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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

愛郷一道の石碑

2018-08-16 06:18:54 | Weblog

           《白石に愛郷一道の文字が一際目立つ碑》                                                                                                  分類・地歴

              建立地  いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2                                    

         下蔵持の夜明けを碑文に記す
   江名⇔湯本線の下蔵持(しもくらもち)地域を通過する途中、昭和49年に建立された石碑が一基、道路側に向かって建っているのを見ることが出来ます。
 熊野神社の階段上り口の左側にあるものですが、その石碑の全文を明記してみます。

     愛郷一道  厚生大臣 斉藤邦吉
 我等が郷土いわき市鹿島町下蔵持は祖先の勤行により水利の便に恵まれ地味丈豊かな豊穣の地であります
 たゞ字里屋より宮ノ作・小部屋作・嘉睦家を経て戸ノ内から猿田に入る線又館ケ岡より満屋に至る両路線は明治以来の狭隘なる幅員屈曲の玉地域住民の不利不便は筆舌につくせぬものあり此が改良は父祖百年来の悲願でありました
 時偶々昭和四十三年三月大字総会に於て改良の衆議一決し万難を排し之が達成を期しました
 直に国会議員現厚生大臣斉藤邦吉先生を国会に訪ねてご支援を仰ぎ市会議員及川正枝氏同じく橋本勲氏近くは斉藤誓之助議員のお力添えの下に大和田いわき市長始め市会等関係各機関の協力を得て昭和四十五年五月第一期工事着手以来数期に渉ってその全部を完成しました
 たゞ残念なのはいわきニュータウンとの計画道路との関係で猿田への市道改良は中止の止むなきに至りました
 この数年間歴代区長の尽力は勿論大字全員一丸となって達成に努力し、入作者又心から賛同してくれました
 想へば明治からこの方父祖がやろうとして出来なかったこの難事を今私達は成し遂げたのです
 又時を同じくして常磐湯本より江名港への県道も改良舗装されたので実にこの壮挙こそ郷土の夜明けであることを大喝し、この喜びを先世に捧げ後昆に告げたいと思います
 尚碑初は小名浜町会川六郎氏の寄贈です
      昭和四十九年十一月一日


記念碑建立発起人会代表 波立徳次郎
発起人 木田三郎 志賀三之 三島五行
                                          志賀幹司 橋本清雄 佐藤信男
国井正久 鈴木武夫 国井一郎
国井喜久    石工 吉田稲人

 ※裏面に寄附芳名者(41名)の記載があります。
        
 

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じゃんがらの唄

2018-08-15 06:16:26 | Weblog

                                                                                                 
   分類:催                     いわき市暮らしの伝承郷                                   鹿島町下矢田字散野14-16(県立いわき公園内)                                                      
   供養と 祈りと 涙に似た汗と                               昨日(14日)は 「いわき市暮らしの伝承郷」 の民家ゾーン、猪狩家の庭先で 「じゃんがら念仏踊り」 の実演がありました。
 牛後1時に、常磐の「上矢田じゃんがら保存会」の皆さんが、団長の先導で総勢16名が鉦(かね)と太鼓を鳴らしながら観客が待ち受ける庭にやってきました。
                
  《長提灯を手にした団長の先導で、さっそうと踊り手たちがやってきた=猪狩家の入口》



じゃんがら念仏踊りが、いわきで初めて踊られたのは明暦2年(1656)と言われている。                                              8月のお盆に、この1年間に亡くなった人の家を回り、鉦・太鼓を鳴らしながら故人を供養する伝統文化で、市の無形民俗文化財に指定されています。毎年、盛夏の中を霊を慰め回り歩く姿はいわきの夏の風物詩であり、市内の各地で行われるこの念仏踊りが終わると、朝夕すっかり秋の気配を感じさせる季候を迎えます。                                                       《汗を滴らせての実演がいよいよ開幕》    《じゃんがらが行われた猪狩家の旧家》


        じゃんがらの唄       箱﨑 昭

    
ほら見えるかい 聞こえるかい                                庭先で踊躍するじゃんがら念仏踊り                            生きる者が盆の霊を敬う心                                   記憶よ和らげ 苦しみよ安らげ
鉦と太鼓のリズムに念仏は踊る

♪ナアハアハアー、モオハハホーイ                                供養と 祈りと 涙に似た汗と                                     青年たちの熱い競演は興奮の坩堝(るつぼ)と化す       
太鼓を打つ者 鉦を鳴らす者                                   円を描いて舞い 念仏をそろえて唄(とな)え                                魂は彼岸、此岸の両界とで清められ                               肉親の徳を積む じゃんがら

高僧が庶民に説き広めた念仏                                     江戸時代から脈々と受け継がれ                                  四百年の歴史を伝える極楽浄土への道は                            いま、幾多の煩悩と悟りに揺れる
叱責のように激しく打ち叩かれる太鼓                            金切り声を上げて泣き叫ぶ鉦                                  じゃんがら念仏踊りは最高潮に達する                                                                       
山々の濃い緑に濾(こ)され、夜空に抜けていく
送り人は、失った尊い命と別れを惜しむと                          山里に再び静寂な空気と、生暖かい風が漂う                         蜩(ひぐらし)が鳴き、色褪せた鬼灯(ほおずき)は                          このとき、ひと夏の終わりを告げる
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風化していく久保の磨崖仏

2018-08-14 06:24:01 | Weblog

           《久保磨崖仏を正面と側面の双方から見る》                                                                                  
                             分類・地


                 所在地  いわき市鹿島町久保薬師前
  
 久保の磨崖仏(まがいぶつ)は鹿島街道沿いにあり、車で走行中でも良く見ることができます。
 ここは元禄年間(1688~704)頃に薬師堂があったということは、地名に 「薬師前」 として残っているだけでも当時存在していたのを示す証拠で、土地(地元)の人たちは磨崖仏のある場所を今でも岩薬師と呼んでいます。                                                           《市指定の久保磨崖仏》       《磨崖仏の概要が記されている案内板》  


   平成21年(2009)4月に磨崖仏は市文化財に指定されました。「磨崖仏は風化されていく危険性はあるものの、当初からの原型は保たれているもの」とし、いわき市指定文化財としての価値を認められたものです。 しかし、鎌倉時代(1190~1334)に彫られたと云われる4体の如来形の坐像は、現状では長期保存は難しいのではないかと危ぶまれています。なにしろ凝灰岩の脆い岩質で、風雨にまともに晒されている訳ですから [指定した] だけではなく、今後の保存方法について何らかの処置を施して欲しいものです。                                        

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生活と伝統を知る伝承郷

2018-08-13 06:45:01 | Weblog

                    《県立いわき公園内にある伝承郷》                                                                                                             分類・地
                                          
               いわき市暮らしの伝承郷  いわき市鹿島町下矢田字散野14-16
                                 0246-29-2230 


     浜通りの伝統芸能を紹介してあげよう                              「いわき市暮らしの伝承郷」は平成11年7月に開園され、今年で20年目を迎えました。 
  場所は、鹿島街道平方面から来て、下矢田の信号(T字路で渡辺ゴム有り)を左折して「いわきニュータウン」へ向かい、上り坂の一つ目の信号を右に曲がった角がそうです。                                      茅葺き屋根の古民家が見えてくるのでスグに判ります。                                                 《旧・猪狩家の民家》 

 園内には、いわき市内に実際に残っていた民家5棟が修復保存されています。
 常設の展示室では「いわき」の年中行事や昔ばなし・方言・伝統芸能・子供たちの暮らしの変遷などを、つぶさに見ることができます。
 
 明日(14日)のイベントは上矢田町じゃんがら保存会による、伝統芸能「じゃんがら念仏踊り」の実演があります。夏休み中で他県から、いわきに遊びに来ている親戚の人や、友達などがいたら誘って見せてあげたら、きっと喜ぶと思います。                                             場所 : 旧・猪狩家前庭 時間 : 13:00~13:30(※観覧は自由で無料ですが、伝承郷へ入る                                        ための観覧料は必要です)                         

 観覧料  一般 320円(280円)  高・大学生 210円(160円)  小・中学生 160円(110円) ( )内は20名以上の団体割引料金です。 
                                    


    

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鹿島街道に三つある物?

2018-08-12 06:11:59 | Weblog

                 《小神山(走熊)交差点にある地下歩道入口》                                                                                                分類・地

 正解は 『地下歩道』 で、いわき駅方面から挙げると、①十五丁目交差点  ②若葉台入口交差点  ③小神山交差点(写真上)の3個所となります。                                                   平の国道6号線(陸前浜街道)と交差する十五丁目の信号から、小名浜の本町通りに突き当たるまでの約13kmの区間です。
 ちなみに、十五丁目から先の「いわき駅」へ向かって行く道路からは磐城街道になります。
十五丁目交差点は昭和30年頃までには信号機がなく、円形の噴水池状のロータリーになってい                                          て、角に平市消防署がありました。

 世の中は車社会に合わせて何事も車優先のようで、車をスムーズに走行させる為には人を地下に潜らせたほうが効率的だという発想から出来上がったのだと思います。歩行者が肩身の狭い思いをさせられる現状が赤裸々に表れています。                                                               そうなれば、歩行者も賢さを発揮します。そんな地下道の階段を下がったり上がったりする時間と労力を費やさずに、少し離れていても車道に横断歩道がある信号を利用するようになります。

 結果、莫大な工事費を掛けて作り上げた地下道は、どこも無用の長物として歩行者からソッポを向かれているのが現状です。 しかも、昼間に男性でも1人で地下道を歩くと薄気味悪い感じがするのは私だけではないように思えます。

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支那事変と軍馬の徴用

2018-08-11 06:28:40 | Weblog

                   《鹿島公民館敷地内にある従軍馬慰霊塔》                                                                                       分類・歴

                              場所  いわき市鹿島公民館                                                         いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1

 明治・大正・昭和の中頃まで営農に欠かせなかった馬は、農家の財産の半分に相当すると云われるほど大事に扱われてきました。
 鹿島村当時の馬匹数(明治42年)は139頭で、その内訳は牝124頭、牡15頭だったという調査記録があります。
 
 昭和12年(1937)から昭和20年(1945)の間に、日本と中国大陸の大部分を支配下においていた中華民国政権との間で行われた支那事変では、農家の馬も軍馬として徴用されたり買い上げられたりしました。
 ※通称「日中戦争」ともいいますが、当時の日本政府(大日本帝国)が定めた正式名称は「支那事変」としての公称なので、支那事変の記述としました。
                  《御代坂で行われた軍用馬鍛錬会》                

 支那大陸の戦線では軍馬が従軍していく数が増していき、徴用された家では新たに馬を買い求めると再び徴用されるという状況が続きました。
 従って、鹿島村全体で一体、幾頭の馬が従軍したのかは結果的に把握できていないようなのです。

 昭和14年3月10日、鹿島小学校前にあった小高い山の、丸山公園(現在は削り取られて跡地に鹿島公民館が建っている)の登り口に、村の扶助受給者一同と国防後援会で造立した「従軍馬慰霊塔=写真」でしたが、今は平坦地になった鹿島公民館の敷地内に置かれています。
 かつては、台座が五段ありましたが現在では二段に変化しているのが気になるところです。
 しかし、位置的には昔あった丸山公園の登り口に極めて近い場所に置かれています。

                           
            
                          

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氏神さまから村社に昇格

2018-08-10 06:12:42 | Weblog

                《熊野神社 旧・村社》                                                               
                           分類:神仏
                              
       
      鎮座地  いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2
                                           
祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)  速玉男命(はやたまおのみこと)              
    伊弉冊尊(いざなみのみこと)   泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)
 
熊野神社は、江名⇔湯本(県道48号線)の中間あたりで、下蔵持(しもくらもち)地区の道路沿いにあります。
土地の志賀家所蔵の旧記によると、志賀久左エ門の氏神にして弘仁2年(811)より享和3年(1803)正月まで同人宅地内に在ったものを、同年より村の鎮守と為し村社と号したという記載があります。
 
また、延暦23年(804)正月、坂上田村麻呂将軍が蝦夷征討に際し勧請したとも伝わっています。
 爾来、産土(うぶすな)さまとして崇敬してきましたが、境内の戸ノ内87-1は海抜100mの当地区では最高地のため、神事や参道などの面から種々支障を来し昭和32年5月、近隣地の戸ノ内102番地に譽田別命(ほんだわけのみこと)=品陀和気命を祀る旧小社三島八幡神社の聖域を拡張整備し、社殿を新たにして熊野の正床を奉遷すると共に八幡さまも合祀して産土神としました。 

昭和48年、国土法による地積調査の時点にて三島八幡神社の敷地「戸ノ内102番地」を不存地とする便法をとって、これを「戸ノ内87-2番地」と改め、熊野神社の敷地としました。
             

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懐かしい鹿島の風景

2018-08-09 06:12:46 | Weblog

                                                     分類:地 


 鹿島町の地域は昭和41年に鹿島街道が 開通してから 急速な発展を遂げて、家具の 「丸ほん」 や 、レストラン 「メヒコ」 など沿道に続々と店舗が並んでいきました。                                                               
 一方、旧道は徐々にではあるが老人福祉施設や医療施設が建ってくるようになります。                                                           
下の写真は昭和30年代のものですが、田圃の中に道が1本通っているだけでした。
                             《丸山頂上から撮った久保方面の風景》


 七本松(左手前)から久保方面へ向かう旧道ですが、右カーブの辺りが鹿島の民話に出てくる「里也橋」(拙ブログの2018/6/4付参照)です。曲がり切った左側一帯が現在ある「かしまクリニック」や「かしま病院」になります。                                                                                     
写真(上)を撮った場所の 「丸山」 とは、位置的に未だ山が削り取られる以前に存在していた山のことで、今でいうと平地になってから鹿島公民館が建ったその上の方となります。      


</p

    《上下とも小神山信号の定位置から撮影したもので、手前を横切る通りは鹿島街道》


 今は右角に「びっくりドンキー」があり、「鹿島ショッピングセンターエブリア」に向かって地下歩道がある所になります。丸山は中央を切り通しにした段階ですが、昭和54年までに全部平地になりその後、左に鹿島公民館、右にハニーズ本社が出来ました。                                                                                                     


 

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クリナップと、いわき

2018-08-08 06:45:34 | Weblog

             《クリナップいわきショールーム》                                                                                                                                分類・地
 
      クリナップいわきショールーム  いわき市鹿島町御代字九反田51-5      
                       0246-58-4771
       
      クリナップ株式会社(本社)    東京都荒川区西日暮里6-22-22
 

 クリナップいわきショールームは、鹿島街道の 「御代バス停」 の目の前(小名浜方面から来て左側)にあります。
 
 いわき木材住宅センターと隣接しており、ヤマダ電機も直ぐ近くです。
 店内には自社製品のシステムキッチン・システムバス・洗面化粧台などが展示されています。 クリナップはシステムキッチンや洗面化粧台などを生産していますが、国内工場のうち半分は、いわき市にあります。それは創業者であり会長の井上登氏が、いわき市出身で地元を思いやる気持ちの表れからきているものです。 四倉工場をはじめとして湯本工場や鹿島工場(常磐水野谷町)があります。 
 昭和24年(1949)に東京・荒川区で座卓を製造販売する事業を興し、昭和29年(1954)には、井上食卓株式会社を設立したことから事業が発展を遂げています。
  現在の社名(クリナップ)になったのは、同社開発の調理台・ガス台・流し台の三点セットをクリーンナップトリオとして売り出したところ、忽ち好評を博して製品の売り上げアップに繋がったのでクリーンナップの語感から「クリナップ」と命名したのだそうです。
 蛇足ながら、野球でクリーンナップというと4番打者のことをいいますが、日本では3,4,5番をいうことが多く、この場合をクリーンナップトリオといいます。

   
   営業時間  am10:00~pm5:00    
   定休日   水曜日(夏季・年末年始休日等有り)
                                         

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宝物は砲弾一個の八幡様

2018-08-07 06:10:09 | Weblog

               《米田地区にある八幡神社》                                                                           分類:神仏

      八幡神社(旧小社)    鎮座地 いわき市鹿島町米田字家ノ前56
                         祭神  譽多別命(ほんだわけのみこと)
                                   宝物  砲弾一個
                                   例祭  旧暦4月15日  旧暦9月15日
   
    ◇境内面積 25坪  ◇本殿 八幡造1・5坪こば葺  ◇幣殿 1坪瓦葺  ◇拝殿6坪瓦葺

 譽田別命は、第15代応神天皇の御名。
 仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた第4皇子です。
 応神天皇は在位中に百済新羅(くだらしらぎ)と交易し、縫工・鍛工・養蚕・紡績などの術を導入なされ、品陀和気命(ほむだわけのみこと)とも書かれます。

 磐城国に八幡神の勧請されたのは、後鳥羽院の御代前後であることは、他の八幡神社の由緒によって明らかにされていますが、米田の八幡神社の場合、祭神を同じくしながらも往古の記録を失って、創建年代は定かではありません。

 社殿内の由緒板によると、孝明天皇の御代の安政4年(1857)、に社の寄進があり、安政6年正月には氏子ら9名が銅二百文ほどずつ出し合い、社殿を再建しています。
 慶応元年(1865)には鳥居を寄進、明治6年(1873)小社列格。

 昭和12年の正月に社標碑を建立し、同年3月には三沢地区の吉田正義 (※人物に関しては当ブログの2017・10・1付参照) の筆による 「八幡神社」 の刻字額奉納を氏子一同で行っています。

 場所は鹿島街道の 「ブックオフいわき鹿島店」 の信号から、湯本方面に向かって行きバイパス高             架橋手前にあります。
  

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高照山の道普請

2018-08-06 06:44:35 | Weblog

                                            分類:地

                           場所 : いわき市鹿島町走熊高寺山                   17日の高照観世音祭典に備えての清掃                                  連日35度前後の高温が続く中で、昨日(5日)は、高寺山の道普請が行われました。                  今月17日に行われる「高照観世音祭典」に合わせての一環で、毎年8月の第1日曜日に走熊の旧の人たちが、この作業は行われるようになっています。

                             《午前8時、高寺山上り口に集合。今日も暑くなりそう》

  高寺観音は、磐城三十三所観世音巡りでは最も難所で、入口から観音堂までの約1㎞をゆっくり上って20分ほど時間が掛かるところにあります。                                    その道程の両サイドに覆い被さっている竹笹や雑木の枝を切り払っていく作業です。

                        《観音堂へ通ずる道》            《観音堂へ到着、先ずは一息入れる》

 観音堂を祀る高寺山は、海抜126mで鹿島町では最も高い山です。                          17日の祭典日には区長・区長代理・寺世話人などが、小名浜住吉にある遍照院の僧侶に伴い、祭壇や供物、それに獅子頭を持って登って行き、僧侶の読経によって厳格かつ静粛な儀式が執り行われます。                                                                                                                    この祭典は昭和40年代まで、青年団が本堂の前で 「獅子舞」 を奉納し、山の上り下りには鉦(かね)・太鼓を鳴らしながら歩いたものですが残念ながら現在では行われていません。ただ役員が獅子頭を持って行くというのは、その名残です。                                          《磐城三十三所観音霊場高照観音堂

 帰り道は、狭い道に積もった枯れ落ち葉を除去して、唐鍬で整地しながら降りてきて 「高寺山の道普請」 は無事終了しました。

 

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えっ、福島県が出てこない

2018-08-05 06:23:50 | Weblog

                                            分類:地                      

 あるリサーチが実施した全国1077人(13歳以上の男女)から得た回答のデータによると、ランキング上位は観光リゾート地として人気の高い地域と、大都市圏の二つに大きく分かれました。                              そのアンケートの問いは 「あなたが老後に住むとすれば、どこがいいですか。47都道府県の中から最大で3つまで選んでください」 というものでした。上位5位までを挙げると次の通りになります。                              1位 沖縄県   20%                                                               2位 東京都   20%                                                         3位 神奈川県 15%                                                                                                4位 北海道   15%                                                       5位 千葉県    9%                                                                                      以下、大阪府(8%)・兵庫県(8%)・埼玉県(8%)・静岡県(7%)・京都府(7%)と続いて、20位の愛媛県(2%)まで 「福島県」 の名は全く出てくる気配はありません。                                       せめて、住みたいと思ってくれる 「ベスト20」 内には欲しかったです。                        東北では宮城県がただ1県、14位(4%)に入っているだけでした。                    《一生懸命に働いてきたんだもの、せめて老後は好きなように生きようよ》

 定年退職後は、のんびりとした田舎暮らしに憧れる人が多い一方で、いざ決断する段階になると、今は元気でもやがて身心が衰えてくる老後への不安から付近に医療や諸施設などが充実しているリゾート地や大都市を選ぶようになってしまうことがデータに良く表れています。                                   人里離れた土地で余生を送りたいというのは、矢張り理想に過ぎないということを如実に物語っています。

 少子化社会を迎えて、全行的に人口が自然減少していく中で、僻地は敬遠されて益々、過疎化していくのかと思うと政治家が唱える 「地域活性化」 などというものは単なる絵空言でしかありません。                  因みに東北の表玄関ともいわれ、気温や食物にも恵まれ、しかも浜通りに面して好条件の 「いわき市」 の人口を調べてみますと、平成21年(2009)8月1日の人口は345,305人でしたが、平成30年(2018)7月1日現在では343,383人なので、過去9年間で実質1,922人の減少となっています。

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夏本番! ドンワッセ

2018-08-04 06:30:50 | Weblog

                                             分類:催

                  場所 : 鹿島街道(小名浜本町⇔いわき市役所小名浜支所)

      第65回いわき踊り小名浜大会                                      昨日(3日)は、夏恒例の「第65回いわき踊り小名浜大会」が行われました。                               夕方6時からメインステージで市長や実行委員会の会長挨拶があり、6時30分から道路を閉鎖した区間で踊りがスタートしました。                             《暑さも気分的に治まってきた6時30分。いよいよ勇壮活発な踊りの開演》                

 参加チームが54団体、参加者が2400人以上に、見学者が歩道を埋め尽くして、暑い中のひと時を「復興いわき」をアピールする格好のイベントでした。                         《オープニングステージ》             《鹿島町の子供たちも、決めた!》

                       《開放された車道も歩道も6時前からお祭りの雰囲気が否応なく漂っていた》

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いわき信組と福島高専

2018-08-03 06:31:57 | Weblog

               《いわき信用組合鹿島支店》                                              
                            分類・商


          いわき信用組合鹿島支店  いわき市鹿島町久保字反町7-4
 
                          0246-58-4111
   
                本部・本店営業部  いわき市小名浜花畑町2-5
 
 
 いわき信用組合は 「いわしん」 という愛称で呼ばれている地元に根の着いた金融機関です。
 その、鹿島支店=(写真)は、隣に 「ABCマート」 と、市指定文化財になっている磨崖仏の側に位置して、鹿島街道を挟んで向かいにコンビニ 「ファミリーマート」 があります。 本部・本店営業部を含めて市内24店舗を数えます。他にATMコーナーとして、鹿島ショッピングセンターと旧、久ノ浜支店駐車場内の2ケ所があります。 同信用組合は、昭和23年7月(1948)江名町信用組合として設立昭和32年6月(1957)磐城信用組合に改称昭和41年9月(1966)いわき信用組合に改称平成14年7月(2002)つばさ信用組合と合併、という変遷を経ている歴史のある金融機関です。 平成21(2009)年1月に、福島高専(平谷川瀬)と、いわき信用組合との産学連携協力推進に関する覚書の調印式を同校に於いて執り行われています。 この覚書には、相互の協力によって地域の産学連携を推進し、地域の中小企業支援を柱に、地域社会の発展へ貢献することを目的としています。                        《鹿島街道沿いにある、福島工業高等専門学校の校門前》

双方による連携協定は、地域からも大きな関心が寄せられており、福島高専の研究成果がより円滑に地域に還元され、産学連携が更に発展している源にもなっています。

      
ATM取扱時間  平日 8:45~20:00 土日祝  9:00~17:00
  
鹿島ショッピングセンター 平日 10:00~20:00 土日祝 10:00~17:00
              

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草飼の千本松

2018-08-02 06:14:51 | Weblog

                   《遠方の高台が千本松と呼ばれていた場所》                                                                      分類:歴 
 いわき市常磐上矢田(かみやだ)町にある鹿島神社付近の東
側の道を入っていくと、高台に「いわきニュータウン」の一部が見えてきますが、あの辺り(写真上の中央に僅かに確認できる白い建物)が「草飼(くさがい)の千本松」と呼ばれていた所です。 鹿島街道の上矢田から山間を伝って細道を、吉野谷を経て上高久方面へ向けて歩いて行くと、今でもその名残を感じます。                   後世、武人から軍神として厚い尊信を受ける武甕槌神(たけみかずちのかみ)が奥州塩竈に向かうため、部下を引き連れ乗馬姿も勇ましく、その山道を通り山頂で小休止をしました。 その時に、神馬をそこの松の木に繋いで草を与えたことから「草飼の千本松」と呼ばれるようになったとの伝えです。 この縁起伝説の地も今や、いわきニュウタウンの宅地造成地から近代住宅群が建ち並び、既に樹木不毛の地となってしまいました。            
 ◇上矢田は、その昔大矢田といっていましたが平安時代(延歴年間・西暦782~805年)に征夷大将軍を務めた、坂上田村麻呂がこの地を通った際に矢の根を鹿島神社に奉納される時「村、げる」と書かれたので、以来「上矢田」というようになりました。
 その矢は現在でも鹿島神社に伝わっています。                    

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