《鹿島公民館敷地内にある従軍馬慰霊塔》 分類・歴
場所 いわき市鹿島公民館 いわき市鹿島町走熊字鬼越83-1
明治・大正・昭和の中頃まで営農に欠かせなかった馬は、農家の財産の半分に相当すると云われるほど大事に扱われてきました。
鹿島村当時の馬匹数(明治42年)は139頭で、その内訳は牝124頭、牡15頭だったという調査記録があります。
昭和12年(1937)から昭和20年(1945)の間に、日本と中国大陸の大部分を支配下においていた中華民国政権との間で行われた支那事変では、農家の馬も軍馬として徴用されたり買い上げられたりしました。
※通称「日中戦争」ともいいますが、当時の日本政府(大日本帝国)が定めた正式名称は「支那事変」としての公称なので、支那事変の記述としました。
《御代坂で行われた軍用馬鍛錬会》
支那大陸の戦線では軍馬が従軍していく数が増していき、徴用された家では新たに馬を買い求めると再び徴用されるという状況が続きました。
従って、鹿島村全体で一体、幾頭の馬が従軍したのかは結果的に把握できていないようなのです。
昭和14年3月10日、鹿島小学校前にあった小高い山の、丸山公園(現在は削り取られて跡地に鹿島公民館が建っている)の登り口に、村の扶助受給者一同と国防後援会で造立した「従軍馬慰霊塔=写真」でしたが、今は平坦地になった鹿島公民館の敷地内に置かれています。
かつては、台座が五段ありましたが現在では二段に変化しているのが気になるところです。
しかし、位置的には昔あった丸山公園の登り口に極めて近い場所に置かれています。