分類・文
小説 カケス婆っぱ
第31回 吉野せい賞奨励賞受賞 箱 崎 昭
キクは上野駅のホームに降りたらそこから1歩も動かずに居るという事と、迎えに出る相手は白の割烹着で栗原という若い男だから会ったらその人に従うよう事前の約束事にしてあったので、いまこうして店に到着しているということは待ち合わせに成功したのだと思うと、和起は安堵感で胸を撫で下ろすような心境だった。
栗原がキクを2階の和室に通して、これから社長が挨拶に伺う旨を伝えて下がるのと前後して仲居がお茶を運んできた。
暫らくして襖戸から男の声が掛かった。
「ごめんください、失礼します」
静かに戸が開けられてキクの顔を見ると、膝に両手を付けて深々と
「お初にお目にかかります。私、藤岡と申します。本日は遠い所をお出で戴きまして有り難うございます」 柔和な顔つきだが芯の強さが眼光に表れていた。
「はじめまして。和起の祖母でキクといいます。和起が大変お世話になっている上に私のような者がこうしてご招待に授かり夢のように思っています」
キクはそう言ったが実際に夢のような心地でいた。
「中村君は仕事熱心で、よく働いてくれていますのでご安心下さい」
ご案内の通り、今日お出で頂いたのは彼の手で作らせた料理を存分に味わってもらいながら、お孫さんとのひと時を水入らずで過ごして戴きたいという考えからです」
主人の挨拶が終わると、和起が部屋へ入るタイミングを窺っていたかのようにして襖戸を開けた。
「失礼します。いらっしゃいませ」
両手をついて頭を下げたのは紛れもなく和起だった。キクは一瞬、呆気にとられて凝視したが無意識のうちに目礼をしたものの、その後に何と言ってよいのか言葉に詰まった。
和起がテーブルに膳を運ぶのを見ていて、今は祖母と孫の間柄ではなく客の1人として迎えてくれているのだなと気付くと急に緊張した。
真新しい割烹着を身に付けて膳から料理ものをテーブルに並べはじめた和起の仕種を見ていてキクは涙がこみ上げてきた。
貧しい生活の中で、ひもじい思いをしてきた和起がこうして板前修業に専念しているのを直接(じか)に見て、これまでの苦労のなにもかもが一編に吹っ飛んでしまうような気がした。
「社長さんをはじめとして板長さんたちのご協力を得て、私が心を込めて作りました。どうぞ召し上がってみてください」
和起はキクを相手の話す言葉としては照れくささと違和感を覚えたが、この職業に就いて最初の客として丁重に迎えなければいけなかった。
「有り難いことだね。こうして和起が作った料理を口にすることが出来るなんて婆ちゃんは初めてだもんな。頬っぺたが落っこちてしまうかも知んねえな」
キクはそう言って先ず手元に近い料理に箸を付けた。
「これはカレイのあらいで生きたカレイを薄く削ぎ切りして、水に浸けて身をはぜさせたものです。あらいは辛子酢味噌が合うので白味噌に味醂を加えて、さっと火を通して冷まし溶き辛子と酢を加えました」
キクは和起の細かい説明に黙って頷きながらカレイのあらいを口にしていたが、その内容に関しては難しくて理解できなかった。
ただ嬉しくて涙腺が緩み、膝の上に乗せておいた手拭いを取って目頭を押さえることで一杯だった。 (続)
小説 カケス婆っぱ
第31回 吉野せい賞奨励賞受賞 箱 崎 昭
キクは上野駅のホームに降りたらそこから1歩も動かずに居るという事と、迎えに出る相手は白の割烹着で栗原という若い男だから会ったらその人に従うよう事前の約束事にしてあったので、いまこうして店に到着しているということは待ち合わせに成功したのだと思うと、和起は安堵感で胸を撫で下ろすような心境だった。
栗原がキクを2階の和室に通して、これから社長が挨拶に伺う旨を伝えて下がるのと前後して仲居がお茶を運んできた。
暫らくして襖戸から男の声が掛かった。
「ごめんください、失礼します」
静かに戸が開けられてキクの顔を見ると、膝に両手を付けて深々と
「お初にお目にかかります。私、藤岡と申します。本日は遠い所をお出で戴きまして有り難うございます」 柔和な顔つきだが芯の強さが眼光に表れていた。
「はじめまして。和起の祖母でキクといいます。和起が大変お世話になっている上に私のような者がこうしてご招待に授かり夢のように思っています」
キクはそう言ったが実際に夢のような心地でいた。
「中村君は仕事熱心で、よく働いてくれていますのでご安心下さい」
ご案内の通り、今日お出で頂いたのは彼の手で作らせた料理を存分に味わってもらいながら、お孫さんとのひと時を水入らずで過ごして戴きたいという考えからです」
主人の挨拶が終わると、和起が部屋へ入るタイミングを窺っていたかのようにして襖戸を開けた。
「失礼します。いらっしゃいませ」
両手をついて頭を下げたのは紛れもなく和起だった。キクは一瞬、呆気にとられて凝視したが無意識のうちに目礼をしたものの、その後に何と言ってよいのか言葉に詰まった。
和起がテーブルに膳を運ぶのを見ていて、今は祖母と孫の間柄ではなく客の1人として迎えてくれているのだなと気付くと急に緊張した。
真新しい割烹着を身に付けて膳から料理ものをテーブルに並べはじめた和起の仕種を見ていてキクは涙がこみ上げてきた。
貧しい生活の中で、ひもじい思いをしてきた和起がこうして板前修業に専念しているのを直接(じか)に見て、これまでの苦労のなにもかもが一編に吹っ飛んでしまうような気がした。
「社長さんをはじめとして板長さんたちのご協力を得て、私が心を込めて作りました。どうぞ召し上がってみてください」
和起はキクを相手の話す言葉としては照れくささと違和感を覚えたが、この職業に就いて最初の客として丁重に迎えなければいけなかった。
「有り難いことだね。こうして和起が作った料理を口にすることが出来るなんて婆ちゃんは初めてだもんな。頬っぺたが落っこちてしまうかも知んねえな」
キクはそう言って先ず手元に近い料理に箸を付けた。
「これはカレイのあらいで生きたカレイを薄く削ぎ切りして、水に浸けて身をはぜさせたものです。あらいは辛子酢味噌が合うので白味噌に味醂を加えて、さっと火を通して冷まし溶き辛子と酢を加えました」
キクは和起の細かい説明に黙って頷きながらカレイのあらいを口にしていたが、その内容に関しては難しくて理解できなかった。
ただ嬉しくて涙腺が緩み、膝の上に乗せておいた手拭いを取って目頭を押さえることで一杯だった。 (続)