分類 : 歴
いわき市鹿島町を歩こう ⑳
馬頭観世音の石塔
馬頭観世音塔をみると、急な坂道のような場所が多く、これは馬の行路安全を祈って造立されたものと分かりますが、昭和の初め頃になると死馬の供養にも建てるようになってきました。
古い馬頭観音には年月と建立者の氏名も刻まれています。
現在では宅地開発や道路拡張などの影響で移転されたり、新しい石塔に変わったりして、かつての所在位置は確定できないものもあります。
《下矢田・真浄院境内》
明治42年の調査資料によると、鹿島村内の馬匹数は139頭で内訳が牝(めす)124頭、牡(おす)15頭とあります。
牝が多い理由は、従順で農耕作業に適していたからです。
《塔三沢・奥の3基が馬頭観音石》
明治から昭和初期にかけて平均的な頭数は、昭和7年を例に0,1戸
の割合で馬がいました。昭和25年ごろから馬から牛へ変わる傾向があり、昭和30年代になると一挙に馬の数は減っていきました。
化学肥料の普及や、農業機械の耕耘機(こううんき)の出現で牛馬の役割が終わったのです。
《走熊・周囲に何もない荒地に馬頭観音石塔だけがある》
馬の死は発作的な腹痛や、夏の作業中に日射病(今でいう熱中症)によるものが多く、馬は財産の半分に相当するという考えがあったので馬の死は農家にとって大きな衝撃を与えました。
いわき市鹿島町を歩こう ⑳
馬頭観世音の石塔
馬頭観世音塔をみると、急な坂道のような場所が多く、これは馬の行路安全を祈って造立されたものと分かりますが、昭和の初め頃になると死馬の供養にも建てるようになってきました。
古い馬頭観音には年月と建立者の氏名も刻まれています。
現在では宅地開発や道路拡張などの影響で移転されたり、新しい石塔に変わったりして、かつての所在位置は確定できないものもあります。
《下矢田・真浄院境内》
明治42年の調査資料によると、鹿島村内の馬匹数は139頭で内訳が牝(めす)124頭、牡(おす)15頭とあります。
牝が多い理由は、従順で農耕作業に適していたからです。
《塔三沢・奥の3基が馬頭観音石》
明治から昭和初期にかけて平均的な頭数は、昭和7年を例に0,1戸
の割合で馬がいました。昭和25年ごろから馬から牛へ変わる傾向があり、昭和30年代になると一挙に馬の数は減っていきました。
化学肥料の普及や、農業機械の耕耘機(こううんき)の出現で牛馬の役割が終わったのです。
《走熊・周囲に何もない荒地に馬頭観音石塔だけがある》
馬の死は発作的な腹痛や、夏の作業中に日射病(今でいう熱中症)によるものが多く、馬は財産の半分に相当するという考えがあったので馬の死は農家にとって大きな衝撃を与えました。
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