アジアと小松

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小松基地問題研究会

八田與一像破壊は台湾人民の意志

2017年04月18日 | 台湾・八田与一
八田與一像破壊は台湾人民の意志

 4月17日の新聞各紙は「16日、台湾南部の烏山頭ダムで、日本統治時代にダム建設を主導した日本人技師、八田與一氏(1886~1942)の銅像が壊された」と報道し、今朝(4/18)は「元台北市議が犯行認める/日本人技師像破壊事件」という見出しで、「男性は17日、自分のフェイスブックに『私がやった』などと書き込んだ。その後、台北市内の警察署に出頭した。検察によると、2人は動機について『八田氏の歴史的評価を認めないから』と述べているという」と続報を流している。

屈辱を晴らす
 「八田氏の歴史的評価を認めない」という動機はまったく正当である。歴史的に見れば、八田與一は日帝台湾植民地支配の技術官僚であり、実体的にも思想的にも日帝の尖兵以外の何ものでもなかった。

 台湾人民にとって、八田與一像は屈辱の証であり、私たち日本人にとっては植民地支配の居直りの証である。なぜなら、日本は台湾植民地支配を反省せず、謝罪せず、八田與一像を賛美することによって台湾植民地支配を美化し続けているからだ。
 当然台湾人によって撤去されて然るべきであり、戦後70年を過ぎても残されていたこと自体が問題なのだ。

台湾人民の意志
 台湾の言論界は『八田与一物語』など日本の植民地支配美化に、以下のような批判を加えている。
▲許介麟(台湾大学教授『日本植民統治的後遺症-台湾VS朝鮮』)「李登輝はストックホルム症候群だ、八田与一を顕彰するなんて××化した奴隷根性だ」

▲戴国煇(台湾史研究者『台湾と台湾人-アイデンティティを求めて』)「植民地支配による『近代化』の意図は美化に値しうるものでないことは、日本人の心ある友人もまた認めてくれるであろう」

▲何義麟(台北師範学院助教授『「日台神話」の虚像と実像』)
「実際に八田技師を顕彰する事跡の紹介をよく読めば、八田技師はそこが台湾であろうと日本であろうと関係なく技術者として自分の本分を完遂しようとする、自分の仕事に責任感(プロ意識)を持つ一人の技師にすぎず、民族やイデオロギーとは無縁の人だ」
「現在もっとも気になるのは、一部の日本人が台湾人の心情を理解せずに八田技師顕彰の活動に積極的に加わり、『世界中で最も親日的な国・台湾で今も語り継がれる感動の物語』として、これを利用・紹介する動きである」
「大戦後、台湾人の対日感情の展開によって、台湾人を二等国民として差別扱いした日本の植民地支配の過去が『国府政権の腐敗』で塗りつぶされ、無罪放免となることはないと思う。同様に、八田與一を今でも慕う台湾農民の『民情』を利用し、植民地支配を肯定することも許される行為ではない」
「台湾人の思いやりと善意を利用し、植民地支配の過去を美化しようとするという親台派の言説は、現在の軍事情勢において台湾を日本の生命線だとみなして重視する、もう一つの親台派の主張につながっている」
(詳しくは当ブログ「歴史修正主義『八田与一物語』の検証」を参照)

八田與一像の美化と排外主義
 4月17日に八田與一像の損壊が報道されるや、インターネット上では「穿った見方ですがどうも他の民族が頭に浮かんで。半島…」「これは間違いなく朝鮮人か支那人の仕業です」「朝鮮人が最も疑われやすい。過去の実績からして」「犯人はおかしな人であることは間違い無い」などの書き込みがあり、差別・排外主義が満展開している。

 日本で、八田與一を評価しているのは小林よしのり(『台湾論』)ら極右である。金沢市長・山野義之もその一族である。聖戦大碑護持会の役員の一部が維新政党・新風と日本李登輝友の会の役員と重なっている(小田村四郎、小堀桂一郎、東條由布子)。山野之義は日本李登輝友の会が発行する「メルマガ日台共栄」に「八田與一の旅①、②、③」を投稿している(2005年)。
 すなわち聖戦大碑護持会≒維新政党・新風≒日本李登輝友の会=山野義之が一線につながっているのだ。

右翼の支援で神社再建
 最近、台湾の元神社を再建する動きがあるという。高士神社、台中神社、鹿野神社、林田神社、玉里神社などである。松島泰勝さんは「日本の神社が台湾に200以上ありました。それが……復元されているのです。その背景には日本の右翼からの支援という動きがあります」と話している(講演録『琉球の自己決定権と平和』)。

 松島さんが言う「右翼からの支援」がどのようなレベルのものかは分からないが、今回の八田與一像の破壊は台湾植民地支配にたいする怒りと反撃である。1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾を割譲し、植民地統治が始まったが、台湾人民は「台湾民主国」を宣言し、武装して戦った。日本軍は5万の兵、2万の軍夫を派兵し、半年後の10月までに1万4千人の台湾人民を殺戮し(『台湾史小辞典』)、その後1902年までに1万人を殺害して(『図解台湾史』)、台湾を制圧した。

 私たちは台湾人民の怒りに触れて、自らの思想的腐敗をあらためて認識しなければならないのではないか。

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