝呂神社にて拝受(宮司様宅)
朱印揮毫:坂戸神社 直書(筆書)

■ 勝呂神社

坂戸市石井226
御祭神:菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命
旧社格:村社、旧石井村鎮守、勝呂郷総鎮守
授与所:宮司様宅
朱印揮毫:勝呂神社 直書(筆書)

■ 毘廬山 源光院 宗福寺

坂戸市石井1905
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:なし
朱印尊格:南無阿弥陀如来
主印:三寶印
札所印:なし
書置(筆書)

■ 龍護山 實相院 大智寺

坂戸市石井2331
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所:武州八十八霊場第29番、中武蔵七十二薬師霊場第23番
朱印尊格:大日如来
主印:三昧耶形の印?
札所印:なし
直書(筆書)

■ 天神山 成就院

坂戸市赤尾1769
曹洞宗
御本尊:
札所:なし
朱印尊格:光輪大黒天
主印:種子「マ」・大黒天 (蓮華座)
札所印:なし
直書(筆書)

■ 長溪山 永源寺

坂戸市仲町12-69
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所:なし
朱印尊格:降誕釈尊(釈迦牟尼佛)
主印:三寶印(蓮華座+火焔宝珠型)
札所印:なし
直書(筆書)

■ 坂戸市東部曹洞宗寺院
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
朱印尊格:薬師瑠璃光如来 札番:なし 直書(筆書)
○中武蔵七十二薬師霊場札所
※御朱印非掲載


所沢市バージョンもあります。

【関連ページ】
■ 御朱印帳の使い分け
■ 高幡不動尊の御朱印
■ 塩船観音寺の御朱印
■ 深大寺の御朱印
■ 円覚寺の御朱印(25種)
■ 草津温泉周辺の御朱印
■ 四万温泉周辺の御朱印
■ 伊香保温泉周辺の御朱印
■ 熱海温泉&伊東温泉周辺の御朱印
■ 根岸古寺めぐり
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印
■ 東京都港区の札所と御朱印
■ 東京都渋谷区の札所と御朱印
■ 東京都世田谷区の札所と御朱印
■ 東京都文京区の札所と御朱印
■ 東京都台東区の札所と御朱印
■ 首都圏の札所と御朱印
■ 希少な札所印Part-1 (東京・千葉編)
■ 希少な札所印Part-2 (埼玉・群馬編)

【BGM】
堤防 - 二名敦子
G

雨のウエンズデイ - 大滝詠一


元気を出して - 竹内まりや
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■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)

2022/05/03 UP

御朱印を追加し、近接市町のデータを分離しました。

■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印-2(周辺エリア)
■ 埼玉県川越市の近接市町の御朱印


埼玉県所沢市の札所と御朱印もつくりました。

---------------------------------------------
(2021-04-16 )
(2021/04/16 御朱印追加)
(2021/03/13 御朱印追加)
(2021/01/01 御朱印追加)
(2020/02/01 御朱印追加)

埼玉県川越市の札所と御朱印-1(中心エリア)からつづく

[周辺エリア]
1.北・東部

■ 山田八幡神社

川越市山田340
御祭神:誉田別尊(応神天皇)、比賣神(玉依日女命)、息長帯姫命(神功皇后)、天津日高穂々出見尊
旧社格:村社、旧府川村と旧志垂村の鎮守
授与所:当社授与所
・日本武尊が東国平定の時に剣を祀ったのが始まりと伝え、昔境内より出土した鉄剣を社宝としている。後醍醐天皇の時に宗長親王が都から逃げ延びて来られ、京の石清水八幡宮を合祀してから八幡様になったと伝えている。当社社家は「原摂津」と称し、摂津より隠棲、志を垂れるとして、地名を『志垂』とした。天長年間(824~834)摂津に大洪水ありし時使者を遣ったとの口碑あり、原家はその頃の移住と考えられる。(社伝・公式Webより)
兼務社等14社を詣でる「開運十四社詣」を主宰され、14社の御朱印を授与されている。(令和元年7月情報)
・小規模な神社が多く、ナビでは到達不可なところがいくつかありましたので、アクセス情報をつけてあります。(概ねGoogleマップで検索可能)

朱印揮毫:山田八幡神社 書置(筆書)

朱印揮毫:山田八幡神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判

■ 金鶏神社

川越市山田340
御祭神:天照皇大神、源義家公 ほか
山田八幡神社の境内末社
授与所:山田八幡神社授与所
朱印揮毫:金鶏神社 直書(筆書)
・昭和二年、安岡正篤が都内に創設した金鶏学院に祀られていた社が嵐山町の日本農士学校に遷座された後、縁あって当地に遷座された。とくに学問の神として多くの崇敬を集めている。

■ (北山田)八幡神社

川越市山田225-1
主祭神:誉田別尊
旧社格:村社、旧網代村鎮守
元別当:教學院
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:北山田 八幡神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・当地網代村の村民太郎左衛門が日吉山王権現を勧請、江戸期には山王社と称し網代村の鎮守として祀られていた。(社伝)
・合祀・改号の社歴を有し、登記(社号)は赤城神社が残るとの説あり。(向小久保の八幡神社と宿粒の八幡神社を合祀しているため、八幡神社と号しているとのWeb情報あり。)

■ (福田)赤城神社

川越市福田425-1
主祭神:
旧社格:村社、旧福田村鎮守
元別当:星行院
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:福田 赤城神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・川越市北端の福田地区に、元別当の星行院と並んで鎮座。
・「明治42年、北山田八幡神社(赤城神社)に合祀されることになり、当社社殿は北山田八幡神社(赤城神社)へ移築され、北山田八幡神社(赤城神社)が赤城神社となりました。昭和33年、地元の強い要望により、当地へ還座しています。」とのWeb情報あり。

■ 天王山 清流院 淨國寺

川越市山田420
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:小江戸川越古寺巡礼第19番
朱印尊格:阿弥陀如来(阿弥陀佛)
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)
・鎌倉時代中期の正応二年(1289年)、時宗の遊行二祖である真教上人による開創との寺伝がある古刹。(真教上人による改宗説もあり。) 本山清浄光寺(遊行寺)の直末。
・「夜泣き子育て地蔵尊」は、広く信仰を集めてきたという。

■ (石田)藤宮神社

川越市石田783
主祭神:天児屋根命、藤原鎌足公
元別当:大正寺
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:石田 藤宮神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
○Googleマップ非表示 → 地図
・川越市無形文化財の「筒がゆの神事」や、石田獅子(干しもん獅子)と呼ばれる獅子舞で知られる。奥行きが深く、社叢を背負って神さびた境内。

■ 星光山 新善光寺 一乗院

川越市鴨田716
天台宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:全国善光寺会、関東百八地蔵尊霊場第2番、小江戸川越古寺巡礼第1番
・小仙波の中院の末寺で、鎌倉時代後期の永仁四年(1296年)、喜多院・中院を再興された尊海僧正の創建と伝わる古刹。正式名称は星光山新善光寺一乗法華教院。
・御本尊の阿弥陀如来は、「(善光寺)日本四八体金仏」のひとつとされる秘仏。

朱印尊格:阿彌陀如来
主印:種子「キリーク」・阿弥陀如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:大地蔵尊(地蔵菩薩)
主印:種子「カ」・地蔵菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:関東百八地蔵尊霊場第2番印判
直書(筆書)

■ (鴨田)八幡神社

川越市鴨田1072
主祭神:
旧鴨田村鎮守
元別当:一乗院
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:鴨田 八幡神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
○Googleマップ名称非表示だが表示ポイントは一致
・長禄二年(1458年)、太田道灌が河越城築城の際、城中鬼門鎮護のために勧請と伝わる。本殿は十八世紀後期の造営と考えられる一間社流造、こけら葺、千鳥破風・軒唐破風付の市指定・建造物。

■ (鹿飼)神明神社

川越市鹿飼404
主祭神:
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:鹿飼 神明神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
○Googleマップ名称非表示だが表示ポイントは一致
・鳥居扁額は「神明宮」。由緒書掲示なし。

■ (石田本郷)稲荷神社

川越市石田本郷697-1
主祭神:
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:石田本郷 稲荷神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
○Googleマップ非表示 → 地図
・吉野中の西。芳野神社と並んで鎮座。山田八幡神社の祭典奉仕神社。由緒書掲示なし。

■ (本郷新田)天満天神社

川越市石田本郷新田1242
主祭神:菅原道真公
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:本郷新田 天満天神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
○Googleマップ非表示 → 地図
・入間川南岸の低地に一段高く鎮座。鳥居扁額は「神明宮」。拝殿扁額に道真公の”飛梅伝説”にまつわる「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」の句。

■ 古谷神社

川越市古谷上3564
主祭神:大己貴命、豊城入彦命、彦狭島命
旧古谷上村邊の鎮守(赤城社)
授与所:古尾谷八幡神社宮司様宅
朱印揮毫:古谷神社 直書(筆書)
・旧古谷上村の開発に際し、上州赤城神社を勧請して創祀の説あり。

■ 古尾谷八幡神社

川越市古谷本郷1408
主祭神:品陀和気命、息長帯姫命、比売神
旧社格:県社、旧古尾谷庄総鎮守
元別当:灌頂院
授与所:当社宮司様宅 →連絡先
朱印揮毫:古尾谷八幡神社 直書(筆書)・宮司様宅にて/神社印は八幡神社社務所にて
・慈覚大師が天長年間に巡錫した際に灌頂院を創建、再訪の際に石清水八幡宮の分霊を祀り、貞観四年(863年)創建と伝わる、旧古尾谷庄の総鎮守。(社記)
・当地の領主であった古尾谷氏にまつわるいくつかの伝承あり。

[周辺エリア]
2.北・西部

■ (今成)熊野神社

川越市今成3-1-3
御祭神:健速須佐之男命、奇稲田比賣命
旧社格:村社、旧今成村鎮守
元別当:安楽寺
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:今成 熊野神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・永禄年間、北条の家臣川田備前守今成所縁の神社。川田今成が当所に入った際、宿とした蓮馨寺の守護神として祀られていた熊野神社を当地に分霊勧請して創祀したと伝わる。

■ 金縄山 廣巖院 安楽寺

川越市今成3-18-6
天台宗
御本尊:釈迦牟尼如来
札所:関東九十一薬師霊場第30番、小江戸川越古寺巡礼第49番
・奈良時代、行基菩薩の開創と伝わる名刹。行基菩薩所縁の薬師如来は「今成のお薬師様」として広く信仰を集めてきたとされる。

朱印尊格:釋迦牟尼佛
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:薬師如来
主印:三寶印
札所印:関東九十一薬師霊場第30番印判
直書(筆書)

■ (小ヶ谷)白山神社

川越市小ヶ谷156
御祭神:菊理姫命、伊弉諾尊、伊弉冉尊
旧社格:村社、旧小ヶ谷村鎮守
元別当:圓福寺
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:小ヶ谷 白山神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・古来水害の多かった小ヶ谷に加賀國・越前國の一ノ宮白山神社より白山妙理権現の御神体を分霊して水神として祭祀したのを始めとし、川越城主松平伊豆守信綱が当地周辺の開発に際して入植してきた村民により鎮守として祀られた神社。

■ 瑶光山 真日院 最明寺

川越市小ケ谷61
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:関東百八地蔵尊霊場第1番、小江戸川越古寺巡礼第13番
・源氏二代将軍源頼家の二男千寿丸が落ち延びて出家し、瑶光房道円と名を改めこの地で草庵を結んだ。鎌倉幕府執政北条相模守平時頼が出家して最明寺入道学了道崇と改名し、諸国行脚の旅に出た際、当地において千寿丸(瑶光房)に参会し、時頼自ら寄付して弘長二年(1262年)に建立・創建し、瑶光房を別当職に任じ、七百石の御朱印地を賜ったとされる名刹。(寺伝より)

朱印尊格:阿弥陀如来
主印:種子「キリーク」・阿弥陀如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
書置(筆書)


朱印尊格:南無地蔵大菩薩(地蔵菩薩)
主印:三寶印
札所印:関東百八地蔵尊霊場第1番印判
直書(筆書) ※現在この御朱印は授与されておりません。


朱印尊格:南無地蔵大菩薩(地蔵菩薩)
主印:三寶印
札所印:なし
書置(筆書)


朱印尊格:観世音菩薩(聖観世音菩薩)
主印:三寶印
札所印:なし
書置(筆書)

〔 『鬼滅の刃』関連の御朱印 〕
こちらのお寺様と『鬼滅の刃』の関係については、こちらの情報くらいしか入手できていませんが、とにかく『鬼滅の刃』関連の限定御朱印を授与されています。
(2021年1月末までとのこと。→情報元




『鬼滅の刃』関連の限定御朱印

※ 関東百八地蔵尊霊場第1番および小江戸川越古寺巡礼第13番の御朱印は授与されておりません。

■ 的場山 法城寺

川越市的場1902
曹洞宗 
御本尊:十一面観世音菩薩
札所:小江戸川越古寺巡礼第37番
朱印尊格:南無十一面観世音菩薩
主印:三寶印
札所印:小江戸川越古寺巡礼
郵送(筆書/規定用紙?)
・平安時代中期、北条頼平の家臣神山七左右衛門が頼平の菩提を弔うため開基と伝わる古刹。もともと北条寺と称したが、北条をはばかり、宝常寺→法城寺と改めたという。天満宮との関係が深く、当寺の境内に鎮座の天満宮を太田道灌が川越城中に勧請し、現在の三芳野神社につながる流れとされている。
※ご住職はご多忙のようですが、快く郵送にてご対応いただきました。専用用紙らしき大判の用紙で、やはり「小江戸川越古寺巡礼」の専用納経帳は存在するかもしれません。

■ 河越山 三芳野院 常楽寺

川越市上戸194
時宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:小江戸川越古寺巡礼第19番
朱印尊格:阿弥陀如来
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)
・中世、武蔵の有力な豪族であった河越氏が拠点とした河越館の跡地の一角にある古刹。河越氏館内の仏堂が浄興寺という密寺となり、嘉元三年(1305年)、法印寛慶が遊行三祖智得上人に帰依して時宗に改宗、常楽寺に号を改めたと伝わる。

■ (小室)氷川神社

川越市小室298
御祭神:健速須佐之男命・奇稲田比賣命
旧社格:村社、旧小室村鎮守
元別当:法心寺
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:小室 氷川神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・長禄元年(1457年)川越築城に際し、水野多宮守重が当所に移住して氷川神社を勧請して創祀と伝わる鎮守社。

■ 尾崎神社
 
川越市笠幡1280
御祭神:素盞鳴命・奇稲田姫命
旧社格:不明 川越笠幡郷総社
元別当:
授与所:尾崎神社(正月3ヶ日のみ?)
朱印揮毫:直書(筆書)
・「日本武尊東征の折、台地はずれの見晴らしのよい所ゆえ尾崎の宮と称えて二神を祀った」と伝わる(HP「由緒・神社創建」より)歴史のある神社で、緑深い境内には数多くの境内社が鎮座まします。
公式HPによると、「川越笠幡郷総社」とされ、兼務社は14社(大町「鏡神社」、上野「白鬚神社」、吉田「白髭神社」、安比奈「八幡神社」、小堤「八幡神社」、的場上組「八幡神社」、的場下組「八坂神社」、倉ヶ谷戸「箱根神社」、新町「三島日光神社」、下広谷南「白山神社」、小堤後「白山神社」、的場中組「愛宕神社」、上戸「日枝神社」、太田ケ谷・三ツ木・藤金・上広谷・五味ヶ谷「高徳神社」)を数えますが、当社の御朱印授与も限定的なようなので、兼務社の御朱印拝受もむずかしいものとみられます。

■ 萬霊山 法護院 延命寺

川越市笠幡4451
天台宗
御本尊:地蔵菩薩(延命地蔵尊)
札所:武蔵国十三仏霊場第4番(普賢菩薩)、小江戸川越古寺巡礼第3番
・南北朝時代初期の興国年間(1340~1345年)、元二遍公和尚が曹洞宗寺院(興学寺)として創立、慶長年間(1596~1614年)、宗賢法師のとき天台宗に改め、宗賢法師と法縁のあった天海僧正により延命寺の号を賜り、法孫、豪海が住職になったと伝わる古刹。

朱印尊格:延命地蔵尊
主印:種子「カ」・地蔵菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:普賢菩薩
主印:種子「アン」・普賢菩薩 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:武蔵国十三仏霊場第4番印判
直書(筆書)

[周辺エリア]
3.南部

■ (藤間)諏訪神社

川越市藤間346
御祭神:建御名方命
旧社格:村社、藤間地区の産土神
授与所:直書(筆書)・古尾谷八幡神社宮司様宅にて/神社印は諏訪神社社務所にて
朱印揮毫:藤間諏訪神社 直書(筆書)
・「神社史」によると慶長十七年(1612年)の創建とあるが、それ以前から藤間大明神として祀られていたと伝わる当地の産土神。

▲ 寺尾山 蓮乗院 勝福寺

川越市寺尾640
天台宗
御本尊:阿弥陀三尊
札所:小江戸川越古寺巡礼第60番
・Web上では拝受御朱印がみつかりますが、授与されていないそうです。

■ 本宮山 地蔵院 西福寺

川越市南大塚23
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:小江戸川越古寺巡礼第12番
朱印尊格:南無阿彌陀佛
主印:三寶印
札所印:なし
直書(筆書)
・開山開基は不明だが、寺伝によると寛永十年(1633年)に中興開山という天台宗寺院で、かつては喜多院の末寺であったという。「餅つき踊り」で知られる。

■ (中台)八雲神社

川越市今福2728
御祭神:スサノオノミコト
旧社格:
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:中台 八雲神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・「王蔵流」を称する”中台の祭りばやし”で知られる神社。こんもりと丸い小山の上に鎮座し富士塚を連想させるが、古墳(円墳)とみられている。境内には雷電社も鎮座している。

■ 梅雲山 寛窓寺 明見院

川越市今福677
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:武蔵国十三仏霊場第2番(釈迦如来)、小江戸川越古寺巡礼第41番
・寛文三年(1663年)、髙関和尚により創建されたと伝わる天台宗寺院。文久初年(1861)頃に寺子屋が開かれ、明治まで続いたとされる。

朱印尊格:阿弥陀如来
主印:種子「キリーク」・阿弥陀如来(中央)/種子「サ」・観音菩薩(左脇侍)/種子「サク」・勢至菩薩(右脇侍)の三尊 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:釋迦如来
主印:種子「バク」・釈迦如来 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:武蔵国十三仏霊場第2番印判
直書(筆書)

■ (中福)稲荷神社

川越市中福2
御祭神:豊受気毘売神、倉稲魂命
旧社格:村社、旧砂久保村鎮守
授与所:山田八幡神社(開運十四社詣)
朱印揮毫:中福 稲荷神社 直書(筆書) ※「開運十四社詣」の印判
・川越藩主松平伊豆守信綱が新田奉行中沢弥兵衛に命じて当地の開拓に当たらせた際、開拓安全を祈願して城内三芳野天神境内社三芳野稲荷を当地・砂久保村名主尾崎六右衛門邸内に移して創祀。承応三年(1654年)、現鎮座地を社地と定めて起工・遷座して村の鎮守と仰ぎ三芳野稲荷神社と号した。”どんど稲荷”として知られる。(社記)

▲ 鷲嶽山 蓮光寺
川越市渋井248
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所:小江戸川越古寺巡礼第48番
・Web上では拝受御朱印がみつかりますが、いまは授与されていないそうです。


■ 中武蔵七十二薬師霊場御開帳関連の御朱印
2022年4月7日~13日に御開帳された寅薬師の御朱印です。
寅年春の御開帳時のみ授与の可能性があります。

■ 正進庵薬師堂

川越市天沼新田144-1
宗派不詳
御本尊:薬師如来
札所:中武蔵七十二薬師霊場第14番
・天沼新田公民館に併設されている寅薬師霊場の札所。旧称は天沼薬師堂。
朱印尊格:薬師如来
主印:寅薬師
札所印:印判
印判紙

■ 観音寺

川越市鯨井1840
宗派不詳
御本尊:薬師如来
札所:中武蔵七十二薬師霊場第15番
・観音寺じたいは廃寺だが、薬師堂は現存。鯨井八坂神社内。
朱印尊格:薬師如来
主印:種子 (蓮華座+火焔宝珠)
札所印:印判
印判

■ 薬樹山 瑠璃光院 永命寺

川越市下小阪688
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所:中武蔵七十二薬師霊場第16番、武州八十八霊場第63番、小江戸川越古寺巡礼第51番
・寅薬師霊場では醫王堂(薬師堂)が御開帳。御本尊、不動明王の御朱印も拝受できました。

朱印尊格:薬師如来
主印:種子「バイ」・薬師如来 (蓮華座+火焔宝珠)、三寶印
札所印:なし
直書(筆書)


朱印尊格:不動明王
主印:種子「カン/カーン」・不動明王 (蓮華座+火焔宝珠)、三寶印
札所印:なし
直書(筆書)


所沢市バージョンもあります。


【関連ページ】
■ 御朱印帳の使い分け
■ 高幡不動尊の御朱印
■ 塩船観音寺の御朱印
■ 深大寺の御朱印
■ 円覚寺の御朱印(25種)
■ 草津温泉周辺の御朱印
■ 四万温泉周辺の御朱印
■ 伊香保温泉周辺の御朱印
■ 熱海温泉&伊東温泉周辺の御朱印
■ 根岸古寺めぐり
■ 埼玉県川越市の札所と御朱印
■ 東京都港区の札所と御朱印
■ 東京都渋谷区の札所と御朱印
■ 東京都世田谷区の札所と御朱印
■ 東京都文京区の札所と御朱印
■ 東京都台東区の札所と御朱印
■ 首都圏の札所と御朱印
■ 希少な札所印Part-1 (東京・千葉編)
■ 希少な札所印Part-2 (埼玉・群馬編)


【BGM】
堤防 - 二名敦子
G

雨のウエンズデイ - 大滝詠一


元気を出して - 竹内まりや
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■ 2022年のJ-POP-2

■ milet「Walkin' In My Lane」MUSIC VIDEO (フジテレビ系木曜劇場「やんごとなき一族」主題歌 先行配信中)

↑ これもなかなかいいですね。

■ Milet メドレー ヒット曲 2022 - Milet 新曲 人気曲 2022. vol 1

Miletは、メロやアンサンブルの素晴らしさを改めて呼び覚ましてくれたアーティストだと思う。

もっと売れると思ったけどね・・・
オリコンデイリーシングルランキング2022年04月28日付
オリコン月間アルバムランキング
↑ ため息しか出んわ・・・。

NHKBSプレミアムの『MUST BE UKTV』、このところ毎日聴いています。
で、やっぱりいま聴き返してみても、いちばんメロディ(というかアンサンブル)が輝いていたのは1980年代前半だと思う。

そしてここで完成されたひとつのPOPSの頂点を、じつのところもっともよく引き継いでいるのはJ-POPだと思う。
なにせこの国は、なにものも滅ぼさない国だから・・・。

カノン進行使ったヒット曲をこんなにたくさんもってるのは、日本だけだと思うけどね、いい悪いは別にして。
■ カノン進行を使った曲集 全23曲 繋げて歌ってみた by KAT


J-POP(どっちかというと売れてないやつ)のメロと女性ボーカルの美しさは、いまや世界屈指だと思う。


■ Jason Scheff - Over And Over (Cover ELT)


■ Every Little Thing - Over and Over (1999.01.26)

↑ 往年のAORの名手Jason Scheffでも、1999年の時点では、もはや日本の歌姫に及ばないことがわかる。

■ Butterfly(バタフライ) - 木村カエラ(カバー)

コード
2009年の時点で、こんなメロ(コード進行)創り出せて、しかもヒットするのはもはやひょっとして日本だけでは?
と思った曲。


■ 島津心美 - Dreamin'/ JASMINE

2022年の小学生の歌姫。この子はきっと伸びる。

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2022/03/13 UP

さっき、TVKで久しぶりに最新のビルボード聴いてみました。
一時期Silk Sonicが健闘してたので、淡い期待を抱きつつ。
でも、ダメでしたね。ぜんぜん。
8割の曲が同じに聴こえた。情けないほどの金太郎飴チャート。

1980年代にこんな名曲たちを生み出していた米国の音楽シーン。
あれは夢まぼろしだったのか?

それにくらべて、このところの日本の曲、かなりいいとこついてる。
1980年代の再評価も進んでるし、邦楽のYouTubeのコメント欄が、このところ外国語で埋め尽くされてる理由がわかる気がする。

このところ書き散らした最近の曲を中心に、振り返りつつまとめてみました。

■ milet「One Reason」MUSIC VIDEO (映画「鹿の王 ユナと約束の旅」主題歌)

この時代に、「歌だけで、音として聴いてもらいたい」、こう言い切れるアーティストが出てくるとは・・・。
これ、ひょっとして6拍子?

■ 緑黄色社会『キャラクター』Official Video / Ryokuoushoku Shakai – Character

まさかこんな新曲が、新型コロナ禍真っ最中のこの状況で聴けるとは・・・
「応援ソング」ちゅう曲調じゃないわな、これ。

いきなりのワウワウ・ギター、カッティングギターにストリングス、つづいてピッキングギターにホンキートンクなピアノ、そして華&色気を帯びたヴォーカル。
ハンドクラップにキメのリズム。
でもって弾みまくるベース、StuffのGordon Edwardsかよ(笑)
まだ4つ打ちっぽさ残してるけど、これで腕利きのドラムス入ったら完璧なグルーヴ・ユニットかと思う。

ほら、2:38~のダンス、ヨコノリでしょ(笑) 2:45~ バックビートだし。


↓こんなのもあるし、
■ milet×Aimer×幾田りら - おもかげ (produced by Vaundy) / THE FIRST TAKE

いまが旬の3人のハモリ。

■ 鈴木愛理 - 君の知らない物語(カバー)

supercellの超難曲に生歌唱で突っ込むとは・・・。
しかも破綻せず歌い切ってるのにはびっくり。

やっぱりJ-POPの流れ、ここにきて確実に変わってきてると思う。

アニソンやバーチャル系も、じつは実力派ごろごろだったりします。
よくわからんので、それほど聴き込んでないけど・・・。

人気の声優ユニット

■ ワルキューレ GIRAFFE BLUES( 3rd LIVE/day 2 )


↓ ちょっと探すとこんなのがいきなり引っかかってきたりする。びっくり。
■ 葵井歌菜 声優が「君の知らない物語」/supercell ドラムを叩きながら歌ってみた Drum cover

ハイハットのこなしとフェミニンな美声のコントラスト。たまらん。

■【公式ライブ映像】Poppin'Party「キズナミュージック♪」

架空ユニットなんだけど、さりげに楽器うまかったりする・・・。
これ、音源入っていないとしたらかなり凄いと思う。

■ 【公式ライブ映像】Morfonica「ハーモニー・デイ」(BanG Dream! 9th☆LIVE「Mythology」より)【期間限定】

これも安定のパフォーマンス。

■ 【組曲】花譜×佐倉綾音 #92.5「あさひ」【オリジナルMV】

なんか、やりたい放題の曲構成じゃな。
びみょーなモチーフみたいだけど聴き応えあり。

■ ClariS 『ケアレス』 Music Video

安定のClariS。こういう包み込むような女性ヴォーカルは日本ならでは?

■ 愛美「カザニア」

このリズム。hiphopのワンパタビートにはまり込んだ米国じゃ、創り出せないよきっと(笑)

■ 約束 (Yakusoku) - 如月千早(今井麻美) // covered by 凪原涼菜

バーチャルアーティストだけど、実在のシンガーらしい。
なんというか、聴きすすむほどにじわじわと声質のよさが伝わってくる。

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J-POP(セツナ系) → アニソンの逆襲パターンも・・・。

■ SoulJa - SoulJa / Way to Love~最後の恋~feat.唐沢美帆


未来のひとへ / TRUE 5th Anniversary Live Sound! vol.3 ~with Strings〜 TRUE(← 唐沢美帆)

セツナ系聴いて育った世代の逆襲も、そろそろあるかもよ。

■【2021年版】ハロプロ歌姫ランキングBEST15

でもって「ハロプロ全員歌うまい説」あり。全員じゃないとは思うが。


小学生にしてからが、すでにこのレベルだから・・・。 ↓

■ 島津心美ちゃん 「誰より好きなのに (古内東子)」2021/07/22 Kokomi 11th Birthday Live 溝ノ口劇場

強弱が効いてて歌いまわしがやたらにエモーショナル。そして歌にスケール感がある。
この子本当に小学生か?

■ 加藤礼愛ちゃん  11/25(木)21:00〜フジTV【千鳥クセスゴ】出演💄『HALO』(カトレア.Kato Leia.12yrs) BEYONCE cover

この子の歌声聴いてると、
「最高の楽器は人の生の声」とか「優秀な男性ボーカルが10人束になってかかっても、1人の才能ある女性ボーカルには及ばない」
などという音楽格言が想い浮かんでくる。
なんというか、もって生まれたボーカリストとしての格の高さを感じる。

カラバトU-18絡み、そしてひょっとしてバンドリとハロプロのレベル、かなりの高みにあるのでは・・・。
いまの米国の金太郎飴チャートじゃ、及びもつかないレベルの高さか(笑)

やっぱりこの国、歌の女神が舞い降りた国かも?
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