分類・文
小説 カケス婆っぱ
第31回 吉野せい賞奨励賞受賞 箱 崎 昭
(十二)
翌朝、キクは小井戸の水を汲んで石段から境内を見上げながら立っていた。そして大きな声で呼んでみた。
「和起ー」
キクの声は境内に向かって澄んだ空気の中をいっぱいに広がっていった。
「なんだ、こんな所に居たのかあ。目を覚ましたら居ねえからビックリしたよ」
和起が境内の端から顔を出して、石段を二段ずつ大っ飛びして下りてきそうな感じがしたからだった。確かに和起がそう言ったことを思い出したらキクの目から急に涙が溢れ出た。
それは現実から離れた単なる空想でしかなかったが、まるで昨日のような出来事に思えた。
昨夜はもう泣くまいと蒲団の中で目を腫らしながら自分に言い聞かせたのに、意志の脆(もろ)さが出てしまい情けなく思った。
此処を離れていった和起は、もっと辛いのではないか。誰1人知らない都会へ飛び込んでいって慣れない生活環境と商売柄、古い仕来たりの中でどんなに苦労するか分からない毎日のことを思ったら、残った自分は未だ楽な方だと思い直すしかなかった。小井戸から汲んだ水がいつもより重く感じる。
しかし、キクにとってはいつまでも感傷的になっていてもいられないし、又そういう性格でもなかったから和起が居なくなってできた時間の空白を埋める手段を考えるべきだと思い直した。
そうでなければ和起に負けてしまうし、それを乗り越えるには身体をもっと動かすことだと思った。
仕事に専念すれば、その間は少なくとも精神的な悩みや苦労から脱却できる筈だと思ったからだ。
その方法として隣りになるが、製材所で雑役人夫を探していると聞いていたので早速足を運んでみることにした。
国友製材所は隣りとはいっても寺から徒歩で20分もあれば行けるので通うのにも便利な距離にあった。住居の一角に事務所を設けて作業場は側にある。
雨避け用のトタン屋根の下で、大きな固定丸鋸が原木を切断しながら金切り声を上げている。
事務所では夫婦が机に向き合って帳簿を捲りながら何か話していたが、キクが来たのを知ると意外だったのか2人はビックリしたような表情で顔を見合わせた。
事情を説明すると主人の悦郎は快く受け入れて、現場を案内して仕事の内容を説明した。原木を挽く丸鋸の回転音と共に発生する大鋸屑(おがくず)が、雪を撒き散らすラッセル車のように作業をする者の両側に振り分けられていく。
「キクさんにはこの大鋸屑と木端(こっぱ)を集めて、ネコ車で捨て場まで運んで貰いてえんだ。ただ気を付けなくてはなんねえのは、側で丸鋸が回転しているから油断すると手足の1本や2本吹っ飛んでしまうから充分注意してやっておくれな」
悦郎の説明を受けただけでも恐怖感を覚えたが、目の前には更に金属音を立てて唸っている丸鋸があった。 (続)
小説 カケス婆っぱ
第31回 吉野せい賞奨励賞受賞 箱 崎 昭
(十二)
翌朝、キクは小井戸の水を汲んで石段から境内を見上げながら立っていた。そして大きな声で呼んでみた。
「和起ー」
キクの声は境内に向かって澄んだ空気の中をいっぱいに広がっていった。
「なんだ、こんな所に居たのかあ。目を覚ましたら居ねえからビックリしたよ」
和起が境内の端から顔を出して、石段を二段ずつ大っ飛びして下りてきそうな感じがしたからだった。確かに和起がそう言ったことを思い出したらキクの目から急に涙が溢れ出た。
それは現実から離れた単なる空想でしかなかったが、まるで昨日のような出来事に思えた。
昨夜はもう泣くまいと蒲団の中で目を腫らしながら自分に言い聞かせたのに、意志の脆(もろ)さが出てしまい情けなく思った。
此処を離れていった和起は、もっと辛いのではないか。誰1人知らない都会へ飛び込んでいって慣れない生活環境と商売柄、古い仕来たりの中でどんなに苦労するか分からない毎日のことを思ったら、残った自分は未だ楽な方だと思い直すしかなかった。小井戸から汲んだ水がいつもより重く感じる。
しかし、キクにとってはいつまでも感傷的になっていてもいられないし、又そういう性格でもなかったから和起が居なくなってできた時間の空白を埋める手段を考えるべきだと思い直した。
そうでなければ和起に負けてしまうし、それを乗り越えるには身体をもっと動かすことだと思った。
仕事に専念すれば、その間は少なくとも精神的な悩みや苦労から脱却できる筈だと思ったからだ。
その方法として隣りになるが、製材所で雑役人夫を探していると聞いていたので早速足を運んでみることにした。
国友製材所は隣りとはいっても寺から徒歩で20分もあれば行けるので通うのにも便利な距離にあった。住居の一角に事務所を設けて作業場は側にある。
雨避け用のトタン屋根の下で、大きな固定丸鋸が原木を切断しながら金切り声を上げている。
事務所では夫婦が机に向き合って帳簿を捲りながら何か話していたが、キクが来たのを知ると意外だったのか2人はビックリしたような表情で顔を見合わせた。
事情を説明すると主人の悦郎は快く受け入れて、現場を案内して仕事の内容を説明した。原木を挽く丸鋸の回転音と共に発生する大鋸屑(おがくず)が、雪を撒き散らすラッセル車のように作業をする者の両側に振り分けられていく。
「キクさんにはこの大鋸屑と木端(こっぱ)を集めて、ネコ車で捨て場まで運んで貰いてえんだ。ただ気を付けなくてはなんねえのは、側で丸鋸が回転しているから油断すると手足の1本や2本吹っ飛んでしまうから充分注意してやっておくれな」
悦郎の説明を受けただけでも恐怖感を覚えたが、目の前には更に金属音を立てて唸っている丸鋸があった。 (続)