大津絵(追分絵ともいう)は元禄(1688~1704)頃に大津の追分辺りで売り出されたのが始まりで江戸末期には、それが流行して全国各地でその地の名所名物を読み込んで替え歌が作られ大津絵節とともに広がっていった。
特に江戸時代には大津絵だけでなく庶民の間では、会話の中で洒落や冗句を取り入れて地名を覚えていったようです。
「恐れ入谷の鬼子母神」とか「その手は桑名のハマグリ」などが、その一例。
旧鹿島村においても地名や名所旧跡を織り込んだもので明治の頃に大津絵節の旋律に合わせた唄が作られています。
作者は当地の漢学者・吉田正義といわれる。
軍次(くうじ)山から 熊が出て
矢田らに走る 走熊
名所七本松 後にして
久保みて通れば 金光寺
船も着かぬに 船戸という
それより御代の 大仏様拝みつつ
御代坂越えれば 岡小名で
向こうに見ゆる 遍照院
大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院
夕暮れに 小名浜を立ち退いて
水押し上(うわ)って 後にして
東の法華寺 拝みつつ
西の山田湯場 横に見て
御代坂登って 大仏様遥拝し
それより船戸 岩薬師拝みつつ
久保の里屋橋 通りぬけ
名所七本松 後にして
走熊へと さしかかる
次は 下矢田 上矢田で
郷社鹿島神社に参拝し
それより進めば 軍次山
越せば 上荒川と谷川瀬で
平町 日光町に着きますよ
三沢の里へも 一度はおいで
名所古跡もありますよ
磐城七門一の向かいに
三沢の館あとあり
その上に 八幡公の陣どりし跡に
八幡神社の祭りあり
それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
この作を 霊墓(おきはか)作という
その上に 母の小屋掛けせし山を
小屋の山という
その下に 母の祈願所 薬師堂
それより奥を 花見平という
昔 平の城主 安藤信正の
花見せし所とか
越して小名浜海上眼下に見え
眺望すこぶる絶景なり
それより西に下れば
小野谷村に 程近し
特に江戸時代には大津絵だけでなく庶民の間では、会話の中で洒落や冗句を取り入れて地名を覚えていったようです。
「恐れ入谷の鬼子母神」とか「その手は桑名のハマグリ」などが、その一例。
旧鹿島村においても地名や名所旧跡を織り込んだもので明治の頃に大津絵節の旋律に合わせた唄が作られています。
作者は当地の漢学者・吉田正義といわれる。
軍次(くうじ)山から 熊が出て
矢田らに走る 走熊
名所七本松 後にして
久保みて通れば 金光寺
船も着かぬに 船戸という
それより御代の 大仏様拝みつつ
御代坂越えれば 岡小名で
向こうに見ゆる 遍照院
大原へった 一杯飲んべえ 徳蔵院
夕暮れに 小名浜を立ち退いて
水押し上(うわ)って 後にして
東の法華寺 拝みつつ
西の山田湯場 横に見て
御代坂登って 大仏様遥拝し
それより船戸 岩薬師拝みつつ
久保の里屋橋 通りぬけ
名所七本松 後にして
走熊へと さしかかる
次は 下矢田 上矢田で
郷社鹿島神社に参拝し
それより進めば 軍次山
越せば 上荒川と谷川瀬で
平町 日光町に着きますよ
三沢の里へも 一度はおいで
名所古跡もありますよ
磐城七門一の向かいに
三沢の館あとあり
その上に 八幡公の陣どりし跡に
八幡神社の祭りあり
それより西の作に 宗任貞任の石碑あり
この作を 霊墓(おきはか)作という
その上に 母の小屋掛けせし山を
小屋の山という
その下に 母の祈願所 薬師堂
それより奥を 花見平という
昔 平の城主 安藤信正の
花見せし所とか
越して小名浜海上眼下に見え
眺望すこぶる絶景なり
それより西に下れば
小野谷村に 程近し