*
翌朝、キクは小井戸の水を汲んで石段から境内を見上げながら立っていた。
そして大きな声で呼んでみた。
「和起ー」
キクの声は境内に向かって澄んだ空気の中をいっぱいに広がっていった。
「なんだあ、こんな所に居たのか。目を覚ましたら居ねえからビックリしたよ」
和起が境内の端から顔を出して、石段を二段ずつ大っ飛びして降りてきそうな感じがしたからだ。
確かに和起がそう言ったことを思い出したら急に涙が溢れ出した。
それは現実から離れた単なる回想でしかなかったが、まるで昨日の出来事のように思えた。
昨夜は、もう泣くまいと蒲団の中で目を腫らしながら自分自身に誓ったのに、意思の脆さが出てしまうことに情けないと思った。
ここを離れていった和起は、もっと辛いのではないか。誰一人知らない都会へ飛び込んでいって慣れない生活環境と商売柄、古い仕来たりの中でどんなに苦労するか判らない毎日の事を思ったら残った自分は未だ楽な方だと思い直すしかない。
小井戸から汲んだ水が、いつもより重く感じる。
しかし、キクにとってはいつまでも感傷的にはなっていられないし又、そういう性格でもなかったから和起が居なくなってできた時間の空白を埋める手段を考えるべきだと思い直した。
そうでなければ和起に負けてしまうし、それを乗り越えるには身体をもっと動かすことだと思った。
仕事に専念すれば、その間は少なくとも精神的な悩みや苦労から脱却できる筈だと考えたからだ。
その一つの方法として思い浮かんだのは、隣になるが製材所で雑役の人を探していると聞いていたので早速足を運んだ。
国友製材所は隣といっても寺から徒歩で二十分もあれば行けるので通うのにも便利な距離にあった。
住居の一角に事務所を設けて作業場も直ぐ側にある。雨避け用のトタン屋根の下で大きな固定電動丸鋸が原木を切断しながら金切り声をあげている。
事務所では夫婦で机に向き合って帳簿を捲りながら何か話していたが、キクが来たのを知ると意外だったのか二人はびっくりしたような表情で玄関先を見た。
事情を説明すると主人の悦郎は快く受け入れて現場を案内して仕事の内容を説明した。原木を挽く丸鋸の回転音と共に発生する鋸屑が、ラッセル車が雪を掻き散らすように作業する者の両側に振り分けられていく。
「キクさんには、この鋸屑を集めてネコ車で捨て場まで運んでもらうのと原木を挽いてできた木端(コッパ)を片付けることが主な仕事なんだ。ただ気を付けなくてはなんねえのは傍で電動鋸が回っているから油断すると、手足の一本や二本吹っ飛んでしまうから充分注意してやっておくれ」
悦郎の説明に、絶えず騒々しく回転している丸鋸の金属音を目の当たりにして恐怖感さえ覚えた。 《続く》
翌朝、キクは小井戸の水を汲んで石段から境内を見上げながら立っていた。
そして大きな声で呼んでみた。
「和起ー」
キクの声は境内に向かって澄んだ空気の中をいっぱいに広がっていった。
「なんだあ、こんな所に居たのか。目を覚ましたら居ねえからビックリしたよ」
和起が境内の端から顔を出して、石段を二段ずつ大っ飛びして降りてきそうな感じがしたからだ。
確かに和起がそう言ったことを思い出したら急に涙が溢れ出した。
それは現実から離れた単なる回想でしかなかったが、まるで昨日の出来事のように思えた。
昨夜は、もう泣くまいと蒲団の中で目を腫らしながら自分自身に誓ったのに、意思の脆さが出てしまうことに情けないと思った。
ここを離れていった和起は、もっと辛いのではないか。誰一人知らない都会へ飛び込んでいって慣れない生活環境と商売柄、古い仕来たりの中でどんなに苦労するか判らない毎日の事を思ったら残った自分は未だ楽な方だと思い直すしかない。
小井戸から汲んだ水が、いつもより重く感じる。
しかし、キクにとってはいつまでも感傷的にはなっていられないし又、そういう性格でもなかったから和起が居なくなってできた時間の空白を埋める手段を考えるべきだと思い直した。
そうでなければ和起に負けてしまうし、それを乗り越えるには身体をもっと動かすことだと思った。
仕事に専念すれば、その間は少なくとも精神的な悩みや苦労から脱却できる筈だと考えたからだ。
その一つの方法として思い浮かんだのは、隣になるが製材所で雑役の人を探していると聞いていたので早速足を運んだ。
国友製材所は隣といっても寺から徒歩で二十分もあれば行けるので通うのにも便利な距離にあった。
住居の一角に事務所を設けて作業場も直ぐ側にある。雨避け用のトタン屋根の下で大きな固定電動丸鋸が原木を切断しながら金切り声をあげている。
事務所では夫婦で机に向き合って帳簿を捲りながら何か話していたが、キクが来たのを知ると意外だったのか二人はびっくりしたような表情で玄関先を見た。
事情を説明すると主人の悦郎は快く受け入れて現場を案内して仕事の内容を説明した。原木を挽く丸鋸の回転音と共に発生する鋸屑が、ラッセル車が雪を掻き散らすように作業する者の両側に振り分けられていく。
「キクさんには、この鋸屑を集めてネコ車で捨て場まで運んでもらうのと原木を挽いてできた木端(コッパ)を片付けることが主な仕事なんだ。ただ気を付けなくてはなんねえのは傍で電動鋸が回っているから油断すると、手足の一本や二本吹っ飛んでしまうから充分注意してやっておくれ」
悦郎の説明に、絶えず騒々しく回転している丸鋸の金属音を目の当たりにして恐怖感さえ覚えた。 《続く》