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小松基地問題研究会

【資料】2003.3「戦犯企業不二越論」

2021年04月08日 | 戦後補償(特に不二越強制連行)
【資料】2003.3「戦犯企業不二越論」
 第2次不二越訴訟に取り組むにあたって、不二越とはどんな会社なのかについて、『不二越二五年史』『不二越五十年史』などで調べた。

第1章 不二越の歴史
<1> 創業まで
 1889年 創業者井村荒喜長崎県で生まれる
 1910年 徴兵検査不合格、上海へ渡る
 1911年 九州日の出新聞社で記者見習
 1915年 帝国製糖(台湾)に就職
 1919年 富山・中越水電に就職-翌年支配人になる
 1923年 北陸製線の役員 
 1924年 中越製作所設立(黒部)
 1926年 山室村に研究・試作工場設立
 1927年 東洋工具合資会社の設立(失敗)
 1923年、井村荒喜は北陸製線の経営に参加し、銅鉄線、釘の製造、各種金物類とねじの販売を始めた時から工具分野に強い関心を持っていた(『不二越五十年史』12頁)。
 1924年、井村荒喜は中越製作所を設立し、ゼンマイ(時計、蓄音機用)の製作、工具、ハクソー(金切鋸刃)の開発にとりかかった。当時の電気会社で日常使用するペンチ・ハクソーなどのほとんどが輸入品だった(『五十年史』12頁)。1925年から3カ年間のハクソーの輸入は年間63400グロス、57万円であった(『井村荒喜追想録』226頁)。
 東洋工具合資会社の設立趣意書には「機械工具は…機械工業の消耗品にして、その需要はあらゆる生産部門を通じて年々累乗し、今日年額数千万円に達する」(『井村荒喜追想録』235ページ)と記載し、井村荒喜は工具分野への進出を実現しようとしたが、パートナーの死亡で挫折した。

<2> 不二越の創立
 1928年 不二越鋼材工業株式会社創立(役員10人、従業員34人)
 1929年 「那智」を商標とする
 1930年 ハクソーの連続焼き入れ炉を開発
 不二越鋼材工業の設立「事業計画書」には、「これら(機械・工具・器具など)の諸材料及び部分品の生産を目的とする金属熱処理工業は、国家産業上の基本工業として、その前途多忙なる工業に属するものにして、本事業の計画をなせるゆえんは実にここにあり」(『五十年史』14頁)と書かれている。
 同事業計画書の第1期事業として「1.ばねの製作、2.金属熱処理、3.ハクソーの製作」、第2期事業として「1.使用原材料の生産・加工、2.工具の製作」を挙げている(『五十年史』15頁)。「需要の大きい鉄道車両用ばねの生産に重点をおいて鉄道省からの受注に努力し、さらに紡績用ばねや砲兵工廠の機関銃用ばねにも力を注いだ」(『五十年史』17頁)と述べているが、不二越は当時の機械産業が鉄道関連産業や軍需産業を軸にして発展しつつあることを見て、鉄道省、軍との関係を密にする方針をとっている。
 1928年には大阪に営業所、1929年には東京に出張所を設け、鉄道省との取り引きに全力を挙げた。鉄道省が当時の機械工業に占める割り合いは軍工廠と並んで大きいもので、鉄道省に製品を納入できること自体が、製品の市場評価につながるものであった。井村社長は鉄道省の指定工場となるために、同省への売り込みに「並々ならぬ努力」を傾けた。1930年、鉄道省購買課へのハクソーの納入契約が決まった(『五十年史』21頁)。
 当時の機械工業の全生産額に占める軍の注文は1932年には67%、1935年には38%に達していた。鉄道省関係を加えて、ほとんどが国をお得意先にしている状態であった。
 1930年9月には、鉄道省から「ナチ製品は外国製品よりも優秀である」と認定発表され、つづいて、商工省臨時産業合理局は不二越のハクソーを内外品対比見本選定品に指定した(『五十年史』20頁)。
 1930年代、不況下の沈滞した産業界のなかで、不二越の売り上げは顕著な伸びを示し、1929年、2万6000円から1933年、58万6000円へと22倍の売上高を記録した。

<3> 総合工具メーカーへの展開
 1931年 ドリルに進出
 1934年 海軍省の指定工場となる
 1936年 ベアリング進出
 1936年 不二越研究所―測定機器、試験器など200点あまりを持つ鉄筋140坪の建物を建設
 1938年 東富山製鋼所操業開始、陸海軍共同管理工場の指定
 1939年 ブローチ盤の試作研究
 1940年 戦艦大和、武蔵の減速歯車用ホブの試作
 1941年 弁ばね鋼線、磁石鋼、精密研削砥石
 1942年 ライネッカホブ
 1931年の直接軍事費は国家予算の30%を超え、702万円にもなり、その後うなぎ上りに増加し、軍事支出の大幅な膨張が加わり、市況はしだいに回復し、産業界は活況を呈しはじめた。軍需の増大による重化学工業の進展の中で、機械工業もめざましい伸びを示した。不二越はハクソーの技術を生かしうる製品は切削工具であり、そのなかでもっとも大きな需要をもち、大量生産を望めるものはドリルであると判断した(『五十年史』23頁)。
 日本の機械工業全般の水準が低いため、ドリル生産の素材は炭素工具鋼またはタングステン鋼のものが一般に使用されていた。高速度鋼ドリルの需要は軍工廠や特定の大工場など一部に限られていた。しかし欧米では機械加工の高能率化のため、高速度鋼ドリルの使用が一般化しつつあった。不二越は1932年末から高速度鋼ドリルの製造を開始した(『五十年史』24頁)。
 軍工廠への納入をめざすためには、特に製品にたいする信頼度を高める必要があり、1932年末には品質確保のため製品の検査係をもうけた。1929、30年の全売上高はそれぞれ2万6300円、31年には8万3100円、32年には23万8000円に達した。工場も順次拡大し、32年下期では工場敷地1700坪、建物400坪となった。従業員も140名に増加した(『五十年史』26頁)。
 1932年、「満州事変」を突破口にして、中国侵略が始まり、膨大な軍事費支出により軍需関係産業が活況を呈し、とりわけ機械工業がめざましく進展した。
 1934年、不二越は海軍省指定工場となり、ドリル購買名簿に登録された。1934年ドリル生産が本格化して、不二越の市場占拠率は1937年には30%を超えた。ついでハクソーも登録され、以後指定品目である限り不二越の製品はつぎつぎと登録された。
 1936年、大阪・名古屋陸軍造兵廠、佐世保・呉・横須賀海軍工廠などこれまでも働きかけていた各地の軍工廠へつぎつぎと販路を拡大した(『五十年史』27頁)。
 不二越は工具の品種を拡大した。フライス(刃物を回転させ、金属の表面を削って仕上げる工作機械。ミーリング)、歯切工具、リーマ(金属に正しく穴をあける、穴の内面を削る機械)、ねじ加工工具、ブローチ(前後に重ねた歯の大きさが次第に大きくなっている棒状刃物で、孔・溝・面の仕上げをするのに適する工具)、測定工具、ジグ(使用工作機械の刃物を正しく当てる働きをする道具)取付具などに進出し、総合工具メーカーとしての基盤を確立した(1937年発行の商品カタログ)。
 不二越があらゆる種類の工具の生産を手がけ、その売上高を増大し得たのは、軍需を中心とする機械工具市場の拡大があったからである(『五十年史』35頁)。
 不二越の資産は1931年下期=13万2000円から、1937年下期=607万円へと急成長した。総資本に占める負債の比率は1931年の42%から1937年には54%となり、1930年を境に他人資本の依存度が高まっていった。これは、1935年以降の急速な企業拡大のためであった。

<4> 戦時下の事業拡大
 1944年 軍需会社の指定、朝鮮から強制連行、豊川海軍廠不二越の疎開
 1945年 朝鮮へ工場疎開
 1937年「蘆溝橋事件」直後の9月、全面統制の開始を告げる『軍需工業動員法の適用に関する法律』『臨時資金調整法』『輸出品等臨時措置法』が制定された。これらは軍需生産力を拡充し、軍需企業を保護育成するための法律である。ついで翌1938年には『国家総動員法』が制定された。すなわち工場・事業場などの国家管理(会社の経理や利益処分の規制)、国民の徴用、賃金や価格の統制、工場や土地の収用などすべての面にわたって、軍需生産優先政策を実施した(『五十年史』41頁)。
井村荒喜は「国民総動員令下にすすむわれらの覚悟」と題して、「国民総動員とは、物と心の総動員である。物とは物資、具体的には軍需資材である。軍に必要なあらゆる物資の供給を何物にかえても、われらはまず果たさねばならない。一枚のぼろも弾丸にかえる計画と実践である。心とは大和魂、すなわち一死報国の堅い決意である。しかして、この国民総動員令はついに下った。光栄のこの召集令状を手にした一億同胞が1人残らずこぞって起ち、物心両様を完うして奉公の赤誠を致さねばならぬ」と訓示した。不二越はアジアへの侵略戦争の真っただ中で、国策に全面的に迎合し、協力して急激な成長を遂げていく(『五十年史』42頁)。
 日中戦争に突入して、特殊鋼の需要が急増した。1936年末、製鋼工場建設計画も本決まりとなり、工場敷地を北陸線東岩瀬駅前に定めた。工場完成の近づいた1938年夏、技術習得のために特殊鋼製造のもっともすすんでいた呉海軍工廠製鋼部に中堅作業員10人を派遣し、実習を受けさせた。不二越が1934年に海軍省指定工場となり、呉海軍工廠に工具を納入してきた関係もあって、同敞から大きな技術援助を受けることができた(『五十年史』42頁)。

 軸受分野に進出
 不二越は創立時の事業計画の実現をめざして、軸受工業にも進出した。軸受の需要は1932年(「満州事変」)以降、軍需を中心に年を追って増加した。兵器と直接結びつく軸受の需要は、航空機・軍艦・戦車・軍用自動車など多岐にわたった。軸受は高い精度と量産が要求される性格を持っていたため、多種類の高級な専用機械設備が必要であり、不二越は海軍当局の斡旋によりドイツのSKF社の工場などを見学するなど、軍のバックアップを受けて軸受部門に進出した。中国侵略戦争のなかで、1939年以降軸受生産は急速に展開し、工具生産の3分の1、全売上高の4分の1を占めるに至った(『五十年史』45頁)。
 侵略戦争の長期化と戦線の拡大によって、軸受の需要は急速に増大した。政府は軍需産業としての軸受工業の確立こそ緊急を要するとして、これを保護育成するため軍当局と協議のうえ、1939年『玉軸受及びころ軸受工業指導要領』を決定した。不二越も、先発軸受メーカー数社と共に軍部の手厚い保護を受けながら事業の展開をはかっていった(『五十年史』53頁)。

 兵器生産の展開
 1938年、不二越は陸海軍共同管理工場の指定を受けた(資料1)。陸海軍からは、それぞれ管理官・監督官が派遣され、工場は軍管理工場として陸軍旗と海軍旗が各監督官事務所屋上にひるがえり、皇族・陸海軍首脳の視察があいついだ(『五十年史』48頁)。
 1938年には戦闘機のプロペラボス加工用の85ミリ・90ミリという大形平行スプラインブローチを製作するまでに至った。1940年には、名古屋陸軍造兵廠から99式7・7ミリ銃身用ヘリカルブローチの試作注文を受けた。1940年末、横須賀海軍工廠から戦艦大和・武蔵の減速歯車の歯切り用ホブの試作を命じられた(資料2)。
 工作機械と特殊鋼の生産
 1938年、『航空機製造事業法』とともに『工作機械製造事業法』が制定され、工作機械製造に国家の保護と奨励が加えられた。翌39年『国家総動員試験研究令』が施行され、強力に高級工作機械の国産化を推進することとなった。この試作命令は不二越にたいしても下され、官民一体となって、工作機械の新機種開発に取り組んだ(『五十年史』47頁)。
 東富山製鋼所の生産は呉海軍工廠の指導のもとで開始された。1939年、富山工場に遅れること8カ月、東富山製鋼所も陸海軍共同管理工場の指定を受けた(『五十年史』54頁)。
 1940年、日独伊三国同盟締結と日本軍によるフランス領「インドシナ」侵略に対して、アメリカは屑鉄・鉄鋼の対日輸出を禁止し、国内では屑鉄不足がおきた。しかし不二越は工具・軸受など主要製品はいずれも資材割当で優遇されており、原材料は十分に確保できた。日中戦争後の需要の増加によって、不二越の生産高は引き続き急激に増加し、1941年の売上高は1937年に比べ総額において15倍に近い伸びを示した(『五十年史』56頁)。

 軍需優先の販売体制
 軍関係の需要の増大と共に軍への直売、とりわけ海軍への販売のために、その工廠所在地に出張所を置くこととした。まず1939年に呉と横須賀、次いで1941年に佐世保・豊川・舞鶴・光に出張所を設置した。すでに1938年、軍管理工場の指定を受けたころから軍需優先の販売への転換が始まっていた。諸資材の確保のために、中央の軍・政府諸機関との折衝も頻繁におこなわれた。
 こうして不二越の経営は、多角経営が軌道に乗り毎期増収増益をつづけた。純利益は1937年の83万円から、1941年は1870万円と約23倍となり、純利益率も40%前後と高水準なものとなった。
 1940年下期、わが国鉱工業上位100社に入った。小野田セメント(69位)・富士電機製造(70位)・日産自動車(71位)・日本アルミニューム(72位)につぎ、不二越(総資産額7040万円)は73位に名を連ねたのである(『五十年史』61頁)。

<5> 決戦体制下の企業活動
 非常時における軍需生産
 軍需工業にたいしては優遇措置とともに、増産命令が同時に行われた。直接兵器の生産も要求され た。1941年、呉海軍工廠から高角砲の部品の注文があり、工作機械工場の一部をさいてこの製作に着手した。さらに1942年には豊川海軍工廠から機銃部品の製作命令を受け、取り組んでいった。1944年末には愛知県の豊川海軍工廠が200台の機械と230名の従業員を不二越に疎開してきた。(資料3)
 不二越は軍の要請により航空機・艦船・銃砲などと深いかかわりをもついくつかの製品の試作に着手していたが、この時期にそれぞれ完成するとともに、膨大な量の生産要請にも応えた。軍は航空発動機用・魚雷艇機関用などのジグ取付具の集約生産を計画し、不二越ではジグ取付具の受注が激増し、生産体制を拡充し、昼夜増産に励んだが、それでもなお受注が消化しきれず、1944年にはさらに2520坪の治具・兵器工場を新設した。航空機用軸受は、特に精度の高さが要求されたが、航空計器用超精密玉軸受や超精密鋼球を量産し、また航空発動機部品を加工する精密中ぐり盤の主軸用エキセロ形玉軸受を開発した(『五十年史』62頁)。
 軍の要請にもとづく膨大な特殊鋼の生産計画に取り組み、1944年、富山港に隣接する60万坪の敷地に萩浦工場の建設に取りかかった。陸軍・海軍・商工各省をはじめ、民間需要家から数多い試作試験の命令や依頼はあとを絶たなかった(『五十年史』63頁)。
 軍需品の受注は軍への直納が増え、そのためすでに軍と関係の深い各地域には支店・出張所を設置していたが、さらに1942年以降、終戦までに8出張所を増設した(『五十年史』64頁)。
 戦時労働力不足のなかで、1941年12月、男子全従業員が「現員徴用令」の適用を受け、労働力の移動を禁止した。ついで1942年初めには第1回の新規徴用工500人が不二越に動員された(『五十年史』62頁)。
 1944年春から45年にかけて、朝鮮半島から女子勤労挺身隊1000人余、男子報国隊500人余が強制動員された。不二越にとっては、労働力の確保が重要な問題であったが、軍需工場として、要員の充足には破格の便宜が与えられた。

<6>軍部との蜜月
 戦局の急速な悪化に対して、政府は軍需生産を確保するため、1943年『戦力増強企業整備要 綱』に基づいて重点産業部門を定め、国内の工場などの生産設備と労働力を根こそぎ動員する体制をめざした。政府は1943年、軍需生産の一元化をはかるため軍需省を新設し『軍需会社法』を制定した。
 1944年初頭、不二越は軍需会社としての第1次指定を受け、富山工場は軍需および海軍両大臣の所管、東富山製鋼所は軍需大臣の所管とされ、次いで第2次指定において富山工場はさらに陸軍大臣の指定をも受け、またこの時小倉工場も軍需大臣の所管下に入ることになった(『五十年史』65頁)。
 『日本曹達70年史』(94頁)には、「軍需会社第1次指定会社に指定されると、早速、軍部の管理監が常駐し、工場防衛のため40丁の機関銃が配備された。また、工場内が戦地と同環境の扱いとなり、職員は召集を免除され、召集令状が来ても、これを軍事係に持参すると、『陸亜密101号により召集解除を命ず』という辞令が発せられた」と記載されている。
 東京では、電波兵器関係の銀線加工などの目的で、成増工場および志村分工場が1943年に操業を開始した。1942年に工具工場として建設を始めた山室工場は、1944年になって完成し、海軍関係の兵器工場として本格的な兵器部品の生産をはじめた。ここで製作された製品は、120ミリ高角砲部品35点、艦載機用25ミリ機関砲部品5点、戦闘機20ミリ機銃部品9点であった。陸軍もまた、20ミリ機銃弾丸の製作を命じてきた。そこで1944年、まず高岡市の高岡工場で取り上げ、引き続き弾丸工場として石川県羽咋郡に羽咋工場を新設することとしてその整備を急ぎ、翌1945年に移転、弾丸の量産に入った(『五十年史』66頁)。
 本土空襲が激しさを増した1945年初め、軍需省と朝鮮総督府は「不二越の工具工場と製鋼工場の一部を朝鮮に移転せよ」との命令をだした。そこで、工具及び軸受工場を平壌に近い沙里院に、製鋼工場を力浦に移転することになり、6月には沙里院工場へ従業員570人、各種機械560台、工具鋼500トンを送り出した。力浦移転は九州軍需管理部が反対して、中止になった(『五十年史』68頁)。
 また、不二越が軍の要請に応えて、生産を拡大するために、軍の力を背景にして周辺の農地を強制的に買い上げたり、生活道路を閉鎖したりした(資料4)。このように、不二越は当時の政府、軍部と一体となっていたことが如実に示されている。

<7>戦時下の資本蓄積
 不二越は資本の増加と資産の増加とはほぼ並行して進み、借入金は少なかった。しかし軍需生産のための膨大な資金需要をまかなうため軍需融資指定金融機関(戦時金融金庫など)からの借入金が急増し、1944年上期以降、資本金を上回る高額なものとなり、1941年下期の自己資本率は64%だったが、1945年上期の自己資本率は26%に低下した。
 不二越にたいして臨時軍事費特別会計から「前受金」という形でも莫大な国費が不二越に投入され、優遇された。1941年下期には、547万4000円、1943年下期には2567万2000 円、1945年上期には1億4457万5000円が投下された。侵略戦争をテコにして、暴利をむさぼろうという「死の商人」としての不二越の姿がはっきりとうつしだされている。国から踏んだくれるだけ踏んだくっていた不二越は、強制連行・強制労働被害者には1円も払わなかったのである。
 不二越の固定資産は日中戦争期に急増した。1937年の269万円から太平洋戦争が始まる1941年の4202万円へと15倍以上に増加し、太平洋戦争真っただ中の1942年の6028万円から1945年の2億2653万円へと3倍強に増加している。各工場の拡張や新工場の建設に伴う設備投資によって固定資産が急増した。
 投資(出資金勘定)も日中戦争期に大幅に増加し、子会社の設立、資本参加を行なっている。ひとつは藤井製作所、石川製作所、大川精機製作所などの下請会社を作り、生産拡充を支えるために資本参加し、もうひとつは原料などの確保のために、日本タングステン、大峰産業、不二越鉱業、信越石油鉱業、昭和窯業、不二越海運等への出資をおこなった。払込資本金も日中戦争期の設備拡張に伴って急増しているが、その中には何度かの合併によるいわゆる「変態増資」も含まれている。その急増は太平洋戦争期も続き、敗戦時には9288万円となっているが、しかし、資金需要を自己資本でまかなうことができなくなり、各種の借入金等でまかなうようになった。
 借入金についていえば、1939年以降銀行借入金である短期借入金が急増するが、太平洋戦争末期になると、政府軍需資金の前払いである仮受金・前受金の方が銀行借入金を上回っている。「金融機関から軍需企業への融資を促進する各種の戦時金融措置がとられ、…借入金が拡大したが、それ以上に軍需品代金一部前払い及び概算払いの方式がとられ、前渡し金の範囲についても注文額の半額程度から4分の3程度まで拡張し」たのである(東洋経済新報社『戦後財政史』第13巻、757頁)。
 軍需会社の指定を受け入れることによって、不二越は販売、原料購入、資金調達などで、国家財政から種々の保障を受け、不二越はそれを有効に利用することによって、急速に生産を拡大し、資本蓄積をはかったのである。日中戦争突入以降の国策(軍需)に積極的に対応することによって、不二越は急成長し、創業以来わずか十数年(1940年)にして鉱工業大企業100社に入る資本蓄積を成し遂げたのである。不二越こそ、侵略戦争の中で、侵略戦争によって肥え太った軍需会社である。

第2章 不二越への法的保護・育成・優遇
 日中戦争突入以後の国家総動員体制のもとで、「生産力拡充計画」「物資動員計画」が立てられ、民間工場を軍管理工場に指定し、または民間企業を軍需会社に指定した。「昭和13(1938)年、軍管理工場の指定を受けた頃から軍需優先の販売への転換が始まり、…三菱重工業、中島飛行機、川崎航空工業、川西航空機、日立航空機、トヨタ自動車工業、日産自動車、東京自動車工業、日野重工業など、とりわけ航空機工業からの受注は活発なものとなった」と記述している(『五十年史』58頁)。
 1918年に成立した『軍需工業動員法』にもとづく『工場事業場管理令』によって、1937年には民間工場への軍管理工場の指定が行なわれた。軍部による民間工場の直接管理、あるいは軍工廠と民間軍需品工場との直接的連携である。民間経営という私企業の機構をそのままにしておいて、国家が必要な指揮監督を行なった。指定対象は工場単位であり、不二越では富山工場が指定を受けた。「(軍管理工場は)軍管理であるがゆえに民需品の生産に制限が加えられた。しかし、軍管理工場は軍需優先ということで資材・労務などが潤沢に供給され」た(『五十年史』)。
 1943年に『軍需会社法』が成立し、不二越は1944年に軍需会社の指定を受けた。軍需会社法は「①政府は軍需会社に対し、期限、規格、数量その他必要事項を指定して軍需物資の生産加工または修理を命令することができる。②政府は、軍需会社に対し、受注発注、設備の新設・拡張・改良、原材料の取得・使用・保管・移 動、技術の改良・更改その他事業の運営に関し必要な命令を発することができ、政府指定以外の事業を営むことを制限または禁止した。③政府は、軍需会社または軍需事業の遂行に関係あるものに対し協力関係の設定に関し必要な命令を発することができる。④政府は、勅令によって軍需会社に対し定款の変更・事業の委託・受託・譲渡・廃止・休止、合併解散、設備・権利の譲渡処分に関して必要な命令を発することができる」(長島修『日本戦時鉄鋼統制成立史』339頁)というものだった。
 しかし、「軍需会社に対する政府の命令によって生ずる損失については、経理上一切の犠牲を払わせないということを明確にして、損失補償、補償金の交付、利益補償の規定が設けられ、軍需会社にとってはたとえ利益を阻害する命令を甘受するとしても利益を保証する機構ができ上がった」(長島修『日本戦時鉄鋼統制成立史』339頁)。
 また、「軍需会社に指定されると、既存の様々な統制立法から除外され軍需生産を遂行している限り、自由な企業活動、利潤保証措置を受けることができた。…統制立法によって規制されていた設備投資、労働力保護規定、土地・建物に対する諸規制から解除され、統制経済の中で規制の緩和の恩恵を十分に獲得し、…企業の蓄積基盤の拡大に利用することができたのである」(下谷政弘『戦時経済研究と企業統制』16頁)。
 『軍需会社法』の13条には、「政府は…命令又は処分を為したる場合に於て必要ありと認むるときは、勅令の定むる所に依り軍需会社に対し補助金の交付、損失の補償又は利益の補償を為すことを得」と規定され、『工場事業場管理令』『工作機械製造事業法』『総動員試験研究令』『兵器等製造事業特別助成法』などの戦時法はことごとく軍需企業を財政的に優遇する規定が盛り込まれている。(資料7、8参照)

第3章 戦争下で急成長する不二越
 不二越が1939年から本格的に生産を開始した軸受部門は軍需製品であり、太平洋戦争末期には、工具部門の3分の1強、不二越全売上高の4分に1にまで急成長した。「政府は軍需産業としての軸受工業の確立こそ緊急を要するとして、これを保護育成するため軍当局と協議のうえ、昭和14(1939)年『玉軸受及びころ軸受工業指導要領』を決定した。これが日本軸受工業の急激な展開の即効薬となったのである。軸受に進出して日の浅い当社も、この『指導要領』による生産拡充目標会社の対象として指定され、先発軸受メーカー数社とともに軍部の手厚い保護を受けながら事業の展開をはかっていった」(『五十年史』53頁)。
 不二越の固定資産は日中戦争期に急増した。1937年の269万円から太平洋戦争が始まる1941年の4202万円へと15倍以上に増加し、太平洋戦争真っただ中の1942年の6028万円から1945年の2億2653万円へと3倍強に増加している。各工場の拡張や新工場の建設に伴う設備投資によって固定資産が急増した。
 投資(出資金勘定)も日中戦争期に大幅に増加し、子会社の設立、資本参加を行なっている。ひとつは藤井製作所、石川製作所、大川精機製作所などの下請会社を作り、生産拡充を支えるために資本参加し、もうひとつは原料などの確保のために、日本タングステン、大峰産業、不二越鉱業、信越石油鉱業、昭和窯業、不二越海運等への出資をおこなった。
 払込資本金も日中戦争期の設備拡張に伴って急増しているが、その中には何度かの合併によるいわゆる「変態増資」も含まれている。その急増は太平洋戦争期も続き、敗戦時には9288万円となっているが、しかし、資金需要を自己資本でまかなうことができなくなり、各種の借入金等でまかなうようになった。
 借入金についていえば、1939年以降銀行借入金である短期借入金が急増するが、太平洋戦争末期になると、政府軍需資金の前払いである仮受金・前受金の方が銀行借入金を上回っている。「金融機関から軍需企業への融資を促進する各種の戦時金融措置がとられ、…借入金が拡大したが、それ以上に軍需品代金一部前払い及び概算払いの方式がとられ、前渡し金の範囲についても注文額の半額程度から4分の3程度まで拡張し」たのである(東洋経済新報社『戦後財政史』第13巻、757頁)。
 軍需会社の指定を受け入れることによって、不二越は販売、原料購入、資金調達などで、国家財政から種々の保障を受け、不二越はそれを有効に利用することによって、急速に生産を拡大し、資本蓄積をはかったのである。日中戦争突入以降の国策(軍需)に積極的に対応することによって、不二越は急成長し、創業以来わずか十数年(1940年)にして鉱工業大企業100社に入る資本蓄積を成し遂げたのである。不二越こそ、侵略戦争のなかで、侵略戦争によって肥え太った軍需会社である。

第4章 不二越の労働力政策
 日中戦争前後の労働力不足問題は、「当時の生産力水準が熟練工を軸とした労働力編成に支えら れ、また専門技能労働者の実働率が生産増強の唯一のきめ手」(三好正己『労働力政策に関する覚え書』)であり、成年男子への徴兵と軍需生産の拡大によって熟練工が不足していたのである。
 富山県はかつて余剰労働力の豊富なところだったが、電源開発が進み、新興工業県となっていて、余剰労働力はなくなっていた。太平洋戦争に突入するや、不二越も熟練工はもちろん、不熟練工、未経験工の絶対的な労働力不足に直面した。
 不二越は、「当時機械工業部門の女子の就業は一般化されていなかったが、当社は専用工作機械の設置などによって工程の単純化を進め」て、女子や若年の未熟練工を多く採用した。このように不二越は専用工作機械を設置し、生産工程を単純化し、量産体制を築くことによって、若年、女子労働力をも動員できる生産体制を形成していた(『五十年史』33頁)。
 1941年12月、不二越労働者の移動を禁止するために現員徴用が適用され、翌42年1月末には、他の産業から軍需産業である不二越に強制的に移動させた第1回目の新規徴用(500人)が強行された。
 1943年9月「女子勤労動員の促進に関する件」が閣議決定され、全国に女子勤労挺身隊が結成された。これに基づいて、43年10月から県立富山高等女学校の卒業生が不二越に勤労動員された(『鉄と油と』内山桜子著)。「昭和18年(1943年)秋ころより、(砺波高女の)専攻科生など50名余りが富山の不二越へ出動している」「その時(1944年)の出動校は不二越だけで24校、隣県の女子師範生も入寮していた」と大規模な勤労動員について、『富山県史―通史編近代下』(1058頁)に書かれている。

 朝鮮人強制連行へ
 1944年2月、『国民職業能力申告令』が改悪され、「要申告者を男子12~60歳、女子12~40歳の未婚者」に拡大された。1944年春以降、不二越は朝鮮で12歳以上の女子挺身隊を募集し1089人、男子報国隊419人を富山に強制連行した(『五十年史』では、1090人、540人)。不二越は未経験・不熟練の勤労動員や女子勤労挺身隊によって労働力不足を解決し、軍需生産の拡大を図ったのである。


(資料1)
 1918年に成立した『軍需工業動員法』にもとづく『工場事業場管理令』によって、1937年には民間工場への軍管理工場の指定が行なわれた。軍部による民間工場の直接管理、あるいは軍工廠と民間軍需品工場との直接的連携である。民間経営という私企業の機構をそのままにしておいて、国家が必要な指揮監督を行なった。指定対象は工場単位であり、不二越では富山工場が指定を受けた。
『五十年史』「(軍管理工場は)軍管理であるがゆえに民需品の生産に制限が加えられた。しかし、軍管理工場は軍需優先ということで資材・労務などが潤沢に供給され」た。
 日中戦争突入以後の国家総動員体制のもとで、政府は「生産力拡充計画」「物資動員計画」を立て、民間工場を軍管理工場に指定し、または民間企業を軍需会社に指定した。
『五十年史』(58頁)「昭和13(1938)年、軍管理工場の指定を受けた頃から軍需優先の販売への転換が始まり、…三菱重工業、中島飛行機、川崎航空工業、川西航空機、日立航空機、トヨタ自動車工業、日産自動車、東京自動車工業、日野重工業など、とりわけ航空機工業からの受注は活発なものとなった」と記述している。

(資料2)不二越への皇族の視察(『『五十年史』』48~50頁)
1929年 5月 6日 天皇関西巡行時、大阪市庁舎で不二越製金切り鋸刃を視察
1934年10月 8日 北白川永久王工場視察
1936年 5月21日 梨本宮守正王工場視察
1939年 5月11日 朝香宮鳩彦王工場視察
1939年11月25日 東久邇大将宮稔彦王工場視察
1941年 6月 2日 閑院宮春仁王視察
1942年 5月15日 朝香宮鳩彦王工場視察
1943年 5月28日 伏見宮博恭王工場視察
1943年 9月21日 高松宮宣仁親王工場視察
1945年 6月10日 朝香宮鳩彦王工場視察
1948年 9月27日 高松宮宣仁親王工場視察

(資料3)「軍需工場不二越の終焉 その前後」(不二越鋼材工業株式会社 元総務課長 加藤義重著)
豊川海軍工廠不二越疎開(125P)
 昭和19年の暮から20年にかけて、富山は、降り続く大雪で、歩くにしても、まして輸送するにしても、困難を極める時であった。愛知県の豊川海軍工廠が、200台の機械と従業員230名と共に疎開してきたものである。この豪雪の中をである。高角機銃が、その製品であった。丁度、拡張事業として、本社から5キロ離れた山室に建設中の工場をこれに当てることとし、従業員は、本社の報国寮にとりあえず宿泊することとなった。
 この工場に隣接して、彼等のための寮が新築され、ほぼ完成されるまでになっていた。しかし、それは建物だけで、他は何もなかった。2月の始め頃であったろうか。「加藤教務課長さん、建設本部へ直ちにおいで下さい」と、社内放送が繰り返した。その時は、私はどこであったか、来訪のお客様を工場内へご案内していたときであった。そこで同行の係長にあとを頼んで、すぐに建設本部へ急いだ。
 時の建設本部長は横山さんである。みると正面に若い海軍の少尉か、中尉くらいの、それも20歳を僅かに越えた程度の将校が、例の白い海軍服姿、短剣を下げた姿で傲然と威張っている。
 私を見るなり、「君が教育部当面の責任者か。」
「そうです」
「山室の工場隣接の寮がもはや完成と聞くが、いつまで我が工廠の従業員を止めておくのか、何をぐずぐずして早く移さないのか。」と威圧極まる調子で、さながら命令というか、どなりつけるような調子である。
 元来、ここの従業員は皆、不二越みたいな会社の従業員とは違うんだ、と平素から何かにつけて横柄な態度だと聞いていた。 わけてもここ不二越で、北陸一帯の軍需工場を監督する立場にあるという意識が強いせいもあるからであろう。(以下略)

(資料4)『山室郷土史』158P
 本社工場の拡張につぐ拡張で周辺の石金、中市、公文名の土地が買収された。正確なデータはわからないが中市は36町程の土地の80パーセントは工場用地として買収された。農地を売却した農家は優遇条件で不二越に採用されることもなかったようである。また、婦中町と日産化学会社のように「職工農家」が山室で増加したという数字も見出せないのである。不二越が1400余戸の社宅を建設するために秋吉の農地が大量に買い上げられたが、手放したがらない農家に官の圧力があったということを古老が語り伝えている。
 地域住民にとって一番大きな問題は、山室小学校前を通る「県道富山・流杉線」が不二越の拡張によって工場敷地内に取り込まれ、通行できなくなり、石金を廻る大迂回を余儀なくされたことである。

(資料5) 不二越が生産していた軍需物資
・ハクソー(金切鋸刃)-海軍省に納入/・機関銃用ばね-砲兵工廠に納入/・高速度鋼ドリル-海軍省に納入/・特殊鋼/・大形平行スプラインブローチ(戦闘機のプロペラボス加工用の85ミリ、90ミリ)/・銃身用ヘリカルブローチ(99式7・7ミリ)-名古屋陸軍造兵廠/・減速歯車の歯切用ホブ(戦艦大和、武蔵)-横須賀海軍工廠/・軸受、玉軸受、ころ軸受(航空機、軍艦、戦車、軍用自動車などに使用)/・機銃部品-豊川海軍工廠/・ジグ取付具/・航空機用軸受/・航空計器用超精密玉軸受/・超精密鋼球/・精密中ぐり盤の主軸用エキセロ形玉軸受(航空発動機部品の加工)/・電波兵器関係の銀線加工/・120ミリ高角砲部品35点-海軍/・艦載機用25ミリ機関砲部品5点-海軍/・戦闘機20ミリ機銃部品9点-海軍/・20ミリ機銃弾丸-陸軍

(資料6) 関係諸法令抜粋
『工場事業場管理令』(1938年5月3日、勅令第318号)
 第11条 国家総動員法第27条の規定により補償すべき損失は管理による通常生ずべき損失とす損失の補償を請求せんとする者は…損失の生じたる都度これを請求することを得。
『工作機械製造事業法』(1938年3月29日、法律第40号)
 第13条 工作機械製造会社は事業拡張の場合に於て、政府の認可を受け其の事業に属する設備の費用に充つる為、株金全額払込前と雖も、その資本を増加することを得。
 第14条 工作機械製造会社は事業拡張の場合に於て、政府の認可を受け其の事業に属する設備の費用に充つる為、商法に規定する制限を超えて社債を募集することを得…。
 第20条 政府軍事上必要ありと認むるときは、工作機械製造会社に対し、特殊工作機械の製造、工作機械に関する特殊事項の研究又は特殊設備の施設其の他軍事上必要なる事項を命ずることを得。
 第21条 …前条の規定に依り為したる命令に因り生じたる損失は、勅令の定むる所に依り政府之を補償す。
 第22条 …政府の指定する工作機械の試作を為す者に対し、予算の範囲内に於て奨励金を交付することを得。
『総動員試験研究令』(1939年8月29日、勅令第623号)
 第8条 命令の定むるところに依り主務大臣は本令に依り試験研究を為す者に対し予算の範囲内に於て補助金を交付す。主務大臣は本令に依る試験研究に依り損失を生じたる場合に於ては通常生ずべき損失を補償す。
『兵器等製造事業特別助成法』(1942年2月12日、法律第8号)
 第4条 政府は命令の定むる所に依り、兵器等製造事業者に対し前条の規定に依りて、当該事業者に貸付すべき設備の建設を命ずることを得。此の場合に於て設備の建設に要する費用は命令の定むる所に依り国庫の負担とす。
 第7条 政府は…兵器等製造事業者に対し其の事業に属する重要なる設備を指定し、之に付一定の期間内に償却を為すべきことを命ずることを得。前項の償却については、所得税、法人税其の他の租税の課税標準の計算に関し、命令を以て特例を設くることを得。第一項の償却に係る設備に依り、生産又は修理したる兵器等に付、政府の支払うべき代金は当該償却を斟酌して之を定むるものとす。
『軍需会社法』(1943年10月31日、法律第108号)
 第13条 政府は…命令又は処分を為したる場合に於て必要ありと認むるときは、勅令の定むる所に依り軍需会社に対し補助金の交付、損失の補償又は利益の補償を為すことを得。
『国民職業能力申告令』(1939年1月6日、勅令第5号)
 第2条 職業能力に関する申告は本令施行地内に居住する年齢16年以上50年未満の帝国臣民たる男子にして…」
     (→1944年2月19日(勅令88号)「要申告者を男子12~60歳、女子12~40歳の未婚者」に改悪)
『工業労働者最低年齢法』(1923年3月30日、法律第34号)→1941年3月改悪

『軍需工業動員法』(1918年)/『製鉄事業法』(1937年8月13日、法律68号)/『臨時資金調整法』(1937年9月9日、法律第86号)/『輸出品等臨時措置法』(1937年9月10日、法律92号)/『軍需工業動員法の適用に関する法律』(1937年9月)/『国家総動員法』(1938年)/『工作機械製造事業法』(1938年3月29日、法律第40号)/『工場事業場管理令』(1938年5月3日、勅令第318号)/『機械設備制限規則』(1939年)/『玉軸受及びころ軸受工業指定要領』(1939年)/『総動員試験研究令』(1939年8月29日、勅令第623号)/『兵器等製造事業特別助成法』(1942年2月12日、法律第8号)/『特殊鋼需給統制規則』(1942年)/『戦力増強企業整備要項』(1943年)/『軍需会社法』(1943年10月31日、法律第108号)/『軍需融資指定金融機関制度』(1944年)

(資料7) 戦時下の軍需産業優遇策 原朗著『戦時統制経済の開始』、中村隆英著『戦争経済とその崩壊』
 原朗「(日中戦争期の間に)機械工業は工業全体の10%から30%へ、武器製造業は機械工業の7%から17%へと比重を急増」「日中戦争期に地位を飛躍的に高めたものは兵器・工作機械・工具・特殊鋼などであり…兵器産業の急伸と関連軍需産業の拡大、基礎産業の伸び悩み、輸出産業・民需産業の凋落、と要約することができよう」「軍工廠の従業員数は、日中戦争期に約3.3倍の増加をみせ、…資本の増大も3.8倍と従業員増加率をさらに上回った」「日中戦争期の兵器生産は年々実質4割前後の拡大」(243~248頁)。
 原朗「これらの巨大企業(注…巨大民間兵器工場のこと)は、軍の拡充命令に応じて工場設備の拡張を重ね、急速に投資を増大させる一方、軍需発注について認められた前受金・概算払い制度により巨額の政府前払金を利用し得たほか、資金面でも臨時資金調整法による規制はほとんどうけず、運転資金も官の発注書を提示することによりほとんど遅滞なく市中銀行から融資をうけえたこと、製品の契約価格も軍工廠の製造単価より利潤・減価償却・租税金利負担分を考慮して高めに定められ、軍工廠が技術指導をする際のいわゆる教育注文では標準契約価格よりさらに2割の割増を受けたこと等々により、莫大な利潤を獲得し急速に資本蓄積をかさねた」(250頁)。
 原朗「軍事消耗の継続的拡大が兵器生産部門を肥大化させ、これに連なる機械工業および金属・化学工業、さらに基礎資材を提供する工業・エネルギー部門などでは、膨大な軍需発注と各部門間で加速的に形成される需要増により生産活動が活発化する。資金・資材・労働力すべての面で一般的な経済統制それ自身により優遇されるだけでなく、各種の事業法に基づく個別的な国家保護や補助金により資本蓄積それ自体が促進される。生産費の面でも製品価格決定においても優遇されて、これら部門の諸資本は膨大な戦時超過利潤を獲得する。…企業は借入金・社債などを動員して生産拡大に応じ、資本構成で40%前後だった社外負債比率は日中戦争期の末に50%をこえ、機械工業では60%に達した。重工業関係会社の社外負債では特に仮受金や未決算勘定が3分の1にものぼり、前受金の増大が軍需関連企業の資本蓄積に大きな役割を果たしていた」(257頁)。
 中村「1943年秋の軍需会社制度の発足に続いて『軍需融資指定金融機関制度』が成立した。軍需会社の資金需要に対して、『適時、簡易、迅速且適切』に応じるために、軍需会社と金融機関を直結 し、1企業の所要資金は原則として1行でまかなうというものであって(1社1行主義)、当時の大軍需会社の大量の資金需要に対して1行では手当し切れない場合もあろうが、その際は全国金融統制会の斡旋により金融機関を糾合して軍事融資協力団を組織し、戦時金融金庫の債務保証または日本銀行の援助をえて金融の円滑化をはかろうというのである。この制度は当初は大蔵省の行政指導によって発足したが、45年1月、軍需充足会社令の公布と同時に『軍需金融特別措置法』によって法制化され、金融の対象も当初の指定会社150社から充足会社をも含めて約3000社に増大した」(152頁)。

(資料8) 日中戦争期の労働力市場 原朗著『戦時統制経済の開始』、粟屋憲太郎著『国民動員と抵抗』
 原朗「日中戦争の初頭1937年には約50万人、関東軍特別演習による大動員があった41年には約70万人に上る大量の男子青年壮年労働力が労働市場から引き去られた。同時に、軍需産業の拡大に伴う大量の労働力需要が発生し、すでに完全雇用状態に達していた労働市場は深刻な労働力不足に陥る。必然的に名目賃金は上昇し、軍需産業への労働力移動が激化する」「労働統制はまず労働力の移動防止から着手され、不急産業の雇用を制限し、職業能力を申告させ、不足する技能者と『熟練』労働者(実は標準的労働者)を養成する一方、企業間の引き抜きを防ぐため、離職率が急上昇した軍需産業の労働者の移動を防止する、という形で展開した」「移動防止政策は『熟練工』からさらに未熟練工・未経験工にも拡大され、もはや自由募集や職業紹介では労働力不足を克服し得なくなって、国民徴用令(39年7月)が施行され、労務動員計画の作成、朝鮮人労働者の大量移入が開始される。在籍工員をそのまま軍需工場に釘づけにする現員徴用に加えて、労働者を強制的に軍需工場に移転させる新規徴用も開始された」(239頁)。
 粟屋「たび重なる兵力動員は、軍当局が当初に意図した総力戦遂行上の限界をはるかにこえる膨大なものだった。しかも徴兵のやり方は、労働力の適正配置をほとんど考慮しない拙劣なもので、生産現場での成年男子の基幹労働力をつぎつぎと引き抜いていった。これに加えて軍需工業部門での労働力需要は増加するばかりであり、戦時下の労働力不足は決定的な段階を迎えるにいたった。このため支配層は、強権的な労働力駆り出し政策で、全ての国民を強制動員する『国民皆労体制』の徹底につとめた。しかし、あいつぐ非常手段をとっても日本全体の労働力は増加せず、むしろ開戦時をピークに減少の傾向をみせた。そして労働力不足が深刻化する中で、軍需産業へ労働力を重点的に配置するた め、一方では軍需産業の労働者の移動を防止する従来からの労働統制が強化された。また他方では、『不急産業』部門からの強引な労働力移動政策がとられた。この結果、太平洋戦争中には労働力の質を問わない根こそぎ動員が急速に進行した」(181頁)。
 粟屋「未熟練・未経験労働力の動員方針は、各年度の労務動員計画(1942年度から国民動員計画と改称)のうち、新規に必要な労働力の供給源に示されている。39年度の労務動員計画以来、各種の労働統制によって学校卒業者・無職者・平和産業部門からの転廃業者・農村労働力・朝鮮からの徴発労働力の強制動員がはじまっていた。40年度においては、供給計画の約5割を小・中学校卒業者が占めていたが、開戦の41年度から計画の様相は大きく変わった。すでに農村労働力の鉱業部門への移動によって農村労働力の枯渇が深刻になり、農村人口4割確保の国策によって、41年度労務動員計画からは、農業部門からの動員計画は計上されないことになった。このため41年度からは、もはや農村に供給源を求められず、また学校卒業者の数も限度があるため、急増する労働力需要に対応するため徴用による不急産業の労働者や無職者の動員の比重が急激に高まった」(181頁)。
 粟屋「徴用制は39年、国民職業能力申告令による国民登録制の整備を背景に国民徴用令の施行によってはじまった。徴用の施行に際しては、当初は応召につぐ名誉として応ずる人の姿も見られたが、回を重ねるごとにその強制的性格と労働条件の劣悪さから不評をかった。すでに40年には徴用令発動のたびに2、3割の不出頭者が出る状況であり、同年の司法省の被徴用者の動向調査には、その不満の山積みと『不穏動向』に警戒の眼がむけられていた。国民は、『赤紙』=召集令状に対して徴用令状を『白紙』といって恐れた。そして徴用制を全面的に発動するため40年、41年の2度にわたって国民職業能力申告令と国民徴用令が改正された。この結果、16歳から40歳までの男子と16歳から25歳までの未婚の女子が供給可能な労働力として登録されることになった。徴用令の改正で は、徴用の範囲が国の作業庁や管理工場だけでなく、厚生大臣の指定する工場での総動員業務にも拡張され、ほとんどすべての労働力を徴用できることになった。太平洋戦争開始とともに徴用制は、労働力動員の『伝家の宝刀』として全面的に発動されたが、その対象の多くは平和産業・中小商工業の転廃業労働力であった」(182頁)。
 粟屋「徴用制の拡張は、43年の国民職業能力申告令の第3次改正で頂点に達した。徴用には、政府の強制により、重要産業に動員された新規徴用と、事業ぐるみ業務にくぎづけされた現員徴用とがあった。44年3月末では陸海軍関係と民間関係を合計すると新規徴用約133万1199名、合計288万0877名になり、44年2月には日本の一般労働者の約20%をしめた。しかし労働力の供給源として徴用制の拡大も43年度頃から限界をみせるようになった」(182頁)。
 粟屋「1994年は、戦局と同じく労働力動員においても崩壊に瀕した決定的な時期であった。44年2月、政府は国民職業能力申告令を改正し、従来の技能者登録と青壮年国民登録をまとめ、要申告者を男子12~60歳、女子12~40歳の未婚者にまで拡大した。この結果、国民学校児童と既婚女子、60歳以上の老人以外の全国民に申告義務が課せられるにいたった。44年度の労務動員計画 は、この年の大規模な兵力動員の穴埋めをするため前年度の2倍近くもの労働力の供給を必要とするにいたった。しかしすでに労働力はとことんまで枯渇していたから、その充足には若年労働力と女子労働力の徹底的な動員しかなかった。また強制連行による朝鮮人、中国人の動員も激化し、俘虜・囚人の使用もなされた。44年の労務動員計画の供給源別の割合では、女子が前年度の34%から43%に、学校卒業生・在学生が前年度の40%から69%に増大した。
 女子の動員については、支配層の間には、家族制度尊重や人口政策確立のために根強い反対論があったが、結局は現実の要請にせまられてつぎつぎと動員が強行された。43年9月、まず17職種への男子の就業が制限・禁止され、事務補助など各種の職場に女性が動員された。これと並行して女子勤労動員も促進され、43年9月からは女子勤労隊が編成され、翌(1944)年8月には女子挺身勤労令が公布された。これにより女子の国民登録者は原則として女子挺身隊に選定されることになり、女子挺身隊はますます強制的性格を強めた。また44年11月には、女子の徴用実施(新規徴用を除く)が決定され、軍需会社に指定された工場に勤務する女子労働者はそのまま現員徴用され、また各省の管理工場勤務の女子労働者も工場の申請により1年間徴用されることになった」(183頁)。
 粟屋「学生生徒の動員は、すでに日中戦争期に勤労奉仕として臨時的、季節的になされてきたが、41年11月には国民勤労報告協力令により学徒勤労報国隊が結成された。以後、学徒は主にこの勤労報国隊により工場・鉱山・農村への勤労奉仕に動員された。そして学徒動員が本格化したのは43年6月、学徒戦時動員体制確立要項が閣議決定されてからだった。これらより大学・高専および青年学校の生徒に勤労動員命令が出され、学徒は学業を放棄して軍需生産に従事させられた。44年からはこれが通年実施され、同年7月からは国民学校高等科・中学校低学年の動員が決定された。こうして日本中の学生生徒は、国民学校尋常科生徒を除いて、学徒出陣か軍需動員に根こそぎ動員されたのだった。
 さらに労務動員計画は、植民地の朝鮮人や占領地域の中国人を強制的に集団連行し、鉱山や建築現場や軍需工場などで過酷な重労働に従事させて労働力の不足を補おうとした。この強制連行は、日本帝国主義が太平洋戦争において、朝鮮民族や中国民族に行なった最も陰惨な戦争犯罪の一つであっ た。国家権力による朝鮮人徴用労働者の強制連行政策は、39年7月の朝鮮人大量集団募集許可にはじまり、42年の『官斡旋』政策での連行数は飛躍的に増大し、44年の朝鮮人への国民徴用令適用で最大に達した。39年からの連行者数は、完全な統計はないが、官憲の統計のうち最も数の多いものでは151万1000人あまりに達した。これらの連行を日本側当局者は、『募集』『官斡旋』と称しているが、その実態は全く強制的なものだった。また中国人の強制連行については、42年11月、東条内閣の閣議決定で重筋肉労働部面での労働不足を補うため、鉱業・荷役業・土木建築業などに中国人を移入して労働させることを決定した。これにより中国人の『試験移入』として43年4月より11月まで1420名が連行された。さらに東条内閣は44年2月、時間会議で本格的に中国人を移入する方針を立てた。この結果、44年3月から翌年5月まで3万8931名が日本に連行された」(183~4頁)。
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