2月4日に「立春」も過ぎました。が、まだまだ寒さが一段と厳しくなっています。
年々、その寒さは増しており各地で降雪のNEWSを見るたびにビックリしています。
一方、春は徐々に近寄って来ています。
2月8日の紅梅状況

紅梅はだいぶ花がついてきました。

同上

白梅はまだまだです。

同上

さて、標題は
江戸末期から現在に至り 浪曲、講談、歌舞伎、映画、歌謡曲や演劇等で全国に知られた
「義理と人情」に生きた人達の物語であります。
♪ 利根の川風 袂(たもと)に入れて 月に掉(さお)さす 高瀬舟 ♪
ご存知 浪曲 玉川勝太郎の語りで始まる坂東太郎=北総利根川沿いで繰り広げられた
「やくざ」の抗争です。 所詮、「やくざ」かぁ と簡単に決めつけられるものではなく
それは、 昨今の「人道に悖る品格もなく礼儀も常識も通じない数の力で権力行使をする
やくざまがい」の一部の政治屋たちとは 大違いの人達(侠客)のお話です。
最近マスコミで見聞きする、やくざまがいの政治屋の、品格のない言動にはあきれます。
①権力をかさに自己都合の為に脅かし、嘘八百、誤魔化しをゴリ押しする無茶苦茶な人達
②政治協力を約束して勝たせてもらったのに挨拶すらもなく白紙に戻す礼儀知らずの人達
③アベノマスクと呼称された使途目的に合わない大量の製品不具合品を、只でしかも10
億円の配送料のおまけつきで、そして、それを勝手に税金で補う泥棒まがいの人達。
(焼却すれば6000万円で済む。岸田政権の采配拝見。もしくわ、単なる木偶の傀儡か)
その政治屋たちを取り巻く同僚議員さんは何で「見て見ぬふり」をしているのでしょうか。
アベノマスク起案者を起訴し懲役にもっていったり、連合との関係を断ち切る勇気を持った
集団が居ても良いと考えますが。国会中継を見ていると日本共産党が一番まともに見えます。
さて本題、
上記のような、昨今のこの類の政治屋とは大違いの、「義理と人情」に厚ーい熱ーい悪人
を挫き弱き人を助く、正義感に燃え、人間味に溢れた人達のお話です。
時は天保15年(西暦1844年)に北総東庄で起きた、笹川繁蔵一家と飯岡助五郎一家と
の抗争を描いたもので実話です。
正義感あふれる繁蔵の人気・勢力が増す毎に、それに嫌悪感と危機感を抱いた既存勢力
で十手持ち(役人)の飯岡助五郎は、お上の権力を傘に、対抗勢力である笹川繁蔵一家
のつぶしにかかります。これが冒頭の浪曲や講談等で有名な「大利根河原の決闘」です。
仔細は長くなるのでここでは割愛。
この決闘で、神田お玉が池の千葉道場一の剣客(道場主=千葉周作)で、繁蔵の助っ人
平手造酒が命を落とします。 (造酒は酒乱が元に千葉道場を破門されていました。)
繁蔵は造酒の体を気遣い、この争いの加勢は断り、養生に専念する様に命じました。が、
造酒は、長年お世話になった繁蔵の為に、養生先の病床から駆付け死を以って恩義を尽
くしたのです。 平手造酒のこの恩義話は、下記の様に今世にも語り継がれています。
三波春夫の「大利根無情」
♪セリフ「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散りぎわだけは
知って居り申す。行かねばならぬ。そこをどいて下され、行かねばならぬのだ」
田端義夫の「大利根月夜」
♪ あれを御覧と 指差すかたに 利根の流れを ながれ月 昔笑うて眺めた月も 今日は
今日は 涙の顔で見る ♪
この決闘では地の利を活かした繁蔵に軍配が上がります。
繁蔵が手強いと知った助五郎は正攻法の戦いではなく暗殺計画を練り、闇討ちにて繁蔵
を殺害します。 時に繁蔵は38歳。
繁蔵亡き後、笹川一家を束ねたのは代貸しの勢力富五郎で親分の敵討ちと再度、飯岡方
に乱入するもその目的は果たせないままになっていました。
当時、天保の大飢饉で幕府は、その災害等の対策が失敗続きで、国民の不信を買い威信
を低下させていたために、自らの権力を誇示しようと、関東取締役5人、夫々が百人余
りの手勢(計、約500人)を引き連れ笹川一家壊滅の為、富五郎狩を行います。
この行為は、当時の不信感払拭のためにお役人や幕府に逆らうものの、見せしめとして
執行されたのです。
いつの世も、こういう姑息で汚い手をつかう嘘八丁だらけの輩はいるもんですね。
さて、
最後まで残った富五郎と子分の栄助は地元の農民に匿われて約2ケ月間、近郷の金毘羅
山に立て籠もります。この当時、役人や幕府手勢の滞在費は村が負担する時世で、これ
以上に無関係の農民に匿ってもらい、迷惑をかけられないと、その山中で自刃します。
これが、 中国の四代奇書の一つ「水滸伝」に準え「天保水滸伝」として世に語られて
きました。 名付けたのは当時現地を訪れて取材した江戸の講釈師、宝井琴凌で、この
講釈師はちゃんと見てきたのです。(講釈師、見てきたかの様な嘘の話ではありません)
繁蔵や富五郎は、ただのヤクザではなく任侠・義侠心をもって地元の村人を守ってきた
侠客として慕われ、その証として後年に地元の人達は「勢力霊神」の碑を建立してます。
また笹川繁蔵、勢力富五郎や平手造酒のお墓や碑も同様のこの地に建立されています。
今でも東庄笹川の町を訪れると、大利根川の悠久の流れの傍らに語り継がれた男たちの
物語「天保水滸伝」が伝えられています。
補足:この物語では助五郎は悪人役ですが、地元の飯岡(太平洋側旭市)では、そこの
漁師の為に尽力した任侠として、彼もまた地元では碑やお墓が建立されています。
お粗末ですが「天保水滸伝」の一説、ここまで。
・・・関連写真・・・
利根川と常陸利根川との合流点にある利根川河口堰。(以前、掲載済)

同上、この撮影場所の後ろに下記の碑があります。

時の宰相、田中角栄氏が揮毫した碑。

冒頭の「利根の川風 袂に入れて 月に掉さす 高瀬舟」 越山 田中角栄

同上、下図の① 諏訪神社境内にある「天保水滸伝遺品館」内に、直筆のものが掲げられています。

黒〇で囲んだところが天保水滸伝の主な場所。

諏訪神社の参道

同上

同上

諏訪神社境内にある江戸時代から続く奉納相撲の土俵。
毎年、出羽の海部屋が夏合宿を行う。

土俵の脇にある、相撲の元祖「野見宿禰命」の碑。繁蔵が建立した。

野見の宿禰命碑の由来
宿禰命の碑を建立し、農民救済の為を名目に、関東近辺のそうそうたる親分衆を招き大花会を催した。
国定忠治や清水の次郎長や大前田英五郎等の名が記載されている。

諏訪神社の利根川=支流の黒部川 方向の上図②の延命寺境内にある三名のお墓。
三名とは 笹川繁蔵(中央)、勢力富五郎(左側)と平手造酒(右側)

同上

同上

親分衆を招き大花会を催した 上図③ 十一屋 (現在は民家として、その名を残してている)

同上

同上

飯岡助五郎のお墓がある旭市飯岡の光台寺。

飯岡助五郎之墓由来。

そのお墓

以上、徒然に。
2022年2月8日
(PS)北京五輪が開催されています。判定に違和感を感じます。そのように指導を受けて
いるのでしょうか。こわい国ですね。品格もなく、人格もなく、常識もなく、権力
都合で汚いことをいとも平然と行う審判員は、上記、政治屋さんとダブリます。
年々、その寒さは増しており各地で降雪のNEWSを見るたびにビックリしています。
一方、春は徐々に近寄って来ています。
2月8日の紅梅状況

紅梅はだいぶ花がついてきました。

同上

白梅はまだまだです。

同上

さて、標題は
江戸末期から現在に至り 浪曲、講談、歌舞伎、映画、歌謡曲や演劇等で全国に知られた
「義理と人情」に生きた人達の物語であります。
♪ 利根の川風 袂(たもと)に入れて 月に掉(さお)さす 高瀬舟 ♪
ご存知 浪曲 玉川勝太郎の語りで始まる坂東太郎=北総利根川沿いで繰り広げられた
「やくざ」の抗争です。 所詮、「やくざ」かぁ と簡単に決めつけられるものではなく
それは、 昨今の「人道に悖る品格もなく礼儀も常識も通じない数の力で権力行使をする
やくざまがい」の一部の政治屋たちとは 大違いの人達(侠客)のお話です。
最近マスコミで見聞きする、やくざまがいの政治屋の、品格のない言動にはあきれます。
①権力をかさに自己都合の為に脅かし、嘘八百、誤魔化しをゴリ押しする無茶苦茶な人達
②政治協力を約束して勝たせてもらったのに挨拶すらもなく白紙に戻す礼儀知らずの人達
③アベノマスクと呼称された使途目的に合わない大量の製品不具合品を、只でしかも10
億円の配送料のおまけつきで、そして、それを勝手に税金で補う泥棒まがいの人達。
(焼却すれば6000万円で済む。岸田政権の采配拝見。もしくわ、単なる木偶の傀儡か)
その政治屋たちを取り巻く同僚議員さんは何で「見て見ぬふり」をしているのでしょうか。
アベノマスク起案者を起訴し懲役にもっていったり、連合との関係を断ち切る勇気を持った
集団が居ても良いと考えますが。国会中継を見ていると日本共産党が一番まともに見えます。
さて本題、
上記のような、昨今のこの類の政治屋とは大違いの、「義理と人情」に厚ーい熱ーい悪人
を挫き弱き人を助く、正義感に燃え、人間味に溢れた人達のお話です。
時は天保15年(西暦1844年)に北総東庄で起きた、笹川繁蔵一家と飯岡助五郎一家と
の抗争を描いたもので実話です。
正義感あふれる繁蔵の人気・勢力が増す毎に、それに嫌悪感と危機感を抱いた既存勢力
で十手持ち(役人)の飯岡助五郎は、お上の権力を傘に、対抗勢力である笹川繁蔵一家
のつぶしにかかります。これが冒頭の浪曲や講談等で有名な「大利根河原の決闘」です。
仔細は長くなるのでここでは割愛。
この決闘で、神田お玉が池の千葉道場一の剣客(道場主=千葉周作)で、繁蔵の助っ人
平手造酒が命を落とします。 (造酒は酒乱が元に千葉道場を破門されていました。)
繁蔵は造酒の体を気遣い、この争いの加勢は断り、養生に専念する様に命じました。が、
造酒は、長年お世話になった繁蔵の為に、養生先の病床から駆付け死を以って恩義を尽
くしたのです。 平手造酒のこの恩義話は、下記の様に今世にも語り継がれています。
三波春夫の「大利根無情」
♪セリフ「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散りぎわだけは
知って居り申す。行かねばならぬ。そこをどいて下され、行かねばならぬのだ」
田端義夫の「大利根月夜」
♪ あれを御覧と 指差すかたに 利根の流れを ながれ月 昔笑うて眺めた月も 今日は
今日は 涙の顔で見る ♪
この決闘では地の利を活かした繁蔵に軍配が上がります。
繁蔵が手強いと知った助五郎は正攻法の戦いではなく暗殺計画を練り、闇討ちにて繁蔵
を殺害します。 時に繁蔵は38歳。
繁蔵亡き後、笹川一家を束ねたのは代貸しの勢力富五郎で親分の敵討ちと再度、飯岡方
に乱入するもその目的は果たせないままになっていました。
当時、天保の大飢饉で幕府は、その災害等の対策が失敗続きで、国民の不信を買い威信
を低下させていたために、自らの権力を誇示しようと、関東取締役5人、夫々が百人余
りの手勢(計、約500人)を引き連れ笹川一家壊滅の為、富五郎狩を行います。
この行為は、当時の不信感払拭のためにお役人や幕府に逆らうものの、見せしめとして
執行されたのです。
いつの世も、こういう姑息で汚い手をつかう嘘八丁だらけの輩はいるもんですね。
さて、
最後まで残った富五郎と子分の栄助は地元の農民に匿われて約2ケ月間、近郷の金毘羅
山に立て籠もります。この当時、役人や幕府手勢の滞在費は村が負担する時世で、これ
以上に無関係の農民に匿ってもらい、迷惑をかけられないと、その山中で自刃します。
これが、 中国の四代奇書の一つ「水滸伝」に準え「天保水滸伝」として世に語られて
きました。 名付けたのは当時現地を訪れて取材した江戸の講釈師、宝井琴凌で、この
講釈師はちゃんと見てきたのです。(講釈師、見てきたかの様な嘘の話ではありません)
繁蔵や富五郎は、ただのヤクザではなく任侠・義侠心をもって地元の村人を守ってきた
侠客として慕われ、その証として後年に地元の人達は「勢力霊神」の碑を建立してます。
また笹川繁蔵、勢力富五郎や平手造酒のお墓や碑も同様のこの地に建立されています。
今でも東庄笹川の町を訪れると、大利根川の悠久の流れの傍らに語り継がれた男たちの
物語「天保水滸伝」が伝えられています。
補足:この物語では助五郎は悪人役ですが、地元の飯岡(太平洋側旭市)では、そこの
漁師の為に尽力した任侠として、彼もまた地元では碑やお墓が建立されています。
お粗末ですが「天保水滸伝」の一説、ここまで。
・・・関連写真・・・
利根川と常陸利根川との合流点にある利根川河口堰。(以前、掲載済)

同上、この撮影場所の後ろに下記の碑があります。

時の宰相、田中角栄氏が揮毫した碑。

冒頭の「利根の川風 袂に入れて 月に掉さす 高瀬舟」 越山 田中角栄

同上、下図の① 諏訪神社境内にある「天保水滸伝遺品館」内に、直筆のものが掲げられています。

黒〇で囲んだところが天保水滸伝の主な場所。

諏訪神社の参道

同上

同上

諏訪神社境内にある江戸時代から続く奉納相撲の土俵。
毎年、出羽の海部屋が夏合宿を行う。

土俵の脇にある、相撲の元祖「野見宿禰命」の碑。繁蔵が建立した。

野見の宿禰命碑の由来
宿禰命の碑を建立し、農民救済の為を名目に、関東近辺のそうそうたる親分衆を招き大花会を催した。
国定忠治や清水の次郎長や大前田英五郎等の名が記載されている。

諏訪神社の利根川=支流の黒部川 方向の上図②の延命寺境内にある三名のお墓。
三名とは 笹川繁蔵(中央)、勢力富五郎(左側)と平手造酒(右側)

同上

同上

親分衆を招き大花会を催した 上図③ 十一屋 (現在は民家として、その名を残してている)

同上

同上

飯岡助五郎のお墓がある旭市飯岡の光台寺。

飯岡助五郎之墓由来。

そのお墓

以上、徒然に。
2022年2月8日
(PS)北京五輪が開催されています。判定に違和感を感じます。そのように指導を受けて
いるのでしょうか。こわい国ですね。品格もなく、人格もなく、常識もなく、権力
都合で汚いことをいとも平然と行う審判員は、上記、政治屋さんとダブリます。