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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

いわき市鹿島町を歩こう32

2015-08-16 06:39:23 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    32
    鹿島神社の大杉      所在地 : いわき市常磐上矢田町花木下(旧、鹿島村上矢田)

 鹿島神社は、延喜式に記載されている市内の神社(磐城郡七座・並小)の一つに数えられ、祭神は武甕槌命(たけみかずちのみこと)です。
 延喜式内社で、旧郷社でもあり創建は神護景雲二年(西暦768年)とあります。


                   《天に向かって聳(そび)え立つ大杉》
 この鹿島神社の境内には 「いわき市の保存樹木等指定」 になっている1本の杉の大木があります。


                      《大杉の側にある案内板》
 ▲樹高や幹囲の計測は、昭和58年当時のものでしょうから実際には更に伸びていると思います。


                    《鹿島神社と左側にあるのが大杉》
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いわき市鹿島町を歩こう31

2015-08-15 06:35:12 | Weblog
                             分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう  31
   走熊(はしりくま)の天狗岩     所在地 : いわき市鹿島町走熊字山ノ神

 走熊の地域に田圃の中に1個だけしかない不思議な小岩があります。かしま幼稚園から中央台へ抜ける途中にあり、岩の高さが大体1、8メートルで横幅が3メートルくらいのもの。
 凝灰岩なので風化しやすい石質ですが、この石には伝説があります


             《天狗岩と1本の松 2009年5月

 昔、高寺山(たかでらさん)には悪魔や病気を追い払う天狗が住んでいたそうです。
 高寺山とは、磐城三十三観音の1つにに数えられる十一面観世音菩薩のお堂がある山です。その天狗は気は優しくて力持ちときているから、村の人たちから非常に親しまれていたのですがある日、この地の安泰と平穏を悟って山から飛び去っていくようになった。
 ところが、その時に天狗の下駄の鼻緒に引っ掛かっていた小石が田圃に落ちて、次第に大きくなってきて今のような岩になったのだそうだ。
 天狗が旅立ちに残していったお守りとして、部落の人は大切にしています。


          《惜しくも枯れてしまった松が無残 2013年4月

 岩の割れ目から実生の松が長い年月をかけて育ってきたのですが、大きくなるにつれて根張りも著しく伸びすぎて田圃にまで張り出しました。

           《岩をも砕く勢いで生命力を保ってきた松の根

 田圃の持ち主が根を切断したのが致命傷で、松は枯れてしまいました。
 伝説=夢。 過失=破壊。
 こうして、古いものは人為的な過ちや風化によって、いつかは消滅していってしまうのかと考えると悲しい思いをしました。


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いわき市鹿島町を歩こう30

2015-08-14 07:03:10 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    30
  日吉神社と三沢館跡   所在地 : いわき市常磐三沢町字日吉下66 (旧、鹿島村三沢)


                          《日吉神社》
 
祭神 : 大山咋命(おおやまくいのみこと)
     素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子で穀物の守護神といわれ、別名を大年神、あるいは山末
     之大主神ともいう。


 昔から三沢館(みさわだて)と呼ばれてきた所があったが、常磐バイパスがこの付近を通るようになって磐城国道事務所の委託を受けて、財団法人いわき市教育文化事業団が遺跡の調査を行った結果、幾つかの住穴や土穴、土杭などが見つかりました。
 これを学術的な呼称としては 「日吉下遺跡」 といいます。
 南から北に延びる丘陵先端部に位置して主峰の標高は48メートル、麓から主峰までの比高差は約37メートルで、丘陵北側の眼下に三沢川が東流しています。


                《高台にある境内から常磐バイパスが見下ろせる》

 場所的には常磐バイパス(国道6号線)と、湯本~江名港線(県道48号線)が交差する地点の至近距離にあり、山林と日吉神社の境内に位置していました。
 検出遺物には国産及び船載陶磁器、土器、白銅製端花双鳥五花鏡、泥塔などがあります。
 平安時代に三沢の地になぜ、戦争に備える館が必要であったのか、実際に合戦があったかどうかは不明ですが、恐らく平時は辺りの集落で農作業をしていた人々が、いざ合戦となるとこの館に籠って攻め来る敵と戦ったのでしょう。
 遺物から三沢館の機能した主要時期は15世紀代と考えられ、館主は伝承では四家氏と言われています。
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いわき市鹿島町を歩こう29

2015-08-13 06:57:47 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    29
     里也橋(さとやばし)の謂(いわ)          所在地 : いわき市鹿島町下蔵持

 鹿島町の旧道を横切る蔵持川に里也橋が架かっています。「里屋」とも書きますが命名の起因は、あとで判ると思いますが 「さとやばし」 は、「(なり)」からきています。

                   《里也橋 (左の建物はクリニックかしま) 》

 昔、久保村から欅(けやき)の巨木を採り出して、蔵持川に橋を架けることになりました。その巨木は、さすがに重くて人夫が押しても引いても簡単に動かすことができずに苦労しました。
 そこで蔵持に住む 「さと」 という歌の上手な美少女(寡婦ともいわれる)を呼んできて、音頭(木遣り)をとらせたところ、大木はスムーズに動き出して目的の場所に達し、工事を無事に終わらせることが出来たといいます。


                      《車道とは別になっている側道橋》

 橋は、その名にちなんで 「里也橋」 と名付けられたということです。
 その後、橋は何度も改修工事が行われたものの、名前だけは変わらずに今でも里也橋として皆に親しまれています。


                     《側道橋のフェンスにあるプレート》

 ▲資料によっては、巨木の採り出し場所が蔵持地区の榎(えのき)であったり、橋名も 「里也橋」 や
   「里屋橋」 になったりします。
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いわき市鹿島町を歩こう28

2015-08-12 06:46:32 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    28
    全戸で使用していた古井戸          所在地 : いわき市鹿島町飯田字越巻

 明治22年に近郷12村が合併して鹿島村(現・いわき市鹿島町ですが、うち3地域は常磐を名乗っている)として村政が布かれたが、この飯田地区もかつては飯田村として独立していました。

                  《昔は民家で共有していた古井戸》

 驚きなのは、村と称した飯田地区はたったの7軒で村政を維持していたのですから全国的に見ても稀な村だったのでしょう。(註・明治初期の記録上では戸数は8軒だった)
 
 いつの頃からかは定かでないが 「飯田7軒鍋七つ、すり鉢三つで井戸一つ、ニワトリ3羽でホーイホーイ」 と、他の人たちから冷やかされたこともあったらしく、今でも古老の中には苦笑しながら語る人がいます。
 これは小ではあるが何事も助け合い、どんな相談事でも纏まりが早いことが他の人たちからみると羨望の的であったらしく、それが揶揄される原因になったと思われます。

 歌の文句にあるように、確かに昔は井戸が1つだったのです。
 小泉宅で、その曰く付きの古井戸の場所を尋ねたところ 「スグそこにあるのがそうだ」 と言いながら 「昔は、その井戸で7軒が使っていたんだ」 と説明してくれました。
 井戸の深さは約4メートルあり、水はいくら汲まれても元の水位に戻るという湧出量の豊富さで、以前は有地としてその周囲数坪の敷地を持っていたが、現在は財務省財務局の官有地になっているそうです。
    
     
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いわき市鹿島町を歩こう27

2015-08-11 07:02:39 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    27
     鹿島と湯本を繋ぐ三沢トンネル         所在地 : いわき市常磐三沢町

 この三沢トンネルは、湯本⇔江名線(県道48号線)の鹿島ショッピングセンター前を通り過ぎて湯本方面に向かい、鹿島工業団地へ上る手前の信号を右折して1kmくらいの所にあります。
 逆に国道6号線から行くには関船の信号(角に湯本自動車学校あり)を左折(平方面からの場合)して道なりに行くとあります。


                 《このトンネルを抜けると湯本(水野谷)へ出る》

 地名が語っているように、昔は沢あり谷ありの幅員の狭い道であったことが推察できます。トンネルに至るまでは低地で湧水もあって、馬で米や薪などを運ぶ際に途中で荷物を落としてしまうようなこともあったようです。

 道路そのものは昭和6年に改修工事が始められ、一部地域の反対により紆余曲折はありましたが昭和12年4月に通称、柳沢(三沢反合田地内)の急カーブを直線に改修するところまで工事は進んでいきました。
 
 湯本側(水野谷地域)も昭和25年に改修が行われました。
 三沢トンネルの開通は昭和36年となっていますが、幅員5m5cmになったり、道路をアスファルト舗装にしたりして市民から本格的なトンネルとして認知。されたのは、昭和46年にトンネルをコンクリート巻きにしてした時からと云えます。
 
       
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いわき市鹿島町を歩こう26

2015-08-10 07:05:34 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    26
    御代の大仏       所在地 : 光西寺  いわき市鹿島町御代

 俗称 「御代の大仏」 とか、雨ざらしのことから 「ぬれぶつさま」 という呼称で親しまれていますが、正式名は 「銅造阿弥陀如来坐像」 といいます。
 像の高さが3,45mですが仏身だけだと2,86mで、大仏の坐る蓮華座の直径が2,93mです。
 東北では1番の大きさと、銅製の大仏としては珍しいとされており、昭和43年12月27日に 
   市指定有形文化財になりました。


         《銅造阿弥陀如来坐像

 当寺の和尚だった禅法は、宝暦2年(西暦1752)に江戸へ出て人々から浄財を集め、13年後の明和2年(西暦1765)、江戸神田の鋳物師、木村将監たちによって制作が始められ、2年後の明和4年(西暦1767)に完成しました。
 しかし、禅法和尚は完成前に上州高崎で毒殺されたという説がありますから、実際には着手から完成までの工程を見ていないことになります。

              
                      《光西寺の正門

 像の完成後の運搬にも相当苦労したようで、江戸から小名浜までは海路で運ばれましたが船は小名浜沖で難破し、浜へ打ち上げられた大仏を御代まで運んだというのです。
 安置されたその年が、安永5年(西暦1776)と伝わっています。
 寄進者は僧や庶民2,371人にものぼり、地元は勿論、信州、越中など幅広い地域に亘っています。
 昭和48年9月に寺総代の人たちによって修復されました。

                             
         《東日本大震災では悲惨な影響を受けた
                                            
                
                    《春日灯籠もご覧の通り

 鎌倉長谷寺の大仏を彷彿とさせる御代の大仏は、現在では 「3,11」 の惨禍からも脱して、幾多の苦難を乗り越えて静寂な光西寺の境内に、石積みの基壇の上で優しく見守ってくれています。
                                      
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いわき市鹿島町を歩こう24

2015-08-08 07:07:32 | Weblog
                                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    24
     (か)れない小井戸の水          所在地 : いわき市鹿島町走熊字柳作

 小井戸の水は、かしま幼稚園脇の道を過ぎていわきニュータウン方向へ向かい、磐城三十三観音霊場の一つである第十七番札所 「高照観音堂」 の登り口付近にあります。

 渡邊家の先祖が、の一大行事として毎年、旧暦7月17日に行われる獅子舞奉納と、高寺山へのお参りで登山する人たちの身体を清め、喉の渇きを癒すために作ったと言われています。
 この井戸を、土地の人たちは「小井戸」とか「観音様の御水垂(おみたらし)」と呼んでいる。


                     《涸れたことがない小井戸の水》

 岩盤の一筋の割れ目から湧き出てくる清水は、年間を通して涸れる事がなく、昔から地元の人々からは、美味しくて身体にも良いとされて農作業の合間や、通りすがりに寄って口にしていた水です。
 汲んで家に持ち帰る人たちもいたくらいだから聖水としても尊ばれました。


                     《渡邊家への通り道にある小井戸》

 身体をこわして病で床に臥したり、死期を悟ったりした人たちは、よく 「小井戸の水を飲みたい」 と家人に頼み、汲んできて貰って口にしたそうです。

 現在では、ミネラルウオーターや清涼飲水などが豊富に出回り、上水道も整備されているので、利用者から忘れ去られたように 「小井戸」 は、今でも山草に隠れるようにして聖水が湧き出ています。
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いわき市鹿島町を歩こう23

2015-08-07 06:54:11 | Weblog

                            分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう 23


   湯殿山の石塔
    全国的に云えることだったが、鹿島でも山岳信仰が地区(村)別に盛んに行われ、無尽講による神社仏閣参拝の講中がありました。
 無尽講とは毎月一定額の金円を出し合い、それを抽選により当たった人が纏まった金円を借りることができるという方法で、言ってみれば農村の金融機関の役割を果たしていました。
 これにより参拝の講中もあり、成田山や小峯神社、伊勢神宮、羽黒山、月山、湯殿山参りに出掛けて行きました。2,3人で出かけたり、地区によっては合同で講中を組んだりもしました。


                《米田地区にある石塔

 山岳信仰は、山を崇める信仰で基本的には山そのものを指し、あるいは山にある大木、巨大な岩が信仰の母体になりました。

               《走熊地区(蔵福寺の境内)

 山を信仰することは、豊かな収穫を祈る事にあったので山ノ神は田の神でした。山ノ神が農作業の時期に山から降りてきて、田の神になるという考えも少なくありませんでした。

               《下矢田地区(真浄院の境内)

 我が国のおける山岳信仰の始まりは火山系、水分(みくまり)系、葬所系の3つの型に分けて考えている。水分系というのは、分水嶺即ち水源の山に対する信仰で、農耕を営む人々にとって山は生命の源であり、かつ水害を引き起こす脅威でもあった。
 こうした山に対する感謝の念と畏敬(いけい)の念が山岳信仰を発生させていたのである。(宗教民俗学者・堀一郎)
 
 
 鹿島に湯殿山碑は他の地区にもあるが割愛します。
 山岳信仰の石碑は「小峯神社」「成田山」なども見受けられるが、圧倒的に多かったのは「湯殿山」でした。出羽三山の総奥の院であり、秘所であった湯殿の信仰は、山形に限らず東北各地、そして越後や北関東まで広がり、江戸時代の丑年御縁年には参詣者が15万人もあったと言われています。
 《山形史》によると、山形市にある「湯殿山の石碑」の数は291基あるそうです。

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いわき市鹿島町を歩こう22

2015-08-06 07:04:47 | Weblog
                              分類 : 歴
 氏神様から村社になった    22    
  熊野神社(旧、村社)   所在地 : いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2

            《常磐⇔江名線沿いにある熊野神社

  祭神 五十猛命(いそたけるのみこと)  速玉男命(はやたまおのみこと)
      伊弉冊尊(いざなみのみこと)  泉津事解男命(よもつことさかのおのみこと)

 土地の志賀家所蔵の日記によると、志賀久左衛門の氏神にして弘仁2年(811)より享和3年(1803)正月まで同人宅地内に在ったものを、同年より村の鎮守と為し村社と号したという記録があります。
 また、延暦23年(804)正月、坂上田村田村麻呂将軍が蝦夷征討に際し、勧進したとも伝わっています。

 爾来、産土(うぶすな)さまとして崇敬してきましたが、境内の登之内7-1は海抜100mの当地区では最高地のため、神事や参道などの面から種々支障を来し昭和32年5月、近隣地の戸ノ内102番地に誉田別命(ほんだわけのみこと)=品陀和気命を祀る旧小社三島八幡神社の聖域を拡張整備し、社殿を新たにして熊野の正床を奉還すると共に八幡さまも合祀して産土神としました。

 昭和48年、国土法による地積調査の時点にて、三島八幡神社の敷地「戸ノ内102番地」を不在地とする便法をとって、これを「戸ノ内87-2番地」と改め、熊野神社の敷地としました。


 例祭は5月7日で、かつては江名浜海岸に神輿を渡御させ、お潮とりの神事を行っていた。



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いわき市鹿島町を歩こう21

2015-08-05 06:55:22 | Weblog
                             分類 : 歴

 いわき市鹿島町を歩こう     NO:21

    久保の磨崖仏(まがいぶつ)     場所 : いわき市鹿島町久保字反町

 この磨崖仏は、旧鹿島街道と現在の鹿島街道が合流する所にあり、両サイドに「ガリバーいわき鹿島店」と「ABCマート」があります。
 地理的には久保と船戸の境界地点で、岩壁に如来形坐像が彫り出されています。


          地元の人たちは昔から岩薬師と呼んでいる

 像は4体確認され、高さは最大で1m34、5センチほどです。
 久保の金光寺境内にある中山観音堂内に納められている棟札によると、造立年代は貞享5年5月18日(江戸時代・西暦1688)とあるから、この年「元禄」と年号が改まっているので元禄元年でもある。
 その頃には岩薬師に薬師堂が存在し、近村の人々が厚く信仰していたようで、お堂は一説によると小名浜代官が罪に問われて薬師前を通った折、もし無罪になったらお堂を建立する旨を心願し、やがて代官は咎(とが)を逃れて無事に元の職に戻ったために、薬師前に立派なお堂を奉納したということも伝わっています。


         風雨に曝されて原形をいつまで保たれるかが心配

 長い年月の中で、現在ではお堂そのものは有りませんが、磨崖仏は風化されていく危険性はあるものの、当所からの原型は保たれているものとし、平成21(2009)年3月に、いわき市文化財保護審議委員会(故・佐藤孝徳会長)は、市の教育長に答申書を手渡し、同年4月に市指定文化財に指定されました。

          《お地蔵さんには、いつも花が手向けられている




           
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いわき市鹿島町を歩こう⑳

2015-08-04 07:05:04 | Weblog
                              分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
    馬頭観世音の石塔

 馬頭観世音塔をみると、急な坂道のような場所が多く、これは馬の行路安全を祈って造立されたものと分かりますが、昭和の初め頃になると死馬の供養にも建てるようになってきました。
 古い馬頭観音には年月と建立者の氏名も刻まれています。
 現在では宅地開発や道路拡張などの影響で移転されたり、新しい石塔に変わったりして、かつての所在位置は確定できないものもあります。


                《下矢田・真浄院境内

 明治42年の調査資料によると、鹿島村内の馬匹数は139頭で内訳が牝(めす)124頭、牡(おす)15頭とあります。
 牝が多い理由は、従順で農耕作業に適していたからです。


              《塔三沢・奥の3基が馬頭観音石

 明治から昭和初期にかけて平均的な頭数は、昭和7年を例に0,1戸
の割合で馬がいました。昭和25年ごろから馬から牛へ変わる傾向があり、昭和30年代になると一挙に馬の数は減っていきました。
 化学肥料の普及や、農業機械の耕耘機(こううんき)の出現で牛馬の役割が終わったのです。


              
               《走熊・周囲に何もない荒地に馬頭観音石塔だけがある》

 馬の死は発作的な腹痛や、夏の作業中に日射病(今でいう熱中症)によるものが多く、馬は財産の半分に相当するという考えがあったので馬の死は農家にとって大きな衝撃を与えました。


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いわき市鹿島町を歩こう⑲

2015-08-03 07:11:46 | Weblog

                                           分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    
     一圓融合の名残         場所 : いわき市常磐上矢田町(鹿島神社の本堂内)
                               いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2


 「一圓融合」の4文字を簡潔に説明することは難しいので、その1部に触れると 『人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し…… 云々』 と述べられています。
 志賀直哉村長(昭和9年2月就任)が荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉です。
 昭和初期は全国的に大不況に見舞われ、特に農山漁村の影響はひどく鹿島村もその例外ではなく、不況と共に村内の世相も厳しく動いていた時でした。


                 《鹿島神社の本堂内にある木碑。その素材は?》

 鹿島神社(現・常磐上矢田町)には、当時の鹿島村振興委員会が奉納した 「一圓融合」 の文字が刻まれた木碑がありますが使用された木の素材は、歴史ある七本松(現・鹿島町走熊)が倒木した内の1本を輪切りにして作られたものです=写真。


                   《熊野神社(下蔵持)の上り口にある石柱》

 志賀直哉(1889~1956)は旧、鹿島小学校玄関前に円形に12本のシュロの木を植え、その中央部に二宮金次郎少年期の像(背に薪を負い本を読んでいる)を配した造園の発想をし、村内12大字全体の不況脱却と融合を願いました。
 また、金次郎像を中央に配したのは、児童たちが金次郎にあやかるようにとの念願を込めての建立でした。

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いわき市鹿島町を歩こう⑱

2015-08-02 06:49:20 | Weblog
                              分類:歴
  鹿島町を歩こう  

   力石 (ちからいし) が二つある                         
                所在地 : いわき市鹿島町下矢田(真浄院境内)
                    いわき市鹿島町御代(八坂神社鳥居側)
                                  
             
           若者たちはこのように持ち上げて力自慢をした

真浄院は鹿島街道から山側へ500mほど入ったところにあります。

              下矢田の真浄院境内にある力石

 石段を上ると境内の右側に大きな黒松があり、松の根元に重さが32貫(約120kg)の繭(まゆ)型のした力石があります。
 この石は、真浄院創建んの際に胴搗き石として使用されたものだそうですが、部落内での地固め事業などにも活躍しました。
 下矢田地区には大きな堰が2つあり毎年堰止め工事が行われ、青年たちはそういう労力作業に備え毎月の農休日にはお寺に集まり、修行のための寺泊や体力作りに相撲や力比べをすることになり、繭型石が力石としてそこへ登場したという訳です。
 力だけでは中々持ち上がらず、腰の据え方のコツも必要としました。
 5~6人が持ち上げに成功しましたが、力試しも次第にエスカレートしていき、その石を担いで寺の庫裡を廻る競争になりましたが、その時に残ったのは2人でした。
 最終的には、力石は山門まで転がし、そこから担いで石段を上る事にしました。これに挑戦して見事成功したのは、昭和初期の当時17,8歳だった坂本直政(故人)という人でした。


八坂神社(御代)は、鹿島街道の御代坂上り口にあります。

             御代の八坂神社鳥居の側にある力石

 前述の坂本さんですが、ある時、部落を4つ隔てた御代の地に真浄院の力石よりも一回り大きな石があるということを聞き、早速その石の持ち上げに挑みました。
 真浄院の繭型石と違って、こちらの石はどちらかというと長方形で、手掛かりがなく揚げにくかったそうですが、石を前にして深く深呼吸をすると一気にグイと力を入れ胸のあたりまで持ち上げたという伝説の持ち主です。
 坂本さんは晩年、小名浜の鳥居下8番地に住んでいたが、自身の若き日の語り草にしていたそうです。
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いわき市鹿島町を歩こう⑰

2015-08-01 06:58:31 | Weblog
                             分類 : 歴
 いわき市鹿島町を歩こう    ⑰    場所 : いわき市鹿島町久保

      融和の郷の碑
 鹿島街道の「ラーメン山岡家」と、美容室「エムズアクエア」の間にある畦道のような狭い道を約100mほど入っていくと『融和の郷』の石碑が建っています。

     《久保地区の公共施設の整備と宅地利用の経緯が刻まれている石碑

 久保地区が市街化区域に指定され、関係権利者との協議による土地区画整理組合を設立、事業に着手していった過程を知ることができます。

〈碑文〉 当地区は、平市街地より南に約8粁、重要港湾小名浜港より北に約5粁の地にあり、主要地方道路、小名浜-平線に隣接し、非常に立地条件に恵まれた地区であり都市計画法の改正により、昭和四十五年市街化区域に指定されました。
 これを契機として、当地区の効率的な立地利用を図るため関係権利者と協議を重ねたところ、公共施設の整備と併せて、宅地の利用増進を目的として、昭和五十六年六月、知事の認可を受け、鹿島町久保土地区画整理組合を設立し、事業に着手したものであります。
 鹿島町米田字沼田の一部を含めた、施工面積約一四,二ヘクタール、幹線道路の整備をはじめ、公園、公共下水道、上水道等の公共施設の整備を図り、快適な住宅環境の市街地が形成されたのであります。
 ここに七年の歳月を費やし、総事業費四億九千八百万円を投じ、本事業の完成を見るに至ったことは、これひとえに、県、市及び関係当局を始め、組合員各位のご理解とご協力の賜ものと、深く感謝する次第であります。
     昭和六十二年九月吉日
                      篆書 いわき市長 中田武雄
                         鹿島町久保土地区画整理組合
                         撰文 組合長 鈴木 巌
 ※以下、役員(理事長、副理事長、理事、監事名等は省略しました。
 



                     《石碑の全景
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