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いわき鹿島の極楽蜻蛉庵

いわき市鹿島町の歴史と情報。
それに周辺の話題。
時折、プライベートも少々。

鹿島の人物 吉田正義

2009-02-25 07:36:22 | Weblog
吉田正義(鹿島小学校に46年間奉職) 鹿島村三沢(現・常磐三沢町) 
          文久3年(1863)3月15日~昭和23年(1948)7月7日  享年85歳 

 正義は、鹿島村民を46年間に亘って教育した篤実な教育者として、明治・大正時代に学んだ人々の心に今も深く刻まれている。

 三沢竹ノ花7番地に生まれたのは、文久3年だから江戸時代も末期で、4年後には明治維新が訪れる。
 幼い頃から学問を好み一時、松久須根の僧、雪心の寺子屋に学んだこともあるが殆んどは独学をもって学問を自分のものとした。
 明治5年学校制度発布されたのを機に小学校授業生の資格を取り、明治10年4月1日付で磐前郡矢田小学生長拝命、時の月給25銭であった。

 以後、一貫して教職にあり、しかも蔵持小学校へ転勤はしてみたものの鹿島村を離れず、ひたすら生徒教育に情熱を注ぎ、明治30年には矢田小学校長となった。
 
 大正11年、学制頒布50年記念に際し、福島県内の訓導4人を文部大臣が表彰した。 その中の一人に正義は選ばれた。
 帝国大学(現・東大)講堂で、大正天皇御来臨のもとに行われた表彰式へ参列して正義を、生徒たちは「くうじやま」まで送り迎えして師と共に喜んだ。
 この時の感想を、正義は大正11年10月29日付の時事新報へ次のように寄せている。
「私は文久3年に、鹿島村三沢というところに生まれ、明治10年4月、月俸25銭で雇生(こせい)を命じられ、以来在職45年6ケ月。村内の親、子、孫と三代に亘って教育した者が13組もあり、日曜日でも学校へ行かぬと落ち着きません」
 一徹で謹厳な教師であったのである。
 
 大正13年3月老齢を理由に退職するが、その頃、鹿島の村民感情、上下二分して村長を選任することが出来ず、県は止む無く正義をして官選村長に任じた。
 村にとって決して名誉なことではなく、正義は各をめぐって膝を交えて話し合い、そして後継者に荒川忠治(華関)を選んだ。

 官職を退いてからは、自宅で五どの日(五のつく日の休日)に近郷の青年20数名に論語とそろばんを教え、その傍ら和歌を創作していた。
 昭和22年、10日ほど床に就いて7月7日に不帰の客となった。

 正義七十七歳の時、教え子で且つ時の村長、志賀直哉らは鹿島小学校校庭に「吉田先生頌徳碑」を建立し、一代を鹿島村民の教育に捧げた翁の人徳を讃えた。

                       《鹿島郷土誌》より


 本日の催し    2/21~3/1まで

ギャラリー創芸工房(鹿島町走熊) 0246-29-3826
「ちっちゃな幸せー私のお気に入り展ーⅣ」  ☆入場無料

市内をはじめ茨城、石川、広島などの作家58人と2団体が、合わせて約600点を出品しています。
 陶や金属、ガラスなどを素材に制作した、ぐい呑み・豆皿・動物オブジェなどジャンルを超えた作品が並んでいます。






 

 
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