《この土手下を、西軍は鳴りを潜めて進軍して行った》 分類:歴
矢田川は上矢田の獺沢(おそざわ)を源として鹿島地域を貫流し、南富岡(小名浜)に至って藤原川と合流しています。
この矢田川を戊辰戦争の際に西軍がうまく利用して、平城進撃を有利にさせた起因の一つに挙げ られています。
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、4月に幕府の江戸城開城、無条件降伏により大勢が決した。
しかし、薩長両藩を中心とする新政府主戦派は、東北諸藩の武力討伐を主張し、その中でも特に会津藩が標的となりました。
これに対し、仙台藩を盟主として奥羽25藩は列藩同盟を結成(※後に北越6藩が加わる)、新政府に抗議することを決議しました。
磐城三藩もこれに加盟して、こうした状況の中で磐城の戦いは始まったのです。
磐城三藩は海岸線の無防備を懸念して、仙台藩に援兵を頼み300名ほどの兵が送り込まれ平潟、植田八幡山、二ツ橋などに配置されていきました。
西軍の諜報機関の巧みな活用により、各地に於ける東軍の敗色は次第に濃厚となり、平城下への進攻は早まっていくことになります。
《東軍はこの辺りに砲台を据えて敵方を待つが、裏をかかれて奇襲されてしまう》 7月10日には鹿島の走熊(はしりくま)七本松地点でも両軍の攻防戦が起こるが、西軍の奇襲作戦に遭い戦況は不利となります。 この奇襲作戦とは、前を流れる矢田川の中を密かに進んで台場の直前に出たことにあります。
不意打ちを食らった仙台・平藩の兵は戦況不利の憂き目に遭い、仙台兵は江名へ敗走、中ノ作港から船で逃亡してしまいました。
これほどまでに西軍の戦いを有利にさせた陰に、実は小名浜の侠客として知られた若松鉄五郎父子の存在を無視する訳にはいきません。鉄五郎・誠三郎は西軍の道案内を買って出て、地方の地理、地形を教えていたことにより西軍の戦果が上がりました。更に軍次山(平と鹿島の村境)の要塞も破られ、谷川瀬から新川町関門へと攻められます。
そして7月13日、遂に平城陥落の日を迎えることになってしまうのです。
走熊の蔵福寺の墓地の一角(鹿島村役場跡入り口の左細道を上りきった高台)には、明治15 年に建立された「仙台藩士五名戦死」の碑が無名のまま、ひっそりと佇んでいる。
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