関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印、 「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11からつづく。
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12
旧第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)
〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。
■ 旧第85番 授寶山 大聖寺(だいしょうじ)
西伊豆町観光協会Web
西伊豆町安良里315
臨済宗円覚寺派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:-
授与所:龍泉寺(西伊豆町安良里浜川東14、現行の対応不明)
伊豆八十八ヶ所霊場の第85番札所でしたが、平成31年4月24日より沼津市西浦江梨の満行山 航浦院(旧別格第8番)に交替している模様です。
新旧いずれも巡拝し、御朱印を拝受しているのでご紹介します。
禅刹ながら密寺系の教不動尊霊場のイメージが強い古刹です。
『豆州志稿』『こころの旅』掲載の旧記によると、当山御本尊の不動尊は聖徳太子が刻され、文覚上人が苦行中に授けられた尊像で、かつては大きな滝のそばに御座していたといいます。
後醍醐帝の御代(1288-1339年)泰庵阿闍梨が現在地に不動尊を遷し奉安されて、真言宗寺院を開創と伝わります。
天文年間(1532-1555年)に臨済宗の高岳妙本(光嶽和尚とも)が山号を授寶山、寺号を大聖寺と号され臨済宗に改めて、奈古谷の國清寺の配下になりました。
西伊豆町Web資料によると、御本尊の不動明王は「波切不動」とも呼ばれ、安政の大地震による大津波がここで止まったと伝わるそうです。
御本尊は秘仏で、甲子に本開帳、甲午に中開帳で30年に一度の御開帳です。
『豆州志稿』には「安良里村 臨済宗円覚寺派 田方郡奈古谷國清寺末 本尊不動 大瀑布ニ石不動ノ古佛アリキ 後醍醐帝ノ時(1288-1339年) 泰庵阿闍梨此寺ヲ●メ 不動ヲコヽニ移ス 伊豆峯記ニ此寺ヲ不動ノ別当トス 泰庵善書ノ名アリ 大般若経ノ内三百巻ヲ謄写シテ伊濱普照寺ニ収ム 泰庵ヨリ後二百余年 光嶽和尚ノ時 真言ヲ改メ國清寺ニ隷ス(時ニ天文中(1532-1555年)ナリ) 舊記及泰庵ノ傳皆焼亡シヌ 近頃戌子ノ山水ニ寺押流サレテ 今草堂ノ如シ」とあります。
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この霊場は西伊豆町に入ると急に札所間の距離が長くなります。
仁科の第84番法眼寺から伊豆西海岸沿いに国道136号を北上し、堂ヶ島、田子の集落を通過して到着した安良里の港町から数百m山側に入ったところにあります。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 駐車場から
山内は急斜面の山肌ですが、登り口に駐車場がありアプローチは比較的楽です。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 手水舎
参道入口の橋を渡って鐘楼の先から急な階段が始まります。
右手はうっそうとした森のなかに小滝が連続し、傍らには石像や石碑が並んでパワスボ的オーラを放っています。
もしかするとこちらが本来の不動尊霊場だったのかもしれません。
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 不動尊の石像
参道階段両脇には「大聖不動明王」の赤いのぼりがたち並び、不動尊霊場の趣きゆたか。
昇り切った正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝平入りで、堂前に狛犬二対を配しています。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝-1
水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に迫力のある龍の彫刻で見応えがあります。
正面桟唐戸でその上に山号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
大聖寺は現在この霊場の札所ではないので、霊場巡拝者はほぼいないかと思います。
30年に一度の御開帳を待つ、静かな不動尊霊場に戻ったのでしょうか。
御朱印は円覚寺百観音霊場第35番の龍泉寺(西伊豆町安良里浜川東14)で拝受していますが、現在の御朱印対応は不明です。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 不動明王 /主印はいずれも御寶印(種子「バン?」)
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第86番 吉祥山 安楽寺(あんらくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市観光情報Web
伊豆市観光協会土肥支部Web
伊豆市土肥711
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡
土肥は松崎とならぶ西伊豆の要衝ですが、松崎に多くの札所があったのに対し土肥にはわずか1札所と対照的です。
大聖寺が札所から外れた現在、第84番仁科の法眼寺から長駆しての到着です。
土肥は西伊豆を代表する温泉地で、土肥金山の観光施設もあるため西伊豆観光では外せません。
こちらは金山採掘中の坑道より温泉が湧出し、入浴したところ病気が平癒したといういわれが残る「まぶ湯」のあるお寺です。
「まぶ湯」は土肥温泉発祥の湯とされ、「医王泉」「鉱山の湯」「砂金風呂」とも呼ばれて、かつては多くの人が薬効を求めて入浴しましたが、現在は入浴できません。
創建は天智天皇二年(663年)ともされる古刹で、行基菩薩が当地巡錫の際、国家鎮護の本地であると祭祀され、自ら釈迦如来像を彫り上げて奉安したのが創始と伝わります。
当初は密宗で医王山大泉寺と号しました。
一時衰退したものの天文三年(1534年)、大用精賢禅師(最勝院8世)が再興され寺号を安楽寺に改め、曹洞宗となりました。
『豆州志稿』には「土肥村 曹洞宗 賀茂郡宮上最勝院末 本尊釋迦 密宗ノ古刹ニシテ大泉寺ト号ス 天文中(1532-1555年)僧大用再興シテ安楽寺ト改ム 吾寶(最勝院開山)ノ徒大用和尚(最勝院八世)ノ時ヨリ宮上最勝院下ト為ル 大用ハ永禄二年(1559年)化ス(略)寺域ニ鉱湯アリ 采金鉱ヨリ湧出ス(千手院寺域)」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 大クス
【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 寺号標
土肥港に注ぐ山川の山側にありますが、ほぼ土肥市街の中心エリアです。
山内入口に切妻屋根銅板葺の大ぶりの薬医門で山号扁額を掲げています。
門前に寺号標。
門前にあるクスは推定樹齢1000年、樹高25m、根回り14.2mの巨木で「安楽寺のクス」として静岡県指定天然記念物に指定されています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
南向きの明るい山内で、参道まわりは庭園をなして風趣があります。
石橋を渡り、右に鐘楼、正面が本堂です。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 札所標
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺で隅棟の長い、やや変わった意匠です。
向拝正面格子扉の上に掲げられた扁額は、達筆すぎて読めません。
軒裏は二軒の疎垂木ながら、どこか存在感があります。
【写真 上(左)】 分析表
【写真 下(右)】 地蔵尊
本堂内には「まぶ湯」のお寺らしく、明治37年の分析表が掲げられていました。
泉温77度、固形物総量1.624g/kgの塩類泉で石膏泉系の泉質と思われます。
本堂手前向かって右に誕生佛。左に聖観世音菩薩の立像。
別に地蔵堂があって、端正な地蔵菩薩立像が御座されています。
【写真 上(左)】 まぶ湯入口
【写真 下(右)】 まぶゆ地蔵
「まぶ湯」は山内山手にあり、庫裡で拝観料を払ってから入坑します。
入口に掲示の由来書によると、慶長十五年(1610年)当地に金鉱があり間部彦平がここから金を採掘していたところ、当山住職家翁隣仙大和尚が病を患いました。
当山の薬師如来に二十一日間の病平癒の祈願をおこなったところ、満願の日に「汝にいで湯を授けん」とのお告げがありました。
すると金鉱の岩間から霊湯が湧出しました。
すぐに金の採掘を止め、大和尚が薬師如来を拝しつつ湯浴みしたところ、病はたちまち癒えました。
大和尚のみならず、湯浴みした病人はいずれも平癒したので病に霊験あらたかと伝わり、遠近から湯治客が集まりました。
人々は金鉱から湧出したことからこのお湯を「鉱(まぶ)の湯」と名づけ、あり難く湯浴みにいそしんだといいます。
【写真 上(左)】 坑口
【写真 下(右)】 湯溜め槽と湯かけ地蔵尊
【写真 上(左)】 坑内
【写真 下(右)】 夫婦神社
入口の数体の「まぶゆ地蔵尊」。
棟門の向こうに入口が見えます。
坑内に湯溜め槽はありますが現在は入浴できず、槽の脇に御座す湯かけ地蔵尊の患部と同じところに、病気平癒を祈念しつつお湯を掛けると霊験ありとされています。
坑内各所には石膏らしき析出が出て、温泉湧出坑であることを物語ります。
坑内の最奥には子宝祈願にご利益あらたかとされる夫婦神社が御鎮座で、御神体がお祀りされています。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
観光客の参詣も多いためか、手慣れたご対応でした。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
→ 土肥温泉 「屋形共同浴場」の入湯レポ
■ 第87番 専修山 大行寺(だいぎょうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
沼津市Web
沼津市戸田926
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:本堂
土肥からふたたび長駆し、戸田の第87番大行寺に向かいます。
戸田も古くからの西伊豆の要衝ですが、伊豆にしてはめずらしく温泉がありませんでした。
昭和61年、念願の温泉掘削に成功し晴れて西伊豆の温泉地に名を連ねました。
戸田湾周辺は「駿河トラフ」に位置し、最深部は水深2,500メートルにも達します。
ここに富士山の豊富な湧き水が注ぎ、他ではみられないめずらしい魚種が揚がります。
なかでもタカアシガニと手長エビ(アカザエビ)はグルメ垂涎のレアアイテムで、これを求めて多くの観光客が訪れます。
戸田から駿河湾越しに眺める富士山は絶景で、温泉、グルメ、眺望の三拍子揃った観光地として近年人気を集めています。
大行寺は戸田のほぼ街なか、大川の河畔にある浄土宗寺院です。
火災により寺伝等を焼失しているので、情報の少ないお寺さまです。
『豆州志稿』には「天正四年(1576年)僧三譽創立 観音堂在寺域」とあるのみです。
『こころの旅』には天正四年(1576年)心蓮社三譽上人を開山とし、宗祖法然上人直示の「専修称名念仏」の教示を得て山・院号として草創とあります。
こちらは幕末の歴史で知られています。
安政年間(1855-1860年)、来日中のロシア使節プチャーチン提督は、安政東海大地震により座乗鑑ディアナ号を失い、代鑑建造のため戸田に滞在していました。
幕府は先に締結した和親条約改訂のため、勘定奉行・川路聖謨を全権特使として戸田へ出向させ、川路は大行寺を応接所として交渉にあたりました。
当山はこの歴史を受け「日露交渉地跡大行寺」として、沼津市の史跡に指定されています。
現在の建物は入浜の旧水野領の名主・斎藤本家邸を移築したもので、民家の移築につき本堂は書院造りとなっています。
『豆州志稿』には「戸田村 浄土宗 東京芝増上寺末 本尊阿彌陀 天正四年(1576年)僧三譽創立 観音堂在寺域」とあります。
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【写真 上(左)】 大川と大行院
【写真 下(右)】 山内入口
【写真 上(左)】 札所案内
【写真 下(右)】 山内
大川の河畔に面した寺院。山門はなく、門柱が山内入口になります。
正面に背後に山を背負って本堂。
【写真 上(左)】 六字御名号
【写真 下(右)】 寺号標
上記のとおり民家の移築なので書院造りですが、外観は寄棟造桟瓦葺で向拝を附設しています。
向拝見上げに山号扁額。そのうえに笈形付大瓶束と棟上に鬼板を置いています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
山内の一画に宝形造銅板葺の堂宇があり、扁額に「施無畏」とあるので観音堂とみられます。
こちらの観音堂には海中出現と伝わる秘仏の聖観世音菩薩像が御座し、4年に一度の御開帳です。
【写真 上(左)】 観音堂?
【写真 下(右)】 観音堂?の向拝
また、山内のソテツは「大行寺の蘇鉄」として天然記念物に指定されています。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
→ 戸田温泉 「壱の湯」の入湯レポ
■ 第88番 奥の院 正覚院
伊豆市観光情報Web
伊豆市観光ガイドWeb
伊豆半島ジオパークWeb
伊豆市観光協会修善寺支部Web
伊豆市修善寺2940-1
宗派:
御本尊:
札所本尊:
他札所:-
授与所:庫裡ないし第88番修禅寺
戸田の第87番大行寺から江梨の第85番航浦院に向かう行程も考えられますが、こちらはすでにご紹介しているので、いよいよ第88番結願の修禅寺です。
じつは修禅寺には「奥の院」(正覚院)があって、専用納経帳にも用紙が綴じ込まれています。
納経結願所は修禅寺なので、先に「奥の院」(正覚院)のご紹介をします。
『豆州志稿』、伊豆市Web資料等を基にまとめてみます。
「奥の院」(正覚院)は、修禅寺温泉からいろは道を辿り約5㎞西の湯舟集落にあります。
延暦十年(791年)に18歳の弘法大師が修業をされた所といわれています。
この地にはかつて天魔地妖が多く棲み、住民を煩わせていました。
弘法大師修行の折にも妨げをなしたので、弘法大師は天空に向かって大般若経の魔事品を書かれ、天魔地妖を岩谷(馳籠(かりごめ)の窟(いわや))に封じ込めたと伝わります。
『豆州志稿』には「正覚院 奥之院ト云 修禅寺ニ属ス 修禅寺ヨリ三十町許山中ニ在リ 弘法行状記曰 伊豆國桂谷ト云山寺ニ下リテ佛法修行シ玉ヒケルニ 此寺固ヨリ魔縁多キ所ニテ イカニモ障難アリケレハ 大師虚空蔵ニ向ヒ魔事品ヲ書セ玉ヒケリ 其後天魔モ境ヲ去リ 佛法モ廣マリレリ 大師大日ノ像ヲ造リテ安置シ玉ヘリ 今修禅寺ト申ス是也ト(今修禅寺ト申ス是也ト云ハ誤也) 按スルニ元●釋書ニ所謂 桂谷山寺トハ即此院也ト云傳フ 大日ノ像及驅籠ノ窟皆此ニ在リ 中比衰廃セシヲ 弘治丁巳(1557年)ニ山キト云夫人 北條氏康ニ詑テ堀越六郎(此人及山キ何人ナルカ 今其文書ヲ見ルニ貴人ト思ハル 蓋堀越御所政知ノ遺族ナル可シ 山木ノ事新編相模風土記曰 高源院長流泉香大姉ハ 北條氏直ノ妹(或ハ姉)ニテ 山木御大方ト称ス(略)氏直ハ氏政ノ後●堀越六郎ノ事未考)追福ノ為ニ寺領ヲ寄附シ 修禅寺隠居明山ヲシテ興廃セシム ナホ享保五年(1720年)修禅寺十六世筏山再建ス 今又僅ノ茅堂トナレリ」とあります。
毎年4月20日~21日の春季弘法忌には、弘法大師像を修禅寺より御輿で運び、こちらに1日安置する「お上りお下り」という行事が催行されています。
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修禅寺には「修禅寺桂谷(けいこく)八十八ヶ所」という霊場があります。
この霊場は昭和5年に修禅寺38世丘珠学が、四国八十八ヶ所霊場の土を修禅寺の桂谷に移され、桂谷八十八ヶ所として弘法大師のお像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立したものと伝わります。
【写真 上(左)】 第60番札所
【写真 下(右)】 第61番札所
初番は修禅寺で、第19番は葭原観音堂、第44番が指月殿そば、第54番で修善寺市街を出て桂川~湯船川沿いに進み、第68番~第71番は 奥の院(正覚院)周辺にあります。
一旦北又川を遡って中島橋に戻り、神谷橋を経て第80番で修善寺市街に入り、第88番結願所は修禅寺山内です。
この札所配置をみると奥の院(正覚院)はハイライトで、修禅寺から 奥の院(正覚院)を詣でる霊場(札所巡り)とみることができるかもしれません。
毎年11月上旬には、3日間かけて札所を巡るツアーが催行されています。
車で巡拝しても、そのアプローチは桂谷八十八ヶ所と重なります。
なので道中、いくつもの札所石碑をみることができます。
【写真 上(左)】 奥の院への道-1
【写真 下(右)】 奥の院への道-2
こちらは観光地でもなく、行く先は行き止まりなので通行量はすこぶる少なく、観光客や車でごったがえす修善寺市街とはまったく雰囲気がことなります。
いくつかの石碑をみながら明るい山村の道を辿っていきます。
ひとしきり走ると公園「奥の院阿字苑」に到着で、たしかこちらの駐車場に停めたかと思います。
【写真 上(左)】 奥の院駐車場
【写真 下(右)】 寺号標
ここは谷間にやや開けた一画で、さすがに伊豆有数のパワスポといわれるだけあって、山内入口からしてただならぬ雰囲気がただよっています。
【写真 上(左)】 奥の院参道-1
【写真 下(右)】 奥の院参道-2
複雑な山内構成なので詳細の説明は省きますが、メインは本堂と阿吽の滝・馳籠の窟かと思われます。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、向かって右手が庫裡のようです。
水引虹梁上の中備に板蟇股、正面格子扉の上に「修禅寺奥院」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
【写真 上(左)】 本堂前の掲示
【写真 下(右)】 山内の札所掲示
本堂向かって右側にある真新しい建物は護摩堂かと思われます。
【写真 上(左)】 護摩堂?
【写真 下(右)】 冠木門
阿吽の滝・馳籠の窟は、本堂への参道を向かって右に折れて急な階段を昇った高みにあります。
本堂への参道と直交するかたちで、階段手前にある冠木門は阿吽の滝・馳籠の窟の門かと思われます。
【写真 上(左)】 内湯
【写真 下(右)】 露天
参道階段を昇った正面が阿吽の滝、周囲には多くの石像と石碑。
阿吽の滝の飛沫をかぶるところに弘法大師像が御座され、この場所が「降魔壇」といわれる修行石かもしれません。
滝壺まわりは板状節理と呼ばれる巨石が折り重なり、どちらが馳籠の窟かはわかりませんでした。
さすがに東国有数の弘法大師霊場。
あたりは身が引き締まるような荘厳な気にあふれています。
勤行式は本堂と阿吽の滝両方でお唱えました。
たしかにパワスポだとは思いますが、観光や物見遊山で訪れる場所ではないような気がしました。
御朱印は、ご住職がいらっしゃるときはこちらでいただけるようですが、ご不在時は修禅寺授与所での拝受となります。
参拝時はご不在でしたので、修善寺で拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 奥之院 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(しゅぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市観光情報Web
伊豆市観光協会修善寺支部Web
伊豆市観光ガイドWeb
静岡県観光協会Web
伊豆市修善寺964
曹洞宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第33番
授与所:授与所
いよいよ第88番修禅寺。伊豆八十八ヶ所の結願です。
修禅寺は、修善寺温泉の中心にあって数々の逸話を伝える伊豆を代表する名刹で、正式名称を福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)といいます。
延暦十年(791年)弘法大師が18歳のとき当地を訪れて悪魔降伏の法を修され、大同二年(807年)に再訪されて開基と伝わります。
よって開創時は真言宗で、桂谷山寺と号していたようです。
なお、弘法大師の弟子の泉隣が大師を輔けて建立、大師を開基開山としたという説もあります。
鎌倉時代に北条氏が帰依して大寺としての伽藍を整えたといいます。
また、修禅寺と号したのも鎌倉時代とみられています。
源範頼公は兄の将軍頼朝公から猜疑を受けて当地に幽居、自刃したともいわれています。
鎌倉2代将軍頼家公は謀略により幽閉され、この地で生涯を終えたと伝わるなど、源家にとっては悲劇の地でもあります。
鹿山の麓にある指月殿は、北条政子が子・頼家公追善のために建立した経堂と伝わり、自ら「宋版放光般若経」を納経したと伝わります。
建長年間(1249-1256年)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧・大覚禅師)が住し、周囲の風景が楊州の廬山に似ていることから肖廬山と号し、臨済宗に改めました。
康安元年(1361年)、畠山国清と足利基氏との戦のあおりを受け、應永九年(1402年)には火災で伽籃を全焼して寺は衰退したといいます。
延徳元年(1489-1492年)、北条早雲が再興外護し、寺運は再び隆盛しました。
北条早雲は一族で遠州石雲院の崇芝性岱の弟子となっていた隆渓繁紹を住職に招聘し、このとき曹洞宗に改め山号も福地山と改めました。
徳川家康公も後北条氏の外護を踏襲し、寺領三十石の朱章が承継されました。
幕末の文久三年(1863年)、火災により伽藍や宝物を焼失しますが、明治16年に本堂が再建されています。
平成26年9月には山門の修復に伴い仁王堂が新設され、指月殿に安置されていた金剛力士像が山門仁王堂に安置されました。
なお、修禅寺の由緒沿革は『修禪寺夜話』に詳しいとされますが、筆者は閲覧しておりません。
『豆州志稿』には「肖廬山 修禅寺肖廬山 修禅寺 修善寺村 曹洞宗 遠州榛原郡坂口石雲院末 本尊聖観世音 或ハ修善守ニ作ル 元福地山 修禅萬安禅寺ト号ス 弘法大師創建ス(略)寺記曰弘法大師十八歳ノ時来リテ 悪魔降伏ノ法ヲ修ス 後大同二年(807年)再来リテ 佛像数躯及自像ヲ刻ミ安置スト 其後建長中(1249-1256年)僧蘭溪(鎌倉建長寺開山大覺禅師也)来住シ臨済宗ニ改ム 建治年中(1275-1278年)鎌倉建長寺ノ派下トナル 蘭溪宗國ノ人也 此地楊州廬山ニ彷彿スルヲ以テ 更ニ肖廬山ト号ス 当寺宗理宗額ヲ贈テ曰ク 大宗敕賜大東福地肖廬山修禅寺ト 此古額文久三年(1863年)焼失ス 尋テ正安中(1299-1302年)僧寧一山来住ス 一山ハ元ノ人 平貞時当國ニ放流スル所也(略)小田原北條氏隆渓禅師(禅師当國北條ノ人遠州石雲院崇芝ノ法嗣也 其傳聯燈録ニ在リ(略))ト俗縁アルヲ以テ修禅寺ヲ重修シ 禅師ヲ住セシム 此時ヨリ曹洞宗トナリ 遠州可睡齋ニ隷ス 時ニ延徳年中(1489-1492年)也 爾来北條氏歴世寺領ヲ附ス 徳川家康先例に従ヒ三十石ノ朱章ヲ賜ヒ世襲セシム 昔ハ巨刹ニシテ八塔司アリキ 正覚院 東陽院(今廃ス) 信功院(今廃ス其址日枝神社ノ下ニ在リ傳云源範頼茲(ここ)ニ幽セラルト) 今尚存ス松竹院 日窓寺 梅林院 牟経寺 放光院 皆廃ス 古ハ修禅寺佛殿ハカリニテ 東陽院其事ヲ執行フ 総門ハ十町許 東横瀬ニ大門等アリ 文久三年(1863年)二月回禄ノ災ニ罹リ 以上ノ堂宇皆灰燼ニ帰ス 明治廿年再建ノ功ヲ竣ル 一切経蔵(源頼家追福ノ為ニ二位尼(北条政子)建立ス)ハ源頼家ノ墓ノ傍ニ在リ 牓シテ指月殿ト曰ク 経ハ乃二位尼所納(略)征夷大将軍左金吾督源頼家菩提ノ為ニ 尼之ヲ置クト 尼公ノ手書ト見ユ 又爪起(つまおこし)ノ名号 日蓮自筆ノ法華経(略)ヲ蔵ム」とあります。
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修禅寺は伊豆屈指の名刹で関連Webも多数あるので、山内のご案内は簡単にいきます。
桂川には風情ある5つの橋がかかり、いずれも観光スポットとなっています。
「渡月橋」が有名ですが、修禅寺参道正面の橋は「虎渓橋」(こけいばし)といいます。
【写真 上(左)】 虎渓橋
【写真 下(右)】 独鈷の湯-1
【写真 上(左)】 独鈷の湯-2
【写真 下(右)】 弘法大師碑と参道階段
「虎渓橋」を渡った右手の河畔には、弘法大師が病気の父親の身体を洗う少年の孝行心に打たれ、独鈷杵で岩を打ち砕かれて霊泉を湧出させ、この霊泉に浸かった父親の病はたちまち癒えたという「独鈷の湯」があります。
この「独鈷の湯」は修善寺温泉発祥の湯ともいわれ、以前は公衆浴場として入湯できましたが現在は見学のみとなっています。
橋のたもとから参道で、石の階段と手前に通種子「ア」と弘法大師の文字が彫られた石標があります。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、見上げには扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水舎の扁額
【写真 上(左)】 手水鉢と析出
【写真 下(右)】 山内
山門の先右手に手水舎があり、上部に「桂谷霊泉 大師の湯」の扁額。
こちらでは温泉が流され、温泉分析書も掲示されていました。(写真不鮮明で誤りあるかもしれません。)
源泉名は修善寺22号(瑞泉第2)、同26号(白井田泉)、同29号(五十(?)泉)、同41号(仁泉)、同58号(白井(?)の湯)、同63(?)号(●●小山泉)の混合泉。
泉温60.1℃、pH8.51、成分総計=0.547g/kgのアルカリ性単純温泉(Na-Cl・SO4型)です。
湯口には温泉特有の析出が出て、やわらかな湯の香もありました。
旁らには「この温泉は飲むことができます。」の掲示もあったので、こちらのお湯は源泉かけ流しかと。
しかし、手水舎で温泉の飲泉ができるとは、さすがに名湯・修善寺温泉の寺院です。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 六地蔵尊
左手には鐘楼と六地蔵尊。
周囲は修善寺らしい楓樹と竹林で、絵になるところです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
正面が本堂。
山内のふところはさほどありませんが、さすがに名刹の風格を醸しています。
入母屋造桟瓦葺で、千鳥破風と唐破風の二重破風を拝した向拝を附設しています。
唐破風下に朱雀?の彫刻、上に鬼板、千鳥破風に蕪懸魚、経の巻獅子口を置く変化のある意匠。
【写真 上(左)】 横からの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
名刹だけに向拝柱は4本。
水引虹梁木鼻に獅子を置き、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ梁、中備には彫刻群。
向拝桟唐戸の上には寺号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 破風部の意匠
【写真 下(右)】 授与所
御本尊の木造大日如来坐像は、昭和59年の解体修理の際に発見された墨書から承元四年(1210年)、慶派仏師の実慶による造立と判明し国の重要文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 弘法大師塔
本堂向かって左手には弘法大師のお像。
こちらは禅刹ですが、やはりいまでも「お大師様のお寺」なのだと思います。
宝物館(瑞宝蔵)には、修禅寺物語ゆかりの古面などが展示されています。
御朱印は本堂向かって右の授与所にて拝受しました。
こちら様のご対応はとても親切で、専用納経帳の御朱印に「結願」の揮毫をいただけました。
有料ですが結願証も授与されているとのことでしたので、こちらも拝受しました。
曹洞宗寺院ですが、御本尊は大日如来、御朱印尊格も大日如来で、修禅寺の歴史や性格を物語るものです。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 大日如来 /主印はいずれも御寶印(金剛界大日如来の種子「バン」)
【写真 上(左)】 専用納経帳(結願の御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の結願証 〕
【写真 上(左)】 結願証
【写真 下(右)】 お祝いのことば
〔 東海バスのパンフ掲載地図 〕
これで伊豆八十八ヶ所は無事結願です。
発願から結願まで数年を要した長丁場でしたが、歴史の香りや趣きのある札所が多く、充実の巡拝となりました。
事務局さんでは、いろいろと企画も展開されている模様なので、伊豆の湯旅を兼ねて、じっくりゆったりまわってみるのも面白いかと思います。
【 BGM 】
■ Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach - 杏里
〔 From 『Heaven Beach』(1982)〕
■ Over and Over - Every Little Thing
■ 未来 - Kalafina
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11からつづく。
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12
旧第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)
〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。
■ 旧第85番 授寶山 大聖寺(だいしょうじ)
西伊豆町観光協会Web
西伊豆町安良里315
臨済宗円覚寺派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:-
授与所:龍泉寺(西伊豆町安良里浜川東14、現行の対応不明)
伊豆八十八ヶ所霊場の第85番札所でしたが、平成31年4月24日より沼津市西浦江梨の満行山 航浦院(旧別格第8番)に交替している模様です。
新旧いずれも巡拝し、御朱印を拝受しているのでご紹介します。
禅刹ながら密寺系の教不動尊霊場のイメージが強い古刹です。
『豆州志稿』『こころの旅』掲載の旧記によると、当山御本尊の不動尊は聖徳太子が刻され、文覚上人が苦行中に授けられた尊像で、かつては大きな滝のそばに御座していたといいます。
後醍醐帝の御代(1288-1339年)泰庵阿闍梨が現在地に不動尊を遷し奉安されて、真言宗寺院を開創と伝わります。
天文年間(1532-1555年)に臨済宗の高岳妙本(光嶽和尚とも)が山号を授寶山、寺号を大聖寺と号され臨済宗に改めて、奈古谷の國清寺の配下になりました。
西伊豆町Web資料によると、御本尊の不動明王は「波切不動」とも呼ばれ、安政の大地震による大津波がここで止まったと伝わるそうです。
御本尊は秘仏で、甲子に本開帳、甲午に中開帳で30年に一度の御開帳です。
『豆州志稿』には「安良里村 臨済宗円覚寺派 田方郡奈古谷國清寺末 本尊不動 大瀑布ニ石不動ノ古佛アリキ 後醍醐帝ノ時(1288-1339年) 泰庵阿闍梨此寺ヲ●メ 不動ヲコヽニ移ス 伊豆峯記ニ此寺ヲ不動ノ別当トス 泰庵善書ノ名アリ 大般若経ノ内三百巻ヲ謄写シテ伊濱普照寺ニ収ム 泰庵ヨリ後二百余年 光嶽和尚ノ時 真言ヲ改メ國清寺ニ隷ス(時ニ天文中(1532-1555年)ナリ) 舊記及泰庵ノ傳皆焼亡シヌ 近頃戌子ノ山水ニ寺押流サレテ 今草堂ノ如シ」とあります。
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この霊場は西伊豆町に入ると急に札所間の距離が長くなります。
仁科の第84番法眼寺から伊豆西海岸沿いに国道136号を北上し、堂ヶ島、田子の集落を通過して到着した安良里の港町から数百m山側に入ったところにあります。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 駐車場から
山内は急斜面の山肌ですが、登り口に駐車場がありアプローチは比較的楽です。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 手水舎
参道入口の橋を渡って鐘楼の先から急な階段が始まります。
右手はうっそうとした森のなかに小滝が連続し、傍らには石像や石碑が並んでパワスボ的オーラを放っています。
もしかするとこちらが本来の不動尊霊場だったのかもしれません。
【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 不動尊の石像
参道階段両脇には「大聖不動明王」の赤いのぼりがたち並び、不動尊霊場の趣きゆたか。
昇り切った正面が本堂。
入母屋造桟瓦葺流れ向拝平入りで、堂前に狛犬二対を配しています。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝-1
水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に迫力のある龍の彫刻で見応えがあります。
正面桟唐戸でその上に山号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
大聖寺は現在この霊場の札所ではないので、霊場巡拝者はほぼいないかと思います。
30年に一度の御開帳を待つ、静かな不動尊霊場に戻ったのでしょうか。
御朱印は円覚寺百観音霊場第35番の龍泉寺(西伊豆町安良里浜川東14)で拝受していますが、現在の御朱印対応は不明です。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 不動明王 /主印はいずれも御寶印(種子「バン?」)
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第86番 吉祥山 安楽寺(あんらくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市観光情報Web
伊豆市観光協会土肥支部Web
伊豆市土肥711
曹洞宗
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡
土肥は松崎とならぶ西伊豆の要衝ですが、松崎に多くの札所があったのに対し土肥にはわずか1札所と対照的です。
大聖寺が札所から外れた現在、第84番仁科の法眼寺から長駆しての到着です。
土肥は西伊豆を代表する温泉地で、土肥金山の観光施設もあるため西伊豆観光では外せません。
こちらは金山採掘中の坑道より温泉が湧出し、入浴したところ病気が平癒したといういわれが残る「まぶ湯」のあるお寺です。
「まぶ湯」は土肥温泉発祥の湯とされ、「医王泉」「鉱山の湯」「砂金風呂」とも呼ばれて、かつては多くの人が薬効を求めて入浴しましたが、現在は入浴できません。
創建は天智天皇二年(663年)ともされる古刹で、行基菩薩が当地巡錫の際、国家鎮護の本地であると祭祀され、自ら釈迦如来像を彫り上げて奉安したのが創始と伝わります。
当初は密宗で医王山大泉寺と号しました。
一時衰退したものの天文三年(1534年)、大用精賢禅師(最勝院8世)が再興され寺号を安楽寺に改め、曹洞宗となりました。
『豆州志稿』には「土肥村 曹洞宗 賀茂郡宮上最勝院末 本尊釋迦 密宗ノ古刹ニシテ大泉寺ト号ス 天文中(1532-1555年)僧大用再興シテ安楽寺ト改ム 吾寶(最勝院開山)ノ徒大用和尚(最勝院八世)ノ時ヨリ宮上最勝院下ト為ル 大用ハ永禄二年(1559年)化ス(略)寺域ニ鉱湯アリ 采金鉱ヨリ湧出ス(千手院寺域)」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 大クス
【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 寺号標
土肥港に注ぐ山川の山側にありますが、ほぼ土肥市街の中心エリアです。
山内入口に切妻屋根銅板葺の大ぶりの薬医門で山号扁額を掲げています。
門前に寺号標。
門前にあるクスは推定樹齢1000年、樹高25m、根回り14.2mの巨木で「安楽寺のクス」として静岡県指定天然記念物に指定されています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
南向きの明るい山内で、参道まわりは庭園をなして風趣があります。
石橋を渡り、右に鐘楼、正面が本堂です。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 札所標
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺で隅棟の長い、やや変わった意匠です。
向拝正面格子扉の上に掲げられた扁額は、達筆すぎて読めません。
軒裏は二軒の疎垂木ながら、どこか存在感があります。
【写真 上(左)】 分析表
【写真 下(右)】 地蔵尊
本堂内には「まぶ湯」のお寺らしく、明治37年の分析表が掲げられていました。
泉温77度、固形物総量1.624g/kgの塩類泉で石膏泉系の泉質と思われます。
本堂手前向かって右に誕生佛。左に聖観世音菩薩の立像。
別に地蔵堂があって、端正な地蔵菩薩立像が御座されています。
【写真 上(左)】 まぶ湯入口
【写真 下(右)】 まぶゆ地蔵
「まぶ湯」は山内山手にあり、庫裡で拝観料を払ってから入坑します。
入口に掲示の由来書によると、慶長十五年(1610年)当地に金鉱があり間部彦平がここから金を採掘していたところ、当山住職家翁隣仙大和尚が病を患いました。
当山の薬師如来に二十一日間の病平癒の祈願をおこなったところ、満願の日に「汝にいで湯を授けん」とのお告げがありました。
すると金鉱の岩間から霊湯が湧出しました。
すぐに金の採掘を止め、大和尚が薬師如来を拝しつつ湯浴みしたところ、病はたちまち癒えました。
大和尚のみならず、湯浴みした病人はいずれも平癒したので病に霊験あらたかと伝わり、遠近から湯治客が集まりました。
人々は金鉱から湧出したことからこのお湯を「鉱(まぶ)の湯」と名づけ、あり難く湯浴みにいそしんだといいます。
【写真 上(左)】 坑口
【写真 下(右)】 湯溜め槽と湯かけ地蔵尊
【写真 上(左)】 坑内
【写真 下(右)】 夫婦神社
入口の数体の「まぶゆ地蔵尊」。
棟門の向こうに入口が見えます。
坑内に湯溜め槽はありますが現在は入浴できず、槽の脇に御座す湯かけ地蔵尊の患部と同じところに、病気平癒を祈念しつつお湯を掛けると霊験ありとされています。
坑内各所には石膏らしき析出が出て、温泉湧出坑であることを物語ります。
坑内の最奥には子宝祈願にご利益あらたかとされる夫婦神社が御鎮座で、御神体がお祀りされています。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
観光客の参詣も多いためか、手慣れたご対応でした。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
→ 土肥温泉 「屋形共同浴場」の入湯レポ
■ 第87番 専修山 大行寺(だいぎょうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
沼津市Web
沼津市戸田926
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:本堂
土肥からふたたび長駆し、戸田の第87番大行寺に向かいます。
戸田も古くからの西伊豆の要衝ですが、伊豆にしてはめずらしく温泉がありませんでした。
昭和61年、念願の温泉掘削に成功し晴れて西伊豆の温泉地に名を連ねました。
戸田湾周辺は「駿河トラフ」に位置し、最深部は水深2,500メートルにも達します。
ここに富士山の豊富な湧き水が注ぎ、他ではみられないめずらしい魚種が揚がります。
なかでもタカアシガニと手長エビ(アカザエビ)はグルメ垂涎のレアアイテムで、これを求めて多くの観光客が訪れます。
戸田から駿河湾越しに眺める富士山は絶景で、温泉、グルメ、眺望の三拍子揃った観光地として近年人気を集めています。
大行寺は戸田のほぼ街なか、大川の河畔にある浄土宗寺院です。
火災により寺伝等を焼失しているので、情報の少ないお寺さまです。
『豆州志稿』には「天正四年(1576年)僧三譽創立 観音堂在寺域」とあるのみです。
『こころの旅』には天正四年(1576年)心蓮社三譽上人を開山とし、宗祖法然上人直示の「専修称名念仏」の教示を得て山・院号として草創とあります。
こちらは幕末の歴史で知られています。
安政年間(1855-1860年)、来日中のロシア使節プチャーチン提督は、安政東海大地震により座乗鑑ディアナ号を失い、代鑑建造のため戸田に滞在していました。
幕府は先に締結した和親条約改訂のため、勘定奉行・川路聖謨を全権特使として戸田へ出向させ、川路は大行寺を応接所として交渉にあたりました。
当山はこの歴史を受け「日露交渉地跡大行寺」として、沼津市の史跡に指定されています。
現在の建物は入浜の旧水野領の名主・斎藤本家邸を移築したもので、民家の移築につき本堂は書院造りとなっています。
『豆州志稿』には「戸田村 浄土宗 東京芝増上寺末 本尊阿彌陀 天正四年(1576年)僧三譽創立 観音堂在寺域」とあります。
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【写真 上(左)】 大川と大行院
【写真 下(右)】 山内入口
【写真 上(左)】 札所案内
【写真 下(右)】 山内
大川の河畔に面した寺院。山門はなく、門柱が山内入口になります。
正面に背後に山を背負って本堂。
【写真 上(左)】 六字御名号
【写真 下(右)】 寺号標
上記のとおり民家の移築なので書院造りですが、外観は寄棟造桟瓦葺で向拝を附設しています。
向拝見上げに山号扁額。そのうえに笈形付大瓶束と棟上に鬼板を置いています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
山内の一画に宝形造銅板葺の堂宇があり、扁額に「施無畏」とあるので観音堂とみられます。
こちらの観音堂には海中出現と伝わる秘仏の聖観世音菩薩像が御座し、4年に一度の御開帳です。
【写真 上(左)】 観音堂?
【写真 下(右)】 観音堂?の向拝
また、山内のソテツは「大行寺の蘇鉄」として天然記念物に指定されています。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
→ 戸田温泉 「壱の湯」の入湯レポ
■ 第88番 奥の院 正覚院
伊豆市観光情報Web
伊豆市観光ガイドWeb
伊豆半島ジオパークWeb
伊豆市観光協会修善寺支部Web
伊豆市修善寺2940-1
宗派:
御本尊:
札所本尊:
他札所:-
授与所:庫裡ないし第88番修禅寺
戸田の第87番大行寺から江梨の第85番航浦院に向かう行程も考えられますが、こちらはすでにご紹介しているので、いよいよ第88番結願の修禅寺です。
じつは修禅寺には「奥の院」(正覚院)があって、専用納経帳にも用紙が綴じ込まれています。
納経結願所は修禅寺なので、先に「奥の院」(正覚院)のご紹介をします。
『豆州志稿』、伊豆市Web資料等を基にまとめてみます。
「奥の院」(正覚院)は、修禅寺温泉からいろは道を辿り約5㎞西の湯舟集落にあります。
延暦十年(791年)に18歳の弘法大師が修業をされた所といわれています。
この地にはかつて天魔地妖が多く棲み、住民を煩わせていました。
弘法大師修行の折にも妨げをなしたので、弘法大師は天空に向かって大般若経の魔事品を書かれ、天魔地妖を岩谷(馳籠(かりごめ)の窟(いわや))に封じ込めたと伝わります。
『豆州志稿』には「正覚院 奥之院ト云 修禅寺ニ属ス 修禅寺ヨリ三十町許山中ニ在リ 弘法行状記曰 伊豆國桂谷ト云山寺ニ下リテ佛法修行シ玉ヒケルニ 此寺固ヨリ魔縁多キ所ニテ イカニモ障難アリケレハ 大師虚空蔵ニ向ヒ魔事品ヲ書セ玉ヒケリ 其後天魔モ境ヲ去リ 佛法モ廣マリレリ 大師大日ノ像ヲ造リテ安置シ玉ヘリ 今修禅寺ト申ス是也ト(今修禅寺ト申ス是也ト云ハ誤也) 按スルニ元●釋書ニ所謂 桂谷山寺トハ即此院也ト云傳フ 大日ノ像及驅籠ノ窟皆此ニ在リ 中比衰廃セシヲ 弘治丁巳(1557年)ニ山キト云夫人 北條氏康ニ詑テ堀越六郎(此人及山キ何人ナルカ 今其文書ヲ見ルニ貴人ト思ハル 蓋堀越御所政知ノ遺族ナル可シ 山木ノ事新編相模風土記曰 高源院長流泉香大姉ハ 北條氏直ノ妹(或ハ姉)ニテ 山木御大方ト称ス(略)氏直ハ氏政ノ後●堀越六郎ノ事未考)追福ノ為ニ寺領ヲ寄附シ 修禅寺隠居明山ヲシテ興廃セシム ナホ享保五年(1720年)修禅寺十六世筏山再建ス 今又僅ノ茅堂トナレリ」とあります。
毎年4月20日~21日の春季弘法忌には、弘法大師像を修禅寺より御輿で運び、こちらに1日安置する「お上りお下り」という行事が催行されています。
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修禅寺には「修禅寺桂谷(けいこく)八十八ヶ所」という霊場があります。
この霊場は昭和5年に修禅寺38世丘珠学が、四国八十八ヶ所霊場の土を修禅寺の桂谷に移され、桂谷八十八ヶ所として弘法大師のお像と札所本尊の梵字、名号を刻んだ石碑を建立したものと伝わります。
【写真 上(左)】 第60番札所
【写真 下(右)】 第61番札所
初番は修禅寺で、第19番は葭原観音堂、第44番が指月殿そば、第54番で修善寺市街を出て桂川~湯船川沿いに進み、第68番~第71番は 奥の院(正覚院)周辺にあります。
一旦北又川を遡って中島橋に戻り、神谷橋を経て第80番で修善寺市街に入り、第88番結願所は修禅寺山内です。
この札所配置をみると奥の院(正覚院)はハイライトで、修禅寺から 奥の院(正覚院)を詣でる霊場(札所巡り)とみることができるかもしれません。
毎年11月上旬には、3日間かけて札所を巡るツアーが催行されています。
車で巡拝しても、そのアプローチは桂谷八十八ヶ所と重なります。
なので道中、いくつもの札所石碑をみることができます。
【写真 上(左)】 奥の院への道-1
【写真 下(右)】 奥の院への道-2
こちらは観光地でもなく、行く先は行き止まりなので通行量はすこぶる少なく、観光客や車でごったがえす修善寺市街とはまったく雰囲気がことなります。
いくつかの石碑をみながら明るい山村の道を辿っていきます。
ひとしきり走ると公園「奥の院阿字苑」に到着で、たしかこちらの駐車場に停めたかと思います。
【写真 上(左)】 奥の院駐車場
【写真 下(右)】 寺号標
ここは谷間にやや開けた一画で、さすがに伊豆有数のパワスポといわれるだけあって、山内入口からしてただならぬ雰囲気がただよっています。
【写真 上(左)】 奥の院参道-1
【写真 下(右)】 奥の院参道-2
複雑な山内構成なので詳細の説明は省きますが、メインは本堂と阿吽の滝・馳籠の窟かと思われます。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は寄棟造桟瓦葺流れ向拝で、向かって右手が庫裡のようです。
水引虹梁上の中備に板蟇股、正面格子扉の上に「修禅寺奥院」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
【写真 上(左)】 本堂前の掲示
【写真 下(右)】 山内の札所掲示
本堂向かって右側にある真新しい建物は護摩堂かと思われます。
【写真 上(左)】 護摩堂?
【写真 下(右)】 冠木門
阿吽の滝・馳籠の窟は、本堂への参道を向かって右に折れて急な階段を昇った高みにあります。
本堂への参道と直交するかたちで、階段手前にある冠木門は阿吽の滝・馳籠の窟の門かと思われます。
【写真 上(左)】 内湯
【写真 下(右)】 露天
参道階段を昇った正面が阿吽の滝、周囲には多くの石像と石碑。
阿吽の滝の飛沫をかぶるところに弘法大師像が御座され、この場所が「降魔壇」といわれる修行石かもしれません。
滝壺まわりは板状節理と呼ばれる巨石が折り重なり、どちらが馳籠の窟かはわかりませんでした。
さすがに東国有数の弘法大師霊場。
あたりは身が引き締まるような荘厳な気にあふれています。
勤行式は本堂と阿吽の滝両方でお唱えました。
たしかにパワスポだとは思いますが、観光や物見遊山で訪れる場所ではないような気がしました。
御朱印は、ご住職がいらっしゃるときはこちらでいただけるようですが、ご不在時は修禅寺授与所での拝受となります。
参拝時はご不在でしたので、修善寺で拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 奥之院 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(しゅぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
伊豆市観光情報Web
伊豆市観光協会修善寺支部Web
伊豆市観光ガイドWeb
静岡県観光協会Web
伊豆市修善寺964
曹洞宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:伊豆中道三十三観音霊場第33番
授与所:授与所
いよいよ第88番修禅寺。伊豆八十八ヶ所の結願です。
修禅寺は、修善寺温泉の中心にあって数々の逸話を伝える伊豆を代表する名刹で、正式名称を福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)といいます。
延暦十年(791年)弘法大師が18歳のとき当地を訪れて悪魔降伏の法を修され、大同二年(807年)に再訪されて開基と伝わります。
よって開創時は真言宗で、桂谷山寺と号していたようです。
なお、弘法大師の弟子の泉隣が大師を輔けて建立、大師を開基開山としたという説もあります。
鎌倉時代に北条氏が帰依して大寺としての伽藍を整えたといいます。
また、修禅寺と号したのも鎌倉時代とみられています。
源範頼公は兄の将軍頼朝公から猜疑を受けて当地に幽居、自刃したともいわれています。
鎌倉2代将軍頼家公は謀略により幽閉され、この地で生涯を終えたと伝わるなど、源家にとっては悲劇の地でもあります。
鹿山の麓にある指月殿は、北条政子が子・頼家公追善のために建立した経堂と伝わり、自ら「宋版放光般若経」を納経したと伝わります。
建長年間(1249-1256年)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧・大覚禅師)が住し、周囲の風景が楊州の廬山に似ていることから肖廬山と号し、臨済宗に改めました。
康安元年(1361年)、畠山国清と足利基氏との戦のあおりを受け、應永九年(1402年)には火災で伽籃を全焼して寺は衰退したといいます。
延徳元年(1489-1492年)、北条早雲が再興外護し、寺運は再び隆盛しました。
北条早雲は一族で遠州石雲院の崇芝性岱の弟子となっていた隆渓繁紹を住職に招聘し、このとき曹洞宗に改め山号も福地山と改めました。
徳川家康公も後北条氏の外護を踏襲し、寺領三十石の朱章が承継されました。
幕末の文久三年(1863年)、火災により伽藍や宝物を焼失しますが、明治16年に本堂が再建されています。
平成26年9月には山門の修復に伴い仁王堂が新設され、指月殿に安置されていた金剛力士像が山門仁王堂に安置されました。
なお、修禅寺の由緒沿革は『修禪寺夜話』に詳しいとされますが、筆者は閲覧しておりません。
『豆州志稿』には「肖廬山 修禅寺肖廬山 修禅寺 修善寺村 曹洞宗 遠州榛原郡坂口石雲院末 本尊聖観世音 或ハ修善守ニ作ル 元福地山 修禅萬安禅寺ト号ス 弘法大師創建ス(略)寺記曰弘法大師十八歳ノ時来リテ 悪魔降伏ノ法ヲ修ス 後大同二年(807年)再来リテ 佛像数躯及自像ヲ刻ミ安置スト 其後建長中(1249-1256年)僧蘭溪(鎌倉建長寺開山大覺禅師也)来住シ臨済宗ニ改ム 建治年中(1275-1278年)鎌倉建長寺ノ派下トナル 蘭溪宗國ノ人也 此地楊州廬山ニ彷彿スルヲ以テ 更ニ肖廬山ト号ス 当寺宗理宗額ヲ贈テ曰ク 大宗敕賜大東福地肖廬山修禅寺ト 此古額文久三年(1863年)焼失ス 尋テ正安中(1299-1302年)僧寧一山来住ス 一山ハ元ノ人 平貞時当國ニ放流スル所也(略)小田原北條氏隆渓禅師(禅師当國北條ノ人遠州石雲院崇芝ノ法嗣也 其傳聯燈録ニ在リ(略))ト俗縁アルヲ以テ修禅寺ヲ重修シ 禅師ヲ住セシム 此時ヨリ曹洞宗トナリ 遠州可睡齋ニ隷ス 時ニ延徳年中(1489-1492年)也 爾来北條氏歴世寺領ヲ附ス 徳川家康先例に従ヒ三十石ノ朱章ヲ賜ヒ世襲セシム 昔ハ巨刹ニシテ八塔司アリキ 正覚院 東陽院(今廃ス) 信功院(今廃ス其址日枝神社ノ下ニ在リ傳云源範頼茲(ここ)ニ幽セラルト) 今尚存ス松竹院 日窓寺 梅林院 牟経寺 放光院 皆廃ス 古ハ修禅寺佛殿ハカリニテ 東陽院其事ヲ執行フ 総門ハ十町許 東横瀬ニ大門等アリ 文久三年(1863年)二月回禄ノ災ニ罹リ 以上ノ堂宇皆灰燼ニ帰ス 明治廿年再建ノ功ヲ竣ル 一切経蔵(源頼家追福ノ為ニ二位尼(北条政子)建立ス)ハ源頼家ノ墓ノ傍ニ在リ 牓シテ指月殿ト曰ク 経ハ乃二位尼所納(略)征夷大将軍左金吾督源頼家菩提ノ為ニ 尼之ヲ置クト 尼公ノ手書ト見ユ 又爪起(つまおこし)ノ名号 日蓮自筆ノ法華経(略)ヲ蔵ム」とあります。
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修禅寺は伊豆屈指の名刹で関連Webも多数あるので、山内のご案内は簡単にいきます。
桂川には風情ある5つの橋がかかり、いずれも観光スポットとなっています。
「渡月橋」が有名ですが、修禅寺参道正面の橋は「虎渓橋」(こけいばし)といいます。
【写真 上(左)】 虎渓橋
【写真 下(右)】 独鈷の湯-1
【写真 上(左)】 独鈷の湯-2
【写真 下(右)】 弘法大師碑と参道階段
「虎渓橋」を渡った右手の河畔には、弘法大師が病気の父親の身体を洗う少年の孝行心に打たれ、独鈷杵で岩を打ち砕かれて霊泉を湧出させ、この霊泉に浸かった父親の病はたちまち癒えたという「独鈷の湯」があります。
この「独鈷の湯」は修善寺温泉発祥の湯ともいわれ、以前は公衆浴場として入湯できましたが現在は見学のみとなっています。
橋のたもとから参道で、石の階段と手前に通種子「ア」と弘法大師の文字が彫られた石標があります。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、見上げには扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 手水舎の扁額
【写真 上(左)】 手水鉢と析出
【写真 下(右)】 山内
山門の先右手に手水舎があり、上部に「桂谷霊泉 大師の湯」の扁額。
こちらでは温泉が流され、温泉分析書も掲示されていました。(写真不鮮明で誤りあるかもしれません。)
源泉名は修善寺22号(瑞泉第2)、同26号(白井田泉)、同29号(五十(?)泉)、同41号(仁泉)、同58号(白井(?)の湯)、同63(?)号(●●小山泉)の混合泉。
泉温60.1℃、pH8.51、成分総計=0.547g/kgのアルカリ性単純温泉(Na-Cl・SO4型)です。
湯口には温泉特有の析出が出て、やわらかな湯の香もありました。
旁らには「この温泉は飲むことができます。」の掲示もあったので、こちらのお湯は源泉かけ流しかと。
しかし、手水舎で温泉の飲泉ができるとは、さすがに名湯・修善寺温泉の寺院です。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 六地蔵尊
左手には鐘楼と六地蔵尊。
周囲は修善寺らしい楓樹と竹林で、絵になるところです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
正面が本堂。
山内のふところはさほどありませんが、さすがに名刹の風格を醸しています。
入母屋造桟瓦葺で、千鳥破風と唐破風の二重破風を拝した向拝を附設しています。
唐破風下に朱雀?の彫刻、上に鬼板、千鳥破風に蕪懸魚、経の巻獅子口を置く変化のある意匠。
【写真 上(左)】 横からの向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額
名刹だけに向拝柱は4本。
水引虹梁木鼻に獅子を置き、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ梁、中備には彫刻群。
向拝桟唐戸の上には寺号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 破風部の意匠
【写真 下(右)】 授与所
御本尊の木造大日如来坐像は、昭和59年の解体修理の際に発見された墨書から承元四年(1210年)、慶派仏師の実慶による造立と判明し国の重要文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 弘法大師塔
本堂向かって左手には弘法大師のお像。
こちらは禅刹ですが、やはりいまでも「お大師様のお寺」なのだと思います。
宝物館(瑞宝蔵)には、修禅寺物語ゆかりの古面などが展示されています。
御朱印は本堂向かって右の授与所にて拝受しました。
こちら様のご対応はとても親切で、専用納経帳の御朱印に「結願」の揮毫をいただけました。
有料ですが結願証も授与されているとのことでしたので、こちらも拝受しました。
曹洞宗寺院ですが、御本尊は大日如来、御朱印尊格も大日如来で、修禅寺の歴史や性格を物語るものです。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 大日如来 /主印はいずれも御寶印(金剛界大日如来の種子「バン」)
【写真 上(左)】 専用納経帳(結願の御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の結願証 〕
【写真 上(左)】 結願証
【写真 下(右)】 お祝いのことば
〔 東海バスのパンフ掲載地図 〕
これで伊豆八十八ヶ所は無事結願です。
発願から結願まで数年を要した長丁場でしたが、歴史の香りや趣きのある札所が多く、充実の巡拝となりました。
事務局さんでは、いろいろと企画も展開されている模様なので、伊豆の湯旅を兼ねて、じっくりゆったりまわってみるのも面白いかと思います。
【 BGM 】
■ Memorial Story~夏に背を向けて~Heaven Beach - 杏里
〔 From 『Heaven Beach』(1982)〕
■ Over and Over - Every Little Thing
■ 未来 - Kalafina
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印、 「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10からつづく。
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12へつづく。
旧第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)
〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。
■ 第80番 萬法山 帰一寺(きいちじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
松崎町Web
松崎町船田39
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第2番
授与所:庫裡
第80番は萬法山 帰一寺。松崎でも屈指の名刹です。
正安三年(1301年)一山一寧によって開かれ、当初は帰一庵と称していましたが、のちに帰一寺に改めたといいます。
Wikipediaによると、一山一寧(いっさんいちねい)は元からの渡来僧で、台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身です。
早くに出家し、律・天台を修めた後、臨済禅に転じて阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだとされます。
二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライの後を継いだ成宗は、日本との国交を結ぶべく、正安元年(1299年)一山一寧を朝貢督促の国使として日本へ派遣しました。
大宰府に入った一寧らは成宗の国書を執権・北条貞時に奉呈するものの、元寇再来をおそれた貞時は一寧らを伊豆修禅寺に幽閉しました。
修善寺に入られた一寧は禅の修養に専念、一寧の名声をきいて赦免を願い出る者もいたことから、貞時は幽閉を解き鎌倉近くの草庵に身柄を移しました。
鎌倉に入った一寧の名望を慕って多くの僧俗が草庵を訪れ、これを目の当たりにした貞時も疑念を解いて、建長寺を再建して住職に迎えたうえで自ら帰依したといいます。
深い学識と傑出した人柄で多くの人々から尊崇され、門下から雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出、みずからも能筆で知られその墨蹟は重要文化財に指定されています。朱子の新註を伝え、日本朱子学の祖ともされる名僧です。
円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和二年(1313年)には後宇多上皇の請願に応じるかたちで上洛、南禅寺3世となりました。
文保元年(1317年)南禅寺で示寂。花園天皇より一山国師と諡号されました。
一寧の開山として、下諏訪の慈雲寺、信州中野の太清寺、そして帰一寺が伝わります。
松崎町Webによると、一山国師のあと数代は公家の帰依僧が跡を継いだものの、しばしば火災にあい、多くの寺宝を焼失しています。
正保年間(1644-1648年)徳川3代将軍家光の治世に、代官伊奈兵蔵は当山が伊豆50ヶ寺の中本山との理由で寺領回復を上申し、御朱印地を拝領しています。
『豆州志稿』には「船田村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊観世音 釋一山正安元年(1299年)豆州ニ流サレシ時 庵ヲ造リ帰一ト称ス 巳ニシテ寺トシ一山ヲ祖トス 建長寺派下タリ 一山ハ即一寧 宗ノ台州胡氏ノ子ナリ 初元主我國ニ寇シテ敗●ス 至是一寧其密使旨ヲ承ケ来テ間諜ヲ為ス 平貞時激怒豆州ニ放流ス 後鎌倉建長寺ニ居ラシム 一山ノ書二●ヲ蔵ム 経蔵(内ニ辨財天ヲ安ス) 領舎 弥勒堂有リ 中本寺格ニシテ末寺廿四ヶ寺ヲ有ス」とあります。
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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
松崎市街から婆娑羅峠を越えて、稲梓に抜ける県道15号松崎下田線。
帰一寺はこの道を松崎市街から数㎞走ったところ、船田地区の小高い丘の上にあります。
参道入口に扁額を掲げて桟瓦葺の重厚な高麗門。扁額には「海南禅林」とあります。
ここから坂道&石段を登っていきます。
【写真 上(左)】 山門からのアプローチ
【写真 下(右)】 霊場供養塔
途中に伊豆八十八ケ所と伊豆横道三十三観音の供養塔がありました。
「伊豆新四国八十八箇所」とありますが、この霊場で「新四国」の表記があるのはめずらしいです。
【写真 上(左)】 参道と門
【写真 下(右)】 門
ひとしきり登ると正面に門。これはふたつめの門で中門かもしれません。
切妻屋根桟瓦葺の重厚な四脚門で、高く立ち上げた大棟に葵紋を掲げています。
控柱に虹梁を渡し、見上げには山号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 門の扁額
【写真 下(右)】 山内
くぐると正面に千鳥破風+唐破風桟瓦葺の建物。
左手には入母屋造桟瓦葺の立派な建物で「群龍殿」の扁額を掲げています。
右手の建物は庫裡かと思います。
【写真 上(左)】 左の建物(本堂?)
【写真 下(右)】 扁額
正面の建物は複雑な構成で、平入りか妻入りかもわかりませんでした。
正面と左手の建物の関係がよくわかりません。
【写真 上(左)】 中央の建物
【写真 下(右)】 中央の建物と庫裡
左の建物の堂内には寺号扁額と「慈光」の二つの扁額で三間構成なので、本堂御内陣の趣き。
中央の建物は観音堂かとも思いましたが、奥まったところに「萬法帰一」の扁額とその先は格子窓ごしに庭がみえます。
堂前に賽銭箱が置いてあるので、奥庭にある堂宇?の遙拝所的な位置づけなのかもしれません。
本堂の建立は弘化五年(1848年)、当初は茅葺でしたが現在は瓦葺に葺きかえられています。
べつに8代将軍吉宗のころ建立された六角形回転式の経蔵があるはずですが確認できず、伊豆の代表的名園とされる本堂裏の庭園もなぜか拝観していません。
ふつうこれだけナゾがあると、当然お寺の方に聴き込みに入るのですが、ナゾが解けていないところをみると、ご不在だったか、よほど急いでいたかのいずれかだと思います。
これだけの名刹を生兵法で説明するのはどうかと思うので(笑)、山内のご案内はこのくらいにしておきます。
御朱印は(たぶん)庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも「本尊観音」の印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
■ 第81番 富貴野山 寶蔵院(ほうぞういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町Web
松崎町観光協会Web
松崎町門野173-1
曹洞宗
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:延命地蔵菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第7番
授与所:寺役管理
松崎の山中ふかくに立地する弘法大師ゆかりの古刹。
『こころの旅』記載の『宝蔵院畧縁起』、松崎町Web資料等によると草創は以下のとおりです。
延暦十九年(800年)(大同3年(808年)とも)、27歳の弘法大師は伊豆巡錫中に仁科を訪れました。
弘法大師が当地で読経されていると、森の中の六本の巨木が六条の光を放ちました。
お大師様はこれを六道衆生の苦しみを救済する地蔵菩薩有縁のものと考えられ、ここを富貴野山地蔵金剛法蔵密院と名づけられました。
天長七年(830年)57歳のお大師様はふたたびこの地を訪れ、庵を修復しお堂を建てられて密法修行の地とされました。
室町時代には末寺88を有する大霊場として栄え、一時衰えたものの僧・岩仲によって再興開基され、以来文明年間(1469-1486年)まで伊豆第一の山岳仏教の霊地として繁栄したといいます。
その後荒廃していたところ、文亀年間(1501-1504年)、河津逆川村の普門院4世・清安が堂宇を整備、真言宗から曹洞宗に改宗し寶蔵院と号を改めました。
御本尊・地蔵菩薩の信仰は営々とつづき、とくに作物の虫除けに霊験あらたかとされました。
その参詣道は一色口、白川口、江奈口、門野口など多くあったため、高野山になぞらえて「富貴野の七口」と呼ばれたそうです。
『豆州志稿』には「門野村 曹洞宗 賀茂郡逆川普門院末 本尊地蔵 富貴ハ山名 山嶽ノ部ニ出ツ 弘法大師遊行ノ時 此ヲ見立テ寺ヲ創ム 今名証ナシト雖 古ヨリ的ニ相傳フ 他ノ仮託ニ出ルカ如キニ非ス 大師自所負ノ笈ナリトテ今ニ存ス(略)又庭中ニ手植ノ岩桂車蓋ノ如クナル有リキ 惜ムラクハ巳ニ枯死シテ無シ 尚空海ノ遺物ト傳フル鍋幷杖ヲ蔵ス(略)モト金剛密院ト称ス 僧岩忠ヲ中興祖トス 永禄天文ノ頃普門院四世清安和尚住シテヨリ宗旨改ル 是時ヨリ寶蔵院ト号ス」とあります。
また、子院として寶徳寺(同村 号金剛山)が記載されています。
『霊場めぐり』によると、昭和初期ごろまではご縁日(4月10日と7月24日)、ことに夏のご縁日は賑わって本堂には100人ほども参籠し、山上露店も出たといいます。
松崎町Web資料には「第二次大戦後は訪れる人も途絶えて、山深い寺は次第に荒れていった。戦争中戦後の伐採により、周りの山を失った寺は風雨の影響をまともに受けるようになり、昭和24年(1949年)のパトリシア台風によって山門が倒壊、昭和34年(1959年)8月14年の風台風で本堂も半壊、復旧困難なため取り壊されて、今は山門・本堂ともにその礎石を残すのみとなった。」とあります。
現在は「富貴野山21世紀の森」のなかに堂宇や遺跡が点在するかたちとなっています。
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【写真 上(左)】 登り口
【写真 下(右)】 参道-1
富貴野山は松崎市街地の北東にそびえる標高550mの山で、当山はその山腹にあります。
「富貴野山21世紀の森」というリラクゼーションエリアとなっていますが、かなり山深く、そのアプローチの長さは第8番益山寺と双璧です。
ただし路面はしっかりした舗装路なので、益山寺よりはアプローチは楽です。
「富貴野山21世紀の森」の駐車場に停めて、参道をのぼっていきます。
本来の参道は下の駐車場から少し下って大師橋を渡り、男坂ないし女坂経由の行程とみられます。
上の駐車場は本堂下にあるので、横着にもこちらに停めました。
さすがにお大師様ゆかりの霊山。あたりは清々しい空気に包まれています。
【写真 上(左)】 富貴野山稲荷
【写真 下(右)】 参道-2
駐車場そばに御鎮座の富貴野山稲荷は、当山の地主神あるいは鎮守かもしれません。
現地掲示によると、こちらには白山大権現が祀られているそうです。
舗装道をトラバース気味に歩いていくと、両側に石仏が並ぶ苔むした参道階段が出てきます。
そびえる杉木立の相間から陽射しが射し込み、雰囲気は抜群です。
こちらの石仏群は「宝蔵院石仏群」と呼ばれ、江戸時代に奉安されたもの。
約120体もの石仏はお大師様、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、地蔵尊、観音菩薩などさまざまで、信仰厚い村人たちが一体づつ背負って運び上げたとのこと。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道-3
参道階段をのぼり切ると広々とした平地が広がり、かつては伽藍が建ち並んでいたと思われるスケール感を感じます。
建物は3つ。
右手に長屋門?。正面がおそらく本堂、左手が開山堂です。
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2
【写真 上(左)】 長屋門
【写真 下(右)】 本堂
本堂は寄棟造銅板葺で、比較的新しい建立と思われます。
向拝柱はなく、左右の身舎柱に「豆國八十一番札所」「伊豆横道七番札所」の札番が掲げられています。
向拝見上げに院号扁額。右手には「富貴峯」の扁額も掲げられています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額-1
【写真 上(左)】 本堂扁額-2
【写真 下(右)】 御朱印案内
左手の開山堂は銅板葺宝形造で流れ向拝。
周囲に縁をめぐらし、相輪を立てた塔身の周囲に庇を降ろし、内側に身舎を抱く密教建築の山上伽藍です。
【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 開山堂向拝
水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に彫刻入りの板蟇股で、見上げに山号扁額。
正面の花狭間戸と左右の蔀戸が引き締まったイメージの意匠。
撮影角度が悪くて断言できないのですが、ひょっとすると天竺様の隅扇垂木かもしれません。
開山堂左手にある杉の大木は樹齢約400年。弘法大師の徳をしのび昔から「弘法杉」と呼ばれているそうです。
また、杉の根元にある二基の宝篋印塔は、曾我兄弟ゆかりと伝わります。
【写真 上(左)】 弘法杉
【写真 下(右)】 富貴野山からの展望
江戸時代の中期まで、寺庭に弘法大師お手植えと伝えられるモクセイ(モッコク・カツラとも)の巨木があったといいます。
また、お手植えのときにお大師様が遺された笈がいまも遺されているといいます。
御朱印は、本堂前に掲示されていた寺役さんに連絡をとり拝受しました。
寺役さんの納経所は山を下りた道沿いで、すぐにみつかりました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
■ 第82番 大悲山 慈眼寺(じげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
西伊豆町Web
西伊豆町一色56
臨済宗建長寺派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第6番
授与所:第83番東福寺
情報の少ない札所です。
始祖とされる復岩が明応三年(1494年)入寂であることから、開山はそれ以前、文明年間とみられています。
(延徳元年(1489年)、復山による開山という説もあり。)
正保元年(1644年)、僧・明山により再興されました。
赤穂四十七士のひとりで討ち入り後、大石の命を受け離脱した寺坂吉右ヱ門の墓があることで知られています。
『豆州志稿』には「一色村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊如意輪観世音 復岩ヲ祖トス(明応三年(1494年)寂ス) 正保元年(1644年)僧明山再興ス 地蔵堂寺域ニ有リ」とあります。
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伊豆の湯めぐりに没頭していた一時期、この山深い場所を一度通りかかったことがあります。
このお寺の先に、温泉マニアの間では有名な名湯、祢宜ノ畑温泉(大沢里温泉) 「やまびこ荘」がありそこに入湯したためです。
この札所へのアプローチとなる静岡県道59号伊東西伊豆線は、伊豆最悪の険道ともいわれます。
筆者は祢宜ノ畑温泉入湯後にこの県道を走って修禅寺に抜けたのですが、二度と通りたくないと思えるほどのキツイ道でした。
(険しいというか、細かいカーブが異様にしつこくつづく。)
この霊場巡りでは札番からいって慈眼寺から修禅寺に向かうことはないかと思いますが、「県道だから・・・」と安易に入り込むのは避けた方がいいかと思います。
こんな感じ↓です。
■ 怖っ!静岡険道(県道)59号(伊東西伊豆線) 松崎⇒仁科峠 バイク走行動画
慈眼寺へは大浜から仁科川沿いを3㎞ほどで、このあたりまでは川沿いのいたってふつうの道路なのでとくに問題はありません。
【写真 上(左)】 六地蔵群
【写真 下(右)】 参道入口
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂のすぐ横が駐車場なのでアプローチはすこぶる楽です。
昭和四十年代の建立の本堂はアーチ状の屋根の近代建築ですが、向拝はきっちり設けられています。
向拝見上げに山号扁額。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
御本尊は小さな如意輪観世音菩薩像とのことで、伊豆横道三十三観音霊場第6番の札所本尊もこちらの観音様かと思われます。
こちらの鈴木氏墓地のなかに赤穂四十七士のひとり寺坂吉右ヱ門の墓と呼ばれてきた地蔵尊(あるいは石像とも)が安置されているそうです。
言い伝えによると、討ち入り後、義士供養のため僧形となり、諸国遍歴の途に鈴木権内方に滞在し一生を終えたといいます。
市資料によると、当寺過去帳に「寺坂吉右ヱ門事一相西円上座」、「但し、江戸の人四十七人の一人」とあるそうで、富貴野山宝蔵院に梵鐘を献納した話なども伝えられています。
御朱印は第83番東福寺にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 如意輪観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
→ 祢宜ノ畑温泉(大沢里温泉) 「やまびこ荘」の入湯レポ
■ 第83番 照嶺山 東福寺(とうふくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
西伊豆町Web
西伊豆町観光協会Web
西伊豆町中24-2
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡
現地掲示の由緒書、『豆州志稿』等によると、濱村字澤田カ原(仁科字浜村、弘法大師遊行の折に安居された旧跡とも)に石室(岩の堂)として草創。
天福元年(1233年)、真言宗の一寺をなし草創時の年号から天福寺と号しました。
嘉元(1303-1306年)の頃(嘉元二年とも)災害に遭い、雲林和尚が濱村中村字中の島に移し旧天福寺の号に因んで天福山と号したといいます。(このとき東福寺と号したという説もあり。)
永和三年(1377年)災害のため諸堂が大破、應永二年(1395年)佛印大光禅師を中興開祖とし、真言宗から臨済宗へと改宗。
文明九年(1477年)激しい波浪に見舞われ堂宇は漂流、同十八年佐々木(山本)盛季が現在地に移して再興し、寺号を東福寺と改めたと伝わります。
よって、佐々木(山本)盛季を東福寺殿と称し、当山開基としています。
当山の本堂天井には漆喰の見事な五百羅漢が描かれているため、「五百羅漢の寺」としても知られています。
『豆州志稿』には「中村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊阿彌陀 嘉元(1303-1306年)ノ頃 雲林和尚濱村ノ天福寺ヲ引ク 因テ天福山ト称セリ 天福ノ紀号僅ニ一年ナリシ故 之ヲ忌テ照嶺ト改ム 天福元年(1233年)濱村字澤田カ原ニ創立ス 後僧雲林当村中島ニ移ス 應永中(1394-1428年)真言ヲ改テ臨済宗ト為シ 僧佛印ヲ祖トス 文明九年(1477年)激浪ノ為ニ漂流ス 同十八年佐々木盛季復現地ニ移ス 寺域地蔵堂観音堂有」とあります。
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【写真 上(左)】 山内入口&山門
【写真 下(右)】 山門扁額
静岡県道59号伊東西伊豆線沿い、第82番慈眼寺から大浜(伊豆西海岸)に戻る途中の仁科川沿いにあります。
参道入口の寺号標には「五百羅漢の寺」。
その先の山門は入母屋屋根桟瓦葺、上層鐘楼四脚の高欄付楼門で上層に山号扁額を置いています。
異様に高い礎盤は水害から護るためでしょうか。
小高い山を背に、こぢんまりとまとまった、落ちついた雰囲気のお寺さんです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
正面の本堂は寄棟造銅板葺で、向拝部に顕著な千鳥破風を附設しています。
平入りと思いますが、千鳥破風があまりに目立つので、一瞬妻入りかと思いました。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号の表札?
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ梁、中備に龍の彫刻。
左右の繋ぎ虹梁上には板蟇股を置いています。
見上げには扁額というか、寺号の表札?を掲げています。
本堂向かって右手前のお像は修行大師像のようにも思えるのですが、確信もてず。
本堂内の天井には、昭和初期に浅草の仏師・田村利光(酒豪だったので「のん兵衛安さん」と呼ばれた)により漆喰で描かれた五百羅漢があり、御内陣の花鳥・龍・天女とともに秀作とされています。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 身代り地蔵尊
山内には地蔵堂があり、端正な地蔵尊坐像が御座します。
現地説明書によると、こちらは百五十余年前に当山第14世住職が両親菩提と諸民の災害除のために、大本山鎌倉建長寺の御本尊・身代り地蔵尊のお今身を願い当山に勤把したお地蔵様とのことです。
【写真 上(左)】 鎮守?
【写真 下(右)】 足神社
山内には鎮守とみられるお社、足神社が祀られています。
足神社は安政時代の創祀でもともと旧道に御鎮座でしたが、道路拡張に伴い平成元年当山に勧請とのことです。(山内石碑より)
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第84番 正島山 法眼寺(ほうげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
西伊豆町仁科860-1
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:庫裡
ここから松崎町を離れ、西伊豆町に入ります。
第84番は、西海岸を走る国道136号に戻り仁科の街なかにある法眼寺です。
『こころの旅』によると、初めは仁科の安城山麓にあった法眼庵という小庵でしたが、波濤により大破、荒廃。
永享年間(1429-1441年)ののち、幽岩和尚が濱村長平寺を合せて起立・開林。(『豆州志稿』)
享保年間(1716-1736年)にこの地を修行で通りかかった僧、幽厳が法眼庵と堂ヶ島の走嶋山長平寺の荒廃を嘆き、二院を合併して正島山法眼寺としたという説もあります。(『こころの旅』)
法眼庵から数えて約四百年の間、西伊豆・仁科の海で働く人々の安全と繁栄のための鎮守の寺として続いてきたといいます。
『豆州志稿』には「濱村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊釋迦阿彌陀薬師 初法眼庵ト称ス 永享十六年(註:永享は十三年まで、1429-1441年)同村長平寺ヲ合セテ当寺ヲ起立ス 幽岩和尚開林(寛正六年(1465年)寂ス) 此寺安城山ヲ後ニシ 門前清渓ヲ帯ヒ 風景極テ幽邃」とあります。
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【写真 上(左)】 隣接する仁科港
【写真 下(右)】 山内入口
風光明媚な仁科港に面した、明るい雰囲気のお寺さまです。
なお、この仁科港の北側には西伊豆屈指のシーサイド露天として人気が高い「沢田公園露天風呂」があります。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
開放的な山内で、正面に寄棟造本瓦葺流れ向拝の本堂。
水引虹梁両端に禅宗様の木鼻、身舎側に繋ぎ梁、中備に寺号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
【写真 上(左)】 堂内扁額
【写真 下(右)】 堂内天井画
本堂内は綺麗に整頓され、天井の格子には綺麗な花の天井画が施されていました。
【写真 上(左)】 天王神社
【写真 下(右)】 天王神社の扁額
隣接してスサノオノミコトを御祭神とする天王神社が御鎮座。
稲ワラを編み上げ社の頭上に張り渡す「天王様のお注連あげ」で知られる神社です。
位置関係からして法眼寺は元別当のような感じがしますが、これを示す史料はみつかりませんでした。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第85番 満行山 航浦院(こうほいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
沼津市西浦江梨149
臨済宗円覚寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡
この札所は、札番からするとかなり離れたところにありますが、札番順にご紹介していますのでここでとり上げます。
こちらはもともと旧別格第8番の札所でしたが、平成31年4月24日より第85番霊場になっているようです。
もともと第8番霊場についてはナゾがありました。
〔 「こころの旅」掲載地図より 〕
第5番玉洞院は狩野川右岸の牧之郷、第6番金剛寺・第7番泉龍寺は狩野川左岸の山田川、第8番益山寺は山田川支流の小山田川を山側にふかく遡ったところにあります。
一方、旧別格第8番の 航浦院は駿河湾に面した西浦江梨にあります。
山田川筋から西浦江梨に向かうには、峠越えをして内浦に降りそこから駿河湾沿いを延々と西進する必要があります。
第9番澄楽寺は第5番玉洞院のそばなので、帰路もその行程ないし三津浜経由の大回りの行程となります。
航浦院は伊豆水軍の名族・鈴木(杉本)氏ゆかりで、白隠禅師が受戒したという名刹なのでこれを外すわけにはいかず、(旧)別格第8番というかたちで設定されたのかもしれません。
ルートからすると戸田の第87番大行寺のつぎに別格ないしは掛所として設定した方が巡礼者の負担は少ないですが、そうはできない何らかの事情があったのかも。
いずれにしても、この札所は西伊豆・戸田からも中伊豆からも遠く隔たった場所にありますが、正式に第85番札所となった以上、避けて通れない存在となりました。
かなりの大回りにはなりますが、近くには伊豆の七不思議とされる大瀬崎大池・大瀬神社もあり、駿河湾の浦々を辿る県道17号沼津土肥線は優れたドライブ・ルートなので、訪れる価値は充分あると思います。
航浦院は、紀州から西浦に移住し、伊豆水軍の雄として約二百数十年間にわたり西浦一帯を治めた鈴木氏(杉本氏)の菩提寺です。
『豆州志稿』には、文明年間(1469-1487年)に地頭の鈴木繁用が父・繁郷冥助の為ニ造立とあり、僧・業道(業堂寿和尚大禅師とも)による開山とされています。
(1330年頃の創立という説もあり。)
開基の鈴木(杉本)氏は西浦江梨を根拠地にした伊豆水軍の雄で、その経済力を背景に菩提寺として営々当山を外護してきたものとみられます。
杉本左京大夫繁郷の法名は「航浦院殿江巖道海大居士」で、当山の院号はこちらと関連のあるものと思われます。
また、萬行山の山号は近くにあった萬行寺ゆかりのものとみられています。
『豆州志稿』によると、寛政年間(1789-1801年)僧・神洲が再興しています。
『豆州志稿』には「江梨村 臨済宗円覚寺派 田方郡奈古谷國清寺末 本尊阿彌陀 文明中(1469-1487年)地頭鈴木繁用其父繁郷冥助ノ為ニ造立ス(略)僧業道ヲ開山トス 後寛政中(1789-1801年)僧神洲再興ス 本尊ハ鈴木繁用ノ男繁宗ノ女ノ祈念佛也 観音堂在リ」とあります。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標
このエリアは伊豆半島にはめずらしい北向きの海岸ですが、当山は南傾の高台にあるので陽光降りそそぐ明るい山内です。
航浦院はこの高台に、円覚寺百観音霊場第32番廣大山 海蔵寺とともにあります。
城郭を思わせる石垣を幾重にも巡らし風格がありますが、山門はありません。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
参道手前に寺号標。その先には札所標もありました。
曲がり参道で階段を昇った中庭の左手に本堂があります。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂札所板
寄棟造銅板葺で向拝柱はありません。
向拝正面硝子扉のよこに札所板、上には山号扁額が掲げられています。
御本尊は開基・鈴木繁用の男(子)繁宗の女(室)の祈念佛と伝わります。
【写真 上(左)】 半僧坊大権現の堂宇
【写真 下(右)】 同扁額
庫裡のそばにもうひとつ堂宇があり、こちらは半僧坊大権現のお堂かと思われますがこちらにも伊豆八十八ヶ所の札所板が掲げられていました。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 半僧坊大権現の御朱印 〕
【 BGM 】
■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオルスタース
■ さよなら夏の日 - 山下達郎
■ Crescent aventure - 角松敏生
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10からつづく。
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第83番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
第84番 正島山 法眼寺(西伊豆町仁科)
第85番 満行山 航浦院(沼津市西浦江梨)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-12へつづく。
旧第85番 授寶山 大聖寺(西伊豆町安良里)
第86番 吉祥山 安楽寺(伊豆市土肥)
第87番 専修山 大行寺(沼津市戸田)
第88番 奥の院 正覚院(伊豆市修善寺)
第88番 福地山 修禅寺(修禅萬安禅寺)(伊豆市修善寺)
〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。
■ 第80番 萬法山 帰一寺(きいちじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
松崎町Web
松崎町船田39
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第2番
授与所:庫裡
第80番は萬法山 帰一寺。松崎でも屈指の名刹です。
正安三年(1301年)一山一寧によって開かれ、当初は帰一庵と称していましたが、のちに帰一寺に改めたといいます。
Wikipediaによると、一山一寧(いっさんいちねい)は元からの渡来僧で、台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身です。
早くに出家し、律・天台を修めた後、臨済禅に転じて阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだとされます。
二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライの後を継いだ成宗は、日本との国交を結ぶべく、正安元年(1299年)一山一寧を朝貢督促の国使として日本へ派遣しました。
大宰府に入った一寧らは成宗の国書を執権・北条貞時に奉呈するものの、元寇再来をおそれた貞時は一寧らを伊豆修禅寺に幽閉しました。
修善寺に入られた一寧は禅の修養に専念、一寧の名声をきいて赦免を願い出る者もいたことから、貞時は幽閉を解き鎌倉近くの草庵に身柄を移しました。
鎌倉に入った一寧の名望を慕って多くの僧俗が草庵を訪れ、これを目の当たりにした貞時も疑念を解いて、建長寺を再建して住職に迎えたうえで自ら帰依したといいます。
深い学識と傑出した人柄で多くの人々から尊崇され、門下から雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出、みずからも能筆で知られその墨蹟は重要文化財に指定されています。朱子の新註を伝え、日本朱子学の祖ともされる名僧です。
円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和二年(1313年)には後宇多上皇の請願に応じるかたちで上洛、南禅寺3世となりました。
文保元年(1317年)南禅寺で示寂。花園天皇より一山国師と諡号されました。
一寧の開山として、下諏訪の慈雲寺、信州中野の太清寺、そして帰一寺が伝わります。
松崎町Webによると、一山国師のあと数代は公家の帰依僧が跡を継いだものの、しばしば火災にあい、多くの寺宝を焼失しています。
正保年間(1644-1648年)徳川3代将軍家光の治世に、代官伊奈兵蔵は当山が伊豆50ヶ寺の中本山との理由で寺領回復を上申し、御朱印地を拝領しています。
『豆州志稿』には「船田村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊観世音 釋一山正安元年(1299年)豆州ニ流サレシ時 庵ヲ造リ帰一ト称ス 巳ニシテ寺トシ一山ヲ祖トス 建長寺派下タリ 一山ハ即一寧 宗ノ台州胡氏ノ子ナリ 初元主我國ニ寇シテ敗●ス 至是一寧其密使旨ヲ承ケ来テ間諜ヲ為ス 平貞時激怒豆州ニ放流ス 後鎌倉建長寺ニ居ラシム 一山ノ書二●ヲ蔵ム 経蔵(内ニ辨財天ヲ安ス) 領舎 弥勒堂有リ 中本寺格ニシテ末寺廿四ヶ寺ヲ有ス」とあります。
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【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門扁額
松崎市街から婆娑羅峠を越えて、稲梓に抜ける県道15号松崎下田線。
帰一寺はこの道を松崎市街から数㎞走ったところ、船田地区の小高い丘の上にあります。
参道入口に扁額を掲げて桟瓦葺の重厚な高麗門。扁額には「海南禅林」とあります。
ここから坂道&石段を登っていきます。
【写真 上(左)】 山門からのアプローチ
【写真 下(右)】 霊場供養塔
途中に伊豆八十八ケ所と伊豆横道三十三観音の供養塔がありました。
「伊豆新四国八十八箇所」とありますが、この霊場で「新四国」の表記があるのはめずらしいです。
【写真 上(左)】 参道と門
【写真 下(右)】 門
ひとしきり登ると正面に門。これはふたつめの門で中門かもしれません。
切妻屋根桟瓦葺の重厚な四脚門で、高く立ち上げた大棟に葵紋を掲げています。
控柱に虹梁を渡し、見上げには山号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 門の扁額
【写真 下(右)】 山内
くぐると正面に千鳥破風+唐破風桟瓦葺の建物。
左手には入母屋造桟瓦葺の立派な建物で「群龍殿」の扁額を掲げています。
右手の建物は庫裡かと思います。
【写真 上(左)】 左の建物(本堂?)
【写真 下(右)】 扁額
正面の建物は複雑な構成で、平入りか妻入りかもわかりませんでした。
正面と左手の建物の関係がよくわかりません。
【写真 上(左)】 中央の建物
【写真 下(右)】 中央の建物と庫裡
左の建物の堂内には寺号扁額と「慈光」の二つの扁額で三間構成なので、本堂御内陣の趣き。
中央の建物は観音堂かとも思いましたが、奥まったところに「萬法帰一」の扁額とその先は格子窓ごしに庭がみえます。
堂前に賽銭箱が置いてあるので、奥庭にある堂宇?の遙拝所的な位置づけなのかもしれません。
本堂の建立は弘化五年(1848年)、当初は茅葺でしたが現在は瓦葺に葺きかえられています。
べつに8代将軍吉宗のころ建立された六角形回転式の経蔵があるはずですが確認できず、伊豆の代表的名園とされる本堂裏の庭園もなぜか拝観していません。
ふつうこれだけナゾがあると、当然お寺の方に聴き込みに入るのですが、ナゾが解けていないところをみると、ご不在だったか、よほど急いでいたかのいずれかだと思います。
これだけの名刹を生兵法で説明するのはどうかと思うので(笑)、山内のご案内はこのくらいにしておきます。
御朱印は(たぶん)庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも「本尊観音」の印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
■ 第81番 富貴野山 寶蔵院(ほうぞういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町Web
松崎町観光協会Web
松崎町門野173-1
曹洞宗
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:延命地蔵菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第7番
授与所:寺役管理
松崎の山中ふかくに立地する弘法大師ゆかりの古刹。
『こころの旅』記載の『宝蔵院畧縁起』、松崎町Web資料等によると草創は以下のとおりです。
延暦十九年(800年)(大同3年(808年)とも)、27歳の弘法大師は伊豆巡錫中に仁科を訪れました。
弘法大師が当地で読経されていると、森の中の六本の巨木が六条の光を放ちました。
お大師様はこれを六道衆生の苦しみを救済する地蔵菩薩有縁のものと考えられ、ここを富貴野山地蔵金剛法蔵密院と名づけられました。
天長七年(830年)57歳のお大師様はふたたびこの地を訪れ、庵を修復しお堂を建てられて密法修行の地とされました。
室町時代には末寺88を有する大霊場として栄え、一時衰えたものの僧・岩仲によって再興開基され、以来文明年間(1469-1486年)まで伊豆第一の山岳仏教の霊地として繁栄したといいます。
その後荒廃していたところ、文亀年間(1501-1504年)、河津逆川村の普門院4世・清安が堂宇を整備、真言宗から曹洞宗に改宗し寶蔵院と号を改めました。
御本尊・地蔵菩薩の信仰は営々とつづき、とくに作物の虫除けに霊験あらたかとされました。
その参詣道は一色口、白川口、江奈口、門野口など多くあったため、高野山になぞらえて「富貴野の七口」と呼ばれたそうです。
『豆州志稿』には「門野村 曹洞宗 賀茂郡逆川普門院末 本尊地蔵 富貴ハ山名 山嶽ノ部ニ出ツ 弘法大師遊行ノ時 此ヲ見立テ寺ヲ創ム 今名証ナシト雖 古ヨリ的ニ相傳フ 他ノ仮託ニ出ルカ如キニ非ス 大師自所負ノ笈ナリトテ今ニ存ス(略)又庭中ニ手植ノ岩桂車蓋ノ如クナル有リキ 惜ムラクハ巳ニ枯死シテ無シ 尚空海ノ遺物ト傳フル鍋幷杖ヲ蔵ス(略)モト金剛密院ト称ス 僧岩忠ヲ中興祖トス 永禄天文ノ頃普門院四世清安和尚住シテヨリ宗旨改ル 是時ヨリ寶蔵院ト号ス」とあります。
また、子院として寶徳寺(同村 号金剛山)が記載されています。
『霊場めぐり』によると、昭和初期ごろまではご縁日(4月10日と7月24日)、ことに夏のご縁日は賑わって本堂には100人ほども参籠し、山上露店も出たといいます。
松崎町Web資料には「第二次大戦後は訪れる人も途絶えて、山深い寺は次第に荒れていった。戦争中戦後の伐採により、周りの山を失った寺は風雨の影響をまともに受けるようになり、昭和24年(1949年)のパトリシア台風によって山門が倒壊、昭和34年(1959年)8月14年の風台風で本堂も半壊、復旧困難なため取り壊されて、今は山門・本堂ともにその礎石を残すのみとなった。」とあります。
現在は「富貴野山21世紀の森」のなかに堂宇や遺跡が点在するかたちとなっています。
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【写真 上(左)】 登り口
【写真 下(右)】 参道-1
富貴野山は松崎市街地の北東にそびえる標高550mの山で、当山はその山腹にあります。
「富貴野山21世紀の森」というリラクゼーションエリアとなっていますが、かなり山深く、そのアプローチの長さは第8番益山寺と双璧です。
ただし路面はしっかりした舗装路なので、益山寺よりはアプローチは楽です。
「富貴野山21世紀の森」の駐車場に停めて、参道をのぼっていきます。
本来の参道は下の駐車場から少し下って大師橋を渡り、男坂ないし女坂経由の行程とみられます。
上の駐車場は本堂下にあるので、横着にもこちらに停めました。
さすがにお大師様ゆかりの霊山。あたりは清々しい空気に包まれています。
【写真 上(左)】 富貴野山稲荷
【写真 下(右)】 参道-2
駐車場そばに御鎮座の富貴野山稲荷は、当山の地主神あるいは鎮守かもしれません。
現地掲示によると、こちらには白山大権現が祀られているそうです。
舗装道をトラバース気味に歩いていくと、両側に石仏が並ぶ苔むした参道階段が出てきます。
そびえる杉木立の相間から陽射しが射し込み、雰囲気は抜群です。
こちらの石仏群は「宝蔵院石仏群」と呼ばれ、江戸時代に奉安されたもの。
約120体もの石仏はお大師様、大日如来、薬師如来、阿弥陀如来、地蔵尊、観音菩薩などさまざまで、信仰厚い村人たちが一体づつ背負って運び上げたとのこと。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道-3
参道階段をのぼり切ると広々とした平地が広がり、かつては伽藍が建ち並んでいたと思われるスケール感を感じます。
建物は3つ。
右手に長屋門?。正面がおそらく本堂、左手が開山堂です。
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2
【写真 上(左)】 長屋門
【写真 下(右)】 本堂
本堂は寄棟造銅板葺で、比較的新しい建立と思われます。
向拝柱はなく、左右の身舎柱に「豆國八十一番札所」「伊豆横道七番札所」の札番が掲げられています。
向拝見上げに院号扁額。右手には「富貴峯」の扁額も掲げられています。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額-1
【写真 上(左)】 本堂扁額-2
【写真 下(右)】 御朱印案内
左手の開山堂は銅板葺宝形造で流れ向拝。
周囲に縁をめぐらし、相輪を立てた塔身の周囲に庇を降ろし、内側に身舎を抱く密教建築の山上伽藍です。
【写真 上(左)】 開山堂
【写真 下(右)】 開山堂向拝
水引虹梁両端に獅子・貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に彫刻入りの板蟇股で、見上げに山号扁額。
正面の花狭間戸と左右の蔀戸が引き締まったイメージの意匠。
撮影角度が悪くて断言できないのですが、ひょっとすると天竺様の隅扇垂木かもしれません。
開山堂左手にある杉の大木は樹齢約400年。弘法大師の徳をしのび昔から「弘法杉」と呼ばれているそうです。
また、杉の根元にある二基の宝篋印塔は、曾我兄弟ゆかりと伝わります。
【写真 上(左)】 弘法杉
【写真 下(右)】 富貴野山からの展望
江戸時代の中期まで、寺庭に弘法大師お手植えと伝えられるモクセイ(モッコク・カツラとも)の巨木があったといいます。
また、お手植えのときにお大師様が遺された笈がいまも遺されているといいます。
御朱印は、本堂前に掲示されていた寺役さんに連絡をとり拝受しました。
寺役さんの納経所は山を下りた道沿いで、すぐにみつかりました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
■ 第82番 大悲山 慈眼寺(じげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
西伊豆町Web
西伊豆町一色56
臨済宗建長寺派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第6番
授与所:第83番東福寺
情報の少ない札所です。
始祖とされる復岩が明応三年(1494年)入寂であることから、開山はそれ以前、文明年間とみられています。
(延徳元年(1489年)、復山による開山という説もあり。)
正保元年(1644年)、僧・明山により再興されました。
赤穂四十七士のひとりで討ち入り後、大石の命を受け離脱した寺坂吉右ヱ門の墓があることで知られています。
『豆州志稿』には「一色村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊如意輪観世音 復岩ヲ祖トス(明応三年(1494年)寂ス) 正保元年(1644年)僧明山再興ス 地蔵堂寺域ニ有リ」とあります。
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伊豆の湯めぐりに没頭していた一時期、この山深い場所を一度通りかかったことがあります。
このお寺の先に、温泉マニアの間では有名な名湯、祢宜ノ畑温泉(大沢里温泉) 「やまびこ荘」がありそこに入湯したためです。
この札所へのアプローチとなる静岡県道59号伊東西伊豆線は、伊豆最悪の険道ともいわれます。
筆者は祢宜ノ畑温泉入湯後にこの県道を走って修禅寺に抜けたのですが、二度と通りたくないと思えるほどのキツイ道でした。
(険しいというか、細かいカーブが異様にしつこくつづく。)
この霊場巡りでは札番からいって慈眼寺から修禅寺に向かうことはないかと思いますが、「県道だから・・・」と安易に入り込むのは避けた方がいいかと思います。
こんな感じ↓です。
■ 怖っ!静岡険道(県道)59号(伊東西伊豆線) 松崎⇒仁科峠 バイク走行動画
慈眼寺へは大浜から仁科川沿いを3㎞ほどで、このあたりまでは川沿いのいたってふつうの道路なのでとくに問題はありません。
【写真 上(左)】 六地蔵群
【写真 下(右)】 参道入口
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂のすぐ横が駐車場なのでアプローチはすこぶる楽です。
昭和四十年代の建立の本堂はアーチ状の屋根の近代建築ですが、向拝はきっちり設けられています。
向拝見上げに山号扁額。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
御本尊は小さな如意輪観世音菩薩像とのことで、伊豆横道三十三観音霊場第6番の札所本尊もこちらの観音様かと思われます。
こちらの鈴木氏墓地のなかに赤穂四十七士のひとり寺坂吉右ヱ門の墓と呼ばれてきた地蔵尊(あるいは石像とも)が安置されているそうです。
言い伝えによると、討ち入り後、義士供養のため僧形となり、諸国遍歴の途に鈴木権内方に滞在し一生を終えたといいます。
市資料によると、当寺過去帳に「寺坂吉右ヱ門事一相西円上座」、「但し、江戸の人四十七人の一人」とあるそうで、富貴野山宝蔵院に梵鐘を献納した話なども伝えられています。
御朱印は第83番東福寺にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 如意輪観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
→ 祢宜ノ畑温泉(大沢里温泉) 「やまびこ荘」の入湯レポ
■ 第83番 照嶺山 東福寺(とうふくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
西伊豆町Web
西伊豆町観光協会Web
西伊豆町中24-2
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡
現地掲示の由緒書、『豆州志稿』等によると、濱村字澤田カ原(仁科字浜村、弘法大師遊行の折に安居された旧跡とも)に石室(岩の堂)として草創。
天福元年(1233年)、真言宗の一寺をなし草創時の年号から天福寺と号しました。
嘉元(1303-1306年)の頃(嘉元二年とも)災害に遭い、雲林和尚が濱村中村字中の島に移し旧天福寺の号に因んで天福山と号したといいます。(このとき東福寺と号したという説もあり。)
永和三年(1377年)災害のため諸堂が大破、應永二年(1395年)佛印大光禅師を中興開祖とし、真言宗から臨済宗へと改宗。
文明九年(1477年)激しい波浪に見舞われ堂宇は漂流、同十八年佐々木(山本)盛季が現在地に移して再興し、寺号を東福寺と改めたと伝わります。
よって、佐々木(山本)盛季を東福寺殿と称し、当山開基としています。
当山の本堂天井には漆喰の見事な五百羅漢が描かれているため、「五百羅漢の寺」としても知られています。
『豆州志稿』には「中村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊阿彌陀 嘉元(1303-1306年)ノ頃 雲林和尚濱村ノ天福寺ヲ引ク 因テ天福山ト称セリ 天福ノ紀号僅ニ一年ナリシ故 之ヲ忌テ照嶺ト改ム 天福元年(1233年)濱村字澤田カ原ニ創立ス 後僧雲林当村中島ニ移ス 應永中(1394-1428年)真言ヲ改テ臨済宗ト為シ 僧佛印ヲ祖トス 文明九年(1477年)激浪ノ為ニ漂流ス 同十八年佐々木盛季復現地ニ移ス 寺域地蔵堂観音堂有」とあります。
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【写真 上(左)】 山内入口&山門
【写真 下(右)】 山門扁額
静岡県道59号伊東西伊豆線沿い、第82番慈眼寺から大浜(伊豆西海岸)に戻る途中の仁科川沿いにあります。
参道入口の寺号標には「五百羅漢の寺」。
その先の山門は入母屋屋根桟瓦葺、上層鐘楼四脚の高欄付楼門で上層に山号扁額を置いています。
異様に高い礎盤は水害から護るためでしょうか。
小高い山を背に、こぢんまりとまとまった、落ちついた雰囲気のお寺さんです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
正面の本堂は寄棟造銅板葺で、向拝部に顕著な千鳥破風を附設しています。
平入りと思いますが、千鳥破風があまりに目立つので、一瞬妻入りかと思いました。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 寺号の表札?
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ梁、中備に龍の彫刻。
左右の繋ぎ虹梁上には板蟇股を置いています。
見上げには扁額というか、寺号の表札?を掲げています。
本堂向かって右手前のお像は修行大師像のようにも思えるのですが、確信もてず。
本堂内の天井には、昭和初期に浅草の仏師・田村利光(酒豪だったので「のん兵衛安さん」と呼ばれた)により漆喰で描かれた五百羅漢があり、御内陣の花鳥・龍・天女とともに秀作とされています。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 身代り地蔵尊
山内には地蔵堂があり、端正な地蔵尊坐像が御座します。
現地説明書によると、こちらは百五十余年前に当山第14世住職が両親菩提と諸民の災害除のために、大本山鎌倉建長寺の御本尊・身代り地蔵尊のお今身を願い当山に勤把したお地蔵様とのことです。
【写真 上(左)】 鎮守?
【写真 下(右)】 足神社
山内には鎮守とみられるお社、足神社が祀られています。
足神社は安政時代の創祀でもともと旧道に御鎮座でしたが、道路拡張に伴い平成元年当山に勧請とのことです。(山内石碑より)
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第84番 正島山 法眼寺(ほうげんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
公式Web
西伊豆町仁科860-1
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:庫裡
ここから松崎町を離れ、西伊豆町に入ります。
第84番は、西海岸を走る国道136号に戻り仁科の街なかにある法眼寺です。
『こころの旅』によると、初めは仁科の安城山麓にあった法眼庵という小庵でしたが、波濤により大破、荒廃。
永享年間(1429-1441年)ののち、幽岩和尚が濱村長平寺を合せて起立・開林。(『豆州志稿』)
享保年間(1716-1736年)にこの地を修行で通りかかった僧、幽厳が法眼庵と堂ヶ島の走嶋山長平寺の荒廃を嘆き、二院を合併して正島山法眼寺としたという説もあります。(『こころの旅』)
法眼庵から数えて約四百年の間、西伊豆・仁科の海で働く人々の安全と繁栄のための鎮守の寺として続いてきたといいます。
『豆州志稿』には「濱村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊釋迦阿彌陀薬師 初法眼庵ト称ス 永享十六年(註:永享は十三年まで、1429-1441年)同村長平寺ヲ合セテ当寺ヲ起立ス 幽岩和尚開林(寛正六年(1465年)寂ス) 此寺安城山ヲ後ニシ 門前清渓ヲ帯ヒ 風景極テ幽邃」とあります。
-------------------
【写真 上(左)】 隣接する仁科港
【写真 下(右)】 山内入口
風光明媚な仁科港に面した、明るい雰囲気のお寺さまです。
なお、この仁科港の北側には西伊豆屈指のシーサイド露天として人気が高い「沢田公園露天風呂」があります。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
開放的な山内で、正面に寄棟造本瓦葺流れ向拝の本堂。
水引虹梁両端に禅宗様の木鼻、身舎側に繋ぎ梁、中備に寺号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
【写真 上(左)】 堂内扁額
【写真 下(右)】 堂内天井画
本堂内は綺麗に整頓され、天井の格子には綺麗な花の天井画が施されていました。
【写真 上(左)】 天王神社
【写真 下(右)】 天王神社の扁額
隣接してスサノオノミコトを御祭神とする天王神社が御鎮座。
稲ワラを編み上げ社の頭上に張り渡す「天王様のお注連あげ」で知られる神社です。
位置関係からして法眼寺は元別当のような感じがしますが、これを示す史料はみつかりませんでした。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第85番 満行山 航浦院(こうほいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
沼津市西浦江梨149
臨済宗円覚寺派
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡
この札所は、札番からするとかなり離れたところにありますが、札番順にご紹介していますのでここでとり上げます。
こちらはもともと旧別格第8番の札所でしたが、平成31年4月24日より第85番霊場になっているようです。
もともと第8番霊場についてはナゾがありました。
〔 「こころの旅」掲載地図より 〕
第5番玉洞院は狩野川右岸の牧之郷、第6番金剛寺・第7番泉龍寺は狩野川左岸の山田川、第8番益山寺は山田川支流の小山田川を山側にふかく遡ったところにあります。
一方、旧別格第8番の 航浦院は駿河湾に面した西浦江梨にあります。
山田川筋から西浦江梨に向かうには、峠越えをして内浦に降りそこから駿河湾沿いを延々と西進する必要があります。
第9番澄楽寺は第5番玉洞院のそばなので、帰路もその行程ないし三津浜経由の大回りの行程となります。
航浦院は伊豆水軍の名族・鈴木(杉本)氏ゆかりで、白隠禅師が受戒したという名刹なのでこれを外すわけにはいかず、(旧)別格第8番というかたちで設定されたのかもしれません。
ルートからすると戸田の第87番大行寺のつぎに別格ないしは掛所として設定した方が巡礼者の負担は少ないですが、そうはできない何らかの事情があったのかも。
いずれにしても、この札所は西伊豆・戸田からも中伊豆からも遠く隔たった場所にありますが、正式に第85番札所となった以上、避けて通れない存在となりました。
かなりの大回りにはなりますが、近くには伊豆の七不思議とされる大瀬崎大池・大瀬神社もあり、駿河湾の浦々を辿る県道17号沼津土肥線は優れたドライブ・ルートなので、訪れる価値は充分あると思います。
航浦院は、紀州から西浦に移住し、伊豆水軍の雄として約二百数十年間にわたり西浦一帯を治めた鈴木氏(杉本氏)の菩提寺です。
『豆州志稿』には、文明年間(1469-1487年)に地頭の鈴木繁用が父・繁郷冥助の為ニ造立とあり、僧・業道(業堂寿和尚大禅師とも)による開山とされています。
(1330年頃の創立という説もあり。)
開基の鈴木(杉本)氏は西浦江梨を根拠地にした伊豆水軍の雄で、その経済力を背景に菩提寺として営々当山を外護してきたものとみられます。
杉本左京大夫繁郷の法名は「航浦院殿江巖道海大居士」で、当山の院号はこちらと関連のあるものと思われます。
また、萬行山の山号は近くにあった萬行寺ゆかりのものとみられています。
『豆州志稿』によると、寛政年間(1789-1801年)僧・神洲が再興しています。
『豆州志稿』には「江梨村 臨済宗円覚寺派 田方郡奈古谷國清寺末 本尊阿彌陀 文明中(1469-1487年)地頭鈴木繁用其父繁郷冥助ノ為ニ造立ス(略)僧業道ヲ開山トス 後寛政中(1789-1801年)僧神洲再興ス 本尊ハ鈴木繁用ノ男繁宗ノ女ノ祈念佛也 観音堂在リ」とあります。
-------------------
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標
このエリアは伊豆半島にはめずらしい北向きの海岸ですが、当山は南傾の高台にあるので陽光降りそそぐ明るい山内です。
航浦院はこの高台に、円覚寺百観音霊場第32番廣大山 海蔵寺とともにあります。
城郭を思わせる石垣を幾重にも巡らし風格がありますが、山門はありません。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
参道手前に寺号標。その先には札所標もありました。
曲がり参道で階段を昇った中庭の左手に本堂があります。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 本堂札所板
寄棟造銅板葺で向拝柱はありません。
向拝正面硝子扉のよこに札所板、上には山号扁額が掲げられています。
御本尊は開基・鈴木繁用の男(子)繁宗の女(室)の祈念佛と伝わります。
【写真 上(左)】 半僧坊大権現の堂宇
【写真 下(右)】 同扁額
庫裡のそばにもうひとつ堂宇があり、こちらは半僧坊大権現のお堂かと思われますがこちらにも伊豆八十八ヶ所の札所板が掲げられていました。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 半僧坊大権現の御朱印 〕
【 BGM 】
■ 夕陽に別れを告げて〜メリーゴーランド - サザンオルスタース
■ さよなら夏の日 - 山下達郎
■ Crescent aventure - 角松敏生
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■ 2022年のクリスマスソング
■ クリスマス イブ - 山下達郞『JR東海』(1988年、深津絵里)
個人的には、やっぱり1988年の深津絵里Vers.がベスト。
セリフもないのに、異様なまでに伝わってくるストーリー感。
2015年、27年後の同曲使用のCM(ソフトバンク)。
この曲活かすには相当なレベルのディレクション必要。
個人的にはセリフも効果音も字幕も大道具も不要だと思う。
■ 深津絵里、「クリスマス・エクスプレス」以来33年ぶり出演 『JR東海』新TVCM『会うって、特別だったんだ。』
時代の流れを感じる。
曲のできは悪くないけどね。
::::::::::::::::::::::::::::::::
クリスマスモチーフに拘らず、メロディアスでエモーショナルな好メロ曲を10曲集めてみました。
01.ANNIVERSARY〜無限にCALLING YOU〜 - 松任谷由実
02.フユラブ - Juliet
03.SEASONS - 浜崎あゆみ
04.1999 - 羊文学
↑ なにげにOMD(Orchestral Manoeuvres In The Dark)想い起こした。↓
■ Joan Of Arc - OMD(Orchestral Manoeuvres In The Dark)(1981年)
05.Here - 天上智喜 & CLIFF EDGE
06.Love is... - 加藤ミリヤ
カノン進行というか、カノンそのもの(笑)
やっぱりクリスマスにはカノン曲がはまる。
07.Credens justitiam - Yuki Kajiura(FictionJunction)
08. 東京は夜の七時 - PIZZICATO FIVE
09.あなただけが - 倖田來未
10.千年の恋 - ANRI
---------------------
2021/12/11 UP
メロディアスなバラードを3曲追加してみました。
'80年代のレディソウルの醍醐味をお楽しみください。
■ All At Once - Whitney Houston
■ Stay - Melba Moore
■ Finishing Touch - Klymaxx
---------------------
2021/11/23 UP
急に寒くなったし、ぼちぼちアクセスもいただいているので、ちと早いけど数曲追加してUPしてみます。
---------------------
2020/12/24 UP
本日も感染者数過去最高。パンデミックのさなかのクリスマス。
まさかこんなクリスマスを迎えることになろうとは・・・。
人類が1日もはやく、このウイルスに打ち勝つことができますように。
そして、クリスマスもなく、リスクを冒して働いておられる方々に感謝申し上げます。
-----------------------------------------------
以前UPした記事(3曲のクリスマスソング)に昨年版を合体して再UPです。
邦楽では個人的にはこの8曲かな。(直接クリスマスとは関係ない曲もあるけど、曲調的に・・・)
■ メリクリ - 荒牧陽子(ガイドボーカル)
荒牧陽子(マキタソ)の本領発揮か。
■ ロッヂで待つクリスマス - カバー / 歌おうfavorite songs 171
ユーミンらしいテクニカルなコード進行。
個人的には「恋人がサンタクロース」よりこっちの方が上だと思う。
■ 君って - 西野カナ
西野カナって、本当にメロがいい曲多い。
■ 地上に降りるまでの夜 - 今井美樹
〔 From 『MOCHA under a full moon』(1989)/ 作詞:岩里祐穂、作曲:柿原朱美、編曲:佐藤準 〕
個人的には今井美樹屈指の名曲だと思う。淡々と歌っている感あるのに異様なフックがあって余韻が残る。
岩里祐穂、柿原朱美、佐藤準の黄金トリオならではの仕上がりか。
1990年代後半~2005年くらいまで、毎週末のように群馬の温泉に出向いていた。
帰路に決まってかけていたのが、今井美樹の名ベスト盤『Ivory』。
後半、ふたりでスプラッシュ ~ 空に近い週末 ~elfin~ 地上に降りるまでの夜 ~ひとりでX'mas ~ 瞳がほほえむから の流れは絶妙で、とくに冬の夜、満天の星空のもと関越を走らせながら聴くこの曲は、凄絶な美しさがあった。
■ Destiny feat.花たん【HoneyWorks】
好メロの宝庫ハニワと難曲キラー・花たんのコラボ。さすがの仕上がり。
4:40~の落ちサビの歌いまわしとロングトーン&ビブラート。
やっぱりただものじゃないわ・・・。
■ JAL 企業PV 「I Will Be There with You ~日本語版~」 All for sky - 杏里
往年のDavid Fosterのメロディーって、ほんとにクリスマスによく合っていた。
■ far on the water - Kalafina
Kalafina解散は、大きすぎる損失。
■ CHRISTMAS EVE 2021 山下達郎(クリスマス・イブ)
コメント入れた人、みな詩人になってる(笑)
わかりやすいカノン進行だけど、何度聴いても飽きない神曲。
街が音楽であふれていた1983年の曲。(37年前の1983年12月14日シングルカット。)
でも、洋楽の無残な崩れ方に比べれば邦楽はまだまだ大丈夫。
→ 1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
【CM 1988-92】JR東海 X'MAS EXPRESS 60秒×5
↑ キャスティング、演出、映像、コピーにナレーション。
どれをとっても隙がなさすぎる。プロの作品。
とくに1988年深津絵里、1989年牧瀬里穂の2本は傑作。
バブル崩壊直前のクリスマス。そこはかとなく漂う祭りのおわり感。
2015 ソフトバンク
↑ 27年後の同じ曲をつかって仕上げたクリスマスCM。
どうしようもない質の差を感じてしまう。
しかしこの名曲が、リリース時点ではシングル3万枚限定発売で最高位43位って、1983年、いったいどういう時代じゃ。
そういえばあの頃みんなシングルじゃなくて「MELODIES」(ALBUM)で聴いてたもんな。LPからテープに録音して(笑)
→ 1983年洋楽ピーク説
■ 潮見表 - 遊佐未森(1997年)
作詞・作曲:遊佐未森 → 歌詞
----------------
もう そんなに遠くを急がなくていい
ささやかに暮らしてたあの頃は どこにあるの?
母なる夜は恋しくて 乾いてるこの時代をあやす
----------------
↑ すでに1997年の時点で、1980年代へのレクイエムのようなこんな歌詞。
その頃よりも、さらに「遠くを急ぎ」、乾きに乾いてしまったこの時代。
時代がうまくまわって、この曲を超えるクリスマス・ソングが、いつか生まれますように・・・。
------------------------------------
2019/12/01 UP
気がつくと12月。
クリスマスも迫っているので、昨年UPしたやつに数曲追加して再UPしてみました。
何年か前に同じテーマでおかきこした記憶があるが、探すの面倒なので・・・。かぶりあるかも。
■ My Gift To You - Alexander O'neal
容姿も含めタフなイメージがあるBCM系のシンガーだが、メロディアスなバラードにも定評あり。これは1988年リリースのクリスマス・ソング。
■ THY WORD - Michael W. Smith & Amy Grant
両者ともにCCM(Contemporary Christian Music)の大御所だから、まさしく保守本流!
■ A Christmas To Remember - Amy Grant
Amy Grantでもう1曲。
■ Hallelujah - Aleluya - Michael W. Smith
■ Beautiful Version Of O Holy Night - Celtic/Classical Trio
■ What A Beautiful Name - The Brooklyn Tabernacle Choir
↑の3曲。こういうの聴くとやっぱり本場の層の厚さを感じる。それとハイトーン女性ボーカルの大切さも・・・。
■ You Raise Me Up - Celtic Woman
そしてCeltic Woman。さすがにハイトーンが綺麗。
■ Innerst I Sjelen - Sissel Kyrkjebø
北欧もクリスマスソングの本場。
■ Grown Up Christmas List - David Foster/Natalie Cole
大御所、David Foster&のNatalie Coleのデュエットナンバー。
■ The Spirit Of Christmas Past - ENYA
この人、ふつうの曲でも十分クリスマス的だけど(笑)
■ Cold As Christmas - Elton John
1983年リリースの名盤『Too Low For Zero』収録。
ほんとはクリスマスの曲じゃないけどね。
■ Hodie Cristus Natus Est + Angels Of Ordinary Times - Melanie Ross
典型的な「女神の声」系。
■ Love Theme from St. Elmo's Fire - David Foster
1985年の洋画『セント・エルモス・ファイアー』(原題: St. Elmo's Fire)のサントラ収録。
この頃は洋画のサントラさえも、ふつうに街でかかっていた。(実際、ヒットしてたし・・・)
■ Nothing's Gonna Change My Love For You - George Benson
1984年リリースの『20/20』収録。
「変わらぬ想い」という邦題がつけられ、日本でも巷でよくかかっていた。
このサウンドは、フェンダー・ローズ抜きには絶対につくれない。
■ When You Love a Woman - Journey
全盛期をとうに過ぎたと思われる1996年。奇跡のように放たれた名バラード。
収録アルバム『Trial By Fire』リリース後の1998年、Steve Perryは正式にバンドから脱退。
その後2014年まで表だった音楽活動をほぼ停止した。
やっぱりSteve PerryのボーカルあってのJourneyだったんだと思う。
■ Christmas Time - Bryan Adams (1985)
1985年のクリスマスを彩った名曲。
■ Save The Best For Last - Vanessa Williams
クリスマスの曲じゃない(かもしれない)けど、曲調がそのものなので・・・。
個人的には、やっぱり1988年の深津絵里Vers.がベスト。
セリフもないのに、異様なまでに伝わってくるストーリー感。
2015年、27年後の同曲使用のCM(ソフトバンク)。
この曲活かすには相当なレベルのディレクション必要。
個人的にはセリフも効果音も字幕も大道具も不要だと思う。
■ 深津絵里、「クリスマス・エクスプレス」以来33年ぶり出演 『JR東海』新TVCM『会うって、特別だったんだ。』
時代の流れを感じる。
曲のできは悪くないけどね。
::::::::::::::::::::::::::::::::
クリスマスモチーフに拘らず、メロディアスでエモーショナルな好メロ曲を10曲集めてみました。
01.ANNIVERSARY〜無限にCALLING YOU〜 - 松任谷由実
02.フユラブ - Juliet
03.SEASONS - 浜崎あゆみ
04.1999 - 羊文学
↑ なにげにOMD(Orchestral Manoeuvres In The Dark)想い起こした。↓
■ Joan Of Arc - OMD(Orchestral Manoeuvres In The Dark)(1981年)
05.Here - 天上智喜 & CLIFF EDGE
06.Love is... - 加藤ミリヤ
カノン進行というか、カノンそのもの(笑)
やっぱりクリスマスにはカノン曲がはまる。
07.Credens justitiam - Yuki Kajiura(FictionJunction)
08. 東京は夜の七時 - PIZZICATO FIVE
09.あなただけが - 倖田來未
10.千年の恋 - ANRI
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2021/12/11 UP
メロディアスなバラードを3曲追加してみました。
'80年代のレディソウルの醍醐味をお楽しみください。
■ All At Once - Whitney Houston
■ Stay - Melba Moore
■ Finishing Touch - Klymaxx
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2021/11/23 UP
急に寒くなったし、ぼちぼちアクセスもいただいているので、ちと早いけど数曲追加してUPしてみます。
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2020/12/24 UP
本日も感染者数過去最高。パンデミックのさなかのクリスマス。
まさかこんなクリスマスを迎えることになろうとは・・・。
人類が1日もはやく、このウイルスに打ち勝つことができますように。
そして、クリスマスもなく、リスクを冒して働いておられる方々に感謝申し上げます。
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以前UPした記事(3曲のクリスマスソング)に昨年版を合体して再UPです。
邦楽では個人的にはこの8曲かな。(直接クリスマスとは関係ない曲もあるけど、曲調的に・・・)
■ メリクリ - 荒牧陽子(ガイドボーカル)
荒牧陽子(マキタソ)の本領発揮か。
■ ロッヂで待つクリスマス - カバー / 歌おうfavorite songs 171
ユーミンらしいテクニカルなコード進行。
個人的には「恋人がサンタクロース」よりこっちの方が上だと思う。
■ 君って - 西野カナ
西野カナって、本当にメロがいい曲多い。
■ 地上に降りるまでの夜 - 今井美樹
〔 From 『MOCHA under a full moon』(1989)/ 作詞:岩里祐穂、作曲:柿原朱美、編曲:佐藤準 〕
個人的には今井美樹屈指の名曲だと思う。淡々と歌っている感あるのに異様なフックがあって余韻が残る。
岩里祐穂、柿原朱美、佐藤準の黄金トリオならではの仕上がりか。
1990年代後半~2005年くらいまで、毎週末のように群馬の温泉に出向いていた。
帰路に決まってかけていたのが、今井美樹の名ベスト盤『Ivory』。
後半、ふたりでスプラッシュ ~ 空に近い週末 ~elfin~ 地上に降りるまでの夜 ~ひとりでX'mas ~ 瞳がほほえむから の流れは絶妙で、とくに冬の夜、満天の星空のもと関越を走らせながら聴くこの曲は、凄絶な美しさがあった。
■ Destiny feat.花たん【HoneyWorks】
好メロの宝庫ハニワと難曲キラー・花たんのコラボ。さすがの仕上がり。
4:40~の落ちサビの歌いまわしとロングトーン&ビブラート。
やっぱりただものじゃないわ・・・。
■ JAL 企業PV 「I Will Be There with You ~日本語版~」 All for sky - 杏里
往年のDavid Fosterのメロディーって、ほんとにクリスマスによく合っていた。
■ far on the water - Kalafina
Kalafina解散は、大きすぎる損失。
■ CHRISTMAS EVE 2021 山下達郎(クリスマス・イブ)
コメント入れた人、みな詩人になってる(笑)
わかりやすいカノン進行だけど、何度聴いても飽きない神曲。
街が音楽であふれていた1983年の曲。(37年前の1983年12月14日シングルカット。)
でも、洋楽の無残な崩れ方に比べれば邦楽はまだまだ大丈夫。
→ 1983年の洋楽ヒット曲 (Billboardデータから)
【CM 1988-92】JR東海 X'MAS EXPRESS 60秒×5
↑ キャスティング、演出、映像、コピーにナレーション。
どれをとっても隙がなさすぎる。プロの作品。
とくに1988年深津絵里、1989年牧瀬里穂の2本は傑作。
バブル崩壊直前のクリスマス。そこはかとなく漂う祭りのおわり感。
2015 ソフトバンク
↑ 27年後の同じ曲をつかって仕上げたクリスマスCM。
どうしようもない質の差を感じてしまう。
しかしこの名曲が、リリース時点ではシングル3万枚限定発売で最高位43位って、1983年、いったいどういう時代じゃ。
そういえばあの頃みんなシングルじゃなくて「MELODIES」(ALBUM)で聴いてたもんな。LPからテープに録音して(笑)
→ 1983年洋楽ピーク説
■ 潮見表 - 遊佐未森(1997年)
作詞・作曲:遊佐未森 → 歌詞
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もう そんなに遠くを急がなくていい
ささやかに暮らしてたあの頃は どこにあるの?
母なる夜は恋しくて 乾いてるこの時代をあやす
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↑ すでに1997年の時点で、1980年代へのレクイエムのようなこんな歌詞。
その頃よりも、さらに「遠くを急ぎ」、乾きに乾いてしまったこの時代。
時代がうまくまわって、この曲を超えるクリスマス・ソングが、いつか生まれますように・・・。
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2019/12/01 UP
気がつくと12月。
クリスマスも迫っているので、昨年UPしたやつに数曲追加して再UPしてみました。
何年か前に同じテーマでおかきこした記憶があるが、探すの面倒なので・・・。かぶりあるかも。
■ My Gift To You - Alexander O'neal
容姿も含めタフなイメージがあるBCM系のシンガーだが、メロディアスなバラードにも定評あり。これは1988年リリースのクリスマス・ソング。
■ THY WORD - Michael W. Smith & Amy Grant
両者ともにCCM(Contemporary Christian Music)の大御所だから、まさしく保守本流!
■ A Christmas To Remember - Amy Grant
Amy Grantでもう1曲。
■ Hallelujah - Aleluya - Michael W. Smith
■ Beautiful Version Of O Holy Night - Celtic/Classical Trio
■ What A Beautiful Name - The Brooklyn Tabernacle Choir
↑の3曲。こういうの聴くとやっぱり本場の層の厚さを感じる。それとハイトーン女性ボーカルの大切さも・・・。
■ You Raise Me Up - Celtic Woman
そしてCeltic Woman。さすがにハイトーンが綺麗。
■ Innerst I Sjelen - Sissel Kyrkjebø
北欧もクリスマスソングの本場。
■ Grown Up Christmas List - David Foster/Natalie Cole
大御所、David Foster&のNatalie Coleのデュエットナンバー。
■ The Spirit Of Christmas Past - ENYA
この人、ふつうの曲でも十分クリスマス的だけど(笑)
■ Cold As Christmas - Elton John
1983年リリースの名盤『Too Low For Zero』収録。
ほんとはクリスマスの曲じゃないけどね。
■ Hodie Cristus Natus Est + Angels Of Ordinary Times - Melanie Ross
典型的な「女神の声」系。
■ Love Theme from St. Elmo's Fire - David Foster
1985年の洋画『セント・エルモス・ファイアー』(原題: St. Elmo's Fire)のサントラ収録。
この頃は洋画のサントラさえも、ふつうに街でかかっていた。(実際、ヒットしてたし・・・)
■ Nothing's Gonna Change My Love For You - George Benson
1984年リリースの『20/20』収録。
「変わらぬ想い」という邦題がつけられ、日本でも巷でよくかかっていた。
このサウンドは、フェンダー・ローズ抜きには絶対につくれない。
■ When You Love a Woman - Journey
全盛期をとうに過ぎたと思われる1996年。奇跡のように放たれた名バラード。
収録アルバム『Trial By Fire』リリース後の1998年、Steve Perryは正式にバンドから脱退。
その後2014年まで表だった音楽活動をほぼ停止した。
やっぱりSteve PerryのボーカルあってのJourneyだったんだと思う。
■ Christmas Time - Bryan Adams (1985)
1985年のクリスマスを彩った名曲。
■ Save The Best For Last - Vanessa Williams
クリスマスの曲じゃない(かもしれない)けど、曲調がそのものなので・・・。
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■ 歌唱王 & カラバト
さきほど放送された、日テレの歌唱王。
今回もけっこうレベルは高かったと思う。
審査はあいかわらずの歌唱王クオリティ(笑)
声量全開、張り上げ系が高得点。
それとこの番組だけの話じゃないけど、ゲスト陣、泣いてるヒマあったら気のきいたコメント出せよ。
感動を泣くことでしか表現できないって、表現力なさすぎ・・・。
エモーショナルという視点からすると、やっぱり島津心美ちゃんだったと思う。
選曲がUP曲だったので、ちょっとエモ感出しにくかった感じも。
↓ こういう曲歌ってたら決勝行ってたのでは?
■ Dreamin' / JASMINE
ひと声聴いただけで心美ちゃんとわかる、圧倒的なオリジナリティ。
シャウトしてもけっして尖らない声質と余裕感。
■ 誰より好きなのに / 古内東子 2021/07/22 Kokomi 11th Birthday Live 溝ノ口劇場
強弱が効いてて歌いまわしがやたらにエモーショナル。そして歌にスケール感がある。
聴いてて飽きないフック感とキレ。
■ Precious / 伊藤由奈 2022/03/05 東京アイドル劇場 スタたん☆彡Vol.14~未来の歌姫&スター誕生~ YMCA スペースYホール
こういう解釈のPrecious、はじめて聴いた。
■ ありがとう / いきものがかり - 馬場亜衣里・下尾礼子・熊本エミ・島津心美・相磯菜々・北島由唯
2022/01/08 島津心美の大好きな仲間たちⅡ in OSAKA 南堀江knave
↑ これは全員にマイクあげたかった。
■ Beautiful / Superfly - 熊本エミ & 島津心美 2022/04/03 LIVE
これでまだ小6とは・・・、本当にこの先楽しみな逸材。
ps.
こういう逸材をサポート&プッシュできないのが、いまの歌唱界の問題だと思う。
1970~80年代のプロモーターだったら放っておかないのでは?
------------------------------
2021/12/24 UP
さきほど放送された、日テレの歌唱王。
個人的にはこれまで視た歌唱王のなかでいちばんレベル高かったと思う。聴き応えあった。
優勝は下尾礼子ちゃん(高3)。
歌声に圧があるし、独特なビブラートのフック感がすごい。
ボカロ曲かまして優勝とは、さすがに黄金の世代。
■ 下尾礼子 - unlasting(LiSA)
動画みつからないけど、川嵜心蘭ちゃん(高1)のテイクもよかった。
合唱部らしく素直な歌い方だけど、声に深みがあって聴いてて心地よい。
島津心美ちゃんは小5とは思えない圧巻の歌唱力。
加藤礼愛ちゃん(小6)のライバルになるかも・・・。
■ 島津心美 - SEASONS(浜崎あゆみ) 2021/07/22 Kokomi 11th Birthday Live 溝ノ口劇場
■ 加藤礼愛 - Halo(Beyoncé)
どちらも、とても小学生のパフォーマンスとは思えず。
やっぱりこの世代(小5~小6)も「黄金の世代」なのかもしれぬ。
それにしても、この世代の女子の歌のうまさは尋常じゃない。
以前書いた女神系歌姫。
ほんとうに日本はますます「女神系歌姫」の国になりつつあるような・・・。
------------------------------
2020/12/14 UP
先ほど放送してた(12/13)カラバト、やっぱりまたしてもU-18の強さを物語る内容だった。
個人的にベストだと思ったのは、鈴木杏奈ちゃんの「炎」(homura)。
ハマリの選曲だと思ったし、これまでのベストかと思うくらい、情感入ってた。
でも、ど-してこれで99.038?? 表現力92点っていったいどゆこと?
それと、海蔵亮太さんの「カブトムシ」も名唱だったけど、98.982。なぜ?
番組前半の翠千賀さんの、「(Ai判定機は)(トーンが)高いと(点数が)出ない。」というコメントが妙に気になった。
「炎」も「カブトムシ」もかなりハイトーンに振った歌いぶりだったけど、やっぱりハイトーンは点数出にくいのかも・・・。
優勝した佐久間彩加ちゃんも凄かった。
予選の「奇跡を望むなら...」は、2020.11.1 OAの「風が吹いている」と似たような歌いまわしだったと思う。
精密機械のように冷静に、淡々と置きに行く歌い方。
これで99.664で決勝に・・・。
決勝の「君がいたから」。
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:Crystal Kay「君がいたから」/2020.12.13 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)
歌い出しから前半は、「風が吹いている」や「奇跡を望むなら...」と同じ歌いまわししていたと思う。
ところが、1:32~ 「強く 手を握りしめた」からモードが一気に変わったような感じがする。
(とくに「しめた」の全開ビブラート)
いつもの「佐久間モード」に入ったら、もう「置きに行く」歌い方には戻れないと思うし、実際戻っていない。
さすがに我慢できなくなったのかな(笑)。
後半~ラストはほとんど「佐久間モード」全開でDIVA状態に・・・。
結果は99.870で優勝。
しかし、決勝でこんな超難しい曲選んで、しかも途中で歌い方変えて(?)優勝とは、やっぱりこの子ただものじゃない。
最後の100点チャレンジの「冬のうた」。
これはヒネリの少ない曲で、ただ無心に歌っていたような感じがする。99.924。
Ai判定機、中音部の太い彩加ちゃんの声質、好みなのかもしれない。
それにしても、鈴木杏奈ちゃんの「炎」(homura)や海蔵亮太さんの「カブトムシ」が99点台中盤も行かないって、どうなのかな・・・。
前のカラバト判定機が、えらくマトモに思える。
松本明子の「真夜中のドア」(シティポップの名曲)、なかなか面白かった。
さすがにタメすぎだと思うけど・・・(笑)
松原みき 真夜中のドア STAY WITH ME | Miki Matsubara
この曲、海外のチャートでヒット中ってホント?
※ 関連記事(グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?))
------------------------------
2020/12/10 UP
さきほど放送された、日テレの歌唱王。
この番組いつもそうだけど、またしても見事に優勝予想はずれた(笑)
番組のコンセプトだからしょうがないんだろうけど、わずか3名の審査員の主観で選ぶって、どうなのかな???
それと、12,000名の応募者から10名までの絞り込みって、誰がどういう基準で選んだんだろう???
これまでの選抜系歌番の選考で、もっとも妥当感あったのはAi判定機導入前のカラバト。
だから、やっぱりこの時期のU-18の上位陣に(個人的には)素直に実力を感じてしまう。(→ 関連記事「黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)」)
最近の歌唱で、凄い! と感じたのは ↓
【カラオケバトル公式】加藤礼愛:平原綾香「Jupiter(Little Glee Monster ver.)」(森アナイチオシ動画)
これでどうして97点台?
表現力87点、Ai感性88点って、Ai判定機どういう評価してるんだか・・・。
4:28~ のアドリブ(フェイク)、プロでもなかなかここまでは感情入らない。
以前の判定機だったら、裏加点ばりばりに稼いでおそらく99点台で優勝に絡んでると思う。
歌がうまい子がどんどん増えているんだから、客観的な評価ができる番組がもっと増えるといいな。
今回もけっこうレベルは高かったと思う。
審査はあいかわらずの歌唱王クオリティ(笑)
声量全開、張り上げ系が高得点。
それとこの番組だけの話じゃないけど、ゲスト陣、泣いてるヒマあったら気のきいたコメント出せよ。
感動を泣くことでしか表現できないって、表現力なさすぎ・・・。
エモーショナルという視点からすると、やっぱり島津心美ちゃんだったと思う。
選曲がUP曲だったので、ちょっとエモ感出しにくかった感じも。
↓ こういう曲歌ってたら決勝行ってたのでは?
■ Dreamin' / JASMINE
ひと声聴いただけで心美ちゃんとわかる、圧倒的なオリジナリティ。
シャウトしてもけっして尖らない声質と余裕感。
■ 誰より好きなのに / 古内東子 2021/07/22 Kokomi 11th Birthday Live 溝ノ口劇場
強弱が効いてて歌いまわしがやたらにエモーショナル。そして歌にスケール感がある。
聴いてて飽きないフック感とキレ。
■ Precious / 伊藤由奈 2022/03/05 東京アイドル劇場 スタたん☆彡Vol.14~未来の歌姫&スター誕生~ YMCA スペースYホール
こういう解釈のPrecious、はじめて聴いた。
■ ありがとう / いきものがかり - 馬場亜衣里・下尾礼子・熊本エミ・島津心美・相磯菜々・北島由唯
2022/01/08 島津心美の大好きな仲間たちⅡ in OSAKA 南堀江knave
↑ これは全員にマイクあげたかった。
■ Beautiful / Superfly - 熊本エミ & 島津心美 2022/04/03 LIVE
これでまだ小6とは・・・、本当にこの先楽しみな逸材。
ps.
こういう逸材をサポート&プッシュできないのが、いまの歌唱界の問題だと思う。
1970~80年代のプロモーターだったら放っておかないのでは?
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2021/12/24 UP
さきほど放送された、日テレの歌唱王。
個人的にはこれまで視た歌唱王のなかでいちばんレベル高かったと思う。聴き応えあった。
優勝は下尾礼子ちゃん(高3)。
歌声に圧があるし、独特なビブラートのフック感がすごい。
ボカロ曲かまして優勝とは、さすがに黄金の世代。
■ 下尾礼子 - unlasting(LiSA)
動画みつからないけど、川嵜心蘭ちゃん(高1)のテイクもよかった。
合唱部らしく素直な歌い方だけど、声に深みがあって聴いてて心地よい。
島津心美ちゃんは小5とは思えない圧巻の歌唱力。
加藤礼愛ちゃん(小6)のライバルになるかも・・・。
■ 島津心美 - SEASONS(浜崎あゆみ) 2021/07/22 Kokomi 11th Birthday Live 溝ノ口劇場
■ 加藤礼愛 - Halo(Beyoncé)
どちらも、とても小学生のパフォーマンスとは思えず。
やっぱりこの世代(小5~小6)も「黄金の世代」なのかもしれぬ。
それにしても、この世代の女子の歌のうまさは尋常じゃない。
以前書いた女神系歌姫。
ほんとうに日本はますます「女神系歌姫」の国になりつつあるような・・・。
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2020/12/14 UP
先ほど放送してた(12/13)カラバト、やっぱりまたしてもU-18の強さを物語る内容だった。
個人的にベストだと思ったのは、鈴木杏奈ちゃんの「炎」(homura)。
ハマリの選曲だと思ったし、これまでのベストかと思うくらい、情感入ってた。
でも、ど-してこれで99.038?? 表現力92点っていったいどゆこと?
それと、海蔵亮太さんの「カブトムシ」も名唱だったけど、98.982。なぜ?
番組前半の翠千賀さんの、「(Ai判定機は)(トーンが)高いと(点数が)出ない。」というコメントが妙に気になった。
「炎」も「カブトムシ」もかなりハイトーンに振った歌いぶりだったけど、やっぱりハイトーンは点数出にくいのかも・・・。
優勝した佐久間彩加ちゃんも凄かった。
予選の「奇跡を望むなら...」は、2020.11.1 OAの「風が吹いている」と似たような歌いまわしだったと思う。
精密機械のように冷静に、淡々と置きに行く歌い方。
これで99.664で決勝に・・・。
決勝の「君がいたから」。
【カラオケバトル公式】佐久間彩加:Crystal Kay「君がいたから」/2020.12.13 OA(テレビ未公開部分含むフルバージョン動画)
歌い出しから前半は、「風が吹いている」や「奇跡を望むなら...」と同じ歌いまわししていたと思う。
ところが、1:32~ 「強く 手を握りしめた」からモードが一気に変わったような感じがする。
(とくに「しめた」の全開ビブラート)
いつもの「佐久間モード」に入ったら、もう「置きに行く」歌い方には戻れないと思うし、実際戻っていない。
さすがに我慢できなくなったのかな(笑)。
後半~ラストはほとんど「佐久間モード」全開でDIVA状態に・・・。
結果は99.870で優勝。
しかし、決勝でこんな超難しい曲選んで、しかも途中で歌い方変えて(?)優勝とは、やっぱりこの子ただものじゃない。
最後の100点チャレンジの「冬のうた」。
これはヒネリの少ない曲で、ただ無心に歌っていたような感じがする。99.924。
Ai判定機、中音部の太い彩加ちゃんの声質、好みなのかもしれない。
それにしても、鈴木杏奈ちゃんの「炎」(homura)や海蔵亮太さんの「カブトムシ」が99点台中盤も行かないって、どうなのかな・・・。
前のカラバト判定機が、えらくマトモに思える。
松本明子の「真夜中のドア」(シティポップの名曲)、なかなか面白かった。
さすがにタメすぎだと思うけど・・・(笑)
松原みき 真夜中のドア STAY WITH ME | Miki Matsubara
この曲、海外のチャートでヒット中ってホント?
※ 関連記事(グルーヴ&ハイトーン (グルーヴってなに・・・?))
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2020/12/10 UP
さきほど放送された、日テレの歌唱王。
この番組いつもそうだけど、またしても見事に優勝予想はずれた(笑)
番組のコンセプトだからしょうがないんだろうけど、わずか3名の審査員の主観で選ぶって、どうなのかな???
それと、12,000名の応募者から10名までの絞り込みって、誰がどういう基準で選んだんだろう???
これまでの選抜系歌番の選考で、もっとも妥当感あったのはAi判定機導入前のカラバト。
だから、やっぱりこの時期のU-18の上位陣に(個人的には)素直に実力を感じてしまう。(→ 関連記事「黄金の世代?(カラバトU-18が強い件)」)
最近の歌唱で、凄い! と感じたのは ↓
【カラオケバトル公式】加藤礼愛:平原綾香「Jupiter(Little Glee Monster ver.)」(森アナイチオシ動画)
これでどうして97点台?
表現力87点、Ai感性88点って、Ai判定機どういう評価してるんだか・・・。
4:28~ のアドリブ(フェイク)、プロでもなかなかここまでは感情入らない。
以前の判定機だったら、裏加点ばりばりに稼いでおそらく99点台で優勝に絡んでると思う。
歌がうまい子がどんどん増えているんだから、客観的な評価ができる番組がもっと増えるといいな。
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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印、 「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11 ← 最新記事へつづく。
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。
■ 第72番 黒崎山 禅宗院(ぜんしゅういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町石部74
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡
温泉好きのあいだでは「平六地蔵露天風呂」で知られる石部の集落にあります。
西伊豆南部では石部の南のグルメ民宿で知られる雲見温泉が有名ですが、伊豆八十八ヶ所の札所は雲見にはなく、石部の当山から北上していくかたちとなります。
ただし札番からすると、第71番普照寺は南伊豆町伊浜なので、旧来は海沿いの現・国道136号を辿る巡路だったとみられます。
『こころの旅』『豆州志稿』によると当初は真言宗。
善瀲院という名で海浜にありましたが、寛文八年(1668年)以前に香雲寺十一世天國恩龍和尚が曹洞宗に改め、現地に遷ったとされています。
『豆州志稿』には「石部村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊観世音 本海濱ニ在リテ 善瀲院ト称セリ 初真言宗ナリ 蓋天國和尚(寛文八年(1668年)寂)ノ時寺ヲ移シ改宗シテ香雲寺ニ隷ス」
とあります。
-------------------
松崎の南には、三浦(さんぽ)地区と総称される岩地、石部、雲見の集落が点在し、魚料理のおいしい民宿エリアとして知られています。
また、霊場とは直接関係ないですが、松崎から石部にかけては風呂石として有名な「伊豆石」の産地で、道部の「室岩洞」は採掘遺跡として公開されています。
(これまた関係ないことですが(笑)、筆者は伊豆石の浴槽がいちばん好きです。)
【写真 上(左)】 平六地蔵露天風呂-1
【写真 下(右)】 平六地蔵露天風呂-2
さらに関係ないことですが、石部のとなりの岩地海岸には期間限定ですが、温泉船「ダジュール岩地」が開設されて、岩地温泉を楽しむことができます。
→ 岩地温泉 「(温泉船)ダジュール岩地」の入湯レポ
石部に来たのは2008年秋、「平六地蔵露天風呂」入湯以来です。
そのときは伊豆八十八ヶ所の存在じたい知らなかったので、当然禅宗院はスルーしています。
石部は泉質のよい温泉地で、温泉旅館&民宿が点在しています。
海水浴場がすぐなので、夏場はかなり賑わうようです。
すぐそばには石部漁港もあり、温泉、海鮮グルメ、マリンスポーツの三拍子揃った観光地です。
【写真 上(左)】 石部あたりの海岸
【写真 下(右)】 アプローチ道(参道)
禅宗院は石部集落の南東の山ぎわにあります。
集落からのアプローチ道を登っていくと、右手に「不許葷酒入山門」の戒壇石が出てきます。
【写真 上(左)】 六地蔵と本堂
【写真 下(右)】 地蔵尊群
さらに進むと六地蔵とそのおくに本堂。
地蔵信仰の篤い地域らしく、山内には赤い帽子と前掛けを着けられたたくさんの地蔵尊が御座します。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 庫裡サイドからの本堂
背後に小山を背負う寺院らしい立地で、西伊豆らしい明るい山内。
入母屋造銅板葺で向拝柱のないシンプルなつくり。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
屋根は照りを帯びしっかりとした降り棟も備えますが、平入りの身舎は桁行き方向にスクエアなサッシュ窓を連ねて、いささか風変わりな意匠です。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第73番 霊鷲山 常在寺(じょうざいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科南側321
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:本堂内に印判あり
風光明媚な松崎町は市街エリアでも温泉が楽しめ、西伊豆屈指の観光地となっています。
良港をもち、ふるくから物産の集積地として発展、明治初期には絹の輸出ブームに乗って養蚕が盛んになり、いまも残る豪商の蔵や邸宅の壁は”なまこ壁”(平瓦を壁に貼り付け、目地を漆喰で盛り上げる手法)で仕上げられ、「松崎のなまこ壁」として有名です。
教育も盛んな地で、「岩科学校」は甲府の旧陸沢学校、松本の旧開智学校などに次ぐ古い学校旧跡として国指定の重要文化財に指定されています。
江戸時代に左官の名工として名をあげた入江長八(伊豆の長八)は松崎出身で、町の中心部には「伊豆の長八美術館」があります。
このように文化の香り高い西伊豆の要地だけあって寺院も多く、この地も札所が集中しています。
常在寺は県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
札番からすると、第71番普照寺は南伊豆町伊浜、第72番禅宗院は海沿いの石部なので、海沿いの現・国道136号を辿ったのちに一旦蛇石峠側に岩科川を遡り、第73.74.75番と巡って松崎の街なか(第76番)に入る巡路となっています。
現在では第69番常石寺から県道121号蛇石峠を越えて松崎に入るルートも考えられますが、当時は蛇石峠は越えず、第69番常石寺から南方に山越えをして子浦の第70番金泉寺に入ったものとみられます。
このあたりのルート取りは悩むところですが、やはり一度は蛇石峠を越えることになるかと思います。
道幅は特段狭くはなく、全線舗装道ですがかなり小刻みなブラインドカーブがつづくので運転は要注意です。
【蛇石峠(県道121号)】静岡県賀茂郡松崎町~南伊豆町(2014.04.27)
※ 3.7倍速の動画です。
『こころの旅』『豆州志稿』によると、古くから小さな釈迦堂があったところに、永享元年(1429年)無範という禅僧が留まり、近在信徒の喜捨によって堂宇を建立し、常在寺と号して臨済宗寺院を開いたとされます。
『豆州志稿』には「平田山常在寺 岩科村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊釋迦 無範禅師(永享十二年(1440年)寂)ヲ初祖ニ為ス」とあります。
-------------------
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号板
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 本堂
県道から一本入った路地に、かなり急な参道階段を構えています。
階段右手に寺号板と札所板。
登り切るとすぐに本堂。竹林を背負う安定感あるロケーション。
本堂手前の2メートルほどもある法華千部供養塔が存在感を放っています。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、大棟を高く持ち上げた特徴のある意匠。
身舎はブラック系の桟格子サッシュできりりと引き締まったイメージ。
向拝見上げに扁額を掲げていますが、御詠歌かもしれません。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 巡拝案内
向拝に「納経所本堂内」の掲示があったので、扉を開けてみるとなかに巡拝案内が貼り出され、御朱印台に印判類がセットされていました。
本堂内に駕籠が吊されていたので、相応の格式をもった寺院なのかもしれません。
巡拝案内通りに御朱印をいただき、本堂をあとにしました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳-1(揮毫)
御朱印帳-2(印判)
■ 第74番 嵯峨山 永禅寺(えいぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科北側1312
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡玄関脇に印判あり
永禅寺も県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
『こころの旅』『豆州志稿』によると、仁安二年(1167年)に文覚上人がこの地を訪れた際、護持の釈迦如来像を安置して庵を建てたのが草創といいます。
建久中(1190-1199年)に永善寺(後永禅寺と改める)と号し、貞治中(1362-1368年)に僧寂室(近江永源寺の開山とも)が再興して臨済宗に改めたとされます。
『豆州志稿』には「岩科村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊釋迦 昔ハ真言宗ナリ 初庵ナリ 建久(1190-1199年)ヨリ永善寺(後永禅寺ト改ム)ト称ス 貞治中(1362-1368年)僧寂室再興シテ改宗ス 寂室禅師ヲ推テ開山トシ帰一寺ニ隷ス 寂室ハ江州永源寺ノ住僧ナリ(中略)本尊ハ亀玆國(筆者註:現.中国新疆ウイグル自治区/シルクロード上の古代アオシス都市)ノ佛工天竺國如来ノ像ヲ模刻シテ宗ノ聖禅院ノ本尊トス 釋●然宗佛工張滎ヲシテ又之ヲ模刻セシメ 帰國シテ洛西清冷寺ニ安置ス 運慶又清冷寺ノ像ヲ模刻シテ此寺ニ安ス」とあります。
『真言密教の本』(学研刊)などによると、文覚上人は鎌倉時代初期に活躍した真言宗の僧で俗名は遠藤盛遠。
出自は渡辺党・遠藤氏で摂津源氏の傘下にあり、北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に出仕していましたが、19歳で出家したとされます。
『源平盛衰記』は、出家の原因として盛遠(文覚上人)が従兄弟で同僚の渡辺渡の妻で絶世の美女といわれた袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことをあげています。
袈裟御前への恋に盲目となった盛遠は、袈裟御前に婚姻を迫りました。
このままでは夫を殺されると危惧した袈裟御前は、盛遠に「夫の渡辺渡を殺してから一緒になってほしい」旨もちかけ、夫の襲撃の手はずを整えました。
そして袈裟御前は自ら渡辺渡の寝床に入り、そうとは知らずに手はずどおりに襲撃した盛遠は、誤って袈裟御前を斬り殺してしまいました。
袈裟御前は夫の身を守るため、自ら犠牲になったともいわれます。
これを激しく悔いた盛遠はすべてを渡辺渡に告げ、「自分を手打ちにしてくれ」と懇願しました。
しかし、最愛の妻を失った渡辺渡は世の無常を感じ、盛遠を討つことなくその場で出家し仏門に入りました。
それを見た盛遠も追うように出家したということです。
自らの行為を贖罪するように、那智をはじめとする各地の霊地ですさまじい荒行を積み、呪術に通じた荒法師として知られるようになりました。
高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴した咎で、伊豆国に配流されました。
承安三年(1173年)春、近藤四郎国高に預けられ、韮山の毘沙門堂を結んだとされます。
折しも源家の御曹司、頼朝公が近隣に流されていたため、頼朝公と知遇を得て源氏再興を熱烈に説いたとされます。
この際、頼朝公の父・義朝公の髑髏を取り出し蹶起を促したというのは有名な逸話です。
頼朝公が源氏再興を果たしたのちに、頼朝公は文覚上人に命じて毘沙門堂を建立させたという説もあります。(当初の号は安養浄土院、奈古屋寺から瑞龍山授福寺に改号、毘沙門堂は授福寺の堂宇)
伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴き、後白河法皇からの平氏追討の院宣をわずか8日で頼朝公にもたらしたという伝説的逸話も伝わります。
生来活動的な性格だったらしく、神護寺、東寺、高野山、東大寺、江の島弁財天などの大寺と深くかかわりをもったとされ、とくに神護寺は中興を果たしたとされます。
数々の修法を験じ「天狗を祀る」といわれたこと、また神出鬼没の移動の速さから、真言密教だけでなく、修験の道にも通じていたとみられています。
頼朝公存命中は大きな影響力をもったとされますが、頼朝公が逝去するや三左衛門事件(正治元年(1199年)2月、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言源(土御門)通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件)に巻き込まれ佐渡へ配流。
建仁二年(1202年)許されて京に戻るも、翌三年(1203年)後鳥羽上皇より守貞親王擁立の謀反の疑いをかけられ、対馬へ流罪となる途中、鎮西(九州)で客死と伝わります。
様々な験をあらわし、歯に衣を着せぬ物言いから「一代の怪僧」ともいわれ、歴史に名を残した文覚上人の遺跡は配流先の伊豆に多くあり、当山もそのひとつに数えられます。
御本尊の釈迦如来像は京都嵯峨の清涼寺の御本尊と同木同作(あるいは模刻とも)とされます。
なお、清涼寺の御本尊は天竺(インド)渡来の栴檀づくりの釈迦如来像と伝わります。(清涼寺寺伝)
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号板
第73番常在寺から蛇石峠に向かって県道をさらに遡ります。
県道に面して参道入口。
すぐそばには東海バスの「永禅寺前」バス停があります。
がっしりとした石垣を構え、右手に五輪塔、正面に山門、門柱には寺号板が掲げられていてこのあたりでは大がかりな寺院です。
山門手前に鉄柵が閉められているので、まさか参拝禁止? とおののきましたが、これはイノシシの侵入除けの鉄柵なのでした。
掲げられていた案内どおりに鉄柵を開け山内に入ります。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
左手背後に小山を背負った落ち着きのある山内で、清掃が行き届いて気持ちがいいです。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、こちらも大棟を高く持ち上げています。
身舎は木製の桟格子が連なり端正な印象。
向拝見上げに山号扁額を掲げています。
御朱印は霊場公式Webに「無住ですが御朱印所は庫裡側の玄関脇にございます。」とあるとおり、庫裡玄関脇でセルフで印判をいただきました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第75番 岩科山 天然寺(てんねんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科北側507
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡
天然寺も県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
山内掲示および『こころの旅』『豆州志稿』によると、応仁二年(1468年)(文明九年(1477年)とも)雲譽文公上人により開創。
宝永二年(1705年)8月の大洪水により流失し、4年後の1709年に再建といいます。
『豆州志稿』には「岩科村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 文明九年(1477年)雲譽上人創ム 子院二定光院 天養院(明治七年廃ス)」とあります。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門
岩科川から山裾に向かう傾斜地にあり参道も登りスロープです。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、たしか山号扁額を掲げていました。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵
【写真 上(左)】 鐘楼と収蔵庫?
【写真 下(右)】 本堂
その先正面に形のよい小山を背負って本堂。
手前に鐘楼と見事ななまこ壁の収蔵庫?を構えています。
さすがになまこ壁の街、松崎の寺院です。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝軒唐破風。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備には白色の彫刻入り板蟇股で見応えがあります。
【写真 上(左)】 木鼻
【写真 下(右)】 堂内の扁額
向拝身舎に扁額はありませんが、扉を開いた堂内見上げに寺号扁額が掲げられていました。
本堂内には、院派の仏師の作とみられる地蔵尊像、室町期作といわれる不動明王像のほか、釈迦如来、観世音菩薩、閻魔大王、青面金剛、弁財天、大黒天、毘沙門天、烏枢沙摩明王、徳川家康公像、歴代将軍の御位牌など多彩な尊格が御座すそうです。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第76番 清水山 浄泉寺(じょうせんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町松崎43
浄土宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡
この霊場ではめずらしく浄土宗寺院がつづきます。
松崎市街、延喜式内社の伊那下神社のそばにある浄土宗寺院です。
伊那下神社は、西伊豆では稀少な御朱印をいただける神社です。
【写真 上(左)】 伊那下神社
【写真 下(右)】 伊那下神社の御朱印
『こころの旅』によると、應永十一年(1404年)に及歎によって開創。
慶安元年(1648年)には徳川家光公による御朱印状を受けましたが、寛文十一年(1671年)八月洪水ニテ流出。
八世傳的が再興し、宝暦八年(1758年)には芝・増上寺の交代寺となりました。
『豆州志稿』には「松崎村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀観世音勢至 寺邊ニ清泉アリ取テ寺名トス 開祖及歎年代下知(或ハ云應永十一年(1404年)創立ナリト) 但曰当住迄十七世ナリト 寛文十一年(1671年)八月洪水ニテ流出 八世傳的再興ス 北条氏康寺領ヲ寄スト傳フレ共不詳 子院 寶壽院 随運院 西透院等(明治七年廃ス)」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
松崎の街なかにありますが、松崎は山が迫っているので、この寺院も背後に小山を背負う落ち着いたロケーションです。
参道入口に構える、入母屋屋根桟葺の朱塗りの四脚の楼門がひときわ目立ちます。
上層中央に山号扁額。
参道左手にたしか堂宇(経堂?)があったかと思いますが、なぜか写真がなく詳細不明。
参道正面の本堂は、入母屋造本瓦葺流れ向拝で整った軒唐破風を起こし、大棟には寺号が掲げられています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 本堂扁額
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備上下に大がかりな板蟇股と彫刻。
さらにその上に兎毛通に経の巻獅子口を置いて見どころ豊富です。
向拝見上げには「法王殿?」の扁額、向拝柱には札所板が掲げられていました。
御本尊・阿弥陀三尊像は行基の作と伝わります。
御本尊の上の仏天蓋には、伊豆の長八作とされる飛天、左右の欄間には石田半兵衛の作と伝わる十六羅漢の透かし彫りが刻まれています。
また、裏庭は江戸時代に伊豆三名園のひとつと賞されたそうです。
山内掲示には下記のとおりありました。
・回る経堂、透かし彫り十六羅漢像、仏天蓋の長八天女、自然庭園、三十三観音、弘法大師作(伝)不動尊、水子・子育地蔵、もの思う石仏群
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第77番 文覚山 圓通寺(えんつうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町宮内130
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第4番
授与所:第78番禅海寺
山内由緒書、『こころの旅』によると、治承三年(1179年)の創始といわれ、僧文覚が伊豆韮山に流罪の際、ここに寄寓したことから文覚を開祖とし、のちに文覚山と号しました。
文覚はのちに当寺の奥の院となった観音堂で源頼朝公と会見し、源家再興を促したと伝わります。
(『豆州志稿』には、この説は「附会」とあります。)
『霊場めぐり』によると、この観音堂は相生堂と呼ばれましたが、いまは廃堂となって頼朝公、文覚の木像は圓通寺本堂に安置されているとの由。
相生堂には頼朝公お手植えの相生松がありましたが、枯れてしまったとのこと。
また、古くは妙智山円通寺という真言宗の小庵で、弘法大師の御作といわれる観音像を安置したともいいます。
のちに東林友丘和尚(應安二年(1369年)寂)により臨済宗に宗を改めました。
以前は那賀川の岸辺に沿って堂宇が建てられていましたが、200年ほど前に現地に遷って山号を改めています。
『豆州志稿』には「宮内村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊正観世音 文覚流人タル時 暫ク此ニ住ス 以テ開祖トス 俗ニ傳フ頼朝卿ニ父ノ髑髏ヲ視セシハ此ナリト 此傳附会ナリトス 文覚源義朝ノ髑髏ヲ頼朝ニ視セシハ田方郡奈印古谷ナリ(平家物語源平盛衰記等参観) 東林和尚ノ時ヨリ建長寺派下ト為ル 東林ハ應安二年(1369年)滅ス」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
松崎の街はずれ、伊那上神社の南側の路地おくにあります。
参道まわりは広く、かなりの格式の寺院であったことがうかがわれます。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門ないし薬医門で、門柱に寺号板が掲げられています。
くぐるとすぐに階段。正面が庫裡で、いまは塾になっているようです。
左に棟つづきで本堂。その右手前に鐘楼。
この位置に鐘楼は、めずらしい伽藍配置かと思います。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、向拝上部に寺号扁額を掲げています。
向拝硝子戸下欄には伊豆八十八ヶ所と伊豆横道観音霊場の札所板が打ち付けられ、「御朱印は禅海寺まで」と読めます。
御本尊は弘法大師の御作とも伝わる聖観世音菩薩像です。
伊豆横道三十三観音霊場は頼朝公と所縁のふかい霊場で、頼朝公ゆかりの伝承が伝わるこの寺は札所にふさわしいかもしれません。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 堂宇
本堂左手にある寄棟造桟瓦葺流れ向拝の堂宇の堂宇本尊は、扁額がないのでよくわかりません。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、中備に波様の彫刻はいずれも精緻な彫りです。
原則無住で、御朱印は第78番禅海寺にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
■ 第78番 祥雲山 禅海寺(ぜんかいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町江奈44
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡
『こころの旅』によると、当山の由緒書には、建久三年(1192年)に栄西禅師がこの地を訪れ一宇を造り、祥雲山禅海寺と名づけたとありますが、住職によると栄西禅師は勧請されて始祖になったもので、実際は弟子の建立とのことです。
建長四年(1252年)に当山の御本尊、釈迦如来を夢にみた鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王と執権・北条時頼が堂宇を再建、寄進をしたために宗尊親王の開基とされています。
『豆州志稿』には「江奈村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊釋迦 建久中(1190-1199年)創立 僧滎西ヲ請シテ開山トス 往昔鎌倉幕府ヨリ寺領ヲ附セリト傳フレトモ詳ナラス 永享五年(1433年)住山和尚建ツ 再興ナリ」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
こちらは松崎港の東側の山手、江奈地区にあります。
ロケ的には松崎の街の北のはずれでしょうか。
山門は切妻屋根桟瓦葺で大棟に寺号を掲げ、がっしりとした降棟を降ろす四脚門で、名刹の風格があります。
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2
【写真 上(左)】 六地蔵塔
【写真 下(右)】 本堂
本堂は背後に山を背負って寄棟造桟瓦葺。向かって左に寄せて唐破風の向拝を附設しています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備上に笈形付大瓶束。
左右の繋ぎ虹梁の上にも板蟇股をおき、上部は格天井と手が込んでいますが扁額はありません。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
向拝扉を開くと堂内見上げに寺号扁額が掲げられていました。
堂内は禅刹らしく、すっきりと整えられています。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第79番 曹源山 建久寺(けんきゅうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町建久寺68
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:建久寺酒店(松崎町那賀5-5)
建久年間(1190-1198年)に創立と伝わる古刹です。
後に安山という僧が再興、那賀村にあった当山を現在地に遷し、同時に檀徒も移住したといいます。
永正4年(1507年)に焼失し、これ以外の詳細は伝わっていません。
『豆州志稿』には「建久寺村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊観世音 建久中(1190-1199年)立ツ 今安山和尚ヲ祖トス 蓋中興ナリ 初那賀村ニ在リ 後現地ニ転ス 担徒随テ移住シ遂ニ一村ヲ為シ建久寺村ト称スト云 往昔巨刹ニシテ寺領ヲ有シタリト傳フレ共 永正四年(1507年)焼亡舊記ノ証スヘキ無シ」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門と本堂
こちらは松崎港に注ぐ那賀川沿い、建久寺地区にあります。
『豆州志稿』によると「建久寺」の地名は、当初那賀村にあった当寺が檀家とともにこの地に移ったためつけられたとのこと。
人気宿として知られる桜田温泉「山芳園」の東側で、ここからさらに那賀川を遡ると”化粧の湯”と呼ばれ名宿として知られた大沢温泉「大沢温泉ホテル」がありましたが、令和2年12月末、日帰り温泉施設「大沢温泉 依田之庄」として装いを新たにした模様です。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山門扁額
参道左手前に真新しい札所標。
その先に寺号扁額を掲げた桟瓦葺の高麗門。
くぐった正面が本堂で、向かって右手前に白い聖観世音菩薩像が御座します。
【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 聖観世音菩薩像
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は寄棟造銅板葺で向拝柱はなく、左に寄せた向拝の見上げに山号扁額を掲げています。
向拝はサッシュ扉で、比較的新しい建物とみられます。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 建久寺酒店
こちらは無住で、御朱印は那賀地区の街なかにある建久寺酒店で拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11 ← 最新記事へつづく。
【 BGM 】
■ クリスマス イブ - 山下達郞 MV - JR東海 CM
■ 遠い街から - 今井美樹 MIKI IMAI LIVE AT ORCHARD HALL 2003
■ Celtic Prayer - Méav
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。
また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
第1番 観富山 嶺松院(伊豆市田沢)
第2番 天城山 弘道寺(伊豆市湯ケ島)
第3番 妙高山 最勝院(伊豆市宮上)
第4番 泉首山 城富院(伊豆市城)
第5番 吉原山 玉洞院(伊豆市牧之郷)
第6番 大澤山 金剛寺(伊豆市大沢)
第7番 東嶽山 泉龍寺(伊豆市堀切)
第8番 養加山 益山寺(伊豆市堀切)
第9番 引摂山 澄楽寺(伊豆の国市三福)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
第10番 長谷山 蔵春院(伊豆の国市田京)
第11番 天與山 長源寺(伊豆の国市中)
第12番 湯谷山 薬王林 長温寺(伊豆の国市古奈)
第13番 巨徳山 北條寺(伊豆の国市南江間)
第14番 龍泉山 慈光院(伊豆の国市韮山多田)
第15番 華頂峰 高岩院(伊豆の国市奈古谷)
第16番 金寶山 興聖寺(函南町塚本)
第17番 明王山 泉福寺(三島市長伏)
第18番 龍泰山 宗徳院(三島市松本)
第19番 君澤山 連馨寺(三島市広小路町)
第20番 福翁山 養徳寺(函南町平井)
第21番 圓通山 龍澤寺(三島市沢地)
第22番 龍泉山 宗福寺(三島市塚原新田)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
第23番 日金山 東光寺(熱海市伊豆山)
第24番 走湯山 般若院(熱海市伊豆山)
第25番 護国山 興禅寺(熱海市桜木町)
第26番 根越山 長谷寺(熱海市網代)
第27番 稲荷山 東林寺(伊東市馬場町)
第28番 伊雄山 大江院(伊東市八幡野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
第29番 大川山 龍豊院(東伊豆町大川)
第30番 金澤山 自性院(東伊豆町奈良本)
第31番 来宮山 東泉院(東伊豆町白田)
第32番 稲取山 善應院(東伊豆町稲取)
第33番 見海山 来迎院 正定寺(東伊豆町稲取)
別格旧第31番 宝林山 称念寺(河津町浜)
第34番 千手山 三養院(河津町川津筏場)
(旧?)第35番 鳳儀山 栖足寺(河津町谷津)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
(新?)第35番 天城山 慈眼院(河津町梨本)
第36番 長運山 乗安寺(河津町谷津)
第37番 玉田山 地福院(河津町縄地)
第38番 興國山 禅福寺(下田市白浜)
第39番 西向山 観音寺(下田市須崎)
第40番 瑞龍山 玉泉寺(下田市柿崎)
第41番 富巖山 天気院 海善寺(下田市一丁目)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
第42番 大浦山 長楽寺(下田市三丁目)
第43番 乳峰山 大安寺(下田市四丁目)
第44番 湯谷山 廣台寺(下田市蓮台寺)
第45番 三壺山 向陽院(下田市河内)
第46番 砥石山 米山寺(下田市箕作)
第47番 保月山 龍門院(下田市相玉)
第48番 婆娑羅山 報本寺(下田市加増野)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
第49番 神護山 太梅寺(下田市横川)
第50番 古松山 玄通寺(南伊豆町一條)
第51番 青谷山 龍雲寺(南伊豆町青市)
第52番 少林山 曹洞院(下田市大賀茂)
第53番 佛谷山 寶徳院(下田市吉佐美)
第54番 浦岳山 長谷寺(下田市田牛)
第55番 飯盛山 修福寺(南伊豆町湊)
第56番 養珠山 正善寺(南伊豆町手石)
第57番 東海山 青龍寺(南伊豆町手石)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8
第58番 稲荷山 正眼寺(南伊豆町石廊崎)
(石室神社)(南伊豆町石廊崎)
第59番 瑞雲山 海蔵寺(南伊豆町入間)
第60番 龍燈山 善福寺(南伊豆町妻良)
第61番 臥龍山 法泉寺(南伊豆町妻良)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-9
第62番 石屏山 法伝寺(南伊豆町二條)
第63番 五峰山 保春寺(南伊豆町加納)
第64番 金嶽山 慈雲寺(南伊豆町下賀茂)
第65番 田村山 最福寺(南伊豆町上賀茂)
第66番 波次磯山 岩殿寺(南伊豆町岩殿)
第67番 太梅山 安楽寺(南伊豆町上小野)
第68番 廬岳山 東林寺(南伊豆町下小野)
第69番 塔峰山 常石寺(南伊豆町蛇石)
第70番 医王山 金泉寺(南伊豆町子浦)
第71番 翁生山 普照寺(南伊豆町伊浜)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-10
第72番 黒崎山 禅宗院(松崎町石部)
第73番 霊鷲山 常在寺(松崎町岩科南側)
第74番 嵯峨山 永禅寺(松崎町岩科北側)
第75番 岩科山 天然寺(松崎町岩科北側)
第76番 清水山 浄泉寺(松崎町松崎)
第77番 文覚山 圓通寺(松崎町宮内)
第78番 祥雲山 禅海寺(松崎町江奈)
第79番 曹源山 建久寺(松崎町建久寺)
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11 ← 最新記事へつづく。
第80番 萬法山 帰一寺(松崎町船田)
第81番 富貴野山 宝蔵院(松崎町門野)
第82番 照嶺山 東福寺(西伊豆町中)
〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。
■ 第72番 黒崎山 禅宗院(ぜんしゅういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町石部74
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡
温泉好きのあいだでは「平六地蔵露天風呂」で知られる石部の集落にあります。
西伊豆南部では石部の南のグルメ民宿で知られる雲見温泉が有名ですが、伊豆八十八ヶ所の札所は雲見にはなく、石部の当山から北上していくかたちとなります。
ただし札番からすると、第71番普照寺は南伊豆町伊浜なので、旧来は海沿いの現・国道136号を辿る巡路だったとみられます。
『こころの旅』『豆州志稿』によると当初は真言宗。
善瀲院という名で海浜にありましたが、寛文八年(1668年)以前に香雲寺十一世天國恩龍和尚が曹洞宗に改め、現地に遷ったとされています。
『豆州志稿』には「石部村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊観世音 本海濱ニ在リテ 善瀲院ト称セリ 初真言宗ナリ 蓋天國和尚(寛文八年(1668年)寂)ノ時寺ヲ移シ改宗シテ香雲寺ニ隷ス」
とあります。
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松崎の南には、三浦(さんぽ)地区と総称される岩地、石部、雲見の集落が点在し、魚料理のおいしい民宿エリアとして知られています。
また、霊場とは直接関係ないですが、松崎から石部にかけては風呂石として有名な「伊豆石」の産地で、道部の「室岩洞」は採掘遺跡として公開されています。
(これまた関係ないことですが(笑)、筆者は伊豆石の浴槽がいちばん好きです。)
【写真 上(左)】 平六地蔵露天風呂-1
【写真 下(右)】 平六地蔵露天風呂-2
さらに関係ないことですが、石部のとなりの岩地海岸には期間限定ですが、温泉船「ダジュール岩地」が開設されて、岩地温泉を楽しむことができます。
→ 岩地温泉 「(温泉船)ダジュール岩地」の入湯レポ
石部に来たのは2008年秋、「平六地蔵露天風呂」入湯以来です。
そのときは伊豆八十八ヶ所の存在じたい知らなかったので、当然禅宗院はスルーしています。
石部は泉質のよい温泉地で、温泉旅館&民宿が点在しています。
海水浴場がすぐなので、夏場はかなり賑わうようです。
すぐそばには石部漁港もあり、温泉、海鮮グルメ、マリンスポーツの三拍子揃った観光地です。
【写真 上(左)】 石部あたりの海岸
【写真 下(右)】 アプローチ道(参道)
禅宗院は石部集落の南東の山ぎわにあります。
集落からのアプローチ道を登っていくと、右手に「不許葷酒入山門」の戒壇石が出てきます。
【写真 上(左)】 六地蔵と本堂
【写真 下(右)】 地蔵尊群
さらに進むと六地蔵とそのおくに本堂。
地蔵信仰の篤い地域らしく、山内には赤い帽子と前掛けを着けられたたくさんの地蔵尊が御座します。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 庫裡サイドからの本堂
背後に小山を背負う寺院らしい立地で、西伊豆らしい明るい山内。
入母屋造銅板葺で向拝柱のないシンプルなつくり。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
屋根は照りを帯びしっかりとした降り棟も備えますが、平入りの身舎は桁行き方向にスクエアなサッシュ窓を連ねて、いささか風変わりな意匠です。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第73番 霊鷲山 常在寺(じょうざいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科南側321
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:本堂内に印判あり
風光明媚な松崎町は市街エリアでも温泉が楽しめ、西伊豆屈指の観光地となっています。
良港をもち、ふるくから物産の集積地として発展、明治初期には絹の輸出ブームに乗って養蚕が盛んになり、いまも残る豪商の蔵や邸宅の壁は”なまこ壁”(平瓦を壁に貼り付け、目地を漆喰で盛り上げる手法)で仕上げられ、「松崎のなまこ壁」として有名です。
教育も盛んな地で、「岩科学校」は甲府の旧陸沢学校、松本の旧開智学校などに次ぐ古い学校旧跡として国指定の重要文化財に指定されています。
江戸時代に左官の名工として名をあげた入江長八(伊豆の長八)は松崎出身で、町の中心部には「伊豆の長八美術館」があります。
このように文化の香り高い西伊豆の要地だけあって寺院も多く、この地も札所が集中しています。
常在寺は県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
札番からすると、第71番普照寺は南伊豆町伊浜、第72番禅宗院は海沿いの石部なので、海沿いの現・国道136号を辿ったのちに一旦蛇石峠側に岩科川を遡り、第73.74.75番と巡って松崎の街なか(第76番)に入る巡路となっています。
現在では第69番常石寺から県道121号蛇石峠を越えて松崎に入るルートも考えられますが、当時は蛇石峠は越えず、第69番常石寺から南方に山越えをして子浦の第70番金泉寺に入ったものとみられます。
このあたりのルート取りは悩むところですが、やはり一度は蛇石峠を越えることになるかと思います。
道幅は特段狭くはなく、全線舗装道ですがかなり小刻みなブラインドカーブがつづくので運転は要注意です。
【蛇石峠(県道121号)】静岡県賀茂郡松崎町~南伊豆町(2014.04.27)
※ 3.7倍速の動画です。
『こころの旅』『豆州志稿』によると、古くから小さな釈迦堂があったところに、永享元年(1429年)無範という禅僧が留まり、近在信徒の喜捨によって堂宇を建立し、常在寺と号して臨済宗寺院を開いたとされます。
『豆州志稿』には「平田山常在寺 岩科村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊釋迦 無範禅師(永享十二年(1440年)寂)ヲ初祖ニ為ス」とあります。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号板
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 本堂
県道から一本入った路地に、かなり急な参道階段を構えています。
階段右手に寺号板と札所板。
登り切るとすぐに本堂。竹林を背負う安定感あるロケーション。
本堂手前の2メートルほどもある法華千部供養塔が存在感を放っています。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、大棟を高く持ち上げた特徴のある意匠。
身舎はブラック系の桟格子サッシュできりりと引き締まったイメージ。
向拝見上げに扁額を掲げていますが、御詠歌かもしれません。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 巡拝案内
向拝に「納経所本堂内」の掲示があったので、扉を開けてみるとなかに巡拝案内が貼り出され、御朱印台に印判類がセットされていました。
本堂内に駕籠が吊されていたので、相応の格式をもった寺院なのかもしれません。
巡拝案内通りに御朱印をいただき、本堂をあとにしました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳-1(揮毫)
御朱印帳-2(印判)
■ 第74番 嵯峨山 永禅寺(えいぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科北側1312
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡玄関脇に印判あり
永禅寺も県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
『こころの旅』『豆州志稿』によると、仁安二年(1167年)に文覚上人がこの地を訪れた際、護持の釈迦如来像を安置して庵を建てたのが草創といいます。
建久中(1190-1199年)に永善寺(後永禅寺と改める)と号し、貞治中(1362-1368年)に僧寂室(近江永源寺の開山とも)が再興して臨済宗に改めたとされます。
『豆州志稿』には「岩科村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊釋迦 昔ハ真言宗ナリ 初庵ナリ 建久(1190-1199年)ヨリ永善寺(後永禅寺ト改ム)ト称ス 貞治中(1362-1368年)僧寂室再興シテ改宗ス 寂室禅師ヲ推テ開山トシ帰一寺ニ隷ス 寂室ハ江州永源寺ノ住僧ナリ(中略)本尊ハ亀玆國(筆者註:現.中国新疆ウイグル自治区/シルクロード上の古代アオシス都市)ノ佛工天竺國如来ノ像ヲ模刻シテ宗ノ聖禅院ノ本尊トス 釋●然宗佛工張滎ヲシテ又之ヲ模刻セシメ 帰國シテ洛西清冷寺ニ安置ス 運慶又清冷寺ノ像ヲ模刻シテ此寺ニ安ス」とあります。
『真言密教の本』(学研刊)などによると、文覚上人は鎌倉時代初期に活躍した真言宗の僧で俗名は遠藤盛遠。
出自は渡辺党・遠藤氏で摂津源氏の傘下にあり、北面の武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王に出仕していましたが、19歳で出家したとされます。
『源平盛衰記』は、出家の原因として盛遠(文覚上人)が従兄弟で同僚の渡辺渡の妻で絶世の美女といわれた袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことをあげています。
袈裟御前への恋に盲目となった盛遠は、袈裟御前に婚姻を迫りました。
このままでは夫を殺されると危惧した袈裟御前は、盛遠に「夫の渡辺渡を殺してから一緒になってほしい」旨もちかけ、夫の襲撃の手はずを整えました。
そして袈裟御前は自ら渡辺渡の寝床に入り、そうとは知らずに手はずどおりに襲撃した盛遠は、誤って袈裟御前を斬り殺してしまいました。
袈裟御前は夫の身を守るため、自ら犠牲になったともいわれます。
これを激しく悔いた盛遠はすべてを渡辺渡に告げ、「自分を手打ちにしてくれ」と懇願しました。
しかし、最愛の妻を失った渡辺渡は世の無常を感じ、盛遠を討つことなくその場で出家し仏門に入りました。
それを見た盛遠も追うように出家したということです。
自らの行為を贖罪するように、那智をはじめとする各地の霊地ですさまじい荒行を積み、呪術に通じた荒法師として知られるようになりました。
高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴した咎で、伊豆国に配流されました。
承安三年(1173年)春、近藤四郎国高に預けられ、韮山の毘沙門堂を結んだとされます。
折しも源家の御曹司、頼朝公が近隣に流されていたため、頼朝公と知遇を得て源氏再興を熱烈に説いたとされます。
この際、頼朝公の父・義朝公の髑髏を取り出し蹶起を促したというのは有名な逸話です。
頼朝公が源氏再興を果たしたのちに、頼朝公は文覚上人に命じて毘沙門堂を建立させたという説もあります。(当初の号は安養浄土院、奈古屋寺から瑞龍山授福寺に改号、毘沙門堂は授福寺の堂宇)
伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴き、後白河法皇からの平氏追討の院宣をわずか8日で頼朝公にもたらしたという伝説的逸話も伝わります。
生来活動的な性格だったらしく、神護寺、東寺、高野山、東大寺、江の島弁財天などの大寺と深くかかわりをもったとされ、とくに神護寺は中興を果たしたとされます。
数々の修法を験じ「天狗を祀る」といわれたこと、また神出鬼没の移動の速さから、真言密教だけでなく、修験の道にも通じていたとみられています。
頼朝公存命中は大きな影響力をもったとされますが、頼朝公が逝去するや三左衛門事件(正治元年(1199年)2月、一条能保・高能父子の遺臣が権大納言源(土御門)通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件)に巻き込まれ佐渡へ配流。
建仁二年(1202年)許されて京に戻るも、翌三年(1203年)後鳥羽上皇より守貞親王擁立の謀反の疑いをかけられ、対馬へ流罪となる途中、鎮西(九州)で客死と伝わります。
様々な験をあらわし、歯に衣を着せぬ物言いから「一代の怪僧」ともいわれ、歴史に名を残した文覚上人の遺跡は配流先の伊豆に多くあり、当山もそのひとつに数えられます。
御本尊の釈迦如来像は京都嵯峨の清涼寺の御本尊と同木同作(あるいは模刻とも)とされます。
なお、清涼寺の御本尊は天竺(インド)渡来の栴檀づくりの釈迦如来像と伝わります。(清涼寺寺伝)
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号板
第73番常在寺から蛇石峠に向かって県道をさらに遡ります。
県道に面して参道入口。
すぐそばには東海バスの「永禅寺前」バス停があります。
がっしりとした石垣を構え、右手に五輪塔、正面に山門、門柱には寺号板が掲げられていてこのあたりでは大がかりな寺院です。
山門手前に鉄柵が閉められているので、まさか参拝禁止? とおののきましたが、これはイノシシの侵入除けの鉄柵なのでした。
掲げられていた案内どおりに鉄柵を開け山内に入ります。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
左手背後に小山を背負った落ち着きのある山内で、清掃が行き届いて気持ちがいいです。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、こちらも大棟を高く持ち上げています。
身舎は木製の桟格子が連なり端正な印象。
向拝見上げに山号扁額を掲げています。
御朱印は霊場公式Webに「無住ですが御朱印所は庫裡側の玄関脇にございます。」とあるとおり、庫裡玄関脇でセルフで印判をいただきました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第75番 岩科山 天然寺(てんねんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町岩科北側507
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡
天然寺も県道121号線南伊豆松崎線、蛇石峠から県道に沿って流れる岩科川沿いにあります。
山内掲示および『こころの旅』『豆州志稿』によると、応仁二年(1468年)(文明九年(1477年)とも)雲譽文公上人により開創。
宝永二年(1705年)8月の大洪水により流失し、4年後の1709年に再建といいます。
『豆州志稿』には「岩科村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀 文明九年(1477年)雲譽上人創ム 子院二定光院 天養院(明治七年廃ス)」とあります。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門
岩科川から山裾に向かう傾斜地にあり参道も登りスロープです。
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、たしか山号扁額を掲げていました。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 六地蔵
【写真 上(左)】 鐘楼と収蔵庫?
【写真 下(右)】 本堂
その先正面に形のよい小山を背負って本堂。
手前に鐘楼と見事ななまこ壁の収蔵庫?を構えています。
さすがになまこ壁の街、松崎の寺院です。
【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造桟瓦葺流れ向拝軒唐破風。
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備には白色の彫刻入り板蟇股で見応えがあります。
【写真 上(左)】 木鼻
【写真 下(右)】 堂内の扁額
向拝身舎に扁額はありませんが、扉を開いた堂内見上げに寺号扁額が掲げられていました。
本堂内には、院派の仏師の作とみられる地蔵尊像、室町期作といわれる不動明王像のほか、釈迦如来、観世音菩薩、閻魔大王、青面金剛、弁財天、大黒天、毘沙門天、烏枢沙摩明王、徳川家康公像、歴代将軍の御位牌など多彩な尊格が御座すそうです。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第76番 清水山 浄泉寺(じょうせんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町松崎43
浄土宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:-
授与所:庫裡
この霊場ではめずらしく浄土宗寺院がつづきます。
松崎市街、延喜式内社の伊那下神社のそばにある浄土宗寺院です。
伊那下神社は、西伊豆では稀少な御朱印をいただける神社です。
【写真 上(左)】 伊那下神社
【写真 下(右)】 伊那下神社の御朱印
『こころの旅』によると、應永十一年(1404年)に及歎によって開創。
慶安元年(1648年)には徳川家光公による御朱印状を受けましたが、寛文十一年(1671年)八月洪水ニテ流出。
八世傳的が再興し、宝暦八年(1758年)には芝・増上寺の交代寺となりました。
『豆州志稿』には「松崎村 浄土宗 東京増上寺末 本尊阿彌陀観世音勢至 寺邊ニ清泉アリ取テ寺名トス 開祖及歎年代下知(或ハ云應永十一年(1404年)創立ナリト) 但曰当住迄十七世ナリト 寛文十一年(1671年)八月洪水ニテ流出 八世傳的再興ス 北条氏康寺領ヲ寄スト傳フレ共不詳 子院 寶壽院 随運院 西透院等(明治七年廃ス)」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
松崎の街なかにありますが、松崎は山が迫っているので、この寺院も背後に小山を背負う落ち着いたロケーションです。
参道入口に構える、入母屋屋根桟葺の朱塗りの四脚の楼門がひときわ目立ちます。
上層中央に山号扁額。
参道左手にたしか堂宇(経堂?)があったかと思いますが、なぜか写真がなく詳細不明。
参道正面の本堂は、入母屋造本瓦葺流れ向拝で整った軒唐破風を起こし、大棟には寺号が掲げられています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 本堂扁額
水引虹梁両端に獅子貘の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に直線の繋ぎ虹梁、中備上下に大がかりな板蟇股と彫刻。
さらにその上に兎毛通に経の巻獅子口を置いて見どころ豊富です。
向拝見上げには「法王殿?」の扁額、向拝柱には札所板が掲げられていました。
御本尊・阿弥陀三尊像は行基の作と伝わります。
御本尊の上の仏天蓋には、伊豆の長八作とされる飛天、左右の欄間には石田半兵衛の作と伝わる十六羅漢の透かし彫りが刻まれています。
また、裏庭は江戸時代に伊豆三名園のひとつと賞されたそうです。
山内掲示には下記のとおりありました。
・回る経堂、透かし彫り十六羅漢像、仏天蓋の長八天女、自然庭園、三十三観音、弘法大師作(伝)不動尊、水子・子育地蔵、もの思う石仏群
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第77番 文覚山 圓通寺(えんつうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町宮内130
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第4番
授与所:第78番禅海寺
山内由緒書、『こころの旅』によると、治承三年(1179年)の創始といわれ、僧文覚が伊豆韮山に流罪の際、ここに寄寓したことから文覚を開祖とし、のちに文覚山と号しました。
文覚はのちに当寺の奥の院となった観音堂で源頼朝公と会見し、源家再興を促したと伝わります。
(『豆州志稿』には、この説は「附会」とあります。)
『霊場めぐり』によると、この観音堂は相生堂と呼ばれましたが、いまは廃堂となって頼朝公、文覚の木像は圓通寺本堂に安置されているとの由。
相生堂には頼朝公お手植えの相生松がありましたが、枯れてしまったとのこと。
また、古くは妙智山円通寺という真言宗の小庵で、弘法大師の御作といわれる観音像を安置したともいいます。
のちに東林友丘和尚(應安二年(1369年)寂)により臨済宗に宗を改めました。
以前は那賀川の岸辺に沿って堂宇が建てられていましたが、200年ほど前に現地に遷って山号を改めています。
『豆州志稿』には「宮内村 臨済宗建長寺派 那賀郡舟田帰一寺末 本尊正観世音 文覚流人タル時 暫ク此ニ住ス 以テ開祖トス 俗ニ傳フ頼朝卿ニ父ノ髑髏ヲ視セシハ此ナリト 此傳附会ナリトス 文覚源義朝ノ髑髏ヲ頼朝ニ視セシハ田方郡奈印古谷ナリ(平家物語源平盛衰記等参観) 東林和尚ノ時ヨリ建長寺派下ト為ル 東林ハ應安二年(1369年)滅ス」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
松崎の街はずれ、伊那上神社の南側の路地おくにあります。
参道まわりは広く、かなりの格式の寺院であったことがうかがわれます。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 本堂
山門は切妻屋根桟瓦葺の四脚門ないし薬医門で、門柱に寺号板が掲げられています。
くぐるとすぐに階段。正面が庫裡で、いまは塾になっているようです。
左に棟つづきで本堂。その右手前に鐘楼。
この位置に鐘楼は、めずらしい伽藍配置かと思います。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、向拝上部に寺号扁額を掲げています。
向拝硝子戸下欄には伊豆八十八ヶ所と伊豆横道観音霊場の札所板が打ち付けられ、「御朱印は禅海寺まで」と読めます。
御本尊は弘法大師の御作とも伝わる聖観世音菩薩像です。
伊豆横道三十三観音霊場は頼朝公と所縁のふかい霊場で、頼朝公ゆかりの伝承が伝わるこの寺は札所にふさわしいかもしれません。
【写真 上(左)】 札所板
【写真 下(右)】 堂宇
本堂左手にある寄棟造桟瓦葺流れ向拝の堂宇の堂宇本尊は、扁額がないのでよくわかりません。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、中備に波様の彫刻はいずれも精緻な彫りです。
原則無住で、御朱印は第78番禅海寺にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕
■ 第78番 祥雲山 禅海寺(ぜんかいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町江奈44
臨済宗建長寺派
御本尊:釈迦如来
札所本尊:釈迦如来
他札所:-
授与所:庫裡
『こころの旅』によると、当山の由緒書には、建久三年(1192年)に栄西禅師がこの地を訪れ一宇を造り、祥雲山禅海寺と名づけたとありますが、住職によると栄西禅師は勧請されて始祖になったもので、実際は弟子の建立とのことです。
建長四年(1252年)に当山の御本尊、釈迦如来を夢にみた鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王と執権・北条時頼が堂宇を再建、寄進をしたために宗尊親王の開基とされています。
『豆州志稿』には「江奈村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊釋迦 建久中(1190-1199年)創立 僧滎西ヲ請シテ開山トス 往昔鎌倉幕府ヨリ寺領ヲ附セリト傳フレトモ詳ナラス 永享五年(1433年)住山和尚建ツ 再興ナリ」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門
こちらは松崎港の東側の山手、江奈地区にあります。
ロケ的には松崎の街の北のはずれでしょうか。
山門は切妻屋根桟瓦葺で大棟に寺号を掲げ、がっしりとした降棟を降ろす四脚門で、名刹の風格があります。
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2
【写真 上(左)】 六地蔵塔
【写真 下(右)】 本堂
本堂は背後に山を背負って寄棟造桟瓦葺。向かって左に寄せて唐破風の向拝を附設しています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備上に笈形付大瓶束。
左右の繋ぎ虹梁の上にも板蟇股をおき、上部は格天井と手が込んでいますが扁額はありません。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
向拝扉を開くと堂内見上げに寺号扁額が掲げられていました。
堂内は禅刹らしく、すっきりと整えられています。
御朱印は庫裡にて拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦如来 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
■ 第79番 曹源山 建久寺(けんきゅうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
松崎町建久寺68
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
他札所:-
授与所:建久寺酒店(松崎町那賀5-5)
建久年間(1190-1198年)に創立と伝わる古刹です。
後に安山という僧が再興、那賀村にあった当山を現在地に遷し、同時に檀徒も移住したといいます。
永正4年(1507年)に焼失し、これ以外の詳細は伝わっていません。
『豆州志稿』には「建久寺村 臨済宗建長寺派 船田帰一寺末 本尊観世音 建久中(1190-1199年)立ツ 今安山和尚ヲ祖トス 蓋中興ナリ 初那賀村ニ在リ 後現地ニ転ス 担徒随テ移住シ遂ニ一村ヲ為シ建久寺村ト称スト云 往昔巨刹ニシテ寺領ヲ有シタリト傳フレ共 永正四年(1507年)焼亡舊記ノ証スヘキ無シ」とあります。
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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門と本堂
こちらは松崎港に注ぐ那賀川沿い、建久寺地区にあります。
『豆州志稿』によると「建久寺」の地名は、当初那賀村にあった当寺が檀家とともにこの地に移ったためつけられたとのこと。
人気宿として知られる桜田温泉「山芳園」の東側で、ここからさらに那賀川を遡ると”化粧の湯”と呼ばれ名宿として知られた大沢温泉「大沢温泉ホテル」がありましたが、令和2年12月末、日帰り温泉施設「大沢温泉 依田之庄」として装いを新たにした模様です。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山門扁額
参道左手前に真新しい札所標。
その先に寺号扁額を掲げた桟瓦葺の高麗門。
くぐった正面が本堂で、向かって右手前に白い聖観世音菩薩像が御座します。
【写真 上(左)】 六地蔵
【写真 下(右)】 聖観世音菩薩像
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
本堂は寄棟造銅板葺で向拝柱はなく、左に寄せた向拝の見上げに山号扁額を掲げています。
向拝はサッシュ扉で、比較的新しい建物とみられます。
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 建久寺酒店
こちらは無住で、御朱印は那賀地区の街なかにある建久寺酒店で拝受しました。
〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 聖観世音菩薩 /主印はいずれも三寶印
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-11 ← 最新記事へつづく。
【 BGM 】
■ クリスマス イブ - 山下達郞 MV - JR東海 CM
■ 遠い街から - 今井美樹 MIKI IMAI LIVE AT ORCHARD HALL 2003
■ Celtic Prayer - Méav
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■ コラボの聴きどころ
最近の民放の音楽番組視てると、歌番組としてきっちり番組構成できるプロデューサーがいないのでは? と感じてしまう。
コンセプトが通っていないし、楽曲のつながりも脈略ないし。
番組内コラボにしてもそう。
オリジナルソロで歌った方が聴き応えあるなら、ムリにコラボる必要ないし・・・。
人数揃えりゃいいってもんでもないし。
だから楽曲&キャストがしっかりしていて構成が楽な1980年代特集ばっかりになっているのかも・・・。
■ CHAGE&ASKA - SAY YES
さっき視た番組とこの動画聴き比べて、改めてCHAGEの凄さを実感した。
それにしても、よくぞこんなコード進行を生み出せたもんだ。
音楽の神様が降臨した感あり。
■ また会おね - 矢野顕子 with YMO (1979)
一人として欠けたら成立しない。
一期一会感ばりばりの神ってるLIVE。
■ Mirai 未来 - Kalafina
この3人&バックの面子が揃わなければ、このパフォーマンスは絶対に生み出せなかった。
個々の力量はそれぞれあれど、ユニット(アンサンブル)でなければつくり出せないものがある。
これだけの人数がコロボっても、それぞれにオリジナリティを発揮している例 ↓
【 小室哲哉 Vers. 】
■ こねっと - YOU ARE THE ONE
【 梶浦由記&Revo Vers. 】
■ 梶浦由記・Revo(FictionJunction+Sound Horizon) - 砂塵の彼方へ....
----------------------
2022/12/08
異次元コラボの特集やるなら、原曲にない面白さを聴かせてほしい。
下位互換では、意味ないがね。
どの番組とは、いわないけど・・・(笑)
■ オリビアを聴きながら - 杏里/河合奈保子
河合奈保子、大健闘。
基本ユニゾンだけど、それぞれのオリジナリティが調和して、ハモリ以上の機微をつくりだしている。
バックのフレーズどりも芸が細かすぎ。
■ Lovin' you - 八神純子/岩崎宏美
↑ まぁ、こういうことです。
■ 聖母たちのララバイ - 岩崎宏美/岩崎良美 (1982年)
実の姉妹でもこれだけのオリジナリティの違いが出るわけだから。
本当の”プロ”だったら・・・。
どうせやるなら、これくらいのコラボをみせてほしい。↓
■ THIS ILLUSION - LiSA x Wakana (Kalafina)( Lisani! 2017 M03 )
コンセプトが通っていないし、楽曲のつながりも脈略ないし。
番組内コラボにしてもそう。
オリジナルソロで歌った方が聴き応えあるなら、ムリにコラボる必要ないし・・・。
人数揃えりゃいいってもんでもないし。
だから楽曲&キャストがしっかりしていて構成が楽な1980年代特集ばっかりになっているのかも・・・。
■ CHAGE&ASKA - SAY YES
さっき視た番組とこの動画聴き比べて、改めてCHAGEの凄さを実感した。
それにしても、よくぞこんなコード進行を生み出せたもんだ。
音楽の神様が降臨した感あり。
■ また会おね - 矢野顕子 with YMO (1979)
一人として欠けたら成立しない。
一期一会感ばりばりの神ってるLIVE。
■ Mirai 未来 - Kalafina
この3人&バックの面子が揃わなければ、このパフォーマンスは絶対に生み出せなかった。
個々の力量はそれぞれあれど、ユニット(アンサンブル)でなければつくり出せないものがある。
これだけの人数がコロボっても、それぞれにオリジナリティを発揮している例 ↓
【 小室哲哉 Vers. 】
■ こねっと - YOU ARE THE ONE
【 梶浦由記&Revo Vers. 】
■ 梶浦由記・Revo(FictionJunction+Sound Horizon) - 砂塵の彼方へ....
----------------------
2022/12/08
異次元コラボの特集やるなら、原曲にない面白さを聴かせてほしい。
下位互換では、意味ないがね。
どの番組とは、いわないけど・・・(笑)
■ オリビアを聴きながら - 杏里/河合奈保子
河合奈保子、大健闘。
基本ユニゾンだけど、それぞれのオリジナリティが調和して、ハモリ以上の機微をつくりだしている。
バックのフレーズどりも芸が細かすぎ。
■ Lovin' you - 八神純子/岩崎宏美
↑ まぁ、こういうことです。
■ 聖母たちのララバイ - 岩崎宏美/岩崎良美 (1982年)
実の姉妹でもこれだけのオリジナリティの違いが出るわけだから。
本当の”プロ”だったら・・・。
どうせやるなら、これくらいのコラボをみせてほしい。↓
■ THIS ILLUSION - LiSA x Wakana (Kalafina)( Lisani! 2017 M03 )
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■ 冬場もつかえるハーブ-3
■ 冬場もつかえるハーブ-1
■ 冬場もつかえるハーブ-2
にときおり多数のアクセスをいただくので、続編をつくってみました。
今年は天候不順で、梅雨~夏場にけっこうハーブを枯らしましたが、ここに来て俄然元気をとり戻してきています。
欧州系ハーブの原種の生育適温は10~15℃ともいわれ、冬場の南向きのベランダは陽射しが射し込み、北風も遮られてハーブにとって快適な環境となります。
↑ 冬の定番、フェンネル&チャービル。
■ 好品種のご紹介
・マスチック・タイム
おそらく香りのよさではハーブでもベスト1を競う好品種で、香水の原料にされるほどです。
ただし樹勢は強くなく、とくに夏場の高温多湿に弱いです。
また、強くて十分な日照を必要とします。
今年も例によって夏場に枯らしましたが、梅雨どきに挿し木でバックアップしたので挿し木のやつは生き残りました。
この品種はなかなか入手できないので、枯らすとやっかいです。
ハーブの多くは挿し木できるので、稀少品種はバックアップがベターです。
ただし、やりすぎると栽培スペースがなくなります(笑)
↓ バックアップ中のローズマリー
・ローズマリー・スカイ
・ローズマリー・サドバリーブルー
・ローズマリー・シシングハースト
・タイム・フレンチサマー
おそらくコモンタイム系の改良種と思われます。
葉の茂りが密ですが蒸れに強く、あっさり夏越しに成功しました。
栽培しやすく、香りや風味はコモン種に引けをとらない好品種だと思います。
・アルテミシア・トレゴン
個人的には、ハーブの王者はタラゴン(エストラゴン)だと思いますが、これはすこぶる栽培がむずかしく、いままで何回枯らしたかわかりません。(多年草ですが、日本では実質一年草だと思う。)
09.でその代用品として4シーズンタラゴンをご紹介しましたが、この品種はそれよりもタラゴンの風味に近いです。(というか、ほとんどコモンタラゴンと差がない。)
これは樹勢が強く、なんとあっさり夏を越しました。タラゴンで夏越しに成功したのは初めて。
こいつは期待の新品種だと思います。
・セージ・マキシマ
丸葉のセージですこぶる香りがいいです。
マキシマとあるので大型種とも思いましたが、いまのところおとなしくコンパクトにまとまっています。
夏場も樹勢が落ちず、コモン系セージとしては育てやすい好品種だと思います。
・ヘリクリサム・カレープラント
カレープラントはカレーそっくりの香りで人気のハーブですが、高温多湿に弱く夏越しはけっこうやっかいです。
これは改良種と思われる品種で、夏場の炎暑下でも平気で樹勢を保っていたのにはびっくり。
カレーの香りは標準種より強いです。
・レモンユーカリ
素晴らしいレモン香を放ち、その香りのよさはレモンバーベナーと双璧です。
背が高くなり樹形が乱れがちなので栽培スペースが必要です。
・パイナップル・ミント
けっこうメジャーなミントですが、独特の香りと上品な草姿をもつのでご紹介します。
ミントながら意外に神経質で、知らないうちに姿を消していたりします。
ミントのくせに蒸れに弱いので、強剪定気味に乾かして育てるのがポイント。
■ ローズマリーの品種
ホームセンターや園芸店でふつうもっとも品種が多いのは、ミントとローズマリーです。
ミントは似た香りのフルーツの名前がついていたりするので(パイナップルミントとかバナナミントとか)イメージしやすいですが、ローズマリーは育成者の名がつけられていることも多くそうはいきません。
どれを買ったらいいのかわからん状態に陥ります。
そこで、おすすめの品種をいくつかご紹介してみます。
耐寒性の弱い品種もありますが、関東周辺ではほとんどの品種が野外で冬越しできます。
・ロックウッド デ フォレスト
アメリカで選抜。単にウッド種ともいい這性ともいわれますが、じっさいはかなり立ち上がります。
ローズマリーを思いっきり使い倒したい方にはこの品種をお奨めします。
成長が早く樹勢が旺盛で、強剪定にも耐え寒さにも強いです。
葉色が濃厚で、ローズマリーとして標準的な香りと風味が安定しています。
花色は株や生育条件により幅がありますがおおむね濃いめのブルーで鑑賞用としても向いています。
実用性と観賞性を兼ね備える優れた品種です。
コーリンハム(ウッド)・イングラムという品種もときにウッド種と呼ばれて混乱していますが、こちらは半立の垂下性で、コルシカ島選抜なので耐寒性は弱いです。
・ダンシングウォーター
半匍匐性で成長はかなり早いです。
ただし、こちらはウッド種に比べると香りにやや個性があって、料理への汎用性はやや劣ります。
名前のとおり跳水が踊るように波打つ樹形は優美で、薄紫色の花は上品で花付きもよく観賞用にも向いています。
・ベネンデン・ブルー
別名をコルシカン・ブルーともいい、細葉の半立性小型種で濃紫色の華麗な花をつけます。
ツンとした芳香をもち、細かく刻んでスパイス用途に向いています。
葉の香油分が多く、春先などは触れなくても香りが漂うほどです。
耐寒性があり、樹勢は旺盛で育てやすく、樹形も優美な好品種です。
ローズマリーには他にも多くの種類があります。
フランスのオフィシナリス(原種)、英国のミス・ジェサップス、イタリアのトスカナ・ブルー、米国のサンタバーバラなど、各国の料理に合わせての品種の使い分けも面白いです。
↑ 『ローズマリーブック』(1998年、ほるぷ出版、桐原春子氏著)
ハーブ研究家、桐原春子氏の名著です。
おそらくこれまで日本で出版されたハーブ本のなかで、もっとも多くのローズマリー品種が収録されています。
■ ローズマリーの花
ローズマリーの品種の多くは冬~春先に開花します。
ローズマリーの葉や樹形は品種による差がさほどないので、おもに花色と香りで品種を識別します。
・ローズマリー・ホワイト
樹勢は強くなく花量も少ないですが、今季はよく咲いています。
・ローズマリー・マジョルカピンク
かわいいピンクの花を咲かせます。独特の香りがあるので花がなくても識別できます。
香り・風味ともにクセがあるので料理には不向きです。
・ローズマリー・スーパーエメラルド
たしかかなり昔に大手食品メーカーが開発した品種。樹勢は旺盛で、濃い青紫色の花をたくさんつけます。
※インスタント・カメラで撮ったので画質はいまいちです。すみませぬ。
栽培したほとんどの品種の花を一眼レフで撮っているので、タイミングをみて後日アップしたいと思います。
■ 朝食に添えてみました。
・パセリ、フェンネル、ローズマリー(ウッド)
・タラゴン、タイム・タボール、タイム・オレンジバルサム、チャービル
・サラダに全部のせ(笑)
これだけ載っけたら、香りと風味が強すぎてさすがにキツイです。
■ 和ハーブ
今年は、アサツキとワケギを植えてみました。
どちらも冬場でもしっかり育ち、小ネギ、青ネギよりも上質な香りと風味があるのでおすすめです。
(とくにアサツキは買うとけっこう高い。)
毎年定番のミツバは夏越しし、葉数が増えてきました。
■ ビオラ
・今季は早くからビオラが売っていたので、例年より多めに仕込んでみました。
丈夫で花付きのよい新品種がたくさん発売されています。
3色植え
ローズマリーとビオラ
原種系のビオラ
ハーブの寄せ植えに最適な品種です。
三色ビオラ、タイム・ロンギカウリス、ラムズイヤーの寄せ植え
【 BGM 】
■ We Live For Love - Tim Heintz
■ Peaceful - Pat Kelly
■ Angels Crossing - Tom Grant
■ 冬場もつかえるハーブ-2
にときおり多数のアクセスをいただくので、続編をつくってみました。
今年は天候不順で、梅雨~夏場にけっこうハーブを枯らしましたが、ここに来て俄然元気をとり戻してきています。
欧州系ハーブの原種の生育適温は10~15℃ともいわれ、冬場の南向きのベランダは陽射しが射し込み、北風も遮られてハーブにとって快適な環境となります。
↑ 冬の定番、フェンネル&チャービル。
■ 好品種のご紹介
・マスチック・タイム
おそらく香りのよさではハーブでもベスト1を競う好品種で、香水の原料にされるほどです。
ただし樹勢は強くなく、とくに夏場の高温多湿に弱いです。
また、強くて十分な日照を必要とします。
今年も例によって夏場に枯らしましたが、梅雨どきに挿し木でバックアップしたので挿し木のやつは生き残りました。
この品種はなかなか入手できないので、枯らすとやっかいです。
ハーブの多くは挿し木できるので、稀少品種はバックアップがベターです。
ただし、やりすぎると栽培スペースがなくなります(笑)
↓ バックアップ中のローズマリー
・ローズマリー・スカイ
・ローズマリー・サドバリーブルー
・ローズマリー・シシングハースト
・タイム・フレンチサマー
おそらくコモンタイム系の改良種と思われます。
葉の茂りが密ですが蒸れに強く、あっさり夏越しに成功しました。
栽培しやすく、香りや風味はコモン種に引けをとらない好品種だと思います。
・アルテミシア・トレゴン
個人的には、ハーブの王者はタラゴン(エストラゴン)だと思いますが、これはすこぶる栽培がむずかしく、いままで何回枯らしたかわかりません。(多年草ですが、日本では実質一年草だと思う。)
09.でその代用品として4シーズンタラゴンをご紹介しましたが、この品種はそれよりもタラゴンの風味に近いです。(というか、ほとんどコモンタラゴンと差がない。)
これは樹勢が強く、なんとあっさり夏を越しました。タラゴンで夏越しに成功したのは初めて。
こいつは期待の新品種だと思います。
・セージ・マキシマ
丸葉のセージですこぶる香りがいいです。
マキシマとあるので大型種とも思いましたが、いまのところおとなしくコンパクトにまとまっています。
夏場も樹勢が落ちず、コモン系セージとしては育てやすい好品種だと思います。
・ヘリクリサム・カレープラント
カレープラントはカレーそっくりの香りで人気のハーブですが、高温多湿に弱く夏越しはけっこうやっかいです。
これは改良種と思われる品種で、夏場の炎暑下でも平気で樹勢を保っていたのにはびっくり。
カレーの香りは標準種より強いです。
・レモンユーカリ
素晴らしいレモン香を放ち、その香りのよさはレモンバーベナーと双璧です。
背が高くなり樹形が乱れがちなので栽培スペースが必要です。
・パイナップル・ミント
けっこうメジャーなミントですが、独特の香りと上品な草姿をもつのでご紹介します。
ミントながら意外に神経質で、知らないうちに姿を消していたりします。
ミントのくせに蒸れに弱いので、強剪定気味に乾かして育てるのがポイント。
■ ローズマリーの品種
ホームセンターや園芸店でふつうもっとも品種が多いのは、ミントとローズマリーです。
ミントは似た香りのフルーツの名前がついていたりするので(パイナップルミントとかバナナミントとか)イメージしやすいですが、ローズマリーは育成者の名がつけられていることも多くそうはいきません。
どれを買ったらいいのかわからん状態に陥ります。
そこで、おすすめの品種をいくつかご紹介してみます。
耐寒性の弱い品種もありますが、関東周辺ではほとんどの品種が野外で冬越しできます。
・ロックウッド デ フォレスト
アメリカで選抜。単にウッド種ともいい這性ともいわれますが、じっさいはかなり立ち上がります。
ローズマリーを思いっきり使い倒したい方にはこの品種をお奨めします。
成長が早く樹勢が旺盛で、強剪定にも耐え寒さにも強いです。
葉色が濃厚で、ローズマリーとして標準的な香りと風味が安定しています。
花色は株や生育条件により幅がありますがおおむね濃いめのブルーで鑑賞用としても向いています。
実用性と観賞性を兼ね備える優れた品種です。
コーリンハム(ウッド)・イングラムという品種もときにウッド種と呼ばれて混乱していますが、こちらは半立の垂下性で、コルシカ島選抜なので耐寒性は弱いです。
・ダンシングウォーター
半匍匐性で成長はかなり早いです。
ただし、こちらはウッド種に比べると香りにやや個性があって、料理への汎用性はやや劣ります。
名前のとおり跳水が踊るように波打つ樹形は優美で、薄紫色の花は上品で花付きもよく観賞用にも向いています。
・ベネンデン・ブルー
別名をコルシカン・ブルーともいい、細葉の半立性小型種で濃紫色の華麗な花をつけます。
ツンとした芳香をもち、細かく刻んでスパイス用途に向いています。
葉の香油分が多く、春先などは触れなくても香りが漂うほどです。
耐寒性があり、樹勢は旺盛で育てやすく、樹形も優美な好品種です。
ローズマリーには他にも多くの種類があります。
フランスのオフィシナリス(原種)、英国のミス・ジェサップス、イタリアのトスカナ・ブルー、米国のサンタバーバラなど、各国の料理に合わせての品種の使い分けも面白いです。
↑ 『ローズマリーブック』(1998年、ほるぷ出版、桐原春子氏著)
ハーブ研究家、桐原春子氏の名著です。
おそらくこれまで日本で出版されたハーブ本のなかで、もっとも多くのローズマリー品種が収録されています。
■ ローズマリーの花
ローズマリーの品種の多くは冬~春先に開花します。
ローズマリーの葉や樹形は品種による差がさほどないので、おもに花色と香りで品種を識別します。
・ローズマリー・ホワイト
樹勢は強くなく花量も少ないですが、今季はよく咲いています。
・ローズマリー・マジョルカピンク
かわいいピンクの花を咲かせます。独特の香りがあるので花がなくても識別できます。
香り・風味ともにクセがあるので料理には不向きです。
・ローズマリー・スーパーエメラルド
たしかかなり昔に大手食品メーカーが開発した品種。樹勢は旺盛で、濃い青紫色の花をたくさんつけます。
※インスタント・カメラで撮ったので画質はいまいちです。すみませぬ。
栽培したほとんどの品種の花を一眼レフで撮っているので、タイミングをみて後日アップしたいと思います。
■ 朝食に添えてみました。
・パセリ、フェンネル、ローズマリー(ウッド)
・タラゴン、タイム・タボール、タイム・オレンジバルサム、チャービル
・サラダに全部のせ(笑)
これだけ載っけたら、香りと風味が強すぎてさすがにキツイです。
■ 和ハーブ
今年は、アサツキとワケギを植えてみました。
どちらも冬場でもしっかり育ち、小ネギ、青ネギよりも上質な香りと風味があるのでおすすめです。
(とくにアサツキは買うとけっこう高い。)
毎年定番のミツバは夏越しし、葉数が増えてきました。
■ ビオラ
・今季は早くからビオラが売っていたので、例年より多めに仕込んでみました。
丈夫で花付きのよい新品種がたくさん発売されています。
3色植え
ローズマリーとビオラ
原種系のビオラ
ハーブの寄せ植えに最適な品種です。
三色ビオラ、タイム・ロンギカウリス、ラムズイヤーの寄せ植え
【 BGM 】
■ We Live For Love - Tim Heintz
■ Peaceful - Pat Kelly
■ Angels Crossing - Tom Grant
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■『ゆったり温泉ひとり旅 秋・北関東編』
12月10日放送のNHKの『ゆったり温泉ひとり旅 秋・北関東編』、なかなかでした。
個人的に関東でもっともすきな温泉地は塩原と四万なので、よけいに面白かった。
ありがちな、お笑い芸人が露天風呂入って騒いでる系じゃなくて、じっくりお湯を楽しむという構成。
それに淡々とした語りがいいですね。
個人的には、温泉は「五感+αで楽しむ」ものと思っているので、こういう構成には素直に好感を覚えます。
■ 塩原温泉
お客さんは塩原温泉になにを求めてやってくるのか・・・と。
という問いかけに対して、元湯の大出館の女将さんは「本物の温泉」と応じていた。
泉質に定評のある元湯・大出館だけでなく、塩原のすべての湯場がこう応えられる資質をもっていると思います。
それほどのすばらしい温泉地です。
新湯の酸性イオウ泉の”仕上げ湯”として、古町の「もみじの湯」の湯を紹介していたのもなかなかでした。
新湯・元湯の”仕上げ湯”として最適だった、福渡の施設の多くが休閉館してしまったのは残念なことです。
→ ■ 塩原温泉の湯めぐり手形
→ ■ 塩原元湯温泉 「ゑびすや」のレポ
■ 四万温泉
四万温泉の魅力がみごとに表現されていた。
やまぐち館の「薬師の湯」のほのかなイオウ臭をクローズアップするとは、なかなかやるな(笑)
ふつうならTV映りのいい「お題目大露天風呂」でしょう。
さらに大湯元の「つばたや」を引っ張り出してくるとは、かなりと渋いチョイスかと・・・。
さらに、現在の日向見薬師堂の護持寺院、宗本寺の副住職が出演されるとはびっくり。
→ ■ 四万温泉(山口) 「上の湯」のレポ
→ ■ 四万温泉周辺の御朱印
それにしても、こういう番組視てても、見た目ききそうなイオウ泉にごり湯よりも四万の透明な硫酸塩泉にどうしようもなく惹かれるって、つくづく歳とっともんだと思います。
■ The Best Is Yet To Come - Larry Lee
個人的に関東でもっともすきな温泉地は塩原と四万なので、よけいに面白かった。
ありがちな、お笑い芸人が露天風呂入って騒いでる系じゃなくて、じっくりお湯を楽しむという構成。
それに淡々とした語りがいいですね。
個人的には、温泉は「五感+αで楽しむ」ものと思っているので、こういう構成には素直に好感を覚えます。
■ 塩原温泉
お客さんは塩原温泉になにを求めてやってくるのか・・・と。
という問いかけに対して、元湯の大出館の女将さんは「本物の温泉」と応じていた。
泉質に定評のある元湯・大出館だけでなく、塩原のすべての湯場がこう応えられる資質をもっていると思います。
それほどのすばらしい温泉地です。
新湯の酸性イオウ泉の”仕上げ湯”として、古町の「もみじの湯」の湯を紹介していたのもなかなかでした。
新湯・元湯の”仕上げ湯”として最適だった、福渡の施設の多くが休閉館してしまったのは残念なことです。
→ ■ 塩原温泉の湯めぐり手形
→ ■ 塩原元湯温泉 「ゑびすや」のレポ
■ 四万温泉
四万温泉の魅力がみごとに表現されていた。
やまぐち館の「薬師の湯」のほのかなイオウ臭をクローズアップするとは、なかなかやるな(笑)
ふつうならTV映りのいい「お題目大露天風呂」でしょう。
さらに大湯元の「つばたや」を引っ張り出してくるとは、かなりと渋いチョイスかと・・・。
さらに、現在の日向見薬師堂の護持寺院、宗本寺の副住職が出演されるとはびっくり。
→ ■ 四万温泉(山口) 「上の湯」のレポ
→ ■ 四万温泉周辺の御朱印
それにしても、こういう番組視てても、見た目ききそうなイオウ泉にごり湯よりも四万の透明な硫酸塩泉にどうしようもなく惹かれるって、つくづく歳とっともんだと思います。
■ The Best Is Yet To Come - Larry Lee
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■ 武州八十八霊場
2022/12/10 UP
『幻の武州八十八霊場 埼玉の古寺をたずねて』の表紙に霊場の札所板書の写真が載っています。
これは第17番慈眼坊の板碑群屋桁に掲げられたもので、板に墨書ですがうっそうとした林のなかにあるようで、すでに朽ちてしまったかも知れないと思っていました。
先日巡拝におもむき、現物がかなりよい状態で残っていたのでご紹介します。
【写真 上(左)】 札所板書-1
【写真 下(右)】 札所板書-2
【写真 上(左)】 板碑群屋
【写真 下(右)】 多武峰
同書には掲載されていない16箇所の「奥の院」も記載されている貴重なものです。
せっかくなので奥の院も含めたリストをつくってみました。
(※リスト中「御朱印拝受」とあるものは、御本尊ないし他霊場のものがほとんどです。また、御開帳期間限定授与(通常は不授与)とみられる御朱印も含んでいます。)
--------------------
2022/08/05 UP
いちおう、これまでに拝受した御朱印はすべてUPしました。
現在、巡礼中です。新規の情報が入りましたら追記します。
→ 札所リスト(ニッポンの霊場様)
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
--------------------
2022/08/04 UP
この霊場については以前ざっくりとご紹介しましたが、「鎌倉殿の13人」に関係する寺院がいくつかあること、また、先日令和4年4月の中武蔵七十二薬師霊場の御開帳で御朱印を拝受できた札所がいくつかあるので、リスト化して御朱印をご紹介します。
なお、武州八十八霊場の札所御朱印を授与されている札所はごく少数です。
多くは他の霊場の御朱印となります。
また、武州八十八霊場は廃寺となった札所も多いので、場合により移転先の寺院、あるいは元別当を司どった神社の御朱印もご紹介します。
--------------------
2018/03/24 UP
お大師様(弘法大師)ゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場(通常八十八ヶ所ないし二十一ヶ所)は全国各地に開創され、三十三観音霊場とならんで代表的な巡拝霊場となっています。
東京周辺では、御府内八十八箇所(都内全域)、豊島八十八ヶ所(城北エリア)、玉川八十八ヶ所(城西エリア・神奈川)、多摩新四国八十八ヶ所(多摩エリア)、相州二十一ヶ所(鎌倉周辺)などがほぼ現役霊場として機能しています。
東京下町には、荒綾八十八ヶ所、荒川辺八十八ヶ所、南葛八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所、隅田川二十一ヵ所、多摩には奥多摩新四国霊場八十八ヶ所などが残り、霊場会はないものの札所として機能しているお寺さんもかなりあります。
千葉には新四国相馬八十八ヶ所、東葛印旛八十八所、下総四郡八十八ヶ所、江戸川八十八ヶ所、市原郡八十八ヶ所、上総八十八ヶ所、千葉寺八十八所、吉橋八十八所、印西大師など多くの大師霊場があり、神奈川にも新四国東国八十八ヶ所、相模国準四国八十八ヶ所などがあり、かなりのエリアがカバーされています。
ところが、埼玉では北足立八十八箇所、埼東八十八ヶ所が荒川左岸エリアに開創されているものの、荒川右岸域にはほとんど見当たりません。(一部、武玉八十八ヶ所と奥多摩新四国霊場八十八ヶ所がかかっているのみ。)
荒川右岸域には、武蔵野三十三観音、狭山三十三観音、入比板東三十三所観音、高麗板東三十三観音、比企西国三十三観音など比較的多くの観音霊場があるのに、かねがね不思議に思っていました。
【写真 上(左)】武蔵野三十三観音・初番 長命寺(練馬区)
【写真 下(右)】高麗板東三十三観音・初番 智観寺(飯能市)
【写真 上(左)】比企西国三十三観音・初番 城恩寺(東松山市)
【写真 下(右)】入比板東三十三所観音・初番 女人堂(ときがわ町)
こんななか、先日、書店で目にとまったのが、『幻の武州八十八霊場 埼玉の古寺をたずねて』(さきたま出版会/2018.2.15初版)という出たての本です。
「武州八十八霊場」?・・・まったく初耳でした。Web上でもみたことがありません。
速攻で本を購入し、興味シンシン読みふけりました。
::::::::::::::::::::::::::::::::
武州八十八霊場とは、文化九年(1812年)、武州越生の法恩寺山主により企画された四国八十八札所の写し霊場(新四国霊場)で、範囲は越生、毛呂山、ときがわ、鳩山、坂戸、鶴ヶ島、東松山、吉見、川島、川越、狭山、入間、飯能、日高に渡っています。
まさに、上にあげた荒川右岸域の観音霊場群とエリアが重なります。
同書によると、御詠歌集の霊場名称は「印施新四国霊場」。
文化九年(1812年)3月5日、越生報恩寺山主は当地に新四国八十八霊場の開創を企図し、外秩父「武州山之根」の諸寺院に提案して順路を定めました。
また、親交のあった上野村の瑠璃山医王寺秀如や堂山村青龍山最勝寺海恵、田代村吉沢凡齋などから版行の寄付をうけ、有力商人の亀屋宗兵衛・藤屋宗八から用紙の寄付をえて『印施新四国遍路御詠歌』という順路の案内書を刊行したとあります。
同書によると、弘法大師千年忌を迎え、文化・文政~天保(1804~1843年)には全国各地で盛んに弘法大師霊場(新四国八十八箇所)が開創されたといいます。
しかし、弘化二年(1845年)に公布された新四国八十八札所の禁令により新規霊場の開創が禁止されると、新規開創は下火となったといいます。
「武州八十八霊場」は江戸期の新四国霊場開創最盛期に開創されているためか、きっちり奥の院まで設定されています。
ただし、番外や掛所、別格霊場などは設定されていない模様です。
発願寺は越生の松渓山法恩寺、結願寺は日高の聖天院勝楽寺で、奥武蔵越生から打ち始め、吉見・川島あたりの荒川辺まで出て、時計回りに奥武蔵の日高に戻るというコースです。
ときがわの慈光寺(18番)、東松山の正法寺(31番)、吉見の安楽寺(36番)、入間の円照寺(80番)、飯能の観音寺(83番)などメジャー寺院も含みますが、多くは小規模な寺院で10程度の廃寺を含みます。
札所一覧をみたとき、ちょっと不思議な感じがしたのは、禅寺がほとんど参画しておらず、ほとんどが真言宗、天台宗の寺院で占められているため、このエリアにかなりある禅寺の古刹が欠けているからだと思います。
(この本は、「印施新四国遍路御詠歌」という案内書をベースに編纂されたとみられ、また著者が元文学部教授ということもあってか、かなり専門的な内容で、宗派は宗派名でなく、●●寺末という本末制度からの記載となっています。なので、本寺の宗派がわからないと宗派がわからず、宗派不明の寺院もあります。)
著者は1933年のお生まれというご高齢ながら、すべての札所を回られたうえで上梓されています。
古文書と現地探訪の生情報が組み合わさったすこぶる密度の高い内容で、よくぞ世に出していただいた、という感じです。
御朱印はともかく、興味のある札所も多いので、時間をかけてじっくりと回ってみたいと思います。
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第1番 松渓山 法恩寺
公式Web
埼玉県越生町越生704
真言宗智山派
御本尊:大日如来
関連武将:源頼朝公、越生次郎家行
他の札所:越生七福神(恵比須神)、真言宗智山派関東十一談林
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:大日如来
2.武州八十八霊場第1番
朱印尊格:大日如来
※札番揮毫はお願いしてお書きいただいたもの。通常は札番記入なしと思います。
3.越生七福神
朱印尊格:恵比須神
・天平十年(738年)行基の開創と伝わる古刹。児玉党の倉田孫四郎基行とその妻妙泉尼夫妻が出家、源頼朝公に寺の再興を願い出て許され、建久元年(1190年)頼朝公は越生次郎家行に命じて堂塔伽藍を建立して天台宗寺院として再興、将軍家繁盛の祈祷道場としたといいます。
・応永五年(1398年)に阿闍梨権大僧都法印榮曇和尚が入山し、真言宗に改宗して中興開山、天正十九年(1591年)には徳川家康公から寺領20石の御朱印状を拝領。
・新義真言宗の関東十一談林の一つに列し、住職が将軍に直接拝謁できる格式の高い寺院でした。
・後鳥羽上皇の御宸筆で頼朝公から拝領したとされる絹本着色高野・丹生明神像をはじめ、数多くの文化財を有しています。
第2番 大慈山 正法寺
埼玉県越生町越生960
臨済宗建長寺派 (旧)本寺:鎌倉円覚寺
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第24番、越生七福神(大黒天)
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第24番
朱印尊格:聖観世音菩薩
2.越生七福神
朱印尊格:大黒天
第3番 瑠璃山 東園院 医王寺
埼玉県越生町上野2043
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
第4番 福壽山 滝房 多門寺
埼玉県越生町上野1454
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
第5番 澤谷山 光明院 宝福寺
埼玉県毛呂山町大谷木154
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:
関連武将:毛呂氏→大谷氏
他の札所:
第6番 息災山 吉祥院 延命寺
埼玉県毛呂山町下河原245
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:不動明王
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
第7番 観音寺
埼玉県坂戸市四日市場379
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:千手観世音菩薩
他の札所:
第8番 金剛山 地蔵院 南蔵寺
埼玉県毛呂山町350-0436
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
※廃寺?、現・川角八幡社境内に遺跡
第9番 山本坊
埼玉県毛呂山町西戸916
本山修験派
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、西戸国津神神社境内他に遺跡
第10番 御嶺山 不動院 龍台寺
埼玉県越生町西和田101 (旧)本寺:越生法恩寺
真言宗智山派
御本尊:大日如来
他の札所:
第11番 石樹山 常住院 興禅寺
埼玉県越生町西和田849
真言宗智山派 (旧)本寺:越生医王寺
御本尊:不動明王
他の札所:
第12番 能満山 見正寺
埼玉県越生町成瀬330
真言宗智山派 (旧)本寺:越生医王寺
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第22番
司元別当:成瀬諏訪神社(越生町成瀬)
〔拝受御朱印〕 ・無住、妙見寺(越生町成瀬287)にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第22番
朱印尊格:聖観世音菩薩
第13番 如意山 地蔵院 高蔵寺
埼玉県越生町津久根253
真言宗智山派 (旧)本寺:越生最勝寺
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第26番
〔拝受御朱印〕 ・無住、最勝寺(越生町堂山287)にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第26番
朱印尊格:聖観世音菩薩
第14番 大泉院
埼玉県越生町小杉1
本山修験派?
司元別当:梅園神社(越生町小杉)
御本尊:
他の札所:
※属山本坊(第9番)、廃寺、小杉天神社別当、梅園神社内
第15番 青龍山 最勝寺
埼玉県越生町堂山287
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
関連武将:源頼朝公、兒玉氏雲太夫
他の札所:入比板東三十三観音霊場第27番、越生七福神(福禄寿)
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第27番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
第16番 仏心院
埼玉県越生町龍ケ谷
(旧)本寺:本坊は常楽院/高山不動尊(飯能市高山346)
真言宗智山派
御本尊:
他の札所:
※廃寺?
※ 御朱印は不授与です。本坊の常楽院/高山不動尊の御朱印を掲載します。
〔拝受御朱印〕
・高山不動尊にて拝受(原則として冬至の日、年1日のみの授与)
1.高山不動尊の御朱印
第17番 多武峰 慈眼坊
埼玉県ときがわ町西平
宗派不詳
御本尊:
他の札所:入比板東三十三観音霊場第31番
※廃寺?、個人宅に(多武峰神社)
第18番 都幾山 一乗法華院 慈光寺
埼玉県ときがわ町西平386
天台宗
御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
関連武将:源頼朝公(祈願所)
他の札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第9番、関東九十一薬師霊場第33番、関東百八地蔵尊霊場第14番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.坂東三十三箇所(観音霊場)第9番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
2.関東九十一薬師霊場第33番
朱印尊格:薬師如来(抜苦輿楽)
3.関東百八地蔵尊霊場第14番
朱印尊格:地蔵菩薩(巡礼地蔵尊)
4.阿弥陀如来
朱印尊格:阿弥陀如来
第19番 日影山 長勝寺
埼玉県ときがわ町日影
真言宗智山派 (旧)本寺:越生最勝寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
※廃寺?、日影神社周辺か?
第20番 鈴宮山 開敷院 観音寺
埼玉県ときがわ町本郷551
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第7番
〔拝受御朱印〕 ・無住、光明寺(第22番、ときがわ町玉川3017)にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第7番
朱印尊格:聖観世音菩薩
第21番 医王寺
埼玉県ときがわ町番匠
宗派不詳
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、寺跡あり
第22番 音無山 光明寺
埼玉県ときがわ町玉川3017
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:不動明王
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:不動明王・弘法大師
第23番 東光山 薬王院 満願寺
埼玉県鳩山町熊井800
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
他の札所:
第24番 西明山 法輪院 真光寺
埼玉県鳩山町大豆戸340
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
司元別当:大豆戸三嶋神社(鳩山町大豆戸)
御本尊:大日如来
他の札所:
第25番 延命山 奥野院 興長寺
埼玉県鳩山町小用240
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:阿弥陀如来
関連武将:源頼朝公、越生四郎家行
他の札所:
第26番 清水山 彼岸院 大榮寺
埼玉県坂戸市厚川78
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第6番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:阿弥陀如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第6番
朱印尊格:薬師如来
第27番 八葉山 来迎院 長久寺
埼玉県坂戸市浅羽1486
真言宗智山派
御本尊:大日如来
他の札所:
第28番 安養山 蓮華院 善能寺
埼玉県鶴ヶ島市脚折町6-3−10
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第11番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:阿弥陀如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第11番
朱印尊格:薬師如来
第29番 龍護山 實相院 大智寺
埼玉県坂戸市石井2331
真言宗智山派
御本尊:大日如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第23番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時のみ授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:大日如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第23番
朱印尊格:薬師如来
第30番 天神山 不動院 龍福寺
埼玉県坂戸市戸口453
真言宗智山派
御本尊:不動明王
(旧)本寺:坂戸大智寺
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第1番(戸口薬師)
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第1番
朱印尊格:薬師如来
第31番 巌殿山 修繕院 正法寺(巌殿観音)
埼玉県東松山市岩殿1229
真言宗智山派
御本尊:千手観世音菩薩
関連武将:源頼朝公、比企判官能員
他の札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第10番、関東百八地蔵尊霊場第13番、七観音霊場第5番、中武蔵七十二薬師霊場第47番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.坂東三十三箇所(観音霊場)第10番
朱印尊格:千手観世音菩薩
2.関東百八地蔵尊霊場第13番
朱印尊格:地蔵菩薩(百地蔵尊)
3.七観音霊場第5番
朱印尊格:千手観世音菩薩
4.中武蔵七十二薬師霊場第47番
朱印尊格:薬師如来
第32番 澤田山 修造院 長慶寺
埼玉県東松山市神戸1678
真言宗智山派
御本尊:不動明王
関連武将:畠山重忠
他の札所:比企西国三十三観音第21番、中武蔵七十二薬師霊場第48番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.武州八十八霊場第32番
朱印尊格:不動明王
2.比企西国三十三観音第21番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
3.中武蔵七十二薬師霊場第48番
朱印尊格:薬師如来
第33番 安楽寺
埼玉県東松山市唐子
宗派不詳
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、墓地
第34番 成就院
埼玉県東松山市金井
宗派不詳
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、金井秋葉神社そば
第35番 岩室山 湯澤寺 龍性院
埼玉県吉見町北吉見459
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第63番、比企西国三十三観音第3番(岩室観音堂)
※岩室観音堂(吉見町北吉見309)は龍性院の境外仏堂
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.比企西国三十三観音第3番(岩室観音堂)
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.中武蔵七十二薬師霊場第63番
朱印尊格:薬師如来
第36番 岩殿山 光明院 安楽寺(吉見観音)
埼玉県吉見町御所374
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
関連武将:源範頼公
他の札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第11番、関東八十八箇所第75番、東国花の寺百ヶ寺霊場第17番、武州路十二支霊場(申)、中武蔵七十二薬師霊場第62番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時のみ授与の可能性あり)
1.坂東三十三箇所(観音霊場)第11番
朱印尊格:聖観世音菩薩
2.関東八十八箇所第75番
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.東国花の寺百ヶ寺霊場第17番
朱印尊格:聖観世音菩薩
4.武州路十二支霊場(申)
朱印尊格:金剛界大日如来
5.中武蔵七十二薬師霊場第62番
朱印尊格:薬師如来
第37番 端松山 正伝寺
埼玉県吉見町和名359
真言宗霊雲寺派 (旧)本寺:湯島霊雲寺
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:
第38番 岩殿山 光明院 息障院
埼玉県吉見町御所146-1
真言宗智山派 (旧)本寺:山城國醍醐報恩院
御本尊:不動明王
関連武将:源範頼公
他の札所:
第39番 松岡山 光勝寺 明王院
埼玉県吉見町下細谷415
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:十一面観世音菩薩
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第60番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第60番
朱印尊格:薬師如来
第40番 愛宕山 寿命院 無量寺
埼玉県吉見町久保田1380
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第58番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.中武蔵七十二薬師霊場第58番
朱印尊格:薬師如来
第41番 大串山 宝珠院 観音寺
埼玉県吉見町大串1282
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:不動明王
他の札所:
第42番 頼綱山 観秀院 寶性寺
埼玉県吉見町江綱1299
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第66番(薬師堂)
〔拝受御朱印〕 ・明王院(吉見町下細谷)にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第66番
朱印尊格:薬師如来
第43番 明光山 法鈴寺
埼玉県川島町下小見野155
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:不動明王?
司元別当:下小見野氷川神社(川島町下小見野)
関連武将:小野見氏
他の札所:
第44番 法蔵山 西養院 西見寺
埼玉県川島町吹塚232
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
第45番 法輪山 極楽寺
埼玉県川島町上八ツ林261
真言宗智山派 (旧)本寺:川島善福寺
御本尊:
他の札所:
第46番 寶塔山 善福寺
埼玉県川島町下八ツ林307
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第35番、第36番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.中武蔵七十二薬師霊場第35番(下八ツ林薬師堂)
朱印尊格:薬師如来
3.中武蔵七十二薬師霊場第36番(下八ツ林薬師堂)
朱印尊格:薬師如来
第47番 大御山 西福院 廣徳寺
埼玉県川島町表76
真言宗豊山派
御本尊:五大明王
関連武将:美尾谷十郎廣徳
他の札所:
第48番 蓮王山 十輪寺
埼玉県川島町
真言宗豊山派 (旧)本寺:川島廣徳寺
御本尊:不動明王
他の札所:
※無住?、お堂と墓地
第49番 龍池山 慈眼院
埼玉県川島町角泉110
真言宗豊山派 (旧)本寺:川島廣徳寺
御本尊:正観世音菩薩
他の札所:
第50番 法雲山 普門院 弘善寺
埼玉県川島町上狢
真言宗智山派 (旧)本寺:川島廣徳寺
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、上狢集落センターと墓地
第51番 大福寺
埼玉県川島町平沼308
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第30番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第30番
朱印尊格:薬師如来
第52番 草芽山 自性院 大聖寺
埼玉県川島町井草161
真言宗智山派
御本尊:大日如来 千手観世音菩薩?
関連武将:比企能員
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第29番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時限定授与の可能性あり)
1.武州八十八霊場第52番
朱印尊格:大日如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第29番
朱印尊格:薬師如来
第53番 土袋山 普門寺 金乗院
埼玉県川島町上伊草830
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
他の札所:比企西国三十三観音第13番
第54番 守護山 善能寺
埼玉県川島町中山1823
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:
他の札所:
第55番 清月山 元光院 金剛寺
埼玉県川島町中山1198
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:阿弥陀如来
第56番 三嶽山 普門院 延命寺
埼玉県川島町中山1285
真言宗智山派
御本尊:
他の札所:比企西国三十三観音第8番
第57番 勅王山 正福寺
埼玉県川島町南園部310
真言宗智山派
御本尊:
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:御寶印・寺院印のみ
第58番 光勝寺
埼玉県坂戸市赤尾1832
真言宗智山派
御本尊:不動明王
※墓地のみ
第59番 薬王山 浄水院 東光寺
埼玉県坂戸市小沼266
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:薬師如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第21番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第21番
朱印尊格:薬師如来
第60番 恵日山 法音寺
埼玉県坂戸市小沼902
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:不動明王
他の札所:
第61番 薩埵山 錫杖院 忠栄寺
埼玉県坂戸市横沼366
真言宗豊山派 (旧)本寺:伊草金乗院
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:
第62番 三寶山 実蔵院 長福寺
埼玉県坂戸市紺屋892
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:大日如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第17番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:大日如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第17番
朱印尊格:薬師如来
第63番 薬樹山 瑠璃光院 永命寺
埼玉県川越市下小阪688
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第16番、小江戸川越古寺巡礼第51番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.中武蔵七十二薬師霊場第16番
朱印尊格:薬師如来
第64番 由城山 福聚院 慈眼寺
埼玉県坂戸市中小坂285
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:十一面観世音菩薩
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・郵送にて拝受
1.武州八十八霊場第64番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
2.閻魔大王の御朱印
朱印尊格:閻魔大王
第65番 広谷山 正音寺
埼玉県鶴ヶ島市上広谷605-1
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第13番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第13番
朱印尊格:薬師如来
第66番 慈眼山 喜見院 満福寺
埼玉県鶴ヶ島市太田ヶ谷487
天台宗
御本尊:千手観世音菩薩
司元別当:熊野社(鶴ヶ島市太田ヶ谷)ほか
他の札所:武蔵国十三佛霊場第5番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:千手観世音菩薩
2.武蔵国十三佛霊場第5番
朱印尊格:地蔵菩薩
第67番 萬霊山 法護院 延命寺
埼玉県川越市笠幡4451
天台宗
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:武蔵国十三佛霊場第4番、小江戸川越古寺巡礼第3番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:延命地蔵菩薩
2.武蔵国十三佛霊場第4番
朱印尊格:普賢菩薩
第68番 観智山 地蔵寺 三明院
埼玉県川越市池辺507
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:大日如来
司元別当:熊野神社(川越市池辺)
他の札所:小江戸川越古寺巡礼第57番
第69番 薬王山 地蔵院 廣福寺
埼玉県狭山市下奥富844
天台宗 (旧)本寺:仙波中院
御本尊:薬師如来
他の札所:関東九十一薬師霊場第32番、関東百八地蔵尊霊場第9番、武蔵国十三佛霊場第3番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.関東九十一薬師霊場第32番
朱印尊格:薬師如来
2.関東百八地蔵尊霊場第9番
朱印尊格:地蔵菩薩
3.武蔵国十三佛霊場第3番
朱印尊格:文殊菩薩
第70番 龍殿山 成就院 瑞光寺
埼玉県狭山市上奥富354
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:大日如来
他の札所:
第71番 金宝山 龍護院 永代寺
埼玉県狭山市柏原2492
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:
関連武将:畠山重忠
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.虚空蔵菩薩の御朱印
朱印尊格:虚空蔵菩薩
第72番 天竜山 薬王院 成円寺
埼玉県狭山市入間川2-3-11(徳林寺内へ(地蔵堂))
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:釈迦三尊
司元別当:八幡神社(狭山市入間川)、牛頭天王社、清水八幡宮、諏訪社
関連武将:木曽(清水冠者)義高
他の札所:(徳林寺)武蔵野三十三観音霊場第17番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.不動堂の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.武蔵野三十三観音霊場第17番
朱印尊格:●聚閣
第73番 蔵王山 観音院 常泉寺
埼玉県狭山市北入曽315
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:釈迦如来
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:釈迦如来
2.観音堂の御朱印
朱印尊格:聖観世音菩薩
第74番 御嶽山 延命寺 金剛院
埼玉県狭山市南入曽460
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
司元別当:御嶽社(南入曽村/現・入間野神社)
他の札所:
※ 御朱印は不授与です。当寺が元別当をつとめた入間野神社の御朱印を掲載します。
第75番 龍岳山 歓喜院 龍圓寺
埼玉県入間市新久717
真言宗智山派
御本尊:虚空蔵菩薩
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第20番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第41番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.武蔵野三十三観音霊場第20番
朱印尊格:千手観世音菩薩
2.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第41番
朱印尊格:十一面観世音菩薩・弘法大師
第76番 世音山 妙智寺 蓮花院
埼玉県入間市春日町2-9-1
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第18番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第74番・第76番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.武蔵野三十三観音霊場第18番
朱印尊格:千手観世音菩薩
3.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第74番
朱印尊格:薬師如来・弘法大師
4.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第76番
朱印尊格:薬師如来・弘法大師
第77番 高竹山 光明院 明光寺
埼玉県狭山市根岸2-5-1
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第44番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:地蔵菩薩
2.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第44番
朱印尊格:十一面観世音菩薩・弘法大師
第78番 笹井観音堂(瀧音山 泊山寺)
埼玉県狭山市笹井
本山修験宗?(京都聖護院の直末)
御本尊:十一面観世音菩薩
他の札所:
※無住。現在、御朱印は不授与です。
第79番 千手山 教学院 普門寺
埼玉県飯能市川崎300
真言宗智山派
御本尊:
司元別当:白鬚神社(飯能市川崎)
他の札所:高麗板東三十三観音霊場第4番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.高麗板東三十三観音霊場第4番
朱印尊格:千手観世音菩薩
第80番 光明山 正覚院 圓照寺
埼玉県入間市野田158
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀三尊
関連武将:加治氏
他の札所:関東八十八箇所第73番、武蔵野三十三観音霊場第22番、高麗板東三十三観音霊場第11番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第58番、武蔵野七福神(弁財天)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.関東八十八箇所第73番
朱印尊格:阿弥陀如来
2.武蔵野三十三観音霊場第22番
朱印尊格:如意輪観世音菩薩
3.高麗板東三十三観音霊場第11番
朱印尊格:聖観世音菩薩
4.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第58番
朱印尊格:千手観世音菩薩・弘法大師
5.武蔵野七福神の御朱印
朱印尊格:弁財天
第81番 仏寿山 宝幢院 願成寺
埼玉県飯能市川寺688
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
第82番 岸高山 福寿院 歓喜寺
埼玉県飯能市岩渕658甲
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:
他の札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第32番
第83番 般若山 長寿院 観音寺
埼玉県飯能市山手町5-17
真言宗智山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第24番、高麗板東三十三観音霊場第10番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第64番、武蔵野七福神(寿老人)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.武蔵野三十三観音霊場第24番
朱印尊格:如意輪観世音菩薩
2.高麗板東三十三観音霊場第10番
朱印尊格:如意輪観世音菩薩
3.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第64番
朱印尊格:阿弥陀如来・弘法大師
第84番 常寂山 蓮華院 智観寺
埼玉県飯能市中山520
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
関連武将:中山氏
他の札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第28番、高麗板東三十三観音霊場第1番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第28番
朱印尊格:大日如来・弘法大師
3.高麗板東三十三観音霊場第1番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
第85番 慈眼山 真福寺
埼玉県飯能市中山436 (旧)本寺:中山智観寺
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
※無住? 加治神社門前
第86番 高岡山 龍泉寺
埼玉県日高市栗坪124
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:不動明王
他の札所:
第87番 箕輪山 満行院 霊巌寺
埼玉県日高市新堀740-1
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:武蔵野三十三観音霊場番外1、高麗板東三十三観音霊場番外2
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:地蔵菩薩
2.武蔵野三十三観音霊場番外1
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.高麗板東三十三観音霊場番外2
朱印尊格:聖観世音菩薩
第88番 高麗山 聖天院 勝楽寺
埼玉県日高市新堀990-1
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第26番、高麗板東三十三観音霊場第32番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.武蔵野三十三観音第26番
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.高麗板東三十三観音霊場第32番
朱印尊格:千手観世音菩薩
【 BGM 】
■ 歌に形はないけれど - ユリカ / 花たん
■ 時代 - 薬師丸ひろ子
■ Endless Story - Yuna Ito
『幻の武州八十八霊場 埼玉の古寺をたずねて』の表紙に霊場の札所板書の写真が載っています。
これは第17番慈眼坊の板碑群屋桁に掲げられたもので、板に墨書ですがうっそうとした林のなかにあるようで、すでに朽ちてしまったかも知れないと思っていました。
先日巡拝におもむき、現物がかなりよい状態で残っていたのでご紹介します。
【写真 上(左)】 札所板書-1
【写真 下(右)】 札所板書-2
【写真 上(左)】 板碑群屋
【写真 下(右)】 多武峰
同書には掲載されていない16箇所の「奥の院」も記載されている貴重なものです。
せっかくなので奥の院も含めたリストをつくってみました。
(※リスト中「御朱印拝受」とあるものは、御本尊ないし他霊場のものがほとんどです。また、御開帳期間限定授与(通常は不授与)とみられる御朱印も含んでいます。)
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2022/08/05 UP
いちおう、これまでに拝受した御朱印はすべてUPしました。
現在、巡礼中です。新規の情報が入りましたら追記します。
→ 札所リスト(ニッポンの霊場様)
新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。
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2022/08/04 UP
この霊場については以前ざっくりとご紹介しましたが、「鎌倉殿の13人」に関係する寺院がいくつかあること、また、先日令和4年4月の中武蔵七十二薬師霊場の御開帳で御朱印を拝受できた札所がいくつかあるので、リスト化して御朱印をご紹介します。
なお、武州八十八霊場の札所御朱印を授与されている札所はごく少数です。
多くは他の霊場の御朱印となります。
また、武州八十八霊場は廃寺となった札所も多いので、場合により移転先の寺院、あるいは元別当を司どった神社の御朱印もご紹介します。
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2018/03/24 UP
お大師様(弘法大師)ゆかりの寺院を巡る弘法大師霊場(通常八十八ヶ所ないし二十一ヶ所)は全国各地に開創され、三十三観音霊場とならんで代表的な巡拝霊場となっています。
東京周辺では、御府内八十八箇所(都内全域)、豊島八十八ヶ所(城北エリア)、玉川八十八ヶ所(城西エリア・神奈川)、多摩新四国八十八ヶ所(多摩エリア)、相州二十一ヶ所(鎌倉周辺)などがほぼ現役霊場として機能しています。
東京下町には、荒綾八十八ヶ所、荒川辺八十八ヶ所、南葛八十八ヶ所、御府内二十一ヶ所、隅田川二十一ヵ所、多摩には奥多摩新四国霊場八十八ヶ所などが残り、霊場会はないものの札所として機能しているお寺さんもかなりあります。
千葉には新四国相馬八十八ヶ所、東葛印旛八十八所、下総四郡八十八ヶ所、江戸川八十八ヶ所、市原郡八十八ヶ所、上総八十八ヶ所、千葉寺八十八所、吉橋八十八所、印西大師など多くの大師霊場があり、神奈川にも新四国東国八十八ヶ所、相模国準四国八十八ヶ所などがあり、かなりのエリアがカバーされています。
ところが、埼玉では北足立八十八箇所、埼東八十八ヶ所が荒川左岸エリアに開創されているものの、荒川右岸域にはほとんど見当たりません。(一部、武玉八十八ヶ所と奥多摩新四国霊場八十八ヶ所がかかっているのみ。)
荒川右岸域には、武蔵野三十三観音、狭山三十三観音、入比板東三十三所観音、高麗板東三十三観音、比企西国三十三観音など比較的多くの観音霊場があるのに、かねがね不思議に思っていました。
【写真 上(左)】武蔵野三十三観音・初番 長命寺(練馬区)
【写真 下(右)】高麗板東三十三観音・初番 智観寺(飯能市)
【写真 上(左)】比企西国三十三観音・初番 城恩寺(東松山市)
【写真 下(右)】入比板東三十三所観音・初番 女人堂(ときがわ町)
こんななか、先日、書店で目にとまったのが、『幻の武州八十八霊場 埼玉の古寺をたずねて』(さきたま出版会/2018.2.15初版)という出たての本です。
「武州八十八霊場」?・・・まったく初耳でした。Web上でもみたことがありません。
速攻で本を購入し、興味シンシン読みふけりました。
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武州八十八霊場とは、文化九年(1812年)、武州越生の法恩寺山主により企画された四国八十八札所の写し霊場(新四国霊場)で、範囲は越生、毛呂山、ときがわ、鳩山、坂戸、鶴ヶ島、東松山、吉見、川島、川越、狭山、入間、飯能、日高に渡っています。
まさに、上にあげた荒川右岸域の観音霊場群とエリアが重なります。
同書によると、御詠歌集の霊場名称は「印施新四国霊場」。
文化九年(1812年)3月5日、越生報恩寺山主は当地に新四国八十八霊場の開創を企図し、外秩父「武州山之根」の諸寺院に提案して順路を定めました。
また、親交のあった上野村の瑠璃山医王寺秀如や堂山村青龍山最勝寺海恵、田代村吉沢凡齋などから版行の寄付をうけ、有力商人の亀屋宗兵衛・藤屋宗八から用紙の寄付をえて『印施新四国遍路御詠歌』という順路の案内書を刊行したとあります。
同書によると、弘法大師千年忌を迎え、文化・文政~天保(1804~1843年)には全国各地で盛んに弘法大師霊場(新四国八十八箇所)が開創されたといいます。
しかし、弘化二年(1845年)に公布された新四国八十八札所の禁令により新規霊場の開創が禁止されると、新規開創は下火となったといいます。
「武州八十八霊場」は江戸期の新四国霊場開創最盛期に開創されているためか、きっちり奥の院まで設定されています。
ただし、番外や掛所、別格霊場などは設定されていない模様です。
発願寺は越生の松渓山法恩寺、結願寺は日高の聖天院勝楽寺で、奥武蔵越生から打ち始め、吉見・川島あたりの荒川辺まで出て、時計回りに奥武蔵の日高に戻るというコースです。
ときがわの慈光寺(18番)、東松山の正法寺(31番)、吉見の安楽寺(36番)、入間の円照寺(80番)、飯能の観音寺(83番)などメジャー寺院も含みますが、多くは小規模な寺院で10程度の廃寺を含みます。
札所一覧をみたとき、ちょっと不思議な感じがしたのは、禅寺がほとんど参画しておらず、ほとんどが真言宗、天台宗の寺院で占められているため、このエリアにかなりある禅寺の古刹が欠けているからだと思います。
(この本は、「印施新四国遍路御詠歌」という案内書をベースに編纂されたとみられ、また著者が元文学部教授ということもあってか、かなり専門的な内容で、宗派は宗派名でなく、●●寺末という本末制度からの記載となっています。なので、本寺の宗派がわからないと宗派がわからず、宗派不明の寺院もあります。)
著者は1933年のお生まれというご高齢ながら、すべての札所を回られたうえで上梓されています。
古文書と現地探訪の生情報が組み合わさったすこぶる密度の高い内容で、よくぞ世に出していただいた、という感じです。
御朱印はともかく、興味のある札所も多いので、時間をかけてじっくりと回ってみたいと思います。
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第1番 松渓山 法恩寺
公式Web
埼玉県越生町越生704
真言宗智山派
御本尊:大日如来
関連武将:源頼朝公、越生次郎家行
他の札所:越生七福神(恵比須神)、真言宗智山派関東十一談林
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:大日如来
2.武州八十八霊場第1番
朱印尊格:大日如来
※札番揮毫はお願いしてお書きいただいたもの。通常は札番記入なしと思います。
3.越生七福神
朱印尊格:恵比須神
・天平十年(738年)行基の開創と伝わる古刹。児玉党の倉田孫四郎基行とその妻妙泉尼夫妻が出家、源頼朝公に寺の再興を願い出て許され、建久元年(1190年)頼朝公は越生次郎家行に命じて堂塔伽藍を建立して天台宗寺院として再興、将軍家繁盛の祈祷道場としたといいます。
・応永五年(1398年)に阿闍梨権大僧都法印榮曇和尚が入山し、真言宗に改宗して中興開山、天正十九年(1591年)には徳川家康公から寺領20石の御朱印状を拝領。
・新義真言宗の関東十一談林の一つに列し、住職が将軍に直接拝謁できる格式の高い寺院でした。
・後鳥羽上皇の御宸筆で頼朝公から拝領したとされる絹本着色高野・丹生明神像をはじめ、数多くの文化財を有しています。
第2番 大慈山 正法寺
埼玉県越生町越生960
臨済宗建長寺派 (旧)本寺:鎌倉円覚寺
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第24番、越生七福神(大黒天)
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第24番
朱印尊格:聖観世音菩薩
2.越生七福神
朱印尊格:大黒天
第3番 瑠璃山 東園院 医王寺
埼玉県越生町上野2043
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
第4番 福壽山 滝房 多門寺
埼玉県越生町上野1454
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
第5番 澤谷山 光明院 宝福寺
埼玉県毛呂山町大谷木154
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:
関連武将:毛呂氏→大谷氏
他の札所:
第6番 息災山 吉祥院 延命寺
埼玉県毛呂山町下河原245
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:不動明王
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
第7番 観音寺
埼玉県坂戸市四日市場379
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:千手観世音菩薩
他の札所:
第8番 金剛山 地蔵院 南蔵寺
埼玉県毛呂山町350-0436
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
※廃寺?、現・川角八幡社境内に遺跡
第9番 山本坊
埼玉県毛呂山町西戸916
本山修験派
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、西戸国津神神社境内他に遺跡
第10番 御嶺山 不動院 龍台寺
埼玉県越生町西和田101 (旧)本寺:越生法恩寺
真言宗智山派
御本尊:大日如来
他の札所:
第11番 石樹山 常住院 興禅寺
埼玉県越生町西和田849
真言宗智山派 (旧)本寺:越生医王寺
御本尊:不動明王
他の札所:
第12番 能満山 見正寺
埼玉県越生町成瀬330
真言宗智山派 (旧)本寺:越生医王寺
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第22番
司元別当:成瀬諏訪神社(越生町成瀬)
〔拝受御朱印〕 ・無住、妙見寺(越生町成瀬287)にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第22番
朱印尊格:聖観世音菩薩
第13番 如意山 地蔵院 高蔵寺
埼玉県越生町津久根253
真言宗智山派 (旧)本寺:越生最勝寺
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第26番
〔拝受御朱印〕 ・無住、最勝寺(越生町堂山287)にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第26番
朱印尊格:聖観世音菩薩
第14番 大泉院
埼玉県越生町小杉1
本山修験派?
司元別当:梅園神社(越生町小杉)
御本尊:
他の札所:
※属山本坊(第9番)、廃寺、小杉天神社別当、梅園神社内
第15番 青龍山 最勝寺
埼玉県越生町堂山287
真言宗智山派
御本尊:十一面観世音菩薩
関連武将:源頼朝公、兒玉氏雲太夫
他の札所:入比板東三十三観音霊場第27番、越生七福神(福禄寿)
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第27番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
第16番 仏心院
埼玉県越生町龍ケ谷
(旧)本寺:本坊は常楽院/高山不動尊(飯能市高山346)
真言宗智山派
御本尊:
他の札所:
※廃寺?
※ 御朱印は不授与です。本坊の常楽院/高山不動尊の御朱印を掲載します。
〔拝受御朱印〕
・高山不動尊にて拝受(原則として冬至の日、年1日のみの授与)
1.高山不動尊の御朱印
第17番 多武峰 慈眼坊
埼玉県ときがわ町西平
宗派不詳
御本尊:
他の札所:入比板東三十三観音霊場第31番
※廃寺?、個人宅に(多武峰神社)
第18番 都幾山 一乗法華院 慈光寺
埼玉県ときがわ町西平386
天台宗
御本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
関連武将:源頼朝公(祈願所)
他の札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第9番、関東九十一薬師霊場第33番、関東百八地蔵尊霊場第14番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.坂東三十三箇所(観音霊場)第9番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
2.関東九十一薬師霊場第33番
朱印尊格:薬師如来(抜苦輿楽)
3.関東百八地蔵尊霊場第14番
朱印尊格:地蔵菩薩(巡礼地蔵尊)
4.阿弥陀如来
朱印尊格:阿弥陀如来
第19番 日影山 長勝寺
埼玉県ときがわ町日影
真言宗智山派 (旧)本寺:越生最勝寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
※廃寺?、日影神社周辺か?
第20番 鈴宮山 開敷院 観音寺
埼玉県ときがわ町本郷551
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:聖観世音菩薩
他の札所:入比板東三十三観音霊場第7番
〔拝受御朱印〕 ・無住、光明寺(第22番、ときがわ町玉川3017)にて拝受
1.入比板東三十三観音霊場第7番
朱印尊格:聖観世音菩薩
第21番 医王寺
埼玉県ときがわ町番匠
宗派不詳
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、寺跡あり
第22番 音無山 光明寺
埼玉県ときがわ町玉川3017
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:不動明王
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:不動明王・弘法大師
第23番 東光山 薬王院 満願寺
埼玉県鳩山町熊井800
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
他の札所:
第24番 西明山 法輪院 真光寺
埼玉県鳩山町大豆戸340
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
司元別当:大豆戸三嶋神社(鳩山町大豆戸)
御本尊:大日如来
他の札所:
第25番 延命山 奥野院 興長寺
埼玉県鳩山町小用240
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:阿弥陀如来
関連武将:源頼朝公、越生四郎家行
他の札所:
第26番 清水山 彼岸院 大榮寺
埼玉県坂戸市厚川78
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第6番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:阿弥陀如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第6番
朱印尊格:薬師如来
第27番 八葉山 来迎院 長久寺
埼玉県坂戸市浅羽1486
真言宗智山派
御本尊:大日如来
他の札所:
第28番 安養山 蓮華院 善能寺
埼玉県鶴ヶ島市脚折町6-3−10
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第11番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:阿弥陀如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第11番
朱印尊格:薬師如来
第29番 龍護山 實相院 大智寺
埼玉県坂戸市石井2331
真言宗智山派
御本尊:大日如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第23番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時のみ授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:大日如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第23番
朱印尊格:薬師如来
第30番 天神山 不動院 龍福寺
埼玉県坂戸市戸口453
真言宗智山派
御本尊:不動明王
(旧)本寺:坂戸大智寺
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第1番(戸口薬師)
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第1番
朱印尊格:薬師如来
第31番 巌殿山 修繕院 正法寺(巌殿観音)
埼玉県東松山市岩殿1229
真言宗智山派
御本尊:千手観世音菩薩
関連武将:源頼朝公、比企判官能員
他の札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第10番、関東百八地蔵尊霊場第13番、七観音霊場第5番、中武蔵七十二薬師霊場第47番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.坂東三十三箇所(観音霊場)第10番
朱印尊格:千手観世音菩薩
2.関東百八地蔵尊霊場第13番
朱印尊格:地蔵菩薩(百地蔵尊)
3.七観音霊場第5番
朱印尊格:千手観世音菩薩
4.中武蔵七十二薬師霊場第47番
朱印尊格:薬師如来
第32番 澤田山 修造院 長慶寺
埼玉県東松山市神戸1678
真言宗智山派
御本尊:不動明王
関連武将:畠山重忠
他の札所:比企西国三十三観音第21番、中武蔵七十二薬師霊場第48番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.武州八十八霊場第32番
朱印尊格:不動明王
2.比企西国三十三観音第21番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
3.中武蔵七十二薬師霊場第48番
朱印尊格:薬師如来
第33番 安楽寺
埼玉県東松山市唐子
宗派不詳
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、墓地
第34番 成就院
埼玉県東松山市金井
宗派不詳
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、金井秋葉神社そば
第35番 岩室山 湯澤寺 龍性院
埼玉県吉見町北吉見459
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第63番、比企西国三十三観音第3番(岩室観音堂)
※岩室観音堂(吉見町北吉見309)は龍性院の境外仏堂
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.比企西国三十三観音第3番(岩室観音堂)
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.中武蔵七十二薬師霊場第63番
朱印尊格:薬師如来
第36番 岩殿山 光明院 安楽寺(吉見観音)
埼玉県吉見町御所374
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
関連武将:源範頼公
他の札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第11番、関東八十八箇所第75番、東国花の寺百ヶ寺霊場第17番、武州路十二支霊場(申)、中武蔵七十二薬師霊場第62番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時のみ授与の可能性あり)
1.坂東三十三箇所(観音霊場)第11番
朱印尊格:聖観世音菩薩
2.関東八十八箇所第75番
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.東国花の寺百ヶ寺霊場第17番
朱印尊格:聖観世音菩薩
4.武州路十二支霊場(申)
朱印尊格:金剛界大日如来
5.中武蔵七十二薬師霊場第62番
朱印尊格:薬師如来
第37番 端松山 正伝寺
埼玉県吉見町和名359
真言宗霊雲寺派 (旧)本寺:湯島霊雲寺
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:
第38番 岩殿山 光明院 息障院
埼玉県吉見町御所146-1
真言宗智山派 (旧)本寺:山城國醍醐報恩院
御本尊:不動明王
関連武将:源範頼公
他の札所:
第39番 松岡山 光勝寺 明王院
埼玉県吉見町下細谷415
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:十一面観世音菩薩
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第60番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第60番
朱印尊格:薬師如来
第40番 愛宕山 寿命院 無量寺
埼玉県吉見町久保田1380
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第58番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.中武蔵七十二薬師霊場第58番
朱印尊格:薬師如来
第41番 大串山 宝珠院 観音寺
埼玉県吉見町大串1282
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:不動明王
他の札所:
第42番 頼綱山 観秀院 寶性寺
埼玉県吉見町江綱1299
真言宗智山派 (旧)本寺:吉見息障院
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第66番(薬師堂)
〔拝受御朱印〕 ・明王院(吉見町下細谷)にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第66番
朱印尊格:薬師如来
第43番 明光山 法鈴寺
埼玉県川島町下小見野155
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:不動明王?
司元別当:下小見野氷川神社(川島町下小見野)
関連武将:小野見氏
他の札所:
第44番 法蔵山 西養院 西見寺
埼玉県川島町吹塚232
真言宗智山派 (旧)本寺:越生法恩寺
御本尊:薬師如来
他の札所:
第45番 法輪山 極楽寺
埼玉県川島町上八ツ林261
真言宗智山派 (旧)本寺:川島善福寺
御本尊:
他の札所:
第46番 寶塔山 善福寺
埼玉県川島町下八ツ林307
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第35番、第36番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.中武蔵七十二薬師霊場第35番(下八ツ林薬師堂)
朱印尊格:薬師如来
3.中武蔵七十二薬師霊場第36番(下八ツ林薬師堂)
朱印尊格:薬師如来
第47番 大御山 西福院 廣徳寺
埼玉県川島町表76
真言宗豊山派
御本尊:五大明王
関連武将:美尾谷十郎廣徳
他の札所:
第48番 蓮王山 十輪寺
埼玉県川島町
真言宗豊山派 (旧)本寺:川島廣徳寺
御本尊:不動明王
他の札所:
※無住?、お堂と墓地
第49番 龍池山 慈眼院
埼玉県川島町角泉110
真言宗豊山派 (旧)本寺:川島廣徳寺
御本尊:正観世音菩薩
他の札所:
第50番 法雲山 普門院 弘善寺
埼玉県川島町上狢
真言宗智山派 (旧)本寺:川島廣徳寺
御本尊:
他の札所:
※廃寺?、上狢集落センターと墓地
第51番 大福寺
埼玉県川島町平沼308
真言宗豊山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第30番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第30番
朱印尊格:薬師如来
第52番 草芽山 自性院 大聖寺
埼玉県川島町井草161
真言宗智山派
御本尊:大日如来 千手観世音菩薩?
関連武将:比企能員
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第29番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場は御開帳時限定授与の可能性あり)
1.武州八十八霊場第52番
朱印尊格:大日如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第29番
朱印尊格:薬師如来
第53番 土袋山 普門寺 金乗院
埼玉県川島町上伊草830
真言宗豊山派
御本尊:大日如来
他の札所:比企西国三十三観音第13番
第54番 守護山 善能寺
埼玉県川島町中山1823
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:
他の札所:
第55番 清月山 元光院 金剛寺
埼玉県川島町中山1198
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:阿弥陀如来
第56番 三嶽山 普門院 延命寺
埼玉県川島町中山1285
真言宗智山派
御本尊:
他の札所:比企西国三十三観音第8番
第57番 勅王山 正福寺
埼玉県川島町南園部310
真言宗智山派
御本尊:
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受
1.御本尊
朱印尊格:御寶印・寺院印のみ
第58番 光勝寺
埼玉県坂戸市赤尾1832
真言宗智山派
御本尊:不動明王
※墓地のみ
第59番 薬王山 浄水院 東光寺
埼玉県坂戸市小沼266
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:薬師如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第21番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第21番
朱印尊格:薬師如来
第60番 恵日山 法音寺
埼玉県坂戸市小沼902
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:不動明王
他の札所:
第61番 薩埵山 錫杖院 忠栄寺
埼玉県坂戸市横沼366
真言宗豊山派 (旧)本寺:伊草金乗院
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:
第62番 三寶山 実蔵院 長福寺
埼玉県坂戸市紺屋892
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:大日如来
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第17番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:大日如来
2.中武蔵七十二薬師霊場第17番
朱印尊格:薬師如来
第63番 薬樹山 瑠璃光院 永命寺
埼玉県川越市下小阪688
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第16番、小江戸川越古寺巡礼第51番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.御本尊
朱印尊格:不動明王
2.中武蔵七十二薬師霊場第16番
朱印尊格:薬師如来
第64番 由城山 福聚院 慈眼寺
埼玉県坂戸市中小坂285
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:十一面観世音菩薩
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・郵送にて拝受
1.武州八十八霊場第64番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
2.閻魔大王の御朱印
朱印尊格:閻魔大王
第65番 広谷山 正音寺
埼玉県鶴ヶ島市上広谷605-1
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:
他の札所:中武蔵七十二薬師霊場第13番
〔拝受御朱印〕 ・当寺にて拝受(薬師霊場御開帳時限定授与の可能性あり)
1.中武蔵七十二薬師霊場第13番
朱印尊格:薬師如来
第66番 慈眼山 喜見院 満福寺
埼玉県鶴ヶ島市太田ヶ谷487
天台宗
御本尊:千手観世音菩薩
司元別当:熊野社(鶴ヶ島市太田ヶ谷)ほか
他の札所:武蔵国十三佛霊場第5番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:千手観世音菩薩
2.武蔵国十三佛霊場第5番
朱印尊格:地蔵菩薩
第67番 萬霊山 法護院 延命寺
埼玉県川越市笠幡4451
天台宗
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:武蔵国十三佛霊場第4番、小江戸川越古寺巡礼第3番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:延命地蔵菩薩
2.武蔵国十三佛霊場第4番
朱印尊格:普賢菩薩
第68番 観智山 地蔵寺 三明院
埼玉県川越市池辺507
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:大日如来
司元別当:熊野神社(川越市池辺)
他の札所:小江戸川越古寺巡礼第57番
第69番 薬王山 地蔵院 廣福寺
埼玉県狭山市下奥富844
天台宗 (旧)本寺:仙波中院
御本尊:薬師如来
他の札所:関東九十一薬師霊場第32番、関東百八地蔵尊霊場第9番、武蔵国十三佛霊場第3番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.関東九十一薬師霊場第32番
朱印尊格:薬師如来
2.関東百八地蔵尊霊場第9番
朱印尊格:地蔵菩薩
3.武蔵国十三佛霊場第3番
朱印尊格:文殊菩薩
第70番 龍殿山 成就院 瑞光寺
埼玉県狭山市上奥富354
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:大日如来
他の札所:
第71番 金宝山 龍護院 永代寺
埼玉県狭山市柏原2492
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:
関連武将:畠山重忠
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.虚空蔵菩薩の御朱印
朱印尊格:虚空蔵菩薩
第72番 天竜山 薬王院 成円寺
埼玉県狭山市入間川2-3-11(徳林寺内へ(地蔵堂))
真言宗智山派 (旧)本寺:坂戸大智寺
御本尊:釈迦三尊
司元別当:八幡神社(狭山市入間川)、牛頭天王社、清水八幡宮、諏訪社
関連武将:木曽(清水冠者)義高
他の札所:(徳林寺)武蔵野三十三観音霊場第17番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.不動堂の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.武蔵野三十三観音霊場第17番
朱印尊格:●聚閣
第73番 蔵王山 観音院 常泉寺
埼玉県狭山市北入曽315
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:釈迦如来
他の札所:
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:釈迦如来
2.観音堂の御朱印
朱印尊格:聖観世音菩薩
第74番 御嶽山 延命寺 金剛院
埼玉県狭山市南入曽460
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
司元別当:御嶽社(南入曽村/現・入間野神社)
他の札所:
※ 御朱印は不授与です。当寺が元別当をつとめた入間野神社の御朱印を掲載します。
第75番 龍岳山 歓喜院 龍圓寺
埼玉県入間市新久717
真言宗智山派
御本尊:虚空蔵菩薩
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第20番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第41番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.武蔵野三十三観音霊場第20番
朱印尊格:千手観世音菩薩
2.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第41番
朱印尊格:十一面観世音菩薩・弘法大師
第76番 世音山 妙智寺 蓮花院
埼玉県入間市春日町2-9-1
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第18番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第74番・第76番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.武蔵野三十三観音霊場第18番
朱印尊格:千手観世音菩薩
3.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第74番
朱印尊格:薬師如来・弘法大師
4.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第76番
朱印尊格:薬師如来・弘法大師
第77番 高竹山 光明院 明光寺
埼玉県狭山市根岸2-5-1
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第44番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:地蔵菩薩
2.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第44番
朱印尊格:十一面観世音菩薩・弘法大師
第78番 笹井観音堂(瀧音山 泊山寺)
埼玉県狭山市笹井
本山修験宗?(京都聖護院の直末)
御本尊:十一面観世音菩薩
他の札所:
※無住。現在、御朱印は不授与です。
第79番 千手山 教学院 普門寺
埼玉県飯能市川崎300
真言宗智山派
御本尊:
司元別当:白鬚神社(飯能市川崎)
他の札所:高麗板東三十三観音霊場第4番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.高麗板東三十三観音霊場第4番
朱印尊格:千手観世音菩薩
第80番 光明山 正覚院 圓照寺
埼玉県入間市野田158
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀三尊
関連武将:加治氏
他の札所:関東八十八箇所第73番、武蔵野三十三観音霊場第22番、高麗板東三十三観音霊場第11番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第58番、武蔵野七福神(弁財天)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.関東八十八箇所第73番
朱印尊格:阿弥陀如来
2.武蔵野三十三観音霊場第22番
朱印尊格:如意輪観世音菩薩
3.高麗板東三十三観音霊場第11番
朱印尊格:聖観世音菩薩
4.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第58番
朱印尊格:千手観世音菩薩・弘法大師
5.武蔵野七福神の御朱印
朱印尊格:弁財天
第81番 仏寿山 宝幢院 願成寺
埼玉県飯能市川寺688
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
第82番 岸高山 福寿院 歓喜寺
埼玉県飯能市岩渕658甲
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:
他の札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第32番
第83番 般若山 長寿院 観音寺
埼玉県飯能市山手町5-17
真言宗智山派
御本尊:如意輪観世音菩薩
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第24番、高麗板東三十三観音霊場第10番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第64番、武蔵野七福神(寿老人)
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.武蔵野三十三観音霊場第24番
朱印尊格:如意輪観世音菩薩
2.高麗板東三十三観音霊場第10番
朱印尊格:如意輪観世音菩薩
3.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第64番
朱印尊格:阿弥陀如来・弘法大師
第84番 常寂山 蓮華院 智観寺
埼玉県飯能市中山520
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
関連武将:中山氏
他の札所:奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第28番、高麗板東三十三観音霊場第1番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.奥多摩新四国霊場八十八ヶ所第28番
朱印尊格:大日如来・弘法大師
3.高麗板東三十三観音霊場第1番
朱印尊格:十一面観世音菩薩
第85番 慈眼山 真福寺
埼玉県飯能市中山436 (旧)本寺:中山智観寺
真言宗豊山派
御本尊:阿弥陀如来
他の札所:
※無住? 加治神社門前
第86番 高岡山 龍泉寺
埼玉県日高市栗坪124
真言宗智山派 (旧)本寺:高麗聖天院
御本尊:不動明王
他の札所:
第87番 箕輪山 満行院 霊巌寺
埼玉県日高市新堀740-1
真言宗智山派
御本尊:地蔵菩薩
他の札所:武蔵野三十三観音霊場番外1、高麗板東三十三観音霊場番外2
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:地蔵菩薩
2.武蔵野三十三観音霊場番外1
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.高麗板東三十三観音霊場番外2
朱印尊格:聖観世音菩薩
第88番 高麗山 聖天院 勝楽寺
埼玉県日高市新堀990-1
真言宗智山派
御本尊:不動明王
他の札所:武蔵野三十三観音霊場第26番、高麗板東三十三観音霊場第32番
〔拝受御朱印〕 ・庫裡にて拝受
1.御本尊の御朱印
朱印尊格:不動明王
2.武蔵野三十三観音第26番
朱印尊格:聖観世音菩薩
3.高麗板東三十三観音霊場第32番
朱印尊格:千手観世音菩薩
【 BGM 】
■ 歌に形はないけれど - ユリカ / 花たん
■ 時代 - 薬師丸ひろ子
■ Endless Story - Yuna Ito
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■ ドイツに逆転勝ち!
ベスト8ならず! 残念。
敗因をしっかり分析して、つぎこそは・・・。
2022-12-05
今晩です。
↓ さらにこんなゴールを重ねてほしい。
そしてベスト8へ。
■ 日本代表サッカーゴール集
■ Kalafina - Mirai 未来
---------------------
2022-12-01
いよいよ今晩(明朝)ですね。
↓ 気合い入れてこんなゴールをかましてほしい。
それだけの実力はあると思う。
■【あの時の感動をもう一度】W杯歴代ベストゴール20連発⚽ベスト16までの軌跡|『FIFA ワールドカップ歴代ベストゴールSP』ABEMAで配信中!
✿ 「栞」天野月 feat.YURiCa/花たん
---------------------
2022-11-28
ベルギー vs モロッコ戦、面白すぎた。
モロッコの勝利に対するものすごい執念を感じた。
ベルギーといえども、後半のあのタイミングでの1点はいかんともしがたく。
ワールドカップでの後半終盤での1点の失点はほんとうに恐い。
スペイン戦。
さきほどのモロッコのような執念をみせてほしい。
もはや最終戦なんだから、宝の持ち腐れしてもしょーもない。
三笘スタメンで・・・。
---------------------
2022-11-24
浅野のスーパートラップ!
ドイツ相手に先制くらってから、後半でまくるとは・・・。
前半とはまるで別チーム。
後半の超攻撃的布陣がみごとにはまった。
日本にとってひさびさの明るいニュース。
これで勢いをつけて、いい結果を出して欲しい。
---------------------
2022-11-23
いよいよ今晩。
こういう先制ゴール、欲しいですわ。↓
実際にやってるし。
(ドイツ相手に2-2のドロー)
■ 日本代表史上最高のゴール
(解説つき)
【歌ってみた】美容系ライバーが アイノカタチ / MISIA を歌ってみた
↑ 感情こもってます。
敗因をしっかり分析して、つぎこそは・・・。
2022-12-05
今晩です。
↓ さらにこんなゴールを重ねてほしい。
そしてベスト8へ。
■ 日本代表サッカーゴール集
■ Kalafina - Mirai 未来
---------------------
2022-12-01
いよいよ今晩(明朝)ですね。
↓ 気合い入れてこんなゴールをかましてほしい。
それだけの実力はあると思う。
■【あの時の感動をもう一度】W杯歴代ベストゴール20連発⚽ベスト16までの軌跡|『FIFA ワールドカップ歴代ベストゴールSP』ABEMAで配信中!
✿ 「栞」天野月 feat.YURiCa/花たん
---------------------
2022-11-28
ベルギー vs モロッコ戦、面白すぎた。
モロッコの勝利に対するものすごい執念を感じた。
ベルギーといえども、後半のあのタイミングでの1点はいかんともしがたく。
ワールドカップでの後半終盤での1点の失点はほんとうに恐い。
スペイン戦。
さきほどのモロッコのような執念をみせてほしい。
もはや最終戦なんだから、宝の持ち腐れしてもしょーもない。
三笘スタメンで・・・。
---------------------
2022-11-24
浅野のスーパートラップ!
ドイツ相手に先制くらってから、後半でまくるとは・・・。
前半とはまるで別チーム。
後半の超攻撃的布陣がみごとにはまった。
日本にとってひさびさの明るいニュース。
これで勢いをつけて、いい結果を出して欲しい。
---------------------
2022-11-23
いよいよ今晩。
こういう先制ゴール、欲しいですわ。↓
実際にやってるし。
(ドイツ相手に2-2のドロー)
■ 日本代表史上最高のゴール
(解説つき)
【歌ってみた】美容系ライバーが アイノカタチ / MISIA を歌ってみた
↑ 感情こもってます。
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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6から
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7
■ 鎌倉殿の御家人
■ 源頼朝公ゆかりの寺社
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
40.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院
〔北条政子〕
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
坂東三十三観音公式サイト
鎌倉市大町3-1-22
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第3番、鎌倉三十三観音霊場第3番、鎌倉二十四地蔵霊場第24番、相州二十一ヶ所霊場第8番、小田急沿線花の寺四季めぐり第17番
北条政子はおそらく、史上もっとも波乱の人生をおくった女性で、その生涯を追っていくとキリがないので、こちらWikipediaをご覧ください。
Wikipediaに「『吾妻鏡』では建保七年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。」とあるように、北条政子が本当の意味で幕政の表舞台に登場するのは、建保七年(1219年)正月の将軍・実朝公暗殺から三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れたのちだと思います。
北条氏独裁化の流れのなかで御家人内に仇敵も多い北条義時よりも、頼朝公とともに歩んだ政子の方が、御家人たちとしても担ぎやすかったのでは。
承久三年(1221年)、承久の乱の際に御家人に発した「故右大将(頼朝公)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝公)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」(Wikipediaより)は世紀の名演説としてよく知られています。
これも頼朝公や御家人たちと苦楽をともにしてきた政子だからこそ、語れる言葉なのかもしれません。
貞応三年(1224年)、北条義時の急死後に勃発した「伊賀氏の変」では政子の政治的手腕がかいま見られます。
この政変は義時の後妻(継室)・伊賀の方が、実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策したもので、政村の烏帽子親である三浦義村の動きによっては北条政権をくつがえす大乱となる可能性がありました。
これを察した政子は先手を打って義時の長男・泰時を執権に就任させ、三浦義村に対して泰時への支持を確約させたといわれています。
義時なきあと、最大の実力者で権謀術数をめぐらす三浦義村を相手に渡り合い、泰時を執権職に就けたこと、また執権の座を逃した政村が、その後も泰時を支えつづけたことは並みの手腕ではないと思われます。(泰時の人望もあるとは思いますが)
嘉禄元年(1225年)泰時への代替わりを見届けたあと逝去。享年69。
戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。
墓所は鎌倉・扇ヶ谷の壽福寺にあります。
【写真 上(左)】 壽福寺
【写真 下(右)】 壽福寺の御朱印(御本尊)
ここでは、政子が頼朝公の冥福を祈るために建立した祇園山長楽寺を前身とし、政子の戒名を号した祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院をご紹介します。
安養院の由緒はすこぶる複雑で、3つの前身寺院の由緒を追わなければならないので、「鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)」の記事をそのまま持ってきます。
ながくなりますがご容赦ください。
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安養院は鎌倉・大町にある浄土宗の名刹で、坂東三十三箇所(観音霊場)第3番札所として広く知られています。
このお寺はすこぶる複雑な由緒をもたれます。
まずは山内由緒書から(抜粋)。
「建立 嘉禄元年(1225)、開山 願行上人、開基 北条政子」
「北条政子が夫・頼朝公の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身。鎌倉末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。延宝八年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして『祇園山安養院田代寺』になりました。」
つぎに鎌倉市観光協会Webから(抜粋)。
「当初この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺があり。のちに北条政子が夫・頼朝公の菩提のために笹目に建てた長楽寺が焼失したため、鎌倉末期にこの地に長楽寺を移し、政子の法名・安養院を号し、さらに江戸時代の始めに田代寺の千手観音を移した。」
以上より、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係していることになります。
『鎌倉市史 社寺編』から以下抜粋引用します。
「もと律宗。昌譽の時浄土宗となったという。もと名越派の本山、延享四年(1747年)六月の諸宗寺院本末改により京都知恩院末となる。開山、願行房憲静。開基、北条氏政子。寺伝では嘉禄元年(1225年)、頼朝夫人政子が頼朝の菩提のため佐々目の長楽寺谷に律寺を建立。願行を開山としたという。『壇林鎌倉光明寺志』には記主良忠門資として、良弁尊観を相州名越安養祖としている。これは善導寺の祖とすべきであろう。延慶三年(1310年)十一月、失火あり鎌倉中の大火となった。(『武家年代記裏書』)寺伝には、高時滅亡の後、稲瀬川の辺から現在の地、善導寺の跡に移りそれ以降安養院と号したという。延寶八年(1680年)十月、門外町屋から失火、全焼した。再建の時比企ヶ谷にあった末寺、田代観音堂を境内に移した。」
ところが『新編鎌倉志』には「名越の入口、海道の北にあり。祇園山と号す。浄土宗、知恩院の末寺なり。此寺初め律宗にて、開山願行上人なり。其十五世昌譽和尚と云より浄土宗となる。昌譽より前住の牌は皆律宗なり。初長谷の前稲瀬川の邊に在しを、相模入道滅亡の後、此に移すと云伝ふ。本堂に阿彌陀坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安ず。共に安阿彌が作なり。」とあり、前身3寺の所縁は明示されていません。
そこで『新編相模國風土記稿』の安養院の項を当たってみました。
こちらには山内絵図とともに詳しい記述がありました。要点のみ抜粋引用します。
「古ハ笹目ヶ谷ニ在。祇園山長楽寺と号ス。浄土宗。昔ハ無木(本)寺ニテ。名越一派ノ本山ナリ。延寶四年(1676年)諸宗寺院本末御改ヨリ。京知恩院末に属ス。嘉禄元年(1225年)二位ノ禅尼。故頼朝菩提ノ為。笹目ヶ谷邊(西方長谷村界笹目ヶ谷ニ長楽寺谷ト云フアリ。是当寺ノ舊蹟ナリ)ニテ。七堂伽藍ヲ営ミ。律寺ヲ建立シテ。僧願行ヲ開山トシ。又●年七月二位禅尼逝去アリシカバ。願行導師トナリ当寺ニ葬送シ。法名ヲ安養院ト号スト云フ。後兵火ノ為ニ。堂宇残ラズ烏有トナリシカバ。当所善導廃寺蹟ニ移テ堂宇ヲ営ミ両寺を合シテ再建ス。鎌倉志ニ当寺初長谷ノ前。稲瀬川ノ邊ニ在シヲ。相模入道滅亡ノ後此ニ移スト云伝フ云々。是ニ拠バ正應二年(1289年)ノ兵火ナルベシ。又善導寺モ其頃退転セシナルベシ。寺伝ニ彼善導寺開山ハ記主禅師ノ法嗣尊観ナリ。某年名越一派ヲ立。爰ニ一宇ヲ建立シ正和五年(1316年)寂スト云フ。後年現住昌譽カ時。律宗ヲ改メ今ノ宗派トナルと云フ。天文十三年(1544年)北條氏直敷地ヲ寄附ス。延寶八年(1680年)失火シテ諸堂残ナク焼亡ス。其頃比企谷ノ内田代ニ観音堂アリ。当院の末ナリシヲ。当寺再建ノ時境内ニ移シ。夫ヨリ三ヶ寺合成ノ梵宇ト称ス。」
『新編相模國風土記稿』には本堂、観音堂についての記事もありました。
「本堂 本尊阿彌陀 安阿彌作安ス。堂中頼朝又二位禅尼ノ牌。地蔵堂。本尊ハ石像(弘法大師作ト云フ)ニテ。鎌倉二十四所ノ一ナリ。子安地蔵ト云フ。」
「観音堂。本尊千手観音ナリ。立像長五尺四寸恵心作。坂東三十三所ノ札所第三番ト云フ。昔田代冠者信綱此像ノ●中ニ守本尊三面ノ千手観音ノ画像(立像ニテ長九寸許。天竺竜樹菩薩筆)ヲ籠メ。更ニ比企谷田代ノ地ニ堂舎ヲ造建シテ安置シ。白花山普門寺ト号セリ。土俗ハ多く田代寺又田代堂ナド称セリ。厨子ニ納テ内殿ニ安スト云フ。延寶八年(1680年)当寺焼亡ノ後此境内ニ移セシナリ。前立ニ同像ヲ置キ脇壇ニ阿彌陀ノ座像ヲ置ク。恵心作。是ハ二位禅尼ノ持念佛ト云フ。」
さらに、田代寺についてWikipediaから引いてきました。
「田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立」(原典不明)
引用だらけですみません。
でも、これらの情報がなければ安養寺の由緒(というか3箇寺合一の経緯)がたどれません。
上記資料の青字の箇所が、(おそらく現在地にあった)旧・善導寺についての記述です。
長楽寺、善導寺と合寺後の由緒が混在しているので、すこぶるわかりにくくなっています。
まずは、開山関係から当たってみます。
■ 願行上人憲静(長楽寺)
鎌倉の古寺をたどるときしばしばその名が出てきますが、史料が少なくナゾの多い高僧。
今後のこともあるので、『願行上人憲静の研究(上)』(伊藤宏見氏)」、『願行上人憲静の研究(下)』(同)から経歴・事績の要点を引いてみます。
願行上人憲静は、健保三年(1215年)出生、永仁三年(1295年)寂の鎌倉時代の高僧です。
〔法統・真言宗系統〕
・建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)
・弘長元年(1261年)定清?から潅頂を受ける。定清は金剛王院流を奉じた小野流の事相家(『血脈類集記』)
・文永九年(1272年)三宝院流を意教上人より受ける。(『真言宗年表』『鶏足寺譜』)
三宝院流は真言宗醍醐派の一派で、醍醐寺三宝院門跡初代勝覚を派祖とし、いわゆる「小野六流」のひとつ。
真言宗醍醐派は古義真言宗で修験道の一派、当山派の中心でもある。派祖は理源大師聖宝。
これより、願行上人は真言宗醍醐派三宝院流の法流を受けられていることがわかります。
〔法統・律宗系統〕
・月翁智鏡に律部を受学。月翁智鏡は泉涌寺来迎院の開山で泉涌寺四世。当時の泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学(密を天台、東密に分けると五宗兼学)の道場。
・『鎌倉初期の禅宗と律宗』(中尾良信氏)には、「北京律の祖とされる泉涌寺の俊芿」「北京律の中心たる泉涌寺」「月翁は俊芿から教律を学んだ」とある。
月輪大師俊芿(1166-1227年)は渡宗され、天台と律を学び建暦元年(1211年)帰朝。泉涌寺の実質的な開山といわれ四宗兼学の道場として再興されました。
その律は北京律(ほっきょうりつ)といわれ、日本における開祖とされます。
この北京律が、月輪大師俊芿-月翁智鏡-願行上人と伝わったとみられます。
以上から、願行上人は真言宗三宝院流と北京律兼学の高僧で、祇園山はこの流れから当初律宗(北京律)とされたとみられます。
〔鎌倉での活動〕
願行上人の鎌倉下向期間については錯綜気味ですが、「鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -」(高橋秀栄氏)には下記のとおりあります。
・弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間。
ただし、「建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流(『血脈類集記』)」という記録があり、それ以前に下向されているかも。
また、文永二年(1265年)意教上人に従って関東に赴くという諸伝もあります。
「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。守海は成賢の資の一人憲深から受法している。」(『願行上人憲静の研究(上)』P.5/血脈類集記より)
これによると長谷の佐々目(笹目)は当時真言宗三宝院流の本拠地で、願行上人はこの地(遺身院)で守海より三宝院流を受法の記録があります。
佐々目西方寺は現在の補陀洛山 西方寺(横浜市港北区新羽町)とされ、西方寺の公式Webには「西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に『補陀洛山、安養院、西方寺』として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正」とあります。
なお、西方寺は現在真言宗系単立のようですが、公式Webによると極楽寺(真言律宗)との関係が深かったようです。
願行上人と関係のある金沢の称名寺も真言律宗なので、佐々目の三宝院流はのちに真言律宗とかかわりを強めたのかもしれません。
【写真 上(左)】 西方寺
【写真 下(右)】 西方寺の御朱印(御本尊)
「(願行上人は)金沢越後守平実時堂廊に能禅方(西院)の灌頂を授けている。北条実時が金沢文庫を開設するのはそれよりのちの建治元年(1275年)である。その翌年願行の自筆文書が残っている。願行はのちにこの住持審海をも弟子として指導しているのであるから、その教界での位置を想像することができる。かくて建治の頃はすでに極楽寺とならぶ新興の律院の称名寺において、伝法灌頂を授けるほどの名徳(以下略)」(『願行上人憲静の研究(上)』P.18)
佐々目の守海は願行上人と頼助(佐々目僧正)に受戒しており、頼助は鎌倉幕府4代執権北条経時の子です。
Wikipediaには頼助は「父経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれる。」とあり、経時の没年は寛元四年(1246年)なので、「(願行上人が)建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院(北条経時の菩提寺)において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)。」という記録はタイミング的に符合します。
同僚の頼助が執権の子という有力者なので、願行上人の鎌倉での立場も強かったとみられます。
また、師・意教上人が一時、高野山金剛三昧院(実朝公菩提のため北条政子が発願)に入られたことも、願行上人と鎌倉幕府の結びつきを強めたという説があります。
『本朝高僧伝』には「乃至稲瀬川滸。設念仏会。名祇園山安養院」とあり、これは「文永十一年(1274年)~建治元年(1275年)、願行上人が鎌倉稲瀬川のほとりで頼朝公の霊のお告げに従い、説法念仏会を37日間行う」という諸伝と符合します。
『新編鎌倉志』の(覚園寺)地蔵堂の項には「地蔵を、俗に火燒地蔵と云ふ(中略)【沙石集】には丈六の地蔵とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。」とあり、願行上人の稲瀬川念仏会との関連を指摘する説もあります。
さらに安養院所蔵の願行上人像胎内銘に「鎌倉由井浜安養院開山願行上人、建治二年(1275年)八月廿八日、未剋往生。春秋八十二」とあり、説法念仏会の前後に鎌倉稲瀬川に安養院ないしその前身となる寺院を開山された可能性があります。
なお、上記の参考資料によると、願行上人が係わられた関東の代表的な寺社はつぎのとおりです。
二階堂永福寺真言院、鎌倉観音寺、(金澤)称名寺、相州大山寺、二階堂理智光寺、二階堂大楽寺、二階堂覚圓寺、大町安養院、最明寺(足柄上郡大井金子)、鶴岡八幡宮。
■ 尊観上人良弁(善導寺)
鎌倉市Webの「当初この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺があり」および、『鎌倉市史 社寺編』の「もと名越派の本山、『壇林鎌倉光明寺志』には記主良忠門資として、良弁尊観を相州名越安養祖としている。これは善導寺の祖とすべきであろう」から探ってみました。
「記主禅師」(良忠上人)は、光明寺ゆかりの高僧です。
「記主禅師」(良忠上人)とは、嘉禎三年(1237年)浄土宗第三祖となられた高僧で、多くの門下を育てられました。 文応元年(1260年)鎌倉へ入られ北条朝直の帰依のもと悟真寺に住され、これがのちに浄土宗大本山光明寺となりました。
■ 光明寺の開山 記主禅師の御朱印
光明寺は名越エリアにあるので「名越一派」は大本山光明寺の流れかと思いましたが、「浄土宗 名越派」で検索してみるとなんと一発でヒットしました。
浄土宗「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「名越派」(なごえは)です。
(「鎮西流(鎮西派)」は知っていましたが、不勉強で「名越派」は知りませんでした。)
ここには「三祖然阿良忠門下六派の一つ。派祖は良弁尊観。名越流とも称される。また、尊観が相模国鎌倉名越谷善導寺で布教したため善導寺義ともいう。」とありました。
いわき市山崎の専称寺と栃木県益子町の円通寺が本山格であったようですが、江戸時代は増上寺の支配下にあり、大正以前に浄土宗として統一されているようです。
さらに尊観についても記載がありました。
「延応元年(1239年)—正和五年(1316年)三月一四日。鎌倉時代中期の僧。字(あざな)は良弁。名越派派祖。また鎌倉名越谷の善導寺で布教したため、後世尊観の流派を名越流もしくは善導寺義という。」
どんぴしゃです。これで決め打ちです。
「名越一派」は「浄土宗名越派」をさし、「善導寺」は尊観上人が「浄土宗名越派」の布教の拠点とした寺院です。
これで『新編相模國風土記稿』にあった「名越一派ノ本山ナリ」のナゾが解けたことになります。
■ 田代冠者信綱(普門寺・田代寺)
『新編相模國風土記稿』の安養院観音堂に「昔田代冠者信綱此像ノ●中ニ守本尊三面ノ千手観音ノ画像」として登場し、普門寺(田代寺)の開基とみられます。
『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「田代観音堂 普門寺と号す。妙本寺の南東なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手観音、坂東第三番の札所。此西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。」
「田代冠者信綱」は、おそらくWikipediaに「伊豆国司と狩野茂光の娘の子。石橋山の戦いで頼朝公挙兵時の武士の一人。平家物語の三草山の合戦や一ノ谷の戦い及び屋島の戦いにも登場し。義経公挙兵時の武士ともなり源義仲を追討した。しかし義経公の門下となったと同時に頼朝公から破門の書状を受け(た)。」とある鎌倉幕府草創期の武士とみられます。
これで、ようやく安養院の前身3寺のプロフィールが揃いました。
ごちゃごちゃになったので(笑)、ここで整理してみます。
1.現在地(大町)には、もともと尊観上人(正和五年(1316年)寂)が開かれた浄土宗名越派の善導寺があった。
(正應二年(1289年)の頃(現在地に?)退転したという記録もあり。)
2.一方、長谷笹目ヶ谷には嘉禄元年(1225年)北条政子が夫・頼朝公菩提のために創建した祇園山長楽寺(律宗)があった。開山は二階堂の理智光寺を開いた願行上人憲静。
嘉禄元年(1225年)、二位禅尼(北条政子)逝去の際、願行上人が導師となって当寺に葬送し、法名を安養院と号したという。
また、建治二年(1275年)前後の説法念仏会の折、願行上人が稲瀬川あたり(長谷~由比ヶ浜)に安養院ないしその前身となる寺院(祇園山)を開山された可能性もある。
※ただし、願行上人の鎌倉下向は弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間とみられ、二位禅尼(北条政子)逝去の嘉禄元年(1225年)と時代が合いません。
長楽寺は当初長谷稲瀬川にあり、正應二年(1289年)の兵火を受け笹目に移転した可能性もあるので、願行上人がこれにかかわり、その際に安養院と号したのかもしれません。
3.比企ヶ谷田代には建久三年(1192年)、伊豆の武士田代冠者信綱が尊乗上人を開山に建立した白花山普門寺(田代寺)があり、千手観世音菩薩を御本尊としていた。
普門寺(田代寺)は善導寺ないし長楽寺の末寺であった。
4.笹目の長楽寺は元弘元年(1333年)の兵火で焼失、大町の善導寺に統合されて『安養院長楽寺』と号した。安養院は政子の法号にちなむもの。(*Wikipedia)
5.統合時の安養院は律宗だったが後に浄土宗となり、天文十三年(1544年)には後北条氏第5代北條氏直の寄進を受ける。江戸時代の延寶八年(1680年)失火により諸堂焼亡する。
6.比企ヶ谷の普門寺(田代寺・田代観音)も同年延寶八年(1680年)に焼亡、焼亡した安養院再建の折に比企ヶ谷から本寺であった安養寺の境内に移る。この時点で3つの寺院の合一が為る。
7.坂東三十三箇所の札所本尊の千手観世音菩薩は、比企ヶ谷の普門寺(田代寺)から遷られての御座。
8.延享四年(1747年)六月の諸宗寺院本末改により、京都知恩院末となる。
以上から安養院は、
1.浄土宗名越派の派祖・尊観上人が名越派の当初の本山とされた善導寺
2.北条政子が頼朝公菩提のために創建。開山願行上人の祇園山長楽寺(律宗)
3.伊豆国守の子、田代冠者信綱が自身の守り本尊・千手観音を奉安した普門寺(田代寺)
という3つの由緒ある寺院の合寺であることがわかりました。
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※ 令和3年12月時点で当山山内は撮影禁止となっています。
以下の写真は撮影禁止となる前に撮影したものです。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 坂東札所標
県道311号大町大路に面して参道入口。
「坂東第三番田代観音」の札所標と「浄土宗名越派根本霊場」の石標。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 名越派根本霊場碑
石段の先に切妻屋根本瓦葺の四脚門で、門下の木箱に拝観料を納めます。
山門をくぐって右手の地蔵堂は鎌倉二十四地蔵霊場第24番の結願所で、札所本尊の日切地蔵尊が御座します。
坐像の石像で弘法大師の御作とも伝わり、子安地蔵ともよばれたそうです。
【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 鬼板と兎毛通
正面の本堂は権現造のような複雑な意匠で詳細不明。
向拝側の屋根に千鳥破風、向拝軒に唐破風の二重破風となっています。
軒下の水引虹梁両端に雲形の獅子木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いていますが全体にシンプルなイメージ
見上げには山号扁額。
【写真 上(左)】 山号扁額
【写真 下(右)】 堂内向拝
堂内の外陣には札所の御詠歌板などが掲げられています。
格子扉越しに御内陣が拝め、扉うえには院号扁額。
「坂東第三番」の札所だけに、さすがに風格があります。
【写真 上(左)】 院号扁額
【写真 下(右)】 坂東霊場札所板
御本尊の阿弥陀如来は伝・安阿彌作。観音霊場札所本尊の千手観世音菩薩は立像長五尺四寸で恵心作と伝わります。
本堂内には北条政子像も安置されています。
こちらは相州二十一ヶ所霊場第8番の札所で、御朱印も授与されています。
こちらの札所については小町の宝戒寺で書きますが、浄土宗でありながら弘法大師霊場の札所となっているのは、旧・長楽寺の開山・願行上人が真言宗醍醐派三宝院流であったことも関係しているかも。
このほか、本堂裏手にある(らしい)、尊観上人の墓で鎌倉最古と伝わる宝篋印塔(国重要文化財)、伝・北条政子の墓、尊観上人お手植えの槙の大木などのみどころがあります。
【写真 上(左)】 撮影禁止看板
【写真 下(右)】 山門から山内
5月のオオムラサキツツジが有名ですが、令和3年12月時点で山門内は撮影禁止となっています。
御朱印拝受時に理由をお伺いしたところ、カメラマンの振る舞いのあまりの酷さにたまりかねての処置とのこと。(当山は以前から三脚類使用禁止でした)
こちらは全国から巡拝者が訪れる坂東霊場札所。巡拝記念に撮影されたい向きも大勢いるのでは? と問い掛けたところ、申し訳なさそうに、たしかにその通りだが、山門外からの撮影は禁止していないのでそちらからの撮影を案内しているとのことでした。
とくに鎌倉の古寺では、にわか(?)カメラマンの傍若無人な撮影っぷりをよく目にしますが、そういうことを続けていくと撮影禁止のお寺さんがどんどん増えていきそうでとても残念です。
〔 御本尊・阿弥陀如来(六字御名号)の御朱印 〕
〔 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳(結願御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 相州二十一ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ ハナミズキ [PV Version] - 新垣結衣
■ Yuna Ito - Endless Story
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7
■ 鎌倉殿の御家人
■ 源頼朝公ゆかりの寺社
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
40.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院
〔北条政子〕
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
坂東三十三観音公式サイト
鎌倉市大町3-1-22
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第3番、鎌倉三十三観音霊場第3番、鎌倉二十四地蔵霊場第24番、相州二十一ヶ所霊場第8番、小田急沿線花の寺四季めぐり第17番
北条政子はおそらく、史上もっとも波乱の人生をおくった女性で、その生涯を追っていくとキリがないので、こちらWikipediaをご覧ください。
Wikipediaに「『吾妻鏡』では建保七年(1219年)の実朝死去から嘉禄元年(1225年)の政子死去まで、北条政子を鎌倉殿と扱っている。」とあるように、北条政子が本当の意味で幕政の表舞台に登場するのは、建保七年(1219年)正月の将軍・実朝公暗殺から三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れたのちだと思います。
北条氏独裁化の流れのなかで御家人内に仇敵も多い北条義時よりも、頼朝公とともに歩んだ政子の方が、御家人たちとしても担ぎやすかったのでは。
承久三年(1221年)、承久の乱の際に御家人に発した「故右大将(頼朝公)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝公)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」(Wikipediaより)は世紀の名演説としてよく知られています。
これも頼朝公や御家人たちと苦楽をともにしてきた政子だからこそ、語れる言葉なのかもしれません。
貞応三年(1224年)、北条義時の急死後に勃発した「伊賀氏の変」では政子の政治的手腕がかいま見られます。
この政変は義時の後妻(継室)・伊賀の方が、実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策したもので、政村の烏帽子親である三浦義村の動きによっては北条政権をくつがえす大乱となる可能性がありました。
これを察した政子は先手を打って義時の長男・泰時を執権に就任させ、三浦義村に対して泰時への支持を確約させたといわれています。
義時なきあと、最大の実力者で権謀術数をめぐらす三浦義村を相手に渡り合い、泰時を執権職に就けたこと、また執権の座を逃した政村が、その後も泰時を支えつづけたことは並みの手腕ではないと思われます。(泰時の人望もあるとは思いますが)
嘉禄元年(1225年)泰時への代替わりを見届けたあと逝去。享年69。
戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼。
墓所は鎌倉・扇ヶ谷の壽福寺にあります。
【写真 上(左)】 壽福寺
【写真 下(右)】 壽福寺の御朱印(御本尊)
ここでは、政子が頼朝公の冥福を祈るために建立した祇園山長楽寺を前身とし、政子の戒名を号した祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院をご紹介します。
安養院の由緒はすこぶる複雑で、3つの前身寺院の由緒を追わなければならないので、「鎌倉市の御朱印-7 (B.名越口-2)」の記事をそのまま持ってきます。
ながくなりますがご容赦ください。
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安養院は鎌倉・大町にある浄土宗の名刹で、坂東三十三箇所(観音霊場)第3番札所として広く知られています。
このお寺はすこぶる複雑な由緒をもたれます。
まずは山内由緒書から(抜粋)。
「建立 嘉禄元年(1225)、開山 願行上人、開基 北条政子」
「北条政子が夫・頼朝公の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身。鎌倉末期に善導寺の跡(現在地)に移って安養院になったといいます。延宝八年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして『祇園山安養院田代寺』になりました。」
つぎに鎌倉市観光協会Webから(抜粋)。
「当初この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺があり。のちに北条政子が夫・頼朝公の菩提のために笹目に建てた長楽寺が焼失したため、鎌倉末期にこの地に長楽寺を移し、政子の法名・安養院を号し、さらに江戸時代の始めに田代寺の千手観音を移した。」
以上より、長楽寺・善導寺・田代寺という3つの前身寺院が関係していることになります。
『鎌倉市史 社寺編』から以下抜粋引用します。
「もと律宗。昌譽の時浄土宗となったという。もと名越派の本山、延享四年(1747年)六月の諸宗寺院本末改により京都知恩院末となる。開山、願行房憲静。開基、北条氏政子。寺伝では嘉禄元年(1225年)、頼朝夫人政子が頼朝の菩提のため佐々目の長楽寺谷に律寺を建立。願行を開山としたという。『壇林鎌倉光明寺志』には記主良忠門資として、良弁尊観を相州名越安養祖としている。これは善導寺の祖とすべきであろう。延慶三年(1310年)十一月、失火あり鎌倉中の大火となった。(『武家年代記裏書』)寺伝には、高時滅亡の後、稲瀬川の辺から現在の地、善導寺の跡に移りそれ以降安養院と号したという。延寶八年(1680年)十月、門外町屋から失火、全焼した。再建の時比企ヶ谷にあった末寺、田代観音堂を境内に移した。」
ところが『新編鎌倉志』には「名越の入口、海道の北にあり。祇園山と号す。浄土宗、知恩院の末寺なり。此寺初め律宗にて、開山願行上人なり。其十五世昌譽和尚と云より浄土宗となる。昌譽より前住の牌は皆律宗なり。初長谷の前稲瀬川の邊に在しを、相模入道滅亡の後、此に移すと云伝ふ。本堂に阿彌陀坐像、客殿にも阿彌陀の坐像を安ず。共に安阿彌が作なり。」とあり、前身3寺の所縁は明示されていません。
そこで『新編相模國風土記稿』の安養院の項を当たってみました。
こちらには山内絵図とともに詳しい記述がありました。要点のみ抜粋引用します。
「古ハ笹目ヶ谷ニ在。祇園山長楽寺と号ス。浄土宗。昔ハ無木(本)寺ニテ。名越一派ノ本山ナリ。延寶四年(1676年)諸宗寺院本末御改ヨリ。京知恩院末に属ス。嘉禄元年(1225年)二位ノ禅尼。故頼朝菩提ノ為。笹目ヶ谷邊(西方長谷村界笹目ヶ谷ニ長楽寺谷ト云フアリ。是当寺ノ舊蹟ナリ)ニテ。七堂伽藍ヲ営ミ。律寺ヲ建立シテ。僧願行ヲ開山トシ。又●年七月二位禅尼逝去アリシカバ。願行導師トナリ当寺ニ葬送シ。法名ヲ安養院ト号スト云フ。後兵火ノ為ニ。堂宇残ラズ烏有トナリシカバ。当所善導廃寺蹟ニ移テ堂宇ヲ営ミ両寺を合シテ再建ス。鎌倉志ニ当寺初長谷ノ前。稲瀬川ノ邊ニ在シヲ。相模入道滅亡ノ後此ニ移スト云伝フ云々。是ニ拠バ正應二年(1289年)ノ兵火ナルベシ。又善導寺モ其頃退転セシナルベシ。寺伝ニ彼善導寺開山ハ記主禅師ノ法嗣尊観ナリ。某年名越一派ヲ立。爰ニ一宇ヲ建立シ正和五年(1316年)寂スト云フ。後年現住昌譽カ時。律宗ヲ改メ今ノ宗派トナルと云フ。天文十三年(1544年)北條氏直敷地ヲ寄附ス。延寶八年(1680年)失火シテ諸堂残ナク焼亡ス。其頃比企谷ノ内田代ニ観音堂アリ。当院の末ナリシヲ。当寺再建ノ時境内ニ移シ。夫ヨリ三ヶ寺合成ノ梵宇ト称ス。」
『新編相模國風土記稿』には本堂、観音堂についての記事もありました。
「本堂 本尊阿彌陀 安阿彌作安ス。堂中頼朝又二位禅尼ノ牌。地蔵堂。本尊ハ石像(弘法大師作ト云フ)ニテ。鎌倉二十四所ノ一ナリ。子安地蔵ト云フ。」
「観音堂。本尊千手観音ナリ。立像長五尺四寸恵心作。坂東三十三所ノ札所第三番ト云フ。昔田代冠者信綱此像ノ●中ニ守本尊三面ノ千手観音ノ画像(立像ニテ長九寸許。天竺竜樹菩薩筆)ヲ籠メ。更ニ比企谷田代ノ地ニ堂舎ヲ造建シテ安置シ。白花山普門寺ト号セリ。土俗ハ多く田代寺又田代堂ナド称セリ。厨子ニ納テ内殿ニ安スト云フ。延寶八年(1680年)当寺焼亡ノ後此境内ニ移セシナリ。前立ニ同像ヲ置キ脇壇ニ阿彌陀ノ座像ヲ置ク。恵心作。是ハ二位禅尼ノ持念佛ト云フ。」
さらに、田代寺についてWikipediaから引いてきました。
「田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷(ひきがやつ)に建立」(原典不明)
引用だらけですみません。
でも、これらの情報がなければ安養寺の由緒(というか3箇寺合一の経緯)がたどれません。
上記資料の青字の箇所が、(おそらく現在地にあった)旧・善導寺についての記述です。
長楽寺、善導寺と合寺後の由緒が混在しているので、すこぶるわかりにくくなっています。
まずは、開山関係から当たってみます。
■ 願行上人憲静(長楽寺)
鎌倉の古寺をたどるときしばしばその名が出てきますが、史料が少なくナゾの多い高僧。
今後のこともあるので、『願行上人憲静の研究(上)』(伊藤宏見氏)」、『願行上人憲静の研究(下)』(同)から経歴・事績の要点を引いてみます。
願行上人憲静は、健保三年(1215年)出生、永仁三年(1295年)寂の鎌倉時代の高僧です。
〔法統・真言宗系統〕
・建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)
・弘長元年(1261年)定清?から潅頂を受ける。定清は金剛王院流を奉じた小野流の事相家(『血脈類集記』)
・文永九年(1272年)三宝院流を意教上人より受ける。(『真言宗年表』『鶏足寺譜』)
三宝院流は真言宗醍醐派の一派で、醍醐寺三宝院門跡初代勝覚を派祖とし、いわゆる「小野六流」のひとつ。
真言宗醍醐派は古義真言宗で修験道の一派、当山派の中心でもある。派祖は理源大師聖宝。
これより、願行上人は真言宗醍醐派三宝院流の法流を受けられていることがわかります。
〔法統・律宗系統〕
・月翁智鏡に律部を受学。月翁智鏡は泉涌寺来迎院の開山で泉涌寺四世。当時の泉涌寺は律・密・禅・浄土の四宗兼学(密を天台、東密に分けると五宗兼学)の道場。
・『鎌倉初期の禅宗と律宗』(中尾良信氏)には、「北京律の祖とされる泉涌寺の俊芿」「北京律の中心たる泉涌寺」「月翁は俊芿から教律を学んだ」とある。
月輪大師俊芿(1166-1227年)は渡宗され、天台と律を学び建暦元年(1211年)帰朝。泉涌寺の実質的な開山といわれ四宗兼学の道場として再興されました。
その律は北京律(ほっきょうりつ)といわれ、日本における開祖とされます。
この北京律が、月輪大師俊芿-月翁智鏡-願行上人と伝わったとみられます。
以上から、願行上人は真言宗三宝院流と北京律兼学の高僧で、祇園山はこの流れから当初律宗(北京律)とされたとみられます。
〔鎌倉での活動〕
願行上人の鎌倉下向期間については錯綜気味ですが、「鎌倉下向僧の研究 - 願行房憲静の事跡 -」(高橋秀栄氏)には下記のとおりあります。
・弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間。
ただし、「建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院において守海より潅頂を受ける。三宝院流(『血脈類集記』)」という記録があり、それ以前に下向されているかも。
また、文永二年(1265年)意教上人に従って関東に赴くという諸伝もあります。
「勝賢開山の佐々目西方寺にはじまり、関東の三宝院流はここに発祥し、大門寺、遺身院その他の寺院群が佐々目の地にあった模様である。守海は成賢の資の一人憲深から受法している。」(『願行上人憲静の研究(上)』P.5/血脈類集記より)
これによると長谷の佐々目(笹目)は当時真言宗三宝院流の本拠地で、願行上人はこの地(遺身院)で守海より三宝院流を受法の記録があります。
佐々目西方寺は現在の補陀洛山 西方寺(横浜市港北区新羽町)とされ、西方寺の公式Webには「西方寺は源頼朝卿の頃、建久年間(1190)に鎌倉の笹目と言う所に『補陀洛山、安養院、西方寺』として創建され、開山は大納言通憲公の息、醍醐覚洞院座主、東大寺の別当であった勝賢僧正」とあります。
なお、西方寺は現在真言宗系単立のようですが、公式Webによると極楽寺(真言律宗)との関係が深かったようです。
願行上人と関係のある金沢の称名寺も真言律宗なので、佐々目の三宝院流はのちに真言律宗とかかわりを強めたのかもしれません。
【写真 上(左)】 西方寺
【写真 下(右)】 西方寺の御朱印(御本尊)
「(願行上人は)金沢越後守平実時堂廊に能禅方(西院)の灌頂を授けている。北条実時が金沢文庫を開設するのはそれよりのちの建治元年(1275年)である。その翌年願行の自筆文書が残っている。願行はのちにこの住持審海をも弟子として指導しているのであるから、その教界での位置を想像することができる。かくて建治の頃はすでに極楽寺とならぶ新興の律院の称名寺において、伝法灌頂を授けるほどの名徳(以下略)」(『願行上人憲静の研究(上)』P.18)
佐々目の守海は願行上人と頼助(佐々目僧正)に受戒しており、頼助は鎌倉幕府4代執権北条経時の子です。
Wikipediaには頼助は「父経時の菩提所である鎌倉佐々目の遺身院を拠点とし、佐々目頼助とも呼ばれる。」とあり、経時の没年は寛元四年(1246年)なので、「(願行上人が)建長四年(1252年)鎌倉の佐々目谷の遺身院(北条経時の菩提寺)において守海より潅頂を受ける。三宝院流。(『血脈類集記』)。」という記録はタイミング的に符合します。
同僚の頼助が執権の子という有力者なので、願行上人の鎌倉での立場も強かったとみられます。
また、師・意教上人が一時、高野山金剛三昧院(実朝公菩提のため北条政子が発願)に入られたことも、願行上人と鎌倉幕府の結びつきを強めたという説があります。
『本朝高僧伝』には「乃至稲瀬川滸。設念仏会。名祇園山安養院」とあり、これは「文永十一年(1274年)~建治元年(1275年)、願行上人が鎌倉稲瀬川のほとりで頼朝公の霊のお告げに従い、説法念仏会を37日間行う」という諸伝と符合します。
『新編鎌倉志』の(覚園寺)地蔵堂の項には「地蔵を、俗に火燒地蔵と云ふ(中略)【沙石集】には丈六の地蔵とあり。鎌倉の濱に有しを、東大寺の願行上人、二階堂へ移すと云へり。」とあり、願行上人の稲瀬川念仏会との関連を指摘する説もあります。
さらに安養院所蔵の願行上人像胎内銘に「鎌倉由井浜安養院開山願行上人、建治二年(1275年)八月廿八日、未剋往生。春秋八十二」とあり、説法念仏会の前後に鎌倉稲瀬川に安養院ないしその前身となる寺院を開山された可能性があります。
なお、上記の参考資料によると、願行上人が係わられた関東の代表的な寺社はつぎのとおりです。
二階堂永福寺真言院、鎌倉観音寺、(金澤)称名寺、相州大山寺、二階堂理智光寺、二階堂大楽寺、二階堂覚圓寺、大町安養院、最明寺(足柄上郡大井金子)、鶴岡八幡宮。
■ 尊観上人良弁(善導寺)
鎌倉市Webの「当初この地には尊観が開いた浄土宗の善導寺があり」および、『鎌倉市史 社寺編』の「もと名越派の本山、『壇林鎌倉光明寺志』には記主良忠門資として、良弁尊観を相州名越安養祖としている。これは善導寺の祖とすべきであろう」から探ってみました。
「記主禅師」(良忠上人)は、光明寺ゆかりの高僧です。
「記主禅師」(良忠上人)とは、嘉禎三年(1237年)浄土宗第三祖となられた高僧で、多くの門下を育てられました。 文応元年(1260年)鎌倉へ入られ北条朝直の帰依のもと悟真寺に住され、これがのちに浄土宗大本山光明寺となりました。
■ 光明寺の開山 記主禅師の御朱印
光明寺は名越エリアにあるので「名越一派」は大本山光明寺の流れかと思いましたが、「浄土宗 名越派」で検索してみるとなんと一発でヒットしました。
浄土宗「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「名越派」(なごえは)です。
(「鎮西流(鎮西派)」は知っていましたが、不勉強で「名越派」は知りませんでした。)
ここには「三祖然阿良忠門下六派の一つ。派祖は良弁尊観。名越流とも称される。また、尊観が相模国鎌倉名越谷善導寺で布教したため善導寺義ともいう。」とありました。
いわき市山崎の専称寺と栃木県益子町の円通寺が本山格であったようですが、江戸時代は増上寺の支配下にあり、大正以前に浄土宗として統一されているようです。
さらに尊観についても記載がありました。
「延応元年(1239年)—正和五年(1316年)三月一四日。鎌倉時代中期の僧。字(あざな)は良弁。名越派派祖。また鎌倉名越谷の善導寺で布教したため、後世尊観の流派を名越流もしくは善導寺義という。」
どんぴしゃです。これで決め打ちです。
「名越一派」は「浄土宗名越派」をさし、「善導寺」は尊観上人が「浄土宗名越派」の布教の拠点とした寺院です。
これで『新編相模國風土記稿』にあった「名越一派ノ本山ナリ」のナゾが解けたことになります。
■ 田代冠者信綱(普門寺・田代寺)
『新編相模國風土記稿』の安養院観音堂に「昔田代冠者信綱此像ノ●中ニ守本尊三面ノ千手観音ノ画像」として登場し、普門寺(田代寺)の開基とみられます。
『鎌倉攬勝考』には以下のとおりあります。
「田代観音堂 普門寺と号す。妙本寺の南東なり。安養院末、堂の額に白華山と有。本尊千手観音、坂東第三番の札所。此西の方を田代屋敷と唱ふ。田代冠者信綱が舊跡。今は畑なり。」
「田代冠者信綱」は、おそらくWikipediaに「伊豆国司と狩野茂光の娘の子。石橋山の戦いで頼朝公挙兵時の武士の一人。平家物語の三草山の合戦や一ノ谷の戦い及び屋島の戦いにも登場し。義経公挙兵時の武士ともなり源義仲を追討した。しかし義経公の門下となったと同時に頼朝公から破門の書状を受け(た)。」とある鎌倉幕府草創期の武士とみられます。
これで、ようやく安養院の前身3寺のプロフィールが揃いました。
ごちゃごちゃになったので(笑)、ここで整理してみます。
1.現在地(大町)には、もともと尊観上人(正和五年(1316年)寂)が開かれた浄土宗名越派の善導寺があった。
(正應二年(1289年)の頃(現在地に?)退転したという記録もあり。)
2.一方、長谷笹目ヶ谷には嘉禄元年(1225年)北条政子が夫・頼朝公菩提のために創建した祇園山長楽寺(律宗)があった。開山は二階堂の理智光寺を開いた願行上人憲静。
嘉禄元年(1225年)、二位禅尼(北条政子)逝去の際、願行上人が導師となって当寺に葬送し、法名を安養院と号したという。
また、建治二年(1275年)前後の説法念仏会の折、願行上人が稲瀬川あたり(長谷~由比ヶ浜)に安養院ないしその前身となる寺院(祇園山)を開山された可能性もある。
※ただし、願行上人の鎌倉下向は弘長三年(1263年)から正応三年(1290年)までの28年間とみられ、二位禅尼(北条政子)逝去の嘉禄元年(1225年)と時代が合いません。
長楽寺は当初長谷稲瀬川にあり、正應二年(1289年)の兵火を受け笹目に移転した可能性もあるので、願行上人がこれにかかわり、その際に安養院と号したのかもしれません。
3.比企ヶ谷田代には建久三年(1192年)、伊豆の武士田代冠者信綱が尊乗上人を開山に建立した白花山普門寺(田代寺)があり、千手観世音菩薩を御本尊としていた。
普門寺(田代寺)は善導寺ないし長楽寺の末寺であった。
4.笹目の長楽寺は元弘元年(1333年)の兵火で焼失、大町の善導寺に統合されて『安養院長楽寺』と号した。安養院は政子の法号にちなむもの。(*Wikipedia)
5.統合時の安養院は律宗だったが後に浄土宗となり、天文十三年(1544年)には後北条氏第5代北條氏直の寄進を受ける。江戸時代の延寶八年(1680年)失火により諸堂焼亡する。
6.比企ヶ谷の普門寺(田代寺・田代観音)も同年延寶八年(1680年)に焼亡、焼亡した安養院再建の折に比企ヶ谷から本寺であった安養寺の境内に移る。この時点で3つの寺院の合一が為る。
7.坂東三十三箇所の札所本尊の千手観世音菩薩は、比企ヶ谷の普門寺(田代寺)から遷られての御座。
8.延享四年(1747年)六月の諸宗寺院本末改により、京都知恩院末となる。
以上から安養院は、
1.浄土宗名越派の派祖・尊観上人が名越派の当初の本山とされた善導寺
2.北条政子が頼朝公菩提のために創建。開山願行上人の祇園山長楽寺(律宗)
3.伊豆国守の子、田代冠者信綱が自身の守り本尊・千手観音を奉安した普門寺(田代寺)
という3つの由緒ある寺院の合寺であることがわかりました。
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※ 令和3年12月時点で当山山内は撮影禁止となっています。
以下の写真は撮影禁止となる前に撮影したものです。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 坂東札所標
県道311号大町大路に面して参道入口。
「坂東第三番田代観音」の札所標と「浄土宗名越派根本霊場」の石標。
【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 名越派根本霊場碑
石段の先に切妻屋根本瓦葺の四脚門で、門下の木箱に拝観料を納めます。
山門をくぐって右手の地蔵堂は鎌倉二十四地蔵霊場第24番の結願所で、札所本尊の日切地蔵尊が御座します。
坐像の石像で弘法大師の御作とも伝わり、子安地蔵ともよばれたそうです。
【写真 上(左)】 地蔵堂
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
【写真 上(左)】 木鼻の獅子
【写真 下(右)】 鬼板と兎毛通
正面の本堂は権現造のような複雑な意匠で詳細不明。
向拝側の屋根に千鳥破風、向拝軒に唐破風の二重破風となっています。
軒下の水引虹梁両端に雲形の獅子木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いていますが全体にシンプルなイメージ
見上げには山号扁額。
【写真 上(左)】 山号扁額
【写真 下(右)】 堂内向拝
堂内の外陣には札所の御詠歌板などが掲げられています。
格子扉越しに御内陣が拝め、扉うえには院号扁額。
「坂東第三番」の札所だけに、さすがに風格があります。
【写真 上(左)】 院号扁額
【写真 下(右)】 坂東霊場札所板
御本尊の阿弥陀如来は伝・安阿彌作。観音霊場札所本尊の千手観世音菩薩は立像長五尺四寸で恵心作と伝わります。
本堂内には北条政子像も安置されています。
こちらは相州二十一ヶ所霊場第8番の札所で、御朱印も授与されています。
こちらの札所については小町の宝戒寺で書きますが、浄土宗でありながら弘法大師霊場の札所となっているのは、旧・長楽寺の開山・願行上人が真言宗醍醐派三宝院流であったことも関係しているかも。
このほか、本堂裏手にある(らしい)、尊観上人の墓で鎌倉最古と伝わる宝篋印塔(国重要文化財)、伝・北条政子の墓、尊観上人お手植えの槙の大木などのみどころがあります。
【写真 上(左)】 撮影禁止看板
【写真 下(右)】 山門から山内
5月のオオムラサキツツジが有名ですが、令和3年12月時点で山門内は撮影禁止となっています。
御朱印拝受時に理由をお伺いしたところ、カメラマンの振る舞いのあまりの酷さにたまりかねての処置とのこと。(当山は以前から三脚類使用禁止でした)
こちらは全国から巡拝者が訪れる坂東霊場札所。巡拝記念に撮影されたい向きも大勢いるのでは? と問い掛けたところ、申し訳なさそうに、たしかにその通りだが、山門外からの撮影は禁止していないのでそちらからの撮影を案内しているとのことでした。
とくに鎌倉の古寺では、にわか(?)カメラマンの傍若無人な撮影っぷりをよく目にしますが、そういうことを続けていくと撮影禁止のお寺さんがどんどん増えていきそうでとても残念です。
〔 御本尊・阿弥陀如来(六字御名号)の御朱印 〕
〔 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 鎌倉三十三観音霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 鎌倉二十四地蔵霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳(結願御朱印)
【写真 下(右)】 御朱印帳
〔 相州二十一ヶ所霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ ハナミズキ [PV Version] - 新垣結衣
■ Yuna Ito - Endless Story
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■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、始まりました。
今回も東日本、とくに伊豆と鎌倉がメイン舞台なので、関連する御朱印を随時ご紹介していきます。
最新記事→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
1.伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
伊豆は北条(北條)氏の本拠地で、この霊場には北条氏や源頼朝公ゆかりの寺院がいくつかあります。
2.鎌倉市の御朱印
鎌倉市内でいただける御朱印・御首題は、おそらくほとんど拝受したと思うので、こちらについても随時UPしていきます。
→ ■ 鎌倉市の御朱印
3.「鎌倉殿の御家人」ゆかりの御朱印
「13人」とは、足立遠元、安達盛長、大江広元、梶原景時、中原親能、二階堂行政、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三善康信、三浦義澄、和田義盛を指すそうです。
当初は「こちらの豪族ゆかりの寺社の御朱印も適宜ご紹介していきます。」と書きましたが、文官が多く意外にゆかりの寺院が少ないので、「鎌倉殿の御家人」とされている人物ゆかりの寺社についてもまとめてみます。
〔関連記事〕 → ■ 鎌倉殿の御家人
なお、頼朝公、北条政子とのゆかりがふかい伊豆山神社・伊豆山温泉については、→ こちら(〔 温泉地巡り 〕 伊豆山温泉)に書いています。
令和3年7月伊豆山土砂災害からの一日も早い復旧をお祈りいたします。
とりあえずランダムにUPし、あとでエリア別にまとめます。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
01.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮)
鎌倉市材木座
〔源頼朝公〕
02.巨徳山 北條寺
静岡県伊豆の国市
〔北條義時〕
03.(西御門)白旗神社
鎌倉市西御門
〔源頼朝公〕
04.天守君山 願成就院
静岡県伊豆の国市
〔北條時政〕
05.甘縄神明宮
鎌倉市長谷
〔源氏・安達盛長〕
06.清月山 元光院 金剛寺
埼玉県川島町
〔比企能員〕
07.慧日山 薬王院 寳泉寺
渋谷区東
〔常盤御前・源義経公〕
08.鷲峰山 覚園寺
鎌倉市二階堂
〔北条(北條)義時〕
09.高橋山 放光寺
山梨県甲州市
〔安田義定〕
10.粟船山 常楽寺
鎌倉市大船
〔北条(北條)泰時〕
11.萬年山 城願寺
神奈川県湯河原町
〔土肥實平〕
12.岩殿山 光明院 安楽寺
埼玉県吉見町
〔源範頼公〕
13.医王山 清光寺
北区豊島
〔豊島清元(清光)〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
14.稲荷山 東林寺
静岡県伊東市
〔工藤氏・伊東氏・曾我氏〕
15.葛見神社
静岡県伊東市
〔伊東氏〕
16.飯室山 大福寺
山梨県中央市
〔浅利冠者義遠(義成)〕
17.金色山 吉祥院 大悲願寺
東京都あきる野市
〔平山左衛門尉季重〕
18.古尾谷八幡神社/寳聚山 東漸寺 灌頂院
埼玉県川越市
〔源頼朝公・古尾谷氏〕
19.超越山 来迎院 西光寺
葛飾区四つ木
〔葛西三郎清重〕
20.龍ヶ崎鎮守 八坂神社
茨城県龍ヶ崎市
〔下河辺氏・下河辺四郎政義〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
21.冷水山 清浄土院 長徳寺
埼玉県川越市
〔仙波氏〕
22.阿毘盧山 密乗院 大日寺
千葉県千葉市稲毛区
〔千葉介常胤〕
23.和田(義盛)神社
静岡県富士市
〔和田太郎義盛〕
24.(羽根倉)浅間神社
埼玉県志木市
〔金子小太郎高範〕
25.瑠璃光山 薬師院 玉井寺
埼玉県熊谷市
〔玉井四郎資重/玉井氏〕
26.如意山 観音院 大輪寺
茨城県結城市
〔(小山七郎)結城朝光〕
27.宝林山 称念寺
静岡県河津町
〔河津三郎祐泰〕
28.慈眼山 無量院 萬福寺
大田区南馬込
〔梶原平三景時〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
28.慈眼山 無量院 萬福寺(つづき)
大田区南馬込
〔梶原平三景時〕
29.永劫山 華林院 慶元寺
世田谷区喜多見
〔江戸太郎重長〕
30.龍智山 毘廬遮那寺 常光院
埼玉県熊谷市
〔中条藤次家長〕
31.礒明山 松岸寺
群馬県安中市
〔佐々木三郎盛綱〕
32.勅使山 大光寺
埼玉県上里町
〔勅使河原三郎有直〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
33.金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺
栃木県足利市
〔足利上総介義兼〕
34.多福山 一乗院 大寳寺
鎌倉市大町
〔佐竹四郎秀義〕
35.萬徳山(梅田山) 梅林寺 明王院
足立区梅田
〔志田三郎先生義広〕
36.白山 東光寺
〔畠山次郎重忠〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
37.岩浦山 福寿寺
神奈川県三浦市
〔三浦平六義村〕
38.筑波山神社
茨城県つくば市
〔八田右衛門尉知家、八田太郎知重〕
39.大聖山 金剛寺
神奈川県秦野市
〔源実朝公〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7
40.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院
鎌倉市大町
〔北条政子〕
■ 源頼朝公ゆかりの寺社
1.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮) 〔源頼朝公〕
神奈川県鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇、神功皇后、比売神
康平六年(1063年)源頼義公が、前九年の役で奥州を鎮定され京に帰る帰途、鎌倉に立ち寄られこの地に源氏の守り神である京の石清水八幡宮の御祭神を勧請されて創祀と伝わります。
後に源頼朝公が現在の鶴岡八幡宮の地(小林郷北山)に社殿を遷してからは、「元八幡」とも呼ばれるようになりました。
鶴岡八幡宮には、由比若宮遥拝所があります。
【写真 上(左)】 由比若宮の社頭
【写真 下(右)】 由比若宮の拝殿
【写真 上(左)】 由比若宮遙拝所(鶴岡八幡宮境内)
【写真 下(右)】 由比若宮の御朱印
2.巨徳山 北條寺 〔北條義時〕
静岡県伊豆の国市南江間862-1
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
札所:伊豆八十八ヶ所霊場第13番、伊豆中道三十三観音霊場第16番、駿豆両国横道三十三観音霊場第8番、中伊豆観音札所第20番
源頼朝公の正室・北條政子の弟である北條義時(江間小四郎)が創建した寺院です。
義時の嫡子安千代が領内の大池で大蛇に襲われ命を落とした際に、この北條寺を墓所とし七堂伽藍を建立し、運慶に仏像を作らせたといいます。
御本尊の聖観世音菩薩は南北朝期の作とされ中国宋風の像容で県文化財に指定されています。鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が北條寺に奉納したとも伝わります。
境内の「小四郎山」と呼ばれる丘の上には、義時夫妻の墓所があります。
【写真 上(左)】 北條寺の山門
【写真 下(右)】 北條寺の本堂
【写真 上(左)】 北條寺本堂の扁額
【写真 下(右)】 北條寺の御朱印(伊豆八十八ヶ所霊場)
3.(西御門)白旗神社 〔源頼朝公〕
神奈川県鎌倉市西御門2-1-24
御祭神:源頼朝公
現在の源頼朝公墓所にあった法華堂がこの地に移され、江戸期まで鶴岡八幡宮二十五坊の一つ相承院が別当を勤めていましたが、明治の神仏分離令により白旗神社に改められたとされます。
源頼朝公墓所の尾根つづきに北条義時法華堂跡があり、こちらは『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記された地とみられています。
北条義時法華堂跡の山上に、大江広元の墓所があります。
【写真 上(左)】 (西御門)白旗神社
【写真 下(右)】 (西御門)白旗神社の御朱印
【写真 上(左)】 北条義時法華堂跡
【写真 下(右)】 大江広元の墓所
4.天守君山 願成就院 〔北條時政〕
静岡県伊豆の国市寺家83-1
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:伊豆中道三十三観音霊場第18番、中伊豆観音札所第18番
文治五年(1189年)、源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して北條時政公が建立したと伝わる中伊豆の名刹。
時政公建立の大御堂と南塔、二代執権北條義時公建立の南新御堂、三代執権北條泰時公建立の北條御堂と北塔など、北條氏三代にわたり伽藍が整えられました。
御本尊、阿弥陀如来をはじめとする大御堂安置の五仏は、数少ない運慶の真作として国宝に指定されています。
【写真 上(左)】 願成就院
【写真 下(右)】 御本尊阿弥陀如来の御朱印
【写真 上(左)】 不動明王の御朱印
【写真 下(右)】 毘沙門天の御朱印
5.甘縄神明宮 〔源氏・安達盛長〕
神奈川県鎌倉市長谷1ー12ー1
主祭神:天照大神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:甘縄院(臨済宗)
和銅三年(710年)行基の草創、染谷太郎太夫時忠の創建と伝わり、鎌倉最古のお社ともいわれます。
永保元年(1081年)源義家公が社殿を再建、以降も源頼朝公、政子の方、源実朝公などの崇敬が篤かったと伝わります。
また、源頼義公が相模守として下向の折に当宮に祈願し、八幡太郎義家公が生まれたとも伝えられ、源氏とつよい所縁をもちます。
社殿がある場所は安達盛長の屋敷跡とされています。
【写真 上(左)】 甘縄神明宮
【写真 下(右)】 甘縄神明宮の御朱印
6.清月山 元光院 金剛寺 〔比企能員〕
「鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡マップ」(PDF/川島町Web)
埼玉県川島町中山1198
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:武州八十八霊場第55番
比企能員は、息女・若狭局を二代将軍頼家公に嫁がせ、その子一幡が生まれてからは北条一門と対立して権勢を誇っていたものとみられています。
建仁二年(1203年)9月、比企氏の乱で北条方に破れ、比企能員は一族郎党とともに討死したと伝わります。
比企能員の舘は、埼玉県東松山市大谷付近にあったとされています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
比企能員の墓所は鎌倉の妙本寺にありますが、比企氏の末裔が天正(1573-1592年)の頃より当地一帯を舘とし比企左馬助則員が中興、金剛寺は比企氏の菩提寺となり比企氏歴代の墓所となっています。
山門と比企氏の位牌堂である金剛寺大日堂は、国の登録有形文化財に指定されています。
川島町Webによると、「比企地域9市町村(東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)と比企地域の各種関係団体は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映を契機として地域の活性化につなげようと、令和2年(2020年)12月に『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げ、大河ドラマが放映される令和4年(2022年)に向けてさまざまな取組を行っていきます。」とのことです。
【写真 上(左)】 大日堂
【写真 下(右)】 御朱印
7.慧日山 薬王院 寳泉寺 〔常盤御前・源義経公〕
天台宗東京教区Web
東京都渋谷区東2-6-16
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:関東九十一薬師霊場第12番、江戸西方三十三観音霊場第31番、弁財天百社参り番外6
渋谷と恵比寿の中間辺りに位置する都会のお寺さまで、御朱印で有名な氷川神社のすぐそばです。
御本尊は阿弥陀如来。平安中期から鎌倉の作とされる薬師如来像は、源義朝公の側室で義経公の母、常盤御前の守り佛(持彿)と伝わり「常盤薬師」としてふるくから信仰を集めています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額
このあたりはかつて「常磐松町」といいましたが、その由来となった松の古木は常盤御前が植えたという言い伝えがあるそうです。
このような都会の真ん中に常盤御前ゆかりの寺院があるとはちょっと驚きです。
「常盤薬師」は関東九十一薬師霊場第12番の札所本尊で、御朱印が授与されています。
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 「常盤薬師」の御朱印
8.鷲峰山 覚園寺 〔北条(北條)義時〕
公式Web
神奈川県鎌倉市二階堂421
真言宗泉涌寺派
御本尊:薬師如来
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第3番、相州二十一ヶ所霊場第3番、鎌倉十三仏霊場第13番(阿閃如来)
建保六年(1218年)、薬師如来の眷属・十二神将のうちの「戌神」(伐折羅大将)が北条義時の夢に現れ、これを受けて義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の草創とされます。
永仁四年(1296年)、九代執権北条貞時は外敵退散を祈念して、大倉薬師堂を正式の寺に改めた(覚園寺の創建)といいます
開基は北条貞時、開山は京・泉涌寺の智海心慧律師とされます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 大河ドラマ関連の掲示
現在は真言宗泉涌寺派となっていますが、当初は北京系律の本拠地で、律を中心に天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学の道場であったと伝わります。
元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が勅願寺とされ、足利氏も祈願所として保護した名刹です。
なお、入口正面の愛染堂と諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺(当初桃ヶ谷→薬師堂ヶ谷)から移されたものです。
御本尊、薬師如来のほか、3種の札所の御朱印を授与されています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御本尊の御朱印
※ その他の御朱印は■ 鎌倉市の御朱印でご紹介しています。
9.高橋山 放光寺 〔安田義定〕
公式Web
山梨県甲州市藤木2438
真言宗智山派
御本尊:金剛界大日如来
札所:甲斐百八霊場第8番、甲斐八十八ヶ所霊場第72番、甲州東郡七福神(大黒天)
「鎌倉殿の13人」には何度か甲斐源氏の武田信義が登場していますが、平家追討のなかで大きな役割を担った甲斐源氏のひとりに安田義定がいます。
安田義定は、甲斐源氏の祖とされる源義光(新羅三郎)公の孫源清光公の子(清光の父義清の子説もあり)という名流で、現在の山梨市を中心とした峡東一帯に勢力を張りました。
平家追討の令旨に応じて挙兵し、「富士川の戦い」などでの戦功により遠江国守護に任じられました。(『吾妻鏡』)
寿永二年(1183年)、平家追討使として東海道から上洛。大内裏守護として京中を守護し、同年8月には従五位下遠江守に叙任。
「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」と歴戦。とくに「一ノ谷の戦い」では、義経の搦め手軍を率いて奮戦、平経正、平師盛、平教経を討ち取ったと伝わります。
放光寺の公式Webには、『吾妻鏡』による平家追討軍の編成は「大手の大将範頼軍には武田有義、小山朝政、下河辺行平、千葉常胤、梶原景時ほか五万六千余騎、搦手の大将義経軍には安田義定、大内惟義、土肥宗平、三浦義連、熊谷直実以下二万余騎とあり」とし、「甲斐源氏の中では安田義定と武田有義が副大将として活躍」とあります。
また、建久二年(1191年)の鶴岡八幡宮法会では、頼朝公御供の筆頭に義定の名がみられ、頼朝公配下のなかでもすこぶる高い地位を占めていたことがわかります。
建久四年(1193年)、義定の子、安田義資が罪を得て斬られ、義定の所領も没収。
翌建久五年(1194年)には義定みずからが謀反の疑いをうけ、放光寺にて自刃と伝わります。
【写真 上(左)】 放光寺本堂
【写真 下(右)】 天弓愛染明王の御朱印
この当時の甲斐源氏には、武田信義、安田義定、一条忠頼らの有力武将がおり、「富士川の戦い」の主力は甲斐源氏であったともみられています。
しかし、安田義定は謀反の疑いで自刃、一条忠頼も鎌倉にて酒宴の最中に暗殺、武田信義の子逸見有義は頼朝公から疎まれ、同じく信義の子板垣兼信は違勅の罪を問われて配流されるなど、次々と失脚していきました。
また、小笠原長清の兄の秋山光朝は京で平重盛に仕え重盛の息女を娶ったため、甲斐国内の本拠地を頼朝公に攻められ自害したと伝わります。
当時の甲斐源氏は頼朝公も御せないほどの強大な勢力があり、武家の頭領としての地位を確立するために、頼朝公が甲斐源氏の力を削いでいったという見方が有力です。
頼朝公は八幡太郎義家公の流れ、甲斐源氏は新羅三郎義光公の流れで、たしかに嫡流系は頼朝公ですが、それをいえば源満仲公の長子は源頼光公で、その流れの多田源氏、摂津源氏などが清和源氏の嫡流筋にあたります。
しかし多田源氏の多田行綱は勢力を張れず没落、摂津源氏の土岐光衡も鎌倉殿の御家人に収まっているので、やはり武家の統領としての八幡太郎義家公とその流れの頼朝公の声望が高かったものとみられます。
以降、甲斐源氏では武田氏宗家となった信光の流れと信義の弟加賀美遠光から小笠原氏、南部氏が出て、以降勢力を張りました。
小笠原氏、南部氏は江戸時代も大名家として存続しています。(大和郡山藩の柳沢氏、新発田藩主の溝口氏、松前藩主の松前(蠣崎)氏なども甲斐源氏の末裔を称しています。)
放光寺は元暦元年(1184年)、安田義定が「一ノ谷の戦い」の戦勝を記念して創立したと伝わる、甲斐を代表する名刹です。
詳細およびその他の御朱印は■ Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印をご覧ください。
10.粟船山 常楽寺 〔北条(北條)泰時〕
鎌倉市観光協会Web
神奈川県鎌倉市大船5-8-29
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀三尊
札所:-
北条義時の子で、名君として知られる三代執権北条泰時の創建とされる名刹です。
鎌倉市には、鎌倉七口(八口)の外のエリアにも高い格式を誇る名刹がいくつかあって、こちらもそのひとつです。
嘉禎三年(1237年)、北条泰時が義母の供養のために建てた「粟船御堂」(あわふねみどう)が草創とされ、常楽寺の寺号は泰時の法名にちなむものとされます。
開山は退耕行勇、開基は北条泰時。
建長寺開山の蘭渓道隆が建長寺の建立まで当寺に住待され、「常楽は建長の根本なり」といわれて、臨済宗建長寺派において高い格式をもちます。
仏殿には蘭渓道隆像が安置されています。
【写真 上(左)】 常楽寺
【写真 下(右)】 常楽寺の御朱印
仏殿は、元禄四年(1691年)建立の小形禅宗様で県指定重要文化財、鎌倉期作とされる木造文殊菩薩坐像も県指定重要文化財。
御本尊の阿弥陀如来像、山門は市の指定文化財。梵鐘は建長寺・円覚寺の梵鐘とともに「鎌倉三名鐘」に数えられ、国の重要文化財に指定されるなど文化財の宝庫です。
仏殿背後には北条泰時の墓があり、裏山には清水冠者(木曽義高)の墓と伝わる塚「木曽塚」があります。
清水冠者は木曽義仲の子で、源頼朝公の長女・大姫の婿の名目で鎌倉に入りましたが、父・義仲が粟津の戦いで討たれたのちは微妙な立場となり、鎌倉を脱出したところを入間河原であえなく討たれました。没年12歳と伝わります。
御朱印は、御本尊の阿弥陀三尊ではなく、蘭渓道隆ゆかりとされる文殊菩薩のものが授与されています。
11.萬年山 城願寺 〔土肥實平〕
公式Web
神奈川県湯河原町城堀252
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:-
土肥氏は、相模国の有力豪族中村氏の流れで桓武平氏良文流。足下郡・土肥郷(早川庄)(現在の湯河原、真鶴、早川周辺)を本拠として勢力を張りました。
鎌倉幕府草創期の当主は土肥實平で、東国武士のあいだで人望があり、『曽我物語』で有名な伊豆奥野の狩場での河津祐泰と俣野景久のいさかいの際に、仲裁に入ったと伝わります。
治承四年(1180年)、頼朝公挙兵の際には嫡子遠平をはじめ中村一族を率いて参じ、石橋山の敗戦から安房落ちの際にも頼朝公につき従ったとされます。
以降も一貫して頼朝公を支えて公の信任篤く、奥州から参陣した義経公を取り次ぎ、平家方から頼朝公に降った梶原景時をとりなしたのも實平という説があります。
養和元年(1181年)の鶴岡八幡宮の造営にあたっては奉行をつとめています。
源平合戦では宇治川の戦い、大江山守護、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いと歴戦し、一ノ谷の戦いののちには吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(のちに長門・周防を加える)に補任と伝わります。
建久元年(1190年)の頼朝公上洛の際には、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、公側近の重職の地位を占めていたことがわかります。
以降子孫は繁栄し、相模土肥氏の祖とされています。
なお、戦国期「毛利両川」の小早川氏は、實平の子・遠平が土肥郷の小早川に拠り小早川を称し、平家討伐の恩賞として安芸国沼田荘の地頭職を拝領して土着、以降この地で勢力を伸ばしたものとされています。
實平の居舘は城願寺のあたりとされ、寺伝(城願寺公式Web)には「實平が、萬年の世までも家運が栄えるように「萬年山」と号して持仏堂を整えたことから城願寺の歴史は始まる。」とあります。
草創は實平。以来、城願寺は土肥一族の菩提寺となっています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額
もともとは密寺でしたが臨済宗に改め萬年山成願寺として勧請開山、五山十刹につぐ諸山に定められ、戦国期の再興(重興開山)で曹洞宗に改め、城願寺と号して現在に至ります。
湯河原と土肥一族とのゆかりは深く、毎年春には「土肥祭」が催され、城願寺でも式典が催されます。
御本尊は聖観世音菩薩。
公式Webには「寺院が禅宗に改宗する場合には、以前の本尊をそのまま受け継いでも構わないとされることも多く、或いは創建時そのままの御本尊様かもしれません。」とあります。
このような例は、伊豆の寺院にとくに多くみられます。→■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 上(左)】 七騎堂
【写真 下(右)】 城願寺の御朱印
土肥実平・遠平像(湯河原町指定文化財)を所蔵し、實平をはじめとする土肥一族の墓所や、石橋山の戦いで頼朝公とともに落ちのびた七騎を祀る七騎堂があります。
ちなみに、「七騎」とは、源頼朝公、土肥實平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、田代信綱、新開忠氏をさすようです。(→出典:『観光かながわNOW』)
→ 境内360度画像(公式Web)
湯河原の高台にあり、落ち着いたたたずまい。
實平手植えと伝わるビャクシンは樹齢800年を越え、国の天然記念物に指定されています。
御朱印は御本尊の聖観世音菩薩(観自在菩薩)のものが授与されています。
→ ■ 湯河原温泉「中屋旅館」の入湯レポ
→ ■ 湯河原温泉「若草荘」の入湯レポ
12.岩殿山 光明院 安楽寺 〔源範頼公〕
公式Web
埼玉県吉見町御所374
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第11番、関東八十八箇所第75番、武州路十二支霊場(申・金剛界大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場第17番、中武蔵七十二薬師霊場第62番、武州八十八霊場第36番
源範頼公は源義朝公の子(六男と伝わる)で、頼朝公の異母弟、義経公の異母兄です。
『尊卑分脈』では生母は遠江国池田宿の遊女とされていますが、池田宿周辺の然るべき家の娘という説もあります。
江国蒲御厨(現在の浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも称されました。
後白河法皇の近臣、従二位・式部権少輔藤原範季に養育され、その縁から「範頼」を名乗ったとされます。
兄・頼朝公への合流時期は明確ではないようで、当初は安田義定など甲斐源氏との交流が深かったとの見方もあります。
また、寿永二年(1183年)、常陸国の志田義広と下野国の小山氏の野木宮合戦に参戦の記録が残っています。
寿永三年(1184年)、頼朝公の代官として源義仲追討の大将軍となり上洛、義経公の軍勢に合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。
以降、平家追討の大手軍の大将として一ノ谷の戦い、九州進軍の率将としても勝利し、以降も義経軍と別働しつつ大手軍の大将として諸戦を戦い、壇ノ浦で平氏追討を成しました。
義経公の活躍があまりに華々しいため脇役に回っているきらいもありますが、大手軍の大将として個性の強い鎌倉武士をまとめ、戦を勝利に導いた手腕を評価する見方も少なくありません。
義経軍の進軍にくらべ範頼軍の動きが遅かったことは事実のようで、これをもって範頼公を凡将とみなす説もありますが、中世、華々しい戦さぶりを展開したのはたいてい動きの軽い別働隊や搦手軍で、これをもって範頼公を凡将とすることに疑問を呈する向きもあります。
また、大手の範頼軍の安定した働きあればこそ、搦手の義経軍の奇襲が奏功したという見方もあります。
独断専行が目立った義経公に対し、頼朝公への報告を怠らなかった範頼公は平家追討後も鎌倉での立場を保ち、文治五年(1189年)の奥州合戦には頼朝公に従い参戦。建久元年(1190年)11月にも頼朝公に従い上洛しています。
しかし、その後次第に頼朝公との関係は微妙なものとなり、建久四年(1193年)8月、範頼公は頼朝公に対して忠誠を誓う起請文を差し出すものの、頼朝公は状中で「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責め、範頼公は伊豆国に流され、修禅寺に幽閉されました。
その後の消息については不明とする説が有力です。
範頼公は頼朝公に対して公然と反旗を翻したわけでもなく、「源範頼」を名乗る資格も名分もある筈です。
にもかかわらずの伊豆への配流は、独裁色をつよめる頼朝公にとって異母兄弟の存在じたいが危険なものとして映った結果かもしれません。
実際、頼朝公の実弟で源平合戦の功労者でもある範頼公でさえ、対応を誤ればたちまち立場を失うという事実は、鎌倉御家人たちを震え上がらせたものと思われます。
範頼公の配流は、あるいはこのような効果を狙っての政治的な動きだったのかもしれません。
範頼公の墓所は伊豆・修善寺にあります。
伊豆配流後の範頼公の消息が不明なため、範頼公にはいくつかの配流伝説が残りますが、範頼公ゆかりの寺院は多くはありません。
【写真 上(左)】 安楽寺参道と山門内湯
【写真 下(右)】 範頼公旧跡を示す寺号標
吉見の吉見観音・安楽寺は、範頼公とのゆかりが明示されている貴重な例のひとつです。
武蔵国横見郡(現埼玉県吉見町)の吉見観音への隠住説は範頼公配流伝説のひとつで、吉見観音周辺の大字”御所”は貴人の居住地をあらわし、範頼公にちなむものと伝わります。
これとは別に、吉見は範頼公の妻の祖母で、頼朝公の乳母でもある比企尼の居所に近いので、この縁により移り住み、その子孫は吉見氏として続いたという説もあります。
範頼公の妻は安達盛長の息女で、頼朝公の乳母を務めた比企尼の長女丹後内侍の子です。
安達盛長の館は吉見にもほど近い現・鴻巣市糠田とされていますから、安達盛長の壻となった縁で吉見に所領を得たのかもしれません。
範頼公の次男範圓と三男源昭は外曾祖母の比企尼から吉見庄を分与され、範圓の子為頼が吉見を名字とした、という説もあります。
【写真 上(左)】 安楽寺山内
【写真 下(右)】 「比企一族と武蔵武士ゆかりの地」のポスター
安楽寺の公式Webには「平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500メートルには『伝範頼館跡』と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。」とあり、吉見御所への範頼公の居住は配流後ではなく、幼少期であるとしています。
範頼公が『吾妻鏡』に登場するのは30歳すこし前で、それ以前、とくに幼少期ははっきりしないことが多いので、幼少期吉見居住説が出てくるのだと思います。
【写真 上(左)】 息障院山門
【写真 下(右)】 息障院本堂
吉見の名刹・息障院は「伝範頼館跡」とされ、吉見町の公式Webには「息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。」とあります。
【写真 上(左)】 安楽寺本堂向拝
【写真 下(右)】 安楽寺本堂扁額
比企市町村推進協議会企画の「鎌倉殿の13人」資料には、「息障院と安楽寺はかつては一つの大寺院を形成していたことが知られています。当時、息障院には多くの御堂がありましたが、その一つの観音堂が現在の安楽寺になったと伝わります。」とあります。
なお、安楽寺、息障院ともに創建・開基は天平年中(730年頃)の行基菩薩、あるいは大同元年(806年)の坂上田村麻呂と伝わり、鎌倉幕府草創のはるか以前です。
範頼公の記事だけで長くなりましたので、安楽寺山内のご案内は省略です。
メジャーな坂東霊場の札所、パワスポとしても知られており関連情報はWeb上でたくさんみつかるので、そちらをご覧ください。(と逃げる・・・(笑))
山門下の寺号標側面には「蒲冠者 源 範頼 旧蹟」と刻まれています。
また、山内の三重塔の説明書には「鎌倉時代に源範頼は十六丈の三重大塔と二十五間四面の大講堂を建立し、非常に壮大であったと伝えられております。しかし天文年間に松山城の落城に際してこれらの大伽藍もことごとく焼失いたしました。」とあります。
【写真 上(左)】 三重塔
【写真 下(右)】 御開帳時の薬師堂
安楽寺は複数の現役霊場の札所を兼ねられ、数種の御朱印が授与されています。
うち、中武蔵七十二薬師霊場第62番の御朱印は、12年に一度の寅年御開帳時(本年令和4年4月7日~13日)のみの授与とみられます。
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 関東八十八箇所の御朱印
【写真 上(左)】 武州路十二支霊場(申・金剛界大日如来)の御朱印
【写真 下(右)】 中武蔵七十二薬師霊場の御朱印
東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印
13.医王山 清光寺 〔豊島清元(清光)〕
東京都北区豊島7-31-7
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第79番、荒川辺八十八ヶ所霊場第18番、豊島七佛第1番(不動明王)、第2番(釈迦如来)
豊島氏は武蔵国の名族で、桓武平氏の平良文の孫の平(秩父)将常の次男秩父武常が治安三年(1023年)の戦功により武蔵国豊島郡を賜り、豊島氏を称したことにはじまるとされます。
いわゆる「坂東八平氏」の流れです。
発祥は現在の北区豊島、平塚神社が豊島舘跡と伝わります。
鎌倉幕府草創期の当主は豊島清元(清光とも、以下清光と記します)で、子の清重とともに隅田川で頼朝軍に参陣し、御家人の列に加わりました。
清光の三男清重は葛西御厨を継いで葛西氏の祖となり、清重は平家追討で範頼軍に加わり九州で武功をあげています。
有経が豊島氏を継ぎ紀伊守護人に任ぜられ、子(?)の朝経は土佐守護に任じられて各地で勢力を張りました。
豊島武常は源頼義公・義家公に従って奥州で戦死しており、累代の源氏の家人の立ち位置で、豊島清光に対する頼朝公の信頼は厚かったとされます。
豊島舘跡とされる平塚神社の御祭神は源義家公、義綱公、義光公。
後三年の役の帰路、源義家公、義綱公、義光公の三兄弟がこの豊島館に逗留して豊島近義にもてなしを受け、義家公は鎧一領と十一面観音像を豊島氏に下賜され、後にこの鎧を本尊として塚を築き埋めたのが創祀とも伝わります。
豊島一族と源氏のつながりの深さを伝える由緒といえましょう。
豊島清光は行基菩薩ゆかりのふたつの霊場に深い関係をもち、武蔵国の仏教(霊場)を語るうえで重要な役柄です。
行基菩薩は奈良時代の人、豊島清光は鎌倉幕府草創期の人でそもそも時代が合いませんが、とにかくそういうことになっています。
1.豊島七佛
清光が、行基菩薩の東国布教の際に彫ってもらった七体の仏像が安置される寺院を巡る霊場。
2.江戸六阿弥陀
行基作の阿弥陀佛を巡る江戸時代の代表的な女人霊場。霊場縁起に「豊島左衛門尉清光」が登場します。
→ ■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~
清光の二男清康ないし娘は荒川で命を落としており、その供養のためにいくつかの寺院の開創にかかわっている可能性があります。
江戸六阿弥陀第1番の西福寺は豊嶋左衛門清光の創建とされ、『新編武蔵風土記稿』には「豊嶋左衛門清光、(略)一人の女子を産す、(略)彼女私に逃れ荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか(以下略)」との記載があります。
【写真 上(左)】 平塚神社の御朱印
【写真 下(右)】 西福寺の江戸六阿弥陀如来第1番目の御朱印
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ここでは清光の館跡ともいわれ、清元が開基し、僧形の清元の木像が残る医王山 清光寺(東京都北区)をご紹介します。
清光寺は豊島清光の開基(父の康家とも)と伝わり、戦国時代末期の豊島明重により再興とされる真言宗豊山派の寺院です。
【写真 上(左)】 清光寺の山門
【写真 下(右)】 清光寺の本堂
山内の説明書には「豊島清光は、その子葛西清重とともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で『吾妻鏡』などにもその名が見えます。またこの地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や(中略)この寺は、豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。」とあり、豊島七佛や江戸六阿弥陀との関係を示唆しています。
かつては大寺であったと推定される古刹で、山門・本堂ともがっしりした本瓦葺きであることから、寺格の高さがうかがわれます。
【写真 上(左)】 清光寺の向拝
【写真 下(右)】 清光寺の御朱印(豊島八十八ヶ所)
御本尊の不動明王、および釈迦堂の釈迦如来は行基作とされ、豊島七佛に数えられています。
当寺所蔵の豊島清光像は江戸時代の作で、北区指定文化財です。
御朱印は、現役霊場と目される豊島八十八ヶ所のものが授与されています。
→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2へつづく。
〔 関連記事 〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ I.G.Y. - Donald Fagen
■ Oh Yeah! - Roxy Music
■ Our Love - Michael McDonald
■ Isn't It Time - Boz Scaggs
■ Both Sides Now - Marc Jordan
今回も東日本、とくに伊豆と鎌倉がメイン舞台なので、関連する御朱印を随時ご紹介していきます。
最新記事→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
1.伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
伊豆は北条(北條)氏の本拠地で、この霊場には北条氏や源頼朝公ゆかりの寺院がいくつかあります。
2.鎌倉市の御朱印
鎌倉市内でいただける御朱印・御首題は、おそらくほとんど拝受したと思うので、こちらについても随時UPしていきます。
→ ■ 鎌倉市の御朱印
3.「鎌倉殿の御家人」ゆかりの御朱印
「13人」とは、足立遠元、安達盛長、大江広元、梶原景時、中原親能、二階堂行政、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三善康信、三浦義澄、和田義盛を指すそうです。
当初は「こちらの豪族ゆかりの寺社の御朱印も適宜ご紹介していきます。」と書きましたが、文官が多く意外にゆかりの寺院が少ないので、「鎌倉殿の御家人」とされている人物ゆかりの寺社についてもまとめてみます。
〔関連記事〕 → ■ 鎌倉殿の御家人
なお、頼朝公、北条政子とのゆかりがふかい伊豆山神社・伊豆山温泉については、→ こちら(〔 温泉地巡り 〕 伊豆山温泉)に書いています。
令和3年7月伊豆山土砂災害からの一日も早い復旧をお祈りいたします。
とりあえずランダムにUPし、あとでエリア別にまとめます。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
01.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮)
鎌倉市材木座
〔源頼朝公〕
02.巨徳山 北條寺
静岡県伊豆の国市
〔北條義時〕
03.(西御門)白旗神社
鎌倉市西御門
〔源頼朝公〕
04.天守君山 願成就院
静岡県伊豆の国市
〔北條時政〕
05.甘縄神明宮
鎌倉市長谷
〔源氏・安達盛長〕
06.清月山 元光院 金剛寺
埼玉県川島町
〔比企能員〕
07.慧日山 薬王院 寳泉寺
渋谷区東
〔常盤御前・源義経公〕
08.鷲峰山 覚園寺
鎌倉市二階堂
〔北条(北條)義時〕
09.高橋山 放光寺
山梨県甲州市
〔安田義定〕
10.粟船山 常楽寺
鎌倉市大船
〔北条(北條)泰時〕
11.萬年山 城願寺
神奈川県湯河原町
〔土肥實平〕
12.岩殿山 光明院 安楽寺
埼玉県吉見町
〔源範頼公〕
13.医王山 清光寺
北区豊島
〔豊島清元(清光)〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
14.稲荷山 東林寺
静岡県伊東市
〔工藤氏・伊東氏・曾我氏〕
15.葛見神社
静岡県伊東市
〔伊東氏〕
16.飯室山 大福寺
山梨県中央市
〔浅利冠者義遠(義成)〕
17.金色山 吉祥院 大悲願寺
東京都あきる野市
〔平山左衛門尉季重〕
18.古尾谷八幡神社/寳聚山 東漸寺 灌頂院
埼玉県川越市
〔源頼朝公・古尾谷氏〕
19.超越山 来迎院 西光寺
葛飾区四つ木
〔葛西三郎清重〕
20.龍ヶ崎鎮守 八坂神社
茨城県龍ヶ崎市
〔下河辺氏・下河辺四郎政義〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
21.冷水山 清浄土院 長徳寺
埼玉県川越市
〔仙波氏〕
22.阿毘盧山 密乗院 大日寺
千葉県千葉市稲毛区
〔千葉介常胤〕
23.和田(義盛)神社
静岡県富士市
〔和田太郎義盛〕
24.(羽根倉)浅間神社
埼玉県志木市
〔金子小太郎高範〕
25.瑠璃光山 薬師院 玉井寺
埼玉県熊谷市
〔玉井四郎資重/玉井氏〕
26.如意山 観音院 大輪寺
茨城県結城市
〔(小山七郎)結城朝光〕
27.宝林山 称念寺
静岡県河津町
〔河津三郎祐泰〕
28.慈眼山 無量院 萬福寺
大田区南馬込
〔梶原平三景時〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
28.慈眼山 無量院 萬福寺(つづき)
大田区南馬込
〔梶原平三景時〕
29.永劫山 華林院 慶元寺
世田谷区喜多見
〔江戸太郎重長〕
30.龍智山 毘廬遮那寺 常光院
埼玉県熊谷市
〔中条藤次家長〕
31.礒明山 松岸寺
群馬県安中市
〔佐々木三郎盛綱〕
32.勅使山 大光寺
埼玉県上里町
〔勅使河原三郎有直〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
33.金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺
栃木県足利市
〔足利上総介義兼〕
34.多福山 一乗院 大寳寺
鎌倉市大町
〔佐竹四郎秀義〕
35.萬徳山(梅田山) 梅林寺 明王院
足立区梅田
〔志田三郎先生義広〕
36.白山 東光寺
〔畠山次郎重忠〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
37.岩浦山 福寿寺
神奈川県三浦市
〔三浦平六義村〕
38.筑波山神社
茨城県つくば市
〔八田右衛門尉知家、八田太郎知重〕
39.大聖山 金剛寺
神奈川県秦野市
〔源実朝公〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-7
40.祇園山 田代寺(長楽寺) 安養院
鎌倉市大町
〔北条政子〕
■ 源頼朝公ゆかりの寺社
1.由比若宮(鶴岡八幡宮元宮・元鶴岡八幡宮) 〔源頼朝公〕
神奈川県鎌倉市材木座1-7
御祭神:応神天皇、神功皇后、比売神
康平六年(1063年)源頼義公が、前九年の役で奥州を鎮定され京に帰る帰途、鎌倉に立ち寄られこの地に源氏の守り神である京の石清水八幡宮の御祭神を勧請されて創祀と伝わります。
後に源頼朝公が現在の鶴岡八幡宮の地(小林郷北山)に社殿を遷してからは、「元八幡」とも呼ばれるようになりました。
鶴岡八幡宮には、由比若宮遥拝所があります。
【写真 上(左)】 由比若宮の社頭
【写真 下(右)】 由比若宮の拝殿
【写真 上(左)】 由比若宮遙拝所(鶴岡八幡宮境内)
【写真 下(右)】 由比若宮の御朱印
2.巨徳山 北條寺 〔北條義時〕
静岡県伊豆の国市南江間862-1
臨済宗建長寺派
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:聖観世音菩薩
札所:伊豆八十八ヶ所霊場第13番、伊豆中道三十三観音霊場第16番、駿豆両国横道三十三観音霊場第8番、中伊豆観音札所第20番
源頼朝公の正室・北條政子の弟である北條義時(江間小四郎)が創建した寺院です。
義時の嫡子安千代が領内の大池で大蛇に襲われ命を落とした際に、この北條寺を墓所とし七堂伽藍を建立し、運慶に仏像を作らせたといいます。
御本尊の聖観世音菩薩は南北朝期の作とされ中国宋風の像容で県文化財に指定されています。鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が北條寺に奉納したとも伝わります。
境内の「小四郎山」と呼ばれる丘の上には、義時夫妻の墓所があります。
【写真 上(左)】 北條寺の山門
【写真 下(右)】 北條寺の本堂
【写真 上(左)】 北條寺本堂の扁額
【写真 下(右)】 北條寺の御朱印(伊豆八十八ヶ所霊場)
3.(西御門)白旗神社 〔源頼朝公〕
神奈川県鎌倉市西御門2-1-24
御祭神:源頼朝公
現在の源頼朝公墓所にあった法華堂がこの地に移され、江戸期まで鶴岡八幡宮二十五坊の一つ相承院が別当を勤めていましたが、明治の神仏分離令により白旗神社に改められたとされます。
源頼朝公墓所の尾根つづきに北条義時法華堂跡があり、こちらは『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」と記された地とみられています。
北条義時法華堂跡の山上に、大江広元の墓所があります。
【写真 上(左)】 (西御門)白旗神社
【写真 下(右)】 (西御門)白旗神社の御朱印
【写真 上(左)】 北条義時法華堂跡
【写真 下(右)】 大江広元の墓所
4.天守君山 願成就院 〔北條時政〕
静岡県伊豆の国市寺家83-1
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:伊豆中道三十三観音霊場第18番、中伊豆観音札所第18番
文治五年(1189年)、源頼朝公の奥州藤原氏征討の戦勝を祈願して北條時政公が建立したと伝わる中伊豆の名刹。
時政公建立の大御堂と南塔、二代執権北條義時公建立の南新御堂、三代執権北條泰時公建立の北條御堂と北塔など、北條氏三代にわたり伽藍が整えられました。
御本尊、阿弥陀如来をはじめとする大御堂安置の五仏は、数少ない運慶の真作として国宝に指定されています。
【写真 上(左)】 願成就院
【写真 下(右)】 御本尊阿弥陀如来の御朱印
【写真 上(左)】 不動明王の御朱印
【写真 下(右)】 毘沙門天の御朱印
5.甘縄神明宮 〔源氏・安達盛長〕
神奈川県鎌倉市長谷1ー12ー1
主祭神:天照大神
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社
元別当:甘縄院(臨済宗)
和銅三年(710年)行基の草創、染谷太郎太夫時忠の創建と伝わり、鎌倉最古のお社ともいわれます。
永保元年(1081年)源義家公が社殿を再建、以降も源頼朝公、政子の方、源実朝公などの崇敬が篤かったと伝わります。
また、源頼義公が相模守として下向の折に当宮に祈願し、八幡太郎義家公が生まれたとも伝えられ、源氏とつよい所縁をもちます。
社殿がある場所は安達盛長の屋敷跡とされています。
【写真 上(左)】 甘縄神明宮
【写真 下(右)】 甘縄神明宮の御朱印
6.清月山 元光院 金剛寺 〔比企能員〕
「鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡マップ」(PDF/川島町Web)
埼玉県川島町中山1198
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所:武州八十八霊場第55番
比企能員は、息女・若狭局を二代将軍頼家公に嫁がせ、その子一幡が生まれてからは北条一門と対立して権勢を誇っていたものとみられています。
建仁二年(1203年)9月、比企氏の乱で北条方に破れ、比企能員は一族郎党とともに討死したと伝わります。
比企能員の舘は、埼玉県東松山市大谷付近にあったとされています。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 本堂
比企能員の墓所は鎌倉の妙本寺にありますが、比企氏の末裔が天正(1573-1592年)の頃より当地一帯を舘とし比企左馬助則員が中興、金剛寺は比企氏の菩提寺となり比企氏歴代の墓所となっています。
山門と比企氏の位牌堂である金剛寺大日堂は、国の登録有形文化財に指定されています。
川島町Webによると、「比企地域9市町村(東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)と比企地域の各種関係団体は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映を契機として地域の活性化につなげようと、令和2年(2020年)12月に『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げ、大河ドラマが放映される令和4年(2022年)に向けてさまざまな取組を行っていきます。」とのことです。
【写真 上(左)】 大日堂
【写真 下(右)】 御朱印
7.慧日山 薬王院 寳泉寺 〔常盤御前・源義経公〕
天台宗東京教区Web
東京都渋谷区東2-6-16
天台宗
御本尊:阿弥陀如来
札所:関東九十一薬師霊場第12番、江戸西方三十三観音霊場第31番、弁財天百社参り番外6
渋谷と恵比寿の中間辺りに位置する都会のお寺さまで、御朱印で有名な氷川神社のすぐそばです。
御本尊は阿弥陀如来。平安中期から鎌倉の作とされる薬師如来像は、源義朝公の側室で義経公の母、常盤御前の守り佛(持彿)と伝わり「常盤薬師」としてふるくから信仰を集めています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額
このあたりはかつて「常磐松町」といいましたが、その由来となった松の古木は常盤御前が植えたという言い伝えがあるそうです。
このような都会の真ん中に常盤御前ゆかりの寺院があるとはちょっと驚きです。
「常盤薬師」は関東九十一薬師霊場第12番の札所本尊で、御朱印が授与されています。
【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 「常盤薬師」の御朱印
8.鷲峰山 覚園寺 〔北条(北條)義時〕
公式Web
神奈川県鎌倉市二階堂421
真言宗泉涌寺派
御本尊:薬師如来
札所:鎌倉二十四地蔵霊場第3番、相州二十一ヶ所霊場第3番、鎌倉十三仏霊場第13番(阿閃如来)
建保六年(1218年)、薬師如来の眷属・十二神将のうちの「戌神」(伐折羅大将)が北条義時の夢に現れ、これを受けて義時が建立した大倉薬師堂が覚園寺の草創とされます。
永仁四年(1296年)、九代執権北条貞時は外敵退散を祈念して、大倉薬師堂を正式の寺に改めた(覚園寺の創建)といいます
開基は北条貞時、開山は京・泉涌寺の智海心慧律師とされます。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 大河ドラマ関連の掲示
現在は真言宗泉涌寺派となっていますが、当初は北京系律の本拠地で、律を中心に天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学の道場であったと伝わります。
元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が勅願寺とされ、足利氏も祈願所として保護した名刹です。
なお、入口正面の愛染堂と諸仏は、明治初年に廃寺となった大楽寺(当初桃ヶ谷→薬師堂ヶ谷)から移されたものです。
御本尊、薬師如来のほか、3種の札所の御朱印を授与されています。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御本尊の御朱印
※ その他の御朱印は■ 鎌倉市の御朱印でご紹介しています。
9.高橋山 放光寺 〔安田義定〕
公式Web
山梨県甲州市藤木2438
真言宗智山派
御本尊:金剛界大日如来
札所:甲斐百八霊場第8番、甲斐八十八ヶ所霊場第72番、甲州東郡七福神(大黒天)
「鎌倉殿の13人」には何度か甲斐源氏の武田信義が登場していますが、平家追討のなかで大きな役割を担った甲斐源氏のひとりに安田義定がいます。
安田義定は、甲斐源氏の祖とされる源義光(新羅三郎)公の孫源清光公の子(清光の父義清の子説もあり)という名流で、現在の山梨市を中心とした峡東一帯に勢力を張りました。
平家追討の令旨に応じて挙兵し、「富士川の戦い」などでの戦功により遠江国守護に任じられました。(『吾妻鏡』)
寿永二年(1183年)、平家追討使として東海道から上洛。大内裏守護として京中を守護し、同年8月には従五位下遠江守に叙任。
「宇治川の戦い」、「一ノ谷の戦い」と歴戦。とくに「一ノ谷の戦い」では、義経の搦め手軍を率いて奮戦、平経正、平師盛、平教経を討ち取ったと伝わります。
放光寺の公式Webには、『吾妻鏡』による平家追討軍の編成は「大手の大将範頼軍には武田有義、小山朝政、下河辺行平、千葉常胤、梶原景時ほか五万六千余騎、搦手の大将義経軍には安田義定、大内惟義、土肥宗平、三浦義連、熊谷直実以下二万余騎とあり」とし、「甲斐源氏の中では安田義定と武田有義が副大将として活躍」とあります。
また、建久二年(1191年)の鶴岡八幡宮法会では、頼朝公御供の筆頭に義定の名がみられ、頼朝公配下のなかでもすこぶる高い地位を占めていたことがわかります。
建久四年(1193年)、義定の子、安田義資が罪を得て斬られ、義定の所領も没収。
翌建久五年(1194年)には義定みずからが謀反の疑いをうけ、放光寺にて自刃と伝わります。
【写真 上(左)】 放光寺本堂
【写真 下(右)】 天弓愛染明王の御朱印
この当時の甲斐源氏には、武田信義、安田義定、一条忠頼らの有力武将がおり、「富士川の戦い」の主力は甲斐源氏であったともみられています。
しかし、安田義定は謀反の疑いで自刃、一条忠頼も鎌倉にて酒宴の最中に暗殺、武田信義の子逸見有義は頼朝公から疎まれ、同じく信義の子板垣兼信は違勅の罪を問われて配流されるなど、次々と失脚していきました。
また、小笠原長清の兄の秋山光朝は京で平重盛に仕え重盛の息女を娶ったため、甲斐国内の本拠地を頼朝公に攻められ自害したと伝わります。
当時の甲斐源氏は頼朝公も御せないほどの強大な勢力があり、武家の頭領としての地位を確立するために、頼朝公が甲斐源氏の力を削いでいったという見方が有力です。
頼朝公は八幡太郎義家公の流れ、甲斐源氏は新羅三郎義光公の流れで、たしかに嫡流系は頼朝公ですが、それをいえば源満仲公の長子は源頼光公で、その流れの多田源氏、摂津源氏などが清和源氏の嫡流筋にあたります。
しかし多田源氏の多田行綱は勢力を張れず没落、摂津源氏の土岐光衡も鎌倉殿の御家人に収まっているので、やはり武家の統領としての八幡太郎義家公とその流れの頼朝公の声望が高かったものとみられます。
以降、甲斐源氏では武田氏宗家となった信光の流れと信義の弟加賀美遠光から小笠原氏、南部氏が出て、以降勢力を張りました。
小笠原氏、南部氏は江戸時代も大名家として存続しています。(大和郡山藩の柳沢氏、新発田藩主の溝口氏、松前藩主の松前(蠣崎)氏なども甲斐源氏の末裔を称しています。)
放光寺は元暦元年(1184年)、安田義定が「一ノ谷の戦い」の戦勝を記念して創立したと伝わる、甲斐を代表する名刹です。
詳細およびその他の御朱印は■ Vol.6 武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印をご覧ください。
10.粟船山 常楽寺 〔北条(北條)泰時〕
鎌倉市観光協会Web
神奈川県鎌倉市大船5-8-29
臨済宗建長寺派
御本尊:阿弥陀三尊
札所:-
北条義時の子で、名君として知られる三代執権北条泰時の創建とされる名刹です。
鎌倉市には、鎌倉七口(八口)の外のエリアにも高い格式を誇る名刹がいくつかあって、こちらもそのひとつです。
嘉禎三年(1237年)、北条泰時が義母の供養のために建てた「粟船御堂」(あわふねみどう)が草創とされ、常楽寺の寺号は泰時の法名にちなむものとされます。
開山は退耕行勇、開基は北条泰時。
建長寺開山の蘭渓道隆が建長寺の建立まで当寺に住待され、「常楽は建長の根本なり」といわれて、臨済宗建長寺派において高い格式をもちます。
仏殿には蘭渓道隆像が安置されています。
【写真 上(左)】 常楽寺
【写真 下(右)】 常楽寺の御朱印
仏殿は、元禄四年(1691年)建立の小形禅宗様で県指定重要文化財、鎌倉期作とされる木造文殊菩薩坐像も県指定重要文化財。
御本尊の阿弥陀如来像、山門は市の指定文化財。梵鐘は建長寺・円覚寺の梵鐘とともに「鎌倉三名鐘」に数えられ、国の重要文化財に指定されるなど文化財の宝庫です。
仏殿背後には北条泰時の墓があり、裏山には清水冠者(木曽義高)の墓と伝わる塚「木曽塚」があります。
清水冠者は木曽義仲の子で、源頼朝公の長女・大姫の婿の名目で鎌倉に入りましたが、父・義仲が粟津の戦いで討たれたのちは微妙な立場となり、鎌倉を脱出したところを入間河原であえなく討たれました。没年12歳と伝わります。
御朱印は、御本尊の阿弥陀三尊ではなく、蘭渓道隆ゆかりとされる文殊菩薩のものが授与されています。
11.萬年山 城願寺 〔土肥實平〕
公式Web
神奈川県湯河原町城堀252
曹洞宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:-
土肥氏は、相模国の有力豪族中村氏の流れで桓武平氏良文流。足下郡・土肥郷(早川庄)(現在の湯河原、真鶴、早川周辺)を本拠として勢力を張りました。
鎌倉幕府草創期の当主は土肥實平で、東国武士のあいだで人望があり、『曽我物語』で有名な伊豆奥野の狩場での河津祐泰と俣野景久のいさかいの際に、仲裁に入ったと伝わります。
治承四年(1180年)、頼朝公挙兵の際には嫡子遠平をはじめ中村一族を率いて参じ、石橋山の敗戦から安房落ちの際にも頼朝公につき従ったとされます。
以降も一貫して頼朝公を支えて公の信任篤く、奥州から参陣した義経公を取り次ぎ、平家方から頼朝公に降った梶原景時をとりなしたのも實平という説があります。
養和元年(1181年)の鶴岡八幡宮の造営にあたっては奉行をつとめています。
源平合戦では宇治川の戦い、大江山守護、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いと歴戦し、一ノ谷の戦いののちには吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(のちに長門・周防を加える)に補任と伝わります。
建久元年(1190年)の頼朝公上洛の際には、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、公側近の重職の地位を占めていたことがわかります。
以降子孫は繁栄し、相模土肥氏の祖とされています。
なお、戦国期「毛利両川」の小早川氏は、實平の子・遠平が土肥郷の小早川に拠り小早川を称し、平家討伐の恩賞として安芸国沼田荘の地頭職を拝領して土着、以降この地で勢力を伸ばしたものとされています。
實平の居舘は城願寺のあたりとされ、寺伝(城願寺公式Web)には「實平が、萬年の世までも家運が栄えるように「萬年山」と号して持仏堂を整えたことから城願寺の歴史は始まる。」とあります。
草創は實平。以来、城願寺は土肥一族の菩提寺となっています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額
もともとは密寺でしたが臨済宗に改め萬年山成願寺として勧請開山、五山十刹につぐ諸山に定められ、戦国期の再興(重興開山)で曹洞宗に改め、城願寺と号して現在に至ります。
湯河原と土肥一族とのゆかりは深く、毎年春には「土肥祭」が催され、城願寺でも式典が催されます。
御本尊は聖観世音菩薩。
公式Webには「寺院が禅宗に改宗する場合には、以前の本尊をそのまま受け継いでも構わないとされることも多く、或いは創建時そのままの御本尊様かもしれません。」とあります。
このような例は、伊豆の寺院にとくに多くみられます。→■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 上(左)】 七騎堂
【写真 下(右)】 城願寺の御朱印
土肥実平・遠平像(湯河原町指定文化財)を所蔵し、實平をはじめとする土肥一族の墓所や、石橋山の戦いで頼朝公とともに落ちのびた七騎を祀る七騎堂があります。
ちなみに、「七騎」とは、源頼朝公、土肥實平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、田代信綱、新開忠氏をさすようです。(→出典:『観光かながわNOW』)
→ 境内360度画像(公式Web)
湯河原の高台にあり、落ち着いたたたずまい。
實平手植えと伝わるビャクシンは樹齢800年を越え、国の天然記念物に指定されています。
御朱印は御本尊の聖観世音菩薩(観自在菩薩)のものが授与されています。
→ ■ 湯河原温泉「中屋旅館」の入湯レポ
→ ■ 湯河原温泉「若草荘」の入湯レポ
12.岩殿山 光明院 安楽寺 〔源範頼公〕
公式Web
埼玉県吉見町御所374
真言宗智山派
御本尊:聖観世音菩薩
札所:坂東三十三箇所(観音霊場)第11番、関東八十八箇所第75番、武州路十二支霊場(申・金剛界大日如来)、東国花の寺百ヶ寺霊場第17番、中武蔵七十二薬師霊場第62番、武州八十八霊場第36番
源範頼公は源義朝公の子(六男と伝わる)で、頼朝公の異母弟、義経公の異母兄です。
『尊卑分脈』では生母は遠江国池田宿の遊女とされていますが、池田宿周辺の然るべき家の娘という説もあります。
江国蒲御厨(現在の浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも称されました。
後白河法皇の近臣、従二位・式部権少輔藤原範季に養育され、その縁から「範頼」を名乗ったとされます。
兄・頼朝公への合流時期は明確ではないようで、当初は安田義定など甲斐源氏との交流が深かったとの見方もあります。
また、寿永二年(1183年)、常陸国の志田義広と下野国の小山氏の野木宮合戦に参戦の記録が残っています。
寿永三年(1184年)、頼朝公の代官として源義仲追討の大将軍となり上洛、義経公の軍勢に合流して宇治・瀬田の戦いに参戦。
以降、平家追討の大手軍の大将として一ノ谷の戦い、九州進軍の率将としても勝利し、以降も義経軍と別働しつつ大手軍の大将として諸戦を戦い、壇ノ浦で平氏追討を成しました。
義経公の活躍があまりに華々しいため脇役に回っているきらいもありますが、大手軍の大将として個性の強い鎌倉武士をまとめ、戦を勝利に導いた手腕を評価する見方も少なくありません。
義経軍の進軍にくらべ範頼軍の動きが遅かったことは事実のようで、これをもって範頼公を凡将とみなす説もありますが、中世、華々しい戦さぶりを展開したのはたいてい動きの軽い別働隊や搦手軍で、これをもって範頼公を凡将とすることに疑問を呈する向きもあります。
また、大手の範頼軍の安定した働きあればこそ、搦手の義経軍の奇襲が奏功したという見方もあります。
独断専行が目立った義経公に対し、頼朝公への報告を怠らなかった範頼公は平家追討後も鎌倉での立場を保ち、文治五年(1189年)の奥州合戦には頼朝公に従い参戦。建久元年(1190年)11月にも頼朝公に従い上洛しています。
しかし、その後次第に頼朝公との関係は微妙なものとなり、建久四年(1193年)8月、範頼公は頼朝公に対して忠誠を誓う起請文を差し出すものの、頼朝公は状中で「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責め、範頼公は伊豆国に流され、修禅寺に幽閉されました。
その後の消息については不明とする説が有力です。
範頼公は頼朝公に対して公然と反旗を翻したわけでもなく、「源範頼」を名乗る資格も名分もある筈です。
にもかかわらずの伊豆への配流は、独裁色をつよめる頼朝公にとって異母兄弟の存在じたいが危険なものとして映った結果かもしれません。
実際、頼朝公の実弟で源平合戦の功労者でもある範頼公でさえ、対応を誤ればたちまち立場を失うという事実は、鎌倉御家人たちを震え上がらせたものと思われます。
範頼公の配流は、あるいはこのような効果を狙っての政治的な動きだったのかもしれません。
範頼公の墓所は伊豆・修善寺にあります。
伊豆配流後の範頼公の消息が不明なため、範頼公にはいくつかの配流伝説が残りますが、範頼公ゆかりの寺院は多くはありません。
【写真 上(左)】 安楽寺参道と山門内湯
【写真 下(右)】 範頼公旧跡を示す寺号標
吉見の吉見観音・安楽寺は、範頼公とのゆかりが明示されている貴重な例のひとつです。
武蔵国横見郡(現埼玉県吉見町)の吉見観音への隠住説は範頼公配流伝説のひとつで、吉見観音周辺の大字”御所”は貴人の居住地をあらわし、範頼公にちなむものと伝わります。
これとは別に、吉見は範頼公の妻の祖母で、頼朝公の乳母でもある比企尼の居所に近いので、この縁により移り住み、その子孫は吉見氏として続いたという説もあります。
範頼公の妻は安達盛長の息女で、頼朝公の乳母を務めた比企尼の長女丹後内侍の子です。
安達盛長の館は吉見にもほど近い現・鴻巣市糠田とされていますから、安達盛長の壻となった縁で吉見に所領を得たのかもしれません。
範頼公の次男範圓と三男源昭は外曾祖母の比企尼から吉見庄を分与され、範圓の子為頼が吉見を名字とした、という説もあります。
【写真 上(左)】 安楽寺山内
【写真 下(右)】 「比企一族と武蔵武士ゆかりの地」のポスター
安楽寺の公式Webには「平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500メートルには『伝範頼館跡』と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。」とあり、吉見御所への範頼公の居住は配流後ではなく、幼少期であるとしています。
範頼公が『吾妻鏡』に登場するのは30歳すこし前で、それ以前、とくに幼少期ははっきりしないことが多いので、幼少期吉見居住説が出てくるのだと思います。
【写真 上(左)】 息障院山門
【写真 下(右)】 息障院本堂
吉見の名刹・息障院は「伝範頼館跡」とされ、吉見町の公式Webには「息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。」とあります。
【写真 上(左)】 安楽寺本堂向拝
【写真 下(右)】 安楽寺本堂扁額
比企市町村推進協議会企画の「鎌倉殿の13人」資料には、「息障院と安楽寺はかつては一つの大寺院を形成していたことが知られています。当時、息障院には多くの御堂がありましたが、その一つの観音堂が現在の安楽寺になったと伝わります。」とあります。
なお、安楽寺、息障院ともに創建・開基は天平年中(730年頃)の行基菩薩、あるいは大同元年(806年)の坂上田村麻呂と伝わり、鎌倉幕府草創のはるか以前です。
範頼公の記事だけで長くなりましたので、安楽寺山内のご案内は省略です。
メジャーな坂東霊場の札所、パワスポとしても知られており関連情報はWeb上でたくさんみつかるので、そちらをご覧ください。(と逃げる・・・(笑))
山門下の寺号標側面には「蒲冠者 源 範頼 旧蹟」と刻まれています。
また、山内の三重塔の説明書には「鎌倉時代に源範頼は十六丈の三重大塔と二十五間四面の大講堂を建立し、非常に壮大であったと伝えられております。しかし天文年間に松山城の落城に際してこれらの大伽藍もことごとく焼失いたしました。」とあります。
【写真 上(左)】 三重塔
【写真 下(右)】 御開帳時の薬師堂
安楽寺は複数の現役霊場の札所を兼ねられ、数種の御朱印が授与されています。
うち、中武蔵七十二薬師霊場第62番の御朱印は、12年に一度の寅年御開帳時(本年令和4年4月7日~13日)のみの授与とみられます。
【写真 上(左)】 坂東三十三箇所(観音霊場)の御朱印
【写真 下(右)】 関東八十八箇所の御朱印
【写真 上(左)】 武州路十二支霊場(申・金剛界大日如来)の御朱印
【写真 下(右)】 中武蔵七十二薬師霊場の御朱印
東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印
13.医王山 清光寺 〔豊島清元(清光)〕
東京都北区豊島7-31-7
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
他札所:豊島八十八ヶ所第79番、荒川辺八十八ヶ所霊場第18番、豊島七佛第1番(不動明王)、第2番(釈迦如来)
豊島氏は武蔵国の名族で、桓武平氏の平良文の孫の平(秩父)将常の次男秩父武常が治安三年(1023年)の戦功により武蔵国豊島郡を賜り、豊島氏を称したことにはじまるとされます。
いわゆる「坂東八平氏」の流れです。
発祥は現在の北区豊島、平塚神社が豊島舘跡と伝わります。
鎌倉幕府草創期の当主は豊島清元(清光とも、以下清光と記します)で、子の清重とともに隅田川で頼朝軍に参陣し、御家人の列に加わりました。
清光の三男清重は葛西御厨を継いで葛西氏の祖となり、清重は平家追討で範頼軍に加わり九州で武功をあげています。
有経が豊島氏を継ぎ紀伊守護人に任ぜられ、子(?)の朝経は土佐守護に任じられて各地で勢力を張りました。
豊島武常は源頼義公・義家公に従って奥州で戦死しており、累代の源氏の家人の立ち位置で、豊島清光に対する頼朝公の信頼は厚かったとされます。
豊島舘跡とされる平塚神社の御祭神は源義家公、義綱公、義光公。
後三年の役の帰路、源義家公、義綱公、義光公の三兄弟がこの豊島館に逗留して豊島近義にもてなしを受け、義家公は鎧一領と十一面観音像を豊島氏に下賜され、後にこの鎧を本尊として塚を築き埋めたのが創祀とも伝わります。
豊島一族と源氏のつながりの深さを伝える由緒といえましょう。
豊島清光は行基菩薩ゆかりのふたつの霊場に深い関係をもち、武蔵国の仏教(霊場)を語るうえで重要な役柄です。
行基菩薩は奈良時代の人、豊島清光は鎌倉幕府草創期の人でそもそも時代が合いませんが、とにかくそういうことになっています。
1.豊島七佛
清光が、行基菩薩の東国布教の際に彫ってもらった七体の仏像が安置される寺院を巡る霊場。
2.江戸六阿弥陀
行基作の阿弥陀佛を巡る江戸時代の代表的な女人霊場。霊場縁起に「豊島左衛門尉清光」が登場します。
→ ■ 武州江戸六阿弥陀詣の御朱印 ~ 足立姫伝説 ~
清光の二男清康ないし娘は荒川で命を落としており、その供養のためにいくつかの寺院の開創にかかわっている可能性があります。
江戸六阿弥陀第1番の西福寺は豊嶋左衛門清光の創建とされ、『新編武蔵風土記稿』には「豊嶋左衛門清光、(略)一人の女子を産す、(略)彼女私に逃れ荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より佛教に心を委ねしか(以下略)」との記載があります。
【写真 上(左)】 平塚神社の御朱印
【写真 下(右)】 西福寺の江戸六阿弥陀如来第1番目の御朱印
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ここでは清光の館跡ともいわれ、清元が開基し、僧形の清元の木像が残る医王山 清光寺(東京都北区)をご紹介します。
清光寺は豊島清光の開基(父の康家とも)と伝わり、戦国時代末期の豊島明重により再興とされる真言宗豊山派の寺院です。
【写真 上(左)】 清光寺の山門
【写真 下(右)】 清光寺の本堂
山内の説明書には「豊島清光は、その子葛西清重とともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で『吾妻鏡』などにもその名が見えます。またこの地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や(中略)この寺は、豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。」とあり、豊島七佛や江戸六阿弥陀との関係を示唆しています。
かつては大寺であったと推定される古刹で、山門・本堂ともがっしりした本瓦葺きであることから、寺格の高さがうかがわれます。
【写真 上(左)】 清光寺の向拝
【写真 下(右)】 清光寺の御朱印(豊島八十八ヶ所)
御本尊の不動明王、および釈迦堂の釈迦如来は行基作とされ、豊島七佛に数えられています。
当寺所蔵の豊島清光像は江戸時代の作で、北区指定文化財です。
御朱印は、現役霊場と目される豊島八十八ヶ所のものが授与されています。
→ ■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2へつづく。
〔 関連記事 〕
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
【 BGM 】
■ I.G.Y. - Donald Fagen
■ Oh Yeah! - Roxy Music
■ Our Love - Michael McDonald
■ Isn't It Time - Boz Scaggs
■ Both Sides Now - Marc Jordan
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■ 源頼朝公ゆかりの寺社
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印から分離して別記事とします。
今後、発見次第追加していきます。
「鎌倉殿の13人」では、頼朝公がしばしば神仏に祈願するシーンが出てきます。
鎌倉幕府において鶴岡八幡宮の存在はきわめて大きく、鎌倉にはほかにも多くの寺社が建立されて、一種の「宗教都市」の様相を呈していたのではないでしょうか。
頼朝公はのちに白旗神社の御祭神として各地に祀られるのですが、自ら勧請・開基(創建)された寺社も少なくありません。
レファレンス事例詳細(国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、調べ物のためのデータベース)での「源頼朝が鎌倉に建てた社寺はいくつあるか。」という質問に対しての鎌倉市中央図書館の回答 (2015年10月)には、「鶴岡八幡宮寺、永福寺、勝長寿院の3つと考えるのが妥当なようです。(鶴岡八幡宮寺を「勧請」ととれば2つです。)伝説を含めれば佐助稲荷神社も頼朝創建と伝えられています。」とあります。
上記回答プロセスでの「ネットで『頼朝の建てた社寺』で検索してみると、佐助稲荷が引っかかってくる。」つう表記はいかがなものかと思いますが(笑)、これに倣ってWeb検索し、寺社伝、自治体資料などで由緒が裏付けられたものを以下にあげてみます。
京都の建仁寺、福岡の聖福寺、長野の十念寺などは頼朝公開基・創建の寺院として知られていますが、ここでは関東地方周辺のみに絞ります。
★は御朱印授与ありの寺社です。
1.鶴岡八幡宮寺(神奈川県鎌倉市) ★(鶴岡八幡宮)
鶴岡八幡宮別当。建久二年(1191年)、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請。
2.永福寺(二階堂)(廃寺)(神奈川県鎌倉市)
頼朝公建立。建久三年(1192年)11月落慶供養。奥州合戦の戦死者供養の為。
3.阿弥陀山 勝長寿院(大御堂)(廃寺)(神奈川県鎌倉市)
頼朝公建立。文治元年(1185年)10月落慶供養。父・義朝公菩提の為。
4.佐助稲荷神社(神奈川県鎌倉市) ★
頼朝公が畠山重忠に命じ再建。建久年間(1190~1199年)、平家討伐祈願の御礼。
5.銭洗弁財天宇賀福神社(神奈川県鎌倉市) ★
伝・頼朝公創祀。文治元年(1185年)頼朝公の霊夢により天下泰平の世を祈願の為。
6.能蔵寺(現・材木座来迎寺)(神奈川県鎌倉市) ★(来迎寺)
頼朝公創建。建久五年(1194年)、三浦大介義明菩提の為。
7.南向山 補陀洛寺(神奈川県鎌倉市) ★
伝・頼朝公開基。
8.朝比奈熊野神社(横浜市金沢区)
頼朝公建立。覇府艮方守護の為。
9.瀬戸神社(瀬戸三島明神)(横浜市金沢区) ★
頼朝公が挙兵にあたり御利益を蒙った伊豆三島明神の御分霊を祭祀。
10.富岡八幡宮(横浜市金沢区) ★
頼朝公造営。建久二年(1191年)、鎌倉の鬼門除けとして摂津西宮神社の蛭子尊の分霊を勧請。
11.(芝生)浅間神社(横浜市西区) ★
境内由緒書に「創祀は承暦四年(1080年)ともいわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため(略)芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし報賽の至誠を致せる(略)」とあり、「(頼朝公が)御分霊を奉祀して創祀」とする資料も複数あり。
12.瑞雲山 本覚院 三會寺(横浜市港北区) ★
頼朝公建立の密場(新編武蔵風土記稿)。旧小机領三十三所子歳観音霊場の御朱印にも「開基:頼朝公」とあり。源頼朝公が大檀那となり佐々木高綱が奉行して建立とも。
13.補陀洛山 安養院 西方寺(横浜市港北区) ★
旧小机領三十三所子歳観音霊場の御朱印に「開基:頼朝公」とあり。西方寺の公式Webには開基は明記されていませんが、頼朝公は開山の醍醐覚洞院座主に帰依していることから、このような表記になっているのかもしれません。
14.森戸神社 (森戸大明神)(神奈川県葉山町) ★
頼朝公勧請。治承四年(1180年)、天下平定の御礼に三嶋明神の御分霊を勧請。
15.義明山 満昌寺(神奈川県横須賀市) ★
頼朝公建立。建久五年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立。
16.五明山 最宝寺(神奈川県横須賀市) ★
頼朝公開基。建久六年(1195年)。
17.日金山 松源寺(現・松得山 東漸寺の日金地蔵尊)(神奈川県横須賀市) ★
頼朝公勧請。伊豆配流時、出世あれば勧請と約し、願成就ののちに日金山 東光寺より勧請、松源寺を創建。
18.江島弁財天(神奈川県藤沢市) ★
頼朝公が文覚に命じて勧請。養和2年(1182年)、奥州藤原秀衡調伏の為。
19.三嶋山 感応院(瑞光密寺)(神奈川県藤沢市) ★
頼朝公による「三嶋神社」の勧請が創祀。
20.(上大井)三嶋神社(神奈川県大井町) ★
頼朝公建立。治承四年(1180年)、平家打倒・源氏再興の御礼に三嶋大社より御分霊を勧請。
以上が神奈川県内の寺社で、鎌倉・三浦半島を中心に相当数みられます。
ところが神奈川県外となると、その数はぐっと少なくなります。
21.品川神社(東京都品川区) ★
頼朝公創始。文治三年(1187年)、海上交通安全祈願成就御礼の為、安房国洲崎明神を勧請。
22.牛天神北野神社(東京都文京区) ★
頼朝公創建。元暦元年(1184年)、頼朝公の霊夢(菅原道真公の御神託)による。
23.田端八幡神社(東京都北区) ★
頼朝公創祀。文治五年(1189年)、奥州平定後に鶴岡八幡宮を勧請し祭祀。
24.上田端八幡神社(東京都北区) ★
頼朝公創祀。文治五年(1189年)、奥州平定後に鶴岡八幡宮を勧請し祭祀。
25.神楽坂若宮八幡神社(東京都新宿区) ★
頼朝公勧請創建。文治五年(1189年)、奥州征伐後に鶴岡八幡宮の御分霊を勧請。
26.産安社(武蔵御嶽神社の摂社)(東京都青梅市) ★(武蔵御嶽神社)
頼朝公創建。文治年間(1185-1189年)。
27.天津神明宮(千葉県鴨川市) ★
頼朝公勧請。寿永三年(1184年)、安房の地で源家再興を伊勢大廟に祈願・成就の御礼に伊勢より御神霊を勧請。
28.長沼八幡宮(栃木県真岡市) ★
頼朝公勧請。建久四年(1193年)、神夢により加茂社(別雷尊)・春日社(天児屋根尊)の両神を勧請して創祀。
29.玉村八幡宮(群馬県玉村町) ★
頼朝公勧請。建久六年(1195年)、安達盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請。
30.若宮八幡宮(大寶八幡宮の摂社)(茨城県下妻市) ★(大寶八幡宮)
頼朝公勧請。文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日に鶴岡八幡宮若宮を勧請して摂社を創建。
31.海雲山 長勝寺(茨城県潮来市) ★
頼朝公建立。文治元年(1185年)。
埼玉県に至っては、ほとんどWebではヒットしません。
埼玉県内には、比企氏、畠山氏、熊谷氏、河越氏、武蔵七党など有力御家人が多く、寺社の創再建はこれらの武家たちが担っていたからかもしれません。
今後、発見次第追加していきます。
「鎌倉殿の13人」では、頼朝公がしばしば神仏に祈願するシーンが出てきます。
鎌倉幕府において鶴岡八幡宮の存在はきわめて大きく、鎌倉にはほかにも多くの寺社が建立されて、一種の「宗教都市」の様相を呈していたのではないでしょうか。
頼朝公はのちに白旗神社の御祭神として各地に祀られるのですが、自ら勧請・開基(創建)された寺社も少なくありません。
レファレンス事例詳細(国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、調べ物のためのデータベース)での「源頼朝が鎌倉に建てた社寺はいくつあるか。」という質問に対しての鎌倉市中央図書館の回答 (2015年10月)には、「鶴岡八幡宮寺、永福寺、勝長寿院の3つと考えるのが妥当なようです。(鶴岡八幡宮寺を「勧請」ととれば2つです。)伝説を含めれば佐助稲荷神社も頼朝創建と伝えられています。」とあります。
上記回答プロセスでの「ネットで『頼朝の建てた社寺』で検索してみると、佐助稲荷が引っかかってくる。」つう表記はいかがなものかと思いますが(笑)、これに倣ってWeb検索し、寺社伝、自治体資料などで由緒が裏付けられたものを以下にあげてみます。
京都の建仁寺、福岡の聖福寺、長野の十念寺などは頼朝公開基・創建の寺院として知られていますが、ここでは関東地方周辺のみに絞ります。
★は御朱印授与ありの寺社です。
1.鶴岡八幡宮寺(神奈川県鎌倉市) ★(鶴岡八幡宮)
鶴岡八幡宮別当。建久二年(1191年)、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請。
2.永福寺(二階堂)(廃寺)(神奈川県鎌倉市)
頼朝公建立。建久三年(1192年)11月落慶供養。奥州合戦の戦死者供養の為。
3.阿弥陀山 勝長寿院(大御堂)(廃寺)(神奈川県鎌倉市)
頼朝公建立。文治元年(1185年)10月落慶供養。父・義朝公菩提の為。
4.佐助稲荷神社(神奈川県鎌倉市) ★
頼朝公が畠山重忠に命じ再建。建久年間(1190~1199年)、平家討伐祈願の御礼。
5.銭洗弁財天宇賀福神社(神奈川県鎌倉市) ★
伝・頼朝公創祀。文治元年(1185年)頼朝公の霊夢により天下泰平の世を祈願の為。
6.能蔵寺(現・材木座来迎寺)(神奈川県鎌倉市) ★(来迎寺)
頼朝公創建。建久五年(1194年)、三浦大介義明菩提の為。
7.南向山 補陀洛寺(神奈川県鎌倉市) ★
伝・頼朝公開基。
8.朝比奈熊野神社(横浜市金沢区)
頼朝公建立。覇府艮方守護の為。
9.瀬戸神社(瀬戸三島明神)(横浜市金沢区) ★
頼朝公が挙兵にあたり御利益を蒙った伊豆三島明神の御分霊を祭祀。
10.富岡八幡宮(横浜市金沢区) ★
頼朝公造営。建久二年(1191年)、鎌倉の鬼門除けとして摂津西宮神社の蛭子尊の分霊を勧請。
11.(芝生)浅間神社(横浜市西区) ★
境内由緒書に「創祀は承暦四年(1080年)ともいわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため(略)芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし報賽の至誠を致せる(略)」とあり、「(頼朝公が)御分霊を奉祀して創祀」とする資料も複数あり。
12.瑞雲山 本覚院 三會寺(横浜市港北区) ★
頼朝公建立の密場(新編武蔵風土記稿)。旧小机領三十三所子歳観音霊場の御朱印にも「開基:頼朝公」とあり。源頼朝公が大檀那となり佐々木高綱が奉行して建立とも。
13.補陀洛山 安養院 西方寺(横浜市港北区) ★
旧小机領三十三所子歳観音霊場の御朱印に「開基:頼朝公」とあり。西方寺の公式Webには開基は明記されていませんが、頼朝公は開山の醍醐覚洞院座主に帰依していることから、このような表記になっているのかもしれません。
14.森戸神社 (森戸大明神)(神奈川県葉山町) ★
頼朝公勧請。治承四年(1180年)、天下平定の御礼に三嶋明神の御分霊を勧請。
15.義明山 満昌寺(神奈川県横須賀市) ★
頼朝公建立。建久五年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立。
16.五明山 最宝寺(神奈川県横須賀市) ★
頼朝公開基。建久六年(1195年)。
17.日金山 松源寺(現・松得山 東漸寺の日金地蔵尊)(神奈川県横須賀市) ★
頼朝公勧請。伊豆配流時、出世あれば勧請と約し、願成就ののちに日金山 東光寺より勧請、松源寺を創建。
18.江島弁財天(神奈川県藤沢市) ★
頼朝公が文覚に命じて勧請。養和2年(1182年)、奥州藤原秀衡調伏の為。
19.三嶋山 感応院(瑞光密寺)(神奈川県藤沢市) ★
頼朝公による「三嶋神社」の勧請が創祀。
20.(上大井)三嶋神社(神奈川県大井町) ★
頼朝公建立。治承四年(1180年)、平家打倒・源氏再興の御礼に三嶋大社より御分霊を勧請。
以上が神奈川県内の寺社で、鎌倉・三浦半島を中心に相当数みられます。
ところが神奈川県外となると、その数はぐっと少なくなります。
21.品川神社(東京都品川区) ★
頼朝公創始。文治三年(1187年)、海上交通安全祈願成就御礼の為、安房国洲崎明神を勧請。
22.牛天神北野神社(東京都文京区) ★
頼朝公創建。元暦元年(1184年)、頼朝公の霊夢(菅原道真公の御神託)による。
23.田端八幡神社(東京都北区) ★
頼朝公創祀。文治五年(1189年)、奥州平定後に鶴岡八幡宮を勧請し祭祀。
24.上田端八幡神社(東京都北区) ★
頼朝公創祀。文治五年(1189年)、奥州平定後に鶴岡八幡宮を勧請し祭祀。
25.神楽坂若宮八幡神社(東京都新宿区) ★
頼朝公勧請創建。文治五年(1189年)、奥州征伐後に鶴岡八幡宮の御分霊を勧請。
26.産安社(武蔵御嶽神社の摂社)(東京都青梅市) ★(武蔵御嶽神社)
頼朝公創建。文治年間(1185-1189年)。
27.天津神明宮(千葉県鴨川市) ★
頼朝公勧請。寿永三年(1184年)、安房の地で源家再興を伊勢大廟に祈願・成就の御礼に伊勢より御神霊を勧請。
28.長沼八幡宮(栃木県真岡市) ★
頼朝公勧請。建久四年(1193年)、神夢により加茂社(別雷尊)・春日社(天児屋根尊)の両神を勧請して創祀。
29.玉村八幡宮(群馬県玉村町) ★
頼朝公勧請。建久六年(1195年)、安達盛長に命じ鶴岡八幡宮の御分霊を勧請。
30.若宮八幡宮(大寶八幡宮の摂社)(茨城県下妻市) ★(大寶八幡宮)
頼朝公勧請。文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日に鶴岡八幡宮若宮を勧請して摂社を創建。
31.海雲山 長勝寺(茨城県潮来市) ★
頼朝公建立。文治元年(1185年)。
埼玉県に至っては、ほとんどWebではヒットしません。
埼玉県内には、比企氏、畠山氏、熊谷氏、河越氏、武蔵七党など有力御家人が多く、寺社の創再建はこれらの武家たちが担っていたからかもしれません。
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■ Just The Two of Us進行
■ DREAMS COME TRUE - 決戦は金曜日 (from THE DREAM QUEST TOUR 2017 Live Ver.)
「決戦は金曜日」。
日本サッカー、見事に勝ち取りましたね。
そういえば、↓もJust The Two of Us進行だと思う。
■「ナンかライスか」未発売曲 ワンマンライブでの初披露! 中村舞子
RAPだろうが、キワものだろうが、有無をいわせずこ洒落たグルーヴ曲に仕立ててしまうコード進行の威力。
-----------------------
2022/07/29
個人的にはカノン進行とならんで最強のコード進行と思っているJust The Two of Us進行。
Ⅳ△7 Ⅲ7 Ⅵm7 Ⅴm7 Ⅰ7
Fmaj7 E7 Am7 Gm7 C7(Cスケール)
ハマルと抜け出せなくという永遠ループのコード進行です。
■ J-POPを席巻する「Just The Two of Us」コード進行を読み解く
■ オシャレ進行の代名詞”Just the Two of Us進行”の10曲を分析・解説!【丸サ進行・ジゴロ進行】
【ゆっくり解説】Just The Two Of Us進行(丸サ進行)40年の歴史を振り返る
↑ うまく構成してるわ、この動画
「でもなんでこんないぶし銀なジャンルが流行ったのかしら?」
↑
確かに・・・(笑)
↑にもあるけど、やっぱり ↓ の3曲が代表曲だと思う。
■ Grover Washington Jr. - Just the Two of Us (feat. Bill Withers) (Official Lyric Video)
■ Bobby Caldwell - What You Won't Do for Love (Album Version)
■ Cheryl Lynn - Got To Be Real
↓ これも一部入ってると思う。メジャーとマイナーが複雑に混じり合う浮遊感ある進行。
■ Leon Ware - Slippin' Away (1982)
↓ J-POPだとこれかな?
■ DREAMS COME TRUE - 決戦は金曜日 (from THE DREAM QUEST TOUR 2017 Live Ver.)
1970年代後半~1980年代前半に一世を風靡したこのコード進行が、のちのJ-POPの隠れ王道進行になるとは・・・。
予想だにしませんでした。
■ Official髭男dism - I LOVE...[Official Video]
ぼくが みつめる けしきの そのなかに
↓
Ⅳ△ Ⅲ7 Ⅵm Ⅴm7 Ⅰ(43651進行)
「決戦は金曜日」。
日本サッカー、見事に勝ち取りましたね。
そういえば、↓もJust The Two of Us進行だと思う。
■「ナンかライスか」未発売曲 ワンマンライブでの初披露! 中村舞子
RAPだろうが、キワものだろうが、有無をいわせずこ洒落たグルーヴ曲に仕立ててしまうコード進行の威力。
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2022/07/29
個人的にはカノン進行とならんで最強のコード進行と思っているJust The Two of Us進行。
Ⅳ△7 Ⅲ7 Ⅵm7 Ⅴm7 Ⅰ7
Fmaj7 E7 Am7 Gm7 C7(Cスケール)
ハマルと抜け出せなくという永遠ループのコード進行です。
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【ゆっくり解説】Just The Two Of Us進行(丸サ進行)40年の歴史を振り返る
↑ うまく構成してるわ、この動画
「でもなんでこんないぶし銀なジャンルが流行ったのかしら?」
↑
確かに・・・(笑)
↑にもあるけど、やっぱり ↓ の3曲が代表曲だと思う。
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↓ これも一部入ってると思う。メジャーとマイナーが複雑に混じり合う浮遊感ある進行。
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↓ J-POPだとこれかな?
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1970年代後半~1980年代前半に一世を風靡したこのコード進行が、のちのJ-POPの隠れ王道進行になるとは・・・。
予想だにしませんでした。
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■ ナイスユニット、na Relo
■ 【歌詞付】サボテンの花 / チューリップ【Cover】Saboten-no Hana by Tulip
オリジナル曲へのリスペクトはしっかり感じられるのに、原曲とはちがうオリジナリティをつくりだしてしまう、本当に魔法のようなユニット。
メロディ、ハーモニー、アンサンブル、そして適度な”音の隙間”。
いまの音楽が失ってしまった音楽の原点を、衒いなく演ってくれるところが聴き手の心を揺さぶるのかも。
とくにアンサンブル。キーボードなくしてこのアンサンブル感は驚異だと思う。
*********
話はちょっと変わるけど、ハーモニーやアンサンブルの変遷からみると、1980年代前半はEbonyとIvoryがもっとも接近した時代ではないかと感じています。
だからリリース曲に音幅(というかジャンル幅)があり、多くの名曲が生み出されたのかも・・・。
お互いに刺激しあって、洗練度やグルーヴ感を急激に高めていったのも1970年代中盤くらいから。
■ Paul McCartney and Stevie Wonder - Ebony and Ivory(1982年)
■ Boz Scaggs - Lowdown(1976年)
■ Rufus & Chaka Khan - Do You Love What You Feel(1979年)
日本でもすでに1970年代から、このあたりの洒落っ気やグルーヴをもったアーティストや楽曲が存在していた。
シティ・ポップとして再評価を受ける素地は、すでにこのあたりにあったんだと思う。
■ Char - SHININ' YOU, SHININ' DAY(1976年)
16ビートの裏拍。この時代にしてはあまりに高い完成度。
■ 原田真二 - シャドー・ボクサー(1978/01/30 OnAir 夜のヒットスタジオ)
プライムタイムの人気番組で「大型新人です!」って紹介されて、いきなりこのパフォーマンスとは・・・。
さりげにカウンターメロディかますベースも、この難曲を平然と聴いているゲストも、いまから考えるととても信じられぬ。おそるべし。
■ 渡辺香津美(kylyn) - E-Day Project(1979年)
渡辺香津美(g) 坂本龍一(Key) 益田幹夫 (Key) 小原礼 (b) 村上秀一(ds) ペッカー (Per) 向井滋春 (Tb) 本多俊之(As,Ss) 清水靖晃(Ts) 矢野顕子(Key,Vo) 髙橋ユキヒロ(ds)
シティ・ポップを語るのに ↑ の人脈は欠かせないと思う。
それぞれのインストのパーセッジとそれが醸すアンサンブルに魅力があったから、「心に刺さる歌詞」(笑)がなくてもぜんぜん楽しめた。
---------------------
2022/06/15
na Relo。最近はじめて知りました。
どんな難曲でも、あっさり聴きやすく仕上げてしまう魔法のようなユニット。
原曲のメロのよさを再認識させてくれるユニット。
ボーカルのお二人はとくに美声というわけではないけれど、声に深みがあってやたらに説得力がある。
それとコーラスのバランス。
バックの演奏も抜群の安定感。
とくにハイハット多用のドラムスは、個人的に好み。
芯喰ったアレンジで原曲としっかり対峙してくれる、こういうユニットがでてきてくれるのはとっても嬉しい。
↓ これ、往年の欧米の音楽好きが聴いたら、どう思うんだろ・・・
【70’s】[歌詞付] ホテル カリフォルニア【Cover】Hotel California - Eagles
↑ こんなツインギター聴いたの、何年ぶりだろう・・・
↓ オリジナル
Eagles - Hotel California (Lossless Audio)
【70’s】[歌詞付] アローン アゲイン【Cover】Alone Again - Gilbert O’Sullivan
【70’s】[歌詞付] ダンシング クイーン【Cover】Dancing Queen - ABBA
ベースはどこ? ギターももう一人いるかも?
こういうことを考えさせるほど、インストの存在感が大きい。
邦楽のこなしも抜群 ↓
【歌詞付】ルージュの伝言 / 荒井由実【Cover】Rouge-no Dengon by Yumi Arai
このユニット、シティポップどハマリでは? と思ったら、やっぱりどハマリだった。
サウンドがオトナでお洒落。
往年のフェンダー・ローズ使った曲、聴いてみたい。
【あまく危険な香り / 山下達郎】Amaku Kiken Na Kaori by Tatsuro Yamashita【Cover】
1980年代後半からのPOPミュージックは、音の隙間をどんどん埋めていく方向感で進んできたと思う。
でも、これからは、音をそぎ落として、音の隙間を味わう時代に戻っていくのかもしれぬ。
ボーカル、アンサンブルと”音の隙間”のバランスが絶妙だった時代のサウンド ↓
"Stay Awhile" & "Still They Ride" Steve Perry- Journey
オリジナル曲へのリスペクトはしっかり感じられるのに、原曲とはちがうオリジナリティをつくりだしてしまう、本当に魔法のようなユニット。
メロディ、ハーモニー、アンサンブル、そして適度な”音の隙間”。
いまの音楽が失ってしまった音楽の原点を、衒いなく演ってくれるところが聴き手の心を揺さぶるのかも。
とくにアンサンブル。キーボードなくしてこのアンサンブル感は驚異だと思う。
*********
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だからリリース曲に音幅(というかジャンル幅)があり、多くの名曲が生み出されたのかも・・・。
お互いに刺激しあって、洗練度やグルーヴ感を急激に高めていったのも1970年代中盤くらいから。
■ Paul McCartney and Stevie Wonder - Ebony and Ivory(1982年)
■ Boz Scaggs - Lowdown(1976年)
■ Rufus & Chaka Khan - Do You Love What You Feel(1979年)
日本でもすでに1970年代から、このあたりの洒落っ気やグルーヴをもったアーティストや楽曲が存在していた。
シティ・ポップとして再評価を受ける素地は、すでにこのあたりにあったんだと思う。
■ Char - SHININ' YOU, SHININ' DAY(1976年)
16ビートの裏拍。この時代にしてはあまりに高い完成度。
■ 原田真二 - シャドー・ボクサー(1978/01/30 OnAir 夜のヒットスタジオ)
プライムタイムの人気番組で「大型新人です!」って紹介されて、いきなりこのパフォーマンスとは・・・。
さりげにカウンターメロディかますベースも、この難曲を平然と聴いているゲストも、いまから考えるととても信じられぬ。おそるべし。
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渡辺香津美(g) 坂本龍一(Key) 益田幹夫 (Key) 小原礼 (b) 村上秀一(ds) ペッカー (Per) 向井滋春 (Tb) 本多俊之(As,Ss) 清水靖晃(Ts) 矢野顕子(Key,Vo) 髙橋ユキヒロ(ds)
シティ・ポップを語るのに ↑ の人脈は欠かせないと思う。
それぞれのインストのパーセッジとそれが醸すアンサンブルに魅力があったから、「心に刺さる歌詞」(笑)がなくてもぜんぜん楽しめた。
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2022/06/15
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原曲のメロのよさを再認識させてくれるユニット。
ボーカルのお二人はとくに美声というわけではないけれど、声に深みがあってやたらに説得力がある。
それとコーラスのバランス。
バックの演奏も抜群の安定感。
とくにハイハット多用のドラムスは、個人的に好み。
芯喰ったアレンジで原曲としっかり対峙してくれる、こういうユニットがでてきてくれるのはとっても嬉しい。
↓ これ、往年の欧米の音楽好きが聴いたら、どう思うんだろ・・・
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【70’s】[歌詞付] ダンシング クイーン【Cover】Dancing Queen - ABBA
ベースはどこ? ギターももう一人いるかも?
こういうことを考えさせるほど、インストの存在感が大きい。
邦楽のこなしも抜群 ↓
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1980年代後半からのPOPミュージックは、音の隙間をどんどん埋めていく方向感で進んできたと思う。
でも、これからは、音をそぎ落として、音の隙間を味わう時代に戻っていくのかもしれぬ。
ボーカル、アンサンブルと”音の隙間”のバランスが絶妙だった時代のサウンド ↓
"Stay Awhile" & "Still They Ride" Steve Perry- Journey
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