分類・文
小説 カケス婆っぱ
第31回 吉野せい賞奨励賞受賞 箱 崎 昭
(15)
旅館客が廊下を歩く足音にキクは目を覚ました。
建物の隙間を掻き分けるようにして朝の青白い光が窓の側まで迫ってきている。
和起が目を擦りながら先に起きているキクを見て、慌てて胸元に掛かっていた蒲団をたくし上げた。
「汽車の時間までに上野の公園でも少し歩いてみっけ?」
和起が敷布団に胡坐をかきながら誘った。
「昨日の今頃は和起に会えるということで浮かれていたのに、今日はもう帰る日だなんて呆気ない時間だったなあ。でも婆ちゃんは竜宮城にでも来たような錯覚を起こすほど貴重な体験をさせてもらったよ。和起の仕事ぶりも見たし美味いものもご馳走になった。あとは真面目に仕事を続けて立派な料理人になってくれるように遠い田舎で毎日祈っていっからな」
キクは身支度をしながら和起に面と向かって言った。
和起は聞きながらキクの動きや話し方に年老いていく祖母を実感した。
身体が一回り小さくなったような気がするし、以前に比べて明るく闊達なところが余り見られなくなってきたからだ。
「婆ちゃんはたった1日だけど、慣れない東京でバタバタと過ごしたから相当疲れているんじゃないけ。だって顔色があまり良くないようだから」
和起は皺しだの深いキクを見上げて言った。
キクは和起の問いに一瞬、躊躇したようだったが直ぐに笑顔になって「その点は大丈夫だ、心配すっことはねえ」と言葉を返して健在振りを強調してみせた。
旅館を出ると露地でも人通りは多かったが、上野の駅前辺りに出ていくと比較にならないほど人も車も往来が激しくなっていた。
人それぞれの思いで蠢(うごめ)く都会の喧騒な1日が慌しく、そして何かを追い求めあってスタートしたようだ。
和起はキクの歩調に合わせるようにして、広小路から幅広い階段を上がり西郷隆盛の銅像前を横切って上野界隈を一望できるベンチに腰を下ろした。
周囲の人たちの会話から圧倒的に東北の出であることが容易に窺い知れたし、身なりや持ち物からも判断できた。
キクも和起も何故か都会でありながら気が休まる空間であるような感じがした。
キクが立ち上がってアメ横から広小路方面を黙視している。
車の渋滞や電車が絶え間なく動いている光景を見ながら和起に言った。
「人間って面白いもんだなあ、こうしてジッと見ていると、他人様の役に立たないことには誰も生きてはいけねえんだなあ」 (続)
小説 カケス婆っぱ
第31回 吉野せい賞奨励賞受賞 箱 崎 昭
(15)
旅館客が廊下を歩く足音にキクは目を覚ました。
建物の隙間を掻き分けるようにして朝の青白い光が窓の側まで迫ってきている。
和起が目を擦りながら先に起きているキクを見て、慌てて胸元に掛かっていた蒲団をたくし上げた。
「汽車の時間までに上野の公園でも少し歩いてみっけ?」
和起が敷布団に胡坐をかきながら誘った。
「昨日の今頃は和起に会えるということで浮かれていたのに、今日はもう帰る日だなんて呆気ない時間だったなあ。でも婆ちゃんは竜宮城にでも来たような錯覚を起こすほど貴重な体験をさせてもらったよ。和起の仕事ぶりも見たし美味いものもご馳走になった。あとは真面目に仕事を続けて立派な料理人になってくれるように遠い田舎で毎日祈っていっからな」
キクは身支度をしながら和起に面と向かって言った。
和起は聞きながらキクの動きや話し方に年老いていく祖母を実感した。
身体が一回り小さくなったような気がするし、以前に比べて明るく闊達なところが余り見られなくなってきたからだ。
「婆ちゃんはたった1日だけど、慣れない東京でバタバタと過ごしたから相当疲れているんじゃないけ。だって顔色があまり良くないようだから」
和起は皺しだの深いキクを見上げて言った。
キクは和起の問いに一瞬、躊躇したようだったが直ぐに笑顔になって「その点は大丈夫だ、心配すっことはねえ」と言葉を返して健在振りを強調してみせた。
旅館を出ると露地でも人通りは多かったが、上野の駅前辺りに出ていくと比較にならないほど人も車も往来が激しくなっていた。
人それぞれの思いで蠢(うごめ)く都会の喧騒な1日が慌しく、そして何かを追い求めあってスタートしたようだ。
和起はキクの歩調に合わせるようにして、広小路から幅広い階段を上がり西郷隆盛の銅像前を横切って上野界隈を一望できるベンチに腰を下ろした。
周囲の人たちの会話から圧倒的に東北の出であることが容易に窺い知れたし、身なりや持ち物からも判断できた。
キクも和起も何故か都会でありながら気が休まる空間であるような感じがした。
キクが立ち上がってアメ横から広小路方面を黙視している。
車の渋滞や電車が絶え間なく動いている光景を見ながら和起に言った。
「人間って面白いもんだなあ、こうしてジッと見ていると、他人様の役に立たないことには誰も生きてはいけねえんだなあ」 (続)